『アンバランスの夜』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:やるぞー                

     あらすじ・作品紹介
クリスマスイヴ。予定のない美佐子はこの日、大輔を誘おうと試みるが……

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『アンバランスの夜』

 
 無理に足を動かしてしまい位置が歪む。そうするとまた冷たい手を動かし、その歪んでしまった炬燵の位置を正す。それから、炬燵のスイッチを切って、また点けた。
 暑いのか寒いのかよくわからない。炬燵の中はとにかく暑く、特に太股の辺りは燃えてしまいそうなほどだ。かと言って、炬燵からはみ出してしまっている上半身は冷気を直に感じるので寒い。特に手の甲から指先にかけては、元来生き物ならばどんなものでも持ち合わせているだろう温かみが、まるで消え去ってしまっている。死人みたいだ。冷たく、青白い。
 おまけに、こういう日には、ピアノの音が頭の中で響いてくる。小さな頃から親の勧めでピアノを習っていた。それで、コンクールなどに出て何度か優勝してしまったものだから、今はこうなっている。
 もう、ピアノはない。いや、ないというのは嘘で、本当は今でも家に置いてあるのだけれど、私の目にはまず映らない。埃をかぶってしまっている。もう二年も。
 大学生になってすぐ、意気揚々、ジャズ部へと入った。ピアノを演奏したいからだった。ジャズも大好きだった。ジャズ特有の躍動的なハネたリズム、ビート、感性、それらの音に乗せて即興でピアノを弾きたかった。
 でも、私には無理だった。決して弾けなかったのではないのに。それ以前の問題。弾くことから逃げていた。一人でジャズはできない。結局、いつもいつも私にはこの問題が付き纏う。じわじわ首を締めながら、少しずつ気力を奪う。悲しいかな、言わずもがな、でも、言えば世の常、言うに言われぬ。
 結局、この世は冷たいのだということを、私は知ってしまった。
 アンバランスなのがイケナイのだと思う。下半身だけを暖めて、上半身はもうどうでもいいというような炬燵君のスタンスには賛同できない。せめて、胸板あたりまでは暖めてほしいものだ。寒い寒い。街のイルミネーション。暖めてやろうとする温かな気持ちが欲しい。
 はて、何を考えているのだろう。一瞬、五メートル四方ほどの巨大な炬燵を思い浮かべてしまった。足の爪先から頭の天辺まですっぽり入る炬燵。立ったままで入れる。入ると薄暗くて、天井が赤く光っている。その光はなぜか暖かい。秘密基地のような部屋。それはもはや炬燵ではない。ふふ。
 私はパソコンのワードを使って、論文を書いていた。しかしその作業にも飽きた。やけくそはどうも続かないらしい。しょうがないので、私はおもむろに横たわっている携帯電話を手にとって、メールを送った。
「ね、ね、ね、何をしてるのかな?」
 そうすると一分ほどしてすぐに返事がきた。
「!? 僕はね、今ね、将棋をしているようだね。まぁ、そういうこと。君は?」
 そう書かれている画面を見て、非常に悲しくなった。私は忙しなく、きちんと動かなくなっている指を必死に動かし、文字を打ち込んでいく。
「へぇーそうなんだ。で、誰とやってるの?」
 携帯電話は小刻みに振動して光る。返事はまたすぐに来た。
「それは誰と一緒に過ごしているのかってことかい? マイダーリン」
 少しイラッとするが、すぐに返事をしてやる。
「そうですよーだ」
 すると、
「!? そうですか。ね、ね、ね、当てて?」
 ときた。フザケルナ。
「ああ、もしかしてママさんとか(笑)もしくはいつも一緒にいる親友の孝明君とか。確か将棋出来たよね。私もやったことある孝明君と」
「なぬ。どうだった買った」
 買ったではなかろう。勝っただろう。送る前に見直しもしないのか。一度くらいはするだろうに普通はよー。
「うん。買った」
 と送った。
「ほう狩ったのか。おぬしやるたちだね」
「まあね。それよりだれとやっているのかおしえてよだいすけくん」
「しょうがないねおしえてしんぜようそれはだいすけくんとだよ」
 は? 何を言っているんだこいつは。将棋は一人で出来ないだろう。棋譜でも見直しているのだろうか。そんなに将棋マニアだったのか。初めて知った。
「だいすけくん。あなた、どうしたのよ。ついに頭がおかしくなったのでせうか」
「いいえ違いますよ(笑)ホントに一人でやってたんですよ。そう、コンピューターとね。とね!」
 ふふ。いや悲しすぎるだろ。まぁ、私も同じようなものだけど。ふふ。
 かじかんでいた指がようやく温まり、きちんと動き始めた。
「なるほどそゆことね。そのコンピューター強い?」
「強い」
「そう」
「うん」
「ねぇそういう一言だけの返しやめてくれない腹立つから」
「ごめん」
 くわー。本当に腹が立つ。殴ってやりたい。メールを打つ手が震えてしまう。
「あっそう。ところでだいすけくん、いつまで将棋を続ける」
「今日は十二時までやるつもり。一緒にやってくれるような人いないから」
「そんなこといわないでこれからずっと五時間もぶっ続けでやってたら疲れるでしょ?」
「もう今の時点でピークの疲れを患っている」
「じゃあ今から外に出てみない?」
 ちょっとあからさま過ぎただろうか。五分経っても返事はこなかった。
 また指が凍りついてしまいそうだった。だから急いで炬燵の中に手を潜らせる。じっと携帯電話を見詰めていた。
 そして、ピカッと光った瞬間に広げて画面を見た。
「んん、かなり寒かろうに。部屋は暖かいし今日は将棋に勤しむよ。強くならないと孝明にも勝てないしな。来週ぐらいにでも飯食いに行くか。まあ奢りませんけどね。ワリカン(笑)」
 大輔にしては、やけに長い文章だった。ムカついた。一気に冷たくなる。顔だけが熱くなった。
 私は次のように、震える指をなるべくゆっくり動かし、返信した。
「ねぇ、言葉にしなくてもわかることってあると思う? 私は言葉にしなければ伝わらないと思うのだけれどだいすけくん、あなたはどう思う。教えて」
 寒いから指が震える。寒い。とても寒い。
「言葉がなくたって伝わると思う」
 大輔はそう言ってくれた。だったらなおさら応えてほしいのだ。
「本当に絶対に?」
「うん。絶対に」
「王将、詰んだ?」
 ねぇ、お願いだから。
「――まだ、詰みそうもない」
 私はそう書かれた画面を閉じて、携帯電話をポケットへとしまった。どうやって人とコミュニケーションをとればいいのかわからない。寒いのか暑いのかわからない。いや、わかっている。返事はもう書かない。
 何も言えない私は、心底かわいくない女だろう。
 すぐさま炬燵から這い出た。暑いのではないのだ。寒いのに暑いふりをしているだけなのだ。なぜなら、アンバランスとは誰にとっても冷たいものだから。ならばいっそのこと、冷たいままでいればいい。それが何だというのだろう。その方がいい。無駄な努力は必要ない。 
 そのまま転がっているバッグまで転がって行って、中から地味な色の財布を取り出す。爺臭い。どうしてこんな財布を持っているのだろう。カワイクナイ。顔もブサイク。メガネもかけている。洋服のセンスもない。頭も悪い。暗い。嫌われ者。ピアノさえ、もう弾けないのに。
 さあ、これからどうしよう。論文の続きは出来そうもなかった。炬燵にも入りたくない。指先はどんどん冷えてくる。指先だけではダメ。どうせなら全身を凍らせてしまって、キラキラ光を浴びて輝く綺麗な死体になりたい。
 窓を開けると、外は運よくホワイトに染まっている。まっ白雪。絶好の雪。嘆きの雪。
 外に出ようと思った。財布を持って近くのコンビニまで。それからアイスを買って夕食の後に食べよう。体の芯から冷やしてやろう。それから風呂に入って解凍して、もう早く寝てしまおう。一刻も早く、今日を終わらせるんだ。
 私は階段を駆け下りて、玄関へと向かった。その途中で、母さんに肩をたたかれ止められた。振り向くと私にだけわかる合図でこう言った。
「夕食の準備が出来たわよ。美佐子も二十歳になったからシャンパン飲めるでしょ」
 私も秘密の合図で応答する。決して音を出さない、秘密の言葉で。
「飲むよ、シャンパン。楽しみにしてる」
「美佐子、これからどこかに行くつもりなの?」
「うん、ちょっとアイスを買ってくるよ。母さんと父さんの分も買ってくるよ」
「あら、そう。寒いから早く帰ってくるのよ。一緒にケーキを食べましょ」
「わかった。それじゃ」
 私は玄関から外に出た。すぐに庭に飾ってある木に目がとまった。
 なぜなのだろう。いつもと違うバランスの取れない気持ち。なぜ、その木は、今日に限ってただの木ではないのだろう。飾られたイルミネーション、浮ついた街並み、木ではなく、ツリー。そう、クリスマスツリー。
 今日は、十二月二十四日。

 まばゆい白雪の道を行った。
 コンビニの前では、若いゴロツキのお兄さんやお姉さんが楽しそうに談笑していた。こんなところに溜まって一体何が楽しいのだろう。缶ビールを雪で冷やしている。ガラが悪い。何やら睨まれてしまった気がする。
 コンビニに来る途中にも、多くのカップルの姿があった。腕を組んで歩いたりしていた。あれじゃ、一人が転んだ場合、道連れで二人とも雪に埋まってしまうことになるだろう。
 それでも彼らは、楽しければ、幸せならばそれでいい。雪が少し降っていた。粉みたいな雪だった。とても幻想的。きっと私以外の人にとっては、ものすごくいいクリスマスになっている。
 彼らは基本的に温まるために外に出てきているのだ。一方、私は全くの逆。凍えるためにここにいる。だから、彼らの目に留まるのもしょうがないことかもしれない。
 それでも私は、彼らを何とかかいくぐって、このコンビニ内への侵入に成功したのだった。まったく危なげがなかった。たった一人、単独で大きな作戦を成功させたようだ。ただ、何の報酬もなければ、これといった意味もないのさ。ふふ。
 思えば、こんな真冬の雪がぱらついているときにアイスを買うなんて初めてのことだ。コンビニの店員さんもさぞ驚くことだろう。こんなにさみーのにアイスだ。もうこうなったら、ガリガリ君でも買ってやろうか。
 などと思いながら店員さんを見ると、なんと店員がサンタだった。こっちが驚いた。どうやら、クリスマスということでサンタのコスプレをしているらしい。結構、似合っているかもしれない。色白だからだろうか。垂れ下がった白いひげもなかなかお茶目だ。
 それにしても若い人だな。コスプレをしていてもそれぐらいはわかる。綺麗でもっちりとした肌をしていた。おそらくあの店員さんは私と同じくらいの歳ではなかろうか。もしかしたら同じ大学かもしれない。クリスマスイヴなのに一人で本当にご苦労さんだ。
 六個ほど籠に入れた。アイスだけ買えればそれで目的は達成される。帰ろう。もう十分に冷え切った。そんなことを考えながら、さっそくレジに向かう。そして、アイスがいっぱい入った籠を台へと乗せた。そのときだった、不意にポケットの中から振動が伝わった。
 前を見ると、店員のお兄さんが、アイスの一つ一つを少しばかり驚きの表情で持って袋に入れていた。それを確認した私は、よしよしと思いながら、地味な財布と一緒に光っている携帯電話を取り出して、メールの受信ボックスを開いた。
 大輔からのメールだった。何も返信しなかったから心配してメールをくれたのだろうと思った。せいぜい、そんなところだろうと思っていた。しかし、その予想は大きく裏切られたのだった。
 思わぬ文面。軽い気持ちでそのメールを開いてしまった私は、あまりの衝撃に泣いていた。
 そんな私を見て、店員のお兄さんがまたしても驚く。


 件名  詰まれた。

 本文  言わなくちゃ伝わらないことも確かにあるのかもなと思って。
     !? あ、さっき投了した。コンピューター君は容赦ない。ドSだ
     よこのコンピューター君は。
     嘘が一つある。疲れるから将棋は十二時までやらないんだ。もう止め
     ようと思う。
     僕はね、将棋をやっていたけどね、それは暇つぶしなのだね。本当は
     これから用事があるんだ。君の知らない人と逢う用事。
     君は友達だ。でも、僕には恋人が出来た。今、僕は言った。ちゃんと
     言ったよ。
     美佐子の言葉、聴こえてた。言わなくてもちゃんと聴こえたよ。
     ありがとう。マイダーリン。
     また飯でも食いに行こう。まぁ奢りませんけどね(笑)笑える?

 
 まったく笑えなかった。私はボロボロ大粒の涙を流してしまっていた。大輔は本当に変わった奴だ。どうしてこんな奴を好きになってしまったのだろう。
 目の前の店員さんは口をもごもごして、とても心配そうな顔をしている。迷惑な客だと思っていることだろう。こんなところを見られたくないし、誰かに迷惑もかけたくはない。
 私はレジの表示を見た。全部で七百七十三円。急いで財布を開き、千円札を一枚抜き取った。台の上にドンと置く。そのままレジ袋を持って逃げるように走り出す。
 振動でアイスが一つ、袋から落ちてしまった。でも構わない。早くここから出たかった。お釣りも要らないし、アイスももういい。早く帰りたい。
 ところが、自動ドアを出たところで、コンビニ前でたむろしていた集団に捕まった。私を待ち構えていたようだった。
 いきなり手を引っ張られて、顎を掴まれる。顔を間近で見られて、沢山の人に囲まれる。
「あれ、なんで泣いてるの? ねぇ、かわいいね。メガネとったらもっといいんじゃない」
「おいでよ。俺たちと一緒に遊びに行こうよ」
「やめてあげなよ。怖がってんじゃないこの子」
「いいじゃん。クリスマスなんだし」
「それ理由になってないし。ははは!」
「ははははは! ホントだ」
 怖い。強い力で引っ張られる。笑っている。大きな声で笑っている。でも私には口に出せる言葉がない。ヤメテ、そう言いたいのに……
「うう、うう……」
「ねえ、この女の子さっきから、うう、しか言ってないよ。口をパクパクして、なんか変じゃね」
「確かにそうだな。もっと腕、引っ張ってあげた方がいいのかな。ほら」
 痛い! そうだ、警察……
 咄嗟にそう思いついて、携帯を片手で操作するも、
「おっと、何やってんのよ。遊びに行こうって言ってるだけじゃん」
 強い力で取り上げられる。こんなに何人もの男の人に囲まれたらどうしようもない。
 みんな笑っている。なのに私だけが泣いている。私は弱い。涙が止まらない。
「だからなんで泣いてるのって。そんなに俺たちって怖い?」
「彼氏にでも振られちゃったのかな? ねぇ教えてよぉ」
 言葉さえあれば、思いが伝わる言葉さえあれば……悔しい。悔しい。悔しい。
「ああもうテメェ何か喋れよ! ムカつくなぁ。ほっとこうよ」
「そうだよー。カラオケでも行こーよー」
 金髪女たちがそう叫んでいる。怖い。殺される。
「ええー、だってこの子かわいいじゃん。手とかすっごい綺麗で細いし。すっべすべ」
「そうそう。しかもこのクリスマスに一人みたいだし。なぜかしらないけど泣いちゃってるし。寂しそうだろ。もう可哀想じゃない。これ、たまらんぜ」
「なぁなぁ、このメガネとってみようよ」
「おう、そうだな」
 両腕を塞がれた。ヤバイ! 突然、大きな手が顔面に迫る。ホントにヤバイ! ギュッと目を瞑った。ヤメテ、ヤメテよ――
 嫌だ! 怖い! 誰か助けて! 
 そう願った刹那だった――目の前の男が大きく揺らいで、直立不動のまま前へと倒れ込んだ。一瞬のことで何が起こったのかわからない。さらに次々と男たちが倒れて行く。甲高い声を上げながら逃げまどう女たち。そこには赤い姿が動いていた。
 それは、サンタだった。サンタが拳を飛ばしている。あっという間に、たむろしていた若者たちの姿がどこかへ消えた。
 私はホッとして、思わず腰が抜けたようにその場に座り込んでいた。雪の感触がして、とても冷たかった。助かった。こんなに怖い思いをしたのは初めてだった。それに、こんなに自分の弱さを感じたのも初めてだった。
 私の全てがアンバランスになった。とても寒かった。私の弱さ、このクリスマスイヴという日、また、たむろしていた若者たちのその一人一人も、きっと大輔君でさえ、みんなみんな、全てがアンバランス。必死にあがいているのだ。とても寒い中を。なのに私は……
 寒さ、冷たさの本当の意味がわかった。そして、その中でただ一つ、温かいものが指先に触れた。気が付けばサンタが私の手を握っていた。
「立てる?」 
 そう優しく言われてしまった。そして、そのままゆっくりと私の手を引っ張り、立たせてくれた。いつの間にかあれだけ流れていた涙が引いていた。
「あいつら、最近よくいるんだ。まったく、邪魔だっていうんだよなぁ。客も怖がってこれじゃあ店に入れないっつの。大迷惑だよ。君、大丈夫だった?」
 大丈夫、と私は言いたかった。
 大丈夫、それはあなたのおかげ、そう伝えたい。なのに私には、それが出来ない。悲しいけど、それが出来ないのだ。
 生まれつきだった。生まれつき、私の声帯は死んでいた。喉頭横隔膜症などという先天的な異常らしい。私は声を失った状態で生まれてきた。
 両親は、私が話せないと知ったとき、きっと悲しくて泣いただろう。どうして、なぜ、私の声帯は氷のように固まっていて、うまく震えてくれないの。そんな叫びさえ、届かない。
 病気なのだ。だから喋るということが困難だった。一生懸命訓練はしたけれど、やっぱり上手く喋れない。病気のせいだ。病気が悪い。
 私の中にある言葉たちは、決して私から出ていくことはない。溜まって溜まって底に沈澱している。そんな錆びついた言葉を口に出すと、絶対にそれを聴いた人は気持ちを悪くするだろう。掠れた小さな声だ。きっと変に思われるだろう。
 それがコンプレックスだった。私は、何時の頃からか、声を出すということをヤメテしまった。この声は、私の首を絞めるものだ。一生、私を苦しめる。これのせいで、私はダメなのだと思っていた。私がダメなのではない、これがイケナイのだ。
 人生を平均台に例えるなら、私はそれを渡るときにはいつも、風速十五メートルほどの風を受けているはずだと思っていた。
 だから、私はアンバランス。他の誰よりアンバランス。ジャズ部で、話したいけど話せなくて、誰とも友達になれなくて、誰にも近寄ってもらえなくて、誰もに嫌われてしまったのは、ピアノを弾かなくなってしまったのは、私のせいじゃない。私のせいじゃないなんて……
 間違っていた。私のせいじゃないんだと思っていたのは、この病気のせいだった。すでに私は負けていたのだ。
 平均台を渡ろうとする前に、自分からバランスを崩して座り込んでいた。
 風はどこにでも吹いている。でも歩かなきゃ。歩かなきゃ。歩かなきゃいけない。ゆっくりでもいいから、歩かなきゃ。じゃないと、一生私は、アンバランス。
 アンバランスは、もう嫌だ。
 言おう。変だと思われてもいい。誰だってそうアンバランス。必死にバランスを取りながら、前へと進んでいるのだから。
「……ありが、とう」
「うん。どういたしまして!」
 あ、言えたのかもしれない。
 絶対おかしな声なのに、言えたことが、伝わったことが、嬉しかった。
 そう思ったら、サンタが笑った。いい笑顔。でも、笑って、くっ付いていた白いひげが落ちた。大きな雪みたい。ふふ。
「おい、笑わないでよ。好きでこんな恰好してるわけじゃないんだから」
 明るい人だと思った。笑顔もとても自然な感じ。私にはないもの。羨ましい。
「あ、忘れてた。これだよこれ。いきなり泣き出しちゃうから、どうすればいいかわからなくて。ハイ、忘れ物だよ。かなり寒そうだけどね」
 笑いながらそう言って、サンタは私に腕を伸ばしてきた。ガリガリ君がそこにはあった。あのとき、落としてしまったアイスだ。ここで、ガリガリ君なんて……
「ガリ、ガリ……ふふふ」
「お、なぜか笑ってる。急に泣いたり笑ったりで、忙しい人だなぁ。ハイ、受け取ってよ。ちゃんと買ってくれたんだから」
 優しくサンタは微笑んでいる。何だかとてもおかしくなって、笑いながら私も手を伸ばしていた。
 とても寒いはずなのに、それは一番温かかった。
 降り積もった雪が作る一面の銀世界で、私はサンタからアイスを受け取った。
「それと、お釣りもちゃんとね」
「あ、ありが、とう」
「それはこっちの台詞だよ。大事な大事なお客様なんだから。こう見えても、俺、ボクシングやってるんだ。たむろするだけならまだしも、大事なお客さんに手を出すのはさすがに許せなくってね。ほんとはダメなんだけど。まぁ、手加減したからいいかな」
「い、いいよ」
 サンタは私の声など気にしていない。ありのままだった。嬉しそうに笑った。
「いいよ、って。ははは。いいのかな。まぁ、いいか。ありがとう。それじゃ俺、まだ仕事が残ってるから。気を付けて帰ってね」
 そして、サンタはあっさりとコンビニの中へ戻って行った。
 それを見届けて、不思議だけどとても優しい気持ちになれた。サンタがプレゼントをくれたらしい。
 私はいっぱいのアイスを持って、白雪降り積もる中、家へと帰って行った。
 今日はクリスマスイヴ。

「おかえり美佐子。どうしたの、ちょっと遅かったわね」
 玄関先では、母さんが私の帰りを待っていた。母さんは心配性だ。心配性にさせたのは、私のせいだろう。グラついてばかりいたからだ。
「ちょっと美佐子、お尻の所が濡れてるわよ。どうしたの」
 私たちにしか伝わらない合図で、母さんが心配そうに語りかける。私のために覚えてくれた言葉だ。大きな動作で手を動かして話す。これが私たちの言葉。私が傷つかないように、いつもこうして話す。
 確かに、言わなければ伝わらないことだってあるだろう。その意味で私は普通の人とは違うかもしれない。けれど、決して特別ではないのだ。
 だからいつまでもグラついているわけにはいかない。手話と一緒に言葉を話そう。それはブサイクな言葉かもしれない。錆びついた、埃だらけの言葉かもしれない。きっと、そうだろう。でも、少しでも伝わる手助けになれば、それで構わない。
 私はゆっくりと口を開いた。
「……こけ、ちゃった」
 あっ、という母さんの驚いた顔。久しぶりに見た気がする。
「ご飯、食べよう」
 涙目にはならないでほしい。
「そ、そうね。食べましょうよ」
 できれば、笑っていて……
「はらへった」
「うふふ」
 笑ってくれた!
「もう、下品な言葉はダメよ」
 食卓には随分と豪華な料理が並んでいた。七面鳥にホワイトシチューにガーリックフランス、シャンパンに大きなケーキ。どれも文句なく美味しそうだった。
 そんな中、父さんだけが黙ってそれらの料理を眺めていた。私が帰ってくるのを待っていたらしい。さぞかし腹が減っていることだろう。
「おう美佐子、帰ってきたか。じゃ、そろそろ食べようか」
 努めて冷静に父さんはそう言った。だけれど、内心では早く食べたくてしょうがないのだろう。もうナイフとフォークを手に持ってスタンバイしている。ふふ。悪い事をしてしまった。
 お礼と言っては何だけど、
「父さん、ピアノ、弾いて、あげようか」
「えっ、美佐子、弾けるのか。ピアノ、弾きたいのか」
「うん。二年もやって、なかったから、弾けるかどうか、わからないけれど」
 もうナイフとフォークはテーブルに置かれていた。
「美佐子のピアノ、久しぶりねぇあなた。良かったわねぇ」
 と母さんが声を出す。父さんは本当に嬉しそうに顔をほころばせ、
「ああ、嬉しいよ。昔から美佐子のピアノが大好きだったから。それに今日は聖なる夜。最高じゃないか」
 と言った。
「違うよ、今日はね」
 長年被ったままだった黒い布のカバーをめくる。埃が飛ぶ。埃が舞う。積もりに積もった白い雪を、今溶かそう。
 クリスマスイヴ。けれど、私にとっては、
「アンバランスの夜」
 寒くて寒くて歩けない、そんなアンバランスな世界なら、せめて私はピアノを弾いて、ゆっくりゆっくり温まろう。
 言葉では伝わらないこともある。
 今日という、素晴らしい日に、ピアノが鳴った。

2009/12/26(Sat)16:01:27 公開 / やるぞー
■この作品の著作権はやるぞーさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ども。やるぞーです。
クリスマスということで、もう終わっちゃいましたが、それを題材にして描いてみました。
全体的に展開が早すぎるような気がします。そこが、問題点かもしれません。
気軽に読めるものを心がけました。よろしくお願いします。

※設定に問題があったので少し修正しました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。