『イーゼンハイムの火』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:鈴村智一郎                

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 穂花はショッピングモールを一人で歩いていた。彼女は今ここに存在している空間としてのショッピングモールがpalimpsest(重ね書き羊皮紙)である気配を感じていた。穂花には病院が今のこの2階紳士服フロアと重なって幻視され、いわば上書きされた空間として見えているのだった。要するに、視覚に別の空間がダブッて見えている。
 穂花は学校の図書館で市街地図を仔細に調査した。すると、やはりショッピングモールが建造される以前、そこは病院だった。穂花は街の新参者なので、土地勘など皆無だ。だが、先日も学校の帰り道に、何気ない公園のブランコにそっと乗ると、得体の知れない深海魚を幻視した。公園は今、公園としてあるが、かつて深海だったのであり、それも古い地層を調査した文献を読んでいく内に再確認したのだった。
 穂花は自分の幻視が、ある一定のconceptに基いて何者かによって発案されている気配をも感じていた。穂花はこうした一連の事柄を自身の特異な病と位置づけ、それを解明するためには自分の頭脳では到底及ばないと考えた。幾多の精神科医や心理学者、カウンセラーなどと相談したが、誰もがこの幻視をconceptから把握できなかった。穂花は憤慨した。
 その頃、穂花のクラスに一人の男子が転校してきた。彼は由良という稀有な名前の生徒で、生まれつき背中が曲がって顔も一回り大きかった。クラスメイトの圧倒的多数が、由良を「畸形」と判断した。だが、由良は誰からも苛められることがなかった。何故か? それは、彼が突出した思考力を持っていたという一点のみにある。全ての男子、女子はその点のみを評価していた。
 穂花は己の幻視体質の背景に潜んでいる何らかのconceptについて、由良に相談した。放課後、世界の終わりのような黄昏の陽が二人を照らしている。由良の顔は陰影を孕んで臆病な怪物のように美しく輝いていた。穂花はその時、彼の潤んだ瞳の奥に深海魚の睡魔を感じた。
 「核心は廃墟にある」
 由良は穂花の問いを受けてそう断言した。
 「何故そういえるの? 」
 「廃墟は、建造物Aが時間に汚染され続けている形式に対する名だ。仮に建造物Bが新しく建つなら、廃墟は消滅する。建物が建つ、君はそれを知らない。その建物が破壊され、新しくまた建つ。君がそこを歩く。すると、君が見るのは今の建物ではなく、前のだ」
 夕陽は沈もうとしている。穂花は世界が死に向かっているような直観を抱いた。それはやがて到来する確固たる予感である。
 「私はダブッて見てる。その他の人間は削除した後のWORDに何が書かれていたのか読めない。でも、私にはそのWORDがpalimpsestとして見えるの。つまり、白紙なのに薄っすらと前の字体が判別できる。だから、原理的には宇宙が始まる前に何があったのかも読める」
 「危険な力だ。僕が君なら死を望む」
 やがて二人に長い沈黙が訪れた。その時、穂花は由良の顔にダブッて別の少年の顔が薄っすらを見えた。由良は、先天的な「畸形」なのか? もしかすると、何らかの病でこうなったのかもしれない。そこに一瞬だけ写った幻像は、穂花の頬を朱色に染めるほど凛として端麗な少年であった。

 翌週、由良は博物館に穂花を誘った。由良の醜い姿形は人間たちの目を逆説的に惹きつけた。Giorgio de Chiricoの処女作のように無人化した館内の深奥に、スポットライトを浴びた始祖鳥の化石が存在した。由良は穂花に初めて微笑した。
 「これを見せたかった。君はこれを見て何を見る? これは死んだArchaeopteryx lithographica(始祖鳥)の化石だが、君はこの化石の前の姿としての生きた始祖鳥を幻視できるかい? 」
 しばらく穂花が化石を見ていると、頭痛が襲った。そして眩暈の果てに彼女の眼前には一匹の始祖鳥が舞っていた。始祖鳥は鳥とも鰐の鼾ともいえぬ独特な、しかし小さな声で威嚇していた。
 「私には生きた始祖鳥が見える」
 「ずっと見ていて。もしも僕の仮説が正確であるならば、君は直後に始祖鳥ではなく、現生鳥類を幻視するはずだ」
 すると、何ということであろうか、穂花は一匹の「鳩」を眼前に見出したのだ。これまでの彼女の幻視体質では、今/ここを「fast-rewind(巻き戻し)」するという操作が絶えず遂行されてきたはずだった。だが、彼女は始祖鳥の化石を見て、最果てに現生鳥類を幻視したのである。すなわち、今度は彼女は「fast-forward(早送り)」した。穂花は由良の洞察力に驚愕し、足が震えた。
 「由良くん……貴方の頭は一体誰が造ったの? 」
 「穂花、君は幻視しているのではない。君はある方と同じものを見ているんだ。その方は現在、過去、未来を全て同じ次元において観察している。君が始祖鳥の化石を見て、現存している鳥類を幻視するということ、それはどういう意味だろうか? 」
 「私が見た鳩は、始祖鳥という起源から進化上で派生した存在のはずよ。つまり、時間軸のベクトルは始祖鳥 → 鳩であって、鳩 → 始祖鳥ではありえない」
 すると、由良は極めて冷酷な眼差しで微笑んだ。穂花は彼の眼差しに魅了された。
 「前提がまず間違っているよ、穂花はね。時間は過去から現在、現在から未来へと矢の如く進行すると本気で確信しているのかい? ならばその根拠とは何だい? 」
 だがこの問いに対する答えは穂花の中では既に用意されていた。
 「根拠はFriedman modelよ。彼は“銀河は全て互いに遠ざかっている、ゆえに過去のある時点で銀河は全て同じ場所にあった”と断言した。これは観測結果によって得られた、人類史上最初の、輪廻転生説の不可能性の証明でもあるわ」
 「つまり、始祖鳥の起源に一匹の鳩が存在するということは不可能なわけだね? 」
 「その通りよ。Friedmanだけじゃないわ。時間論についてのアプローチは、哲学ではなくて物理学のみが正しいと私は確信しているもの。Sir Roger Penroseの定理によれば、“自分の重力で崩壊する星は終局的に境界がゼロの大きさに収縮する領域に閉じ込められる”。星は死へ近付くにつれて収縮するのよ。死ぬ、つまり時間が経過すると縮む、これはFriedman modelの逆証明で、結局、同じ真理を表現しているわ。時間が一定方向にしか流れないことを。現在があり、その現在が目まぐるしく過去化していく、それが時間論の前提よ」
 「君はそういうが、実際に自分の目で見ているものこそが真理だ。君には、その事物の過去の姿を幻視する才能があった。おそらく世界に一人だ。そんな君が、始祖鳥の化石を見て、鳩を幻視するということ……ここから導出される魔術的な定式……それはストア派がかつて夢見たメタンプシコース(輪廻転生)に他ならない。あるいは、William Butler Yeatsの美しい言葉を借りれば、“螺旋”だ」
 「信じられないわ。不可能よ。信じられない」
 穂花は涙ながらにそういったが、頭上を滑空しているのはまぎれもなき鳩である。
 「僕には君の編み出す光が見えない……非常に残念だ……。もしも僕に君の才能があろうものなら、間違いなく僕は鏡の前に立てるだろうに……」
 やがて二人は博物館を後にした。市街地を歩いていても、人気は少なかった。

 それから半年間、二人は一言も口を利かなかった。穂花は由良のことを絶えず思っていたが、由良はある日を境に欠席を繰り返していた。それは彼が尊敬していた唯一の人間であった数学教師の何気ない、「君の笑い方は歪だ」という嘲笑に由来している、とされている。だが、真相は解明できず、暗い雨の日になると穂花の魂を鋭く抉った。
 卒業式の日になった。多くの保護者が参加する中、由良の家族は誰一人見えなかった。由良自身がこの日をも欠席したからである。穂花は由良に「ありがとう」という言葉を贈りたかった、そう彼女の心が欲していたのだ。
 式が終幕して校舎から人間たちが群れを成して出てきた時、一人の母親が南校舎の頂上に人影を目撃した。異常に大きな頭部、病的なほど丸まった背中、それはまさしく由良だった。由良は静かに一人で薪に火をつけようとしていた。穂花が気付いた時には、彼は既に全身に何らかの液体を被っていた。穂花は魂に落雷のような悲哀が襲い、彼のいるところへと疾駆した。まさか……。
 屋上の扉は開いていた。穂花は息を荒げながら由良に接近した。ガソリンの強烈な臭気が辺りに広がっている。
 「近付くな。僕はこれからある極めて効果的な実験をしたい。僕が僕自身に火を投じ、僕が燃え、死ぬ間際に穂花がその炎の中に何を見るか、だ。原理的には、君はかつての僕を幻視するであろう。僕はかつての僕を愛していた。今の僕は、かつての僕の代償なのだ。だが、鳩に時間が流れると始祖鳥と化すのであれば、僕も死の契約によって、かつての自己の化石を復元可能かもしれない。君は燃焼している僕の身体を抱きに来たのだろうか? 」
 由良は泣いていた。それは生まれたばかりの瞼を半開きにした赤子のような表情だった。穂花は止めたかった。だが、その時、彼女の魂に一瞬の悪意が芽生えた。かつての貴方をこの目で見たい、と。
 やがて由良はライターを取り出し、それを無造作にコンクリートの床に投げつけた。すると、炎は蛇となって由良の身体に巻き付いた。由良の首筋の血管にまで火の大蛇が駆け上がった時、彼自身のものではない声が語りだした。
 「おお……なんだ……なんなのだこれは……この凄まじい眠りと快感は! 」 
 由良は燃え上がっている両手を恍惚とした眼差しで見つめながらそういった。穂花は魂が震えながらも、それを見つめていたかった。今の彼女には、自分のこの時の心境をただ、悪意としか呼べなかった。
 「見えるぞ……かつてJan Husが火刑のさ中に吐いた言葉の意味を我は今理解した……神聖なる単一とは……我の顔のことだ……見よ……この我の輝ける顔を……」
 穂花は気を失った。だが、意識が飛ぶ直前、彼女は確かに見てはならないほど美しい少年が炎の中で微笑んでいる光景を見た。
 
 それから数年後、穂花は修道院に入った。由良については、彼がCatholicであり、それも自ら欲して洗礼を受け、自ら欲して棄教したということ以外何も判らなかった。由良の母が若くして焼死し、その火をつけたのが由良の父親であるということは、穂花に新しい苦しみを与えるだけだった。彼女は由良を忘れた。否、彼女は失った由良を永遠に自分のものとするために、洗礼を受けて修道女への道を歩み始めたのだ。今、穂花の視力がゆっくりと失われつつあるということも、彼女にとっては救いの兆しの一つに過ぎなかった。
 
 
 
 

2009/12/18(Fri)04:12:04 公開 / 鈴村智一郎
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■作者からのメッセージ
「火刑」の光景に魂を揺さぶられるのは何故なんだろうか・・・。

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