『女王の剣―青色の望― 【完】』 ... ジャンル:ミステリ サスペンス
作者:コーヒーCUP                

     あらすじ・作品紹介
高校一年生の楠野は同級生の彩原とともに先輩であり図書委員長でもある春川からお願いがあるとメールを受けて、彼女のもとへ足を運んだ。そして春川から生徒会長の宮田が襲われたと聞き、さらにはその事件の犯人をつけ止めてほしいと頼まれる。

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――プロローグ――


 春の暖かさを感じながらする食事というのも悪くない。体育館の裏で、誰にも見つからないようまるで逃亡犯みたいに昼食のパンを食べつつ、お気に入りのヘッドフォンで音楽を聴きながら、そんなことを思っていた。
 高校に入学して一週間。元々人付き合いがいいという性格ではない。中学でも友達は確かにいたが、ここで新しく作るというのは少し気が滅入っていた。一人でも別に構わないし、面倒なことは避けて、クラスメイトがひしめく教室ではなく、こんなところで食事をしている。
 誰かが近づいてきているのに気がついたのはパンを一つ平らげて、もう一つ食べようと袋を開けようとしたときだった。
 足音のする方へ視線を向けるとかなりのロングヘアーの女子生徒がいた。スリッパの色で三年生だとすぐにわかり、舌打ちをしたくなった。面倒を避けてここに来たのに、面倒がやってきた。
 軽く頭を下げてすぐに立ち去ろうとすると、ストップと声をかけられた。
「何も逃げること無いじゃない。少しお話しましょうよ」
 立ち去ろうしたのに腕を掴まれて、無理矢理その場に座らされる。
「一人でこんなところで食事して、寂しくないの」
「……別に」
 早く会話を終わらせて離れたいので素っ気なく答える。
「昨日もここで一人で食べてたわね」
「見てたんですか」
「うん。ずいぶんとかわいらしい子が体育館の裏なんかに行くから、どうしたのかって思って」
 その言葉で見てたんじゃなく、つけてたんだと察した。人の気配には気を配っているが、昨日はそんな怪しい気配は感じなかった。注意力が足りなかったのか。
「友達と食べないの」
「友達はいません。作るのも面倒ですから、これでいいです」
 その答えを聞くと彼女は腕組みをして急に何かを考え出した。なんだこの人は思っていると急に、本当に突然、首にかけていたヘッドフォンを取られた。そして取った当人はなんとそのまま走り出した。
「ちょっと――」
 待ちなさいよと止めようとしたが、それはできなかった。
「私は三年の春川。これを返して欲しかったら放課後に図書準備室に来なさい」
 それだけ言うと彼女は走り去っていってしまった。三年の春川。とりにかくそのことだけを深く記憶して、水をさされた食事を再開する。ぶつけようのない怒りを表すように、力いっぱいパンに噛みついた。
 放課後、言われたとおりに図書準備室へ行くとテーブルに腰掛けながら一人の男子生徒に何かを指示している春川の姿があった。
「ああ、来たわね」
 テーブルの上には昼に盗難されたヘッドフォンが置かれていた。それに手を伸ばしたが、その手を掴まれた。
「駄目よ。返して欲しかったら、私の言うとおりにしてちょうだい」
 睨み付けても春川はにこりと笑うだけで怖じけない。悔しいと思いながらも、指示に従うことにした。
「仕事はこの彼に言ってあるから、一緒にそれをして」
 春川はさっきまで指示を出していた男子生徒を指さした、彼はぺこりと頭を下げると、簡潔な自己紹介をしてきた。
「楠野っていうんだ。よろしく」
 拍手を求められたが無視をして、彼に仕事の内容を聞いた。どうやら図書室の仕事を命じられたらしく、この春に入ってきた大量の本を職員室から運ばなければならないのと、図書室の本の整理が仕事だった。
 非常に面倒だったが返してもらわないと困るので、楠野と二人で何とか一時間半でその作業を終わらせた。楠野と二人で図書室のテーブルに腰掛けて疲れを癒していたら、突然頬に冷たさを感じた。
「ひゃっ」
 思わず情けない声をあげてしまう。背後からくすくすという笑い声が聞こえてきたので振り向くと、缶ジュースを持った春川がそこに立っていた。
「反応がかわいいわ。そんな怖い目しないでよ。ほら、お疲れ様」
 彼女はそう言うとさっき頬に当ててきた缶ジュースを渡してきた。奪い取るように手にする。春川はそんなことを気にはしないようで、楠野にも同じように缶ジュースを渡した。
 そして首に懐かしい重みが帰ってきた。
「はい、ごめんね。けどこれくらいしないと来てくれないと思ったから」
 ヘッドフォンが返ってきたならそれでいい。ジュースを持って席を立ち、早急に返ろうとしたらまた呼び止められた。今度は何だと苛立ちながら振り向く。
「名前、まだ聞いてないわ」
「……彩原(さいはら)です。彩原七色(にじ)。七色って書いてにじって読みます」
「へえ、いい名前ね。じゃあ、ナナ、明日も来てちょうだい」
 絶対に来るもんかと思ったのだが、春川の顔を見てその決意が揺らいだ。どこまでも余裕があるその笑みが、どこか心地よかった。彼女は来てちょうだいと言いながらも、そこに今日みたいに強制をすることはなく、純粋にこっちの意志に任せていた。
 結局、自分でも馬鹿だと思いながらも翌日も図書室へ足を運んだ。そしてそんな日が続いて、いつの間にか図書委員になっていた。けれどそこに属したおかげで、友人もできた。
「まさか、私に友達を作らすためにヘッドフォンを盗んだんですか」
 しばらくしてから春川と二人きりになったときを狙いそう質問すると、違うわと否定された。
「私があなたみたいな後輩が欲しかったのよ。かわいくて意地っ張りな後輩がね」
 そう明言されたとき、ああ私はこの人には適いそうにないと思った。
 事実、そうなった。


第一手【ルークの中で事件は起こった】

 
 今日の鞄はいやに重たく感じてしまうのだが、いつもと重さは変わらない。それどころか質量的にいうなら他の生徒たちが持つ鞄よりは圧倒的に軽いはずだ。なにせ自宅学習なんてものをする気がないから教科書などは全て教室の机の中。いや、普段からそんなことをしているから、今日、こんな気分になってしまったのだろう。
 今、かばんの中には筆記具と本と空になった弁当箱、そして先週まで受けていた期末テストが入っている。このテストこそが鞄を重くしている。もちろん本当の重さは数グラム単位のものだが、そんな話をしているんじゃない。
 自然とため息がこぼれる。もちろん、この結果は誰にも責めることは出来ない。どちらかというと僕が両親から責められることになるんだろう。もちろん悪いとは思っているが、仕方ないじゃないかとも思っている。口が裂けても両親の前では言えないが。
 放課後の廊下を幾人もの生徒が走り回っている。この高校に入学して三ヶ月。ようやくこの雰囲気にも慣れてきた。廊下や階段の所々で座り込んで話し込んでいたり、暴れまわってたり生徒たちを器用によけて目的地へ目指す。
 夏の容赦ない日差しが窓から廊下を突き刺す。額の汗を拭い取り、ポケットから携帯電話を取り出してメールの受信ボックスを開き、昨日の晩に春川先輩から送られてきたメールを再度確認した。
『明日の放課後、図書準備室に来てください。お話したいことがあります』
 絵文字などは一切使っていないなんとも質素なメールで、非常に不気味だ。いつもの先輩のメールはもっと華やかでいかにも女子高生らしいものなのに。
 どうしてですかという返信をしても返事はなかった。何か緊急事態か、それとも単に返信する時間がなかっただけか。どちらにしても命令に背くわけにもいかないので今こうして早足で図書室へ向かっている。
 僕だけが呼び出されたわけじゃないだろう。多分だけど彩原(さいはら)も同様のメールをもらっているはずだ。春川先輩は基本的に僕たちをコンビだと思っている。僕に用事を頼むときはふざけ半分でいつも彩原にも同じ頼みごとをしていた。
 しかし今までの頼みごとというと図書室から不要になった大量の本を運び出す作業だったり、明日暇だから遊びに付き合ってだとかいうそんな切羽詰ったものじゃなかった。
 メールを受け取ってからずっと嫌な予感がしていて、そしてそれは徐々に僕の心を侵食している。本当に嫌になるがこういう予感はあたる場合が多いのだ。
 携帯をポケットにしまってふと立ち止まり、廊下から外を見渡すと、運動場では元気な生徒たちが盛んに部活動に取り組んでいる。先週と先々週はテスト期間中とテスト前ということですべての部活動が休止していたが、それも今日から再開。二週間ためていたエネルギーが今、運動場に放出されている。
 中学までは陸上部で短距離をしていた。高校でも続けようかと思っていたが、体験入部をした時にやる気が失せたので結局運動系の部活にははいらなかったのだが、どういうことの成り行きか自分でもよくわからないうちにその体験入部先でたまたま会った春川先輩に誘われて図書委員会に入った。
 春川先輩はその時、陸上部の臨時マネージャーとして部室にいたのだ。それで次にたまたま校舎ですれ違ったときに、もしも暇ならうちに来なさいと言われた。彼女の言う「うち」というのがつまり図書委員会で、彼女はそこで委員長をしていたのだ。
 その誘いのおかげで色んな人と出会え、楽しく充実した学生生活をおくれている。そういった恩を感じているので、そんな方から来いと言われたら断るわけにはいかない。
 図書室に入ると心地よく涼しい風が体にあたった。ここのクーラーには今後三年間、ずっと世話になるのだろう。静かで涼しくて居心地がいいなんて三拍子揃った場所は、この学校にはここしかない。
 扉を閉めて中に入った。いくつも並べられた長椅子では数名の生徒が自習をしたり本を読んだり、寝たり小声で話したりしてる。喋ったり寝たりしている生徒はここのクーラーが目的なのだ。
 その長椅子の先にカウンターがあり、その中では暇そうな顔見知りの図書委員が椅子に座りながらイヤホンで音楽を聴いていた。片手を挙げて挨拶をすると、向こうも返してきた。月曜の当番の大沢君という隣のクラスの子だ。
 図書委員は二週間に一度担当の日をもっていて、その日になるとカウンターで図書室の見張り番をしなければならない。当番はだいたい一年生か二年生だ。三年生は好き好んでやってる委員になった人がたまに手伝ってくれるくらい。
そうは言っても当番の仕事はほとんどない。たまに書籍を借りにくる生徒の学年と組と出席番号を貸出ノートと言われる物に記入して、もう一冊、図書日誌と言われるものにその日の特徴を書くことだけだ。
 貸出ノートは本を借りにくる人がいないと書かなくていい。そもそも書けない。そして本を借りにくる人は本当に少なく、つまり仕事も同様になる。そして図書日誌には日付と当番の名前と、そして「本日も特に何もなし」と書けばいい。
 仕事と言えるかどうかさえ疑わしい。
「春川先輩に呼ばれたんだけど。隣にいるの?」
 なるべく小声で、けどイヤホンをしている相手にも聞こえるような、微妙な音量で大沢君に訊いてみると彼はイヤホンをつけたまま頷いて、自分の後ろ側にある壁を指差した。
「ああ、いつも通り隣の準備室に篭ってる。またチェスでもやってんじゃないか」
「そう、ありがと」
 礼を言ってカウンターの後ろにある扉へと足を進めた。この図書室には一つの扉で繋がれた部屋があり、それが図書準備室だ。ここへ通じる扉はカウンターの後ろにあり、常に「図書委員以外立ち入り禁止」という張り紙がされている。
 扉の前に立ち、二度ノックをした。
「春川先輩、楠野です。お呼びですか」
 図書委員以外立ち入り禁止と言っても事実上、この準備室に自由に出入り出来るのは司書と、委員長である春川先輩だけだ。
「どぉぞ、入ってきて」
 中から先輩の声で返答があったので失礼しますと言いながら扉を開けた。ここに入るのには委員でも春川先輩の許可がいる。先輩は放課後、基本的にここにいる。それはもうテスト前だろうと期間中だろうと関係ない。常にいるのだ。まるで住んでるように。
 部屋の中は壁を覆い尽くすように本棚が並べられていて、その前には何個ものダンボールが積まれている。ここは隣の図書室に置かなくなった本を置いたり、これから置く本を一時的に預かったりする場所だ。彩原曰く、物置。
 その本棚やダンボールに囲まれるように一つの円のテーブルがあり、それには四つの椅子がついている。そして今、その机の上にはチェス盤がのっていて椅子の一つには春川先輩が眉を寄せて、顎に手を当てた険しい顔で座っている。
 ボーイッシュな短髪に、頬についたそばかす。それが彼女の特徴だ。ただ短髪にしたのはつい二週間ほど前、それまでは女子が羨ましがる様な綺麗なロングの黒髪をふわふわとさせていた。なんでも占いでイメチェンをすると運気が上がると言われ、思いきってバッサリと切ったらしい。
「先輩、また一人チェスですか。よく飽きませんね」
 そう声をかけると今まで真剣な顔をしていた先輩が盤から目を離して僕を見てきた。
「飽きないわよ。これね、もうかれこれ三年やってるけど全然飽きないの。まあもちろん、誰かと対局したほうが断然面白いんだけどね。けどあなたを含めて、誰も付き合ってくれないじゃない」
「それは先輩が容赦ってものを知らないからでしょう。素人の僕相手にも本気出してきたじゃないですか。そりゃ嫌になりますよ」
 僕がそう反論すると彼女はわざとらしくため息をつき、分かってないわねぇとぼやいた。
「試合に集中すると我を忘れちゃうのよ、私は。そんな私に手加減を求めるなんて……」
 僕はわざとらしくじゃなく、本当にため息を吐いた。言うだけ無駄だった。
 先輩は大のチェス好きとして知られている。そしてその腕は相当なもので、とてもじゃないけど適わない。噂によると全校生徒の十分の一は彼女と対局したことがあるそうだが、今まで彼女が負けたことは一度たりともないと聞く。
 負けたことがない、ただの一度も。しかしこれを全勝ととらえるのは間違っている。
「けどやっぱり対戦相手はナナがいいわ。あの子とならいい勝負ができるもの」
 彼女の言うナナとは、彩原のことだ。彩原七色というのが彼女のフルネームで、七色と書いて「にじ」と読む変わった名前だ。しかし彼女を本当の名前で呼ぶ人はいない。みんな、苗字かナナイロか、先輩のようにナナと呼ぶ。
「そりゃあ無理ですよ。あいつはあの試合がよっぽど悔しかったのか、チェスの話題は私の前でするなって怒ったことさえあるんですよ。一人チェスで我慢してください」
 一人チェスとは先輩がいつもしている遊びだ。言葉どおり、一人でチェスをする。彼女曰く、自分の中にもう一人自分を創って、それと対戦するらしい。彼女の目の前には僕らには見えないもう一人の「彼女」がいるという。普通なら考えられないし、できそうにないと思えるが、彼女はこれができるのだ。
 先輩を両腕を思いっきり伸ばして、うぅんと声をあげる。
「うぅん、惜しいわ。あの子はきっとすごく上手になれるのに」
「負けず嫌いのあいつのことですから、きっと先輩にまた負けるのがいやなんでしょう」
 僕がそう小さく笑うと、突然頭に鋭い痛みがはしって堪らなくて、いたっと叫びながら後頭部を抑える。何となく何が起こったか予想できてるものの、一応念のため確認しておこうと思い、頭を抑えながら振り向くとそっぽを向いた彩原が大きなハードカバーの本を片手に立っていた。
 どうやら本の角で殴られたらしい。彼女が時々使ってくる攻撃で、毎度危ないからやめろと言っているのだが、彼女が僕の言うことを素直に聞くわけがないのは重々承知している。
 上のフレームのないメガネを少し下げてかけて、腰くらいとまではいかないが、とにかくそれくらい長い黒髪で、そしていつもどおり目立つ程大きなヘッドフォンをした彼女は殴った僕を見向きもせず先輩のほうに睨みをきかせている。
「なんですか、あのメールは」
 えらく不機嫌でどすのきいた声で彩原が先輩に訊くと、彼女は実に楽しそうにくすくす笑い出した。
「ちょっとした遊び心よ、そんなに怒ることないじゃないの」
 先輩がどんなメールを送ったかは知らないがそれに対して彩原がかなり怒っているというのは目で分かる。まるで鬼のような目で先輩を見ているのだ。しかし先輩はそれをもろともせず笑っている。一応は三年の先輩で委員長である先輩にそういう態度をとれる彩原もすごいが、先輩もまた負けずとすごい。
 先輩を睨んでいる彩原の腕を掴むと彼女は相変わらずの目つきでこっちを見てきた。一瞬、怖さでどきっとしたがこっちだって言っておきたい事があるのだから負けてられない。
「本の角はやめろって散々言っただろう。本当に痛いんだから」
 僕の抗議に対して彼女がとった反応は、ふんと鼻を鳴らしただけであった。流石にあんまりではないか。
「聞いてるか、君」
「聞こえてるわよ。ああ分かった、反省します。これで満足でしょ」
 彩原が同級生の男子なら迷わずにパンチの一発でも頬にいれてやるのにと悔しい思いをしていると、はいはい喧嘩はそこまでねと先輩が僕らの間に入って仲裁をし出した。
「ナナ、暴力は良くないわね。しかも道具を使うなんて絶対にダメよ。以後しないと誓いなさい」
 彩原はばつが悪そうな顔をして先輩から目を逸らしたが、先輩にこっちを向きなさいと言われるとゆっくりとだが指示に従い彼女と目をあわす。
「誓いなさい。いい?」
「……はい」
 決して納得はしてないようだが彩原は頷いた。彼女がここまで素直に誰かの指示に従うことは非常に珍しい。ただ先輩は彼女にとっては憧れなのだ。だから悔しいとか思いながらも反抗は出来ない。
 彼女は強気な態度をとりながらも先輩を慕ってるし、尊敬している。彼女がそんな目で見ている人は少なくとも学校の中では先輩だけだ。だからこそ先輩も彼女を可愛がっているのだろう。少し前は自分の次の会長は彩原に譲ると言っていた。本気かどうかは置いといて、先輩も彼女をそれくらい評価しているのだ。
 時々、この二人が姉妹に見えたりするときもある。例えば今みたいなときだ。けど同い年の親友同士に見えることもある。なんというか不思議な関係だ。
 先輩は今度はこっちに目を向けると結構強めのでこピンを食らわしてきた。
「君もよ、楠野君。あんまり人が気にしていること言うのは良くないわ」
「分かりましたよ。以後気をつけます」
 僕の返答に満足したのか彼女は笑顔で大きくうなずいた。こうやってたまにとんでもなく先輩なんだと感じさせられる。いつもはそんな雰囲気は微塵も出さないのだが。
「それにあの勝負でナナは負けてないわよ。あれはステイルメイトだったもの。言わば引き分けよ。……まあ、今日はそんなことはどうでもいいわ。メールでも言ったと思うけど、今日はお願いがあってきてもらったのよ」
 そういうと彼女は僕と彩原にいすに座るよう勧めた。僕らが座ると彼女は急に真剣な顔をして、実はちょっと厄介なことなのと切り出した。
「二人とも、宮田荘一は知ってるわよね」
 僕は頷くが隣の彩原は首をかしげた。
「生徒会長の宮田先輩だよ。ほら、朝礼とかで挨拶してる人」
 そう説明すると、ああと声だして手を打った。自分の関心があること以外は全く覚えようとしないというのが彼女の悪癖である。確かに生徒会長なんてどんな仕事をしているかも知らない人で僕も興味はないが、何度か朝礼などで見かけるうちに自然と覚えてしまった。
「そう、その宮田君。実は彼、私のクラスメイトでクラス会長もしてるのよ。ちなみに、副会長は私ね」
 先輩がクラスで副会長をしてるのは知っていた。図書委員長でクラス副会長。それに何でも生徒会にもある程度の力を持っていて、先生たちからも全幅の信頼を受けていて時々先生たちにアドバイスをすることさえあるらしい。つまりこの学校では彼女はかなりの権力者なのだ。下級生の間で女王陛下などと呼ばれているのはその由縁だったりする。
「実はその宮田君、先週の木曜日……つまりテスト最終日の前日の夕方、校舎内で誰かに襲われたの」
 僕と彩原がお互い目を合わせて驚いた。そんなことは学校で噂にもなっていない。
「それで二人にするお願いっていうのが――」
 先輩はそういうと僕と彩原を交互に見て、いつになく真剣な声を出した。
「宮田君を襲った犯人を、突き止めてほしいの」


第二手【ビショップは依頼を引き受ける】


「えらく突拍子のないお願いですね」
 まず口を開いたのは彩原だった。彼女は急に聞かされた生徒会長襲撃事件にある程度の驚きは示したものの、すぐに落ち着いたようだ。彼女と知り合ってからその冷静さには何度か驚かされている。
「そうね、ちょっとお話が唐突なのは否めないわ」
「というか先輩、どういったことが起きたんですか。何が起こったかわからない事には何も……」
 僕がそう情報を求めると横で彩原がうんうんと頷いていた。おそらくではあるが、どんな事件であっても彼女は先輩の依頼を引き受けるだろう。断るわけがない。いや、断れないと言ったほうが正しいのか。
「話すと長くなるわ。まあ、楽にして聞いて頂戴。まずさっきも言ったけど事件があったのは先週の木曜日、時間は午後三時らしいわ。宮田君は誰から呼び出しを受けて、B棟の二階のコンピュータ室の前で音楽を聞いてた。そこを急に襲われたのよ」
 先輩はそういうとさっきまで一人チェスをしていたチェス盤からすべての駒を払いのけて、近くに置いてあった小箱に仕舞っていく。しかし二つの駒、キングとポーンをだけを盤上に残したかと思うとポーンでキングを弾いて倒した。どうやらこのキングが宮田会長のモデルらしい。そしてポーンが犯人だろう。
 B棟というのはこの図書室のあるA棟と平行に並んである校舎であり、A棟とは渡り廊下でつながれている。
「どういう風に襲われたんですか」
 彩原が質問をしながら倒れたキングを摘んでまた盤上に立たせる。
「突然後ろから頭を殴られたそうよ」
「ああ、誰かを彷彿させる犯行ですね」
 僕がある特定の人物に対して嫌味をこめて言うと、横から突き刺さるような痛い視線を感じた。これは目があったら殺されてしまうと思ったので、彼女とはまったく違う方向へと目を向ける。そんな僕らのやり取りを先輩は笑いながら見ていた。
「仲がいいって素晴らしいわね。けど楠野君、あなたはまだ本だからいいわ。まあ本も駄目だけどね」
 そういうと先輩は彩原へ視線を向けるが、とうの本人は先輩とはまったく違う方向へと視線を向けるので、その仕草がまたまた面白かったのか、先輩はさっきよりも笑い声を大きくした。
「二人とも、してる事が同じよ。本当に仲がいいんだから」
 それはどういう意味だという視線を僕が送ると、なんとしたことか彩原までも同じ行動をしていた。二人同時にその事実に気づいて、つい動きが止まってしまう。
「ほぉらね。まったく愛らしい後輩たちだわ。もう、これじゃあ話が進まないじゃないの」
 おほんっとわざとらしいせきを彼女がして、場の雰囲気を持ち直させた。
「宮田君はなんとあろうことか竹刀で後ろから殴られたんだって」
 それは痛い。剣道の授業で面を何度か食らわされたことがあるけど、防具をつけていても痛いんだ。それを生身に食らわされたと考えると、それだけで幻痛がしてくる。
「あれは痛いわよ。私も弟が中学で剣道部に入ってるから家に竹刀があるから分かるわ」
 僕が宮田先輩の不幸を心から可愛そうに思っているときに、彩原は別のことに想像を巡らしていたらしい。
「竹刀で殴られたってことは、いくら強くても一発じゃ意識はなくしませんよね。となると痛みに堪えながら振り返って犯人を見ることもできたんじゃないですか。それこそさっきの楠野みたいに」
 彩原がそう訊くと先輩はにやりと笑った。その笑みが期待通りと言っている。
「その通りよ、ナナ。ただ犯人も同じことを考えてたみたい。宮田君は何とか振り向いたわ。けどその瞬間、目に何かスプレーを吹きかけられたんだって。彼の話じゃ、多分催涙スプレーじゃないかってことらしいわ」
 竹刀で頭を殴って、しかも苦しんでいる相手に姿を見せないため更に催涙スプレーを吹きかける。なんというか、とても冷徹な犯行だ。そこに人間の感情を感じれない。おそらく計画された犯行なのだろう。そして犯人はそれを忠実におこなうために動いている。いや違うな。おこなうためだけにと言ったほうが正確だ。
 そこには躊躇も容赦も慈悲もない。まるで機械のように罪を犯す。
「目潰しをくらった彼はそのままうずくまった。そこに犯人はまた竹刀で殴ったり蹴ったりしたそうよ。数分間、暴行を加えた後そのまま立ち去っていったそうよ」
 やっぱり人間味を感じない。
 彩原は右手の人差し指を立てて、それでキングの駒を少し強めに叩いて倒した。目を瞑って、口を一文字にしている。彼女が何かを考えてるときの顔だ。彼女がそうしてる間に僕は率直な意見を先輩にぶつけることにした。
「無理ですよ先輩」
 それが事件の概要を聞いた僕の意見だった。先輩は僕のほうに目を向けて、どうしてかしらと言うように首をかしげる。
「この学校の生徒が何人いると思ってるんですか。それくらいの犯行なら誰にだってできる。容疑者は全校生徒。そこから一人を導き出すなんて、警察か、そうじゃないと神様くらいにしかできませんって」
 決して間違った意見ではないと自分では思っているし、どちらかというとこの回答が当たり前だろう。しかし僕の返答を聞いた先輩はため息は吐くし、彩原には馬鹿かと罵られるはと何故か呆れられてしまったようだ。
「いいかい楠野、わかりやすく説明してやるから落ち着いて聞くといい」
 彩原はそう言うと首にかけていたヘッドフォンを外して自分の鞄に入れた。
「先輩がさっきから言ってるように事件があったのは先週の木曜日の午後三時。この日付と時間帯が何をさすと思うか、少し考えてみろ」
 彼女に言われたとおり僕は先週の木曜日のことを思い出す。するとすぐに、本当に自分でも驚くほどすぐにある結論が出た。
「そうか期末テストか」
「そうだよ。期末テストだ。それで事件が起こったのが午後三時。テストなんて午前中に終わってるし、テスト期間中は当然部活なんてない。そしてその次の日もテストだ。分かるだろう。あの木曜日の午後三時に学校にいる生徒なんてかなり少数なんだよ」
 なるほど。確かにこれで全校生徒が容疑者なんていう悲劇的な状況にはならずにすむわけだ。彼女の言う通り、そんな時間帯に学校にいる生徒はほとんどいないだろう。テスト期間中でも活動してるところは、生徒会で毎日行われる定例会議、そしていつでも誰でも入れる自習室、外国人教師が生徒たちに英語に触れてもらおうと思って切り盛りしているグローバルコミュニケーションルーム、そして最後にこの図書室。この四つくらいだ。
「けど、楠野の言うこともあながち間違ってはいません。容疑者は大幅に減りますが、それでもある程度の人数はいますね。それにさっき考えていたんですが、おかしなことが一つ。そんな事件が学校では噂にもなってませんが、それはどうしてですか」
「どうしてって……まあ、早い話が緘口令があったからよ。宮田君と教師の間で、この事件はあまり公にしないでおこうっていうね。彼にしたって襲われたっていうのはあまり広まって格好のつく噂じゃないし、学校側としてもそんな不穏な噂が流れては嫌だろうし、下手をしたら警察が乗り込んでくるかもしれない。学校のイメージを守るためには事件をなかった事にするのが一番ってことよ」
 一応は近所で有名な私立の進学校だ。確かにクリーンなイメージを守りたいだろう。しかしだからといって一人の生徒が校舎の中で暴行されたのを無かったことにするのは、一つの学校としてどうなんだろうか。
 それに宮田先輩だけでなく、これ以上被害者が増えたらなどとは考えないのか。少なくとも今現在、この学校内には人間味を感じさせないで平気で人を竹刀で殴れるような奴がいるんだ。そういう情報は僕ら普通の生徒にとってはとても大切な情報なのに。
 言い表しようの無い憤りを何とか胸のうちで殺し、膝の上で拳を丸くする。
「……腐ってますね」
 そんな憤りを彩原はたった一言で表現し、先輩もあなたの言う通りねと同意した。
「けど宮田君はうちのクラスだけには話してくれた。決して誰にも喋らないでくれって言ってね。だからこそ、私は犯人を突き止めたいのよ。このふざけた、お調子者を」
 そういうと先輩は盤上にあったポーンを手にとると強く右手で強く握った。
「――少し懲らしめるためにもね」
 先輩がにやりと笑う。しかしその笑みにいつもの優しさは一切感じられない。彼女から感じられるのはただならぬ冷たさ。彼女が怒ったときにでる空気だ。
「二人とも心配はご無用よ。私だって後輩に無茶を押し付ける気は毛頭ないわ。実をいうと容疑者もある程度絞れてるし、現場の状況も結構分かってるのよ」
 彼女はそういうとさっき駒を仕舞った小箱から、再び駒を取り出す。今度は三つのポーン。そしてそれらを盤上に平行に並べると、向かい合うようにキングを立たせた。ポーンのうち二つは白く、残り一つは黒だ。
 容疑者が絞れてると聞いて、なんだ杞憂だったのかと思ったのは僕だけのようで、彩原は特に何の反応も示さなかったところをみると何となく予想はついていたのだろう。春川先輩がそんな無茶を押し付けるわけがないと、彼女を信頼していたのか。
「容疑者は三人に絞れてる。多分だけど、この中に犯人がいるはずよ」
「……そこまで絞れてるのに、あなたが調査しない理由がわかりません」
 彩原の言い分はもっともだ。先週の木曜日の段階で不特定多数の容疑者がいたにも関わらず、月曜日の今日の段階ですでに三人まで絞れてるという。そこまできたのならもういっそ三人を締め上げれば、白状するんじゃないだろうか。いやそんな手荒な真似をしなくても、先輩ならちゃんと調べれば直ぐにでも答えにたどり着けそうな気がする。
 しかし先輩は、そうもいかないのよと最近切ったばかりの頭を掻きだした。
「私が結論を出すより、全くの第三者が答えを出してくれたほうが説得力があるのよ。それに……私はあんまり、クラスメイトを疑いたくはないの」
 先輩の最後の言葉に少しうつむき加減だった彩原がビクンッと首を上げて、彼女にしては珍しく激しい反応をする。もちろん、僕も似たように驚いた。
「容疑者の三人は全員、私のクラスメイト。例えこの三人が犯人じゃなくても、犯人はうちのクラスメイトなのよ。状況がそう言ってるの」
 春川先輩はそう言うと暗い顔で時折ため息を交えながらゆっくり説明してくれた。
 まず宮田先輩は暴行されている最中になんとか犯人を見たらしい。けど目を痛めていたし、頭を手でガードをしていたためそこまではっきり見えなかった。かろうじて見えたものが三つある。一つは犯人の服装で、うちの学校のじゃないジャージをきていたという。そして二つ目は犯人の顔。これはすごい手がかりではないかと思ったが、先輩はここを説明するときに一番深くため息を吐いた。
「顔を見たのはいいけど隠されてたみたいなのよ」
「隠されてたっていうと覆面でもしてたんですか」
 ううんと彼女は首を振って、またため息を吐いた。どうもその事実が彼女を悩ませてるようだ。
「お面をしてたそうよ、ウルトラマンの」
 僕と彩原の表情が小さく口を開けたまま固まった。漫画であれば僕らの頭上にはクエスチョンマークが二つほど浮かんでるんではないだろうか。そんな僕らの反応を見て、先輩はだよねぇと呟く。
「私もそう思う。意味不明すぎるわ。ふざけてんのかしら」
 ふざけてるのならまだいい。そこには人間味がある。しかし、僕や彩原が感じてるのは不気味さだろう。どう考えても歪んでる。同一人物の行動のはずなのにそこには一貫性がない。あるのはアンバランスな行動と、一切読めない真意だけだ。
「三つ目はスリッパ。犯人は赤色のスリッパを履いてたらしいわ。赤は三年の色だから、この時点で下級生ではないってことは分かるの」
 この学校では色で学年わけがされていて、今年は三年が赤、二年が緑、そして僕ら一年が青という年だ。確かにスリッパが赤色だったってことは三年で間違いないだろう……。いや、待てよ。可能性としてはありえることが一つある。
「犯人がスリッパを履き替えてた可能性はないんですか。犯人を三年だと錯覚させるためにわざと赤のスリッパを履いてたのかも」
「うん。私もそれは思った。けど、どうやら三年生ね。さっきも言ったけど容疑者は絞れてる。その理由は、ジャージとお面は見つかってるのよ。私のクラスの教室の中でね」
 彼女はそういうと足元に置いてあった自分のカバンの中を探り出して、あるものを取り出した。
 ウルトラマンのお面が彼女の右手にあり、それで自らの顔を隠す。顔が小さめなのですっぽりとお面に顔が収まる。しかも最近ショートカットにした髪型のせいで見事なまでに全て隠れた。
「これとジャージが教室の中にあった掃除用具箱の上にあったダンボールの中から見つかったわ」
「先輩、教室のカギなんて誰だって持ち出せます。犯人が犯行を終えて、職員室にカギを取りに行けば――」
 自分でそこまで言っておきながら、ようやく彼女の言わんとしてることが分かった。あの日はテスト期間だ。そしてこの学校ではテスト期間中に生徒が職員室に入室することを禁止している。用がある生徒とは扉をノックして出てきた先生に対応してもらうことになっている。
 テスト期間中、教室の鍵は担任が持っているらしい。カギがいる生徒は担任から渡してもらう必要がある。もしも犯人がそのクラス以外の人間ならカギを持ち出すことはよっぽどのことがないと無理だし、例え可能だったとしても先生の記憶に残る。
 犯人はクラスメイト以外ありえないという彼女の推理はこれに基づいていたのだ。
「妙ですね。午後三時以降にカギを借りにきた生徒がいるとしたら、例えそのクラスの人間でも目立つでしょう。ジャージを隠したのはほぼ間違いなく犯行直後のはずです。そんな姿で校内はうろつけませんし、ジャージの上下となると荷物になる。そんな荷物を持った生徒がいたら、今度は校門のところにいる警備員さんに覚えられるかもしれない。何とか隠してもって帰れたとしても、じゃあどうしてまたジャージを学校に持ってきたんだという謎が残ります」
 彩原が早口で言うもんだから僕には理解するのに彼女が喋り終えてからも数秒を要したが、先輩はそうでは無かったようだ。彼女の言葉を聞き終えるや否や、流石ねと関心を表してからポケットからあるものを取り出して、それを机上に置いた。
 僕と彩原がそれを覗き込むように見る。先輩が取り出したのはキーホルダーも何もついていないカギだった。
「これは私のクラスの合鍵よ。クラスの中に鍵屋の子がいてね、彼がこっそり作ったの。クラス全員知ってたわ。学校にバレるとまずいけど、便利だからって黙ってたの。いつもは教室の前にある消火器の後ろにセロハンで貼り付けてるんだけど」
「つまりあれですか。このクラスの人間しか知らない合鍵で犯人は犯行後、教室へ入りそこで着替え、荷物になるものを隠した。しかし運悪くそれがすぐに見つかってしまった。そしてこの合鍵を使えるのは存在をしっていたクラスメイトしかいない」
 僕が頭の中でなんとか要約した状況を説明すると、彼女はその通りと大きく頷き、よくできましたとウィンクをした。
「これで事件の説明はお仕舞いよ。二人とも、どうかしら?」
 依頼を引き受けるかどうかという意味の質問だろう。正直に言うと面倒に巻き込まれるのはご免だ。この事件に調査するということはどうやっても三年の先輩たちとの接触を避けては通れない。目をつけられたりしたらきっとややこしいことになる。
 しかし先輩がせっかく僕らを信頼して頼みごとをしてくれている。それを無下にはしたくない。そして何より……僕がこんなに迷っていても、彼女は迷わないんだろう。そして彼女が依頼を受けるなら、僕が断るわけにはいかない。出来ることなんてせいぜいサポートくらいだが、それに徹する。
 自分の中で答えが出たので隣に目を向ける。彼女もこちらを見ていた。目を合わせて二人で小さくうなずく。
「わかりました。どこまで出来るか分かりませんけど、調べてみます」
 僕が二人の代表して答えると先輩は安堵の笑みを浮かべてから、頭を少しだけ下げた。
「ありがとう」
 先輩にそんな態度を取られるとは思ってもいなかったので、僕はどういうことを言っていいか皆目検討がつかなかった。ただ先輩がこの事件を解決するのにどれだけ真剣かということはひしひしと伝わってくる。
 どうしようかと焦っていると、彩原が急に席を立った。
「とりあえず明日にでもその容疑者三人をここに連れてきてください。調べるのはそこからです。じゃあ、私はこれで失礼します」
 それだけ言うと彼女は自分の鞄を持ってそそくさと準備室から出て行ってしまった。どうやら先輩のこういう姿をあんまり見たくはなかったらしい。しかしそれは僕だって同じ気持ちだ。取り残されたら余計にどうしたらいいか分からない。
 あの野郎と彩原を恨めしく思っていると、彼女の座っていたところに本が一冊置いてあるのが見えた。僕の頭を殴ったときに使った凶器だ。どうやら忘れていったらしい。
「ああ、あいつ、本を忘れてますよ。しょうがいな、届けてやります」 
 鞄を持って、本を手にとって立ち上がった。そして先輩にさよならと別れの挨拶をして、一目散に準備室から出た。そしてそのまま図書室も出ると、廊下でヘッドフォンをした彩原が腕を組んで持っていた。そして右手をこちらへ伸ばしてくる。
 僕が無言でその手に本を渡すと彼女は本を鞄にしまった。
「一人で逃げるなんてずるいんじゃないか」
 一応は抗議しておこうと思いそう言うと、彼女は鼻を鳴らした。
「逃げる機会はあげただろう」
 そりゃそうだけどと言葉を続けようとしたが飲み込んだ。彼女の方が早くあそこから出たかったのだ。きっと先輩に頭を下げられて焦ったのは僕より彩原の方だろう。憧れの人にそうされては誰だって困る。彼女としては今現在もそういう感情を顔に出さないだけで精一杯なのかもしれない。
「ああ、小泉から伝言を預かっていたんだった。道場で待ってるから来てくれと言ってたぞ。なんでも話があるそうだ」
 小泉というのは中学のときから友達だ。彼も図書委員だが、どちらかというと所属している剣道部の活動のほうに力を入れている。彼は僕が図書委員になったと聞いたら、何か面白そうだと言って入ったのだ。
「話ってなんだろう……。なんかあったのかなぁ」
 全く思い当たるふしがないので僕が頭を抱えていると彩原がくるいと背中を向けた。
「どうせ卑猥なことだろ」
 彼女の言葉のせいで危うく近くの壁に頭をぶつけそうになった。たまに平気でそういう事を言ってくるのだからたまらない。
「年頃の女の子がそういう事を言うもんじゃないよ」
「年頃の男の子なのだから恥ずかしがらなくてもいいぞ」
 背中を向けたまま彼女は歩き出した。どうやら今日はもう帰るらしい。僕が背中に向けて、また明日と声をかけると片手を挙げてひらひらとさせて別れを告げたかと思ったが、急に首を回してこちらを見てきた。
「程々にな」
 そんな言葉を残し去っていく彼女の小さくなっていく背中を見ながらため息をついた。

 二階建ての体育館の一階部分が剣道部と柔道部の活動場所だ。ちょうど半分が畳で、そしてまた半分がすべるほど綺麗な床板だ。僕はその床板で正座をしながら剣道部員たちの気迫ある練習を見ていた。
 体育の授業の一環として剣道はしている。ゆえにこういう試合の風景を見るのは特別珍しいことではない。しかしやはり試合のレベルが数段違う。僕なら到底打てそうにない面を平気で繰り出して、そしてそんな攻撃を見事に防いでいる。しかもそこからまた攻撃を仕返す。そしてまた相手がそれを防ぐ。
 攻撃をするときの叫び声もまた迫力がある。見学してるだけの僕でも思わずビクッと震えてしまう。
 小泉が部活を終えるまでいつもこうして見学をしながら待っている。こういうすごい光景を見れるから待つことは苦ではないのだが、いかんせん足が痺れる。これだけはどうにかしてもらいたい。
「おい小泉ぃっ!」
 しばらくすると先輩が小泉を道場が震えるんじゃないかと思うような大声で呼んだ。道場の隅で打ち合いをしていた小泉はすぐさま先輩のほうをむいて、これまた大きな声ではいと返事をする。
「友達待たせてんだろ。今日はもう帰っていい」
「はいっ。ありがとうございますっ!」
 小泉が深々と礼をする。そして先輩たちに頭を下げ、お先に失礼しますと挨拶をしながら僕の方へ歩みよってくる。
 普段剣道部の練習は午後六時を過ぎてもやっているらしい。結構練習熱心な小泉もいつもはそれまで残って汗を流しているのだが、たまに僕を呼びつけてほかの部員たちよりも一足早く帰る。そうは言ってもこういうことをやってるのは小泉だけではない。ほかの部員たちもしょっちゅう使ってる手だ。彼はまだ少ないほうだろう。
 防具を脱いですばやくそれを片付ける。久々の部活が楽しかったのだろう。ああ疲れたぁなどと小声で漏らしてはいるものの、その表情からは笑みが消えない。そういえば彼はテスト一週間前に入る直前の金曜日に部活中に手首を痛めていたのだが、どうやらそれはもう大丈夫らしい。一時は、やべぇ勉強できねぇよと嘆いていたが怪我をしなくても勉強はしなかっただろう。
 片付け終わった彼は最後に道場に向かって礼をした。
「ありがとうございましたっ」
 挨拶ができない若者などという言葉を幾度か聞いたことがあるが彼には関係ないだろう。
 道場からでると彼はさっそくある物を見せてきた。そしてそれを見た僕はつい歓喜してしまう。彼が見せてきたのは先週の月曜日に発売したばかりのゲームソフトだ。僕も彼もこのゲームの前作が大好きでその話でよく盛り上がっていた。
「なんだよ、お前買ってたのかよ。この間まで金がないって騒いでたくせに」
「いや、親が買ってくれてさ。お前に自慢したくてウズウズしてたんだ。どうだ、今日は俺んちに寄って行かないか。盛り上がろうぜ」
 僕は勿論だと興奮しながら何度も何度も頷いた。これは親に帰るのがそうとう遅くなるというメールを送らなければいけない。
 スキップを踏みたい気分で小泉とそのゲームの話で盛り上がったり、お互いのテストの結果を教えあい落胆したりしながら彼の家に向かっているときに僕はふとあることを思い出した。
「そういえば小泉、最近剣道部で何かおかしいこと無かったか?」
 突然の質問に彼は戸惑ったようだが、すぐに思い当たるものがあったらしく、あっあったと騒ぎ出した。
「竹刀が一本消えたんだよ。ちゃんと管理してたのに消えたもんだから顧問は盗まれたんじゃないかって言ってたけど……。なんだ、どうかしたか」
 やはり。ジャージとお面は見つかったと言っていたが竹刀は聞いていなかった。どうやら犯人は剣道部から拝借した竹刀で犯行に及んだらしい。じゃあ、その竹刀は今どこにあるのだ。犯人が持っているのか、それともどこかに隠したのか。
 どのみちこの情報は明日彩原や先輩に教えないといけない。
「何難しい顔してるんだよ。それより他にいいもんを仕入れたぜ」
「なんだよ、それ」
「決まってんじゃねぇか。あれだよ、あれ」
 彼はそういうと実にいやらしい笑みを浮かべた。そういえばこの間、先輩から本をゆずってもらうと言っていた。日ごろ本など読まない彼が喜んで仕入れてこんな喜び方をする本は、世界広しといえどもあれ以外は思いつかない。
 例の彼女の台詞が頭の隅をよぎった。まったく……とんだ推理力だ。明日から期待できる。
「どうしたんだよ」
「いや、なんでもない。程々にしとこうと思っただけさ」


第三手【ポーンたちがざわめきだす】


 翌日の放課後、僕は彩原と廊下で落ち合いそのまま春川先輩が容疑者三人を連れてくると言っていた図書準備室に向かっていた。早速昨日仕入れた剣道部から竹刀が一本盗まれたという情報を彼女に教えると、彼女は仕事が速いなと珍しく褒めてくれた。同級生に褒められて喜ぶのもどうかと思うが彼女の場合本当に稀なことなので素直に喜んでおこう。
「実は私も昨日家で調べられることは調べてみた。分かったことなど限られているが、一応収穫はあった」
 彩原はそういうとポケットから四つに折られた紙を渡してきた。受け取って開いてみると、そこには昨日先輩に見せられたウルトラマンの顔写真が大きくプリントされていて、その下に何か細かく書かれている。
「あれは初代ウルトラマンだそうだ。特徴といえるものは、シンプルな顔で頭のてっぺんに角があるくらいだ。けどそんなのは他にもいくらでもいる。ちなみに必殺技はスペシウム光線だ。手を十字にさせて放つ技で、なんでも右腕にマイナスのエネルギー、左腕にプラスエネルギーを蓄えて、それをスパークさせるらしい。連射も可能らしいぞ」
「……それって事件に関係あるのか」
 僕が恐る恐る尋ねると彼女はすました顔で首を横に振った。
「無いだろう。多分、いや絶対。情報量が少なかったから適当に調べただけだ。何の意味もないさ」
 情報といえば一応、昨日の晩に春川先輩からメールをもらった。容疑者三人の名前と性別などを。正直、あまり関わりたくない方々ばっかりだったのでメールを読んでからしばらくは依頼を引き受けたことを後悔した。
 容疑者の一人は菅原雅人という男の先輩だ。幾度か見かけたことがあるし、悪い噂も聞いたことがある。関わって得をする可能性は限りなくゼロに近く、どちらかという関わらないほうが損をしないという大きな利点がある。この人が春川先輩のクラスメイトだったとは知らなかったが、先輩もきっと苦労してるんだろうな。人一倍責任感があるから、任された仕事は絶対にやる。きっとクラスをまとめるのも仕事だと思ってるだろうから、色々と世話を焼いているはずだ。心底同情してしまう。
「菅原先輩とはあんまり関わりたくないんだよな」
「仕事を請けたのだから仕方ない。それに向こうも手荒な真似はしないだろう。暴力を振るうってことは、今現在の彼の立場を考えると自首してるに等しいからな」
 そういう考え方もできることはできるのだが、それは向こうに常識があったらの場合だ。大抵、問題児と噂される人には常識などというものは無い。常識を無視しているのか、それとも最初からそんなの知らないのか。事実、僕の隣の問題児は常識はあるようでない。
「それに菅原先輩だけじゃないようだ。藤巻先輩も容疑者リストにいた」
「それなんだけど、藤巻先輩って女だろ。あんまり知らないんだよな」
「なら早い話が悪女と認識すればいい。女子の間では有名な人だ。手にかけた男の数は星ほどいて、中には教師までいるとか。私は娼婦と呼んでいるが、友人たちがはしたないと言って呼ばせてくれない」
 なるほどな、こちらはこちらで問題児なわけだ。全く、ろくでもない人ばかり容疑者なんだな。ついてない。いや、憑いてるのもかもしれない。
「厄介なことになりそうだね」
 容疑者の三人のうち二人がこれじゃ、正直三人目もろくでもない奴だろう。春川先輩のメールでは三人目のことは正直よく分からなかったが期待はできない。
「まあ、楽をできるとは思ってない。それに……本当に厄介なのはまだだろう」
 彩原が段々と声を落としていったせいで、それにという言葉の後からは聞き取れなかった。非常に気になるので、なんだってと訊いて見ても、なんでもないと返されてしまった。こうなってしまうと彼女は教えてくれない。諦めよう。
 そんな会話をしてるうちに図書準備室の扉の前にいた。
「さて、覚悟は決まったかい?」
 すでに覚悟を決めている彩原が余裕の笑みを浮かべる。
「覚悟は決まってるさ。君と依頼を請けたときからね」
 一応は男らしく返答してみたが、彩原は似合ってないなと容赦のない感想を言って、若干ながら傷ついた俺を無視して重たい扉を開けた。
 昨日俺たちが腰掛けていたテーブルには、今は見慣れない来客が三人肩を並べている。そして彼らと向き合うようにたっているのが、いつもの見慣れたお方。四人は僕らが入ってきたことに気がつくと、それぞれ別の反応を示した。春川先輩はにっこりと微笑えんできたし、茶色の髪の毛をワックスで固めて逆立ててる菅原先輩はとても強く睨んできたし、容疑者の中で唯一女性の藤巻先輩はくるくると渦を巻いたツインテールをいじっていてこちらを見ようとはしないし、三人目の容疑者の最後の一人である川平先輩はメガネの分厚いレンズ越しに僕らを一瞥するやいなや即効で目をそらした。
「すいません、待たせましたか」
「大丈夫よ。少なくとも、私はね」
 僕の質問にそう答えると春川先輩はテーブルの三人に眼をやった。まず口火をきったのは予想通り、菅原先輩である。
「おい、後輩が先輩待たせてすいませんですむと思ってんのかよっ」
 早速言いがかりときたか。しかも妙に説得力がある言いがかりだ。対処しづらいことこの上ない。さてどう処理してやろうかと思いあぐねいていると、意外にも口を挟んだのは藤巻先輩だった。
「遅れたと思ってるんなら、早く始めてくんないかしら。こっちだって暇じゃないの。さっさと始めて、さっさと終わらしてよね。あんたも、言いがかりなんてつけないでくれるかしら、時間の無駄だから」
 言い終わると自分のカバンから化粧道具を取り出して、それを机上に広げる。なんということか、どうやらここでお色直しをするらしい。
「なんだと。厚化粧女は引っ込んでな」
 噛み付かれた菅原先輩が藤巻先輩に噛み付き返した。そしてお互いに睨みあうのだが、二人の間に座っていた川平先輩がとても二人を抑えきれないだろうと思うような細々とした声で、落ちついてと二人を宥めている。
 そんな三人の状況にも目をくれず、彩原は僕の耳元で誰にも聞かれないように指示を出した。
「事情聴取は君がやってくれ。事件の前後に何をしてたか。絶対にして欲しい質問はこれだけだ。あとは適当にしてくれ」
 まあ、こんな危険人物たちと彩原を接近させるのは反対なので事情聴取自体はやるのだが……。
「質問はそれだけでいいのか」
「ひとまず、それだけでいい。恐らくだが、それで十分になる」
 どうせ頭を使うのは彩原の仕事だ。彼女が欲しい情報がそれだけなら、べつにそれでいい。サポーターの俺にできることはとりあえずこの三人から彼女が欲しい情報を引き出すことだ。あまり気乗りはしないが、やるしかない。
 僕がテーブルに三人と向き合うように座ると、彩原と先輩は僕の後方に向かった。どうやら後ろ側から睨みを利かしてくれるらしい。
「じゃあ、少しお話を聞かせてもらいます」
 改めて三人を見る。睨んでくる菅原先輩、化粧をしてこっちをみない藤巻先輩、俯いている川平先輩。ここまで見事に別々に対応をされてしまうと、一体僕は誰に合わせたらいいのだろうか。とりあえず、色んな文句が飛んできそうなものの、一番質問に答えてくれそうなのは菅原先輩だろう。
「じゃあ、菅原先輩からで。単刀直入にお伺いします。事件当日、どこでなにをしていましたか。特にテストが終わってから、事件が起こった午後三時まで」
 話は聞くが僕もできるだけ早く終えたい。理由は藤巻先輩と違うけど。
「クラスの連中からは疑いのまなざしを向けられるし、副委員長殿からは急に指図を受けるし、生意気な後輩からは質問されるし、ついてないなぁ俺」
 ついてないのは僕もなんですよという返答ができないのがまことに残念だ。
「まあ、どっかのババアが言うとおり俺も早く話しするけどよ、先に言っとくけど、俺はやってねぇよ」
「は、はぁ」
それは今から話を聞いて彩原が判断、というか証明してくれると思う。だから僕に言われても仕方が無いのだけれど。
「わかりました」
 とりあえず相手が納得して話してくれそうな返事をした。それに満足したようで菅原先輩は意外にもスラスラと話をしてくれた。
「事件の前の日にさ、下駄箱に妙な手紙が入ってた。それには明日の午後三時にB棟の三階に来るように書かれてたんだよ。面倒だったけど行くしかないなと思って、とりあえず行くことにした。テストが終わったのが十一時半過ぎ。その後食堂で昼飯食って、二時半ぐらいまではグローバルコミュニケーションルームにいたよ。知り合いがいて、そいつとずっと喋ってた。アリバイっていうのか、こういうの。とにかく、おれがそこにいったっていうのは、そのダチから聞いてくれれば分かるはずだぜ」
 そう言うと彼はもう話すことなどないと言わんばかりに話を終えた。まあ、一応、彩原から聞けと指示されていたことには答えてくれたのでこれ以上何かをする必要も無いのだが、どうも納得がいかない。ここは一応問い詰めておくべきだろうか。けどそんなことをして殴られてもいやだし……。
 僕がうだうだと悩んでいたら、急に後方から声がした。
「二時半以降、どこにいらしたんですか」
 彩原の声だ。早速何か疑問に感じることを見つけてくれたようだ。やっぱりこういうのは得意分野なんだな。というか、ここまで遠慮も無くずばっと質問できるのならいっそ彩原がこの役目もやってくれないだろうか……いやいや、ここは男の役目だろう。
「なんだよ、急に」
 どうやら後輩の、しかも女子のいきなりの参戦を先輩は気に入らないようだ。
「私も春川先輩に調査を任されてるものです。それで、質問の回答は」
 菅原先輩は春川先輩に一瞥する。彼女が頷くと、舌打ちをしながらも答えてくれた。
「だから、呼び出された場所でそいつを待ってたんだよ。名乗りもせず呼び出すなんて、ふざけてやがる。一発ぶん殴っておこうと思ってな」
「三十分もの間、ずっと暑い廊下で待ち続けていたんですか。特に何もせずに」
 言われてみれば確かにおかしい。五分だけまってろと言われてもかんべんしてもらいたいものだ。
「ああ、そうだよ。なんか文句あるのか」
「文句はありません。ただ、先輩がちゃんとそこで三十分間待っていたという、第三者の確たる証言が欲しいです。言ってる意味、分かりますよね」
 なるほど、つまりここでもアリバイを求められているわけだ。確かにおかしな行動だ。アリバイがないと、今現在、灰色の疑いが更に黒ずむ。
「……ねぇよ。コミュニケーションルームで話してたダチとは一緒にそこ出て、すぐに別れたからな」
 アリバイは無し。これはもう決まりでいいんじゃないかな。あまりにも怪しすぎる。決め付けは良くないとは思うが、事件前の三十分が空白ともなると疑われても仕方あるまい。後ろを向いて彩原を見ると、何故だが知らないがもうそれでいいらしく、次にいけと口パクで指示してきた。彼女がそれで言いというのなら、僕にできることは無い。
「分かりました、じゃあ菅原先輩は終わりです。次はぁ、川平先輩、お願いします」
 指名を受けた川平先輩は僕が後輩にも関わらず、はいと敬語だった。
「僕も菅原君と同じで……えぇと」
 見るからに陰気そうな身なりだ。分厚いレンズのメガネ、前髪くらいまで伸ばされた髪の毛に細身の体、それに俯き加減の姿勢。それに聞き取りにくい小声。申し訳ないが聞こえない。
 声を大きくしてくれますかとお願いしようかと思っていたのに、そうはできなかった。
「もうっ、ちょっと横で気持ち悪いんだけどっ」
 先ほどまで誰も相手にせずひたすら化粧をしていた藤巻先輩が急に声を荒げて、隣の川平先輩の椅子を蹴った。
「小声だし、はっきり言わないし、あんた何しに来たのよ。ちゃんと喋ることも出来ないの。もう、死んだほうがいいんじゃない? そんなんだからいじめられるんだって」
 別に僕に対して言われた言葉でもないのに、僕まで傷ついてしまいそうなほどの言葉の刃を放った藤巻先輩に川平先輩はまた蚊の泣くような声で、ごめんと謝っていたがその声も気に入らなかったのか、彼女はまた椅子を蹴る。
 流石にとめないといけないと思いながらも、先輩で口出ししにくいうえ、向こうには向こうの事情があるので止めづらい。
「おいアマ、大概にしろよ」
 困惑していた僕が何とか口を挟もうかとしていたとき、鋭い声がした。
「弱いもんいじめなんて目障りなこと、俺の前ですんな。胸糞悪りぃ」
 菅原先輩が藤巻先輩に鋭い眼光を向けていた。その視線に藤巻先輩は一瞬たじろいだものの、すぐにふんと鼻を鳴らす。
「へぇ、正義の見方気取りなわけ? 何年生なのよあんた」
「残念だけどお前と同い年だ。いいから、黙れ。そんで川平、さっさと答えろよ」
 菅原先輩が川平先輩を急かすことで強制的に藤巻先輩とのやり取りを終えたので、ほっとする。藤巻先輩は菅原先輩にも、川平先輩にもまだ言いたいことがあったようだが、菅原先輩のおかげでうっとうしいという小言だけで済んだ。一触即発になりかねない雰囲気だ。必要以上に神経を使ってしまう。
 ようやく落ち着いた空気になったところで、川平先輩がさっきよりもはっきりした声で語り始めた。
「僕も、呼び出されたんです。時間は菅原君と同じだったけど、場所は一階だった。テスト終わってすぐに自習室に行って、お弁当もそこで食べた。三時になる直前までそこにいたかな。約束の時間だと思って、すぐに一階に行って……」
「先輩、じゃあアリバイはどうですか。先輩が自習室にいたって証言できる人が欲しいんですけど」
 一応、筋の通った言い分だし疑うのもどうかと思うが、やはり承認というのは必要だ。
「自習室に何人か生徒がいたけど……名前とかは分かんないや」
 確かに、それは当たり前だ。僕も何度か自習室には行ったけど、元々そこまで人数はいない。テスト期間中で少しは多かったかもしれないけど、それでもそこまでの大差は生まれないだろう。そんな少数の中に顔見知りがいる可能性は少なく、いたとしても気まずくなるのでどちらかが出て行ってしまうのがオチだ。
 しかもこういっては何だが、川平先輩の場合は、顔見知りというか、友達というものがあまり多くいそうには見えない。状況が不利だ。可愛そうだけど先輩もアリバイは無しだ。まあ、よく調べてみたらこの疑いは晴れそうだけど。
 後ろを向き彩原に、次に行くよと合図を送ると頷きで返された。
「じゃあ最後、藤巻先輩、お願いします」
 予感的にこの人が一番厄介そうな気がするのだけれど……。
「めんどくさいなぁ。まあいいわ。アリバイなら、私はこのお二人と違ってちゃんとあるしね。私はテストが終わって一旦家に帰ったの。友達と一緒に帰ったから、アリバイはあるわよ。家までそこまで遠くないのよ、自転車で十分くらい。二時四十分ごろに家を出て、五十分頃に着いたわ。私も呼び出しの方法は二人と同じ。ただ場所は四階だった。言っとくけど、アリバイはあるわよ。家に帰ったのは友達が見てるし、家の電話で別の友達と一時間くらい喋ってもの。少なくとも、二時半ぐらいまで」
 これは意外な結果だな。この方もアリバイというアリバイはないんじゃないかと思っていたのだが、結構しっかりとしたアリバイがちゃんとある。もちろん後で確認はするが、ここでそんなすぐばれる嘘をつくとも思えない。信じて支障はないだろう。
「二時半に会話が終わって、直後に自転車で来れば十分ほどでここに着ける。ということは、あなたの場合、約二十分ほど空白の時間ができますね」
 彩原の声で一気に冷静になる。ああ、そういう可能性もあるか。少しこじつけてるようにも思えるが、可能性としてないことはない。いやどちらかというともし彩原の言うとおりなら、彼女はアリバイ工作をしていたということになる。世の中、何か工作をしなければならない人間なんて一種類。何か知られたくないことを持った人間だ。
「…・…いけすかない後輩ね。教育がなってないんじゃないの、女王陛下」
 彩原の言い分に腹が立ったのだろう、その後輩の指導者である春川先輩を睨みつけた。しかしながら女王陛下こと春川先輩はそんな安い挑発に乗るような人ではない。
「私はこの子たちに教育なんかしてないわよ。教育なんて必要ないほど、優秀だから」
 そう言うと隣にいた彩原の頭をなでようとする。もちろん彩原はそれを払いのけた。嫌がったのではなく、照れくさかったと推測したほうがよさそうだ。
「ふぅん、優秀ねぇ。じゃあ先輩に対する態度くらいちゃんとできるでしょう?」
「分かってるでしょうね。そんなことをいうなら藤巻、あなたこそでしょう。人が話している最中に化粧をするなんて、常識が欠けている証拠よ。違うかしら」
 春川先輩の異の唱えようの無い反論に藤巻先輩は下唇を噛み、何故だか知らないが今度は僕を睨みつける。
「この頼りなさそうな男の子は何なのよ。さっきから同じ質問ばっかりして、あんまり役立ってるようには見えないわ」
 思わず俯いてしまうほどの的確な指摘だった。それはさっきから僕自身がずっと思っていた事で、他人から言われるとなおのこと傷ついてしまう。しかし反論の仕様もないのでまた情けないなと思っていたら、何かがぶつかる大きな音が机上で鳴ったので、思わず顔を上げた。
 藤巻先輩の前にはゆっくりと回転しているチェスの駒、白いポーンがあった。彼女はそれを信じられないという目で見ている。
「あんまり私の後輩の悪口を言うもんじゃないわよ。今はずしたのはわざとよ。今度は、当てるわ」
 投げたのは言うまでもなく先輩で、誰もがそれを信じられないでいる。全員がまるで時が止まったかのように静止していたが、藤巻先輩の机を力いっぱい叩く音で我に帰った。彼女はそのまま悪態を着きながら席から立ち上がり、図書準備室から出て行った。
 そんな彼女の行動を黙って見ていた川平先輩と菅原先輩も挨拶もしないで準備室を出た。僕と彩原と先輩だけになった準備室には今まで感じたことの無い静寂が横たわっていて、誰も口を開こうとはしなかったのだが、しばらくして彩原が拍手をしだした。
「見事ですね、あの切り替えし。見惚れましたよ」
 彩原の褒め言葉に先輩は唇をほころばせた。
「あなたたちの悪口は聞いていて気持ちいいもんじゃない。咄嗟にポケットに入ってた駒を投げちゃってたわ。褒められて嬉しいけど、あれは失敗ね。今後の捜査の邪魔になると思うわ」
 先輩の懸念を彩原の首を横に振ることで切り裂く。
「いいんですよ。あの人たちからはあれだけ聞ければ十分です」
「そのことなんだけどさ、本当にあれだけでいいの? もっと深く調べた方がいいじゃないかな」
「あれ以上質問したって無意味だよ。どうせ嘘をつかれたり、はぐらかされたりするだけだ。余計な情報で混乱するより、最低限必要な情報を整理するほうが効率いい」
 基本的に頭を働かせるのは彩原の仕事なので彼女がそれでかまわないというのなら、僕がこれ以上言うことはないのだが、やはり不安が残る。余計であれ何であれ、情報は少しでも多いほうがいいのではないか。その情報が必要最低限なのか否かは、それこそ事件が解決しないことには分からない。
 このくらいのこと、彩原なら心得ているはずなんだけど……。どうも今回は様子がおかしい。
「にしても先輩、こういっちゃあ何ですけど、あの三人はクラスじゃういてるでしょう?」
 質問をしながらずっと思っていたことを口に出すと、先輩は複雑そうな表情を浮かべながら頷いた。
「問題クラスの中の、問題児。異端の中の異端ってところね」
「先輩のクラスって、何か問題なんですか」
「外見は何ともないわ。どこにでもある普通のクラス。ううん、中身もそんな特別じゃない。明るい子もいるし、暗い子もいる。頭がいい子もいれば悪い子もいる。人気がある子がいれば、無い子もいる。確かに特別じゃない。けど、私からすればあんなクラスは初めて。今までずっと、もう小学生との時からクラスの代表っていうのにはなってきてるから会長とかは慣れっこなの。けど適当に仕事をするのはいやだから、それなりにいいクラスにしようとしてきたわ。イジメをなくしたり、教室で一人の子に友達を作ってあげたり、クラスをまとめたり、ずっとそうしてきた。そうできてた。けど、高校三年、最後の最後で何故かどうもうまくまとまらないクラスに出会った。イジメもあるし、問題児もいる。そして中々まとまらない。私としては初めてのことばっかりで、問題なのよ」
 この先輩が手におえないとは、かなり厄介なクラスだな。先輩の指導力は図書委員なら誰だって知ってる。自分でできることは全て自分でして、助けがいるときは無理やり手伝わせるんじゃなく、委員会で召集を呼びかけて手伝いたいという意思のある人たちだけあつめる。もちろん他の委員にもちゃんと仕事を与える。
 後輩たちには優しく厳しく。仕事については少し口うるさいが的確なアドバイスをさりげなくしてくれるし、仕事に関係のないプライベートなでも困った後輩がいたら助けている。先輩にテスト勉強を付き合ってもらったおかげで留年を免れたという二年の先輩もいる。
 こういう性格や行動力から多くの人から慕われていて大人気。そのカリスマ性や統率力は素晴らしく彼女のファンも少なくは無い。彩原だって彼女のファンの一人だ。しかもかなり根強い。
尊敬さえしている。この頑固者を取り入れてしまうのだからすごい。
 そんな彼女の力を持ってもまとめられないとは……。
「それで先輩、なぜあの三人は容疑者なんですか」
 彩原がまるでさも当然のようによく分からない質問を先輩に浴びせたので、僕は耳を疑った。質問の意味が良く分からない。なぜあの三人は容疑者なのか。一体、どういうことなんだろうか。
 僕が質問に理解できずに混乱しているにも関わらず先輩は顔色一つ変えなかった。
「流石ね、ナナ。私の期待以上の頭の回転だわ。あなたが言いたいのはつまり、どうしてあの三人が自らあの時間帯に学校に呼び出されたと告白しているのかってことよね。そして、どうして彼らは手紙の指示通りに動いたのか。違うかしら」
 先輩の解説でようやく彩原の意図が分かった。あの容疑者の三人は手紙で呼び出されたと証言して、その手紙に言われたとおり行動したらしい。けど差出人も書かれていない手紙に何故彼らは従った? 川平先輩はともかく、菅原先輩と藤巻先輩はそう簡単に人の命令を聞くような人ではないだろう。
 そして従ったとしてどうしてそれを公言しているんだ。黙っていれば隠し通せるかもしれない。そうすれば容疑者になることも無かったじゃないか。
「違いません」
「ふふ、簡単なことよ。彼らは手紙で呼び出されたわ。けどそれはただの手紙じゃなかったのよ。菅原君の手紙には彼がタバコを吸っている写真が、藤巻さんのには彼女が援助交際をしているときの写真、そして川平君には彼が万引きしているところの写真。手紙の最後には、指示に従わなければこれをばら撒くって書かれていたらしいわ」
「脅迫ですか」
「そう。川平君以外の二人は今度問題を起こしたら退学にするって言われてる。だから写真を表に出すわけにはいかない。川平君は今、推薦入試で大切な時期。こんなときにそんな写真が出回るのは避けたい」
 なるほど、そういう裏事情があったわけだ。ここまでいわれると名乗り出た理由も分かる。もし手紙の主が彼らを呼び出したことを何らかの形で公言したなら、彼らは事件のあった時間に学校にいたことが知られる。もし隠していたなら逆に疑われるので、素直に白状した。そんなところだろう。
先輩がこの事実を知ってるってことは、きっと先輩も彩原と同じ疑問を抱き、そして彼ら三人に確認をしたんだろう。先輩ならきっと最悪の場合を想定できるだろうから、きっとこっそり確認したに違いない。ということはこれは秘密事項。あまり口には出してはいけない。
「…・…やっぱりこの事件は私がするより、あなたがしたほうがいい。適材適所とあなたはよく言っている。なら、この事件を解決するのは私じゃない」
「だから言ったでしょ、私はクラスメイトを疑うのは嫌なのよ。本調子じゃないのに調べても、本当のことを掴める自信はないの。そんなんじゃ役に立たないわ。けど、あなたならいける。適材適所、これはわたしのモットー。この役回りはあなたにぴったしよ。いいや、違うわね、あなたにしか出来ない。私はそう思ってる、だからこそあなたたちにお願いしたのよ」
 彩原がまだ何か言いたげ再び口を開いたが、それを自ら閉じた。彼女としては何か納得できないことがあるんだろう。確かに先輩は優秀な人だ。事実、彩原と同じ疑問を抱きそれの答えをすでに持っていたりする。こんなんじゃ彩原が捜査するより先輩が動いたほうが早いと思うのは当然だ。そう思うからこそ彩原は先輩に捜査しろと言っている。けど先輩の言い分も理解できないことは無い。
 彼女は良き指導者だ。それに疑いの余地は無い。けどそんな人だって、自分が仲間と思っている人たちを疑うのは気が重いのだろう。
 机の上に転がっていた駒を手にとって、彩原がまじまじとそれを見つめる。
「まあ、いいです。引き受けたからにはちゃんとやります、ちゃんとね」
 何故だか彩原がちゃんとの部分を強調する。
「じゃあ容疑者の次は被害者ですね。宮田先輩に会いたいんですけど……」
 彩原が駒を先輩に投げて渡すと彼女はそれを見事にキャッチして、ポケットにしまった。
「抜かりは無いわ。もう約束はとってある。明日の昼休み、またここに来て頂戴。どうも放課後は忙しいみたいなの」
 部活動でもしてない限りほとんどの時間が暇と化す放課後だけど、流石に生徒会長ともなると役員の仕事も大量にあるんだろう。事件の捜査とはいえそれに支障を出すことは避けないといけない。変に問題となると事件が外に漏洩する原因ともなりかねない。
 不安が一つだけあり、僕はそれを思わず口からこぼしてしまった。
「今日の三人みたいな人じゃなかったらいいんだけどな」
 それを聞いた先輩は小さく笑って大丈夫よと言ってくれた。
「安心して。人気と人望で生徒会長になった人なのよ。問題児じゃないわ。それにふざけてるかと思えば、思わぬところで真剣になる。そういう切れ者の素質もあるわ。人としてできてるし、今日みたいに困ることもないと思うわ」
 先輩がそこまで言うのだから安心できる人なのだろう。どうせ対応はするのは彩原になるだろうから、僕はさほど関係ないのだが面倒な人だと彩原が僕に任せる可能性もあるのでこれだけ確認できれば安心は出来る。一応、宮田先輩の顔は知ってるのではっきりとはしないものの親近感はある。成り行きでどうなるか分からないが、今日みたいに緊張しながら会話を続けるようなまねはしなくてすむだろう。
「これで今日の仕事は終わりですね。それじゃあ私は帰らせてもらいますよ」
 そう宣言すると彩原はすぐに自分のカバンを肩に提げて、準備室から出て行こうとした。彼女がドアノブを握ってまわそうとしたところで先輩が彼女に、ちょっと待ちなさいと声をかけたのでドアノブを放して先輩のほうを振り返った。
「今日の質問でどのくらい推理できそうかしら。というか、犯人の目星はついたの?」
 例えるなら依頼人が探偵にする現状報告の催促だ。彩原はしばらく先輩を見つめ、小さく頷いた。
「大雑把ですが予想はついています。明日で犯人を絞り込めるかもしれません」
 今日のあの簡潔な質疑応答だけでもう彼女の頭の中では論理が組みあがり、犯人が絞り込めるほど推理できてるというのか。あいかわらずの頭脳明晰さに呆気にとられてしまうものの、やはりすごいと尊敬しなおす。しかしながら犯人が絞り込めるかもしれないという報告に僕は喜んでいるものの、彩原自身はあまり嬉しそうには見えない。
「流石ね。期待して待ってるわ」
 先輩が右手の親指を立ててそう褒めたものの、彩原はとくに表情を変えることなく小さく頭を下げて帰っていった。
「さあ楠野君、ナナにも振られたことだし、どうせこの後小泉君を待つので暇でしょう?」
 振られたという言葉を否定したかったのだが先輩が何か嬉しそうな顔をしながら、チェスの駒をちらつかせるのがいやな予感をさせて、言葉にはならなかった。
「ちょっと先輩の道楽に付き合いなさい。言っとくけど、これは委員長命令だから」
 先輩のチェスの腕は半端ではない。勝てないと分かってる勝負をするのは楽しいことではない。けど蛇に睨まれた蛙にできることは逃げ道を作ることでも、食べないでくださいと懇願することでもなく、そこに用意されたあるがままの定めに従うことだけなのだ。
「ほら、座りなさい。やるわよ」
 蛇が牙をむき、蛙は腰が抜けたように用意された椅子に座る。


第四手【キングはその時を語りだす】


「朝からテンションが低いな」
 ウォークマンで音楽を聴きながらとぼとぼと登校していると、後ろから急にそう声をかけられた。声の主は分かっていたので振り向きもせず余計なお世話だと返答する。
「つれないな。朝くらいもっと元気にしろよ、友達が声かけてんだからさ」
 小泉はそう言いながら小走りで俺の横に並んだ。
「低血圧なんだよ。それに昨日色々あったせいで精神的に疲れてんの」
「何が疲れてるだ。昨日だって俺の家でゲームしてたくせに」
 痛いところを突かれたので何も言い返せない。昨日も結局、小泉の部活が終わるまで待って彼と一緒に帰宅して、そのまま彼の家で二時間ほどゲームをしたのだ。それでも疲れているのは本当だった。あの事情聴取の後、春川先輩のチェスに二時間ほど付き合い、頭が破裂しそうだったのをゲームで癒しただけにすぎない。
 何度もやっても勝てはしなかった。負け続け、少しくらいは手加減してくださいとお願いしても先輩は聞いて切れなかったので、もういいやと投げやりになってやっていると、チェスとは何たるかを長々と説教を食らってしまったので、余計に精神力を消耗することとなった。
「それより俺を見てくれ。何か気がつかないか」
「何だよ、それ。男にそういうこと言われてもテンション上がらないし、気持ち悪い」
「テンションあげたいならサイレンにでも頭下げろよ」
 彼の言うサイレンとは彩原のことだ。彼女のフルネーム、彩原七色。七色と書いて「にじ」と呼ぶあの名前をはじめて聞いた小泉が、なら彩原レインボー、略してサイレンだなと名づけたのだ。意外にも彩原本人は気にいっている、ナナイロやナナと呼ばれるのはあまり好きじゃないと公言しているのに、このあだ名を気に入るのはどうかと思う。
「あいつに頭下げても何もおこらないよ。おきたところでテンション上がらない」
「だな。気味が悪いだけだ」
 素直に同意できる感想に声を上げて笑っていると、また後ろから声が聞こえた。
「朝から悪口のオンパレードで光栄だよ」
 いつも切れ味の声が耳を通り抜けていったので、僕も小泉も笑うのをやめて互いに目を合わせて両手を挙げて、ホールアップのポーズをする。
「朝から何馬鹿をやってるんだ、君たちは」
 大きなヘッドフォンを首にかけた彩原が小泉とは逆の隣に並ぶので、二人に挟まれる形となった。
「見ての通り、ごめんなさい許してくださいってことだよ」
「安心したまえ。思春期真っ盛りの男子高校生の冗談のネタになることくらい気にはしないさ」
 彼女が気にしないと言ってもこっちが気にするし、彼女はこう言いながら中々根に持つタイプなので油断ならない。
「それより楠野、友人なら小泉の分かりやすい変化くらい見て分かってやれ」
「流石はサイレン、すぐに分かってくれたな」
 変化に気づいてもらえた小泉は非常に嬉しそうな顔をして、そんな彼に彩原が親指をたててサインを送る。何故か知らないがこの二人は妙に息が合うときがある。こっちから言わせれば彩原の注意力を持ってすれば、そりゃあ変化なんてすぐに見つけれるだろうが、僕はごく普通の平々凡々の男子高校生なんだ。
「竹刀だよ、竹刀」
 彼女がそう繰り返しながら小泉の抱えていた細長い、一メートルほどの布袋を指差した。それの存在にさえ彩原に言われるまで気づいていなかったので、流石に少し恥ずかしくなる。
「おお、やっと買えたんだよ。こまめに貯金して、ようやくだ。これで家でも思う存分練習できる。親にはこの前のテストの結果のせいで勉強しろってしつこく言われてるんだけどな、お構いなしだ」
「随分と練習熱心だな。うちの剣道部ってそんなに厳しいいのか」
 うちの高校は特別にスポーツで強いということは聞かない。県大会の惜しいところまで行くところはあるが、全国大会などはめったに出ない。そういう活躍する部活なら厳しいことを知ってるし、分かるのだが、剣道部の活躍はあまり聞かない。なので小泉がここまで練習に打ち込むのが少し不思議に思えた。
「まあ、去年まで適当だったらしいぜ、うちも。ただ去年の大会でさえ近くの高校に惨敗して、そこの連中に無茶苦茶言われたらしいんだ。それが悔しくてばねになったのか、今年からは先輩たちがすごく力を入れだして、その高校を打倒することで部が一つになってんのさ」
 そういう事情があったわけか。しかし小泉を含む一年生部員はその現場にいたわけでないから、そのばねになる悔しさがない。それにも関わらず隣の友達は滅多に部を休んだりはせず、練習に打ち込み、今みたいに自腹で竹刀を買い家でまで練習する気だ。ばねのないこういう一年生までやる気を出させる悔しさというのは、よっぽどのものなんだろう。
「敵がいると集団というのは一つになるものだ。マスコミで有名人をバッシングしているときの日本人なんかが良い例じゃないか。私はあまりああいうのは好きになれないが、もしどうしても自分にとって害のある敵がいるなら、きっとどんな他人でもいいから手を組んでそれと戦うだろうな」
 彩原の感想を聞きながら、最近やったテレビゲームのRPGの展開を思い出していた。最初は一人だった主人公が旅先で出会った他人と共に行動をともにし、いつの間にか仲間になっている。そもそも何故行動を共にするかというと、自分ひとりじゃ倒せない敵がいっぱいいるからで、目的達成のためだ。敵がいたから彼らは共にいたのだ。
「まあ、楠野のように毎日のんびり生きてるより、小泉のように生きがいがあって、毎日汗を流してるほうが男子高校生らしいし、きっと女子にはもてるだろう」
 小泉を褒めてるのか、僕をけなしてるのか。それとも同時にしてるのか。一番最後の正解だろう。
「おっ、サイレン、俺に気があるのか」
 小泉が目を輝かせて彩原に詰め寄るが、彼女はそんな彼にカバンをぶつけるとため息をついた。
「こういうところがなければの話だ」
 こんな会話をしながら学校まで行き、全員クラスが違うので廊下で別れた。よく三人で行動を一緒にするので、できれば二年では一緒のクラスになりたい。
 たとえ敵なんかいなくても、行動は共にしたいと思える。そう思うと何となく嬉しかった。

 昼休みになり手っ取り早く弁当を食べて、彩原と合流してまた準備室へ向かう。三時間目の休み時間に春川先輩からメールが来て、今日は参加できなさそう、ごめんねと謝られた。昨日みたいに修羅場になることがなければ先輩がいなくても大丈夫だろう。
「この事件、解決してどうなるんだろうか」
 廊下をてくてくと歩いていると彩原が突然そう呟いた。
「犯人をあぶりだして、真実を白日の下に晒す。探偵小説ならそれでいい。それが物語の意味を成している。けどこの事件は解決してもなんともならない。あの三人の中の誰かが犯人だった。その誰かが分かっても、誰が何をどうする?」
「相変わらずよくわかんないね。どういうことだよ」
「これが公の事件だったら、犯人が見つかれば身柄を押さえて、警察にでも渡すさ。けどこれはあくまで先輩のクラスだけの事件だ。罰も何もありはしない。それなのに、犯人を見つけてどうするんだ」
 彩原の説明でようやく理解する。確かにそのとおりだ。この事件には言わば『罪』だけが存在する。それに値する『罰』が用意されていない。本来、事件を解決するにあたりなくてはならないものが無いということだ。
「考えれば少しおかしくはないか。先輩から調査しろと言われたり、容疑者と呼ばれる人たちを事情聴取したり、これから被害者と会ったり。そしてそれらは犯人を見つけるためという。楠野、私の個人的見解を述べていいかい」
 上目遣いで同意を求めてくる。反対する理由も無いのでいいよと許可すると彼女ははっきりと自分の意見を表明した。
「この事件は、大げさすぎる」
 彼女の言葉に確かにそうだと思えた。彼女のさっきの言葉に出てきた単語。調査、容疑者、事情聴取、被害者、犯人。まるで誰かが殺されたみたいだ。僕らはあくまで普通の高校生、学生生活の間、あまり身近に感じる単語ではないものばかりだ。それが今は当然のようになっている。
 思えばけが人しか出てない。それは幸運なことだが、同時に彼女の言うとおりこの事件を大げさと表現するのに十分な要素になっている。
「問題は何で大げさになっているかだ」
「ああ、彩原、待ってよ。確かに君の言うとおりだけどさ、僕らが今すべきことは、解決した後のことじゃないんじゃないかな。僕らの今の問題は、解決することだろう」
 この言葉にどれほどの説得力があったのかは分からないが、彼女はしばらく足を止めて何か考えた後、また僕と目を合わせてきた。
「らしもくなく、もっともなことを言うな。君の言うとおりだ。まずは先輩の頼みを聞こう」
 ひどい言われようだが彼女の思考が別のところにとばなくて助かった。彼女が事件を解決することに頭をまわさなければ、この事件は終わらない。彼女が言う解決しても意味が無い事件でも、解決させないといけない。それは使命感でも正義感でもなく、単純にそれが先輩の願いだからだ。
 図書準備室に入ると、いつものテーブルに見覚えのある男子生徒が座っていて、ノートに何か書き込んでいた。僕らが入ってきたのに気がつくと、立ち上がって、こんにちはと清清しい挨拶をしてくる。
「君たちが彩原さんに楠野君か。知ってるかもしれないけど、僕が宮田壮一だ。以後、よろしく」
 さわやかな笑顔でそう挨拶をしてくる宮田先輩の頭には包帯が巻かれている。軽傷というわけではないようだ。先輩は僕と彩原に握手を求めてきたので、まずは僕がしておいた。その後に彩原と握手をすると彼女に向かってやさしく微笑む。
「君の話は春川からよく聞いてるよ。なんでも彼女と刺し違えたそうじゃないか」
 彩原が明らかにいやそうな顔をする。きっと宮田先輩は彩原と春川先輩のチェス対決のことを言っているのだろう。
「すごいじゃないか。僕もあいつとは何度か勝負したけど、全敗だよ。しかも惨敗」
「……すごくありません。ステイルメイトなんて、負けと同じです」
 ステイルメイト。僕もあの試合のあと、先輩から教えて貰った単語だ。一度は彩原にどういうものなのかと聞いたが、その時、彼女は不機嫌の最高潮だったのでうるさいとしか答えてくれなかった。ステイルメイト、これはつまり引き分けだ。ただ、普通の引き分けというわけではない。比喩するならば、最後の抵抗なのだ。
 はっきり言うと彩原は春川先輩に負けていた。先輩が言うにはいい勝負はしていたみたいだが、それでも先輩のほうが圧倒していたそうだ。先輩としてはもう少しでとどめ、チェックメイトをさせると思ってある一手をうたそうだ。その一手で彩原の動きを完全に止めるつもりで。
 しかしその一手のあと、彩原が先輩をにらみ付けた。とても悔しそうな目で、下唇かみ締めて。そして、彼女もまたある一手をうった。
 それがその勝負を終わらせた。先輩も全く予期していなかった一手。けどその一手のせいで先輩はチェックメイトがうてない状況に置かれた。チェスの百戦錬磨の先輩ですら、その一手のせいで彩原にとどめがさせない状況。なんとかできるかもしれないと今までに経験したことを全て思い出し、何か打開しようとしたが無理だった。
 けれど先輩が勝てない状況でも、彩原が勝てるわけではない。彩原が窮地だったのには変化は無く、彼女はのど元に突きつけられていたナイフを自分の手が傷つくのを覚悟で払いのけただけだ。そのナイフを奪い返し、先輩に逆襲するほどの力は残ってなかった。ゆえに勝負はこれで終わり。
 ステイルメイトとは、圧倒的に不利な状況を無理やり引き分けに持ち込むことだそうだ。
 以後先輩は彩原を唯一勝てなかった相手として彼女を認めているが、彩原は彼女自身がさっき言ったようにステイルメイトなど負けと同じと思っている。ただ敗北を形に残さなかっただけだと。
「僕はすごいと思うけどな。まあ、君がそう思うなら別に構わない。じゃあ話を始めようか。ああ、ジュースを買っておいたんだ。良かったら遠慮せず飲んでくれ」
 先輩が席に着く。たしかに先輩の前には缶ジュースが二本置かれていて、それを僕らに差し出してきた。どうしようかと一瞬迷ったが彩原がすぐに礼を言いながら受け取ったので、僕も後につづき、席に着いた。
「春川からは君らの質問に答えてくれと言われてる。ああ、君らに謝っといてくれと言われてたんだ。あいつは今、クラスのごだごだで忙しいんだ。勘弁してやってくれ」
「クラスのごだごだ?」
 彩原が聞き返すと先輩は神妙な顔で頷いた。
「君らも昨日会ったろう、菅原と藤巻。あの二人が突然きれちゃってさ、クラスの連中と揉めだしたんだよ。あの二人は容疑者になってから、クラスではかなり冷遇をされていたからね、我慢の限界ってやつだったんだろう。それで春川は今、それを治めてる。あいつも苦労性だね」
 あの二人が同時に怒り出したら、それはかなり厄介だろう。先輩も本当に大変だな。
「副委員長がそんな大仕事をしてるのに、どうして委員長がここにいるんですか」
 隣で爆弾発言がして、思わず耳を疑ってしまう。彼女はなんてことを言い出すんだ。先輩が怒り出すじゃないかと身構えていると、意外にも聞こえてきたのは豪快な笑い声だった。
「はは、物怖じもしないでそんなことが言えるなんて、流石は春川の切り札。君の言うとおりだ、僕は委員長としての仕事を果たしきれていない。そもそも僕が襲われたりしなければ、こんなことにはならなかった。クラスで揉めることも、君らが忙しくなることも」
「けど先輩、先輩は被害者なんだから仕方ないんじゃ……」
「どうして隠さなかったんですか。学校内で誰かに襲われたなんていったら、どうなるかくらい想像つくでしょう。そもそも先生たちと口裏を合わせるくらいならたとえ、クラスメイトであっても黙っとくべきです。ちがいますか」
 僕が何とか慰めようとしたのに、何故か横で先輩を攻撃しまくる。ああ、もうっ。
「彩原、いくらなんでも言いすぎだっ」
「……うるさいぞ、楠野。私はつまり、どうして問題が露見したかと聞いてるんです」
 言葉からとげが無くなり、彩原は黙った。受け取った缶ジュースを開けて、それを一口にする。
「僕も最初は隠すつもりだった。先生ともそう約束してたしね。けど、この頭の怪我を見るなりクラス中が大騒ぎになってさ」
 昨日の春川先輩の言葉を思い出す。人望と人気だけで生徒会長になるような人。きっとクラスでも非常に高い人気度を誇っているだろう。もしそんな人が大怪我をしていたら、そりゃあ騒ぎになってしまう。
「クラスメイトたちが次々に質問してくるのをなんとかかわしていたらさ、春川が言ったんだよ。君は昨日の三時まで会議をしていた、けど会議中になにかあったなんて聞いていない。ということは、会議後に何か言いにくいことがあったんだ。しかもいつも親しいクラスメイトに隠すほどの。学校の外で起きたことなら、とりたてて隠すこともないだろうが、隠すということは学校に関係するんじゃないかって」
 ここでも先輩の名前が出てくるか。クラスメイトの怪我を見て、友人たちからの質問に答えない先輩を見ただけでそこまで的確な推理が瞬時にできるなんて、やっぱり只者じゃないな。ふつうはそんなこと、想像も出来ない。何か言いづらいことなんだろうって解釈して終わりだ。
「そこまで指摘されたら、もういいかなって思ってしまった。けどそれだけじゃない。春川やクラスメイトが、何か力になるって言ってくれてね。それでつい口が滑った。まさか、こんなことになるとは思わなかったんだ……」
 クラスメイトの優しさに触れ、心を許しありのままを話した。そしたらクラスで犯人探しが始まって、至った結論がクラスの中に犯人がいるということ。それは先輩にとっても、クラスにとっても大きなダメージだろう。特に先輩みたいに人気の高い人が傷つけられると、その反動が恐ろしいことになる。
 そして今その反動は、クラスの中でバウンドし続けている。それは犯人が見つかるまで終わらない。
「……すいません、言い過ぎました」
 話し終えた先輩に彩原が小さく頭を下げると、先輩は首を横に振ってきにしなくていいというメッセージを送ってくれた。
「じゃあ、簡単な質問を始めます。時間は取らせません。まず聞きたいことは、犯人の顔です」
 彼女が何にかは分からないが、とにかく腹をたてていたのをようやく自重して質問に入ってくれたのはいいのだが、最初の質問から理解できない。
 犯人の顔って確か、ウルトラマンのお面で隠されていたんじゃなかったのか。それはもう会得済みの情報だろう。
「聞いてるかもしれないけど、情けないことに顔は覚えていない。ウルトラマンのお面をしててね、それは覚えてるんだけど、それしか覚えてない」
「ええ、それは伺っているんですが、お面だけですか。本当にお面しか覚えていないんですか」
 彩原がいやにしつこく質問するので、先輩も何とか思い出そうとしたみたいがだが、しばらく考え込んだ後、すまないと謝りながら首を横に振った。やっぱりお面のことしか覚えていないようだ。まあ、襲われているなんて非常識な状況の中で、そんなふざけたものが出てきたらそればかり記憶してしまうのも無理は無い。
 いや、犯人はもしかしたらそれを狙っていたのかもしれない。
「そうですか。では次です。犯人は着替えていたそうですね。それについて何かありませんか」
 犯人は犯行時、この学校の制服ではなくジャージを着ていたと春川先輩から説明されたことを思い出す。しかもそのジャージが先輩のクラスの教室から出てきたことで、容疑者が大幅に絞られたんだった。
「あのジャージは発見されてからよく見てるけど、特に何か思い当たる節はないんだ。クラスメイトが調べてくれたんだけど、どこにでも売っているものらしいしね」
「なるほど。では次に。あの容疑者の三人に恨まれていますか」
 ずいぶんとストレートに次々と質問をしていく。そこには遠慮のかけらもなく、逆に清清しい。
「恨みか。どうなんだろう。あの三人がクラスでういてるのは知ってるね。何度か風紀を乱すなって注意したことがある。ああ、これは菅原と藤巻だけだよ。川平はいじめられていてね、ぼくはクラスの責任者でありながらそれを止めれていない。それでうらまれているのも知れないが、いじめの仲裁に入ったことだってちゃんとある」
 つまり、恨まれるとしても逆恨みだ。そして逆恨みでこんな事件なんて起こすとは考えられない。川平先輩も守ってくれなかったと恨む可能性はあるけれど、あの人の性格上、とてもこんな荒っぽい行動に移すとは思えない。全くありえないってわけじゃないが、可能性としては低い。
 じゃあ、先輩は本人でも気づかないうちに恨みを買い、そして襲われた。けどこんなことまでされるってことはよっぽどのことだし、それを無意識でやったというのは少し考えづらい。
「……質問は以上です」
 どうやら彩原は得たい情報は全て聞き終えたらしい。彼女が立ち上がろうとしたその時、先輩が口を開いた。
「君なら可能性には気づいてるんじゃないか」
 立ち上がろうとした彩腹が動きを止め、目の前にいる先輩に目をやる。しばらくそのまま黙って見つめあったあと、今度は彩原が喋った。
「しょせんは可能性でしょう」
「けど、それこそが調査という以上、今の君たちに必要なものじゃないのかい」
 何か、先輩の雰囲気がさっきまでと違う。急に真剣になった。いやさっきまで子供っぽかったわけじゃない。普通だった。けれどどういうわけか彼の彩原を見るまなざしが変わっている。とても真剣に、だけどどこか哀れそうな視線を注いでいた。
「……失礼します」
 彩原は特に反論もせずそのまま準備室を少し暗い感じを帯びて出て行った。最後に先輩と交わした少ない言葉が何を意味しているのか僕には全く分からないが、いいことではないのは確かだろう。昨日春川先輩が宮田先輩のことを、切れ者の素質もあると評していたことを思い出し、もしかしていまがその状態なのだろうかと考えていた。
 宮田先輩は彩原の出て行く姿を見届けたあと、僕に目を向ける。
「君も何か僕に訊きたいことはないか」」
「一つだけ、失礼な質問になるかもしれませんがいいですか?」
 怒られるのを覚悟で訊いてみたい質問があった。
「苦労をかけさせてるんだ。別になんだって構わない」
 許可はでたもののやはり言いにくいのでしばらく黙ってしまったが、思い切って口を開いた。
「クラスのことに口出しするのはどうかとも思うんですけど、やはり言っておきたいです。春川先輩は委員長になるべきだったでしょう。あの人の指導力は誰だって知っている。もちろん先輩が無能ってことじゃないです。ただ先輩は先輩で生徒会長という重役をすでに背負っている。負荷が大きすぎます」
 僕が言いたいのは、それだけの責任をすでに持っている先輩に、春川先輩が何の気遣いもしなかったわけがないということだ。春川先輩ならきっと、大変だろうから私がやると言うに決まっている。それでも今現在、事実として春川先輩は副委員長だ。もし僕の予想が当たっていたなら、先輩が春川先輩の話を蹴ったということだ。
「……なるほどね。春川が送り込んだ切り札は、彼女だけじゃなかったわけだ」
 一人でそう納得するとゆっくり語り出した。
「君の言うことは惜しかったね。確かに今年の春、クラスでは僕か春川、どちらが委員長になるか問題になった。ただ君の予想と違うのは、僕は最初委員長になるつもりはなかったんだ。だから春川に任せようとした。彼女もそれを分かってくれていたんだけど……少し事情があってね。幸か不幸か、僕を委員長にという声が出た。それも相当数だ」
 やはり人気と人望はすごいんだな、この人。僕とはかなり遠い存在だ。
「けど同時に春川を推す声もあがった。この時からだね、クラスに完全なまとまりが消えたのは。結局、僕を推す声の方が多かったから委員長になってしまったんだ。けれど春川と裏方で話をした。クラス委員長の仕事は君は請け負えない分は私がやる。そして副委員長の仕事もすべて私がやる。そのとき春川がそう言ってくれたんだ。つまり今回の件でほとんどばれてしまってるだろうけど、事実上の委員長はあいつなんだよ」
 生徒会長ほどじゃないにせよ、図書委員長だって責任も仕事も他の生徒より圧倒的に多い。しかもそれに加えて先輩は自分のクラスの委員長兼副委員長もしてたというのか。それだけじゃない。あの人は困ってる後輩とかをほっとけない人だ。全然自分と関係ない人を助けたりもする。僕だってテストでお世話になったばかりだ。そしてこういうのは僕だけじゃない。
 先輩のそれら全てをあの一身で受け止めていたというのか。耐えきれない量じゃないかもしれないが、つらくないわけない。この準備室に毎日籠もっていて、姿を見るたびにチェスをしているかそればかりしていると思っていたがきっと違う。
 ノックやそれに近い音で準備室に誰かが入って来そうと分かったら、すぐに仕事を中断しているんだ。そしてチェスをやっていたかのように振る舞っている。僕たちに変な気を遣わせないために。
 あの人ならこれしきのこと、軽々とやって見せるだろう。
「言ってるだろう、あいつは苦労性さ。君がそんなに辛そうな顔をすることはない」
 先輩の言葉にはっとする。今自分がどんな表情でいるか想像する。きっと悔しがってるだけの無力な表情。
「すいません、変な話をさせてしまって」
 頭を下げて謝ると気にしなくていいからと気さくに言ってくれた。
 その後、少しだけたわいもない話をして僕は準備室を後にした。先輩は生徒会の仕事をここでやってしまうらしい。施錠だけは気をつけてくださいと注意を促しておいたが、全く心配はしていなかった。あって間もないが、あの人を十分に信用していた。
 教室までの帰り道の途中で、前方から見覚えのある顔が二つ並んで歩いてきた。ワックスでとげとげに固めた髪の毛が特徴の菅原先輩と、昨日は長いくるくる巻きのツインテールだったのを今日はただのロングヘアーにしている藤巻先輩だ。
 昨日はあれだけ仲が悪そうだったのに、今日はなにやら意気投合して話していた、話していると言っても二人とも表情で怒っていることが分かったので、きっとクラスメイトや春川先輩に対する愚痴だろう。
 二人がここにいるということは春川先輩が話をまとめたみたいだ。それは丁度いい。放課後、一人であって話したいことがあったので放課後まで話がもつれ込んでいたらどうしようかと心配していたのだ。
 二人は僕に気がつくと一緒に睨み付けてきた。四つの鋭い眼光の的となりながら、軽く会釈をして何事もなかったかのように通り過ぎる。すれ違う時にはっきりと舌打ちがきこえた。
 しばらく歩いたところでとまり、振り向いて離れていく先輩たちの背中を見つめる。あの人たちのせいで先輩は苦労を強いられているんだと思うと、その背中が憎くて憎くて仕方なかった。 


第五手【クイーンは宣戦布告を受け入れる】


 昼休み以降、彩原とは会っていなかった。彼女はきっと情報を頭の中でまとめ推理するのに集中しているだろうから、変に関わりに行っても迷惑になるだけだろう。僕としてもできれば彼女には聞かれたくない話を春川先輩にしたいので一人で本日二度目の準備室へ向かった。
 途中、小泉とすれ違い軽い会話をした。今日からは自分の竹刀で練習できるから、すこし張り切るのできっと部活のあとは疲れていて遊べないという旨を伝えられた。
「それは構わないが、気をつけろよ。仮にもこの間まで怪我をしてたんだから」
 そう釘を刺すと彼は大丈夫だと笑い、怪我をしていたという右の手首を勢いよく振ってみせた。テスト期間中はこれが原因でよく騒いでいたくせに、治ったらこれだ。喉元過ぎれば熱さ忘れるとは、まさに彼のための言葉だろう。
「俺の心配をしてくれるのはありがたいけど、お前も何か浮かない顔してるぜ。そういやサイレンもなんか暗い感じだったな。朝とのテンションの違いに驚いたぜ」
 昼休みの宮田先輩とのやりとりで、最後に先輩にかけられた言葉で彩原の表情が変わった。未だにあの会話が何を意味していたか分からないが、もしかして彼女がそんな状態になっているのはそのせいなのかもしれない。
「そうなのか。……そうだ小泉、また今度でいいから三人で飯でも喰いに行こうぜ」
 この事件が終わって気持ちが晴れたら、少し騒ぎたい。そんな気持ちで提案すると彼はいいねいいねとはしゃいでくれた。
「竹刀で小遣い使い切ってしばらく金ないけど、貯まったら行こうぜ。親はテスト以来、なんか頼める状況じゃないからさ」
「それは俺も同じだよ」
 二人で声をそろえて笑い、その後別れた。図書室に入り、しずかに準備室へ近づいた。先輩が今仕事中ならば邪魔をしてはいけないという感情ではなく、本当に仕事をしているのかという確認だった。
 音を立てないよう細心の注意を払いながら、準備室へ入る。するとそこに先輩の姿は見えなかったので、一瞬混乱した。いつもはここでチェスをしているのに。テスト期間中でさえここに籠もる人が、なぜ今日に限って……。
 そんなことを考えていたら、急にテーブルの下から先輩の顔だけが見えて、わあっと声を出して驚いてしまった。
 そんな僕を先輩はくすりと笑う。
「そこまで驚かなくてもいいじゃない。ああ、それと楠野君、ノックを忘れてるわよ」
「あっ、すいません、つい忘れちゃいました」
 咄嗟の嘘はばれなかったようで先輩は素直に謝ると、頷いてすぐ許してくれた。そしてまたすぐに顔をテーブルの下へとやる。
「先輩、何してるんですか」
 テーブルへと近づきながら率直な質問をするとまたすぐに先輩が顔を上げて、そして右の手のひらをさしだしてきた。そこにはビーズのようなもので作られたピアスが一つだけ乗っていた。
「片方ね、どこかで落としちゃったみたいなのよ。それで今探してるの。けどもういいわ。きっとここじゃないと思うし」
 そういえば先輩はピアスをしていた。ただ二週間前にお気に入りだったロングヘアーをばっさりと切って短髪になったせいでそれ以来はしていなかったんだ。先生にばれると怒られちゃうからと。
「友達が誕生日の日に手作りのをくれたのよ。大切にしてたのに……」
「そうなんですか。なんなら僕も手伝います」
 そう意気込んで床を探そうとしたら、先輩に止められた。
「いいって言ったでしょう。それに私はピアスより、あなたの方が気になるわ。そんな暗い顔して……」
 先輩がゆっくりと僕のほおを撫でた。あまりにも照れくさいので、そっと後ろへ下がりその手から逃れる。
「……そんな暗い顔して、ナナも連れてこないってことは、何かあの子には聞かれたくない話でもあるんでしょう?」
 お見通しというわけだ。騙すつもり隠すつもりもなかったが、表情と僕が一人で来たということだけでそこまで分かられると少し恐ろしい。
「相談にならのるわ。知ってるでしょう? 私は結構頼りがいのある先輩よ」
 そう言って自分の胸をとんと叩くと、優しくほほえんだが、すぐに真顔になって椅子に座るように薦めてきたので、言われたとおりにする。
「それで、どうしたのかしら?」
 先輩に何かを相談するのは別のこれが初めてという訳じゃないのに、とても緊張している。鼓動の音が大きくなって、心身を揺らす。口の中に渇きを感じ、ごくりとつばを飲んだ。
 ずっと感じていたことではあった。実際に他人から指摘もされた。それでも先輩や彩原が何も言ってこないので自分を許していたが、今日の昼休みに痛感した。
「先輩……僕はいりますか」
 やっとこの調査を始めてから思い続けていたことを吐露できた。先輩は僕の言葉に、よく分からないわと言うように、両手を肩くらいの高さまで上げて見せた。
「昨日の三人の事情聴取……いや、もっと言うなら先輩から事件の内容を聞かされたときから、僕はついていけていなかった。先輩の言う言葉や、彩原の質問の意図さえ理解できない場面がありました。思えばあのときからです」
 一度言葉にしてしまえば、それは止めどなく僕の口から流れ出た。それほど僕の中でこの感情あふれていて、のど元あたりまできていたんだろう。自重さえできそうにない。
「状況を理解できていたのはいつも彩原だけでした。そんなの考えてみれば当たり前です。僕があいつと並べるわけがない。こんな言い方したくないけど、あいつは特別です。そして、それは先輩もです。あなたち二人の会話に僕は時々追いついていなくて、いつもどちらかのアドバイスやヒントでなんとなっています。けどっ、それって必要ですか」
 自分で言っておきながら、情けなくなり、恥ずかしくなった。それでも言葉は止まらない。
「昨日の事情聴取はまだ役に立っていたかもしれません。けど実際、あそこから得た情報で推理するのは彩原です。そして僕が聞き出した情報なんて、先輩ならすぐにでも手に入れれた。事実、あの事情聴取で不透明だった部分は先輩が教えてくれましたっ……そしてそれを使って推理するのは、またあいつです」
 ところどころで感情的になって語尾が強まってしまう。先輩に怒っているわけでも、彩原に嫉妬しているわけでもない。役に立てない自分がどうしようもなく憎くく、それを認めている自分がまた嫌だ。
「今日の昼休みなんて、僕は話を聞いてるだけでした。そんな奴、必要ないでしょう……。先輩、どうして僕を彩原と組ませたんですか。僕はあいつの足手まといになるのなんて、ごめんです」
 ようやく、最後の最後に言いたかったことを言えた。言いたかったことは、これが全てで緊張から解き放たれたせいか僕は荒い呼吸をしていた。なんとかそれを整えようと、胸に手を当てて小さく深呼吸をする。
 先輩は僕の本音を目をつむりながら聞いていた。そのときには相づちもなにもしなかった。邪魔はせずに僕の気が済むまま言わせてくれたのだろう。少しすると、なぜか知らないが唇をほころばせた。
「なんだ、そんなことを気にしてたの」
 思いがけない発言に、思わず目を見開いてしまう。
「そ、そりゃあ先輩にしたらどうでもいいことかもしれませんけど――」
 たまらず反論しようとしゃべり始めたら、先輩は手のひらを僕の目の前に持ってきて、静かにしなさいと動作で表した。
「あなたが言いたいことくらい分かるわ。そうね……少し待ってて」
 椅子から立ち上がると先輩は準備室の奥へ行き、そこにある本棚の上に置いてあるものを背伸びをしながら取り出した。図書委員なら先輩がそこに何をおいてあるかは皆知っている。チェス盤だ。
 盤をその辺において、次は本棚の中央あたりにある二つの引き出しの一つから駒が入った箱を出し、そしてそれを手にしてまた椅子に座った。
 そして黙々と白と黒の盤の上に、黒白の駒たちを丁寧に並べていく。そしてできあがると、さあと語りかけてきた。
「さあ、楠野君、ここで質問です。ここから排除していい駒はどれでしょう?」 
「排除って、つまりいらない駒ってことですか」
 こくんと笑顔で頷く。そこまでチェスに詳しいわけでないので、そんなことを急に言われても分かるわけない。それでも答えないと会話が進みそうにもないので、なんとかして頭をひねってみる。
 チェス盤には六種類の駒がある。一番有名なのが、十字架のついた王冠の形をしたキング。そして王冠だけをしているクイーン。ハートマークをひっくり返したような形のビショップに、塔や城のような形をしているルーク。馬の頭の形をしたナイトと、球体のポーン。
 キングは絶対に排除していいはずがない。チェスはキングを殺すか、守るかというゲームなのだ。そして他にクイーンも駄目だろう。一つしかない貴重な駒だ。そしてナイト、ビショップ、ルークも二つしかないもの。
 そうなるとやはり残るは、ポーンだ。八つもあるし、動きが限られている駒だ。
「……ポーンですかね」
 そう答えると先輩は、さらに微笑みを増した。
「なるほどね。けどポーンと言っても色々あるわよ。どのポーンかしら?」
「どのって……どれも同じじゃないですか。どれでもいいですよ」
 ポーンに違いなどなく、ポーンはポーンでしかない。しかし先輩はこの回答に首を横に振った。
「やっぱりそう答えたわね。じゃあ、正解を教えてあげましょう。正解は、ありませんっ」
 急に語尾を強めるものだから驚いてしまって、肩を揺らした。
「ありませんって、存在しないってことですか」
「ええ、その通り。ここにある駒は全部欠けてはいけないわ。ポーンでもなんでもそう。」 先輩はポーンを二つ手に取ると、それを僕の目の前に突き出した。なんの変哲もない駒。二つの駒に違いなどはない。
「見た目に違いはない。けどゲームの進め方によって、今は同じ駒が、全く違う動きを見せるの。全く同じでも同じじゃない。何の変哲もないようで、実は摩訶不思議。ポーンっていうのはそういう駒なのよ。だからこれを理解してないとチェスはうまくできない」
 僕は将棋の歩でもあまり慎重には扱わない。王手を打つために何とか道を開こうと適当に駒を進めるだけだ。駒を無駄にしてもいいとさえ思っている。代わりなどいくらでもあるのだからと。
 しかし先輩はそうではないと言っている。
「私がチェスを好きな理由は、それぞれの駒の役割がちゃんとあって、それを明確にしてるから。だって現実はそうじゃない。自分の役割は自分で見つけなきゃいけない、生み出さないといけない。なんか格好良く言ってるけど、これって超がつくほど面倒よね」
 先輩はそう言うとポーンを盤に戻した。
「私がこの調査をお願いしたのは、楠野君しかできない役割があるって思ったから。けどそれを全うするのも、それを見いだすのもあなたよ」
 駒に比喩されるというのはあまり気持ちのいいものじゃないが、先輩の言葉で僕は妙な空想に浸れていた。僕の足下には白と黒のチェス盤の地面が広がっていて、僕の隣には他の人たちが立っている。
 それぞれが勝手に動くとただの混雑となるが、規律を正し、順序などを決めると驚くほど順良に物事というのは進んでいく、何事もだ。
「僕にしかできない役回りがあるってことですか」
「断言はできないわ、私は神様じゃないもの。けどあるかもしれない。ない可能性だってある。もしかしたらない方がいいのかもしれない」
 ない方がいいっていうのは、やっぱり邪魔と言うことではないのか。内心そう思っていると、それを見透かしたように先輩は首を横に振る。
「可能性よ、可能性。ある方がいいって可能性だってあるの。どうなるかは私だって本当に分からない。ただね楠野君、これだけは断言できるかも。私はナナの頭脳をかってこの依頼をしたわ。けどきっとナナは自分に依頼されたんじゃなく、自分たちに依頼されたんだと思ってる。だからこそ、あなたが側にいることを何とも言わない。あの子の性格なら邪魔なら邪魔っていうわ。ただ、必要なら必要と言わないの」
 あいつは確かにはっきりと物を言う。先輩たちに事情聴取をしている時でさえ、何の物怖じもせず、ずばずばと先輩たちに斬りかかった。遠慮がないのでなく、度胸がありすぎる。そして必要ならば、何事も厭わない。
「ふふ、じゃあ結論を出しましょう。楠野君、あなたはいる。以上よ」
 まだ心の中に曖昧模糊な何かが残っていたのだが、先輩の励ましの言葉というか論理のような物と、外連のない笑顔でだいぶ心が晴れていた。少なくとも僕が一番気にしていた彩原の件だけは心の整理がついたので、それがなによりよかった。
「ありがとうございます、先輩。お礼になるかどうか分かりませんけど、一局付き合いますよ」
 僕のお礼の誘いに先輩は目を輝かせた。どうせ相手にはならないだろうが、先輩はチェスができること自体がうれしいと感じる人なので、こんな雑魚でよければ相手になろう。 今から対局を始めようかと思っていたときになって、急に準備室の扉がノックされた。先輩ががっくりと肩を下げて、どうぞと扉の外側へと声をかける。するとすぐに見覚えのある顔が入ってきた。
 彼女は部屋に入るなり僕の姿を確認すると、わざとらしいくらいに深いため息を吐く。
「楠野、ここに来るなら言ってくれ。無駄に探したぞ」
 彩原は少し怒りながら扉を閉めた。どうやら僕の姿が見えないので探していたらしい。
「ああ、ごめんごめん」
「心のこもっていない謝罪なだな。まあいい」
 彩原とのやりとりをみていた先輩が、ほら見なさいと口パクで言っているのが分かった。嬉しくてうなずきで返すと、そんな僕たちを彩原が怪訝そうに見てきたので、二人でなんでもないという様に誤魔化しておいた。
「それでナナ、あなたは一体何の用かしら」
「……調査の報告です。容疑者が絞り込めました」
 彩原がいきなりそんなことを言い出すから、持っていた駒を盤の上に落としてしまう。ただ驚いたのは僕だけのようで、先輩は非常に落ち着いていて返答も、そうという一言だけだった。まるで最初から分かっていたかのように。
「流石はナナ。じゃあ聞かせてくれるかしら、あなたの推理を」
 当然のようだがチェスの試合は本日中止。これからは彩原の推理を聞かないといけない。
 彩原は椅子には座らず、そのまま立って話し始めた。
「まず容疑者から外れるのは、藤巻先輩です」
 彼女の言葉で昼間すれ違ったロングヘアーの藤巻先輩の姿を思い出す。確か犯行時間の少し前まで自宅にいて、そこまではアリバイがある人だ。容疑者の中で一番信頼できるアリバイを持っていた。
「発見されたジャージ。犯人はジャージを着て犯行に及んだ。けどどうしてジャージに着替えてるんでしょうか。顔を隠したのと同様、見られてまずいからでしょうか。納得できないという訳じゃありませんけど、ここは高校で生徒は皆同じ制服を着ているんです。たとえを服を見られても、犯人特定には至りません。じゃあ、なぜ犯人はジャージを着たのか。ようは制服でも犯人が分かってしまうから、と私は考えました。制服で分かるものなんて数が限られています。しかも制服を着替えなくてはいけないほどの大きな物。……それは性別です」
 彩原の推理ではっとする。ジャージに着替えているところなんて特に注目していなかったが、確かにその通りだ。制服じゃ特定はできないが、男女かどうかならはっきりと区別できる、しかも一目で。
「写真付きの脅迫状を送りつけた人間と、この事件の犯人が同一人物であるならば、脅迫状の主もあの三人の中にいる。つまり犯人の狙いは容疑者を絞れても、一人に特定させないこと。しかし、あの中で唯一藤巻先輩は女性です。もし彼女が犯人なら、制服を隠さなければいけなかった人間として特定されてしまう。犯人がそんな分かりきったミスをするはずがない。もし私が犯人なら自分と同性の人間を容疑者の中に必ず入れます」
 容疑者の三人のうち女性は一人。制服の推理だけで彼女は黒色へ限りなく近づくことになる。彩原の言うとおり、犯人がそんなミスをするとは思えない。 
「そして次に菅原先輩も白です。今日の宮田先輩の話では、顔はウルトラマンのお面しか覚えていないと言うことでした。ただ、菅原先輩と藤巻先輩は、とげとげ頭にロングヘアーです。ウルトラマンでは隠しきれず、髪の毛がはみ出す可能性があります」
 今日の取り調べの時宮田先輩は何かを必死に思い出そうとしていたが、それでもウルトラマンしか覚えていないと言った。彩原の言うとおり、あの二人の髪の毛ならお面には収まらないだろう。
「ふぅん、なるほどね」
 ここでようやく春川先輩が沈黙を破った。
「けどナナ、二人には空白の時間があったわよね。菅原君には三十分の、藤巻には二十分の。その時間があれば髪型なんてなおせるんじゃなくて?」
「はい、その通りです。しかし否定できます。藤巻先輩は二時半まで家にいたと証言している。もし髪型をなおすなら、その時です。しかしもしその時やってしまったら、学校に戻ったときもその髪型です。彼女が犯人ならその時の学校にクラスの人間が三人いるのは知ってるはず。もし目撃されたら、それではあまりに目立ちます。かと言って学校でひっそりとやっても、おかしいです。そこまでしてお面にこだわる必要はない。もっと隠せる物を別に用意すればいい。菅原先輩もこれと同じ理屈で否定できます。彼は事件の三十分前まで友人といたと言ってます。じゃあ髪型もその時までは同じでしょう。三十分暇なら確かに髪型はなおせますが、そのために直前のアリバイをなくすのは本末転倒です」
 彩原の少し長めの推理を聞き逃さないように耳に神経を集中させている。先輩の指摘も、彼女の理屈で納得できた。
 彼女が一度深く深呼吸して、また話し始める。
「そもそも菅原先輩が犯人なら、彼の行動はおかしすぎる。犯人を特定させないために他の生徒に脅迫状まで出しておいて、明確なアリバイを用意しないとはどういうことですか。自分の疑いを少しでもそらすための行動をしてるくせに、アリバイがないっていうのは矛盾です。だから彼のアリバイがないというのは、彼がそれを必要としなかったから。正確に言うならば、そんなものが必要な状況下に置かれるとは思っていなかったから。当たり前です、アリバイが必要な状況下になるなんて誰も考えない、犯人でない限り」
 これでもまた納得してしまう。僕はずっと菅原先輩の空白の時間を怪しいと読んでいたのだが、それはそうでない。彼が犯人ならあとでアリバイが必要なのを知っているから、友人を引き留めででも犯行の直前まで一緒にいてアリバイを作る必要があると考えるし、それを実行できた。それをしていないどころか、おかしな三十分を作った。犯人なら逆にそんなことをすることはない。
 ようやく彩原が三人の事情聴取のときにアリバイを気にしていたのが理解できた。彼女は探していたのだろう、完璧なアリバイを持った人間を。その人物こそが計画的にアリバイを用意した可能性があるから。
 菅原先輩のアリバイが無いという一瞬不利に見える状況が、ここでは一種の『アリバイ』となるんだ。
「……藤巻の二十分はあなたがこじつけて空白にさせた二十分だから構わないけど、彼の三十分はどう説明するのかしら。あなたの推理は説得力はあるけれど、空白の説明にはなっていないわ」
 先輩がさらに負深く切り込むが、彩原はその質問を予想していたようで少しの間も開けず、すぐに答えた。
「そんなの簡単です。彼は友人と別れた。つまり友人に見られたくない何かがあった。けどそれは犯行ではない。そして彼の脅迫状には……」
「そうか、タバコかっ」
 彩原が全て言う前に分かってしまったため、つい大声を出してしまったが、彩原はそんな僕の情けない反応にうんと一度頷いた。
「そうだ。彼は次に見つかれば退学と宣言されていたタバコをどこかに吸いに行ったんでしょう。幸い、犯行当時はテスト期間。校内に人目につかないところはいくらでもあります。彼が少し遠くに吸いに行っていたら、吸う時間と往復で三十分くらいかかったのかもしれません」
 突然脅迫状を送られて無駄な時間をとらされていた菅原先輩。彼の短気な性格なら、すぐにその事実はとてつもなくイライラさせただろう。そして彼はそれを解消すべく、タバコを吸いにどこかへ行った。
「なるほどね。けど証拠はないわ」
「この推理を菅原先輩に話せば、案外簡単に認めるでしょう。ばれていないからこそ、隠す価値があります。もしばれたと彼が感じたなら、事件の疑いを晴らすため認めるでしょう。あとは吸ったという現場にでもいけば運がよければ吸い殻くらい見つかるかもしれません。認めなくても彼はさっきのお面の論理で犯人から外れていますし、それに彼の性格上、陰でこんな陰湿な事件を起こすより直接殴りかかるでしょう」
 彩原が一通りはなし終えたあと、僕の頭には一人の人物の顔があった。その人物は事情聴取の時、陰気な性格のせいで藤巻先輩になじられて落ち込んでいた、クラスでいじめられていたという。そして宮田先輩も逆恨みの可能性があると言っていた人物。
 川平先輩。彼の顔が頭から離れない。
「残るは一人です。それより私はずっと不思議に思っていたんですが、容疑者たちに送られてきた脅迫状。あれは何の意味を持っていたんでしょうか。容疑者を特定させないためだと言っていますが、わざわざ写真を撮って、それを送りつける。そんな遠回りな方法じゃなくてもそれはできます。藤巻先輩と菅原先輩は確かに脅されでもしない限り要求には応じないでしょうが、それではなぜ犯人はそんな頑なな人たちに自分の生命線ともなる役割を与えたのか。もっと他に簡単に要求に応じる人たちを選べばよかった。そっちのほうがいいに決まっています。それなのに犯人がそうしなかったと言うことは、犯人にとってこの役回りが、彼らじゃなきゃ駄目だったと考えるのが自然です。じゃあどうして彼らじゃなくちゃ、駄目だったのか。私が思うに、犯人が痛い目にあわせてやりたいと思っていたのは、宮田先輩だけじゃなく、容疑者も何じゃないかと」
 彩原の言葉を聞きながら自分の頭を働かせる。容疑者にもダメージを与えたかったという彼女の推理。つまり、あの三人を容疑者としてクラスの中にさらけ出す。人気者の会長を傷つけた可能性のある人間として彼らはそれなりの迫害を受けると犯人は予想したんだ。
 実際に犯人の予想通りに今日、藤巻先輩と菅原先輩の二人とクラスメイトの間でトラブルが起きている。宮田先輩もトラブルの原因は二人に対する冷遇だと言っていた。彩原はこれこそが犯人の狙いだと言っている。
 容疑者たちにクラスで肩身の狭い思いをさせる。それこそが。
「ではこの論理を基にして推理を展開します。川平先輩が犯人の場合、日頃いじめられていた藤巻先輩と菅原先輩を容疑者にいれ、そして自分をかばわないクラスの責任者を攻撃したということになります」
「筋は通ってるじゃないか」
 僕が頷くと彼女は僕を一瞥すると、首をかしげて見せた。
「分かっていないな。いいか、犯人は脅迫状を二人に送りつけていたんだぞ。しかも二人を退学に追い込むほどの写真付きの。じゃあ、それでいいじゃないか。それを教師に見せれば復讐完了だ。こんな事件にする必要はない。宮田先輩にはまた別の機会に復讐すればいい。事件を起こし二人を追い詰めるより効果的なはずだ、人生に関わる。こんな事件を起こすメリットはない。それどころか自分も容疑者になるというデメリットが大きい」
 言われてみればその通りだ。さっきの彩原の推理を基にすれば、復讐というならば写真を手に入れた時点でもう好きなようにできる。こんな手の込んだ事件を起こし、騒ぐ必要もなければ、自分を窮地に追い込むこともない。
「それに事情聴取の時、菅原先輩は川平先輩をかばっていた。多分だが弱い物いじめとか、そういうものが嫌いなんだろう。もしそうなら川平先輩が復讐する動機はない」
 さっきから彩原の口から流れ出す推理は止まることを知らず、まるで蛇口を思いっきりひねった時にでる水のようだ。ただそれはどれも容疑者を犯人でないと証明する物ばかりで、ちっとも彼女が最初に言った、容疑者の特定には至っていない。
「ねぇ彩原」
 僕がそのことを指摘しようとしても、彩原は口を止めなかった。
「そもそも川平先輩は自習室にいたと言っています。他の二人が特定の人物とある時間まで一緒にいたのと反し、彼だけが不特定です。もし容疑者になると分かっていたら自習室なんかでアリバイはとりません。もっと信頼できる誰かを頼ります。そんな人の証言がとれるかとれないか曖昧なところに行く必要はない」
 これで川平先輩も彼女は完全否定した。じゃあ……。
「彩原、じゃあ容疑者は全員消えた。犯人の特定には――」
 言葉を続けようとしたが、ここで彩原がまるで怒鳴るようにして声を出した。
「しかしっ」
 あまりの勢いに言葉を止めてしまい、突然感情をむき出しにした彼女を凝視する。彼女は両方の拳を腰の横でぶるぶると震えさせていた。
「容疑者はまだいます」
 そこで突然、ばんっと大きな音をたててテーブルを叩き、左手を腰へ添えて、座っていた先輩を睨み付ける。
「この学校にはテスト期間中でもあいている教室が四つあります。一つは容疑者の菅原先輩のいたグローバルコミュニケーションルーム。次に川平先輩のいた自習室。そして生徒会室。最後に一つ……この図書室です」
 彩原の声が徐々に震え出す。何かに必死に耐えながら声を絞り出していた。
「そしてこの図書室には、テスト期間中でも関係なく、準備室に籠もっている人が一人いるんです」
 彼女の言葉がにわかには信じられなかった。彼女は一体何を言おうとしているんだ……。嫌な想像だけが頭を巡る。
「私の推測ではその人物は事件当日もここにいたんじゃないかと思います。つまり犯行時、犯行可能だったんです。もちろん、クラスの人間ですよ」
「さ、彩原っ、お前何を言い出すんだよっ! そんなことあるわけないだろっ」
 今まで彼女にこれほど大きな声を出したことはなかったが、その声は意識せずとも自然に出た。僕の怒鳴り声を聞くなり、彼女もまた同じように返してくる。
「可能性としては十分にありえるだろうがっ!」
 またテーブルを強く叩き音を立てる。僕もここばかりは譲れなかった。こんなふざけた推理、黙って聞いてられるか。
 そうか。昼休みに宮田先輩と彩原が最後に話していた『可能性』とは、このことだったんだ。
「ジャージを隠していた教室の話から犯人はクラスの人間だと限られる。そして犯行時、学校にいたのは容疑者三名と被害者。容疑者たちの無実が証明されたなら、残る答えは一つ。犯人はそれ以外の人間。そしてその時、学校にいた可能性があるクラスの人間は、ただ一人だ」
 長い沈黙が室内を包み、いまにも暴発しそうな感情を抱えた僕と彩原は互いににらみ合っていた。何とかして彼女の推理に反論したいが、頭に出てくる言葉は全てまるで子供の言い訳のような物ばかりだった。
 そんなもので目の前にいる彼女がなびくはずがない。それでも、何が何でも、僕は言葉を出す必要がある。
「……可能性可能性って、そんなもの他にいくらでもある。クラスの人間が他にいたかもしれないだろっ」
「君の意見はどの根拠に基づいて言っているんだ。いいか、容疑者が三人に絞られていたってことは、最低限の調査はすでにクラスでしていたってことだ。そして結果があの三人だ、他を疑うのはおかしい。けれどもし調査の指導権を握った人間だったら、自分だけをうまく隠すことができるかもしれない。私はその可能性も込めて、いつもここに籠もっている人がいるという根拠に基づいてるぞ」
 勢いよく彼女に攻めたものの、いとも簡単に玉砕されてしまう。もちろん今の言葉で彼女がひるむなんて考えてはいなかったが、こうもはっきりと否定されると次に出る言葉がつい詰まってしまう。
「言いたいことは終わったか」
 威嚇するかのような視線で彼女が僕に問いかける。言い終わりたくないが、これ以上の反論が僕にはできない。あまりの無力さに自己嫌悪に陥る。なんでこんな時に何も言えないのか。
 あまりの悔しさに顔を伏せて、彼女の視線から逃げる。彼女はそんな僕を見ると、なぜか知らないがどこか残念そうな表情をした。しかしすぐに元にもどして、先輩と向き合う。先輩は彼女の視線からは逃げず、まっすぐと向き合っている。
「容疑者は特定できました。あとはその人物に確たる証拠を突きつけるだけです。先輩」
 先輩と呼びかけてから一拍おいて、また彼女がしゃべり出す。
「今日はその件を報告しに来ましたが、次来るときは覚悟しておいてください」
 また間が開いて静かになる。一度深く息を吸い、彩原が宣言した。
「あなたが犯人だと証明してみせます」
 彼女がしゃべり終えるやいなや、先輩が席から立ち上がった。しかし立ち上がっただけ動きはしない。テーブルに片手をついた彩原を少し見下ろす形となっている。先輩は見上げる彩原に、不気味な笑みを見せ、こう言ってのけた。
「出来るものなら、やってみなさい」


第六手【ナイトは秘密を抱えていた】


「どういうつもりだよ、お前」
 準備室から出て行った彩原を追っていき、廊下で彼女の手をつかんで引き留め、そう追求した。
「自分が何言ってるか分かってんのかよ」
「分かってるさ。自分の言葉にくらい責任は持てる」
 彼女は僕の腕をふりほどくとまた歩き出すので、彼女に歩調を合わせながら横に並ぶ。
「いいや、お前は分かってないね。お前が犯人だって言ったのは、春川先輩なんだぞ」
「何度も言わせるな。分かっている」
 彼女が歩く速度をあげるがさすがにここは女子と男子の差がでて、簡単に追いつく。
「だって、だってそうだろ。論理的にあの人しか考えられないんだよ」
 階段を下りながら彼女が悲痛な声をだし同意を求めてくる。そう、確かに彼女の論理には説得力があり、それしかないようにさえ思え否定できない。
「君だって、君だって否定してくれなかったじゃないか」
 彼女が急に僕の方へ目を向けて、そう声をあげた。そうしてくれなかった。彼女は今そう嘆いている。さっきの準備室で僕が反論できず黙ってしまうと彼女は残念そうな顔をしたのを思い出し、それで気がつけた。
 彼女はあの時、僕に否定してほしかったのだ。春川先輩が犯人なわけがないと。彼女自身、そういう結論に至ったが、それを一番彼女が受け入れたくなかった。だから、今こうして珍しく感情を表に出している。
 言葉に詰まることなんて滅多にない彼女が、喉を震わせている。
「私が好き好んで、あんなこと言うわけ、ないだろ……」
 放課後の階段は静かな物で彼女の詰まった声がはっきりと聞こえたが、もし今が昼間なら喧噪にかき消されてしまって聞き取ることは無理だろう。
「否定してほしかった、君にも、あの人にも。けどどちらも……否定してくれなかったじゃないか……」
 あの時、彼女の声が徐々に強まっていたのは彼女の怒りだったんだ。自分に疑いを向けられても平然として否定しなかった先輩への。そして先輩の無罪を主張しきれなかった僕への。
「……ごめん」
 そんな陳腐な謝罪しか口に出来無くて、自分が愚かに感じる。
 彼女は僕に何か言いたそうだったが、決して言葉にはせず軽いパンチを胸にいれてきた。僕に責めたいことはたくさんあったのを、彼女はその一撃で許してくれたようで、これでいいと呟いた。
「急に言われて否定しろと言うのが無理な話なのかもしれないしな」
 そこでようやく昂ぶっていた感情が落ち着いたようで、少し上を向いて息を吐くと、両の頬を自分で叩き、よしっと気合いをいれた。
「じゃあ楠野、君と私はここで別行動に移そう」
 彼女の唐突な提案に驚きを隠せず、えっと声を漏らす。
「もう私は後戻りするつもりはない。こうなったら私はあの人が犯人だと証明する。それがたとえ茨道でも、そうする。それがあの人から頼まれた依頼だからな。けど、この役回りは私だけで十分だ」
 それはつまり彼女はこれから一人で調査するということだ。そして彼女の頭の中で、もう犯人は先輩なのだ。そしてそれを確定させるためにこれからは、先輩を追い詰める調査をしなくてはいけなくなる。その役目は正直、僕にはきつい。いや僕だけじゃない、彼女だってそうだ。
 しかし彼女はその重荷を全て自分で背負うと申し出ている。僕がそれを負うようにないように。しかし、それはあまりに冷たい。
「僕だってやるよ」
「……分かるだろ。これからは私はあの人を疑うんだ。それは辛い。けどこの結論を出したのは私だ。だったら君がそんな辛い目を見ることはない」
 だから君はここで身を引け。
 これが彼女の優しさだと言うことくらい分かっている。けどこれは、僕から言わせれば侮辱に近い。確かに役に立っていなかったかもしれないが、ここまできて逃げろというのか。人のことを臆病者だと考えている証拠じゃないか。
 ただ彼女の優しさは嬉しい。そしてその優しさに揺らぎはない。彼女はどれだけ僕が言葉を重ねようと自分一人で行動するだろう。そうはさせるものか。
 僕はさっきまでの先輩との会話を思い出し、彩原の目を見た。
「なら僕は先輩の無罪を信じる者として君の調査に付き合う。君が間違ったなら僕はそれを正す」
 それが僕の見つけた、そして全うすべき役回りだ。自らにそう言い聞かせる。
 僕の宣言が予想外だったようで彩原は目を大きく開き驚いたが、その目がすぐに細められ、彼女が嬉しそうに笑った。ようやく見れた、彼女の笑顔が。
「なら、お願いしようか」
 先輩の無罪を信じているのは僕だけじゃない。疑うだけでは精神的にきついが、それとは全く別のことを側で人がしててくれれば、誰だって気持ちが晴れる。
 合図などしていなかったにも関わらず、僕たちは自然と握手を交わしていた。これからもよろしくという意味を込めて。
「それで彩原、君はこれからどうするつもりなんだ」
 調査というからには彼女は何かを調べるだろう。それが決まっていないということは考えられない。
「ああ、まずは当然ながらアリバイだ。だからあの日、先輩が放課後にいたかということを証言できる人物を捜す」
「君の推理では先輩は準備室に籠もっているんだったね。じゃあ、あの日の図書当番の人なら証言してくれるかも」
「冴えてるな、楠野。私もそう考えていたんだ。あの日の図書当番なら、図書日誌を見ればきっとすぐに分かる。図書委員なら知ってる人かもしれない。難しい調査じゃない」
 図書室には毎日、放課後図書室の管理をしている委員の当番がいる。大概は一年か二年だ。そして彼らはその日に借りられた本や返された本や貸し出し者の名前を書く貸出ノートと、その日図書室に起こったことなどを記載する図書日誌を書くことが義務づけられている。そしてそれらには当然、当番の名前も書かれている。
「なら図書室じゃないか。どうしてこんなところまで来たんだよ」
 準備室を出て、そのまま図書室も出て行くもんだからどこか目的地があるんだろうと考えていたのだが、彼女が最初に調査しようと思っていたものは、ふりだしの図書室にある。
 僕がそう指摘する彼女はなぜか黙って降りてきた階段を上り始める。しかしすぐに足を止めて、背中を向けたまま振り返らずに告白した。
「どうかしていたんだ。少しぼぉっとしていただけだ」
 止めていた足を再び動かし始める。階段を上がっていく彼女を見ながら、どんな理由でも一緒に行動するように話がまとまって良かったと痛感した。彼女は混乱していて、そしてそれを指摘されるまで気づかなかったんだ。
 少し頼りない足つきで階段を上がる彼女を追いかける。今はとりあえず、側にいようと決心しながら。
 図書室に戻って今日の当番だった二年の先輩に日誌を貸してもらった。そしてそれを図書室のテーブルの上で開き、事件の日に捲っていく。
「あった、ここだ」
 彩原が日誌を僕にも見やすいように出来るだけ開けてくれた。確かに事件当日の日付がちゃんと書かれていて、そこには『本日も特に異常なし』と丁寧な字で書かれていた。この日誌は図書室で起こったことなどを書くが、図書室で何か起こることなど滅多にないので毎日、この一文が書かれる。
「楠野……これ」
 彩原が呼びかけながら、日誌に書かれていた『当番名』の欄をゆっくりと指さした。そこに目をやり、思わず隣の彼女に目を向ける。彼女も同じように僕を見ていて、二人してそこに綺麗な字で書かれた名字に驚きを隠せていなかった。
 そこには僕らの見知った名字が書かれていた。
 小泉と。
 
「そういえば小泉は図書委員だったな。忘れかけていた」
 剣道場へ向かう途中、彩原が僕と同じ感想をもらした。
「まあ、あいつは部活の方に力を入れているからね」
 あの日誌で彼の名前を見つけるまで確かに忘れていた。確か僕が入ったと聞いて、面白そうだという単純な理由で入ったんだった。
 剣道場は今日は熱気であふれていた。打ち合いをしている生徒たちの声や、竹刀が相手の防具や竹刀を打つ音が響き渡っていて、それと同じように部長と思われる人の指導の叫びが飛び乱れている。
 僕はこういう光景は見慣れているが、彩原は初めてだったので素直に、すごいなと感心していた。
 剣道部員は当然全員が防具を着込んでいるので誰か判断するのは人目では難しい。一応、剣道場をぐるりと見渡したが小泉が誰かは分からなかった。確実にこの中にはいるはずなのだけど……。
 どうしようかと考えていると彩原が僕の肩を叩き、道場の隅っこで素振りをしている一人の生徒を指さした。
「小泉はあれだ」
 一体どうやって判断したのか想像も出来ないが、よく目をこらして見ると確かに小泉だった。防具から見れる微かな顔でやっと判別できる。
 近くにいた剣道部の先輩に小泉に用があると言うと、すぐに彼を地が揺れるような大声で呼び出す。それに反応し、すぐさま彼が素振りをやめてこっちに駆け寄ってきた。
「なんだよ、楠野。今日は駄目だって言ったろう……あれ、サイレンまでいる。珍しいな」
 僕がここに小泉を訪ねにくるのはいつものことだが、彩原は初めてだ。彼女はいつも一人でさっさと帰ってしまう。小泉の部活がないときは三人で帰るときもあるが、それも指で数えるほどしかない。
「部活の邪魔をしてすまんな。ただ君に訊きたいことがってね」
「おお、入部出来るかって。残念だな、サイレン。うちは女子剣道部はないんだよ」
いつもの様に明るく適当に振る舞う小泉だが、彩原が出す並々ならぬ雰囲気を感じ取ると、困ったような目つきで僕を見てきた。
「おいおい、どうしたんだよ二人とも。昼から変だぞ」
 僕らの様子に調子を狂わされた小泉が焦るが、そんなのお構いなしに彩原が彼の目の前に、さっきの日誌を開けて見せた。
「これは君が書いた。間違いないだろうな」
 開けられたページを防具越しにまじまじと見て、小泉は頷いた。
「日誌か。ああ、あの日は俺が当番だったからな。間違いないよ。怪我もしてたし大変だったんだ」
 彩原がこちらに視線を向ける。同時に頷き、今度は僕が質問した。
「その日のことなんだけど……春川先輩はいつも通りいたか」
「女王陛下か。ああ、いたぞ。俺が図書室入ってしばらくしたら来たよ。カウンターでちょっと話した後、準備室に籠もったぞ」
 わずかだが望んでいた。小泉が、そんなことはないと答えるのを。そうであれば先輩が学校にいたということが証明できない。アリバイがあろうとなかろうと、学校にいなかった先輩には容疑がかけにくくなる。
 けど現実はそうではない。予想していたとおりの、非情な答えが出てきただけだ。これで状況が、最悪に一つ近づいた。
「……落ち込んでないで、次に進むぞ」
 黙っていた僕を彩原が肘で小突き、質問を次に進めた。
「少し思い出して欲しいんだが、あの日、あの人は準備室から出たか」
 たとえ先輩が学校にいたとしても犯行をしたかどうかはまだ不明だ。これこそが意味のある質問。準備室から廊下に出るには、必ず図書室を通らないといけない。もし先輩が犯行をするため準備室をでたなら、カウンターで当番をしていた小泉に目撃させるはずだ。
 準備室の扉は不要な本が詰まった大量の段ボールなどで埋まって隠れている。どけて通ることも可能と言えば可能だが、それにはかなりの体力が必要だし、何かの物音を必ず立ててしまう。春川先輩は女性だし、それを一人でやるにはきつい。
 この質問が彼女が白なのか黒なのかを決める。
 小泉はしばらく腕を組んで、唸り声をあげながら思い出そうとしていた。そして、あっと声を上げて何かを思い出したよ。
「出てねぇよ。あの日は確か四時まで当番してて、帰ろうとして準備室にいる先輩に声をかけたんだ。鍵締めは自分がするから先に帰っていいっていうから任せて帰ったんだった。うん、その時もちゃんと準備室にいた。その時以外先輩とは話してなかったけど、外に出てはない」
「ほ、本当かよ小泉」
 その答えがあまりにも嬉しかったので、つい彼の肩を掴んで揺らしてしまう。彼はそんな僕の反応に動揺したようだが、間違いないと何度も頷いた。
 心の中で広がっていた不安が一気に引いていき、少し身軽になる。
 彩原を見ると彼女もその答えが嬉しかったようで、胸をなで下ろしていた。疑ってかかるとは言っていたものの、彼女だって先輩の無罪を強く信じているのだ。ただ無罪を信じるだけでは何もならないので行動しているに過ぎない。
「どうしたんだよ、二人して。これでいいなら部活に戻らせてもらうけど」
「ああ、構わない。時間を取らせて悪かったな」
 小泉は不思議がりながらもそのまま部活に戻っていった。その姿を見届けると彩原はすぐにくるりと背中を向けて、剣道場から出て行き今度は校舎に入っていった。
「で、先輩のアリバイはとれたよ。次は何をするの」
「あの人な、最近ずっとピアスを探していたんだ」
 そういえばさっきも先輩はピアスを探していた。どうやらそのことを彩原にも言っていたようだ。けれども、それがどうしたと言うんだろうか。
「ピアスなんてそうそう落ちるもんじゃない。けどもしかしたら、激しい動作をしたら、弾みでとれてしまう可能性もゼロじゃない」
 先輩のアリバイは取れたというのに彼女はまだ可能性を疑う。さっきの小泉の返答で嬉しくても、彼女はまだ調査する。それが彼女の選択なので文句は言わない。
 準備室で彼女は先輩に、確たる証拠を突きつけると言った。もしピアスが激しい動作、たとえば誰かを襲ったりしたときに落ちていて、それが証明できればそれは確たる証拠になり得る。
「この学校は落とし物は職員室でしばらく管理してあるはずだ」
 確かにそうだった。自転車の鍵や、部室に忘れられた水筒、教科書や、ウォークマンと言ったものまで校内で生徒が落としたと思われるものは全て職員室で管理してある。
 稀に校則で持ってくることが禁止されている携帯電話やゲーム機なども落とし物として管理されている。取りに来た生徒には一応注意はしているそうだ。そんなものでさえちゃんと預かっているだから、ピアスも拾われていればあるはずだ。
 もしそのピアスが犯行現場で拾われていたということになれば、また状況は変わる。
「けど彩原、先輩は準備室から出ていない。どうがんばっても犯行は無理だよ」
「一見そう考えられるが、可能性はある。当番であった小泉はカウンターの中にいた。なら、準備室から身をかがめて出て、そのままカウンターに隠れながら図書室を出て行くことも可能だ」
 流石の頭の回転だった。安心はしても、可能性を完全に消さないで、また新たな可能性を見いだす。けどここで引けを取るわけにはいかない。
「けど戻ってくるときはどうするの。先輩は四時に準備室にいたんだよ。一度隠れながら出ることは出来るかもしれないけど、今度は図書室へ入るのが問題になる。いくら何でも誰かが入って来たなら小泉は気づく。その時もまた身をかがめていたというのか。君の言う可能性としては考えられるけど、先輩がそんな危ない賭に出るかな」
 彼女が可能性を作るなら、僕はそれをつぶしていく。役回りを果たす。
「窓から出るという強行手段もあり得る」
 確かに準備室には窓がある。しかし、それはまずないだろう。
「あそこは四階だよ。万一のことを考えるとあり得ないだろ。それに窓の外に人が居たら、いくらテスト中とは言え誰かに見られる。それの方がより目立つよ」
「だろうな、言ってみただけだ」
 こうして彼女が示す可能性をつぶせていることが本当に嬉しい。しかし、同時に僕の胸の内にはある疑問が広がっていく。僕がすぐこうして否定できている。ならば、あの春川先輩なら、あの場で瞬時に自分の無実くらい証明できたはずだ。
 けど彼女はそうはせず、彩原の前に立ちふさがった。宣戦布告を受け入れ、今も彩原が再度訪れるのを持っている。それはどうしてだろうか。
 否定するのも馬鹿馬鹿しいからか。考えられなくもないが、あの人の性格ならそれでも優しく否定しそうなものだ。ならば、否定する必要が無かったからか。それはつまり――。
 嫌な想像が頭を巡るので首を強く振って、そういうものをなぎ払う。
「何をしてるんだ」
「いや、何でもないさ」
 適当に流しておいたら、ふんと鼻を鳴らされた。
「変なことを考えるな。言ったろう、それは私の役回りだ」
 こちらの考えることくらいお見通しというわけか。こいつといい、春川先輩といい、人の心を読める技術でも備わっているのだろうか。
 職員室では数人の先生が忙しそうに書類を書いたり、生徒指導の先生が生徒を叱っていたりしていた。職員室の奥に落とし物が入れられた段ボールがある。高級そうなものが落ちていた場合は別の場所においておくらしいが、たいていはその中に詰められている。
 幾人かの先生に頭を下げながら箱へと近づく。箱には予想通り水筒や弁当箱、どういうわけか中身がぎっしりと詰まった筆箱まであった。僕と彩原は二人でその箱の中身を一つずつ取り出し、何かないかと丹念に調べた。
 しかし結局お目当てのピアスさえ出てこないで、箱の中は空っぽとなった。別に落胆はしていない。予想通りであり、望み通りである。横に目を向ける彩原が落とし物箱に詰められた男子制服を凝視していた。
「何してんの」
 僕がそう問うと無言のまま彼女は制服にホッチキスで張られた小さな紙切れを指さした。それには日付が書かれていて、その日付は事件の翌日のものだった。
 そういえばジャージも箱には入っていたが、確かそれにも日付の書かれた紙が張ってあった。どうやら衣服には日付をいれているらしい。確かに名前の縫われていないジャージや制服などは落とした日付で持ち主が自分のかを判断しやすい。
「他の服は全部ここ数日のものだ。これだけなんだよ、先週のはな」
 ジャージであれ制服であれ、服なんか落としたらすぐ気がつくし、そうすれば誰だってここに来て、すぐに自分のを持って帰る。
「だからどうしたのさ。まだ来てないだけだろ。確かに日付は気になるけど、服は事件と関係ない。犯人はジャージを着てた。けどそれはもう見つかってて、それを基に推理を展開したのは君じゃないか」
 そもそも男子制服に興味を持つことが理解できない。事件と関係ないと思えるのだ。
「……まあ、そうだな」
 釈然としないようだったが彼女は箱から離れ始め、職員室の出口へと向かう。後ろへついていき、次はどうするかを訊こうとしたら急に彼女が立ち止まって、思わず背中にぶつかってしまう。
「どうかしたの」
 そう呼びかけても彼女は返答せず、ずっと前を向いたままだった。どうしたんだろうかと前へ回り顔をのぞいてみると、何か考えている気むずかしい表情をしていたが、それがすぐに落胆の表情へと変わっていく。顔色も青くなり、みるみるうちに表情というものが無くなってしまった。
「ど、どうしたんだよ」
 あまりの変化に心配になり彼女の肩を掴んで揺らした。近くにいた先生が寄ってこようとしていたが、その時になってようやく彼女が行動を起こした。すぐさま僕の腕を引っ張って、ものすごい早口で寄ってきた先生たちに失礼しましたっと言いながら職員室を走って出て行く。
 そしてそのまま人気のない場所まで走っていき、ようやくそこで止まった。
「何だよ急に。どうしたって言うんだ」
 さっきからずっとどうしたと心配しているのに、彼女は僕の言葉など聞こえないように無視し、僕が持っていた日誌を奪い取るとさっきのページを開き、何度も何度も目線を縦横させる。
「……やっぱりか」
 日誌を閉じると彼女はそう肩を落とした。僕もその日誌は何度も見返したが、何か彼女が落ち込むようなことは書かれていなかったはずだ。小泉の名前と、本日も異常なしという常套文句が綺麗な字で書かれていただけで。
「楠野。もうどこからでもいいから、話せ」
 彩原が一歩僕に詰め寄って、突然そう言ってきたの。
「話せって……なにを」
「先週からでも今週に入ってからで構わないから、小泉と話したこと、あいつがした行動、知ってる限り全部話せと言ってるんだっ」
 また一歩詰め寄って、彼女の顔がすごく近くなる。その表情は苦痛に満ちていて、その瞳にはいつも彼女が持っている余裕は無く、そこには目の前にいる僕が少しだけ歪んで映っていた。 
 どうして彼女がこんなにも苦しんでいるのかさえ理解できないが、彼女の言うとおりにした。とりあえず今週から。先輩から依頼を受けて、その後一緒に小泉と帰ったところから話し始める。


 夏の長い陽がようやく陰を見せ始めた夜の七時頃。部活動を終えた生徒がぞろぞろと校門から出ていく。校門のところにいる警備員さんと別れの挨拶をして、また一緒に汗を流していた友達との会話に花を咲かせながら帰路についていた。
 僕と彩原は校門の近くのベンチでずっと小泉を待っていた。どうしても彼に訊かなければならないことが増えた。そしてそれは今後の僕らの行く末を大きく左右するもので、僕らはここで一時間ほど待機しているが、気の重さのせいでほとんど会話をしていない。
 さすがに一日に二度部活の邪魔をするのは申し訳なかったし、彩原が剣道部員がいないほうがいいと言うので今まで待つことになった。
「なあ彩原、さっきの話だけど……」
 隣に座りずっと俯いている彩原に声をかけると彼女は分かりづらいくらいにわずかに首をあげて僕を見た。
「内密にするっていうのも僕は手だと思うよ」
 いつもの彼女ならこんなふざけた提案、一瞬で棄却するに決まっているのに、沈んだ顔の今の彼女は、そうだなと受け入れた。らしくないけど、それを責めるつもりも指摘するつもりもない。
 しばらくしてからお気に入りの竹刀を持った小泉が数名の剣道部員と一緒に校門に近づいてきた。彼は僕らに気がつくと怪訝そうにしながらも、剣道部員たちに突然の別れを告げて、僕たちの方へ駆け寄ってくる。
「二人そろって何してんだよ。もう七時だぜ」
 僕らを交互に見て首をかしげる。彩原は他の剣道部員たちが校門から出て行くのを確認すると、膝においてあった日誌を広げて、またあのページを開けた。
「何度も確認するが、これは間違いなく君が書いたんだな」
「ああ、そうだよ」
 彩原の隣に小泉が腰掛けると、ほぼ同時に今度は彩原が立ち上がった。
「そうか。……そういえば君は最近、楠野とゲームにはまってるそうだな」
 日誌を閉じてそれを僕に投げて渡してくるので、受け取ってまたページをひらけて、そのままにしておく。
「ああ、すげぇ面白いんだよな」
 小泉が笑顔で同意を求めてくるのでああと答えた。笑ってやりたがったが、それはできなかった。
「それは良かったな。で、君はそのゲームを親から買ってもらったと楠野に話したそうじゃないか」
 ここで初めて小泉の表情に変化がみれた。笑顔が少し引きつった。そしてそれを僕も彩原も見逃しはしなかったが、今はとりあえず触れないでおく。
「そうだよ。それがどうかしたか」
「別に何でもない。ああ、そういえば、竹刀の使い心地はどうだった?」
 次々と全く関係の無いような質問をされて小泉は理解できないでいる。それでも、ああと返事をした。
「ああ、最高だよ。やっぱり自分のっていうのが嬉しいな。素振りの音さえ違って聞こえてくるぜ」
「いいことじゃないか。わざわざ小遣いを貯めて買ったかいがあって良かったじゃないか」
 彩原がそう言いながら小泉の持っていた竹刀を手に取り、軽く振ってみせる。袋に包まれているせいで鈍い音しかでない。
「話が何度も変わってすまいないと思うが、君は楠野に私たちと食事にでも行こうと誘われたらしいな」
 それは今日の放課後の話。時間にすると数時間前だ。覚えていないはずはなく、小泉は瞬時にそうだと返答した。そして、あの時と同様の言葉を繰り返した。
「ただ金もないし、テストのせいで親からも借りれないから、当分は無理だけどな」
 これが彩原の待ち望んでいた、いや予想していた、推理通りの回答。そしてあらゆる矛盾を生み出し、それを一つの回答へとつなげる言葉。
「そうか。残念だな」
 彩原がわざとらしく肩を落とし、すぐに鋭い眼光を小泉に向ける。それに気圧されたのか、彼が息を吸い込んだの分かった。
「……小泉、君は何か秘密を抱えているな。水くさいじゃないか、友達である私たちに隠し事なんて」
 立っていた彩原が座り、小泉の隣に密着するように座り、彼の顔をのぞき込む。あまりの顔の近さに小泉が少し遠ざかり、顔を赤くした。
「な、何を言ってるんだよサイレン。ていうか、顔が近いって。いくらおれと前の仲でもこれはない」
 ふざけているのか、本当に照れているのかは分からないが、とりあえず彼は秘密などないと否定した。しかしそんな単純な逃げ言葉で彼女があきらめるわけがない。
「そうか、君が認めないなら……私が認めさせてやろう」
 言葉の後半は彼女の声色が一転した。さっきまでの明るさはなく、目の前にいる男を威圧するほどの恐怖をにじませている。
「まず君はゲームを親から買ってもらったと言っている。そしてそれに反して、竹刀を小遣いで買ったとも言っているんだ。少しおかしな話じゃないか。ゲームなんてあまり役に立たなさそう物を買ってるくれたのに、竹刀は買ってくれなかったのか」
 僕が彩原に小泉との最近の会話をすべて教えた後、彼女が最初に抱いた疑問がそれだった。恥ずかしい話になるが、彼女に言われるまではそんなことは一切不思議に思わなくて、普通に聞き流していた。
 しかし彼女の投げかけた疑問の通り、彼の証言はおかしい。
「そうは言っても事実なんだから、そうなんだよ。確かに変わった親だよな。なんせ俺の親だし」
 はははと彼が笑うが、僕も彩原も表情は変わらない。そんな雰囲気に耐えかね、すぐに彼が気まずそうに笑うのをやめた。
「そうか。そういえば、そのゲームの発売日は先週の月曜日だったな。少し前だというのにもう懐かしいよ、あのテストのことが」
 小泉の顔色がまた青くなる。そうだ。これもまた彼女に言われるまで気づかなかった。あのゲームは先週の月曜日発売で、その日はまさに期末テストの初日。生徒たちが真剣に気合いを入れ始める日。
「さっき君はテストのせいで親には頼めないと言った。さっきだけじゃない。今週に入ってから君はその発言を繰り返している。楠野と同じで、君もテストの結果が芳しくなかったんだろう」
「余計なお世話だよ。悪いね、お前みたいに成績優秀じゃないんだよ」
「授業を寝ずに聞いておくだけで悪い結果にだけはならんぞ。次からはがんばるんだな」
 今は関係ないが彩原は学年でもトップクラスの成績を誇っている。とは言っても天才というわけでなく、テストが近づくと遠くから見てても分かるくらいの努力はしている。とくに学年何位になってやろうという目標はなく、やるだけのことはやっておきたいだけだそうだ。そんな崇高な考え方をできれば、僕も少しはましになるだろう。
「君の親はテストの結果にはとやかく言うくせに、テスト初日に発売されたゲームは買ってくれるのか。発売日じゃないにしても、君が楠野にゲームを自慢したのは今週の月曜。なら買ったのは絶対に先週だ。成績にうるさく言う親が、テスト期間中にゲームなんて買ってくれるかな」
 たとえテストが終わった後でもテストの結果が分かるまで親が子供になにか買い与えるなんてあまり容易には想像できない。
 ついにこの状況に我慢できなくなったのか、小泉が声を荒げ始めた。
「何なんだよっ、いいだろう、そうだったんだから」
「ああ、本当にそうなら私だって口なんか出さない。そこまで無遠慮じゃないさ。けど君の話には辻褄が合わないところがある。それは無視できない」
「辻褄って言ったって、これが本当のことなんだから……」
 仕方がないと続けようとした小泉を黙らせたのは、彩原の視線だった。餌に飢えたどう猛な肉食獣さえ静かに出来るんじゃないかと思うような力を持った視線。
「いいや、君は本当のことなんか話してない」
 否定しようと口を開きたい小泉だが、下手な言葉はより自分を追い詰めるだけかと思ったのか、ついにだまり始めた。
「黙秘ときたか。いいだろう、なら君の代わりに、私が辻褄を合わせてやる」
 挑発的な笑みを小泉に向け、彩原は一人で話し始める。
「君の発言におかしな陰を落としているの、間違いなく君の親の存在だ。私が矛盾点を感じるのは君の話にたびたび、君の親御さんが出てくるから。けど君のお話からそれを排除すると、驚くほど辻褄があっていく。まず竹刀を買ったのは君自身だろう。それに嘘偽りはない。ここに親の存在は元々介入していなかったからな」
 小泉が彩原の話に耳を立てながら、横目で僕を見た。どうにかしろと語っているその目から僕は逃げ出して、沈みかけている太陽を見た。
「ならおかしいのはゲームの方だな。あれをどう辻褄を合わせようか。親が買ってないと想定するなら、誰かに買ってもらったと考えるべきだろうな。君の小遣いで買ったなら、君が嘘をつく必要など無い。恐らくだが、もらった誰かに、このことは秘密にしておけと釘を刺された。違うか」
 黙秘は続き小泉は何も言わない。否定も肯定もせず、彼女の言葉など聞こえないように振る舞っている。
「つまりゲームは口止め料だったんだよ。これをやるから黙っておけというな。どうだろう小泉、私の言っていることは何か間違っているかな」
 これには証拠も何もない。彼女が僕の話から辻褄の合う話を推理したに過ぎない。けれど根拠など無くても彼女の推理には説得力があり、それを覆すことは容易でない。小泉もそれを分かっていて、へんに否定の言葉は口にしないのだ。
 ただ黙秘というのも今の彼の立場を考えると、賢い選択というわけじゃない。彩原は彼がこう行動することさえ読んでいたのだから。
「口をきけなくなったのか。なら、君が口を開けたくなるような面白い話をしてやろう。君のもう一つの秘密についてだ」
 黙秘を貫いていた小泉の肩がびくんと揺れた。なるほど、彩原がそこまで分かっているとは想像していなかったようだ。
 そんな小泉の反応に彩原は嬉しそうに微笑む。今の動揺はもはや自白並みに彼女の推理を確かなものにする。僕は日誌のあのページを開いて、小泉に見せた。そしてわかりやすいように彼が書いた当番名のところに指を指した。
「君は意外と字が綺麗だな。正直もうすこし雑な字を書くとばかり思っていたよ」
 小泉の字を見たとき、僕もそう思った。彼は性格から見て字なんか自分が読めればいいと思うような乱雑な字を書きそうなものだが、案外この日誌は丁寧に書かれている。彼が日頃からそうしているかは知らないけど。
「書道でもやっていたのかい。いや、書道くらいじゃこんな綺麗な字は書けないよな。教えてくれないか。怪我をしていた手でここまで綺麗に字を書ける技術ってものを」
 彩原がそこまで言い、ようやく小泉は自分のもう一つの自分が完全にばれていることを察したのだろう。目を大きく見開いて、その後、あきらめたかのようにゆっくりと閉じた。
「君は確かテスト期間中は右手首を痛めていたな。けどこの日誌が書かれたのはテスト期間中だ。どうして君はこんな綺麗な字を書けたんだろうか。……もしかして、君は怪我なんかしてなかったんじゃないか」
 この学校はテスト一週間前に入るとテスト週間と含め、二週間全部活動は活動を中止する。かれはそのテスト一週間前の直前の金曜日に部活中に手首を痛めたと言って、テスト期間中も勉強が出来ないと騒いでいた。
 けどそれが嘘だとしたら……。
「そういえば忘れかけていた。剣道部から竹刀が一本消えたらしいな。一体誰が盗んだんだろう。もし犯人が分かれば、きっと剣道部員たちに袋叩きにされるだろうな。かわいそうに。いたたまれんよ」
 彼女の言葉には少しもいたたまれないという感情はこもっていなくて、ひたすら隣で三を丸くし、顔色を悪くしている友人を追い詰めるものだった。しかし、どんなに親しい仲であろうと今の彼女は誰にも容赦などしないだろう。恐らく、たとえ僕でも。
「――君が部活中に怪我をしたのは嘘だな」
 ついに彼女が確信を突く。
「なぜそんな嘘をついたか。……まだ何も言わないか。私は君に罪はないと思うぞ。ようは君が部活に熱を入れている真面目な学生だというだけだ。君は竹刀を買うための金を貯めていた。自分愛用の竹刀が欲しかっただけじゃないだろう。君は今朝言っていたな、これで家でも練習できると」
 小泉は部活動には非常に熱心だ。それは言わなくても分かっている。だからこそ彼は嘘をついた。それについての罪は確かにない。
「君は部活中に怪我をすることで、保健室にでも行ったんだろう。これで君には先輩や顧問の目が行き届かない隙が作れる。君はその隙に竹刀を一本、恐らくだが体育館の近くに隠した。そして部活が終わって、部活のメンバーと別れてからそれを見つからないようもって帰った。仕方ないよな。確かに部活熱心な君にとって、二週間部活が出来ないという空白は怖い。だから家で練習したい。当たり前の心情だ。まあ、方法は褒められたものじゃないが」
 もし先輩や顧問が保健室までついて行くと言っても、そんなものは簡単に断れる。そして保健室に行くと言いつつ、それまで使って竹刀をどこかに隠すのも容易なはずだ。そしてそこまでして、そんな行動を取る必要があるのは、家でも練習がしたかったという思い。
「君の家に行けば案外わかりやすいところに竹刀があるだろうな。証拠は簡単につかめる。いや、そんなことをせずとも君が怪我をしていないという事実はこの日誌で分かる。小泉、私の推理、君の先輩に話してやろうか」
 彩原の推理だけでも剣道部の中で小泉に疑心の目が向けられるのは確かだ。そして部活熱心なこいつなら、そんなことは絶対に避けたい。それは僕も彩原も同じだ。誰が友人を喜んで苦しめるものか。
 長い沈黙の後、蚊の泣くような声で小泉が彩原に頼み込んだ。
「頼む……頼むから、黙っててくれ」
 黙秘が自白へと変わった。首を垂れ下ろしていた小泉の胸ぐら、彩原が掴み、顔を無理矢理上げさせる。
「ああ、黙っておく。それは約束しよう。その代わり、言え。君は誰に何を口止めされた」
 僕らはそのことだけが知りたかっただけだ。小泉が素直に質問に答えていれば、追い詰めるようなマネもしないでいるつもりだった。
「……女王陛下だよ。春川先輩にあの木曜日にゲームをもらった。その代わりに今からのことは誰にも言わないで欲しいって」
 一番出てきて欲しくない人の名前が出てきた。もう辻褄などどうでもいいので、僕たちの知らない人の名前が出てきてくれた方が表現できないほど嬉しかったろう。この予想が当たることが嫌で仕方ない。
「……答えてくれ。あの人はあの日、準備室から出たんだな」
 小泉が首が落ちるかのようにかくんと頷いた。両目を辛そうに瞑り、彩原が最後の質問をした。
「何時頃だ」
「……三時頃だったと思う」
 小泉の胸ぐらを掴んでいた手が力なく彼から離れた。彩原は苦悩で歪んだ表情をしたまま、僕らに背を向けて夕日の方へ向いた。沈みかけている夕日は綺麗な朱色でなく、どこか黒ずんでいる。それはその向こうにある、先行きが見えない明日への恐怖さえ駆り立てた。
「……ふざけるな」
 彼女の背中が徐々に震え出す。そうさせているのは悲しみか怒りか。
「ふざけるなっ」
 慟哭にも近い彼女の叫びが一辺に響き、跡形もなくすぐに失せた。


第七手【チェックメイトと彼女は告げる】


 翌日の放課後、彩原のクラスに足を運ぶと誰も居ない教室に彼女が一人、窓際の机の上に座って窓の外を眺めていた。放課後に準備室へ行くことになっていたのだが、彼女が一向に待ち合わせ場所に来ないので迎えに来たら、そんな姿の彼女を見つけた。
 教室に僕が入ってきたのさえ気づいていない様子なので、ゆっくりと近づいてから、彩原と呼びかけると外を見たまま、ああと答えた。
「そうか。待ち合わせをしていたな。すまない」
「別に構わないけど、大丈夫か」
 大丈夫でないことくらい知っている。昨日の夕方、彼女に聞かされた推理。あれが全て真実だとすれば彼女自身が一番どうにかなりそうなものだ。
「大丈夫と言えば嘘になるな。けどこう訊かれると大丈夫と答えるしかない」
 ふふと気のない笑いをする。
「いや、僕はそんなつもりじゃ……」
「それくらい分かっている。言ってみただけだ」
 言ってみただけということはないだろう。彼女は本当に大丈夫じゃないんだ。
「昨日言ったな。この事件を解決したからってどうなるんだろうかって」
彼女はこの事件に罰が用意されていないことに疑問を持って、事件を解決してもどうにもならないと言っていた。思えば彼女はあの時から先輩を疑っていたのだろうか。だからこそ、そんなことを考えていたのかもしれない。遠回しに解決なんかしたくないと。
「今日一日、ずっと考えていたんだ。私の推理通りならあの人は罰せられるべきだ。けど私は、そんなことは望まないんだよ。ならどうすればいい?」
 彼女は今も考えているんだろう。窓の外を眺めながら、その風景を瞳に映しながらも頭の中ではずっとその難題に向き合っている。
「けど今ようやく決心がついた」
 座っていた机に脚をのせてそこに立つ。そして僕を見下ろした。
「君の言う通りにしようかと思う」
 それは彼女にとっては楽な選択だ。苦しまずにすむ最善の方法。けれどそれは彼女にとって自分の正義感と先輩の依頼を裏切るものとなる。それでも彼女はそれを選ぶ。今日一日でどれだけ葛藤しただろう。
「人の上に立つっていうのはどんな気分なんだろうな」
 机の上に立ちながら窓の外を見下ろす。そこには多数の生徒が下校するのが見れるだろう。
「きっとこんな風景を毎日心の中で見るんだろうな。それもこんな分かりやすいものじゃない。もっと複雑で入り組んだものを」
 春川先輩のような生まれつき人の上に立つことが定められたとうな人は、彩原でさえ理解に苦しむ、複雑で乱雑な人の動きを見ている。そしてそれを何とか整えようとしている。それはきっと僕みたいな凡人にはできない芸当なんだ。
「だからこそ、なのかな」
 素直な感想を呟くと彩原はわからないと答えた。
「どうなんだろうな……」
 彼女が机から飛び降りて綺麗に着地すると、春川先輩にあこがれて長くした髪の毛が波打った。
「じゃあ、行こうか」
 彼女の覚悟が決まったようだ。ここからは彼女の戦いである。憧れの人との、一度差し違えた人との再戦。どう転んだってハッピーエンドにはならない。それを分かって足を進める彼女の背中を見て、もどかしくてならなかった。
 準備室へ行くまで一切口をきかなかった。今どんな言葉をかけようと無意味だと理解していたし、彼女がそんなものを望んでいないとも分かっていた。
 準備室の扉の前で彼女は一度立ち止まり、深く深呼吸をした。何を吸い込み、何をはき出したのか。僕が彼女の肩に手をのせると、僕を見て気丈にも笑ってみせた。
 ノックをして返答も待たず扉を開けた。準備室にはいつも通り、テーブルでチェスをしている先輩がいて、僕らの方を見て笑みを浮かべる。
「来ると思ってたわよ。どうぞ、座って」
 神妙な面持ちで僕と彩原が席に着く。テーブルの上には綺麗に駒が並べられたチェス盤があった。
「……依頼報告です。犯人が分かり、なおかつ証拠が掴めました」
「そう。それじゃあ、聞かせてもらいましょうか。あなたの推理を」
 先輩が駒を摘みそれを動かそうとする。例のごとく、一人チェスをしながら彩原の推理を聞くつもりらしい。しかし今日はそうはならなかった。駒を摘んだんだ先輩の手を彩原が掴んだ。
 怪訝そうな顔をする先輩。対照的にその明確な意志をたぎらせた表情をする彩原。
「今日は私が相手になりますよ」
 一体、どれほどの思いを彼女はこの時間にこめるつもりだろうか。あれほど嫌がっていたチェスを、その嫌になる原因となった先輩とするというのは彼女の性格からすればとんでもないことだ。
「あら、嬉しいわね。血が騒ぐわ。じゃあ、勝負をしながら聞くことにするわ」
 先輩が駒を置いて彩原を見つめる。そして彩原がゆっくりと駒を摘み、それを動かした。勝負が始まり、何かが終わる音がし始める。耳では聞こえないその旋律は、確かに僕の心を乱している。

「まず昨日も言いましたが、犯人はあなたですよね」
 もしこれがテレビの二時間ドラマだったならこんな言葉は解決シーンの最後に出てくる物だ。けれど彩原はその確信をはじめに先輩に突きつける。
「……それを私に訊くのはどうかと思うわ。あなたが証明するんでしょう?」
 先輩の言うとおり。彼女は昨日そう宣言し、それを先輩は受け入れた。
「そうでしたね。じゃあまず、あなたのアリバイからですね」
 先輩が駒を動かす。すぐさま彩原がまた駒を動かすと、先輩は感心の声を漏らした。素人の僕でも分からないハイレベルな勝負に序盤からなっている。
「あなたが事件当日、この学校にいたことは証言が簡単に取れました」
「そりゃそうでしょうね。あの日は学校にいたもの。証言は誰がしたのかしら」
 彩原が僕を横目で見たので急いで鞄から日誌を取り出して、あのページを開きそれを先輩に見せ、乾いていた口を開いた。
「これを参考にして小泉に訊きにいきました。先輩が当日学校にいたかどうか。そしてこの部屋から出たかどうか」
 先輩に日誌を渡すと彼女はそれをまじまじと見つめた。
「そういえばあなた達と小泉くんは仲良しだったわね。そうそう、あの日は確かに当番は彼だったわ」
 次にまた鞄から今日小泉から預かったゲームを取り出す。それをテーブルの上に置き、先輩に見せるが彼女は一切表情を変えない。やはり昨日の小泉のようにわかりやすい反応は示してくれないか。
 それでも切り崩さなきゃいけない。この余裕の笑みをうかべる女王を。
「ゲームは学校に持ち込み禁止よ」
「このゲームを最初に学校に持ってきたのは先輩じゃないですか。小泉からの証言は取れてるんですよ」
 昨日の放課後のことを思い出す。小泉がようやく認めた時、絶望の淵に叩き落とされた。あの感覚はもう忘れられそうにもない。
 先輩はしばらく黙ってゲームを手にとっていた。そして何かを言おうとしたところで、何か思いついたような顔をして、口を閉じてわざとらしいくらいのため息を吐いて見せた。
「これじゃあ高い口止め料を払った価値が無いじゃないの」
 ゲームをテーブルにおいて、残念と呟く。
「認めるんですね」
「ゲームを渡したことはね。けど、私にアリバイが無いだけよ。確かに怪しいけど、確たる証拠と言うには弱いわね」
 今度は先輩が駒を動かす。駒の置かれた場所を確認すると、彩原が顔色を変えて、あごに手を当てて何か考え出した。どうやら予想外の一手がきたらしい。先輩はそんな彩原の反応をじっと観察している。獲物を狙う蛇のように。
 口止め料とまで言っておいてまだ認めないというのか。けど、先輩の言うとおりだ。小泉は三時頃に先輩が準備室を出たのを見ただけで、それは証拠にはならない。僕たちが掴まなきゃいけないのは、その後の先輩の行動だ。
 彩原の表情が少し明るくなり、すぐに駒を動かし、同時に口も開いた。
「あなたはここで私たちに初めて事件の説明をしたとき、確かこう言ってました。私には剣道部の弟がいると」
 そう。確か竹刀が凶器に使われたという話になったときだ。剣道部の弟がいて、竹刀が家にあるから被害者がどの位痛いかよく分かると確かに彼女は言っていた。
「あなたの家には竹刀があった。なら凶器を学校に持ってきて襲えば、それで終わりです」
「話をわざと端折っているのかしら。あなたたちが突きつけるべきことは、そんな大雑把な方法じゃないでしょう。否定させてもらうなら、竹刀を学校に持ち込むってどうやってかしら?」
 昨日小泉が言っていた。この学校には女子剣道部はないと。そうなると女性の先輩が学校に竹刀を持ち込むとかなり目立つ。先輩は有名人だし、竹刀なんて剣道部員でも持ってくる人とそうでない人が別れるくらいだ。
 そんな目立つ物を持って普通に登校したら誰かの目にとまる。それは避けられない。そんなことになったら事件後、先輩は真っ先に容疑者になってしまう。けれど先輩はそんなミスを犯していない。事実、そんな目撃情報も出ていない。
「確かに女性のあなたが竹刀なんて普通に持ってきたら目立ちます」
「あら、案外素直に認めちゃうのね」
「ええ。ただ、普通に持ってきたらの話です。普通じゃなかったら出来る話ですよ」
 普通じゃない竹刀の持ち込み方。彩原からこの推理を聞いたとき、信じられなかった。だってそれには結構な代価が必要で、僕には先輩がそこまでしなければいけなかったと考えるのが無理なのだ。
「その短髪、似合ってますね」
 駒を摘んだまま先輩が硬直した。そして彩原はその先輩の姿を見ながら、自分の長髪をそっと撫でる。
「以前は長かったのに急に短髪にして、どうしたんですか」
 二週間前、先輩は占い師に言われたからと伸ばしていたロングヘアーをばっさりと切り、ショートカットとなった。彩原が注目したのはここで、このショートカットならばあることが可能だという結論を導き出した。
「最初見たときはあなただと分かりませんでした。その短さなら、もしもあなたが男子制服を着ていたなら、きっと男子だと思ったでしょう」
「……なるほね。つまりあなたは私がこの短髪にしたのは、男子制服を着て学校に入るためだっていいたいのね。確かにこの短さで男子制服を着ていて、しかも竹刀を持っていたら剣道部員だと思われるだけで難なく学校に竹刀を持ち込めるわ」
 しかしその計画の代価は中々のものだ。髪は女性の命とまで言われている物だし、先輩が大切に伸ばしてきたその髪を、たかが竹刀を持ち込むために切ったという彩原の推理を初めて聞かされたときはピンとこなかった。
 だって他に方法はいくらでもありそうだ。いや例えなくても、そこまでして彼女がこの犯行をしなければならなかった理由が想像できなかった。
 先輩が駒を動かして、これはどうかしらと呟く。すぐさま彩原が駒を動かすと嬉しそうに笑った。
「あなたの推理は面白いわ。筋は通せてる。推理の根拠も私の発言や、急に切った髪の毛に注目した物で理にかなってるわね。けどそれだけじゃ駄目。何度も言わせる気はないでしょう。確たる証拠にはならないのよ、それじゃあ」
 状況がどれだけ物を言おうとそれでこの女王が折れるはずがない。そんな軟弱な人ではないし、それほど手ぬるくもない。彼女を黙らせる、あるいは全てを認めさせるほどの確たる証拠を突きつけるまで、彼女は自身の敗北を決して認めはしないだろう。
 彩原が辛そうに目を瞑った。彼女が先輩をどれだけ慕っていたかは知っている。だから、先輩が負けを認めるまで彼女が追い詰めるということは、彼女にとっては地獄に等しい。いくら覚悟していたことだとはいえ、そう易々と受け入れれる現実じゃないだろう。
 彼女がゆっくりと制服のポケットに手を入れ、それを取り出した。そして手のひらを広げて、先輩にそれを見せる。ここで初めて先輩の表情から余裕が消えた。彩原が見せたものを見て、何度も何度も瞬きをしている。
 彩原の手のひらの上にはピアスがあった。手作りのビーズのピアス。先輩がこの世に一つしかないと言っていた、友人からの誕生日プレゼント。ここ最近彼女がずっと探していた物。それが今、彩原の掌中にある。
「これがあなたのであることはさすがに認めますね」
 そればかりは認めざるをえないはずだ。先輩自身が世界に一つしかないと公言していたのだから。
「ええ、そうね。私が探してた物だわ。どこでこれを?」
 昨日の放課後、彼女の予想通りの場所にはこれはあった。それを見つけたときの彼女の表情をしばらく忘れられそうにない。
「……職員室の落とし物箱の中にあった男子制服のポケットから見つけました」
 先輩が持っていた駒を盤の上に落とし、乾いた音が室内に響いた。彼女は無表情のまま何かを思い出していて、そしてしばらくするとはっとした表情になった。どうやら自分の犯したミスを思い出したようだ。
 そんな先輩が彩原が追い打ちをかける。
「あなたの計画はまず短髪にして、それを誰にも告げることなく男子制服を着て登校するところから始まります。誰かに教えたりしたらばれる可能性もありますからね。一応、マスクくらいして顔は隠していたでしょうけど。そして竹刀を持ち込んだあなたは、人目につかないところで制服を脱いで、女子制服に着替えます。いやきっとすぐに着替えれるように下に着ていたでしょう。けれどあなたは男子制服を着ていたとき、あるミスをおかした。いつもの癖でうっかりピアスをつけてしまっていたんです。それに気づいたあなたは急いでピアスを外し、男子制服のポケットにしまった。短髪でピアスは丸見えですから下手をすれば先生に呼び止められてしまいます。それだけでなくあなたの知り合いが見たら、ピアスだけであなただとばれることだってあり得る。それを恐れたあなたは急いだ。結果、男子制服を脱いだときにそれを取り出すのを忘れたんです」
 校内に竹刀を持ち込んでそれを一時的に人目のつかないところに隠す。そしてすぐさま、女子生徒に戻りいつも通り学生生活を送る。しかし着替える場所が問題である。男子から女子へと戻るため、トイレは使えない。男子トイレで着替えても出てくるときの姿が女子になるし、逆にしても今度は入れない。
 だからとにかく人目のつかないところで素早く着替えないといけない。そしてその焦りが彼女のミスを誘った。男子制服は持っていても仕方がないので、どこかに適当に捨てたのだが、それが運悪く誰かに拾われて職員室へ渡った。
「先輩、答えてください」
 彩原が悲痛な声を上げる。
「どうしてあなたのピアスが男子制服の中にあったんですか。私たちが納得できるように説明してくださいっ」
「さて、どうしてかしらね。私にも分からないわ」
 先輩が余裕の消えた笑みを浮かべながらそう曖昧に誤魔化した。そして何事もなかったかのように駒を動かす。すぐに彩原がテーブルを叩いて、その上にあった盤を揺らした。
「誤魔化さないでくださいっ」
「……あれは私のピアスよ。けどそれが男子制服の中にあっただけ。証拠にはならないでしょう?」
 自分がどれだけ無茶苦茶なことを言っているのか分かっているだろう。それでも今の先輩にはそんな言葉しか出ないのだ。ここまでくれば彩原の勝ちが見えてきた。しかしそれは同時に彼女の絶望でもある。
 肩を落としていた彼女がまた口を開けると同時に、駒を手にする。
「事件後、犯行に使われたお面やジャージは見つかっていますが、見つかってないものがあります」
 それはまだ見つかっていない。けどそれこそが彩原が先輩へ突きつける、確たる証拠。先輩が全てを否定できなくなる物証。この事件を始め、終わらす物。
「凶器の竹刀はまだ見つかってません。けどあなたが犯人だと推測するなら隠し場所は容易に想像できます。そんな大切な物をいくら人目のつかないところとはいえ、ずっと置いていたら安心は出来ないでしょう。ならどうすべきか。私なら自分の手元に置いておきます。誰にも見つからないように、自分で管理できるところへ隠します。あなたで言うならば、この準備室です」
 彩原がそう言い終えると僕は席を立った。そして準備室の奥へと足を進める。ここの扉はもう使わなくなった本が詰まった段ボールが積まれている。この後ろになら竹刀の一本くらい隠せる。
 勇気を振り絞って、そのダンボールを一つずつどけていく。数個もどけると、それは見えてしまった。竹刀の柄の部分。それを掴んで引っ張り出す。そしてその竹刀を持って先輩の隣に立った。
 彼女は何も言わず、そして何もせずその竹刀を見つめていた。
「先輩」
 彩原が短く呼びかけて、駒を摘んだ。そしてそれを動かして、ゆっくりと盤上に置くと、涙目で目の前の憧れの人物を見つめて指さした。
「チェックメイトです」


 長い沈黙だった。いや、実は大した時間じゃなかったかもしれない。けれど僕にはそれがとてつもなく長く感じれてしまった。
 先輩がぱちぱちと乾いた拍手をしながら、はははと本当に嬉しそうな笑い声を上げ始める。そんな彼女の姿を僕も彩原も信じられないという思いで見ていた。彼女がここまで声を上げて笑ったことは今まで一度もなかった。
「お見事ね、二人とも。ブラボー」
 先輩は自分の右手を胸に当て、ついのその言葉を口にした。
「そう、ご名答よ。私が宮田君を襲った犯人だわ」
 ああ、誰か教えて欲しい。これほどのバッドエンドがあるなら教えて欲しい。
「まさかここまで追い詰めてくるとは思わなかったわ。いや、本当にすごいわ、私の期待以上ね」
 彼女が僕らに何を期待していたのかは分からない。けれど彼女がどうしてここまで嬉しそうなのかは、彩原が推理していて、恐らくその通りなのだろう。けどだとしたら、もはや彩原の心は限界のはずだ。
「ナナ、ついでだから訊くわ。私の動機についても、もう分かっているんでしょう?」
 彩原が目元を袖でぬぐい小さく頷いて、咳払いをして話し始める。
「動機は二つですね。一つは昨日、わたしがここで話したとおりです。容疑者たちにクラスで冷遇させるため。あなたはクラスの実質的な責任者で、クラスをまとめなければいう義務感があります。けどあの三人が浮くことで、クラスのまとまりはかけます。あなたは彼らが邪魔で仕方なかった。だから、もういっそ、潰してしまえと狂気を走らせた」
「狂気というのは気になる表現ね。邪魔者を排除しようというのは、しごく真っ当な考えだと思うわ」
 邪魔者。この依頼を受けたとき先輩は自分でクラスメイトを疑うのは嫌だからと言っていた。けれど今、彼女は何の躊躇もなく自分が傷つけたクラスメイトを邪魔と断言し、報いを受けて当然と考えている。
 狂ってる……。
「そのために、無関係の人間を襲ってもいいんですか」
 思わず口を挟むと彼女は人差し指を左右に揺らし、分かってないなぁと呆れた。
「無関係の人間じゃないでしょ。宮田君はクラスの代表なのよ。クラスのために少しは役に立ってもらうのは当然なの。いいじゃない、彼は殴られただけよ。私なんて計画をたてて、それを実行しなくちゃいけなかった。結構疲れたのよ」
 確かに宮田先輩はクラスの代表だ。だからといってそのために怪我をしていいってわけじゃない。
「何がクラスのためですか。あなたは自分の気にくわない人間を追い詰めるためだけにこの計画をした。今更、それを否定するんですか。ウルトラマンのお面をつけたのは、クラスの怒りを高めるためですね。その方が三人にとって状況は辛くなる」
 彩原が怒気を含んだ声で責め立てても先輩は一切ひるむことがなかった。
「ええ、そうよ。見事にみんなそのように感じてくれたわ。ふざけてるのかって怒ってた。馬鹿みたいにね。けどこれはクラスのためでしょう。確かに私怨があったことは認めるけど、あの三人はクラスのゴミよ。それを掃除してあげたの。これって善事じゃない」
 とても先輩の言葉とは思えない単語が次々と飛び出す。ゴミ。この人は今、自分のクラスメイトをそう評した。悪口でそう言うときはあるかもしれない。けどそれは普通の人の話だ。僕らの知ってる春川先輩はそんなこと言わない。
「あなたの不愉快な理屈に付き合う気はさらさらありません」
「分かってないわねぇ、ナナ。あなたは付き合えないのよ。だってこの感情は私みたいに、人の上に立つ人間だから芽生えるの。凡人には理解することは不可能よ」
「……ああ、そうですか。なら私が理解してることを話しましょう。あなたの二つ目の動機です」
 明らかに蔑まれたというのに彩原はその怒りを飲み込んで、話を次へと進めた。彼女にとってはもはやこんな怒りなど小さなものなのかもしれない。もっと怒るべき事実を彩原は知っているから。
 それでもあの春川先輩が彩原をあそこまで悪く言うなんて考えられない。もうこの人は先輩じゃないのかもしれない。ここにいるのは先輩の仮面を被った誰かで、僕らはずっと騙されているのかもしれない。その方が、よほど心が楽になる。
 けどそんな非現実的なことは起こりえず、ここにあるのが事実。
「あなたは私にこの事件の解決を依頼しました。その目的は、実に単純な理由です」
 先輩が頬杖をついてまた微笑む。そんな彼女の姿を彩原が忌々しい目でとらえている。そして指でチェス盤を数回叩いた。
「あなたの目的は、これです」
 チェス盤を叩いていた指の手を強く握りしめる。
「あなたは私と何でもいいから勝負したかったんですね。あなたが唯一、勝てなかった私と」
 それこそが先輩の望み。それを叶えるために事件を起こし、依頼をした。そして必要となる情報を提供し、あなたが容疑者だと言われたときも不適に微笑んだ。計画通りにいっていると狂喜した。
 思えば彼女はこの依頼を僕らにした日さえ、彩原と勝負がしたいと願っていた。彩原の推測した、ある意味最悪の事実。これが今どれほど彼女の心を蝕んでいるか、それは僕の想像では及ばない。
「……完璧」
 先輩が西原に向けて言い、かくして彩原の最悪の推測は現実だったと証明された。彩原は表情を変えなかったが、今どれほど心の中で取り乱していることだろう。一番間違ってて欲しいと思っていたことが、完璧と評された。それはもはや悲劇といえる。
「もう言い訳も無駄よね。さあ、ナナ、私をどうするのかしら。どう罰してみせる?」
 挑発的に訊いてくる先輩に彩原は何も言わず、唇をかんでいた。どれだけ罪を犯そうが、どれほど変わってしまおうが、彩原にとって先輩は先輩なのである。罰など与えられない。罰せられるべきだと頭で理解していても、そうはできない。
だから彼女は決めていた。さっき教室で言っていた。君の言った通りにすると。それはつまり……。
「……罰などありません。この事件は、これで終わりです」
 それが彼女の絞り出した答え。どれほどのものと葛藤したかも想像できないが、彼女はそう答えを出した。
「真実を知ってるのは私と楠野とあなただけです。ならば私と楠野さえ黙っていれば事件は未解決として終わります。あなたが自白したところで悪ふざけと思われるだけでしょう。宮田先輩の傷さえ癒えれば、クラスもこのことを忘れます。私は、私は……あなたに罰など求めません」
 求めれるはずもない。どれだけで手酷く扱われても、どれだけ非常な真実を突きつけられても、どれだけふざけた動機を持っていても、彩原に春川先輩を裁くなどできない。だから彼女は昨日僕が言った、内密にするのも手だという言葉に同意した。そうするしかできなかった。
「……優しいわね」
 一瞬、先輩がいつもの様に優しく微笑んでいるように見えた。
 準備室の扉がものすごい勢いで開き、勢いをつけた扉が近くにあった段ボールに当たって跳ね返った。その音で一気に空気が変わり、さっきの静けさが消え去った。
 扉のところには三人いた。どの人も見たことのある人物。この事件の当初の容疑者の三人。菅原先輩に藤巻先輩に川平先輩。春川先輩が邪魔者やゴミと比喩した人たち。この事件のある意味一番の被害者。
「ここは図書委員以外は立ち入り禁止ですよっ」
 咄嗟にまずいと思い怒鳴った。この会話を聞かれるわけにはいかない。それでは折角、彩原が内密にしようとしたのが水泡と化す。それだけは避けないといけない。そうしないと先輩が……。
「うるせぇな。許可は取ってあるんだよっ」
 菅原先輩の拳が頬に食い込んだのはその直後だった。衝撃のせいで少し飛ばされて、その場に倒れた。
「楠野っ」
 唇が切れて血が少し出て、口の中に鉄っぽい広がっていく。心配をした彩原が駆け寄ってきてくれたが、心配ないよとなだめる。
 状況は最悪だった。座った春川先輩は三人に囲まれてしまって、動けずいる。三人の表情から怒りが限界を迎えていることはすぐに分かった。それでも先輩は微動だにせず、チェス盤を見つめていた。
「おい春川、今の話は本当か」
 菅原先輩が彼女の肩を掴んで揺らした。
「本当に決まってんじゃないのよ」
 両腕を組んだ藤巻先輩が春川先輩を睨みつけている。
「あっ、これが証拠ですよっ。間違いありません」
 川平先輩が竹刀を二人に見せていた。
 どうすべきだ。春川先輩がこの事件の犯人で、その目的はあの三人を苦しめることにあった。もしこの部屋の会話が聞かれていたとすれば、あの三人は春川先輩をただでは済まさない。菅原先輩なんて今にも襲いかかろうとしている。
 止めないと大変なことになる。何も考えず立ち上がり、あの三人と春川先輩の間にはいろうと足を進めようとしたが、それは叶わなかった。
 テーブルが少し宙に浮いたと思っていたら、それはすぐに大きな音を立ててひっくり返った。その上に乗っていたチェス盤やその駒たちが周りに床に散乱し、準備室の空気がまた凍り付いた。
「ああっ、本当に邪魔な連中ね。いいところだったのにっ」
 椅子に座ったまま足を振りあげた状態で、先輩が頭をかきむしる。誰もが口をきけず彩原など口元を押さえて、信じられないという表情のまま固まっていた。あの先輩がここまでの行動にでるとは信じられない。
「ええ、話は本当よ。今あの子が話してたことは何一つ間違ってなかったわ。憎らしい程ね」
 先輩が堂々と何にもそれることなく立ち上がり、自分が蹴飛ばしたテーブルの近く落ちたポーンを一つ拾い、それを三人に見せつける。
「私の目的はあの子と勝負すること。あなたちはその駒になってもらった。それだけ。けど感謝して欲しいわ。私とあの子の勝負の駒になれたのよ、光栄でしょ?」
 首を傾けて先輩が三人に笑いかける。
「てめぇ……」
 菅原先輩が拳を振るえさせる。やばい。もう僕じゃどうしようもないところまで来てしまった。
「けど確かにあなたたちは今も邪魔だけど、入ってきてくれて良かったわ。この子、真実を隠すつもりだったらしいから。甘ちゃんよね」
 春川先輩が固まった彩原の方を向いて、大きなため息をついた。
「これで真実は白日の下にさらされるわ。私がどれだけあなたちを恨んでいたか。あの役立たずの会長に苛立っていたか。あの迷惑なクラスをどれだけ嫌悪していたか。それが伝わると思うと、心から、心から清々するわっ」
 先輩は持っていたポーンを菅原先輩に向けて投げ、それは回転しながら菅原先輩の額に直撃した。
「駒は駒らしく、私の指示通り動けばいいのよっ。どれだけ注意しても聞かないのはどうして? 頭が悪くて理解できないのかしら。頭が悪いんだったら、余計に私に従いなさいよっ。人の気も知らないで好き勝手行動して……。こっちの迷惑も考えなさい、このゴミども」
 剣のように鋭い言葉が室内に飛び交う。
「ああっ、ちょっとスッキリしたわ。やっぱり思ってるだけじゃなく、言葉にしなくちゃ、行動に移さなきゃ体に毒よね」
「……良かったな、毒をはき出せて」
 拳を振るわせた菅原先輩が春川先輩へ近づく。彼女は逃げもせず彼をずっと見ていた。
「けどこれからお前には苦しんでもらうぜ。真実をクラスの連中にばらしてやる」
「……本当に頭が悪いのね。真剣に同情してあげるわ、感謝なさい。私はそうなることを望んでるのよ。私の気持ちをクラスの連中に伝えてちょうだい。いくら頭が悪くても、役に立たない駒でも、それくらいはできるでしょ」
 菅原先輩が春川先輩の胸ぐらを掴んで、拳を振り上げた。やばいと思い、両目を瞑った。
「やめなさいよ、こんな奴に構うなんて時間の無駄でしょ」
 菅原先輩のすぐ後ろに立って藤巻先輩が彼を諭したあと、春川先輩に一瞥した。
「あんたが殴るより辛い仕打ちがこいつには待ってるわよ。それを見て、今度は私たちが清々しましょう」
 人気者の会長を自分勝手な理由で傷つけて、クラスに対しての暴言をした。このことを彼らがクラスに知らせれば、先輩もただではすまされない。彼女は今までの地位や人気を失うどころか、地に叩き落とされるだろう。
「……そうだな。こいつには後でたっぷり苦しんでもらう。それでいいか、川平」
「う、うん。僕はそれで十分だよ」
 あの物静かな川平先輩でさえ春川先輩の窮地を望んでいる。
「まあ、がんばってちょうだい。あなたたちで私を苦しめれるかどうかは微妙だけど」
 とうの春川先輩はそんなことは恐怖でも何でもないようで、今でも余裕の雰囲気を醸し出していた。それが我慢の限界だったのか、菅原先輩の拳が振り落とされそうになった。
「やめろっ!」
 その叫びで春川先輩の顔の直前で拳は静止し、誰もが叫び声の主、彩原に目を向けた。彼女は今にも泣き出しそうな表情で春川先輩だけを見ていた。
「……やめてください。これ以上、そんな姿を見せてないでください」
 声から悲しみとか色んなものがにじみ出ている。
「ああ、ナナ」
 春川先輩が菅原先輩から離れて、彩原の側に寄っていく。そして彼女の頬を撫でると、まるで氷のように冷たい言葉を浴びせた。
「あなたとの勝負は終わった。あなたの役回りはもう終わり。変な邪魔はしないで」
 言葉を聞き終えると同時に彩原の目から涙一滴こぼれ落ち、それが頬を伝っていく。
「私は……私は、あなたを……」
 彩原が途切れ途切れの言葉で何かを伝えようとしたが、先輩はそれを聞かなかった。
「憧れてた? 尊敬してくれてた? けど、そんなのはあなたが勝手にしたことよ。私には関係ないわ」
 最後の最後、彩原は言葉に出来ない叫び声をあげていた。震えた口をぱくぱくとさせて、その奥から言葉を引っ張り出そうとしていたがそれも叶わず、目元を拭って準備室から走って出て行った。
「彩原っ」
 そう声をかけても止まらず、足音だけを残し消えた。
「何をしてるの、楠野君」
 背中から聞き慣れたはず声がした。けどそれは冷たく、今まで聞いてきたのとは明らかに異なっていた。
「早く追いかけてあげなさい。じゃないとナナ、ショックでどうかしちゃうかもしれないわよ?」
 声の調子で分かった。彼女はこの状況を楽しんでいる。睨み付けるため振り返る。先輩は口元に笑みをうかべたまま僕を見ていて、その表情から、僕なんかが何を言っても無意味だというのを瞬時に察した。
 この人は僕の知っている先輩じゃない。いや、僕らが先輩を知らなかったのか。これが彼女の本性で僕らはずっと騙されていたのかもしれない。さっき彼女が仮面を被っているんじゃないかと疑ったが、違ったんだ。彼女は仮面を脱いだのだ。
 言葉も何もいらない。もう知るかという気持ちで僕は準備室を飛び出した。


 校内を走り回り彩原を見つけたのは、あれから十分以上経った後だった。彼女は人目のつかない屋上にいた。フェンスに背中を預けて、三角座りをし頭を膝に埋めていた。
 近づこうとしたが、できなかった。少し離れた位置からでも彼女の嗚咽がはっきりと聞こえてきたがそれを慰めるすべがない。あれから十分以上が過ぎているのにあれほど泣いていると言うことは、最初は泣き叫んでいただろう。近づいたってなにもしてやれない。
 憧れの人からの頼みだから聞き入れ、必死に調査をしてたどり着いた推論がその人こそが犯人というもので、それを否定したかったけど、できなくて。挙げ句の果てに動機は自分との勝負で。
 それでもまだ恨みきれないで彼女をかばうため真実を隠そうとしたら、そうするこさえできない。最終的には邪魔だと言われた。
 一体、どんな精神をしていたらこれほどのものに耐えれるだろうか。
 夕日が身を縮めた彩原の陰を伸ばして僕の足下までもってきた。手をその陰の上に伸ばしてみるけど、その先にいる彼女には何も出来ない。
 伸ばした手は彼女に届くことなく、哀れに宙を彷徨った。


第八手【ステイルメイトで彼女は終える】 


 放課後の教室で鞄にプリントを詰めていたら、竹刀を持った小泉が教室に入って近づいてきた。
「楠野、前に借りてた漫画、返しに来たぜ」
 そういえば随分前に彼に漫画を貸していた。貸した当人が忘れるくらいだから、きっと相当前だ。そして彼が今そんな本を返しに来たのはどうせ、昨日たまたま部屋の掃除をしていたら見つかったとか、そんな理由だろう。
 彼から返してもらった漫画をプリントと同様に鞄に詰める。
「……で、サイレンは今日も黄昏れてんのか」
 彼が口を耳の側まで持ってきて尋ねてきた。
「多分そうだろうな。しばらくは続くと思うよ」
「そうか……やっぱりまだショックなんだな、女王陛下のこと」
 あの事件解決から二週間が過ぎた。解決直後にかなりのショックを受けた彩原は翌日から二日間は学校を休んでいて、その心の傷がどれだけ大きいかを物語っていた。休んでいるときは僕と小泉で見舞いに行ったものの、そこで見たのは自室のベッドの上で死人のような目をした彼女で、どう言葉をかけていいか分からなかったが、その時は小泉がずっと自分の周りの面白話をして彩原を笑わせようと頑張った。
 僕も彼と会話を広げていきなんとか彼女を笑わせようした。僕らが話し始めてから彼女が笑ってくれるまでに要した時間は二時間。そろそろ話のネタがつき始めたというところで、ようやく少しだけ笑ってくれたのだ。
 それからは学校にも来たが、完全に傷が癒えたわけでなく、あることが習慣化しつつある。
「また飯でも行くか。もちろん、あいつの分は俺がなんとか出すよ」
 彩原の復活後、僕らは約束通り食事に行った。小泉は自分が春川先輩に協力したことで彩原が傷ついているということをものすごく気にしていて、そもそもその食事も彼が彩原に謝るためにもうけた席だった。
 彩原に小泉を責める気など全くなく、彼が謝っても気にするなとしか言わなかった。それで気にしない彼じゃなく、せめて奢ると彩原の食事代を無理矢理押し切って自分で出した。金を工面するために親に頼み込んだのは僕でも容易く想像できてた。
「食事はいいけど、今度はワリカンだろ。じゃなきゃ彩原が遠慮してあんまり食べない」
「そうか……」
「そう気を落とすなよ。彩原だぜ。今はあの調子だろうけど、しばらくしたら元通りになるさ。今回は色々とあいつに悪いことが重なりすぎた」
 そう、本当に彼女にとっては辛いものでしかなかった。あの事件だけならまだしも、先輩の本性というものに触れてしまい、とどめを刺される形となった。あれがなければいくばくか、ましな結末が迎えられたろう。
 こんなこと考えてもどうにもならないのだけれど。
「そうだよな。……じゃあ俺は部活に行くな。サイレンによろしくな」
 彼が部活熱心なのは変わりない。自分が盗んだ竹刀も顧問や先輩に事情を話し、ちゃんと謝って返したそうだ。怒られたそうだが、部内での彼の評価は上がったらしい。
 彼が去っていく姿を見届けた後、鞄を持って教室を出て彩原のクラスへと向かった。
 彼女は窓際の机の上に座り、ただ呆然と窓の外を眺めていた。習慣化した彼女の行動だ。あれ以来、放課後はこうして過ごしている。そこから見える光景は、地上にいる生徒達の姿。
 彼女はずっと考えているのだ。人の上に立つということが、どんなものか。
「……先輩の近状は聞いているか」
 背中を向けたまま彩原が聞いてきたので、うんと返事をした。
「もうあのクラスに彼女の味方はいなくなったみたい。彼女は完全に孤立したそうだよ」
「……孤立か。あの人から言わせれば、きっと独立なんだろうな」
 春川先輩のその後は噂で耳にした。彼女が犯人だと分かるとすぐにクラスで爆発が起きた。宮田先輩を慕っていた人たちが彼女を一斉に糾弾しだして、それを彼女の友達がかばって、一触即発の空気になったそうだ。
 しかし動機を聞くと友達もさすがに先輩をかばう気が少し薄れた。そして先輩自身がクラスで、一人ずつ名前を挙げていき、その人の悪いところを指摘していった。全員分を言い終わった後、先輩はこう宣言したそうだ。
「以上の理由で私はお前らを嫌う。復讐したければするといいわ。多分、どれだけしても私は負けないでしょうけどね」
 これらの行動で一気に味方を無くした先輩だがまだ先輩を庇おうとする人たちもいた。しかし彼女はそんな人たちでさえ手酷く扱い、ついに彼女を庇う者はいなくなり、彼女はクラス全員を敵に回したそうだ。
「これがあの人の望みだったのかな」
 彼女はあの時、真実が白日の下にさらされるのを喜んでいた。これで私の気持ちが伝わると。彼女ならばこんな未来くらい想像できたはずだ。けれど彼女は行動した。
「そうだったんだろうな。私には理解できないらしいが……」
 彩原がため息を吐く。
「やめなよ。幸せが逃げるよ」
「逃げる程の幸せなんてありはしないさ」
 机から降りて近くに置いてあった自分の鞄を手にした。
「帰ろう」
 最近は彼女と二人で帰るのが当たり前となった。冷やかす同級生もいるが僕も彩原も気にしていない。僕としてはこんな彼女を放っておけないのだ。
 廊下をたわいもない話をしながら歩いていたら、向こう側からある集団が歩いてきた。思わずきびすを返したくなるような面子だな。あの元容疑者の三人だ。三人とも実に楽しそうに会話しながらこちらに向かってくる。
 向こうもこっちに気がついた。僕は思わず足を止めたくなったが、隣の彩原は俯きながら早歩きをしだした。三人は声をかけてくることもなく、僕らはすれ違い、通り過ぎた。ほっと胸をなで下ろした瞬間だった。
 少し前を歩いていた彩原が急に動きを止めた。
 その場で立ち止まり、えっと独り言のように声を漏らした。そしてしばらく静止した後、口元を両手で覆い瞳を大きくさせる。なにがどうしたのか不明だが、彼女が何かに気づいたことは分かった。
 彼女は一気に体の向きを変えて、さっきの三人の背中に向けて声を張りあげた。
「ちょっと待ってっ」
 声を聞いて三人が一斉に振り返る。彼女はその三人の真ん中にいた菅原先輩へと向かって言った。
「あなたはあの日、許可は取ってあるっていってましたけど、あれは誰のですか」
 あの日のことを思い出す。あの三人が急に準備室へ入ってきて、焦った僕がここは図書委員以外は立ち入り禁止だと怒鳴ったときに彼はこう返してきた。
『許可は取ってある』 
 そういえばあの混乱のせいで気にならなかったが、確かにあれは誰のだ。
「春川の奴だよ。聞いてなかっただろうけど、俺らはあの日、春川にずっと扉の前で待機してるようにって指示されてたんだ」
 彩原の顔色が変わり、血の気が引いている。
 準備室へ入る許可を取るには図書委員と話さなければならない。けれどカウンターにいた当番はそんな許可は出せない。許可が出るかと聞かれたところで、中にいる春川先輩にいいかどうかを訊くだろう。
 あの日、三人に許可を出せたのはあの人だけだ。
「俺たちはあの日、お前らが事件を解決したって聞いたんだ。それで放課後に扉の前で聞いといてくれって言われてたんだよ。俺らが解決するその場所にいたら推理の邪魔になる可能性があるからってな」
 待て。そんな話は一切聞いていない。そして春川先輩もそんな素振り一切見せなかったじゃないか。そもそも、あの日の前日に彩原が犯人は春川先輩だと断言していた。じゃあ、春川先輩は自分が犯人だと証明される瞬間をわざと三人に見せたことになる。
 そんな訳の分からないことって……。
 彩原が一歩退いた。そしてそのまま、また一歩。頭を抱えて、顔を白くして、手を震えさせて。
 三人が怪訝そうにしながらも立ち去っていった後も、彼女はしばらくそうしていた。ようやくおぼつかない足取りで動き出したと思えば、下駄箱ではなく図書室へ向かい出したので焦った。あの日以来、彼女はそこを避けていたはずだ。先輩と会うのが嫌だから。
「彩原、どうしんだよ」
「……私はどうもしてない。どうかしているのは……あの人だ」
 彩原はその後、何も言わず何かを黙々と考えていた。準備室の前についたとき、ようやく口を開いた。
「なあ楠野。私は、とんでもない失敗をしたんだ」
 声のトーンが異様に低く、背筋がぞっとした。
「やっぱり……私はあの人には勝てないんだな」 
 彼女が何に気づいたのかさっぱり検討がつかなかった。けど彼女がひどく後悔してることは、その声から、その顔から、その空気から伝わってきた。
 二度と開くことが無いかもしれないと思っていた準備室の扉を開くと、そこにはこの間まで当たり前だった風景があった。テーブルと、そこで一人でチェスをする先輩の姿。彼女は僕らが入って来ても顔を上げもしなかった。
 扉を閉めると彩原は先輩の隣に立った。
「もう私になんか二度と会いに来ないと思ってたわ。何の損もないから別に良かったけど」
 二週間ぶりに耳に触れた先輩の声は、あの時と変わらず冷たかった。
「……そんな演技、やめてください」
 彩原がそう懇願した。演技? これが演技だというのか。
「さっき、あの三人が一緒のところを見ました。それでようやく気づけました。あなたの本当の望みが」
「おかしなことを言うわね。私の望みはとうに叶えたわ」
「ええ、そうでしょうね。二週間前のこの場で、あなたは計画を完遂させたんですから」
 駒を持っていた先輩の手が止まり、そこで彼女はようやく隣にいた彩原を見た。そして悲痛に満ちた顔を見た。
「……まさか、あなた」
 先輩が声を振るわせて問うと彩原は頷いた。
「あなたの目的がようやく分かりました」
「ちょっと彩原、できれば僕にも分かるように説明してくれよ」
 あまりに唐突すぎる会話の流れについて行けなくて、彩原を呼び止めた。彼女は先輩から視線を外して僕に向けた。
「よく考えれば、私の推理は穴ぼこだらけだった。矛盾点がいくつもあった。例えば、小泉の証言だ。あいつは先輩に頼まれたから、この人が準備室へ出ていないと証言したが、この人が当日学校にいたかという質問には、いたと答えた。よく考えればおかしい。準備室から出ていないと証言させるより、当日いなかったと言わせる方が、アリバイになる」
 そういえばそうだ。そもそも当日いたから、準備室からの脱出方法などを検討した。もしも学校にいなかったと証言されれば、僕たちはまた違う調査をしていた。そうしていれば制服も見つけられず、小泉を疑うこともなかったかもしれない。そうなれば僕らは証拠を掴めなかった。
「そしてまた次に協力者の小泉だ。どうして協力者を彼にしたんだ。この人は私たちが仲が良かったことを知っていた。なのにそんな彼を協力者に普通するか」
 そうだ。先輩は二週間前ここで、そういえばあなたたちは仲が良かったと発言している。僕らの仲は知っていた。なのにそんな彼を協力者にした。僕たちも小泉だから秘密を暴けたんだ。もしも他の誰かだったら、先輩が準備室を出たことを調べられなかった。また小泉も僕らだから真実を話したんだろう。
「次に証拠になったピアス。あれもおかしい。彼女は片方を探していて、片方は持っていた。私はこの人が自分の意志でピアスを外し制服にいれたと推理したが、どうせピアスを外すなら両方を同時に外す。片方を取りわすれることなんかないだろう。そして両方外していたなら、片方だけ忘れずにつけたというのも矛盾だ」
 その通りだ。確かに片方だけのピアスなんておかしい。日頃片方だけをつけているなら納得しようもあるが、先輩がそんな特殊なつけかたをしてるのを見たことない。
「証拠つながりで言うとあの男子制服もそうだ。あれは落とし物箱にあった。けれど、ここに竹刀があった。おかしいだろ。ここに竹刀を隠すなら、制服もここに隠すべきだ。逆でも構わない。そうできたはずだ。なのにこの人はあえて、それらをバラバラにした」
 男子制服が落とし物の中にあったから彩原はピアスという証拠をつかめた。そしてその制服から先輩がどうやって竹刀を校内に持ち込んだかも推理した。けれどあの制服がもしここに隠されていたなら、そんなことはできなかった。
 そして逆に竹刀も落としてしまえばこの部屋から確たる証拠は消える。先輩を追い詰める要素が薄くなり、僕たちは彼女が犯人だと追い詰められなかった。二つが別々の場所にあったからこそ、僕らはあの結論に至れたんだ。
「それに二週間前、ここで楠野、君は先輩にゲームを見せて小泉から証言は取れてるといった。それに先輩が何か言おうとしたのを覚えてるか」
 それははっきりと覚えていた。確かに先輩はあの時何かを言おうとしたが、結局何も言わずに口を閉ざしたのだ。
「あれはきっとこう言おうとしたんだ。小泉の証言が真実だと証明できるか、と。そうなるとどうなるか。楠野、君はこれに何か反論をできるか」
 頭を働かせて何か反論を考える。きっと無茶苦茶な言い分だと思いながらも、僕はこれに反論できないだろう。僕と小泉は友人で、協力を仰いだんじゃないかと言われたりすれば、論理的に彼が真実を話したんだと彼女を説得できなかったろう。
「できるはずない。私だってできない。なのにこの人はこの台詞を使わなかった。……これらのことを繋げていけば、彼女の目的がようやく見えてくる」
「待ちなよ彩原。確かに先輩は自分に不利なように動いているけど、それは君との勝負のため、君にヒントを与えていたんじゃないか」
 彩原の推理通りだということはすでに先輩が自白している。ならば先輩がこの勝負を面白くするために、彩原が捜査をしやすいようにしても不思議じゃない……。
「君だって先輩とチェスをしたことがあるだろう。その時を彼女の戦い方を思い出せ」
 先輩のチェスの戦い方……。それを思いだして彩原の言いたいことが分かった。先輩はどんな人が相手でも力は抜かず、ハンデもしないで、全力で戦う。だからこそ僕は先輩とのチェスの勝負が嫌だった。
 そんな彼女が勝負を面白くするためになんて理由でヒントや、自分が不利になる状況なんて作り出すはず無い。彼女が本当に勝負をするつもりなら、全力をもって彩原に立ち向かったろう。そうすればさっきまでの矛盾点なんてすぐに消え去る。先輩があんなにミスをするはずがない。
 じゃあ、どうしてだ。どうして先輩は自分を不利な状況に追い込んだんだ。
「だから、彼女の目的は私との勝負なんかじゃなく、もっと別のことだ」
 彩原が両方の拳を握りしめ、それを自分の腰の横で震えさせている。何かを言おうとしているのに、言葉にならないのか口が動いているだけで声になっていない。
「……なら、私の目的はなんなのかしら」
 ずっと沈黙していた先輩が彩原を見上げたまま訊くと、彩原はテーブルをその拳で叩き、怒鳴るようにその真実をはき出した。
「あなたの目的は、私にあの事件はあなたが犯人だと解決させることだったんですよっ」
 

「い、意味が分からない」
 それが素直な感想だった。自分の考えを叫び終えた彩原は、何の反応も示さない先輩をじっと見つめていたが、少しして口を開いた。
「この人は自ら犯人になることを望んだんだ。この人の目的は宮田先輩を傷つけることでも、あの三人を陥れることでもなく、自らが犯人だという真実を作り出すことだったんだよ」
「いや、だからそれの意味が分からないんじゃないか。そんなことをして何になるっていうんだよ」
 自らが犯人だという状況を作り出して、一体何の得があるというのか。先輩が以前言っていたとおり、先輩がみんなを嫌っているということを伝えたくてそうやったのならまだ理解できなくはないが、彩原はそうじゃないと断言している。傷つけることも、陥れることも目的じゃないと。
 なら先輩の行動は全て意味不明だ。何の目的も見えない。
「何になる……そうだ楠野、君は正しい。何にもならない。この事件、彼女にとって得になることなんて何もない。だから、この人はどうかしている」
 彩原が頭を押さえながら首を振る。彼女自身、まだ彼女の中にある推論を信じていないようだ。いや、違うな。信じられてないんだ。
「私は以前、こう言った。この事件は解決したところで何もならないと」
 それも覚えている。故に解決に意味がないと。
「けど現実はどうだろう。私がこの人が犯人だと事件を解決したらどうなったか」
 どうなったかと問われると……先輩はまるで人が変わったかのように振る舞いだして、それによってクラスの信頼や地位、そして多くの友人を無くして、彩原は精神的に傷ついて……。何にもならないということにはならなかった。けれど、全て悪いことだ。それは先輩だけじゃなく、誰にとっても。
「悪いことしか浮かばないだろ。けど違うんだ。先輩が犯人で、クラスで孤立する。これによってあることが生じるんだ」
 いくら想像力を働かせても、何も思い浮かばない。少なくとも今生じている現実の中で、誰かにとって得になったものなどありはしない。
「……ああ、そうだ、私たちは以前話したじゃないか」
 彼女が何かを思いだしたようだが、僕は何も思い出せない。話したって何をだ。
「あれは宮田先輩の事情聴取をした日の朝か。私と君と小泉で一緒に登校したのを覚えているか」
 そのことはすぐに思い出せた。最初は一人で登校していたのだが、小泉に話しかけられて、その後すぐに彩原と会って。記憶がだんだんと鮮明になっていく。
「その時の私たちはちゃんと話してたんだよ」
 あの時の会話……。そうだ、確か、小泉が自分の竹刀を買ったと喜んでいたんだ。それで彼がなぜそんな部活熱心なのかという話になって、その理由を聞いて……。それで、それで……。
 僕の顔色が変わっていくのが自分でもよく分かった。全身の血が一気に引いていく。
「そうだ、君の想像通りだよ。あの時、私たちは剣道部がなぜ熱心になったのかという話題から、こういう話に発展した。敵がいれば集団はまとまるという話にな」
 そうだ。あの時、彩原は芸能人などをバッシングする日本人の話を例に出して、僕はプレイしたことのあるRPGゲームの登場人物達の関係を思いだしていた。そうだ、あの時ちゃんと話していた。
「敵がいれば集団はまとまる。そして春川先輩にはまとめなければならない集団があった」
 そうだ。彼女はずっとそれに悩んでいた。どうしてまとまらないのか分からなくて、こんなこと初めてだと漏らしていた。そうだ、だから先輩は……。
「先輩のクラス。まとまりながないといっていたあのクラス。先輩はそれをまとめるために、敵を作ることにした。そして――」
 彩原と目があった。お互いに悲しみに満ちた表情をしているのだろう。彼女は目を瞑ってゆっくりと開くと、その真実を外気に触れさせた。
「自らがその敵となってみせたんだ」


 なんで先輩が宮田先輩を傷つけたか。彼はクラスで人気と人望が厚くて、それで会長になったほどの人だ。そんな人を傷つけたら、クラスでは大混乱が起こるし、その反発は大きくなる。そして犯人捜しが過熱する。
 そして犯行時にウルトラマンのお面をつけることによってクラスメイトの怒気をあげた。
 最終的に犯人が分かったときに反発が強ければ強いほどまとまりは強固となる。春川先輩はそれらを全て計算していた。だからこそ、自分が犯人であるとクラスに伝わったとき、一人ずつ名前を挙げていき批判した。彼女に対する反発がどこかで乱れないように、全員に自分に対する敵対心を作るために。
 ああ、彩原が言っていた。この事件はおおげさだと。当たり前なんだ。先輩が大げさにしたんだ。じゃないと事件解決後の衝撃が少ない。クラスにダメージをそこまで与えられない。それじゃあ、元も子もない。
「この人の目的はそれだけじゃない。あの三人だ。確か、ここであの三人の事情聴取を終えたあとだったな。私たちは先輩からクラスにまとまりがないという話を聞き、先輩が昔からクラスの代表になっているということも聞いた。そして彼女は言っていた」
 その時の彼女の言葉の一つが自然と頭に思い浮かんだ。
『イジメをなくしたり、教室で一人の子に友達を作ったり、クラスをまとめたり』
 彼女は今までずっとそうしてきたと言っていた。そうだ、今回もそれなんだ。彼女はただ、自分の責務を全うするために行動しただけなんだ。
「あの三人はクラスでういていた。そして川平先輩はイジメにあっていた。それをなくすのにはどうすべきか。簡単だ。あの三人に共通点を作り、無理矢理仲良くさせる。そしてそれとほぼ同時にクラスにイジメの代わりとなる敵を出現させる。そうすれば川平先輩に対するイジメも自然と消える」
 それもただの共通点じゃいけない。彼らが本気で傷つき、腹が立ち、許せないという同じ感情を、同じ境遇で、同じタイミングで抱かせないといけない。そのために彼女は彼らを容疑者にした。そのために脅迫状を送りつけもした。
 次に最初から犯人がクラスの中にいることが分かるように教室にジャージとお面を隠した。そして捜査の指揮権を握り、彼らの中に犯人がいるという状況を作り出し、事件を大げさに扱った。これで彼女の計画はひとまず終わりだ。
 そして彼女は次へと駒を進めた。それが彩原だ。先輩の計画ではいずれ犯人が自分であるということを、出来る限り第三者の確たる証言で欲しかった。そしてそれと同時に、あの三人の疑いもはらす必要があった。それで先輩が目をつけたのが彼女だ。
 彩原ならきっと事件を解決できる。それを確信した先輩は僕らに依頼をし、事件へと介入させ、彩原が『先輩が犯人である』という結論に早期に至れるようになるべくヒントを出し続けた。
 そして彼女が事件を解決しても自分を庇う可能性があることをよんでいた。だから、扉の外であの三人を待機させて、彩原の推理をクラスの人間、彼女に敵対する人たちに聞かせた。そして彼らを媒体にしてクラスに真実を知せた。
 そしてクラスの敵意が全て自分に向くように、まるで人が変わったかのように振る舞い、みんなに嫌われるようにした。更にはクラスで「負けないでしょうけど」と言い放ち、彼らの心に彼女に勝ってやろうという熱意を宿させた。もちろん、先輩に勝つのは容易じゃない。だから、彼らは否応なくまとまるだろう。
 しかも自分が変わることによって彩原を失望させて、彼女の思考をそこで止めにかかった。先輩にとって彼女がそれ以上思考を働かせて、この真実に気づくのは避けなければならなかった。だから彼女を傷つけ、自分のことを忘れさせようとしたんだ。
 けど、けどこの計画は……。
「こんな計画、おかしいよ。だって先輩には痛みしかない」
「……ああ、そうだ。けど彼女がその痛みを一身で背負うことで生じることがある。彼女が望んだのはそれだ」
 それは聞いた。それは分かった……けど、だけど、そんなのはあんまりではないか。クラスのために、他者のために、そのクラスや他者に嫌われるなんて発想はどうかしている。
「先輩、これが真実ですね」
 彩原がそう訊くと、先輩は二週間ぶりにその笑顔をみせた。心を抱擁するかのような、優しい笑顔を。
「楠野君、君は前に話したわね。人にはその人の全うすべき役回りがあるの」
 先輩は僕が相談したときこう教えてくれた。『自分の役割は自分で見つけなきゃいけない、生み出さないといけない』と。それの言葉に元気をもらった。けど、こんな形じゃなくても……。
 先輩がようやく真実を告白した。痛みしかない、悲しきそれを。
「これが私の見つけた、私の全うすべき、私の役回りよ」


 チェス盤の上にあったたくさんの駒達が床に落ちていった。彩原がチェス盤の駒達を手で思いっきり払ったのだ。その行動に意味なんかない。表しようのない怒りの、悲しみの表現なんだ。
「他に方法はあったでしょうっ。あなたほどの人なら、方法なんかいくらでもっ。もう少し時間をかければ解決策だって見つかったかもしれない。どうして、こんな方法をえらんだんですかっ」
 彩原の言い分はもっともだ。先輩がこんな痛みしかない選択をする必要はなかった。彼女なら今すぐじゃなくて、時間をかければきっともっといい解決策を見つけれた。
 しかし先輩は首を横に振る。
「駄目なのよ、今じゃなきゃ。私たちは高校三年。三学期はほとんど学校に来ない。なら、残された時間はあと二学期だけなの。そしてその二学期には文化祭も体育祭も、彼らの大切な思い出になるイベントがある。だからそれまでの間に急いでクラスをまとめなきゃいけなかった」
 確かに高三のイベントは学生生活でも最後のものだ。できるなら華やかな、できるなら楽しい、できるだけ多くの人との思い出にしたいだろう。だからといって、彼女がここまで辛い役回りを背負うことはないはずだ。
「私はあのクラスの責任者だし、あのクラスの子達が好きなのよ。だから彼らが幸せならそれでいいわ」
 彼女は自分の胸のところに握りしめた拳を持ってきて、きりっと強く鋭い目をした。
「私は誰かが幸せになれれば、それでいいと思ってる。そのためなら私なんかどうでもいいとも考えれる。そして誰かを幸せにするためなら、血を吐いても、身が裂けても、骨が砕けたっていいわ。それが私の望みだもの」
 先輩は決して声を荒げたりはしなかったが、その言葉は今まで聞いたどんなものより、見えない強さを感じた。彼女の望みは赤く激しく燃える炎ではなく、青く静かに燃える炎のようなものだ。静かで目立ちはしないが、確かな熱を帯びている。そしてそれは中々消すことはできない。
「……なにが、人の幸せだ。ふざけるな、格好をつけるなっ」
 相反して彩原は感情を抑えきれずにいる。当たり前だ。
「なら私はどうなるんですか。あなたを信じて、あなたに裏切られて、あなたに傷つけられて、あなたの真意を知ってしまった私はどうなるんですかっ」
 それは幸せにはほど遠い。彼女にとってはあまりに過酷な現実だ。どう転んだって彩原に幸運はなく、この真実に気づかなくても傷ついていたし、知った今はもさらに傷ついている。これでは嘆いても仕方ない。
「あっ、そうだ彩原。この事実をクラスに知らせれば――」
 僕が出そうとした打開策は、馬鹿か君はという罵倒で出し切れなかった。
「こんな馬鹿げた真実を誰が信じるんだ。それに誰がクラスにいうんだ。君か、私か。忘れた訳じゃないだろう。あの結論を出したのは私たちだ。今更、前言撤回しますと言って信じてもらえるものか。きっと私たちが先輩に丸め込まれたと思われるのがオチだ。それに、私たちがこれを話したところで、この人がクラスでまた同じように振る舞えば何の意味もない。……分からないか、もうどうしようもないんだよ」
 彼女に言われて悟る。ああそうだ。いくらこれが真実だと告げても、これには物証はない。それどころか今のクラスは先輩に対する反発心が強い。そんなところに彼女がみんなのためにやったことだという話を持って行ったところで、信じられるわけないし、信じてもらっても先輩自身がそんなの嘘よと言えば、また無になる。
 もう僕らじゃどうしようもないんだ。この現実はもう戻せない。
「当たり前よ。私が自分が後戻り出来ないように計画したもの」
 しれっとそう言ってのける先輩はまるで後悔していない。
 当たり前か。そうなのかもしれない。先輩がそんな中途半端な計画をたてるはずない。けど、彼女は最後の最後まで自分を窮地に立たせているだけだ。それは確かにクラスにまとまりを生むのだろう。
 しかし、僕はこう思わずにはいられない。
「先輩、こんなの諸刃の剣(つるぎ)ですよ」
 確かに先輩の言うとおりクラスメイトにいい思い出はできるかもしれない。けど、それに先輩は含まれない。彼女は常に陰に回り、一緒の思い出を共有することをできない。それどころか残り少ない高校生活をみんなに忌み嫌われながら過ごし、なおかつ自分が好きなクラスメイトたちを傷つける。
 クラスにとって得でも、彼女にとっては損でしかない。
「……そうね。けどいいわ。耐えてみせる。私にはこれからどう行動すればクラスがまとまるか、手に取るように分かるわ。だって私の身の振り方一つで彼らの感情が大きく動くんだもの。こんなに扱いやすいことってないわよ」
 そんな話をしてるんじゃない。確かに先輩が痛みを一身に背負い込むのは非情とは言え、先輩の選択だ。だから僕が言いたいことはそんなことじゃない。
「彩原の言うとおりですよ。彩原はどうなるんですか」
 ここで初めて先輩の表情に影が出来た。
「あなたが人の幸せを願うなら、彩原は……」
 彼女だけは計画に利用すべきじゃなかった。どう転んでも彼女に幸福はない。先輩と同じで痛みに満ちた終わり方しか迎えれない。そんなのあんまりだ。惨いと形容できる。
「……やっぱり、私はあなたに勝てなかった。そしてそれさえも、あなたの計算のうちだったんですね」
 彩原がその場に膝をついた。彼女の当初の目的は先輩の依頼を達成すること。そしてそれで先輩を楽にさせたかったんだろう。けど、終わりを迎えてみればこれだ。彩原はただ駒として動かされたに過ぎない。彼女からしてみれば心に鋭く尖った爪を食い込まされたようなものだ。
 信じた人に利用され、信じた人に傷つけられ、そして知らず知らずのうちに信じた人を窮地に追い込んでいた。
「私は……とんでもない失敗をしてしまった」
「違うわナナ、それは違う」
 初めて先輩が言葉を強めて、崩れた彩原に駆け寄る。そして彼女の両方の頬を持って、彼女と向き合った。
「あなたは負けてなんかいないし、ましてや失敗もしてない。失敗したというならそれは私のほうなのよ。私は何が何でも、あなたが真実を知らないようにすべきだった。けどそれができなかった」
 先輩は彩原がこの真実に気づく可能性があることを分かっていたからこそ、あの時彼女を傷つけた。そしてその後に自分がどんなにクラスでひどい目にあっていても、当然の報いだと彩原に思わせるようにしておいた。
 しかし彼女は気づいた。先輩の計画を全て見破ってみせた。そしてそれと同時に、自分がしてしまったことへの罪悪感が生まれた。先輩に失望したままならば、彼女がどんな境遇でもどうとも思わなかった心が、彼女の真意をしることで激変する。
 自分が解決しなければ、先輩はそんな状況にならずにすんだ。自分がもう少し頭を働かせていれば、どうにかなった。
 こう思ってしまう。そしてその罪悪感はこの先ずっと、彩原につきまとう。
「やっぱり、ナナには勝てない。ここでもステイルメイトだもの。どうしてかしら、あなたには最後の一手がうてない……。あなたが私にチェックメイトって告げたとき、勝ったと思ったのに」
 ステイルメイト。先輩と彩原が初めてチェスで対決したときになった、引き分け。ただの引き分けじゃなく、圧倒的に不利な状況を引き分けに持ち込む荒技。彩原はもう先輩を助けることは出来ない。先輩はもう後に戻らない。けど先輩の計画を超えて、彩原は真実を突き止めた。だから、ステイルメイト。どうしようもない終わり方。
 彩原の両目から滴が次々と流れ、頬をつたっていく。先輩が彩原の涙を拭き、そして彼女の首に自分の両手を絡みつかせて抱きついた。
「ああ、どうしてあなたはこう、最高の後輩なのかしら。なんでこんなひどい先輩のために泣くのよ。私がどうなっても、あなたは私を恨めばいいのよ」
 そうできれば彩原の心は遙かに楽になるだろう。けれどそんなことができるはずもない。彼女が先輩を恨めるはず無い。ましてや真実を知りながら、そんなことできるものか。
 彩原が涙声で先輩に訴えた。
「お願いです……今からでも遅くない。みんなに真実を告げてください。そ、そうすれば、まだっ」
「ごめんね」
 返答は早かった。それには一辺の迷いも躊躇もなく、彼女の意志の固さを表していた。
「それはできない。私には私の役回りがあるのよ。……分かって、お願いだから」
 先輩が彩原から離れて、ゆっくりと立ち上がる。そして天井を見上げて、深く、深く息を吐いた。一体、どんな感情をはき出したんだろう。
 床に崩れおちている彩原が彼女を見上げたまま、絶望にくれていた。さっきの先輩の拒絶はこれから先の展開を決定づけるものだ。もう何もならない。あとは先輩の計画通りになるんだ。二人の女子高生の犠牲の上に。 
「もう、ここでお別れ。これ以上あなたちと向き合っていると覚悟が揺らぎそう。だから、ナナに楠野君、もうこの部屋には入っちゃ駄目よ」
 先輩が準備室の扉の方に足を進めながら、そう命じてきた。この部屋に入るなと言うことは、もう二度と私に会いに来るなということだ。それは明確すぎる拒絶だった。
「ま、待ってください。それじゃあ、あんまり――」
 反抗しようとした。そんなこと聞いてられるかと心底思った。だから口に出そうと思った。けど、それは叶わなかった。先輩がまっすぐと僕の目を見て、さらに言葉を続けた。
「これは委員長命令よ。いいわね?」
 その言葉には、その視線には彼女の威厳が、彼女の意志が含まれていた。反論できない。今目の前にいるのは、まぎれもなく、確かに『春川先輩』なのだ。僕らが誰よりも尊敬していた、あの人なんだ。
「次に私が戻って来るまでにこの部屋から出ておくように」
 先輩は準備室から出ようとして、ドアノブに手をかけてそれを回そうとした。
「……間違ってますから」
 そんな彼女の背中に悲しみに満ちた声が突き刺さった。声の主は俯いたままだが、はっきりとその言葉を繰り返した。
「あなたのやり方は、間違ってますから」
 ドアノブを回す手が止まり、少しだけ開いた扉の隙間からわずかだが風が入ってきて、それはカーテンを揺らした。
「分かってるわよ、そんなこと」
 扉が一気に開いて彼女が出て行った。その時、一瞬だが彼女が僕を見た。その視線で僕を射た。そしてようやく、ここにきてやっと、彼女の用意したもう一つの駒の存在に気がついた。
 先輩は彩原が真実にたどり着くことを読んでいた。そのため彼女を傷つけた。ならば、例え彩原が先輩に傷つけたれた後でもその真実に気づくことも考慮できたはずだ。そして彼女はそんな欠陥を見過ごす人じゃない。だからここにも一つ、駒が用意しておいたのだ。
 僕という。
 真実に気づいた彩原がひどく傷つくと考えた彼女は、その傷を知っている、その傷を共有できる、その傷を癒せる存在を必要とした。だから僕を調査に加えさせて、真実を知っているのを彩原一人じゃなく、僕もにした。
 この真実は一生僕らの胸に仕舞われる。もしも彩原一人がこの悲しすぎる真実を背負うことになったら、さすがの彼女でも耐えられないだろう。先輩は知っていたんだ。一人で背負い込むという辛さを。
 一人よりも二人の方がいいに決まっている。孤独というのはあまりに厳しい環境だ。だから先輩は彼女をそうさせないために……。
 僕の見つけた、僕の全うすべき役回りがここにあった。
 例え先輩が仕組んだことでも、そんなのは関係なく、僕は今ここで一人床に崩れ落ちている同級生の女の子を、大切な友人を放っておけない。せめて彼女の側にいよう。出来る限り、傷を癒そう。
 なるだけ優しい声で名前を呼ぶと彼女は泣きはらした顔を向けてきた。ポケットからハンカチを取り出して、それを渡す。彼女はそれで目元を押さえるが、今度は嗚咽が聞こえてきた。
 隣に腰を下ろして、そっと彼女の肩に手を回す。泣き止めとは言わない。けどせめて、一人じゃないと知ってて欲しい。君が一人じゃないというのが、あの人の望みでもあるから。
 少し視線を移すと、床に散らばったチェスの駒達が目に入った。テーブルの上にもまだ駒があり、それらはほとんど横に倒れていたのだが、チェス盤の上に一つだけ立っている駒があった。
 クイーンの駒だけが毅然と、けれど孤独に立っていた。


――エピローグ――


 教室から誰にも気づかれないように静かに逃げるように出て行く。三月の中旬ともなると、廊下は何かを羽織っていないと寒い。右胸にピンセットでとめてあった造花を取って、それを卒業証書やアルバムの入った鞄の中に入れる。
 今、彼女の胸の中には達成感で満ちあふれていた。ついに今日という日を、自分が望むような形で迎えられた。今までの人生、わずか十八年だがその中でもこれに勝る喜びはない。多大な犠牲を払った価値は十分にあった。
 クラスメイトたちは笑顔でこの日を過ごしている。式中には泣き出す女子もいた。一学期のあの状況ではこんな感動的な卒業式を迎えれなかっただろう。
 あの事件からクラスがまとまるように行動してきた。その分嫌われたが、今日のみんなの笑顔を見たら、そんなのはどうでもよく感じれた。彼らは一生、自分を嫌うだろうがそれでも構わない。覚悟していたことだ。
 さっきも教室でクラス全員で写真を撮ろうという話になっていたので急いで出てきた。彼らの綺麗な思い出に自分が入っては駄目だ。
 三年間使い続けた下駄箱で靴に履き替え、愛用していたスリッパを袋に入れて鞄にしまう。そのまま物思いにふけながら校門へと向かう。
 もうこの学校に来ることもないと思うと非常に感慨深かった。充実した三年間だった。最終的に全て失ってしまったが、それ以前に得たものはたくさんあって、それは今後の人生で大きく役立つだろう。
 校門の前のベンチに一人の女子生徒が座っているのが見えた。思わず足を止めると、彼女が立ち上がってこちらに足を進めてきた。その両手には綺麗な花束が抱えられている。
「卒業おめでとうございます」
 彼女はそう祝辞をするとその花束を差し出してきた。
「こんな私の卒業を祝ってくれるの」
 自分が傷つけた後輩。彼女がどれだけ傷ついたか、それは想像に及ばない。例えいかに正当な理由が存在しようと、彼女を傷つけたことは紛れもなく罪で、それが三年間の唯一の後悔だった。
「あなたは私の先輩なんです。どうあろうと、なにをしようと」
 部屋にはいってくるなという命令に素直に従ってくれたおかげで彼女を見るのは、最後に見たときから半年以上経っていた。
「あなたのしたことを私は許しません。間違ってるとも思います。けど、ここであなたが一人でいるのも間違っています」
 相変わらず優しい。
「せめて最後くらい、側にいます」
 この半年間、常に一人だった。そうなることを自ら望み、叶え、実行したのだから当然だ。覚悟もしていた。けれど、幾度も寂しいと感じたのは確かだ。それをどうにかかみ殺してきた。
 目の前の後輩はそんな彼女の気持ちを、一度もあっていなくても察してくれていたのだろう。
 花束を受け取ると、彼女はその手を伸ばして後輩の頭を撫でた。
「ありがとう」
 彼女は頭を撫でたあとは、その長い髪の毛を指でとかしてみた。自分に憧れてこの長さにしてくれたらしいが、自分のはあの事件の時にばっさりと切ってしまい、また伸びるのにまだしばらくかかりそうだ。
 彼女の肩を抱き寄せて、彼女の耳元で優しくささやいた。
「この春であなたにも後輩ができるわ。本当に私を先輩と思ってくれているんなら、最後に先輩らしく振る舞わせてね」
 彼女はそのまま後輩の頭をそっと優しく抱いた。
「いい先輩になりなさい。私みたいになったら、絶対に駄目よ」
 抱いている彼女が小さく震えだした。彼女が今の、私みたいなという言葉をどういう意味で受け取ったかは知らないが、これは先輩として心から願っていることだ。まだ見ぬ彼女の後輩のためにも、彼女自身のためにも。
「じゃあね。ありがとう」
 彼女から手を離してすぐさま背中を向けて校門へと向かう。
「……またいつか、会いに来てください。私がいい先輩になってるかどうか、ちゃんと確かめに来てください」
 立ち止まってどう返答しようか考えた。その間に風が吹く。 
「なってなかったら、また口うるさく叱るわよ」
 出てきた言葉は意識したものではなく、自然と口からこぼれ出たに近い。
「お願いします」
 いつぶりだろうか。こんな、先輩と後輩らしい会話は。
 校門の直前まで来て小さく振り向くと、彼女だけでなくもう一人の男子生徒が彼女の隣に並んで立っていた。恐らく彼女に二人で話させてくれと頼まれたのだろう。
 二人が同時に頭を上げて、礼をした。何も言わず校門からでる。今度ここに来るときはいつになるだろうなどと少し微笑んで考えながら。
 校門の上からはみ出した桜の木の枝を見つめる。その先には固く閉ざした蕾がもうそこまで来ていている春を今か今かと待ちわびている。その蕾を見ながら、彼女は祈る。
 どうか、この春が誰にとっていい季節であるように。出来るならば、あの二人にとって。
 目元を拭い、また歩き出す。これで終わりじゃない。まだ自分の全うすべき役割はこの先ずっとある。彼女はそれに向けて足を進める。
 見上げると空はひどく青かった。


〈青の章〉――彩り、終了。

2010/04/01(Thu)00:01:15 公開 / コーヒーCUP
■この作品の著作権はコーヒーCUPさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
※作品の核心に触れるメッセージです。作品を読んでから読んでください。

「どれほど優れた名探偵がいても、それにふさわしい事件がなければその存在は意味をなさない。ついに優れた犯人がいなければ、名探偵になど用はない」
 自分が好きな漫画の一部台詞を抜粋しました。今作はこの言葉を胸に抱きながら書いたんですよ。自分が描きかかったのは「名探偵」でもなんですが、今回は「名犯人」を重視しました。
 今回の作品。ミステリ用語を使えば、「操り」というものです。探偵が犯人の意のままに動いてしまうと言うもので、自分の敬愛する多くの推理作家が使っている手で、自分も挑戦してみました。上手くできたかどうか判断してもらいたいものです。
 春川の持論。彼女のような生き方。実は自分は狂ってるとか間違ってるとか書きましたが、憧れますし、してみたいものです。
 さて、タイトルの意味も明かして、伏線や矛盾点を全て回収したので、今回の作品はこれにて終了です。昨年の十二月の半ばから連載し始めて、三月の最終日に負われました。三ヶ月半、こんな稚拙な作品を読んでくださった読者の皆様に本当に感謝しています。ありがとうございました。 
 これはシリーズ二作目。できれば今年のうちに三作目の『戦士の楔』というものを連載したいと思っています。今作の一年後の話で、今作と違い、序盤から楠野が活躍する予定です(自分の脳内では)。
 前回のご指摘から急遽、プロローグを追加。書いてみたかった春川と彩原のファーストコンタクトを描いてみました。即席なのであまり自信はないんですが。
 最後になりましたが、感想やアドバイスをくださった皆様、本当にありがとうございました。皆さんの助言なしにこの作品の完結はありえませんでした。本当に感謝しています。
 しばらくしたらまた違うタイプの作品を書き始めようかと思っています。もしよろしければ、そちらの方もよろしくお願いします。
 では、お世話になりました。

 感想、苦情、アドバイスなどよろしくお願いします。

 この作品の二年後、主人公の楠野と彩原が高校3年生のときの作品。タイトル『聖母の柩―赤色の炎―』。
http://novelist.eldorado-project.com/temp/viewer.cgi?mode=read&id=2008_08_20_23_56_40&log=20080730

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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