『囚人のジレンマ(完結)』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:プリウス                

     あらすじ・作品紹介
『イワン・イリイチの死』という小説をご存知か。『アンナ・カレーニナ』『戦争と平和』などで有名なレフ・トルストイの作品だ。彼の描く物語には、人間の死というものを極限まで見つめる姿勢がある。イワン・イリイチは自らの死を悟ったとき、周囲に溢れる欺瞞に気づいた。自分に同情を寄せる人々が、自分たちもいずれ死ぬ存在だということになんと無自覚なことか。そう、イワン・イリイチ(レフ・トルストイ)は感じたのだ。前世紀において最大の哲学者と称されるハイデガーもまた、死を極限まで見続けた人の一人だ。彼は人間を「現存在」とし、死と共にあり死に向かい続ける存在と考えた。『異邦人』で有名な小説家カミュもまた『シーシュポスの神』において、哲学の最大の問題は人間の死であると述べた。昔も今も、死は人間が直面する最大の問題だ。それを受け入れるも良し、否定しあがき続けるも良し、端から無視するも良し。大抵の人は、受け入れるでもなし、否定しあがき続けるでもなし、端から無視するでもなし……ただ忘れているだけなのだが。

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00.序章

 記憶にあるのは、深く暗い闇。体中を締め上げるような痛み。遠くの光。薄ら寒くなるほどの静寂、そして振動。底には、何か大きな生き物が大きな口を開けて待っている予感。遠のく光。絶望はなく、ただただ寂寥感がつのるばかり。ああ、自分は死ぬんだなという安堵にも似た諦め。これでいいのだと思った。自分はそうなるに相応しい、いやそうなるしかない人間なのだから。遠のく意識。光はもう届かない。沈む。沈む。ゆっくりと、着々と。記憶はここで途切れた。

 僕は死んだと思った。でも助かった。助かったのだ、と思う。少なくとも足は付いている。体がぎしぎし痛むが、痛みは生きている証拠だ。いや、死んでも痛みは感じるのだろうか。いずれにせよ、それを確かめるのはもう少し先になりそうだ。ゆっくりと体を起こす。ベッドのきしむ音が部屋中に響いた。刑務所にでも置いてありそうな安物のベッドだ。灰色のシーツの下は、がちがちに固い。薄肌色をした使い古しのブランケットを押しのけ、周囲を見回した。
「ここは、どこだ」
 月並みなセリフだと思ったが、すぐに思考を切り替えた。状況の把握が最優先だ。僕は今、見知らぬ部屋の中にいる。正方形のカタチをしている。中にあるのはベッド、椅子、壁と繋がった机のみ。机と面した壁には、小さな扉のようなものがある。扉と言っても、猫が通るくいらいの大きさで、そこに入ることは出来ないだろう。取っ手は見当たらず、こちらからは開けられそうにない。照明は円筒形の蛍光灯が二本。電源スイッチを探したが、見当たらない。ベッドの対角線上、扉らしきものの四角に和式の便器と紙。そして僕はさらに重大なことに気づいた。
「ドアも、窓も、無い」
 そう、この部屋にはドアや窓といった外界と通じるものが何一つ見当たらないのだ。机の近くの扉はどう見ても移動に適した大きさではない。しかし、それなら僕はどうやってここに入ったのだろう。周囲をさらに詳しく見てみることにする。壁は一面、コンクリートの打ちっぱなし。完全に囲まれているというのは息苦しさを感じるものだが、呼吸それ自体には問題が無い。ということはどこかに隙間があるはずだ。そう考えて隅々を見渡したとき、床と面した壁の一部に、四角い穴を発見した。これも机近くの扉同様、猫が一匹通るくらいのスペースしかない。すぐに駆け寄って、外を覗いてみる。だが奥は真っ暗で、何も分からなかった。
 部屋を一通り観察した結果、それが全てだった。蛍光灯のジーという音だけが部屋に響いている。
「おい。誰かいないのか」
 声を荒げてみたが、何の反応も返ってこない。いったい、今が何時なのか、朝なのか夜なのかも判別つかない。仕方なく、椅子に座り、机にもたれかかった。特に慌てる理由もない。僕は冷静になり、自分が死ぬはずの人間だったことを思い出した。そう。一度死を選んだのだ。自らの犯した罪に耐え切れず、この世からおさらばしようと考えた。だから僕は一度死んだ人間なのだ。今さら、何かを恐れる理由もない。とにかく僕は今、経緯は分からないが助かった。そして誰かの意思によってここに連れてこられた。ならばその誰かが現れるまで、僕は特に何かをする必要もない。たとえ誰も現れなかったとしても、飢えて死ぬだけ。少し予定とは異なるが、死ぬのが遅くなるだけだ。
 僕は、サラのことを思い出していた。そうすることが僕にとっては苦痛でしかないというのに、それ以外のことを考えることなど出来なかったのだ。サラは僕の妹だ。そして同時に恋人でもあった。

【回想】

 サラは絵を描くのが好きだった。彼女の描く絵は、宗教画が多かった。特に楽園を追われたアダムとイヴが彼女のお気に入りだった。逆に彼女はマネやモネといった印象派を毛嫌いした。とくにそれらを絶賛する評論家たちを追従主義者と言って非難した。ある時期、印象派画家たちの運動が最も隆盛となった頃、彼らは言った。「宗教画のような悲痛な絵はもう十分描かれた。人間の明るさ、心の豊かさを描くことがこれからは大事なのだ」、と。サラはこうした考え方をこそ気に入らなかった。彼女曰く、勝手に人類の壮大なテーマを終わりにしないでほしい、とのことだ。彼女はレンブラントやドラクロワといった画家のスタイルを好み、よく模写をした。その絵は僕には本物と見まごうばかりの出来だったが、彼女にすればまだまだ稚拙だということだった。
「お兄様、私のモデルになってくださらない」
 カンバスに向かったまま、後ろに立つ僕に言った。彼女は今、静物画のデッサンをしている。対象はテーブルの上に林檎がひとつ。とてもシンプルな構図だ。
「もう林檎なんか、何度も描いてるだろう。どうして今さら、同じものを描き直すんだ」
 僕は彼女の申し出には応えず、思ったことをそのまま告げた。彼女は手を休めることなく答えた。
「アダムとイヴのお話はご存知ですか」
「もちろん知っている。たとえキリスト教徒でなくとも、必ず知っておくべき必須知識じゃないか」
「ええ。私はそのお話に登場する知恵の実を描いているのです」
 旧約聖書、創世記におけるアダムとイヴの話は有名だ。神は自分の姿に似せてアダムを創り、アダムのあばら骨からイヴを生み出した。男から女が生まれた。アダムとイヴは楽園で何不自由なく過ごした。ただ一つだけ、神が彼らに禁じた行為、それが楽園の中央に位置する知恵の木の実を食べてはいけないというものだった。彼らは当初、神との約束を守っていた。だがそこに蛇、サタンが現れ、イヴをそそのかした。イヴは知恵の実を採って食べ、アダムにも与えた。蛇が女を騙し、女が男を騙した。彼らは神の怒りを買い、楽園を追放されることになった。
 ここで知恵の実とは何だったのかが問題となる。聖書の中では知恵の実としか書かれておらず、それが林檎であるという記述はどこにも無い。後世の画家たちがそれを描く時、林檎を描いた。そのために知恵の実は林檎であるというイメージが定着したのだ。僕はそのことをサラに伝えた。
「存じておりますわ。林檎が知恵の実だという根拠はどこにも無く、ただ多くの人がそのようにイメージしているだけだ、と。けれど私、こうも思いますの。この世に生きる人たちが、それを林檎だと思うのなら、まさしくそうなのではないか、と。大事なことは、信じるということ。もし何か古い文献が見つかって、知恵の実が実はイチジクだったとしますわね。それはとても大きな発見ですし、人々が今後は知恵の実とはイチジクのことだ、と考えを改めるかもしれません。けれど、永きに渡って私たちがそれを林檎だと思っていたという歴史は変わりません。だから私たちはきっと、林檎を見れば知恵の実を思い起こすことができる。実際に何が知恵の実であったかは問題ではなく、知恵の実とは何か、の方が問題だと思いますの。だから私は性懲りも無く、林檎を描き続けるのです。ところでお兄様、モデルの件ですが、お引き受けいただけますか。座って、こちらを向いていてくださるだけで結構です」
「その、座ってそちらを向き続ける、というのが一番やっかいだな。退屈してしまいそうだ」
「あら、そんなことありませんわ」
「どうして」
「だって、お兄様は私に夢中なのですから、私の顔を見て飽きるなどということはあり得ませんもの。むしろただじっと私を見ていられることに幸せを感じるはずです。だからこそ、お兄様にモデルとなっていただきたいのです。私もお兄様に夢中なので、お兄様を見続けているだけで幸せなのです。正直なところ、いくらそこに人類の英知が詰め込まれていようとも、林檎ばかりを見続けるのはいささか退屈していたところですから」
 そう言ってサラはくすくすと笑った。その笑顔につられて僕も笑った。サラはこういうことをさらりと言ってのける。最初は戸惑ったが、今ではもう慣れっこだ。本当に、サラの顔を一日中見ているだけで飽きないだろう。肩の少し上で切りそろえた黒髪はつややかで、窓から差し込む太陽の光を反射しているように輝いている。青い瞳は母親譲りで、アクアマリンを思わせる。整った鼻。少し意地悪そうに笑う唇。全てが美しく、見るだけで心が洗われた。僕は仕方ないなといった振りをして、彼女の前に座った。サラの眼は全部お見通しだと告げていた。

【暗転】

 カチャリ、という音で眼が覚めた。机に突っ伏したまま、寝てしまっていたようだ。音のした方を見ると、そこには一枚の皿に乗った食事らしきものがあった。壁の隙間から入れられたらしい。手に取ってみる。皿の上にはゆでたじゃがいも、ほうれんそう、ベーコンが並んでいた。フォークも付いている。いずれもすでに冷めていて、とても美味しそうには見えない。一瞬、食べても大丈夫だろうかという不安がよぎった。だがすぐに考え直した。自分は死ぬつもりでいるのだ。毒が入っていたとして、何の問題も無い。
 食べる決心をして足元を見ると、さらに別のものがあることに気づいた。何かが書かれた紙と、四角い箱のようなものがある。箱を手に取ってみると、どうやらそれは何かのスイッチのように見えた。何のスイッチか分からないので、それはそのまま食事と一緒に机の上に置いた。紙の方を拾い上げ、目を通した。
「皐月山総合研究所」
 横書きで、聞いたことのない名前が一番上に書かれていた。その下に「ルール」と続いている。ルールというからには、これは何かのゲームなのだろうか。内容は以下のようなものだった。

1.このゲームは参加者二名にて行う。
2.期間を一週間とする。
3.どちらか一方が死ねばゲームは終了する。

「どちらか一方が死ねばゲームは終了、する。用意されたスイッチを押すと、自分の部屋に毒ガスが充満する仕組みになっている。スイッチは、互いに自分用のスイッチを持つ。もし、期間を過ぎてもどちらも死んでいなかった場合、両方が……死ぬ!」
 なんだこれは。スイッチとは、さっき手に取ったあれのことだろうか。もしあのスイッチを押せば、部屋に毒ガスが流れ込んでくる仕掛けが存在する、ということか。一週間、自分があのスイッチを押さなくても毒ガスが流れ込んで死ぬ。つまり、どちらにしても死ぬ。いや、これは「ゲーム」だと明記されている。ということは、僕には対戦相手が存在するということ。もし生き残りたいと願うなら、相手にスイッチを押させなければいけないということだ。

 自動扉が開くような音がした。振り向くと机の前にあった扉が開き、向こう側が見えるようになっていた。囚人と面会する際にあるような、円状に無数の穴が開いた窓で、向こう側とは閉ざされている。向こう側には、眼鏡をかけたショートカットの少女がいた。これが僕と、黒岩ルイとのファーストコンタクトだった。


01.初日

 目の前の彼女はひどくうろたえているように見えた。そのおかげで僕は冷静になれたのだろう。お互いに座っているので上半身しか見ることは出来ないが、服装から察するに高校生のようだ。顔立ちはどことなく幼さが残り、美人というよりは可愛らしい女の子といった感じ。さっきから視線は定まらず、僕の方をちらちらと見ている。短く切りそろえた髪は、すこし茶色がかっている。ふちの太い、お洒落な感じの眼鏡をかけている。
 扉が開いて互いに顔を合わせてから、ずっと黙ったままだった。僕は別段、沈黙を苦にしない性格だから平気だが、目の前の彼女はそうでもないらしい。先ほどから何かを言おうと試みながら、躊躇しているようだ。このまま黙って観察し続けるというちょっと意地悪な考えも浮かんだが、この状況でそれは酷いので助け舟を出してあげることにした。
「はじめまして、こんにちは」
 簡単な挨拶だが、彼女は驚いたようにこっちを向いた。大きな音にびくっと反応して振り向く猫のようだと思った。猫、という表現がとてもしっくりきた。なんというか彼女はまるで小動物のようなのだ。今の時点で全く会話も交わしていないが、彼女のそわそわした仕草が僕に猫やリスを連想させる。
「は、はじめまして。こんにちは」
 数瞬遅れて彼女が返事をした。ハスキーな声をしていた。全体的に彼女は中性的な雰囲気をただよわせている。まだ少年と少女の区別がはっきりしていない。実は僕が彼女を「彼女」と言うのは単に、着ている服が女子高生のものだというだけのことなのだ。もし彼女が男子高校生の制服を着ていたら、とんでもない美少年と認識していただろう。つまり、そのくらい中間の位置に彼女はいた。
 この間、僕は決してぼんやりと彼女を見つめていたわけではない。彼女を見極めていたのだ。彼女も僕と同様に突然連れてこられた人間か、それとも……。
 いずれにせよ、会話しないことには始まらない。彼女のうろたえ切った表情に少し安心して僕から切り出すことにした。

【回想】

「おはよう、サラ」
 鏡越しに挨拶する。三面鏡で髪を整えていたところにサラが後ろから覆いかぶさってきた。彼女の髪は寝起きとは思えないほど綺麗に流れている。青い瞳がまだ少し眠りを欲しているように見えた。彼女のふくよかな胸が背中に少しだけあたる。少しだけ体を緊張させてしまった。気づいたサラは鏡越しにくすりと笑った。こと僕に関して、彼女には全てお見通しなのだ。何ひとつ隠すことは出来ない。そして僕にとってそれは、とても気持ちの良いことだった。全てを見通されている、隠さずに済むということに安心感をおぼえるのだ。
「お兄様、今日は大学はお休みですか」
「いや。二限から出席する。一限目は休講だったんだ」
「いつごろ帰ってきてくださるの」
「今日はサークルの会合があるんだ。だからすまないけれど、少し遅くなってしまう」
 サラは寂しそうに目を伏せた。少し胸が痛む。サークルというのは、会計学の勉強仲間が集まって開く勉強会のことだ。僕は大学では会計学を専攻している。しかも日本に居ながらにして、ヨーロッパで主流の国際会計基準を選んだ。いや、「選んだ」とは言いにくい。なぜならこれは全て父の意向なのだから。
 元々僕は文学に興味があった。初めて文学に心惹かれたのは中学生のときのこと。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が僕の人生観に大きな変化を与えた。物語は盗賊が一匹の蜘蛛を、殺さずに生かすところから始まる。ただ殺さないという選択をしただけなのだが、それをお釈迦様が慈悲の心と解釈した。そして盗賊が地獄に落ちたとき、お釈迦様が一本の蜘蛛の糸を垂らし、盗賊にそこから出る機会を与えた。しかし結局は盗賊の心無い一言により、蜘蛛の糸はぷっつりと切れてしまう。おおまかな粗筋を述べたが、僕にとって大事な部分は冒頭の箇所。盗賊が蜘蛛を殺さないという選択をしたところだ。盗賊が何か善意でもって蜘蛛を助けたのではない。最初は殺そうとしたけれど、やはりやめた。ただそれだけのことなのだ。こんな些細な行為で、慈悲が与えられる。最終的に盗賊は破滅するのだが、そんなことは問題ではない。大事なことは、蜘蛛の糸が垂れてきたとき、一切が許されていたということなのだ。
「サラこそ。今日は大学に行かなくていいのか。一年生はまだまだ忙しいだろう。三年生になるまで、基礎的な講習が多いはずだ。それとも、美大というところは他の大学とは毛色が異なるのかな」
「いいえ。仰るとおりですよ。デッサンや一般的な美術史の講義、その他一般教養など。てんこもりです。午前は退屈な授業なので、さぼっちゃいました」
「一年生のうちからさぼり癖を付けると、後々苦労するぞ」
「厳しいこと仰るのね。お兄様ったら、まるでお父様のよう」
 その返答に少し不満を覚えてしまった。自分が父親に似てきているという自覚は多少ある。そしてそれに反発している自分も自覚している。
 サラは、父親に対して不満は無いのだろうか。ふと疑問に思った。彼女は今、市内の美術大学に通っている。専攻は意外にもデザイン画だ。彼女曰く、油絵や水彩画はこれまでに随分描き込んできた、学ぶのなら未知の領域に挑みたい、とのこと。そんな彼女だが、元々は経済学の道を志していた。だが、父に反対されたため、進路を美術大学に変更したのだ。父は厳格な人だ。女が政治や経済に口を出すことを快く思っていないらしい。
「お兄様が思っていらっしゃるほど、私は今の状況に不満はありませんのよ。絵を描くのは好きですし、やはりきちんと学ぶと新しい発見もあって楽しいのです。例えば、フィボナッチ数列が絵画の世界でも通用するだなんて、思ってもみませんでしたし」
 サラの表情からは何の不満も読み取れない。人生に前向きで、屈折した様子がない。思い通りにことが進まなくても、受け止めて怯むことがない。常に新しい発見に喜び、さらなる新発見を求めてやまぬ探究心。好奇心は人並みはずれている。
 そんなサラと自分を比べると、少し億劫な気持ちになる。自分はいったい何がしたいのだろう。貸借対照表や損益計算書をこねくりまわすことが僕のしたいことなのか。いや違う。僕のしたいことは三島由紀夫をもってナルシシズムと国家のあり方を追求することで、決して管理会計における損益分岐点を見つけ出すことではない。僕のしたいことは遠藤周作をもって日本人的キリスト教の中身を抉り出すことで、決して財務諸表の整合性をはかることではない。僕のしたいことは石原慎太郎をもって南米の文学との類似性を見出すことで、決して粉飾決算を暴く監査手法を学ぶことではない。
 これほど自分の意思が明確であるにも関わらず、僕はそれを実行できないでいる。父親の意思により、僕は自分の道を選ばされている。これから世界では、会計基準の統合が始まるらしい。そうすると世界的に会計知識の需要が高まり、必然的に仕事が増える。だから僕は会計学を学ばなければならない。父の判断はいつも正しい。僕はそれを否定できない。父に比べて、自分が圧倒的に無知だからだ。鏡を見た。そこに僕は居なかった。

【暗転】

 彼女は黒岩ルイと名乗った。どうやら彼女も僕と同じように、気づいたら部屋にいたということだ。一点だけ、異なる箇所があった。どうやら向こう側には時計が設置されているらしい。デジタル式の時計で、日付もあるとのこと。時計が本当に正しいかどうかは分からないが、生活リズムの指針にはなりそうだ。なにしろこの部屋には、窓が無く、外が昼なのか夜なのかすら判別できないのだから。
 ルイは話し始めると明るい女の子だった。ひょっとしたら不安を紛らわせるため、無理に明るく振舞っているのかもしれない。目の前に死をつきつけられて平静でいられる人間は多くない。僕は彼女の不安を一刻も早く解消してあげなければと思った。
「えっと、あの、それってどういうことですか?」
 ルイはきょとんとした目で僕を見ていた。話が急すぎて、うまく頭の中で消化し切れていないようだ。だから僕は繰り返し言った。
「僕は僕のスイッチを押す。だから君は何も心配することはない。このゲームの裏に誰がいるのか気になるけれど、そんなことはこれから死に逝く人間にとって大事ではない」
「そんな、ちょっと待って……。僕、いや私のためにあなたが死ぬだなんて、そんな理不尽なことありませんよ!」
「何も君のために死のう、というのではないよ。安心してくれ。僕は最初から死ぬつもりだったのが、何故か死ねなかったのだ。……助かってしまった。死に方を毒ガス以外に選べないというのは不本意だが、それはもう仕方ない。今すぐ目の前で、というのも君に悪いから、君が寝静まった頃にこのスイッチを押すことにする」
「いや、それじゃ私、寝れなくなっちゃいますよ。だって私が寝たら、あなたが死んでしまうってことですよね。私が眠ることで、あなたを殺してしまうっていうのと同じじゃないですか」
「いや同じではない。君の睡眠と僕の自殺に因果関係は無い。僕の自殺はあくまで僕の意思なんだから」
「因果関係とか、そんなのどうでもいいんです。とにかく、自殺はダメです。自殺なんかしたら地獄行きですよ。命は尊いものなのです。だからスイッチを押すのは待ってください。それに、私たちはお互いにわけのわからない状況に置かれてるんですよ。私だって、ここから無事に出られる保証なんか無い。怖いんですよ。なのにいきなり隣の人に死なれたら、私たまりませんよ。もしあなたが死んでしばらくしても、ここに居なきゃいけないなんてことになったら、最悪じゃないですか。隣にあなたの死体があることを考えながら、こんな窓も無い部屋でじっとしていなくちゃならないなんて、なんの拷問ですかこれ。それにまだありますよ。このゲームって本当にゲームなんですか。ひょっとしたら、ゲームと見せかけて何かのテストかもですよ。例えば、主催者は自己犠牲を尊ぶのです。自分から死を選ぶ人が高潔で、生き残るべきだと考えてる人だったらどうするんですか。もしそうだったらあなたがスイッチを押した瞬間、私の部屋に毒ガスが充満してしまいますよ。このゲームがいったい何なのか、今は全く分かりませんけど、とにかく一週間はあります。それまでに、ひょっとしたら二人とも助かる方法があるかもしれない。だから、お願いだから早まらないでください」
 彼女は一気にまくしたてると、机に突っ伏した。その肩が小刻みに揺れている。僕はなんとも言えない罪悪感をおぼえた。
 彼女の言葉を咀嚼する。確かに、現状は分からないことだらけだ。このゲームを行う者の目的、意思が明確ではない。よくよく考えれば、スイッチを押すことで毒ガスが充満するという保証はどこにも無いのだ。とは言え、もちろんこのルールが真であることも考えられる。いずれにせよ、答えを出すには時期尚早ということだ。自己犠牲を尊ぶ云々の話はさすがに無い気はするが、こんな状況を作り出してしまう人間の考えることだから、あり得ないとは言い切れない。
 とにかく、今は目の前の女の子を安心させてあげるのが第一だ。僕は結論を一週間後にまで据え置くことを約束した。起き上がってこちらを見つめる彼女の目は、全く濡れていなかった。


02.二日目

 ひょっとしたら二人とも助かる方法があるかもしれない 。ルイはそう言ったが、今のところ状況は何も変わりそうになかった。周囲の壁は頑丈で、とてもここから脱出できるようには思えない。僕とルイは最初のうち、ここからどうすれば脱出できるかを考えた。僕らがここにいるということは、どこからか入ったということに他ならない。だからまず最初に隠し扉の存在を疑った。壁や床を手当たり次第に叩いてみた。しかしどこを叩いても向こう側の感触が無い。ルイの部屋に面した壁を叩いた時だけ、向こう側に響いた。ルイの部屋と行き来することが出来れば事態を打開できるのではないか、という期待を抱いてより丹念に調べてみたが、やはりダメだった。
「部屋のどこからも入れない、なんて絶対におかしいですよね。きっと私たちの探し方が足りなかったんです。少し休んだら、もう一度探してみましょう」
 ルイはめげることなくそう言った。とても頼もしい言葉だが、僕自身はすでに脱出を諦めていた。これだけ探して何の手がかりも見つからないということは、この部屋には本当に出入り口が無いということだろう。おそらくこの部屋は僕が入った後に完成された。そうとしか考えられない。部屋のどこを見ても切れ目が無い。ルイの部屋に面する壁のみ、端に切れ目があるが、どう見ても動きそうに無い。
 その後しばらくルイは部屋のあちこちを見て回ったようだった。しかし努力の甲斐もむなしく、疲れた顔を窓の向こうに覗かせた。
「もう、全然分かんないよう」
 本当に気落ちした様子だ。そんな彼女を僕は元気付けたいと思った。一週間後に僕は死ぬ。それまでの間くらい誰かの役に立っていたい。けれど、どうすれば彼女をはげますことが出来るだろうか。考えを巡らせるもなかなかいいアイディアが浮かばない。僕が黙っているとルイがこっちをじっと見つめていた。
「なにか、お話してくださいよ」
 少しだけドキリとした。何か見透かされているような感覚だ。とにかく気を取り直そう。
「さて、何かと言われても、何を話せばいいのかな。僕はもう大学三年生で、ずいぶん若い女の子とは口を聞いてないからね。もともと女の子と親しく会話するタイプではないし、困ってしまう」
「そんな。大学生だってまだまだ若いじゃないですか。大して変わりませんよ。でも、なんか意外ですね」
「どうしてそう思うのかな」
「だって、しっかりしてるし妹とかいそうじゃないですか」
 胸をチクリと突き刺す。表情が一瞬固まった気がした。どうしてだろう。何故かルイの視線が怖い。何か、自分の心の奥まで探られているような。いや、考えすぎだ。妹という単語に敏感になりすぎている。
 サラのことを話すかどうか、少しだけ迷った。そして話すことに決めた。変な嘘をついても、会話が不自然になるだけだ。それに僕自身、サラのことを思わない日は無いのだから。サラについて語ることも、きっとそれほど苦にはならない。むしろ誰かに語ることで、少しは癒されるのかもしれない。末期患者に打つモルヒネのようなものだと思えばいい。

【回想】

 今日のサラはいつもと様子が違っていた。食事中何度もフォークをテーブルの上に落とした。僕が呼びかけても、三度のうち一度は返事をしなかった。心がここにないのは一目瞭然だった。結局、夕食はほとんど手を付けないまま、部屋に戻った。僕はすぐに後を追った。
「サラ、どうした。学校で何かあったのかい」
 サラは部屋に戻り、そのままベッドにうつ伏せていた。僕は枕元に座り、サラの髪をそっとなでてやった。するとサラがその右腕を伸ばし、テーブルの上を指差した。ぼくはテーブルに向かい、一通の封筒を見つけた。上品な絵柄付きの封筒で、宛名にサラの名前が書かれていた。差出人のところには「池田呉羽」と記されていた。
「サラ、これは……」
「お兄様ご自身で読んでください」
 これは何か。そう尋ねようとすると、それを遮るようにサラが言った。
「けれどこれはお前宛の手紙じゃないか。それを僕が読むなんて、失礼だろう」
「いいえ、構いません。とにかく読んでください」
 僕は仕方なく中身を取り出した。高校生同士でこういった手紙のやり取りと言えば、やはり真っ先にラブレターを連想する。今回も僕はそうだろうと思った。妹もついにそういう年頃か、などと兄らしい郷愁に浸ってみたり。けれど、手紙はそんな僕の妄想を一気に蹴散らした。最初は何が書いてあるのか読めなかった。理性が理解を拒んだのだ。
「死ね……」
 僕が声に出すとサラの肩がびくりと震えた。しまったと思った。改めて手紙を読み直す。
 そこに書かれているのはおよそ思いつく限りの罵詈雑言の羅列。死ね。消えろ。ウザイ。ゴミ。近寄るな。目障りだ。邪魔。どうぞお早くお亡くなりになってくださいませ、よろしくお願いいたします。
 手紙の隅から隅までびっしりとワープロ打ちで書かれていた。どうしてサラがここまで言われなくてはならないのか、僕には全く理解できなかった。ベッドにうつぶせのサラを見た。もうすでに我慢の限界だったのだろう。枕に顔をうずめ、声をあげて泣いていた。枕のすそを強く掴んでいる。体全体が震えている。体全体で泣いている。
「サラ……」
 僕はサラを、大事な妹をなぐさめたい一心で彼女の肩に手をかけた。けれどその瞬間、サラは僕の手を払いのけた。目を真っ赤にし、鬼のような形相で僕を見た。綺麗な髪は無残にぐしゃぐしゃになっていた。サラは何かを言おうとした。けれど何も言えなかった。顔を歪めて、体当たりするかのように僕の胸に飛び込んできた。嗚咽が部屋の中を占拠した。僕はそんなサラを抱きとめるだけで、何も言えなかった。

【暗転】

「ひどい。そんなの、本当にひどい……」
 ルイがまるで我がことのように怒っていた。それを見ながら僕はとても不思議な気持ちに包まれていた。そもそもどうして僕はこんな話をルイにしてしまったのだろう。僕はただ彼女を元気付けようと思っただけではなかったか。最初はサラのことを簡単に説明するだけのつもりだった。市内の美術大学に通っていること。高校生の頃は美術部に入っていて、県が主催する作品展では必ず金賞に選ばれるほどだったということ。そこからルイが高校生の頃のサラに興味を示した。
 ルイも美術部三年生で、ひょっとしたらサラの作品を見たことがあるかもしれないとのことだった。サラは美術部員と言ってもほとんど幽霊部員の状態で、さほど絵を描くことは無いという。けれど作品を見ること自体は好きで、たまの作品展には顔を出していたらしい。どれが賞を取った作品かなどは気にせずに見ていたが、その中に金賞の作品は当然含まれていただろう。
 そういう具合に話をしているうちに、ルイがサラの恋愛関係について話を聞きたがった。そこから先ほどの事件の話に繋がったのだ。
「本当にひどいです。サラさんってとてもいい人なのに」
 まるでサラに会っているかのようにルイが話す。少し突っ込みたくなったが、野暮なのでやめておく。それにサラのことでこんな風に怒ってくれるのは、とても心地よかった。
「いったい、誰がそんなひどいことをしたんでしょう」
「え」
 我ながら、間抜けな返事をしたものだと思う。ルイの一言に一瞬付いていけなかったのだ。話が長かったから、ルイはおそらく忘れたのだろう。
「手紙の差出人は池田呉羽という名前の男の子だよ。たしか、サラのクラスメイトだったはず」
 サラは池田呉羽のことが好きだった。本人から直接聞いたわけではないが、そうだったのだろうと思う。彼のことを話すサラはいつだって笑顔に満ち溢れていて、綺麗だった。落とした消しゴムを拾ってくれた。英語の教科書を忘れたとき見せてくれた。そんなことだけ。そんな程度のことで、サラはとても幸せそうに笑った。
「僕は池田呉羽という男に会ったことはない。会いたいとも思わない。会えばきっと彼を殴ってしまう」
 僕はルイに共感を求めた。一緒に、池田呉羽に対して怒りを燃やしてほしい。けれどルイはきょとんとした顔を僕に向ける。そんな彼女の反応に僕も拍子抜けになる。さっきまでの怒りはどこに行ってしまったのだろう。
「池田呉羽なんて、そんなの名前が書いてあっただけじゃないですか。差出人が本人であるという証拠は一切ありませんよ」
 体がこわばった。胸の奥がしめつけられる。
「そもそも、真犯人が名前をさらしますか。もしその手紙が警察にでも渡れば、間違いなく脅迫罪です。頭の悪い高校生がしでかしたという可能性もありますが、名前を相手に教えるという意味がない。手紙の中身がワープロで書かれていたというのも怪しいです。筆跡を知られないためにやったのではないでしょうか」
「つまり、こういうことかい。手紙を出したのは池田呉羽ではない。別の人間が出したのだ、と」
「はい。これは池田呉羽とサラさんとの仲を引き裂こうとした誰かがいるということです」
 脱力した。言われてみればそうだ。どうしてこんなことに気づかなかったんだろう。あのときは、サラのことをなぐさめることにばかり気が集中していて、手紙の不自然さに全く目が行かなかった。なんという不甲斐なさ。錯乱状態のサラを助けてやれるのは僕しかいなかったというのに。それが今、見知らぬ少女に出会うまで気づけなかったなんて。
 僕は思った。もっと早く気づけていたなら。ひょっとしたら僕はサラを殺さずに済んだのかもしれない。


03.三日目

 僕は神を信じていない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教における唯一神だけじゃない。仏教のお釈迦様や神社の神様、そういう類のものを一切否定している。初詣やお墓参りには行くけれど、それはあくまで人との付き合いを円滑にするためでしかない。アメリカの哲学者ウィリアム・ジェームスは「神を否定することはたやすい」と言った。だから神を信じるのだと。それを聞いた時、哲学者のくせになんて非論理的なことを言うのだろうと感じた。過去に多くの神学者や哲学者が神様の存在を論理で証明しようと試みた。その論理の粋を極める彼らの業績は、たとえ神様を証明できなくても、褒め称えられるべきものだろう。そういう一切の哲学としての栄華を省みず、いともたやすく放り投げてしまう。神様に対しては忠実なのかもしれないが、過去の神学者、哲学者たちに対する冒涜のような気がした。
 僕とは違い、サラは敬虔なクリスチャンだった。学校でも食事の前にお祈りを欠かさなかったほどだ。ある日、サラがニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を読んでいた。「神は死んだ」で有名なあれだ。僕はその「神は死んだ」というフレーズだけ覚えていたので、サラにどうしてそんな本を読んでいるのか尋ねた。僕はニーチェを無神論者だと捉えていた。けれどサラにそれは誤解だと諭されることになった。細かい内容は覚えていない。要するに「神は死んだ」ということは、神は生きていたということだ。
 部屋が暗い。いや、実際の明るさはさほど変わっていないのかもしれない。サラを殺した、その罪に僕は怯えている。その感情のせいで部屋も暗く感じるのだろう。どうして僕はこうして生きているのだろう。やはり、隣部屋の彼女には悪いが、早く死んだ方がいいのではないか。本当だったら、サラと一緒に死ぬはずだった。それなのに、失敗してしまった。僕はもう二度とサラと一緒に死ぬことが出来ない。彼女の傍にいられない。そう考えて、僕は笑った。それは乾いた笑いだった。世の中にある全ての宗教を否定して生きてきた。神も仏も無く、世界は全て物質と論理で組み立てられていると思っていた。それなのに今、サラの元に早く行きたいと考えている。矛盾している。それでも構わないと思った。矛盾している。それでも構わない。
 ルイが僕を見つめている。透明な目をしている。とても不思議な感じがした。初めて彼女と対面したとき、彼女はまるで小動物のように怯えていた。それがすぐに十代の女の子らしい、快活な感じを見せ始めた。そして今は、まるで古くからの友人のように、何でも話してしまいたい気分にさせる。まだ会って三日目だというのに。ただ、彼女と会話する以外にここですることがないということもあった。定期的に配給される食事を取ったり、同じく配給される使い捨ての歯ブラシで歯を磨いたり、タオルで体を拭いたりする時間以外、ほぼ全てを彼女との会話に費やしていると言っても過言ではあるまい。会って三日しか経っていないとは言え、かなり濃密な時間を過ごしている。彼女に親しみを感じるのはそのせいかもしれない。
「僕はもう死のうと思う」
 三日目の朝はそうやって切り出した。
「どうしてですか」
 ルイに動揺した気配は無かった。僕は少しだけ安心した。また前のように騒がれたら、それをなだめる自信が無かったから。同時に少し違和感があった。どうして彼女はそんなに冷静でいられるのだろう。最初に会った彼女とは別人なのではないか。そんな風に思わされる。推理小説なんかでよくある、双子の入れ替えトリックを思い起こした。実は向こうの部屋には二人のルイがいて、何度か途中で入れ替わっているのではないだろうか。そんなことをする動機、理由は全く思いつかないけれど。
 そう、動機。何故僕が死に急ぐのか。その理由くらいはきちんと話してあげないといけない。そんなことでルイを安心させられはしないだろうけど、何も言わずに去るよりかはマシだろう。……いや、これは言い訳だ。僕は全てを洗いざらいぶちまけたいという欲求に囚われているのだ。そんなことで自らの罪が軽くなるとは思っていない。けれど、誰かに聞いてもらいたいのだ。赦されなくてもいい。膨張し切って抑えきれなくなった罪の意識を吐き出さなければ僕は発狂してしまう。

【懺悔】

 サラは独りぼっちだった。本を読んだり、絵を描いたりするだけの日々が続いた。大学にも友人らしい友人は居ないようだった。サラには、僕しか居なかった。
 僕とサラは恋人同士だった、と思う。お互いにそう言ったわけではないから、実のところはよく分からない。あんなに傍にいながら、体を重ねたことも、キスをしたこともない。けれど僕らは心の奥底で繋がっていた。互いの心が通じ合っていた。サラは僕の最大の理解者だ。そして僕もサラの考えていることはよく分かった。
 サラの右手には果物ナイフ。さっきまで赤い林檎の皮を剥いていたそれは、今は赤い雫を垂らしている。僕はわき腹を抱えてうずくまった。サラの顔を見る。本当に綺麗な眼をしている。瞳の奥は澄み切っていた。
「ダメだよサラ」
 僕は優しく言って、そっとサラの右手を握った。
「もっと深く刺さないと、僕は死ねない」
 そう言ってサラの右手をぐいと引っ張る。僕のお腹を引き裂く勢いで。けれどその目論見は果たせなかった。サラが大きな声で叫び、手を振りほどいたからだ。ナイフを放り出し、両手で頭を抱え込み、しゃがみこむサラの姿がそこにあった。
「無理よ。無理。出来ないわ。私にお兄様を殺すことなんて。お兄様を殺して、本当の自分を手に入れることなんて出来ない。だって、私にはお兄様しか居ない。お兄様を失ったら、それこそ生きている意味が無い。けれど嫌。もう嫌なの。こんな自分のままでいることに耐えられない。私は、今の私はお父様の道具でしかないの。昔からそうだった。お父様のお客様の前に出されて、よく出来た娘を演じ続けなければいけなかった。ピアノだって一所懸命練習したわ、お父様のために。バレエの練習だって、お茶のお稽古だって、全部、全部お父様のためにやったわ。お父様に認められたい一心で。そうやって頑張ってきた。けれどもうダメ。もう無理。人生の全てをお父様に捧げるなんて、そんなこととても耐えられない。会社が苦しいのは分かってる。今回の合併を成功させるために私の犠牲が必要なのも分かってる。ううん、本当は分かりたくない。だって、私はもうお兄様以外の誰かを愛するなんて出来ない。お兄様、愛しています。愛しています。愛しているの」
 僕の心にサラの涙が濁流のごとく流れ込む。サラが何に苦しんでいるのか。それは父親が決めた政略結婚に原因があった。父の会社は資金繰りに苦しんでいた。細かい事情は知らされていないが、世界的な不況の煽りによりかなりのダメージを受けたらしい。それを打開するため、事業範囲の拡大を狙い、今回の合併話に繋がった。そして父はこの合併を確実なものにするため、いともたやすくサラを差し出した。
「サラ」
 僕はサラの髪をかき上げ、彼女の頬に口付けをする。そして両手を彼女の首にかけた。サラは驚く様子もなく、ただ僕の顔を見た。ゆっくり、力を込める。サラが眼を閉じる。

【暗転】

「僕は自分の妹を手にかけた。そしてすぐに後を追おうと思った。睡眠薬を一掴みして、ね。けれど死ねなかった。もっと沢山、飲まないといけなかったのだと思う。ひょっとしたら、心のどこかで死を怖れていて、死ぬだけの量をとっさに飲むことが出来なかったのかもしれない」
 ルイは眼を閉じ、僕の話を聞いていた。くせなのだろうか、机の上を右手の中指でとんとんと叩いている。とても小さな音なのに、部屋中に響いていた。規則正しく、折り目正しく、とんとんとん、と。静かに眼を開いた。その表情からは彼女が何を考えているかが読み取れない。
「それで、どうしてサラさんを殺そうとしたのですか」
「サラが僕にそうすることを願ったから。サラは、妹は追い込まれていたんだ。彼女を包む世界に。彼女を囲むあらゆる物事に、サラは押しつぶされる寸前だった。友人も居なかったしね。高校生の頃に唯一、サラに気を遣ってくれたのが呉羽くんだったらしい。サラは教室内で完全に孤立していた。社交的な人間ではないから、よそのクラスや学校に親しい人間がいるわけでもない。ただ孤立しているだけならまだ良かった。外界を閉ざして、自分の中に閉じこもっていればそれで済んだから。そんなサラに一人の少年が手を差し伸べた。彼はクラスの中心人物で、彼を慕う女子も多かったらしい。他の誰もがサラを無視した。なのに呉羽くんだけはサラを見捨てなかった。それを快く思わない連中も大勢いた。サラに対する無視が攻撃に変容するのにさほど時間はかからなかったはずだ。けれど、それでもサラは幸せだった。どれほど辛い思いをしても、たった一人、信頼出来る一人の人間がいれば立ち上がることが出来た。けれど、それもあっけなく終わりを告げた。たった一通の手紙で、彼女の心はずたずたに引き裂かれた。それまで何度も他の人間に罵詈雑言を浴びせられても耐えてきた彼女が、耐え切れず折れてしまった。そのあとすぐ、僕はサラの恋人になった。僕は彼女のためだけに生きることにした。僕とサラ、二人だけの閉ざされた世界はそれだけで完成していたんだ。とても充実した時間を過ごせたと思う。けれど父親がサラのことを徹底的に道具として使ったため、それさえも危うくなった。サラの心を支えるものがひとつまたひとつ壊されていたんだ。全てを失う前に、満たされた心のままでこの世を去りたいと願うのは自然なことだと思う。僕はそのサラの気持ちを汲み取った。そして彼女を殺して、自分も死ぬ決意を固めたんだ」
 ルイが僕を見ている。机の上で指をテンポ良くとんとん鳴らしている。
「けれど、今は後悔しているんじゃないですか。ひょっとしたらサラさんは一人じゃなかったのかもしれない。ほんの少し勇気を出して、呉羽くんとコミュニケーションを取れば救われたかもしれない。そうですよね」
 その通りだった。僕は後悔している。サラの気持ちを汲み取って、その通りにすることが本当にサラのためだったろうか。僕は彼女しか見えていなかった。彼女のためだけに生きることを決めてしまったから、それ以外の情報に気が配れなかった。時間を戻せたら、と願う。
 けれど僕はもうサラを殺してしまった。時間は不可逆だ。一刻も早く、ここから逃れたい。サラのいない世界から抜け出したい。さあ、もういいだろう。僕は死ぬのだ。手元のスイッチを押すことでそれが叶う。ルイに害が及ぶことは無いだろう。根拠もなくそう思った。
「後悔、しているのですね」
 ルイが問い詰めるように言った。僕は、ああとだけ返事をした。部屋の中はルイが指で机を叩く音が響いている。ルイが何かを言った。最初、彼女の言葉がうまく聞き取れなかった。内容が理解出来ず、何を言っているのか分からなかったのだ。僕はもう一度言ってくれるよう頼んだ。ルイはすっと立ち上がり、少し後ろに下がって僕を指差す。その毅然とした姿に僕は今さらながら自分の目が曇っていたことに気づいた。
「ならば、私がサラさんを生き返らせましょう」
 澱みなく、気品すら溢れる声で少女は断言した。


04.四日目

 死んだ人間は生き返らない。それは絶対だ。それなのに何故か、年下の少女に心を動かされる。ベッドに横になり、天井を見つめた。ここに来て、もう四日目になる。正確な時刻は分からないが、毎日だいたいの時間をルイに知らせてもらっていた。時計を持っているのは彼女だけなのだ。毎朝9時頃に起こしてもらっている。寝るのは夜の0時だ。毎日かなりの睡眠時間を取っているはずだが、どういうわけかこのところ眠気が強い。ルイと向かい合っていても、時たまうつらうつらとしてしまう。窓も何もない環境に精神がまいってしまっているのだろう。ルイには特に疲れた様子は見えなかった。やはり若いというのはいいな、などと老人のように考えてしまう。
 朝食をとる。メニューは最初の日から全く変わっていない。ゆでたじゃがいも、ほうれんそう、ベーコン。必要最低限の栄養以外は与える気がない、ということだろう。特に期待はしていないが、食事そのものに飽きてしまった。とんとん、と隣の部屋から窓をたたく音が聞こえた。さっさと食事を済ませて、席につく。窓の向こうにはいつも通り彼女が座っていた。
「おはようございます。お食事はもう済まされましたか」
「ああ。今済ませたところだよ。メニューは相変わらずで、なんというか、食事というより栄養補給の作業といった感じだね。塩コショウをもう少し多めに入れてほしい」
 体に悪いですよ、と言ってルイは微笑んだ。それに対して僕は、これから死のうという人間が健康のことを気にしても仕方ない、と返して笑った。ルイは笑わなかった。
「人って、どうして生きているんでしょうか」
 大人びた口調でルイがつぶやく。
「パンドラの箱ってご存知ですよね。箱の中からありとあらゆる災いが飛び出すというギリシア神話のひとつです。ある日、ギリシアの神の一人であるプロメテウスが、弱い人間に火を与えた。そのことに怒った他の神々は人間に災厄をもたらすことにしたんです。そして生み出されたのが、パンドラという名の美しい女性でした。神々は彼女に災いの詰まった箱、それと好奇心を与える。やがてプロメテウスの弟、エピメテウスがパンドラに恋をし、二人は結ばれる。けれど好奇心を抑えきれないパンドラは禁断の箱を開けてしまう。すると中から疫病、悲嘆、欠乏、犯罪といった数々の災いが飛び出してきてしまった。パンドラは慌てて箱を閉じます。中に残されたのは予兆。先々に起こる災厄を知る力だけは箱から飛び出さなかったのです。人間は未来を知ることはない。だからこそ、希望を持って生きていくことが出来る。そういうお話です」
「けれどサラは未来を知ってしまった。いや、自分の未来を諦めてしまった。だから絶望して、死を選んだんだ。死んだ人間はもう戻ってこない。死は不可逆だ。そんなことは分かっている。僕も人生に絶望しているけれど、理性は失っていない。だからルイがサラを生き返らせるなんてこと、容易には信じられない。君はいったい、どういうつもりであんなことを言ったんだ」
 遠くから、とんとんという音が聞こえてくる。いや、案外遠くない場所から響いているのかもしれない。リズムは途切れることなく、変わることなく、一定を保っている。自分が緊張しているのを感じる。筋肉の疲れを感じる。自分が弛緩していくのを感じる。

【尋問】

 そこに僕がいた。ベッドの上でサラを押し倒し、彼女の首を絞めている。サラはぐったりとして動かない。やがて僕はサラから離れ、傍に置いてあった睡眠薬を摘み、飲み込む。そのままサラの横に倒れこんで意識を失った。僕はその光景を少し離れたところから見ていた。
「そう。僕はこうやってサラと二人、静かに息を引き取るはずだった。それなのに、僕だけ生き残ってしまって」
 サラの表情はとても穏やかだった。死ぬことでその美しさを永遠にしたように思えた。とん、と肩を叩かれ、振り向くとルイが傍に立っていた。
「彼女が、サラさんですね。穏やかな表情をしていて、まるで眠っているようだ、と」
「そう。けれど実際には死んでいる。僕がこの手で、殺してしまったんだ」
 ルイがベッドに近づき、睡眠薬の入った小瓶を手に取った。
「これは、どうやって手に入れたんですか。睡眠薬の類は一般には市販されていなくて、お医者さんの処方箋が必要だったと思うんですけど」
「それはサラのだよ。サラは不眠症でね。たまに薬に頼って睡眠をとっていたんだ。僕もよく、眠れないサラに付き合って夜中ずっとお喋りしていたものだよ」
 僕の話を聞いているのかいないのか。ルイは構わずにテーブルへと移動した。そこに置かれた林檎を片手に取る。中途半端に、せいぜい二・三周ほど皮が剥かれていた。
「アダムとイヴの話はご存知ですよね。神によって最初に作られた人間。イヴが蛇にそそのかれて知恵の木の実を食べてしまう。そしてアダムはイヴに手渡されたその木の実を、そうとは知らずに食べてしまう。女のせいで男が罪を犯してしまう。だから女はダメなんだって言う人もいると思います。女が何の考えも無しに行動するせいで男が迷惑するんだって。けれど私は逆に思うんです。イヴが追放のリスクを負いながらも人類の道を切り開いたのだ、と。もしイヴが蛇の誘惑に乗らなかったら、永遠に楽園で怠惰な日常をむさぼっていたことでしょう。冒険という言葉からはどうしても男性を連想してしまいがちですけど、実は最初に安全よりも冒険を選んだのは女性だったんです。ここぞという時に一歩を踏み出せるのは、案外男性ではなく女性なんじゃないでしょうか」
 ルイは林檎を元の場所に戻し、さらに隣の果物ナイフを手に取った。彼女が果物ナイフを頭上にかざすと、銀色の刃がきらりと輝く。
「ところで、お腹の方は大丈夫ですか」
「え、お腹って、どうして」
「どうしてって、お腹、サラさんに刺されたんでしょう。血がしたたるくらいに深く刺されたんですから、そんな簡単に癒えるような傷じゃないですよね。内臓にまで届いてなかったとしても、放っておけば失血で危ない状態だと思うんですけど」
 そういえばそうだ。僕はサラに刺された。慌ててお腹をさすってみる。けれど傷跡らしきものは見つからない。当然ながら痛みも無い。そもそも、そんなこと最初から無かったかのように。
 胸が苦しい。何か、何かとても大事なことを忘れているような。そんな焦りにも似た感情。呼吸ができない。ルイはまだナイフを見ている。きらきらと輝くナイフ。
「ナイフも、ちょっと変なんですよね。血が滴ってたはずじゃないですか。でも、このナイフには全然血の跡なんか無い。せいぜい林檎を切って付いた汚れが見えるくらいで。血って、そんな綺麗に流れ落ちちゃうものなんでしたっけ。ナイフだけじゃないですよ。そんなに血が出てたら、床にだって、ベッドにだって、血痕が無いとおかしいですよね」
「分からない。僕には何も分からない」
 僕は頭を抱えてうずくまった。そうするしか無いように思えた。いったい、何が起きているのかさっぱりだった。自分の記憶が強く揺さぶられている。
「ところで、お尋ねしたいんですけど」
 ルイが僕に近づく。うずくまる僕の前にしゃがみこんで、声をかける。
「どうして、サラさんが死んでるって分かるんですか」
「そ、それは、僕自身が首を絞めて殺した。だから死んだのは明白だよ」
「首を絞めて、サラさんがぐったりして、すぐに身を引いてますよね。そしてそのまま睡眠薬を飲んで自殺を図る。そうすると、いったいいつ、どうやってサラさんが死んだことを確認したんですか」
 鼓動が激しく脈打っている。どうやってサラの死を確認したかだって。そんなの、僕が殺したんだから分かるに決まっているじゃないか。首を絞めて殺したんだ。死んだら、そんなの誰だって分かる。
「ところで、ベッドの上にはサラさんしかいませんけど、あなたはどこで寝ているんですか」
「え、僕ならそこに」
 顔を上げて起き上がる。すぐにベッドに眼を向ける。そこにはまるで眠っているかのように穏やかなサラの姿。そしてその隣、一緒に眠る僕が。
「居ない」

【暗転】

 夢を見ていた。それは、サラが学校に通う夢。僕はサラになっていた。
「おはよう」
 一人の少年が声をかけてきた。一見しただけだと、男なのか女なのか判別できないほどの美少年だった。男子の制服を着ているからなんとか男子だと判別できる。サラは彼に好意を抱いているらしい。心拍数が上がり、体温がわずかに上昇する。僕は少し嫉妬した。
「おはようございます呉羽さん。相変わらず朝からお元気ですね」
 サラはそっけない態度だ。けれど呉羽と呼ばれた少年は気にした風もなく、サラに屈託の無い笑顔を振りまく。邪気の無い笑顔。そういうものを間近で見るのは何年ぶりだろう。彼の笑顔は見る人間の警戒心を解きほぐしてしまうような、そういう無邪気さがあった。
「さっそくで悪いんだけどさ。ちょっと数学で分かんないところあって、教えてくれないかな」
 そう言って呉羽は数学の教科書を取り出す。
「数学なら、私よりも御鏡さんに聴いた方がいいんじゃないかしら。彼女確か、こと数学に関しては満点以外取ったことが無いという噂をお聞きしました。なんでも叔父さんが偉い大学の数学教授で、将来は数学家になるんじゃないかって、先生方も仰られているようですし。呉羽さんは確か御鏡さんと仲が良かったのでは」
 そう言ってサラは視線を右斜め前に向ける。クラスの一番前の席に座る御鏡アリスを見た。
「いや、ダメダメ。彼女は天才過ぎて、とても僕の頭じゃ付いていけない。彼女にとって教科書に載ってる問題は、問題にすらならないんだ。とき方が書いてあるんだから、それはもうそのまま答えが載ってるのと同義。だから彼女に言わせれば教科書の問題は、全部ここに書いてあるからその通りに答えればいい、になっちゃう。巷ではアリスに匹敵する計算力を持つものは、フォン・ノイマンとコンピュータだけだなんて言われてるね」
 いや、さすがにそれは言いすぎだろう。スケールが大きすぎて思わず笑ってしまった。
「そうだ。天才と言えば、うちの学校にはもう一人いたな。名前は、なんて言ったかな。よく理科室に閉じこもってるから、ついたあだ名が理科室の魔女。なんでも大の実験好きで、小学生がやるような実験から大学の研究でやるようなやつまで、新旧含めてなんでもやってみるっていう好奇心の塊なんだって。ある時はヨウ素溶液をジャガイモに垂らして紫になるのを確認したり。ある時は石灰水の入ったビニール袋に息を吹き込んで白くなるのを確認したり。お前は小学生かって感じのことを、すごく楽しそうにやってるんだって。そうかと思えばコンピュータを叩いてゲーム理論における最強のプログラムを考案したり、って自分でも何言ってるかよく分からないんだけど、つまりなんかすごいことやってるらしいよ」
 そうこうしている内に授業の始まりを知らせるチャイムが鳴り響いた。サラは楽しい時間が終わってしまうことにがっかりする。
「じゃ、また後で。数学のことよろしくね、凪澤由愛(なぎさわゆめ)さん」


05.五日目

 彼はまだ寝ている。大きな音を鳴らしても動く様子はない。寝息は立てているから、死んだということはなさそうだ。少しだけ安心する。
「少し、荒療治が過ぎたんじゃないか」
 部屋の隅にもたれかかって、白衣の彼女は僕をじろりと睨んだ。白衣の下には僕が通っていたのと同じ制服を着ている。
「あれ、早いね」
「高校は今、試験休み中だからな。午前だけだ。それよりも、彼女の様子はどうだ」
「目覚ましの音とか鳴らしまくってみたんだけどねー。ぜんっぜん起きてくんない。やっぱり寝不足のせいだろうかな。一日三時間はやっぱりきつかったか。ナポレオンだって、実際には椅子の上とかでちょっとずつ睡眠取ってたっていうもんね」
「一日三時間睡眠ならまだマシだ。彼女の場合、一日という周期そのものが狂わされていたのだろう。本人に自覚が無くとも体が付いていかん」
「まあ、おかげでヒプノセラピーはほぼほぼ成功。きっと彼もいい夢見てる頃じゃないかな」
 そう言って僕は窓の向こうを覗いた。そこには静かに眠るお姫様がいる。カラスの濡れ羽色、とでも言うのか。黒髪がとても綺麗だ。母性と処女性を併せ持つ彼女は、僕のマリア様。そんな彼女をこんなところに閉じ込めて不自由させていることについて僕の胸は少しだけ痛んだ。
「君も、少し眠ったらどうだ。彼女の周期に合わせて寝起きしているのだろう。疲労も溜まっているはずだ。彼女もいつ起きるか分からない。その間くらいは休むべきだ」
 彼女の言うことはその通りだった。実際、たまに頭痛を感じたし、何よりもまぶたが重い。要するに眠くて仕方ない。けれど僕はそれを拒んだ。
「心配ありがとう。だけど今は、こうやって彼女を見守っていたいんだ」
「そうか。まあ君がそう言うのであれば、私の方にはそれを止める理由も無い。好きにするがいいさ」
 そう言って、白衣の彼女は部屋を出て行った。

【夢】

 お兄様と二人、湖の上のボートに乗っていました。そこはとても綺麗な湖。静寂。湖の周囲は東山魁夷の絵のよう。私とお兄様は向かい合って座っています。お兄様はいつもと同じ、優しい微笑みを浮かべて私をじっと見ていました。
「少し寒いね」
 お兄様はそう仰られ、私に上着をかけてくださいました。そうすることで、ボートが少し揺れました。私はお兄様にかけていただいた上着から、お兄様の体温を少し感じ取ります。とても温かい、お兄様の心を感じます。
「なんだ、あれは」
 お兄様が何かを見つけました。その方向に目をやると、そこには大きな渦が。それはあらゆるものを飲み込もうとしています。私たちの乗るボートも少しずつ引き寄せられていくようです。
 私はなんとかしなければと思い、ボートのオールを探しました。けれどもオールはどこにも見当たりません。そもそもここまでどうやって来たのでしょう。そんな疑問もむなしく、ボートは少しずつ、確実に渦に飲み込まれようとしています。
「サラ、こっちだ」
 いつの間にか、お兄様が別のボートに乗り移っていました。そちらのボートにはオールも付いています。私はそちらのボートに乗り移ろうとしました。すると私の袖をぐいと引っ張る力を感じました。何だろうと思って振り向くと、そこには小さな少女がいました。不安げな顔をしたその少女は青い眼をしていました。
「そっちに行ってはダメ」
 私は少女の言葉に従いました。少女の訴えが必死なものに感じられたからです。私は彼女のために渦に飲み込まれる決意を固めたのです。


06.六日目

 軽い頭痛で眼が覚めた。長い、長い眠りからようやく覚めたような、そんな重い目覚め。体中が痛い。どうやら床で寝てしまったようだ。そしてその見慣れぬ床に私は気づいた。
 周囲を見渡すと、まったく見覚えの無い景色がひろがっている。ベッドがある。椅子がある。壁に小さな窓がある。扉が無い。見覚えの無い景色。けれど私はこの景色を知っている。そのことに気づいた時、窓の向こう側から声をかけられた。
「おはよう。長い眠りだったね」
 聞き覚えのある声。私の心は懐かしさでいっぱいになった。
「ええ。長い眠りだったわ」
 私のその回答は彼はちょっと怪訝な顔をした。そしてすぐに顔を輝かせて私を見た。
 目覚めたのが私であることに気づいた彼は嬉しそうな笑顔をして見せてくれた。本当に嬉しそうな笑顔。その笑顔に、なんだか私まで釣られて嬉しくなってしまう。
「待ってて。すぐにそこから出してあげるから」
 そう言う彼を私は慌てて制止した。どうして、と疑問を投げる彼に私は伝えなければならない。まだ終わっていないのだということを。


07.最終日

 一週間。あっという間だった。結局、ここから二人とも抜け出す方法は見つからず。時間だけが過ぎ、今日が終わろうとしていた。窓の向こう、ルイが僕をじっと見ていた。僕は彼女に伝えなければいけない。お別れを。
「僕はこのスイッチを押すよ。サラの居ない世界で、生きている意味は無い」
「サラさんが死んでいるかどうか、不確かなのに、ですか。あなたの記憶は全部曖昧なものなのに」
 ルイの言っている意味が僕にはよく分からなかった。サラは死んだ。そのことを僕は知っていて、ルイは知らない。人間の記憶が不確かなものだ、というのはその通りかもしれない。犯罪が発生して犯人の服の色を目撃者に聞いても、それが間違っているようなことは多々ある。けれど、そんなことで僕は考えを改めるつもりはない。僕はルイにさよならを告げた。そして手元のスイッチを押す。
ルイの部屋と繋がる窓が閉じられた。どこからか、空気の漏れるような音が聞こえる。きっとガスが部屋に流れ込む音だろう。
 部屋が徐々に白くなってきた。ガスに着色してあるのだろうか。死の色が見えるというのは、少し怖かった。こんな演出を施すなんて、とんだ悪趣味だ。
 僕はサラのことを思った。最期の瞬間は彼女と二人が良かった。
 部屋はもう真っ白になっていた。部屋の中にあるもの、広さ、全てが見えないくらいに真っ白だった。なんとなく宙に浮いているような感覚さえある。毒ガスがこれほど充満しているのに、意外に苦しくないものだな。そんなことを考えていると、意外な声が聞こえてきた。声のする方を見る。そこにいたのは僕の妹。

【対話】

「お兄様」
「サラ」
 そこにいたのは、間違いなくサラだった。黒い髪、青い瞳。西洋人に近い端正な顔立ち。僕はもういつの間にか死んで、天国に来たのだろうか。そう思ったが、サラが首を振って否定した。
「ここは天国でも地獄でもありません。私もお兄様も死んではいません」
「そ、そうなのか。僕はサラを殺してなかったんだね。けれど、いったいどうやってここに入ってきたんだ。いや、そんなことよりも早くここから出ないと。サラ、今この部屋は毒ガスが充満しているんだ。幸い即効性ではないようだけれど、急がないと死んでしまう。だから早くここから脱出しよう」
「いいえ、その必要はありません」
 僕はサラの反応に納得する。そう、この場に生きて二人でいることは意図しないことだけれど、僕ら二人で死ぬという意図はここで達成できる。であればここから抜け出すこともない。二人静かに最期を迎えられるのだ。僕はそう考えた。するとまた、サラは首を振って否定した。
「私はもう、逃げたりしません。お兄様、あなたは私の弱さが作り出してしまった幻。寂しさから零れ落ちた慰めの人格。あまりにも長く共存したため、あなたという存在は別個の意思を持ってしまった。あなたは私の理想。理知的で、美しく、私にだけ優しい。いつしか私も、あなたを不自然に思わなくなってしまった。けれどそれもお終い。結局私は、死さえも苦しみから逃れる方法にはなりえないことを知ってしまった。死さえも、真実からは逃れられない。だから私はそれを受け入れることにしました。それは死ぬことよりも苦しいことかもしれない。けれど、そうしなければいけない。お兄様、今まで支えてくれてありがとう。あなたがいなければ、私はもっと早く壊れてしまっていた。あなたがいたから、色んなことに耐えてこられた。でも、このままではいられない。私以外に私を助けられる人は居ないのだから。お兄様に頼ることなく、お父様とも対峙します。だからお兄様。もう私のことで心配なさらないで。私を殺す必要も、お兄様が死ぬ必要もないのです」
 そう言ってサラは両の手を広げ、僕に歩み寄る。僕とサラは抱き合った。僕は今、ようやく全てを了解した。僕がサラの中に入っていく。


08.サマライズ

 部屋の真ん中に用意した壁はすでに撤去されていた。黒岩は椅子に座りコーヒーをすする。
「ようやく実験室が空いたか。まったく、たかだか心理カウンセリング程度に大げさな仕掛けを用意したものだな」
 おかっぱ頭に黒ぶち眼がね、白衣の下にセーラー服。彼女はれっきとした高校生だ。
 そしてその隣に一人の少女、いや少年が立っていた。白のワイシャツに黒いパンツを穿いていて、どこかの新入社員といったいでたちをしている。
「カウンセリングじゃありませんよ。れっきとした催眠療法です。彼女の中で死んだ彼女自身を救い出し、彼女のお兄さんという別人格を封じ込めるための、ね。もしあのまま放置していたら危険でした。人間、誰しも死にたいと思うことはありますが、実際は実行に移せない。怖いですからね。けれど彼女は二人になることで、その恐怖を克服してしまった。彼女、凪澤由愛はそのことに気づいてもいました。だから何度か克服しようとした。お兄さんを殺すというかたちで。けれどどうしても踏ん切りがつかなかったんですね。元々心の弱さをカバーするために生み出した人格ですから、それを殺そうなんて無理なんです。それはそうと、なんですかその格好」
「見て分からないか。セーラー服だ」
「いや、そうではなくて。うちの学校って、セーラー服ではなくブレザーだったような気がするんですが」
 黒岩ルイはふふんと笑い、立ち上がる。白衣を脱いで、ほれどうだと言わんばかりに隣の少年を見上げた。
「これはドン○・ホーテで買ったのだ。ずいぶん長い間、君は私以外の女にご執心だったからな。ここらで心をわしづかみにしてやろうという魂胆だよ。ほれほれ、若い女のセーラー服はそそるだろう」
 黒岩はうりうりと体を摺り寄せる。少年は、やれやれといった諦め顔だ。
「人間というのは元々、男性性と女性性の両方を持っているものなんですよ。男も女も、共に両性の素質を備えている。それが片方にだけ偏っている人は、たいがい異性の性を強く抑圧しているものです。抑圧の力が強ければ強いほど、反動に苦しむケースがあります。今回の凪澤さんは、抑圧した上でさらに切り離してしまったというレアなケースですね。性の抑圧と多重人格症の併発ということでしょうか」
「多重人格なら知っているぞ。なんだかの映画で聞いたことがある。ちょっと前に流行っていたな。解離性同一性障害というのだろう」
「ええ、その通りです。同一性というのは、簡単に言えば自分が自分であるということ。その自分が自分だっていう自覚が不安定になることを同一性障害と言うんです。ちなみに性同一性障害というのは、男なのに自分が男であると認められない人のことですね。けれど今回の件について、僕はあえて俗称の多重人格症という言葉を当てはめたい。何故かと言うと、凪澤さんは凪澤さんであることを失っていなかった。本人が精神的に死んでからは体をお兄さんが引き継いだけれど、それまではずっと自分でコントロールしていた。お兄さんはあくまで空想の存在だったんです。複数人格をその身に宿しながら同一性は失っていなかったということです。そして実際、彼女は果物ナイフでその空想のお兄さんを殺そうとします。果物ナイフというのはおそらく、真実を暴くという意味を有しているのでしょう。林檎は知恵の実ですからね。知恵の実を剥くナイフに何かしらの意味を求めたのだと思います」
「そんなことより気になっているのだが」
 黒岩は少年の顔をじろりと睨む。
「私の制服を着て、私の名前を名乗ったのは、いったいどういう理由があってのことなんだい」
「い、いや、それは。凪澤さんに安心してもらうためですよ。相手が女ってだけで、人間は緊張がゆるむもんですからね。一番最初は警戒心をときほぐす必要があるんです。相手に自分のことを信じてもらうために、色々と工夫してたんです」
「むう。それなら良いのだが。確かに君の女装はとても似合うので、ごはんおかわり何杯でもいけるのだが、さすがにクセになられると困るのでな」
「そんなわけないでしょうが!」


09.お仕舞い

 病院で少し療養生活を送り、私は自分の部屋に帰ってきた。机の上の林檎はもう腐ってしまっていたので、ビニール袋にくるんでゴミ箱に捨てた。机の上に開きっぱなしの聖書があったので、棚の中にしまう。果物ナイフは後で台所に持っていこう。
 私は二つの決意を持って帰ってきた。ひとつは大学に入りなおすこと。もうひとつはお父様に結婚の話を破棄するよう訴えることだ。本当は経済学部に入りたかったのだけれど、商学部に行くことに決めた。お父様の会社はまだまだ管理会計がしっかりとしていないところがある。だからその部分を支えてあげられたら、と思うのだ。大学にいながらお父様の会社を手伝う、という条件で結婚の話を反故にしてもらおうという魂胆だ。そう、すんなりいかないかもしれない。そもそもお父様は女が会社経営に口を出すのを好まないだろう。けれど無理と最初から諦めたりはしない。たとえうまくいかなくても、すぐに次の手を考えられる。諦めさえしなければ道は開けるはずだ。
「お兄様、見守っていてくださいね」
 私の中にお兄様がいる。そう思うと、とても勇気がわいてくる。今の私なら、何でもやれる。そんな気がした。

2009/11/20(Fri)04:43:42 公開 / プリウス
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■作者からのメッセージ
これにて『囚人のジレンマ』は完了です。
テーマは「自己実現」です。
色々と暗喩を散りばめました。
あえて説明しないもの多数ですが、林檎についてだけは強調したかったので、説明文を入れました。
よくポップソングで「自分に嘘がつけない」という歌詞を目にしますが、それこそ嘘だと僕は思っています。
人は簡単に自分に嘘をつき、そして簡単に騙されます。
そしてそれが極端な場合、嘘を暴くのにとんでもない苦しみが必要となります。
それこそ、心の中で血を流すほどの苦しみです。
真実の実を得るため、ナイフを振りかざす。
そういった苦しみは、人が自己を確立するために通らなければいけない試練なのではないか、と。

重い暗い文章に長く付き合ってくださった方々、ありがとうございます。
次回からは軽い明るい文章目指して頑張ります。

【更新履歴】
2009/11/04 00.序章
2009/11/05 01.初日
2009/11/09 02.二日目
2009/11/14 03.三日目
2009/11/17 04.四日目
2009/11/20 05-09.お仕舞い

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。