『十握角之真の退魔事件簿』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:もげきち                

     あらすじ・作品紹介
狭山茶大好き! 天才退魔士『十握角之真』が巻き込み、巻き込まれていく不可思議アクション妖怪伝奇。まったりまったり開幕開幕ー

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     プロローグ

 冷たい北風に、覆いかぶさる夜の闇。
 澄み切った空気が空の靄を切り裂き、満天の星空が煌きを得ていた。
 人里離れた山中から覗き見える月と星が光を零す様子は美しく、幻想的なその風景を眺めるだけで、真冬の夜に外に出ているのもそれほど悪くは無いものだと思えてくる。
 ――勿論、身につまされるような冷たい風が無ければの話だが。
「……やっぱり寒いものは寒いよ……」
 そんな暗闇の、山道を歩く一つの影。
 1人の青年が白い息を吐き、寒さに身体を震わしながらぽつりと呟いた。
 もこもことした耳当てにタートルネックのセーター。その上には温かそうな紺色のダッフルコートを着込んでいる。手袋も両手にしっかりと完備し、その右手には黒いカシミヤのマフラーを握り締めていた。
 背負ったリュックサックからは大きめの魔法瓶の水筒が、チャックで締め切れなかったのだろう――ひょっこりと姿を晒している。
 彼の姿はどこをどう見ても防寒に関しては完璧に見えるのだが、いささか山登りの格好としては不自然を感じる出で立ちだった。
「あー、もう寒い。めっさ寒い。特に首元チョー寒い。まさか枝にマフラーが引っかかりまくって破けるなんて想定外だよ。と言うか勝手に枝に引っかかって首絞められて死ぬとかまで有り得た! やばすぎだ!」
 人があまり通らない、整備されていない山中の様子と、自身の悲惨な状況に両拳を握り締め不満の声を上げるも、すぐに彼は虚しさに気がつきため息を吐いた。
「そもそも大体山道にダッフルコートに革靴ってのも間違いだよね。ああもう……一体どこの誰だよ、別に適当に準備して行っても余裕だって言ったの。僕は目的地がこんな山奥だなんて知らなかったってーの!」
 よく見ると、確かに所々破れた箇所が見える残念なマフラーを握り締めている青年――十握角之真(とつかかくのしん)は 誰に言うでも無く泣き言を漏らした。歳は21歳。黒髪に黒目、やや大人しそうな雰囲気を持っている青年だ。
 前髪を眼前まで伸ばしているが、男性にしては珍しい大きな瞳は人懐っこく映り、またそれによく合った端正な顔つきはまさに正統派の美青年のそれだ。
 ――が、今はその端正な顔も寒さで浮腫み(むくみ)、身体は重ね着につぐ重ね着でぶくぶくと膨れ上がって台無しになっている。
 さて、角之真は何もこんな真冬の山に1人でハイキングに出てきた訳ではない。
 彼がこんな時間にわざわざ山を登っているのには勿論理由があった。
『あら、私は別に角ちゃんが大丈夫だと思う程度で――って言うのをちゃんと言ったはずよ? 角ちゃんが勝手に都合よく捉えて勘違いしたんじゃないの』
 不意に角之真の頭上から女性の声が聞こえたかと思うと、すぅーっと目の前に小柄な少女が降り立った。
 そのまま少女は意地悪っぽく角之真に向かい笑うと、彼の手を取り
『さぁさぁ、今日も角ちゃんがだらだらしているせいできっと時間がもう無いの! 急いだ急いだ!』
 と、くいくいと引っ張っている。
 幼い顔立ちに、角之真と同じような大きく黒い瞳。彼を引っ張るその手は細く、白く華奢に映る。あまり成長を感じない幼い身体を見るに14―5歳だろうか? すこしこまっしゃくれた感じも見えるが、とても愛らしい美少女だ。
 ――だが、角之真を引っ張るその少女には明らかに違和感があった。
 そう、彼女の服装もあまりにも冬の山を登るのには適していない服装なのだ――いや、適していないどころか角之真以上にその衣装は不自然すぎる。
 ケープのついたマタニティドレスのそれは長袖ではあるものの明らかに秋物で生地の薄さは明白。足もニーハイを履いて多少は暖に覆われて居るものの、その防寒に乏しく身軽すぎる衣装は、一緒にいる角之真とは正反対でこの時期を過ごす『人間』として明らかに相応しくない格好なのだ。
「あのね……」
 少女の言葉に角之真は額に手のひらを当てて「何をいってるの?」というように呆れた表情を見せる。そのまま少女に向かいビシっと指をさした。
「ぼーくはー母さんと、円浄さんの言う事を信用して出てきたんだよ! 急に言われた挙句、行った事が無い場所だって言ったら「ああ、そんな場所適当な準備してちゃっちゃっと行けば良いじゃない。問題ない、問題ない」って二人して気軽に言ってたじゃないか。それが、いざ来て見れば何にも無い山のど真ん中。問題大有りだよっ! 散々迷ってこのザマだよ! だいたい「しっかり言った」って……さっきの母さんの言葉、僕は今初めて聞いたよ!」
『あら? そうだったかしら? ごめんねー。でも何事も経験よ』
 角之真の言葉に別段気にしても居ない態度で、少女はくすりと笑うと、ぺろっと舌を出した。
 その様子に角之真はより一層強く批難の眼差しを少女に向ける。
「その経験で、可哀想な息子は道に迷って凍死するかもしれないのに……絶対ごめんって思っていない言い方だ……」
『うん。だって思ってないもの』
 角之真の批難がましく言った言葉は、即座に肯定された。
「…………」
『大体それだけ防寒して、おまけに大好きな狭山茶に急須とお湯を持ってきている、どうみても余裕ある角ちゃんが、儚く死ぬわけ無いじゃない。嫌だわぁ』
「…………」
『あ、ほら! それにもし本当に角ちゃんが死んだとしても、私と一緒じゃない。しっかりこっちでの生き方を教えてあげるから。気にしない、気にしないー』
「きっ……気にするわ!」
 満面の笑顔と、あまりにも軽い口調で『あちらの世界のススメ』を少女に語られた角之真は慌てて大きく首を横に振り声を大にして否定した。
『はい。それだけ元気があれば大丈夫ね。ほら、協会にも畏れられる天才退魔師がいつまでも情け無い泣き言を言っているんじゃありません。なんとしても、冥道への道を開けさせないようにしないと!』
「う、なんだか無理やり話を纏められた気がする……けど、そうだね。うん」
『それでこそ私の角ちゃんよ!』
 渋々と頷いた角之真に気合を入れるように、少女は彼の背中を大きく叩いた。

 おんぉんぉんおんおんぉんぉんおおんおんぉん――

 その場所に近づくにつれ、心の臓に重苦しく響き渡る――恨みを持った幾人の憎悪、怨嗟、そして苦しみの声が幾重にも重なったような不快極まりない音が、暗く、冷え切った世界にこだましていた。
「うー、鬼哭がこんなに満ちているとは……遅かったな。今回も結局後始末か」
 油断をすれば生気を奪われそうなその重苦しい音は、静寂の世界の中でひたすら異彩を放ち、音の中心に近づく角之真を圧倒しようと圧し掛かってくる――が、角之真はその重苦しく、魂まで凍えそうな音も全く意に介さない様子で、足取りも確かに目的地に向かい進んでいた。
 目標を発見した途端、人が変わったようにスイッチが切り替わりあれほど泣き言を言っていた角之真の顔がみるみる引き締まっていく。
『そうね。まだ位置としては遠く感じるのにここまで鬼哭が届いてくるという事は、もうとっくに本命は出てしまった後かもしれないわね』
 角之真の呟きを肯定するように、少女も神妙な顔で頷く。
『前回と一緒だわ。やはり情報が後手、後手に廻ってるわね』
 少女の呟きに、角之真は「またか」と呟き、苦い表情を浮かべるも、それを打ち消すように歩く足に力を込めた。
 おんおんぉんおんぉんぉんおん――
 中心に辿り着くと重苦しく響く音が今まで以上に身体に纏わりついてきた。
 流石の角之真もあまりの重苦しさに一瞬吐き気を覚える――が、飲み込まれないように、慌てて気合を入れなおしていた。
「気を抜いていたとは言え、僕が障りを起こすなんて……凄い瘴気だな」
 そのまま、用心深く目を凝らして音の震源地を覗いてみる。そして確信する。
「うん。門の開け方が今までと全く一緒だ。また同じ人にやられた可能性が高いね……そして小鬼の数も半端無い……な。ここから出たのは相当の奴みたいだ」
 角之真が覗いた視線の先――赤く暗い光がぼうっと浮かび上がる窪地の中で、無数の小鬼が悦に入った奇声を上げながら狂ったように踊っていたのが見えた。
 小鬼達はおんおんぉんぉん、と響く音に吸い寄せられるように漂ってくる――白い霞のようなものを手で掴んでは、涎を垂れ流し、口に含んで嘲笑っている。
 踊りながら霞をひたすら貪り食う様は、まさに地獄の餓鬼そのものだ。
『そうね……どうやらここの主は当の昔に抜けた後だけど、その残り香に充てられている小鬼共の力も陰魂を貪り喰って強まっているみたいね。このまま放っておいたら、人々に害を及ぼすわ。さっさと封じてしまいましょう!』
 少女も頷き『それにしても――』と言葉を続けた。
『短期間に連続してこんな大きな門を直前まで予知班に察知されずに開けた人間もとんでもない術者よ。大掛かりな仕掛けを要さなきゃ、ここまで大きな門を無理やり開くことは出来ないはずなのに、その準備を――力を未だに殆ど感じさせる事無く実行出来るなんて……。角ちゃんでもやろうと思っても出来ないわよ』
「――いや、そもそもやろうとも思わないし」
 少女の言葉に角之真は苦笑いを浮かべ首を横に振った。
 彼はすぐに表情を引き締めると、踊り狂う小鬼達を眺めて呟いた。
「それより僕としては、その術者がこんな大きな門を『代償』無しで開け続けることが出来ているのか? が一番心配なんだけどね。きっと、その人か、その人の周りに良くないことが起きてしまっていると思う。早く見つけて止めさせないと、その人の命も危ない」
 げっげっげ、と一際大きな声で小鬼達が嗤う声を聞き、心底忌み嫌う表情を浮かべ角之真はぎゅっと唇を噛み締めた。
『もう……角ちゃんは、本当にお人好しなんだから。ほら、今はそんな事を考えている場合では無いでしょう? 先ずはしっかりこの場所を封じないと!』
「うん。そうだね」
『で、角ちゃんはどうやってこの門を封印する? 私は何に成れば良いかな?』
「弓――かな。幸い僕が居るのは高地、小鬼共は低地の窪みにいる。地の利を利用し、奴らが気付き登ってくるまでに全てを射殺し、排除した後に門を封印する」
 少女の問い掛けに、角之真は即答した。
『なるほど良い判断ね。解ったわ、それで行きましょう!』
「じゃ、母さん宜しく」
 言って角之真は、左腕を水平に大きく突き出した。
『では行くわよ! 角ちゃん落とさないでねっ!』
 少女は、角之真の呼びかけに応え
『挺身変化! 十宝神種、十握大弓!』
 ――可憐な声での宣言をした。
 宣言と共に、少女はみるみる姿を変え、小柄な身体からは想像も出来なかった全長2mはあろうかと言う見事な大弓へと変化した。
 飾り気の無いシンプルな大弓なのに、高貴な神気が迸り、見る者の心を震わせる神々しさが伝わってくる。
(さあ! 角ちゃん、手にとって宣言を!)
「我、十握角之真。十握の名を以って神器を扱わん!」
 角之真は少女の催促に大きく頷き、自信を持って宣言すると少女が変化した大弓を、重さを感じさせない様子で軽々と手にし、悠然と構える。
(認証――十握角之真。十握の神器を扱う資格を有する者と認める。能力開放▲)
 少女の型式ばった認証の声が流れると同時に、握る大弓に神聖な力が流れ込んでくるのを角之真は感じた。
「母さん。それじゃ、次は矢の使用許可をお願い。型式は『貫通』で」
(了解♪)
 角之真は言うや否や、流れるような動作でダッフルコートの懐から符を取り出し素早く捻った。すると一瞬にして符が青白い炎を発し燃え上がり――炎が消えると指先に青白く輝く鋭い鏃を要した矢が見事に生成されていた。
(素敵……浄化の炎の純度が本当に高いわ。素晴らしい才能ね。認定――十握角之真の矢を十握の神器に相応しい矢と認めます。同調▲。型式貫通)
 少女の変化した大弓の認定と共に、矢が放つ光が大弓に馴染み、より一層力強い輝きを増していく。力強き浄化の炎が同調して角之真に伝わってきた。
(さあ! 角ちゃん。どかーんとやっちゃいなさいっ!)
「うん!」
 凛々しく矢を大弓に番え、張り詰めた弦を力強く引き絞り、角之真は視界に映る禍々しき門の中央で踊り狂う小鬼に狙いを定める。
「我、害為す悪鬼を滅ぼさん……貫――滅破っ!」
 裂帛の気合と共に、角之真は忌むべき小鬼に向かい空気を鋭く引き裂く閃光の一撃を放ち――同時に世にもおぞましい悪鬼の断末魔が、山中に響き渡った。

     第1章 

     1

 ――えっ、ちょっと待て? 一体なんでこんな事になっているんだ?
 心の中で角之真はそう呟きながら、蒼褪めた表情で額から流れる汗を何度も何度も必死で拭っていた。しかし、張り詰めた緊張感にチクチクと針を刺すように肌が刺激され続け、額からだらだらと流れる汗は、止まる気配を一向に見せていない。
 今、角之真の目の前には、満面の笑みを柔らかく浮かべた制服姿の少女。
 普段から目が細いのだろう、緩やかな弧を描くように曲がった人懐っこい瞳が優しい人柄を伺わせる人物だ――が、しかし今、その満面の人懐っこい笑みを浮かべる少女から『何か』を感じさせる底知れぬ凄みがゆらゆらと滲み出していた。
「あ……あのぅ……雪ちゃん? どうしてここに? というか学校は――」
 何とか勇気を振り絞って言葉を発した角之真に向かい、雪と呼ばれた少女は無言で微笑み返した。その雪の笑顔をまともに受けた角之真は、あまりの恐怖に全身をガクガクと震わせ、また押し黙ってしまう。
 角之真を圧倒しているこの少女の名前は吉田雪(よしだゆき)。
 雪は角之真が二年前から世話になっている上司、吉田円浄(よしだえんじょう)の3人の娘の長女である。色白の肌に長く 艶やかな黒髪を高めに括る大きな赤いリボンがトレードマークの17歳の高校2年生だ。
 雪は埼玉の名門私立女子高、浦和唯一女子高等学校(通称唯女)に通うエリート女子高生である。彼女の着ている高校指定の深い紺色のブレザーは、有名デザイナー林華恵が手掛ける人気の制服である。エンジ色の制服リボンもワンポイントで色鮮やかに映り、プリーツ状の灰色のスカートも良く似合っている。
 そんな雪が――朝のラッシュも落ち着いたであろう時間に角之真が徹夜帰りで大宮に戻り、日本退魔師協会大宮支局の扉をガチャリと開けた瞬間、底知れぬ笑顔を浮べて「おはようございます」と待ち構えていたのだ。
「ぎゃっ! (楳図)」
 その状況に角之真は目の玉が飛び出るほど驚いた。眠気も一気に吹き飛んだ。
「な、なんで雪ちゃんがこんな時間に?」
 思わず上ずった声を上げてしまう角之真。
 しかし、雪は微笑むだけで何も返事を返さない。
「え? え? 何? ど、どうしてっ?」
 角之真のこの驚きには勿論理由があった。
 何故ならば、雪はエリート女子高である唯女で現在生徒会長を努め、その品行方正さは全生徒の模範。彼女はまさに唯女を代表する優秀な生徒の一人なのだ。
 そんな雪が、まさか平日のこんな時間――恐らくHRも終わり一時間目の授業が始まろうかと言う時間に、こんな場所に居ると思うだろうか? いや無い(反語)
 間違いなく角之真や他の雪を知る者も夢にも思っていないだろう。
 しかし現実には、この時間にこんな場所に間違いなく雪が存在しているのである。
 角之真が想像だにしなかった、有り得ない出来事だった。
 ……そして角之真は驚愕の表情を張り付かせたまま、雪に無言の笑顔で応接室に誘導され、無言の笑顔に催促されるままソファに対面するように腰掛けさせられ、そのまま無言の笑顔を延々と浴びせ続けあれ――ダラダラと汗を浮べながら冒頭のような心情を吐露していたのである。
 と、そのような折に雪の肩越しに見える受付から、興味津々の様子で事務の田中さんが「修羅場かな〜? 修羅場かな〜?」と角之真と雪を交互に見比べながら嬉しそうにチラチラと眺めているのが狼狽する角之真の目に映った。
「――あう」
 一年前に新しく事務として入ってきた噂話大好き田中さんに、勝手な妄想で盛り上がられそうな誤解を与えている情況を切々と角之真は感じ焦った。
 ――うう、違いますよ! 田中さんが思うようなネタは一切無いですよ!
 そんな気持ちを込て、キリリとした瞳で田中さんに訴える角之真。
 もちろんですよ十握君。この痴話喧嘩は円浄さんには秘密にしておくっすよ!
 しかし、角之真の念じる方向とは恐らく違う、何やら完全に誤解した表情で片目を閉じ、親指をぐっと立てて、角之真にアピールする田中さん。
 うがー……あれ絶対違う事考えてるよ、田中さん……。
 角之真は頭を抱えたい気持ちになった。
「どうして……ですか」
 ――と、ようやく口を開いてくれた雪の口調は、やや呆れを含んでいた。
 そんな雪の声に慌てて角之真は雪の方向へ視線を向きなおした。
 すると、雪はそのまま軽く溜息を吐き、例の張り付いた笑みを浮かべ――
「どうしてでしょうねー」
 と、まるで他人事のような余所余所しく、それでいて棘のある口ぶりで角之真にひんやりと言葉を返してきた。
『か……角ちゃん! 私の知らない所で雪ちゃんにな、何したのよ? 雪ちゃんが怖い……怖すぎるじゃない!』
 見るに見かねた様子でマタニティドレスの少女が、角之真の隣にふわりと現れちょこんと座ると慌てた様子で二人に口を挟む。
 少女も雪の、どこか迫力ある笑顔に怯えている様子だ。
「知らないって! って言うか、母さんこそ何か知らないの?」
 小声で助けを求める角之真。
『知ってるわけないじゃない! 角ちゃんこそ私が見てない所で雪ちゃんに何かしちゃったんじゃないの? 若気の至りで雪ちゃんが寝ている間に悪戯とか』
「ちょ! 母さん、僕がそんな事をすると思ってるの? 酷いよ!」
『だって、角ちゃんだって男の子じゃない。一つ屋根の下で一緒に暮らし、自分では妹のつもりと言い聞かせても、結局血は繋がっていない。そんなある日、狼の血が騒いだ角ちゃんは本能の赴くまま雪ちゃんが眠る部屋に訪れ、貪るように雪ちゃんの無垢な身体を――』
「ちょっ! それ母さんがこの前興奮気味に見てた昼ドラの展開じゃんか!」
『きゃー、最低。不潔よ! 角ちゃん。セキニン取らなきゃーっ!』
 少女=那由多の発言に思わずブーッと思わず吹きだした角之真が、抗議の声を上げる。しかし少女=那由多はニヤニヤと笑みを浮べている。とても楽しそうである。
「……那由多さん、ご心配なく。そのような事はございませんよ」
 と、那由多の勝手に盛り上がる言葉に、雪が、瞳が全く笑っていない、張り付いた笑顔のままで、きっぱりと断言した。
『え? いや……でも雪ちゃん、何にせよ大丈夫っていうような雰囲気じゃない気がするのだけど……気のせいかしら? すごく怒ってない?』
「ええ、気のせいです。私は怒ってなんていませんよ」
 澄ました表情でにっこり笑う雪。しかし、雰囲気は変わらずだ。
 ――どう見ても怒っているようにしか見えないんだけど……。
 角之真と那由多が顔を見合わせ、見解が相違なく一致しているのを確認した中、雪は今日始めてその細い目を少し開け、じろりと角之真を批難する眼差しを向けた。
「う――」
 思わず絶句する角之真。うん。雪が、とても怖い。
「――ただ」
「た……ただ?」
 角之真がたじろぎながら聞き返すと「はい」と雪は大きく頷いた。
「角之真さんは昨日、確か大学のゼミの研究課題で忙しくて帰れそうにないと連絡を下さいましたよね? なので晩ご飯は必要ない、と」
「え?」
 一瞬「なんだっけ?」とポカンと口を開けた角之真は、すぐその内容を思い出し
「あ、うん。そうだ! そうそう! いやーゼミ研究大変だったなぁ――」
 あはは、と頭に手をやり取り繕った笑い声を出した……が、雪からひんやりとした視線を向けられている事にすぐに気がつき、笑顔を引っ込める。
「そんなあからさまな嘘は必要ないですよ? ね? 角之真さん」
「う――」
「で、そんな嘘を吐いて実際はどちらに、何の用で行かれていたのですか? まぁ、そもそもここにいらっしゃる事から「何の用」かは大体予測が出来ますけどねー」
 雪は再び少し目を開きジロリと角之真を見つめ「そして」と言葉を続けた。
「勿論、その事について私との約束もお忘れでは無いですよね?」
『あっ――』
 雪の言葉に、那由多は何かを思い出したらしく声を漏らした。
「…………」
 同じく、思い出した角之真は額に冷や汗を浮べながら沈黙。
「あらー? 黙ってちゃ解んないですよ? 角之真さん。私との約束覚えてますよねー? 忘れる訳がありませんよねー? あんなに私、お願いしましたもの」
「えっと……あの……その……ほら、だって今回は急な仕事だったし、次の日も平日だったし……雪ちゃんだって学校あるし……」
「はい? はぐらかさずにしっかり答えて下さい!」
「あの……」
「はっきりと!」
「――約束忘れて、連れて行かなくてごめん……なさい」
 雪の圧力に、結局あっさり白旗の角之真。観念して深々と頭を下げた。
 ……暫しの沈黙。
 角之真は雪が何か言葉を発するのを待つ様子で、ずっと頭を下げたままである。
「本当にごめんなさいって思ってます?」
 そんな角之真の頭の上に、暫くすると雪がやれやれと話しかけてきた。雪のその声はどこと無く優しくなった気がする。
「うん……そうだった……完全に忘れてた。雪ちゃん、本当にごめんね」
「もう。仕方ないなぁ……じゃあ、はい、宜しい!」
 角之真のしおらしい言葉と態度に、雪は満足したのだろう。大きく頷く。
「もー。角兄(かくにい) 今回は許してあげるけど、次は無しだよ?」
「うん、雪ちゃんごめんね。許してくれてありがとう」
 角之真は、その柔らかく優しい声音におずおずと顔を上げた。
 すると、雪は本来の可愛らしい笑顔を見せていた。変化しすぎである。
 ――良かった、いつもの雪ちゃんだ。
 雪の纏う雰囲気の変化に角之真はホッと息を吐いた。
「でも、本当に角兄約束忘れてたの? 私がまだまだこっちの方は未熟だから――とか、思って誘ってくれなかったんじゃないの?」
「え? いや。そんな事は無いよ?」
 言われて涼しい顔で即答した角之真だが、内心ギクリとしたのは秘密である。
「私は、ちゃーんと狛井所長から角兄との帯同許可貰っているし、もう退魔師としての活動だって認められています。そりゃ、お父さんや角兄に比べたら全然ダメだけど、足手まといになんてならないんだから。今度こそは何があっても連れて行ってもらうからね! 絶対だよ? 私は角兄に連れてって貰いたいんだから!」
「う、うん。解った。次は絶対に雪ちゃんも連れて行く。約束するよ」
「うん。約束♪」
 悪戯っぽく笑う雪が差し出す小指に、ゆっくりと小指を絡ませ約束を交わすと、角之真は頷いた。
「で、雪ちゃん」
「ん? 何? 角兄」
 そのまま気持ちを落ち着かせると、雪に初めから思っていた事を尋ねる。
「学校は良いの? もしかして休み? あ、でも制服着てるよね」
「…………」
 雪、沈黙。
「おーい?」
「……えへ」
 バツが悪そうにそっぽを向く雪。
「まさか……?」
『ちょっと! こらっ、雪ちゃん?』
 思わず那由多も声を上げる。
「ええ! ええ! 勿論良い訳ないですよー。だって、約束破った角兄に、思いっきり怒りをぶつけに来ただけだしっ!」
 開き直った感じでにっこりと笑う雪。悪気全く無し。
「ダメじゃないか! それじゃあ、円浄さんがおこ――」
「はいはーい、言われなくても解ってますって! じゃあ、角兄に那由ちゃん、今度は約束絶対に忘れないでよね! じゃ、私は超ダッシュで学校いってくるー! やったー、私ってば生まれて初めての遅刻だーっ」
「ちょっ」
 雪は説教をしようと口を開けた角之真の言葉を遮り、あまり褒められたことではない言葉を嬉しそうに叫ぶと、事務所のドアを開けスカートを翻しながら外に飛び出していった。
「んふふー♪ 雪ちゃん、いってらっしゃい」
 ニコニコと妄想が膨らんで幸せそうな田中さんの送り出す声は、飛び出して言った雪の背中に聞こえただろうか?
「はははははは」
 そして、応接室では台風のような一連の流れがやっとこさ落ち着くのを感じ、角之真が乾いた笑いを漏らしていた。
『はははははは』
 那由多も同じように乾いた表情で苦笑いを浮べている。二人の仕草はそっくりだ。
「あー、もう。雪ちゃんがこんな思い切った事する子だったとは。二年一緒に暮らしてるけど知らなかったよ。というか、色々びっくりしたなぁ……もう」
『うん。あー怖かった。あれが真菜(まな)ちゃんが言ってた、噂の「氷の生徒会長」モードの雪ちゃんなのね。想像以上に凄いわね……』
「――だね、母さん。僕も初めて体験したよ。なんというか、有無を言わせぬ迫力を感じた……普段の雪ちゃんと違いすぎる。怖すぎる」
 吉田家の次女、真菜が昔から力説していた「本当はめちゃくちゃ怖いお姉ちゃん」を目の当たりにした親子は互いに顔を見合わせ、苦笑いを浮べていた。
『角ちゃん、雪ちゃんを本気で怒らせたら怖い、って事を覚えておきましょう』
「うん。普段温和な雪ちゃんだからこそ、あの迫力なんだろうしね。気をつけるよ」
 那由多の言葉に、角之真も大きく頷く。
『ま、同じ事が角ちゃんにも言えるのだけどね』
「え? 僕? どうして? 僕はそんなに怖くないと思うんだけど……」
『はぁ……』
那由多、溜息。
「え?」
『本当、こういうタイプって皆そう言うのよねー、自己分析して欲しいわ』
「ちょ、それってまるで昔何かしたみたいな言い方じゃない?」
『あらあら、覚えてないのね〜? 困ったもんだわ、あんなに大変だったのに』
「むむむむむむ?」
 やれやれと肩を竦めて笑う那由多だったが、角之真が不満そうに口を尖らせているのに気がつき、くすりと笑って視線を逸らすと『あ、そうそう』と話題を替えた。
『でも実際、雪ちゃんって退魔師としての腕は、スジは良いけどまだまだ未熟なのよね。正直今の仕事に雪ちゃんを連れて行くのは危険――よね?』
「うん」
『私達ですら得体の知れない相手に手間取っているわけだし……これからどう転ぶのかも全く解らないもの。誰かを守りながら戦う事が出来るとは到底思えないわ』
「僕もそう思う。何だか嫌な予感しかしないからね」
『角ちゃんが凶兆を感じるなんて、最近無かったもの。よっぽどの事よ』
 角之真の言葉に頷く那由多。
「まぁ……これに関しても、所長に相談するしかないよなー。報告ついでに、この事についてもどうしたら良いか聞いてみるかな」
『そうね、それが良いんじゃない? じゃ、私はここでワイドショー見てるー』
 那由多は言うなり、ソファにうつ伏せにごろんと寝そべった。
「えー、母さんは来ないの?」
『うん。私が行くと刹っちゃんと長話しちゃって仕事の邪魔しちゃうもん』
 那由多は言うなり頬杖をつき、テレビを眺めると足をパタパタと宙で動かし
『さー、今日はどんな弱きを笑い、強きを貶す報道を見せてくれるのかしら。楽しみ楽しみ。こういう番組は斜めに構えてみると結構面白いのよね♪』
 と、大した問題でも無いことを、難しい顔をして話しているテレビのワイドショーのコメンテーターを小馬鹿にする目で見つめながら寛いだ様子で言った。
「あははは……邪魔するって――解ってるならやらなきゃ良いのに」
『甘いわ角ちゃん。それは無理なお話よ! 女の子の会話は長いのが常識よ!』
 ビシッと指をさして断言する那由多。
「は? えっと、女の子って……? どこに?」
 呆れた様子で口を挟んだ角之真に、那由多の瞳がギラリと輝いた。
『あら、それ以上言ったら刹っちゃんに殺されるわよ? いいのかな〜?』
「う……だってさすがに女の子って年齢じゃ――」
 角之真はしっかり言いつつも那由多の脅迫に口を押さえる。
『あのね、女の子はいつまで経っても女の子なの! 覚えて置きなさい』
 那由多はそのまま、ふふんと得意気に言った。
「えー」
『えー、じゃないわよ。返事は? じゃないと私はもう角ちゃん手伝わないわよ!』
「あ、はい」
 角之真はそんな那由多の姿に苦笑いを浮かべながらゆっくりと立ち上がると、ちらりとテレビの上にある掛け時計に目をやり時間を確認した。
 時計の針は9時29分を示している。
「えーと……時間かな? 母さん、んじゃいってくるよー」
『はーい。いってらっしゃーい……お、大物芸能人浮気発覚だって! やるぅ!』
「はいはい」
 那由多の興奮気味に叫ぶ声に苦笑いを浮かべながら角之真は歩き出した。
 所長との約束の時間は9時30分。
 歩けば丁度だろう、と角之真はテレビを見て一人盛り上がる那由多の声を後ろに聞きながら所長室の前に辿り着く。そして扉の前で立ち止まると軽く咳払いをしてからコンコンとドアを軽くノックをした。
「あの――」
「時間通りだな、角之真だろう? 入れ」
 角之真が名乗る前に奥から凛とした女性の声が聞こえたのは、すぐの事だった。
 
「ふーん……了解。ご苦労だったな」
 所長――狛井刹華(こまいせっか)は、角之真の報告を書類に目を通しながら頷いて聞いていたが、彼の報告を聞き終えるとすぐに顔を上げ、にっこりと笑った。
 この若くして大宮支局の所長を勤める長身の女性はとても美人である。
 彼女のストレートで綺麗な黒髪は背中の中ほどまで達っし、色白の肌は31と言う年齢を感じさせないほど極め細やかだ。そして何よりも特徴的な切れ長の瞳は、どことなく神秘的な印象を感じさせる。
「ま、気にしなくていいぞ。後手後手に回っているのは私達の責任では無い。私達は本部から来る通達に従ってやっただけだからな。門が開き大物が出て行ったのは、あちらさんの情報提供の遅さが起因しているのは間違いない。もしここから難癖つけて体よく十握を呼び出そうとしても、私が突っぱねてやるから安心しろ」
 そんな刹華が、ぴったりとした淡いグレーの上着の肩を竦めた後、自信に満ち溢れた佇まいを見せた。そのまま、含みを持った微笑みを浮べる。
 その言質は不遜、傲慢とも思えたが、それすら彼女の魅力をなんら損なう事など無く、寧ろ引き立てているように感じる。
「え? あ、いや僕はそこまでは言ってませんけど?」
「でも、考えただろう?」
 刹華はキィと椅子にもたれ掛かると豊満な胸の前で腕を組んだ。そのまま、角之真を見つめ口の端を緩める。
「ええ、勿論です」
 ――あはは、勝てないなぁ。この人には。
 確信めいた言葉に、内心苦笑いが漏れる。
 実際、角之真は頭の片隅で「もし本部に召喚要請が来た場合どう回避しようか」の策を考えていたのだが、考えるも何も刹華の一言で全てが吹きとばされたのだ。
 有言実行。刹華はやると言ったら、必ずやる女性なのである。
「あ、でも……」
 ――あまりやり過ぎると、所長自身の立場が益々苦しくなっちゃうのに。また難癖つけられて仕事増やされて忙殺されちゃうのでは? 現に今だって僕と話しながら、目は他の仕事の書類に向かっていたじゃないか。どんなに刹華さんがやり手で、化け物であっても人間だ。活動には限界がある。角之真は心配になった。
「角之真、心配するな。私は本部が嫌いだ」
 が、角之真の心配した表情に気がついたのだろう、刹華は腕をほどくと机を両手でパンッと軽く叩いた。そのまま真っ直ぐに角之真を見つめ、断言する。
「は、はい。承知しております」
 ちょっと圧倒されながら、角之真が頷く。
「そして、お前も本部が嫌いだ」
「はい、全くもってその通りです」
 刹華に指をさされ、角之真が今度は大きく頷く。
「ほら、ならば何も深く考える必要はあるまい? 面倒なものは私の所で全て止めておいてやる。角之真は角之真の仕事に専念すれば良い。頼りにしているぞ。それに私は私で本部からの嫌がらせが来る度に闘争心が湧いてくるからな。問題ない」
 手をひらひらとさせ、刹華はニッと笑った。
「え? あ、いやそんな簡単な――」
「お前は簡単に考えておけ。私からの命令だ。私の心配など必要無い。ロークオリティの仕事を迅速にこなす作業をするのは上に立つものの責務だ」
 角之真の言葉を、ぴしゃりと刹華が封じる。
「は――はい」
 ――ははは、僕の考えなんて、何もかもお見通しって事ですか。
 思わず苦笑いが漏れる。
「それにしても、同じ印での大門開きがこれで4つ目、か。私の予感ではそろそろ来る――な。まぁ一度目の惨事は止むを得ないが、それで終わりに出来るようにお前と那由多もいつでも出られる準備をしておけ」
 刹華は再び椅子にもたれ掛かると、額に手をやり、淡々とした口調で言った。
「やはり一度目は……防げませんか」
「ああ。全く予測が出来ぬ現状では免れまい。役立たずの本部の予知班共め」
「……どうも、嫌な予感がするんです」
 言って、角之真は右手を差し出し、手の平を刹華に見せた。
「ん?」
「僕も久しぶりなんです。この感覚。この事件がこれからどうなるかを考えると、こうしてじんわりと冷や汗が出てくるんです」
「――む」
 刹華は身を乗り出し、角之真の手を取り触れる。そのまま、まじまじと見つめた。
 そしてポツリと一言。
「……角之真。お前、男の癖に結構綺麗な手をしてるな」
「ちょっ! 刹華さんっ! 何こんな時に言ってるんですかーっ!」
 慌てて掴まれた手を振りほどき、真っ赤になりながら角之真が叫ぶ。
「はははっ。冗談だ。というか、ここでは所長と呼べといっておるだろう。それも減点対象だな。次の酒代にツケておくぞ」
「えええええっ?」
「えええ? ではない。田中さんに聞かれて変な噂でもばら撒かれたいのか? さっきも雪が思い詰めたような顔をして来てたし、あれもお前絡みだろ? それだけでも田中さんの脳内は今頃大変なのに、もうひとつの対象を私にする気か? それこそ凄いドラマが吹聴されそうだな。劇場化されたら見に行くぞ?」
 茶化すように刹華が明るい声で言った。
「うえあっ――」
 角之真は慌てて口を押さえると、青褪めながらブンブンと勢い良く首を横に振る。
 当然だ、ネタの広がりが豊富になるとその妄想力はより強化されとんでもない事になるのは火を見るより明らかだ。妄想逞しい田中ワールドが展開されると、大宮支局の退魔師仲間だけならともかく、1階のトドールコーヒーの皆さん他、近隣のテナントの皆様にも良いネタにされてしまうだろう。事の真偽など二の次として。
 ――ひええええ。恐ろしや、恐ろしや。
 そして、角之真はその手の話題で弄られるのが大の苦手なのだ。
「な? 困るだろう?」
 刹華の念を押す言葉にコクコクと何度も首を縦に振る。
「良し。ではその予感を現実にしないように我々はせいぜい足掻くぞ! 今回もご苦労だった。帰って休み、次に備えてくれ。那由多にもよろしくな」
「はい! ありがとうございます」
 刹華の言葉に、角之真はしっかりと頷いた。
「――って、あ、そうだ」
 そして、そのまま弱々しい笑顔を刹華に向けて、おずおずと口を開いた。
「あの……それで、先ほど話題に出た雪ちゃんの事なのですが……――」
「ん? なんだ?」
 すぐに別の資料に目を通し始めていた刹華は、興味の無さそうな調子で顔を上げると返事を返していた。

     2

 何処だろうか――暗い、暗い、とても、とても、大きなお部屋。
 真っ黒なカーテンでしっかりと閉め切られたその部屋は少しの光も差し込む事も無く、昼夜どちらとも判別がつかず――完全な暗闇に支配されていた。
 そんな部屋の中どこからとも無く、やや調子のずれた『大きな古時計』を演奏するオルゴールの音が聞こえてきていた。
 チロロチロチン……
 真っ暗で静かな空間の中で、ただオルゴールの自動演奏だけが室内に響き渡っている。ただでさえ物悲しいメロディーが孤独に流れるその様子は、どことなく不安定で落ち着かない。何か空恐ろしさを感じさせていた。
 ――と、無人と思われたこの室内に、どうやら人が居るらしい事が解った。
 というのも、オルゴールが余韻を残しつつ演奏を終え、停止したかと思うと、すぐにジィジィとやや乱暴にゼンマイを巻き戻す音が聞こえ――オルゴールは休む間を与えられる事無く再び調子の外れた演奏を開始し始めたからだ。
そして、それと同時にくすくすくす、と――その存在から漏れたのであろう幼い笑い声が、がらんとしているのだろう室内に響いた。
 この幼い笑い声の主は少年だろうか? 少女だろうか? 
 どちらかは解らないがその声音からして、室内に存在している人物が年端の行かない者であるのは確かなようである。
「やっぱりまた閉じられちゃったね。結構頑張って大きなの開けたのに」
 今度は嬉しそうに呟き、くすくすと笑う幼い声がはっきりと聞こえた。
 その幼い笑い声は小さな子供達が、自分達の悪戯が成功したときに上げるような、何処と無く得意気な声音だった。
「うん、閉められちゃったね」
 その幼い声に追従するように、傍でもう一つの声が抑揚無く答える。
 驚いたことに呟いた声も、答えた声も、どちらも同じ人物かと思うほど声音がそっくりである。
 ――が、それはどうやら同じ人物では無いようだった。
 というのも暗闇の中二人の幼い存在を示すように、二つの椅子がきぃきぃと並んで軽く揺れている音が聞こえたからだ。
「あのお兄ちゃん強いね」
「うん、強いね」
 言って二人は同時にくすくすとまた、笑った。
「邪魔になるかな?」
「邪魔になる?」
 暫しの沈黙。
「――ならないよね」
「うん、ならない」
 二人の自信のある物言いに続いて、再びくすくすと笑いあう声が響く。
「じゃあ、もっと遊んでもいいよね?」
「うん。遊ぼうよ――これから、もっともっと楽しいよ」
 頷く声を最後に、暗闇の中の会話はピタリと止まった。
 調子の外れたオルゴールの音だけが部屋の中をただただ孤独に流れていた。

     ※
 
「それにしてもさみーな、おい」
 しとしとと冷めたい雨が降る平日、朝の通勤ラッシュも落ち着こうかという時間に、中川伸也(なかがわしんや)はあまりの寒さに奥歯をガタガタと震わせながら、川口駅へと上る、薄汚れた階段の中腹に包まるような格好で腰をかけていた。
 近くにある整備されたエスカレーターで登る人が多く、彼の座っている階段から下はすでに人影は全く見えない。上から聞こえる足音は忙しなく聞こえる中、ここは一種異常な空間にも思える。
「あー……気持ち悪い……」
 彼のくたびれたスーツはあまり防寒しているとは言い難く、吐く息に残る仄かな酒の残り香が今の彼の体調の悪さの理由を如実に物語っていた。
 辛そうな赤ら顔からするに、もしかしたら熱も出ているかもしれない。
「呑みに付き合わなければお得意様解消とか脅して、俺下戸なの知っている上で面白がってしこたま飲ませやがって。今日も仕事だってのに。あーマジヤベーな……」
 異常に重く感じる身体を揺すり、暖を必死で作りながら彼は頭を押さえて呟いた。
「俺だって、好きで半休をお願いしたわけじゃねーのに、あのクソ上司が……」
 彼は俯いたままぼそぼそと聞き取り辛い声で、愚痴を続けている。
 彼の言葉からすると、どうやら電話でその惨状を伝えるも、まるで理解の無い上司に嫌味を散々言われてしまうオマケ付きだったようだ。
 何というか、不運は重なるものである。
「半休のはずが全休とか、結局無断欠勤だよな……でも、またあいつに電話を入れるのはきっついし。というか、身体が思うように動かねーし……」
 理解の無い上司に恨み節を吐きながら彼が顔を上げると、珍しく階段を登って来た中年の女性と目が合った。しかし、女性は目が合った途端に露骨に顔をしかめ、あからさまな不快感を隠そうともせずに、歩行速度を上げ足早に通り過ぎていった。
「けっ、どうせそんな世の中だよ」
 一瞬でも期待した彼は、中年女性の態度に無性に腹が立った。
 ――どうせ俺の苦しんでいる様子なんて誰も気にしないもんだ。奴らはどうせただの通行人。自分達の目的地に向かっていくだけさ。
 ずきずきと断続的に襲い掛かる頭痛に頭を抑えながら、人々の冷たさに思わず彼は絶望し、ろれつの回らない声で愚痴を吐く。
「ま、でも実際俺もしらふだったら、こんな酔っ払い見ても無視するだろうけどな」
 最後には諦めた調子で自虐的に笑う。
 ――あー……しかし、マジこのままだとヤバイ。せめて誰かが駅員でも呼んでくれれば、横になれてここよりは体力も回復するのにな……。
 疲労困憊で地面に根が張った状態になり、この場所から動けなくなってしまっていた彼は、切実にそう願った。

 目無しの鬼さんこちら、手のなるほうへ

 ――と、その時突然幼い子供の明るい歌声と手を叩く音が階下から聞こえた。
「ん?」
 彼は幼い声に導かれるようにふらふらと視線を階下に向けた。
 くすくすくすくす
 そこには、階段に背中を向けているので顔は見えないが、髪型、声、動き、何もかもがそっくりな二人の幼い少女が、身体を揺らしながら笑っている姿が見えた。
 どこかのお金持ちのご令嬢なのだろうか? 遠めに見ても高貴な雰囲気を魅せる黒いドレスを着ている双子らしき少女達は、金色のボリュームのある髪の毛を一人が赤いリボン、もう一人が白いリボンで同じように二つに結んでいる。その高めに括られた髪は少女達が楽しそうに笑う度に元気にふさふさと揺れていた。
 しめた! 
 彼は、階下の二人の少女を見て思った。
 子供なら、何かを言えば興味を持ってくれる子が多い。話して上手くお願いすれば、あの子達が駅員を呼んで来てくれるかもしれない。
「おーい……」
 そう判断した彼は、自分でも想像以上に弱々しいと思える、力の無い声で階下の少女達に声を掛けた。
「…………」
 が、少女達は階段上からでは見えない場所に居る誰かが来るのを待ちわびている様子である。二人して楽しそうに手を叩き、歌っている。
 残念ながら彼の声は届いている様子は全く無かった。
 ――ま、しゃーないよな。
 彼は苦笑いを漏らした。
 他に興味がある時はそれに夢中になり周囲が見えなくなるのもまた、子供である。

 目無しの鬼さんこちら、手のなるほうへ
 すましたお耳でおききない、そなたの目玉はこちらにあるぞ
 
 ――ん? 聞いたことが無い歌詞だな? 目隠し鬼の遊びだろうけど、小さい秋見つけたのリズムでもないぞ?
 少女達が歌う歌詞に何気なく耳を傾けていた彼は、ふとそう思った。
 彼はそのまま少女達の歌声を聞こうと耳を澄ました。
 
 目無しの鬼さん、手のなるほうへ
 すましたお耳でおききなさい、そなたの目玉はこちらにあるぞ
 とりかえしたくば、おききなさい。
 呼ぶやこの声、あるじの声。叩く手の音そなたのしるし
 きれきれきれきれきれ風できれ

 ――本当に知らない歌詞だな。ちと物騒な歌詞な気もするが、童謡って得てしてそういうもんだ――とか言ってる奴が居たっけ? 彼は思った。
「きゃー」
「ん?」
 と、少女達は暫くその不気味な歌を歌っていたのだが、突然くるりと階段の方向に向きを変えると嬉しそうな悲鳴を上げながら階段に向かい走ってきた。
 その声に驚き顔を上げた彼の目に飛び込んできたのは、歳の頃は7歳くらいだろうか? 二人揃ってくりくりとした大きな瞳が特徴的な、まるで人形のような可愛らしい顔立ちの幼い双子の少女の姿だった。
「んあ? おお、やっぱり双子か」
 ただこの双子の少女達は、弾けるような愛らしい笑顔を浮べる少女と、楽しそうな声とは裏腹にまるで能面のように無表情な少女――という違いが有り、少女達の判別はリボン以外の外見でもそれほど難は無いように見えた。
「きゃー」
 ――すげえ可愛い双子だな。俺の近所のはなたれガキとは偉い違いだ。
恐らく待っていた人物が近づいて来たので、逃げる振りして走っているのだろう。双子の少女は、きゃっきゃと楽しそうに笑いながら彼の居る階段を駆け登って来る。
「おーい、お嬢さんたちー」
 これが最後のチャンスとばかりに彼は何とか力を入れて右手を上げ、駆け上がってくる少女達に声を掛ける――が
「きゃー」
 少女二人は彼の存在を全く無視しきゃっきゃと、階段を駆け上がって行った。
「あー……」
 ――やっぱりな。
 そのまま視界から消えるまで走り抜けていく双子の少女の姿を見送った後、彼は期待した結果に何も繋がらなかった事実に苦笑いを浮かべた。
 ――まぁ仕方ないか……って、ああ?
 が、その彼は、ずるりと急に自分の視界がズレるのを感じ、慌てた。
 これは……最後とばかりに一気に残る体力を使った反動だろうか? 
 彼はぐらりとぐらりと揺れる視界に自分で酔いそうになりながらそう思った。
 ――うわ、二日酔い程度で結局倒れるのか俺は。マジ情けねー……
 一応踏ん張ろうと、彼は身体に力を入れようとするも――意思の命令に反して身体は全く力が入らなかった。
結局彼の視界はぐらりと大きく傾き
「うわあああああっ」
 落ちた頭が転々と階段の下まで転がり落ちるのを感じた。
「あああああ?」
 しかし、感覚が麻痺しているのだろうか? 不思議と彼は痛みを感じなかった。
 ――おいおいおい、それにしても幾らなんでも落ちすぎじゃねーか?
 思ったよりも大丈夫だったな。と他人事のように彼の視線が階上を見上げる。
「――っ!」

 ……そこで、彼の瞳は見てしまった

 首と右手首から上が無くなったくたびれたスーツを着た男性の身体が、噴水のように血を噴出し、服を赤く染めながら階段の中腹に座っているのを。
 切れた右手が、胴体の近くにまるで落し物の片手袋のように、無造作に落ちているのを。
 ――は? え? どういう事だ? あれは俺のから――
 衝撃で彼の目玉がぎょろりとむき出しになった。
「あ――ぐ……がっ……」
 突然の信じられない出来事に慌てて声を出そうともした――が、ひゅーひゅーと声にならない息の音が漏れるだけだった。
瞬きをする度に意識が遠くなる――。
 そして、彼は白く綺麗な手に後頭部をつーっと引っ張られる甘美な感覚にまどろみ――深く深く暗い何処かへと意識が落ち、二度と覚めない眠りへと、逝った。
「きゃあああああああああああああっ!」
 階段上でその惨事に気がついた若い女性が悲鳴を上げた。
 が――その次の瞬間
 ブシッ
 その女性の首もゴトリと地面に転がり落ちる。
 突然頭部を失った女性の身体は、力なくどさりと倒れ、鮮血を撒き散らした。
「う……うわーっ! うわーっ!」
 ブシッ、ブシッ、ブシッ!
 この悲鳴を皮切りに川口駅改札前で突如、赤い噴水が次々と巻き上がり――改札前に居た全ての、かつて人間だったものの肉の塊が、ただ無機質にゴロンと転がり、溢れる血の海で構内が満たされていった。

 ――惨劇が、始まった。

      3

 角之真が川口駅にタクシーでたどり着いた時には、パトカーの音やマスコミが群がり、甲高い緊迫した声が至るところで響き渡っていた。その慌しい様子は、今辿り着いたこの現場が如何に異常事態の中にあるのかを良く示していた。
「十握角之真です。日本退魔師協会大宮支局から派遣されてきました」
 角之真が検問に辿り着き、名を告げ退魔師手帳を見せると、対応した警察官は確認後、すぐに連絡を回し、立ち入り禁止区内に通してくれた。
「川口駅改札前の生存者は確認したところ居ない模様です。そして死傷者は……優に100人は超えている模様です。詳しくは現場本部にて――」
「……了解。酷いですね」
 案内する若い警察官が強張った表情を張り付かせたまま、最悪の惨事の現状を淡々と告げる声に、角之真は顔をしかめ頷いた。
 ――まさかこんな時間に、しかも短時間でこれほどの被害が出てしまう事件が起きるなんて……。
 角之真の見つめる正面には、普段多くの人々が都内へと行き交う埼玉県で大宮駅に続き二番目に利用者が多い、埼玉の都市開発の象徴として在る川口駅が見える。
 だが、今厳重に検問がしかれ封鎖された――マスコミや警察に注目を浴びているこの白い大きな駅は、辺りの喧騒の中不自然に静まり返り、不気味に映った。
 あの駅の中にはそれこそピークは過ぎた時間だったものの多くの人々が電車を利用しようと存在していたのだ――そして、その全ての人々が有象無象の区別無く全て首を撥ねられ、絶命しているというのである。
 角之真はあの駅の中での惨状を想像し、肌が粟立った。
 ――許せない。
 恐怖と同時に角之真は、その惨劇を生み出している対象に対し、計り知れない怒りがこみ上げてくるのを感じていた。無意識に拳を力強く握り締める。
「封鎖結界装置は機能しているのでしょうか?」
「え? あ、はい……恐らくは。現状被害が出ているのは川口駅構内だけであります、結界設置ポイントから外に出たとの報告は聞いておりません」
「それは良かった」
 角之真が安心したように頷く――が、すぐにハッとした表情を浮べた。
「あ、それでまだ構内に犯人は……いや、我々に要請が来ている事からもうご存知でありましょうが『化け物』は存在しているのでしょうか? もしかしたら結界を張る前に逃走されている可能性もありますよね?」
「…………」
「どうされました?」
 若い警察官の顔が、その質問で益々強張った事に気がつき、不安が広がった角之真にも確信めいた緊張が走る。
「……はい。間違い無く存在しております。事件発生後現場に突入した二十余名が駅構内にて対象と遭遇――」
「――はい」
 若い警察官の暗い声音に、角之真は彼の口から出される次の言葉が安易に予測でき、気持ちが沈みこむのを感じた。
「――対象に対して成す術も無く、全滅しております」
「そう、ですか……すみません。大変お辛い話を」
 唇を噛み締め俯いた若い警察官に向かい、申し訳無さそうに角之真は深々と頭を下げた。
「あ、あの……あ……あれは――」
「はい?」
「あれは一体なんなんですか! 確認した川口駅構内は、まさに地獄絵図ですよ!」
 わなわなと震えて問う若い警察官の声に角之真が顔を上げると、今まで何とかして平静を保っていた彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
 悲惨な現場を思い出したのだろう、角之真が見つめるその若い警察官の身体は、ぐらぐらと目に見えるほど激しく揺れていた。
 彼はそのまま、恐怖に引きつった表情で一気にまくし立てる。
「首無しの死体がごろごろと転がり、床、階段に被害者達から流れた血が絶える事無く滴り落ちている。一体どうやればあんな事が出来るのですか? そして、あんなモノが本当に、本当に人間に対処出来るのですか?」
 若い警察官は一通り叫んだ後、涙をぐっと飲み込んだ。その後、大きく一つ息を吐くと、すがりつく瞳で角之真を真っ直ぐに見つめる。
 角之真は彼の視線を正面から受け止めると、優しく微笑み小さく頷いた。
「はい、だからこそ――」
「ああん? なんだ? 化け物。どの面下げて、お前がここに来るんだ?」
 と、優しい声音で若い警察官に言葉を返しかけた角之真に向かい、あからさまに不快感が込められた言葉が前方から投げつけられた。
「――?」
 角之真がその声に言葉を中断し、訝しげに声のした方向にちらりと顔を向けると、現場本部として間借りしている百貨店から出てきたのだろう、二人に程近い場所に痩せぎすで目つきの悪い背の高い青年が腕を組み横柄な態度で立っていた。
 茶色に染めたボサボサ頭の青年は恐らくバイク乗りなのだろう、黒のレザージャケットにジーンズというラフな姿が野性味溢れる外見に良く似合っている。
「警察のお兄さんよ、こいつの相手をしちゃいけないぜ。こいつも今あんたが怖がっている『化け物』そのものだぜ」
 青年は若い警察官を眺め意地悪そうに笑うと目を細めて言った。
「え? ――は?」
 若い警察官は改めて角之真をまじまじと見つめ、首を傾げるとポカンとした表情を浮べる。
「大神……」
「なんだ化け物。こっち見んな。行けよ、お前の居場所はあっちだぜ。あっち」
 青年=大神は角之真の苦虫を踏み潰したような声に対して嫌悪の表情を隠そうともせずに――むしろ角之真が反応して来た事に不愉快そうに眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言い放った。そのまま顎で川口駅を示す。
「お前は相変わらずだな……」
 だが角之真は呆れた調子で言葉を漏らすと、大神の挑発的な言葉を聞き流す事にしたらしい。再び若い警察官に向き直し口を開いた。
「大丈夫ですよ。先ほどの答えですが――だからこそ僕や、この方が居るのです。こちらの世界の事はこちらの世界に通じる者に任せてください。必ず、解決します」
「は、はい! 宜しくお願いします!」
 ポカンと開けていた口を慌てて閉じて頷く若い警察官。
「だから、もう安心して自分の職務の方に戻ってください。ここまで案内ありがとうございました」
「はい!」
 若い警察官は角之真の言葉に素直に何度も大きく頷いた。そして、何かを言いたそうに口を開けた――が、続きの言葉が出ないようで、ごくりと唾を飲み込むと、慌てて口を閉じる。彼はそのまま深々と一礼し、足早に去って行った。
「ははは、こりゃ傑作だ。化け物は人間のフリをして騙すのがお得意なようで。ま、俺もそれにまんまと騙されていたわけだが」
「……お前も本当にしつこいな。それに僕は化け物じゃない。人間だよ」
 警察官の背中を見送る角之真に、大神がからかうように声を掛けると、角之真はうんざりとした表情で答えた。
「はっ、面の皮も相当なもんだな。得体の知れない死人から生まれた化け物のくせに、どの口が言いやがる。さっさと正体見せろや!」
 角之真は身構える大神の挑発にやれやれと溜息を吐くと、無視を決め込む事にしたようだった。
「今のお前と話すのは無駄だな」
そのままスッと大神の横を通過し、現場本部に向かおうとする。
「――おい、こら。無視かよ。大した身分だな、化け物がっ!」
 言って大神は、通過しようとした角之真の肩を掴もうと右手を伸ばす。
「お前が、しつこいからっ、だよっ!」
 咄嗟にその手を角之真が払いのけた瞬間――
 ヒュッ
 大神の左手から突き出されたナイフが鋭い音を立てて角之真に向かい伸びる。
 だが角之真にはそれが来ることが解っていた様子だった。落ちついて身体を捻り、避ける。大神のナイフは鋭く空を切り裂いた。
「やっぱり。またコレか。何にそんなに腹を立てているのか知らないが、キレた行動が昔から本当変わらないな、お前は」
 そのまま角之真が大神の左手首を捻り上げると、ナイフがキィンと金属音を立ててコンクリートの地面に落ちた。
「でも、これで少しは会話出来るかな?」
「くっ、てめえ」
「さてと、では改めて……わざわざ本部からのご協力感謝致します。宜しくお願いしますね。大神さん」
 苦痛に顔を歪める大神の表情を澄ました顔で見つめ、恭しく角之真が言う。
 しかし誰の目から見ても上辺だけの言葉なのが明白な、普段お人良しそうに見える角之真としては珍しい挑発的な物言いだ。それは暗に、目の前で顔を歪めている男、大神と角之真が旧知の仲である事を示していた。
「けっ、何が宜しくだ。ぬけぬけと! また人を騙しやがって!」
「はいはい、だから騙してなんかいないと何度も言ってるじゃないか」
 角之真は諦めたように笑うと大神を掴んでいた手を放し、やれやれと肩を竦めた。
「嘘を吐け! この最低野郎が!」
「はぁ」
 ――思い込んだらどこまでも、だもんな大神は。
 聞く耳を持たない大神の断言と、噛み合わない会話に諦めた表情を浮べる角之真。大神の性格を良く知る角之真はそれならそれで、どうでも良い――という事らしい。
「まぁ、お前がそれで良いならそれで良いけど、もう一つ昔の親友として忠告を」
「んだよ?」
 イライラとした態度を隠そうともせずに応える大神。
「異常事態とは言え、警察が大勢いる前でこの行動は宜しく無いかと。僕は知ってるから良いけど、ここで大っぴらに見せるのは……幾ら術具でも銃刀法違反だよ?」
「あ――」
「ね?」
「う、五月蝿えっ! 関係ねーよっ!」
 大神は顔を真っ赤にしながらがるると吼えた――が、辺りをきょろきょろと見回し、誰も見て居ない事を確認すると、角之真の言葉通りに屈んでナイフ拾う。そのまま悔しそうに懐にしまい込んでいた。やはり関係はあるようである。
「ぷっ」
 その言葉遣いと裏腹の大神の素直な行動に、思わず角之真は笑ってしまった。
「――おい。今笑っただろう?」
「いえ? 全然」
 眉を潜め尋ねる大神に、飄々と答える角之真。
知らん振りだが、勿論嘘である。
「本当にか?」
「ええ、勿論」
「……まあ、良い。それよりも今は、あっちの『化け物』退治が優先だからな」
 大神はまだ訝しげな表情を浮べていたが、膝についた砂埃を叩いて払い立ち上がると、川口駅を見つめた。
「ああ、その通りだな」
 角之真も大神の言葉に表情を引き締め頷く。
「お前は頷かなくていい! 今のは俺の独り言だ! ――というか、お前さっきからずっと馴れ馴れし過ぎるだろ。俺とお前は絶交中だぞ! 解ってるのか?」
「はいはい、僕は絶交した覚えないから、いつでも戻って来てくれよ」
「一生ねーよ! バーカ!」
 ガーッと吼える大神。
「傷付くわー」
 苦笑いの角之真。
「けっ、一生傷付いてろ! ……にしても、こんなでかい事しでかしやがったんだ。俺は絶対に許さねぇ。被害者の数だけ『化け物』を切り裂いて葬り去ってやる」
 角之真も苦笑いを引っ込めると「同感だ」と頷いた。
「五月蝿えっ! だから化け物に同感される筋合いはねーって言ってるだろ!」
 大神はムキになって怒鳴る。
「えー」
「えー、じゃねえ! お前のそういうところがムカつくんだよ! それにだな!」大神は声を荒げて言葉を続けた。
「先に言っておくが本部の命令だろうが、俺はお前のような化け物と共同戦線を張ることなんて誓ってねーぞ! もし邪魔しやがったらお前もぶっ殺す!」
「え? ちょっと待て大神。本部がお前に、僕と共同戦線を張れと言ったのか?」
 角之真がハッとした表情を浮べ、慌てて疑問を口にした。
 ――おかしい。封鎖結界を出る気配が無いような化け物なら、僕にしろ、大神にしろ、どちらか一人の力で十分排除可能のはずだ。何故本部が共同戦線を張れと?
 思った瞬間、じわりと手が汗ばんでくるのを感じた。嫌な予感が駆け巡る。
「ああ。理由は知らねーがな! ってか、お前さっきからへらへらしやがって……自覚してるのか? そもそもお前が門から化け物が出るのを防げなかったから、こんな事件が起きたんだぞ! 一体この事件で何人の人が亡くなったと思ってるんだ? これはお前が大門開きを予め防いで居ればこんな事は無かったんだぞ! ちっとは自覚しろ! この大馬鹿野郎!」
「――なっ!」
 大神の厳しい言葉に、角之真は息を鋭く呑み込んだ。
「……本部は未然に防げた、と?」
 暫くの沈黙の後、搾り出すような声で大神に問いかける。
「ああ? ああ、きっぱりと断言してたぜ『十握の不始末からこの事件は発生した』ってな。だから昔のよしみで今回その不始末をしに俺がわざわざ立候補して来てやったんだ。その癖、お前は何食わぬ顔して、へらへらとここにやってきやがった。しかも一丁前に偽善を振りかざしてデカイ態度でしゃべってやがる。あれには本気で頭来たぞおい! ああ?」
 ――だからこその大神の辛辣の言葉、怒りだったのか。
 迂闊だった。
 角之真は頭を抱え思った。
 情報が後手になっているというのはあくまで大宮支局での認識で、本部では後手になど廻っていないと言い張っているのだろう。そして、今は本部に在籍している大神はその情報を信じているのである。こちらの事情など、彼は何も知らないのだ。
 全然気付いてなかった。最低だ、僕。
 角之真は、大神の怒りの意味を知り、自分自身の態度が如何に相手を一層不快にさせて居たかに気付き一気に青褪めた。そりゃ会話が噛み合わない訳である。元々二人の情報、感情には違いがあまりにもあったのだ。
 ――そして本部の幹部連中め、こんなあきらかに嘘と解る事まで平気で発言するのか。どこまでも腐ってるな!
 同時に怒りからこめかみにサッと熱い血が巡るのを角之真は感じた。
「…………」
「やっと手前のふざけた態度に気付いたのか。おせーよ」
 軽蔑した口調で大神が言う。
「理解したならお前は至らなかった自分の力の無さを痛感しながら、犠牲者に土下座して頭擦り付けて侘びてこい! 解ったか!」
 絶句し沈黙を続ける角之真に対し、大神はふんと鼻息荒く睨みつけた。
 そのまま「じゃーな」と、大股で現場本部へと歩き出す。
「待て、待ってくれ大神」
「んだよ? 俺はもうお前と話す気ねーぞ。この最低野郎」
「いや、本当に僕が最低だった。ごめん。お前から見て、僕は最悪の態度だったと思う。素直に謝る。そして……何を言っても信じてもらえないかもしれないけど、一言だけ言わせてくれ」
「あん?」
「――今回、本部から来てくれたのがお前で良かった。本当に僕はそう思ってる。ありがとう……改めてよろしく頼む」
 言って、角之真は深々と頭を下げた。
「けっ、今更お前にしおらしく言われても嬉しくもなんとも思わねーよ。バーカ」
 大神は吐き捨てるように言うと、再び角之真に背を向けて歩き出した――が、つと立ち止まると、そっぽを向きながらぽりぽりと頬を掻き、ポツリと口を開いた。
「あー、でもまぁ……俺も正直本部の連中の事を胡散臭いと思っているぜ。いや、俺だけじゃねえ。甲斐さんや、石動(いするぎ)さん――少数だがお前の事を知っている奴はそこまで他の連中のようにこの話を盲目的には信じていない。大体お前が本当にここまで連続でヘマする訳ないだろう? 俺と同じ天才なんだからよ。しかも、お前には可愛いくて頼りになる母ちゃんまでついてんだぜ」
「大神……」
「うっせえ。そんな目で俺を見たって無駄だからな! だからと言って俺はお前に騙されたから許す気は無いんだぜ! ただ――」
「ただ?」
「その……那由多さんには謝りたくてな。頭に来ていたとは言え、俺も変な事口走っちまったからな。冷静になるとすげー酷い事言っちまったの反省している」
『ううん、怒ってないよ? 時雨(しぐれ)君。それは事実だし、ね。それに、うちの子こそ自分の持っている情報が全てになって、考えが廻らなくてごめんなさい』
「あ、母さん」
「那由多さん。いや……本当すみません。俺本当馬鹿で……」
 申し訳無さそうにうな垂れながら呟く大神に対し、ふわりとスカートを押さえながら現れ、地面に降り立った那由多が『いいのよ』と優しく微笑えみ答えた。
『でも、信じてあげて。大門開きが防げなかったのは本部の情報が後手後手だったからよ。未然に防げた、なんてこれっぽっちも有り得ないんだから!』
 那由多の言葉に大神は苦笑いを漏らしながら頷く。
「ええ、恐らくそうなのでしょうね。幾ら俺でも流石にここまで露骨だと――ね。でも、それが本部の共通認識なのです。残念ながら。だから――おい、十握!」
「うえっ?」
 大神は突然角之真の目の前まで近づくと胸倉を掴み、声を荒げた。
「ここには本部のスタッフも数人紛れ込んでいる。正直あまりお前と馴れ合う所は見られたくねぇ。だが、これだけは言っておく」
 そのままグイと角之真を引っ張り、顔を近づける。
「うん」
「手前の雑音は手前で飛ばせ。いいな」
「――解った。ありがとう」
 大神の言葉に、角之真はしっかりと頷いた。
「ふん! せいぜい頑張るんだな」
 大神はドンと角之真を突き放すと、少し口の端を上げて微笑み、そのまま一人ズンズンと大股で現場本部へと歩いていった。
『なーんだ、全然変わってないじゃない。時雨君』
「うん、あいつ……変わってなかった」
 角之真は遠ざかる大神の姿を見送りながら、那由多の声に嬉しそうに頷いた。

2010/01/28(Thu)19:37:11 公開 / もげきち
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。そして、はじめましての方は笑顔で握手! 王道大好きもげきちと申します。久々に長編をこうして投稿させて頂きました。しかも、普段は大体書き上げてからのブラッシュアップに投稿させていただきコンスタントに更新していたのですが、この作品は、まさに書いたらUPという形になっております。えへ。今までの作品よりも遥かに時間をかけてゆっくりゆっくり更新していく事になると思いますが、気長に皆様お付き合い下さったら幸いであります。面白く、そして「続きが読みたい」と思ってもらえる作品になれるように頑張っていきます! 
1/6
まったり「明けました! 生存してまっする」更新です(笑) タイトル変更(まだまだ仮です。センス無くて泣きそうです)と人物紹介が今回のメイン、事件は次回発生する感じであります。アクション多目の展開で行きたいと思ってますの頑張らねばねば。今回も読んでくださった皆様に心からの感謝を! 本年も苦しくも、楽しく、この物書きどめも! と笑いながら登竜門の世界の片隅に生存していければと思ってますー。ではでは、本当に今回もお付き合いありがとうございました!
1/13
前回更新分が、読み返すと色々酷くて泣きそうでしたのである程度加筆。そして、それだけだとアレなので若干更新しました。でも、今度はその更新分が気に入らずに慌てて更新しそう……ハッ! これが最速更新への道になるのでしょうか?! 無理ですね^^
という訳で1-2まで完了です。惨劇スタートなのですが、フリが長いかも……と思いながら書き上げてみました。惨劇描写と言えば湖悠様ですが、自分もまだまだ頑張って書けないとなーっと思っております(笑) ではでは今回もお付き合い下さった皆様に多大なる感謝を! 少し離れていただけで書く力、集中力がガタ落ちの自分。兎に角ペース戻すためにもこちらも頑張って続けて行きますのでこれからも宜しくお願いします。
1/28
1-2までの汚い文章の修正、テンポの更新と1-3の初稿をUPです。
アクション! アクション! って言ってたのに、また人物紹介になってしまった気がするのは……きっと気のせいではないですよね。はい。でも、次こそはアクションだ! しかし、何度も読み返すたびに下手さを痛感する文章。まだまだ精進精進で参りますので、今回読んでくださった皆様に感謝しつつ自分も頑張っていきますだー

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。