『泥酔中年』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:甘木                

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「佐藤さん、手首に力が入りすぎです。そんなに力を入れたら手首が自由に動かないでしょう。もっと力点を尺骨の中央の方に意識して。久本さんは力を抜きすぎです。それじゃ揺れが大きくなってせっかく綺麗に入っているものがグチャグチャになっちゃうでしょう! そんなこともわからないんですか!」
 大きな声で注意された久本がビクッと体を震わせ、すまなそうに何度も頭を下げる。まだ五十前なのにスダレ頭で小柄の久本が頭を下げる姿が妙に卑屈で見るたびにイライラしてくる。
 山本は気持ちを落ち着けるために大きく息を吸う。
 いかん、生徒相手に感情的になりすぎている。こんなことじゃ教師失格だ。俺が教えているのは伝統芸能だ。伝統芸能の美とは瑣末な感情とは対極にあるべきだろう。落ち着け俺。
「みなさんもお疲れでしょうから休憩にしましょう。一時間後に教室に集まってください。あ、そうそう。佐藤さんと久本さんはウォーミングアップ不足ですね。この休憩時間にウォーミングアップしておいてください」
 生徒たちはあからさまな安堵の表情を浮かべて教室を出て行く。


 生徒たちがいなくなっても教室には生徒たちの残滓が立ちこめていた。それは汗と加齢臭。この学校の入学資格が四十歳以上だから仕方がないと言えば仕方がないが、もう三十年以上嗅ぎ続けている臭いだが好きにはなれない。山本は最近弱り気味の胃からこみ上げてくる不快感を押さえつけ換気するため窓を全開にする。
 眼下に闇に沈んだ歌舞伎町と呼ばれる街並みが広がっている。かつては日本一とも称された歓楽街だったが、政府の舵取りの失敗が引き起こした不況から何十年も抜け出せない現在では往時のような賑わいはない。さらに酒税の増加、人口の減少、平均所得の低下などが人々のアルコール離れを加速させ、歌舞伎町に幾百とあった飲み屋が次々と廃業に追いこまれた。
 山本は今年で八十二歳になるが、山本が若い頃はまだこの街にも活気があり、酔客の歌声や客引きの叫び声、娼婦の嬌声、喧嘩の怒声などが夜通し響き渡っていたのに、いま目の前にあるのは人通りもまばらな暗い街並みが続くだけ。何と寂しい光景だ……人々が憂さを払うさまはある種の活気があって楽しかった。酔いつぶれるサラリーマンの姿には悲哀がにじみ何と美しかったことか。いまではこのザマか……おっと、昔を懐かしんで愚痴を言うのは年寄りの悪い癖だな。
 それにしても昔の生徒たちは良かった。
 三十年前にこの教室に通っていた木元君なんか立ち姿の見事さに、この俺が見惚れたほどだった。赤坂君の見事な足捌きなどは教科書に載せたいほどだった。それに百年に一度の逸材と言われた浜崎君は着こなしにも気を使いしっかりとした美意識を持っていた。なのにここ十年の間に来た生徒たちの質はなんだ! 倍率何倍もの試験を通ってきたはずなのに、伝統的な技を学ぼうという気概が微塵も感じられない。
 いやいや、彼等だって学ぼうと思って来てくれているのだ。彼等は俺が彼等に教授しなければこの技も消えていってしまう。伝統芸能の火を消さないためにも彼等には頑張ってもらわなければ。


 休憩時間が終わって二時間が過ぎた頃、久本を先頭に五人がよろめきながら教室に入ってきた。
「へんへぇ〜遅くにゃってすみましぇん。一杯で止めるつもりだったけろぉ〜つい呑みすぎて」
 と、真っ赤な顔をした久本がろれつの回らない口調で弁明する。
「みなさん!」
 山本の大声にも久本たちはニコニコとしたままで緊張する様子もない。さっきまでは名前を呼ばれるだけで萎縮していたのに大きな違いだ。
「なんれすかぁ〜」
 佐藤が酒臭い息を吐きながらこたえる。
「私は感動しています。みなさんがやっと正しい酔っぱらいというものを理解してくれたことに。そうです酔っぱらいは時間なんか気にしちゃいけません。己の欲望のままに酒を飲み理性を飛ばすことが肝要なんです。みなさんはやっとそれに気付かれたんですね」
 山本は僅か数時間でこれだけ変わった生徒たちの姿に感動し瞳が潤んでいた。
「みなさん見てください中村さんの千鳥足ぶり。ああ、これこそ酔っぱらいの手本です。木原さんのスラックスから半分だけワイシャツが出ているのも酔って羞恥が無くなった姿を現していて良いです。久本さんの頭に巻いたネクタイはポイントが高いですよ。みなさん見事なウォーミングアップです。では練習を再開しましょう」
 フラフラとした生徒たちは「は〜い」「へい」「がってん」などと好き勝手な返事をする。
「ああ佐藤さんいいですよ。さっきと違って余計な力が入っていない。寿司の折り詰めをぶら下げた酔っぱらいそのものです。中の寿司が崩れない程度に揺らしながら歩く酔っぱらいそのものです」
 山本はこれでまた無形文化財「正しい酔っぱらい」が守られると感じ、こみ上げてくる熱い想いに体を震わせていた。




 二十一世紀に起こった世界同時不況に真正面から晒された日本は未曾有の不況に陥った。内需拡大を目論見幾多の政策を打ち出したが、国家としての老成期に入ってきていた日本には景気を拡大する力はなく、かえって増税や賃金・年金の抑制を招き負のスパイラルに突入した。
 政府は財源確保のため諸税を上げた。特に嗜好品であるアルコールは増税に次ぐ増税で五〇〇ミリリットルの缶ビールが二五〇〇円を超えた時点で日本の飲酒人口は激減した。ありふれた光景と思われていた酔っぱらいの姿が巷間から消えた。
 飲酒が減れば歳入が減る。これに慌てた日本政府は酔っぱらいが見せる酔態を無形文化財に指定すると発表したのは三十五年前。何の報償も出さない国家認定だから国家の懐は痛まない。それでも無形文化財だ。きっと欲しがるやつがいたくさんいるはず。そうなれば酒税がたくさん入って……などと浅墓で小手先な政策によって、歌舞伎町に国営の「酔っぱらい学校」をつくり伝統芸能を守ろうとしていた。
 

2009/11/01(Sun)23:48:11 公開 / 甘木
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■作者からのメッセージ
「酩酊少女」に対抗して「酔い」系少女物を書こうとしましたが……無理でした。加齢臭漂うオヤジの話になってしまった。
ま、枯れ木も山の賑わいと言うことで。それにしてもこの祭は会期はいつまであるんだろう?

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