『アクトレス〜私は罪から生まれた〜』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:雨竜椿風・千鞍                

     あらすじ・作品紹介
「貴方が、黒羽さん?」 幼子のようにあどけない顔で首を傾げる彼女に、黒羽は思い出だとか約束だとかそういう今まで大事にしてきたものがすべて消え去ってしまったことを悟った。 

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ベッドで横になると涙が溢れ出たという
 涙は顔を横断して枕のシーツに染み込んだだろう

 ようやく少しだけわかってきた
 何かを失ったという感覚が
 きっと彼女を襲ったのだ

               森博嗣『魔的』より




 羽鳥友恵《はとりともえ》は穏やかな少女だった。少なくとも、黒羽誠《くろはまこと》が憧れた彼女はそういう女性だったのである。時の流れが一人だけ違うようなおっとりとしたしゃべり方が黒羽は好きだった。

 己の恋心はきっといつまでも淡いままで移ろっていくのだろうと黒羽は自覚していた。中学からの付き合いは幼馴染みと言うには日が浅く、家の方角は同じだが別段近いわけでもない。互いに家族と面識はあるが、家族ぐるみの付き合いというわけでもない。異性の友人としてならもっとも身近だが、いつになっても友人止まりの、そういうどうにも煮え切らない、そのくせ妙に心地よい関係に二人は収まっていたのだ。


 黒羽の妹千尋《ちひろ》が他界したのは梅雨の終わりの蒸し暑い頃だった。夏の暑さへの憂鬱と清々しさへの期待が入り交じる季節に彼女はこの世を去った。ついこの間中学生になったばかりの幼い妹の死という、にわかに受け入れがたい事実を黒羽は葬儀から一週間経っても未だに持て余していた。実感が湧かないのである。脳の自己防衛なのだろうなと、他人事のように彼は分析していた。いずれ、麻酔が切れるようにジワリジワリと痛みが広がっていくのだろう。


 見舞いと称して友恵が黒羽を訪ねてきたのは、まだその麻酔が切れそうもない日曜日だった。本人は個人的に心配だったのだと言ったが、きっとクラス全体の代表に彼女が選ばれただけなのだろうと黒羽は察した。

 型どおりのお悔やみを述べ、欠席中に溜ったプリント類を手渡すと、友恵は気まずげに黙りこくってしまった。家族を亡くした友人にかける言葉など、彼女の短い人生経験では見つけられないのだろう。逆に相手を気遣うだけの余裕がこの時の黒羽にはあった。少し散歩に付き合わないかと誘うと、友恵は救われたように頷いた。


「別にさ、そんなにショックでもないんだ」

 昼下がりの住宅街を抜けながら切り出す黒羽。当惑するように首を傾げる友恵に、極力軽い口調で続ける。

「なんて言うか、実感が湧かないんだよな。もう少し時間が経って、だんだん現実が認識できてきたらきっと辛いんだろうなって気はするんだけど。今は平気だから、あまり気は使わなくていいよ」

「うーん。でも、辛くないはずはないよね」

 心配そうに眉を寄せ、話が今ひとつ伝わっていないようなことを友恵が言う。黒羽は小さく笑って見せた。

「だから、実感ないから平気なんだって」

「うーん」

 なおも納得しかねる様子で唸る友恵は、しばしの思案の後に不意に立ち止まると小柄な体で精一杯背伸びをして黒羽の頭を優しく撫でた。


「なに? この子供扱いは」

 本気とも冗談ともつかない動作に黒羽は苦笑する。

「お姉さんがついてるから大丈夫ですよー、みたいな」

 ふわりと答える友恵。大きな瞳に柔らかそうな白い頬。彼女は童顔だ。

「同い年だろ」

「私、四月生まれだから」

「小さいくせに」

「うるさいなぁ」 


 それからしばらく、他愛もない話をして二人は歩いた。最初のうちは本当に宛てもなく彷徨っていたのだが、途中からは自然と友恵の家の方角へ進んでいた。このまま送ってしまえば早いと思ったのである。川沿いの土手を越え、大きな通りを一つ渡ればそこに友恵の住むマンションがあった。


「部活のほうは、どんな感じ?」

 そんな話題が出たのは土手の道のりも半ばを過ぎた頃だった。二人が所属するソフトテニス部は規模の小ささゆえに男女が合同で練習している。黒羽の場合は正確には所属“していた”であり、彼は六月頭の県総体で既に引退した身だった。男女の主将だった二人の内友恵の方は辛うじて地方に残りまだ活動を続けている。

「ぐだぐだかなぁ。黒羽君がいないと締まらなくてね。先生はもともとド素人だし」

 のんびりと友恵が言う。昨年までの顧問が硬式に移ってしまったため、この数ヶ月は実質黒羽が監督代わりだったのである。

「長谷川先生も、悪い人ではないんだけどな」

 就職二年目の国語教師を思い浮かべて黒羽は苦笑する。テニスはわからんと公言して憚らない男である。影の努力などする気配は最初から微塵もない。すらりとした長身からして、本職はバスケやバレーなのだろう。

「梶浦に気合い入れるように言っておいてくれ」

 腕はあるが統率力のない新部長の名を告げると、自分で言えばいいのにと友恵は笑った。


「そう言えば、ちょっと前に、一年に全中出場選手が二人もいるって騒いでなかった? 結局あの子達はどうなったの?」

 思い出したように尋ねる友恵に黒羽は曖昧に頷く。

「お笑いだぞ。どちらも取り付く島もなかったうえに、当てつけみたいに二人仲良く天体観測部になんて入りやがった。まったく、せっかくの才能をなんだと思ってるんだか」

「天体観測ねぇ。そんな部活あったっけ」

 戯けながら空を仰ぐ友恵。つられて上を向くと、いつの間にか薄暗い雲が頭上に広がっていた。土手には雨宿りをする場所が一切ない。今降られるとまずな、と黒羽は思った。


 しかしながら、天候とはそうやって意識している時に限って嘲笑うかのように崩れるもので。案の定降り出した大雨に二人は急遽土手を途中で下り、近くの図書館に避難した。


「あぁ、嫌だなぁ」

 ロビィの窓から外を眺め、友恵が憂鬱な声を漏らす。ふわりとした栗色のウェイトボブが雨で少し元気を無くしていた。濡れたブラウスから逃げるように黒羽は視線を彷徨わせる。

「雨、嫌いなのか?」

「うん。なんだか気が鬱いじゃって。黒羽君は?」

「普通」

 けれど、これからは雨が少し嫌いになるだろうと思った。恐る恐る友恵の顔を覗き込む。雨に打たれて冷たいはずなのに、濡れるほどに赤みを増すから人間の肌は不思議だ。上気したみたいな頬が拒むように僅かに俯き、偶然だと知りつつも黒羽は慌てて窓の向こうへ視線を逸らした。


 雨は当分止みそうにない。濡れたままでは友恵が風邪を引いてしまうかも知れないと思い、傘なりタオルなりを準備しておかなかったことを黒羽は悔いた。体の強い方ではない彼女は、ちょっとしたことで高熱を出すことが多いのだ。


 仕方がない。心の中でそう覚悟し、黒羽は極力選びたくなかった手段を使うことにした。自分の心情など友恵の体調に比べれば小さいものである。

「なぁ、あの、オープンキャンパスで知り合ったって言ってた大学生とは、最近どう?」


「どうって……。いきなり何?」

 困ったように眉を寄せる友恵。こちらだって好きで話しているわけではない。

「あの人さ、確か車持ってたよな。呼ぼう。風邪引かれたら困る」

 一瞬の当惑の後、どこか寂しげな表情で彼女は黒羽を見つめた。小さく頷き、携帯片手に申し訳なさそうに少し離れる背中。抉るような胸の痛みに、なんて不謹慎な兄貴だと黒羽は己を呪った。妹の死よりも上手くいかない恋の方が辛いだなんて、そんなことがあって良いはずがない。


「黒羽君。梅雨が明けたら、また今年も部活のみんなで花火に行こうね」

 別れ際にそんな約束を遺して友恵は去った。この時彼女はこの約束がなんの問題もなく守られるものと信じ切っていたし、黒羽もまたそれは同じだった。


 しかし、この日を境に黒羽の人生から羽鳥友恵という少女は事実上姿を消す。

 次に二人が言葉を交わす時、羽鳥友恵はすべての記憶を失っていた。


 いつまで経っても学校に行く気の起きない黒羽は、千尋の墓に参ることだけを日課にぼんやりと日々を過ごしていた。おそらく、日常という流れに乗るための何かがすっかり欠落してしまったのだろう。それはきっと、人が小さい頃から少しずつ積み上げてゆく性質のものに違いない。高く綺麗に積んでいける人が所謂上手に生きられる人間。アンバランスな積み方で成長してきた人は、途中までは何とかなっても、いつかはどこかが崩れてしまう。一度失敗したら学習し次からは綺麗に組み上げられる人もいるし、いつまで経っても不器用なままに人もいる。どうやら自分は随分派手に崩れてしまったらしいと、他人事のように黒羽は思った。


 友恵の母が尋ねてきたのはそんなある日のことだった。正午前、いつものように墓参りを済ませて家に帰ると、玄関先に四・五十代程の小柄な女性が佇んでいた。まともに顔を合わせたのは随分前、確か中学の卒業式が最後だったため、その女性が誰であるか理解するのに黒羽は少し時間がかかった。友人本人ならばいざ知らず、その親が家にやってくるなど今までになかったことである。よく場所がわかったなと思いつつ声をかけた。

 子供の変化は大人のそれより遙かに大きい。振り向いた羽鳥は当然のことながら、酷く当惑した表情で黒羽を見つめた。

「黒羽さん、ですか?」

 恐る恐る尋ねる声には縋るような弱さがあり、黒羽は自然優しい笑みを作った。

「はい。羽鳥さんですね?」

 こくりと頷いた羽鳥は今度は本当に黒羽の体に縋りつき、今にも泣き出しそうな悲痛な表情でこう告げた。

「お願いします、一緒に来てください。友恵が――友恵が、貴方を」

 曖昧に過ぎるその言葉は、しかし黒羽に何か取り返しのつかない出来事が友恵を襲ったのだと感づかせるには充分だった。


 二人はタクシーに飛び乗った。羽鳥が運転手に告げた総合病院という単語が黒羽の予想を否定し難いものに変えた。

 車内は終始無言だった。二人の異様な沈黙に堪えかね、運転手がラジオに手を伸ばす。

『次のニュースです。昨日未明、――川上流で水死体となって発見された男性の身元が判明しました。この男性は二日前から捜索願が出されており、名前は――。――大学の現役……』

――まさか。

 最悪の可能性を黒羽は必死に否定する。だが、尋常ではない羽鳥の様子はもはや友恵が何かしらの事件に巻き込まれたことを彼に確信させていた。


 乗車時の勢いに反して、病院に到着した黒羽の足取りは重かった。純白の建物の中に待つ事実に彼は恐怖せずにはいられなかった。先を行く羽鳥について、一歩一歩感情を殺しながら歩く。必死に身構えていずれ直面する衝撃に備える黒羽。覚悟しろ、覚悟するんだと心の中で呪文のように唱えた。すべてが杞憂だと思いこめるほど彼は楽観的ではない。

 エレベータを降りた黒羽は自分たちが歩いている入院病棟が外科のそれではないことに気付き、本来ならば安堵するべきであるその事実に一層悪寒を強めた。精神科。日頃縁の遠いその場所が、この先に待つ想像絶する何かを彼に予感させた。


 ナースステーションに最も近い部屋の前で足を止め、救いを求めるような瞳で羽鳥は傍らの男を見上げた。羽鳥友恵。入り口横のネームプレートを確認し、黒羽は深々と息を吐く。そうして彼は、ここにきて不意に凪いだ心を抱えて静かに病室へ入った。



 そこにいたのは、確かに友恵だった。愛らしいブラウンのウェイトボブ、大きな瞳に白い頬。青い寝衣に身を包みベッドの上で身を起こしている女性は確かに黒羽の知る友恵だったのだ。


 すとんと何かが自分の心から落ちるのを感じ、ああ、と、黒羽は小さく声を漏らした。見たことか、やっぱり取り返しがつかないではないか。



 突然の入室者に驚く風もなく、友恵は真っ直ぐ目の前の男を見据えた。


「貴方が、黒羽さん?」


 幼子のようにあどけない顔で首を傾げる彼女に、黒羽は思い出だとか約束だとかそういう今まで大事にしてきたものがすべて消え去ってしまったことを悟った。


「黒羽さんですか。お待ちしておりました。医師の新海です」

 そんな彼から友恵を隠すように、白衣を着たすらりとした男が二人の間に立つ。少しお話がと言われ、今しがたくぐったばかりのドアを外へ押し戻される黒羽。廊下で待っていた羽鳥は黒羽達と入れ替わりに入室すると、ちらりと新海を見やってから丁寧にドアを閉めた。

「少し遠いですが、私の部屋へ。大事な話ですので」

 背中を押されるままに、新海に従って黒羽は歩いた。すっかり力の抜けてしまった彼は、ひょっとすると自分は今なら吹けば飛ぶのではないかとぼんやり思った。

エレベータで何回か上がり、促されて入った部屋には一人の男の姿があった。小さな病室程度の空間の窓際に佇むスーツ姿の彼は、親の敵でも見るかのような凶悪な目つきで数秒間黒羽を睨むと、考え込むように口元に手を当て窓の外へ顔を背けた。

「そこのソファに座ってください。コーヒーを淹れましょう。橘《たちばな》さんもどうですか?」

 新海が柔らかく問う。橘と呼ばれた男は振り向きもせずに無言で首を横に振った。

 部屋の隅でコーヒーメーカをいじる新海と窓際の橘。ともに見た目は三十代後半ほどである。どちらも背が高く、柔和な雰囲気の新海に対して橘はどこか殺伐とした空気を纏っている。背中を向け合う形になってしまう橘を気にしながら黒羽はソファに腰掛けた。

「さて。何となく感づいておられるようですし、単刀直入にお話ししましょうか。構いませんね? 橘さん」

 テーブルにカップを置き、黒羽の向かい側に座る新海。尋ねておきながら橘の返答を待たず彼は言った。


「いいですか? 今の友恵さんは、ただ一つのことをの除いてすべての記憶を無くしています。記憶と言っても技能や知識は残っていますが……。だからそう、所謂思い出というやつですね。今の彼女にはそれがないのです」

 医師らしい、事務的な口調だった。概ね予想通りの事実に黒羽は小さく頷く。

「ただ、彼女の記憶には一つだけ残っているものがありました。それが貴方です、黒羽さん。何も憶えていなかった彼女が、貴方の名前だけは口に出来た。それで、急いでお母さんに貴方を連れてきてもらったわけですが……。どうやら、憶えていたのは貴方ではなく貴方の名前だったようですね」

 言われて黒羽は先程の友恵の様子を思い出す。確かに彼女は、黒羽の姿を見てもそれが黒羽という名の男であるかどうかわかっていなかった。あれがつまり、名前だけを憶えている状態なのだろう。
「とは言え、名前だけだとしても御両親さえ差し置いて彼女の記憶に残ったのですから、彼女にとって余程大事な存在だったんでしょうね、貴方は」

 そう言って新海は穏やかに微笑んだ。彼は勘違いしているのだと黒羽は気付く。自分たち二人の距離は彼が思っているほど近くはなかったというのに。

 小さな胸の疼き。彼女の記憶のことは、きっと何かの偶然だろう。

「恋人が突然こんなことになってさぞ驚かれたでしょうが、どうか力になってあげてください。先程は混乱を避けるため無理に引き離しましたが、これからは出来るだけ彼女の傍にいてあげて欲しいのです。そちらの都合もあるでしょうけれど、貴方と一緒にいれば、何かを思い出すかも知れませんから」

 俯く黒羽の心情をどう解釈したのか、新海は励ますような声で付け足した。


 生まれたての子供のようだった友恵。実際今の彼女状態は赤子のそれに近い。誰も知らず、自分が誰かもわからないのだから。

「あの、彼女は、どうして?」

 黒羽は尋ねる。何かとんでも無い事件に巻き込まれたのではと思っていた。一瞬見ただけでは目立った外傷はなかったが、記憶喪失ということは頭に怪我でもしているのではないのか。

 新海は複雑そうに笑う。

「いや、記憶喪失といってもですね、幸い頭部に大きな傷はありません。強く打ったとかではないので、おそらく心因性だと思われるのですが……。説明お願いできますか、橘さん。どうもどこまで話してよいのか計りかねまして」


 席を立つ新海に代わって今度は橘が座る。射るような視線に黒羽は自分の内面を覗き込まれているような不快を感じた。

「申し遅れました。県警一課の橘です」

「殺人課の警部さんですよ」

 新海が小声で補足する。警部補ですと橘は訂正した。


――警察?

 身構える黒羽。それは黒猫や鴉よりも余程不吉なシンボルだった。一体友恵の身に何が起きたというのか。

「事情聴取などは行いません。どうか楽になさってください。――さて。数日前、――川で水死体が発見されたことはご存じですね? 内密にして頂きたいのですが、あの事件には殺人の可能性があります。遺体には争った跡がありました。上流の山のどこかで何者かに襲われ、抵抗の最中、あるいは気絶させられた後転落したというのが今のところの警察の見解です」


――まさか。

 黒羽は背筋を氷らせた。

「それで、なぜ友恵が?」

 恐る恐る尋ねる。もう既に、大方の予想はついていたけれど。

「亡くなった男性には捜索願が出されていました。同じく届け出があった友恵さんが発見された場所は、遺体の転落地点として警察が幾らか当たりを付けていたたうちの一つだったのです。調べてみればそれらしい痕跡もいくつか見つかった。亡くなった男性と友恵さんは一緒だった可能性が極めて高い。彼女は今回の事件の重要参考人ということです」

「捜索隊に発見された時、友恵さんは谷の近くの林の中で倒れていたそうです。近くには古いキャンプ場があります。まあ、もしも殺人現場を目撃してしまったというのならば、ショックで記憶を無くしてしまったとしても無理はありません」

 新海が付け足し橘が頷く。ご理解頂けましたかなどという問いに答える余裕は今の黒羽にはなかった。


――なんてことだ。

 それは起こりうる中で最悪の展開だった。

――どうして、よりによって友恵が。


「友恵さんの記憶は事件解決の重要な鍵です。黒羽さん、警察の立場からも、ご協力よろしくお願いします」

 慇懃に頭を下げる橘。黒羽は曖昧に頷いた。彼は自分の内面の動揺を抑えるのに必死だった。落ち着くんだと繰り返し、悔やんでも仕方ないと言い聞かす。


「では、私はそろそろ失礼しましょう。貴方と面会したら一度署に戻るよう言われていますので」

 そう言って席を立ち橘は出口へ向かう。ドアの前で立ち止まった彼は黒羽の方へ向き直ると僅かに躊躇う風にこう尋ねた。

「最後に。――その、失礼ですが、貴方と友恵さんのご関係は?」


 黒羽は胸が軋む気がした。目の覚める痛みに頭が一気に冴え渡る。

 わかりきったことだ。

 白紙に落とした絵の具、あるいは、無人の講堂に響く声のように。鮮明な事実が今はただ寂しい。


 自分は友恵の恋人などではない。彼女の本当の相手が誰だったかもわかりきっている。新海の判断は勘違いだ。


――けれど。


 不意に、黒羽の脳裏を邪念が掠める。咄嗟に振り払おうとするが、その考えは彼にとってあまりに甘美に過ぎた。


――けれど、今ならば?


 男はもうこの世にいない。たとえ黒羽が嘘をついたとしても、その虚実は友恵本人でさえ確かめることは出来ないのだ。

 ならば、これはチャンスなのではないか? 今ならば、永く秘め続けた想いを叶えることが出来る。いや、むしろ今この時を逃せば二度とそんな機会は訪れないだろう。


 どうしようもなく汚い行いだということは自覚している。わかっているが、それでも。



「友恵は、恋人です」


 気が付けば、黒羽はそう口にしていた。口にせずにはいられなかった。そうしなければ一生後悔するとまで感じていたのだ。


 そうですかと頷き橘は部屋を出た。彼の目は、目の前の男を哀れむように細められていた。





 昼過ぎ。署に帰った橘はデスクの上に置かれていた書類にすぐさま目を通し始めた。病院から電話で部下に命じた黒羽についての資料である。本当ならば本人から聴取すれば早いのだが、明らかに動揺していた黒羽を事務的に問いつめるほど橘は冷酷ではなかった。アリバイを確かめたいわけでもなし、簡単なパーソナルデータならばどうせ調べればわかることである。

 既に頭に入っている友恵に関する情報と目の前の資料を見比べる橘。なるほど二人はともに同じ中学、高校の生徒だったようだ。六年間通して所属した部活も同じ。

 記憶喪失と判明した後、何か憶えていることはないかと問われ辿々しく黒羽の名を口にした友恵と、すぐさま彼を呼びに走ったその母親を思いだす。これだけ昔からの仲ならば親が名前を聞いただけですぐさま黒羽が誰かを理解できたことも頷ける。


――そうか、彼は今あの高校に……。

 そこには橘の旧友が一人いる。ざっとすべての情報に目を通した彼はいつか個人的に話を聴きに行こうと思った。学校への聞き込みはこれを調べた部下が既に行っているだろうが、一般人とは警察を警戒し多くを語らないものである。本当に知りたいことは簡単には聞き出せない。

 黒羽が事件に関与しているなどとは橘も考えてはいなかったが、ただ自分は友恵の恋人だという彼の言葉は若干疑わしかった。殺害された男は友恵と親しい仲だった可能性が高い。だとすれば可能性は四つ。どちらかが浮気か、どちらも浮気か、あるいは警察の読み違いか、そうでなければ、黒羽が嘘をついているか。別段彼が実は恋人でなかったとしても何がどうなるわけでもないが、唯一僅かに憶えている彼に間違ったポジションを演じられては友恵の記憶も戻りづらいだろう。彼女の記憶は事件解決に必要不可欠だ。ただでさえ高くない回復の見込みをこれ以上低くされては堪らない。


「おう、橘。戻ってたか」

「……警部」

 肩を叩かれ振り向くと、そこには上司である老警部がいた。浅黒い肌をした、定年間近の小柄な好々爺である。

「現場の調査は進んでいますか?」

「あんまりだな。山は調べづらくてかなわん。目撃者も予想通りゼロだ」

「明日は私もそっちに加わりましょう。ところで、話とはなんですか?」

 尋ねると、老警部は気まずそうに橘から目を逸らした。話があるから一旦署に戻れと言ったのは彼である。これはろくなことではないなと橘は身構えた。


「実はな……。橘、お前現場には来るな」

「それは……、この事件から外されるということですか?」

「いや、お前さんにはあの羽鳥友恵の護衛をしてもらう。犯人が口封じに来こないとも限らんからな」

「そんな、所轄の警官でも出来る仕事に何故」

 我知らず声を張る。理不尽な命令に腹が立った。警部補、主任と呼ばれる自分が現場に顔も出さずに病院でお守りだなんて馬鹿げているではないか。

「何故、か。わかっとるだろう? お上はお前に手柄を立てて欲しくないんだよ。ほっとくとお前はどんどん事件を解決するからな。下らない仕事に縛り付けるしか手がないんだろう」

「そんな馬鹿馬鹿しい命令、納得いきません」

 猛然と講義する橘。

「納得いかなくとも言うことは聞いてもらうぞ。もしも破ったら儂は降格。お前さんも今度はただの降格ではすまんだろうよ」

「理不尽な。道理にかないません」

「理不尽でもなんでもだ。警部から警部補に落とされた時にわかったろう。お上に逆らうとろくなことにならん。今回のことは自業自得と割り切ってくれ。儂はな、今更とばっちりで今の地位を失いたくはなんだ。万年警部補止まりと呼ばれたうだつの上がらん儂に黙って連れ添ってきた家内が、その最後の昇格を泣いて喜んでくれた。例えそれがお上に楯突いたお前さんの代わりだとしても、儂はこのまま後一年警部として勤め上げ、胸を張って退職したい」


 つまりは、そういうことだった。確かにこれは自業自得だし、かつては部下だった上司の有終の美を汚すような残酷な真似も橘には出来ない。二人して、諦めたように項垂れた。

「三十そこいらで警部まで駆け上ったお前さんの腕はみんな承知しとる。大人しくしておけばすぐまた機会がまわってくるだろうよ。まだ若いんだ、焦らなくてもまだまだ上を目指せるさ」

 宥めるような老警部の言葉に橘は一切反応しなかった。溜息をつき、申し訳なさそうに警部は付け足す。

「若いのを一人付けるから、半日交替でそいつと回してくれ。お前さんは今まで働きすぎてた。たまには六時に家に帰って美人の嫁さんとゆったりしろ」

 必死に怒りを抑え、どうにか頷く橘。老警部が去った後、彼は力一杯デスクを殴りつけた。



 ひどく驚いた顔をしていた。

 谷底へ転がり落ちていった彼は、その体がぐらりと揺れた瞬間に己が未来を悟ったのだろう。信じられないとでも言いたげに、唖然と目を見開いていた。

 そうして彼は死んだ。見ず知らずの男に襲われ、理由もわからないままに谷底へ突き落とされて死んだ。

 
 彼を殺した男はしばしその場に立ちつくしていた。自分の行動に恐怖し、だらしなく足を震わせていたのである。

 男は必死に犯した罪の正しさを信じようとした。相手は死ぬべきだった、自分は当然のことをしたのだと、そう強く信じなければ気が狂ってしまいそうだった。

 
――早く逃げなければ。

 幾分落ち着いた男は思った。死体は川に流れ、当分発見されることはないだろうとわかってはいたが、それでもこの場に留まっていていると何かとんでも無い危機に見舞われる予感がした。



 刹那、女の悲鳴が聞こえた気がして、男は慌てて振り返った。


 次の日、黒羽は久しぶりに学校へ行った。と言っても、授業も終わった夕方にちらりと顔を出しに行った程度である。
 しばらくぶりの校舎はまるで初めての場所のように居辛く、教室に残っていた数人の吹奏楽部員に挨拶をしただけで黒羽はすぐに外に出た。グラウンド側に周り、野球サッカーハンドボールと順番に部活動を流し見る。その活気、喧噪が妙に肌に馴染ない気がしてついつい眉を顰めてしまう。どうやらほんの数日の間に、学校はすっかり自分の居場所ではなくなってしまったらしい。

――うん?

 ふと、ぼんやり眺める青の練習着達の中に不自然なものが混じっている気がして、黒羽はサッカー部の一団に目を凝らした。学生達に紛れるカッターシャツ。長身長髪ポニーテール。

 長谷川唯だ。

「ようやく登校か黒羽」

 黒羽に気が付いた唯は歩み寄るとからかうようにそう言った。不良生徒の重役出勤でも叱るような口調に苦笑する黒羽。ご迷惑をと頭を下げれば、別に大してと寂しい返答。

「強いて言うなら部活だな。あとで顔出してやってくれ。俺じゃあ威厳が無くて駄目だ」

 自覚があるならまず言動を改めればいいのにと思いつつ、素直に頷く。唯なりに気を遣ってくれているのだろう。プールの前にシャワーを浴びるように、少しずつ、体を慣らしていかなくては。

「しっかし、歳はとりたくないな。すぐ息が上がっちゃって、ダメダメだ」

 クールダウンのストレッチをしながら唯が呟く。グラウンドを見つめる瞳には羨望ではなく対抗意識が溢れていた。台詞とは裏腹に、いつまでも若い教師である。

「先生、サッカーも出来たんですね」

 顧問の部活には滅多に顔を出さないくせに他の運動部にはしょっちゅう紛れ込んでいる唯。バスケットと陸上の実力は既に証明済みだった。

「学生の頃はよく助っ人に引っ張られてたからなぁ」

 懐かしむように唯は目を細める。ひょっとしてこの人はソフトテニス以外ならば何でも得意なんではなかろうか。

「せっかく復帰したのにあれだが、明日からもう夏休みだ。まあ、だんだん調子を戻すには丁度良いだろ。後半は学祭の準備もあるし、どさくさに紛れればまた元通りだ」

 全然気にもかけていないようなフリをして。実際にはとても心配してくれているのが唯という人間である。有難うございますだなんて改まってみれば、さっさと行けと追い払われてしまった。


 恐る恐るコートに足を運ぶと、そこには多くの部員達の笑顔が待っていた。黒羽の姿を見付けた途端、大騒ぎして集合する少年少女。口々に捲し立てるのはそろいも揃って唯への文句である。 

 曰く、長谷川先生では役に立たない。長谷川先生は練習の指示もしてくれない。と言うかそもそも長谷川先生は滅多にコートに来てくれない。たまに来ても暑い暑いと呻くばかりで邪魔なだけ。でも、格好良いし面白いから憎みきれないのがまた腹立たしい。

 何やってんだあの人はと内心苦笑しながら、黒羽は笑顔でそんな部員達を受け入れていた。黒羽さんが戻ってきてくれて助かったと頷き合う彼等の存在が、素直に嬉しい。


 適当にメニューを指示し、その後はベンチに座ってぼんやりと練習を眺めていた。時たま寄せられる質問に答える合間、ふと気付けば考えているのはやはり友恵のことばかりだった。昨日の夜から、ずっとこの調子なのである。
   
 新海は友恵の傍にいてやってくれと言った。それは黒羽にではなく、“友恵の恋人”に対する言葉だということくらい、ちゃんとわかっている。けれど、そう自覚した上で、黒羽の意志は既に固まりつつあった。

 果たして自分は、友恵に何をしてやれるだろうか。医学的知識も何もない男に出来ることなど、どうせ限られている。

 茜色の空を仰ぎ、黒羽はもし自分が記憶を無くしたら一体どんな心地だろうかと想像してみた。自分が何者なのかわからない。周囲との距離でそれを測ろうにも、知った相手が一人もいない。振り返る過去もない。自分という人間を構成する要素が何一つ見つからない。

 怖いな、と、黒羽は思った。しかし、例えどれほど怖ろしくても、安心して寄りかかれる相手すらいないのだ。

 そうして黒羽は納得した。だから新海は言ったのだ。力になってあげて欲しい、と。

――なるほど確かに、恋人の仕事だ。

 破滅的なまでの自嘲と共に、この後病院へ向かうことを決めた黒羽だった。




 午前六時から午後六時まで、きっかり半日友恵の護衛をして橘はその日の仕事を終えた。病室の扉の前でひたすらに佇むことだけを職務と定められた以上、それ以外の行動はすべてただのプライベートである。例えそれが、事件の解決に役立つと思ってとった行動だとしても。

 病院を出た橘は、直接家には帰らず旧友のいる県立高校を訪ねた。朝のうちからアポは取ってあった。校門にて待っていた高校時代の友人、長谷川唯を拾い、学生が来そうにない適度に豪華なレストランへ車を走らせる。

「いやぁ、しかし、久しぶりだな貫斗《かんと》。お前の結婚式以来か?」

 助手席の唯が感慨深げに言った。

「君自身に結婚の記憶がないなら多分そうだろうな。久しいと言えば、新海にも会ったぞ」

「剛《つよし》まで? 大した偶然だな、まったく。誰かが死ぬ予兆か?」

 荒くブレーキを踏み、橘は隣で肩を竦める友人を叱った。赤信号。眼前の横断歩道を男子高校生三人が自転車で走り抜けてゆく。

「縁起でもないことを言うな。重要な参考人が新海の病院で入院していているんだ。お互い仕事ということで今のところ他人行儀だが」

「相変わらずお堅いねぇ、お前らは。俺も敬語を使った方が良いかい? 警部さん」

 先程の急ブレーキで打ち付けた額を抑えながら戯ける唯。幾つになっても変わらないなと懐かしく思いつつ、橘は応えた。

「いや、いい。今は仕事中じゃない。それと、警部じゃなくて警部補だ」

「おいおい、いつの間に降格したんだお前。あんまり嫁さんに苦労かけるなよ? 大体な、警察って仕事だけでも十二分に負担をかけてるっていうのに、もっとさぁ――」

 その後、延々と続く唯の説教を橘がすべて黙殺したため、まともな会話が一つも成立しないまま二人はレストランに到着した。

 食後のコーヒーが運ばれてくる頃には、必要な情報のやり取りは粗方終わっていた。羽鳥友恵や黒羽誠の関する質問は部下の刑事が既に行っている。しかし、医師や教師といった日頃から他人の人権やプライバシーに敏感な職種の人間は、得てして警察が最も知りたい大事な部分を隠匿するものである。橘が手に入れたかったのは、そういう赤の他人では聞き出せない情報だった。

 刑事に一度話したことはもういい。そう断った橘に、唯は一瞬眼光を鋭くした後諦めたように溜息をついた。質問は主に友恵と黒羽が唯から見てどんな生徒だったかということと、第三者から見て二人はどんな関係だったのかということだった。

 思春期の子供達の複雑な人間関係など普通の教師には量りかねるところだが、橘は唯が普通ではないことを知っていた。学生の頃から、当人以上に他人の気持ちに鋭い男だったのだ。表面上は興味がなさそうに振る舞っていながら、いつもさりげなく周囲に気を配っている。教師という仕事は彼の天職だと、橘は確信していた。

「……とにかく、羽鳥と黒羽は恋人って感じではなかったように思う。そんなはっきりした関係ではなかったな」

 一気に干したカップをソーサーに戻して唯は言う。どことなく動作が刺々しい。どうやら多少気分を害しているようだった。それが不本意な聴取を受けたからか、説教を軒並み無視されたからかは定かでない。

「はっきりしてないってことは、微妙だったのか」

「ああ、微妙だな。わかるか? 普通に考えたら上手くいくだろうに、間が悪いっつーか、色々な環境要因が重なって結局結ばれない恋ってあるだろうが。高校生の恋愛なんてそんなのばっかりだ。……例えば、そう、もしもこの世が二人だけなら、きっとあいつ等はちゃんと恋人になってた気がする」

「二人っきりなら、その相手と一緒になるのは当たり前だろう。他に選択肢がない」

「黙れ朴念仁。相も変わらず人心の機微が解せないヤツめ」

 唯の言いたいことがわからないわけではない。ただ、少し例えが下手だったなと思っただけ。

 しかし、橘は唯の腹立たしげな視線を黙って受け止めた。朴念仁と馬鹿にする彼や、馬鹿にされる自分、そんな些細なやり取りが生むノスタルジィにもうしばらく浸っていたかったからだ。

「そういえば、今日、黒羽が久しぶりに学校に来たぞ。それも部下から聞いてるか?」

 店を出た後、唯の自宅へ向かう車中にて彼は思いだしたように尋ねた。今夜得た情報から事件について計算していた橘は、頭を切り換えるのに少し時間がかかった。

「いや、初耳だ。今まで休んでいたのは、確か親族の不幸だったか?」

 唯は頷く。家族を亡くすショックからようやく立ち直りかけていた頃に、今度は記憶を無くした友恵との対面である。並の心労ではなかったろう。橘は黒羽に軽い同情を覚えた。

「今度は剛も一緒に三人で飲みに行こう。俺達三人の一番おかしな点は、仲が良いくせに滅茶苦茶疎遠なところだ」

 去り際、ウィンドウ越しに唯はそんなことを言った。仲が良いから疎遠でいられるんだと、甘えた言葉を胸に秘めて橘は旧友を見送った。そうして、結局思い出話の一つも出ないままに数年ぶりの再会は幕を閉じた。









 高一の半ば頃だっただろうか。美容に良いからといって、クラスの女子の間でアロエヨーグルトが爆発的に流行ったことがある。昼食はそれ一食で済ませる強者まで現れる程で、当時は軽い社会現象だった。
 とは言え、ただそれだけのことならば今この時まで黒羽の記憶に残りはしなかったろう。なぜ彼がこの出来事をよく覚えていたかと言えば、それはその年偶然クラスが同じだった友恵だけが皆の流れに乗らなかったからだ。独特の臭いが苦手だと、彼女は言っていた。実は同様の理由で黒羽もあの青臭いヨーグルトが嫌いだったので、二人は妙に意気投合したものだった。

 些細なことである。

 ただ、どんなに小さな出来事でも、それは彼にとって想いを寄せた相手との大事な思い出だった。

「なんでみんな、あんなの食べられるんだろう、なんて二人で言ってさ」

「へーぇ」

 ベッドで上体を起こしている友恵は、黒羽の話に気のない相槌を打った。興味が無いを通り越してどこか不機嫌そうですらある。


 面会時間すれすれに滑り込んできた黒羽を友恵は快く迎えてくれた。新海から、黒羽とはよく話すように言われていたのだそうだ。

 来客用の緑の丸椅子に座った彼が一番始めに気にしたのは、ゴミ箱に捨ててあったヨーグルトの容器だった。その様子を見て友恵は、「余ってるから食べる?」と訊いた。

 食べるはずがない。

 そもそも、捨てられたカラ容器が友恵のものだという事実が黒羽には信じがたかったのだ。

 食べ物の好みの記憶もないのかと目の前の少女に尋ねた。予想通り、事も無げに彼女は首肯した。きっと微妙な表情をしていたのだろう。何故そんなことを? と問い返され、その理由を説明して今に至る。


「美味しいのに、昔の私は馬鹿だったんだねー」

 へらり、と。本当に過去の自分を馬鹿にした調子で友恵は言った。無意識に眉を寄せる黒羽。まさか友恵本人に二人の思い出を壊される日が来るとは思わなかった。悔しいような寂しいような、複雑な心地がした。

 仕方がないと言い聞かせる。友恵には記憶がないのだから。例え彼女が別人のようになったとしても、それは仕方がない。そんなことは覚悟の上で、それでも傍にいることを選んだからこそ、自分は今日ここに来ているのだ。

 自戒する黒羽をじっと見つめ、友恵は吐き捨てるように呟いた。

「……嫌な目」

 突然のことに戸惑う。過去のことを話し出した頃から徐々に険しくなっていた彼女の表情は今がまさに絶頂だった。

「なーんでみんな、そういう目、するかなぁ」

 苛立たしげにシーツを握りしめ俯く。黒羽にはただ黙っていることしか出来なかった。しばしの沈黙の後、盛大に溜息を吐いてから友恵は口を開いた。

「お母さん? もさぁ、黒羽さんと同じような目をしてた。遠くっていうか、奥っていうか、とにかく、こっちを見てるのに私を見てない。そーゆー目」

 怒気は抜け、今度は酷く疲れた声だった。落とされた肩がもともと小さな体をさらに弱々しく見せる。

「ピンクじゃなくて青の寝間着を選んだ時。声をあげて笑った時。アロエ入りのヨーグルトを食べた時。――ねぇ、気付いてる?」

 ようやく彼女の言わんとするところを察し、黒羽は慌てて何かフォローを入れようとした。しかし、それより早く彼女は言いきる。

「――私は今この瞬間確かに生きてるのに、その目は私を過去に追いやろうとするの」

「そんなつもりはないんだ。……君は友恵じゃない。それはわかっているんだよ」

「いいえ私は友恵だわ。ただ、貴方の頭の中に私はいない」

 ハッキリと、突き放すように友恵は告げた。

 ふと、まったく同じ言葉を向けられ、涙を浮かべて病室を出ていく彼女の母親を想像した。口振りからして、本当にそんなやり取りが昼間行われたのではないだろうか。

 違うとは、言えなかったはずだ。黒羽も、友恵の母も、彼女の中に自分たちの知る友恵を捜していたことは間違いない。

 そばにいようと、決めたはずだった。例え自分が友恵の本当の恋人ではないとしても、本当に必要とされているのが他の誰かだとしても、別に構わないと歯を食いしばった。そうすることが友恵の助けになるなら、と。

 けれど、彼女はそんな覚悟を求めてはいなかったのだ。そんなことをされたって、彼女にしてみれば自分以外の誰かへの愛情を押しつけられる不快感が募るばかりで――。


「もう、面会時間は終わりね。今日はどうも有難う」

2009/10/03(Sat)20:45:31 公開 / 雨竜椿風・千鞍
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