『sakura』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:クーリエ                

     あらすじ・作品紹介
余りにも時期はずれな桜のことを記したSS。途中から描写が退屈になってくる可能性あり。本当はそこを頑張って改善しなければならないのですが……。

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香るもの

くらっと目眩がした。ちょっと歩くのを止めて、休もうとした。彼が追っていた香りはかなり強くなり、もうすこしでその正体が分かるのではないか、と思った矢先だった。
ずっと、地面を向いていたようなので、首が痛く上を見ようとした。

その途端だった。あの香りがそれまでとは全く違った風に、強く香ってきた。
香りは、鼻や、目、そして耳までもから染みた。体の穴という穴から、入ってきた。ここまで来ると、やすらげるものではない。痺れるような感覚だ。
しかしそれは、薄荷ののど飴や、ガムを噛んだときのスースーと刺すようなものではなく、あくまでエレガントに、それでもって自然に入ってきた。
それは余りにも、人を魅惑させ、惹き付けるものであった。
彼はそれに咽せ、頭をもたげた。  
すると、そこには宵空の上に満開に咲く、紫色の桜の老樹があったのだ。突然前触れもなく現れた紫の舞だった。そして、それは匂いの正体だった。
ここにはこんな見事な、しかも紫を持つ桜があったのだろうか。そんな気配はいままでここにはなかった。
いや、この樹が現れたのではなくて、いつの間にか橋本自身が別の場所に移動していたのだった。周りを見渡してみると、そこはやはり、今までの場所とは違っていた。野原になっていたのだ。
小さい公園ぐらいの広さの野原に、桜が四、五本植わっている。全く見たこともないような風景だ。そして、その花はすべて紫、紫、紫。こんな木は普通には存在しえないだろう。
橋本は、その紫の香りの招きによってみごとに誘われてしまったのだ。
そのことがはっきりと分かり始めると、もう彼は恍惚とした気持ちになってしまった。美しい花に見とれたのではない。その桜の魔力に憑かれてだ。
こんな風景に会ってしまった橋本は、言葉もない。
しかし、現実に籍を置くことをいやがっている彼だったから、こんな非現実な光景に巡り会えたのだ。いわば、その光景は彼のために用意されたものとも言える。
そうして、花は深々と降り積もる雪のように散りゆく。まだ桜は散り初めらしく、この丘の土にはほとんど、花弁が混じっていなかった。その中には土にまみれて、きたならしくなった物もない。
所謂、落花の風情を楽しむにはまだまだ時は早し、といった所だろうか。
しかし、散りゆく花弁をしばし見ていた橋本は、あることが分かってしまった。なんと、花びらが地面につく前に、消えてしまっているのだ。
まるで、粉雪が溶けていくように……。
だが彼がそれに気づいたことも知らないように、桜はただただ静に散るのみだった。

そして、こんな樹があるからだろうか、この広場は異質な空気に包まれていた。どこか物悲しく、悲痛さを湛えているような空気。こんなに華麗で幽玄な桜なのに……。
そういえば、ここは見晴らしのよい広場になっているし、なにしろ、紫なんて珍しい色をした桜があるので、絶好の花見スポットになってもいいのだが、先程から、ここには彼一人しかいなかった。他の人は見かけなかった。
そうゆう静かさも、この場所の神秘性を高めていた。
それにしても、この桜たちはまるで泣くかのように散る。これまでに桜が舞散る姿をみて、泣いているなどと思ったことは、橋本の記憶の中には丸でなかったことだった。
しかし、この桜の木々は確かにそうなのだ。泣くように散っている。そしてはらはらと消えていく。
なにとなく、桜の木の下を見ると灯篭ぐらいの大きさの墓石が、幾つも固まって立っていいた。誰の墓だろうか。それは、どれも自然石をそのまま使っている物らしい。墓などあるので、こんな雰囲気なのであろうか。たぶんこんな葬られ方では、無縁墓かなにかだろう。
ある昔の物語で、「桜の下には死体が埋まっている」との表現をした人がいるが、今の状況はその通りだった。だが、その物書きは墓から養分を吸収している桜の樹を、実際には見たことがないのだろう。作家は彼の物語を浪漫的にまとめていた。その文章にはここに漂う悲痛さはなかった。
でも悲しげな雰囲気でも、この桜は美しかった。もしかすると、悲しみがこの桜をここまで磨き上げたのかも知れない。
橋本の思いも、いつの間にか桜に語りかけるようなものになっていた。
それに答えるかのように、桜は舞い散る。


彼は、花が散りかけていく傍から、それを手で掬おうとした。木の近くによって、ひらひらと落ちてくるのを待ちながらである。
「あっ…」ようやく一つの花が落ちようとしてきた。
橋本は、それを手で受けようとする。
その一刹那、紫の色が舞い、橋本の指に吸い付きそうになった。しかし、消えてしまった。
触ったはずなのに、それは彼の皮膚になんの感触も残さず、綺麗にきえてしまった。
それがよけい、かれに強い印象を残した。
それはまるで、夏の或日に追いかけた美しい蝶を、取り逃がしたような気分である。
そんな我がたまりを残したまま、彼は再び花びらを捕まえようとした。
ふわふわと揺れ動く紫の破片に狙いを定め、えいやっと、飛びつく。
しかし、捕まえたはずの手の中には何もない。今度も又同じであった。狙いがつかなかったのか。もう一回取ろうかなど思いつつ、紫の老樹を見ると、もう夕日に照らされていた。樹の先の、紫で覆われた梢が、夕映えのなかぼんやりと輪郭を失ったように輝いていた。すでにこの広場にも夕暮れの気配が押し寄せてきている。そして夕暮れの反対、東の空のほうは春の夜の、淡い紺色に抱かれていた。


甘い匂いが漂う。そうすると、なぜかいままではっきり見えていた桜の木々が、歪んで見えた。一瞬貧血かと感じたが、そうではない。頭はまだしっかりしている。
訳がわからないまま、そこに立ちすくんでいると、ああ、今までになかった桜の森が、花盛りの森が、この広場の奥に見えたのだ。
その森は、確実にあの歪みの隙間から出てきたに違いなかった。今までにこんなものはなかった。
橋本は、まるで夢遊病者のような花に酔うた足取りで、おぼつかなく、その広場の向こうに新しく出現した春の洪水のなかへ、今まさに溺れようとしていた。
芳しい薄桃色の乱舞の中に、自分の帰り道も忘れたが如く。清げなるあちら側へ。
紫色の花が散る。それらは、橋本の体にかかるが、決して積もらなかった。
橋本は、桜の洪水へ身をまかす。
もはや、彼は別の世界を知ってしまった人間だった。そして、それを嬉々として受け入れる人間でもあったのだ。

夜桜の森


普通、人は一体どこにいるのか分からない時、のんびりとすることはできないであろう。
それに、変哲のない山に突如開かれた桜の森である。誰だってびっくりはするはずだ。
しかし、橋本はこの世にも珍しい桜花の森、それを心に刻みつつゆっくりと歩いていた。

目の前に広がるその大きな水の鏡は、まんべんなく桜色をまぶされていた。
彼は、桜の森を彷徨っている内に桜の花びらにすっかり覆われている、この池の畔に佇んでいた。
橋本はまるで導かれるようにして、先ほどの広場から桜の森へ入っていったのだが、そこには、現実であるのかと目を疑うまでに美しい光景が広がっていたのだ。
気が付けば、橋本は桜の海にいた。前後左右どこを見渡しても、圧倒され溺れそうになるほどの桜花の色彩量だった。
まだ花が落ちるまでには早いと思ったが、森の地面は一面の桜絨毯に埋まっている。
これだけ多くの桜が咲いているのだが、地表に落ちた花を拾い上げると、一つ一つ丁寧で緻密な花の作りである。花弁には薄い葉脈が透けていて、その色は上品で仄かであった。
橋本は、その花びらをもう宵になりかけている空に透かしてみた。
すると、ひときわ大きな桜の樹が、奥あたりに見えた。たぶんこの辺りでは、どこからも望める程の大きさの大樹である。
それは夕闇の中、桜色にぼおっと浮き上がって見える。
橋本はこの桜の大樹を根本から仰ぎ見たいとの想いから、その方へ歩いていった。
もう宵桜になろうとしている木々の中を、ゆっくりと。
その大樹へ続く小路は、小さな坂になっている。橋本はそれをべつに気にも掛けず登っていく。
坂を登り詰めた途端に視界が広がった。そして橋本はすこし離れた窪みに池を見つけたのだ。彼はその縁に近づいていった。
その池には、島がありその辺りに春の月光がベールを作っている。その池に浮く島への石造りの橋は、一層月光のるつぼになっていた。
さっきとは打って変わって、池の周りには誰もおらず、ひとところさらに静かである。
池の水面上には、月の光が遊弋を繰り返し、それを見るものを惹き付ける。
とうとう、橋本はその景色に打ちのめされた。足が勝手に、島の方へ向いていった。
中島には東屋らしきものがあり、どうやらその中に人がいるらしい。
歩いている途中にも、池に浮く桜の花びらは月の光を受けて、きらきらと光っていた。そして、その波打ちぎわに寄せられる花は、その月光もそのままに纏って陸に寄ってきていた。
どこからともなく、悩ましい春の香が漂ってきた。
橋本は、シルエットのようになった桜の下を行く。そしてわずかな月からの光が彼を照らす。
橋に足をかけると、さっきの人影がさらにはっきりとなった。わずかな光だけだが、それが却って、はっきりさせた。
橋本は自然と、その方に目がいく。


その女は随分と珍しい服装だった。ぱっと見、青いネグリジェとも、着物ともつかない服を着ている。そして、なにやら頭に、幽霊がつけるような白い三角の布(それには、火の玉に似た模様がはいっていた)を被っていた。そんな服を着ているが、まさか幽霊ではないよな、と橋本は思った。
彼の女は東屋から、石橋を渡ってゆっくりと橋本に近づいてきた。
そしてこつこつと響いていた下駄の音が、橋の上で止まった。
彼はその見知らぬ女を見ないようにしていたのだが、どうやら向こうの方はさっきからずっと橋本の方を見ていたらしい。それは何となく視線で分かった。そのため、橋本は更にそっちを見ることができなくなった。
しかし、あちら側はそんなのにお構いなし。
余りにも見られるので彼は、もしかしたら知っている人かもしれないと考え、少し振り返るぐらいにちらっとその人を見た。
月の明かりだけなので、良く見えないはずなのだが、彼女は不思議と浮き上がって見え、顔の輪郭まではっきりと分かる程だった。

一言でいえばかなりの美人であった。幼さが残る顔立ちに、少しばかりの悲しみが影を付けている。そしてその白い肌は、この月光のもとで照らされて山の湧き水のように、清潔で、見ている者を心から洗ってくれるようだった。
そのくせ、唇だけは濡れ輝き、絶えず別の生き物のように動いていた。その色情の匂いは、清冽さの中にあるだけ、余計に煽情的で、美しかった。
髪はその清楚な顔立ちとは反対に、ピンクに染められていたが、むしろそれが薄い青の服と調和しており自然だった。
本当にこんな者にこのような場所で会った事自体、なにかの偶然とは言い難かった。

橋本は思わずその女に見とれていたのかもしれない。ちらと見るはずが、じっと見詰めてしまっていたのだ。普通はここで向こうも気まずくなり、目を逸らすはずなのだが、彼女はなおも橋本を包み込むように見てくる。
お互いにここまで見ていて、目が合わない筈はなかった。

橋本が、まだよく見ようと視線を上に上げた瞬間、瞳と瞳が春の月夜の中、宙の上でかち合った。その黒目勝ちの大きな眼は、確かに目の前の橋本を見てはいるのだが、それでいてどこか遠い過去を望んでいるようだった。
その瞳が与える感じは、茫洋としていてまだ少したりとも人為に汚されていない、美しい獣に似ていた。

「経信……、なんでここに……。」
素直な感情から出た声だとすぐに分かった。
橋本はどうして良いか分からなかった。彼は、「経信」という名前は、今までに聞いたことがない。もちろん、彼自身の名前でもない。

しかし、その声は少しも汚されておらず、悪意などは全く感じとれない澄み通ったものだった。そのため、橋本は困惑しなかった。急に話しかけてはきたが、何かの怪しい勧誘などではないと断言できる。
これまで起こってきた事態の数々は、橋本の意志とはしごく無関係に動いているのであるが、それが却って彼の心を躍らせた。その中でもこの出来事は最も彼の心を潤した。

彼の女が橋本に寄ってきた。
桜の刺繍が、浅葱色の生地のなかで光り、袖に付いている白いレースが春の夜風にたなびく。その女の表情は何か恍惚としているが、自分の中にこの人を恍惚とさせる物があることを思うと、橋本は不思議な気分になった。
女の締めているシルクのような藍色の帯がゆったりと風に流される。それは、月の光りを反射している水面に映え、今にも流されそう。橋本は今まで、こんな風に人の着ているものを意識した事はなかった。
下駄の音もこつこつと、彼女が橋本に近寄ってきた。
もはや橋本はこの事態を奇っ怪とも変だとも思わずに、ただただ成り行きのままに任せていた。

もう、どうしようもないほど女が彼に寄り添ってきた。橋本は実に無垢な気持ちでそれを受け止めることができた。自分でもまだこんな気持ちが残っていることを気付き、驚きながら。
彼女のまつ毛が合わさり、ぼおっと浮かんだ。その黒い線の一つ一つまでもが濃かった。
目を閉じたと同時に、女は彼の中に入り込むようにして倒れてきた。
彼はそれを予期していたかのように、体を支えた。
すると、彼女が持っている桜の匂いは思いのほか強く香り、橋本はそれに陶酔した。

2009/09/24(Thu)22:30:16 公開 / クーリエ
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■作者からのメッセージ

最期らへんを恋愛小説につながるような含みを付けてみました。
でも、連載はできません。これからどう発展させていけば良いか分からないからです。

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