『午後四時五十九分五十九秒が呼んでいる』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:SARA                

     あらすじ・作品紹介
昔、五時が来るからおうちへ帰ると言っていた。このセリフは、数年後屋上へと向けられた。主人公が日々の倦怠から抜け出して辿り着いた場所、「屋上」。そこで出会った男「タカ」。主人公は、「タカ」の屋上に居る理由が分からない。しかし、主人公は毎日屋上へ向かうようになり……。金子みすずの「みんなちがって、みんないい」というフレーズを一貫したテーマにして書きあげた作品。

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午後四時五十九分五十九秒が呼んでいる
            
 五時が来たからおうちに帰る。これが小学生の時の私の口癖だった。
 この言葉を口にする時、私のまぶたの裏には画面いっぱいの夕空が広がる。
 遠くで母親の呼ぶ声が聞こえ、時間が五時近くだということを知らせる。時間を忘れて遊んでいたせいか、母親の声はどこか耳に懐かしく聞えた。私は生返事をして、砂場で砂を積み上げ続ける。山の高さが、しゃがんだ自分の目線と同じ位になった時、背後で砂の擦れる音を聞いた。首だけで振りかえると、そこには遠くに居ると思っていた母親が、近くまで歩いてきていた。
「はやく、はやく」
 母親はそう言って私に帰宅をうながした。
「まだ五時が来ていないよ」
 私は母親の言葉を、一つ返事でかわして、再びスコップを手に取った。
 母親は、袋を重たそうに両手で持ち直しながら「もうおうちに帰ろうよ」と砂場にいる私に向かって再び催促した。それを聞いた私は、スコップを砂山の頂上にさして、渋々重い腰をあげた。ズボンについた砂を手で払い除けながら立ち上がる。そして少しよろけながら態勢を整え、思いきり両手を広げて伸びをする。
すると、オレンジが頭上いっぱい広がっているのだ。目まいを感じつつ見上げた空には、所々に白い雲を置き忘れながら、太陽から濃紺に向かってグラデーションしていく色のついた空間が張り付けになっている。五時を告げる鐘の音が、雲の切れ間から鳴り響いてくる。はじめは空の上のほうから。やがてその音はゆっくりと私の手元まで降りて来る。そしてしっかりとした存在感を保ちながら、私に一日の終わりを告げるのだ。


 それから何年か経って、私は高校三年生になった。
 その頃の私の生活は、散々なものだった。なぜなら、進学するはずだった付属大学の推薦を、高三になる直前で取り消されたからだ。今までろくに授業に参加せず、毎日ほっつき歩いてばかりいたので、当然の結果だった。未来の設計図を描き放したまま、現実から逃げ続けた私の前に立ちはだかった壁は、限りなく暗い色をしていた。そして、突然学校側からつきつけられた宣告に、親は狂ったように泣いて、半ば強制的に私を予備校へと収容した。
私の通う予備校は、JR御茶ノ水駅の改札を出て、所狭しに古本屋や楽器屋が並んでいる明治通りを真っ直ぐ歩き、十字路を曲がった所にあった。その建物は、朝早くから蛍光灯の光が漏れ、夜遅くに参考書を片手に持った制服姿の学生が、波の様に中から出てくる。そのため、周辺とは異なった存在感を放っていた。そして、私と同世代の人間が沢山詰まっていて、日夜戦うように勉強しているのだ。その雰囲気に徐々に慣れはしたが、私は親の苦労もかえりみず、夏ごろから授業をたびたび欠席する様になった。

 タカに会ったのは、夏休みに入る前のある日の事だった。
 その日も、私は授業に出ないで、階段の踊り場の隅にうずくまりIpodを聴いていた。白い機体に差し込んだプラグから黒い蟻の形をした安っぽい邦楽(洋楽は白い蟻、クラシックは赤い蟻が私の耳に音を運ぶ)が、耳奥の三半規管を刺激した。勿論、音量は最大で、その上ヘッドフォンを両手で耳に押さえつけていた。沢山の黒蟻が私の耳の中へ一列になって行進を始める。時々溢れ返った数匹の蟻は踊り場へ落ちて、壁に音を反響させながら出鱈目にステップを踏む。
私の頭が満杯になって、軽い陶酔感を感じた時、突然蟻達がぴたりと行進するのを止めた。ブツッと音を立てて白い機体は仕事を放りだした。私は、再生ボタンを強く押したり電源を一回切ったりして蟻達に再び行進を促した。しかし、蟻はキリギリスにでもなったかのように全く仕事をしようとしない。仕方なく私はヘッドフォンを取り外すと、ipodごと鞄の中へ投げ入れた。
 静かになった階段で小さく溜息をもらすと、息が壁中に反響して、下の階まで私の憂鬱さが届いていくような気がした。教室から教師が黒板にチョークの白を刻む音が絶えず聞こえてくる。その音は、蛾(が)の様に麟(りん)粉(ぷん)を撒き散らしながら、私の頭の周りを取り巻いた。私はその音を振り払おうとして頭を振った。それでも蛾(が)は執拗(しつよう)に私を追い立てた。「やめて」と声を上げそうになり、私は歯ぎしりをする。歯と歯の間で、拒絶がギリギリと音を立てて砕けてゆく。両手で強く耳を抑えると、蛾(が)は次第に数を減らして、どこかへ飛んで行ってしまった。
その時、私は小学生の時に見学した日光東照宮内の建物に埋まっている三匹の猿を思い出した。耳を押さえて「聞かざる」。それから眼を閉じて、「見ざる」。私のまぶたの裏にある、真っ暗な部屋の中で言葉を発するのは、白い機体に繋いだヘッドフォンだけだ。しかし、それさえも壊れてしまった私は、ついに「言わざる」になってしまった。汚いものは見たくないし、五月蠅い音は聞きたくない。そうやって外界からのアプローチを拒否している内に、私の言葉に誰も耳をかしてくれなくなってしまった。だからもう、何も言いたくないのだ。
 世界の外れで十七歳の私は、静かに自分の身体がサナギになっていく感覚を味わっていた。
 どのくらいその場にうずくまっていたのだろうか。ふと、顔を上げると踊り場の上の階に続く階段があることに気がついた。それまで、私はその場所に階段が存在することさえ気がつかなかった。つまり、私の目には上に上がっていく道は映らなかったのだ。
 私は「見ざる」ではなく「見えざる」になっていた事に、笑うことができなかった。
深く息を吸い込むと、埃っぽい空気が肺の中を満たす。ふと胸に手を当てると、自分でも分かるくらいに、心臓が高鳴っているのに気がついた。そうして、「聞かざる」になっていたはずの私は、自分の内から発せられる音で覚めてしまった。
胸の中にあった沢山の言葉にならない声があふれそうになった。私はそれらを抑えるようにして、唾をごくりと飲み込んだ。何かに呼ばれるようにして、荷物をその場に残したまま、一段目に足をかけた。踊り場から生えている灰色の段の積み重なった階段を上る。初めはゆっくりと慎重に。次第に足は軽々と登って行った。二段、三段、次へ次へ。 

 つつ、と頬に冷たいものが流れた。それが汗だと気がついた時、私は一つの扉の前に立っていた。
 その扉は灰色で、無表情だった。およそ自分には開け閉めされる以外に使い道はないのだと割り切っているように見えた。
 深呼吸をして、ドアノブに手をかける。ひやりとした金属の感触が手の平に伝わった。ノブはきれいにくるりと回った。 私は口内にたまった唾を飲み込んで、ゆっくりとその扉を押した。
開くことはないだろうと思って捻ったのだが、ドアはいとも簡単に押しあけられた。顔へ風が勢いよく吹きつけ、私の目の前に、四角い紺色の夜空が広がった。それは、ドアノブを捻らなかったら知ることのない世界だった。 
 世界なんて大仰そうな言い方をしたけれど、私にとって屋上というスペースは一種の異空間だった。終わりのみえない受験勉強や、同じことが繰り返される学校生活、それから私にはどうする事も出来ない現実味のないキャッチフレーズ達(それらは愛や平和という言葉だった)。それら全てから切り離された私にとっての特別な空間。
 そして私が生活する建物の中で、一番空に近い場所。
 それが、オクジョウ。

「家のことをおうちって呼んでいた頃が懐かしいよね」と、私は男に話しかける。しかし男は、ヘッドフォンをつけて音楽を聴いているせいか、私の声が聞こえないらしく、私の方を見向きもしない。今、私の隣に座っている男、通称「タカ」とはそのオクジョウで出会った。 
 タカは浪人生だ。
 前に突き出した顎に生えたざらざらとした髭(ひげ)。プリン状態になりつつある金色の髪は、ばさばさとしていてライオンのようだ。ちらりと覗(のぞ)く両耳には、金色のピアスが一つずつ耳たぶに埋まっている。一重まぶたの被った目に覇気はなく、口には強い匂いの立ち上るタバコがいつも咥(くわ)えられている。穴の空いた灰色のスウェットを履いていて、上には洗いざらしの色落ちしたTシャツを着ている。
 その日のタカは、黄緑色のTシャツの上にパーカーを羽織っていた。黄緑色を着たタカはとぼけたアマガエルみたいに見えた。私は、タカの頭からヘッドフォンを外して、尋ねた。
「ねえ、タカって何歳なの?」
「わかんね」とタカは即答した。
 この「わかんね」がタカの口癖だ。何を聞いても大抵「わかんね」という返事が返ってくる。一度、英語の問題集を開いて質問してみたが、一ページ目の最初の問題を三十分程考えて「わかんね」と答えたとき、タカはきっとこの予備校の守護神みたいなものなのだ、と私は確信した。
守護神タカ。タカがいるからこの予備校に居る人たちは安心して過ごしているのだ。
 タカがいるから、今日は勉強したくない
 タカがいるから、最下位にはならない
 タカがいるから、授業さぼるか
 タカがいるから、テストはいいや
 タカがいるから、もう寝てしまおう
 タカがいるから、今日も私は予備校に行く 

 カリカリした学内の雰囲気から抜け出して、予備校へ走る。がちゃがちゃと五月蝿く鞄の中でペンケースが音を立てる。首にかけたヘッドフォンから音楽が流れ出す。タンタンタン、と音を立てて私は階段を一段飛ばしにしながら上る。その時の私の革靴には羽が生えているに違いない。リレーの選手に一度もなったことがない私の全力疾走する唯一の機会だ。タンタンタンと、ヘッドフォンにあわせて私は口ずさむ。
 ようやく扉の前にたどり着く。息を整え、オクジョウの扉を開く。カバーから綿が飛び出しているボロ椅子に座ったタカが、タカタカタカと貧乏ゆすりをしている。風を押し込めるようにして、扉を閉める。すると、ちょうど五時になる。遠くの方から鐘の音が聴こえてくる。タカは椅子から立ち上がって、手すりに手をかけて空を眺めている。私はその隣で、鐘の音に耳を澄ませている。
 鐘の音が、途切れると、タカがぼそっと「わかんね」と呟く。
 それが、高校三年生になったわたしの日課だ。

 屋上にいる以外のタカを私は知らない。私の知っているタカは、元からそこにいたかのようにつねに屋上に居て、ぼおっとしている。
 タカは予備校に居る誰よりも参考書を開かないし、誰よりも問題集を解いていない。皆が自習室に引きこもって、カリカリシャーペンの音を鳴らしている間、タカは夕空を見上げて、私と一緒に鐘の音を聴く。
 それは、なんとも格好いい事のような気がするのだ。


「タカはみすずを知っている?」
 ヘッドフォンを鳴らして指でリズムをとっていたタカの動きが、一瞬ぴたりと止まった。柵によりかかった私の方をちらりと見て、また指をトントン鳴らし始める。
「あたし、あの『し』のくるっと反対になって、点々がついた文字のことを『じ』って読んで、金子みすじってずっと呼んでたんだ」
 タカが「みすじ」と呟いた。
「それで、この間本屋さんをうろついていたら、そこに「みすず」って旧字体でないので書いてあってさ。私、小学校のときからみすじ、みすじって読んでいて、皆がみすずって呼んでるのが可笑しくって、馬鹿にしていたんだ」
 タカが「みすず」と呟いた。
 風が吹いて、扉をガタガタと揺らした。
「でも、別にみすじだってみすずだって、そんなの本人は気にしないと思うんだよね」
 ふわりとめくあがりそうになるスカートを、両手で押さえて私は言った。タカは何も答えなかった。
 ふと、自分は今一体全体なにをしているのだろうかと考える。私は、受験生であり高校三年生で、親にお金を払って貰い学校や予備校に行っている。そして、何かに打ち込む訳でもなく、高校生活という時間はだらだらと私の頬をかすめては流れていく。
 高二のときのことだ。担任に呼び出されて「何か夢中になれるものはないの?」と聞かれた時に、私は何を答えて良いか分からなかった。今はもう覚えていないが「音楽鑑賞です」とか適当なことを言って、それ以上、担任に自分について踏み込ませないでおいたのだと思う。
 今、担任にその事を質問されたら私は一体なんと答えるのだろうか。そもそも、夢の中にいる気分になる位のめりこむものは、この世の中にはあるのだろうか?
 その答えも、現在模索中なのである。
 私は考えるのをやめて、再びタカに尋ねた。
「タカ、みすずの言葉はねえ、とってもいいのよ。なにか知っていたりする?」
 風がおさまり、私はスカートを押さえていた両手を解いて、前髪をいじり始めた。タカは少しだけ間を置いて「わかんね」と呟いた。
「鈴と、小鳥と、それからわたし。みんなちがって、みんないい」と私は少し得意になって言った。
「みんないい」とタカが少しだけ声を低くして、呟いた。
「みんないい」と私も繰り返した。
「こうやって、皆がみすじの歌をずっと口ずさんでいけば、それでいいと私は思う。そうすればみすずはずっと、皆の中で生きる。だって言葉は死なないもん。そうでしょう?」
タカは欠伸をして、目じりに涙を浮かべたまま「しらね」と呟いた。その姿は新しく言語を習得した猿人みたいに見えた。
 日が暮れる。オクジョウからしか見ることの出来ない一八〇度の空が、静かに夜の闇へとグラデーションしていく。遠くのほうで黒い羽を広げて、寂しそうにカラスが鳴く。下の階では守護神タカに守られた受験生たちが、懸命に勉強に励んでいる。タカはそんなことを知らずに、一つ小さなくしゃみをした。肌を貫くような冷たさを抱く乾いた空気が、屋上に満ちる。
 ああ、もうすぐ冬が来る。
 寒い寒い、冬が来る。

 
 タカと出会ってから、数カ月が経った。夏場はシャツ一枚で居たタカもセーターを着るようになり、私も制服が冬服へと変わった。雨はあまり降っておらず、空気は冷たく乾燥していた。そして私は相変わらず、オクジョウへ通い続けていた。
その日は久しぶりに朝から雨が降っていた。冬の雨は、私の肌を冷やしながら一日中降り続けていた。私はお気に入りの傘をさして、その日も五時丁度に屋上でタカと鐘の音を聴いていた。私は最近、音楽を聴かなくなった。今では、あのヘッドフォンは埃被って引き出しの奥にしまってある。
 オクジョウから帰宅したその日、私は母親と喧嘩をして家を飛び出した。
 その日返ってきた模試の成績表によると、私の成績は学校内順位で下から数えて二番目になったらしい。ついに母親の火山が噴火した。目くじらを立てた母は正直おっかないけれど、頭ごなしに叱られると私だって腹が立つ。将来やりたいこととか色々考えていて、今凄く悩んでいるのだからと、思ってもみない事を喚きちらし、ボストンバッグに財布とカードとしまってあったIpodを投げ入れて、私は家を飛び出した。
 そうして、自転車に乗って一人暮らしをしている同級生の家に転がり込んだ。同級生といっても、留年している男で私より三つ年上だった。その男は、どことなく雰囲気がタカに似ていた。
「おまえ、超なかなかやるじゃん」と日本語が崩壊しかけたクラスメイトは、げらげらと酒臭い口で笑った。
片手にビール缶を持った彼はいつもの数倍饒舌だった。彼は、頭の上から下までびしょぬれになった私に、タオルを投げてよこした。洗いすぎて色の落ちたその緑色のタオルは鼻を押し付けて嗅ぐと煙草の匂いがした。私の脳裏に、あの一重まぶたの顔がよぎった。
「お前も飲むー?」と勧められたビールを半ば奪い取るようにして貰う。タブをブシュッといい音をさせて開いた。黄色い液体を喉に一気に流し込む。炭酸がジュワアと胃の中で音を立てる。未成年なうえ、あまりお酒を飲むことに慣れていなかった私は、すぐに酔いが回ってきてしまった。
 私が振り回された猫みたいにぐにゃりとしていると、そのクラスメイトが腰に手を回して来た。私はなんだか楽しい気分になってきたぞう、と呟いてその手に生えている彼の指毛をちょんと摘んだ。なにすんだよーやめろよーいてー、とか言いながらその手は五本の足の蜘蛛のように徐々に上に上って来る。なんとかかんとかスパイダー、と私が機嫌良く歌うとクラスメイトは私の着ていたセーターに手をかけて、胸の辺りまでたくしあげた。
 やだーエッチー、とか言いながら笑っているとブラジャーもいつの間にか外された。私は半裸になって、その場で横になった。
 目をつぶり、私は顔にタオルをぐるぐる巻きにされてなされるがままに、されておいた。
 男は「気持ちいい?」と私に尋ねた。私は「みんないい」と適当に答えた。同級生が酒臭い口をして笑った。
 みんなちがって、みんないい。そうだ、そうなのだ。
 でも、今の私は何がみんなと違うのだろうか、と仰向けになりタバコの煙で汚れた天井を見ながらふと考えた。そもそも、私にとってのみんなって誰なのだろうか、とも。
 それってさあ、何か夢中になれる物はないの?ってきいた高二の時の担任と一緒だね、ともう一人の私が腹を抱えて笑った。
 男に抱かれながら、私は考える。みんなって誰、私って誰。天井が回転を始める。男の動きが速くなる。私の中も訳の分からないことになる。酒とタバコの匂いと緑のタオル。屋上、浪人、スウェット、金子みすず、タンタンタン。タカ。タカ。タカ。
「みんないい」と呟いた。鐘の音を聞いた気がした。

 
 翌日、クラスメイトに別れを告げた私は家に帰らず、すぐに予備校へ向かった。母親からの電話を無視して、携帯の電源を切り、鞄の中に放り込んだ。
 どうして予備校へ行こうと思ったのだろうか。あんなところに行って、何をしようというのだ、一日。
 朝から予備校に居るのは始めてだった。周りは浪人生ばかりでおっかない雰囲気が漂っていた。授業中の教室、居眠りしている人ばかりの自習室、予備校付属の食堂、やる気のない教務室、びりびりになった壁紙の廊下、あらゆる所へ私は足を運んだ。
 そして気がつくと、あらゆるところで私はタカの姿を探していた。無意識に。しかし、どこにも見当たらないので、私は途方に暮れて階段に座り込んだ。床は冷たくて、お尻がひやりとした。
 タカはやはり屋上にいるのだろうか。
 私は、屋上に向かうのが正直怖かった。あの時間の、あの姿以外のタカを見るのが怖かった。それ以上に、あの居心地の良い空間を失うのが怖かった。
 そう、私は午後四時五十九分五十九秒までのタカを知らない。
 あの「わかんね」と呟く横顔以外のタカについての情報を私は全く知らない。
 五時前にいっちゃえよ、ともう一人の自分が耳打ちする。
 好奇心と恐怖心が、私の中で戦争を始めた。
 バズーカ砲ようい、どーん。手榴弾ようい、ばーん。せっせと地雷うめるぞー。沢山殺すぞー。愛とか平和は糞くらえだ。受験なんかはもっと糞くらえだ。タンタンタン、タカ、タカ、タカ。そうして銃声が鳴り響いて、私は禁忌を犯す事を決意する。

 食堂で昼寝を続けて、午後四時五十分になった。私は屋上へ向かう階段を上がり始める。今日はスニーカーでゆっくりと上る。心臓がドクドク音を立てるのを久しぶりに耳にした。制服姿の高校生の姿も夕方になると増えて来て、わいわいと階段まで声が響いて来た。
 ふと、私は違うのだ、と呟いた。
 私は違う、みんなとは違う。
 みんないい、みんないい、みんな違って。

 屋上の扉のノブを回す。初めて来たときの様に、心臓が高鳴っているのが分かった。
でもその日、ノブは回らなかった。扉は開かれず、私はその場に立ちつくした。喉の奥に不安が押し寄せて来て、夢中になってノブを回そうとした。
扉を両手で叩いた。開かない。蹴りとばす、開かない。泣き叫ぶ、誰も聞いてない。
 突然、内側から扉が開いた。私は勢い余ってその場でつんのめった。倒れそうな所を、誰かが支えた。
「タカ……?」と私はその顔を見上げて言った。
 太い腕、灰色のスウェットには今日も穴が開いている。洗いざらしのTシャツの色は、ご機嫌なのかきれいなスカイブルーだ。
「よ」と、タカは言った。
 午後四時五十五分五十五秒、タカの現れる時間。

 その日のタカは今まで見た事がないくらい饒舌だった。しかし、彼も日本語が崩壊しかけているので、私は理解に苦しんだ。でも、だいたいの言っている事は分かった。簡単に言えば、こういう事だ。
 昔、タカの友人がこの屋上から飛び降りた。その友人とは、中学校までは仲が良かったが、二人は高校からは別々になり、顔をあわせなくなった。予備校で再会したが、その友人は勉強が良くできるクラスの連中に何かにつけて絡まれていた。タカはそれを横目で見ているだけだった。そして、二月のセンター試験当日に、その友人はこの屋上から飛び降りて死んでしまったのだ。
 よくありそうな話だな、と私は思い、そのまま思った事をタカに告げた。タカは無言で頷いた。そしてタカは椅子に腰掛けると、目をつむった。
 黙祷。これが、私の見たかった五時前の彼の姿だ。
 風が吹いて、タカが口にくわえた煙草の煙を遠くに運んでいく。
 私も目をつむってみる。そして、屋上から飛び降りようと身構える勉強に疲れた男の姿を想像する。
「今日、なんで内側から鍵かけたの」と私は目を瞑りながら尋ねた。すると、すこし間を置いて上の方から低い声が降って来た。
「俺、毎日、飛ぶ。飛ぶ。飛ぶ。でも、飛べない。アイツは飛べたのに」
 私は薄く目を開いて、時間を確かめた。四時五十九分。そういえば、明日はセンター試験当日だ。ああ、もう何にも勉強していないや。風が吹いて、肩を震わせるとふと温かいものが手を覆った。タカの手、その中指にはひび割れたペンダコが張り付いていた。私はその勲章のようなペンダコを人差し指で撫でて、尋ねた
「どうしてタカは飛べないの」
 すると、タカは答えた。
「……五時が、くるよ」
 五十八、五十九、零。秒針が十二の位置に来て、架空の私が屋上に飛び込んで来る。
 五時の鐘が鳴り始める。
 タカは黙祷をやめると同時に、その日も飛ぶのをやめるのだ。そうしておうちに帰るのだ。
「五時が来たからおうちにかえる」と私は心の中で呟いた。
「みんないい」とタカが言った。
 鐘が鳴り響く。風が吹く。あの日開いた扉の向こう側には、やはり、すばらしい世界が広がっていた。

「ねえ、タカ。飛んだらどこに行くの」と私はタカの手を握りしめて、尋ねた。
 風向きが変わって、煙が私の方へ流れて来る。私は咳き込んでタカの答えるのを待った。鐘の音が余韻を残して終わると、タカは煙を口からゆっくりと吐いて「わかんね」と呟いた。     



2009/09/22(Tue)19:52:44 公開 / SARA
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■作者からのメッセージ
私の受験期に、このタイトルと、最初の文章が降ってきた。
ほとんど、この作品は自分自身を投影した作品と言ってもいい。
単純に、一年後、にある受験が大切で、けれどなんとかしてそのやってくるものから逃げようとしていた、あの頃。それがなかったら、これは生まれていなかったと思う。
「闇雲」「無我夢中」からの「逃避」。それは、案外楽だったけれど、つねに首を締め付ける両刃の剣のようなものだったんですね。

あとがき編集のやり方が、分からなかったので、一度消して、再度投稿しました。
コメントをなさった方のものは、消えてしまったため、全てこちらで保管いたしました。

登竜門へは、初めての投稿で緊張しています。
最初の投稿であとがきに「感想を切実に求める」云々と、書きつけたためにご指摘をいただきました。そのため、もう一度、書きたいと思います。

自分は、今、書いていることに自信が持てません。
自己満足では終わらせたくなく、他人の目に曝されて、初めて作品が生きるものだと思っております。なので、文章表現、技巧、文法……etcなど、推敲出来る点がありましたら、すぐにご指摘いただくと、嬉しい限りです。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。