『落チルコトナカレ』 ... ジャンル:恋愛小説 未分類
作者:のりこ                

     あらすじ・作品紹介
  あらすじ 矢崎が自分に興味もないことを知っていながらもヒカルは傍にいたいと思う。 自分はわざと手軽な女を装いながら、矢崎の偽りの愛だけをもらう。 彼は優しくないし、返事も短い。彼の感情も知らない。 ただ知っていくのは自分を愛していないという事実だけ。 そういう日々を繰り返す中で段々自分自身が麻痺していく。 そんな中、矢崎の想い人が現れて‥。   

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 第一話 シングルストーリー

矢崎は無口な男だ。私はそれを利用する。彼が口を切りそうになった時途端に私は饒舌になる。隙を与えてはいけない。私のことを好きじゃないなんて絶対に言わせない。最後に笑うのは私でなきゃいけないんだ。そして矢崎は不器用な男でもある。私はそれに付け入る。彼が自分の本音をなかなか言い出せない優柔不断な性格だと知っているからわざと極上の笑顔を用意する。私はそんな風に矢崎とうまく付き合ってもうかれこれ1年になる。だけど矢崎はちっとも変わろうとしない。そえなのに最近気にしなくなったのは、それほど私の中に矢崎が存在しているからだろうか。
 ついこの間まで冬だったなんて言えない程暑苦しい日々が続く初春は、彼を青年に変える。無地のTチャツにストレートジーンズ、そして履き振るしのサンダルというオールドファッションを何の迷いもなく着こなす彼に最初は戸惑いを感じていた。近づくつと微かにフローラルの香りがするからちゃんと洗濯はしているんだろうけど、ちゃんと伸ばして干さなかったんだろう。皺だらけだ。ジーンズも面倒くさくなって裾を切らなかったんだろう。女の子が意識して履いているスキニージーンズと大差ない状態になっている。だぼだぼしているから歩きにくいらしく、足を引きずるようにして歩いている。それに寝ぐせのついた髪。地毛がストレートなだけに悪目立ちしている。そんなこんなをちっとも気にしないのは、彼が人の目を気にするような性格じゃないからだ。そのだらしなさとあどけなさが犬みたいで愛くるしい。サンダルと野暮ったい服装の間から彼のごつごつした大きな足が見える。こんなものにまで愛情を感じてしまうようになったんだなぁと見つめながら自分に感心した。
 矢崎は私の気持なんか少しも理解できないだろう。矢崎は私の歩数に合わせずさっさと自分のペースで歩いて行ってしまう。大学に行くのに鞄も持たず、財布をジーンズの後ろポケットに押し込み、左手に薄手の文献とノートを抱えている。ノートはサイズの揃わないプリント類が何枚も挿み込まれてあってファイル状態になっている。
 「ねぇ、矢崎春になったことだし何処か行こうよ」
 私は数歩先を行く矢崎の足を止めたくてそう言った。矢崎は案の定、足を止め、顔だけ振り返った。彼は怠そうな目をしている。
「春はポカポカしてるから昼寝に最適だよ」と、ポカポカなんて顔に合いもしない言葉で可愛く私をあしらってまた歩き始める。
「よく言う。冬は寒いからこたつがいいとか、夏は暑いからクーラーの下が一番だよとか言うくせに」
 私はわざと声を張り上げた。でも、口を尖らせたところで彼は私に興味がないから意味がない。この一年間少しでも矢崎との深い関係が欲しくてどうやってデートに誘おうか執念深く考えた。断られるのをわかっていたからどんな言い分にも負けないように用意周到に対策を練った。だけどやっとデートの約束が取れたと思ったら、その日に矢崎は来なかった。巷ではドタキャンって言うけど、ドタバタキャンセルなんて可愛らしい言い回しをするものじゃない。もともと行く気がなかったのだからもっと質が悪い。そこで私は確信した。どんなに機転を利かせても無駄だなんだと。年に一度もデートをしないカップルなんて本当にカップルと言えるのかなと思いかけたが、思わないことにした。
 私は矢崎の傍にいられればいい。
「それじゃ、オレは理系館に行くけど他に何か用事ある?」
 気付いたらだいぶ先まで歩いていた矢崎が理系館を指さして私の方へ向きなおしていた。日差しが眩しくて彼がどんな顔を向けているのかわからない。でも大体予想はついている。
 私の大学は理系と文系によって建物が二分割されている。それぞれ建物の名前があったけど、馴染みが薄く私達はそれぞれ理系館、文系館と呼んでいる。矢崎は建築学部だから理系館で私は文学部の文系館だ。だから私達は大学は一緒でも学館が違うから滅多に逢うことがない。面倒な私に会わないことが矢崎の唯一の救いなんだろうと思う。
 私は視線を落として首を横に振ると矢崎は無表情で「わかった」と言い、そのまま理系館の方へ足を運んだ。理系館に吸い込まれていくように颯爽と入っていく彼の背中を見送って文系館に向かった。
 文学部は別名、女学部と言う。私が属する文学部は大方女性の生徒が占めているのでそう呼ばれている。はみ出しものの男子がそう呼び出してからその名前が定着した。女だらけの教室はツバメの巣状態だ。雛がピーピー鳴いているし人の多さでごった返しになっている。その中に美代がいた。彼女は私に気付くと席から立って手を振り私に合図を送る。
「おはよう、ヒカル」
彼女の隣席に荷物を置くや否や彼女が発言した。私は名前が宇多田ヒカルと同じ名前だからという理由でもっぱら皆にヒカルと呼ばれている。だけど私は彼女のように煌びやかな光じゃなくて、新島光(にいじまひかる)というぼやけて冴えない光の方だ。
「おはよう、美代」とスカーフを取りながら私は言った。
「また矢崎追っかけてたの?」
私が鼻息でフンとすると「やっぱりね」と彼女は頬杖を立てて私を見た。
「なんかアイドルを追っかけまわすファンみたいね」
彼女の声に溜め息が混じる。私はドサッと椅子に腰を据えて、無造作に鞄を広げてペットボトルを探した。ペットボトルのお茶を一気に食道の中に流し込むと美代の顔を直視した。
当たっているから言い返す言葉もない。
「確かにファンみたいなもんね……。でもライバルがいないよ。敵は本能寺にあり!というように唯一のライバルは矢崎本人かな」
私もそう言いながら顔を美代の方に向けながら頬杖をついた。美代も相槌をうつ。
「1年も傍にいるのにあいつは優しくならない」
「生まれつき優しくないんじゃないの?」
 美代は自分の爪をまじまじと見つめながら言いきった。
「……わからない。彼は基本、人に興味がないの。別れる際に振り向いてもくれない。ただ私が付き纏うから嫌だって言えなくて仕方なく傍にいるだけなの」
 自分で言ってて心が啄ばまれる程虚しいことはない。なんだか美代の目を見ていられなくなって黒板の方へ向き直しペットボトルの蓋の上に顎を置いて顔を固定させた。これで美代もそんなに深く取らないだろうと思った。
「毎回言うようで悪いけどさ、それってカップルって言えるの?」
 美代は目を細めて訝しげな視線を送ってきた。
 痛いところをまた突かれた、と私は気を重くした。
「自覚はしてるよ、矢崎には何の意味も持たない関係だって。だけど、こうでもしないと一緒にいられないから」
 一緒にいられないからという言葉に胸が痛む。まるで深い海の底に沈んでいくように暗い影が私の中に出現しては落ちていく。塵も積もれば山となるように、私の気持ちはどんどん山となって大きくなっていって気付いたら取り返しのつかないことになっている。
「今日も夜あいつの家に行くんでしょう? 二人の時間を楽しみな」
 美代が私を明るい気持ちにさせようと思って気を遣っているのがすぐにわかった。彼女も矢崎と同じで焦った時や困った時はすぐに顔にでる質だから。
「恋は活力よ。いつか矢崎も振り向いてくれるわ」
 お人好しな美代は屈託ない笑顔をつくって私の背中をポンと押してくれた。私はこういう時そんな彼女がたまらなく好きだといつも思った。

 矢崎はいつも7時ごろに学校から帰ってくる。私はそれに見合わせて自分の家でおかずを簡単に下ごしらえをしてほぼ毎日彼の家に向かう。さすがに彼の借りているアパートに引越しするのはストーカーみたいで嫌だったから、無理矢理彼に合鍵をつくることを承諾させた。彼が玄関の扉を開けた時、私は新妻のようにテーブルにご飯を用意して笑顔で出迎えるというのが私の算段だ。
 だけど今日は違っていた。下ごしらえしたおかずをいつものようにタッパーに入れて持ってきた私を矢崎が出迎えてくれた。扉を開けてくれた彼に「今日は早く研究終わったの?」と私が聞くと彼はそのままデスクに向かいながら「まあね」と言った。
 私は靴を悠長に脱ぎ捨てると、彼はすでに椅子に座ってデスクに着いていた。私の吐息が口元で小さく萎縮するのがわかった。
「夕食何がいいかな?」
 会話を探して聞いてみたけど、夕飯はすっかり下ごしらえをしている。でも、返事はもう見当がついていた。「何でも」だ。そして「そう」と私は返す。いつものやりとりだ。
 矢崎は大抵デスクに向かって何かの構図を書いている。学校だけでは飽き足らず家に帰っても図面をまるで食い入るかのように見ている。もうすっかり職業病だ。
 炊飯器の炊飯のボタンを押した際に、美代ちゃんの言葉をふと思い出した。それってカップルって言えるの?といった美代ちゃんの相手を射るような瞳が頭に浮かんだ。その瞬間頭の中で何かがはじけるような音がした。たまらなく矢崎が欲しいという欲求が生まれた。心で感じられないなら体で矢崎の全てを感じたい。
 何かが私に憑依すると、私はまるでチーターのように瞳がギラギラする。どんな暗闇でもどんなに速く逃げる獲物でも見逃さない。私は火を止めて構図を書く彼の背後からそっと矢崎を抱きしめた。
「新島、何? 急に」
 彼は一瞬びくついて少し前かがみになった。それでも私は彼を逃がそうとせず、無理矢理ペンを彼から取って彼の懐に入った。
「……キスしよっか」
 私は彼のシャツのボタンを外しながら、彼の口を塞いだ。乾いた唇の感触に心を奮わせ、抵抗を放棄した彼を優しく包み込むようにまた深いキスをした。彼が受け入れの体勢をつくると雪崩のようにベッドに流れ込んだ。
 彼が上になる時が至福の悦びの時だ。彼が私を征服しようとしているような錯覚に陥ることができる。彼が私を欲してくれる。「好きだよ、新島」と嘘でも言ってくれる。
 情けない話だけど私はこの時だけが本当の私になれた。自分のことをただ男に愛される女なんだと意識できる。矢崎がまるで割れ物を扱うように私を包み込んだ時、ただの男と女になれる。この広い世界の中で生き物が二つ小さく寄り添っているんだと思うとホッとする。
「新島はいつもし終わった後、優しい顔になるね」
愛された後の余韻を噛みしめていると、彼はベッドから起き上がってTシャツに頭を突っ込んでいた。
「私はいつも優しい顔してるよ」とねじけると、「そうだったね」と彼は含み笑いをした。
そして彼はズボンを履くと続けざまにこう言った。
「しかもした後はいつも嵐が去ったように静かになる。新島も女の子だね」
 からかわれて何だか無性に恥ずかしくなって掛け布団に顔を埋めた。
「ねえ、矢崎。図面もいいけど、少し休憩にして話そう」
 またデスクの方へ行こうとする矢崎の広い背中にそう言うと、彼はベッドに戻ってきて布団の上に寝転び、隣にいる私を見た。
「ほかに何か話すことでもあるの?」
 隙を見せない彼の視線がしっかりと私を捉えている。特に話す内容がないのなら話す必要はないと彼は思っているのね。話題を考えて人と話してきたわけじゃない私は聞き返されて眉間に皺を寄せた。
 矢崎はそんなつもりじゃないんだろうけどよく冷たい空気を発している。他人を一切寄り付けないような表情を作る。この人は何故愛されることを拒むんだろう。人を見据えたように、そしてガラス玉のように透き通った目をしている。そこに温度を感じられない。さっきまで人を愛したような表情ではない。私はこういう表情をされた時、身震いをする。体の真髄を掴まれたように悪寒が走る。
 話す言葉がなくちゃ話したらダメなの?と私は言えない。彼に嫌われたくないという気持ちと、さらに冷えた空気を二人の間で漂わせるのは嫌だという気持ちの半々だった。
「……話すことは特にないよ。ただ矢崎が机にずっとしがみついているから、たまにはのんびりしたらいいのにって思って」
 苦し紛れに言葉を羅列した。矢崎の身体の心配よりも私に構って欲しいという気持ちが大きかった。素直に言ったところで面倒がられるのはわかっている。
「じゃ、ご飯にしよう」
 矢崎はのそっと起き上がって、私を置いたままさっさとテーブルに向かった。そして食器棚から自分の分の箸を取ると、座るついでにテレビをつけた。私はふと今日が火曜日だったことを思いだした。その刹那に矢崎が早く家に帰ってきた理由がわかった。今日は矢崎の大好きなテレビ番組がある日だ。矢崎は世界旅行番組が好きだ。といっても世界を旅して回りレポートする女アイドルには目もくれず街の風景やヨーロッパなどの中世的な建物を眺め見るのが彼の楽しみなのだ。最初の内は私も快く一緒に観て「綺麗だね」とか「行ってみたいね」と矢崎に声を掛けていたが、矢崎はすっかりテレビにのめりこんでいて私など眼中にもないことがわかってつまらなくなった。
 私は持ってきたおかずをレンジに掛け、食器に盛り何も言わずにテーブルに置いた。そして自分も矢崎の隣に座り黙々と食べ物を口に運んだ。矢崎の真剣な顔を横見するのをあほらしいと思い、食べ物だけに集中してさっさと食事を終えた。矢崎がこうなってしまうと我を忘れてしまっているからここに居続けても、私は矢崎にとって道端の石ころのように無意味な存在だ。私は食べ終わった食器をスポンジで擦るように入念に洗いながらフッと笑った。矢崎が何かに夢中になっていなくても、私に何らかの意味を持っているんだろうかと自問したからだ。
 これ以上深く考えたらきっと私は潰れると思ったから気持ちをシャットアウトした。私は何かにつけてこの蟠りをフラッシュバックさせては自分が耐え切れなくなる前にシャットアウトする。矢崎の前では無になろうといつのまにかそうしてきたのに、ふいに人間の弱さがよみがえってくる。
 矢崎はTVに映し出される鮮やかな彩色の街並みを一つ一つ目でなぞるかのように自分の中でインプットしている。食べるのを忘れて、矢崎は茶碗と箸を片手に持ったまま意識はすべて飛んでしまっている。まるで矢崎の周りの時間が止まってしまったみたいだ。きっと私がご飯を食べ終わったことや食器を全て洗って食器棚にしまったことにも気付いていないんだろう。
 私は等身大の冷蔵庫に立ったまま寄り掛かって、目を開ききっている矢崎を見つめた。自分の大切にしてきたものを見守るようにまた頼りない目で座っている矢崎を見下ろした。段々と矢崎の輪郭がぼやけてきて、心苦しくなる。近くにいるようでやっぱり遠い。近づこうともがいても波に押し戻されるように少しずつ遠くなっていく。どうしても傍にいけない。心が通わない。別の次元に生きているみたいに私達の間は分断されている。見えない空気の壁がそこにある。
 CMになると矢崎はやっと我に帰って私が座っていた方を一瞥してから私を探すように当たりを見回して私を見つけるとようやくご飯を口に運びだした。すっかり冷えてしまったご飯はあまり美味しくないらしい。
「もう食べ終わったの? 早いね」
 矢崎は奥歯でしっかり噛みながら微笑む。私は暫く返答もしないでその様子を呆然と見た。
「……私、課題やらなくちゃいけないからもう帰るね」
 そう言って、玄関口付近に置いてあった鞄の中から携帯の画面をチェックする素振りを見せた。時間を確認しているようで、私は私らしくない期待をする。そんなしようのない期待をしても無駄だってこと、十分にわかっているのに……。
「そう。それじゃぁ、バイバイ」
 背中に突き刺さる言葉に傷みを感じながら、頑張って立ち上がると背を向けたまま私は靴に足を滑り込ませた。そして乱暴に鞄を引っ掴むと「じゃあね」と呟いて振り返りもせずに玄関の扉をくぐった。
 扉から一歩出た瞬間に突風が髪を蹴散らした。髪が簾のように顔に落ちてきて、余計に惨めさを感じた。私は矢崎の部屋を出る時はいつも自暴自棄に陥っている。矢崎の家に向かう時は晴れ渡った春空みたいに朗らかな気分になって、思わずにやけてしまうほど快い気分なのに、帰る時にはいつも遣る瀬無い。
 矢崎の住むアパートは以前リフォームした。元々大家の住まいであった一戸建ての家を二階だけリフォームし、階段をつけた。一階は昔ながらの木造住宅の要素がそのまま生かされ、その上にコンクリートで造られたモダン風な二階が乗っかるようにある。この継ぎはぎしたような建物を矢崎はやたらと褒めていた。私のような一般人からすれば水と油のように相容れないものが食い違っている矛盾さが拭いきれないが、矢崎は昔と現代が入り混じった素敵な建築物だと賞賛し彼はこのアパートに決めた。
 今思えば、私と矢崎の感性が合ったことがない。趣味も合わないし、好きな物も合わない。というよりも、彼のことを何も知らない。一年間傍にいて彼の感情すら見たことがない。私が見てきた矢崎が本当の彼なのかも知らない。
 改築したわりには故意に古く錆びた鉄板で作られた階段は人一人が下りるだけで鈍い音を立てる。ぼんやりと自分の足元を見下ろしながら、私の遠ざかっていく足音を矢崎は聞いているかなと考えた。そしてすぐに思い直した。きっとまだTVをまじまじと見続けているに違いないから私の足音に気を留めたりしないだろう。そういう私の期待には彼は必ず応えてきた、私を引きとめてくれるんじゃないかという肝心の期待には一度も応えてくれなかったのに……。
 胸を啄ばむ息苦しさから逃れるために大きく息を吸った。澄んだ夜の空気が美味しい。心をリフレッシュしてくれる。私が矢崎の部屋に居る間に急雨が降ったみたいで風が少し湿気を含んでいる。立春の風はまだまだ冬の匂いがして少し冷たい。頬を撫でるように通り過ぎていく春風は柔らかくまるで私を慰めているようだった。こういう時私はどうしようもなくしっとりした曲を聴きたくなる。素直に悲しめない私はいつも何か感情を引き立てるきっかけが欲しかった。食べ物が抜けて軽くなった鞄は私の心情をよく表していた。心にある空洞をどうやって埋めればいいのかわからない。
体を小刻みに揺らしまるで酔っ払いのように歩いていると気づいたらもう家の門のところまで来ていた。
私は矢崎と違って実家から大学へ通っている。矢崎は北海道出身だからやむを得ず一人暮らしをしているが、私は地元から通える大学を選んだこともあって一人暮らしを許してもらえなかった。だから、限られた時間の中でしか矢崎に会いに行けないけど私はそれでも十分に満足しているんだ。この家には特別な思い入れがある。
 ある日矢崎が何食わぬ顔でふいと出した言葉がある。―――家は住人を無くしてもその人のことを記憶している。ちゃんと思い出がそこにあってまた帰ろうとする人を温かく出迎えてくれる―――私の祖父はこよなく旧家を愛した人だった。祖父はまだ私が物心がつかない頃から家の自慢をよくしていた。年寄の割にはがたいのいい身体だったからか、幼心に恐怖を感じていた。実際には子供に手をあげるような人ではなくおっとりしていて優しく私を抱きかかえていたと母から聞いている。そんな祖父が唯一屈託ない笑顔で鼻を掻きながら私によくした話が旧家の話だった。明治元年からそこにひっそりと佇んでいたその家は第二次世界大戦の東京空襲にも倒れなかったんだぞ、と育ってきた家を愛おしんでいた。確かに近辺の軒並みを見渡しても見当たらないくらい古くくたびれた家だったけど、あまりにもおじいちゃんが嬉しそうに言うので自然に私も愛着をもった。だけど祖父が死ん主の失った家は寂れて父は迷いながら壊すことを決意した。両親が気にするだろうから私は精いっぱいの笑顔を作って賛成した。いつ倒れてもおかしくなかったから仕方がなかったのはちゃんと理解していた。
 しかし祖父と愛した家を失った私はしばらくの間抜け殻状態だった。家では笑っているせいか学校では気づかぬうちに伏し目がちになってくる。まだ矢崎と知り合って間もない時にふいとそんな話をもらした。その時の私は矢崎をいい加減にしか捉えていなかったし大して気にも留めていなかった。でも不意打ちだった。いつも表情の変わらない矢崎が意外な程心配して私の顔を何度も覗き込んできた。彼の瞳がウサギの円らな瞳に見えた。そして言ってくれた。家は住人を無くしたとしてもちゃんとそこに思い出は刻まれるはずだ、と。喋り慣れていない矢崎が一つ一つ言葉を探り出しながら必死に声に出していたのが私の胸をついた。そして私の中で何かがプツンと弾けて大粒の涙が出た。本当にほろほろと言わんばかりに涙がどんどん出て矢崎は指の腹で擦ってくれた。私は涙で歪んでしまった矢崎の顔をじっと見つめながらこの人が愛しいと強く思った。
 矢崎との唯一のいい思い出かもしれないけど、思い出すたびに自分の気持ちを再確認してしまう。祖父つながりで大切な人ができた喜びが何度も蘇ってくる。自然と私の頬が緩む。
 門戸を押して鍵を閉めていると庭の方で光が揺れるのが見えた。どうやら台所でまだ誰かが起きているらしい。11時になると両親はさっさと床に就いてしまうからきっと姉だろう。
 玄関の扉を引くと暗い廊下の向こうで台所の蛍光灯の光が青白く灯っている。その下で薄暗い影が動いている。
「あら、おかえり。随分遅かったのね」
 お風呂上がりなのか首回りにタオルを巻いている。少し大き目のピンク柄のパジャマに湿った髪がたわわに広がっている。地毛が癖毛だから緩やかに波打って胸元に落ち、すごく艶々しい。姉はちょうどミルクをカップに注いで飲もうとしているところだった。
「うん。電車乗らずに一時間半も歩いちゃった。痩せるかも」
 テーブルに鞄をドサッと置き中から空の弁当箱を抜き取るとすぐに流し台に浸けた。姉は私の一連の動作を見送りながらテーブルに腰をかけて足を組んだ。
「あんた、またあの矢崎って男に会ってたの? お母さんあんたが夜遅くまで入り浸ってるみたいだって心配してたよ。あんまり心配かけるもんじゃないよ?」
 背を向けて弁当箱を洗う私の背に向かって姉は柔らかく言う。
「うん。わかってる。……お姉ちゃんこそ残業のしすぎなんじゃない? さっき帰ってきたんでしょう? 体もたないよ」
 人に優しい言葉をかける時、大概私は視線を逸らす。面と向かって素直に優しい言葉をかけられない。
「今ね、ノリに乗ってるのよ。もうすぐマネージャー任されるかも」
 姉は得意気にコップを高く持ち上げながらふふんと鼻で笑った。そして口の中にミルクを注ぐの喉仏でゴキュッと鈍い音をたてた。そこらへんのオヤジのように唸ると口元についたミルクを手の甲で入念に拭い取った。振り返って一部始終を見守る私に姉は歯を見せながら微笑んだ。化粧をしているとバリバリ働くキャリアウーマンのようにきまっているのに、化粧が取れると眉毛を半分剃った女子高生みたいに幼い。無邪気な姉は可愛い。
「すごいじゃない。お姉ちゃんが美容師になるって言い始めた時は本気なのかなって思ってたけど、さすがだね。お姉ちゃんは世渡り上手だから」
 まるで自分が年上のような目線で私は切り返した。そして洗い終わった弁当箱を皿たてに立てて手を拭いた。
 本当は姉が美容師希望じゃなかったことを知っている。姉は専門学校に行く気はさらさらなかったはずだ。かつて姉は教師を志望していた。国立の大学へ行く程優秀だった姉は私よりも大学進学を臨むべきだったんだ。家の再建に意外と資金がかかった為両親が私たち二人に打ち明けたのは、どちらか一人しか大学へ行かせることができないということだった。それを聞いて姉は私に相談することもなく専門学校行きを決め、私が気付いた時には入学願書を出した後だった。将来の夢もキャリアビジョンもない私を大学に行かせることもなかったのに、と私はいつも姉に後ろめたい。結局今でも「ありがとう」「ごめんね」の言葉を姉に言えないまま過ごしている。
 姉に何と声をかければいいのかわからない。ただ姉は私より決断力があり、さっさと自分の道を切り開いていくものだから自分の無力さとなぜ自分が大学へ進学したのかという矛盾が頭の中でぐるぐる回っている。
 姉は空になったコップを両手で抱えぼうっと眺めた。
「まさか私も美容師になれるとは思っていなかったけど、荒れた手を見ると頑張って生きてるんだなって実感するの。仕事ってそういうものかもしれないね」
 誇りそうに笑うその向こうに何か寂しさを感じた。忘れかけていた自分の感情を懐かしんでいるんだろうか。そんなことを考えていると姉は目を閉じながら少年時代を歌い始めた。姉は急に思い立って突然歌いだす。大方歌うのがこの少年時代で、夢は想いでの後先というフレーズの後自然と声はかき消える。そういえば井上陽水はよく祖父が歌っていたから家族に特に子供たちには馴染んでしまったんだろう。大体どこの家庭にも歌われてきた歌がある。我が家では祖父がよく口ずさんでいた井上陽水の曲と、父が歌うサザンオールスターズの曲だ。古びた歌はその分味がある。切なさの向こうにある苦さと失った時に感じる愛しさなどは、大人の特権みたいでドキドキする。
 キーを少し上げて歌う少年時代は少し緑々としていてなんだかくすぐったい。私も飛び入りで入って姉と視線を交わしながら歌う。友達とカラオケで歌うよりほんのちょっとだけ特別な感情が交じる。
「お姉ちゃんは少女時代に戻って何かやり直したいこととかある?」
「ん? 少女時代に? そうねぇ……」
 コップをテーブルに置いて縁を中指でなぞりながら考えているみたいだった。ずっと立ちっぱなしだった私は腰が痛くなって姉の隣の椅子にゆっくりと腰を据えた。
「ひとつだけあるわ。やり直したいというよりやり残したことがある」
 段々視線を落として回想する姉の表情を見て私はなんだか乗り気になった。
「えっ、何なに?」
「内緒!」と姉は少し大きな声で言うとすくっと立ちあがってテーブル上にあった牛乳パックの口を閉めて冷蔵庫に入れた。そして「もう寝るわ」と口角を上げて小さく笑った。
「えぇ! 聞きたいのにー」
 頬をわざと膨らませてわざといじけて見せると、姉は微笑を続けながら台所を出て行った。
                          
                             *

 生きる意味って何だろう。私はどうして生きているんだろう。何の目的があって生かされているんだろう。たまに生きること自体がちっぽけに思えてくる。実は私はここにいないんじゃないかと自分に問いかける。そう思えてしまうのは一体何故なんだろう。
 朝起きると時計の針は1時半を指していた。低血圧のせいで数十分布団に包まりながら現実と夢の境を行き来した。抱き枕のように布団にしがみつき、片方の目を頑張って開いて本立の上にある目覚まし時計を何度も布団の間から垣間見た。眠りから覚めた体はお風呂あがりのように火照っている。背中や脇の周辺で汗がじっとりと下着が皮膚に張り付いている。そろそろ衣替えをしなくちゃなと呑気に考えた。火曜日は三時間目から授業があるというのに、もう終了の時刻だ。四時間目には間に合いそうにない。罪悪感とかったるさが喉元で入り混じる。
 私の部屋は新築から数年しか建っていないのに年季がこもっている。たぶんそれは旧家からあった家具や雑貨類をそのまま使用したからだ。積りに積った思い入れが深すぎてなんだか圧迫感さえ感じられた。剝げてきたカーテンの隙間から午後の強くて眩しい陽射しが差し込んでいる。寝返りを打つのをやめてぼんやり眺めていると糸ぼこりが舞っていて綺麗だなと思った。目が開いてしまった。起きなくちゃいけない。
 重い体を手で支えながら起こした。姿鏡がだるそうな私の全てを映している。起きたばかりで剝れた顔。剛毛、癖毛、さらに纏まりのない毛と良いことなしの私の髪。薄い眉毛に腫れぼったい奥二重にだんご鼻。全体的に彫りの浅い顔。決して美人とは言えないただの印象の薄い顔を持つ私はなんてとるにたりない存在なんだろう。きっと渋谷なんかにいると人に埋もれてそのまま消えてしまったっておかしくない人間だ。そんな私を平気で抱く矢崎はもっと簡素な生き物だ。
 部屋を後にして一階の台所へ向かった。姉の部屋を通る時に一階から包丁の音が聞こえてきた。単調なリズムで野菜を切っている音は家庭的で微笑ましい。母がちょうどお昼を作っているころなんだろう、頭の中でイメージがつく。影が落ちた階段を軽やかに降り、台所の暖簾からひょっこり顔を出した。
「遅いお目覚めね。夜更かしするからそんなことになるのよ、早く帰って来れないんだったら門限つくるからね」
 お母さんは鋭い目で私を一瞥してからまた包丁で切り始めた。あのシャキシャキと歯切れのいい音はきゅうりを切っている音だった。
「やだ、そんな高校生みたいに言わないでよ。もう大学二年なのよ。大学生の醍醐味は夜遊びなんだから」
「自信満々に何言ってるの! まだ未成年のくせに。扶養される者の言うことじゃないわ」
 私の言い分を撥ね退けて母はサラダをガラス食器に綺麗に盛り付けた。
「わかったわよ、ちゃんと早く帰ってくるから。そうカリカリしないで」
 食器棚の下の戸棚から二人分のランチョンマットを出し、ついでにお箸も取った。テーブルには朝の内に庭で摘んできたんだろう桜草が小さな花瓶に挿してあった。甚だしくなく、かすかに薄ピンク色のその花は子供のように幼くて健気だ。まだ蕾のものもある。きっと枯れる前に母は押し花にするつもりなんだ。
 今日のお昼ご飯はイカの入ったトマト風パスタとサラダだ。朝ごはんを抜いてしまったからお腹と背中がくっついてしまいそう。減りすぎて逆に気分が悪いぐらいだ。
「どう? おいしいでしょ」
 口に入れた途端に母に聞かれて急いで味と噛み心地を確かめた。なかなかいける。どの食材の味も生かされていて美味しい。イカも柔らかく申し分ない。
「料理教室で習ったレシピで作ったの?」
「そうよ。なかなかいけるでしょ。サラダのドレッシングも自家製よ」
 母は自慢げに咲笑う。まるで100点をもらって我が物顔で見せてくる小学生みたいに。
「うん、おいしいよ」
 本当に美味しいけどあまり感情を込めずに言った。私の頭は授業のことでいっぱいだった。
 母は近所のおばさんたちに誘われてついこないだから週一で料理教室に通い始めた。なにやらイタリアで本格的に料理を学んだシェフに直々に教えてもらえるとかでちょっと値段は高いけど母も行く気になったらしい。今までは筑前煮等、煮物系が多かった食卓に色とりどりの場違いな料理が並び始めた。確かに味も称賛できるがバリエーションの多さとそのインパクトの強さに母を除いた家族がついていけていない。もちろん、楽しんでいる母に物申す人は我が家には居ないのだが。
 無心になってご飯を口に運ぶ。味わおうとしていないからか味がいまいちわからない。理由もなくご飯を食べている。別に生きようという意志があって食べているわけでもないのに、私はやっぱり生きようとしているのか。潰し切れていないトマトをバジルに絡ませて勢いよくフォークで刺した。母と居るのに一人で居るみたい。
 向かいに座って食べることを楽しんでいる母を一瞬だけ見た。幸せそうだ。見慣れた母の顔はすっかり老けた。でも基本的に表情は変わらない。皺が増えた分さらに愛情深そうにみえる。人は幸せに生きると表情豊かになるんだな。私は正直幸せの形がまだ定まらない。
 静かに流れていく時間が果てしなく長いようで怖い。
「私、食べたらすぐに学校へ行くよ」
 呟いたすぐさま私はサラダを頬張った。

 学校に着くと、講義時間だからが校内を歩いてる人はまばらにしかいなかった。授業前と授業後は人で溢れかえっている移動路も人がいないと意外と広かったことに気付く。ファッショントレンドにのった人や、パンク系等個性を貫いた人もいる。最近のファッションは多様的で見るだけでも面白い。春はTシャツやタンクトップなど肌を露出し始める時期でもあって体のラインが綺麗な人はすぐにわかる。だから私はいつも一回り大きいサイズの服と細見えするようにタイトなストレートジーンズを履くようにしている。今日はロゴ入りのTシャツにスキニージンズ、そして赤いスニーカーできめてみた。だけど周辺の女の子はミニスカートにオーバーニーの靴下を履いている人が多く、自分が悪目立ちしてみえる。それにスニーカーは履き古されていて、土色に変色しかかっている。なんだかピクニック帰りの人みたいだ。
 今頃美代は一人で心理学の授業を受けている頃だ。大教室に遅刻して入るのは少し気が引ける。それに担当の教授は遅刻者に冷たく当たるのが有名な人だ。見つからずに入るのは極めて困難だし、目をつけられるのも困る。サボろう。
 私は携帯を鞄の中から取り、美代に連絡メールを出した。残りの一時間ちょっとを一人でどうやって過ごそうか。自分の部屋なら一人で居るのも苦にならないが大学で一人になるのはまだ慣れていない。
 春の紫外線が肌を突き刺していく。垂れる汗がせっかく塗ったファンデーションを流していく。利き腕で汗をぬぐい取るように擦った。今のところ行きたい場所もないが涼しい所へ行こう。だが、本を読む気にもならないから冷房の入っている図書館に行っても手持ち部沙汰な私を見知らぬ人が白々しい目で見てくるだろう。本の在庫数がぴか一な割には脚数に睡眠目的で来る学生を疎ましい眼で一蹴するからだ。
 大学は一人で歩くには重苦しすぎる。そこにはないはずの視線を気にしなくてはいけないから、気が置けない。その身の狭さは一人でマクドナルドに行った時のようなものだ。私の通う大学はモダンでまるで外国のたたずまいだ。赤いレンガと白い大理石を組み合わせて作られてあり、窓は色のついた曇りガラス彩られている。幅を利かせた移動路は不揃いな大きさの平石を無秩序に並べ固めたような造りになっている。いざ門をくぐると外国の街頭のような風景をみせる私の大学は入ってきた者を圧倒する。私も入学当初は圧倒された内の一人だった。中世の空間をそのまま現代に持ち去ったようで私は未だに馴染めずにいる。ただ心を落ち着かせてくれるとっておきの場所がある。
 学校裏にある一本の枝垂れ桜だ。知る人ぞ知る隠れスポット的存在なその場所は昔中庭として学生の憩いの場だった。しかし数十年前に文系館が老朽のため改築されると中庭の領域が削られ、今では桜の木が一本無作為にそこにあるような景観になってしまった。また文系館に新しい路ができたため桜の木の周辺を学生は殆ど通らなくなり、今では隠れたカップルの愛の交換場にもなっている。昼休みはカップルが桜の木の下で昼ごはんを食べたり抱きしめあったりしていて独り者はなかなか近付けないのだが授業中は誰もいないから、私はたまに授業をサボッてここでこっそり本を読んだり昼寝したりしている。サボるのは大方寝坊した日か、美代が学校を休み一人で授業を受けなくてはいけなくなった日くらいなんだが。





 







2009/07/01(Wed)01:12:07 公開 / のりこ
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■作者からのメッセージ
 主人公の繊細な心の動きを書いていこうと思います。
 子供のような柔らかくて純粋な恋情から大人のような恋の駆け引きや苦さ、切なさ
 を出していけたらと思います。

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。