『Fish』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:真田奏                

     あらすじ・作品紹介
らせん状にしたたる血を太ももに這わせながら少女真樹(まき)は歓楽街の裏に消えた。そこには素敵な笑顔と奇声で出迎える腐れ縁の少女冬実(ふゆみ)がいた。足の痛みと朦朧とする意識に真樹は深いイラ立ちを覚える。

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 世界中の痛みと熱が太ももの一箇所に大集合したっていう感じ。血液が太ももから脛にかけてゆっくり下へと螺旋状に這っていき、やがてそれはアスファルトに落ち、にじみ、ポタポタと私の足跡をあらわにしていく。人の波が海を割るように私を避けていった。瞬間、髭モジャの爺さんが杖で海を割るイメージが私の頭に飛び込んでくる。その爺さんが誰だったのか、何で見たのかなんて、どうでも良いことなんだろうけど、脳みそがなんとか別のことを考えて、痛みから逃げようとする努力だけは感じられた。
(当然か)私は思う。
 太ももから血を流し、フラつきながら歩いている服装の乱れたし少女(ガキ)。スカートで傷口が見えないから生臭い想像も与えていると思うし、そんな女に近づいて来るような物好きがいないのは当然。だってこの姿を見て「大丈夫ですか?」なんて言うバカな奴がいたら、「大丈夫ですうー」と言って殴り飛ばすに違いないし、まだ、「その血を抑えているハンカチ売ってください」なんてマニアのほうが嬉しい。
 ともかく、
(あーダメだ弱ってる)その日私はひさびさにブルーになった。
“なるべくもめごとには関わりたくない”
 なんていうのは、たった十三年だけれど私が育ってきた中での一番好きな人間の本質で、その本質のおかげでお巡りさんやら、お医者さんなんかに通報されずにすむわけで、非常に心地よい街だといつも思う。マジで。
出血のわりに意識はしっかりしている。必死でというほどの焦りもなく、やっとというほどホッとした気持ちもなく、とにかく私は裏に、なんとか裏通りに出て、そのまま時間的にとても静かな風俗街の中へと紛れて行った。風俗街といってもそれはずっと昔の話で、今はすっかり空き家ばかになっていて、私にとってこんな状態の時にはとっても重宝してしまうお気に入りのテリトリーなのだ。
「ふぅーあー」
 その中でも大好きな、日差しがあまり入らないぼろ廃墟に転がり込むように倒れて私はやっと一息つく。
 暗い部屋の中、じりじりと焼けるような太もも。私はなんとかミミズみたいにホコリ臭い床を這って行って、頭にガツンとした感触があったので、そこが壁なんだなと思い、その壁を背もたれにして休むことにした。
(まったく見えない)
 ダメージで意識がなくなってきているのか、部屋の暗さのせいなのか、はたまた私の視力のなさが原因なのか、どれもさだかじゃないけれど自分の体が、まるで闇に同化したんじゃないかって思うほどに透明に見えた。でも、どこからか分からないのだけど、細い、僅かばかりのとても小さな光の束が差し込んできているのに気づく。まだまだ自分の精神力も捨てたもんじゃないなって、ちょっとだけ有頂天な私。
 部屋の中で見事に屈折しあったその心細くなってしまいそうなくらいの幼い光に照らし出された太ももの傷口。その赤黒く大きな口を開けた左足の傷を見ていて私は段々とムカついてきた。
(バカバカしい)
 刺されたことに腹が立つというよりも、傷が痛むたびに刺した奴のことを思い出すのかと思うと、自分の感情が奴に支配されているみたいで吐き気がした。
「キャッハハハハハハッ!」
 急にダチョウが絞め殺されたような声が廃墟中に響く。
「げ!」
 暗闇の中を差し込んだ光に運ばれるようにふわふわと浮かぶ無数のホコリ。その中を押し切るように進んで来る嫌らしい笑顔。こういう状況下で一番会いたくない奴に会ってしまった。ボーリングの玉を下腹に投げ落とされたような、生理中の重い気分になってしまった。 
「やだーホント刺されてるぅーキャハハハハ! ねえ? もしかして弱ってる? くるしーい?」
クリッとした大きな目で私の顔を覗き込みつつ、この女はあいも変わらず腐ったことをほざいている。
「うるさい冬実(ふゆみ)。消えろ」
 私は冬実の前髪を引っ張り、顔を近づけて睨みつけた。冬実が笑っている。私は睨んでいる。この女は普段からこんなふうにニヤついている。だからホントに面白がっているのか、どうなのかは謎だ。栗毛にパッチリとした瞳のかわいい系の顔で、黙っていればB級アイドルくらいには見えるのに。
「キャハハ、街でさぁー足からダラダラ血流しながら歩いてる娘(こ)がいたって言うからぁーまさかねーと思ってここに来たら、そのまさかなんだもん! ビックリだ! キャハハハハ」
 髪を掴まれたまま冬実は嬉しそうに私の顔を見上げている。すると突然、何か握り潰したような音がするのと同時に、左足に激痛が走った。
「ギャアアアー」
太ももの傷口に冬実の指がめり込む。ジェットコースターのように私の喉元を絶叫が走り抜ける。
「アハハハハ! すごっいねぇー初めて聞いたよぉー絶叫ってやつ! 楽しい楽しい、ウン」
 傷口を抑え転げ回る私の姿を見て、冬実は嬉しそうに笑っていた。最悪。頭がグラグラして、太ももが焼けた鉄を押しつけられたように燃えている。
 パン! パン! 冬実は笑いながら手を叩いた。
「クソ!」
 忘れていた。こいつの頭が壊れてるってこと。というか脳みそが腐っている女だってこと。
「鉄分が足りないねぇー真樹(まき)ちゃん」冬実は指についた黒っポイ血を舐めながら、目をつぶって不思議そうな顔をした。それを見ていて私は思わずぷっと吹き出してしまいそうになった。そうだ、オモシロがってしまおう。こんな時はおバカになるしかないのだ。
「鉄分が足りない? なんだ冬実、グルメじゃん」
 自分でも何を言っているのかさっぱり分からなくなってきた。
「おー真樹ちゃん。まだまだ元気ですねぇー?」
 冬実がまた笑いながら首を傾げ、にやけている。そう、こいつなりの励ましなのだ。ひどくメチャクチャではあるけれど、こいつなりの。と思いたかった。
(でも死ななかったら一番に殺そ)
 揺れる思考の中でこの誓いだけはしっかりと私の心に刻まれていく。
「暗くなってきたねーかなり。先生まだかなー」
 私の頭を撫でながら妙に真面目な顔をして冬実は言った。
「先生? お前、隆行(たかゆき)さんを呼んだの?」
「まーねー。足から血ィー流して平気で歩いてるガキなんて真樹っぺくらいでしょ?」
(平気じゃないのだけれども)
「そっか。でも多分こないよあの人、警備の仕事始めたんだ」
 そう言い終わった後で私はだんだんと眠たくなってきてしまった。
 隆行さんの名前を聞いたからなのか、それとも冬実のおせっかいのせいなのかは知ったこっちゃないけど、ともかくホッとした。緊張がとれたのだ。しかしそれと同時にズキズキと急激に痛みを強める太ももの傷。激しさをましてきたみたい。
(痛くて寝れない。でも寝ないほうが良いのかも)
 別に雪山でもないのだけれど、私は眠ると死んでしまうような気がしてしまい、急にビビッていた。
「チャララララ♪ チャンチャー♪」
 軽い、何かヒーローもののオープニングソングのような音が聞こえた。
「誰かな誰かな」
 冬実の着メロらしい。冬実らしい着メロ。冬実は栗毛の髪の下に携帯を滑らせて話始めた。でも私の携帯にも似たような着メロを入れていた気がする。
「あっそっかぁーゴメンねーうん、そうそう、古本屋さんがあるよん! そこを曲がるの。それでームチッ娘(こ)って落っこちた看板があるからね。そう、よろしくー真樹ちゃん待ってまーす」
誰と話しているのか分からないけど、お水の女のような冬実の応答が妙にリアルで生っぽかったのでちょっと面白かった。
「良かったね! 先生もうすぐ来るってさぁー」
「えっ?」
 一瞬、脳みその動きが止まった。意外だったのだ。隆行さんじゃないと思っていた。
「私ね、先生にさぁー場所言い忘れてたんだよね。すっごい先生怒ってるんだもん。ビックリだよ」
(こっちがビックリだ)と思ったがツッコミは入れなかった。そんな元気もなくなってきている。だんだんと周りも暗くなってきて、コンクリートで囲まれたこの個室はより一層冷え込んできた。
元々ここはファション・ヘルス。だから小さな個室ばかり。私はよくホカ弁などを買ってはこの個室で食べて時間を潰していた。もちろん空家になってからね。
「うお?!」
 急に目の前が真っ暗になった。
(やばい死ぬかも)
 ホントのとこ、自分ではどのくらいの傷なのか分からなかったのだけど、血はかなり流れていたんじゃないかって気はしていた。まさか出血多量? 致死量超えちゃったってやつ? でもまだ私生きてるような? あれ? 何かポッカポカする。
「暖ったかい?」
 冬実のロンTの中だった。冬実はダボついた自分のロンTを袋のように私にかぶせていたのだ。冬実は単純な女。それが悪いことであれ、良いことであれ思いどおりに実行する。ただバカ正直に。
 私は完全に頭からロンTをかぶらされていたので、冬実の顔は分からないのだけど、たぶん冬実は笑っているのだろうと思った。無邪気に無意味に。
(なんじゃこりゃ)
 驚いた。マジで?
 冬実の胸はデカかった。デカすぎてサイズがないからなのか、ブラはダサかったけど。
 冬実はちっちゃい。小動物のようだ。身長は145センチくらい
か、150はあきらかにない。よく子供料金で映画を見ている。学割じゃない。
 胸を隠すつもりでいつもダボダボした服を着ているのかな? もしピッタリとした服を着ればこいつ絶対子供料金で映画は見れないだろうな。今度こいつが子供料金で入ろうとしたら、後ろから服を肩までめくり上げてやろうと私は思った。その時受付がどんな顔をするか楽しみ。きっと学割でも通れない。それくらいちょっと引いてしまうデカさだ。
 同じ女として突然変異のようにデカイ胸を見せつけられたのでムカつき、私は思いっきり胸を鷲掴みしてやった。
「キャハハハハハハハ! やめてよーキャハハ!」
 反応はまだまだガキだった。私もそうだけれども

                             ※

<2>
 お腹は温かく、背中は寒い。私は目が覚め、自分が少なくてもベッドの上にいるのではないということに気づく。少しは期待していたのに。隆行さんが家まで運んでくれることを。でもそれは泡と消えた。
 さっきと同じ匂いがするのでよく意識を集中させると、体が微妙に縦揺れしていて、小刻みな振動を感じる。誰かに背負われているみたい。だけど妙に視線が低い所にある。「風景が変だ」と思った。でも、当然だった。私は冬実に背負われていたのだ。
「な、何だお前?」
 率直な意見。
「おっ気がついたぁー? もうすぐ真樹ちゃんの家ダス」
 冬実は相変わらず笑っていた。
「いや、だから、何でお前が私をおぶってんだよ。隆行さんは?」
「やっぱさーさすが元・お医者さんだよねーパパっと縫っちゃってさぁー出血のわりにたいしたことないって言ってたよん! 全治二週間だって」
(たいしたことあるじゃんか)
「んで? 隆行さんはどうした?」
 私は冬実の右肩に顔を乗せ、聞いてみた。
「仕事抜け出して来たから戻らなきゃダメなんだって」
 冬実は口を尖がらせながら言った。
 あの人らしいといえばそれまでなのだけど、普通ほっといて帰るか? と思った。
「分かった。もう降ろしていいよ。重いだろうが」
 私の足は地面スレスレだ。明らかに無理がある。でも冬実は何も答えない。しょうがないので、しばらく私はそのまま冬実におぶさってやっていた。少し時間が経ち、余裕も出てきたので周りを見渡して見た。ピンクの薄汚れたゾウの滑り台があった。目の前を所々はげたオレンジのレンガ道が真っ直ぐに伸びている。さっきからすごく冷えるなと思っていたら当然で、周りは全部藍色の闇。薄暗く、じっとりとした霧が服にからんできて、よけいに寒く感じた。
「別にさあ、あそこの場所に置いといてくれたら良かったんだ」
 事実、私はあのヘルス跡の空き家で夜を過ごそうと思っていたのだ。
「ダメダーメ。あそこ、昼は誰も来ないけどぉ、夜はヤンキーのラブホに早代わりなのだー怖いんだぞー犯(やら)れちゃうぞー」
 冬実は小動物みたいに素早く二,三回瞬きして言った。私はふーんそう? とだけ答える。そういえば私はあの空き家で夜を明かしたことは一度もない。いつも入り浸っていたので、何回か泊まった錯覚でも起していたのかも知れない。
 それより意外だったのは、あの場所についての私が知らない情報を冬実が知っていたということ。私は暇な時は大抵、あのヘルスの空き家でマック食いながらマッタリとくつろいでいる。冬実といえば、たまにフラッと遊びに来るくらいで私ほど入り浸ってはいない。
「お前、なんでそんなこと知ってる?」
変に気になったので聞いてみた。
「えーだってワタシーあそこに泊まったことあるもん」
聞くんじゃなかった。まずいこと聞いたと思った。しかしここまで聞いたからにはあとには引けないと思って、再び質問した。
「で? 怖い目にあったんかい?」
「良くわかんないーあそこの場所ってさぁー電気もないし、夜は真っ暗なのね。で、私が寝てたら変な声がしてー声の方向に行ったらねー交尾してたのだ!」
(交尾?)
「こ、交尾ってお前さん。野良犬じゃんそれ?」
 私は冬実の耳を引っ張った。冬実は不思議そうな顔をして、
「犬ではないよ。ヤンキーのバカップルだったもん」と言った。
「なんだ覗いてたのか。でも何でヤンキーだって分かるんだよ。暗くてよく分かんないじゃん?」
「だって髪が金髪だったもん。それくらい分かるよん」
(アホくさ)
 急激に好奇心の風船がしぼんだ。冬実にとって、髪金(パツキン)は全部ヤンキーらしい。まったく、いつの時代の生まれだよ。
「あっでもね、犬みたいに鳴いてたよ、すっごく!」
 しぼんだ好奇心が復活。私は冬実の右肩にまた勢いよく顔を乗り出した。
「なになに?! そんなに凄かった? そのバカップル」
 こういう話題になると素直に盛り上がってしまう私は、つくづくガキだなーと思いつつも聞かずにはいられなかった。
「スッゴイよーきゃんきゃん!」
 と冬実は舌をぺロッと出すと両手を招き猫みたいに動かした。
 私はさっき冬実が言った交尾という言葉を思い出し、生ナマしい物を想像してしまい、自分の耳が急速に熱くなっていくのを感じていた。
「でね、あんまりうるさいからさぁー周りに落ちてたガラスの破片とか、コンクリとか投げ込んでやったのだ。そしたら、ギャーとか言って、違った声で鳴いたの! おもしろかった!」
 メチャクチャやりやがると思った。これは別の意味で凄いお話だ。 
「お前、善良な野外プレイヤ―になんてことを。人間失格だぞ!」
 冬実の頭を軽くこづく。冬実はただ笑っている。
 私はいつしか傷の痛みを忘れかけていた。この身動き一つとれない、情けない状況にムカついてはいたのだけど、冬実に身をまかせるしかない現在(いま)や、くだらない会話に安心めいたものを感じていた。一時的ではあるけど、今私は冬実という存在に逃げて自分を癒しているのだ。認めたくはない。認めたくはないのだけれど。


 次第に周りの景色がくっきり鮮やかになってきた。夜の終わり。朝の始まり。
公園の中道を抜けたら、二階のない古い家ばかりが見えてきた。家も近い。まばらではあるけど、通勤通学、人通りも増えてきた。
 私と冬実はちょっとした有名人になる。必ずと言って良いほど、みんなこちらの方をジロジロ見ながら顔面カメラを私達に固定したまますれ違って行く。確かに変な光景だろうなとは思った。他人から見れば小さな少女が足に包帯を巻いた自分よりも大きな娘(こ)を背負い、こんな早朝にもかかわらず、テクテク笑いながら歩いているのだから。
(こいつ体力あるなー)
 私がヘルスの空き家に転がっていたのが夜の九時、十時くらいだったので、あれからもう八時間は軽く経過していることになる。少なくてもあの場所からここまで歩いて一時間くらいはかかるはず。そう考えると冬実は私をおぶったまま、かなりの距離を歩いているわけで、たいした小娘だと思った。バカだけれども。
さすがに恥ずかしさも手伝って私は「もう良い。降ろせ! 家もすぐそこだし」と言った。少しは冬実の疲れも考えてやったのだ。でも冬実は小さな体を縦に揺すって飛び跳ねるように私を深く背負い直すと「真樹ちゃんは心配しないでお姉ちゃんにまかせなさーい!」と言って急にスピードアップして歩き始めた。
(お姉ちゃん?)
 私は力が抜けた。で、津波のように込み上げてくる笑いを我慢するのに必死だった。冗談? 冗談だとしたら、ヒット。めちゃヒット。笑える。私は年齢よりも上に見られることが多いのだけど、それを差し引いても、絶対、私の方が年上に見えるに決まっている。それなのに、こいつが私のことを妹だと感じる時があるのかと想像すると最高にオモロイ。
「ひひひ! お前バカじゃねーの? バーカ!」
私は後ろに反り返りながら、おもいっきり冬実の頭を叩く。
――冬実の動きが急に止まった。
さっきまで順調に流れていた周りの景色が急に止まる。私は冬実の背中にぶつかると振り子のように大きくバウンドし、後ろへ倒れそうになったので、私の足を抱えている冬実の腕を掴もうとしたのだけれど冬実はいきなりその手を離してしまった。
「うっ!」
 一瞬、呼吸が止まる。私は背中からおもいっきりアスファルトに落ちてしまったのだ。体中に電気が走った。おっさん風に言うとエレキが走った。空がクルクル回っている。
「ナニ急に止まってんだよ! 殺すぞコラ!」
 私はミュールを脱ぐと冬実に向かって投げつけた。ミュールは冬実の背中に当たって落ちる。冬実は何の反応もしない。背中を向けたまま。
(やば、もしかして怒ってる?)
 血が登った頭が急に冷えた。今、この状況で冬実にキレられたらと思うと、ぐっと体温が下がった。漫画なら私の顔には何本もの縦の線が入っているに違いない。
 冬実が振り向いた。いつものように笑ったまま私の白いミュールを持つと、立ち上がれずにいる私の方にテクテクと歩いてきた。とりあえずキレてはいないなと、少し安心していたら、また急に目の前が真っ暗になった。今度はロンTをかぶせられたわけじゃない。まだそのほうがマシだった。
 目から火花なんていうのはまさにこのこと。こめかみがきしみ、頭の中で、丘の上の教会な感じの鐘が鳴り響いている。声もでない。
 冬実は私の頭をハンマーのように殴りつけたのだ。ミュールで。冬実は私の顔ギリギリまで自分の顔を寄せると、
「ついた」と言って左を指差した。そこは三階建て。黒ずんだコンクリートの。私は頭を殴られたせいもあるけど、しばらくボーとしてその場に座りこんでしまっていた。冬実は笑いながら私を殴ったミュールを私の頭上に乗せると、「ギャラに不満のあるバカ殿」と手を叩いて笑った。
 ホント、私は疲れている女。冬実は疲れる女。
「フフ」
 力が抜けていく。あきらかに楽しくて出た笑いじゃない。脳がおかしくなって溶け始めただけ。不思議とイラついた気持ちはもうない。
「じゃっね!」
 音を短くサヨナラを言うと、冬実はテクテクと帰って行った。冬実は普段から猫背だけど、帰っていく後ろ姿はいつにもまして猫だった。心なしかフラついている。やっぱ疲れたみたい。
少しづつ車の排気音も増えてきた。同時に窓を開ける音や電車の騒音など、私にとってはうっとうしい生活の音が交差し始めている。
そろそろ今日が始まるらしい。望みはしないのだけれども。


 また目が覚めた。自分のベッドの上。頻繁に目が覚めるようになってきた。退屈も感じ始めている。体が回復してきた証拠。足を刺されてからの数日間は本当に眠った。死んだように。いや、軽く死んでいたのかもしれない。冬実に送ってもらったあの日、部屋にたどり着くまでがまた大変だった。私の住んでいる所は一階が昔、診療所だったのだけれど、現在(いま)は玄関ごと封鎖されている。だから二階にある自分の部屋へ入るには外の階段を使わなければいけない。 
 これが辛かった。冬実が帰ったあと、またミミズみたいに這って階段を上がり、二階のドアまでたどり着くのに三十分はかかってしまった。その日私はピンクのタンクトップにブルーのライトチェクのスカートだったのだけれど、タンクトップの方は汗と、六月ということもあってグショグショに濡れちゃってるし、スカートはというと、血で汚れ、這って階段を上がったせいもあって腰の所までめくれ上がっていた。
 刺された日からどれくらいたったのかな? 私はずっとベッドにいた。朝か夜かはブラインドから差し込む光の加減で判断していたのだけど、梅雨時なので昼も暗い時が多く、正確性には欠けた。何度か眠りに落ちて、何度か目が覚めると、その度に包帯が新しくなっていた。私が寝ている間、隆行さんが変えてくれていたらしい。キュッと強く締まった新しい包帯の感触が、ボーとした意識の中で妙に心地良かった。
ベッドの横には濡らしたタオルが置いてある。これで体を拭けということらしい。私はこれがかなり嬉しかった。精神的や肉体的に色んなダメージを負ったのだけど、何よりもこのベトベトする体がもっとも嫌だった。髪もバサバサ。ホントにヤダ! と思った。でも唯一、意味が分かんなかったのはコンビニのレジとかによく置いてある一口羊かんがベッドの横に山のように積んであったこと。それも全部、梅味。私は甘いものが嫌いなのでそれには手をつけなかった。
 結局私は傷が治るまで、裸で足に包帯を巻いただけのスタイルで、水ばかり飲んでいた。
(まあ、良くなってると思っていよう) 
さらに日が経ち、雨の日などには少し痛む程度まで、傷のことを忘れている時間が長くなってきた。私の復活も間近。全治二週間くらいと聞いていたので、歩けるようになったということは、当然二週間以上は経っているのだろうと思っていた。 だけど、リビングのソファに投げ出されていたスポーツ紙の日付を見ると私が桜子(さくらこ)から刺された日から、まだ一週間ちょっとだった。隆行さんの性格からして古い新聞をいつまでもとって置くようなことは絶対にしないので、この新聞は古くても昨日か一昨日くらいの物。そうなると私は普通、二週間かかる傷を一週間で治したことになる。もしかしたら隆行さんが私を大人しくさせておこうと大袈裟に言ったのかもしれないし、冬実が適当なことをほざいただけなのかもしれないけど、私は妙に嬉しくなった。
(うーん超人かも!)
 私は両腕を組んで軽くマッチョポーズをとった。でーも、リビングの窓ガラスに映った自分の素っ裸は極めてバカっぽかったので、すぐに冷め、そさくさとシャワーを浴びることにした。
(あぁー最高かも)
 私は一週間ぶりのシャワーを浴びるとお湯を止め、お風呂場の白い壁に寄りかかってそのまま座り込む。横幅十センチちょいくらいの小さな窓から光が真っすぐに伸び、私の胸を照らしていた。
(ペンキをかけられた透明人間)
 そんな感じ。電気を点けていないので私の胸だけが暗いお風呂場の中でぼんやりと浮かんでいる。
 私は手で重さを測るように左の乳房の下に手を添えると、軽く上下させてみた。
 胸が膨らみだしてから一時期、私はいつも同じ質問を自分の胸に向かってしていた。
(オマエ、ダレ?)答えは決まって同じ。
(ワタクシハ、メスデス。キョウカラヨロシク)私の感想も同じ。
(キガエニクイノデ、ヒッコシヤガレ)
 この隣人はいまだに引っ越す気配はない。
(なんか音、してんな?)
 私がしばらくボーとしながら風呂場のタイルに座り込んでいたら、どこからかガラスの割れる音がした。続けざまに同じ破壊音が二、三発続く。すぐにリビングの方からだと分かった。なぜならこの家、正面以外は他のビルに囲まれていて、何かを投げて確実に割ることのできる窓なんてのはリビングの窓くらいなのだ。
 私はまずシャワーの水を頭からかぶって気合を入れた。だいたい犯人は分かっている。こんな遠回しなやり方をする奴は桜子か栄子くらいしかいない。あの枝毛女、本当に陰険な奴ら。
 私はしばらくお風呂場に隠れていることにした。裸なのは気にならないのだけど、のこのこ出て行って桜子や栄子(えいこ)、日頃、つるんでいるバカどもが乗り込んで来ていたら面倒。それならここに隠れて、近づいてきた奴を不意打ち的にぶっとばし、その後はすぐバックレるとかしてどこかに隠れちゃえば良い。そちらの方がずっとスムーズな方法だと私は考えたのだ。
(邪魔くさいぞ)
 濡れた髪がうっとうしい。スッと手でオールバックのように後ろへまとめあげて、お風呂のドアへ寄りかかるようにして外の様子に耳をすます。――物音一つしない? 外から車の音がするくらい。無駄無音の時が過ぎる。体についた無数の水滴も丸い形を崩して流れ落ちる。
 さすがにイラついてきたので、少し外の様子を見てみようかと思った瞬間、キーンと空気を切るような音が連続した。その後、何回か鼓膜を突き破られそうな音、とても乾いた音がした。
(花火か爆竹)一瞬にして興醒め。
「フぅー」
 ガッカリ。陳腐なやり口。私はお風呂から出た。思ったとおり人の気配はない。煙が部屋中に充満していたので、すぐまたお風呂場に戻り、もう一回頭から水をかぶって考えをまとめる努力をした。
 桜子に刺された日、私は怒りが体中を駆け巡り“絶対に殺す”と固く心に刻んだのだけれど、時間が経つほどに“どうでもいいや”と思うようにもなっていた。もちろん日々傷は痛んでいたし、自由にならない足にムカついていたのも事実なんだけど、でも、桜子にリベンジするということは、あきらかに桜子のペースに自分が合わせているということで自由じゃない。あんな枝毛女のために、自分の貴重な行動力を行使しなければならないなんて最悪だと私は感じ始めていた。
 バスルームからキッチンに出て、一面煙で真っ白な部屋の中を手探りで歩く。登ったことなんてないのだけれどチョモランマのてっぺん、雲の中を泳いでいるみたい。
 おっ大丈夫じゃん? 目も十分開けていられる。思ったよりひどくないんじゃない? 何か燃えている分けでもなさそうだしと私は安心していた。風が吹き込んでくるまでは。
「うっ。この臭い」
 花火の途中で風向きが変わって、煙をモロに顔面へ浴びてしまうことがあるけど、そんな時と同じ臭いがした。
(せっかく洗ったのに髪に匂いがつくのは嫌だな)と思いつつも、リビングに行ってみた。
「わぉ」 
 私は思わず腕組みしたままリビングの壁に寄りかかる。飛び散ったガラス、焦げた壁、窓からは閉まっているのに風が入ってくる。つまり割られていた。まるであのヘルスの空き家みたい。
(でも、これはこれで良いかも)
 私の好きな場所に似てしまったせいか不思議と腹は立たなかった。
(隆行さんには怒られるかもね)
 そう考えると少し憂鬱になったけど、まあ、気を取り直して少しリビングを探索してみる。予想通り、ロケット花火の抜け殻が床のいたる所に転がっていた。私は他人事みたいにカーテンなんてなくて良かったなと一人肯く。
 部屋はリビングといっても家具らしい物はソファくらいしかなくてテレビもない。じゅうたんも敷いていない。窓にはカーテンさえない。実に超シンプル・イズ・ベストなリビングなのだ。そのおかげで燃え移る物がなく火事にならなかったのだけれども。
「バラバラぁー」
 私は膝を突かないようにしてその場にしゃがみ込み、床に散らばったガラスの破片を眺めた。それぞれの破片にタオルを首にかけただけの私がいる。頭、胸、足、腹、それぞれのパーツがバラバラに映っている。私はその中にある、顔の映った正面の破片を掴むと、おもいっきり握り締めた。
「ギギ」
 左手の中が燃えている。歯がきしむ。汗が吹き出る。
(まだダメ、足りない)
 さらに強く、左手を握り締めた。赤い蛇が左手を這うように流れ、床に降りてゆく。脳内でカチっとスイッチが入る音がした。私のメーターは振り切れ弾け飛ぶ。
「アァー!」
 壁に向かっておもっいっきり破片を叩きつける私。真っ赤な欠けらがリビングに舞う。
「よし! 着替えよっと」
 私らしくなってきた。気合は入っているけれど、頭の中はパサついている。静かだ。大変よろしい。
 どうやら穏やかに殺(や)れそう。桜子を

<3>
 風が良い。久しぶりに外へ出た。まとわりつくことのない乾いた風が強弱を繰り返しながら私の体を吹き抜けていく。普段はダルそうに歩いているのに、この日だけはおもいっきり走って、勝ヶ山(かつがやま)公園を目指した。デニムのチューブトップに迷彩のショーパン。簡単なスタイルのせいか思ったより早く公園に着くことができた。足もサンダルじゃなくスニーカーにして正解。楽だぜコンバース。
 私は公園の中道を足早に歩く。冬実が私をおぶって歩いた道。いつもより人通りが多い感じだ。屋台も普段より多く、道の脇に隙間なく並んでいたので今日は休日だっけか? と私はさらに公園の中を進んで行き、蒸気機関車が飾ってある広場に出た。この蒸気機関車は本物を譲り受けたものらしく、中へも自由に出入りできるようになっている。思ったとおりチビッ子達が凄まじいテンションで登ったり、ぶらさがったりと、はしゃぎ回っていた。
(やだやだ)
 私には探しているものがあったので、悲鳴にも近いチビッ子の声がうっとうしかった。その後しばらくは広場を歩いたのだけど、探しているものがなかなか見つからないので私は、疲れたことあって蒸気機関車のすぐそばに座り込んでいた。
「おおっ?!」
 急に首が後ろへ引っ張られた。髪を掴まれたらしい。
「殺すぞ!」
 私は振り向きざまにいきなり殴ってやろうと拳を構えたのだけれど、すぐやめた。チビッ子だった。私の髪を掴んだままニコニコと笑っている。ツインテールのおさげっ娘。なんかウサギに羽の生えたキャラクターのプリントが入ったTシャツを着ている。たぶん女の子。
「ありゃりゃ。なんだねキミは? うーん?」
 と私は殴ることもできず、ビビらせてどっかに行かせようとその女の子を睨みつけた。でも×。依然、私の髪を握ったままニコニコバカみたいに笑っている。私の髪は長い。半端じゃなく。染めはするけどチビッ子の頃から切った記憶はほとんどない。腰の辺りまでダラダラと長いのだ。だから掴み放題。細く何本にも編んでおいたやつの一本を掴まれた。
 女の子はひたすら乳搾りのように、ギュギュっと右手で私の髪を握っている。チビッ子はやだ。どうしてかというと、非常に脆く見えてしまうから。触っただけで壊れてしまいそうというか、とにかくダメ。
(あーやだなーもう)
 困った。殴られるより辛い。
「タコ!」
 と女の子が言った。私は自分のことを言われたのかと思って、カチンときたのだけど、なぜかお腹が空く匂いがした。ソースの焦げる匂い。よく見ると女の子は左手にタコ焼きを持ち、それを私に向け突き出していた。
(ビンゴ!)
 頭の上に電球が点いた。そんな心境。
「お前、そのタコ焼きどこで買ったの? 公園?」
 女の子は初め、急にテンションを上げた私の態度にキョトンとした表情を見せていたけど、
「ううん、橋!」と速答で力強く答えてくれた。アッサリして良い子。
(橋か)
「サンキュー」
 私は勢いに任せて女の子の手から髪を引き抜き、走った。公園を出て、街の中心に向かう橋に行ってみた。この橋はやたらとバカデカイのだけど、車は通れなくなっている。今日みたいな休日は両端に屋台が並び人通りもかなりあったりする。
 私はタコ焼きの屋台を探す。案外すぐ見つかった。ピンク一色の悪趣味なデザイン。屋台の屋根に描いてある中華帽をかぶった丸メガネのタコ。分かりやすい。
(あれ? いない)
 屋台は無人だった。
「どこ行っちゃってるわけアイツ?」
 屋台を蹴っ飛ばした。さらに二,三発蹴った。 
「何しとんねんコラ! いてまうぞ!」
 手を拭きながら、凄いスピードで男が走ってきた。
「おい、マンネリ!」
 私は軽く手を上げた。この男は関西人で、しかもタコ焼き屋をやっているので、『ありがちだな』という気持ちを込めて私が勝手に、“マンネリ”と呼んでいる。
「あれ、なんや真樹ちゃん」
 マンネリの頭がテカテカ光っている。暑苦しいオールバックだ。
「何してたんや? 最近。みかけんかったけど」 
 とマンネリは屋台の中に戻った。
「これ」
 私は足に巻いた包帯を指差した。
「なんや? その腕章。生徒会か?」
「そんなボケいらない。それに分かりにくい」
 私は冷ややかな目で言った。
「冷たいな自分。分かってるわ。刺されたんやろ。桜子に」
 マンネリはタコ焼きの生地を鉄板に流しながら言った。
「早いねキミ!」パチパチと乾いた拍手でマンネリを称えた私。
「まあな、でも水臭いわ。俺に連絡してくれたら、飛んで行ったのに。ホイ」
 マンネリは焼けたばかりのタコ焼きを一個くれた。いや一個だけしかくれなかった。で、相変わらずまずかった。中がパサついている。一個だけで良かったとホッとする。
「しっかし、桜子も思い切ったことしよるな。真樹ちゃん、あいつに何してん?」
「何もしてない」
「あいつ復学流れてからどんどん自分も流れとるな?」
 マンネリは串でタコ焼きの焼け具合を確かめながら言った。
「お前、いつもどこでそんな情報手に入れてんだよ。毎回」
「真樹ちゃん、時代は情報やで。特に若い娘の情報は金になるんや」
 マンネリは指で輪を作って言った。関西弁で金の話。マンネリだ。
(このまずいタコ焼きに、どうやってその情報を使うんだろう?)
 ツッコミを入れたかったけど、マンネリが喜ぶのでやめた。
「桜子の居場所知ってる?」
 本題に入った。
「当然や、知ってるで。」
 マンネリは得意満面な顔で言った。
「教えろマンネリ」私は上品に聞いた。
「教えたってもいいんやけどなータダでわなぁー」
 マンネリは急に歯切れが悪くなった。タコ焼きの串をこねくり回している。
「何? はっきり言え」私はイラついた。
「エッチさせて!」
……
「真樹ちゃん好きやねん! エッチしよ! 絶対、相性バツグンや」
「お前、いくつ?」
「三十」
 こいつの速答はやだ。
「私はいくつナリ?」自分を指差した。
「真樹ちゃんは十三やろ? そやろ?」
「犯罪じゃん」
「そんなん関係ない。問題は見た目なんや! 真樹ちゃんの体はりっぱに大人です。それに俺は国家権力なんかには負けへん! 永遠のチャレンジャーなんや!」
 マンネリの目が輝いている。七色の色欲。
「死ね!」
 私は屋台に蹴りを入れる。鉄板のタコ焼きが揺れる。さらに屋台の屋根を支えている柱にも蹴りをかます。
「わー! なにすんねん!」マンネリの顔が青くなった。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
 連続で屋台を蹴り飛ばした。屋台が揺れる。鰹節や青海苔の缶が落ちていく。
「お願いや! 俺が悪かった。やめてくれ! 壊れてまうー」
 マンネリは泣きそうな顔になっていた。もう一押し。
「教える?」
「うん、うん、教えるからやめて」
「じゃあ一万くれ」私は手を出して言った。
「なんでやねーん! なんで俺が一万払わなあかんねん!」
(あっ! “なんでやねん”じゃなくて“なんでやねーん”だ。伸ばしましたぞこいつ!)
 マイナーチェンジだマンネリ。凄いぞマンネリ! でも関係ない。
 ドン! ぐにぐにぐにぐにっと積んであった作り置きのタコ焼きを上から押し潰す私。
「やめてぇー」
 私の所に一枚、福沢諭吉がやって来た。桜子の居場所と共に。


 電車に乗った。桜子の元へ行く。寝るほどの距離でもないので、暇つぶしに着メロを片っ端から鳴らしていた。
「ウルセー!」
 いきなり組んでいた足を蹴っ飛ばされる。
(暇つぶしくらいにはなるかな)
 そう私は思って携帯のパカパカを閉じ、顔を上げて相手を睨んだ。バトル開始のはずだった。が!
(うあぁ)
 最悪。悪魔の笑顔。
「真樹ちゃーん、なにやってるのー?」
 冬実はラーメンが伸びるようなダルイ声で話しながら、私の隣に座ってきた。
(ウゼエ)
 私は無視することにした。目標の駅まですぐだ。桜子のことで邪魔されたくない。
「ねえ、ねえ」
 冬実はかなり退屈しているらしく、足をバタつかせてながら私に話しかけてきた。
(もう少し、我慢)
 しばらく我慢していたら、首がチクチクしてきたので目だけを動かし、確認してみた。銀色の冷たい物体が首に当たっている。ナイフ? ナイフ? ナイフだ。残念なお知らせ。冬実と同じように冷たく、手のひらに隠れるくらいの小さいサイズのナイフ。
「ねえ、どこ行くのー?」
 冬実は私の首から顔にかけて、撫でるようにナイフを上下させた。
「うるせー殺すぞ!」
 私が殺されそうな状況なのだけど、私は視線をそらさずに冬実を睨みつけた。でも冬実はさらに激しく足をバタつかせて、
「やーだ! 教えてくれなきゃやーだ!」と言った。
「じゃあナイフ下げろよ。教えてやる」
「やーだ! 真樹ちゃん、すぐどっかに行っちゃうもん!」
 冬実はナイフを下げない。もうすぐ駅に着いてしまう。私はだんだんヤケクソになってきて、
「妹の頼みくらい聞けよ。お前、私のお姉ちゃんなんだろ」と言ってしまった。
 ぱん! ぱん! 冬実はさっとナイフを下げると、凄い笑顔で自分の両頬を叩いている。
「キャハハハハハ! そうなの! 冬実、お姉ちゃんなの!」
 うまくいったみたいだ。冬実はほっぺたを真っ赤にして、見たこともない天まで届きそうなハイテンションではしゃいでいる。驚いた。初めて見た。
「で、どこいくのぉー?」
 冬実は再び私にナイフを向けた。
 妹の負けです、ハイ。
 
 
「ねえねえ真樹ちゃん。自転車乗るの?」
 冬実はいつものようにかかとをあまり上げずに、ペタペタと足を引きずる感じに歩きながら私の後をついてくる。
「なんで私が自転車?」
 私はちょっと面倒な感じで言った。
「だってぇー競輪場に行くんざんしょ?」
 バカッぽい声で冬実は聞いてきた。
「競輪場はチャリに乗ってる奴に金賭ける所じゃん」
「じゃあ真樹ちゃん。お金賭けるんだ?」
 冬実の質問に私は何も答えなかった。競輪場自体が目的じゃない。
(三百六十円のマロン、マロン)
 私はマンネリから聞き出した看板を探して歩く。そのうち銀色の丸い大きな屋根が見えてきた。
(競輪場?)
 自分の思っていた競輪場のイメージと違った。かなり綺麗だ。野球のドームにそっくりと思った。けれど、その綺麗なドームから出てくる人達はみんな醤油で煮詰めたような顔したオッサンばっかりだった。女の子はまったくいない。すごい厚化粧のババアはいるけれども。
「饅頭!」と冬実は手を大きく横に広げ、見上げている。ちょっと面白かった。 
 私はちょこっとだけ、……競馬場のことを思い出していた。
 私がまだチビッ子だった頃、母親と色白で小太りな男との三人で暮らしていた。その男は父親だったらしい。「らしい」というのは正確には分からないから。昔、私が砂場で遊んでいた時、他の子が大きな男の人をパパと呼んでいたので、それを真似て家に帰り、小太の男に「パパ」と呼びかけたら、男は無言で殴ってきた。表情では分からなかったけど、ひどく怒っているようだった。詳しくは知らないけど、父親とは違う存在だったのかも知れない。だから男に連れられてどこかへ行くなんてことはほとんどなかったのだけど、だけど、一度だけ、たった一度だけあったのだ。それが競馬場。昔のことなのでよくは覚えてないけどこの競輪場と違って若い女の人もかなりいた気がする。馬のヌイグルミを持った子供もかなりいた。私はかなりはしゃいでいた。産まれて初めて見る人の数、馬、何から何まで初めての体験だったのだ。なので、迷子になった。アッサリと。でも、私は家に帰れた。アッサリと。
 私は挨拶よりも、家の住所を言うのが得意な変な娘だった。そのころの私は、家にいると小太り男に殴られるので近所の小汚いババアの家にいつも入り浸っていた。別にこのババアは優しくもなく、お菓子などをくれる分けでもなかったのだけど、勝手に家に入っても何も言わなかった。その代わりいつも家に入る時、
「お前どこの娘じゃ?」と聞いてきた。私がそれで言えないと、
「何度教えれば分かる!」と言って私が言えるまで何度も私の住んでいるアパートの住所を教えてきた。そんなわけで私は競馬場で迷子になった時にも、住所を警備の人間にハッキリと言え、ちゃんと家に帰ることができた。今思えばいつもフラフラとしている私が迷子になっても大丈夫なように教えてくれていたのかもしれない。
 その後、ババアのおかげで無事に家に帰った私なのだけど、小太り男には「なんで帰ってきた!」なんてどなられ、そのまま裸にされ風呂場で水をかけられるわ、眼は殴られて眼下底骨折するわで散々な目にあった。おかげで私の左眼はほとんど見えない。涙もあまり出ない。残念なお知らせ。ちなみにババアは真夏のある日、暖房がガンガンに入った居間で死んでいた。脱水症状で。あとから聞いた話なのだけど、ババアはどんどん思い出を忘れてしまう病気にかかっていたらしい。母親からそう聞いた。
 

 私は競輪場のドームを囲むようにグルッと探し歩いた。競輪場から出てきた客と違い、ドームの周りはレンガ造りでカフェテリアのあるパン屋さんとか、異次元空間のような屋根のフルーツパーラーとか、裏通りには汚くて狭い所だったけどちょっと目つきの悪い黒人が店前に立っているB系ファッションのショップとかシルバーアクセのショップもあった。良いじゃんここ! と私は思った。
 捜し歩いているうちにかなり日も落ちてきて、セブンイレブンがやけに明るく見えた。
(マロン・クレープ三百六十円)
マンネリの言っていた立て看板があった。ケーキのお店なのかと思っていたのだけど、普通のコーヒーショップだった。
(片手間でやってるな。不味そう)こんな看板を出しているだけでもダサ。私は二、三席しかないカフェテリアの前から、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように店内を覗いた。内装もショボイ。ブラックライトを照らしているのも何か勘違いしちゃってる。あきらかに周りの店から浮いてるし。
 あっ! 桜子発見。獲物を見つけたライオンの気分。興奮! 仲間とも一緒のようだし。
(あー女が二人、一人は栄子(えいこ)じゃん。もう一人は誰?)
 私は念入りに桜子の周りにいるバカ達をチッェクした。マンネリじゃないけれど“情報は金”だ。ううん、命なのだ。男は混じっていないようだった。私は冬実を探した。歩き疲れたのか道路に座り込んでいた。邪魔なので置いて行くことにする。通行人にはもっと邪魔だろうけど。
「冬実。そこで死んでろ。すぐすむから」私は待っているように言う。
「真樹ちゃーん。何人いたのぉー?」
 冬実は自分の前髪を「ふー」と吹き上げながら言った。 
「三人。男ゼロ」私は指を三本立てる。
「つまんなーい完勝じゃん。それよりさーキャンプしよ! サッちんの家でさー」
「あぁー? 桜子の家でナニ?」
「だからーサッちんのお留守にねぇーキャンプファイヤーするの!驚くよーサっちん帰ったら家がファイヤー。わぉ!」
 冬実は一人で興奮しちゃっていた。
「勝手にやれば?」
 あきれた。いつまでもバカに付き合ってはいられない。私は桜子の元へ歩き出す。姿勢良く。静かに。ウインドのすぐ横の座席に桜子達はいる。麦茶みたいな薄いブラウンのかかったウインドガラス。桜子達はバカ丸出しで喋っている。こちらには気づいていない。
カフェテリアの椅子は結構重い。下腹、子宮にパワーを込める。バカ女達はまだ気づかない。椅子を頭の上まで振り上げる。ずっしりとした重量感を膝に感じた。骨のきしむ音が聞こえてきそうで感じ良い。
「そーれー」
 私は助走をつけると、ウインドガラスめがけて一気に椅子を振り落とした。振動が両手を電流みたいに駆け上がってくる。破片がキラキラと舞い、頬が少し切れた。ガラスの破壊音のあと、一瞬周りの空気を押さえ込むような静けさが漂う。桜子がいた。座ってはいない。座席の横に立っている。ぽかーんと口を開けて固まっている。枝毛だらけの金髪パーマで。
「あーん! 桜子懐かしいぃー誰だかわ・か・る?」
 私は手を振ってニッコリと笑った。
「マ、真樹?」桜子がやっと喋った。
「誰だか分かったら、死ね!」
 桜子めがけて椅子を投げつける。桜子は驚きすぎて避けられない。
 メガ・ヒット! その場に倒れ込む。
「おーし、そこにいろ! 今殺す!」
 良いテンション。盛り上がってまいりました。私はソファに散らばったガラスの破片を蹴っ飛ばし、足元で頭を抱え震えているガラスまみれの栄子の背中を踏んづけた。
「アァー」
 背中を押し潰す私の足を背中の痒い亀みたいに必死にはずそうとする栄子。良い顔をしている。家に着いたのは良いけど着ているオーバーオールがなかなか脱げなくて便器の蓋に手をかけたままウンチを漏らした奴みたいなツラだ。
「お前なんかに脊髄いらねーよ。提供しろ誰かに」
 ぐりぐりぐり。栄子の背脂に私の足が食い込む。ソファがズブズブ沈んでいく。
「いいギィィ」栄子の背中があぶられたイカの足みたいにひしゃげ、反っていく。
 可哀想になったので背中から足をはずしてやる。でも私を見上げた栄子の顔が溶けかかった雪女みたいな顔面をしていたので、Vゴールと言って蹴っ飛ばしておいた。栄子は寝ちゃった。サヨナラ。
「桜子!」
 私はソファから飛び降りて桜子に殴りかかった。だけど横から誰かに突き飛ばされる。私は少しよろけたけど、何とかふんばる。
 銀髪、唇に二重のピアス、カラコンを入れているのか目が赤い。色白のヒョロっとした女が桜子の前に立っている。
(見たことない)
「綺麗な顔してるじゃん。でも、桜子なんかとつるんでると枝毛が増え……」
 と私が言い終わらないうちに、カラコン女のパンチが飛んできた。すれすれで何とか避けたけど、パンチじゃなかった。光っている。冬実のとは比べ物にならないくらいの大きなサバイバルナイフ。
「ダメじゃん! 最近の若い娘はすぐ切れるんだからぁー」
 そう言いながら、私はドキドキしていた。肌がぴりぴりしてきてたまんない。あれが刺さると私は死ぬ。肉が裂け、血が噴水みたいに噴出して。
 カラコン女は間を空けずに突いてきた。私は後ろに下がりながら海底のワカメみたいになんとか攻撃を避ける。相手の息、目、仕草、なんとなく分かってしまう。私のどこを傷つけたいのか。憎いのか。
 いつも見ていた。小太りの男。眉毛をかきむしったらお腹を殴ってくる。息を深く吐くと、私の腕を絞って床に押し潰す。ゲームが上手く出来なかったとか、煙草が切れたとかの理由で。幼児なりの防衛本能、あまり痛くないように体を丸めたり、別のことを考えたり、これは私じゃないんだと思ったり、そのうちに、病気のように人の仕草が気になってしまうようになった。傷つけられないように。
「あぁっ! オラ!」
 カラコン女は攻撃がなかなか私に当たらないのでイライラしてきたのか、かなり熱くなってきたみたい。さっきまでの無口でクールなイメージがすっかり失われてしまっていた。カッコ悪い。
 狭い席と席との間の通路を後ろへ後ろへと避け続ける私。当然、徐々に突き当たりの壁が私の背中へと迫ってくる。私はすぐ横のテーブルへと飛び移った。ナーイス! 予想通りにカラコン女は足を切りつけてきた。でもそれより早くカラコン女の顔面へ私の足の裏がクリーンヒット! カラコン女はズルっと膝から崩れ……落ちたと思ったら、足首を掴まれた。
(やば!)
 私は足を引っ張られ床に落とされる。背中から床に落ちた。カラコン女が私の上に乗っかってきて、そのままナイフを振り降ろす。
 だけど動きが鈍い。私の蹴りが効いたのかな? 私はナイフの根元を掴むと、グっとおもいっきり握り締め女へと押し返す。手から血がしたたり落ちて私の顔を逆上した画家が腹いせに塗りつぶした恋人の絵みたいにグチャグチャと真っ赤に染めていく。同時に手へ激痛が走った。痛い。最低。
カラコン女はナイフに両手を添え、体重をかけ、ナイフごと私を押し潰すようにますます力を込めてくる。凄い力。私もパワーはある方だけどこのカラコン女の力はちょっと違う感じでなんていうか、その、重量感がある。こんなに細いのに。
 カラコン女の腕や肩の筋肉がだんだんと盛り上がっていくのが見えた。血管も網のように浮き出ている。
(こいつ男じゃーん)直感!
綺麗な顔や、きゃしゃな体に騙されたのだ。間違いない。私は自分にいくら力があるといっても、メスであるということくらい十分過ぎるほど自覚しちゃってる。男とパワー勝負するなんてバカの王様。こういうとき女が男に取る行動なんて一つだ。
「がぁ!」
 私の膝がカラコン女、いやカラコン男の精子製作所(有)に突き刺さった。速攻でカラコン男の腕から力が消える。やっぱ男。男に対して私は、綺麗に勝とうとかは思わない。そんなことしているとや殺られるだけ。私はカラコン男の手の指に噛みついた。全パワーを歯茎に集中させる。
「ぎぎぎぎぎぎー!」
「ぎゃ! 離せ! ぎゃあああああああああああああ!」
 離したのはカラコン男の方だった。ナイフが床へ転がる。私は拾われないように指へ噛みついたまま、足でナイフを蹴っ飛ばした。
 カラコン男は噛みついて離さない私の頭を気が狂ったようにドツキ回してきたので、こっちも狂ったように指へ噛み付いたまま顔に頭突きを食らわす。
 少しずつカラコン男の抵抗が鈍く、遅くなり始め、やがて静かになった。ドラムみたいに私の頭を叩いていた手が止まる。我に返ってカラコン男の顔を見ると気を失っていた。前歯がウットリするくらい、見事に折れていた。アホな顔面。口を閉じたままジュースを飲めるっていうくらいの特典しかなさそう。私はゆっくりと潰れたカラコン男を見下ろしながら、立ち上がった。頭の中がもやもやする。口の中に異物も感じる。
「くちゅ。ぺっ」
 口の中から、タコウインナーみたいな物が出てきた。鉄と血の生臭さと一緒に。気持ちわるぅー。ひどいレバーを食ったみたい。
 私は少し冷静さを取り戻し周りをゆっくりと見渡した。ウェイトレスが水の入ったコップを持ったまま凍りついたように固まり、こっちを見ている。私はフラフラとそのウェイトレスに近づき、「水」と一言だけ言い、手を伸ばした。単純に水で口を洗いたかったから。
「や、いやー」
 とウェイトレスはコップを落っことし、どこかに走り去って行った。
(ん?)
 私が映っている。ウインドガラスに。初めはまだ夕方なのかなと思った。でも違う。夕暮れの陽に照らされたみたいに、顔が真っ赤にスプレーアートみたいに染まっていた。私の口から鉄臭いトマトジュースがこぼれている。瞳が止まっていた。よどんでいるというか、目の黒い部分が広がったままだ。瞳孔というのか、よく分かんないけど。
「魚の眼」
 魚の眼に似ていると思った。夕方五時から安くなるスーパーのやつ。あまり新鮮じゃないって感じの。
(これじゃウェイトレスもビックリだ)
 あーあ、こりゃ逃げ出しちゃうのも無理ないね。ホラー映画みたい。私の顔面。
 私はチューブトップを引っ張り上げて唇を拭いた。下から下乳が出たけど気にしねぇー。ワンパクだからね。へへ。
 でもそのチューブトップ自体が血だらけなのであまり意味がなかった。なかなか取れない、このトマトジュース。
(桜子? 逃げた)
 ぼやけた頭のまま桜子を探した。カフェの客はかなりの人数が逃げ出してしまったようだけど、ビックリして固まってしまったままの客もまだいる。私はそのお客様達へ、逃げたウェイトレスの代わりに誠心誠意スマイルを撒き散らしながら手を振った。お客様達はとても良心的な半笑いで私を見てくれた。突き刺すような、ね。
(疲れた)
 私の悪い癖。コロコロと気分が変わってしまう。どんな大事なことをやっていても、どーでも良くなってしまう。アッサリと。何かすっかり桜子に感じていたムカツキがカラコン男とのバトルでスッキリと解消されてしまった気になっちゃってる私。
(眠い、お腹減った)
 めちゃくちゃ帰りたくなった。
 私は自分の割ったウインドガラスから外に出ようとした。するとガラスの破片が飛び散ったソファの脇で、顔を伏せ、しゃがみ込んだウェイトレスがいる。
(さっき逃げ出した奴か?)と思ったけど様子が違う。枝毛だらけの金髪パーマ。私はそのウェイトレスの髪を掴むと、無理やり顔を上げさせた。
「ひィー」
 桜子だった。
「お前、何でウェイトレスの格好なんかしてんの?」
 私は桜子の顔ギリギリに、自分の顔を近づけて聞いた。
 どうやらさっき、私は桜子を見つけたことにテンションが上がってしまっていて、興奮していたのか、桜子の服装にまで気が回らなかったらしい。 
「あうぅあぁ」声にならない。桜子はすっかりビビっている。
私はしかたなく、ホントにしかたなく可哀想だけれども、おもいっきり桜子の顔面をひっぱ叩いた。エへ、うふふふふふ。
「やぁ、やめっ」とますますうろたえる桜子。らちがあかない。
(ホント、こんなバカ女に何で刺されたんだろ?)
 そう思うとまた急にムカついてきた。桜子の髪にネジリも加えながら上へと引っ張る。
「痛い! やだぁやめてぇー」
 桜子、ブサイクに泣く。私、またムカツク。
「うるせー髪全部、枝毛にしてくれる!」
「痛い痛い!」桜子さらに泣く。ダメだこりゃ。
「こい!」私はこのお店を出ることにした。周りの客の中に携帯をかけている奴や写真を撮っている奴がいる。通報でもしているのだろう。わりかし遅くて助かったけど。写真の方は深夜のファミレスで時間潰しトークの時にでも使うのかね? 
 カウンターの下に隠れているつもりなのか、しゃがみ込んでいる背広を着た女の背中が見えた。店長か何かはよく分かんないけど、たぶんこの店の人間だと思う。ただ何もせず震えたままだ。
(客に通報させんなよ。この店ダメだ)と私は思った。
「ご迷惑かけてすみませんでしたぁー。急にナイフを持った奴に襲われちゃってぇー。正当防衛ですよねコレ? あー怖かった怖かったと」 
 そう、棒読みしながら私は店を出た。初ドラマのアイドルみたいに。

<4>
 あの店を出てどのくらい経ったのかな? 私は桜子の髪を引っ張りながら駅に向かっていた。桜子は無言のままで、私もかなり疲れていたので何も話しかけないまま、ただ何となく夜の歩道を歩いていた。酔っ払ったオッサンとかカップルがやたら目につく。
 携帯で時間を確認する。
 21:19。(うぁ! 万福丸)泣きたくなった。
(予約してくればよかった)見たいアニメがあったのに。
『やめてよ万福丸(まんぷくまる)』
 お腹も空いた。悲しい気分になってきてしまった。というか泣いた。私は桜子の方を泣きながら振り返る。
「お前のせいで見れないじゃん! バカぁー」おもいっきり泣いた。路上でおもいっきり泣いてやった。
「え? え! ああ、あの」
 桜子はビックリして戸惑っている。周りの視線が集まる。髪金のヤンキーとわんわん泣いている女。あきらかに桜子が私をいじめているように見える。
「ま、真樹。ちょっと」
 たぶん、桜子は私が泣いたところなんて見たことがない。桜子はますますうろたえている。少しずつ桜子と私の間に感情みたいなものが戻ってきた。熱みたいなものが。私はスウッと、右の方を指差した。そこには吉野家が光っている。お腹減った。



「大盛つゆだく!」
 特盛にしようと思ったけどやめた。量的にはあまり変わらないのだ。実際に食べてみるとこの値段の差っていったい? と思う。私の勝手な思い込みかもしれないけど。
 食う! 食う! 食う! 食う! とにかく食った。汁に茶色く染まるご飯が喉につまり気味で入っていく。こーゆう時って、舌で食うよりも喉で食っているって感じがする。まだ少し口の中には生臭い鉄の味がしたけど牛丼で無理やり、かき消してやった。
「玉子食うぞ!」と私が言った。
「う、うん」桜子は不思議そうにうなずいた。
「味噌汁飲むぞ!」
「うん」
「もう一杯食うぞ! 牛丼」
「あ、あのさっきからなんで私に聞くわけ?」桜子は言った。
「当たり前じゃん。お前がおごるんだもん」
「えー? なな何で?」
「誰のせいで万福丸、見られなかったと思ってんだよ!」
 私は桜子の椅子を蹴っ飛ばした。「ひっぃ」と桜子、なぜか白目をむいたまま椅子から転げ落ちそうになる。
「ふうー」私はドンブリの上へ箸を叩きつけるように置いた。ちょっと私は乱暴になっているのかなって思った。まだ血が荒れている感じ。
 桜子があまり食べていない。
「食わないわけ? どうせキミが払うんだから食えば?」
「う、うん」桜子は食べようとした。
 それと同時に私は桜子のドンブリに箸を突き刺す。
「ヒッ」桜子はまたビビっている。
「なぁ、もうちょっとコスプレするならセクシーなのにしろよ」
 黒のエプロン、白のシャツにブルーの蝶ネクタイ。それが桜子のスタイルだった。
「コ、コスプレじゃない。バ、バイト」
 桜子はふさぎ気味に言った。
「カフェでバイト? お前が? 冗談! お前風俗でバイトしてたじゃん! それコスプレだろ?」
 桜子が嘘をついていると私は思った。
「風俗はやめた」と桜子はポツリ。
「なんで? 向いてると思うよ。お前の中途半端な派手さ加減が」
 桜子はまた黙ってしまった。また私は桜子の椅子を蹴った。
「吐かないなら私が吐いてやろうか? お前の靴の中に」と私は桜子のヒールを脱がせようとした。
「そ、そ、それだけはやめてぇー」
「じゃあ吐け!」
 沈黙が続いた。私が食い終わった時に入ってきた水色のランニングのデブはもう食い終わって出て行った。外も車の音一つしなくなってきた。
「早く言えよ! 終電終わるじゃん!」私はイラついて言った。
――しばらく沈黙のあと突然「ちょっと!」と急に桜子に腕を掴まれた私はそのまま外に連れ出される。
「ここ、おもいっきり殴れ」
 桜子はお腹に手を置いてそう言った。訳が分かんない。私の質問を完全に無視して、しかも命令口調だ。なんだコレ? 
「はぁ? ナニ言ってんのよんお前? あっ! お前、それで帳消しにしようとしてんだろ! 冗談! 刺されたんだぞこっちは! しかもさっき泣いちゃったんだぞ!」
 私は怒った。お米粒を口につけたまま。
「いいから殴れ!」
 私の怒りなどおかまいなしに、桜子はブサイクに泣きながら絶叫している。
(うぁ逆ギレ。最低だ)
 だんだん邪魔臭くなってきた。それに桜子のバイト話なんてよく考えたらどうでも良いことなのだ。友達百人できるかな? って授業中先生に聞いたら「出きるわけないだろう!」ってビンタされてパンツ濡らした小学生の悲しみくらいどうでも良いことだ。
 よし! それでいい! 殴って終わろう。私は決めた。
「じゃあ殴ってやるナリ」と私は自衛隊みたいに敬礼し、下からえぐるようにアッパー気味のパンチを撃った。
「あが」めちゃクリーンヒット。
 桜子の触っていたお腹の部分ではなくて、それよりちょっと上の辺り、つまりみぞおちの所に綺麗に入った。桜子はその場にうずくまる。
「じゃっ! これっきりとゆーことで。アディオス!」
 と私は自分の顔の辺りで軽く手を振った。邪魔臭いことは全部終わったのだ、と思った。
「し、死ぬ」
 桜子の篭った声が聞こえる。
「あん?」
 桜子は苦しそうにうずくまっている。当然。これくらい効いてもらわないと私の立場がない。私はうずくまった桜子の髪を掴み上げて顔を見た。苦しそうにしている。
「バーカ! これくらいで死ぬかよ」と首をコキコキ鳴らす私。
「違う……」桜子は悲しそうな目で言った。
「違う? 何がだよ。ハッキリしねー奴だな! 殺すぞ!」
「あ、赤ちゃん」
 ?
 ハッキリ聞いてもよく分からなかった。
「はぁ?」
「妊娠してるんだ」
 にんしん。ニンシン。妊娠?! 
 私の中をビックウェーブに乗った笑いの神様が大笑いしながら駆け上がってきた。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
 ヒット! ヒット! 最高! サイクルヒット! お腹が壊れる!
「何それ! マジっすか? マジっすか奥さん?」
 桜子はコクンとうなずく。
「お・も・し・ろ・い・よぉー」
 ダメ。死ぬ死ぬ、絶品だ! 名器だ!
「そ、そこに入ってんの? お腹の中?」
「う、うん」
 桜子は苦しそうにうなずく。
「ひィーひィひィー。あん、悪い悪い! ど、どうすればいいわけ?」
 笑いのビックウェーブが止まらない。波に乗る笑いの神様。波乗りしながらウインクしてくる。
「私、小娘(ガキ)だからねー。だからそんないきなり体重預けられてもワカンネーの。難しいことも。だから自分でやれ?」
 と携帯をお尻のポケットから差し抜いて桜子に投げつける私。
「あ……」
 桜子はただ携帯を見つめていた。私も桜子を見つめていた。苦しさでアスファルトに倒れ込みながらも桜子は携帯をかけ始めた。私はただ見ているだけ。変な構図。
 十分後、赤いライトを撒き散らして、白い馬車がやってきた。枝毛だらけの金髪姫をお迎えに。


 病院は嫌い。病院に限らず学校、ヘアサロン、歯医者、何か特別な匂いがする場所は苦手。特に病院の待合室なんて、ズンと辛気臭い空気が辺りを包んでいて押し潰されそうになる。夜は特に。
(うるさいなーそんなに鳴らさなくてもいいじゃん)
 生意気な足音が近づいてきて、急に肩を叩かれる。ソファーに座り静かに目を閉じていた私だけど、靴音で後から誰かが近づいて来ていることくらいは分かった。でも面倒くさいので反応はしなかった。
「大丈夫よあの娘、良かったわね。若い妊婦さんみたいだけど、大丈夫。事情は聞かないから」目の細い、キツネみたいな顔面のナースが私に話しかけてきた。聞いてもないことをベラベラと。
「あっそう。そりゃよかったね! じゃあねー」
 私は勝手に救急車に乗せられてしまい、病院に連れ込まれていたので凄くムカついていた。終電でとっとと帰るはずだったのに。なので私はソファから立ち上がると、すぐにずらかろうとした。
「なな何? ちょっとアンタあの娘の友達でしょ。何よその態度」
 キツネ目がさらに吊り上った。何様? この女。ムカついてきた。
だいたいちょっと親しげに、型にハマらないナースをやってますよという感じがさらにムカつく。
「うるさい! 別に私は友達じゃないの!」
「じゃあなんでここにいるのよ! あんた病人? ああ頭が病んでるのね!」
 ナースはもう確認できないくらいに目を吊り上げて言った。私は殴ってやろうと思ったのだけど、病院の中から早く出たかったので、そのまま病院を出ようとした。
「あんた、この近くのこ娘じゃないでしょ」キツネナースが言った。
「だったらナニ?」
「ふふん。どーやって帰るの? 電車もバスも終わってるわよ」
(うぅ)嫌な点を突かれた。
「タクシー呼んであげようか? 白黒で赤ランプの綺麗なやつ。家までタダで送ってくれるわよ。きっと」
キツネはまた目を細めた。笑っても怒っても目がなくなる女。しばらく私は無言を通す。別にキツネの言ったことに怒ったわけではなく、何でこんなに邪魔臭いことになるのかと溜息をついていただけ。
 私は出入り口に置いてある自動販売機を思いっきり蹴り潰した。
「ちょっとな、何してんのよ!」キツネが声を荒げた。
「あぁ? 何って喉が乾いたからジュース飲みたいだけ。悪い?」
ひたすら蹴り続ける私。
「やめなさい! ここは病院よ」あたりまえじゃん。ナースがいるんだから。バカなことを言う。
 キツネからさっきまでの砕けた態度が消え、厳しい感じになった。
「まあいいじゃん! どーせ補導されるんなら、何か軽犯罪でもお土産にしてあげないと、少年課に悪いし」
「ホイ!」
 私はさらに蹴った。
「はぁー」キツネが深く溜息をつき、横にクビを振る。
「冗談よ。冗談! 警察になんか連絡しないわよ。ちょっと意地悪しただけ」
 とキツネはあきれた顔をした。
「私も冗談だよ」
 私は蹴るのをやめなかった。なんだこのキツネナースは? 場馴れした態度は? 全てがムカつく。
「ヤメロって言ってんだろうが! 殺すぞクソガキ!」
 キツネが低音で凄んできた。カビ臭いヤンキ―の匂いがする。
「殺されませーん」
 私はキツネに笑いかけるように言い返した。
「いや、殺す」とキツネが言った。この病院の入院患者にも聞かせてあげたい言葉。
「死にたくないしぃー」
「ダメ。死ね」
 バカナースとバカ会話。バカバカしい状況になってきた。
「あーもういいよ。じゃあ殺せよ。どーぞ殺してくださいな」
 私はキツネとの会話に疲れてきたので、投げやり気味に言った。
「バカか! 簡単に殺すなんて言葉にするな!」
 さっきからメチャクチャ殺すだの、死ねだの、言っていたくせに今度は説教臭く怒鳴ってきた。気がついたように看護婦らしいことを言っている。中途半端な奴。
「あーもう。お前、何が言いたいんだよ? ハッキリしろ」
 私はちょっとキレ気味に吐き捨てる。キツネは腕を上げ下げさせて派手なリアクションで、
「少しは話を聞けガキ」と言った。
「いいよ。言ってみ。聞いてやろう。」
 そう言いながら私はキツネに詰め寄った。
「上等だ聞きやがれ!」
(上等って……うわー本物だ)
 私は天然記念物に出逢ったような新鮮な気持ちになった。言葉のはしばしから感じるきな臭いヤンキーの香り。程好いダサさ。よく絶滅せずに生きていたね。という気分。ワクワクしてきた。
「いい? 大人しく聞きなさいよ」
 キツネは私に言い聞かせるように指を立ててゆっくりと言った。 私はというと珍獣を見るような瞳でキツネを見つめた。
「あら何よ? 急に大人しくなって。意外に素直じゃない」
 キツネは細い目を丸くして少し驚いたように言った。
「ねえねえ! ちょっとお前に聞きたいことあるのだけど」
 私にはどーしても聞きたいことがあったのだ。というか聞かずにはいられない。これだけはどうしても聞いておきたい。全歌舞伎役者の隠し子総数より知りたい。
「何?」キツネは微笑みながら聞き返した。
「お前ってさぁー酔っ払った時とかに「私さぁーワルだったんだよね」とか「昔、結構無茶しててさぁー」とか聞かれてもないのに言ってない? なあ! なあ! 言ってんだろう? 自慢話みたいに」
 話が終わらないうちにキツネは私の頭を殴り「今夜はお友達の病室に泊まっていきなさい」と言ってスタスタと廊下の闇に消えていった。図星だったらしい。
(あーあぁキツネが森に帰ってしまった)
 私は頭を殴られたことも忘れ、キツネの背中を暖かく見送った。猟師に捕まるなよーと。
 

 302。桜子の寝ている部屋。病院が大嫌いなのに、その病院に泊まらなくちゃいけないなんて悲しくなるけど、しょーがないのでコッソリ足音を立てずに病室302に入った。サッパリ殺風景な部屋。病室なので当然なのだけど、ベッドの他にはパイプ椅子が一つあるだけ。どこか古臭い感じもする。
(おいおいキツネさん。どこで寝ろというわけ?)
 とても休めそうなスペースなんてなかった。またしょーがないので、私はパイプ椅子の背もたれを前にし、そのままそれに胸を押付けるようにして座った。ホント最悪。
ぐっすりとお休みの桜子。暗い病室でエアコンの音だけがうなっている。耳障りな音。
(もぉダルイなー)
 よく考えてみると、なんで私がこんなヘタレな桜子にいちいち気を遣わなくちゃいけないわけ? バカバカしい。
 私は眠れないし退屈だしということで時間を持て余し、座ったまま椅子を前後へ揺りかご式に揺すったり馬に乗っているみたいにカタカタと病室を一周したりとかなり耳障りな音を立てながら時間を潰していた。黒板を引っかくのと、いい勝負の騒音だなと我ながら思った。
「誰?」桜子が起きたらしい。
「鮎川真樹十三。最近ハマッてること、ミミズクのものまね」
自己紹介してやった。早口で。
「真樹?」桜子は鼻の詰まったような声で言った。
「そう、お前は桜子、私は真樹。ここは病室、運ばれたんだよ救急車で。分かったかコラ! 以上。終わり」
 ここはどこ? 私は? なんてイライラするリアクションは見たくもないので簡単に状況を説明をしてやった。超早口で。
「あ、そうか私、救急車呼んで、乗って病院について」この女はまだボケたことを言っている。
「そんなリアクションはいらないのだよ。桜子くん」
 私はちょっと低い声で言った。
「お前のせいで私はメチャクチャひどい目にあってんだぞ! 足は刺されるわ、変なカラコン男にナイフで襲われるわ、アニメは見損なうわ、ビックリだよ」
 桜子は何も答えない。しばらく無言が続いた。私の椅子を揺らす音だけが病室に響く。
「謝んねーよ」ボソっと桜子が言った。
(かなり落ち着いてきたじゃんコイツ)
 いつもの桜子の態度。これが桜子。安定した状況になると急に生意気になる。この枝毛女。
「当たり前じゃん、謝ってすむか。ここでお前が良くなるのを待って、それで良くなったらすぐまた殴ってここ病院にブチこんでやる!」
「え? それでまた治ったら?」
 私は立ち上がって寝ている桜子の顔を上から覗き込みながら「それならまた殴ってブチ込んでやる。つまりお前はずーと病院にいられるわけ。良かったネ!」と言った。
 桜子の顔は凍りつき、ただ怯えたように私の顔を見つめている。私は桜子の前髪を少し撫でてやり「私さぁー退屈なんだ。何か笑える話ってない? ねえってば!」と今度は急に引っ張った。
「痛い」桜子は虫のような声で鳴いた。ゴキブリクラスの鳴き声。
 桜子の前髪をハゲおやじみたいに後ろへさらに強烈に引っ張った。
「痛い!」また泣いた桜子。
 私はそのまま桜子の耳たぶに口を近づけ、ユックリと頭の中へ声を注ぎ込むように、
「わ・か・ん・な・い? 言いたいこと、あるんじゃない? 私に」
と言った。桜子の体の震えが伝わってくる。
 桜子の髪から手を離し、鼻を親指で押し上げてやった。枝毛豚の出来上がり。
「ひィ」桜子が豚ッ鼻で涙ぐんでいる。面白い。
「なぁお前余裕あるなぁー。病院だから? でもさ、私ってどこにいても私なんだよねーヤルことも変わらないわけ」
 親指に力を入れる。
「がっ」桜子、さらに豚化。
「なんで刺したナリ? 私、何かした? それとも殺したいくらい嫌い?」
「じがう」(違う? 豚鼻じゃダメか面白いのに)
 しょーがないので桜子の鼻から指を離した。
「どうぞおしゃべり下さい。面白い内容なら殺したりはいたしませんので」
 私は手のひらをクルっと返して言った。
「万引き」と桜子が言った。
「はあ?」
(万引き?)
 一瞬、桜子がなんのことを言っているのかさっぱり分からなかったのだけど、ちょっと間を置いてから徐々に意味が分かってきた。
 あの日、私はドラッグストアにいた。ちょうどあの頃、私は髪を赤かグレーどっちかに染めたいなぁーといつも思っていて、よく二階へ上がる階段の所にある棚の前に座り込んではヘアカラーを眺めていた。そんな時、たまたま横を見ると桜子と栄子がいたのだ。
「お前、万引きしてたのか? あれ」
 あの時私は、桜子が万引きをしようとしていたなんてまったく知らなかった。せいぜい、シャンプーやコンディショナーなんかのコーナーに立っている桜子を見て、
(あの枝毛を治せる物なんかあるの?)と思ったくらい。あとはそれっきり桜子の方なんて見なかったし、気にもしなかった。
「でっ? 万引きが何よ?」私は聞いた。
「戻れなくなった。学校」
「学校? お前退学(クビ)になってなかった?」
「九月から復学、の予定だったのに」
 桜子は横を向いて、少しすねたように言った。
「お前が学校にチクッたんだろ。真樹」
 と桜子の言葉に私は凄い速さで瞬きをした。
「は? 何言っちゃってんのお前」
「ウルセー! もういいんだよ。どうでもいいんだ。もう」
 桜子は枕に顔を埋めて言った。
(えっえっなんですかコレ?)話が変な展開になった。私が逆に桜子にキレられている。訳も分かんないままに。ヒドイ。
「ちょっと待て! なんで私がお前の学校にわざわざ「桜子が万引きしましたナリ」なんてチクらなくちゃいけないのだ。 何の得があんだよ! だいたい万引きくらいで戻れなくなるわけ?」
「嘘つけ! お前のせいで復学は流れるし、担任には会ってもらえなくなるし、もう! もう! もう! うぅぅうう」
 桜子は本格的に泣き出した。もうメチャクチャ。
「コラ枝毛。お前勘違いすんなよ! お前みたいな枝毛に誰が興味もつか! 自惚れてんじゃない!」
「風俗のバイト、お前がばらしたんじゃん!」
 バカデカイ声で桜子が怒鳴った。静かな空間だけに余計に声が響く。
(わぉ! 濡れ衣二着目)
 さすがにここまでくると、あきれる他にどんなリアクションがあるの? って感じになる。 溜息も出ない。それによく考えたら復学が決まりかけていたのに万引きなんてやった桜子が腐っているわけで、私が腐っているところなんて一ミリもない。
「はぁー、ねえお前さぁ、そんな話どこで聞いたの? 噂か何か? それとも誰かから聞いたの?」
 一番気になるポイントを聞いてみた。
「栄子だよ栄子」桜子は涙を溜めた目で私を睨む。
(栄子)
 納得! 私の中で何かが開通。私は桜子とメチャクチャ仲が悪いというわけではない。でも仲が良いわけでもない。サイトで知り合った男を仲間とボコボコにし、金を盗ったりしていたのも私には関係ない。ただそれらのことを凄くステータスみたいに威張り腐っていたのが気に入らなかった。半漁人みたいな顔面のくせして。だけど栄子に関してはホントに嫌いだった。真面目そうなどっかの教室の委員長みたいな顔で自分では何もせず、彼氏を使ってバイクでひったくりをやらせたり、プチ家出している中学生とかに無理やり売りやらせたり、自分だけは遠く綺麗な空気の所にいて、他人の吸う空気だけをひどく脂臭いものに汚しいく。そこが桜子と違う。桜子は自分も脂臭い。なので、私は栄子が街を歩いているたびに後ろから蹴り飛ばしていた。理由なく。生理的にムカツクのだ。だからたぶん私に何か仕返しでもしてやろうと桜子を使ったんだろう。栄子豚らしい。どーせ桜子の万引きも風俗でのバイトの話も、学校に流したのは栄子。知ったこっちゃねーけど。
 邪魔クセー。それくらいしか感想はなかった。自分の知らない場所で色んなことが複雑に重なり合って私は刺された。それだけ分かれば十分だと思った。もういい。
(やっぱりあのカラコン男って栄子の彼氏だったのかな?)
ちょっとこのことについては興味があったけれども。
「なるほど! それで私を刺したのねん?」私は誤解だとか、栄子
のせいだとかは言わなかった。桜子の話に納得してやった。それに
心のどこかで桜子なんかに刺された自分自身に対してのムカツキも
あったから。
「面白かったよ、なかなか。だから殺してやんない」
 そう私は桜子から離れ、椅子に戻った。
「え?」桜子は驚いたように聞き返した。
「それとも私を殺したいかな?」私は軽く笑う。
「もういい」と桜子は言った。
「そう? そう。じゃあついでに聞いてもいい?」
 と私は椅子をまた揺する。
「何?」桜子は素直に返事をした。
「その子誰の子? 気になる気になる♪」桜子のお腹を指差して言った。リズミカルに。
 桜子はさすがに言いにくかったらしく少し黙ったあとで「客」とだけ答えた。
「ヘルスの? それともデリヘル時代の?」と私が聞いた。どれも本番なしのお仕事だけれども、桜子のことだ、どうにも 騙されるかマネーでも目の前に吊らされれば、即、生で中出しOKって感じになってそう。
「デリヘル」
「ふーん」
 単純なQ&Aが続く。冴えない暇潰し。
「なあ? ちょっと気になっていたのだけど、お前、何でそんなに学校に戻りたいわけ?」
 私には理解できなかった。桜子はそんなキャラじゃないと思っていた。勝手な思い込みではあるけど。
「約束。約束した」
「だーれと? なーにを?」私は少し冬実風に言ってみた。
「警察」とだけ桜子が言った。
「誰それ?」
「少年課の奴」
 桜子は壁の方に寝返りをうちながら言った。
「チッなんだ、アホかぁ! そいつに説得されたからって? 死ねバカ枝毛! なんだそのストーリ展開は? ケーブルTVも買わねーようなコンテンツじゃん」と私は舌打ちする。
「バーカ違うよ。客だったんだよ」
「あーあ客に化けて補導する奴だろそれ。私もちょっと前にサウナ前の屋台でうどん食ってたら、エンコーに間違えられて捕まりそうになった」
 私は自分に関係がある話が出たのでちょっと興奮気味に喋った。
「それ、間違えられたんじゃねーだろ。深夜にあんな所でガキが一人うどん食ってたらそりゃ補導されるって」
 桜子にあきれた感じで言われた。お前にあきれられたくはないと思った。
「そう?」と私はちょっと立ち上がってパンツの中に指を入れた。
「食い込んだんだろ? パンツ」
「う、うるさい」
「椅子で遊んでるからだ。ガキ」
 桜子は笑う。ホントに余計なことを。
「それでっ? 話続けろ!」
 私はちょっと恥ずかくなって強引に話題を変えた。
「別にもう話はねーよ。この中に入ってるのは少年課ジュニアってことだけ」
 と手をお腹の上に置いた桜子。私から目を背けて。
「ミイラがミイラって奴? それ」と私は言った。
「違う。ミイラ取りがミイラだろそれ?」偉そうに桜子は言った。
「うるさいよ! 何でお前みたいな枝毛ヤンキ―に教えられなくちゃいけないんだよ! ガァー」
 と私は恥ずかしかったこともあって、ちょっと犬が吠えるみたいに歯をむいた。
「それでその少年課とはどーなったわけ?」
 桜子は何も言わない。
「携帯の番号変わってて、メールアドレスも変わってて、あら残念なお知らせって感じ?」と私は続けた。
 桜子は黙ったまま、ただ私の方に向けて指をクルクルと回しただけ。ビンゴとでも言いたかったのか。
「でもその少年課の奴と学校と、どういう関係があるんスか?」
 体育会系で桜子に聞いた。
「最初は優しかったっていうか、まあ誰でもそうだろうけど、今考えたらさ、しらけるような説教臭いことでも喜んじゃったりして、ガキには分かんないだろうけど」
「お前もガキだろ」ガキにガキと言われたくないと私は言った。
「まあね」と桜子は返事をした。
「けっ、どうせ学校には行っとけとか言われたんだろ? 考えただけで吐き気がする。三週間の便秘になりそう」
「まあね」さっきと同じ返事の桜子。
「やることだけ犯やれて」
「まあね」
 桜子は私の顔をジーと見ながら言った。私はバカにされていると思って「ふざけてる? 殴るよ」と言った。
「綺麗な顔」桜子がポツリとほざく。
 私はパイプ椅子を蹴っ飛ばした。
「ヤッパふざけてる。殺す」
 私は蹴っ飛ばした椅子を持ち上げて桜子にガンつけた。だけど桜子はビビッた様子もなく、私の顔を眺めている。
「腹立つくらい小さい顔、なんなんだよその足の長さは!」
 桜子は逆切れ途切れの言い方で怒鳴ってきた。
「し、知るかっ!」
「ねえどんなシャンプー使ってんの? その髪。どこ?」
「はぁ? あ、ああ……植物なんとかっていうやつの」
 椅子を振り上げたまま私は桜子の変な質問に答えた。
「あれ効くかぁー? 全然ダメだったぞ」
「ヒャハハハ! お前の枝毛は何使ってもダメだって。無駄! だって笹の葉みたいじゃんお前の髪」
 ちょっと面白かった。桜子の話にしては。私はムカツキ感も消えてしまい、椅子を降ろして座った。
「ホント、性格って顔に出ないもんだよねー」桜子は笑っている。
「なんじゃそりゃ」
「お前の性格が顔に出てたら虫が湧いてるよ。顔面に」
「そう?」私は軽く舌を出した。ただそれだけ。
 AM4:3。
(もうすぐだなー)携帯を見ながら帰りの電車のことを考える。
「帰るのか?」桜子はまだ起きていたらしい。
「悪い?」私は立ち上がって桜子の方に近づいた。
「別に」桜子は横を向いたまま。
「おい! ちょっと携帯貸せ」
「何だよ?」桜子は変な顔で私の顔を見上げた。
「いいから貸せ! ホラ」
 私は手でベッドの手摺りを叩いた。桜子はグズグズしていたけど、結局携帯を出した。
 ……。
「ホイ!」
 桜子に携帯を返す。
「何したんだよ。まさか変な着信に変えたんじゃ?」
 と桜子は携帯を受け取る。
「私の番号入れた」
 私は桜子の携帯に自分の携帯番号をメモリーした。
「バカ? お前なんかに電話するか」
 桜子は眉間にしわを寄せている。
「お前のそれ」私は桜子のお腹を指差して、
「膨れてきたら、教えろ。頭とか出てくるとこ見たい」と言った。
 想像できないことは楽しい。自分の脳みそでは手に負えないような出来事が起こると体が熱くなって、ヒーローに変身しちゃいそうなカッコイイ気分になれる。だから私はバカのままで良い。そうすれば、だいたいのことは手に負えない。何を見ても新鮮な気分でいられる。この桜子から赤ちゃんって奴が出てくるなんて考えただけでもオシッコが漏れちゃいそうなくらいに笑える。きっと自分が今までで体験してきたイベントを集計して作ったマキ・ボードなんてあったらいきなり一位にランキングだ。
(桜子のアレから頭がぴょこん! プっヒャハハハ)
 確実な楽しみが一個増えた感じ。毎月やってくる全米ナンバーワンヒットの映画よりよっぽど信用できる楽しみだ。
「何言ってんだか。まだどうするかも決めてないのに」
 とシーツを指で何度も摘み上げる桜子。
「ありゃ? 赤ちゃん消しちゃうの? じゃあなんでバイトなんかして金稼いでんだよ」
「金。とりあえず金溜めなきゃと思ったんだよ。この状態じゃあ風俗はもうできないだろ。とりあえず」
「ダメ! 産め! 私の目の前で」
 つまんないそんなの。
「何だそれ。俺の勝手だほっとけ」
 頭からシーツをかぶり、桜子はすねたように言った。
「ふん! つまんねー奴だモジャ。地方タレントかお前は!」
 と私はドアの手摺りに手をかける。
「じゃあね。枝毛」
 ドアを引いて302を出る。桜子はシーツをかぶったまま。
(ナースステーションか)
 だいたいドラマとかで見たやつと変わらなかった。病院の出入り口の近くにあったので、キツネ目看護婦はいないかなーと覗いた。二人いた。その内の一人は一生懸命ノートみたいな物に何か書いていた。もう一人は雑誌を読んでいた。椅子へ座り生意気に足を組んで。
「おいキツネ。さぼるな!」
 雑誌を読んでいた方に言った。すぐにこいつがキツネだと分かった。目を確認する間もなく。
「はい? あら、お嬢ちゃんどうしたの?」
 キツネじゃない方のナースが返事した。キツネより感じが良い。
「あ! 先輩いいッスから私の方なんで。すみません」
 キツネはそう言うと立ち上がってこっちに来た。
「ガキ。帰るの?」
「まあ、そーいうことですな」
「あっそう。ねえ? あんたこれ何本に見える?」
 キツネは私の顔の左側に指を立てた。
「さあ?」私は頭をかいて言った。
「いつから?」
 キツネ目に眼のことを聞かれるとは思わなかった。
「んーチビッ子の頃からかな? よく憶えてないけど、こけたりしたんじゃないの」
 私は適当なことを言った。正直に答えたって意味のないことだから。
「うーん、右は大丈夫みたいね」
 とキツネは私の顔をじーと見る。
「何が?」
「眼」糸コンニャクみたいな目を下に引っ張ってキツネは言った。
「お前は見えてんのか? その目で?」
 私、頭殴られる。
 私はキツネにも会えたので病院を出た。外はかなり靄がかかっていた。良いと思った。明け方のシーンとした冷たい感じは良い。真夜中と違って、全部終わってしまったあとの静けさじゃない。何かが始まる前の静けさ。それには期待がある気がした。私はしないけれども。
「オイ」声に振り返るとキツネがいた。
「しつこいぞキツネ、帰れ森に。うろうろしてたら捕まるぞ。猟師に」
「なぁお前、健康?」キツネはダルそうに煙草を咥え、細い目をより細くした。
 私はキツネの方に包帯を巻いた左手を向けて「不健康」と言った。カラコン男のナイフを掴んだ時に切れた傷。病院に着いた時に早く帰りたくて傷を隠していたのだけど、結局血が止まらなくってバレてしまい縫われた。ホントに最近の私は雑巾娘だ。よく縫われている。
「あっそう。じゃあまた会うかもね。私、看護婦だから」
 とキツネはプカプカと煙を噴かす。
「何だ? キツネ。私が好きなわけ?」
「ハッハッハーそう。エッチしたい」キツネは笑っている。
(最近、似たようなこと言われた気がするな)と思ったのだけど誰に言われたのかは思い出せなかった。まあ忘れてしまうようなことなので、たいしたことじゃないのだろうけど。
「四時四十八分」キツネは煙草の先を地面にこすりつける。
「あん?」
「電車で帰るんだろ?」
「あ、電車の時間か。ウルサイ。キツネが人間に指図すんな」
 と私が言ったら、
「ふん! とっとと消えろ」と言ってキツネは病人だらけの白い森に帰って行った。
 私は駅に向かう。
パンツのポケットに突っ込んでいた小銭の音がうるさかった。なんかイライラしてきてしまう。しかも駅が近づいてきた時、ランニング一枚の酔っ払いがいきなり抱きついてきてもう最悪だった。ムカついて殴り倒したあと、邪魔な小銭で買えるだけジュースを買ってダウンしていた酔っ払いの周りに壁みたいに積み上げてやった。何も知らずに起きた時、この酔っ払いはジュースの雪崩に潰れる。その瞬間を見られないのが残念だけれども。
(幸せそうだな。コイツ)
 ふと酔っ払いの顔を見ていて思った。酔っ払いの幸せそうな寝顔を見ながら私は自分の髪を触ってみた。汗でベタベタしてる。汚れている。でも不思議とキモイ感じはしなかった。酔っ払いのランニングはもう何色? っていう感じに汚れていて、全種類の絵の具を混ぜたパレットみたいだった。私はそれを見て「いいなあ」と思った。
(これだけ黒くなってると、何混ぜても変わんないよね)
 黒は何を混ぜても黒。白みたいに何色にもなれるわけじゃないけどいつも自分でいられる。汚れも気にしなくていい。
(冬実なんてドギツイ油汚れですな)
 そんなことを考えつつ、私は時間を確認してみた。
 AM4:50……乗り遅れた。次は何時?

<5>
 太ももにはおもいっきり傷が残った。記念に傷の長さを測ったら4センチもあった。桜子に刺されたあと、力任せに荒っぽく引き抜いたのが悪かったらしい。だけどこのミミズがジグザグ走行した感じのいびつな傷跡はどう考えても隆行さんの手抜き作業が原因に決まっている。でもこの傷のせいでミニやショーパンが穿けなくなるなんて絶対嫌だったので、最近は傷に抵抗するように積極的にミニを穿いていた。
 深いビルの谷間。周りを囲む建物のせいで、上を見上げても空の面積は狭く、僅かに細長い長方形の青しかみえない。ホコリっぽい匂いと湿った空気の冷たさ、うだる暑さの中ではこんな雑居ビルの裏口でも都合の良い避難場所になる。
「もう痛くない?」
 と風鈴は私の傷を撫でた。
「お前、もっと辛いやつにしろって言ったじゃん?」
 私は店の裏口の階段に座って、カレーを食っている。
「お昼ご飯食べさせてあげてるのに文句ばっかり。しょうがないわね」
 猫を膝に抱きかかえながら風鈴は笑った。風鈴が猫を抱いている姿は好き。特に薄暗くてガラスの破片や、変な魚のマークが入ったダンボールなんかが散らばったこの路地裏では、空間とのギャップでさらに綺麗に見えてしまう。一つ一つの動きが凄く静かで、無駄がなくて油断した表情がない。喋る前に切れ長の涼しい目元をゆっくりと瞬きするところなんて思わず見とれてしまう。モデルでもないのだから無駄な美人って気もするけれども。
「何よーニヤニヤして。面白いことでもあった?」
 そう言って風鈴が急に振り向いたので、私は慌ててカレーの残りを食べる振りをして視線をそらす。
「はい。また来てねー」
 と風鈴は猫をそっとアスファルトに置いた。
「ヒヒヒ。お前さー客に言うのと同じようなこと、猫にも言ってない?」
 猫が名残惜しそうにしばらく風鈴の元を離れなかったので、なおさら店の客に見えてきて面白い。
「あら、違うわ真樹。いつもお客には「二度と来るな」って言ってるもの。心の中で密かにだけど」
「ホントかよーまたキャラ作って「ぜーったい、また来てね」とか言ってんじゃない?」
 私はスプーンで皿を木琴のように二、三回叩き、言った。
「猫の前じゃ、私は正直よ」
 私が皿を鳴らしたのと同じような音を立てて、風鈴は階段を上がって来た。
「私もお前の前にいるのだけれども」
「あなたにもこんなチビッ子の頃から餌、やってるでしょ?」
 風鈴は手で私の頭を軽く抑え、言った。
「わたしゃ猫かい」
「そうね。ブチの野良猫」
 そう言い終わると風鈴は私の頭を乱暴に抱いた。
「ああーやめろ! お前は石鹸臭いんだよ」
「はいはい」
 風鈴はカレーの皿を素早く片付けると、これまた素早く私から離れた。
「ねえ? 今度は何が良い?」
 風鈴が聞いてきた。
「ラーメン!」
「ラーメン? あらちょうど良かった。常連さんでラーメン屋の大将がいるのよ。今度来た時に美味しい作り方、聞いておくわ」
(聞くって? ハメられながらか? じゃあハメ聞きだなー)と私は風鈴が作り方を聞いている姿をリアルに想像しつつ「みそ!」と答えた。
「はいはい。みそラーメンね」
 風鈴は嬉しそうに言った。かわいいやつ。
「今日、これからどうするの? 真樹」
 と風鈴は首の後ろで両手を組み、少し腰をひねりながら背伸びをしていた。
「バイト」
 ペットボトルの緑茶を飲みつつ私は答える。
「どんなバイトなの?」
「良いじゃん。何でも」
「真樹……」
 風鈴の表情から涼しさが消えた。少しずつ険しい顔になる。
「短期間でメチャ高収入なやつ」
「マーキー」風鈴、さらに眉が吊り上る。
「お前が思ってるようなバイトじゃないって」私はキレ気味に言った。いちいち、めんどくさい女。
「やだーもう安心したー」
 また風鈴が抱きついてきた。
「だからそれはやめろって! 石鹸臭い!」
 この女は自分が風俗の仕事に浸っているくせに私のこととなると、急に神経質になりやがる。前に私が控え室に遊びに行った時、店長が冗談で「真樹ちゃんうちで働かない?」なんて言ったら、本気で怒っていた。
「もう十三じゃ希少価値ないかな? ランドセルも無理だし」
 と私は反り返って背伸びをする。
「あなたの場合はランドセル背負うと、コスプレにしか見えなかったわね」
「まあ、良いんじゃないんですか? 地球にもマニアにも優しいメス、目指してるし」私はお尻のほこりを叩き立ち上がった。
「あっ! ねえ、今度、みーちゃんも入れて三人ですき焼きしようよ?」
「はは。風俗嬢にご飯おごってもらって生活してるなんてヒモですな。私は」
「何言ってるんだか、今さら。風俗嬢のご飯でもちゃんと大きくなってるじゃないの。余分なくらい」
「お前の作るご飯、必要以上にタンパク質が入ってたりして。ヒャハハ」と階段から一気に飛び降りる私。
「ああ! 待って真樹ちゃん。月曜日、私休みでしょ? うちに泊まらない?」
 バカバカしい。風鈴はたまに思い出したように一緒に住もうだの言ってくる。
「お前な。野良猫とか気軽に餌やれるからかわいいんだって。拾って帰ったりして、面倒みることが義務になっちゃったりすると、ウザイだけだよ。な? だからお前は気が向いた時だけ私に餌やってりゃ良いの」
「そんなことない。こんな仕事してる人には結構多いのよ、猫飼ってる人。まあ、中にはホスト飼ってるのもいるけど」
「じゃあ私飼う?」
 私、自分を指差す。
「餌代かかりそうね」
「だから、やめとけ」
 私はそう言ってバイト先に向かった。


 定規で測ったようなきっちりとした形の草木ばかり。
 それぞれ違うデザインの住宅が並んでいるのに、私には全部同じに見える。煙草の吸殻なんかもまったく落ちてなくて、道路も嫌みなくらい補正されていて、私が住んでいる町に比べれば断然綺麗で住みやすそう。でも、何かここに立っているだけで、ストレスを感じるというか私に合わない場所。
 昼なのに人通りがほとんどない。単純な十字路ばかりが続いているのだけれど、それが逆に、自分がどこまで来たのかを分かりにくくしていて、一度行ったきり大嫌いになった大迷路のアトラクションに迷い込んでしまっている気分になった。
(うえ、吐きそう)
 久しぶりに襲ってきたらしい。この迷子な感覚。最近大丈夫だったので油断していたらこのざま。吐き気がして頭の中に大波が立っているみたい。目前に広がるパノラマが歪んだまま回転している。競馬場だとか、人が溢れてる場所だったり、よく知っている場所なら良いのだけれど、こういう静かというか、熱の感じられない几帳面な空間はダメ。とにかく、自分の住んでいるエリアとギャップのあるエリアがたまらなく嫌。なぜかひどく哀しくて混乱した気持ちに沈んでしまう。もちろん、毎回このパターンに落ちるたびに心底情けなくなるのだけれど、こればっかりはどうしようもない。心の奥底にこびりついている何かに体を占領されてしまう。
(あーちょっとダメかも)
 私はその場に座り込んでしまった。太陽の照り返しに燃えるアスファルトの熱さも追い討ちをかけてくる。体が動かない。同時に頭と体が別々になるような変な感覚。このパターンに陥るたびに襲ってくるイメージ。
「お嬢ちゃんー? どうしたのー」
 気が付いてみれば、覚えているのはその間延びした声だけ。目に映ったのはさっきまでの照り返しに湯気を立てていた物から、揺れる葉の影を映しだす冷たいアスファルトに変わっていた。私は、はっきりしない意識を振り切るように頬を二回叩き、周りを見渡してみた。さっきの住宅街だった。単に体と心の不調だったのかな? と思った。でも、上を向くとさっきいた場所にはなかった家のブロック塀からはみ出した葉が風に揺れている。涼しそうに。私は確かに移動していた。より癒される場所に。
「ひゃはははは」
 思わず変な笑いがこみ上げてきた。訳が分かんないけど、とにかく笑える。私だけのオリジナルかもしれないけれど、とにかく、変なことがあったら笑っとけって感じ。
(あ?)
 何かガラガラと音がした。と思ったら、おもちゃの真っ赤なフェラーリに乗った野球帽のガキと目が合った。固まった表情で私の顔を見つめるガキ。
「ははは」
 私は苦笑いしたまま、手を振った。ガキは、凄い勢いでペダルを漕ぎ逃げて、湯げ立つアスファルトの彼方へと歪みながら消えて行ってしまった。私はちょっと恥ずかしい気持ちになりつつもまた光彦の家を目指し駆け出した。
(髪アップしてくれば良かった)前髪が額に張り付く。
 私はダウン寸前のボクサーみたいにフラついて、汗で湿り体にまとわりついた白いキャミの重さと、熱くなったクロスのネックレスを邪魔臭く感じつつ、何とか光彦の家に着くことができた。
 二階建て。玄関先からドアまでの間に右を向けば庭がある。普通の家という以外に例えようがない。でもその小さな庭は綺麗に整備されていて、その整った芝生の緑は何だかとても目に良いんじゃないかなーって気もする。玄関先には鉢植えがドアまでのわずかな距離を道を作るようにして両脇を固めていた。
(歩きずれー)私は鉢植えを一個一個蹴っ飛ばして歩きたいという衝動を抑えつつチャイムを鳴らした。ピロロロロ! ずいぶん間の抜けたチャイムだったけど、すぐ間もなくドアが開いた。
「あぁ! やっぱり真樹ちゃんだ! 待ってたのよ! さあさあ早く入ってちょうだい。光彦もすごく会いたがってたの」
 ん? 真樹ちゃん? 誰だこいつ? 飛び出すような勢いで現れた女は間違いなく光彦の母親だったけど、違っていた。
「今さっき起きたところなのよ光彦。どうぞ部屋に上がってて、何か飲み物でも持っていくから。コーラーとかでいいかしらね?」
 と光彦の母親は階段の下まで私を案内した。
 感じがまるで違う。光彦の母親。良く言えば態度が柔らかくなったという感じだけど、悪く言えばひどくへつらった感じ。だいたい今まで真樹ちゃんなんて気安く呼ばれたことなんてない。チビッ子の頃からこの女には「鮎川さん」としか呼ばれたことがない。親しみの欠けらもないような奴なのだ。三ヶ月前、病院の見舞いに行った時だって挨拶しても返事はなく無視された。最凶にクソババアなのだ。光彦の母親は。
(調子狂うなー。少し怒らせてみますか)
「あのさぁー私ねぇーケーキ食べたいの。それとコーラーは嫌だなー私、炭酸嫌いなんだー」
 とおもいっきり嫌な感じで私は言ってやった。
「あら? 真樹ちゃんって炭酸嫌いだったの? そう分かったわ。すぐ買って来るから光彦と遊んでてね」
(うそーん!)
 肩透かしを喰らった気分。光彦の母親は笑みを浮かべると、素早くサンダルを履いて玄関を出て行ってしまった。私はその場に思わず呆然と立ち尽くす。
「なんだあのババア? 夏の熱で脳みそ溶けてんじゃない?」
 私はブツブツ言いながら階段を上り光彦の部屋に向かった。階段がかすかに軋むような音を立てていた。薄っぺらいベニヤ板の音。光彦のドアにはサーフボードの形をしたネームプレートがかかっている。前からこのプレートは変わってない。波を模った部分がぽっきりと折れているところなんかも。
 私はドアを叩く。
「はい?」ドアの奥から光彦らしき声が聞こえる。
「私」
「ハハハ! 何だ真樹か。ノックなんてがらじゃないじゃん。入って来てよ」
「えーだっていきなり入って、エッチなビデオとかと格闘中だったりしたら悪いですもん。気を遣ってあげているのですわ」
 と私はお嬢様風に言った。
「バカだねー相変わらず。ふざけてないで入って来てよ、早く」
 と光彦の声。
「冷たいツッコミ」と私はドアを開け部屋に入った。
 ?
 一瞬何かとビックリした。光彦の部屋にビックリしたわけじゃない。なんと部屋に一休さんがいたのだ。しかもこっちをみてニコニコ笑っている。
 十、九、八、七……私の中で静かにカウントダウンが始まった。――二、一……!
「ヒャアー! ハハハハハハハハハハハハ!」
 私は絶叫のような笑い声を上げ、膝から崩れ落ちた。お腹が壊れる! 頬肉が吊って痛い! ヒットだヒット! 微妙にポテンヒット! 最高!
「なんだその頭ー! ヒャハハ! ここ寺? ねえ? ここ寺か?ねえねえ光彦、ここ何寺? 光彦寺? ヒヒヒヒィー」
「真樹、笑いすぎ」
 と光彦はベッドに座りムッとした顔で私を睨んでいた。でもまたその顔が面白くて、私は床へと笑い転げていた。
「落ち着いた?」
光彦は冷めた目で言った。
「悪いね。ビックリしちゃってて」
 と私はブルーのカーペットの上に寝っ転がったまま、腕立て伏せをするみたいにして起き上がった。
「気にしてないからいい」
 光彦はおもいっきりブーたれた顔で言った。
「でもさー、マジでその頭ってなに? 坊主プレイでもしたいの? 私にお札でも貼りたいとか? いやぁーこのエロ坊主」
 そう言って私は両手で胸を隠したままベッドの上の光彦を見上げた。
「ううん。邪魔だから剃ったんだよ。て、いうか剃られたんだけどね」と光彦は自分の頭をさすった。照れくさそうに。
「ふーん。で、調子良くないの? 退院したっていうから治ったのかと思ってたモジャ」
「そんなに簡単に治んないよ。頭の中が腫れてるんだ。だから退院ってわけじゃなくて、少し病院からお休みもらっただけ」
 と光彦は笑いながらまた頭をさすっていた。
「脳腫瘍って感じのやつ?」
「へえー真樹がよく知ってるね。先生に教えてもらったの?」
「真樹がーって失礼な!」
 私は手を頭の後ろで組んで背伸びをする。
「先生どうしてる? 会ってるの?」
「普通。だってまだ一緒に住んでるし」
「えっ? でも真樹のお母さんと先生って……」
「別れましたよん」
「それでも先生と一緒に暮らしてるの? 二人っきりで?」興味深そうに光彦はベッドから少し体を乗り出す。入院暮らしがよほど退屈だったのか? 話題に飢えた主婦みたいだった。ワイドショー好きの。
「別に暮らしてるって言ってもさー、あの人昼はいっつもいないし、夜は警備の仕事してるし、ほとんど顔なんて合わせないのです。はい」
「ふーん、なるほど。なかなか複雑ですなー」と光彦は何を勝手に納得したのか知らないけど、腕を組んで一人、唸っていた。
 久しぶりに会ったけど光彦の顔色はなかなか良いように見えた。肌は少しだけ白くなった感じがする。元々細い奴だったので頬がこけたとか、前と比べて少しやつれたとかいうのは分からない。でもとくに病人っぽい感じはしなかった。あくまで私の感覚的なものだけれども。
 光彦はダムが崩れたように凄い勢いで喋り始めた。小学校時代のことや、まだ隆行さんが診療所をやっていた頃のこと。砂場で私と一緒に持ち出した聴診器を埋めて隆行さんに怒られた話。……などなど過去の話ばかり。まるで今あっている出来事のように。私はそんな光彦の話をただじっと膝を組んで聞いていた。
「へへ、なんか自分ばっかり話してるよね。ごめん。つまんないよね」
 急に我に返ったらしく、光彦はすまなそうに言った。
「つまない話なら聞かないよ、私。ねえ? 知ってるでしょ?」
「ああ! よく朝礼中に勝手に帰ってたよね。真樹は」と光彦は声のトーンを上げ、言った。
「しょーがないじゃん。だってアクビが出たんだよ? そしたら急に悲しくなっちゃってさー、しかもなんかブラ紐のところが痒いの。もうこれは帰るっきゃないって感じでさー」
「ハハハハハ! バカだ。バカマキだ。ハハハ! 最高!」
 光彦は笑っている。ホント、楽しそうに。
 ――ドアをノックする音がした。わざとらしい。勝手に入って来ればいいのにと私は思った。
「光彦ちょっとこれ取って。両手塞がってるから」
 僅かに開いたドアの隙間からスプライトのボトルを持った手が出てきた。光彦の母親が帰って来たらしい。
(おいおい、結局炭酸かよ)
 このババア嫌がらせか? と私は思った。
「母さんいいよ。自分でやるから」
 光彦はさっとベッドを降りると、母親から差し出されたスプライトを受け取った。
「はい。これケーキとコップね。それじゃ母さん、ちょっと買い物に行って来るから真樹ちゃんもゆっくりしていってね」
 光彦の母親は私が今まで見たこともないような笑顔を振りまいて、下の階へと消えた。私に気を遣っているみたいだった。まったく信じられない。
「露骨に変わっだろう? あの人」
 私の顔の前でケーキの入った箱を軽く上下させると苦笑いして、光彦は言った。
「おい光彦。オバサンって頭の中に虫がわいてんじゃない?」
 と私は光彦の着ているシャツの袖を引っ張った。
「虫はひどいなあ。一応親なんだからさー」
 そう言って光彦はコップにジュースを注いだ。
「だって光彦の前の家があったじゃん? 引っ越す前の。そこへさー私が遊びに行くたびに露骨に嫌な顔してたし、ウチの母親がさ、家にいないのをさ、知っててさ、「早く帰んないとお母さん心配するわよ」とか嫌味言うし。ホント、どーやったら私を家に帰せるかそればっかり考えてた奴だぞ。それが見た? 今の態度。気遣ってたぞ。しかも笑顔でスマイルで、つまりドイツ語で言うと……わかんない」
「あの人ね、たぶんあの人、僕のことを今本当に一生懸命やろうとしてくれてるんだ。変わったのはつい最近なんだけどね。検査後でさ、急に担当の先生にお休みもらったから帰ろうかなんて言ってきてさ。真樹に遊びに来てもらおうって言い出したのもあの人なんだ」
 少し窓の外へと視線をはずし、光彦は言った。
「あーん、ショック! それは残念。本人が会いたかったわけじゃないんだ?」と私は薄笑いを浮かべる。
「違うよー。僕も会いたかったんだって。でもほらさ、真樹が僕に会いに来てくれたとして、あの人が前みたに嫌な顔して真樹に嫌なこと言ったりしたら、それは僕も嫌だなーと思ってたんだ。だからさ」
 光彦、相変わらず細かい奴。病気になっているっていうのに、私だけじゃなく自分の母親にまで気を遣っている。
「でもさ、あれくらい母親の態度が露骨に変わるとさ、嫌でも分かっちゃっうんだよね。かなりやばいってのがさー。あの人不器用だからすぐ顔や態度に出るんだもん」
 と光彦はまたベッドから降りると部屋の右隅にある机に座った。
 少しの間、光彦は私に背を向けたまま無言で座っていた。私も何も言わなかった。光彦が話したくなれば、また私に話しかければ良いのだ。帰って欲しければ私は帰るし、このまま静かにいて欲しいならそのまま。私はそう思って、光彦の座った机の横にある窓から外を眺め、ただぼーっと風に揺れるレースのカーテンを見ながら、(カーテンも良いなー自分の部屋もカーテンに戻そうかなー)とかくだらないことを考えていた。
「真樹……真樹!」
 名前を呼ばれている。私はその声に反応してゆっくりと目を開けた。
「うああ! ハゲ!」私はビックリして叫んだ。
「ハ、ハゲって、これは坊主!」
 目の前にはムッとした表情で自分のハゲ……いや、坊主頭を指差す光彦がいた。
「ああ? 光彦か。ん? どした?」
 私は寝ぼけていた。壁に寄りかかったまま寝てしまっていたらしい。
「普通、人の家来て勝手に寝るか?」
「ふうー。寝ちゃったかー。ごめん」
「困ったよ。何度呼びかけてもなかなか起きないから」
「そう? 頭でも叩いてくれれば起きたのに。つねるとかさ」
 私は座ったまま腰を横にぐぐっとひねった。骨盤がポキッと鳴った。気持ち良い。
「そんなことできないよ」
 光彦はまたブーたれた顔で言った。
「別に良いのに。慣れてるから」
 と前髪を指で揃えながらアクビをする私。チビッ子の頃、起こされる時はだいたいつねられるか、殴られるかだったので、ある程度激しいショックがないとどうも起きられない。別に低血圧って感じでもないのだけれども。
「でもそれ、先生の家に来る前だろ?」
「うっす」
 私は短く返事した。
「ねえ真樹。いいかな? そろそろ。準備できてるんだけど」
「OK!」と私は親指を立てた。
 私は着替えが早い。下着をはずすのはもっと早い。素早く裸になると私は腰に手を当てて「どんなポーズが良い?」と言った。
「うーん。じゃあ横に机の椅子があるだろ? そこに座っててくれればいいから」
 と光彦は画板を持ってベッドに座ると、机の方を指差した。私は光彦の言ったとおりに椅子に座った。ごわごわして変な感触がした。足を治療中に裸でよくソファに寝っ転がっていたけど、その時と同じ感触。
 私のバイトが始まった。光彦の絵のモデル。自給一万円の超高額アルバイト。光彦はベッドの上であぐらをかき、その上に画板を置いて鉛筆を走らせている。私はちょうど光彦の正面に椅子を持ってきて両足は普通に揃え、腕は胸を持ち上げるように胸の下あたりで組んで座った。光彦が私から目を離し、画板に視線を向け描いている時は足を開いたり閉じたりして遊んだ。どっちにしろ大事な箇所は長い髪のおかげで隠れてるし。まさにヘアーをヘアーで隠してるって感じですな。キシン、アラーキーって感じ。
「ねえ光彦さー、この状況見たらいくらオバサンが変わったっていっても怒るよねん?」
「まあ家に限らずどこの家でも怒るでしょ。普通は」
 私の方を見ず、描く手も止めず光彦は言った。
「お前が前みたいにウチに来られたらねー。良いのにねー」
 と私は一回大きく背伸びをし、肩や胸といった体の前の部分にかかった自分の髪を一斉に後ろへ弾き飛ばすように除けた。光彦が描きやすいように。
「動くなよ」光彦が言った。
「悪いね」
 私は体勢をすぐに戻す。
「真樹さ、お金どうしてる?」と光彦は聞いてきた。
「金? あん、お前が入院する前にくれたやつか。まだ使ってないよん。返そうか?」
「やめてよそういうの。僕が真樹をモデルとして契約して払ったお金なんだから好きに使ってよ」
 光彦はさっきまでのすねたような顔ではなくて、本気でムッとした顔をして言った。
 小六の夏、光彦は入院した。その数日前から私は光彦専属のモデルになった。自給一万円。私はその時、別に理由も聞かず「ご自由に」とか言っていたくらいの記憶しか残ってない。お金に関してはくれる物ならもらおうと単純に思った。私が諭吉を受け取ると光彦は嬉しそうに「契約成立だね」と言った。だけど、光彦が入院したあと、なぜかそのお金は使う気になれなかった。
「あーダメだ」
 と光彦は紙を画板から離し、手に取った。
「良いよ。気にいるまで描けば?」と私は言った。
「これ見て」
 そう言うと光彦は自分の横に何枚か重ねて置いてある紙のうち、二枚目のやつを取り出し左手に取ると、右手に、さっきまで絵を描いていた紙を持って、並べるようにして自分の顔の辺りまで上げ、私に見せた。比べて見ろということらしい。
 両方の絵とも同じ絵だった。どっちにも私がいる。
「それがなにさ? どうした?」
「左手に持ってるのが一年前くらいに初めてモデルをやってもらった時のやつ」
「ふーん。でっ? それがなにモジャ?」
 と私は光彦のすぐ前まで行って、改めて左右の絵を見比べて見た。
両方の絵とも鉛筆で描かれた物だったけど、左手にある絵の方は顔や体はもちろん、影や髪の毛の一本一本までしっかりと描き込まれているのに比べて、右の絵は当然私がここに来た時から描き始めたものらしく、簡単な荒い腺の束を重ねただけの下書き程度の物だった。
「全体的にも部分的にも大きくなっちゃってるんだよね」
 張りのない小さな声で光彦は言った。確かに言われてみれば小六の時に描かれたやつは胸もなく、ずん胴。それに比べて今光彦が描いているやつは腰もくびれているし、ツンっと上向きの胸もしっかりあって良い感じ。
「ほう! 短時間でちゃんと発育していますなー。大変よろしい!」
 と自分の絵に大きく肯く私。
「へこむなあー」
 と光彦は薄笑いを浮かべ、うなだれた。
「はあ? なにが? なんでへこむんだよ。お前、もしかしてこっちのずん胴の方がタイプなわけ? マニアックな坊主だなー」と私は光彦に近づき、小六の時に描かれた絵の方の紙を指で弾いた。
「いやさ、なんていうかさ、その、入院してる時って全部単調なんだよね。朝ご飯、検査、お昼ご飯後必ず話かけてくる看護婦さんに午後九時の消灯。ホントにそのサイクルがたんたんと回っててさ。病院なんだからしょうがないんだけどさ、なんか変化ないっていうか、僕もさ」
 そう言うと光彦は言葉に詰まったらしく黙った。私はなんとなくだけど光彦の言いたいことが分かった。だけど、少し言い表すのに難しくて私はただ小指の爪をがじがじと噛む。
「まぁ、病院にはこんな裸で座ってる女なんていないから、それは退屈だろうけど、病人には刺激がないほうが良いのじゃないですかねぇー」
 頭をかきながら私がやっと出た言葉がこれ。まったくなに言ってんだか私。
「空気悪い気がするんだよね。病院って」
 と光彦はポツリ。小さくまとまった一休さんみたい。とんち効いてねぇー。
「じゃあいつも私が吸ってる空気とあんまり変わんないじゃん。――変わんないよ」
 と私は窓の外へ顔を向けた。
 次第に私と光彦の間に会話はなくなっていた。軽快なペンを走らせる音と、重くうなるエアコンの起動音だけが部屋に響いている。私は別に冷え性というわけでもないのだけど、さすがに裸で長時間はきつくなってきた。エアコンの冷気がびしびし肌に刺さる。
「光彦、エアコン止めろ。子宮が凍る」
 と私は自分の下腹部に手を添えた。光彦はそれを聞くと無言でリモンコンのスイッチを押した。結構集中しているみたい。
「おっ。真っ赤だ」 
 と急に画板から顔を上げた光彦。
「あん?」
「ほら、真樹の体」
 という光彦の言葉を聞き、私は自分の体を見てみた。
 なんのことはない。ただ、夕日の赤だった。私の体は腕や足の境界線もろとも消え去るみたいにオレンジに燃えていた。胸に引っ付いてる二つの脂肪の塊も赤ピーマンのように染まっていたけど、両手で手ブラを作ってみたらやけにそこだけは冷たくひんやりしていた。ヌーブラって付けたらこんな感じがするんだろうなぁーたぶん。
「お昼はもう終わりですな」
 と私は自分の鼻先を摘み、引っ張った。
「だね。早いねーモデルさん」と光彦は画板を下ろした。
「終わりだ。帰っていいよ」
 光彦は笑った。
「さいですか。お坊ちゃま」と私はベーと舌を出した。
 私を燃やしていた夕日も段々と消えうせて周りも暗くなってきた。
「えらくとろいね真樹」
 私の背中ごしに光彦の声がした。私は振り返って、
「こっち見るなって。服着るとこ見られるの嫌なんだよ」と言った。
 脱ぐってのは勢いがあってスッキリしてて良い。でも下着とか、とくにパンツなんて穿く姿はどうやったってモタモタして情けないスタイルになる。パンツに足でも取られ、こけそうにでもなったら最悪。そんな姿だけは誰にも見せらんない。
「変な奴。裸は平気で服着るとこが恥ずかしいなんて」
 と光彦は床に座り込んで私の背中を見上げている。足を組んだ体育座りで。
「その格好、お前の方が変だぞ。なにか中年の哀愁みたいなものを感じる」とパンツの左端だけをキュッとウエストの辺りまで引っ張り上げる私。
「あっ気にしないで。どうぞお着替えください」光彦は無表情で首をこきこきと鳴らした。
「だぁー! だからこっちを見るなって! 着替えられない!」
 夕日はもう消えたのに、私の顔は燃えていた。パンツ半分、ずり落ちたまま。

<6>
 部屋の中はもう真っ暗。光彦と私、二人の顔は少しずつ闇に紛れ消えていった。まるで部屋にある全ての物が湧き出してきたような影に溶けていって、私以外の光彦も含めた存在を空想的にひどく不確かな感じに変えていくみたいだった。私はその感覚を結構気にいってしまって、着替え終わったあともすぐ帰らずに、ぼーと思考だけが止まった状態で、ただなんとなく壁に寄りかかり、突っ立っていた。
「絵、ホントにもう良い?」
 と私はキャミの肩紐を上げ直す。
「うん。ほいっ!」
 と光彦は床に転がっていた私の携帯を投げてきた。
「あっそ」と闇の中を回転しながら飛んでくる携帯のライトを私はボールを投げ下ろすような手つきでキャッチ。
「じゃあ帰るニョロ」と私はドアのノブに手をかける。
「病院。今度変わるんだ」
 と光彦は言った。私はドアノブの回転を緩める。
「あっ! それと忘れてた」
 暗くてよく分からなかったけど、光彦はベッドの上へ飛び乗ってごそごそと動いたあと、何かを握り締めた手を私へと差し出した。
「もらえる物は頂きますけれどもー、ためしにチャレンジして言ってみたら良かったのにね。ただで遊んでって」
 光彦の手にしているものが万札だということはすぐに分かった。
「そう言ったら真樹はどうした?」
「試してみれば?」
 私がそう言うと、光彦は机に向かい何かを書き始めた。そしてノートの切れ端みたいな物を私に見せ「これ新しい病院の住所。遊んでくれるかな?」と言った。
「かな? じゃ、ないのじゃない?」私は笑った。
「――遊ぼう」と私から視線をそらし光彦は坊主の後ろ頭を撫でた。
「お望みのままに」
 と私はランプの精みたいに自分の胸へと手を置き、深くおじぎした。
(おお! 暗い暗い)
 帰りの夜道。光彦の家の周りは私が住んでいるエリアと違い、割られて羽虫の巣になっているような街灯は一つもない。ちゃんと均等距離にランプの形した街灯が並んでいた。
自転車のカゴだけじゃ足りなくて、ハンドルにも目一杯にスーパーの袋をぶら下げたオバサンや、街灯の下に止まってミネラルウォーターを飲みながら手帳を見てブツブツ言っているメガネのOLなんかとすれ違いながら光彦のいる住宅街を抜けた。
 フッと風鈴のことを思い出す。
 鉄道沿いの坂を下りながらガシガシと横の金網を鳴らしつつ行き止まりの路地を横へ曲がろうとしたら、どろどろに溶けかかった雑誌や、べっとりした感じの液体がまだ中に残る割れ瓶と一緒に紛れて、半分顔が焼け落ちたようにただれた片目半開きの猫がいた。その茶色い奴は、痒いのか? アスファルトへ向かってさかんに背中をこすりつけるようにじゃれていて、私はこやつを風鈴の所に持って行ったらきっとバカみたいに喜んで餌をやるのだろうなーと考えていた。どっちにしろ家に帰るのだから神嶽の橋を渡らなくちゃいけないので、必然に風鈴の店があるエッチのテーマパークも通る。お腹も空っぽになってきた感じもあるので、
(メシ、おごられたろ)
と思い私は風鈴の店へ近い方に方向転換した。
 サンダルの乾いた音が暗く湿ったトンネル内を気持ち良いほどに響きわたる。トンネルの壁に描かれた、蛇が目から飛び出しているドクロの絵や、意味不明の英語の落書きも上を走るJRの振動と共に揺れて見える。アートって感じのものじゃなくて、ホントのただの落書き。まだトイレの落書きの方が素敵。へたなのに思わず恥ずかしくなってしまうようなリアリティがあるし。
 このトンネル久々に通った気がした。見たことのない落書きが増えている。しかもかなり黒ずんで古くなっている感じ。つまりは知らない落書きが古くなってるってわけでホントに久しぶりって感じ。
隆行さんと一緒に住むようになったばっかりの頃、よく隆行さんに連れられてこのトンネルに来た。隆行さんはトンネル内の歩道と車道の境目に建ち並んだ柱を背もたれにして、ホームレスのおっさん達と楽しそうに煙草をぷかぷかやっていた。私はというと隆行さんが動かす足に抱きついたり叩いたりしてお相撲を取っていた。だけどあんなに歩道が埋まるくらいに寝っ転がっていたホームレスのおっさん達も今こうして歩いてみれば一人もいない。通りやすくなったけど、つまらなくもなった。
(あん? こんなに長かったか?)
 トンネルが妙に長く感じる。もっと短い印象だったはず。記憶の勘違い? とも思ったけどトンネルの向こう側には色とりどりの原色ネオンがチカチカ輝いている。でもいくら歩いてもそのネオンが近くならない。私はスピードを上げようと駆け出した。
「ん?」
 何かが背中に当たった気がした。なんか生暖かい。私は足を止め背中を丸めてみて神経を集中した。少し湿った感じはしたけど、湿気の高いこの季節なので、特に気にせずまた歩き出そうとした。
「ああ……」
 どこともなく聞こえる声に私の足は急ブレーキ。もの凄い勢いで後ろを振り返る。バックの暗闇をみつめ、息を潜め、耳をすます。でも声は聞こえない。オカルト初体験か? と思ったのだけれど、そうでもなさそう。目も集中して見たけど暗いだけだった。私も視力には自信があるほうじゃない。だからこのトンネルも私が思っているほど暗くないじゃないかって気もしたりする。
 結局何もなくトンネルを出た。黒服の呼び込みや、OL風の制服という分かりにくいコスプレをした女がちらほら見える。私は風鈴に電話しようと思ったけど時間的にあいつが一番忙しい時だったので直接店に乗り込んでやることにした。私はいったん取り出した携帯をまたパンツの後ろポケットに戻そうとしたけど、ぴっちりした黒いレザーのショーパンを穿いていたので、なかなか携帯が入らずに手間取っていたらまた背中に何か当たった感じがした。
「気に入らない?」
(なんだ。現実ってやつですか)
 男が立っていた。私の真後ろ。トンネルの出口ラインギリギリに。闇の中、体格や着ている物くらいは薄っすらと分かった。顔はよく見えなかったけど雰囲気やその低い声で勝手に男だと私は決めつけた。
(職業変態?)
 男はオーバーオールを着ていて足は黄色い長靴。たどたどしい喋り方で体を小刻みに縦揺れさせている。私は素直に変態じゃーんと思った。
「何か用? レイプは間に合ってますけれども?」
 私はそう言いながらたんたんと二、三度かかとを鳴らして、いつでも男をブッとばせるように間合いを計った。周りの気配からしてもどうみてもキモイ、マニアックな感じの奴で、仲間でつるんで動くとかいうよりはスタンガン、催涙スプレー、後ろからクロロホルムを含ませたハンカチで口塞ぎ! みたいな感じ。だから私はその男が何かやりだす前に速攻で蹴り倒すのが良いと思い、私がさあ行こうと一歩足を踏み出した瞬間、「どうかな? 好きかな?」とオーバーオールの奴が私の足元を指差した。ひどく落ち着かない感じで。
「あん?」私はオーバーオールから視線をはずさずにしゃがみ込み足元を手で探ってみた。
(ぐにゅ?)
 もの凄く不可解な感触がする。それは私の手のひらから少しだけ余るくらいの大きさで、初めはボールか何かと思ったけど、もこもこした感触がして生暖かくて、触る場所によってはごつごつした肌触りの所がある。私はさらにそのボールのような物をもっとよく見てみようとネオンのライトに照らしてみた。
 赤、青、黄色。くどく入り乱れたライトアップを受けて、それは笑っているようにも見え、かかげた私の左腕をどす黒い液体で螺旋状に這うように濡らしていく。ヌイグルミなんかじゃないということを私に教えるように。
(風鈴にみせたら卒倒するな)
 キスをするように私の手のひらへと顔を押し付けている猫の顔面。首だけのわりにはかわいらしい顔してる。
「どうかな?」
 オーバーオールは笑い出した。期待通りの変態的反応。
(やっぱ本物の変態は違うな)
 私は思わず感心してしまった。
「まだ暖かいね。お前これどこで?」
 と猫の頭を鷲掴みにした手を私はオーバーオールへと突き出す。
「さっき、見てたから」
 猫の顔を注意深く見てみる。
 片目が火傷をしたみたいに溶けかかっていて潰れていた。ついさっきゴミの中で私が見た猫だった。
「残念! もっとビックリするとでも思っちゃった?」
 と私は左手の握力最大で猫の頭を握りつぶす。意外に硬かったので猫の頭はそんなに潰れなかったけど、どろどろと粘り気のある猫汁が私の手の中からどんどん搾り出されていく。まさに一番絞り。自分で自分の口元が緩んでいくのが分かった。ちょっとうきうき。
 私は単純にクレイジーにはクレイジーだと思い、左手についた猫汁を舐める真似をしてみせてオーバーオールに対抗した。でもあくまで真似。ホントに舐めるのはさすがにきつい。冬実なら平気でやるだろうけどさ。
「お前さー。私を削りたいんじゃないわけ?」
と私はボケ防止用のドングリ形磁石を手の中で転がすような手つきで猫の頭を揉みしだく。
「先生」
「ああっ?! なに? 先生がなんだって?!」
 まどろっこしオーバーオールの喋り方にいらいらしつつ私はトンネルの音響効果を最大限にいかした怒鳴り声を上げる。同時に私の脇を車が駆け抜け、その車のライトがオーバーオールの顔を一瞬だけど私に垣間見せてくれた。
 私が見たオーバーオール。顔は青白かった。真夏なのに目が見えないくらいに深くニットキャップをかぶっていた。
(まともなトークできるわけないか)
 四メートル、三メートル、二、一、オーバーオールとの間合いを詰める。ちょうどこの間借りたB級香港映画のアクション、やってみたかったのだ。ちょうど良い実験体がみつかった。
オーバーオールは向かってくる私なんて眼中にないように下をみたり上をみたり両手をこすり合わせたり蝿みたいに忙しい。
 右足をおもいっきり踏み込み、踏み込んだ足の痺れが終わる間もなく腰を回転! オーバーオールの胸元めがけて左足をロケットー! といった感じに蹴り込んだ。
「私が削ってやるよん」
 とパンチコなら大フィーバー! といった具合に蹴りがオーバーオールの胸元へ鋭角に突き刺さった。オーバーオールは後ろの闇へとぶっ飛んだ……みたいな気がした。あまり感触がなかった。自信はほどほどなのだけど。
 私は着地と同時に、万が一相手に仲間がいるといけないので、周りに注意しながら相手の次の動きに集中した。だって安心していたら後ろからバットなんて一番やだ。
 ――反応がない。何の音もしない。ただトンネルの丸い闇があるだけ。何もなかったみたいに静まりかえっている。
「おいこらっ! あれか? 罠か? 反応がないぞって私が近づいて来るのをパックンチョ! っていくつもりでしょ?!」
 と私はトンネルに叫んだけどまだ反応がない。何らかの刺激を与えねばと思って私は続けて、
「梅干しの種の中の白いやつが大好っきぃー」と叫びトンネルの闇に向かって猫の頭を投げ込んでやった。でも無反応。
「おーい。もう私帰っちゃうよー」私はくるっとトンネルの出口に背を向けゆっくりと歩く。もちろん後ろに気をつけながらオーバーオールの奴が襲ってくるのをドキドキと期待しながら。だけれど、私が蒔いた餌には喰いついてこなかった。まるで初めから存在していなかったみたいに。逃げた足音さえ聞こえなかったのに、完璧に人がいる気配がない。息づかいもしない。変。おかしい。たしかに蹴りごたえもあまりなかったし。
(おいおい。マジ、オカルトってやつだったわけ?)
 と私が首を傾げ突っ立っていると、携帯からディズニーのイッツ・ア・スモールワールドが鳴る。
「せーかいは一つー♪」
 メールの着信音。画面を見ながら親指を動かす。
(あらら。オカルトじゃなかったわけね)
 画像が送られてきた。首のない猫。花畑をバックにした。
  
 
 私は自販で雪溶け天然水を買うと、その水で手についた赤黒い猫汁を洗い落とした。何人かは猫汁のついた私の手を見て振り返っていたけど、すぐに目をそむけて足早に通り過ぎて行く。もしお巡りさんが近づいてきたら「トマトジュースでーす!」といって無理やり手についた猫汁を舐め上げてやろうかとも思っていたけど、素敵なこの街の無干渉主義のおかげで誰も私に近づいてはこない。――と思っていたら、
「あっ、ねえ! お金とかに興味ない?」とバカな質問をバカにしたようにしてくる女がいた。たぶんAVとかのスカウト。最近は男のスカウトより頻繁にみかける。騙しやすいとかそういうのか?
「お金には興味あるけど、お前にはなーい!」
 と私はスカウトの女の厚めに膨らんだ下腹に前蹴りを喰らわした。女は直腸検査を始めてされた人みたいな抜ける声を漏らして膝から崩れ落ちる。続けて路上に膝をつき、うずくまる女の髪を引っ張り上げて自分の顔を近づけそのまま頭突きをゴン! 女は鼻血ブー。
「かなり美味しいバイトなんだよねそれ? スカウト。月六十万くらいになったりするんだよねー?」
「えっ?」と女はお腹を手で抑えたまま私を見上げる。
「まあ、個人的には見てみたい気はしますけれども、十三のAV女優とかストリッパーとか」
 と私は女の腰についた黒いウエストバックを引きちぎるように取った。
「ちょちょ、ちょっとなにすんのよ!」
「うるさい! 児童買春法違反で罰金刑です!」と私はウエストバックを取り戻そうと引っ張り返す女の顔面を踏みつけるみたいに蹴った。女、倒れた。女のバックには諭吉が三十人ばかりいた。多すぎて邪魔くさかったので、諭吉を三人だけ抜き取って残りは近くにあった郵便箱に放り込んだ。一週間くらいねぎ味噌ラーメンを食べ続けるのに困らないくらい程度の金があればいいのだ。
 キャッチ、ナンパ、ロケット花火、携帯と公衆電話を同時にかけている外人さん達も薬の売り時だと大忙し。私はおもいっきり姿勢良く歩いてしまうと、さっきみたいにいつもすぐ声をかけられてうっとうしいので、いつものように猫背で人ごみに紛れ、地下街の階段を下り、ビデオ屋に入った。ビデオ屋はちょうど風鈴の店の真下になっていて、店中はなぜかオール鏡張りになっている。白いぴちぴちの短パンを穿いて、Tシャツを全部をその短パンの中に入れている横分け頭のおっさんとか、顔の半分も隠れるようなでっかいサングラスをかけて、中腰のままロリ系のコーナーを舐めるように眺めているマッチョなお兄さんとか、いつもと変わらない微笑ましい風景がそこにはある。
「おいこら! 起きろ豚玉!」
 と私は細長い店内を障害物競走みたいな身のこなしで脂くさい客を避けつつレジに行って、壁に寄りかかりながら眠りこけている豚玉の椅子を蹴った。
「ううん? ああ真樹ちゃんじゃん」
 豚玉は自分の首を撫でながら言った。こいつはいつも居眠りしてる印象しかない。マッシュルームカットが寝癖と無造作で玉ねぎみたいな髪型に化けちゃってる。しかもデブ。
「おい! マネージャーいる? 上がるぞ!」
 と私はレジの右奥の階段を指差す。
「ああ、兄ちゃんなら上にいるよ。呼ぶかい?」
 そう言うと豚玉はレジ脇にある受話器を取ってみせた。
 豚兄弟。上は髭豚で下は豚玉。上が風俗で下はロリ、SM、スカトロ専門ビデオ屋さん。
「呼べ。とっとと」
「うす! 了解」と豚玉は油汚れみたいに黄ばんだ電話機で内線を使い話し始め、やがて受話器を置き、寒気のするようなウインクをした。どうやら髭豚が来るらしい。
「すぐ来ると思うよー。呼び込みのバイト見つかったから自分がやらなくてもよくなったからねー」
「あっそう。じゃあここで待つニョロ」
 と私は両腕を頭の後ろで組んだ。すると豚玉は真剣な顔でじーと目玉を上下させて私を見つめた。
「そういうの“舐めまわす視線”っていうんだろうね?」
 と私は言った。
「84、52、85。どうよ? 真樹ちゃん」
「はあ? 何が?」
「サイズだよ。スリーサイズ。当たってるでしょ?」
 豆粒みたいなちっこい目を豚玉は最大限に見開いて言った。
「知らない。そんなの小学校の時に測ったきりだもん」
「いや、信じろ! 僕の目利きは完璧だ。絶対当たってる。身長は僕とあまり変わらないけど、うーんそうだな……160から166くらいかなー。伸びたよねーホント、あんなに小さかったのに」
 レジを立つと私の周りをぐるぐると回りながら豚玉は言った。
「あっそう。じゃあそのサイズで良い。今度からそのサイズを公称にしよっと」
 私は笑った。
「末恐ろしいよねー。十三だろ。殺人的な体してるよなーホント」
「じゃあ殺してやろうか?」と私は胸を張った。すると、
「あ、あの。良かったら僕を殺してください……」と肩を掴まれた。後ろを振り返ってみると、バーコード頭の全身をピンクのスーツでくまなく包み込んだおっさんがうつむいた感じで立っていた。
「あーだめだめ山科さん。その娘(こ)商品じゃないから」
 と豚玉は親しげな雰囲気でバーコードのおっさんに話しかけた。
「非売品?」
 バーコードのおっさんは指先でつんつんと私の二の腕をつっつく。
「そうそう」と豚玉も私のお腹の辺りをつっついてきた。
(あともう一回つっついたら殺す)
「うんーもう! 非売品は店に置かないで欲しいなーもう!」
 私が肘鉄を喰らわそうと思っていたカウント一秒前で、バーコードのおっさんは唇を浅く噛んだまま立ち去っていった。私の中にはもやもやしたものだけが残った。ビールたらふく飲んでオシッコ我慢したまま眠った次の日のトイレ後みたいに残尿感な感じ。
「あの人さー。うちの親父がロマンポルノ専門の店やってた頃からの常連なんだよ。真性のMでさー女の子に責められるのが喜びなわけ。殴ってやったら喜んだのに。ひゃひゃひゃ」
 豚玉は辺りに唾を撒き散らしながら笑った。
「ていうかお前を殴る!」
 と私の左フックが豚玉の鼻っぱしらをさらに豚鼻にした。
「あ、あががが、血がー僕の鼻がああ」
「うるさいモジャ! 鼻血が枯れるまで殴ってやる!」
 二発三発と私は続けざまに同じ場所を殴ってやった。
「やめてー。血がー血がー」
 鼻血と涙を垂れ流しながら豚玉は泣いた。ぶひぶひ。
 

 人一人分くらいがやっと通れるくらいの階段を、貼り付けられている濃い緑のカーペットごと、その重さで踏み潰すように髭豚はきしむ音を響かせながらやってきた。
「おう、マキマキ!」
 と髭豚は今にも太い首でちぎれそうになっている赤い蝶ネクタイをウインナーのような指で緩めながらやって来た。
「お邪魔してるよん」
 私は指を波みたいに揺らして言った。
「なんだい。うちで働く気にでもなったか?」
「良いよ! お巡りさんに捕まりたかったらね」
「へん! その前に風鈴に殺される。この前もカッターでつっつかれたばかりだわ」
 と、もみ上げなのか髭なのか境目が分からない耳の下の硬そうな剛毛を髭豚はさすった。
「また風鈴の前で私の話でもしたの?」
「ちょっとさー、ほんのちょっとだけ、真樹がうちで働いたらいくら稼ぐかなーってかわいい夢物語を開店前にぽつりとザルうどん食いながら言っただけなんだぞ。ホント冗談通じねーよな。あいつ、お前の話になったりすると」
「ていうかお前の顔がやばいんだって。CIAのファイルとかに危険人物とかで載ってそうだもん」
 と私は笑った。
「俺は人買いかっての。東南アジアにもルートなんか持ってねーぞ」
 と髭豚は鼻をぶひぶひ。
「で、風鈴は?」
「今ダメだ。客とってる」
 と髭豚は天井を指差す。
「そう。じゃあ控え室に行ってるから駒亭(こまてい)に出前頼んどいて。風鈴の仕事が終わる頃には来るじゃん? な。定食OK?!」
と私は風鈴の店に続く階段を上がろうとした。
「勝手なガキだな。何がいいんだよ? 定食の?」
「さばみそ!」
「メシは?」
「ライス大!」
「ん? マキマキ? ちょっと待て。おい」
「何だよもう。あれか? 飲み物のことか? それならブチャ……」
「違うって。お前の背中だよ。何だそれ? 真っ赤だぞ」
と髭豚は私の背中を指差す。
「あん?」
 背中を見てみた。
「わーホントだ。血だらけだー」
 と自分も鼻から血を垂れ流している豚玉が指差した。
(あっちゃー)
 背中には野球ボールくらいの丸い血の後がべっとりとついていた。
(あの猫のやつか)
 ますます私は夢を見ていたわけでも、霊に会ったわけでもないってことがリアルに分かってしまった。
「何でもなーい。心配すんな髭」
 さすがに猫の頭をぶつけられたなんて言っても冗談にしかとられない。私は適当に話を流そうとした。
「おいおい心配するなって、まさかまた刺されてんじゃねーんだろうな? お前、刺し傷数の最年少記録でも狙ってんのか?」
「バーカ! 背中刺されたら普通死ぬじゃん。あっそうだ! これ、そこの鼻血垂れ流してる豚にやる。血拭け。血染めで!」
 と私は汗と猫汁でぐちょぐちょになったキャミを脱ぎ捨てて階段の真下へと投げ捨てた。
「おおー! セクシーじゃん。綺麗な鎖骨してんなー。五年後楽しみに待ってるぞ」と髭豚は手を叩く。
「やったー兄ちゃん! これ汗でびっしょりだよー! 匂いもたっぷりする。うわーうわー国宝だよー。売らないぞこれだけは!」
 狂喜乱舞した豚玉は私の脱ぎ捨てたキャミに顔面を埋めた。猫汁がついているとも知らずに。
「はぁ……良かったな弟よ」
 髭豚は溜息をつくと悲しいトーンで豚玉の顔を見た。バカな弟を持ってかわいそうな兄貴。

 
 ビデオ屋の細長い階段を上がって水道管が血管のように細かく張り巡らされた髭豚が言う所の機関室を通って、店の待合室の前に出る。なんとかコーポとか名前のついた手ごろな二階建てアパートのドアみたいに並んだ、ピンクや黄色のドア。前を通り過ぎれば風鈴の住み込んでいる控え室。私は長く赤いソファが置いてある待合室を横切ろうとした。
「ねえちょっと君、新人? いいじゃん! めちゃかわいい! いくつ? ねえねえ? 今日から?」
 いきなりニキビずらの首元がだらしなくよれよれになったTシャツを着た男が店の入り口から走り寄って来た。
「なになにー? おう! いいじゃん。今日、風鈴ちゃんやめてこの娘にするわ!」
 と横からもう一人、金髪でカメレオンみたいに目元が離れた男が私の腕を引っ張ってきた。何か訳の分かんないムーブメントに包まれてしまっている。
(別にここで働いてるわけでもないのだけれども)
 いつもならこんな時は無言で蹴り飛ばすとこなんだけど周りの男どものテンションがあまりに凄かったので何だかビックリしてしまい私はちょっとだけ引いてしまっていた。
「はいはいどいてどいてー。ダメだよー。その娘は店の娘じゃないんだからねー」
 髭豚が手を叩きながら私と客達の間に割り込んできた。
「ええー! じゃあどの店の娘? 教えてよー。エロリスト? 桃源郷?」
 ニキビデブはしつこく食い下がってきた。
「だ・か・ら、この娘は素人さんなんだってばさー。それにまだ十三なんだよ。ねえ? 分かったらそこどいたどいた!」
 髭豚は私の背中を押すようにして男達の壁を押し切った。
「嘘だ! どうして素人がブラでブラブラしてんのさ! それにどう見ても十三じゃないじゃん!」
 皮ジャンの男がもの凄い勢いで気持ちの悪い気合を出しつつ文句を言っている。
(もっと違うことに気合出せよ)と私は思いつつ髭豚が目で早く行けと合図するのでそのまま控え室に向かった。
「ハイ! ハイ! 予約なら受付けるよー。あの娘五年後にうちで働く予定になってるから」後から髭豚の声がした。
(働かないっつーの! 七十五パーセントくらいの確率で)
 控え室のドアにはひどくバランスの悪い貼られ方をしたポスターがある。前髪だけに陰毛みたいなパーマをかけた昔のアイドルが片手に缶チュウハイを持って微笑んでいるやつ。ドアの中央に貼られているんじゃなくてドアの下あたりに斜めに貼ってある。一年くらい前、店に突入してきたお巡りさん達にブチ破られてしまったらしい。ホント、直していけって感じだ。普通にドアを開けようとすると破れた穴のせいでノブごと引っこ抜けそうになる。
(だいたい、いつまでもこんな物貼ってるから直す気がなくなるんだっつーの! 処分です!)
 強制的に破ってやった。そして北海道みたいな形に開いてしまっているドアの穴から中を覗いた。
「うあ!」と叫び声がした。
「なんだー?!」と私もその声にビックリして尻餅をつく。
「バカマキ! ビックリするじゃん!」
 穴の向こう側から分厚い下唇と星条旗のネイルアートがチラついた。
「こっちがビックリ! いいから開けろー」
 私はその穴から覗いている雲定規みたいな大きなカーブを描いた眉毛に向かって怒鳴った。
「もう何で勝手にポスター剥がすかなー。風ちゃんに怒られてもしらないから」
 みりんは必要以上に風鈴を怖がっている。あの柳みたいな風鈴を怖がるより私に脅えろって感じ。
「良いよ。お前が剥がしたって言うから。お前の負け! バーカ!」
 私はれろれろと舌を出した。
「その舌使い即戦力。エロガキ」
 風鈴が私の方を信じるのは明白なのでみりんはそれ以上何も言わずにドアを開けた。すると、みりんはきょとんとした顔で私を見た。
「なに見てんの? そんな死んだ目で見られると腐っちゃいそうだからやめてくれる?」
「あ、あんたその格好ってま、まさかホントにうちで働いて……」
「働いてない!」みりんのバカにまで勘違いされた。
 あー服が着たい。本来の服の機能とは関係ない所で私は服が欲しくてたまらなくなった。
「そうよね。いくらうちの店長でもそこまでチャレンジャーじゃないわよねー。ひー今日二度目のビックリ」
 そう言うとみりんは控え室の中に戻ってテーブルに置いてある雑誌を手に取り膝を組んで椅子に座った。みりんは私がどうして上を着ていないのかなんて聞かなかった。この女のそういう無関心な所は好き。ラブリー無関心。
「でさ、みりん」と私が話しかけるとみりんはまるで気づかないふりをしてテーブルの上にあるコーラーの入ったペットボトルに口をつけ、ガラガラガラと一回うがいをして飲み込んだ。
「おい、みりん!」
 腹が立った。無関心は良いけど無視はムカつく。私は控え室にあるロッカーの一つを蹴っ飛ばす。
「ばっかマキーすーぐに怒る♪ だってバカーなんだものー」
 みりんは私の方など見ずに何かバイクの写真がいっぱい載っている雑誌を読み飛ばすくらいの早い勢いでぱらぱらとめくっていた。
「何だね? お姉さんに遊んで欲しいのかな?」
 と長い星条旗のネイルを交差して雑誌を閉じるとみりんは微笑んだ。
「絶対やだ! お前と遊んだらお祭りばっかりじゃん! バイクで青森とか東京とか連れ回されて、しかも男装までさせられて泊まりはラブホだし。っていうか何で私が男役なわけ?」
「面白いよー今度四国行こう。よさこい! よさこい祭り! 百、超えるチームが参加すんの。色んなハッピとかあってカワイイの凄く。それとも麻布十番の納涼祭りがいい? 芸能人に会えるかもよ」
 祭りの話になると目を輝かせる。祭りバカのみりん。
「一人で踊り死ね! 私は行かない!」
「ふん! いいよもう、誘わないから。あんたなんか連れてっても屋台で焼きイカ食ってるだけじゃん。すぐ迷子になっちゃうし」
「うるさいー。祭りより仕事しろ。さ・ぼ・る・な」
 と私は人差し指を、みりんの青っぽいグロスに固められた唇にくっつけた。
「さぼってなーいもん。今日はお休みでーす」
 控え室のドアを開けてすぐの所に六人座りの白いテーブルがある。みりんはその片側三つのパイプ椅子を縦に並べ、そのままそこをベッドみたいにして寝そべっている。そういえばみりんはいつも仕事の時はビキニを着ているのに今日は着てない。黄色で胸のところに赤いドクロがプリントされたタンクトップを着てる。
「決めた。今日はお前にさばみそ、おごらせる」
 と椅子の上で橋みたいになったみりんの体の上に私は座った。虹の形をしたヘソピアスの上に。
「ぐえええー、あんた孫々(そんそん)のラーメン食べたいって言ってなかったけ? 駒亭にしたんだ?」
「だって出前やってないじゃんあそこ? なにさ? 連れてってくれんの?」
 と、おしりの下敷きにしたみりんの、前髪を指にクルクル巻いたり、引っ張ったりして遊ぶ私。
「別にいいけど、もう頼んだんでしょ? 出前。それにあんたと勝手に出かけたら風ちゃんに怒られるし」歯切れの悪い感じにみりん。
「気にするな。出前は仕事が一休みしたころに風鈴が勝手に食うよ。だから連れて行け、孫々。そしておごれ」
 と私がみりんの着ているタンクトップの胸元を引っ張っていたら、
ホラー映画とかで夜中に人知れず子供部屋のドアが開いた時のような頭の中が痒くなってしまう、ぎいいといった軋む音がした。
「二人ともかわいく……ない」
 控え室の入り口。チャイナドレスで仁王立ちした女が一人。お尻の下敷きになったまま、青い唇で青ざめた分厚い唇の女が一人。
「風鈴遅い! きゃはは!」
 その様子をみてバカ笑いの女がもう一人。

<7>
 なぞなぞ風に言えば夜なのに明るい場所。そこを三人で歩いている。風鈴、私、みりん。
 あんまり相乗効果が望めそうにない並び方で店が連なっている。キャバクラ、本屋、立ち飲み屋、百円ショップ。カメラ屋、またキャバクラで、そんでもってそば屋にゲーセン。外観バラバラに建ち並んだ店に、二階が昔のホームドラマに出てくるみたいな物干し台になっているコンビニとか、大福って赤い字で書かれた看板の店でランニング一枚、中華包丁を片手に魚を切っているスキンヘッドのおっさんとか、メチャクチャ面白い。
「ねえ。このエリアってこんなに人多かった?」
 風鈴はボウタイ付きのシャツが好きらしくて、お店が休みの時とかはよく着ている。今日も白いボウタイを首の中央で大きくリボンみたいに作って巻いている。もちろんシャツも白。ベージュのボトムスと合わせて風鈴らしい、さっぱりしたスタイル。みりんが着ても地味でただもっさりとした感じの、デビューからまだ一年も経っていないのに事務所の方針で演歌歌手に転向させられてしまったアイドルみたいになるだけだと思った。清潔感とは程遠い仕事なのに涼しげで、スッキリした顔の風鈴だから似合う。もっとも無駄な清潔感だけどねー。
「んー真樹ちゃんそうね。今日は人が多いわね。どうしてかしら?」
 風鈴は私に抱きついて言った。うっとうしい。
「ふふ、近くに屋台村が出来たんですよ。と、く、に、おでん屋のロールキャベツが美味しいんです。それにみんな群がってるんですよ」
 みりんがふふんと偉そうな顔で言った。
 私はみりんのロッカーから勝手にTシャツをパクッて着ていた。背中には摩周湖と描かれている。非常時でもないととても着られないようなセンスの物だ。それでもみりんは気に入っていたらしく、私の着替え中、ずっとブツブツ言っていた。
「あっそう。ふーん凄いね」
 と風鈴はまだ勝手にみりんと二人でメシを食いに行こうとしたことに腹を立てているらしい。ただ二人といっても風鈴が私に怒りを向けるはずもなく、涼しい顔とは裏腹にどろどろとした性質を持つ風鈴の粘着系な怒りは全部みりんに向けられていた。
「ねえねえ風ちゃん。ほら見てあの猫、超かわいい! 抱いていきません? 抱かせてもらえるんですよあの店」
 といかにも機嫌とりという態度でみりんがペットショップの方を指差し、膨れっ面した風鈴へさかんに安いスマイルを送っている。でも風鈴は、
「仕事が終わった後に一人寂しくペットショップで猫抱いてるような女にはなりたくないわよねー」と私の頭を撫でながら言った。私はお前も別の所で猫抱いてんじゃんと寸止め程度のツッコミを入れたかったけどやめた。後がしつこい。
「もう風ちゃん怒んないでー。バカマキが悪いんじゃないよぉー」
「何よ! ちょっと待っててくれるくらい、いいじゃない。あのタコ焼屋のお客さん、延長好きでしつこいってみーちゃんも知ってたくせにさ!」
 と風鈴は私を抱きしめながら視線はみりんを睨んでいる。
「もうー風ちゃん、真樹を甘やかしすぎー。ろくな大人になんない!」
 と頬を膨らませるみりん。
「私はすでにご立派だ。だからもっと甘やかせ」と言う私の話を、みりんはまったく前を見ず、後ろ向きに歩きながら聞いていたのでおもいっきり人にぶつかってしまっていた。
「あっ! ごめん」
 みりんはぶつかったと分かるとすぐに謝った。
「痛ってぇー、最悪ぅー」
 と金髪で坊主の男がニヤニヤした顔で私も含め、三人の女の顔をまじまじと見ている。
「あーマジ痛てぇーどうしてくれるわけ?」
 引き続き金髪坊主はニヤニヤしてみりんの肩を抱いてきた。なんとまあ、古典的というかきっとヤンキーの手引書なんかあったら三十年くらい前から第一ページに記載されてそうな手段。名前をつけるなら【ぶつかっちゃって、ぶっちゃけ、なんだコノヤロー法。(注)軽い接触を折れたとか言ったりしてお金や女を稼ぐ方法】って感じか。
「抱きたいなら金払え。そんな奴でも五十分三万六千円だよ?」
 と私は速攻でその金髪坊主の膝の皿を蹴ってやった。単純に体がでかい奴だったので足を殺ろうと思った。サンダルのかかとが見事前蹴り気味に相手の膝の皿にヒット。
「あっあ!!」
 金髪坊主、膝を抱えたまま路上でのたうち回る。望みどおりに痛くしてやった。金髪坊主の絶叫と共にさざ波のような音を立て集まってくる人込みは瞬く間に私達の周りを囲み、やじ馬の体勢を作っていく。
「真樹やめなさい!」
 私の腕を掴んで風鈴は言った。
「何で? いいじゃーん遊びたいよーからみたいよぉー」
 と私はゴネながら道路に転がっている金髪坊主の背中を足でつっつく。
「おいガキっ! 犯すぞコラっ!」
 うずくまったまま金髪坊主がすごいギョロ目で睨んできた。それにしても「ガキ」と言っておきながらその後に「犯すぞコラッ!」っていうのはどうだろ? ロリコンかな? あーん、元・巨乳小学生としては困っちゃう!
「い、つ、で、も、犯してぇー私栄子って言うのぉー」
 あんまり私の顔を見てないようだっだので嘘をついてやった。こういう遊び心も大事。
「ねえーもう行こうー」
 みりんが他人事みたいに間延びした声でほざく。ムカついたけどお腹がペコペコでしょうがないので、こんな金色に塗ったウニみたいなアホにスケジュールを消費していたくないとみりんの意見に同意する私。
「どけ邪魔っ削るぞ!」
 同じブレザーとリボンの五,六人の女子高生っぽい女どもが前を塞ぐように立っていて邪魔だったので私は優しく道を明けて下さいと頼んだ。でも、
 ニヤ……(カッチーン!)
 その女どもの一人が道を開ける瞬間バカにしたように笑った。
「何だその口は。ダッチワイフかっ! 塞いでやる!」
 とおもいっきり女の口を殴ってやった。
 女は口を抑え倒れた。ぽろっと赤い液体と共に白い物が足元に二、三本落ちた。他の女どもはその歯抜けの女を置いて逃げて行った。歯抜けの女も「あー」と空気の抜けていく力ない奇声を上げて仲間を追っかけるように逃げて行った。おかげで道が開いた。
「よしスッキリしました。行こう。西に東にー」
 と私は言って後ろを振り返った。
「なぜに西、東? 孫々に行くんじゃなかったの?」
 みりんは言った。
「しらん。お前は帰れ!」
 と私が言った瞬間、私の左頬に火花が散った。不意の打撃だったので軽くよろけ、一瞬目の前が暗くなり体から力が抜けて、膝をついてしまった。何事ですかな? といった感じで見てみると、私の目の前で大きく手を広げている風鈴と、蹴られた膝を軽く折り曲げて庇いつつ、凄いブサイクな顔をした男が風鈴の向こう側に立っている。なーるほど、風鈴が庇っているのと、私の蹴りが結構ダメージになっちゃってる金髪坊主という条件が重なって私は連続攻撃を喰らわなくてすんだらしい。ホントなら顔を張られてガクっときた私へ金髪坊主は簡単に二発目をぶち込めたはずなのに。惜っしーい。
「ああーすっかり忘れてた。お前、いたんだ?」
 私はすっかり金髪坊主のことを忘れていたのに気づく。悪いことした。
「ねえ? あの髪金が殴ったの?」
 と風鈴の肩に手をかけ私は自分の痺れる左頬を指で押した。
「あの……かなりー危険みたいなの……ま、真樹ちゃん逃げてくれる? かなぁー」
 震える声、肩、風鈴の背中は小刻みに揺れている。
「あん? 何が?」
と私は風鈴の背中越しに背伸びして向こう側の金髪坊主を覗いた。
(えーまたぁー)
 二十センチくらいのサバイバルナイフ所持。またまた私はめくるめくナイフの旅に巻き込まれたらしい。ここ何ヶ月で桜子、冬実、カラコン男。ブームというか皆さんよくナイフをお持ちでと私はあきれた。マジでもう飽き飽き。そろそろ日本刀とか鎖鎌とか変り種が欲しい。マジ、つまんない。
「風鈴どけ」
 と私は風鈴の肩を叩く。
「だ、だめ。真樹が刺されるじゃない!」
 風鈴頑張ってんなーと思った。涙目なのに歯をおもいっきり食いしばって。かわいい奴。
「いいから、いいから。ねっ!」
 と私は風鈴を横に突き飛ばした。我ながら良いタイミングだった。金髪坊主が突進して来る。
(あーんもう痛い! だから男に掴まれるのってやだ)
 思ったより金髪のお兄様はキレていらっしゃらないらしい。いきなりナイフで切りつけてこなかった。でもそのかわり凄い勢いで私の両肩を掴んで、そのままやじ馬の中に私もろとも突っ込む。たちまち人海が割れていく。
 頭の中でシンバルを叩かれたような音がしたすぐ後、ガタガタといった薄っぺらく騒がしい音が揺れと共に響く。何かの店のシャッターにぶつけられてしまったらしい。
「どうよ? うん? 泣いちゃうか?」
 と言って何度も金髪坊主は私をシャッターに叩きつける。私の前髪が狂ったように踊っている。私は掴まれて身動きが取れないので取り敢えずじっと我慢した。とくにこっちからやることもないので印象でも良くしてやろうかとニッコリ笑ってみる私。マクドナルドにも負けない営業スマイル。体は痛いけれども。
「舐めてんのか?」
 と男はグウで私の顔に一発入れてきた。私は殴られて横に倒れた顔をゆっくり戻す。すると戻した首を止めるように頚動脈へと冷たい感触が走る。銀色に光るデンジャラスな馴染みの……ナニ。アレじゃないよアレじゃ。
(あらら。こんなにやじ馬ちゃんが見てるのに)
 金髪坊主はかなり良い感じにキレてきたみたい。こんな子供相手にムキになっちゃっていらっしゃる。
(あ、痛ちちち)
 下から持ち上げるみたいに左胸を鷲掴みされた。
「へえー結構あるじゃん胸。やらせろよ。なあ?」
 エロ丸出しで私の胸を揉み上げながら、金髪坊主は顔を三センチ間隔まで近づけてくる。もの凄く香水臭い。体臭を気にしてますと言わんばかりに。
「うーん。ぜんぜん気持ち良くなんない。やっぱ私、まだガキなのかな? こんなのただの脂肪の塊だもん」
「あん? 何言って……」
 私の言葉にけげんな表情を浮かべた金髪坊主の横顔にそっと、そして唐突に私は手を添えた。ぴったりと時間が止まったように静かに。金髪坊主は尖がっていた私の態度が急に柔らかくなったのでビックリした顔で一瞬、固まっていた。私は金髪坊主の目を奥まで突き通すくらいにじっと見つめる。
「私が映ってる。やだな、チャンネル変えて良い?」
 グリッ! と私は金髪坊主の頬に添えた手の親指でおもいっきり左の目玉を突き刺してやった。
「うー! うわー!!」
 金髪坊主、目を抑えてよろめきながら後ろに下がり、奇声。
「殺す! 絶対殺す!」
 目を抑えたままナイフを振り回して金髪坊主が吠えた。指パッチンを鳴らし損ねたようなチッという音がした。
「真樹!」
 風鈴が叫ぶ。私の肩が金髪坊主の振り回したナイフで切れたのだ。着ている真っ白いTシャツに赤いラインがにじむ。
「きゃああああ!」
 今ごろになって周りのギャラリーは声をあげ騒ぎ始める。
(ナイフを出した時点で声上げてよ。サポーターども)
 肩はそんなに痛くなかった。かすった程度。私は躊躇なく勢い良くナイフを振り回す金髪坊主に近づく。もう金髪坊主はやみくもにナイフを振り回すだけなので、蝿を目で追うようにじっとよく見て下からナイフを振り上げてきた男の手を左足を軸にして回転ドアみたいに体を回転させ半身で避け、男の手首を確実に掴んだ。大成功! NGなし。そのまま金髪坊主の腕を自分の方へ力いっぱい引っ張ると、カカトで金髪坊主の膝を斜め上から体重をかけて蹴り踏んだ。
「ギギー!」
 押し殺した声で手からナイフを落とし、文字通り膝から崩れ落ちていく金髪坊主。
「なに? もう鳴かないの? もっと鳴いてよ。膝のお皿もさぁー割れてないみたいじゃん。それそれ、どう? 割れそう?」
「ぎゃあああーやめ、やめ、うわあああ!!」
 膝のお皿ってのはそんなに簡単には割れないらしい。つまんない。
「ちょっともうやめなさい」
 風鈴が私の手を掴んで言った。
「やだあーもうちょっとー」
 と私は駄々をこねる。
「周りを見て」
「何が?」
 風鈴に言われたとおり周りを見渡してみた。
 サラリーマン、OL、カップル、色んなユニットがこっちを見ている。珍獣を見るような目つきで。
「ねえ風鈴。そろそろ来ちゃうかな? お巡りさん」
 耳打ちするように私は聞いた。
「交番の奴らは大丈夫だと思う。この時間帯じゃあ彼らだいたい神嶽橋の周りの屋台で飲んでるから。でも通報されてたら……アウトね」と風鈴も私に耳打ち。
「また補導かぁー、じゃあさ! このままフェードアウトしよ?!」
「そうね。こんなちっちゃいこ娘をいじめるこの男が悪いんだし」
 と自分よりでっかい私に抱きついて風鈴は言った。
 二人の意見は一致した。たしかに子供のしたことにいちいちムキになるこの金髪坊主が悪い。へへん!
「ねえ真樹ちゃん肩、大丈夫?」
 風鈴が心配顔で私を見た。なので私は切りつけられた肩を風車みたいに回してみて「ああ回る回る。OK」と言った。
「そう? 良かった。ん? あれ? みーちゃんは?」
「へ?」
 みりんのバカっ顔(ツラ)がどこにもない。他のバカ顔は周りに祭りのお面屋みたいにいくらでも並んでいるけど。
「――逃げたのね、みーちゃん」風鈴、深く溜息をつく。
 みりんらしいといえばそれまでだけれども、あきれた。元々あいつのせいなのに。
 はぁ。急にどっと疲れがきた。眠い。胸から下腹部を通って太ももの辺りまで体の中心が汗でじっとりと濡れている。Tシャツやパンツがまとわりついてきて、やたらと重く感じる。しんどい。
「パンツ食い込んでる。最低……」
「やだちょっと! こんなとこで寝ないでよ。真樹ちゃん? 真樹?」
 うるさい。もう眠い。風鈴の声が段々と遠ざかっていった。
 

 夢に沈んだ。いや夢というよりもそれは確かにあったこと。
 空を泳ぐとか途方もない幸福とかそういった感じの非現実的な夢というものを私は見たことがなかった。夢見るとすればそれは全て過去の主記憶。リアリティこの上ない。
 濡れたアスファルトへと散らばったガソリン。異次元への扉みたいに水溜りへと浮かんだ七色のアメーバにも見える。七歳の私はアパートの赤茶に錆びた今にもぽろっと腐り落ちそうな窓辺の手すりに腰掛け、雨上がりのホコリ臭い路上を眺めながら機関車の形をしたパイプでシャボン玉を吹かしていた。
「あ、あぁんううあんっあっ……」
 後ろから女の喘ぎ。
「はぁはぁはぁ……うっ、ああ」
 同じくうめく男。
 小太り男と見知らぬ狸顔の垂れ目女が抱き合いながら転がっている。布団があるのにそこからはみ出し、お盛んに舐め合っている二つの肉団子。
 私はいつもひどく空腹だった。小太り男に頼んだところで何かを食べさせてもらえるっていうわけでもなかったから。母親が家にいる時は何か食えたけど、その母親も家にあまりいなかったので、だいたいはジッと我慢していた。よほどの空腹にならないかぎり、つまみ食いもしなかった。どうせ小太り男に殴られるだけだと分かってたし。
 よく空腹でフラフラしながら街をふらついていた。避難場所に指定していた近所のババアの家もババアがミイラみたいに死んでしまったので私は行く所もなく、かといって家にいても殴られるだけなのでただ、クソ熱いアスファルトの照り返しの中をオーバーヒート寸前の脳みそで徘徊していた。そのうちに上を向いて歩く元気もなくなり、ただうつむいて煙草の吸殻やお菓子の袋なんかの数を数えながら歩いていたら一瞬とても涼しい風が私の頬を撫でていった。
 私は風の方に振り向く。そこはビルの谷間。ゴミ箱、ガラスの破片、果物箱。うなるようなエアコンの機動音。暗くてひんやりした場所。当然私は涼しさを求めてそのビルの谷間に吸い込まれるように入って行った。
ビルの谷間に入ってすぐ、なにか足元がぞくっとしたので見てみたら黒くでっかいモップが足元に絡み付いていた。でもよく見てみるとそれは黒い猫。ゴロゴロと懐いてくる。普通のちっちゃい女の子なら無条件で「かわいい」とか「にゃーにゃー」とか言って抱き寄せそうだけど私は(暑苦しい)くらいにしか思わなかった。
(動けない)私は猫のせいでその場から動けずにいた。
「あっ! こんなとこにいたんだ。見かけないと思ったら」 
 静かでそれでいてピンと通る声。声と共に甘い香りがした。でもそれは小太り男が連れこんでくる女が撒き散らしていくような胸焼けしそうな吐き気のするものじゃなく、ふわっと一瞬周りを華やかにして後には何もなかったかのように消えていく不思議な香り。
「あれ? これはまた見かけない猫ちゃんね?」
 と私の目線まで膝を折ってしゃがむと風鈴は目を細め、私に笑いかけた。風鈴は私が見上げて話さなくて良い初めての大人だった。私は声が出なかった。ドキドキした。こんな女いるんだと思った。サンダル履きで、白いブカブカのTシャツで体をくまなく包んだこの女の鼻は高く整っていて、淡いブルーのシャドウに彩られた目元は優しく穏やかで、それはチビッ子だった私の狭い狭い世界では手に余るものだった。頭が混乱するほどに。
「顔真っ赤ねー暑いものねー」
 と言って私の頬っぺたに触れてきた風鈴の白く柔らかな手はひんやりと冷たくて気持ち良かった。でも私はとてもビックリしてしまっていて、何を思ったのか風鈴の長くしっとりとした黒髪をギュッと力いっぱい握り引っ張ってしまった。
私の体は一瞬こわばる。殴られると思った。大人はみんなまとわりつくと怒る。殴る。蹴る。その頃の私には小太り男や母親の反応が全てだったのだ。
 でも風鈴は怒るどころか固まった私の脇の下に手を入れ、私を胸に抱き顔を覗き込むと「んー? どした?」と笑った。キュキュと親指で軽く私の鼻先を摘みながら。私はまたビックリしてしまった。ホントに風鈴は私にとってそれまで出逢ったことのない人種だったのだ。
 家に帰らない日がほどんどになった。というか、まったく帰らなくなった。学校が終われば風鈴の家。そんな日が母親と二人で隆行さんの所に転がり込むまで続いた。風鈴の所へ入り浸ることに母親は何も言わなかった。ただ携帯は持たされていた。着信音に設定されていたバカボンのテーマは一回も聞くことはなかったけれども。
 私は風鈴の仕事が始まるぎりぎりまで一緒に絵を描いてやったり、オムライスを食べについて行ってやったりといろいろ遊んでやった。風鈴の仕事が始まると私は控え室の奥にある布団がようやく二枚ほどひけるくらいの風鈴が寝泊りしていた部屋で、布団の上に団子虫みたいに丸まって眠りながら風鈴の仕事が終わるのを待った。退屈だとは思わなかった。だってそれは凄く安心の時間で急に布団を剥がされることもなければ頭から水をぶっかけられることもない。時間がくれば甘い香りと共に顔をフカフカした感触が包み、目を見開いてみれば私の頭を胸に抱いた風鈴が「こんばんは」と挨拶する。でもたまにシンナー臭くて目が覚める時があった。そんな時は大抵みりんが油性ペンで私の顔に落書きをしていた。そんな後は決まってバカなみりんは私に指を噛まれ、風鈴には髪の毛を掴まれたまま叱られる。で、結局私の顔の落書きを、睨む風鈴の視線にビビリながら薄めたマニキュアの除光液で拭き取っていた。


 ――あっいい匂いがする。ぼやけた意識の中でそれをとても強く感じた。左の耳に圧迫感がある。それでいて暖かい。
 最近気づいた。起きた時に人がいると嬉しかったりする。安心する。小難しい理由はない。だってあの冬実でさえ起きた時そばにいてくれたら不愉快だったけど嬉しかった。
「おー起きたか? おいっ? こらっ?!」
 ん? 頬をぱんぱんと叩かれた。なんだこりゃ? 風鈴じゃないの? 風鈴はこんな起こし方しない。(うげ、まさか冬実だったりして?)なんて私は怖い想像をしつつ目を開けた。誰かの膝を借りて寝ているってことくらいは分かる。私は首を四十五度回転させ見上げてみた。
「お前、みりん? 逃げやがっただろ!」
「ぎゃあー! 何すんのよっ! ぐえええー苦しい! やめて」
 膝枕をされたまま私はみりんの首を締める。かなりマジ締めで。
「ぢょ、ぢょっと警察署で殺す気?」みりんは鼻の穴を膨らませつつ苦しそうに言った。
「ケイサツ?」
「ギブ、ギブ! 取り敢えず首、離せ」
 と自分の首にぶら下がるように絞め上げている私の手をぱんぱんとみりんは叩く。私はみりんの膝から起き上がると周りをキョロキョロした。
 長い廊下にいた。黒く細長いビニール製の椅子の上にいる。すぐ横に階段があり、婦警らしき制服を着た二人組みが階段を上がって行くのが見えた。正面にいくつかのドアも確認できる。
「何だこれ? どうしてお巡りさんの基地にいるわけ?」
「私が通報したよ。交番まで走って行ったけど誰もいなくてさ。ねえ? 分かった? 私は逃げたんじゃないんです!」
 と、さも得意気な顔で顎を上げてみりんは言った。
 み、みりん、こいつのせいで金髪坊主にからまれて、またさらにフェードアウトして逃げようと思っていたところを、こ、こいつは。この女は。
「余計なことしやがってっー。ホントにーお前の存在そのものがとてつもなく余計だっ! 弁当の中の緑の甘い豆だぁ!」
 と私は怒ってみりんの腕を殴った。
「ひどーい。大変だったのにぃー元の場所に戻ってみたらあんたは道で寝てるし、男は道端でのた打ち回ってるし、風ちゃんはあんたの横でおろおろしてるし、そこに警察は来るしー。後始末は全部私がしたんだから」
「偉そうに言うな! だいたいお前が全てじゃん! 原因じゃん! 反省しろ!」
 そう言うと私はまたみりんの膝に寝っ転がる。乱暴にドサッと。みりんの奴にはもの凄くムカついていたのでさらに二,三発蹴りを入れてやろうかとも思ったけどやめた。正直体がきつい。頭の中がもやもやしていて重い。それに肩もずきずき痛い。後から痛みがくるってやつなのかも知れない。
「ん?」
 左肩に突っ張った感覚がしたと思ったら包帯が巻かれていた。
「これ誰が巻いた? 病院でも寄った?」
 と私が聞いたらみりんは、
「あー? しんない。取り調べが終わってこの椅子に戻ったらあんたの腕に巻いてあったの」と眠たそうな顔して言った。
「何だその適当な話は? ふざけてんのか?」
 とみりんの内股をぎゅーとつねる私。
「痛っ。もうやだ。違うわよ。あのね、警官が来た瞬間私と風ちゃん、一言も喋らないうちにホント強制的にパトカーに放り込まれたの! あんたが怪我してるからまず病院に連れてってって言ってもぜんぜん聞いてくれなくて、署に着いたら着いたで私と風ちゃんはいきなり取調室に連れていかれるし、もうメチャクチャだったんだからねー」
 と分厚い唇を尖らせみりんは私の頭を乗せている膝を揺する。
「私は? お前らが話聞かれてた間どうなってたんだよ?」
 自分の鼻先を指で削るようにかきながら私は言った。
「知らないよー。やっとさ、雑巾臭い息の刑事から解放されてさ、取調室出たらさ、あんたがこの椅子に寝ててさ、肩にグルッとさ、感じでさ、包帯をさ、巻かれててさ」
 うわずった声で意味不明なことをほざくみりん。
「ところで風鈴はさー? どこさー? どこにいるさー?」
 みりんのうわずった声が面白かったので、よくドラマに出てくる沖縄出身者の役の奴が使う方言を真似て私は言った。地元の人間からは「そんな言葉ちがーう!」って抗議がきそうなやつ。
「ふ、風ちゃんはまだ取調べが続いてる」
 と抱き上げるように私を起こしたみりん。
 私はみりんの肩に寄り添うようにして長椅子に座りなおし、無表情にプレッシャーを放っている警察署のグレーかかった白い天井を眺めながら風鈴のことを少し考えていた。で、
(でもまあ、だいじょーぶでしょ)
 といった感じの結論。だってどう転んでもあんな柳みたいな体した風鈴が、巨大なタヌキのお化けとしか思えないあの金髪坊主をノックアウトしたなんて誤解はよっぽどのバカか刑事ドラマに脳みそを汚染されて刑事になりましたなんて推理好きの奴が風鈴を取調べしていないかぎりありえない。色んな状況から考えても風鈴がダメージを喰らうような展開にはならないだろうと私は思った。せいぜい通算何十回目になるであろう児童相談所預かりの荷物になるだけだ私が。
「ねえ? 真樹。あんたさあ、ここ初めてじゃないんじゃない?」
 みりんは意地悪い顔をして言った。
「まぁ……ね。そりゃ補導王ですから。わたくし」
 と胸に手をあてて私は偉そうに言う。確かに警察署(ここ)にはよく来ている。夜中一人で歩いているだけで補導。昼間公園で鳩にマンネリの焼いたタコ焼をばら撒いていたら補導。おでん屋の時なんてただはんぺんを食っていたら隣の客に「お嬢ちゃんカワイイね。いくつ?」と聞かれたので正直に答えたらそいつがお巡りさんで補導。正直者でバカをみたの典型。結局、チビッ子の頃に街をふらふらしていて交番に連れていかれたのも合わせればいったいどれくらいの補導数だろう? もしかしてギネスに載るんじゃないかって真剣に考えてしまう。でも最近は隆行さんも迎えに来ない。私は誰が迎えに来なくても家に帰れてしまう。いや正確に言えば警察署に連れてこられた時点で家なのだ。警察署に家と同じ価値観を感じているあの女のおかげで。
「あっ……」
 つんつんと私の肩をつっついてみりんは斜め前のドアを指差した。開いていくドア。ダチョウのような顔した男が自分の肩を揉みながら出て来た。警察の人だろう、体中から辛気臭いオーラが沸き立っている。その男の後ろに風鈴はいた。相変わらずの不変の笑顔。私に会うたびに見せるいつものスマイル。取調べのせいで少しはしなびた感じになっているのかと思っていたけれどもまったく変わりがない。
(凄い温度差)
 私は並んで取調室から出て来た刑事と風鈴を見てそう思った。とても同じ人間とは思えない。風鈴はビシッと背筋を立てて何もなかったみたいに涼しげな笑みを浮かべていた。ホント、こいつの凄いところは自分独自の空気を持っていてどんな場所でもその空気を存分に撒き散らして全部自分色に染め上げてしまうところだ。こんな誰が来ても息が詰まって胸クソ悪いまま沈んだ気分になってしまいそうな警察署の空気の中でもそれは変わらない。私にとってはその風鈴の空気が時々暑苦しくて少し甘ったるくて嫌になることがあるけど、真冬、久しぶりにシャワーじゃなくてお風呂に浸った時なんかに感じたりする(たまには良い良いー)という感じに似ている。隣に立った、なにかまるでやる気の感じられない腐った感じの刑事と並んでいるとまるで花畑に生ゴミって感じ。不法投棄。
「あー! 真樹ちゃん!」
 風鈴、前の刑事らしき男を突き飛ばして私に抱きつく。
「やめろ。石鹸臭い」と私が抱きつく風鈴の手を振りほどくいつものパターン。
「あれ? 病院に運んでもらった?」
 私の肩を見て風鈴は言った。
「知るか。起きたら巻かれてた。お前は知らないの?」
「知らないわよ。署につくなり取調べだもん。いきなり引き離されて真樹ちゃんとは悲劇のお別れ。あー会いたかったー真樹ちゅわん!」
 風鈴、また抱きついてくる。自分はしつこい客が嫌いなくせに自分はしつこい。
「お前は暑苦しいの。抱きつくなら冬に抱きつけ」
 と私はみりんの後ろに避難した。
「かわいくない……」
 風鈴はそう言うとみりんを睨む。
「もうお願いだから私を巻き込まないでよ」
 とみりんはその風鈴の視線にビビッていた。
「おい邪魔だ。用はすんだ。帰れ」
 刑事が言った。貧素な落語家みたいな顔のくせに高飛車な奴。私は頭にカチンときたので、
「うるさい! だまれダチョウ!!」と刑事を睨んだ。私はこの刑事が怒らないかなー思っていた。できればそれで私を殴ってもらって私はわざと窓ガラスにぶつかってやってドンガラガッシャーンとダメージを喰らったふりをする。もしかしたらちょっとした騒ぎになって面白いかもしんない。
 ところが私のそんな考えも消え失せた。刑事は私の顔をまじまじと眺め、
「口が汚たないところもよう似とるな。髪も同じケツのあたりまでだし。完璧クローン人間って奴だ」とニヤつく。
(あの女の系統かい)
 私の知らない私を知っている人間。警察署はそういう場所だったのをすっかり忘れていた。気持ち悪い。生理不順になりそう。
「相談所止まりなのもそろそろ終わりだな。初犯はなにやらかすのかな? 無難にたかりか? クスリか? いやその体ならうり売春か? それとももうやってっか? ――まあ頑張ってお母さん、喜ばせてやれや。お前で点数稼ぐのが夢だそうだから。あの女」
 と刑事は下から上へ舐めまわすような視線を私に送ると、くるっと背を向けた。
「じゃあ大きくなったら刑事さん捕まえてよ。出世させてあ・げ・る」
「そうかい。じゃあ百人くらい殺してくれなきゃな」
 と刑事は廊下の向こうに消えて行った。
「知ってる人?」
 と風鈴は私の肩を叩いた。私は無言で何も答えなかった。
「もういいじゃん帰ろうよ。もう三時だよ」
 みりんの声が少し遠くの方で聞こえる。見てみると一人だけさっさと階段を下りて帰ろうとするみりんがいた。
「おいコラ! お前なに勝手に帰ろうとしてるわけー。全部お前のせいなのに!」
 私はみりんのバカ女を指差して怒鳴った。
「はぁー、焼きプリンが食べたい。コンビニ寄ってこ」
 するとみりんは私のことなどしったこっちゃないという感じで口をポカンと開けてあくびをしていた。
(聞いてねーよこいつ)
「もう嫌だーあいつー」
 とみりんにうんざりした私。
「ふふ、そうね。じゃあ追っかけて行って後ろから蹴っ飛ばしてやんなさいよ。そうしたらみーちゃんも少しは反省するかもよ?」
 風鈴、とても良いこと言う。
「えーそうしたらみりん、階段から転げ落ちるかな?」
 ワクワクして私は飛び跳ねた。
「ちょっと冗談よ。やめてよね本気にするの。そんなに頬っぺたの血色良くしちゃって」
 とみりんは眉間にシワをよせ私の頬を両手で挟んだ。冗談だったらしい。ちっ! つまんない。
「ああ嫌だ嫌だ。絶対子供なんていらない」
 みりんは背中を激しく揺らした。私は歩くのも面倒くさくて半ば強制的にみりんの背中に飛び乗った。当然これくらいさせておかないとお腹の虫がおさまらない。
「ほら、真樹。こっちおいでよ」
 それを見ていた風鈴が私へ背中を向ける。私をおんぶしたいらしい。
「やだ。お前に乗るとポキッて折れそうなんだもん。落っこちて頭打ったらどうすんだ」
 と私は自分の頭を両手で抑えた。
「ホント、やめておいた方がいいですって。もう少し小さかったらかわいげもありますけどこいつはデカイし、ほら、小鳥の餌とか横取りするカラスっているでしょ? あれですよ。おまけに性格腐ってるし」
 みりんがひどいことを言った。この、三流風俗嬢が。
「お前だって170くらいあるじゃん。私まだ165くらいだもん」
 と私はみりんの頭を叩く。
「私はもう伸びないもんー。それにあんたくらいの時は150以下だったしぃーあんたみたいにカワイクない子はねぇー巣から落ちても、誰も、親だって拾い上げてなんてくれないよ。餌代もバカにならないしー」みりんはベーと舌を出した。でもその出した舌を戻す間もなくいきなり急停止するみりん車。
「あ、いや、その」
 とみりんの肩がガタガタと震えている。
「なんだ? 止まるなよ。進め!」と私は不思議に思い、みりんの顔を覗き込む。
「やば……」
 と凄くビクついた表情のまま、みりんが固まっている。階段の三段下、いつの間にか私達よりも先に下りていた風鈴がこっちを、いや、みりんを見つめていた。しかも、いつも見せているような顔じゃなく、穏やかさの欠けらもない険しい顔で。なまじ綺麗な分だけ冷たくて切れるような迫力がある。
(すげー女優みたい)
「ま、真樹。ごめんね。その、言い過ぎた。ごめん」ゆっくりと私の方を振り向き、たどたどしい感じで言うみりん。半分泣きそうな顔になっていた。
「あきれた。くだらなーい」
 私はそう言うとみりんの背中から降りた。それから素早くジャンプして階段を何段も飛ばしながら一気に下る。三階、二階、「一階!」勢いよく最後の段から飛び降りる。当然風鈴達は追いついて来ていない。私は署の玄関口に向かう。風鈴達を待つ気はなかった。
 たまにある。気を遣いすぎる風鈴に、私はそう感じないのだけれども風鈴の目には無神経に映るみりん。余裕がある怒り方でみりんを叱る風鈴は良い。でも本気はだめ。嫌い。みりんはバカだからマジでへこむし、泣き出すから。
 よく分からないけど私はあまり長い間、人と一緒にいない方が良いのかもしれない。長くいると大抵もめごとがおこる。小太り男との時と同じ。隆行さんにしても。私は人の気持ちというやつを揺らしてもれなく不安定なものにしてしまうような才能があるらしい。
 昔、私にそっくりな女がよく言っていた。私のせいだって。だからたぶん、そのとおりなんだろうね。
「汚ったない月」
 警察署から出てすぐに玄関前で夜空を見上げた。せっかくの満月なのにホコリを拭き取った後のティッシュか、それとも湾岸沿いで煙突から延々と放たれている煙のような雲が満月を点々と汚すように漂っていた。
(うーん充実かも)
 腕を頭のてっぺんで組んで後ろに反り返りおもいっきり背伸びをした。腰骨がコキコキ。気持ち良い。結構イベント盛りだくさんな一日だった。毎日これくらいのテンションで過ごせたら良いけれども、たまにだから面白いのかもしれない。
 ♪♪♪ 携帯が鳴った。電話の方。隆行さんが勝手にいじくって設定した着信音。ビートルズってやつ。私はよく知らない。CMとかで流れているのは聞いたことあるけれども。
「誰?」
「誰?」
「だから誰だよ」
「真似するな! 殺すぞ!」私は怒鳴る。
「お前が死ねば?」
 ツゥー、切れた。
「うっ!」
 突然後ろから蹴られた。ムカついて振り返るとそこには私がいた。いや、私よりもっと髪が長くて太ももの辺りまである。女はインナーにロゴ入りの白いニット、黒のスーツ。下も黒いパンプス。耳に携帯を当てている。
「寒い。子宮が凍る」
 下腹部に手を当てて女は言った。
「普通に会えよ。やることがガキっぽい。冷え性のくせに」
 と私は自分の後ろ髪を撫でた。
「熱帯夜を期待してたのに。今日の夜ってやだ」
「私はお前がい、や、だ!」
 と携帯をお尻のポケットにしまう私。
「ムカツク顔。早く死んでよ」
 そう言って女は無表情のまま携帯を胸ポケットにしまう。
半年ぶりくらいだった。変わらない無機質な枯れた表情。署内から漏れる光で、きついくらいのストレートパーマが黒光りしている。
「じゃあ自分が殺せばいいじゃん? 抵抗しないよ。お好きに」
 と私は両手を上げ万歳した。
「親のこと想うなら自殺してくれるのがベストなのだけど」
「私を捕まえるのが夢なんでしょ?」と私は自分を指差す。
「夢は夢。それにガキじゃ死刑にならないし」
「用がないなら消えろ」と私は女から視線をそらす。
「用ならあるよ。お前競輪場の近くでキレたろう」
 女はカラコン男との乱闘を言っているらしい。カビの生えた話を今さら。
「なにそれ?」とりあえず私は聞いた。
「競輪場の近くのカフェにいきなり窓ガラス割って店に侵入してきた十六―二十歳くらいの少女って誰なんだろうね? なんかお店、メチャクチャにしたらしいよ」
「ふーんそりゃ大変。十六―二十歳か。じゃあ私じゃないね」
「目撃者多数。その少女は迷彩のデニム地のチューブトップを着ており色白で髪は少しグレーが入った黒だったそうです」
 女は記者のような口調で言った。
「へえーみなさんホントによく目撃してらっしゃるのね」
 と私は胸の谷間をかきむしる。
「まあこれは目撃者証言というよりも被害者証言なんだけどね。指が爪の辺りから消えちゃってる少年の。まるでピラニアにでも食べられちゃったような」女は耳にかかった髪を後ろにかき上げた。
(栄子の話がないな。男置いて逃げたのかな?)
 カラコン男は捕まったらしい。栄子は一人で逃げたらしい。とてもあいつらしく生きてらっしゃる。
「でも信憑性は薄いのよねーその男の子様子が変だったから尿、調べてみたわけよ。そうしたらまあなんと嬉しいオマケがついてきた」
 と女は軽い口調で、自分の膝頭に手を置くと少し前屈みになった。
「ドラッグですかな?」
「ビンゴ。それに指を女に食われたなんて話してるし」
 女は頭をかきながら面倒くさいって感じで話している。
「案外全部その男がやったんじゃねーの? 薬漬けだったんだろ? 全部幻覚なんじゃねーの?」
「えーどうだろ? 店長は顔中血だらけの女の子がアルバイトのこ娘連れて店を出て行くの見てるしー、他のお客様もその迷彩のタンクトップが暴れてるのちゃんと目撃してるのよ? それとも店中のみんなが薬浸けだったってわけ? すっごいねーそれ」
「いいじゃん。みんな色んな薬飲んでる」
 と私は言った。だけど女は私の言ったことなどおかまいなしといった感じで、
「変なんだよねーその少年さあー私の顔見たとたん「ぎゃー」って絶叫して逃げだそうとしたの。その後はびくびくしちゃって目も合わせてくれなくて困っちゃった」と眠たそうな目をした。
「お前の顔が怖かっただけだよ」
「そう? そんなに怖い顔かな?」
 と言って女は私の頬を左手の甲で一回二回と軽く叩いた。
「前にも同じケースがあったのよね。地下鉄から地上に出る階段を上がっていた二人組みの男に突然上から無人のバイクが突っ込んできた、なんてのがあったけど、その時も同じ感じで、軽傷ですんだ男の方に話を聞こうとしたんだけど、その男も私の顔みた瞬間、頭抱えて「来るな来るなー」って。変なお話だよねー?」
「うっとうしい!」私は女の胸を突き飛ばした。
「ふん。かわいくないわね相変わらず。心配しなくても全部藪の中よ」
「どうせお前が何かしたんだろ? 弁償とか責任とか大っ嫌いだもんねー?」
「誰が? 保護者は隆行だもの。私には関係なーい」
 と女はスーツの胸ポケットから青いラインの入った箱を取り出すと口で直接煙草の先を噛んで引っ張り出す。
「あっそう。じゃあ他に何の用があるわけ?」
「別に」
 と女は煙草に火を点ける。カッコつけて。気管弱いくせに。
「じゃあねーアディオス」
 女は背を向けて署内に帰って行く。
「ああ。そうだ」
 と女は急に振り返った。
「何だよ! いい加減にしろ! お前といると疲れるんだよ。このカス!」
 ホント、この女といると体中のパワーが吸い取られていくような気分になる。冬実とはまた別次元の無気力感を私に与えてくる。
「今度は切られるんじゃなくて、突かれなさい。その方が致命傷になりやすいし」
 と自分の肩をトントンと叩いてみせると女は二階への階段を上がっていく。ぎゅううー。私は無意識に包帯の巻かれた自分の肩を強く握りつぶしていた。
「あっいた。良かったー帰っちゃったかと思った」
 と風鈴が階段をかけ下りて来て私に抱きつく。
「ごめんね? 別にケンカしてた訳じゃないのよ。私が悪かったわ」
「みりんはバカだから怒っても意味じゃん? ほっとけ」私は風鈴の頬を両手で挟むように触れて言った。
「あれ? 何かあった? 右眼が赤くなってる」片眉を下げて風鈴は言った。
「結膜炎気味。ほっとけ」
「ちょっと気をつけてよ。あなた、とくに眼を大事にしないと」
 と風鈴は自分の瞳に私が映るくらいの距離で顔を近づけて私の眼を覗き込む。私ははっきり言えばいいのにと思った。そのうち左目が完全に見えなくなるから右目を大切にしなさいって。
 風鈴に眼科へ連れて行かれてから二年以上が経つけど、いまだに検査結果は聞かされていない。でも検査から数日たった ある日、店の控え室では落ち込んだ表情のまま私にいつも以上に長い間抱きつき、離れようとしない風鈴の姿があった。私はその風鈴の態度から自分の眼の状態をだいたい察した。もっとも病院へ連れて行かれる前から隆行さんには、お前の左はただついているだけの義眼と変わらないってことは言われていたのでショックはなかった。ただ、アニメのカードを並べて遊んでいた時、風鈴に私の眼のことがばれ、風鈴があんまりしつこいので渋々と病院に行ってやっただけのお話。
「ねえねえ聞いて? 今ねえ二階の階段前で真樹に会ったの!」
 とみりんがはしゃぎながらやってきた。
「私、ここ」
 自分を指差す私。
「みーちゃん。もう怒ってないから普通にしなさい」
 風鈴はあきれている。
「違うの! 話最後まで聞いてって。あのね、私が会った人最初は真樹だと思ったの。でもね、すぐ違うって分かったんだ。だけどー、あんまりー、真樹に似てるからおもわず「あなたにそっくりな人みませんでした?」って聞いちゃったのー。我ながらバカなこと聞いちゃったなーて思ったんだけどその人、「ああその方なら下の玄関前にいましたよ」って言ったの。だから来てみたらホントにいた!」
 走って来たからなのか興奮しているからなのか分からないけどみりんは息を切らせて早口でいっきに喋りきった。
「なに? 私を見つけてそんなに嬉しいわけ?」と鼻息の荒いみりんにあきれる私。
「私の方がみーちゃんよりもっと嬉しいわよ」
 と風鈴はみりんに対して変な対抗意識を剥き出しにしている。バカメス二人。
「そんなに似てたわけ? その女?」
 みりんが会った女が誰だかなんて分かっていたけど私はとぼける。
「似てるなんてもんじゃないよあれは。年は……うーん、そう! 二十代後半くらいかな?」
(バーカ三十七だよ)
「あんたと同じで目がでっかくて少し端の方が吊り上がってて猫目であんたを誉めてるみたいで胸クソ悪いけどさー、綺麗な人だったなー」みりんはあの女に対して好感触だったらしい。でもそんなものは一週間もあの女と一緒に暮らしてみれば一気に吹っ飛ぶ。
「何か言ってた? その女?」
「別にー。ああ! ただ私があんたのこと聞いた後に、ありがとうって言ったら、「そんなに似てます? その方と?」って言ってきたから、「はい! バカほど」って言っちゃってさー気悪くさせたかなーて言った後ですぐ後悔してたら「そう」ってニコッと笑ったの。あんたの笑った顔あんまり見たことなかったから、その女の笑顔見てたらあんたが笑ったらこんな感じなのかなーって思っちゃったさ」
「へえーいいな私も見たかった」風鈴は残念そうに足踏みをした。
「風ちゃん……別に真樹が笑ったわけじゃないんですから」今度はみりんがあきれていた。
 ――真夏の明け方を三人でとぼとぼ帰る。崩れたレンガの歩道はぬかるんでいて滑りやすくなっていた。私達の真上は、お城の建っている横の記念公園の中から壁を飛び越えて大きくはみ出した枝葉によって覆われていた。モザイクのように空をすっぽり覆い隠すその枝葉は青臭く湿った匂いと共に私達をその隙間から垣間見せる明け方の空みたいにとても虚ろに私達を包んでいた。道路にほとんど人通りはない。それでも時折走り抜けて行く車はそれを楽しむように振り絞った最大スピードでアスファルトを気持ち良さそうに飛ばして行く。ダサい軽トラでさえ。
 ざわざわと空を覆う枝葉が揺れていた。枝葉の振動を感じる間もなく、向かい風が私の前を歩いている風鈴とみりんの髪を穏やかな波のように静かに揺らして最後に私の顔を吹き抜けていった。眼がうずく。肩も。また私は強く包帯の巻かれた肩を掴んでいた。
「いい風だけど、風邪ひかないようにね」
 と風鈴は私の方を振り向く。
「うがいしても何しても、ひく時はひきますからね。風邪」
 とみりんは喉元を触りながら言った。二人はおたがいに顔を見合わせ、笑い合っている。
 笑った顔。あの、私にそっくりな女も笑ったらしい。どうせ嘘笑いだろうけど珍しいこともあるもんだ。しかも私の話で。
「おいみりん!」
 私はみりんを呼ぶ。
「何よ?」みりんは振り返る。
「スマイルってタダかな?」
「当たり前じゃん。どんな店でも基本でしょスマイル。うちの店だってそうだもん」
 とみりんが笑った。
そっか。ただなら見てみたかった。雪樹(ゆき)のスマイル。


<8>
 少しも横へ揺らぐことなく、強く、まっすぐ下へと降り注いでいるシャープなラインの雨。外の景色は濠雨のせいで光もろとも削り取られてしまったかのようにかき消されていた。ここ数日、うだるような暑さが続いていたので、普段の私なら涼しいってこともあって雨は大歓迎なのだけど、今はベランダの手すりや窓を叩くこの雨音がいちいち私の脳みそをうるさくノックしてくるセールスマンみたいに思えてスゲェ邪魔臭かった。なんか、今私の下腹部に走る、鈍く、気ダルい痛みをさらに促進しているようにも感じてしまう。
 体を伸ばすのもきつい。リビングのソファにジッと丸まり、ただ意味もなく、重たくなったまぶたで、狭まってしまった視界で、窓にひっつく形の崩れた水滴の数を呆然と数える私。
 下腹部に貼っておいたカイロも冷たくなってきたので、新しいのと変えたかったのだけどそんな元気も沸いてこない。始まって二日目よりは少し体も動かせるので、だいぶマシになってきたけど私の場合は腰痛も同時にくるので、とても動けない。
(腹減った)
 三日、何も食べてない。意識がもうろうとしていたので、確信じゃないのだけれど隆行さんは帰って来てないみたい。
「あーもう! 痛い痛い痛い痛いー」誰もいないし、叫んでみても痛みがなくなるわけじゃないのに、動けないストレスもあって私はリビングいっぱいに奇声を張り上げる。
 三回ビートルズが鳴った。一回目はマンネリからだったので、話を聞くまでもなく「ウセロ!」と言って携帯をキッチンの方向に投げた捨てた。その後に鳴った二回目のビートルズの時は、携帯を投げてしまったことへの後悔と自己嫌悪の嵐に責められながらもキッチンのテーブル下へ転がった携帯の所までナメクジみたいに這って行った。
 キッチンにあるテーブルには椅子が一つしかない。それは赤いパイプ椅子で無駄に大きい。雪樹と私がこの家に来た時三つセットで買った物。買った本人が消えて一つなくなり、私も自分の部屋かリビングにしか寄り付かないのでまた一つ消える。結局今は隆行さんしか座らない。だから一つだけ。
 私は椅子の足を掴むと乱暴に横へ引っ張り倒し、テーブルの下へ潜り込み、うるさくビートルズを鳴り響かせ続ける携帯を掴んだ。
 うずくまって取った携帯の向こう側には光彦がいた。新しい病院に入院したということだった。何か言いたそうな感じだったのだけど、痛みで生気の欠けらもない私が「あぁ」とか「そう」とか気のない返事を繰り返していたので、「またかける」と言って切ってしまった。
三回目のビートルズは二回目の光彦から間をおかずに、すぐかかってきた。その携帯の向こう側にはとても無茶な相手がいた。
「生理」とだけ電話の相手に答える私。
「何を整理?」
と聞き返され私は無言。
「あれ? アンタも重いタイプなわけ?」
「かなり」私は細い声で言った。
 この女は私の生理の重さなんて知らない。生理(これ)が私にきた時にはもう出て行った後。
「もしかしてそれ腰とかにもきてる?」
「もう切る。ウセロ」口も動かしたくない。
「うげ、マジで? そこまで似る?」
 面倒くさそうな雪樹の声。
 私は「面倒くさいならかけてくるな!」と言う元気もなかった。元気がないから何もできない! と誰かに声を大にして言いたかった。
 その後、雪樹が続けてなにかを喋っていることくらいは分かったけど、頭がボーしていて話の内容なんかはまったくと言っていいほど理解していなかった。唯一理解できたのは頬に伝わる冷たい床の感触と、ドンドンと太鼓のような鼓動を立て暴れる下腹部の疼きだけで、私の意識は眠りか気絶か分からないけれども、徐々に淡く薄まるように消えていった。「ゲホ」と人のむせる音で目を覚ますまでは。
 外からリビングを通り、私のうずくまるキッチンのテーブル下にまで光が届いている。雨が上がっていた。床に頬を擦り付けたままの状態で目だけを動かすと、床は窓辺から差し込んだ光が張り付いてしまったかのように明るく照らされているのに、私の顔の部分だけには暗く影が落ちていた。
「うえぇ」つーんと生ゴミの臭い。私はそんなとてもありがたくない香りの中で、もの凄く心地良くない目覚めをしていた。気持ち悪い。気がつくと目の前に人の足。真っ黒な。
「親指の爪でパカッとな。この方が綺麗だ」
 焦げた鍋の底みたいに黒い顔したジジイが、キッチンの椅子に座っていた。臭いの元締め。テーブルの下からなのでよく見えないけど、髭が生えている。綿飴みたいな白いモクモクした髭。顔一面にある。
(何あれ? ニュータイプのサンタ?)貧素な想像力に我ながらビックリした。でも、私の脳みそはそれくらいにしか作動しなかったのだ。起きぬけで、しかも生理痛強化週間。しかたない。
 何かを切る音がした。
「ナイフで切った方が綺麗だっての。スプーンですくってさ」
 あっ?
「隆行さん?!」私は思わず大きな声を出す。
「起きた?」
 スプーンを持った手と一緒に隆行さんの顔がぴょっこんとテーブルの下を覗く。ジジイの真向かいに座っていたらしい。私は生理痛そっちのけで、急ぎテーブルの下から這い出てリビングまで行き、窓から外を見てみた。どうやら夜ではないらしい。なのに隆行さんがいる。これはビックリ。めったにない。
「ナニナニ? 隆行さん。今日なにかあるの?」
 と隆行さんに駆け寄る私。
「上に何か着ろ。ほら、携帯落ちたぞ」
「気にしないで」
と私は落ちた携帯を拾う。
「お前が気にしろ」隆行さんは眉間にしわを寄せる。
「ねえ? さっきからさ、ナニ食ってるの?」
「栗」
 赤い袋がいっぱい、テーブルの上に乗っていた。天津甘栗。
「てんず……かんくり?」私は袋の一つを手に取る。
「そう思うなら、そう読んでろ」と隆行さんはそっけなく。栗を食べるのに夢中のよう。
 隆行さんの髪が短くなっていた。スポーツ選手によく見かけるようなハリネズミみたいな短髪。髭は荒くて、無精髭ってやつになっていた。髪切ったのなら髭も剃れば良いのに。
「私も食べて良い?」
「良い。でも自分で剥けよ? それが栗のルール」
(そんなもんか?)
 と一個栗を手にした私。
一分後。
「うあぁー」私は栗を壁に投げつけた。信じられない。食べ物のくせに何様だコイツは。剥けやしない。
「隆行、娘にどういう教育してんだ。食べ物を粗末にして」
 とジジイは爪跡や噛み潰した後で、グチャグチャになってしまっている、私が投げつけた栗を拾い、なんとそのままパクッと食ってしまった。
「鶏とかさ、放し飼いの方がブロイラーのよりも美味いじゃん。だからこいつも、放し飼いなわけ」
 と隆行さんはナイフで栗を真っ二つにして、スプーンと一緒に私にくれた。栗のルールはどこにいってしまったんだろう?
「いくつだ?」ジジイが聞いてきた。
「十三。ていうかお前、誰だよ。臭い」栗を食いつつ鼻を摘む私。
「いやなデカさだ」とジジイは私をジーと見た。
「凄いよコイツ。餌をいっぱいやって大きくなるってのは分かるけど、何もやらなくても大きくなるからね」
 バンっと私の背中を叩いて隆行さんは言った。私は痺れる背中を手で抑えたまま、その場で大きく飛び跳ねる。ひ、ひどい。背中に紅葉。も、漏れちゃうかと思った。何かが。
変だった。さっきから二人の会話を聞いていると、このジジイはとても私のことをよくご存知でいらっしゃるみたい。
「隆行さん。私、このジジイ知ってる?」
と私は自分を指差す。
「レール下のトンネルにいたろ。昔。憶えてねえの?」
 と隆行さんはひたすら栗をパクつく。
トンネル? 昔? うーん。
「ホームレス? このおじい様」
 昔と、トンネルと、隆行さんといえばホームレス。あとジジイの黒ずんだランニングや、ギザギザに破れて、白髪がその隙間からはみ出してしまっているホークスの帽子を見て私はそう思った。
 まさに独断と偏見。訴えてやる! ってシャレになってない。
「ホームレスじゃないよ。仙人」ジジイは小汚い顔を膨らませる。私の偏見は当たったらしい。
「ハハン。ナニが仙人。ドブ仙人か?」隆行さんは苦笑したように口元をわずかに微笑させる。
「ジジイ。私に会ったことあるわけ?」
「一、二度。まだお前がミジンコくらいに小さかった頃。それから比べるとホントに大きくなった」
ジジイは目が隠れてしまうくらいに、顔のしわをクシャクシャにして笑った。ちょっとかわいかった。
「じいさん、四時。いいのか? 帰らなくて」
 と隆行さんはピチャピチャと栗のカスがついた指を舐めた。
「お! いかん。売り切れちまう」ジジイは椅子から飛び降りた。
「そんじゃ、また連絡する」
とジジイは玄関脇にある冷蔵庫の横っ腹に手をかけて、体を支えながら、ワニの口みたいに破れてしまっている靴を履いた。
「うーす頼むわ。結構、時間的にキツイからさ」
敬礼ポーズで隆行さんは笑った。ジジイもドアを閉めると、カンカンカンと階段を下りて行く。
「この椅子、まだあったんだ?」
ジジイがさっきまで座っていた椅子に私は座る。雪樹の椅子。背もたれに煙草で焦がした丸いハゲがある。もっとも座っていたところなんて数えるくらいにしか見たことなかったけど。
「ジジイの座るとこがなかったから、書斎から持ってきた」
「へえー書斎に置いてたの? 捨てたのかと思ってた」
「ナニその顔? 未練たらしい男とでも思ったか?」
 隆行さんは立ち上がって、私の頭をクシャクシャと撫でるとリビングに行き、ソファに座った。
「思ってない思ってない。あんな女に未練持つような奴はこの世界にはいないでしょ?」
 と隆行さんの横に座る私。
「お前がいるじゃん?」隆行さんは笑って私を指差した。
「冗談。雪樹だけは勘弁して」私はあきれる。
「それよりお前さ、どうして裸なわけ? 健康法かなんか? 言っとくけど風邪ひくだけだぞ。昼の情報番組に騙されるなよ」
「裸じゃないじゃん。ランジェリー装備完了で戦闘準備はオールグリーン?」私は両手を広げる。
「弱そう。下着って踊り子の装備じゃん? 戦闘力0」
「そうでもない。意外に効く。教師とかエリート官僚には」
 とファイティングポーズをとる私の太ももをずっと見つめる隆行さん。マジ? 元医者にも効いてる?
「ふむ、予想通り、おもいっきり痕が残ったな」
 と隆行さんは栗を食っていたスプーンでパシパシと私の太ももを叩く。まったく効果なかったみたい。
「予想通りってひどくない?」
「しょうがない。電話があったのが夜勤明けだぞ。しかも散々と家で飲んでた後だぞ。バイ菌が入らなかっただけましだ。感謝しろ。俺に感謝しろうよ!」私の髪を引っ張る隆行さん。
(マジで適当にやってたんだな)
「ちょっとひどいよー。もう少し丁寧にさぁー」
「ひどい? 確かにひどかったなぁーこの部屋。よくこんなに綺麗になったもんだ。いくらかかったんだろうな。リホームに」
 と隆行さんはリビング全体を見渡すように首を回した。
(やば)
「窓ガラスは枠だけで、天井は煙でまっ黒だしなー年末、一生懸命にワックスがけした床もパア。どうだろこれ? なあ? 真樹?」
 私の肩に手を回して意地悪く隆行さんは言ってきたので、私も隆行さんの肩に手を回して「まあ隆行さん、生きてると色んなイベントがあるもんですよ。気にしないで」と言った。
「足出せ真樹」
「足? いいよ」
 私は足でも踏んでくるのかと思って素直に足を出した。これくらいですむなら安い。
「ギャア!」
 隆行さんは私の注意を足にそらしておいて、鼻を指で弾いた。痛い痛い! なんて卑怯な真似をまったく。
「憶えたな? もうするなよ。今度やったら切り取っちまうぞ」
(犬か私は)
 別に私がやったわけじゃないのに。刺されたのも私のせいじゃないのに。鼻痛い。世の中って難しい。ああ痛い。
 私は部屋に戻り、ベッドの上にほっぽっていたクラッシュデニムを穿き、虹色のタンクトップを着て、またリビングに戻った。
「雪樹ちゃんから電話あった?」隆行さんは私がリビングに戻るなりそう聞いてきた。さっきから雪樹のことを聞きたがっていたのは十分、分かっていたけど、私は意地悪く自分からは言わなかった。
「どうしてそう思うの?」さらに意地悪く私は笑った。
「うあームカツク。何だよその顔」隆行さんは私の後ろに回ると肩を強く揉んだ。
「痛い。肩なんてこってないって。痛たたた、あったよ。電話ありましたぁー」
 たいして痛くはなかったけど、娘としてコミュニケーションじみた対応をしてみた。たまには良い。こんな明るい内から隆行さんと話すなんてめったにないことだし。面白いイベント。でも何で電話があったことが分かったんだろうと携帯の着信履歴を確認してみたら昨日から今日にかけ、連続して雪樹からの電話が入っていた。なーる。これを覗いたわけね隆行さん。
「でっ、用は?」
「さあ? 隆行は何だと思う?」と私がいつもより少しだけ低い声で言うと「似てねーよ」と隆行さんは私の頭を叩いた。
「そう? この間も間違われたばかりなんだけれども」
 三人で暮らしていた頃は、よく隆行さんの前で雪樹の真似をした。その頃は似てるって喜んでたけど、今は嫌みたい。
「聞きたいことがあったみたいだったけど、すぐ切ったよ」
「何だそりゃ? 何しにかけてきたんだよ、雪樹ちゃん?」
 と隆行さんはソファに束ねてある雑誌類の中から新聞を抜き取ってまたソファに座り直した。
「これ読め」隆行さんは私に新聞を渡した。
「ん? いいでヤンスよ」
 私はそう言って新聞を手に取った。
『――失業率の悪化に……日本各地から失業者の悲鳴が聞こえるなか、雇用対策の柱としては、失業給付の期間延長、失業中の教育訓練の充実などが盛んに唱えられている。だが、多くの大企業が一万人規模のリストラに躍起となり、また中高年が教育訓練後に再就職を希望したとしても、求人の年齢制限のため試験さえ受けられない現状の中で……』
 別にどこを読むとかは決まっていない。私の自由で良い。もちろん意味も分かってない。何で隆行さんが自分で読まないのかは知らない。聞いたこともない。昔から読まされている。目が悪いとかではないらしい。本とかはよく読んでいる。ただ、あんまり漢字が少ないところを読んだり、ふざけて四コマ漫画とかを読んだりすると生活費を削られちゃうので私はちゃんと読む。
「あんまり間違えなくなったな?」
「でしょ。じゃあ、ちょーだい!」
 と私は両手を差し出す。
「痛い!」デコピンされた。
「さっき『天津甘栗』を『てんつ』って言ってたろ。バカ娘」隆行さんは怒鳴った。
「もう間違えないよぉ! だからだから、現状維持ー」
 と首を激しく横にシェイクする私。髪が踊るくらい。
「現状維持とか、ホントにどうでもいい言葉はよく知ってるな?」
 と隆行さんは苦笑いを浮かべると、ジーンズの後ポケットからクシャクシャに顔の歪んだ諭吉を何人か出して私にくれた。そこには先月よりも諭吉が一人多くいた。
 ――チャイムが鳴った。
「鳴ったぞ真樹」隆行さんはソファに寝っ転がっていた私の足を叩く。
「そうだね。鳴ったねェー」
 私は諭吉を数えるのにニンマリでそれどころじゃなかったのだけど、隆行さんが「お前は餓死しろ」と一枚残らず私の諭吉を取り上げてしまったので、
「ムカツクー一度くれた諭吉を」とブツクサ言いながら玄関に行きドアを開けた。
「誰だコラ! 生きて帰れると思うなよ!」
 ガチャ、すぐに閉めた。
 ドアを激しく叩く音がする。
 ドアのマル穴から確認のためもう一度見てみると、魚を真正面からみたような顔で、向こう側からもニヤニヤと穴を覗いている。
(あーあ開けたらいきなり刺されないだろうな?)
 渋々ドアを開ける。
「キャハハハ。真樹ちゃーん」
 手をグウパアグウパアしながら冬実が立っていた。まただるだるの、真っ赤なロンTを着て。
 ウェェ、吐き気がしてきた。いつまで経っても、こいつにだけは慣れない。
「ハイ、こんにちは。ハイ、さようなら」
 と私が強引にドアを閉めようとしたら冬実は閉まりそうになるドアの隙間に強引に腕を入れてきた。
(あっクソこいつ。上等じゃん。折ったろ。ヒヒヒ)
 そう思って私はドアを強引に閉めようと、左足を踏ん張ってグイグイとドアノブを引っ張った。
「あん?」
 だんだんと大きな雲が太陽を隠していく中、そこから産まれた出来立てほやほやの影の中に溶け込んでしまいそうなくらい虚ろにつっ立っている人影があった。
 初めは冬実かと思った。でも違った。
再び雲に隠れていた太陽が顔を出し、陽がその人影の回りを徐々に縁取りしていくと、見覚えのある金髪の枝毛が立っていた。今にも頭が地面へと落っこちそうなくらいにうつむいて。
 こういう時、普通親なら「上がってもらえば?」とか言うのだと思うんだけど、騒がしいと様子を見に来た隆行さんは私の肩を叩いて、「あのさ。ここ狭いから、こいつに報復したいなら、外でやってくれる? 階段下りてさ、まっすぐ行ったら洋館風のラブホがあるから、そこ曲がってよ。ちっこい公園があるし。ね、そこでモメて」と言った。
「パパひどーいィ」私は猫なで声で振り返った。
「東南アジアにでも売りとばされてこい!」
 と隆行さんに言われた後、色んな音がした。背中を隆行さんに前蹴りされた音。締め出されたドアの音。そして、冬実におもいっきり足を踏まれた音。
 

 冬実、私、桜子の順で歩いている。雨上がりなのか、今から降り始めようとしているのか分からないけど、私は歩いていて、湿気が腕や足を動かすたびにまるで納豆のように糸を引きながら体へとからみついてくるみたいでうっとうしく感じていた。
 看板の電飾が全部割れている大人のオモチャ屋。深夜にしか開いているところを見たことがない焼肉屋さん。そんなビジョンだけで臭ってきそうな建物の間の雑路を私達は行く。
(スッゲェー無駄じゃん。この時間)
 何の用か知らないけど冬実と桜子がからんでいるのだから、どうせどうでもいい用事に決まっている。
「おい生ゴミ。なんか話あるのか?」私は前を歩く冬実の肩を掴んだ。さっさとすませて帰りたかったのだ。
「私じゃないよーん。サッちんだよ」と冬実は振り返り私の右胸に肘打ち。
「痛いぃ! お、お前! 乳はやめろ、乳は!」
私は痛みでうずくまった。
 これはかなり頭にきた。いい加減許せん。私は立ち上がるとみせかけ、低い姿勢で冬実の足首めがけて払うような蹴りを撃つ。
「ヒャッホウ!」 
冬実はそれを縄跳びのように足を交互に上げ、素早くかわす。
(あーあ。ヤッパこいつ殺るには掴まなくちゃダメか)
 反応の早さ。冬実のはそんなもんじゃない。私の場合は病的なほど相手の目の動きや仕草が気になってしまい、その良い面がバトルに活かされているのだけれど、こいつの場合何を基準に反応しているのかさっぱり分からない。まるでこっちが動く前にもう行動がばれているみたいに思えてしまう。だからこいつと殺り合うのはやだ。力の強いやつとか、男の方が単純に殺れてよい。冬実と殺り合うと、まるで磁石の同じ極同士が反発するようにお互い弾きあって決着がつかないし、殺りづらい。
「当たらないねェー真樹ちゃん。もっとこっちおいでよ。チューしてあげる」
 冬実は口をハート型に尖がらせていた。まるでその顔は人食い花に見えた。
「うるさいよ。近づいたとこをブスっと殺る気だろ。ワンパターンなんだよお前は」
「おい桜子。お前は何しに来たんだよ。あれだぞ? 私は吉野家の昼時よりも忙しい女なんだぞ。早く用件を言う前に帰れ!」
 と、自分の後ろをショボショボついて来る桜子に激しく言い寄る私。でも桜子は冴えない顔で私に言い返すわけでもなく、ただうつむいたまま。
「この枝毛女、ホントウゼぇー。お前のせいで諭吉は取り上げられるわ、腹は減ってくるわ、生理は止まるわって、まだ止まってない! もう更年期か私は!」
 と私は桜子の足元から頭のテッペンまでをゆっくりと睨みつける。ホントに腹が立って腹が立って、そして腹が減ってきた。
「不思議だな。お前の顔見てるとなんかお腹が空いてくるんだよね。うーん、よし! 公園なんか行ったって腹膨れないんだし、マックいこう! マック! ビックマックおごれ? チキンナゲットも」
「へ?」桜子は虚ろだった目を少しだけハッキリとさせて私を見た。
「チキン、チキン、チキン野郎ー」
 後ろで冬実がクルクル回りながら叫んでいた。
「おい、人間おごってるうちが華だぞ? おごられるようになったらおしまいだ。釣りとか料理にハマり始めた田舎暮らしのミュージシャンみたいなもんだぞ?」と意味ありげに意味のないことを言う私。
「お、おごるよ。おおおおごる」ビビリ桜子。
「おし、食うナリ」と駅前のマックに行こうと思った。でも、駅前の大きなビルの前には人がいっぱい集っていてとても歩きづらくなっていた。みんな一斉に上を向いていて、ビルのオーロラビジョンを見ていた。私も近くにあったバリカーの上に飛び乗り何が映っているのかを見てみる。どうもニュースらしい。何か珍しいことが起きたみたいだったけど私にとってはただのウザイ人の波。結局私は昼ジャストだったということもあって、客が多そうな駅前のマックを避け、駅の北口側にあるデパ地下のマックに行った。
 インドカレー屋さんと、お好み焼き屋さんの店が新しく入っていたので、思わずウインド越しにメニューを覗いてしまったけど、カレー屋さんにはおすすめランチで大嫌いな豚肉の角煮カレーが、お好み焼き屋さんには同じく、ジャンボ豚玉がおすすめになっていたのでクッキリと踏ん切りがついてマックのレジに並ぶ。
 私のささやかな願いが通じたのか、レジが一列増えて三列になっていた。人の流れがスムーズになっている。前々からこのマックに来る度にかなり待たされて、イライラしていたので、このレジのスムーズな流れは良い。
「ビックマックとチキンナゲット。あとアイスウーロン茶ね」私はレジの、やけに頬っぺたの赤い女に言った。
「はあ。あの、セットでは」
 と店員。よけいなお世話だと思った。多分、単品だとレジを打つのが面倒くさいのだろう。
「単品で」私は強く言った。だって私はポテト不要論者なのだ。あんなもの喉が詰まるだけでたいして美味くもないただの辛い油棒。
「じゃ、壁沿いの所に座ってるから」
 注文が終わると私はそう桜子に言って、壁と向かい合うようにセットされているカウンター席に座った。
「ん? 冬実、注文しなかったわけ?」
「いらなーい」私はせっかく桜子のおごりなんだからもったいないと冬実にも何か注文させようとしたのだけど、もう桜子は私の注文した物をトレイに乗せ、運んできている途中だった。
(ああ、そうだ。こいつの腹、ガキが入っているのだ)
 冬実がよく着ている感じの、サイズが大きなスエットを桜子は着ていて、下は太い線の二本入った赤いジャージを穿いていた。私は初め、桜子が妊娠していたなんてことすっかり忘れていたのだけど、ハンバーガーを乗せたトレイを持ちながら後に大きく体を傾け、歩いてくる桜子の姿を見てようやく思い出す。よく見るとスエットのお腹の部分に描かれた青い英文字が、そんなには目立っていないのだけど、わずかに盛り上がっているのが分かる。
「ガキさぁ。まだ入ってるんだ?」
 私は桜子の手からトレイを受け取る。
「うん」桜子は短いけれど、ようやく喋った。おめでたい。
「お前も食べないのか?」私は桜子に聞いた。
「今、油系とかダメなんだ。気持ち悪い」
 枝毛の先っぽをいじくりながら、桜子は言った。
「へえー一人前に妊婦気取りですか? 卵クラブですか?」
 そう私はまずウーロン茶を軽く一飲みした。
「ストロー使わないんだ?」桜子は言った。
「うん、嫌い。蓋をはずして飲むのが普通。その方が勢いもあっていーじゃん? 氷も好きだし」
 なんてことない会話。でも桜子はさっきより表情が柔らかくなった。
「ねえねえ、十円玉ちょーだい」横から冬実が割って入ってきた。
「はぁ? 十円なんかどうするよ?」桜子がようやく喋り始めたというのに冬実が話しかけてきたので、私はちょっとムカっときて、聞き返した。
「何が出るかな♪ 何が出るかな♪」
 どうやら冬実はハンバーガーに付いてきた、割引券とか、子供が口の中に入れてしまったりなんかして、親が大慌てしてしまいそうな、小さいキャラクター人形なんかのオマケが当たるクジをやりたいらしい。コインで銀色を削るやつ。ホントにガキ。
「分かった、分かった。ホラ、やってろ」
 銀削りで少しは大人しくなるかなと思って、十円玉を渡した。嬉しそうに冬実は私の手のひらから十円玉を取り去った。
「えへへん。じゃっ! いただきまーす」
 私は一応、桜子にお礼を言ってビックマックにかぶりついた。うん。体に悪そうで美味しい。食っているうちにレタスがこぼれ落ちそうになるとビックマックを食ってるぞって感じがする。そして合間にチキンナゲットのコンビネーション。素晴らしい。
「おい。私が食ってるうちに言いたいことあるんなら言えよ。今なら大人しいから。食い終わったら暴れちゃうかもよん?」
 私がそう言った後、しばらく桜子は黙ったままだったけど、そのうち、重たそうにゆっくりと口を開き始めた。
「家がさ、燃えちゃったんだ」
「ブホッ!」私は当然噴出した。テーブルじゅうにチーズやパンの破片が散らばった。
「家? マジで?」私は聞き返す。
「いや私の家じゃないんだけど、その、仲間の家にさ、転がり込んでたんだけどさ」
 桜子は両手を長い袖と一緒に揉み合わせながら言った。
「ナニよ。その仲間の家が燃えたわけ?」
「まぁその、燃えたって言うか、ボヤっていうの?」
「仲間って風俗の?」と私はチキンナゲットを口に放り込んだ。
「店の先輩」
「で? 追い出されたってこと?」私はボリボリとウーロン茶の氷を噛み砕く。
「違う。無理に置いてもらってたんだけど、先輩に彼氏ができちゃって、別に出て行かなくてもいいって、一応引き止めてもらったんだけど次の日の朝、私の歯ブラシ捨てられてた」と桜子は口元に痙攣したような無理のある笑みを浮かべていた。
 だけどまあ、よく色んなもんに寄りかかる女だと私は思った。
 栄子と少年課の奴、店の先輩。よくこんなにいくら自分が弱った状態だったにしても、色んなタイプの奴に無条件で甘えられるというのは凄い。栄子なんかと一緒にいて、少しでも考えてみればひどい目にあったりとか利用されたりとか、私だったら想像して身構えてしまう。そこいくと、桜子は他人の力を当てにするってことに関しては捨て身。
(ん?)
 嫌な予感が私の頭を渦巻く。
「お主、ちょっと聞くけれども、そんなオモシロ話をワシにしてどうするつもりじゃ?」
 時代劇風に私は言った。
「別に面白い話なんて」
 桜子はビックリした顔で私を見た。桜子にしては困った状況だろうけど、私にとってはハンバーガーを美味しく食べる為の調味料的なお話。
「私は何歳でしょーか?」
「え、エーと十三?」探るように上目遣いの桜子。
「そうです。その通り。いったい、こんな幼いワタクシにナニをしろというのかね? 君は?」
「べ、別に」
「あれじゃねーの? 火事で燃えちゃた方が良かったんじゃない?お前は。それが世界平和ってやつじゃん?」
 いなくなるだけで、それだけでボランティア。そう思った。
「お前にそんなこと言われたくない」
 桜子はさっきまでと感じが変わり、いつもの見かけ倒し的な感じに一瞬戻った。
「その風俗の先輩もかわいそう。どうせお前が原因だろ? 寝煙草とかでさ? それともあれか? 栄子に火炎瓶でも投げ込まれたか? 役立たずのカスはいらないって感じでさ」
「そんなんじゃない! イタズラだ! 絶対! アパートに帰ったら窓が割られてて、ロケット花火とかのカスが散らばっててさ。クソ! ホント、ムカつく!」
 桜子はくやしそうに、ダボついたスエットの裾を膝の上で握り潰すように拳を震わせていた。
 私は(お前も同じことやったじゃん)とあきれただけだったけど、“ロケット花火の燃えカス”というところが妙に気になった。
「花火ねぇー。派手で良いね。ファンタジーですな」
 私はそう言って前の壁を蹴り押し、椅子の背もたれに体重をかけながら少し後に反り返った。そして桜子に刺された足が治りかけていた頃のことを少し思い出していた。
「栄子にでもやられたんじゃねーの? 私の時と同じで」
「えっ何が?」桜子は白々しく聞き返す。
「お前だろ? 栄子と一緒かどうかしらないけど、私の家にロケット花火ブチこんだの。隠すな。もうとっくに冷めてるから怒ってないし」と優しい私は嘘笑いを浮かべる。  
「えー? やってない、やってない。だいたい俺、お前を刺した後、隠れてたもん、神獄(かんたけ)のカプセルホテルに。知らないよ」
 桜子は最大に頬を赤く膨らませて言った。語尾にも凄く力を入れて。
(ありゃりゃ)
 どうやら嘘じゃないらしい。バカな桜子の嘘くらいすぐに態度で分かるので、私は素直に信じた。もし騙されているとしても構わない。もう終わったこと。
「まぁそのことは横に置いといて、それよりさ、結局、お前は行くとこがないってことを言いたいんだよね?」
「まあ、うん」歯切れの悪い桜子の返事。私はさらにその返事として、月並に「親のとこでも帰れば?」と言おうとしたけど、言わなかった。
 親の元に帰れるなら、こんなガキで嫌いな私のところになんて来ないな、と思った。それに親のいる場所が絶対の安全地帯なんてありえない。私にしてみたら雪樹のいる場所なんて逆に危険地帯。デンジャラス最前線だったりする。
「元気ないねーサっちん。あっそうかぁーうまく燃えなかったもんねー。キャンプフャイヤー。キャハハハハ」
(キャンプファイヤー?)
 私の脳裏にいやーな想像が駆け巡る。『キャンプファイヤー』って冬実の言葉。そう、栄子やカラコン男を潰した競輪場近くのカフェに入る前に冬実が言っていたセリフ。たしか桜子の家でキャンプファイヤーがなんとかかんとか……私は途中で考えるのをやめ、ただ一言冬実に「お前花火好き?」と聞いた。
「大好っきィー」
 冬実は満開に咲いた悪魔の笑顔で笑った。
「花火なんか大嫌いだぁー!」
 と私はテーブルに額を押し付けたまま少しグリグリした。
(桜子の部屋が燃えたのも、うちのリビングが焦げちゃったのもそういうことですか)
 ジュースの入ったコップから落ちた水滴に顔を濡らした私は脱力感に襲われてテーブルに額をつけたまましばらく動く気がしなかった。だって桜子に刺されたこともあったけど、貴重な体力を使って競輪場の近くのカフェまでわざわざリベンジなんてのをやったのは、そもそも家にロケット花火をぶちこまれたのが原因だったから。それがこれだ。この結果。ちんけな冬実がやった陳腐な所業。この「これでいいのだ!」みたいな顔で笑っている女の。
 顔を伏せたままチラッと桜子の顔も見てみる。生理二日目の私と同じ顔をしていた。つまり、さいあくぅーって顔。冬実と桜子を見比べると、磁石で言えばSとMみたいに両極端な顔面をしている。
「はあー」
 正直このまま顔を上げたくなかった。顔を上げれば何かしなくちゃいけない。もちろんこのまま「しったこっちゃなーい」って言ってしまえばそれで終わるのだけど。
(それもなー。なんだかなー)
 一週間後の自分が予想できる。すっきりしない気持ちのまま一週間くらいベッドの上で何回も寝返り打っている自分。シャンプーとトリートメント間違えたのに気づいてトリートメントの瓶を壁に投げつけている自分。
(クソーちょっとだけ飼ってみようかな。出産シーンも見られるかもしれないし)
「プファー!」
 と私はテーブルから勢いよく顔を上げた。
「えーとまず、うーんと、何から……」
 そう言って親指で自分の眉毛をぐりぐりと押しながら私は頭の中を整理する。
「えーとまずお前は私と一緒に来い。しばらく飼ってやるモジャ」
 と私が桜子の冴えない顔を指でつっつくと桜子は「へっ?」と何が何だかといった表情でキョトンとした。
「それからお前は」
 今度は冬実の顔を私は指差した。
「なになに? 私はなに?」と冬実は嬉しそうに目を細め、笑う。
「帰れ! で、死ね!」 
 と私は一発冬実の左頬を張ってやった。
「そんでお前は帰る!」
 と最後に私は自分のこめかみを指差し、桜子の手を掴んでマックから逃げ出すように走り出た。
「えっえっなになに?」
 桜子は状況が飲み込めず、ただ私に引きずられるように走っている。無理もないけど。
「あれ? 置いてきてもらったほうが良かった? その場合私に顔、張られた冬実に八つ当たりされたかも? だけど」
 と駅前の人込みをすり抜けるというよりも強引に半ば吹っ飛ばすように走り抜けながら私は言った。
「私、どうなるの?」
 と桜子は今にもビルから落っこちてしまうんじゃないかっていう屋上ぎりぎりの所に立っているみたいな顔をして呟いた。私は全てを象徴した言葉だなと思いながらも桜子の手を強く引っ張って、
「どうかなるの!」と言った。


「五ヶ月?」
 と隆行さんはソファに座りながらメガネをかけ、膝の上には絵本のような物が広げられたままの体勢で、桜子を連れて帰ってきた私に気づき、言った。
「そうなの?」
 と私は桜子に聞いた。
「えっ? う、うん。それくらいって言ってた。医者」
 と桜子はぼそぼそ。
「これ、飼うから」と私は桜子の肩に手を乗せた。
「ふーん。腹帯とかはしてないみたいだな?」と隆行さんは言った。
「腹帯?」
 桜子は不思議そうな顔で私を見た。
「産んだことないからしらん!」
 と私は桜子の頭を叩く。
「好きにすれば? でも餌代とかは自分で持てよ?」隆行さんはまた膝の上の絵本みたいな物を読み始めた。
「絵本? 幼児でも誘拐する気?」
 私は隆行さんが見ている絵本を覗き込む。
「これを読めば世界が十倍楽しくなる」
 と隆行さんは絵本を閉じる。
「ふーん? 私的にはカレーが十倍美味しくなる本の方が良いけど」
 と席を立って自分の部屋へと向かう隆行さんの背中を私が見送っていると隆行さんは振り返って、
「そうだな。カレーが十倍美味くなれば、世界も十倍楽しくなるかもな」と笑った。
「ねえ? 私はどうなったの?」
 隆行さんが自分の部屋へ消えると、タイミングを見計らったように桜子が聞いてきた。鈍い女だ。話の内容とか状況とか前後とかを読むパワーがない。常に目の前だ。こいつの想像力は。
「ああ、なんかカレー食いたくなった。お前今からカレー作れ。明日はラーメンね。それでその次の日、お前は焼きソバを作って私のベッドのシーツを洗うの。で、一週間後、お前はその日のご飯のメニューに悩んだり、掃除と飯の準備、どっちを先にしようかなんてことを考えていたりするわけ。そんなエブリデェイが嫌ならお前はここから出て行くし、OKなら玉ねぎとかニンジンとか買いに走っちゃうわけ」
 私はできるだけバカの桜子にも分かるように噛み砕いて話してやった。なのに桜子ときたら まだポカンと口を開けたまま自分の枝毛だらけの金髪を自分でゆっくりと撫でている。ぜんぜん分かってないみたい。
「このバカ妊婦! 神嶽川に浮くかその川渡ってカレーの材料買いに行くか、どっちだ?! 浮いてみるかお前ー!」
 私は床を激しく蹴った。まったくもどかしい。
「ああ。カレーが食べたいってことなんだ?」
 と桜子は自分の下半身と同じ締りのない口をポカンと開けたまま、言った。
「うん」私は素直に肯く。
「めんどくさい……」
 桜子はそう言って眉間にしわをよせた。
「腹の子ごとハラワタ掴み出す」
 と私はニコニコ笑いながら手の間接をコキコキ鳴らした。
「買って来ます!」
 と桜子は猛然とダッシュして外に出て行った。ニンプダッシュ!

<9>
「最近あれやな、なんか、萎えてるんちゃうん?」
 クソまずいタコ焼を食ってやっている数少ないというか天然記念物級であるこの店の常連客に会うなり失礼なことを言うマンネリのバカちん。私はマンネリが喋り終えるか終わらないかのうちにタコ焼の屋台へと蹴りを入れた。タコ焼のまだ緩い生地が揺れる鉄板から辺り一面に飛び散った。
「ほ、ほらみてみ、今までやったら屋台の屋根が落っこちそうなくらいの勢いやったのが今は揺れてるだけやん」
 と言いながらマンネリは屋台を両手で抑えている。私は冷めた目でマンネリを見つめながら手に持ったタコ焼を食べるわけでもなく、ただつま楊枝で何度も何度も突き刺していた。
「あ、分かった。“女”になっちゃったんだ。あーあーやっちゃった? そうやなぁーもう夏も終わるしなー。はあーあ……」
 とマンネリは溜息をつく。
「なにそれ? 産まれた時から女だって。レディだっちゅーねん」
 と私は水っぽいタコ焼を一個食べる。
「そういう意味やないんやけど」
 とマンネリは屋台を支えたままの崩れた体勢から海老反りのような形になり体を起こした。マンネリはいつもの勝ヶ山公園から街の中央に向かう橋ではなく、公園の中にあるタコの形をした滑り台の前に屋台を出していた。場所を変えてもまずいという事実に変わりはないのだけれど。
「なあ? 真樹ちゃん。そのタコ焼食べへんのやったらあそこのこ娘にやってくれへん?」
 とマンネリはタコ焼をひっくり返す串をちょうど自分の真後ろにあたるタコの滑り台の方へ向ける。その先には見覚えのある女の子が座っていた。
「ああ、あのチビッ子。この前いた奴じゃん」
 ちょっと前、桜子の情報をマンネリに聞きに来た時に私の髪を掴んで放さなかった女の子。よく見ればあの時と同じ耳が羽根の形になったウサギのTシャツを着ている。
(かなり汚れてる)
 まさか同じTシャツをずーと着てるわけじゃないのだろうけど女の子の服が汚れているように見えた。砂場で遊んでいたとかいう感じの汚れじゃない。染みたような黄ばみ。
「やってもいいけど下痢で死ぬんじゃない? こんなの食わせて?」
 と私は手元のタコ焼をマンネリに差し出す。
「大丈夫。俺はいつも食ってる」
 とマンネリは意味のよく分からん自信に溢れた顔で後ろの滑り台を上がって行った。マンネリが「ほら食いやー」と差し出したタコ焼をつま楊枝が刺してあるにも関わらず手で掴んで食べる女の子。手がソースでべちゃべちゃ。
「ほら、真樹ちゃん見てみい、俺のタコ焼美味そうに食うこの少女の姿を! 幸せにみちみちてるやないか」
 とマンネリは少女の隣に座った。たしかに少女はまずそうには食っていない。でも美味い顔もしていない。無表情だ。
「お前の隠し子じゃねーの? 父親のために我慢して食ってたりして。サクラだサクラ」
「そうそう、そんで家では「おとん」とか言って関西弁でしゃべっててな……ってなんでやねん」
 真夏に息も凍りそうなノリツッコミだった。私は自分で振っといて激しく後悔した。それでもう帰ろうと思い、後ろを向くと、
「あっ真樹ちゃん帰るんならついでに送って行ってやってくれへんかな? この娘」と女の子の頭の上に手を置いているマンネリに呼び止められた。
「あっ? なにそれ? マジでお前の隠し子なわけ? じゃあ父親のお前が送ってってやればいいじゃん」と私は薄笑いを浮かべる。
「アホ。ちゃうわ。あのな、この娘いつもこの周りで一人で遊んでるみたいなんや。親らしい奴もみかけたことないし。帰りも一人で帰ってるみたいなんや」
「一人で帰ってるなんてどうして分かるわけ?」
「家らしきマンションに一人で入って行くとこまでつけたった」
 マンネリが胸を張って言った。
「お前、いつか捕まるぞ……」
「捕まらへん捕まらへん。真樹ちゃん家(ち)かてこれでみつけたし」
 また、マンネリ胸を張る。安い胸だ。
「お前は捕まれ。一回捕まって来い!」
 と私の頬は引きつった。
「そやから、店が暇な時とかは家まで送って行ってやってたんや。徒歩で」
「ということは、ほぼ毎日送って行ってやっていたと?」
 私は腕組みをして大きく肯いた。
「うるさいボケ、死ねボケ、カスー」マンネリは死人のようにまるで生気のない顔で小汚い言葉を私に浴びせた。まるで怒る気がしないほどに情けない顔だ。マンネリ。
「じゃあ今日もいつものように送ってってやれば良いじゃん。このとおりお暇じゃん?」
 と私は両手を広げ、辺りを見渡す。
「公園の裏の体育館あるやろ? 車椅子バスケットやってんねん。試合が終わる頃にタコ焼二十パックとマヨたこ十パック。いやーほんま行列の出来る屋台は大変や。猫の手もかっぱらってきたいほどのご盛況ですわ」
 とマンネリが脇に女の子を抱いて滑り台から滑り下りてきたので私は、「幼児誘拐の決定的瞬間!」と言って両手の指で四角形のレンズを作りその手の中からマンネリ達を覗く。
「ほな、このお姉ちゃんに連れて帰ってもらい?」
 そう言ってマンネリは女の子の脇の下に手を入れると抱き上げてブラブラと揺らしながら私の前まで連れて来る。
「すっごーい! 私の意見まったく無視で私がこの娘送ってくことになっちゃってるー。おい! タコ焼き屋、お前、神様気取りか?」
 と私は女の子の手を取って公園を出た。やれやれって感じの笑みを浮かべて。

 
 そびえる巨大な鉄塔。そんな雰囲気のあるもんじゃない。かぎりなく実用的とされている物。新幹線。そのレールを支えているコンクリートの柱。私と女の子はその柱の立っている場所を囲む金網に隔てられたすぐ横を歩いている。金網の中はホームレスのダンボールが転がっていた。でも今は住んでないみたい。レールに遮られ太陽の光は届かずに周りは薄暗い。見える建造物は見上げれば新幹線のレール。見渡せば草ぼうぼうの空き地。ホント、見渡し最高だったりする。建物らしき物もある。パチンコ屋。やたらとでかい駐車場に数台の車。ドアを開けたら車全部から置いてけぼりの幼児が出てくるデンジャラスビンゴなんてことになってたりしてなんて私は考えながら歩いていた。私は女の子の手のひらではなく手の甲を握っている。これでもギリギリ我慢してるほうだ。こんなチビッ子に長時間触っているなんてかなりきつい。緊張して死んじゃいそうになる。だいたい力の加減が分かんない。ああやだ、ホント、チビッ子なんて。でも一応送っていかないといけないらしい。そういう成り行き。流されちゃってる、流され上手の私。
 耳を突き破るような音がした。トラックのクラクションらしい。瞬間女の子が私のスカートを強く掴んだ。そしてすぐにまた放す。女の子はなぜか脅えたような表情を浮かべると、そのままうつむいてしまっていた。見てみると私のスカートにタコ焼のソースがべっちゃりとついていた。
(気にしてる?)
 女の子の様子がそう見える。
 私は少しの間立ち尽くした。女の子と私の間に沈黙が広がる。私の中で二人の女の対応がちらついていた。こんな時必ず罵倒してきた煙草臭い女と私を抱き上げたシトラスフルーティな香りの女。さあ、私はどっちの体験を活かすのだろう? 私は、
「リベンジー」
 と自分についたタコ焼きソースを女の子の鼻先に引っ付けた。どちらも自分には合ってない気がしたから。
 女の子はしばらくキョトンとした表情をした後自分の鼻先についたソースを指でなぞって舐めて笑った。少しだけ口元の引きつったお久しぶりのっていう感じの笑顔で。
「まだ綺麗だよねースマイル」
 私がこの女の子くらいの頃ってホント、そんなに日常で笑うことなんてなかったっなーと思った。もちろん泣きもしなかった。だからよく一人鏡の前で笑った顔とかをやってみたりしていた。でもそれは他の子供達が見せるような自然な笑顔とはほど遠い、ただ口元が緩んだだけのものだった。汚い笑顔。
「まあ、顔だけでも笑えるんだったら無理やり笑っとけ。そのうち情けなくて泣けるようにもなったりするっしょ?」
 と私は女の子の手を取って引っ張った。すると女の子は動こうとはせず、立ち止まったまま一方向を指差す。
「あっあれか? お前の家?」
 昔はいかにも公害の張本人ですって感じの煙をたくさん吐き出す煙突を頭に生やした工場が連なっていた場所。私はその自分の中に残されている記憶のイメージだけで、今立っている場所を通り過ぎようとしたのだけど、今私の目に映っているものは、何もない、だだっ広い空き地。そこへ石碑(モノリス)のようにぽつんぽつんと建っているマンション。とても空虚な空間に見える。なんのレンズも透して覗いていないのにどこか捻じ曲がった映像。私のすぐ頭上近くまで迫ってきているような圧迫感のある空は青がやけに薄く、雲一つないのに、陽の力はあまり感じず、なぜかとても薄暗い感じがした。風もまったくない。まるでどこかしらない遺跡の前にたった一人で立ち尽くしているかのような感じがする。
(つまんなそーなとこ)
 あまり私が好きな場所じゃなかった。眠たくなりそうな場所。そして一度眠ったらもう起きれそうにない場所。私がしばらくその場にじっと立ったままでいると、女の子が勝手に一人でにマンションへ向かって歩き出した。
「一人で帰るのん?」
 と私は自分の髪に手を差し込んで梳かす。女の子は何も言わずただ私の方を振り返ってコクンとうなずく。女の子が歩いて向かっているマンションは濃い緑を基調としたけっこう豪華な感じのマンションだった。良く言えば砂漠の中のお城。悪く言えば荒原のラブホ。一階はロビーになっているみたい。ガラス張りになっているので一階の中身はほとんど丸見え。センスが良いのか悪いのか。レースのカーテンがケバイ。
 マンションの入り口から上に向かって円柱状のエレベータが通る通路がこれもガラス張りでまっすぐに伸びている。取りあえずガラス張りと吹き抜けは作っとけみたいな感じで安くて笑えた。
 透け透けのエレベータに乗って上がっていく女の子が見える。ほとんど豆粒。でも向こうから見れば私も豆粒。遠く離れてみれば同レベル。近くにいるからアンバランス。
(あー。なんか辛いもん食いてぇー)
 と私は背伸びをした。
 

 同じ立ち尽くすにしても二通りあったりする。さてどうしようかって次の行動を考える余地があるやつと、どうしようもなくただぼーぜんと立ち尽くすやつ。今の状況、いや、たぶん普通の人なら後者の方を選ぶと思う。目をつぶったままいつもの変わらない、というかそれ以上のごく自然な顔で病院のベッドに横たわっている眠ったまま起きることのないごく親しい人間の前では。でも私は違った。私は前者。光彦のおばさんの発した地獄の底から助けを求めているかのような喘ぎ声が遠ざかっていく中、病院のベッドで眠ったままの光彦と病室に残った赤い煙の残り香に、舌を釘で打ちつけられた一つ目の男がプリントされたじゅうたん。異様な光景が広がった光彦の病室の中で私は(どないすんねん)と腕組みして次の行動を考えるほうを選ぶしかなかった。
 女の子を家まで送って行った帰り、キムチ入りのタイヤキにかぶりついていた私の携帯が鳴った。桜子からだった。当然携帯の画面に桜子の文字が出た瞬間いつもなら速攻で切るとこなのだけど、その時は着信が鳴った瞬間出てしまった。
「何だよ? 産まれるのか? いやむしろ産まれたか?」
 と私は言った。 
「ああ。今、股間から半分頭が出てて……って産まれるかい! 違う!」
 と桜子は中途半端なノリツッコミで切り返してきた。
「んだよーバーカバーカ。早く用件言え。殺すぞ」
 私は口の中にまだキムチタイヤキの具を残したまま次になんのタイヤキを食べようかと忙しかったので早く電話を切りたかった。
「分かったって。バカバカ言うな。あー……誰だっけ? うーんと、ああ、家に電話があった。誰かの母親から」
「誰かの母親? バカかお前。誰の母親だよ? それを言えよ」
 私は怒った。プンスカプンと。
「ああそうか。み……ミキヒコ? ヨシヒコだっけか?」
「光彦じゃないの?」
「あーそれだ。そんな感じだった。うんうんそう」
 と桜子は適当なことを言いやがったけど、私に電話してくる誰かの母親なんて光彦のおばさんくらいしか思い浮かばなかったので、すぐに分かった。
「お前、やっぱり学校に復学しなくて良かったよ。二度手間だもの」
 そう私は携帯のスイッチを切った。切った後でどういう用件だったか聞き忘れていたのに気づく。でも光彦の入院している病院には一回行っとこうと思っていたのでまあいいやと私は次のカレータイヤキを店のババアに頼んだ。
 と、いう感じで光彦からもらっていたメモの切れ端を頼りに病院へ来てみればこれだ。受付けで病室を教えてもらってそこが個室で私はドアノブに手をかけて、それでそれで、部屋に入ってみれば赤い霧が立ち込めていた。一瞬私は開けちゃいけない部屋だった? と思った。で、そのまま一回ドアを閉じて自分の頬をパンパンと二回叩き、またドアを開けた。でもやっぱり霧みたいなものが立ち込めていたので、どうしようもなく突っ立ったままでいると霧の中から女の人が出て来た。光彦のおばさんだった。
「あら真樹ちゃんじゃないーちょうど良かったわー電話したのよ?」
 と、霧? いや、煙みたいなものが立ち込めるなかで光彦のおばさんは自然に、ごく自然に笑った。
「あ、うん。だから来た。光彦はいるの?」
 私は何がなんだかという感じで答えた。
「ちょっと待ってねー。今、お昼のお祈りの最中なのよ。そこの椅子にでもかけて待っててねー」
 と光彦のおばさんは椅子らしき物を指差した。なんにしろホント、何も見えないって大げさじゃないくらいに部屋中真っ赤だったのだ。
(すげえ臭い)
 線香の臭いとかそういうものじゃなかった。もちろんミントとかレモンでもない。むずかしい臭い。でもとても嫌な臭い。真冬にヒーターの前で座っていたら髪の毛が温風にあぶられて焼けちゃった時のような臭い。隆行さんはその髪が焼ける臭いを「人間が焼ける臭いなんだぞ」って言ってたけど。
「新田さん! 新田さん!」
 今にもドアを突き破りそうな勢いでノックする音と共に聞こえてきた声。すぐにドアが開いて看護婦らしき人が飛び込んできた。
「もうダメって言ったじゃないですか。御香なんて炊いちゃダメって!」
 と看護婦はブラインドを開けて窓を全開する。
「何すんのよ! 光彦が死んじゃう!」
 叫び声みたいな奇声を上げて光彦のおばさんが看護婦に掴みかかった。
「落ち着いて! 新田さん!」
 と後ろからさらに二人の慌てた看護婦が病室に入ってきた。お前らがとりあえず落ち着けといった二人組みだった。
「ダメなのよ! 毎日炊かないとダメなのよ! 光彦は起きないわー! 離してぇー! 離してよー!!」
「早く、早く連れ出して!」
 と光彦のおばさんに胸元を絞められていた看護婦が少し苦しそうな詰まった声で後から来た二人の看護後に指示した。
「いやぁー!」
 二人の看護婦が髪を振り乱して暴れる光彦のおばさんを外へ連れ出す。やがて煙が薄れて外から気持ちの良い風が入り始める。
「冗談じゃねーよ。クソ!」
 首を締められていた看護婦が窓の下あたりの壁を蹴っていた。
「あっ! お前キツネじゃん」
 と私は看護婦に挨拶した。初め煙で分かんなかったけど紛れもなく光彦のおばさんに首を締められていた看護婦はキツネだった。あの桜子が運び込まれた、私もついでに運び込まれた病院の。カビの生えたヤンキー臭をぷんぷんさせていた、感じの悪い看護婦。
「あー! お前! なんで? どうして?!」
 キツネは自分の開けられる限界ぎりぎりに目を丸く見開いて言った。でもしょせんキツネ目。
「なんだ? ビックリした目でもしてるつもりか? それ。ぜんぜん開いてやしねぇー」
「答えになってねーよ。なんであんたここにいるのさ? 怪我でもしたの?」
「そこ。そこのベッド」
 と私は指差す。
「ん? 光彦くん? ああ、あんた友達だったの?」
 とキツネは床に落ちた帽子を拾ってかぶりなおす。
「ふーんそうか。やっぱり光彦か。そこで寝てるの」
 私は椅子を立つと、風に内側へと押され膨らんでいるブラインドを手で外へ押し返しながら前を通ってベッドに横たわった光彦を見下ろす。
 白い顔、頭に包帯、点滴、酸素マスク。ミミズのように伸縮し、さかんにリズムを刻みながら光彦のライフを示し続けている緑の線。その前で私はただ立ってみつめている。光彦を。
「手術した?」
 と私は光彦を指差す。
 キツネはしばらく黙ったままだったけどそのうち小さく頷く。
「で、Yes? Or、No?」
 私はキツネに尋ねるというよりは独り言のように聞いた。
「No」
「さいですか」
 私は一回、大きく深呼吸する。なーんにもない。頭に浮かばなかった。喋ること。久々に現実。強い現実。とても変だけど、死の臭いが漂っている光彦を見て私は自分の体に脈打ってる鼓動をいつも以上に強烈に感じてしまっていた。すっげー自分、生きてるって。バカなくらいに。
「この子が映画の主人公だったら何百万分の一って確立の中で平気で目を覚ますのにね」
 キツネはまったくの無表情で言った。
 私は少し青みがかった光彦の白い頬を中指で押すと、
「なるほどね。中年男くらいの年になった時、急に目が覚めるんでしょ? お前」と言った。でもそう言いながら自分の脳のどこかが静かに死んでいくような感覚にも襲われていた。自分の吐いた泡を見上げながら深海に沈んでいく……そんな感じ。
 窓から風が単発で飛び込んで来る。私の髪は激しく踊って首や頬っぺたにからまる。うっとうしかったけど、どこかすっきりした気持ちにもなる。私はのれんを潜るみたいに自分の顔を覆った髪を勢いよく後ろに跳ね除け、
「お前は絶対、目を開けて最初に私を見る。これは決定事項です」と言った。
「あーあ。我ながら良いこと言うなー。じゃっ! 帰ろう!」
 と私は病室から出ようとした。
「あんたさー、よっぽど女鍛え続けてないと光彦くんが起きて会った時おもいっきり引くわよ彼、きっと。誰だこのババアって感じでさー。何年経ったって光彦君の中身は今のままなんだから」キツネは私の肩に手を乗せたままもう片方の手で病室のドアを開いた。どうしようもなく冷たくて悲しい会話をしている気がした。でも喋らずにはいられない空気だったのだ。この病室の中では。じゃないと凍ってしまいそうだった。
「かまわない。光彦が起きるまで年取るのやめるから」
「そうだな。なんつーか……想像できないね。あんたが年取ってる姿。バカみたいだけど、ずーとそのまんまな気がするな」
 とキツネは私の髪になんども指を通した。風鈴がいつもしているみたいに。
 

 ちょうどベッドの下のゴミをかき出して捨てようとしている時にチャイムが五回連続でうるさく鳴った。鳴らし方ですぐに私は冬実だと分かったので無視していたのだけど、あんまりうるさいから一言桜子に「バカ妊婦、お客!」とだけ叫んだ。なのにぜんぜんチャイムの音が鳴り止まないから私はリビングのソファで寝ていたサボリ妊婦こと桜子の額に一発頭突きを喰らわした後、結局自分で玄関のドアを開けたら、「悪い妊婦はどこじゃー? 帝王切開の罪でヤンスよぉー」と切腹する真似をしながらその場でクルクル回転している冬実がいた。
「冬実、死ね?」
 と言おうして私はやめる。もちろん冬実には帰って欲しいというかこの宇宙全体から消え去って欲しいとは思っているけど、冬実は帰る時は勝手に消えるし、動かない時は一週間経っても居座る。何をやっても無駄。最近冬実に対して私は……森羅万象(意味はしらん)といった感じの一種悟りの気持ちみたいに落ち着いたものを体得している……と自分で思い込むことにしている。まあ大人ぶりたいっていう年相応の背伸びってやつだ。うん。
「何見てるのー?」
 と冬実が後ろから、私の肩にアゴを乗せてきた。
「あるばむ」私は答える。
「とう!」
 と冬実が言った瞬間私は、
「ひゃっ! このバカ!」
 と言って私は背中に抱きついてきた冬実を跳ねのける。冬実のバカが私のパンツを掴んで上に引っ張ったのだ。
「あっくそっ! めちゃくちゃ食い込んでる。ムカツキー」
 私はさっき起きたばかりなので当然下にはパンツ以外は何も穿いていない。ああ、気持ち悪いー。
 昨日、隆行さんの部屋を勝手に掃除していた桜子が紙袋をみつけた。かなりホコリをかぶっていたけど中には『たなぼた』という全四十六巻の漫画が入っていた。私は暇つぶしに自分のベッドの脇で寝っ転っがってその漫画を見ていて、二十五巻あたりで力尽きジーンズだけを脱ぎ捨ててその場に寝てしまっていた。
 朝、手先にごちゃごちゃした感触があってそれで目が覚める。私の手はベッドの下に入っていて、そこには得体の知れない物(ブツ)がうごめいていた。簡単に言うとゴミ溜り。私は何気に手元にあった物を掴んで引っ張ると昔装備していた水色のスポブラが色鉛筆とかアイスの棒とかピンポン球とかおよそ何の役にも立ちそうにないアイテム達と一緒に出てきた。A型の性格上、気になってしまってベッドの下のガラクタを全部引っ張り出し、その中にあった小学校時代のアルバムを手にしたところで冬実が出現した。
(あー。ぜんぜん覚えてない)
 アルバムの感想。たった二年ちょっと前の写真なのに写っている五年三組の奴らの顔なんてほとんど覚えてなかった。「ああ、そういえば五年三組だったなー」っていうくらいの感想。 校庭で全員が椅子に座って写っているよくあるクラス全員の写真。でも私にはクラスメイトの顔もあまり記憶にない。だけど光彦の顔は分かった。まだこの頃は髪もあって茶髪でみんな膝の上に手を置いて普通に写っているのに光彦だけは隣に座った私の肩に手を回して笑っている。
 なんか変な感じがした。光彦以外まったく記憶にない。ぼやけた記憶さえなく、まったく知らない人達って感じがした。 ――本当にここにいたのか? そんな気さえしてしまう。全体写真の隣のページにあるクラスメイト一人一人の上半身の写真を見てもその下に書かれた名前を見てもピンとこない。
「面白い?」
 とても静かな声がした。冷たい雫が頭から脊髄を通って足の先まで染み渡っていくような声。私はとっさに冬実の顔を見た。冬実はナイフをアルバムに向けて振り下ろし、突き刺していた。いつもの笑い顔で。でもその冬実の笑顔はこの部屋を包む白い朝日の中でかすれて今にも消え去りそうな淡い微笑だった。いつもの冬実スマイルとは違うものにも見えた。
「ジュースジュース。ジュースが飲みたーい」
 とすぐにまたいつもの調子で冬実が私の頭を叩き始めた。
「うるさい。おーい逆子決定妊婦! ジュース持ってこーい。なかったら買ってこーい。嫌なら死んでこーい!」
 と景気良く桜子に命令をくだした後で焦ってベッドの下から出てきたロケット花火や爆竹を隠す私。なぜか私のベッドの 下にあった。てっきりこの前リビングに打ち込まれた奴の抜け殻かと思った。リビングを焦がされて怒った隆行さんが私のベッドの下に放りこんだのかもって思ったけど、花火や爆竹はバリバリの現役だった。もし桜子がこんな物をみつけた日には私に三着目の濡れ衣を着せるに決まっている。もう嫌だ濡れ衣。濡らされるのは嫌いじゃないけどぉー。
 呼んだ桜子から何の返事もなかった。ジュースでも取りに行ったのかと思っていたら、いつまでたってもジュースがやってこない。「なんだよ、動かねー妊婦だなー。娼婦の方がまだましじゃん。動かしてるぞ。口とか腰とか必要以上に」と私は腹ばいの格好から立ち上がった。
(あっバカ。落ちても寝てやがる)
 桜子がソファから床に寝床を変えていた。
「お前はホント、ガバガバな女だな。色んな意味で」
 と私は出産バージョンに短くチョコボールみたいな頭に変わった桜子の髪を掴んで上に持ち上げる。
「あ、あああ……」
 玉ねぎを食ってしまった犬のような苦いネジ曲った顔で桜子がうめいていた
「なに? 腐った物でも食った? それとも痔か?」
「ででで……」
「で?」
 何か言いたそうなので私は桜子の口に耳を寄せようとする。
「出るぅー」
 桜子が放った部屋が壊れるんじゃないかってくらいの超振動をそなえた破壊音が部屋中を揺らす。桜子の唾液が華麗に舞って私がパジャマ代わりにしている隆行さんのクリーム色のカッターシャツに飛び散った。もちろん耳にも。
「うわっ汚ねー! なに汁とばしてるわけー」
 と桜子汁が飛びかう中で私は桜子の頭をはたく。すると桜子は悪魔に憑依された奴みたいに恐ろしい顔をして「出るって言ってんだよぉー!」と凄まじい力で私の腕を掴む。握り潰す勢いで。
「うるさい! 意味が分かんない!」
 と私は思わずキレてしまい桜子の顔面をブン殴った。桜子は私の膝上に倒れこむ。でも腹の痛みが凄いのか殴られたことなど関係ないって感じで私の膝をがっちり掴んで四つん馬の格好で唸っている。
 私はしばらく目の前でのたうち回る桜子を冷静に観察していた。(出る? トイレか? ……ああ、こいつ妊婦だったな……ていうことは)
「なーる!。産まれるということですか」
 と私は一休さんが名案を思いついた時のようなすがすがしい気持ちで桜子の頭をまたパンッとはたく。
「だ、だがらーだがらー言って、言ってるじゃん! あー」
 桜子吠える。
「まあ良いじゃん。髪金の負け犬が出産開始ってことでしょん?」
 と私は自分の膝にしがみつく桜子をどけてタクシーか救急車にでも電話しようとした。「もうダメー!」桜子が立ち上がりかけた私の腰に抱きつき私もろとも押し倒す。
「うげっ! バカッ! 痛い! 車呼ぶんだからそこで待ってろ!」
 私はバカ桜子の膨らんだ鼻先を摘み、言った。
「だめー」
「何がダメなんだよ」
「もう出ちゃう……マジで……」
「えっ? マジで?」
「ていうか、うぐんっ! あああ、もう出かけてるかもー」
 と言って痙攣する桜子。
「ばかー! バカかお前!! 陣痛とかそういうのあったんだろう? こうなる前に病院とか行けよーもーお前殺すぞ」
 私はもうムカつくやら桜子が重いやらでマジギレしそうだった。
「た、たしかに夜から痛かったような気がしたけどさーああ、き、気のせいかなーああって……うぐっ!」
「気のせいじゃねーよ! その腹で何が気のせいだよ! 陣痛以外ないじゃん! 出産間近じゃん! 妊婦失格じゃん!」
 規格外の桜子のバカっぷりに私の脳天は沸騰した。
「死ぬー」という桜子の泣き声を聞いた私は「じゃあ死ねー」と言って桜子の頬を張り倒す。 それでも桜子は腹を抑えたまま床をドカンドカンと拳で叩く。
「あーもうめんどくさーい! もういいや。産め。ここで。もう出かけてるなら出せばいいじゃん! 冬実! こっち来い! こいつ風呂場まで連れてくぞ!」
 私がそう言うと冬実は「呼ばれて飛び出てサヨウナらぁー」と帰ろうとしやがったので「面白いもの見れるぞーバカが分裂するシーン」と私は言った。
「ホントにオモロイ?」
冬実は小指の爪を噛みながら言った。
「嫌? なら良い。誰もいらないっ!」
 冬実の返事を長々と待っている気はなかった。半分ヤケになっていた。何やってんだろ私? 
 私は桜子の腕を自分の首に回して何とか立ち上がろうとした。でもダメ。バタンと桜子共々押し潰された。重いのもあるけど桜子自体が暴れて暴れてしょうがない。
「ちょっとくらい止まってろ!」
 と私は桜子の額めがけて頭突きを食らわす。
「げぱっ!」
 桜子が少しだけ静かになった。私の頭突きが効いたというよりも桜子自身が少し落ち着かないとダメだと思ったのかもしれない。
「マンネリのばかー」
 と人生で最大限のパワーを込めて私は桜子を肩に担ぐ。信じられないほどに重い。膝が腰が割れそう。
(やば。風呂場まで持つか?)
 桜子を担いだ瞬間からもう限界だった。かなりやばい。
「なめくじ、なめくじー」
 と冬実の声に下を見るとたしかにリビングからキッチンにかけて点々となめくじが這った跡みたいに濡れた箇所がある。桜子の着ている赤と緑のチェックのマタニティも濡れている。出産のことなんて詳しく知らない私にも桜子がかなりギリギリの状態に陥っていることくらいは分かった。
 風呂場までが遠かった。パワー全開しすぎて脳のコードが焼き切れそうになっている。一回桜子を下に置いて、とも考えたけどそうするともう二度と桜子を担げそうにはないと思ったので一気に風呂場まで行くしかないと私は国防大臣級の決断をした。足を上げて歩くとまたコケそうだったので擦り足で歩く。ちょっとずつだったけど確実に風呂場に近づいていた。でもちょっと困った。風呂場にマットがあったけど敷く奴がいない。どーすっかなーと思いつつ私は何とか風呂場まで来て片手で風呂の戸を開けた。
「おいでませー」
 そこには風呂に敷かれたマットの上で正座している冬実がいた。
「なんでお前ぇー!」
 思わず私は桜子ごと膝から崩れ落ちそうになったけど何とか持ち直して桜子をマットに寝かせる。同時にまた凄まじい勢いで桜子が暴れる。
「ふーふーふーあああああああ! じ、じぬーじぬー」
 激しい桜子。そんな横で重い桜子を担いだせいで私はすっかりバテていた。今にも死にそうな顔面でうんうん唸っているバカのことなんておかまいなしで。まるで他人事みたいに(まあ、他人事なのだけれども)桜子を見ていた。
「ねえねえ? これからどうなるどうなる?」
 冬実がニコニコしながら聞いた。結構楽しそうだ。ツボにはまったらしい。
「さあ?」
 と私は座って風呂の壁に寄りかかった。
「産まれなかったら? 引っ込むの?」
「さあ? お前どう思う?」
「うーんとね。えーと、おぎゃーおぎゃーだと思うナリ!」
 と冬実は敬礼ポーズを取った。
「ああ。たぶん産まれるんじゃない?」
 なぜかそんな気がした。かなりいい加減な直感。はずれたところで別に罰ゲームがあるわけじゃないし、まあ良い感じに考えていた方がよろしいんじゃなくって? ってお嬢様風に言えばそんな感じだ。 
「きゃはははは見て見て! 裂けてる裂けてる」
 冬実が桜子の開脚全開の股を指差して笑っている。私も近づいて一緒に見てみた。
「な、なんじゃこりゃ」
 信じられない。あきれるほどに拡がった、腐ったカボチャの断面図みたいな桜子のアソコ。黒い物体がその中から覗いている。たぶんガキの頭。その頭のせいで今や役割の違う穴と穴がそろばんの目のように連結寸前といった感じ。
(これは死ぬかも)
 と思わず私は自分の股間をパンツの上から抑えてしまった。
「ふーふーうううう」
 涙ににじんだ目を真っ赤に、盛り上がった頬肉はさらに押し上げられて桜子の目はほとんど糸みたいになっていた。
「おい冬実! 携帯持ってるだろ? 貸せ! 119! エイリアンが出て来た!」実際にあるなら地球防衛隊事務局にTELしたかった。
 マジで妖怪かと思ったしわくちゃのおデコ。血みどろに濡れた僅かばかりのもずくのような髪。顔らしきものが桜子の穴からすっぽり出かけている。まるで妖怪蓑虫じじいか包茎手術の広告に出ているタートルネックを顔下半分まで引っ張り上げたモデルの奴みたいだった。 
「おい桜子! 取りあえずなんか出てきてんぞー。人間じゃないかもしれないけど!!」
 と私はバスタブのスイッチを押す。バスタブの穴からお湯が流れ出る。
「真樹ー真樹ー!」
 桜子が私の名前を連呼する。「何だ?」私は桜子の頭に回りこんで桜子の顔を覗き込む。
「産ませてー産ませてよぉー!」
 と桜子は凄まじい力で私の顔面を両側から挟む。顔が押し潰れそうなくらいの腕力。
「お前産んでるって! 出てるってー!」
 と私は桜子の手をはずそうとしたけどまったくダメだった。
「ぎゃあああああああう!」
 桜子は私の顔を掴んだまま手を左右に大きく暴れさせた。私はあまりのバカ力に背中から風呂の壁に叩きつけられる。でもすぐに私は定位置である桜子の股の真正面に戻った。
「お前も出てきてーならさっさと出て来い! カレーとかラーメンとか美味いとこあるからー!」
 そう叫び、桜子の両膝に手をかけると肩まで出かかっている桜子のガキに叫ぶ。その声と同時に水鉄砲が私の服にかかる。
「きゃははは! 噴水噴水ランランランー」
 冬実が踊っている。私は桜子におしっこをかけられている。
「んんーがあああああああーあっあっあー」
 と桜子の絶叫に合わせて私は上に着ていたカッターシャツを抜ぐ。敷かれたマットは桜子汁でヌルヌル、私の体も手足も血や桜子汁でヌルヌル。汁が顔にまで飛びついちゃってる。冬実だけが綺麗。
 びちゃん。
「――ぎゃあぎゃあぎゃあーんぎゃあー」
 血みどろに濡れた真っ赤な肉塊が泣いている。包んだクリーム色のカッターシャツがまたたくまに真紅へと染まっていった。私の胸も血だらけ。
「ふうふう」
 桜子も泣いている。
「すっぽん! すっぽん!」 
 冬実は笑っている。
「おい冬実ナイフ貸せ」
 私は左手を上げて冬実に命令した。
「ほいっ!」
「うわっ!」
 冬実のバカが手首のスナップを効かせナイフを投げつけてきた。私は思わず胸に抱いたガキを盾にそのナイフを避けようとしてしまったのだけど、冬実は「うわーひどーい最低ちゃんだー」と投げる真似をしただけだった。はっきり言って殺してやろうかと思ったけど疲れすぎててやめた。
「ど、どうしたの? 真樹? 赤ちゃんは?」
 と桜子が言った。興奮しているのか私を探しているみたい。ここにいるのに。
「気にすんな」
 と私は桜子に呼びかけつつ、冬実からナイフを受け取る。産んですぐのガキが死にそうになったことは黙っておこうと思った。やさしい私。
(切っていいのかな?)
 桜子の穴から繋がったカエルの卵みたいなライフラインがガキのへそに繋がっている。私はちょっと悩んだりした。でも、
(ふん、しるか! これくらいで死んだらそれまでじゃん!)
「平気しょっ?」
 と私はガキに聞いた。ガキは私のおっぱいにしがみついたまま。
「そうかそうか切っていいのか。じゃあ失礼して」
 さすがに冬実のナイフは切れ味抜群だった。
「どこ? どこにいるの真樹?」
(まだ言ってるよ。目の前でガキ抱いてるのに)桜子はまだ私がどこにいるのか分かってないみたいだった。
「ふー。さてどうしよう?」
 改めて落ち着いて状況を観察してみた。
 風呂のマットでぐったりと寝たままの桜子。股は赤い月のように真っ赤にグロく染まり、まるでイカ墨トマト海草あえサラダと言った感じ。風呂場は血生臭いという表現がぴったりの臭みが漂い、マットにはドロドロした粘り気のある血と汁が飛び散っている。私はというとパンツ一枚で体にはたっぷりと大増量で桜子のオシッコがかけられていて、左手にはナイフ。右手にはカッターシャツに包まれた赤ちゃん。ちょっと途方にくれちゃってる私。
「あ、真樹。あの、お湯ある? 私ちょっと起き上がれそうにないからさ、あの、その」桜子は遠くへと呼びかけるような声で言った。
「ああ、産湯ってやつ? OK。やりましょう。もうどうにでもしてください」
 とガキを抱いて私はバスタブに入ろうとした。
 ブーブー! 
 家のチャイムの音がした。
「あーそうか救急車呼んだんだった」
「ホント? あー良かったー」桜子は深く息を吐き、本当に安心したようだった。
「冬実行って来て。ちゃんと待っててもらえよ。救急車に」
 と私が言うと「らじゃー」と冬実は元気よく風呂場から出て行ったので「やれやれ」と私は再びバスタブに浸かろうとしたその時、
「大丈夫ですか?!」
 おもいっきり開けられた風呂の戸の先には救急隊員が二人。バスルームには片足をバスタブに突っ込み、ガキを抱いたままパンツ一枚で固まった私が一人。救急隊員の後ろには、大笑いして飛び跳ねている冬実が一匹。私は言った「あんまり見ないで。お金取るよ?」って。

<10>

 最近寝不足気味で頭が狂っていたのか久しぶりにカレンダーなる物を見た。だいたい私は今日が何日だとか何曜日だとかには興味がない。寒ければ冬で暑ければ夏。桜が咲いていれば春で雨が多ければまあ、梅雨なんだろうなと思うくらい。それは隆行さんにも言えることで家にカレンダーなんてあるはずがなかった。けど現実にこうしてトイレに座っている私の目の前に、ドアに、ジャニーズ系の奴らが燃費の悪い笑顔や汗を振り撒くカレンダーがかかっている。たぶん桜子が勝手に掛けたんだろう。
(やべぇじゃん)
 もう十一月になっていた。どうりでブラ一枚ブラブラしてたら鼻水が止まらないと思った。あとちょっとで十四になってしまう。スタンダードな歳になる。なんの面白みもない。なんとなく十三歳の方がマニアックでオートマチックな気がする。
「何か着ろよ。教育に悪い」
 産まれてちょっとしか経っていないガキを抱いて桜子は言った。私は元々バカなんだからわざわざ親バカになる必要はないと桜子に言っていたのだけどやっぱり桜子は親バカになった。
「大丈夫だよ。お前に抱かれてる方が教育に悪いから。うん」
 と私はノースリーブで白黒ボーダーのニットを手に取って着て、黒い皮パンを穿く。ちょっと今日は寒いかな? と思ったけどネックタートルになっているからノースリーブでも私的には気合でOK。桜子は黒い霜降りニットに下はデニム。ちぢれた金髪のライオンみたいな髪もショートでふんわりパーマなアッシュブラウンに落ちついちゃってる。髪金鼻ピアス女がずいぶんとシンプルになったもんだ。
「ゲッゲッげげげのげー♪」
 抱いたガキをゆっくりと横に揺らしながらソファに座った桜子は鬼太郎の歌を歌っていた。子守り歌のつもりらしい。たしか昨日はバカボンの歌を聞かせていた。スゲェ子守唄だ。
(ごちゃごちゃ入れやがって)
 冷蔵庫を開ける。
 桜子がウチに来る前、冷蔵庫にはビール以外、マヨネーズとケチャップしか入っていなかったのでビール缶を出すのなんてとても簡単だったのに、今では鮭缶とか味噌とか薬を入れるケースだとかに占領されてしまっていて、愛しのキリンラガーは奥の奥。私は無理やり腕を冷蔵庫の奥に突っ込み、野菜と豆腐の間をこじ開けてビールを抜き取ると、栓を開けながらヒップアタックで冷蔵庫の戸を閉めた。
「真樹ってホント鬼太郎みたいな?」
 と私が一口飲んでテーブルに置いたビールを桜子が勝手に取って飲む。
「はぁ? 何が?」
「真樹には学校もぉー試験も何にもないー♪」
 と左手にビール、右手に赤ちゃんを抱くバカマリアこと桜子は歌う。
「私は毛針も飛ばさないしチャンチャンコも着てなーい」
 そう言って私は桜子の手からビールを取り返し、一気に飲み干すとタートルネックの部分を摘み、ぱたぱたと揺らして空気を入れながら玄関へ行きしゃがみこむ。
「どっか行くのか?」
 桜子が靴を選んでいる私の後ろに立つ。
「どっか行く」
 そう答える私の背中に生暖かい重りがズシリときた。
「大掃除するからこいつ連れてって。ホコリっぽい部屋より外の方がいいじゃん?」
 とガキを私の背中に乗せる桜子。さっそくガキは私の髪の毛を「うーうー」と言って引っ張る。これがけっこう力があったりする。首が後ろにガクンっ! てなる。
「やだー重いー髪が痛むー!」
「じゃあ抱いてってよ。ほれ!」
 私の背中に張り付いたガキを取ると、桜子はUFOキャッチャーみたいにガキを両脇から抱いて私の胸元に置く。
「ふふん。まあカイロ代わりにはなるか」
 とガキを抱いて私は立ち上がる。ガキは私をただ見上げている。クレヨンで描いたような赤を頬っぺたにのせて。
「お前はへっちゃらだろうけど外、寒いから」
 そう言いながら桜子はガキに暖かそうなモコモコたっぷりのボアつきキャップをかぶせた。
「うーあー!」ガキが手をばたつかせた。
「バーカ思いっきりかぶせるから」
 と私はガキの顔半分を覆ってしまっているキャップを小指に引っ掛け、上へ引っ張り上げてやった。
「良かったな。お姉ちゃん珍しく奇跡的に優しいぞ」
 と花が満開ってくらいの笑顔でガキの頭をぐりぐりと撫でる桜子。バックでドクダミとか菊とか咲き乱れている。
「ん? なんか今日は嬉しそうじゃんお前。それってムカツキなんだけど? 人にガキ預けといてさ。なんかあるだろお前?」
 桜子がいつも以上にハイテンションに見えた。妙に慣れなれしいし。私は桜子を射抜くような厳しい視線で睨む。
「私だけじゃなくて真樹にも楽しいことだよ」
 桜子は笑った。
「何それ?」
「たぶんもうすぐ俺、出るからここ。アンタの家。OKでしょ? 真樹も?」
 となぜかガッツポーズの桜子。
 私は桜子の話しが意外に良い話しだったので抱いているガキを桜子に投げ返してやろうかと思った。ふっふっふ。
「あれか? 新しいスポンサーが見つかったか?」と私。
「まあ、そんなとこ。知り合い」偉そうな桜子。どうであれ、人の力に頼った方向だけれど桜子らしいと言えば桜子らしい。
「よし、綺麗に出てけ?」
「うん、お願い」と桜子は言った。
そして私達はサヨナラ。
 

 私はいつもの二階が雀荘になっているラーメン屋の角を曲らずに風鈴の店に行くことにした。つまり裏通りを通らないということ。
でも表通りって言ったって単純な目に見える明るさは裏通りより暗かったりする。車道の上を走っているモノレールのせい。だから歩道はいつも影。建ち並んだビル群も良い感じの物なんてなくて消費者金融しか入ってないビルだったり、屋上に貼り付けられた巨大なネームプレートが今にも落っこちてきそうなビジネスホテルだったり、一階のコンビニ以外空っぽのビルだったり、お昼にマックのカウンターで並ぶのが嫌ってだけでやって来る客専門のロッテリアくらい。昔から良い意味であまり変わらない。人通りが多いのもお昼だけ。制服にカーデのOL三人組もしくは二人組みで恋人のいなさそうなユニットの行進。三人組だとだいたいその中の一人はバカっぽいパーマをかけている。しかもチビ。制服の上からブカブカの背広を羽織っている女も見かけた。寒いということで男の社員から上だけ借りてランチに行っているみたいだ。
「うん、願い。うん、お願い。うん、お願い」
 と歩道を歩きながら、信号待ちをしながら、横に広がって歩く女どもの一人のケツを後ろから蹴り飛ばしながら私は独り言を言った。
『うん、お願い』
 家を出る時に桜子が言っていた『うん、お願い』って言葉。その言葉自体には何の興味もなく、ただ私はその言葉を言った時の桜子のスマイルを見た瞬間、なぜか風鈴の顔を思い出してしまっていた。似ても似つかない二人。あの笑顔は風鈴だけのものだってずっと思っていた。嫌味のない、それでいて汚いシワなんてよらなくて、必要以上に頬の肉も盛り上がって目が線みたいにならない、いたって自然な微笑。体の中を直線的に貫いていって言葉が出なくなってしまって頭の中真っ白って感じのもの。さすがにパンチの効いた桜子の顔面では風鈴ほどじゃなかったけどかなり近いものはあった。
(私にはできませんなー)
 けっこう風鈴の喋り方とか、考えごとしている時に親指の爪の上を人差し指で何度もなぞったりする癖とかチビッ子の頃よく真似した。もちろん鏡の前で笑い方とかもやってみたけどそれはすぐにやめた。秒速で無理だと理解したから。根本的に私の中にはないものだと。資源がなければいくら頑張ったって生産できない。きっと桜子の中にはあったんだと思う。この抱いているガキくらいの時に誰かから植え付けられて、このガキみたいな奴が側にできてそれに呼応して育ち咲くもの。
「うーうー」
 腕の中でさっきまで寝ていたガキが目覚めたみたい。活発に動き始めた。夜のモモンガみたいに。
(冷た)
 ビル風が私の頬を叩く。去年潰れたデパートの真下を私は歩いていた。壁がピンクってだけで私はすぐ潰れるかもって思ってたけど五年はもった。
「あー」 
と風が吹くたびにガキは楽しそうに手足をバタつかせる。たぶん風が吹くたびに鳴るぴゅーって笛みたいな音に反応しているのだ。
「寒いな。カイロ使お」
 と私はガキの頬っぺたに頬を寄せる。冷たいのに柔らかいお餅といった感じ。意味ねぇー。
「何がそんなに楽しいわけ?」
 よく笑うガキ。笑いながら私の頬をぺしぺし叩く。
「私には無理。そういう顔する仕掛け、ついてないから」
 とビルに跳ね返され、吹き下りてくる暴れん坊の風に背を向けな
がら歩く私。一応、ガキ専用防風兵器マキと化してみた。通行人にビル風より冷たい視線を浴びながら幅のある長いデパートの前を背中丸めたままカニ歩き。
「風が当たってないんだから早く熱くなれ? カイロ」
 でももう私にはカイロ、いらないかも。恥ずかしさで真っ赤です。わたくし。 
「変な歩き方。でもかわいいね」
 後ろから声が聞こえた。変な声。外なのに篭った声。まるでトンネルの中で反発しあっているような音。
 しばらく私はその声を無視してカニ歩きを続けた。ガキ抱いてカニ歩きしているような女をナンパするっていうマニアックな奴の顔も見てみたいと思ったけど、たぶんキャッチとかなんかだろうと思ったので無視。まあ、ガキ抱いてなかったらAVスカウトもありかなって気もしたけど。
「ぐっ」
 いきなり背後から肩を掴まれたかと思ったら凄い力で引っ張られた。いつもならこれくらい平気なのにガキを抱いているせいで両手が塞がっていたので私はバランスを崩し、引っ張られた方に、つまり後ろへ半転しながらこけそうになる。でもなんとかガキを左手一本で抱いたまま片膝の状態でアスファルトに右手を突き体を支えた。
(とりあえず殺す!)
 誰? とか何でこんなことを? とか私は肩を掴んだ相手を確認するより先にまず一発蹴りを入れようと思った。やっぱりアクシデントにはまず一発だ。
「えっ?」
 別に油断していたわけじゃなかった。自分自身に降りかかってくる攻撃には自慢だけど警戒心百パーだ。常に。でもさすがにガキにまで私は百パーではいられなかったみたい。私の左手は軽くなっていた。あれほど重かったのに。
「七面鳥みたいでしょ? 丸焼き」
 と言いながら男は私からかっさらったガキの足を掴み、釣った魚を見せるように逆さまにしていた。真っ白い顔、口元がわずかに歪んだだけの笑顔、そして何より男はオーバーオールだった。
(あっ……猫の頭)
 冬の街のビルの下、乾いた空気の中で乾燥してぴりぴりする目を瞬きすることなく男を睨み続けながら私は背中に生暖かい感触を思い出していた。
 普通の人なら忘れたり薄れたりすることなんてないのかもしれないインパクト溢れる記憶。 私が光彦の家の帰りにクソ熱い熱帯夜なトンネルの中で背中へとストライクで食らった猫の頭。男は黄色のオーバーオールと長靴で現れて、たどたどしい口調で喋っていた。私は変な負けず嫌いを発揮してその背中に当たった猫の頭を絞るようにしておもいっきり握り締め、左手にしたたるドス黒い猫汁を舐める真似をした……って何でその時の変態がここにおんねん! と私は関西弁でツッコミをいれたい気分になっている。あの時と同じ黄色いオーバーオールだし長靴。最近はノビ太くんだって衣装変えするんだぞって言いたくなる。紛れもなくあのトンネルで会った変態さんみたい。やっぱりオカルトチックなものじゃなく現実だった。
「ねえ真樹? 連れてってよ」
 とオーバーオールは言った。
「へえー私の名前知ってんだ? どうやって調べたの? 簡単? 教えてよ。私も知りたいなーオーバーオール着てる奴の」
 私は適当に返事する。
「真樹のママの所に行きたい。返したい物がある」
 そう言いながらオーバーオールはガキの足を掴んだ手をまるで重さを量るように上下させ、科学室の人間模型についているような無機質にも見えるその眼球も一緒に上下させた。
(雪樹のことまで知ってる?)
 こいつ面倒くさいことをやってるなーと思った。私なら調べようと考えただけでも耳から血が出てきそうになる。もしかしたら家で出たゴミとかも漁っちゃったりしてるのかな? マッチョな話だ。今度桜子の使い終わった生理用品でも山ほど溜めといてゴミに出してみよう。きっと変態さんには喜ばれるかも。
「真樹のママ、警察。僕はそこに行く。真樹は連れて行く」
 とオーバーオールは笑った。
「は? それって決定事項なの? 委員会には引き続き協議を要求します」
 と私が手を上げてもオーバーオールは黙ったまま。どうもこいつは自分の喋りたいことだけ喋るみたい。目もさっきから私と合わせようとはしない。だいたい空とか地面とか見て喋っている。でもトンネルで会った時よりまともに喋っている気がした。あの時は演技でもしてたのかね? アホくさ。
 私はしばらく自分の体をバナナみたいに横に大きく曲げてオーバーオールを見たり、立ち位置を変えたりしてオーバーオールを観察してみた。なんか単純にネジ曲った奴に思えたので自分も曲ってみてやろうと思ったのだ。でもオーバーオールは私の行動などおかまいなしでガムを噛んでいるのか、口をくちゅくちゅやりながら頬を風船みたいに膨らませたり、膝を上げて今にも泣きそうなガキの頭をつっついたりしている。
(決めた! パワーで圧倒しよ)
 ちょっと観察したけどオーバーオールはそんなに大きくない。前にや殺ったカラコン男より小さい。私と同じくらいの体。いや、もしかしたら重さだけなら私の方が重いかも。それ、ちょっとムカツキ。
 私は息を止め、男に掴まれ逆さまに吊らされたままのガキの顔面をじっと見つめる。ガキの合図を待っていたのだ。
(けっこう我慢したじゃん。良いよ。もう泣いても)
「ぎゃあああああああああん!」
GO!
 乾いた空によく響くピストルみたいなガキの声は最高のよーいドン! になった。私が突っ込んで来るのにも気づかず横を向いたままのオーバーオールの頬めがけておもいっきり左ストレートをブッ放つ。ガキのことは特に考えていなかった。殴れば当然ショックでオーバーオールは手に掴んでいるガキの足を離す。最悪、ガキは脳天からパイルドライバーって感じでアスファルトに落ちて桜子は明日からご乱心モード。私はどうもしないし、どうしようもない。後はガキの実力の問題、運(ツキ)の問題だったりする。まぁまだ産まれたばっかりなんだから普通の人の二倍増しくらいはボーナスポイントでもらってんじゃないの? ラッキーを神様から。
 左の拳に押し返してくるような肉圧が感じられたと思った瞬間オーバーオールは殴られ歪んだ顔面のまま後ろへ崩れていく。そのまま仰向けに倒れるのかな? と思ったら意外意外、オーバーオールは後ろへ倒れそうになる体を踏ん張り、アスファルトに片膝を突く。殴った瞬間落としたと思ったガキは折った膝の太ももの上で体を前屈みにして抱くように何とか抑えているといった感じ。
「おお! 凄い凄い。曲芸に近いですなー」
 と私は変態オーバーオールの頑張りに拍手する。でも内心ショックだった。助走をつけたパンチで吹っ飛ばせなかったから。でも、
(私も少しはかわいくなってきたってこと?)
 と腕力の減退みたいなものを勝手に良い方に考えて私は納得する。
「まあ良い。とりあえずガキは返してねん? もうすぐお昼だからおっぱいあげないとねー……って出るわけないじゃん!」
 ガキを抱いてうずくまったままのオーバーオールに向かって私は周りの気温と同じくらいの寒い一人ツッコミ。
「連れてってよ……」
 ぼそっとギリギリ聞こえるかどうかっていう声がしたと思ったらオーバーオールは顔を上げるなり、私のナックルの痕が桜色にくっきりと残った頬を少しずつ歪め笑みを浮かべると、まるでゼンマイ仕掛けのおもちゃみたいに首をきりきりと横に傾け、いきなり、
「すいませーん! すいませーん! 連れて行ってくださーい!」
 と大声で叫び始めた。
ガキを宙吊りにしている男とそれを殴った女。その周りにはパラパラとだけれどそれなりのギャラリーが集まってきた。でもこの、水槽の中の魚が片っ端から仰向けのまま浮かんできそうなサイレンみたいなオーバーオールの叫び声のおかげで、だいたい見える範囲にいる通行人は片っ端から私達の方を振り向き新しくギャラリーサークルに参加し始める。電通も顔負けの広告効果だ。
「しつこーい。雪樹に用があるなら勝手に行けば良いじゃん。警察でしょ?」
 と私は自分の薄い耳たぶを親指でいじくる。
「あー?」
 でもオーバーオールは死んだ笑顔で私を見上げるだけ。ガキを放すそぶりもない
 ――カチャ! 頭の中でスイッチの入る音がした。
「痛いからあんまり好きじゃないのに。ナックルって」
 とオーバーオールの鼻っ柱に向けて左手のナックルを打ち下ろす。続けて左手の痺れが消えないうちに右手で同じ場所を殴る。ワンツーワンツー! 太鼓を叩くように鼻骨折り。みるみるオーバーオールの鼻は赤く腫れ上がって鼻血は垂れ流れて私の拳も赤く汚れた。 
 相当痛いはず。ああ、人を殴るのってこんなに、こんなに心が痛いものなの?……ってそんなわけなく単に手が痛かった。だから私はパンチ嫌いなのだ。蹴りラブリー。
(まだ放さない?)
 喉元をつたって自慢の(本人はどうか知らないけど)オーバーオールまで鼻血で染めているにも関わらず、オーバーオールはずっと何かをクチャクチャと噛みつつ口元を動かし、鼻血を滝のように流しながら笑みを浮かべてガキも抱いたまま。
「オラっ!」
 頭突きを喰らわしてみた。でもオーバーオールは変わらず。逆にこっちの頭がガンガン。ほ、星が、キラキラ。ヒ、ヒヨコが、ピヨピヨと頭上を回っている。
(し、深刻かも、これは)
 ちょっとクラッとした。頭突きの後遺症じゃない。こんなへぼいオーバーオール野郎に時間をかけている自分自身に。とても衰えてきている気がした。さっきの倒せなかったストレートといい、この鼻骨折りといいイマイチ精彩に欠ける気がしないでもない。キレがない。ノビもない。
(せ、世代交代なのかもしれない)
 わ、私は晩年なの? 引退? もうOG? 悲しみが次から次えと浮かんでは消えていく。いったい、いつ自分の時代が来ていたのかどうかも分かんないっていうのに世代交代。そ、そのうち栄子とかに負けちゃったり、男に色んな場所へ色んな物入れられちゃったりしたりして。なんてこった。
「キィー!」
 ムキになってまた私はオーバーオールの鼻を殴る。
「おい、あれ、やりすぎなんじゃねー?」「うあ、ひでえー」ギャラリーの声がする。キレていたので別にそんな声は気にならかった。でも次の「旦那が何したかしらねーけどな。ヤンママっていうより極道の妻だぜありゃ」という声を聞いて私の殴る手は凍りつく。
(こ、こんな、ひどい……)
 家の破産したお嬢様が借金のかたに成金のおっさんの愛人されてしまったその初夜みたいな感じで走って逃げ出したい気持ちになった。ヤンママっていうのはひどい。勝手にこんな変態さんの奥さんにされてついでに桜子と一緒にされた。お、大人ってひどい。よってたかってこんな子供をいじめている。
「連れてけよー」
 オーバーオールの奴はそんな私の嵐の中の子犬みたいな気持ちなどおかまいなしに潰れた鼻で下品に笑っている。青白い顔面に、ドス黒い鼻血でお歯黒に染めあがった歯はまるで麻呂みたいに見える。かぶっているキャップは教科書とかで見た烏帽子ってやつみたい。
(もしかしてこいつガキが欲しいのか?)
 当然そんな気になる。普通はこれだけ殴って脅しをかけたら、本当の親でもガキを放す奴はいたりするかもしれないし。(雪樹なら三桁ほど積まれればどこへでもやりそうだけれども)
「よし分かった。それやる。じゃあな」
 と私は快くガキをプレゼントすることにした。
「ダメ。連れてって。真樹のママのとこ」だけどすぐ、後ろを向いて立ち去ろうとする私のパーカーの裾を掴むオーバーオール。
(けっ! なんだよ会話できんじゃんか)
「だからー、一人で行けばー」
「連れてって。あーあーあー」
 オーバーオールはまた大声を上げ始め、また会話できなくなった。最悪。ヘルプミーだ。
「連れて行くしかないの? それって憲法何条なの?」
 そう私はオーバーオールに言っているのか自分に言っているのかひどくあやふやなセリフを呟く。釈然としない気持ち。何かこう、あとちょっとで死んでしまうからこの爺さんにフェラしてあげて下さいって遺族の奴に頼まれているくらい納得いかなくてちゃぶ台でもひっくり返してしまいそうな気持ち。
「お前を私は連れて行く」
 まるで他人事のように私は言う。するとオーバーオールはさっきまでの頑固さとはうって変わってさっと立ち上がった。でもガキは抱いたまま。
(雪樹の所につくまではってことですか)
「ちょっと待ってろ。すぐ終わるから」
 雪樹の所へオーバーオールを連れて行く前に、私にはやることがあった。まず周りのギャラリーを見渡す。
「あ、お前だ。うんうん、違ってても謝らないよ」
 そう言って私はギャラリーサークルの中にいる紺のブレザーを着たリーマン風の男に近づく。男は自分のことを言われているのに気づいていないのか道を開けようとする。あーだこーだと一番耳につく野次を飛ばしていた奴。
「ああ、開けなくていいから。自分で掘るし?」
 とリーマンの口めがけてワンパン一発食らわす。
「あが、あがが」
 リーマン、口を抑えてしゃがみ込む。
「あ、お前も死ね」
 と私はついでに隣にいた女の顔面に張り手を見舞う。
「いやー」
 泣き出した女。蜂の子を散らすように途端に道が空きだした。まさに十戒。
「最近かわいくなってきたからあんまり効かないっしょ?」
 とナックルを握った左手を回して私はストレスを解消した。


「そうじゃねーよ。首の後ろに手を回しーのお尻の所を持ちーの……」
 オーバーオールにガキの抱き方を教える。渋々と。だってしかたない。ガキを放そーとしないんだもん。
(何でこんなことだけ素直なんだよ)
 言われたとおりに忠実にオーバーオールはガキを抱き直し、歩いていた。横断歩道を渡り、お城の堀が脇に広がる長いまっすぐな歩道に差しかかる。汚れた風呂のタイルみたいなグレーの歩道は車でも頻繁に乗り上げられているのか、そこらじゅうにタイヤを引きずったような跡があって余計に汚れていた。この通りってよく工事中になっていることが多いのにぜんぜん綺麗になってやしない。通るたびに思う不思議。歩道の並木はすっかり建設中のビルって感じで枯葉さえない骨組み。枝だけのものがずらって続いている。
「ここまっすぐ行け」
 オーバーオールに自分の前を歩かせる。その方があいつの動きに対処しやすいかなーと思ったから。まあこれなら、いきなり後ろからどつかれる心配はない。そりゃーいきなりガキを横の車道を走っている車に向かってパスしたり、城のお堀の鯉の餌にしようと放り投げられたりしたら私にはどうしようもないけど、そんなのは知ったこっちゃない。十三歳はそういうことを心配しちゃいけねー。心配なのは髪型とファッション、体重にその日のテレビ欄オンリー。
とかなんとか考えつつ、堀の水を見ながら(冷たそうー、飛び込めるかな? 抱いたまま泳げるかなー)とか私は考えてしまっていたので軽い自己嫌悪を感じていたのだけど、もうすぐ十四になってしまうので少しはバリエーションのあることを考えてもありかなって考えていたらムカつかなくなった。
「あれだ、あの建物。雪樹がい、る、と、こ」
 と見えてきた警察署を私は指差す。オーバーオールに何か変化があるかな? と思っていたけどオーバーオールはただ目をぱちぱちするだけ。その仕草を私は見て、
(署の中までってことね)
 と分かって溜息をつきながら署の前の横断歩道を今度は私が前になって渡り、署の門を通る。もうすぐ私の仕事は終わり。っていうか元々私の仕事じゃないのに。無職なのに。ハローワークなのに。
「ついて来てんの? 迷ってんならこの音の方向」
 と私は皮パンの上からパーンと自分のお尻を叩き後ろを振り向く。
「いないじゃーん!」
 叩いたお尻の音は虚しい空砲になった。振り向けば誰もいない。しばらく呆然と立ち尽くす。でもすぐに首と体をフル回転させて辺りを見渡す。門の外は車が普通に車道を走っているだけだし、人通りもあまりない。この短時間で見えなくなるほどの遠くには行けるわけないし、だいたい視力の低い私が周りを見渡しても意味がない。これって迷子だ。私が迷子か? いや、オーバーオールの方が迷子なのかもしれないけど、とにかく迷子だ。
「よ、よし。とりあえずお巡りさんだよね? これは。だって迷子なんだもん」
 私は自分自身に確認を取って署の玄関に突撃していく。結局どういう訳か自分の意志で警察に行くことになってしまっていた。オモシロ過ぎて笑いも出ない。でも、
「なんじゃそりゃー!」
 勢いよく突っ込んだ署の玄関。オーバーオールはそこにつっ立っていた。さすがにこれは面白かった。はははは……
「もう何も言うことはない。好きにしたまえ」
 と私は両手を広げ天井を仰ぐ。
「携帯かけて。呼んでよ」
 とオーバーオールはキャップを下に引っ張り深くかぶり直す。
「あーあー雪樹を呼べは良いわけね? はいはい呼びましょー呼びましょーここにいれば良いねー」
 携帯を皮パンの後ろポケットから取り出して雪樹のナンバーを呼び出した後、髪の下に滑り込ませる私。
(雪樹なんか呼んでどーするのかね? もしかしたら殺してくれたりして)
 そんな夢見る少女みたいな純粋な願いごとをしつつ私は二回、三回と呼び出し音に耳をすませながら雪樹の声を待つ。
 十回、十一回、――雪樹はよっぽど携帯の画面に出た私の名前が気に入らないらしい。よくあることなので私はひたすら待つ。しつこくてもずーと鳴らしていれば「殺すっ!」か「消すぞ!」かどちらかで電話に出るはず。
「あー出ないや。クソー」
 なかなか雪樹は出ない。私は何度となく髪をかき上げたり、かかとを床につけたまま、ワニの口みたいな足踏みを繰り返したりと体全体でイライラを我慢するリズムを刻んでいたけど、それもついに限界にきた。
「出てきてくださーい。お願いしまーす、返したいんですー。いないのー」
 私が叫び出しそうになった瞬間、オーバーオールがいきなりのタイミングで甲子園の試合開始のサイレンみたいな甲高い声を響かせた。私はビックリして、叫ぼうと大きく吸った息が胸に詰まって咳き込んでしまい、緩くなった股間から何かが漏れちゃいそうにもなった。(最近、緩すぎるぞ私)
「何してるの? 大声出さないで下さい」
 と大声出しながら婦警が歩いて来る。
「ねえーどこー!」
 オーバーオールは叫びまくり。
 どうにもめんどうなことになりそうなので私は、いつになく低姿勢で、
「あのーすいません。ゆ、ゆき……あーいや、母います? 鮎川なんですけれどもー」
 と婦警に聞く。さっきまで私もムカついて興奮していたけど、オーバーオールに先に暴発されてしまい頭の中は一気に冷めた。最近特に熱しやすくて冷めやすい。ジュースの飲み過ぎかな?
「ああっ! そっくり! そう? あーそう! 鮎川さんの? へー」
 婦警は急に目を丸くして私の顔を覗き込む。
「気持ち悪いくらいに似てるわねー。何? お母さんに会いに来たの? そう」
 どうでもいいことをぺらぺら喋る婦警。私はただ一回肯くだけ。
「この子は?」
 と眉をしかめて婦警はオーバーオールを指差す。まったくうるさい婦警。
「あー友達。ガキはそいつの弟。途中で会ったからついで。うん」
 いい加減なこと言ってるなーと思ったけど、婦警が信じようが信じまいがどうでも良いと思った。
「あっそう。いいわ。呼んで来てあげる。たぶん外には出てないと思うし。ここで待っててね。歩き回っちゃダメよ?」
と何だかあっけないくらいに婦警は私を信用して去って行く。警察の明日は明るいなーと思った。合掌。
「これで来るね。真樹のママ」
 無表情でクチャクチャとただ口元を動かすオーバーオール。計算通りといった顔にも見えてムカついたけど我慢する私。
(また一歩かわいくなっていく。ふふん!)
 しばらく待っていると携帯が鳴った。雪樹から。
「何の自首? それ以外は回れ右。帰れ」
 と廊下の遠くで婦警と一緒に(雪樹も婦警には変わらないけど)早や歩きでこっちに向かって来る携帯片手の女がいる。髪は一本にまとめてて、上は白いニット、下は珍しくデニム。相変わらず外づら良くしているらしい。嘘癖ぇーさわやかさだ。
「じゃあねー」
 雪樹を連れて来た婦警は一人去って行く。
「良いお知らせ」
 雪樹は私の前に来るなりそう言った。
「何?」
 期待してない私。
「美人な娘(こ)ねって言われた」
 雪樹は笑う。
「へえーあの婦警に言われたの? へえー」
「だから私が美人ってこと。アンタはそれをパクってるだけ。分かる? 偽者。ひゃははは」
 それはそれは楽しそうに雪樹は私を指差して笑った。今すぐさっきの婦警を連れ戻してこの邪悪な笑顔を見せてやりたいと思った。
「バカ? 結局自分の顔指差して笑ってるのと同じじゃん」
 と私は頭をかく。
「最近思うんだよねー。アンタのセックスしてるとこ見たいって。なんか自分の目の前で自分が犯(や)られてるみたいで興奮しそうじゃない? 少年課の奴紹介してやろうか? 一人すっごいロリの奴いるから。ああ、でもアンタってロリになるのかなー? 歳はロリだけど体は私に似て濡れ濡れじゃん?」
(濡れ濡れの意味が分からん) 
いつになく雪樹はべらべら喋っていた。機嫌が良い部類に入ると思う。けっこう下ネタが多い。
「どうでも良いけどこいつ連れて来たから」
 雪樹の機嫌が良いうちにと、私は横でボーとつっ立っているオーバーオールに向けて手のひらを返す。
「はーん命中しちゃったか? いつ産んだ? 生でやりすぎなんだよ」
(言うと思った)
 雪樹の関心はオーバーオールよりその抱いているガキにいっていた。ホント、みんなよってたかって私が産んだことにしたいらしい。一度だけガキを抱いてマンネリのタコ焼屋に行ったことがあったけど、マンネリのやつ、私の顔見るなり「今日は泣いてええか?」って言いながら一人で焼きかけのタコ焼、片っ端から凄い勢いで食っていた。最近はどいつもこいつも私が母親っていうオチばかり。ボキャブラリーってものが貧困でイケてない。ガキを抱いてたら「あら真樹ちゃん、変わった幼虫つれてるわね? 食材?」くらいの挨拶が欲しい。
「この子が父親? へぇー真樹、自分の兄弟自分で産んだってわけじゃないんだ? まぁ、法律的にってことだけで別にいいんだけどさ。名前は隆樹とか行子じゃないわけ? ひひひ」
 ケラケラと腰が砕けたような抜けた笑い声の雪樹。自分が一番傷つくことを自分で言って楽しんでいる。真性M女。
「私のガキじゃない。このオーバーオール野朗がお前の所につれてけって言うから来ただけ。ガキは知り合いのガキだっての。こんなガキ出したらガバガバになっちゃうじゃん? 勘弁してよ」
「はん! もうガバガバでしょうが。――あーうん? 誰よこいつ? ぜんぜん知らないんだけど?」
 きっ! と私の顔を睨んだ後、雪樹は自分の頭を人差し指でトントンと叩きながらオーバーオールの顔を見た。こうして永遠に続くかと思われた母娘の下ネタ合戦は終わった。
「さあ? お前に返したい物があるとかパンプキンとか言ってたぞ?」
「パンプキンは減点」
 口元を引きつらせながら雪樹は言った。目が笑っている。こういうくだらないのが好きなのだ。こいつは。
「大変だったでしょ? 部品が足りなくて」
 オーバーオールが静かに口を開く。変な声がしたと思った。さっきまでのオーバーオールの声じゃないのだ。はっきり聞こえるっていうか、前はもう少し篭っていた気がする。
「お前、口にナプキン詰めて引っ叩くぞ! こんなバカ連れて来て。お前がバカなのはいいけど類を呼ぶなバカ!」
 雪樹は私に怒鳴った。
「たぶんストーカーだと思う。雪樹か私の。凄い調べてるみたい。豆豆な奴」
「ほほう? ストーカーか。で? 自首しに来たわけ?」
 と雪樹は私の話になんて関心なしって感じでいる。
「これも返す。可動する所はあまり変わらないや。肉も同じだろうね」
 とオーバーオールはガキの指を摘み、いじくっていたかと思うと急に私へガキを返してきた。
「口の中でゆっくり解凍してきたから品質は良いと思う」
 オーバーオールが廊下にガムを吐き付けた。私はガムだと思った。たしかに。その瞬間は。
「ああ、心配しないで。悪いことをしてるのは分かってるよ。僕は普通だし、罪悪感もちゃんとあるから。だから盗ったと思われてるんじゃないかと思って返しにきた。お巡りさんに」
 飲み込まれてしまいそうな底暗い瞳で、初めてオーバーオールは私の目を見て話す。まるで違う人間に見えた。トンネルで会った時、元デパートだったビルの下、そして今、急激なのかゆっくりなのか分からないけど確実に、なんか確実に変わってきている。着たオーバーオールも、かぶっているニットのキャップも変わらないのに。何だこの感じ? こいつの眼は?
「帰る。僕は帰ります。寒い。あー寒い」
 またオーバーオールの様子が変わった。自分の頭を両手で抑えたまま、その場で足踏みしている。
 あっ?
 いきなり、もの凄い勢いでオーバーオールが玄関に向かって走り出した。またたくまに私と雪樹の視界から消え去る。驚く間もないくらいに。突発に。
「何だったわけ?」
「さあー? 私はただ望みを叶えてやっただけだもん」
 雪樹と私は唖然とただ顔を見合わせるだけ。鏡を見ているみたいに。
「あら、まだこんな所にいたんですか? ロビーの椅子にでも座ってゆっくりお話すればいいでしょうに?」
 呆然と立っている私と雪樹の後ろから、さっき雪樹を連れてきてくれた婦警がやって来た。
「んー? 誰よもう! 廊下に、お掃除のおばちゃんが大変じゃないの」
 と婦警は廊下にしゃがみ込む。
「まぁ、いいでしょ。それでお金もらってんですからー掃除のおばちゃんって。必要悪、必要悪。あー煙草吸いてぇー」
 だるそうに首をかく雪樹。
「真樹、煙草」
「NOースモーキング。かわいくなろう月間ですから」
 と私は両手を上げる。
「ちっ! あーすいません新庄さん煙草持ってません? もちろんここじゃ吸いませんけどね」
 と舌打ちした雪樹は新庄という婦警の肩に手を触れる。
「新庄さん煙草下さいよ。――新庄さん?」
 雪樹の言葉に新庄っていう婦警は反応を示してないようだった。なぜかずっと座り込んだまま動かない。だけどしばらくして婦警は動きだしたのだ。まるで痺れているかのようにとてもきめ細かくバイブレーションして。
「ぎゃあああああー!」
 思わず耳を塞ぎたくなるような婦警の超絶音な絶叫。また私はオシッコに行きたくなってしまった。
「何ですか? うるさいなー」
 雪樹はペタっと廊下にお尻を突いてしまった婦警に文句を言っている。
「風鈴のとこ行くか?」
 と私は手元に戻ってきたガキの頬っぺたをつっつく。風鈴の所に行くはずだったのに早くしないとあいつの忙しい時間帯になってしまう。私は用事もすんだことだし、こんな居心地の悪い所からはさっさと消えようってことで、ガキを抱き直して警察署を出ようとした。
「ちょい待ち」
 なんか知らないけど婦警と同じようにしゃがみ込んだ雪樹にストップをかけられる。
「何?」
「アンタ、これ何に見える?」
 と雪樹は廊下を指差す。いつになく真面目な顔だ。
「はあー? そんなのあれだろ? オーバーオールが噛んでた……」
 ん? ちょっと私は自分の目が疲れているのか心配になった。だって雪樹が指し示している人差し指の先にもう一個指があったのだ。なんか溶けかけているっていうかデコボコして見えるけど指だ。ちっちゃい指。
 ――指。指?
「あーもう逃げちゃってるかー」
 そう立ち上がった雪樹は遠くを見るような目をして署の門の方を眺めた。
「ガム? こういうガム?」
 私は聞く。
「はい、違うねーこんなガムはないねー」
 雪樹はポケットからハンカチを出し、落ちているぐちゃぐちゃを拾う。
「明菜ちゃんの破片みーつけた」
 と雪樹はハンカチで指を包む。
「うーむ。良く分からないけど私は帰った方が良いみたいですな。うん。ご苦労様です」
 私は帰ろう。うん。子供が邪魔しちゃいけねー。
「さて、美人なお母さん似のお嬢ちゃん。ちょっと署まで御足労、願えますでしょうか?」
 と雪樹の世迷言。
「はて? 美少女な娘似のオババ。ここはどこだったかしらん?」
 と私の戯れ言。
「あーあーあー」
 とガキの泣き言。
 今日私、風鈴の所には行けそうにもないらしい。
 

 通算何度目かな? この、机と椅子二つのブラインドがいつも下りている部屋で向かい合って話すの。でも新鮮なのは目の前にいるのが雪樹ってこと。初めて。
「ねえ花束くれないの? この歳では最多入室でしょ? 取調室」
 と頬杖をついて私は言った。
「嬉しいでしょ? 親の職場じゃなかったら普通アンタの歳じゃあこんなに入れてもらえないわよ? 取調室」
 と雪樹は笑う。
「いらないそんなフリーパス。せめてスポーツジムのにして」私は自習を要求する生徒みたいに取調室の机を揺りカゴみたいにガタガタと揺らした。
 雪樹の他には若い男の刑事がいる。青いネクタイでマッシュルームみたいな髪型をしていて、何度となくハンカチで首や額の汗を拭いている。そんなに暑いのかね?
「ねえ、眠むいからあんまりアンタにからみたくないわけ。分かる? だから簡潔にいくわよ?」
「いくわよって私、一回もイったことないんだけれども?」
 と私は軽く背伸びをする。
「この写真の女の子知ってるでしょ。知ってるわね?」
 そう言いながら雪樹は指に挟んでいた写真を机の上に置く。私の話は無視だ。もうあくなき下ネタ合戦はしないらしい。忠実に職務遂行ってやつ。
「はいはい、知ってますよー会ったことありますよー」
 と私は頭の両端で髪を掴み、おさげを作って左右に体を揺すった。写真の女の子もおさげ。小さな小さな女の子。タコ焼き好きの女の子。私の髪を掴んで離さなかった女の子。家まで送って行ったあの女の子。
「桑田明菜ちゃん。五歳」
 雪樹はたんたんとした感じで言った。
 無視する雪樹、冷めた雪樹、そんなものは小さい時から知っている、いつもの変わらない雪樹だけど、今私を調べている雪樹は初めての雪樹だった。きわめて普通に私との会話をこなしているけど、なんか変だった。いつもに比べて威圧的でもないし、嫌味も言わない。でも私は凄く嫌な感じがした。ふざけても反応ないしね。
「ふーん五歳か。でも五歳……だったんじゃないわけ?」
 と写真も雪樹の方もろくに見ずに、私は下を向いたままひたすら自分の髪の毛をシクシクと編み込んだり毛先を掴んで束にして、鼻の頭をなぞったりと遊んでいた。
「そう、五歳だった。過去形」
「誘拐? それとも潰されたんだ?」
 と私は腕組みをしたまま腰を左右にニ、三回ひねる。
「後者のほうね。この子の母親は結構頻繁に家を空けていたみたいで子供の世話っていうか、ご飯とか作って上げるだけでしょうけど、そういうのは全部家政婦がやってたみたい。比較的、人なつっこい子だったらしくて家政婦さんの声がするとすぐに走り寄って来たらしいわ」
 と雪樹は写真の女の子を指でなぞった。
「たしかによく一人で遊んでたみたいだけど、よくは知らねー。一回だけ家まで送ってっただけだもん。言っとくけどぉーオーバーオールのことだって知らねーぞ。ホントさっき会ってお前のとこまで連れてけって言うから連れて来ただけなの。ホントだぞ。アホー」
「嘘とは言ってない。アンタ、都合が悪いことは嘘で誤魔化すより完全に黙秘するタイプだもんね。それだけ口が回るってことは嘘じゃないんでしょーよ」雪樹は自分の目を見ない私の前髪を掴み、顔を無理やり向けさせた。ほとんど一センチ感覚まで。
「で、さっきのオーバーオールが吐き出した指ってやっぱりその女の子のものだったわけ?」
 と私は雪樹の鼻先をぺロッと舐めてやった。
「うわっ! 汚なっ! 知らないわよ! まだ鑑識から何にも言ってこないから」
 雪樹はそんなに拭かなくってもってくらい袖でごしごし拭いた。失礼なやっちゃ。自分のDNAが入っているのに。
「あれだ? やっぱりゴミ袋とかに入ってたのか? 女の子のバラバラは?」
 と雪樹が慌てたので話の内容とは別に私はニヤけた。
「ご丁寧に組み立ててあったわよ」
 と雪樹は溜息をつく。
「はあ? それ面白くないぞ。ばーかばーか」
 くだらねーこと言いやがってと私は舌を出す。
「ホントに組み立ててあったのよ。家政婦が女の子の家に行ったらいつもみたいに駆け寄ってこないから子供部屋を覗いて見たら、暗い部屋の中で壁に寄りかかって座ってたらしいわ。で、声をかけても反応がないから寝てると思ってベッドに運ぼうとして抱き上げたら――取れちゃったんだってさ」
 気の抜けた感じで笑う雪樹。
「取れちゃったって何が?」
「首が。ぽろんって」雪樹は親指を下にして首をかっ切るポーズをした。雪樹の話しを聞いて、さすがに私もボーぜんとしてしまった。
「だ、ダメじゃん、ぽろんってダメじゃん」
 自分で自分が何を言っているのか分からなかった。
「一回バラバラにした女の子の体をガムテープで引っ付けてたのよ。まるでプラモみたいに」
 雪樹の言葉を聞きながら半分、上の空だった。肉を食べ過ぎた時みたいなじりじりした胸焼けの気持ち。面白い映画を見た後の変なハイテンションにも少し似ていた。
「指も全部切り落としてあったんだけど、左手の小指だけなかったのよねー。良かった。断定できないけど戻ってきて」
 と雪樹は私の頭を撫でた。
「やっぱあのオーバーオールが殺ったの?」
 私は聞く。
「さあね。限りなく怪しくて、私の中では疑う余地なしって感じの段階かな? オーバーオールが今日来るまではアンタを疑ってたんだけど。外での目撃証言、アンタがあの女の子を連れて歩いてたってのを最後に途切れてたから。深い考察とかは抜きにして。単純にね」
 と雪樹は机に両肘を突き、開いた両手の手のひらに顔を乗せたまま笑った。アイドル雑誌の表紙によくあるポーズ。
「じゃあ案外次は私かお前かもよ? 良く知らないけどお前と私のこと、色々知ってた」
 私も雪樹と同じポーズを取って言った。
「それ分かんないんだけど、ホント、あのオーバーオールのこと何も知らないわけ? ぜんぜん接点ないじゃん」
 と雪樹が顔を左右に揺らしながら言ったので私も真似して、
「女の子が死んだのって最近だろ? そのずっと前に私、神嶽の近くのトンネルでオーバーオールに会ったんだよ。ひひひ。猫の首投げつけられた。どうも、ずっとつけられてたみたい」と言った。
「んーなんだそりゃ? 女とかガキとか動物とか、そーいうや殺りやすいのを狙って遊んでるごく普通の少年Aなわけ? つまんないわねー」
「さー? でもお前は狙われてねーだろ? 私の流れでお前も調べてるだけなんじゃねーの?」
 と私は雪樹の髪を引っ張っる。
「あら分かりやすい。じゃあアンタを張ってたらあのオーバーオール、捕まえられるじゃないのさ。イエーイ、ポイントアップ」
 雪樹がガッツポーズをした。
「もう良いでしょ? ガキがいるもんでねー、早く帰らないと」
 と私は席を立つ。
「うん、良いわよ。赤ちゃんは一階の自動販売機の前のソファにいるから。たぶん誰かが抱いてるわ」
 と手を差し出して雪樹は言う。
「ねえねえ? それで女の子の母親とかどうなったの? やっぱとち狂って入院しちゃったとか?」
 私は雪樹の後ろに回りこんでしめ縄みたいに一本にキツクまとめられた雪樹の髪を引っ張っる。
 ガリガリっと床をこする音がした。雪樹が椅子を引きずって回し、向きを変える音。
「入院したことはしたわよ。でも睡眠薬の飲み過ぎだけど。私がさ、何気なく聞いてみただけなのよ。切断された痕以外に青染みたいなものが見られたんですけど、お子さん、何かお怪我でもされてたんですかって。そうしたら次の日彼女の口には溢れるばかりの白い錠剤がわーらわら」
「ああ、やっぱ虐待してたんだ。OH! ジーザス! ドメスティックバイオレーンス?!」
 と私は取調室の机の上にお尻を乗せて雪樹を見下ろした。今度はこっちが取調べしているみたいで面白かった。
「さあ? まあ、してたんじゃない? 虐、待。青染みも新しい腫れをともなったものは少なかったから犯人がやったってものでもないんだろうし、曲ったままの親指とか、肋骨に自然治癒した骨折痕みたいなものもあったし。まあ、愛情はあったってことなんですかね? 自殺未遂までしたんだから」と雪樹は机の上に乗った私の太ももを叩く。パチンと良い音がした。ピチピチだからね。ひゃひゃひゃ。
「ほんまに愛情表現の自殺未遂なん? じゃあアンタも死ねばええやん? なー? オカン?」
 適当大阪弁で私は言う。
「パンツ、上から出てるわよ。ケツの線まで見えてる」
 と雪樹は胸ポットからボールペンを取り出して、私が穿いている皮パンとお尻の間に空いた隙間にペンを差し込んだ。
「そう言えば割れ目でポン! って番組なかったっけ? 昔」私は机を降りる。
「喜多くん。悪いけどこの子送ってってくれる? 別に家までじゃなくてもいいから。適当な所で離しちゃって。パチスロに行ってたのは黙っててあげるからぁ」雪樹は私の皮パンに差したペンを抜き取ると指先でクルクル何回も回す。マッシュルームみたいな頭をした刑事が雪樹の言葉に小さく肯いた。
「へえー珍しい。産み捨て主義解消?」
 と私は両手を広げる。
「せいぜいオーバーオールの食いつきがいいように美味しそうに歩くのよ。エ・サ」
 足を組み直して雪樹は言った。
「バカ? そんな努力するわけないじゃん。立ってるだけでたた勃起せる!」
 と私は胸を張った。
「へえーそう? 喜多くん勃起した?」
 雪樹は中指を上に立てる。
「はいはい痛いくらいですよ。じゃあ娘さん送ってきますから。――じゃあ行こうか?」
 喜多という刑事は私の背中を軽く叩くと取調室のドアを開け、外に連れ出した。
「先に玄関口の所まで行っててくれるかな? 俺は赤ちゃん連れて来るから」
 取調室を出て階段を下りている途中で刑事は言った。
「はあ。分かりました」
 と私は敬語で答えた。別に良く思われようというわけじゃなく、初対面で殴ってもいい部類以外の奴が苦手ってだけで、本能的に敬語っぽい感じで喋っとけば面倒じゃないだろうってだけの話。敬語で壁を作ってあまり親しくならないようにしようってのもあるかもしれないのだけど。
 玄関を出てすぐの小さな階段の前で背伸びをしたり、パーカーの中に手を全部入れ、隠したままぐるぐる回ったりしながら刑事を待っていたら自動ドアが開いてガキを抱いた刑事がやって来た。私が敬礼ポーズを取ると刑事も敬礼した。なかなか礼儀正しい奴。
「ごめんねコート探してたんだ。いつも適当なとこに置いちゃっててさ」
 と刑事は自分の着ている黒いハーフコートの襟を摘んでみせた。
「ラムレザー?」
 私は刑事のコートの袖を掴み、言った。
「へえー? 触っただけで分かるんだ。凄いねー」
「いや、なんとなく。あ、ガキ貸してください」
 そう言って刑事からガキを受け取ると私は一人スタスタ歩き出した。ガキはめくるめく環境の変化なんてものともしねーといった感じですやすやと眠っていた。桜子と違って将来有望かも。
「ははは。やっぱり俺が抱いてるより赤ちゃんも気持ち良さそうだね。柔らかそうで」
 足早に歩く私に追いつき、刑事が言った。柔らかそうとかそういうのはいらないと思った。
 帰り道、私はお城の堀の脇を通らずにTV局の前を通って、税理士とか弁護士の事務所が並んでいるちょっときな臭い通りを歩く。こっちの道の方が家まで近いのだけど、街灯があまりないし、踏み切りを渡らないといけないので普段はあまり通らない。怖いとかじゃなくて昔から隆行さんにこっちの道はあまり通るなって言われていたので習慣みたいなものであまり通ったことがなかったから。今日はへろへろっぽいけど男の刑事も一緒にいるし、気分転換の意味も込めて珍しくこの道を歩く。
「暗いねーこの道。いつもここ通ってるの? 危ないよ? この間もここでOLが一人、顔切られてるんだ。通り魔」
(言われなくても知ってるっつーの。住んで長いんだから)
「時と場合です。今日は刑事さんがいるから通ります」
 嘘は言ってないけどうそ臭い返事をする私。
「あーそうか。うん。今日は大丈夫だ。うん」
 自分に確かめるように刑事が肯く。
「ふふふ」刑事が一人笑いを始めた。特に気にならなかったので私がほっといたら自分から笑いのわけを喋り始めた。
「さっきの君とお母さんとの会話凄かったねー。鮎川さんも普段の雰囲気と違うからさー。さっき君を送ってって言われた時、俺、何も言わなかったでしょ? あれ、笑いを我慢してたの」
「バラバラの女の子の話、そんなに面白かったですか?」
 と私は意地悪を言った。
「おっ! 意地悪いね。お母さんと一緒」
 なんかこの刑事、一言多いタイプだなと思いつつ、でも和ませて話しやすい方向に持っていこうしているのだと思ったので「良く似てるって言われる」と私は敬語をやめて話すことにした。
「うんうん美人だね。とっつきにくいって言うか、からみにくいっていうか」刑事は肯く。遠回しに私もそうだと言わんばかりに。ホント、一言多い。隆行さんとはま逆な感じ。隆行さんはいつも一言少ない。
「ね? 正直モテるでしょ? 案外あのオーバーオールの子も彼氏の一人だったりして」今度は一言どころじゃない刑事。この遠回しな感じがオッサンは嫌。直接言ったらどうだとか、遠回しだとあれだとかって、こういう会話に作戦を立てていること自体がムカつく。一気に喋りたくなくなる。そんで結局途中で自分からキレだしたりなんかして「何で俺がお前なんかに、こんなに気を遣わなくちゃいけないわけ? バカじゃねーの?」とか言ったりする。で、そのキレた態度も後で利用して、こっちに「ちょっと悪いことしたかな?」って思わせようとしたらバッド! テーブルの上にある物とか乱暴に置き直したり、「はあー」とか溜息つきながら外の景色とか見て指でトントンとテーブルなんか叩き始めて自分のイライラを見せようと身振り手振りも加えだしたらもう死んでくれる? 成層圏で燃え尽きちまえ! って感じ。相手の気持ちを考えてってより、相手の気持ちを自分勝手に型取りして好きなようにしようなんて、大人な感じを勘違いしちゃう歳なのかねーまったく。クールになりたいお年頃ですか。私はしばらく刑事が喋りかけるのを無視して歩き続けた。
「あの、なんかごめんね? 怒った? ほらあのさ、俺三十だけどさ、君から見ればオジさんに感じたろ? いやー自分で自覚がないとこが怖いよね?」
 刑事がフォローを入れている。もう勘弁してよって感じ。無視して歩くのもイライラするし、キレるのも疲れる。もうホントに疲れているのだ。今日の、いや日付が変わっているから昨日から今日にかけての私は。
「あの、色々ありますけれども、また用があったらその時話しますから。メリハリつけていきましょ? 取り合えず今は事件の話はしません」
 一気に溜まった物を吐き出すようには言わなかった。言いたかったけど慌てた感じじゃなくて落ち着いて言いたかったから。
「ああ、これはご丁寧に。すみません。じゃあ今はどんなこと聞いていいの?」
 刑事は謝った。
「そうですね。夜ですから胸のサイズとかなら差し支えなしです」
 無表情で私は言う。
「へ? あああ、大きいね……いくら?」
「推定Cです。公式にはDにしてます」
「どうもありがとうごさいました!」
 と刑事は深々と頭を下げた。それ以後刑事は静かになった。私は勝ったのである。
「もうあの踏み切り渡ったらすぐですからここで良いです」
 踏み切りを渡ってぺプシの自動販売機をすぎればすぐに自分の家。私は振り返って刑事にお別れを言った。つもりだった。
 振り向きざま、いきなり刑事の硬く冷たい拳が私の顔面を襲う。右目の上辺りを弾くように直撃。私は思わずガキを落としそうになったけど気合で抱いたままアスファルトに倒れこむ。同時に電車が唸りを上げながら真横を通り過ぎる。何だこれ? 私、殺されそうになった? 一瞬の出来事の中で、一瞬の思考が私の中を電車と同じように走り去る。通り過ぎて行く電車のコントラストなライトが走り寄って来る刑事の姿をまるで電気信号みたいに点いたり消えたりさせながら照らし続け、その浮かべている笑顔は私が産まれて初めて見るって言っていいほどの気持ち悪くひどい生物の笑顔だった。刺身を生卵につけて食うような生臭い顔。
 あまりに瞬間的な出来事と殴られたダメージで私は声が出なかった。刑事はというと倒れている私の手を強引に引っ張り上げ、私を無理やり立たせると後ろに回りこみ口を抑えた。とにかく貧素に見えた体からは想像できないほど凄い力。私はとっさに刑事の手へ噛みつき、刑事の力が一瞬緩んだのを見るとそのまま後頭部で相手の顔に頭突きを喰らわし、その隙に立ち上がってムカつくけど、ここは冷静に逃げようした。ガキもいるし先制パンチのダメージもある。モロに肩から倒れたので肘から上に電流が走っているみたいでメチャクチャ痛い。しかもなんと最悪なことに踏み切りが下りたまま。バットタイミング、開かずの踏み切り。
「へへ。ばーか……」
 潜って渡ろうという判断に手間取ってしまった私は刑事に足首を掴まれ引っ張り倒される。前のめりに倒れそうになったのでガキがアスファルトと自分のサンドイッチになってしまうと、ギリギリで体をネジらせて背中から地面に叩きつけられる私。頭を浮かせたので意識にダメージはなかったけど背中がバラバラになりそうな衝撃が脊髄を駆け上って脳天を突き抜ける。その背中のダメージに対してまだ私がショックを受けている最中に刑事は私の上へ馬乗りになってきて三発、四発と顔面に向かい拳を振り下ろしてくる。とっさに真正面からパンチを食らわないように顔をそむけて頬で拳を受ける。
 殴られている途中で他の人の気配と足音を感じた。やがてその気配と、急激に加速し、近づいて来る足音は私のすぐ真横までやって来て……そのまま通り過ぎて行った。殴られている最中だったのでよく分からなかったけど男の二人組みに見えた。別になんにも期待してないんだからゆっくり通れば良いのに。踏み切りだって上がったばっかりなんだから。
 ガキを抱いているから手でガードもできないし、ひたすら頬で体重の乗った重たいパンチを受け続けたせいで口内に鉄分がにじみ、奥歯がきしむ。たぶん折れてる。ホント、これを鼻に食らって折れたりなんかしたらブスになっちゃう。勘弁してよ。もう!
「もっと静かな所に行こうか? 俺は騒がしいとこはダメなんだ」
 そう言うと刑事は私の足首を強引に引っ張り始めた。私は無理やりにアスファルトを引きずられ、さすがにガキを抱いていられないと思って引きずられながらも周りを見渡し、ガキを隠そうと考えた。
(あーくそ! 遠いか? もうっ! いけー!)
 踏み切りの前の空き地、網も壊れてボロボロ、安心保証人って闇金っぽいずれた看板、真下に草むら、私は半ば投げるようにガキを放った。うまくいった? 暗いし、私の体勢は仰向けになってしまっているからよく見えない。
「あーあーあー、ぎゃあーん!」
 ガキの泣き声。さっきまであんなに静かだったのに。
(まあ、泣くか。産まれてちょっとでこんなことばっかり続いたら。普通は)
 刑事に引きずられながら世界が逆さまに見えるなかで、なぜか私は笑顔だった。訳が分かんないけど、笑顔じゃないといけないと思った。ガキが泣かないように。安心するように。ガキが私の顔、見てるわけでもないのに。
「うるさい」
 と刑事が吐き捨てる。
(やばっ)
 私はガキの泣き声が刑事を刺激したのかと思い、あせった。けど刑事は私の足を放してまた私の後ろに回りこむと手で私の口を抑え、もう片方の手を私の脇の下へ入れてきて、さっきより早いスピードで私を引きずった。ガキのことは眼中になかったみたいなのでまあ、OKかな? と思った。
 刑事のなすがままの私。動こうと思えば動けたけど無理はしない。無駄に動いて殴られて体力を削られたらもったいない。パワー充電。顔も体も痛いし、もしかしたら歯以外で折れている所もあるかもしれない。当然、仲間みたいな奴がぞろぞろ出てきちゃったらどうしようかなーという考えもあったけど、仲間がいるくらいならもうワゴン車とかすぐ脇に用意しているだろし、とっくに出て来てもいるだろうなと思った。
 引きづられ、シューズのカカトがアスファルトに削られていく音を効果音にゆっくりと動き続けていた私の狭い視界。そこに映っている映像のスクロールがついさっき通ったばかりのちっこいビルの前で停止する。てっきりどこか工事中の場所にでも連れて行かれるのかと思ってたけどえらく手身近な所で止まってしまった。
「エロそうな体な分、やっぱ重いな。まあいいかここで」ビルの階段は見向きもせずに刑事は一階部分の駐車場へと私を引きずっていく。
「はあー。ほら、転がってけ」
 疲れたのか刑事は私を駐車場の入り口の緩い傾斜になった部分に寝かせると横顔を踏みつけ、まるでブレーキを踏むみたいに強弱をつけながら足首を上下させた後、足で私の体を蹴り押した。私はわざと勢いよく転がって刑事が見失うくらい早く駐車場の奥に行ってしまおうと考えた。この暗さだし、向こうが来るまでに体勢も整えられそうだしと。そうしたら意外や意外、すぐに私は壁にぶつかってしまった。駐車場、すっげー狭かったのだ。ついてないことに鼻もぶつける。せっかくさっきから守ってきたのに。
「さーて抜いとくか」
 とゆっくりと上から降りてくる男。じーっ! 音を聞いてうつ伏せのまま薄目を開けると男はチャックを下ろしていた。
(ブサイクな形。こいつの)
ベルトはそのままで簡単にすませようって感じがありあり。私は携帯トイレか! ってツッコミ入れたくなった突っ込まれそうな私。
後ろ髪を掴まれた私は、顔を刑事の方へ向かされる。
「ねえおっさん? 雪樹には内緒なわけ? これ」
 私はウインクする。
「なんだよ。気失ってないのか。俺はブチ込んでる最中に目を覚まされるのが好きなのに」
 と刑事が私のみぞおちにアッパー気味のパンチを入れてくる。私はウッと息が詰まって意識が消えそうになるのを、唇を血がにじむくらいに強く噛み込んで我慢する。気を失ったら終わり。と思ったら刑事が私を蹴るたびに、いきり立って飛び出している刑事の如意棒が大きく立て揺れするもんだから、思わず口の中にある折られた歯と一緒に噴出して大笑いしながら蹴られ続けた私。おかげで私のお腹には笑いと蹴りのダメージがダブルで。気を失う暇もないくらいに地獄の苦しみだった。
「我慢するなって。ほら。消せよ。い、し、き」
 くの字にうずくまった私が抑えているお腹に刑事はまた一発蹴りを撃つ。
「母親と同じで嫌な奴だねーお前。気にするな。事件と関係ないからさ。たんなる俺の趣味。お前みたいに親にも吐き捨てられてる奴の相談に乗って気持ち良くしてあげてるわけ? わかる?」
 そう言うと刑事は私の上になって私の皮パンのチャックをゆっくり下ろす。いきなり最終段階に突入する気まんまんだ。前戯もなしか? ニットくらい脱がせてよ。もう!
「いいこと教えてやる。お前の母親も俺がどんな奴かってことくらい知ってんだよ。それ知っててお前を送らせてんだ。どうだ? 泣きたいだろ?」
 と刑事は私の皮パンを一気に引き抜くように脱がし、投げ捨てた。刑事にしてみれば一番盛り上がってるとこ。でもねー雪樹も私がどんな奴か知ってて送らせたと思うよーって言って上げたかった。
「へえー白いねー」
 そう刑事が私の下腹を撫でながら感触を確かめるように指で押したりなぞったりしていたかと思ったら、次の瞬間刑事はまたその場所にパンチを撃ってきた。今度はとても深くエグるように。刑事は拳を私の下腹部に当て続け、そのまま拳を引かずにグリグリと痛ぶる。よっぽど気を失わせたいらしい。失神マニアか? でもさすがにこれはやばかった。唇の端から唾液混じりの泡だった血がにじんで流れ、涙目になる。コンクリートの天井がにじんで消えそうになるのを、唇を噛むのと太ももを自分でつねることで必死に食い下がる。自分で思っている以上にダメージは深いんだろうなと感じる。感覚と体を動かすタイミングがずれてきている。
 私が目を閉じたので満足したのか失神したと勘違いしたのか男は嗅ぐようにして私のヘソ下へねじこみ気味に顔を埋めてきた。
(一撃必殺モードだなー。ワンチャンか)
 私は完璧に動くのをやめて静かに、刑事のなすがままにじっとした。あまりにもキモイので一応意識的には(犬が股間を舐めている)ってことにしていたけど無駄で、やっぱ超S級にキモイくって早くシャワー浴びたいって気持ちでいっぱいだった。
 太ももの付け根の場所に刑事の唇が当たる。思わずピクッと動きかけた。どうやらそのまま刑事は私のパンツの紐を噛んで下ろし始めたみたい。この世で最悪の瞬間だーって言っていいくらいの感触が太ももから膝にかけてをチクチクと何度も往復する。絶句! 髭地獄。むしろ私はやらせてやるからその髭はやめろって言いたかった。
「ふーん。意外に薄いじゃん。そういえばあいつも薄かったな、顔は濃かったけど」
 という刑事の言葉と同時に生暖かい息が股間に当たる。吐き気がした。あんまり腹が立つので桜子みたいにオシッコでもかけてやろうかと思ったけど、こいつ逆に喜びそうだし、私の体の機動準備も完了したのでやめた。
 かぱ! こんなに綺麗にいくとは思わなかったと言うくらい綺麗に刑事の頭は私の太ももに挟まった。今まで我慢していた分を爆発させた私は最大出力で太ももを締上げると間髪入れずに地面へ手を突き、上半身を浮かせ、そのままおヘソを冷たいコンクリートの地面につけるように腰をひねり回転させる。挟まれた刑事の頭も一緒に綺麗に回転。まんまと刑事の後頭部はコンクリにドッカン! まさに花びら大回転って感じ。刑事は詰まったような小さな悲鳴を上げたかと思うと狂ったように私の股をかきむしってはずそうとする。
「静かにしろ! 感じちゃうじゃん!!」
 と今度はマウントポジションを取って刑事の上に乗っかった私は股に刑事の顔面を抑えこんだまま直下型ナックルの連打連打連打!
「天国でしょー? いっちゃえ! いっちゃえ! いっちゃえ! いっちゃえぇー!!」
 噴出す刑事の鼻血が私の股間を真っ赤に染める。アーン、まさに出血大サービス! 段々と静かになっていく刑事。百発やられて一発で勝つ。しみじみと人生だなーと感慨にふけっちゃうね。
「あーあ。こんなに血だらけじゃーさー、やら犯れたんじゃないかって思われちゃうじゃん。もー責任とってー」
 と私は刑事のネクタイを掴んで起こす。でも刑事の目はすでに死んでいた。
「はーあ。やっぱ今年もついてないのかなー。腹立つなー抗議してやろう。慰謝料くらいもらわないと」
 そう言って私が刑事の背広の中を探ろうとした時、急に笑点のテーマが駐車場のコンクリの壁の中を反射しながら鳴り響く。何? と思って耳をすますと、どうやら音は私の投げ捨てられた皮パンから聞こえきているらしい。そうだ、笑点、私の携帯の着信音だ。私は立ち上がると膝下まで下げられたパンツのせいで二人三脚みたいな歩き方になりながらよちよちと皮パンの所まで行って後ろポケットに入った携帯を取り出す。なんと電話は雪樹から。正直携帯を叩きつけてやりたい気持ちになったけど電話に出る。
「勝たれましたな」
 雪樹の第一声。
「お前、出て来い! 見てやがっただろ! 殺す」
 私、超憤慨。
「いやさ、お前もホントバカだね。普通気づかない? ケツにボールペン入れられてたらさー。見てみ? 皮パンの中」
「は? ボールペン?」
 湯立つ頭を抑えて私は皮パンの中を探る。するとたしかに雪樹が持っていたボールペンが淵に掛かっていた。
「あれ? このボールペン? お前たしか抜いてその後も手で回してたじゃん? ってそんなことどーでも良いの! 何だよ! この変態は! お前知っててやっただろ! どこに隠れてんだよ!!」
 私は当然荒れ狂う。
「ばーかボールペンなんか何本もあるもーん。ばーか。そいでそのボールペンのキャップはずしてみ? はずれないから。はずれたら何もあげない」
(あークソもうムカつくー。どないせーちゅうねん)
 と力いっぱい私はボールペンのキャップを引っ張った。けどなかなかはずれない。やばい。かなり弱ってるかもと私は自分の体が心配になった。段々とアドレナリンも切れてきて痛みが体中を襲う。
「あのさー神嶽の地下街があるじゃん? そこのビデオ屋で裏がけっこう出回ってるって聞いたからお仕置きに行ったのね? そうしたらそこ、携帯の形とか腕時計型とかまねき猫型とか色んな盗聴器置いてんのよー面白くって全部譲ってもらっちゃった。どう? お気に入りなんだけど良くない? そのペン型」
(豚玉の店かぁー!)
 と私、ペンを壁めがけて投げつける。
「有限実行じゃん? 喜多の奴勃起させたんでしょ? 良い餌じゃん! オーバーオール用かと思っちゃってたりしてた? もしかして?」
 という雪樹の言葉に私はしっくりくっきりと明確に殺意を感じる。今目の前で倒れている刑事に対してより激しく。頭の中が真っ白になっていく。いや、真っ黒に。
「ほら、その喜多って奴さー少年課にいる時から有名なレイプマンだったのぉー。家出してるガキってさぁー家に連絡されるのを死ぬほど嫌がるでしょ? そこ狙って相談に乗るって感じで自分が喰ったり、お風呂に沈めたり、やりたいほうだい。無駄に頭だけは良いからなかなか証拠残さないし、被害受けた女の子は絶対、家に連絡なんてされたくないから被害届は出してこないし。それにまあ、表沙汰になんないなら、それにこしたことはないって空気ももちろんあって、今までどこの課でも持て余してたの。で、私が引き取ったのよん。ひひひひ、やったね。こんなに上手くいっちゃうなんて良い年だわ今年。今からそっち行くから喜多、ちゃんと見張ってるのよ。現行犯って形でいくんだから。まあそれだけじゃたいした罪にもなんないけど」
 携帯で雪樹の声を聞きながら私は足に引っかかったパンツを脱ぎ捨てて、刑事のそばに寄った。
「きゃーいやーやめてーやめてよぉーおじさーん! 痛いよう!」
 と当然録音されていて後で編集されるであろうペン型の盗聴器に向かって語りかける私。やっぱかわいい声は入れとかないとね。
(あーもう何の液かわかんない)
 汗 刑事の血、唾液、私の……? と指で自分のあそこに触れ、この不思議な混合液の成分を考察したりする私。
凍てつく夜の空気に下半身を固められているのにも関わらず、股から頭にかけて体の中心が一本のとても熱い熱線のようなものにブチ抜かれてしまったように感じる。おまけに脳腺も一本ブチ切れているみたい。
「うわっうわっうわっあああ!」
 あんまり憶えていないけど、喜多という刑事の左の眼球にはペンが突き刺さっていた。血がドップリ。私は刑事に突き刺さったペンを可哀想にと引き抜いてやる。これはちゃんと記憶にある。
 眼を抑え、打ち上げられたばかりの魚みたいにビチビチ暴れ回る刑事。私と同じ見えなくなった左眼。おそろい。
「あっガキ?」
 もう刑事のことなんてどうでも良かった。私はペンを投げ捨てるとパンツを拾ってアソコを拭き、目を抑えて痙攣しながらうずくまる男のずぼんのポケットにそのパンツを仕込み、その後、刑事に投げ捨てられた皮パンを拾い穿いて、ガキを放り投げたはずの空き地へと走った。私に「もうほっといて!」ってくらいの寒さと肩や背中の激痛が襲う。マジで倒れることができるのなら、どんなに楽か分かんない。でも倒れないこの体。ああ、早く人間になりたーい! って人間だっつーの。ちょっと健康過ぎるだけ。
 踏み切りの音が聞こえる。電車が通過し始める。するとその前に人影があった。その人影は別に歩いているわけでもなく、ただ踏み切りの真正面に立っていた。私は警戒する力も残っていなくてただ漠然とその影に近づく。
 影はガキを抱いていた。
「あー良かったねーお姉ちゃん帰って来たぁー」
「雪樹と同じか。お前も遠くで見て楽しんでたわけ? それとも何? お前もつまんねーことに一口噛んでるってわけ? まあ、わたくし超健康優良児ですから別に平気なんですけれども。永久機関でも積んでたりして? 子宮の中に」声が上手く出せなかった。お腹が痛い。どうせ倒れても、そのまま放置されて、朝になって、冷たくなっているだけ。風鈴のそば以外で私を起こしてくれる所なんてどこにも存在しない。だから立っていないといけないんだけどね。なんとなくでも。永久機関なんてなくたって。
「はーい。大きいお姉ちゃんから小さいおねいちゃんへ贈呈ですぅー」
 と冬実は抱いているガキを私に差し出す。
「逆だろうが。お前の方が小さいじゃん」
 ガキが鉄の塊みたいに重く感じて、ふんばった足がアスファルトにめりこみそう。パワーの残量が残り少ないのを感じる。
「さー帰ろう、とっとと帰ろう。そさくさ帰ろう! シチューが待ってるわけでもないのだけれどぉー」
 手をパンパンと叩きながら冬実は言う。
「ああ帰れバカ。消えろ」
「消えよう消えよう。もう真樹ちゃんがお姉ちゃんだからねー冬実お姉ちゃんは引退です」
「お前は産まれた時から引退だろ。大事にしたくない天然記念物みたい。トキだトキ。早く死んで欲しいトキ」
 踏み切りが上がる。冷たい風が冬実と私の横をレールを敷いていくように伸びていく。
「もうすぐだねー真樹ちゃん。もうすぐブウァと弾けて混じっちゃう。ね? だから行ってらっしゃい」
 冬実はギャルソンがお客を席へ招待しようとするみたいにお辞儀をして片手を広げた。なんか変な感じがした。妙に冬実の顔が懐かしい。いつもゴキブリみたいに沸いてくる顔なのに。
「へいへい。どうもどうも」
 と高く上がりきった踏み切りを私は渡る。隆行さんの閉めたままの診療所が見えてくる。私の家。そういえば最近見てねーなあのひと男。前は一週間に一度くらいは顔を合わせていたのに今では月に一度ペース。三年目の夫婦ペースだ。深い意味じゃなく。
「私も最近よくブラブラしてるから今一番家にいるのって、お前の母親だね。ワリにあわねー話。お前もでかくなったら新聞配達からやらすからなー。そんで親子共々私に貢げ? じゃないと親子丼にして東南アジアに売り飛ばすぞ?」
 と診療所の外階段を上がって二階のドアに向かう途中でガキがムズがるというか、泣いているわけでもないのに手足をバタつかせたりして暴れ始めた。
「うるさいー。もう落とすぞバカガキ!」
 ガキを片手でちょっと強めに抱き上げながら家のドアを開ける。カギが閉まっていたら桜子を絞めてやろうと思いながら。
「桜子」
 ――ガキが桜子を見て手を伸ばす。とても元気だ。リビングには近所のいくら大きな声を出しても奥から出てこないうどん屋さんの看板が掛かっている古道具屋の爺さんから買った3800円のテレビが点けっぱなしになっている。キッチンで料理をしながら音だけ聞いていたのだろう、音量がでかい。まったく近所迷惑だ。私はいつものように玄関のすぐ横にある冷蔵庫に手をかけたまま靴を脱ぎ、流し台の前で膝をつく桜子の髪を掴み後ろに引っ張り倒し、仰向けに寝かす。乱暴だけれどしかたがない。ガキで手が塞がっているし。
床へ仰向けになった桜子の胸の辺りにガキを置く。さんざん行きたがっていたのでガキは嬉しそうに手でぱんぱんと桜子の胸を叩いている。体が久しぶりに軽くなった感じ。どうもガキを抱いていると物理的に手が不自由ってことより精神的に不自由だ。一歩歩いて十歩疲れるって感じ。私に愛情がないっていう証拠なのかも。やっぱ桜子は母親だから精神的な不自由さってのは私に比べれば少ないのかも。よくガキ抱くの好きだって歯抜けの顔で笑っていたから。
「笑え。ガキ抱いてんじゃん」
 私は桜子の手を取ってガキの上に重ねる。目も手をかざして閉じてやる。TVの二時間サスペンスみたい。あっでも勝手に動かしちゃったから後で雪樹に怒られるかも。
「何これ? いくら私が二日目のやつ好きだってこれ煮込みすぎ」
 と私は電気コンロのスイッチを切り、キッチンの窓を開ける。何しろ部屋中煙で真っ白なのだ。さっきまでカタカタとさかんに踊っていた鍋蓋は熱くて持てそうにないから手で払い除け、流し台の中へと弾き落とす。
「見てみろ。火力の弱いタイプで良かったじゃん? 火事にならなかったでしょ?」
家のコンロは電熱線式の古いコンロ。元々コーヒーとカップ麺のためにお湯を沸かすだけの物。桜子は火力が弱いと文句を言って私に引越し記念一発目の鼻骨折りを食らった。鍋の中には二日目、じっくりコトコトを通りこした黒いコールタールみたいなカレー。
 今この状態の桜子に対し、話しかけるっていう行為がバカバカしいとは思いつつも私はやめれなかった。マンネリが見たら笑うと思う。「真樹ちゃんがマンネリやん」って。
「ミュージカルだったらお前の頭抱いていきなり歌い出すとこかな? こういうシチュエーション。吉本新喜劇だったら、その抱いたお前の頭落っことして、ゴンッ! ってなってお前は目覚めるかな? TVにミュージカルのCMが映ると秒速連打で他のチャンネルのボタンプッシュプッシュだってのは、唯一意気投合って感じだったけど、案外ミュージカルも間違ってねーな。頭の中ぐるぐるに狂っちまって踊りながら歌うしかない心境なんじゃない? まあ私はいたって正常だからそんなことしないけどね」
 とまるでハンドブレーキが生えてしまったように桜子の首から飛び出たエメラルドグリーンの柄を私は指で弾いた。ニ、三度。その度にナイフの銀が見えなくなるほどに深く突き刺さった傷口から赤黒い泉が湧き出て、きめの荒い泡が立つ。桜子の首に網目状の真っ赤な血水路ができあがっていた。
気が付けばガキが桜子の胸から顔の辺りにまで這って行っていた。ガキは桜子の頬をパチパチと叩く。ガキの手も服も桜子の血で汚れていて叩かれた桜子の頬にはガキのつけた血のスタンプがいっぱい小さな紅葉みたいに押されていた。「親の体でウォークラリー? でもスタンプはもうやめて」
 と私はガキを抱いて桜子から放す。
「うん。そう。だからこっちこい。あっ、言っとけど私はや殺ってないから。そこんとこよろしくー」
 雪樹へ連絡をする。さすがに雪樹は驚いていた。ガキが私の髪を盛んに引っ張る。なんかいつも以上に力が入っているみたい。
「悪いね。私に怒って欲しい? それとも泣き入れて欲しい?  でもそんなことしたらお前を床に落としちゃうじゃん。無理無理。だから、な? そんなに引っ張るな」
 聞き分けの悪いガキ。まだ引っ張っている。
「痛いってば」
 膝が急に折れたかと思ったら私はその場に座り込むように倒れてしまっていた。天井と床が大回転を始める。意識を強くと思ってガキをおもいっきり抱き絞める私。だけど私のエンジンも限界みたいで、ただひたすらガキの泣き声だけが耳の奥に鳴り響いていた。

<11>
 もうすぐお昼っていう時間帯に私は飲むゼリーを飲みながら小学校の前を歩いている。これは小四? いや小五だなこれは。だってランドセルを背負ってない。小五の頃は私もまだランドセルで登校していた。この時くらいから体が大きくなり始めてランドセルなんて背負ってる場合じゃないって体になってたっけ。
学校に通っているといっても月に十日ほど行けば良い方だった。この日は一ヶ月ぶりだったかな? 校庭の中を通って校舎に向かう途中、校庭で体操服を着た光彦に会う。まだこの頃は光彦も元気だった。でも三学期の終わりの方になるとよく吐き気とか頭痛がすると言って早退してたな。
「おっす負け犬。体育があるからさぼったろ?」
 と光彦は手に持ったソフトボールの玉を地面に何度となくバウンドさせた。
「そんなに私の体操服好き? なら、愛用スパッツあげようか?」
「いいから早く着替えてきたほうがいいぞ。今の担任きついから」
 と光彦は笑っている。
「担任?」
「そう。前の奴、なんか知らないけど辞めちゃった。まあ給食の間じゅう俺らにずーと「ああ辞めたい」とか「ウゼー」とか言ってたから驚かなかったけど。で、今度の奴男なんだけどかなり感じ悪い」
「そうなんだ? 手とか足とか飛んでくるタイプ?」
 と一気に私は飲むゼリーを飲みほす。パックがしわくちゃに縮む。
「さあ? そんな感じはないけど。真治とか和美とかいつも走り回ってる奴らが急に大人しくなった。担任に注意されてから」
 と光彦は自分のお尻を叩く。砂がぱらぱらと落ちていく。
「マジで? だってあいつら注意されるとますます走り回るタイプじゃん? 影で腹にでもワンパン入れられたのかね? その担任に」
「そう思うっしょ? 俺も体育の時間とか着替える瞬間、真治の方何となく見てたら……」
 こそって私の耳元にやってきて光彦は言う。
「アザでもあったの?」
「背中とか腹とかに。でも証拠になんない」
「どうして?」
「あいつ親からもやられてんじゃん? だから担任からなのか親からなのか分かんない」
 光彦は沈んだ表情で溜息をつく。どうしようもないことなのに同情好きな奴。でもそういうとこ嫌いじゃない。
「でも和美は親からやられてたわけじゃないんじゃない? ほら、あの、白髪で七三に分けた新しいお父さん。運動会に来てた。仲良さそうだったじゃん?」
「うん。でもあいつ新しいお父さんが来てから変わった。あんまり笑わなくなったし、一緒に帰ってたら、男の人が前から歩いて来るだけでいちいち俺の後ろに隠れてびくびくするんだ。涙目で。大きな声出されるのもダメみたい。二組の相沢先生が和美を廊下で呼んだんだ。そうしたらあいつ先生のバカでかい声聞いたとたん、座りこんじゃってそのまま動けなくなっちゃった」
 と光彦はさっきの真治の時よりもっと深刻な顔をした。すぐ顔に出る奴。ラブ・和美ってことね。
「相沢か。たしかにあいつ声でかいな。私も後ろから呼ばれたら漏らすかも。立ったまま」
「うわっ汚ったねー。お前のそういうとこが嫌なんだよ」
 と光彦は私を追い払うように手を振った。
「いやー嫌いにならないでー光彦ー」
 そう笑いながら私は上履きに履き替え校舎の中へ入った。
「あれ? 何でついて来る? そんなに私の生着替え見たいわけ? 変態。金よこせ」
 と光彦がついてきたので私はヘッドロックをかけようとした。
「うわータチ悪いー。真樹、絶対腹黒いって」
 と光彦は私の手から逃れると足早で階段を上がった。私はそれを追いかけ、競争になる。光彦は階段を一段飛ばしで上がる。私は光彦を追い越さないように普通に上がる。光彦の負けず嫌いは筋金入りだから。どんなバカなことでも負けると後がしつこい。
「なんか静か。他の教室は?」
 そう私は聞いた。二人は同時のタイミングで三組の前に到着。
「今日は自由学習の日じゃん。覚えてないの? 第三火曜日」
 と光彦は教室のドアに鍵を入れ回す。さすが学級委員。私は「ああ、そうそう」と適当に相槌を打った。光彦がニヤっと笑ってこっちを見る。タチが悪い笑い方で。でもこいつがやると許せちゃう。
「他のクラスとか学年はだいたい外に行ってる。二組は勝ヶ山公園で写生大会だって。うちだけ学校でソフト。しかも担任、どっか行っちゃってるし」
「何それ? 担任、やる気あんのかないのか分かんねーじゃん?」
と私が言うと教室のドアを引きながら光彦は顔だけこっちに向けたまま肯いていた。苦笑いで。
 ――自分の記憶を見ているというより、光彦の記憶を覗いている。そんな気がした。たぶん今私は意識がないのだと思う。だから光彦と同じ。もしかしたら今光彦がいる世界と繋がっちゃってるのかもしれない。眠りの底に落ちたままの奴らがたどり着く世界。いいな。ずっとここで遊ぶのも。
 ……でもぉー、私は起きる。たとえ苦痛が目覚ましでも。
「痛たたたたたたた。バカヤロウ!」
 と私は腹筋だけで起き上がった。目の前がボヤけていた。頭が締め付けられる感じがする。しばらく眼のボヤが取れるまでじっと待ってみることにした。
「修復済み?」
 じっと待ってみても視界がはっきりしてこないので眼を触ってみたら左眼に眼帯。どうやら頭には包帯が巻かれているみたい。肩にも。左手にはギブス。裸で眼帯、ギブス、包帯巻き巻きの私。おもいっきりマニア受けしそう。自分で写真取ってネットで売りたい気分。もちろんポーズはおきまりの目と股間を手で隠しているタイプのやつ。
「よく寝られて良かったな真樹」
 キュインと甲高い金属が擦れる音がするのと同時の声。よく見えないので顔ははっきりしなかったけど、私は声だけで誰なのかすぐに分かったので、太ももの上にかけられた薄いブルーのシーツを胸元まで引っ張り上げ、体をひねって「いやー見ないでー」と言った。
「タイミングが遅い。なまったな」
 隆行さんは立ち上がると両手で私の顔を挟むように軽く叩き、その両手で頬を暖めるようにして、「かなり熱くなってきた」と一人、肯いた。
「あれ? 一階じゃんここ?」
 開いている方の眼から少しずつボヤが取れ始め、鼻の方も敏感になってきて、部屋に漂う独特な病院の臭いってものに過剰なくらいに反応する。病院の臭いって嗅ぐと体が一瞬ぎゅっと縮こまるから不思議。私が寝ている所は茶色いカバーの診察台の上だった。指でなぞってみるけどホコリはつかない。
「意地悪いお姑さんみたいなことするね、お前。急いで掃除したからこの部屋だけだ。綺麗なのは」
 と隆行さんは煙草を咥え椅子に座ると、私に背を向け机に向かった。椅子はかなり古いみたい。回るたびにいちいち鳴いている。キュインキュイン。思わず殴りたくなるような子犬の鳴き声みたい。他の物にしてもかなり古そう。電子レンジみたいな物がある。たぶんレンジとかじゃなく、器具を消毒したりするのに使うような物なんだろうけど。背の低い冷蔵庫もある。天井も昔は白かったのだろう、でも今はどっちかというと灰色に見える。すす汚れているって感じ。隆行さんの座った場所の真上には棚があって、でっかいマッチ箱とか、とにかく大小色んな大きさの箱が並んでいた。けど、どれも白っぽい。ホコリをかぶったままなんだと思う。綺麗な所と汚いままの所。ホント、急いで綺麗にしたって感じ。
「でかいライト。これも古い?」
 と私は診察台の真横から生えているでっかいUFOみたいなライトに触る。カバーがかけられたままで、眼の何個もある妖怪がレインコートを着たみたいに見える。
「その無用なデカさを見れば分かるだろ?」
「ねえ? もしかしてまた病院(みせ)、開けるの?」
 と下を指差す私。
「開けない」
「じゃあ私を治療するのにわざわざここ綺麗にしたの? ふーん私のダメージ、そんなにひどかったんだ?」
 と私は自分の体をまじまじと見る。
「頭部の打撲と鎖骨にひびが一ヵ所。あと左手の甲にも一つ。左手のギブスは好きな時にはずせ。そんなもん、だいたいテーピングだけで良かったんだ」
「じゃあテープだけにすれば良かったじゃん。なに? もしかしてやってみたかったんじゃないの? 久しぶりのお医者さんごっこ」
「そう。やってみたかった」
 と隆行さんは私に背を向けたまま言った。
 私が雪樹に連れられてこの家に来た時はまだ隆行さんはお医者さんをやっていたけど、私、この診療所がある一階にはほとんど入ったことがなかった。仕事の邪魔になるって雪樹にも言われてたし。でも雪樹自身、一階にはほとんど降りたことがなかったみたい。そのうちに隆行さんはここを閉め、雪樹も出て行った。
「なんか顔、腫れてなかった? 酒飲んだ?」
 そう隆行さんの背中に聞いてみた。でも隆行さんはじっと何も言わず、しばらく考え込むみたいな感じで背中を丸くしていた。
「そうだ。酒だ酒」
「酔っ払いながら娘を診察したの? 信じられなーい。なんかあったら責任取ってくれるのん?」
「ずっと責任取ってきただろうが。昨日も今日も」
「じゃあ明日は責任取ってくれないの?」
 と私は診察台から降りようとすると、
「寝てろ。迎えも来るし」と隆行さんは言った。
「お迎え? 何それ?」
「戻る気か? 死体が転がってた部屋なんかに?」
 この隆行さんの言葉は、久しぶりに隆行さんと会ってハイテンションになっていた私の頭を強大なトンカチでブッ潰し、一気に冷却化した。そうだ、桜子は死んだんだった。すっかり忘れていた自分自身に驚いてしまう。すげえぜ自分。
「あっ! それよりガキは? ガキ! あいつは?」
「雪樹ちゃんが見てるよ。お前の着替えとか今、上でバックにつめてもらってる」
 テンポの早いせまってくるような隆行さんの言葉と展開に、私は目を見開いたまま動けずにいた。
「そうか! 一階を掃除してるってことはここに住むんでしょ? 手伝ってあげる!」
 やっと出た言葉がこれだ。情けなくて笑えてくる。
「お前ももう、ここらへんでいいだろう?」
 と振り返った隆行さんの顔に私は固まってしまう。今まで見たことのないような怖い顔。ず、ずるい。こんな怖い顔今まで隠していたなんて。本気で引いた。
「じ、じゃあ私は明日からどこに行きますのん? 泡風呂経由のバスに乗せられるのでしゅか? それとも中国の夜店で8000元くらいで売りにだされるのです? いやー捨てないでー何でもするから動くから。マグロはやめるからぁー」
 と私は隆行さんに両手を差し出した。でも隆行さんは無言。いつもならここでツッコミが入るのに。どうやらマジらしい。もう冗談も言えなくなってしまって私は無言で下を向くしかなかった。どうにも身動きが取れないし、なぜだか震えみたいなものがくる。
「私はどこに行くんだろうね?」
 ギブスをされた左手の甲を掴んだまま震えを抑えるのに必死で下唇を噛みながらようやく搾り出すように言った私の一言。こんな絶対零度な寒い気持ちは初めて。チラっと顔を上げて見ても、隆行さんはまた私に背を向けてずっとただ机に向かい、何かを書いているだけ。
「終わったー?」
 と部屋のドアが開いて雪樹が入ってきた。おいおい、マジか?
「バッカじゃねーの! お前、頭腐ってるだろっ! あー? このクソのとこで何しろって言うわけ?! 冗談!」
 隆行さんにこんな口叩いたのはたぶん初めて。自分で自分の首を締めちゃってる。
「見てみ? 隆行。だから無理だって言ったじゃん。この女が私と一緒に来るわけないでしょ。ねえ? ホント、隆行いいからさ、施設でも探して入れるわこの子。日本中探せばこんな子でも受け入れてくれるとこあるわよきっと」
 と言った雪樹に私が今にも飛びかかろうとした瞬間だった。心臓が飛び出すというよりもまるで内臓全部が掴み潰されてしまうような重い音を響かせて机を叩いた隆行さん。時間を止めるスイッチ、神様が管理している絶対に押しては行けないボタンを押してしまったような静寂が私と雪樹を包む。
「雪樹ちゃん、連れて行けよ。真樹を」
 そう隆行さんが言うと、雪樹は持っていたショルダーバッグを私の足元に投げつけ、ドアを壊しそうな勢いで閉めた。私は魂を抜かれたみたいにただボーとそのバッグをみつめ、やがてとぼとぼと中身を探りだし、袖なしの白いニットとピーコート、青いプリーツスカートを出して着た。
「紹介状が入ってる。痛みが続くようだったら中に書いある病院に行け。あと小遣い」
 隆行さんが白い封筒を差し出す。
「手切れ金みたい」
 と私は封筒を口に咥え、受け取る。隆行さんはまた椅子の向きを変え後ろを向く。私はカバンを持つと、大きな足音を立てながらドアまで行き、古くてよく閉まらず半開きになったままのドアをわざと大きい音が立つように蹴り開ける。なんかこう、自分に勢いが欲しかったから三十%、隆行さんの気を引こうとした七十%。ガキだ、私。
「あのさ、私の、あの、頭の中で考えてることとか喋り方とか好きなものとかさ、あれなんだよね、あーその、隆行さんが基本だからさ。全部隅々まで余すことなくね。ってだから何だよ?! ってね。ははは」
 何か言わなくっちゃと思って言った独り言。お寒い一人ツッコミでも入れなくちゃ言えやしなかった。
 私はドアを閉め、自分の左手をキツく掴んだ。色んな場所がたまらなく痛い。同時に頭の中でノート端に書かれた、パラパラ漫画のページみたいな物がめくられ始める。何だか、私の記憶っていつも痛みで呼び起こされている気がする。そんなに私って忘れっぽいのか? この歳でアルツハイマーなんじゃないかって真剣に悩もうかな? 今日から。
「どうせやるなら全部掃除しろよ。A型のくせにね」
 と診察室を出てすぐ目の前にある待合室の椅子にかぶったホコリを掃い、座る。私も何度かこの診療所の待合室にお患者(きゃく)さんとして来たことがある。診療所の入り口からずっと突き当たりのトイレまで続く細長い廊下に同じくらい細長い椅子が数珠繋ぎで横一列に並んだウチの待合室。どこか薄暗くて子供の泣き声がやたらと多かった気がする。緑の木枠の窓には黄色いフィルムが貼ってあって、お猿さんとかチューリップのシールもべたべたと貼ってあった。受付けの窓口には太ったお婆さんの看護婦がいて、名簿にかかれた順番通り、名前と一緒に窓口にある黄色いベルをげんこつで叩いてお患者(きゃく)さんを呼ぶ。たしか初めてここに来たのは一緒に住んでいた小太りの男に投げ飛ばされて壁に叩きつけられた時だ。雪樹は救急車やタクシーを呼ぶ分けでもなく私は自分で歩かされ、この診療所へ連れて来られた。あの時は確か肩を脱臼してたんだ。で、その次は風呂場で頭、抑えられたまま浴槽に突っ込まれてその後、裸のまま外に放り出されて肺炎になった。よく憶えている。あの日は大晦日で小太りの男はソバを食いながら紅白を見ていた。お腹があまりにも空き過ぎた私は、男がトイレに行っているうちにつまみ食いをして、それが男にばれたんだっけ。ホントかどうかは知らないけど、雪樹は暴走族の初日の出暴走の取り締まりに出ていて家にはいなかった。でも最初で最後だろうけどあの時初めて、アパートに帰ってきた雪樹の胸に抱かれて隆行さんの所に行った。前、診療所に行った時には聞こえていた老人達の愚痴や子供の泣き声もいっさいなく静まり返っていた待合室。雪樹は別に慌てた様子もなく抱いた私の顔を無表情で見下ろして何かぽつぽつと独り言を言っていた気がする。階段をすごい勢いで下りてくる足音と男の人の怒鳴り声が聞こえ、あっという間に私はもう隆行さんの腕に抱かれていた。それでまたすぐ他の病院に運ばれて入院し、肺炎が治ると退院。家に帰った。だけどすぐまた男に左眼を殴られて眼下底骨折。そのまま隆行さんの所に預けられてやがて雪樹も来て三人の生活が始まった。
 隆行さんはいくら雪樹が横で私の状態を説明しても私自身がどこが痛いとかどういう気分かとか喋り出さないと決して治療しなかった。私が喋り出すまで何時間も待って私とにらめっこした。途中で雪樹が仕事場に戻っても、太ったおばあさんの看護婦に「後ろがつかえてる」と怒られても。もちろん私にある程度の意識がある時と怪我の具合にもよったけど、結局、小太りの男しか男ってものを知らなかった私には「この人は私を痛くしない男」くらいの感情しかなかった。でもそれは今も変わらないのかも知れない。ホント、今まで考えもしなかったことだけどわけ分かんない。私とあの人。
「どうしてここに来て、なんで出て行くの?」
 自分に言ったのか誰に言ったのか誰にも分かんない奇声を上げ、診療所の扉を蹴り開ける。外の光りなど差し込んではこない。受験シーズンに受験者のみなさんを祝福しているかのような真冬のどんより曇り空。出がらしの茶っ葉で入れたお茶みたいな、ほとんどただのお湯じゃん? って感じの淡く味気ない空気に包まれた家の前の狭い路地。なんて無価値。どうでもいい物ばかりなんだろうってそこらじゅうに唾じゃなくてからみつくようなタンを吐き付けてやりたい気分。そんで体中にペナルティってステッカー貼られたまま富士山に一人で一輪車で暴走気味に初日の出登頂したい。茄子は? 鷹は? バカみたい。ああ、下着付けるの忘れた。下も上も心の中もスースーする。あーやだ。
「なにぐだぐだやってるの? 行くわよ」
 とガキを抱き、こっちを睨む雪樹が立っていた。何か小さな声でガキに喋りかけている。私の時と同じ。どうせろくなこと言ってないんだろうけど。
「ガキ貸せ。お前に抱かれると性格悪くなる」
 と私が手を差し出すと雪樹は、
「嫌よ。寒いじゃない」と体をひねって私に背を向け、歩き出した。
真夏でも膝掛けを欠かさない極度の冷え性女の屁理屈。
「お前、私抱いて診療所に行ったことあったじゃん? 昔、元旦に」
「元旦? 何それ? 年越しそばの話? おせち?」
 そう雪樹は瞬きをする。
「別に。もういい」
 無駄だと思い、雪樹から顔を背ける私。全部、何もかも全てから背きたい気分だった。


 4LDK、十五階建ての最上階、リバーサイドだけど川はドブ級。最寄の中学校まで歩いて七分、でも歩きたくないし行かないし。バス停まではたった二分。だけれど乗らないし。
 雪樹と一緒に住むことになって感じたことは一人にしては広すぎる所に住んでるなーということくらいだった。私という人間が一人とおまけにガキも一匹増えたというのにやっぱり広すぎると住んで一ヶ月が経とうとしている現在(いま)、毎朝、起きてベランダからリビングの方を振り返る度に必ず思ってしまう。
 私の体は自分で考えていたよりダメージがひどかったらしく雪樹の所に来てすぐは歩くたびに体中がきしんで痛くてしょうがなかった。最近はかなり自由に体を動かせるようになってきたけど、左手の指の曲げ伸ばしがどうも遅いっていうか意識より遅れる感じが治らない。だけど隆行さんがくれた病院の紹介状を開ける気もないっていうか開けたくなかったし、左手は殴る時に使う手なので始めから握ったままにしておけばいい。字は右手だし、箸は元々どちらでも使えたので関係なし。左眼と同じで左の手の後遺症も自分の年表っていうか真樹ちゃん史の記録みたいなもんだと勝手に思い込むってことにしてしまった。今以上にガラクタ根性みたいなものもつくだろうしね。
「窓閉めて。寒い」
 とリビングの雪樹はソファに前屈み気味に座りながら水割りを中指でかき混ぜている。最近私はパンツ一枚で部屋をうろつくことをやめた。なぜなら同じようにトースト咥えたままとかジュース飲みながらとかパンツ一枚で歩き回っている女が目の前にいたりするから。
「パンツだけだから寒いんだよ。風邪引いてしまえ。それで死ね」
「アンタだって上にTシャツ一枚着てるだけじゃない。何様?」雪樹は指についた水割りの雫を舐めた。広いリビングには中央にぽつんとクリーム色のソファーが一つあるだけ。あとは雪樹の寝室の入り口の隣にグラスが二、三個といつも雪樹が飲んでいる千円を切るかどうかっていうくらいの安いウイスキーが入った黒いサイドボードがある。テーブルさえ置いていない。
 私がキッチンの方へ歩いて行くと雪樹が「アンタ、流し台のあれ、片付けなさい。邪魔だし汚い」と言った。
「あれって?」
「あれよ。哺乳瓶。洗うならさっさと洗えば?」
「あれは液に浸けておいて消毒してんの」
 と私は冷蔵庫の前にしゃがみ込んで中からチーズを出し、シールと銀紙を剥して中身に前歯だけで噛み付く。
 私はただ桜子が買い込んであった育児セットみたいな物を箱の説明通りに使っているだけだった。あとは少し本屋で『お母さんと一緒』みたいな感じの本を立ち読みした。『性病対策百の方法』とか『超体位読本』とかの間にあるのは何でだって思いながら周りの人影を過剰に気にしつつ、結構粘って読み、インパクトのある読書だったせいか内容は結構覚えてしまった。丸暗記だけれども。
「消毒って熱湯じゃないの?」
 死んだような眠たそうな目で雪樹は言った。
「お前の時代はそうかもね。だって平賀源内が電気見せびらかせてたような時代だもんね」
「つっこまない。私はつっこまない」
 と雪樹は眉間を手で抑えて頭を横に振る。
「お前もやったことくらいあるんじゃないの? 赤ちゃんにミルクくらい」
 赤ちゃんイコール私なのだろうけど雪樹が私にミルクをやっている姿なんて想像できなかった。
「さあ? 憶えてないね。アンタの父親が好きでやってたから。アンタのことは」
 と雪樹はぼりぼり凍りを噛み砕く。
「やっぱお前に種つけた男ってあの小太りの奴だったわけ?」
 と私は聞く。結構前から気になってたことをすんなりと聞けるチャンスだと思った。
「アンタバカ? あいつの顔憶えてないの? あの柏餅を踏み潰した顔。あんな強烈な顔、子供だったら遺伝しないはずないじゃない」
(その強烈な顔面とキスしてたんだろうがお前は)
「アンタが一番知ってる奴よ。つい最近までアンタと一緒に暮らしてて、昔、白衣着てた」
 雪樹の言葉に固まる私。
「おいおい。やばいってそれ。マジで? 確実?」
「何よ真樹、顔色悪いわね」
 雪樹は笑う。
「嘘だね。絶対」
「うん。嘘。良かったねーマ・キ・ちゃん? デンジャラスな関係になっちゃわなくって?」
「何が? どうでもいいから誰なんだよ種付けした奴? まあ私が知らない奴ならどうでもいい話だけど」
「じゃあどうでもいいじゃない。ホントにどうでもいい話なのよ。こんな話」
 手首のスナップを利かせてグラスの底に残った水を私のTシャツの胸の辺りに余すことなくぶっかけた雪樹は落ち着いたまま表情のまま、グラスに氷を落とし始める。
「ふーんよっぽどどうでもいい奴の種なんだ? 私」
 と言って私がリビングを出ようとすると雪樹は、
「男の種は千差万別。桜も咲けばゴミも成る……アンタ外見は上手くいったのにね。中身は最悪だわ。父親に似てゴミね」
「そうか。でもしょーがないじゃん。ダイオキシンが染みわたったような畑にゴミの種じゃね。核廃棄物くらいしか咲かねーし」
 そう私が言うと雪樹は笑みを浮かべたまま鼻先にグラスにつけ、しばらくじっとしたあと、
「アンタを好きなあの風俗嬢は? どうしてる最近?」
 と言った。
「さあ? 最近会ってないし」
 桜子とかオーバーオールのこととか色々重なってずるずると、風鈴とは一ヶ月近くも会ってなかった。前は二日に一回は入り浸っていたのにね。まあ人との繋がりなんてこんな風に風化していくから期間限定の商品みたいに貴重な物なのかもって勘違いして、夢中で手を広げてみたり、ストレス感じてまで並んで手に入れようとするのかも。でも中にはどんな欲しいものでも並んでまで欲しくはないって人もいるか。私みたいに。
「会ってくれば? 慰めてもらいなさいよ。慰めるのが仕事なんだから彼女は」
 とグラスにまた氷を落とす雪樹。まるで男に言っているみたいで面白かった。
「じゃあお前に言われたから会ってくるか。嬉しいだろ? 母親の威厳みたいなの体感できて」
「神嶽に行くんでしょ? だったら途中で店に寄ってから行きなさい」
 そう立ち上がって雪樹は自分の寝室に入り、またすぐに出て来て私に携帯を投げつけた。ヨダレ垂らしたガキの寝顔が待ち受け画面になっているのを見て瞬間で桜子の物だと分かった。
「店? 酒でも買ってこいって? キッチンに立ったことないのにキッチンドランカー。家庭崩壊の図ですな。おー怖!」
「その携帯にやたらとかかってきてる番号があってさ」
 とドアを開けっ放しのまま寝室に戻って雪樹はパンツを脱ぎ始めた。これでもかっていうくらい不規則不機嫌な生活をしてて、万年ストレスとケンカしているような女とは思えないくらいスッキリした体をしているのには腹が立つ。ウエストだけなら雪樹の方が細いかもしれない。お尻も垂れてない。私は着替え始めた雪樹のお尻に向かって「垂れろ垂れろー」と呪いをかける。雪樹の寝室にはベッド以外の物はなくて、ロッカーみたいな物もないしハンガーもない。その代わりにいつも開いたままの黒とシルバーと赤のスーツケースが転がっていて雪樹はその中から下着とか時計とかを取り出し、身に付けている。ケースの色別に中身が分かれているのかと一度着替えているところを後ろからこそっと覗き見したことがあったけど、赤いケースからブラとそれにからまってペンが一緒に出てきたのでアホくさ、と思ってそれ以上は探らなかった。
「どうせ男の着信ばっかでしょ? このぱかぱか」
 桜子の携帯を閉じたり開いたりする私。
「男からはない。産婦人科の病院からと、あと、ふぁみふぁみってお店から電話があったわね」
 と脇の下の肉を手で持ち上げ気味にしながら雪樹は少し前屈みになった。
「ふぁみふぁみ? 何それ? ヘルス? ソープ? デリヘル?」
「そう思ってワクワクしながら番号にかけてみたけど、ただのホームセンターだった。アンタの友達、そこで何か買ってたみたい。商品引き取って欲しいって言われたわ」
 ブラ一枚つけるのにいちいち時間がかかる女だ、雪樹。ホント、イライラする。
「ふーんそう言えばあいつテレビから始まって色々買ってたからなー。ヘルスとデリヘルで結構稼いでたみたいだし」
「あの子やっぱり家出だったみたいね。一応届け出がされてたみたいだし。えーとそれで……何だっけ、あー、あ。そうだ、親はもう離婚してて父親は二年前まで徳心館って塾で経理やってたらしいけど今はやめててどこにいるか分からなかったわ。母親はイタリアに移り住んでて現地のアイスクリーム屋さんとジュラートな関係になって幸せにやってるっていうから、娘さんが死にましたよってわざわざ国際電話してやったのに「私は幸せですから!」って変な逆切れされちゃって電話切っちゃった。孫のこととか教えてあげようと思ったのに」
「じゃあガキはどうするわけ? やっぱ施設?」
「それはアンタが考えなさい。アンタが決めるのよ。まだ自分のこと考えられない奴の生き方は結局回りの人の企みとか同情とか何気に、とかそんな色んな思考がとてもシステム的な作業で組み立てられて決まってく。そのあとでだんだんと自然に自分にあった川で泳ぐようになるか、決まった型だけだけど、餌の取り方から泳ぎ方まで教えてくれる水槽に残るか。川で泳ぐ奴らには関係ないけど、水槽で一生終える奴らにとっては重要になるわよね。初期のシステム設計ってものは」
「それって単純に何から何まで全て親任せで生きた場合の極端な話じゃん? 親のシステム設計の良し悪しでラッキーとかアンラッキーとかのライフサイクルになっちゃうなんてぇー?」 
 と私は毛先をくるくる回す。
「でも結局そうなる。歩いてる時の視界の高さが止まって変わらなくなった時に分かるのよ。自分に与えられた水槽の限界みたいなものを」
「うるさーいこのバカッケツめ!。回りくどく色々言ったって、お前が施設に入れるって言えばそれで終わりじゃん。他にどんな膨らまし方があんだよ! 黄色いガーターなんか付けやがってぇーお前はブラジルか? サッカーか? カナリア軍団か!」
 と雪樹の装着されたばっかりのガーターベルトを引っ張る私。
「だからアンタが考えろって言ってるじゃない。私があの赤ちゃん施設に入れようとするならアンタがどうにかすればいいじゃない。私を阻止すればいいじゃん?」
「いや別に阻止しないから。お好きにどうぞ」
 私がそう手を差し出すと雪樹は、
「もういい。消えて。イライラする」
 と言った。この態度は昔から変わらない。自分の中で勝手に話を終えてしまって後はサヨナラ。「もういい」「消えて」「触らないで」
普通、こんな女だけにはなりたくないって思うところだけど、楽で簡単そうなので私はなってみたい女の一つだなって思う。まあ、でもやっぱ、嫌だね。理屈じゃなく生理的に。


 ガキを抱いてふぁみふぁみっていう店に行ってみた。どこまでが駐車場でどっからが店なのか迷ってしまうくらいバカ広かった。当然いつの間にこんな物できたわけ? って思ったけど、こんな物はいつの間にかできてしまう物なんだろうなと深く考えるのはやめた。  
店の中もバカ広いし、日曜だから人も多くって店員も見つけられず、どこがなんなんだって感じだったけど、ちょうど観葉植物の鉢がいっぱい並んであるコーナーをダラダラと歩いている時、私の足元に倒れてしまっている鉢植えがあった。それを私がおもいっきり蹴っ飛ばしてしまった形になって、しかも結構良い音を立ててしまい、赤と黄色のシマシマのブルゾンを着た店員みたいな奴が走り寄ってきたので私はちょうど良かったーと思って、
「あのー、ベビー用品ってどこにあるの? っていうか商品予約してあるらしいんだけれどもぉー?」
 と言ったら、
「ちょっと今何したの? 鉢、鉢植え!」
 と言って私の足元を指差した。どうも私が倒したことにしたいらしい。まあいいやと思って私は、
「ごめーん。すぐ戻すからちょっと預かっててくれる?」
 とガキを店員に差し出した。
「い、嫌ですよ。何で僕が?」
 と店員がほざく。
「だって手が塞がって戻せないでしょ? だいたい私が倒したわけじゃないのだから?」
「あのね? あそこに警備の人もいるんだからね? さあ早く鉢植え戻して。弁償もしてもらうよ?」
 私は穏やかにいこうと思っていたけど店員の『弁償』という余計な言葉に長所である金に汚いというツボが刺激されて、無言で無理やり店員にガキを抱かせると、
「なんだ? ドミノでもやって欲しいの? それードン! ドン! ドーン!!」
 と買っても困るだろ? ってくらい背の高い観葉植物の群れを片っ端から蹴り倒して回った。そんで青ざめる店員をよそに警備員が自分から駆け寄ってくるより前に「警備員さーん」と手招きして、店員に向かって「子供が子供が、返してくれないのーあの人。なんかこの植物倒しちゃうし、怖いよー」と言った。周りがとたんに騒がしくなって、他の店員も駆けつけてきて、なんだかかなり賑やかになってきて、最後は桜子が注文していた商品のおかげで私がお客だという立場が守られて、とくにおとがめなしってことになった。私がガキを抱いていたのも大きかっただろうし、つまり『桜子遺産』のおかげってことか。まあ主力の家族連れが多い日曜の店内でもめごとは勘弁してっていう対応にも見えたけどね。
(こりゃ楽だわ)
 生きている時から存在自体が負債みたいな桜子が残した物で唯一役に立つ物じゃないかなって考えながら押すベビーカー。ホームセンターの店員が「成長に合わせて四段階に変形できます」って言ってたけどすでにガキの状態が最終段階に入っているので、「可変式、意味ねー」と思った。けど乗せて歩いてみると涙ぐむくらい楽だったので、地面に向かって地獄の桜子に感謝の十字を切る私。まだ酔っ払いのゲロが乾ききる前の神嶽の朝をとても似つかわしくないベビーカーを押しながら、屋台を閉め終わって帰る前にガードレールへ腰掛け一服しているおっさんや立ち飲み屋のババアに「おー真樹、お祝いやろうか?」「バカだねぇー。アフターケアーがなってないからだよ」と笑われてやりながら私はつくづく自分が下げマンになってしまったんだと溜息をつく。相手がじゃなくて自分自身がどんどん下がっていってしまう個人的下げマン。下方向を指した矢印のマークが貼り付いたスカートを穿いて生きているみたい。
「きゃはははははは! お前バカ? 何それ? 他人のコブ引っ付けちゃってさー。コブ取りじいさんの悪い方じゃん! じゃあもう一個付けてもらえ。コブ、コブ、ひゃはっは」
 みりんがバスローブ姿のまま、ガニ股で顔は天井を見上げたまま後ろにひっくり返りそうな勢いで笑い上げている。私は店に入る前からある程度の卑劣なリアクションは覚悟していたので冷静に「風鈴は?」と聞いた。いつもなら仕事終わりにバスタオル姿のままこの控え室でみりんにダメ出ししてるはず。ソープで何をダメ出しするのか分からないけどバスローブ反省会はこの店の慣例行事だ。
「そうだ。風ちゃん知らない?」
 こっちが聞きたいことをみりんが真っ先に聞いてきた。
「何で私が? 休みでも取ってるわけ?」
「うん。一ヶ月くらい」
 とみりんは肯き、私はポカンと口を開ける。
「一ヶ月ってそれ休みなの? 欠勤じゃねーの?」
「そーとも言う」いつもより一オクターブ高い声で言ったみりんはそのまま控え室の端にある本棚の上に置かれた小さな冷蔵庫からビール缶を取り出し、そのビール缶にまるでペットのハムスターでも見ているかのような緩んだ笑顔で頬擦りした。
「むっ!」
 みりんがビール缶に頬擦りした瞬間私の頭の中に稲妻のような電撃にも似たショックが走る。まさか……、いや待てよ、私は恐る恐る聞いてみた。「お前、なんか鼻が高くなってねーか?」と。
「何言ってんのよ」平然と答えたみりん。しかし私は僅かに遅れたみりんの返答と一瞬きつくなったその視線を逃さず、さらにみりんの前へ回りこんで、
「お前プチったな! 整形したろ!」
 と一刀両断にちぎってやった。みりんの手から滑り落ちたビール缶が秘密に耐え切れなくなったみりんの心を表しているかのように中身を撒き散らしながら床の上で回転している。
「あー! 目もなんかパッチリしちゃってる」
「じ、実は胸も」
「む、胸もか!」
 とみりんの人工化したオッパイに掴みかかる私。
「なあ食塩水か?」
「違う。シ、シリコン」
「全部でいくらした! 答えーい!!」
「鼻が三十万、目が二十万で胸が七十五万」恐る恐る答えるみりん。
「ぜ、全部で百二十五万っておい、ひょっこりひょうたん島の国家予算くらいあるじゃんか! 見損なったぞ! そんな金があるなら吉野家おごれ! 店ごと」
 私の当然の怒りだった。日本顔負けの無駄予算。国民の怒りだ。
「あっ! まさか風鈴もそそのかして整形させたんじゃねーのか?
お前。そ、それでひどい顔になっちゃったりなんかして、店に出
て来れねーんじゃねーの?」
 とみりんのシリコンオッパイを掴んだまま揺さぶる私。
「や、やめて! 七十五万がぁー」
「どこだ? 風鈴をどこに隠した? じゃないとシリコンクラッシャーとして私はお前を潰さねばならん」私はぎゅっと握力を強める。
「痛い痛い! ホント、知らないってば。怖いから手術の日に病院まで付き添ってもらっただけで、次の日から店にも来ないし、携帯も電源切ってるし」
「じゃあ髭豚はどう言ってんだよ? 一ヶ月近くも無断欠勤じゃークビじゃん?」
「そりゃー風ちゃんはウチの店の大エースだかんねーウチの十年選手だしィー。だからもうちょっと様子見てみるって店長は」
「じゅ、十年ってあいつ、いつからここで働いてるわけ?」
「さあ? でもルーキーの時は何回かパクられそうになったって言ってたからローティーンの頃からじゃないの? 働いてるの。珍しいっしょ? 同じ店で十年って。そうでもないのかな?」
 と質問を質問で返すムカツクみりん。
「はあ。でもこんなもんなのかも。どんな関係も明日になればリセットしてゼロになる世界だもんねこの世界。十年経ったって、その夜が終わってしまえば次の日は永遠に初日だったりする。慣れた気になって何年かして急にヒュンと消えたりして」
「風鈴もそうなったってこと?」
 私は聞いた。
「さあ? でもそんなひどいことはしないと思うけど?」みりんが言った意味が分からなくて「なにがひどいこと?」と私は聞き返した。
「だって風ちゃんがいなくなったらあんた泣いちゃうじゃん?」
 みりんは笑った。殺してやろうかと本気で思った。
「ありえねーよバカ。つーかむしろ忘れてたよお前らの存在自体」
 と慌てた感じでこんなセリフ大声で吐いたら、みりんに照れ隠しだと思われて、かなり面白がられるんだろうなとは思ったけど他には思い浮かばなかった私のリアクション。実を言えば何かと忙しかったここ最近は風鈴のことなんて特に考えもしなかった。忘れよう忘れようとしなくても好きなだけ忘れられる私のスキル。それがどんなに大事なものだったとしても変わりなく。風鈴が聞いたら怒るだろうけど。
 久しぶりにみりんと話し込んだ。最近は店じまいセールをやるデパートを探してはバイクで素っ飛んで行って、何も買わずにそこの店員さんにデパートの前で記念写真を撮ってもらうのが楽しみらしい。店員さんももうやる気がないのか怒る気力もないのか、頼めばだいたい生気のない半笑いの顔で「チーズ……」と言ってくれるとのこと。
 みりんのまぶたがちょっと腫れぼったかったので、私はそのまぶたを指差し「あ、やっぱ失敗じゃん。整形」と言ったら、みりんはドアの上にかかっていた時計を指差して「もう寝てる時間だっちゅーねん」と笑う。いつもなら我慢なんかしないで「あーもう眠い。明日明日、その話」とか言って勝手に帰るくせに。
「別にいいよ。帰れば? どうぞ寝てください」
「いいって。今日は帰らないから。風ちゃんの布団で一眠りしたらそのまま仕事するし」
 と妙に落ち着いた雰囲気なみりん。いつものカチャカチャしたうるささがない。風鈴の姉さんがいないせいだろう。上が抜けて変な甘ったるさがなくなった次女気取りだ。八人兄弟くらいの。バカみりん。でも単純でオモロイ。
「ねえあんたはなんか色気のある話はないわけ?」
「何それ?」
「だいたい風ちゃん入れて三人で話しててもぜんぜんそういう恋愛関係のトークってないじゃん? 女が集まってて、しかもこんな絵の具洗うバケツみたいに色がグチャグチャしてる場所で話してて、風ちゃんはあんたの話ばかりで、あんたは食い物の話とかゲームとかでしょ? ちょっとは女として勢いのつくトークしろっての」
「私、そういう引出し持ってないし。お前は持ってるならどんどん出していけばいいじゃん?」
「そりゃー私は持ってるよ。学生の時からOL時代のからホスト狂いの時代からいろんな引出しがめくるめくよ。でも風ちゃんの前だとあれじゃん? 真樹の教育に悪いとか説教しだすじゃん? ソープの控え室なのにさ。だからあんたがどんどんと恋愛トークを繰り出していけば風ちゃんも何も言わないだろうし、そこで私がラブラブティーチャーぶりを発揮すれば私の株もグーンと上がって東証一部上場って感じなわけ。わかる?」
 頭にウジでも湧いてんじゃねーか? っていうみりんの話。だいたい私に最近ある色気話っぽいものってマッシュルームの刑事に散々殴られ蹴られされたあとで、アソコ噛まれたってくらいのもの。色はあってもブラックだ。
「だいたいあんた結構有名なんでしょ? こないだもお客で緑のブレザーの学校あるじゃん? 私立の結構頭の良い子が多いとこ。 そこんとこの生徒が五、六くらいでウチに来ててさーそのうちの一人の子の股間洗ってたら、なんかあんたのこと聞かれて、先輩にあんたのこと探すように頼まれてるって言って相談されたよ? ここらへんで見かけたっていうくらいの話しかないんだって。ほら、あんた学校行ってないから情報少ないしさーそのわりに目立つから。「ロングでグレーかかってて背がけっこうでかくて」ってたぶんあんたよね。グレーの入った髪だけならまだしも良く見かけるってことになりゃーね」
「ほほう? ソープでお楽しみの某有名私立学校の男の先輩が私を? それは男運の良いお話で。どうせ風俗嬢と間違えてるだけだって。そういう人気はいらない」
「イノセントってクラブあるじゃん? 上が鎖とか指輪とか売ってるとこの地下にある。そこのDJやってんだって。こっちのローカルでやってる歌番組でバックダンサーもしてるってさ。ステータスは信用できそうだったよ? 良いじゃん。その子が言ってたけど他にも探してる男いるらしいよ。やったーモテモテじゃん真樹」
(AVの勧誘、売春クラブの家出娘担当係、エトセトラ、エトセトラ……)
「どうせそんなんでついて行っても何人か仲間がいて輪姦されて写真とられて御風呂で働かされて、で、結局ここで働いてたりして」
 と私はあきれる。みりんは乾いてるわねーって顔をしていた。でも私はあきれている影で自分も知らない自分の情報を欲しいって奴もいるんだってちょっと引いた気持ちにもなっていた。当然オーバーオールの奴のことも考えてしまう。桜子が潰れて、風鈴も消えて、それがどう私やオーバーオールにからんでいるのかなんて私には分かんないし分かりたくもなかったけど、ただ一つ実感するのはホント、興味を持つのは良いけど持たれるのはウザイっ! ということ。もうホント嫌。私のことなんて考えてどないすんねんって感じ。何か私からご褒美でももらえると思ってるのかね? まったく。
(ぶっちゃけ、一番嫌な展開になってんじゃん)
 桜子に刺された時と同じ。刺されたことで考えたくもない刺した奴のことをいつも思い出してイライラしなくちゃならない。たまに忘れてたりしても、「何よもう許してるわけ?」「緩いんじゃないの?」って波を緩やかにしようとする心の自動セッティングを邪魔するプライドのバグに振り回される。私が一番嫌いな他人に思考を支配される展開。精神的にレイプされちゃってる感じ。だから、なるべるオーバーオールのことは考えないようにしてきたのにやっぱり考えちゃってる。風鈴のせいだ。どうも最近回りに何かあるとオーバーオールに直結して考えてしまう。
(ん?)
 まさかね。と一瞬思ってすぐに頭からかき消したけどまたすぐに思い返す私。浮かぶのは光彦の顔。
桜子が死んですぐに私の頭にはオーバーオールのあの無症状でのっぺらとした淡白な白面が浮かんでいた。風鈴がいないってみりんから聞いた時も同じで、浮かぶのはオーバーオールの顔面。なんか確実にオーバーオールの印象が私の中で強くなってきている。あれれ? これってもしかしなくても相手の、オーバーオールの思う壺って感じのやつじゃないですか? ありゃりゃ。
「みりん、ガキ預かって。店始まる頃までにはカムバッークするから。じゃっ! そういうことでね?」
 そう私は立ち上がるとポカンと口を開けたままのみりんをほっといて店を出た。真樹ナビの誘導する先はキツネと光彦のいる病院。とくになんの考えもなく体の奥の自分でも分かんない秘密な場所で疼いている直感みたいなものに従い、オートマチックに私は動かされている。情動的で分かりにくい説明しずらい感覚。女の勘ちょっと背伸びしてますバージョンってやつかも。
(走ろうかな……)
 両腕を振って膝を突き上げてこの商店街の人込みを掻き分け、スピードに乗りたい気分になった。たぶん、今目の前にバイクと男がいたら、たとえその男が油っぽいロン毛で、目の下のクマがひどくてサングラスがこめかみに食い込んだようなデブでも、たとえ上半身素肌に皮ジャンで全身蛇のタトゥーの四十男でも確実に後ろに飛び乗っている。とてもありえない無茶な気分。だけど私はそんなうごめく気持ちを抑えるようにわざとゆっくり歩く。いつもはドミノ倒しにしたい商店街の人込みも今日は気持ちを鎮めてくれる鎮静剤になっていた。
 どうだろう? 走ったところで光彦がオーバーオールに潰されているのならもうとっくにだろう。逆に私が走り、急いでいる姿をさらした方があいつは喜ぶはずだ。(オーバーオールを喜ばせたくない。私らしくもないし)人の群れのざわめきがまるで自分の中から湧き出てきた声みたいに聞こえた。でもまったく生気のかよった声じゃない。深く、暗すぎて光の存在すら忘れてしまった井戸の底でお互いを笑いものにして馬鹿にし合っている亡者達のコーラスみたいに私の体を汚し、染みわたってくるよう。病的なほどに全身を洗いたい気分。
左右に列をなして絶えず動き続けている大蛇みたいな人の流れ。同じように私の周りに配置されていた物が自分の意志とは関係もなく動かされ始めている。日々が不変だなんて思ってないけど、部屋の中にある物の配置を勝手に変えられてしまったような不快な気分。どんなに散らかってても、どこに何があるかは把握しているのに勝手に動かされちゃたまらない。今は出来ないし、やりたくもないから整理はしないけれど、絶対そのうちにはやろうと思っていたのに。動くべき時は自分が、でありたいのにさ。
 流れる人波の中で急に立ち止まった私にぶつかって迷惑そうな顔で通り過ぎて行く人たち。舌打ちする音、邪魔臭い視線、クレームの小声。背中に強烈なショルダータックルを食らって倒れそうにもなる。
「痛たた。分かってますって。動きますよ。動けば良いんでしょ?」
 流れに逆らうのって大変。ねえ? 誰か一緒に止まってみよう? 私はちょっとだけ周りの人達を道連れにしてやりたい気持ちになった。ちょっと邪悪だな、私。

<12>

“どこかに行きたくもないし、何かしろって囁いても欲しくない”
 今のお前の形が理想かもってベッドでスターウォーズのダースベイダーみたいに篭った呼吸を丁寧に繰り返している光彦の額に、氷を死んじゃうってくらいに強く握って冷やした自分の手を置き、冷やしてやる。 
 光彦は昨夜から熱があるらしい。氷は、自販で紙コップに氷が落ちてきた時点で素早く抜いた。先に氷が落ちてくるタイプのやつで良かった。私は氷が溶けてなくなるまでそれを繰り返す。光彦の母親はいなかった。キツネに聞くと最近はあまり姿を現さないらしい。よくは知らないけどどうも四国の方に行っているらしい。どうして四国なのかは知らないということだった。私も知ったこっちゃっない。
 私はしばらく窓の外を見下ろしていた。ここは三階で病院の庭が全部見渡せる。庭にはもっと車椅子の人や包帯を巻いた人がいるのかと思ったけど、上から見た分には人影もまばらでそこにいる人達もごく普通。パジャマを着てよたよたと歩いているくらい。建物自体が高台の上に位置しているので街が一望できて景色も悪くない。
「そのうちこの景色にもあきると思う。だって毎日来るから」
 と私は光彦に言ったのだけど、こんな状態の光彦に喋りかけていると心の中で呟いているのか言葉にして表しているのか自分でも分からなくなってくる。とても変な感じ。自分の中と外の境界線みたいなものがボヤけてしまっている感じ。それにしても今の光彦はホントに不思議。中身はどこに行ってしまったのかな? かわいく言えば光彦の中にいる小さな光彦はお茶でも飲みによそへ遊びに行っている感じ? きっと同じような状態の奴らとつるんでいるのだ。みんな初めての場所にくれば他に人はいないかと探すだろし、光彦もきっと同じ奴らと一緒に呼び合って、増えて、世界みたいなもの、作っちゃってるのかも。じゃあ死んじゃっても同じか。複数の意識や存在が集中して世界になる。同じ意識の者同士がお互いを探して惹かれあって、明確な場所なんてものがなくても世界になっちゃってるんだろうな。その世界の住人はたぶん自分達の世界のことを死後の世界なんて思わない。かってにパラダイス808なんて名前作っちゃってるのかも。じゃあ世界で一番最初に死んだ人間は寂しかったのかね? やっぱり。一人だと世界にならないから。真っ暗なまま。もしかしたら次にやってくる人間を待つことも我慢できずに自分側に引っ張り込もうとしたのかも知れない。たくさん、たくさん。
(ふーむ……オーバーオールの世界もあるのか)
 あいつの住民票がある世界、いやもっと規模がちっちぇーだろうからオーバーオールの区みたいなものが存在するんじゃねーか? と私はどうせ考えないようにしても無駄なので、ちょっくらの間、どうせ病院の個室で何もすることもないし、めちゃくちゃ積極的にオーバーオール論みたいな本が協力出版できるくらいに考えてやろうと窓辺に寄っかかりながら一人、肯く。
「もうこなくてもいい」
 わっ! 
 この時の私のビックリ度ときたら、朝起きてトイレのドア開けた瞬間裸で便器の上に立ったまま笑っている冬実を見た時をはるかに凌駕するものだった。でも私のビックリは初め、その声の主が光彦かと勘違いしたもので、必ずしも光彦のベッドの下から這い出てきたオカッパの女、つまり本当の声の主に向けられたものじゃなかった。
「つまんない。あまり驚かなかった。それにもう素に戻ってる」
 そう立ち上がると……オトコは穿いている紺のスカートのホコリを何度か手で掃い、不自然なほどに私の目を突き通すほどに見入っていた。私が見た瞬間すぐに女と思ったのは単に髪形と服装によるもので、今は確実に分かる。こいつはオトコ。
「待ってた。っていうか待たれてた?」私は睨み返す。
「そうでもない」
 とオトコはアゴを光彦の方へ上げて見せ、合図する。
「オーバーオールは? 着てないと困るじゃん。呼び方」
 白いシャツに黒のカーデ、紺のスリットスカート。凄まじいモデルチェンジだオーバーオール。髪も初めて見た。歴史の教科書のザビエルみたいなオカッパ頭。でもキャップをかぶっていた時と同じく今度はそのごわごわした髪のせいで顔がよく分からない。
「このスカートbebeっていうところのなんだって。よく知らないけど着てた女が言ってた。ちゃんとそういうの聞いとかないと人に尋ねられたら困るから」オーバーオールは私から視線をそらし、前と変わらず、天井を一周ぐるっと首を回して見たり、床から舐めるような視線で私を眺めたりとさっきまでの強い突き通すような槍みたいな視線はどこに行ったのかしら? ってくらいにいつものオーバーオールに戻っていた。着てねーけれども。
「盗んだのかそれ? じゃあもっとマシなのにしろ」
「盗んでない。その人に悪いじゃん。ただ公園でベビーカー押すのには向いてないんじゃないかって思ったから頼んで譲ってもらっただけ。うちの母親も昔そうだったから」オーバーオールは口紅で口裂け女のように真っ赤に塗りたくられた自分の唇をさらに大きく広げるように指で何度もなぞることを繰り返す。
「うるさい。無理やり脱がしたろお前?」
「無理やりでもなく、了解も得られなく……しかたがないので赤ちゃんと交換でとお願いしました」
(人質取って交換か。私の時と同じって分けね。バリエーションのないやつ……っていうかなんで急に丁寧語?)
 私はかなりイライラしてきた。その証拠に体が微妙に揺れ始めている。シェイキング。素敵に言ってみればさかんにリズムを刻んでイライラを抑えている。痛い言い方をすれば貧乏揺すり。とにかくストレスだ。この空間、このオトコ。段々と自分がストレス緩和に揺れているこの揺れ自体にもムカついてきた。スポーツニュースで新人女子アナが選手の名前を間違いたのを見た時みたい。お前、自分が分かってないってことくらい自分で分かっとけって感じ。たぁーくそっ! って小さい波を繰り返すいちいちチクチク刺さってくるみたいなこの不快感はなに?
「イライラさせる奴だなお前。もうさ、殺しちゃえば良いじゃん? 全部さ。何でもかんでもそこらじゅうの物壊して回れ? 私止めねーし。そうだ、お前が切ったり踏んだり潰したりしたこと報告してこい。私に。点数つけちゃる。嬉かろ?」
 と足をワニの口みたいにパタパタと床につけたり離したりしながら私は首を回した。
「点数? 貯まったら何かくれるの?」オーバーオールは淡白に笑った。
「褒めてやる。海の男風に。「おう! 坊主元気かぁー」って頭グシャグシャしてやろう。これは結構人気のメニューになってるんだぞ。ウチの店では」私は胸を張った。
「そんなんいらない。褒めるのは先生がしてくれるし」
「先生? 前もそんなこと言ってたな。お前なんかグループにでも入ってるわけ? なんとか学会とか名前が付いてたりするやつ。そういうサイトも好きっしょ? 自分?」
「なるほど。僕のイメージはそうなのか。じゃあこれからパソコン買いに行かなくちゃ。あと、気持ち悪い笑い方も練習しないと」
 オーバーオールは両手を暖めるように擦り合わせると蝿でも追っているかのように目玉を上や下にと盛んに動かす。十分キモイ。練習の必要ナシ!
「さてそんな話はさて置き」
 といきなり万歳をするオーバーオール。
「置いちゃうのかよ! 質問に答えろよ!」真顔でつっこむ私。
「どうせ言ったって君は覚えてないみたいだし、それだと先生にも失礼だ。それにそれに僕にとってはあまり重要なことでもないのだし」
 おっ! 私はオーバーオールの動きに思わず身構える。万歳をした腕を振り下ろした瞬間に何か袖から取り出したように見えたから。
「先を先を言っちゃって悪いけど、これナイフじゃないよ。僕ナイフ持ってないし」
 とオーバーオールは背中に何かを隠した。
「嘘。ちっちゃい女の子も桜子もナイフで殺ってんじゃん」
「僕は殺ってない」
 スゲェー顔隠してやがったな、こいつ。オーバーオールの満面の笑みを見た私の第一印象。顔の筋肉がその酷使された笑顔についてこれないのか、今にも全部のスジがブチ切れそうな勢いだった。なんかこの笑顔を見ているだけで成人女子の一日分のカロリーに匹敵するくらいのエネルギーを消費してしまいそう。もっとも成人したことなんてないけど。
「つーか、完全にお前じゃん。女の子の指、喰ってたし」
 くだらない問い詰めを私はしかたなくやった。ウゼェー。
「殺してないし。僕」
 本のページをめくるようにぱらっと顔が変わってまた無表情になるオーバーオール。何だこの嘘? 
「低レベルで話したいわけ? 殺したなんて一言も言ってないから殺ってないとか? そんなんだったらもういらないから」
 と消えてくれって感じに手を振る私。
「ダメだよあんまり殺すとか言っちゃあ。命はかけがえのない物なんだから」と言うオーバーオールの言葉に私はその場で素ッ転びそうになった。でも同時にこいつの確かな一部分が分かってしまったような気がした。まるで絵本。その日その時その瞬間でページが違う本。毎秒更新されるホームページと言った方が簡単なのかも知れないけど、とにかく毎回感じが違う。でも根本的な気持ち悪さはいつも同じ。
「あっやっぱり殺したかも知れないかも知れないか?」
 私を嘲笑うようにオーバーオールは自分の顔をまるで、二枚の重ねあった扇子で隠しているみたいに広げた両手で顔下半分を隠しながらクスクス笑う。
「ふん! どうせ次は「あっ! やっぱり知らないや」とか言うんだろうが。お前って取調べじゃ御免なさいって言って裁判で知りませんってタイプだな」
 と私はオーバーオールを指差す。
「あーあ。今度は僕の先が取られちゃった。真樹に」
「お前、なんか劇団にでも入ったら? 結構、特殊な役で当たるかもかも!」
 私は飛び跳ねた。新宿二丁目のニューハーフみたいに。
「今朝ここに来る前に本屋に寄ったんだ。背中が猫みたいなお爺さんがレジに座ってて、お客さんも他にはいなかったかな。お爺さんは居眠りしてるのか半分死んでるみたいにコックリコックリしてたから中途半端で嫌だなと思ったんだ」
「はーん? じゃあまた殺したんだ? 命はかけがえじゃなかったの?」
「レジって結構持ち上げられるもんなんだね? もっと重いかと思ったよ。もっともお客さんもいないようなお店だったからお金もほとんど入ってなかったし。なかなか見ごたえはあったな。ちょうどアニメの中でキャラが大きなハンマーで真上からペチャンと潰されちゃう感じがあるでしょ? あんな感じ。お爺さんはレジのある机には寄りかかってなくて、椅子に前屈みに座ってウトウトしてたから頭ゴン! って感じにしたら水中にいるみたいに、まず先にお尻がプカって上に浮いてその後で顔面が床にドン。大変だったぁーお札が散らばっちゃって拾うの。真っ赤になっちゃってるのなんて使ったらおもちゃのお金みたいだから捕まっちゃうもんね」
(どれかが嘘だろうなー爺さん殺したのが嘘か……本屋自体に行ったことがないとか)
「なに買った?」
 コロコロ変わるオーバーオールのページにいちいち付き合っている私はなんて良い奴なんだろうと感心する。教師の素質があるかも。
「なに買ったって決まってる。この服」
「うそーん! さっき子連れの女から盗ったって言ってたじゃん!」
「盗ってなんかないよ。買ったに決まってるじゃん」
 また堂々と前を否定する新しいページのオーバーオール。
ふーん。……盗ったって私の言葉にはちゃんと反応したから、自分が女から奪ったんだってさっき私に話したことは憶えているってこと? じゃあどんどん違う人格みたいなのに入れ替わって前のことを都合よく忘れちゃうタイプとか病気じゃないんだ。いろんなページを持っているみたいだけどそれは全部繋がっちゃってるわけね。スゲェー、下手したらちょっとした才能じゃん。超ド級嘘つき大王。
「でも男にはちょっとキツくない? その格好?」
 私はあえて普通に会話する。なりたたないと分かっていても。いつか私に必要なページを見せるかも知れないし。
「勘違いしてるね真樹。僕の一人称とか聞いて誤解してるみたいだけど僕、女だから。初めに断っとくけど」
 うっひゃー! 出ましたぞ最大級のアホページが! 私はひっくり返りそうになるより失神してしまいそうだった。い、いや待てよ?良く見れば確かに背も私と変わらないくらいだし、色も白くて肩幅もない。でも声は低いし、いや、でもこいつはその時々で声が高かったり低かったりするしな。もちろん声が低い女も世の中にはいっぱいいるし……まったくわけ分からん。うーん言われて見れば女か? 嘘かも知れないと思って見ると男にも見える。あれ? 段々女に見えてきた。うえ、気持ちわるぅー。
「あ、こんにちは。それじゃ用件を話すよ?」
 まるで今この瞬間会ったばかりのようなことを言うオーバーオール。私は混乱させられながらも徐々に対応が出来始めているのか、それほど驚かなくなっていた。少し成長してしまった気がする。寂しいやら楽しいやら。まったく。
「それ以上こっちに来るな。じゃないともう話してやんない」
 オーバーオールが何かを持った手を後ろに隠したまま光彦に近づこうしたので私は威嚇する。もちろん足首を回して蹴りの準備もする。
「これ水性だから大丈夫だよ。じゃ!」
 と私の眼球がオーバーオールの手にある物をマジックだと認識し、まだその情報が脳に到達するかどうかっていうタイミングでオーバーオールは素早く光彦の横に走り寄って上にかかったシーツに向かい、まるで曲のクライマックスに入った指揮者のように右手を激しく動かした。上下左右、円と何かをシーツに描く。
(シンナー臭い。また嘘かよ。油性じゃん)
 徐々に何を描いているのかがあきらかになる。私がそれを地図だと分かったのは曲がり角の所にオーバーオールが郵便のマーク『〒』を描いた瞬間だった。
「ここに来て。先生も待ってる。でも僕の為に来て。そしたらもう良いから。全部」
 激しく振り乱れたオカッパ頭の前髪が額にピッチリ貼り付き、息も切らしている。そうとう頭の切れた絵描きの誕生。私はやれやれといった感じでシーツに描かれた地図を覗き込む。
「どこ、ここ? 面倒くさい。デートならゲーセンは入れてねん? 映画はNGでヤンス」
 と私が振り返るともうそこにオーバーオールの姿はなかった。
「丸投げかよ! どうすんの! こんな、こんなシーツに描いて?持ち歩けないじゃん! 憶えるわけ?」
 もの凄い自分でもビックリするようなデカイ声で独り言の私。急にいなくなったオーバーオールに対するムカツキもあったけど、なんかほっとするような解放感を感じる。実感は乏しかったけど私はある程度、何らかのプレッシャーをあのオーバーオールに感じていたみたい。かなりヒシヒシと。
「いやー私も女じゃーん? か弱い、か弱い」
 と腰に手を当てて首を横に振っていると、急にシーツが上にフワーと持ち上がったので、
「うわっ! カッパーフィールド? テンコウ?」
 とビックリしていたらケツを蹴っ飛ばされた。
「――お前洗えよ? つーか弁償」
 私じゃなーい。って目はどこにあんだよキツネ。


 うえー苦しい。胸が。心理的にではなくて物理的に。ガキがいて胸がデカくなるなんてしゃれになんない。桜子の呪いか? 太ったってわけじゃないぞ。体重四十四キロのまま。身長もたぶん一六七か一六八のまま。(測ってないから確実じゃないけど)寝ている時に関節が痛くてしょうがない時期があったけど最近はそれもなくなった。なんとなくもう伸びない気がする。小学校の頃はどこまで伸びるんだよ? って思っていたけど結局ちょっと大きいかなってくらいで終わったみたい。
「おい、焦げてるぞ。タコ焼き」
 どうせ焦げたってなーって感じなんだけど一応私は注意してやった。
「甘いなぁー真樹ちゃん。俺はある日気づいたんや。そう、あれは先月ママさんバレーの試合の日に頼まれた三十パックを一斉に焦がし、途方に暮れていた誕生日前日の薄曇の日……」
 マンネリの話が長くなりそうだったので、店頭に作り置きされ積んである焦げていないマヨタコのパックを一個パクって私は公園のベンチに避難する。マンネリ作の中でも辛うじてこのマヨタコはチッと舌打ちせずに食える味。マヨネーズがタコ焼き本来の味を全てかき消してくれていて、むしろ食えるタコ焼きになっている。マンネリは私がベンチに座ったところでちょうど「というわけや、っておらんのかい!」と言った後で首をひねっていた。間が気に入らなかったのか? どっちにしろマンネリ。
「もうあんまり抱きたくないから 早く歩け?」
 と胸で寝ているガキに話しかける。最近めっきり重い。ミルクをあまり飲まないので立ち読みした本に書いてあった、砂糖水を入れるってのをやってみたら良く飲むようになった。でもその頃から急速に重くなってきたような気がする。ムカツキ。
「真樹ちゃん不景気な顔してんな? まあ俺も不景気やけど」
とマンネリはウーロン茶の缶を差し出す。
「尼崎に帰れば? で、公園に住むの」
「それ、ムカツキや。俺はまだまだ社会人じゃ。現役現役」
「だいたいこのタコ焼きで生活していけてたってのが不思議」
「アホやなぁータコ焼きだけで生活してたわけないやん。情報、情報。情報売るだけやったら、そうそう捕まらんし」
「どうせどこにいるバイヤーが安いとか安全とか栄子達に教えたりしてただけじゃん。あと家出娘のリストでしょ?」
「それだけではないのだな。極道君達にチャイニーズさん達の秘密基地教えたり、ケツ持ち探してるちーむ紹介したり、ある時は逆にチャイニーズさん達に留守ばっかりしてる家教えたり、大活躍よ。言わば街のマトリックスよ。僕は」
 とマンネリは煙草の先を歯で浅く噛んだまま上下にクイクイと動かす。
「情報も不況か? ふーん。でも慣れてるだろお前? 元々不況顔だし」
「慣れるか! お金欲しいわっ! お金欲くれー。それと、もっと面白くなりたーい。真樹ちゃーん」
 マンネリは話の延長線の中で合法的に私へ抱きつく。冗談っぽく、まー良いじゃん風セクハラ。お前は部長かい! 私は何も言わなかったけど顔の表情だけでこの嫌な気持ちを察しろと眉間を歪めたけどマンネリは気づかないふりをしたので、手をチョキにしてもれなく目潰しを喰らわした。
「なんやねん、なんやねん。ええやん! 癒し系演じてくれても。最近栄子達もちーとも見かけへんし、若い奴もあんなにけだるそうにダラダラ歩いとったのに今はどこ行った? あの地面を掃除してるようなパンツは? 道路の線上にケツの線、合わせて歩いてるようなローライズは? ゴミ袋みたいなパーカーは?」
「みんな出て行ったんじゃないの? 市長がやたら橋ばっかり作るから」
「まあ、あいつらも感じてるんかもなー。街の変な雰囲気。お巡りもやけに出回ってるし。嫌な空気感じてるんかもな。ゴミみたいでもやっぱりあいつらみたいなのがおらんとダメや。街には肉がないと。俺も肉が食えへんわ。真樹ちゃんは何か感じへんの?」
「私、不感症。それにどうでも良いし」
「いやーん。もっと感じてぇー」
 この時のマンネリの腰振りはオーバーオールに匹敵するくらいキモイと思った。ゲーセンの太鼓叩くゲームに縛り付けて、一億万点出るまでしばきあげたい気分。
「確かに人、消えたかもねえー。極道くん達は相変わらず多いけど」
「前、湾岸地域に大友ガラスってあったんやけど、あれが潰れた時に似てるわ。新聞とかで大々的に知られる前にやっぱりあの時も段々若い奴、おらへんよーになって、それやのにパチンコ屋とかディスクカウントショップとかやたらと増えて」
「お前いくつだよ? 年サバ読んでるだろ絶対! 産まれる前の話じゃん私のー」
「なあ? 真樹ちゃん。もうちょっと触ってええ? なんか最近ものごっつ気持ち良さそうやねん。真樹ちゃんボデェー」
 と油臭い顔を近づけるマンネリの顔面に私ははずしたてほやほやのガキのオムツをぶっちゃけ、公園をあとにした。私はマンネリと街の話をしたのでしばらくあちこち街を歩いてみることにした。どうせ歩くならベビーカーを持ってくれば良かった。重、ガキ。
 元気がないってわけじゃないのだろう。だいたい前から元気がある街じゃない。私が好きな部分はしっかり残されている。乾いてていつもあきらめている感じ。それでいてしつこくてウザくて都合良く無関心。ただ、空気の違いみたいなものは感じる。乾いてはいるけどどこか重く、致死量じゃないけどわずかに煙たいくらいの毒を含んでいるような空気。街が放っているのか? この毒。人を近づけたくなくて。栄子達もきっと感じたのだろう。有無を言わせず人を遠ざける理不尽なこの威圧感はまるで雪樹みたい。桜子がいたらどう感じたのかな、この雰囲気。きっと言われるまで気づきもしない不感症ぶりに違いない。だから母親ってのをやっていたのだ。バカなくらい不感症じゃねーと勤まんねー仕事に違いない、マザーワークって。だから雪樹には無理ってことだな。あいつは感じすぎる。
「はあー風、強」
『関係者以外立ち入りを禁ずる、市長』って赤字でかかれた看板を当然無視して湾岸エリアに侵入。横並び十台分くらいの駐車場があってそこから石段を下りるとさらに船の駐車場がある。パンチラ全開でヤンキー座りして遠くを眺める場所だなーと思ったけど和式トイレに一分と座っていられない私には無理。後ろにずっこけてしまう。
 大友ガラスってのはもうないんだろうけど、対岸を見渡す限り工場しか見えない。生ゴミ臭さが混じった潮の匂い。目が痛くなる風。風も潮も全部自然のものだけど、この工場しか見えない風景の中で感じる風や潮はもの凄くガキに悪いんじゃないかって、私は疑いたくなった。だいたい潮の匂いにしたってわざわざ海にまで来なくても、ここら辺の川は海が近いから橋の上でちょっと身を乗り出して下を覗けば、プンプンとベタつくくらいに撒き散らされた潮の香りを感じることができる。風の強い日や満潮の時はとくに。だからわざわざこんな所に来る必要もなかったのだけど、あのオーバーオールが描いた地図を見た時に一番最初に潮の匂いと強い風を思い出したのでこの湾岸に来てみた。でも私は忘れている。そして何で思い出さなくちゃいけないのかってムカついてもいる。忘れてしまうことなんてのは忘れていいようなことなのだ。脳が私に必要ないって私を想って消去してくれているのに。どうしてわざわざゴミ箱から拾い出して貴重な脳の容量を狭めなくちゃならないわけ?
「おっ! スリリングんっ!」
 腕の中でガキが急にムズがってあやうく抹茶パフェの溶けかけたみたいな海に落っことしそうになる。でも落ちたら落ちたで泳いでしまいそうな気もするし、波止場の岸壁に群がったふじ壺を掴みながらよじ登ってきそうな気もする。なんかいつもそうだ。ガキの顔を見ていると、いつも私は手足が大きいからデカくなりそうとか、あまり泣かないから無口な奴か? とか果てはいきなり空に向かって飛び出したりしそうなんてアホな想像をしてしまう。たぶんこれはこのガキがどういう奴なのかってことを私が知らないからだ。当然まだ赤ちゃんなんだから性格も好みも分かるはずはないのだけれど、でも分からないってのは可能性だ。これはきっと凄いことなんだと思う。なんか、何もかもが止まってしまったかのように感じている今の私には、唯一このガキだけが動き流れ続けている存在みたいに思えた。
「あんまり私が抱かない方が良いかもね」
 そう口から出そうとした瞬間、私は思わず口を手で塞ぐ。なんてくだらない話なのかと。抱いてないと動けもしない奴の気持ちを勝手に想像してこの手を離すなんて。今までで一番ガキを重く感じる。何度も何度も抱き直しても手が震え力が抜けてしまう。なんかやだ。
 夕暮れにこんな心は欲しくなかった。卑怯。海風の冷たさと空の真っ赤は反比例で余計にこの寒さが痛い。こんな時、こんな気持ち、普通ならどうすれば良い? 答えは出ていた。夕暮れに時が五時を刻めば子供は何をすれば良いかなんて。
「帰ろう。家に」
出ねえよ光の速さなんて。でも、せめて音速で。着ていた白いコートでガキをくるんで胸に強く抱き締めると私は走り始める。こけたらガキはジ、エンド。
「しがみついとけ? 私は、荒いから」
 そう言って走っている自分がバカみたいに思えて、でも悪くないなって感じで、凄く無茶な走り方してて、障害物になるものは老人だろうが子供だろうが知ったこっちゃないって感じにトランス状態のままどんどん風を切っていく。湾岸エリアを抜け、込み始めた風鈴の店の前を雪かきマシーンみたいにうろつく男ども掻き分け、橋を渡り、お城の前を駆けつつガキを抱き直し、踏み切りを賭けにも似たタイミングでくぐり抜け、立った。前に。私の家の前、診療所の前に。
「ぐええ、はあ、はあ、おえー」
 肩が抜けそうで骨盤が割れそうで、ガキもうるさく泣いて、足の脛がポキッと折れそうで、子宮が真下へ垂直に落っこちそうで、でも見上げれば嬉しかった。とても。そんなに私を喜ばすな。家。
 外階段の前でぎゅーと左胸を握り潰す私は息を整えるとゆっくり階段を上がりドアの前でしばらく立ち止まる。自分が決めたことの確認と、それに対しておもいっきりわがままになれるかを自分に確かめるため。やがて湯気立った体が次第にひんやり冷たく湿り、ニットが体にからみ吸い付いてきた頃に私はドアへ手をかけた。鍵は持ち合わせてなかったけど、そんなことどうでも良かった。ブチ破ってでも中に入る。そして居る。ずっと私はこの家に居続ける。
(開いてる?)
 隆行さんはいないだろう。またどっかだ、きっと。ドアを開けて玄関に入る。脇の冷蔵庫に手をかけてブーツの紐を緩める。
「懐かしいよぉー!」
 と叫ぶ私。超感激してる。マジすげー飛びまくってる気分。
(さすがに掃除しないとだな。あとビールとかマカデミアンナッツとかも買い込まないと)
 ブーツを脱いでソックスも放り投げてキッチンのテーブルの上を指でなぞってどれくらい汚れてしまったかを確認して、私はリビングを振り返って、そして、息が止まった。
「何してんの」
 この言葉しか出てこなかった。目に映ったものに対する私のコメントは。どんなに心を振り絞ったってこれしか出てこない。まるで石コロみたいにテーブルの上へガキを放り投げ隆行さんへ私は飛び込む。
「何? 何?」
 一発、二発、隆行さんの頬を夢中で張る。隆行さんが寄りかかり座っているリビングの大きな窓がバウンドするような音を立てて震えた。肩を揺すろうとして隆行さんの肩を掴んだ瞬間私の息はまた止まった。掴んでいるの? 何にも触ってないみたいに白いシャツの肌触りだけが手のひらをくすぐる。探るように指を動かす私は、シャツの向こう側にあるやけに固く、それでいて壊れてしまいそうな肩の軽さに震えと嗚咽を覚え、床へ立てていた膝を崩す。
「臭いだろ?」
 声が聞けたと感じて間もなく、私の両手は隆行さんの頬を挟む。最悪の感触がした。肩を掴んだ時と同じ弱さ。頬骨に手を添えるしかできないくらいに頬は痩せ肉は削げ落ちていた。隆行さんの体は窓から差し込んだオレンジにまるで生きながら火葬されているみたいに淡く燃えて見える。頬から手を離した私の胸に倒れ込む隆行さんの体は軽くて、隆行さんがもう自分自身の体さえ支えきれない状態になっているのだという現実に激痛がした。床に崩れて座った私の体は現状に対応しきれなくて胸に倒れた隆行さんを抱き止めることもできずに、隆行さんの体が私の胸からお腹の辺りへ、砕けた彫刻のように倒れ込むのを呆然と見下ろすしかできない。
「あっあっ、あーあー、教えて教えて、何これ?」
 声なんて呼べるものじゃなく、ただうめきが変わっただけの音が私の喉を上がっては泡のように消えていく。
「そこのペットボトル、開けるなよ?」
「え?」
 見渡すと部屋中に水がいっぱい入ったペットボトルが立っていた。ボーリングのピンみたいに綺麗に整列して。
「お、お腹空かせちゃダメじゃん。なんか食べようよ。買ってくるから」
 分かってる。単純に痩せてしまっているからご飯を食べればなんてそんな状態じゃないってことくらい。もう私の言葉は力を失ってしまっていた。半分は逃げ出したいのだ、この部屋から。怖いから。でも出て行こうとする臆病な私の手首を掴んだ隆行さんの手にまだ大丈夫だよねって希望を無理やり感じようとする私。
「頭良いと損だなお前。感じやすい」
 顔も上げずに私のお腹でうめく隆行さんの唇の振動に必死で耐える。
「私小卒だって。どこが賢いの?」
「頭良いよ。かわいい顔に? 手足長いし。良かったな」
「キモイよ。なんでかわいい顔ってとこだけ疑問系?」
 あーと深いイビキみたいな声がしたかと思うと隆行さんは私の体を登るみたいに体を起こす。
「セクハラかよこれ?」
「児童ワイセツ禁固三年」
 真っ赤なままでと願う。部屋の中が夕陽に浸されたまま暗くならないよう。それくらいのわがままが何だっていうわけ? と暗くなり始めた空に怒りさえ覚える。
「ねえ? 今から私傷つく?」
「大丈夫。お前丈夫だから。目殴られたって、アスファルトに投げつけられたって、いるじゃん。ここに」
 隆行さんの息の臭さを喜ぶ。証拠だから。心臓がまだ動いているって。
「もう褒めないでよ。吐き気だよ」
「俺が臭いからだろうが。嫌だ嫌だ娘はこれだから。男の子が欲しい」
 ゆっくりゆっくりした声。もっとゆっくりでも良いと思った。もっと遅く、一秒が一年のように。
「じゃあ今度は男やる。だって六年も雪樹の役、演じたんだもん。評価してよ助演」
 どんなになっても隆行さんだ。私は再び隆行さんの頬を支える。
「やめろ」
「良いじゃん」
「やめろっ!」
 怒鳴っても怒鳴っていない。きっと自分が情けなくてしかたないんだ。
「私は強いんだから従って!」
 そう顔を近づけた私から最初は目をそらしていた隆行さん。でも観念したのか次第にその瞳に映る絵は影に黒く染まったリビングの壁から、髪の長い空っぽの笑顔を浮かべた女に変わる。
 影が渦巻く両目。左眼は完全に閉じてしまっていて右目はようやくの状態。暗い屋根の下みたいな、目というよりもただくぼんでいるだけという感じのもの。とてもシワが目立っているし、元々薄かった唇はもう見る影もなくて色もない。十歳の頃の私の乳首みたいな色。髭は昔から薄いタイプだったからなのか焼け野原の跡みたいなものが口の周りに散らばっているだけ。
「ちょっと前じゃん? 何ヶ月か前でしょ会ったの? なのにこんな、こんなの」私の問いかけにしばらく黙ったままの隆行さんは何度か深い震えのかかった深呼吸を繰り返したあと、ちょっとだけうわずった声で再び喋り始めた。
「急いだだけだ。疲れるからな」
「病気? それとも薬?」オーバーオールがとは考えなかった。パターンが違う。それにこの瞬間、隆行さんとのこの時間にあいつのことなんて考えたくもなかった。
「薬は使わない。我慢大会だったら独走で優勝だったぞ。その代り十回は死んだな。痛くて」
「痛いのどこ? どこ? ……どこぉ!」
 私叫んでる? もう分からない。
「ここら辺だろたぶん。煙草好きだし俺」
 と胸に私の手を持っていく隆行さん。そこは枯れた胸板。骨だけの壊れた傘みたい。舌の根本まで「病院へ」という言葉が出かけた。でもダメなんだ、たぶん。
『欲しい物なんてない』って人間関係は身の回りの物と同じで必要最低限の数があればいい。ずっとそう思ってきて、今日そのしっぺ返しをくらう。
『持ち合わせが少ないから、なくすと死にそうになるくらいに怖い』
 家を出て行けと言われた時を越えていた。体中の血管を締め切られてしまいそうな恐怖。
「水欲しくない? このペットボトル開けちゃだめなの?」
「もうほとんど飲んだ。今入ってるのはほとんど俺の小便」
「バカな宗教みたい。それ。ひどいよそんなの」
 部屋中に置かれたペットボトル達は世界一汚い光りの揺らぎをお互いに映し合い、反射していた。
「世界で一番汚いキラキラ。いらないよこんなの」
「世界で一番汚い影絵」
 リビングの壁に映る影二つ。目を背けたくなるくらいにくっきりと存在していた。本人達よりも。
「体汚いけど中身は綺麗だぞ。水分もほとんど全部出し切ったし、クソももちろんない。計画通り」
 と一言一言確かめるように喋りながら自分のお腹をぽんぽんと震える手で叩く隆行さん。私はそんな隆行さんの頭を横に抱く。息苦しくないように。
「ひど。そんな費用止められちゃいそうなプロジェクトのせいで追い出されたんだ? 私」
「最近俺の前でかわいくしようとしすぎだお前。キモイ」
「またひど。それって私の成長じゃないの? 認めて」
「パフェへさらに砂糖かけて食っても吐き気なだけだろうが。普通にしとけば綺麗。勘もいいし何より面白い」
「また褒めた。やめてってそれ」
 私は笑う。隆行さんの笑顔も釣れるように。
「決めてた。お前、ウチに来た時に。俺が褒めたらお前、笑ったから。だから決めた。ずっと褒めてやろうって絶対。なあ? 嬉かろ? 笑え」
 釣れた隆行さんの笑顔。それでも私のための無理。
「雪樹も褒めてやれば良かったのに」
「あー肺、痛てえ。真樹、真樹?」
 抱いているのに私を探す隆行さん。会話は壊れた。トークのキャッチボールは終わる。私は隆行さんの耳たぶを噛む。合図はもうこれしかない。
「悪いけどさっきの位置に戻してくれ。窓辺に。あれベストなんだ」
 私は隆行さんの耳たぶをさっきよりも強く噛んだ。
「そうか。お願い」
 もうほとんど聞き取れないほどの声が私の耳に沈む。こんな軽さ嫌だよ。冷たく軽い隆行さんの体をまるでガキを扱っている時みたいに抱き上げると私は隆行さんを元の位置に戻し、また耳たぶを強く噛んだ。
「ありがと、ありがと」
 こんな言葉、聞きたくない。
「あー!」
耳を抑えて首を振って奇声を上げてまるで死ぬまで言い続けるじゃないかっていう隆行さんの『ありがと』を必死に遮る。
 もう聞こえないのは分かってる。でも、だけれど、聞こえて! 聞こえて! この人に。
「私、なんちゃって雪樹でしょ?! いつまでもやるから。雪樹の役やるから! だから、だからさーそんなのやめようよ!」
 いったい何年、何十年、いつまで私の耳はこの世の中に散らばった無限の音を広い続けるのかなんて分からないけど、でも、確かに拾ったんだ、
「雪樹ちゃん、好きだったなー」
最悪で、でも私の今までを褒めてくれる音を。
「くっせーオヤジじゃんもう」
 親が撃たれて、なぜもう動かないのか分からない動物のガキはきっとこんな風に一生懸命親の反応を探るだろう。鼻先を首筋に当てがい、頬を舐め、そしていつかもう親は動かないんだってことを悟ってそれで、それで、どうしろっていうの?
「ぎぎぎぎぎ」
 オレンジは終わりの色。そして闇に帰った。いつしか真っ暗になった部屋で指を噛んで団子虫みたいに丸まってなぜか必死に笑いをこらえている自分。なんで? なんで笑ってるわけ私? 唇が噛み切れそうなくらいに笑いを我慢するけど次から次へと湧き上がるように私を苦しめるこの衝動。とても苦しい。吐き出したいけど吐けない感じにも似てる。胃に何も入っていない常態で吐くのが一番苦しいのと同じ? 悲しいっていうこともそうなのかな? ホントは悲しくなんてないからこんなにおかしくて苦しいの? 
「わっわっわっ! うわー! うわー!」床に丸まったまま壊れたメリーゴーランドみたいにのたうち回り、ペットボトルや周りの壁を蹴りまくる。じゃないとドス黒いマグマのような熱に体を破裂させられてしまいそうだった。
私は隆行さんの娘、私は雪樹の娘。隆行さんは私の、私の、私の。そう私の。
 たぶんこんなの、こんなのもう一生の中で絶対ないことだと思うんだ。人に、大人に、男に、死体に向かって、やりすぎの歌舞伎役者みたいに前へ髪を振り乱して、
「ごめんなさい。ご、ひゃはははははははは!」って大笑いしながら土下座するなんて。


<13>

 ガキの泣き声がする。でも、何もする気がしない。隆行さんのオシッコが入ったペットボトルに歪んで映る横たわった私の顔はケンシロウに言われるまでもなく、もう死んでる。気分次第でガキをかわいがるなら誰にでもできる。桜子ならもし今私と同じ状態であったとしてもガキが泣けば飛んで抱いただろう。いや? はは、死ねばイメージが倍くらいは良くなるもんだなと私は笑う。だって隆行さんは私の中にパンクさせられてしまいそうなくらいのデカいキャパを作ってしまった。死んだからこその技。
(キャラじゃないキャラじゃない。平気のはず。私はそういう風にできてるんでしょ?)
 膝がガクガク震えて力も抜けてなんて風になっていたら、私もさぞかし今よりもかわいくなれるのだろうけど、そうもいかないらしい。
「はぁー」
 なんだろうこの溜息。さっきまで何時間も縮こまり、喘いでいたというのに。もう今こうして隆行さんの抜け殻の前で冷静な溜息を吐いている私。あークソ! かわいくねー私。もっとかわいくなりたーい! と下唇を噛んでオカマみたいにキーと言わずにはいられない。
(さて、どうする私?)
 雪樹に連絡するか? 死んだんだから隆行さんも気にしないだろう。雪樹はどう思うだろ? あー嫌だ嫌だ、あいつのことなんて考えたくもないと私はせっかく立ち上がったのにまたその場へとしゃがみ込む。でもまたすぐに立ってまたしゃがむ。アホなヒンズースクワット。
「もう、帰って寝ようかな」
 つい数時間前まで強烈に私の帰巣本能をかき立てたこの場所がもう今では砂漠のど真ん中にあるくらいの価値に大暴落していた。結局、場所じゃなかったんだなって思った。家なんて。
「さしずめお前はここか。家」
 と私は泣き疲れて眠ったガキを抱く。これの方が楽だなって一人肯く。『家』という物に化した方が色々考えなくて良い。当分こいつの家に化けよう私は。隆行さんのリクエストは終わったし。
 様々な音が聞こえる。車やバイクの音に踏み切りのシグナル。遠いのか? かすかにラーメンのチャルメラみたいな音が聞こえる。笑点と並んで小学生が帰りがけに縦笛で吹く曲オリコン一位。だんだんとその音が近くなる。家の前を通っているのかな?
「チャララーララ、チャララララララー♪」
「って! 口で歌うんかいっ!」反射的に私はツッコミ。
「なんだ分かってたのかー。殺すぞボケー。かかってこーい。キャハハハハ!」
 死体に呼ばれて死神が来た。冬実。
「派手に弾けちゃったねー先生。でもまだ混じってる。ここにー」
 と私の乳首をグリグリ指でつっ突く冬実。
「うるさいっ! うるさいっ! 帰れ冥府に。死神」
 そう半笑いのまま私はバンバン冬実の頭をどつく。
「ぼよーん、ぼよーん。こんなん出たぁー」
 ビックリ箱から飛び出したバネ人形みたいに冬実は舌を出したまま首を大きく左右に揺らす。
「終わったか隆行?」
 えっ? 私は後ろを振り返る。あっ? 何だこのジジイ? Tシャツ短パンのジジイが立っている。このクソ寒さに。
「何? 誰?」
「ここで栗食っとただろうが? 俺」
 と暗い部屋にトウモロコシみたいなジジイの歯だけが光る。黒子? サンコン? クロマティ? 
「んー。おもろい顔で死んでる」
 ジジイは死体の脇をくすぐった。
「どうだ? 腹が立たんだろうが。もうこれ、抜け殻だからだ」
 正直私はムカついた。でもそれはジジイがやった行為にじゃなくジジイの言葉が当たっていたから。
「腹、立たねーよ。なんでだろう。教えろ」
 私は自分の後頭部をかいた。
「運ぶぞこれ。ガキ抱いてついて来い」
 とジジイは死体を背負い立ち上がる。
「どこに行く気? 病院? 死んでるのに?」
「仕事せにゃー。金もらっとるんだから」
「良くしんないけど腰抜かすじゃねーの? おいワカメ、手伝ってやりなさい」とサザエさんの波平役を演じながらキョロキョロする私の目に冬実は映らなかった。どこにもいねー。あいつはホント、また消えやがった。ムカツキ通り越して『キ』だけだマジで。
「抜け殻だからな。軽いもんよ。昔は何キロってリュック背負ってテッポウ、撃っとったんだからな」
 そう軽々と死体をおぶったジジイはたちまち玄関まで歩いて行って外の闇に消えていった。
「ジジイはやっ!」
 と私もガキを抱き直し部屋を飛び出す。一瞬、振り返ったりはしたけどね。
 

「あー。あれだ。生理だ。ジジイ生理だろ?」
 とスタスタ高速道路の下、高架の屋根が伸びる川沿いの歩道を歩くジジイの前へ私は回り込む。
「わけの分からんことほざくな、重いんだぞ!」
 私、ジジイに一喝される。そうだ。思い出した。雨がスゲェー時に隆行さんと栗を食っていたジジイだ。生理痛の地獄から少しばかり解放されかけていた時のことだからよけいによく覚えている。痛みと匂いはその時々を色々思い出させてくれたりする。
「あーやっぱり重いんだー。ジジイだからぁー重いんだあー」
 そう私が後ろ指を差していたらジジイは急に立ち止まり、手すりをまたいだ。土手を下りるつもりらしい。さすがに昔リュック背負ってテッポウ撃っていただけはあると思った。滑りやすい短い草で覆われた土手の斜面を横に、ジジイは半身の体勢になって、斜面の下側になった右足を力強く地面を突き刺すように踏みしめ軸にして、上側の左足をすり足で動かしその軸になった右足を少しずつ下に押し出すように前へ進ませゆっくり土手の斜面を下って行き、次第に坂が緩やかになったあたりでスノボーをしているみたいに一気に滑り下りていた。
 やっぱ昔、猟師とかだったのかな? うーん、言われてみれば熊とか狸とかの毛皮が似合いそうにも見える。私もジジイの真似をして土手の斜面をスノボースタイルで滑り下りてみようと、手すりを石原軍団風刑事みたいに飛び超えて土手の斜面に突っ込んでみたいと思ったけどガキに両手を塞がれていて×。ちょっとだけ家から出られなくて不満タラタラで出会い系サイトにハマる主婦の気持ちが分かった。しかたなく私は土手に寝そべってガキを抱いたままコートをソリみたいにして土手を滑る。で、急には止まらず土手の下に生い茂るススキの群れに突っ込み、ホコリっぽいクッションの上に落っこちたみたいに小さな虫が一斉に湧き上がって私の上を飛び回る。これが蛍だったらかわいいのにどう見ても図鑑にすら載っていない粉のような虫ども。やれやれと私はついさっきまで白いはずだったコートを脱ぎ、ガキを包む。たしかこれ二、三万はしたのに完全に今夜からはガキの毛布だ。えらいこっちゃこれ。私、どんどんやる気をなくしてきちゃってる。自分に対しての。
「あーしんど」
 ススキの茂みから体を起こして目の前に広がる黒い川を眺める。気味の悪い、昨晩飲み過ぎたオッサンが歯を磨いている時のような声がした。ゲーゲーと。たぶんカエルかなんかだ。あとはなんか色んな虫の鳴き声と羽音が混ざったこれは自然の騒音だなと思えるような音が一面に鳴り響く。車のライトか? 遠くの方にちらほら見える光り。けどそれほど多くない。街灯も川の向こう岸にはないから視力の弱い私にはもれなく真っ暗だ。
「おーいジジイ! なんか分かんねーから私を探せー」
 と怒鳴ってみる。
「遊ぶな」 
 ジジイの声がしたと思ったら私は頭を鷲掴みされ激しくシェイキングされた。おおっ? 結構凄い力だ。
「起こしてくれー」自分で立つのが面倒くさいのでジジイに起こしてもらおうと思って、でも、そういえばジジイは隆行さんの死体を背負っていたんだってのも思い出し、やっぱり自分で立たねーとダメかとブツブツいいながら横にガキを置こうとしたら脇の下に手が入ってきてグイーと私の体は上に引っ張り起こされた。
「あれジジイ? 死体は?」
「もう置いてきた。お前も来い」
「どこに? あいにくコブ付きなもんでねーあんまり遠くには行けないのだよワトソンくん」
 とガキを肩の辺りまで抱き上げ私は言った。ジジイは何も言わず歩き出したので、きっとついてこいということなんだろうと私はただそのジジイの背中を追っかけた。川の中の中洲と呼べないほどの小さな砂利の丘みたいな物が高速からの光に照らされ、なんかほんの一瞬だけなのだけど、私の目にはそれがとても綺麗な物に映ってしまっていた。だけど、さっきキラキラ光るオシッコの入ったたくさんのペットボトルに囲まれていた女としては綺麗でも素直に喜べねーこともあるなと思わず感慨深げになってしまう。
「おーいジジイ。カエルうるせーな? ここら辺いつもこんな感じ?」私は聞く。
「ウシガエルか? 今朝食った。食いたいならあとで食わせてやろうか?」
「そんなんいらない。私、そこまで汚れじゃないし」
「スーパー行って、グラム八十八円のササミ買うより美味いぞーい」
「なんでそこで語尾を伸ばす? かわいくもなーい」
 たまに蔦みたいな物へ足を取られながら歩くのが早いジジイに時には追いつき時には引き離されながらひっそりと沈んだ河原の闇を歩き続ける。なんか無限の時間を歩いているみたいな感覚に襲われた。後ろを振り返るともう元には戻れない場所に飲み込まれてしまいそうな感覚。アイドル風にコメントすれば、「鮎川的にわぁーこういうのー嫌いじゃない人なんですぅー」って感じのスリル。とたんにさっきまで静かにしていたガキがなにやら活発に手足をバタつかせ始め「あー、うはー」と遠くにいる人間を呼びつけるみたいな声を上げた。相変わらず起き立てのモモンガの如くなりってやつだ。
「おー」
 とジジイが自分の頭の位置くらいまで高く上げた両手を叩く。私は何事? って感じでジジイの後ろに近づき一発頭を叩いてやろうと手を振り上げたのだけど、ジジイはその私の手を後ろへ振り返りもせず頭を前に倒してかわす。
「おっ! 達人ぶりやがって」私が言うと「ほら、あそこ」とジジイが指差したので見てみるとおぼろげに光る二つの点が浮かぶ。そろって目玉をデメキンみたいに見開いた二人の男が自分達の後ろをさかんに指差していた。ジジイ後ろっ後ろって感じで。納得。
「どう?」
 そう言いながら二人の男に近づくジジイ。一人の男はたぶんライトだと思うけどそれでジジイの顔を照らしたり、自分の顔を照らしたりしながらさかんに相槌を打っていた。そんで、自分の顔にライト向ける度に変顔のオンパレード。タコの口とか肉まんみたいに潰した顔とか。なんか泣かされたフグみたいな顔した奴。
私は退屈なのでアクビをした。するとライトがいきなり私の足元を照らし、そのライトは私を確認するように下から上へまるで舐めるように照らしつけると消え、また点いたかと思うと、今度はカチカチとした音と共に赤いライトも混ざりながら点いたり消えたりを繰り返し、やがて消えた。
「分かんない?」
 声と同時に急に後ろが明るくなったなと振り返ったらメガネが光に浮かんでいた。私はとくにこれといった反応もせず、そのメガネをじっと見つめる。
「なんか用?」私は言う。
「あいさつ分からなかった? ほら」
 とメガネをかけた男は自分のアゴの下でまたライトを付けたり消したりした。冴えない顔のメガネ男。赤いメガネの淵がさらにどこか首を傾げたくなるような気分にさせる。隣の家の、夫から暴力を受けている奥さんをいつか俺が救ってやるぞと望遠鏡覗いて拳を握り締めている三浪の男みたいな奴。
「ほら、こんばんわ、こんばんわ。あなたのお名前は? とか、撃てー止まれー退けー、ねっ? 分かんない?」
 男はしつこくライトをパチパチ。
「信号かなんか?」私は聞く。
「ライトとさらにライトのスイッチが切り替わる音も合わさった二重の信号なのに」
「ふーん。それってポピュラーなの?」
「ううん。俺が独自に考案した『もんた信号』」
 と男はほざいたので私は、
「お前もんたって言うのか?」と聞いた。
「聞かないでそんなこと。昔の名前だ」
 男はライトをまた点けてちょっと寂しげな顔をした。
「お前の寂しげはいいからジジイは? 何すんのか教えろー」
 と私は声を荒げた。
「あんた、美人だけどかわいくないね。まあいいや、ついて来て」
 と男は歩き出した。私も後頭部をかきつつ、ついて行く。やがて人込みのざわめきみたいな、でも静かでどこか色んなものが混ざったような夜の唸りと、一台、二台、ぽつり、ぽつりと聞こえてくる車の走行音と共により深く濃くなった闇の中、私が顔を上げるとそこには橋げた。たいそうご立派なT字型の柱の横にジジイはいて、さっきまでライトで百面相をして遊んでいたデブは柱が地面と接している一番下の部分の一回りほど丸く太くなっている所、鉢植えの鉢みたいになっている部分に腰かけていた。死体は見当たらない。
「おいっジジイ! どこやった?」
 と私は叫びながら歩いた。
「何が?」
「ほとんど隣り合わせだろうけど殺すぞジジイ」
「あそこ」
 あっけなく答えたじじいの視線の先に顔を向けた私の目にはドラム缶。緑の。少しの間、私はダッチワイフみたいに口を開け立ち尽くし、しばらくして意味に気づくと慌ててダッシュでドラム缶の中を覗いた。
(いた)
 中には毛布でくるまれた隆行さん。膝を折ってうずくまった形で。
「どうするつもり? だいたい想像つくけど」
 と私はドラム缶に手をかけたまま首だけ後ろを振り返る。
「堂々としすぎだお前。もう少しうろたえろ」ジジイが言った。うっせい! と思った。だってドラム缶に入っている物は隆行さんの死体に、横には青、白、プラッチックのタンクが二つ。すでに隆行さんの髪はプールから上がったばっかりみたいに髪がべっちょりと包んでいる毛布もろとも濡れているし、隆行さんと缶との隙間には間を埋めるように薪が詰め込まれていて、ついでとばかりにお菓子の袋だの落ち葉だの、ひどいことに魚の骨や玉子の殻みたいな物まで捨てられていた。物凄い匂いだ。ガソリンと生ゴミ、何ヶ月も風呂に入っていないであろう死体、大量の生唾とゲロが口から扇形に放射されてしまいそうな気分にさせられる。おお、神よ。臭いです。
「火葬場で良いじゃんこんなの。なんでわざわざこんなとこで」と私がほざいていたらジジイも私と同じようにドラム缶を覗き込み、
「おう、俺だってそう言ったわ。でもこうしてくれって真面目腐った顔で言いよるし」と言った。ジジイが自分の踵を浮かせ、背伸びをし、ドラム缶に手をかけてやっとの体勢で立っているのを見て私は、よくこんなスケールの小さい体でいくら痩せてガリガリになった隆行さんの体だとはいえ、あの家から一時間近く背負って、そんでこのドラム缶に放り込んだなんて信じられない。たぶんかなりの歳なはずなのに。うーんもし私が昭和生まれだったら惚れてるぜっ! んなわきゃない。
「隆行さんなんて言ってたわけ? ちょっと教えてみ?」
 と耳に手をかざしてジジイの顔に近づける私。
「とりあえず燃やすぞ。いつまでもこんなミカンの皮とかゴミと一緒じゃ浮かばれんし」ジジイは眠いのかアクビをしている。
「はあー? このゴミてめえが入れたんだろうが?」
「知るか。俺の仕事は隆行が死んだらその体を運ぶ、んー、それだけだ。ドラム缶やら準備は後ろの二人がやる。そう決まっとる」
 そう言ったジジイの言葉に私はパッと振り向き後ろのデブとメガネを睨んだ。二人はそろってジジイ、ジジイがやったんだよって感じで口をパクパク動かしながらジジイの背中を指差した。どっちがホントのことを言っているのかなんて明白だったけどまあ、ゴミを燃やすってのも合理的で悪くはない。深く追求しないでおこう。
「もう油はかけてあるから火、付けるだけね? ハイ。熱いから気をつけて」
 と声が聞こえたのでなんじゃ? と私が思う間もなく背中がホットホット! 
「うやっー!」
 私はエビ反りでぶっ飛んだ。
「パチパチっパチパチってぇーなんか、なんか焦げ臭いぞ! 何だこれ?!」
 私は背中に手を回して怒鳴る。手を見てみると縮れてベビースターラーメンみたいになった私の髪が無数にくっ付いていた。
「いやーちゃんと燃えるかなって実験してみただけなんだけど、やっぱ燃えたね」
 メガネの男は風に揺らめく真っ赤な炎を右手に笑いやがった。私はすくっと立ち上がると無言無表情で近づきメガネの男のみぞおちに掘り込むような蹴りを喰らわす。たぶんガキを抱いていなくてもパンチじゃなくてキックだった。触りたくないくらいにムカツキ。
「お、お、おごごごごご。やめてよ、やめてよもう。蹴らないでよ。仲良くしようよぉー」
 と砂利に崩れたメガネの男に目もくれず私は男の手から地面の砂利に落っこちたタイマツを拾い、
「お前が試せ」とメガネの男に投げつける。男はひいーと背中を砂に擦り付けて遊ぶ馬みたいにバタバタと地面へ転がって必死にタイマツの火を消そうとしているのかそれとも火自体から逃げようとしているのか分からないけど、とにかくとても貧素に火と戯れておいでなのであった。
「ほらもう一つあるからこれで火、つけな」
 とデブの男がタイマツを私に差し出した。火に照らされたせいでTV放送が全部終わった時に出てくる画面みたいな虹色のセーターを着ているのが分かった。なぜかネクタイもしている。
「さんきゅーデブ。お前は焼き豚にしないぞん! いつか酢豚で食っちゃる」と新しいタイマツを受け取る私。
「あいつ悪気ないから。ただ常識ないだけだし」デブはメガネをかばっていた。(悪気がないから逆に嫌なの! ああいう奴は)と私は言おうとしたけどやめた。デブに免じてメガネを許す。心の広い鮎川さん。もうすぐ十四。大人じゃーん! けっ、くだらね。
「じゃあ、火葬ショーの始まり始まり」
 とタイマツを高く高くかざす私。橋の下、天井のコンクリはたぶん建築されて初めてだろう、光に、それも火に照らされることなんて。
 火の赤に驚いたのかゴキブリみたいな虫がそさくさと逃げる姿を多数目撃。コンクリの汚れなんかもタイマツなんて自然で不安定な灯りを受けると怪しい壁画みたいにも見えてきてなんだか笑えた。まるでお化けがダンスしているみたいな汚れ。
「おい、火は投げ込め。直接いくと危ないぞ。すぐ燃え上がる」
 ジジイが私に注意した。小賢しい真似を。ジジイのくせに。
「うん、最近はそうみたいね。分かってる分かってる」
 と私はドラム缶から二歩くらい後ずさりして、アンダースロー気味にタイマツをドラム缶へ投げ込む。火は車輪みたいに回転しながら弧を描いて缶に落ち、私の目が点になるほどビックリするような火柱と、目の前を新幹線が一気に駆け抜けたかのような迫力のある音と共に燃え上がった。ここで一応、私は女の子らしく驚いてしゃがみ込んでしまったということを付け加えておきましょう。名誉のためにね。
「お前、中に何入れた?」
 メガネが言った。
「いやー全部灰になるまでなんてわかんねーからさ、油だけじゃ弱いかなーと思って、とにかく力のあるもん入れたれと思って、火薬とかよ、ちょっと昔の現場から拝借したんだ」
 デブは頭をかく。
「爆発したりしないのかい?」
「さー、でも大丈夫だったじゃねーか俺達。柱の後にいたし」
 とデブはメガネの肩を抱いている。「まあな」とメガネも納得したような顔をしてデブと拳と拳をぶつけ合っていた。私はまた世の中に殺したい奴が二人増えたのと、もう少し労わってもらえるようにかわいくなりたいなんて、燃えさかる炎の中で灰になろうとしている隆行さんの抜け殻に願ったりした。
「おう。座ろうや」とジジイが私の前にビールケースを投げつけてきた。転がって私の脛に当たる。痛い。私はガキを抱いていて両手が塞がっているので、足を上手く使ってビールケースをひっくり返し、座る。
 変なキャンプファイヤー。そんだけの感想だった。ドラム缶から上がる炎は、はしゃぐ子供みたいに元気に弾ける音を上げながら踊り狂い、上を走り去る車の音や振動はもうほとんど聞こえなくなっていた。背中は肌寒く胸は素直に喜べない火の暖かさで覆われている。ジジイは私と同じにビールケースに座り、メガネは地べたに体育座り。デブはまた柱の出っ張り部分に腰かけていた。とても静か。静かにみんなで火を囲んでいる。
「痛くなかったか? ケースが当たっとっただろう? 脛に」
 ジジイは言った。
「痛かったよ。物凄く」私は短く回答。
「ふふん。へんな娘」とジジイも短く。
「我慢してるのか? お前」
 デブの男が言った。
「我慢? 何を? なんで我慢なんかしなくちゃいけないわけ?」
 私はデブを横目にほざいた。
「今時の子ってこんな感じなんですかね? ジイさん?」
 メガネが私を指差しながら半笑いで言った。何だかバカにされている気がした。
ジジイが立ち上がってデブの座っている柱の後ろに消え、少し間を置き、また戻ってきた。手には紐で結ばれ、束になった大量の薪があった。ジジイは薪の束を地面に下ろすと色や形の悪い先が割れたやつを束から一本抜き取りドラム缶に投げ入れ、再びビールケースに腰を下ろすと「そっかぁ? 昔にいた女のタイプだぞこいつ?」と笑った。
「昔っていつだよジジイ」私が聞くと、ジジイは「戦前」と答えた。
「アホ。昔どころじゃねーじゃん。もう歴史じゃんそれ。教科書に載っててテストにも出てきそうな時代の話するな。頭が痛くなる」
 と私が舌を出すと、メガネは、
「ボケたジイさん? どう見ても支えそうじゃないよ。旦那さんとか家をこいつ。過去外人のお嫁さんにしたい女性ナンバーワンになった大和撫子の微塵もないじゃん。まあアメリカ女よりはマシだけど」と言った。
「あー知ってる。えっと料理作る女は中国人。愛人とか、恋人はフランス人で嫁さんは日本人が最高ってやつだろ?」
 さっきまでボケーとしていたデブが身を乗り出して喋り出した。
「あーだからジイさんが言ってるのは昔の女ってのはジイさんが世話になった風俗嬢っていうか昔なら遊女か? そういう女でしょ? 根性決まってるっていうか冷めてるっていうか。なら話は分かるよ。この子どこか妖しいもん。色もんの匂いがするもんね」
 そう言ってメガネはただ私に触りたいだけなのか、盛んに背中を叩いてきたり肩に手を回してきたり、寄りかかったりしてきた。痛いのを我慢するよりこっちの方がヤダ。悪寒。
「いや、違う。何て言うのか、その、しゃんとしとったんだ。昔の奴は。少々のことにはな? 動じずに、こう凛としてな? だから案外昔の女はそんなに泣いたり笑ったりと今みたいには忙しくなかった気がするぞ」
「それは勘違いだって。あれでしょ? もう七十年とか前の話でしょうが? ボケてるんですよあなた。それに今の女の子だって感情薄いですよー。感動しないし、言葉はカワイイーとムカツクーとかしか喋らないしね」とメガネがメガネを拭いている。汚い服の袖で。
「それ、お前が毎月五万貢いでた浅野の中学生の話だろ? また思い出したか」
 口を抑えてクスクス笑うデブ。ばつが悪そうにメガネをかけ直すメガネ。
 私は手を大きく上げて背伸びをした。男が理想の女の話で盛り上がっている中の女ほど退屈でつまんないものはない。あきれも付き合って体がだるだる。もしみりんならこんな話に首突っ込んで一緒に盛り上がれるのだろうか? 想像できないね私には。まったくデブとガリのメガネ野郎にちっこいジジイが人を燃やしている火で暖を取りながら女の話に欲望丸出しで花を咲かしているなんてまるで悪魔の宴じゃんこれ。
「ほら、これやる」
 私が三人に呆れて生アクビをしていると、ジジイは短パンのケツからぺらぺらになった何かを私に差し出す。火の灯りの強いほうにかざし見てみたらそれは通帳だった。名義は隆行さん。中を覗いた私の第一声は「うわっ! これは少な……」だった。
「だろ? たぶんもっと貯めてお前に渡したいと思っていたに違いないが、まあ、あれだ、あいつらしい。いつも失敗して苦笑いだ」
 とジイサンは鼻をほじる。
「お前達が勝手に使ったんじゃないわけ?」私はデブとメガネに言った。二人だけじゃなくジジイまで慌てて首を振ったのが面白かった。
 通帳残高七万二千百二円。決して私の金銭感覚の中じゃ安いお金じゃない。むしろ大金かも。でも通帳を受け取った時すぐに私はこの通帳が誰の物でどういった意味を持っていて私の手元にきたのかすぐに把握したので、きっと中には大げさだけど遺産みたいな気持ちの入った金額があるんじゃないかって身構えて通帳を開いたのだ。だから、安って言ったのはそんな、中にいっぱい入っていると思っておもいっきり掴み上げたのにジュースの缶が空っぽだった時のような腕の力にも似た無駄な心のフライング。
 でも、通帳の記述を見て私は動けなくなった。
 千円単位の預け入れ。毎日の細かい積み立て。時には千円預け入れされたあとですぐにまた同じ日に二千円入っていた。五千円入ったあとで千円だけ下ろしてある日もある。きっと預け入れしたあとでやっぱりビール代だけとか煙草を一箱とか思っちゃってたりして、そんで、そんで、そんで……。
「らしい。ホント」
 通帳を閉じようと思って、でも手に力が入らなくて、で、私はその通帳を開いたままに顔を押し付けた。自分の顔を隠すように。
 きっと今、目の前で燃えている物はずっとこの通帳より隆行さんに近い。死体なんだからその物だろう。でも、私はこの通帳の方がずっと隆行さんな気がした。だから上手く離せないんだ。通帳を開いたこの手。
「嬉しいかその通帳?」
 そうジイさんの問いかけに私は通帳で顔を隠したままただ一つ大きく大きく肯くしかできなかった。痛すぎるから。
「お前悪くない女だな。勘がいい。若いのに」
 ジジイはそう言って私の頭を撫でた。黒光りと火に燃えた半々の笑みで。
「でもなんでこんな風にして欲しかったんだろう。そんなに良いかな? ドラム缶で焼かれるの。お風呂だったらありとは思うけど」
 やっと体の金縛りみたいな緊張が取れた私はジジイに聞いた。
「ああ、そりゃジイさんが悪いわけよ。ジイさんの嘘話にハマっちちゃってさ」
 とデブが足をぶらぶらさせている。
「嘘じゃねーよ。ホント話だ」
「なに? オモロイのそれ? 教えろ」私は聞く。
「面白くねーぞ。死体の話だからなー」
「あっそ。そりゃ面白くなさそう」
 私は興味がないふりをする。
「いや意外に面白いかも知れないぞ。なあ? ちょっと聞いてみ」
 甘えるような声でせがむジジイ。キモイ。
「たぶん聞いても面白くないよ。あれでしょ? 死体を並べて焼いてた話」
 とメガネが言った。
「お前が言うな! 黙っとれ!」ジジイが一喝するとメガネは唇を尖がらせてどこかすねたようにブツブツ言いながらデブが座っている柱の方へ歩いて行った。
「いいか? 話すぞ」
 さっきまで落ち着きはらい、余裕ぶっこいていたジジイが今は子供のような表情でとても話したい、聞いて欲しいって顔をした。
「はあ? まあ話せば?」
 長いんだろうな、話。ジジイだし。年寄りに大人気だなんて嫌な才能が芽生え始めているんじゃないかって心配になった。数年経ったら背中に『巣鴨のアイドル』なんて旗差して七三のマネージャー従えて営業してたりして。私はぶるぶると水浴び後の犬みたいに身震いをした。
「俺なあ、昔、市の保健課ちゅーとこにおったんだ。ここらには昔製鉄所もあったし爆弾もよけい降ってきて人も死んだ。で、川やら瓦礫の下になった死体やら運んできては焼いてたわけよ。死体を燃やす臭いと未処理の死体の腐りだした臭いがーほら、混ざり合って凄えのなんのって、もうあれから半世紀以上経つのに今でも思い出すと飯、食う気がうせるくらいでよぉー」
「ほう、それからどうしたっと」
 私は適当に相槌を打つ。
「山があんだよ。百メートルくらい間隔で並んでんだ。死体の山。燃えんだよなーいつまでもよぉー。で、暑いからいつも途中でシャツ脱いで、そのシャツで脇の下とか顔の汗拭きながら眺めんだよ。いつまで燃えてんだってな」
「で?」
「終わり。そんだけ」
「終わりかいっ! ジジイのくせに短か! 話、短か!」
 取り敢えずお約束として私は座っているビールケースから転げ落ち、また座り直す。
「な? 面白くもなんともねーだろ? 小学生が夏休みの登校日に見せられる戦争映画の感想文以下だぞ。経験者なのに」
 メガネは遠くの方でせせら笑っていた。でもジジイが睨むと顔を背けた。
(そういう問題より、この話のどこに感じるものがあるわけ?)
 今さらに隆行さんの思考が想像できなかった。
「一年くらい前か? この二人とか他にも仲間集めて、ここで隆行に診察してもらっててよ。そん時俺が最後に診察してもらってて、あいつが、その、いきなり」
「死ぬかも。別に死にたくないもないけどって?」
 すっと出た。私の口からこのセリフ。でも正解でしょ? ジジイ。
「おっ? ちょうどそんな言い方だったぞ。冗談かと思ったが、前に話した死体の話聞かせてくれってせがむんだよ。七つ八つのガキじゃあるまいし」
(想像できないな)
 きっと私には絶対見せない顔をしたんだと思った。雪樹に対してするべきだったはずの顔。
「栗食ってた時も打ち合わせみたいなもんで、まあ、最近はちょくちょく顔出して面倒見てた。さっきお前が来てた時も隣におったわ。悪い」
 ぺこんと頭を下げるジジイ。
「別にぃー。私のことは何か言ってた? 雪樹のこととか?」
「言わんでもなあ、分かるだろ? お前、勘がいいから」
 隆行さんみたいなことを言うジジイ。
「一人でめいいっぱい痛がって、うろたえて、我慢したかったんでしょ? どうせ」
 全て推測だったけど、でも良いじゃんと思った。死んでしまったらこっちのもんだ。痛いくらいに美化してやる。
「なあ? もう帰ったらどうだ? 全部灰になるまでにはもう少しかかるしな。夜も明ける。ガキがこんな遅くまでブラブラするな」
 とジジイの言葉に(ここまで連れ回しといて何ぬかす)と当然思ったけど確かに疲れた感じがする。火を炊いているといったってやっぱり寒いからガキにもキツい気がする。今さらだけれども。
「帰ろうか?」
 ちょっとだけ、燃えさかる火に後ろ髪を燃やされる……ううん、引かれる気分だった私はガキに尋ねる形で席を立った。ずるいっす。
「気をつけてお帰りやっしゃ。物騒だからね、ここらへん。見ての通り真っ暗だし、格好のレイプスポットだから」
 デブの声が聞こえる。少しむせた声だと思ったら何かを食ってやがった。まさかこの火で焼いた物じゃねーのかと一瞬引いて疑う。
(なんかつい最近も似たような忠告されたな)
「僕、送っていこうか?」メガネが言った。当然断る。もうその手には乗るかい。まあ、何かあってもどうせ勝てるだろうけど。
(同じようなこと言ってた奴がいたな。歴史は繰り返すか)
 私はしみじみしながら死体焼きの煙舞う中を通り抜け、また同じ煙みたいな少し青みかかった霧の漂う河原を歩き出した。
 確かに今は明け方で霧も漂っていて視界はないに等しい。けどそれを差し引いたとしても土手の上は車以外、ほとんど通らないし下は背の高いススキが全てを覆い隠していて見えにくく、何より昼間は車の騒音が凄い。高速の入り口があるからいつもバカでかいトラックが走りまくっている。まさに格好のいたずらスポット。もしくはエロ本とペットボトルの墓場。
「お? どーした?」
 ガキが急に泣き出した。泣き叫ぶような泣き方じゃなくて、あっあっあってしゃっくりを繰り返す感じの泣き方。オムツかミルクか? いまだに表情だけではさっぱり分からん。桜子は分かっていたみたい。さすがに。雪樹はたぶん分かってないだろう。
「泣きやみたまえ。あー僕が、僕が命にかえてもー必ず、必ず君を守ってあげようー。さぁ僕にしっかりと掴まっているのだよ? 君を連れ、このうごめく漆黒の闇をみごと切り裂き駆け抜けてみせる!」
 私はガキを高く高くかかげて朝がすぐそこまでやってきている薄い紫な霧の中をクルクル回った。宝塚風に。
「うええ」
 バカだから回り過ぎて土手に倒れ込むように寝っ転がった。体中に草のカスがこびりついていて何だか青臭い。
 あー疲れた。なんかとても疲労だ。体を大の字に大きく広げてみても心地良くない。きっと自分で考えている以上に消耗しちゃってるみたい。部品不足、回復不能、回復不能、ピピ……。
川沿い、土手で明け方のしんと冷たい朝靄の中にいるのに妙な汗をかいていた。頭が痛く目がパチパチして妙な動悸がする。
「そう言えばお前も男か」ガキを胸に抱いたまま楽な体勢になろうと横に体を倒す私。なんか、男は疲れる。男は何かを欲しがって私を尋ねてきて私が何も持ってないと言うと黙って私を削り取っていく。
 私、私、私、私の時間は今やこのガキが半分以上を持っている。光彦は私の昔を持っていったまま眠る。隆行さんは私の気分を持っていったまま燃えた。小太りの男は痛みの感覚を奪っていった。 
(携帯?)
 バイブの振動。ガキが震えている。じゃなくてガキを包んだコートのポッケが揺れていた。メールじゃなく電話。
「はい?」
「ひどい。地図まで書いて待ってたのにぜんぜん来ないし真樹」
 電波の向こう側は黒い声。
「近くにいるわけ? 車の通った音がした」
ライトが私の体を横切るのと同時に、大小、同じような騒音が聞
こえた。どちらも車が走り去る音で大きい音は辺りに響き、小さい音は携帯の向こう側から。
「見上げてみればいるよそこに」
 体を反転させ土手にうつ伏せになり見上げると土手の上にはマッチ棒みたいな影が一つ。
「今日はオーバーオール着てるのか?」
 声を張り上げれば聞こえない距離でもないだろう。でもオーバーオールと話す時はこれで、携帯で話したほうが良さそう。
「前は真樹が近すぎたから。うまくできなかった。この格好」
「また訳の分からんことを」
 と私は口を尖らせる。霧でよく顔が見えない。モザイクがかかっているみたいに見える。ちょうど良い。こんな朝に見たくない顔。
「ここまで上がって来れる? 土手を」
「行けるよ。でも行かない」
「嘘だ。来れないんでしょ? 疲れてるね真樹。自分が思ってる以上に。無理がきてる」
「分かってんじゃん。だから待ち合わせはキャンセル」
 と私は目をつぶり大きく両手を広げ仰向けになった。湿気のせいか草の匂いが凄い。お世辞にも良い匂いなんて言えないもの。私は何となくガキが産まれた時のあの血と公衆便所の臭いが混ざったような吐き気誘発剤ともいえる臭みを思い出していた。でも不思議と嫌な気分はしない。きっとここら辺の草は毎朝この霧に濡らされ露をまとい青臭さと共にもう一度、緑の力みたいなのを得てしぶとくその日一日を生えていくのだ。乾いていることはさっぱりしていて気分は良いかもしれないし無臭も理想だきっと。でも力はない。今の私みたいに。
 私は大きく息を吸い込んだ。目の前をただよう霧を吸収するつもりで。この土手の草のように朝露にまみれ濡れて回復するために。
「どんな顔してるの今。教えて」
 オーバーオールは言った。
「痛い顔。ガキが今髪引っ張ってるから」
 私は言った。
「僕の見たことない顔だ。羨ましい」
「なら殺すか? 止めないけど」
「悲しくないの? 赤ちゃん、死んでも」
「そうしたらお前が喜ぶだろ? 私、人の喜ぶこと大嫌いなんですー」
「じゃあ女の子が死んだ時も悲しくなかった?」
「女の子? ああ、お前がバラバラにした子か。お前は悲しかっただろ。私が哀しまなくて」
 私の言葉にオーバーオールの返事はなく、沈黙が続くなか少しずつ霧も晴れていく。
「よっと!」私はガキを抱き体を起こすと無理なくらい全力で土手を駆け上がった。
 もういない? 周りを見渡して探す。オーバーオールのシルエットを。
「人のことばかりだね。真樹は。先生の言う通りだ」
 ホントの声。初めて聞く大きな声。×印の背中、オーバーオールの背中。
「また先生か」
 そう私が近づこうと一歩踏み出すと、オーバーオールの背中は一歩遠ざかった。
「自分の知らない顔が大嫌いだった。想像するだけでも哀しくて死にそうになる」
「何それ? 想像? オカズか? どうぞどうぞ好き勝手に脱がすなり犯すなりやってクリ」
「初めはもっと一緒にいたいって思っただけなのに。こんな凄い力になるなんて思わなかったよ。どうにも止まれない力。息のしかたも忘れてしまっていたのに」
「ほう? 朝起きてたら神様にでもなってたか? それともあれか? 金色のオーラでもまとってたとか?」
 もう慣れたものだ。サイコさんとのトークは。
「真樹が誰に会おうとどんな新しい顔しようと別にムカツカないよ。でも真樹は同情したろ? 一瞬だけどあの女の子に」
「同情?」
 変な感じがした。言っていることは相変わらず訳が分かんないけど、どうも変だ。気持ち悪さがない。何て言うかハッキリしている。いつもぼやけた印象なのに。朝靄が残るこんな虚ろな空間でとても際立って存在しているのだ。今日は人間な気がする。こいつ。
「同情は僕の物なんだ。真樹の同情は。他の誰にも分けたくはない」
(感情が出てんなー今日は)
 私は感心した。リストラされた証券マンのようなオーバーオールの後ろ姿に。
「あれか? なんかの腹いせで分解したのか? 女の子」
「どうにもならない時間があるんだ。遠くで見てるしかない時間が。体が熱くなって。周りはとても真っ赤で。心の中を裏返しにされたみたいになるんだ。だから真樹のことはなるべく考えないようにしてた。でもダメだね。だって僕には他にすることなんてないんだもの。せっかくこんなに上手く動けるようになったのにね」
 懐かしい顔だった。いつものようにキャップを深くかぶって読み取りにくい顔ではあるけど。口元が笑っていた。いやらしくではなく、それこそこいつが殺したあの日の、公園で私の髪を掴んで離さなかったあの女の子が見せたのと同じように。
「殺り逃げか? 殺さなくて良いのかこいつを」
 と私はガキを両手で前に突き出した。
「そんなことしたら先生に怒られるでしょ」
「またまたまた先生か! そいつ連れて来い一回。掘りコタツに突っ込んで一酸化炭素中毒にしてやる」
「良い先生だよ。僕を切り刻むこともしないしね」
「学校の先生かなんかか? いや違うか。お前学校行ってそうにないもん」
「真樹よりも前に会いに来てくれた。僕が寝ている時でも。毎日決まった時間に話に来てくれた。真樹の話」
 ――私は口を閉じた。あんなに湿って順調だった口を。閉じずにはいられなかったんだ。
「煙、見える。さっきは霧で見えなかったけど」と隆行さんの抜け殻を燃やし続けている橋げたの方を指差すオーバーオールの横顔。その大人びた顔に声が出なかった。
 いつも私は言っていた。そんな大人の顔するなって。
「今、辛いでしょ真樹。ごめん僕のせいもあるけど。でも、きっと無理がきてるんだよ。気持ちは良いけどね都合良く記憶を書き換えるのって。でもほっとくと僕みたいになるよ?」
 すぐ、駆け寄りたかった。名前を呼んでやりたかった。でもたぶん、私が近づくほどに遠ざかる。それを知っているから哀しんでるの? お前、狂うほどに。
「かわいそうだ。お前」
 どうしてそんなに哀しそうな笑い方ができる? 目を細めて。
「ホントかわいそうな? 最悪だよお前。頭撫でてやるからこっちにこい。ね? こっちに」肩が痛いくらいに荒く呼吸してる。私、今。肺がいっぱい、胸いっぱいで痛くてしかたがない。どうして昨日からこう痛いのかな? どうしてこんなつまらないことしか言えないわけ? 私。
「ありがと。同情してくれて」
 空から降ってくるような声。土に帰ることもできないのに。
「良いからこっちに! 膝の上に座らせてやる。好きなポーズとってやるから!」
「一緒に行けたら良かったけど地図の場所。帰ってごらん真樹。そしたらきっと、もっと痛くなるだろうけど楽になるよ。きっと」
 どっかに行ってしまう。いや、帰るの? 嫌に決まってるのにあんな退屈な場所。ひどい場所。白い地獄。でもかわいい顔をしている。両手で包んでやりたくなるような顔。
「もう会いに来ないで。あまり見られたくはないんだ」
 オーバーオールはいなくなった。消えたんじゃなくて、立ち去った。用がすんだから。気持ちがすんだから。
「そんなに顔見るな。今私も、あんまり見られたくない」この時、私の瞳を覗き込むように無条件で甘えてくるガキの瞳が初めて、たまらなく卑怯に思えたんだ。











2010/04/03(Sat)00:44:30 公開 / 真田奏
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