『蒼い髪5』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:土塔 美和                

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 それから数日後、クリンベルク将軍は皇帝陛下に呼ばれて登城することになった。
「ねっ、僕も連れてって」と、カロル。
「今日は王子様たちの会食のある日でしょ」
 月に一度、登城を許された王子たちが、皇帝陛下と一緒に食事をする日だ。
「ねっ、あの子も来るよね」
「あの子ではなく、ルカ王子とお呼びしなさい」
 将軍は登城のための着替えを侍女に手伝ってもらいながらも、猫のように絡み付いてくる末っ子を叱る。
「うん。わかっています。だから」
「うん。ではなく、はい」
「はい」と、カロルは元気よく返事をする。
「まったく、お前が甘やかすからだ」と、妻に文句を言いながらも、やれやれという顔をし、
「私は陛下の御用が済むまで戻れないから、自分の用が済んだら先に帰りなさい」
 カロルは飛び跳ねて喜ぶ。
「まったく、甘いのはどちらなのかしら」と妻。

 王宮へ着くと、カロルは父に王子たちの従者が控えている部屋を教わり、そこへ向かった。案の定、そこにリンネルの姿を見つけたカロルは、大声で彼の名前を呼びながら走り寄った。
「これは坊ちゃま。どうしてここへ」
「たぶん、ここに居ると思って。王子様は?」
「会食中です」
「あっ、そうか」
 リンネルはおもむろに携帯の時計をみて、
「そろそろお戻りになられるとは思いますが」
「それじゃ、ここで一緒に待っていてもいい」
 リンネルは困った顔をしたが、駄目だ。と言ったところできいてくれるような方ではない。
 そこへドレクスラー伯爵夫人がやって来た。夫人にはナッセルというルカより三歳年上の王子がいる。夫人はカロルをルカ王子と勘違いしたのか、それとも自分に文句があったのかはリンネルには判断しがたいが、いきなりきつい口調で話しかけてきた。
「どういう御つもりなの。ナッセル王子を差し置いて軍旗をいただくとは」
 リンネルはきちんと礼を取ってから、
「そう言われましても、陛下がくだされたものです。私たちはただ受け取ったまでのことでして」
「辞退すればよろしいでしょ、まだお小さいのですから。それとも私たちに何か恨みでもあって、こんな嫌がらせを」
 嫌がらせなどしてはいない。順番を取り違えたのは陛下だ。と言いたいところをリンネルはじっと堪えた。
 夫人のあまりの剣幕に、カロルはそっとリンネルの影に隠れる。
 そこへルカが戻って来た。
 リンネルはまずいと思ったが、ルカは既にこちらの状況を察していたのか、
「ドレクスラー伯爵夫人、初めてお目にかかります」と、ルカの方から声をかけて来た。
 静でよく澄んだ声だ。
「出すぎたような形になり、申し訳ありません。陛下は何か勘違いなされたのだと思います。ナッセルお兄様にも、早く軍旗が授かりますように、僕からも陛下にお願いいたしますので、今回のことはお許しください」と、丁寧に頭を下げる。
 夫人は暫し二人の子供を見比べていたが、こっちがルカ王子だと確信すると、ルカに面と向かって、
「あなたの口添えなどいりません。人を馬鹿にするのもいい加減におし、平民の娘の子が」
 吐き捨てるように言うと、その場を去って行った。
 ルカは暫し夫人の後姿を見送ると、リンネルに向き直り、
「僕のことで迷惑をかけ、すみませんでした」と、丁寧に頭を下げた。
 これは奥方の躾。例え相手の身分が自分より低かろうと、お礼はお礼、お詫びはお詫び、はっきり態度で示すようにと。
「いいえ、こちらこそお陰で助かりました」
「でも、かえって怒らせてしまったようです」
 何を言っても結果はああだっただろうと、リンネルは思った。
 会食の方はとリンネルは訊きたかったが、御様子から見ていつもと同じようだ。これで数回になるが、ジェラルド王子様以外に友達ができた様子はない。血筋があれば、将来の利益のためお互いの友好を結ぼうとするのだろうが、何の利益にもならないとなると相手にもされない。まだ小さいから無理もないことなのだが、でも五歳のわりには先程の会話なども。
 何事か考えているリンネルに、ルカは声をかけた。
「戻りましょうか」
 リンネルは我に返り、自分の背後に隠れている少年をルカの前へ押し出す。
 カロルにしてみれば、人から怒鳴られたのは初めての経験だ。否、怒鳴られたことはある、父親に、それも耳にたこが出来るほど。だがあれほど悪意に満ちた怒鳴られ方は初めてだった。ましてあのような貴婦人から。
 父親に怒鳴られるのは自分が悪いことをした時、その言葉の裏には優しさがある。でも今のは、敵意。
「どうなされました、坊ちゃま。お会いしたいと仰せではありませんでしたか」
 その人物が目の前にいる。
「うっ、うん」
 リンネルは優しく笑いかけると、
「大将軍のご子息が、たかだか夫人の一人に気圧されるようでは、ネルガルの将来が思いやられます」
 カロルは恥ずかしそうな顔をして、
「だって、ああ言うの、俺、初めてだったのだもの」
 リンネルは笑う。
 だがカロルについてきた従者も唖然としていた。
「一体、今のは、何だったのでしょうか」
「恥ずかしいところを見せた。これが王宮の内情だ」
 王子のお傍近くに使えていなければ知る由もない。
 王子が闇から闇へと葬り去られていく理由の一つ。妬み、僻み、嫉妬、そして王位継承争い。この方に王位継承争いは無縁としても、こういう形で何時何処で命を狙われるとも限らない。出る杭は打たれる。
「殿下、こちらは私がお世話になったクリンベルク将軍のご子息のカロル様です」
 やっとここで自己紹介になる。
「はっ、始めまして、俺、ではなくて、私」
 慣れない言葉は扱いにくい。日ごろから父に言葉遣いを直されていたが、今その意味がわかった。わかったところで、もう遅いが。
 この人に嫌われたくない。そう思った瞬間、言葉が出なくなった。
「ルカと申します。よろしく」
「あっ、俺の方こそ」
 いつものパターンになってしまった。だが王子は気にした様子がない。俺より確か、六つか七つ下のはずだが、何故かそう感じさせないものがある。下手をすると俺の方が子供のような。
 そこへオルスターデ公爵夫人とそのご子息のグループがやって来た。こちらは列記とした門閥貴族の血を引く王位継承権の持ち主たちだ。
「あら、カロル君」
「これはオルスターデ公爵夫人、ご無沙汰しております」
「近頃遊びに見えないと思いましたら、お知り合いですか」と、ルカを横目で見る。
 そこには侮蔑のみがある。まるで汚いものでもみるような。
「今、知り合ったばかりです」
 カロルは学校が始まったのをいいことに、夫人たちの館へ遊びに行くのをやめた。なにしろクリンベルク将軍の息子だ。将来、自分の息子を軍事面から助けてもらおうとする夫人たちのもくろみから、どの館に遊びに行っても下にも置かない騒ぎだが、カロルは何となくそれが嫌だった。
 彼女たちは、俺のことが好きで誘っているわけではない。父の力が好きなのだ。其れぐらい子供の俺でも解る。
「今から、私の館へ来ませんか。ピクロスの剣術の相手をしてくださればあり難いのですが」と誘われ、カロルは断る。
「俺、今から勉強しなければならないのです。この間の成績、悪かったもので、父がカンカンで」
 大将軍でも、息子の成績は連合艦隊を動かすようにはいかないようだ。何しろカロル艦隊は、一つも指示には従わない。命令違反もいいとこだ。
 夫人は扇で口元を隠して微笑むと、
「まあ、お勉強ですか」
 彗星がぶつかるよりもあり得ないことだ。
「そういうことで、申し訳ありませんが」
「わかりました。では暇な時にはいつでも来て、ピクロスの剣術の相手をしてやってください。この子も軍旗をいただきましたから」
 そういい残すと去った。
 カロルは、ほっと溜め息をつくと、
「剣術の相手なんて言うが、あんな下手な奴に負けてやらなければならないんだぜ、こっちがイライラしてくるよ」
「坊ちゃま」
 従者が咎める。ここは王宮、あまり大声でそのようなことを、後でどのような罪に問われるか知れたものではない。強いては将軍にまで害が及びかねない。
「勉強ですか」
 リンネルは感心したように言う。
 やっとこの方も少しは。と思ったのも束の間。
「何だリンネル、本気にしたのか。俺が勉強などするはずがないだろう」
 リンネルは唖然とする。
 従者は苦しそうに笑いを堪える。
「大佐も、暫く坊ちゃまの傍を離れていたため、勘が狂いましたな」
 坊ちゃまと勉強ほど両極端に存在するものはない。
「さて、うるさい奴等は断ったし、遊びに行ってもいいかな」と、カロルはルカに訊く。
 ルカもてっきり勉強するものだと思っていただけに、不思議そうにカロルを見てから、
「オルスターデ公爵夫人のお誘いを断ってまで、僕のところへ来てくださっても、僕のところには何もありませんが」
「別に、何かが欲しくって行くわけじゃないよ」
 そう、ルカ王子という人物に興味を持っただけ。
「剣術、教えてやるよ。リンネルから教わっているんだろ。俺もリンネルから教わったんだ。リンネルは武術大会で優勝したこともあるんだぜ、知っているか」
 リンネルのことだ、おそらく言っていないだろうと思って訊いてみた。そしたら案の定。
「その時は父が随分自慢していたんだ、まるで自分のことのように。だから俺、小さかったけどよく覚えているんだ。だから俺もと思って、それからずーと、リンネルが暇な時は教わっていたんだ」
「それは全然知りませんでした」と、ルカはリンネルを見る。
「言うほどのことではありませんから」
「優勝だぜ、言うほどのものだろーが」と、カロルはリンネルをからかう。
「なっ、遊びに行ってもいいだろ」
 結局、カロルに強引に押されて、ルカは返事をしてしまった。
 リンネルはやれやれと思いながらも、同じ年頃の友達ができることは良いことだと考え直し、二人を車に乗せる。
 カロル付きの従者は、後で迎えに来ることになった。
 王族専用の車は豪華だ。移動する応接間のようだ。技術の粋を集めた内装、ソファにテーブル、大人、十人はゆうに乗れる。
 先にルカが乗り込んだ。その後にカロル。カロルは王族車に乗りなれているのか、その豪勢さに驚くふしもなく、テーブルを挟んでルカの前に席を取った。リンネルはルカの隣に座る。
 モーターのハム音が軽くうなり、車は滑らかに走り出した。ルカの館までは車で一時間、ルカの館は後宮の一番外れに在る。
 カロルはソファに踏ん反り返ると、
「ハルガン、何処にいるか知らないか」と、リンネルに訊いてきた。
「彼に、何か?」
「この間、久しぶりに見かけた。それも、姉貴の社交界デビューの日だ」
「シモンお嬢様も、もうそのようなお歳に」
 リンネルの感嘆を尻目にカロルは、
「姉貴の相手、誰だと思う?」
「さあ?」
 私などには皆目見当もつかない、さぞお血筋の立派な方なのだろうと、考え込んでいると、
「ハルガンだ」と、カロルはいまいましげに吐き捨てた。
「あの野郎、姉貴にまでちょっかい出しやがって」
 血筋はよいのだが兵士たちの中で育ったカロルは、言葉遣いだけはしっかりと彼らの教育を受けたようだ。
 リンネルはそんな姉思いのカロルを優しい眼差しで見詰める。
 カロルの握り締めた両手は、怒りで振るえあがっている。今度会ったらただでは置かないという感じだ。
「あいつ、よりによって滅多に目にすることのできない最高級の花を持って現れやがった。しかも時間に遅れやがったくせに、言った台詞が何だったと思う。シモンお嬢様のために、この花を探すのに時間を費やしてしまいました。私の給料では五本が精一杯です。これは私の心です。どうかお納めください。だとよ。聞いてて反吐が出る」
 リンネルはハルガンだから言える言葉だと感心し、ルカは呆れた顔をした。そもそもその花は、ジェラルドがナオミに持って来た花だ。高価な花は意外な使い道があるものだな。これで遅刻した理由と愛の告白と両方の意を持たせている。
「それにあの姉貴の喜びよう。あいつの女癖は知らないはずないのに、女とは高価なものに、ああも弱いものなのかな。あいつ絶対、女の所から来たに違いないんだ、服も持ってこないし、親父の服かりて踊ったんだぜ」
 カロルは一気にまくし立てた。
「姉貴も、あんな男に騙されるなんて、見損なったぜ」
 カロルは近い将来姉がハルガンに騙され捨てられることを想像し黙り込んだ。
 落ち込んでいるカロルが哀れになったのか、リンネルは自分の考えを述べた。
「騙すの騙されるのとは違うと思いますが、おそらく利用したのはお嬢様の方ですよ」
 リンネルの意外な言葉に、カロルは彼を睨む。俺の姉は人を利用するような人ではない。
「俺の姉貴が、ハルガンを利用したというのか」
 少し憤慨したようにカロルは言う。
「いえ、閣下が。いや、やはりお嬢様でしょうか。お嬢様は聡明な方ですから」
 リンネルの言わんとする意図がわからず、カロルは彼を見た。
「坊ちゃまは、王子様たちの館に遊びに行くと、とても大切にしてもらえるでしょ。それはどうしてだかご存知ですか」
「それは、親父の力があるからだ」
「その通りです。誰もが閣下の軍事力を欲しています。味方に付けるにこれほど頼もしい相手はいません。お嬢様もしかりです。お嬢様の婿になられる方は、閣下の軍事力を得たも同然です。ですから」
 彼女が誰と踊るかは、会場の者全員が興味津々として見守っている。だから彼女はハルガンを選んだのだ。彼なら誰しもが、今度はクリンベルク将軍の愛娘を口説いたのか、命知らずが。と思うだけであって、それ以上のことはない。それにキングス家は伯爵でこそあれ歴史は古い。格としては申し分ない。
「姉貴がハルガンを利用したというわけか」
 カロルは、今度は納得したように頷きながら言う。
「そういうことになりますか。でも釘は刺しておいた方がよいと思います。ねっ、殿下」
「どうして、僕に振るのですか」
 今まで黙って二人の話を聞いていたルカ。
 リンネルは微かに笑う。
 ルカはリンネルの顔を見て納得したように、
「そういう事ですか。あの館でのことは、全てあなたの耳に入るようになっているのですね」
「申し訳ありません。護衛をするには必要なことですので。特に誰と誰との間がうまくいっていないとかは」
「別に、僕はハルガンと喧嘩しているわけではありません」
 脹れるルカに対し、リンネルは優しく笑いかける。
「もしかしてハルガン、お前の館にいるのか」
「ええ」
「お前、ハルガンと喧嘩しているのか」と、カロルは嬉しそう。
「ですから、喧嘩しているわけではないと言っているではありませんか」
「おもしろい」と、カロルは片膝を手で打つと、
「二人で共同戦線をはり、ハルガン目をぎゃふんといわせてやろうじゃないか。俺もあいつには苦湯を飲まされているんだ」
 カロルはルカの意思も聴かずに勝手に決めている。
 リンネルはやれやれという顔をした。坊ちゃまを連れてくれば当然、こうなることは目に見えていた。

 館に着くと、いつものように侍女たちが出迎えていた。
「お帰りなさいませ」
 二人の子供が降りてくるのを見て、
「あら、お客様ですか」
 これで二度目。今度はどんな方なのかと侍女たちは興味津々で見ている。
「いえ、違います。ドアを開けたら勝手に乗って来たのです」
「ちょっ、ちょっと待て、そりゃーねぇーだろう。ちゃんとことわっただろうが」
 その声に、護衛たちは駆け寄って来た。
「あれぇ、坊ちゃま。どうしてここへ」
「遊びに来たんだ」と言うと、カロルは護衛たちの顔ぶれを見る。そして何を思ったのか、
「と言うのは、嘘。本当は、お前たちがしっかりやっているかどうか見に来たんだ、親父に頼まれて」
 その言葉に、護衛たち一同、ぎくりとする。そして急に態度を改めた。
 カロルは彼らのそんな態度を横目に、ルカを急かして館へと入って行く。
「奥方様に、挨拶に伺わなければ」
 まず館へ来てすることは、その館の主に挨拶をすること。
「ええ」とルカも、急かれるままに歩き出す。帰って来たことを早く母に知らせたいから。
 しかしルカは気になった、カロルの一言による護衛たちの反応が。
「いいんだよ。どうせあいつら、たるんでんだろー。あれぐらい言ってやった方が」
 リンネルも微かに笑いながら、二人の後からついて来る。

 ナオミは一人、テラスでお茶を飲んでいた。一人と言うが、実際は一人ではない。ヨウカと一緒だ。だがヨウカの姿を見ることの出来るものはこの館にはいない。
「また、美味そうなのを連れて来たのー。この間のは、そろそろ食べごろになるが、今度のは少し若いのー」
 ヨウカは精気を吸って生きている生物だ。もっとも肉体を持たず意思だけのものを、生物と呼ぶならの話だが。彼女の話によれば精気にも味があるらしく、よく輝いている魂ほど美味しいらしい。
「まあ、ヨウカさんたら。今度のお客様も、そんなに綺麗な魂の持ち主ですか」
「あやつの傍にいると、餌に事欠かないのじゃ。類は友を呼ぶと言うのかのー、あやつの連れてくる魂は、皆美味じゃ」
 これもヨウカさんがエルシア様の傍を離れない理由の一つだろうとナオミは思った。
 ヨウカは舌なめずりすると、その姿を白い蛇へと変化させた。
「奥方様、お客様です」
 ナオミは心得たかのように、
「居間へお通しして下さい。そちらでお伺いいたしますので。それにお菓子と果物も用意してやって下さい」
「奥方様は、お客様が子供だとご存知だったのですか」
「あの子のお友達ですから」
「それもそうですね、では、居間の方に案内いたします」
 ナンシーも客人の知らせを受けた。その名前を聞いて驚く。小さな客だが、その背後にいる人物は大きい。
 だがカロルは、ルカの後に付いてテラスへとやって来た。
「ただいま戻りました」
 ナオミは「お帰りなさい」と返事を返すと、今回も事無く済んだのかとルカの様子を探る。
「母上、心配にはおよびません」と、ルカはナオミの気持ちを察して言う。
 ナオミは微かに笑った。
「それより母上、友達を連れてきました。リンネルがお世話になっていたクリンベルク将軍のご子息のカロルさんです」
 ナオミはカロルを見た。ヨウカさんが美味しそうだと言っていたが、ナオミの目には普通の子と何ら変わりがないように見える。少し腕白そうだが。
「初めまして。この子が友達を連れてきたのは初めてなのです。仲良くしてやってください」
「こちらこそ、光栄です」
 平民出身の夫人だと聞いていた。だが立ち振る舞いに卑屈さがなく、今まで会ったどの夫人よりも、カロルの目には気高く見えた。
 この人が、この王子の母親なのか。
「殿下の着替えがすむまで、居間でお待ちください」とナンシー。
「いえ、俺、じゃなくて私は、護衛たちの様子を見てきます。どうせこの様子では、規律もかなり乱れているでしょうから、俺がきちんと立て直します」
 リンネルは笑うと、
「坊ちゃんにやられては、かえって乱れます」と言って、クリスを呼ぶ。
 カロルはクリスの顔を見るなり、
「お前も、ここに来ていたのか」
「お久しぶりです。カロル様もお元気そうでなによりです」
 この館の護衛は、元はクリンベルクの館に仕えていたものが多い。
 クリスはカロルを客間へと案内した。
 ルカも侍女に付き添われて自室へと下がる。
「では、私も」と、リンネルが下がろうとした時、
「何か、変わったことはありませんでしたか」
 ナオミは心配そうに尋ねる。
 ルカは王宮でのことは、ほとんどナオミには話さない。
「これと言って別にありませんでした」
「そうですか」と、ナオミは少し安心したように。
 自分の身分が低いので、あの子が苦労することはわかりきっている。
「友達をご紹介くださって、ありがとう御座います」
「いいえ、カロル様がどうしても殿下にお会いしたいと言う事で」
「クリンベルク将軍の三男様は、型破りで有名で御座います」と、ナンシー。
「少し活発なだけで、お人柄はよいかと存じます。殿下がおとなしい方なので、きっとお二人とも互いに得るものがあると思います」
 リンネルは一礼して、ナオミの前を下がった。

 客間に通されたカロルは、あちらこちらと探索を始めた。
「坊ちゃん、少し座られては」
「あのさ、王子様っていうから、俺、もっと派手な生活をイメージしていたんだ。現に他の館は豪勢だもの。でも、ここは」
 カロルはまた歩き回り、回廊から庭を眺める。変わった庭だ。大概の館の庭は、定規で引いたように線がはっきりしているのに、この館の庭には輪郭がない。
 カロルはクリスの方に向き直ると、
「これなら俺の家の方が、よっぽどましだ」
 王族たちは国のために命を捨てるのだから、贅を尽くした生活をしてもおかしくない。と父は言っていた。
「そうですね、奥方様があまり派手な生活を好みませんので、これでも村に居た頃に比べればずっと贅沢だと仰せになりまして」
「そうなんだ」
 自分は生まれた時からあの館で育った。遊びに行くといえば門閥貴族の館ばかり。彼らに比べれば自分の生活は惨めだと思っていた。平民たちの生活などイメージしたこともない。
「平民とはどんな生活をしているのだ。そういえばお前は、平民出だったな」
 クリスは微かに笑うと、
「ですから、他の館よりここが落ち着くのです」
「俺の所よりも?」
「坊ちゃまの所は、坊ちゃまが居られましたから、楽しかったですけど」
 だが、貴族たちの話にはついていけないところもあった。片や食うや食わずで税を納め、その税が湯水のごとく浪費されていく。でもここでは、最低限の物しか購入しない。残った生活費は使用人たちのために使われる。お陰で家族を医者にかけられるようになった者もいる。ここの奥方様は無駄なことはしない。ここの使用人たちは、どれだけ奥方様に感謝していることか。
「ですけど、何だ」
「私は平民ですので、坊ちゃまや閣下より、ここの奥方様の方が遥かに話が合います」
 貴族と平民では違う。
「殿下は、両方の考え方を学ばれております。あまり貴族の方々には受け入れていただけない御様子ですが」
 貴族の中に一人でも、殿下を理解してくださるような方が居れば、もう少し平民の生活もよくなるのではないかと、クリスは思った。
「殿下は賢いお方ですから」
 期待したい。

 ルカはレースもフリルも付いていないあっさりした服に着替えて現れた。
「待った?」
 ルカはテーブルの上を見て、菓子にも飲み物にも手をつけていないのを知り、
「口にあわなかった?」と、訊いた。
 王宮で夫人に対している時と口調とはまるで違う。こいつ、わりと気取った奴かと思っていたが。
「いや、王宮の控え室で食いどおしだったから」
 結局どこへ行っても、クリンベルク将軍のご子息というだけで、贅を尽くされた料理にありつける。だが雰囲気のせいか、せっかくの料理もあまり美味しいとは思えない。
 ルカはテーブルの上の果物を取ると、皮も剥かずに丸かじりした。
 それを見てカロルは驚く。カロルですら、こんな食べ方はしたことがなかった。
「果物は、こうやって食べるのが一番だよ。ナイフやフォークで突っついては金属の臭いがして、美味しくない」
「金属の臭い?」
 そんなもの、今まで感じたこともなかった。
「嘘だと思うなら、やってご覧よ」
 そう言うとルカは、テーブルの上の果物を一つ、カロルに投げた。
 カロルはそれを受け取る。
「ナイス、キャッチ」
 王子の意外な振る舞いに、カロルは先手を打たれた様な気がしつつも、とにかく真似てみた。
 型破りで有名なカロルも、こんな食べ方は初めてだ。果物は常に丁寧に皮が剥かれ、食べやすい大きさにカットされているのが当たり前だった。
「どう?」と、ルカ。
「何だか、顎が」
 慣れない者にとっては、この食べ方は顎にこたえる。
「こんなこと、君に教えると、また貴族たちから白い目で見られるのだろうな」
「これって、奥方様から」
 カロルは自分の歯形がついた果物をしみじみと眺めながら。
「うん、果物はこの方が美味しいって。でもナンシーは嫌がるよ、僕がこういう食べ方すると」
 その内、護衛たちが仕事そっちのけでやって来た。皆、懐かしそうだ。部屋の中はいっきに賑やかになったが、話題はクリンベルクの館に居た頃の事、いつしかルカは蚊帳の外になった。暫くルカは彼らの楽しそうな話を聞いていたが、その内そっと部屋を抜け出し、池の辺に行く。どの館にもそれなりの庭があり池があった。母親の身分によってその館の敷地に違いがあったが、造りに変わりはあまりない。
 ルカは独りで何か考え事をする時は、いつもここへ来るようになっていた。何故か、ここで岩に座り池を眺めていると、心が落ち着く。
 だがそこには既に人影があった。
「母上!」
 ルカは驚いてナオミに駆け寄る。
「お友達は?」
「皆と仲良く話をしています」
「そう」と、ナオミは池を眺める。
「母上、どうかなされたのですか」
「それは私の台詞ですよ」と、ナオミはゆっくりルカに視線を移すと、
「お友達と一緒だと言うのに、あまり嬉しそうではありませんでしたので、その内ここへ来るのではないかと思っていました」
 ナオミはずっとここで待っていたようだ。
「王宮で、何かあったのですか」
 嘘をつくつもりはなかったのだが、やはり母の目は誤魔化せない。
 ルカはナオミの隣に来ると岩の上に座り、腰にかけた笛をおもむろに取り出す。
「竜は悪魔の化身だそうです。母上は悪魔に仕え、僕は悪魔の子だと」
 白蛇の件以来、ルカの王宮での立場はますます悪くなった。
「そう言われたのですか」
 ルカは小さく頷く。
 ナオミは池の上に視線を落とすと、
 これはあくまで想定ですが、と前置きしてから、ナオミは話し始めた。
「昔、竜を旗印にした者と他の動物を旗印にした者が、戦ったのです」
「鷲ですか」と、ルカは透かさず訊く。
「鷲では反逆罪に問われてしまいますから、ライオンにでもしましょう。人はどんなに科学が発達しても、偶然や奇跡を信じるものです。例えば雷が自分に落ちれば不運です。でも敵に落ちれば奇跡です。例え雷の原理が解っていても、天罰だと喜びます。だから人はもう駄目だと思った時、神に祈るのです。竜神様、助けてください。ライオン神様、助けてください。相手を殲滅してくださいと」
 ルカは頷く。
「それで竜を掲げた者が勝ったとします。勝利を与えてくれた竜は神です。でも、ライオンを掲げた者たちにとって竜は何でしょう」
 ナオミは黙った。一呼吸すると、
「殺戮と破壊の限りを尽した竜は、一体何でしょう。だからこそライオンを掲げた者たちは降参したのですから。彼らにとって竜は悪魔の化身以外の何者でもない。これは竜を掲げた者たちにも言えることです。勝ってもその戦いが悲惨なら悲惨なほど、ライオクは悪魔の化身だと後世に伝えられることでしょう」
「つまり、竜と鷲が戦って」
「いいえ」と、ナオミは首を横に振る。
「鷲を掲げるようになったのは、ここ数百年です。でも竜はそれ以前からネルガル人に忌み嫌われてきました。青い髪の子と同様に」
「青い髪」
 ルカはつぶやいた。
 生まれると同時に殺されてしまう存在。
 ルカは知識としては知っていた。だが母親の口からその話を直接聞いたのはショックだった。
「母上の村でもそうだったのですか」
 ナオミは軽く首を横に振ると、
「水神様が、人殺しはお嫌いでしたから。村には死刑という刑罰はないのですよ。まして髪が青いというだけで殺してしまうなんて」
「では、育てたのですか」
「そのままと言うわけにはまいりません。髪を染めて、その子の出産に立ち会った者以外にはわからないようにして」
「そっ、そうだったのですか」
 ルカは少しほっとしたように息を吐く。
 ナオミは微笑む。竜神様とはあなたのことなのですが、まだあなたはご自身の本当の名がエルシアだということを理解なされていないようですね。
 ルカは暫し笛をながめていたが、「母上」と、思いつめたように切り出す。
「この笛を吹くと、青い髪の少女が現れるのです。とても綺麗な、でも悲しそう。その姿を見ていると涙が出てくるのです」
 笛を吹いて神が泣く理由。ナオミには初耳だった。ルカの育児に当り長老たちにいろいろ神に関することを教えてもらった。笛を吹いて神が泣くということは聞いていたが、青い髪の少女のことは聞いてはいなかった。おそらく彼らも知らないのでは。
「青い髪の少女ですか」
 ルカは頷く。
「とても寂しそうなのです。僕はどうにかして差し上げたいのですが。母上の目の前には現れませんか」
「いいえ」
「僕だけなのでしょうか」
 ナオミにもそれはわからなかった。
 やはり竜と青い髪の子は関係がある。そしてエルシア様とヤヨイ様がお産みになられた青い髪の子。そういえばどうなされているのでしょう。
 ルカが陛下に白蛇様のことを聞いてから、村との連絡途絶えた。村での収穫物は直接リサの方へ運んでもらうことにはしたが。
 ナオミはじっと水面を眺める。
 何かが動き出すような気配を感じた。
「ねっ、母上。竜と他の動物と、どちらの旗印が勝ったと思います」
「おそらく他の動物のほうでしょう。でなければこんなに竜を恐れたりしません。勝っていれば竜は神になっていたでしょうから」
 悪魔と呼ばれることはないはずだ。ネルガル人を心肝させたほどの恐怖。
「母上の村は、竜の旗印の末裔なのでしょうか」
 それにはナオミも答えられなかった。確かに竜を崇拝しているが、末裔だという話は聞いたことがない。

 一方、カロルたちは思い出話に夢中になっていた。
 そこへ護衛服に着替えたリンネルがやって来た。
「殿下は?」
 一同周りを見回して、ルカが居ないことに初めて気づいた。
「あれ、さっきまでここに」
「お前ら、誰の護衛をしているのだ」
 部下たちは慌てて探し出す。その中の一人が、
「あっ、きっとあそこだ」と、言うが早いか走り出した。
 皆もそれに続く。
 池の辺、岩陰に、やはり居た。だがその影は二つ。殿下だけではない。
「奥方様もご一緒のようです」
 こうなっては声がかけづらい。何故か殿下と奥方様二人だけの時は、他の者を寄せ付けない雰囲気をかもし出す。普段はとても気安い方々なのに。
「お二人の邪魔をするわけには参りませんね」
 ナンシーですらそれを感じているようだ。
「笛のことを話しておられるようですね、王宮で何かあったのですか」と、ナンシーに言われても、リンネルも控えの間までしか入れない。その先は殿下お一人。
「何も仰せになられない方ですから、中でどのようなことがあったのかは」
 暴力なら直ぐにわかる。しかし言葉の暴力は。
「戻られた時、こちらも某夫人と少々諍いがありまして、殿下に助けて頂いたほどで」
 面目なさそうにリンネルは言った。
 どうも気位の高いご夫人の相手は苦手だ。それで殿下の様子を見逃してしまった。
 やれやれという顔をしてナンシーは、
「あの笛のことなのですけど」と、話を切り替えた。
 ナンシーは袱紗の柄が気になり、周りから咎められないうちに代わりの物をと思い注文したところ、この織り方は特殊で、同じようなものを作るには二、三ヶ月かかると言われた。こんなものがと思いながらナンシーは袱紗を眺めていると、確かに織り氏が言ったとおり、柄が三次元映像のように浮き出してくる。なるほどと感心した。
「村の者全員が笛を吹き、誰もが笛を持っていると奥方様は仰せだが、おそらくあの笛は特別。巫女だけが持つことを許されたものではないかと」
「と、言いますと?」
 ナンシーの言わんとすることがリンネルには解らない。
「奥方様は必死に殿下に笛を教えておられた。まるでそれだけが自分の任務と信じて疑わないほど。そして殿下が笛を吹けるようになってはらは、奥方様が笛を吹くことはなくなりました」
 そういえばリンネルも思う。殿下が笛を吹いて泣いたあの日から、奥方様は笛を吹いていない。あれほど毎晩のように吹いていた笛を、代わりに殿下が吹くようになった。
「私は袱紗の柄が気になりましたので、それとなく笛のことを奥方様に伺ったことが御座います」
 ナオミからかえってきた返事は次のようなことだった。
 この笛は村に伝わるもので、巫女だけが持つことが許される。そして巫女が一番最初に生んだ子にこの笛を伝承するのが巫女の務めです。最初村から笛を持ち出すのには反対した者もおりましたが、村において置いても御子の手には渡らないということで、長老たちが私に持たせてくれたのです。曲は竜の子守唄。つまりこの笛は竜を眠らせることができるのです。村には言い伝えがあります。もし村に洪水や旱魃が続いた時、この笛を吹けば村が救われると。ただしこの笛の列記とした継承者が吹かなければ駄目なのです。
「それが、殿下だと」
 ナンシーは頷く。
 いつしか笛の音が聞こえてきた。殿下が吹いているのだろう。随分上手になられたものだ。
 この笛の音が村を救う。
 ナンシーにもリンネルにも理解しがたいことだ。
 笛で村が救えるのなら、軍隊はいらない。
 カロルも護衛たちと一緒に笛の音を聴いていた。不思議と懐かしいような気がする音色だ。

 帰り際、皇帝から拝領した軍旗を見せてもらうことにした。
 謁見の間に通される。扉を開けるや否や目の前に、巨大な白い竜が躍り出たような気がした。
「すっ、すげぇー。親父の獅子も凄いが、これほどではない。これじゃ、鷲より強そうじゃん」
 思わず口にしてはいけないことを口走ってしまった。
 手で口を押さえても遅い。
「坊ちゃま」
 案の定、リンネルが咎めてきた。
 カロルは照れるように頭を掻きながら、
「やっぱりドラゴンは迫力あるな、ここだけの話だぜ」
「白竜と言います」と、ルカ。
「えっ」と、カロルはルカの方に振り返る。
「だってドラゴンでは、悪魔みたいだから」
 そう呼ぶことに決めたと王子は言う。
「白竜か、そうだよな、白い竜なんだからな」

 帰りはリンネルが送ってくれた。ルカが登城する時の車よりかなり小さいが、それでもやはり普通の車よりも大きい。
 カロルはリンネルと相対して座ると、
「なっ、リンネル」
「何でしょうか、坊ちゃま」
「もっと、贅沢な暮らしをすればいいのにな」
「どうしてですか」
「だって王子なんだから。あれでは他の貴族が遊びに来た時、馬鹿にされるよ。自慢できる絵も骨董もない」
「そうですね、奥方様はあまりそのような物には興味がないようですので。それより現実的です。庭に農園があるのですよ。おそらく王宮の館で、庭に農園があるのはこの館だけでしょう。それは自慢できます。もう少し経つといろいろ実りますから楽しいですよ」
「それって、平民の生活なのか」
「農民の生活です」
 カロルは少し黙り込むと、
「ルカ王子は頭がいいね、今まで俺が会ったどの王子よりも」
「そう見えましたか」
「うん」
 カロルは両手を頭の後ろに組むと、大きく背伸びをして、
「俺も、少し勉強するかな、冗談じゃなくて」
 リンネルはどういう風の吹き回しかと、カロルをしみじみと見てしまった。
「俺、あの王子に好かれたい」
 今の俺の教養ではあまりにも低能過ぎて、その内相手にされなくなる。そんな危機感を受けた。
「そうですね、勉強することはよいことです。やっとその気になってくれましたか」
 リンネルは安堵したように言う。

 その内ちょくちょく遊びに来るようになった。そんなある日、
「時には、俺の所へ遊びに来ないか」
 ルカは少し迷っていた様子だが、母の進めもあり行くことにした。
 今日はその日だ。カロルは朝からルカが来たら何して遊ぼうかと、いろいろ用意していた。
「ルカ王子様がお見えになられるのは、午後からなのでしょ」
 侍女たちに言われる。
 午前中は勉強するから、午後からというのが二人の約束だった。当然カロルも勉強しなければならないのだが、今日ばかりは何をやっても身が入らない。
「ここのところ、真面目でしたから」と、家庭教師たちは互いに頷き合い、今日は休みということにしてくれた。
 今まで机に座らせることすら一苦労だったのが、どういう心境の変化か、ここのところ進んで自ら本を開くまでになっていた。一時は家族どころか使用人までもが一緒になって、悪い病原にでも侵されているのではないかと心配したぐらいだ。
 俺が勉強するのは、そんなに変か。

 そして昼過ぎ、カロルは部屋で待ちきれず、門の前をうろうろしていた。
 二階からそれを見て姉が笑う。
「まったく今まで王子になど興味を示さなかったカロルが、どうしたことでしょう。よりによってあんな位の低い王子を友達に選ぶなんて」
 クリンベルク家は先祖代々部門の出、近衛の総大将を勤めている兄弟も、よくよくは皇帝直属の艦隊を指揮することになる。だが今のところ誰が次期皇帝になるかわからない。それなのでそれなりの王子とは友好を結んでおくのだ。子供とはいえ、ただ王子たちの館へ遊びに行っているわけではない。

 ルカを乗せた車が来るや否や、カロルは車の前に走り出し、その車を止めるやその中に飛び乗った。
「やぁー」
 片手をあげて軽く挨拶する。
 ルカは苦笑しながらも挨拶を返した。
 クリンベルクの館は広い。門からエントラスホールまでかなりある。その間カロルはルカの従者に、帰りはこちらで送るから先に戻るようにと説得していた。
 エントラスに着くと、
「と言うわけだ、じゃあな」と言って強引に従者たちを帰した。
 あんなのに待たれていたら、ルカもゆっくりしてられないだろうというカロルの配慮だ。
 実を言うと、少しでも長く居てもらいたいから。
 ホールでは待機していた従者が案内しようとすると、
「お前たちはいい、俺が案内するから」と、カロルは従者たちを下がらせ、自ら先に立って歩き出す。
「こっちだ、家族を紹介するよ」
 兄、曰く。お前に勉強させるような人物に一度会ってみたい。これは気まぐれ彗星の到来より奇跡に近いからな。長兄のその言葉に、家族一同同意した。
「まったく酷いんだぜ。俺が机に向かったら、熱があるんじゃないか、医者を呼ぼうかなんて。だから俺は言ってやったんだよ、それより家庭教師を呼んでくれと」
 部屋から廊下、廊下から部屋といくつかを通り過ぎる。その間カロルはしゃべりっぱなし。
 いつもより饒舌なカロルを見て、ルカは笑う。
「お袋はいないんだ。約束のパーティーがあるのでそこに行った。だけど他の連中は居るから」
 ある広間に通された。王宮を思わせるような豪華な部屋だ。だが王宮とはまた雰囲気が少し違う。こちらの建物は持ち主の采配で造られているようだ。中の装飾品は別として、建物自体は重量感があり落ち着いた感じだ。この雰囲気がクリンベルクという人物の本来のそれなのだろうか。所々に甲冑や武器が飾られているのは、クリンベルク家が部門の出だということを強調してのことだろうが、だが装飾品は、確かに一流品なのだろうが所狭しと並べられているだけで、かえって建物全体の雰囲気を損ねている。これではもったいないと思いながら、ルカはこの広間まで来た。
 ルカはぐるりと部屋を見回し、初めて部屋の中に人が居るのに気づいた。部屋が広すぎて、人物が小さく見える。
「よくお出で下された」
 声をかけてきたのはクリンベルク将軍だった。
「凄いお屋敷ですね、まるで王宮のようだ」
「お褒めいただいて光栄です」
 将軍はリンネルから聞いて、ルカ王子が質素な生活をしていることを知っていた。現に今の服装も決して贅沢なものではない。
「この程度の館で感嘆するようでは、ジェラルド王子やネルロス王子の館へ行かれたら、腰を抜かすわ」
「姉さん!」と、カロルは嫌な顔をして姉を咎める。
「その通りです」と、ルカはあっさり受け流した。
 一瞬、静寂が流れたが、カロルは場を取り次ぐように、父と二人の兄、それに先程の姉を紹介した。
 始めましてと、ルカは丁寧に頭を下げる。決して、威厳を張ることはない。
「見せてもらってもいいですか」と、ルカは壁の方を見る。
 そこには武器や甲冑が飾られてあった。
「武器に、興味がおありですか」
「いいえ、そういう訳ではありませんが。いろいろ種類があるものだと思いまして」
 これだけの武器、映像では見ても実物を見るのは初めてだった。
 それから将軍とカロルで、その武器の使い方やそれにまつわる先祖の武勇談が始まった。カロルなど自慢げに父や祖父たちの話をする。
 ルカはそれを黙って聴いている。
 姉はその様子をじっと見ていた。位の低い王子。王宮ではもっぱら悪魔の子として噂されている。
「悪魔の子に、武器の使い方など教えない方がいいわよ」
 将軍とカロルは驚いて声の主の方に振り向く。
「後で何をされるかわからないもの。だって王宮では有名でしょ」
 面と向かって言わなくとも。
 兄たちの舌打ちするような音が聞こえたような気がした。
 軍旗のこともあり、影でそう噂されていることは誰もが知っている。
「この際ですからはっきり言わせてもらいますけど、カロルは将来、近衛連合艦隊の総司令官になる人物よ。本来でしたらきちんとした王子と友好を結び」
 既に二人の兄は、それなりの王子と友好を持っている。誰が皇帝になっても大丈夫なように、このクリンベルク家が近衛の総大将からはずされることのないように。それなのにカロルだけがまだ、これといった王子と友好を結ぼうとしない。
「私がせっかく仲立ちしたというのに、ここの所遊びに行っていないそうですね、勉強をするなんて嘘をついて、どこへ遊びに行っているの」
 カロルは何もこんな所でと言いたげに姉を睨みつけた。
「位の低い王子は駄目よ、所詮、皇帝にはなれないのだから」
「姉さん、俺、あいつ嫌いなんだ」
 姉は呆れた顔をすると、
「好き嫌いの問題ではないでしょ。あなたの将来のことよ」
「いくらなんでも、嫌いな奴のために命ははれないよ」
「では、この子のためならはれると言うの」
 姉はあえてルカのことを、王子とは呼ばないでこの子と言った。
 カロルは黙り込む。
「平民の子は所詮、平民の子よ、皇帝にはなれない。せいぜいウィルフ王子のようにネルガルの役にたって下さればよいのです」
 兄たちは唖然とした。何もそんなことをこんな小さな子の前で切り出すことはない。
「ウィルフ王子は、御首だけでご帰還されたとか」
 ルカは知っていた。
 血筋のない王子や王女は、星間の友好条約の証としてその星の王族と縁を結ぶ。だがそれも友好条約が成立している間のこと。それが破棄されたときには。
 グレナ王女に至っては、生還されたものの、恐怖のあまり美しかったブロンドの髪は見る影もなく、生まれたばかりの赤子は既に息絶えていた。
 友好条約はネルガルの方から強引に結ばせ、相手がそれを破るように仕向ける。この方が世論を動かしやすいから。王子の復讐戦だとなれば何も知らない国民は、自分たちこそ正義だと思い進んで前線へ出て行き、相手を殲滅させ植民地化するのだ。
 これがネルガルのやり方。ネルガルの玉座は、こういう名もない王子や王女の血で築かれた。
「近い将来、僕もそうなるのだと思います」
 玉座の一滴に。
「ご存知だったのですか」
 グレナ王女のことは、まだ公表されていない事実だった。先方が手を出すと同時に公表する予定だ。その方が国民の感情を煽りやすい。
「どうしてそれを。まだ公表されていないはずだが」と、驚く兄弟たちに、
「ケリンをご存知ですか」
 カロルは首を傾げる。
 聞いたことのない名前だ。少なくともこの館にはいなかった。
「彼にコンピューターの操作を教わっています。あるところへアクセスすると、その手の情報は」
 カロルは振り返って父を見る。
 クリンベルクは苦笑すると、
「某将校ともめましてな、退役させるには欲しい人物なもので」
 ケリンもハルガンと同じ道をたどったようだ。
「それで、その将校によって売られたのですか」
 情報部が敵地に侵入し、その正体がばれれば命はない。
 クリンベルクは唖然とした顔をし、
「それを彼の口から?」
「いいえ、彼は口の堅い人物ですから」
 さすがに優れた情報部員だ、余計なことは一言も口にしない。
 では誰からという顔をしているクリンベルクに、
「ハルガンの口調から僕が察しただけですが、どうやら当っていたようですね」
 クリンベルクは腕を組み、苦虫を噛みしめたように眉間にしわを寄せ黙り込む。
「何のこと?」
 カロルだけがこの状況を察していないようだ。
「君は、彼らとうまくやっているようだな」
 君とは、クリンベルクが年下の部下を認めた時に使う言葉だ。彼に認められるということは、出世を意味する。だがルカは王子だった。
「お陰様で、よい部下を得られました」
 クリンベルクは苦笑して頷くしかなかった。
「娘が、失礼なことを言った」
「いえ、事実ですから」
 ルカ王子は、冷静にこれらの事を受け止めている様子だ。
「僕は、陛下とはお会いしてもほとんど話しをしたことがないので、どのようなお考えをお持ちなのかよく解りませんが、もし僕に竜の軍旗を与えたのが、この御印を持って自分の足元へ跪けということでしたら、あまりにも矜持が狭いと思いませんか。この御印は母が大切にしている神の印なのです。これは皇帝を侮辱しているわけではありません。ただ子として父を思った気持ちです。シモン様は、私の母は平民出だと言いますが、僕は母の考えに感銘するところがあり、尊敬しております」
 ルカは言葉の裏で位を否定した。人はその考えで評価されるべきだと。
「そう、あなたは母を尊敬しているのですか」と、カロルの姉シモン。
「はい。どなたに合わせても恥ずかしくないと思っております」
 一同黙ってしまった。
「僕が他の星に婿に行くような時は、あまり従者を付けないで下さい。人質は僕だけで充分でしょうから。それとカロル君は、お姉様が言われるとおり、きちんとした王子のところへ付くべきだと思います。僕のところにはあまり来ないほうがいい。間違って従者にでもされたら大変ですから」
「おっ、お前」
 カロルは唖然として二の句がつけなかった。
「いろいろ見せていただいて、楽しかったです。ここら辺でお暇させていただきます」
 ルカは丁寧に頭を下げると出口の方へ歩き出す。
「おい、夕飯の支度、させてあるのに」と、カロルは慌てて後を追う。
「おい、待てよ」
 ルカは振り向くと、
「食事は楽しく食べないと、栄養にならないそうですよ。母の口癖です。それに一生懸命に作ってくださった人たちに申し訳ありませんし」
 ルカはそう言うと踵を返し歩き出す。
「おい、待て。怒っているのか」
「いいえ」
「じゃ、何だよ、急に帰るなんて言い出して」
「ここは僕のような者が来るところではなかっただけのことです。あまり長居をすれば皆に迷惑がかかる」
「迷惑?」
 ルカは戸口でゆっくり振り返ると、
「僕はドラゴンを頂いている身なのです」
 あえてルカは竜と言わずにドラゴンと言った。
「他の方々からよくは思われません。そんな者と友好を持つべきではないのです。あなたの将来のためにも」
 ルカは扉の前に立っている従者に、
「車を呼んでもらえませんか」と頼む。
「送るよ」と、カロルはルカに駆け寄り腕を掴むと、そのまま廊下へ走り出す。
「怒っているんだろ」と言うカロルの声が、廊下にこだまする。

 一方広間の方では、クリンベルクたちは深々とソファに身を沈めた。
「どう思う?」と、将軍は二人の息子に訊く。
 息子たちはしばし黙り込んでいたが、
「全て理解しているという感じだな。我々の手の内まで」
「賢い子だとリンネルから聞いてはいたが」
「確か、六歳でしたか」
 クリンベルクは苦笑する。
「ハルガンめ、番犬になれないオオカミだと思っていたが、意外に早く落とされたものだ」
「やっと飼い主を見つけたというところですか」
「おそらくハルガンは、戦術では勝てても戦略では勝てなかったのだろうな、あの王子には」
「あれ、ハルガンは戦略家だと聞きましたが」
「それは、参謀本部に、ハルガンほどの広い視野を持つものが少なかっただけだ。彼よりもっと広い視野を持つものが現れれば、その人物より狭い視野しか持てない者は、必然的に戦術家にならざるを得ない」
「あの王子の視野は、それほど広いと」
「さあ、まだわからない。なにしろまだ子供だからな。だがハルガンは、そう見たのだろう」
「ハルガンはもう使えませんね。代わりに誰を?」
「カロルに見張らせようかと思っている」
「カロルに!」
 兄弟は顔を見合わせた。
「カロルでは、あまりに素直すぎて」
 諜報には向かない。
「だからいいのさ。ルカ王子も少しは警戒心を解くだろう。もっともカロルには任務のことは内緒だが。どうせ私が駄目だと言ったところで目を盗んで遊びに行くだろうから、さりげなく様子を聞きだそう」
 息子たちは納得した。
 テーブルの上のお茶は、すっかり冷めている。

 カロルはルカを車に乗せると、物凄い勢いで取って返した。
 その姿をルカは車の中から見て、隣の従者に言う。
「運転手が居れば、館まで帰れますので、それよりカロル君が姉君に噛み付きそうなので、早く行って止めてください」
 そう言われて従者は車を降り、カロルの後を追った。
 案の定、カロルは広間に飛び込むや否や、
「どういうつもりだ」と、大声を張り上げた。
 首根っこでも掴みあげるような勢いで、姉に迫る。
「坊ちゃま」と、従者が駆けつけてきて、カロルを後ろから羽交い絞めにする。
「離せ!」
「聞いて下さい、託があるのです、王子様から」
 従者は息を切らせながら言う。
「託? ルカから?」
「はい」と、従者は深呼吸して息を整えると、
「姉弟はいいな。と仰せでした。姉が不肖の弟を思う気持ちがよくわかるとも。そう言えば、不肖の弟も理解するだろうって。何のことですか」と、従者は一家の顔を見回して問う。
「弟が不肖でなければ、姉君はもっとお優しくなれたでしょうに、とも仰せでした」
「じゃ、なんかい。これは全て、俺が原因だとでも言うのか、あの野郎」
 将軍は笑った。あの子の方が我々より一枚上手だ。これではハルガンが落ちるのも無理はない。

 夕食が済むとカロルは、コントロールルームに駆け込む。
 通信回路を開くと直ぐに反応があった。まるで待っていたかのように。
「こんばんは、かかって来ると思っていた」
「不肖の弟で悪かったな」
「気にしたか?」
 カロルは改まると、
「今日はすまなかった」と、頭を下げる。
 ルカは微かに笑うと、
「気にしていないよ。王宮ではもっと酷いことを言われる。最初は面食らったが、人とは慣れるもので、今ではかなり免疫ができた。それにあれはあなたの姉君の本心ではないだろう」
 弟を守ろうとする姉の思い。
「そう言ってもらえるとあり難い。実はあの後、皆で話し合ったんだ、お前のことについて。それで姉貴が他の星に行かなくって済む方法が一つだけあるって。何なら知り合いの門閥貴族に口を利いてやってもいいって」
「知っています。どこかの上流貴族の養子になることでしょ」
「何だ、お前、知っているのか。じゃ、話が早い」
 ルカは微かに笑うと、
「姉君には申し訳ありませんが、その話はお断りして下さい」
「どうして、きちんとした貴族の養子になれば。ああ見えても姉貴は、門閥貴族の間では顔が広いんだよ。今日のこと、気にしていたし」
「やっぱり優しい方だったのですね。でも、その話はいいです」
「何故」
「養子になったからと言って、絶対に行かなくとも済むという問題でもありませんし」
「でも、行く確立は減る」
「それはそうですが、養子に行けば母とは別れなければなりません。例え一緒に行っても、身分が低い以上、生みの親という立場は取れません。僕は母以外の人を母と呼ぶのも嫌だし、母が自分のために見ず知らずの人に諂うのを見るのも嫌です。僕はこのままでいいのです。母は僕の前で凛としていてくだされば、それだけでよいのです。そうしていてくれれば、どんなことがあっても僕は、人生の指針を見失わなくって済むような気がします」
 母が笑われないようにとルカは子として振舞う。そしてナオミも、わが子が身分以外で恥をかかないようにと振舞っている。これがこの母子の生き方だった。
「姉君には、とても感謝していますとお伝えください。そのお心だけを受け取らせていただきますと。兄弟っていいですね。あまり姉君に心配かけないように」
「なっ、今までどおり、遊びに行ってもいいかな」
 ルカは暫し考える。そして出した結論が、
「月に一度なら」
「王宮の会食じゃないんだぞ。もう少し」
「では、二度」
「少ない」
 ルカは仕方ないという顔をして、
「その代わり、来る前に連絡してください。そうすればその日は君のために一日空けておきますから。それなら計算的には月に四回遊びに来たことになるでしょ」
 いつもは午後遊びに来るから、遊べるのは半日だけ。朝からなら一日、つまり二回分ということになる。
 カロルはしぶしぶそれで承諾した。
「カロル、一つ頼みがあるのだが」と、ルカはいきなり切り出した。
 実はこれが言いたくて、カロルからの通信を待っていた。
「僕がウィルフ王子のようになったら、母上のことを頼めないか」
 カロルはとっさに声が出なかった。
「ただ、それだけが気がかりだったんだ。でも君という友達を得て、やっと心の準備が出来ました。後を頼める友人がいるということは、幸せです。君ならきっと、母を大切にしてくれるでしょうから」
「おい」
 カロルはその一言を言うのがやっとだった。
「何で、一度決めた約定を破るのだ。奴らが破りさえしなければ、戦争など起きないのに」
 今起きている戦争は全て、相手が悪い。カロルはそう思っている。否、ネルガルの大半の人々が、そう思わされている。
 ルカは軽く首を横に振ると、
「彼らは好きで約定を破っているわけではない。破らなければ生きて行けない状態にまで追いやられたから、破らざるを得なかった」
 破ぶるのと破ぶらされるのとでは、行って帰ってくるほどの違いがある。彼らは勝てない戦争など最初から望んではいない。戦争を望むのは勝てるもの。つまりネルガルの方だ。対等の取引よりも支配してしまった方が自由に搾取できる。
「破らざるを得ないって?」
「それは君が軍人になればわかる事だよ。その頃には僕は」と言いかけた時、ナオミの声。
「母が来ます。変な話をしていると心配しますから、ここで切ります」
 通信は切れた。
 振り向くとそこに、父と兄が居た。
「全てを知っているのだな、恐ろしい子だ」と、将軍は呟く。
 人に恐怖を与えるような子は、よくは思われない。
「提案、拒否されたようだな」と、兄。
「あいつは何を考えているんだ。ありのままを受け入れるだけで、自ら変えようとはしない」
「あの子が自分で自分の人生を変えようとした時、その時はネルガルに内乱が起こる時だろう」
「親父」
「あの子は生まれながらに玉座に座る全ての要素を備えている。知性、思考力、判断力、そして何よりも上に立つ者が必要とする人心を引き付ける力、そして他人の力を自分のために使わせる力。これがなければ艦隊は動かせない。自分のために命すら投げ出させるようでなければ。あの子はそんな自分の力に気づいているのだろうか。もしあの子がそれに気づいた時、ネルガルは新しい時代を迎えるかもしれない。その時は古いものは全て破壊される。我々も例外ではない。だから古いものたちはあの子を嫌うのだ。蔑むことによって自分の恐怖心を隠そうとする。彼らは恐怖のあまりあの子を殺すかもしれない。私もそうしたいぐらいだ」
「親父」
 カロルは震えた。そんなつもりで彼をここへ招いたのではない。彼のよさを知ってもらいたかったから。
 部屋に沈黙が流れる。
「そうかも知れない。俺たちは奴にとっては敵なのかもしれない」
 カロルは納得したように切り出す。
 時折、奴の感性が理解できないことがあった。
 例えば、ここには二度と来ないと言った。侮辱されたからではない。壁に飾られた戦利品を見るのが辛いから。これらをカロルの先祖がどんな思いで勝ち取ったかは解る。それはそれで尊敬されるべきだと。それなりの代償を払っているのだから。だが一方で、これらの戦利品をどんな思いで差し出さなければならなかったのかと思うと、その民族が哀れだと。
「俺なんか、そんなこと一度も考えたこともなかった。きっと奴には、ネルガルの社会自体が、俺たちがみているのとは違うふうに見えているのだろうな」
 将軍はしばらく黙り込んでいたが、
「もしあの子が玉座を望むような時がきたら、その時は貴族の没落を意味する。あの子は皇帝になるのに貴族の力を必要としない。平民によって担がれるからだ。貴族の中に数名、あの子に賛同するものがいれば、それで充分だ。覚えておくがよい。軍隊の大半は平民で構成されていることを、貴族は一握りにすぎない」

 カロルはオルスターデ公爵夫人の館にもよく行くようになった。そしてピクロス王子の剣術の相手をする。同じ友好を持つなら、血筋のしっかりした王子の方がよいというルカの提案からだ。
 そこには姉と同じ年頃の王女がいる。姉はその王女と親しい。それで今日は姉と一緒に行くことになった。
 ピクロス王子の剣は、話にならないほど下手だ。怖がって腰が引けているのが最大の原因。だが勝つわけにもいかず、わざと負けてやると喜ぶ。俺と歳はさほどかわらないのに、勝たせてもらったことすら解らないようだ。あいつなら何と言うだろうか。わざと負けたと言うだろうか、それとも怒るだろうか。ふと奴のことが脳裏を走る。
 そこへピクロス王子の声。
「こんなに弱くって、連合艦隊の総司令官が務まるの」
 むかっときたが、そこは堪えた。
 やっと開放されて車に乗り込むと、どっと疲れが出た。
 奴の館で遊んでいる時は、どんなに汗をかいてもこんなに疲れたことはない。
 げんなりしていると姉が声をかけてきた。
「本物を見ると、メッキはメッキね。どんなに綺麗にメッキされていても色あせて見える」
 ルカ王子とピクロス王子を比べているようだ。
「あの、車のメッキ、剥げておりましたか」
 従者が声をかけてきた。
「煩い、お前は黙っていろ」
 カロルはついにあたってしまった。
 それから反省し、
「すまない、気が塞いでいるんだ」

 そして約束の日、カロルは朝食も取らずにルカの館へやって来た。
 ルカは食事中だった。
「食事は?」と言うルカに、
「とってこなかった」とカロル。
 ルカは呆れたように手を振り、同じテーブルにカロルを招いた。
「食事ぐらい、してきてくださいよ」
「今日は、一日付き合うと言っただろう。俺は日付の針が回った時点で、来ようと思っていたぐらいだ」
 それでは真夜中だ。
「それで帰るのは時計の針が回るまでだ」
 ルカは呆れたように肩を落とした。
「まあ、約束ですから、今日は一日付き合いますよ」
 家庭教師も稽古の師匠も、全てことわっている。
 一日中、農園の手伝いをしたり、くだらない話をして過ごした。だが何故か、どの館にいるよりもここは楽しい。無論、剣術の稽古もした。本来は剣術を教えるということで遊びに来ているのだから。
 頭は敵わないが、剣の方は。だが次第に剣の方も。
 こいつ、強くなっている。一本を取るのが骨になって来た。
 夕飯が終わって、
「そろそろ帰れば」と、ルカ。
「まだ今日が終わっていないから」と、カロルは一緒にベッドへ潜り込む。
 結局カロルは、こういう形で頻繁に泊まるようになった。
「やべぇー、学校」
 次の朝、慌てて帰って行く。
 ほっと、溜め息をつくルカ。
「お疲れ様でした」と、侍女。
「一日という約束は、すべきではなかった」

 そんなある日、門閥貴族のご夫人たちが王子や王女を連れて、ルカの館へ遊びに来るということになった。無碍にも断れない。サロンに行ったこともなければ、開いたこともないナオミは困り果てた。
「どうお持て成しすればよろしいのでしょう」
 ナンシーに相談する。
 貴族の生活など想像もつかない。今更何を用意するといっても。
「どうせ冷やかしに来るのですから、今更何を用意したところで無駄です。それよりかえって何もないところをお見せした方が、よいのではありませんか」と、ルカ。
「そうね」と、ナオミも納得する。
「丁度、イチゴやチェリーがたわわに実っていますから、それを取って食べてはいかがです」
「そうね、それもいいわね。いっその事、外でやりましょうか」
「天気がよければ」
 池の水を引いて作ったイチゴ畑からは、甘酸っぱい匂いがただよっている。池の辺の桜並木はチェリーで赤く色好き、水際はアヤメが紫の帯を作っていた。その反対側の森はオレンジの山つつじが咲き乱れ、イチゴ畑の奥の草原は、エルシアの好きな矢車草で青と淡いピンクの絨毯を引きつめたようになっている。
 農作業の休憩ように建てられた庵をすこし装飾すれば、花に囲まれたラウンジになる。
「ここにしましょう。ここがいいわ」
 庵の中の小道具を片付け、代わりに椅子やテーブルを運び込む。
「楽器も用意したらどうでしょう。王女様の中には、ピアノが得意な方もおられるとか。ここで弾いていただいては」
「それはよい提案ですね、でもダンスなどとなったらどうしましょう。私、踊れませんし」と、ナオミが困った顔をすると、
「後は僕がやります。母上はその椅子にでも、どんと腰掛けていてください」
「まあ、頼もしいこと」と、ナオミは笑う。

「あいつらが、ルカの館へ押しかけるんだって」
 姉から話を聞いたカロルは、
「どうせ嫌がらせに行くのだろう」
「そうね」と、姉もこればかりはカロルの意見を否定しなかった。
「それで、姉貴はどうするの」
「私も、行ってみようかと思っているの」
「奴らと一緒になって、あいつの生活を馬鹿にするのか」
 奴の生活は質素だ。王子の生活とは到底思えないほど。いや一般の貴族の方が、もっと派手な生活をしている。だが不思議とあの館は居心地がいい。何か俺たちが文明だと思っている影で無くしたものが、あそこにはある。
「あなたが楽しそうに行くから、どんな所なのか見てみたいだけよ」
「贅沢なものは何一つないぜ。俺たちのほうが」
「わかっているわ」
「でもあいつは、あの生活に満足しているし、俺たちのような生活をしょうとも思っていない」
「それもわかっているわ。ただ、あの子のお母さんという方に会ってみたいのよ」

 その日は、空は青く澄み渡り、すがすがしい陽気だ。
 高級車が次々とルカの館へ入って来る。
 初めての光景に護衛たちも戸惑いながらも、どうにか夫人たちをホールへと案内する。
 シモンはカロルから何もない所だと聞いてはいたが、本当に何もないと思った。陛下が最初に用意してくださったものだけ。後から買い足した気配はほとんどない。生活費は月々支給されているはずなのに、何に使われているのかしら。
 案の定、笑いの種になった。だがルカもナオミもそれには気を止めずに、農園の方へと案内した。
 自分の得意とする所へ敵を追い込むのが一番だ。というルカの提案から。
 貴族社会のことは聞いてもナオミにはわからない事ばかりだ。だが、こと農作物に関しては知らないことがない。
 王女たちは会場に案内されて感嘆した。まるで四方を美しい映像を映し出したスクリーンに囲まれたような。だがこれは映像ではない。実物だ。触れることができる。そしてそれ以上に驚かされたのは、触れるだけではなく、食べることもできることだ。
 侍女は夫人や王子、王女たちに小さなかごを渡す。
 ルカは言う。
「どうぞ、取って召し上がってみてください。昨日のうちに洗っておきましたが、気味悪いと思われる方は、あちらで」
 ルカが指し示した方には、パイプが一本地面から伸びていて、そこから地下水が泉のように湧き出ていた。それが池へと流れ込む。王都ではというより、ネルガルの大半の場所では地下水は汚染されていて飲めない。だがこの水だけは飲めた。しかも村の泉の水と同じ味。おそらくこれはエルシア様の力。あの村の水をここまで引いたのかもしれない。
「チェリーは護衛のものに言いつけてください。登って取って参りますので」
 だが結局王子たちは、キャタツを護衛たちに支えてもらい、自分たちで取りに行った。おそらく木に登るなど、生まれて始めての経験だろう。
 王女たちが下で声援を送る。左にある方が美味しそうだと。
 護衛たちは落ちるのではないかと、下ではらはらしながらその光景を見ている。
「僕の時は、あんなに心配してくれないくせに」と、ルカは呟く。
「木登りがうまいそうですね」
 ルカは背後からいきなり声をかけられ振り向く。
 見知らぬ顔。今日の招待客のリストには載っていない。漏れてしまったか。高貴な人々はこの手の手違いを一番嫌う。
 ルカは心の中では、しまった。と思いながらも、口調は冷静だった。
「失礼ですが、どちら様でございますか」と言いつつ、その青年の顔をさり気なく見る。
 歳はハルガンと同じぐらいだろう。髪は朱赤、瞳は茶、背はすらりとしていた。
 どこかで見たような、そして、はっと気づいた。
「ハルメンス公爵」
 ハルメンス家は御三家の一つ。もしギルド家に男子がいない場合は、ここから養子を迎え、玉座に付ける事になっている。アルシオ・ハルメンス・ロンブランド。彼の母は現皇帝の姉であり、ルカとはいとこになる。ギルド家の男子以外で一番玉座に近い人物だ。血筋からすればルカよりも。
「私のことをご存知でしたか、では、自己紹介は不要ですね」
 招待した覚えはない。
「どうしてこちらへ」
「皆様が入っていくのを見て、気になりましたので、つい寄らせていただきました。ご迷惑でしたら、このまま帰りますが」
 ルカが返事に窮していると、
「帰ってもらえ」と、背後から声。
 ハルガンのあまりの不躾な言い方にルカは驚いた。だがよくよく考えると、彼に対してこのような言い方が出来るのは、王都広しと言えどもハルガンぐらいだろうと納得する。
「これはハルガン、こんな所で会うとは奇遇ですね」
「俺がここに左遷されていることは、知っていたくせに」
「まあ、そんな角の立つような言い方はしないで。子供の前です。ここは大人らしく、別に君の彼女を取ろうなどとは」
 王都で遊び人と言えば、この二人の右に出るものはいない。
「気に入った女がいるなら何人連れて行ってもかまわんから、二度とこの館には来るな」
 やれやれとハルメンスは肩をすくめてから、
「実は、殿下にお土産を持って来たのですよ。ついこの間まで銀河を旅してたもので」
「僕に?」
「殿下は書物が好きだと聞きましてね、某星系でおもしろい本を見つけたもので」
 ハルメンスがそう言うと、背後で控えていた侍従が一冊の本を差し出す。
 あまり新しくはなさそうだが、その字を見てルカは目を丸くした。禁書。これはネルガルでは輸入を禁止されている惑星の書物だ。
「興味がおありだとお聞きしたもので」
 まず近づくには、相手が欲しているものを送るとよい。
「お読みになれますか。もし駄目でしたら辞書があるのですが、これが我々の辞書ではなく、先方の辞書なもので。でもよろしければこれも差し上げますが」と、ハルメンスはあと一冊、ルカに差し出す。
 禁書なぐらいだ。当然、辞書などあるはずがない。だが先方ではこちらの言葉を学んでいるようだ。最もネルガル語は今や銀河の共通語と化している。
「ええ、是非」と、ルカは嬉しそうにその辞書にも飛びついた。
「もし書物が見つかったら、私から貰ったとはっきり言って下さい。詮議はそこで止まりますから」
 ハルメンス家はそれほどの力がある。黒を白と言わせてしまうほどの。
「では、これで」と、ハルメンスが去ろうとし、振り向きざまに付け足す。
「あと数冊あるのですが、もしそれが読めるようでしたら、残りも差し上げますが」
 次に会う約束をしたも同然だった。
 ハルガンは嫌な顔をしてそれを見ている。
「あら、これはハルメンス公爵ではありませんか」
 緊張した会話の中にいきなり入り込んで来たのは、ご夫人たちだった。王都の女性の心を騒がせる遊び人が二人も揃っているのだ。夫人たちがほっておくはずがない。
 ハルメンスは夫人たちに礼儀正しくお辞儀をすると、
「お美しいご夫人たちがお揃いで、どちらに行かれるのかと思い、つい後をつけてしまいました」
「まぁ」と、夫人たちは笑うが、その視線はルカの持っている本へと行く。
 もっとも彼女たちがその本が禁書であることは知らない。なにしろ本に書いてある文字は読めないし、この銀河にはネルガル語以外にも沢山の文字があることぐらいは知っている。この惑星ですら自分の知らない文字は山ほどある。
 では何故彼女たちがその本に注目するのかと言えば、それがハルメンス公爵からの贈り物だからだ。それもよりによって平民の王子に。こんな子にくれるぐらいなら、我が息子に。
 ハルメンスは夫人の気持ちを察して、
「ピクロス王子も、書物が好きだとは知りませんでした」
 兄のネルロスならともかく、ピクロスはカロルと同じで勉強が大の苦手だった。書物など読んだためしがない。
「あれは童話ですから、ピクロス王子にはレベルが低すぎましょう。後日、帝王学の書物でも、十巻ばかり贈らせていただきますので、後で感想を聞かせて下さい」
 母が余計なことを言ったばっかりに、大変なことになったとピクロスは心の底で舌打ちした。今更書物など、ページをめくって読むバカがいるか。ネットで検索すれば。それに帝王学の書物なら、既に書棚に埃をかぶって眠っている。
「そっ、それはありがとうございます」
 ピクロスは既にあるものをまた増やすこともないと思うが、夫人にしてみればハルメンス公爵にいただいたということが必要なのであって、別に書物はなんでもよかった。いや、書物でなくともよかったのだ。
「あら、オルスターデ公爵夫人ばかりずるいですわ。私の方には」
 結局、本一冊でこの場に居合わせた夫人からねだられ、偉い出費になってしまったが、ハルメンスは目的を達したことに満足し、他の出費を苦には思わなかった。
 ルカは書物を隠すように近くにいた侍女に手渡すと、自室に置いて来てくれる様に頼む。
「もう、お帰りになられるのですか」
「ここの果物はなかなか美味しいのですよ」
「ナオミ夫人が育てられたそうです。味わって行ってはいかがですか」
 夫人たちは代わる代わるに公爵を誘う。
 サロンのセッテングは申し分なかった。いつしか背後に流れる音楽はナンシーが呼び寄せた一流の演奏者によるし、テーブルの上のオードブルも全て一流コックによるものだ。これはナンシーが得意とする分野だ。ルカは全てナンシーに任せておいた。だがしかし、その場を沸かせるはなし家がいない。ハルメンス公爵はもってこいの人物だった。なにしろ銀河を旅している。珍しい話には事欠かない。
 ハルメンス公爵はオーナーであるナオミに貴族としての礼を取る。
 これは一瞬、周りを取り囲む夫人たちを黙らせる効果があった。皇帝陛下の甥が、平民の女に礼を取ったのだ。これにはルカも驚いた。
 だがその後は、彼の巧みな話術によってサロンはいっきに盛り上がった。
 サロンの賑わいを見て、ルカはほっと溜め息をつく。ハルメンス公爵のお陰で助かったと。頭がよいと言っても、ルカはまだ子供。ご夫人の機嫌までは取れない。
「お疲れのようね」
 声をかけて来たのはカロルの姉のシモン。
 ルカは微かに笑うと、
「顔に出ていましたか」
 シモンも微かに笑った。
 この席を段取ったのはこの子。真のオーナー。母を立てるようにと、母親が一番得意としている場所にセッテングした。戦略としては申し分ないわね。
 さすがはクリンベルク将軍の娘だ。そういう感覚で物事を捉える。
 ルカもシモン嬢が見えていたことは知っていたが、なかなか自分の方から声をかけることは出来なかった。自分のような者が親しく声をかけたのでは、シモン嬢の立場がなくなるのではないかと思って。
 シモンはルカに近づくと周りに人がいないことを確認すると、声をおとし、
「あなたは人の陰口はお好きでないようですので、このようなことを申しますと嫌われてしまうかもしれませんが」と、シモンは嫌われることを覚悟で話し出した。
「ハルメンス公爵とは、あまり親しくなさらない方がよいかと存じます。先程の書物も」
 シモンはあれが禁書であることを知っていた。
「あまりよい噂を聞きませんもので」
「悪い方には見えませんでしたが」
 シモンは何と言うべきか言葉に窮しているようだ。
 ハルガンのハルメンスに対する態度もおかしかった。ハルガンはめったに敵意を見せることはない。まして女のことで。では他に何かあるのか。シモン嬢に訊くより、ハルガンを正した方が早い。
「ご忠告、肝に銘じて起きます」
「本当にですよ、あまりお近づきにならない方が」
 シモンは念を押した。
 そこへ従者の声。
「殿下、こちらでしたか」
 慌てたように走って来た従者に、
「何ですか」と、ルカは静かに声をかけた。
 従者はシモンに一礼すると、ルカの耳元でささやく。
「客間に通してください。母上には?」
「まだです」
「では、知らせてください」
 従者は一礼するとその足で、ナオミのところへ向かった。
「何かあったの」
「先日退院した侍女の娘さんが、お礼に見えたそうです。病み上がりの体でわざわざ来てくださったのです、門前払いというわけには参りません。声の一つもかけてやらなければ、母上もきっと後で後悔なさるでしょうから、母上には、皆様には大変失礼ですが、席を立ってもらうことにしました」
 そこには、門閥貴族の機嫌取りよりも侍女の方が大事だという言葉が、隠されているような感じがシモンにはした。
 案の定、ナオミはやって来た。
「後は僕がやりますので、母上はごゆっくり」
 ここに居るより、その娘さんとの方が母にはよい。
「いいのかしら」と、ナオミは夫人たちを気にしながら。
 彼女たちは既にナオミのことなど眼中にない。ハルメンス公爵の話に聞き入っている。
「大丈夫です。それより母上、スカーフを」
 えっという顔をしながら、ナオミは首に巻いてあるスカーフをルカに差し出す。
 ルカはそのスカーフにテーブルの上にある菓子を包み込んだ、その娘にやるために。
 いつもなら母がやることだ。だが今は緊張のあまり、すっかり忘れているようだ。
「これを」
「あら、やだ」と、ナオミは頬を赤くした。

 だがナオミの戻りは早かった。
「もう少し、ゆっくりしてきてくださればよかったのに」
「主が居なくなってはまずいでしょ、居ても仕方ないのですが。あちらは親子水入らずにしてやろうと思いまして」
 町で何か美味しいものを食べるようにと侍女に暇を取らせ、お金を渡してきたようだ。
「そうでしたか」とルカは頷くと、従者の一人を呼び、誰か町に詳しい者に、彼女たちを遊園地に案内するように言いつけた。無論費用はこちら持ちで。
「へぇー、殿下、遊園地、ご存知だったのですか」と、護衛の一人が感心ように言う。
「行ったことはありませんけど」
 ネットは便利だ。少し検索すればいろいろなことを教えてくれ。だがそこに実感はなかった。
「じゃ、一度行ってみませんか」
「えっ! どうやってここを抜け出すのですか」
 ここを出るには宮内部の許可がいる。いろいろと複雑な許可を取っていては、許可が下りるまでに行く気も失せてしまう。もっともそれが宮内部の狙いなのだろうが。
「別に顔に王子だと書いてあるわけでもないのだから、俺たちのガキの服を着れば、どこのガキだかわらないぜ」
 そうか、その手があったか。とルカは何故今まで考えつかなかったのだろうと悔やむ。
 だが別の護衛が、
「たぶん、そりゃ無理だな。殿下の場合は顔に書いてあるからな、俺は王子だって」
 ルカは不思議そうに顔をさすって、
「何処に書いてあるのですか」と訊く。
「殿下は綺麗過ぎるんだよ。だからボロを着てもばれる、ちゅうか、かえって不自然に見えて注目の的になる」
 そうしたら、もう一人の護衛が、
「殿下、池で泳ぐの、禁止しませんか」と、話題を変えてきた。
 本人にすれば変えたつもりはないのだが。
「どうしてですか」
 ルカは水神の生まれ変わりとナオミの村ではいわれている。そのせいか水が好きだ。
「そのー」と、護衛が言いよどんでいると、
「こいつ、へんな所で欲情するんだよ。女より男なのかな」
 護衛は、そう言った護衛の脇腹に思いっきり肘鉄を入れた。
「痛てぇーな」
「余計なこと、言うな」
「わかりました、では服を着たまま泳ぎます」
「そっ、そりゃもっとまずい」
「何故ですか」
「いいですか殿下」
 護衛は子供を諭すように、だが子供には決して聞かせられないような話をする。
「女体とは、裸体よりもシルクのブラウスからXXが透けて見えるほうが、魅力的なんだよ」
「僕は男です」と、ルカは脹れる。
 シモンは思わず笑い出した。
 ルカは美しい赤子だった。成長とともにその美しさはいっそう磨きがかかった。シミひとつない透けるような白い肌。まるでこの世のものとは思えない。奥方が仰せの通り、神の生まれ変わりなのかも知れない。いやそうに違いないと思わせるほどだ。
 その時、バシー、バシーと何かを叩く音。
 誰かが背後から護衛たちの頭を、それも力任せに叩いた。
「痛てぇー、何すんだよ」
「お前ら、ご令嬢と子供を相手に、何を教えているんだ。さっさと持ち場へ戻れ」
 どうやら二人の上官のようだ。
「先に言い出したのはお前だろー」
「おめぇーだ」などと言い合いながら、二人は子犬のようにじゃれあって持ち場へ戻る。
 ルカはその後姿を見送りながら、
「あの二人は出来ているのですか」と、訊く。
「殿下!」
 その上官は強い口調でぴしゃりと言う。
「殿下がお使いになるような言葉ではありません」
 シモンはくすくす笑う。
「あなたが、頭がよい訳がわかりました。こんなに沢山家庭教師がいるのですもの」
 どこの館でも、王子が護衛にこれほど親しく話すことはない。
 そこへ聞きなれた大声。
 ルカは肩をすくめた。
「おいルカ、どこに居るんだ。隠れていないで出て来い」
「あのバカ」と、シモンは令嬢にあるまじき舌打ちをした。
「どうして僕が、隠れなければならないのですか」
「殿下、また何かしたのですか」と、先程の上官。
 またとは、よくハルガンから逃げるために匿ってもらっているせいだ。
「いいえ、心当たりはありません」
「今日は、お約束の日ではありませんよね」と、上官は念を押す。
 ルカは頷く。
 結局、こちらから出向かなくとも招かざる客は、向こうからやって来た。
 カロルは夫人の間を縫って通り、ナオミの前へ行く。
 丁寧に挨拶をしてから、「ルカ王子は?」と訊く。
 さすがに奥方の前では、ルカを呼び捨てにはできない。
「あの子が何かしたのですか」
 カロルの剣幕ぶりに、ナオミは心配そうに訊く。
「ああ、俺から一本取ったんだ」
 そこへルカがやって来て、
「一本といいますが、十本中、一本ですよ、九本はあなたが。一本ぐらい僕に下さってもよいではありませんか」
「ああ、一本ぐらいお前にくれてやってもいい。俺は気前はいい方なんだ。だが、最後の一本というのが気に食わない。なんか、全部負けたような気がする」
「気のせいですよ」とルカは軽く受け流す。
 カロルはむっとすると、
「とにかく、気分が悪いんだ、最後に負けたということが。それでもう一回試合をしようと思ってな」と、カロルは言いつつ、竹刀を肩に担ぎリズムを取る。
「あの、目に入りませんか。今日は」と、ルカが言いかけると、
「こんなでかいものが目に入るか」と、カロルは周りの雰囲気を指し示しながら怒鳴る。
 最初から知ってのことだ。ルカは会話を諦める。
「わかりました。三本勝負で行きましょう。それ以上は何度やっても同じですから」
「どっ、どういう意味だ」
「やればわかります」と、ルカは自信ありげに言と、護衛に竹刀を持って来るように指図した。
「ここでは農作物が駄目になってしまいます。あちらへ行きましょう」と、草だけの空き地を指差した。
 ルカは皆から外れようとしたが、ギャラリーは付いてきた。
 どちらが勝つか、護衛たちの間では賭けが始まる。
 無論、ギャラリーたちも黙ってはいない。誰もがカロルが勝つ方へ賭ける。
「これでは賭けにはなりませんわ。どなたか、ルカ王子の方へ賭けられる方はおりませんこと」
 護衛たちですら、主を見限ってカロルの方に賭けているありさまだ。
「よし、私が受けて立とう」
 そう言い出したのは、ハルメンス公爵だった。
 ルカは構えた。本気だった。皆が見ているからと言って、ここで負けてやるわけにはいかない。本当は誰も見ていないところで勝負したかったのだが、これもカロルにとってはよい機会かもしれない。
 カロルも構えた。
 ルカは護衛の一人に審判をするように言う。
 彼の合図で二人はすばやく動いた。歳の差は七つ。身長にいたっては倍ちかく違う。
 リンネルもこの様子を遠巻きに見ていた。リンネルにとってはどちらも教え子。しかし近頃ルカは剣の腕をあげてきている。自分ですら時折一本取られることがある。同じ手は二度と使えないお方だ。
 早いとカロルは思った。
 隙が多いとルカは思った。
 カロルの剣は荒削りだ。一つ一つの技が大振りだ。だからそこに隙ができる。しかし力はある。まともに受ければ返すことはできない。それに反応が早い。後は無駄な動きをなくせば、今より早く次の技に入れるのだが。そこは練習不足がたたっていた。いや、今まではこれで充分だった、仲間同士では勝てたのだから。
 ルカは小柄な体を巧みに動かし、相手の力を受け流す。
 カロルはおもいっきり打ち込んだつもりが、何故か丸いものの上でも滑るようにして、カロルの剣は地面をたたくような感じになり、思わずバランスを崩す。
 そこに強烈な一撃。
 痛てぇーと、思うが早いか、審判の声。
「一本、そこまで」
 ギャラリーの驚きと非難の声。
 カロルはむっと来た。カロルが睨み付けると、既にルカは次の構えに入っていた。
 審判の合図で二本目が始まる。
 だがこれも、似たような形で一本取られた。
 三本目も同じだった。
「一本、そこまで」と、審判は二人の間に割って入る。
 ルカは竹刀を片手に持ち替えると、始まった時と同じように丁寧に頭を下げた。
「どうして」
 カロルは混乱した。
 無論、ギャラリーも黙っていない。
 カロルは竹刀を片付けようとしたルカに、後一本と食い下がる。
「何度やっても同じです」
 唖然としているカロルに、
「おわかりに成りませんか」
「かわらない。後一本だ」
 俺は自信があった。剣だけは誰にも負けないと。それが何故、こうもいとも簡単に。
「五回やっても、十回やっても結果は同じです。あなたはもう僕には勝てない、今のままでは」
「なっ、何だと!」
 カロルは怒鳴った。
 だがルカはそれとは正反対なぐらいに物静かに、
「勝ちのパターンがワンパターンなのです」
 カロルはむっとして自分より遥かに小さい子供を睨みつけた。
 だがその子は臆することもなく、睨み返してきた。
「もう一回だ、構えろ」
「三本勝負という約束です」
「うるさい、構えろ!」
 完全に頭に血が上っていた。
 ルカは仕方なく構えた。
「これが、最後です」
 今度は先程の比ではない。物凄い勢いで竹刀がぶつかり合う。音がとどろく。ギャラリーたちは水を打ったように静まり返った。
 だが結果は同じだった。
 カロルは地面に座り込む。
「どうしてだ」
「研究が足らないのです。あなたは武には恵まれた環境にいます。お父様に頼んで、リンネルのような方を十人ぐらい選んでもらい、相手をしてもらうといいですよ。一人ずつ勝っていくのです。十人勝ち抜いた時には、あなたはもう僕の手の届かないところにいます。そしたらまた試合をしませんか。僕もただここで待ってはいません。リンネルから彼の知る限りの勝ちパターンを教わり、あなたが来るのを待っています」
 カロルは竹刀を地面に叩き付けると、そのまま走り去った。
 ルカはその後姿を目で追う。
 ギャラリーは静まり返っていた。
 しばらくしてハルメンス公爵が手を叩いた。
 それに釣られて一人二人と手を叩き始めた。
 一人の王子が言う。
「お見事」
 すると他の王子が、
「あれで本当に、艦隊司令官になれるのかな」
「親の七光りか」
 馬鹿にし始めると止め処がなくなる。
「彼は、なれます」と、ルカは彼らの罵声を断ち切るように断言した。
 ルカはカロルが投げ捨てていった竹刀を拾うと、館へと向かう。
 そこへすかさずナオミの声。
「お待ちなさい」
 ナオミはルカに走り寄ると、ルカの頬を張った。
「母上」
 ナオミは般若の形相でルカを睨み付ける。
 何もご夫人方の面前で、彼に恥をかかせることはなかった。
「僕は、勝ったからといって嬉しいわけではありません」
 ルカはそう言い捨てて、その場を走り去った。
「奥方様」
 護衛の心配そうな声。
 手が熱い。こんなに思いっきりぶったのは初めてだった。
「あんな子に、育てたつもりはない」
「奥方様、殿下は間違ってはおりません」と、リンネルはルカの行為を彼に代わって弁解した。
「カロル様は武人の子です。殿下としては、彼から試合を申し込まれた以上、ご夫人方の前とはいえ、本気で相手をしなければ失礼にあたります。例えそれで彼が恥をかくことになっても、同情で一本与えられた方がよほど恥になります。武人にとって負けは決して恥ではありません。次に勝てばよいのですから。そこから逃げることこそ恥です。殿下も私に負けるたびに学ばれてこられたのでしょう。それを怠った方が負けになります。カロル様にはよい勉強になられたことだと思います。どうか殿下を叱らないでやって下さい」
 ギャラリーは唖然としてしまった。
 ナオミの態度にもだが、あの激しい打ち合い。まさか女のような華奢な子が、カロルに勝つとは思わなかった。
 ナオミは見苦しいところを見せたことを丁寧に詫び、広間に食事が用意してあることを伝える。

 結局ルカは、食事に姿を現さなかった。
 ナオミに叩かれたことがショックのようだ。
 帰り際、ルカはカロルの竹刀を持ってシモンの前に現れた。
 いくらか左頬が赤くなっている。肌が白いだけに目立つ。そして目も。泣いていたのだろうか、腫れぼったい。
 ルカは黙ってシモンに竹刀を差し出す。
「お母様に叱られるのは初めて?」
「いいえ。でも叩かれたのは」
「ご免なさい、悪いのは弟の方なのに」
 ルカは軽く首を横に振ると、
「カロルさんが、僕たちのことを心配して来てくれたのはわかっていました。でも、ああするしか方法はなかった」
「カロルは勝てると思っていたのよ。自業自得ね。私はずっと、このままではいけないと思っていたわ。誰かがあの子の鼻をへし折ってくれればいいと。まさかあなただとは思ってもみませんでしたけど」
「これを」と、ルカは竹刀を差し出す。
「勝ちに来るのを待っているからと、伝えてもらえませんか」
「伝えておくわ」
「今日、心配して来てくれてありがとうとも」

 ハルメンス公爵は車のなかで腕を組み、じっと座っている。
「意外でしたね、文武両立とは。華奢な感じにお見受けしましたので、武の方はてっきり駄目かと思っておりました」
 クロードの言葉にハルメンスは微かに笑う。
「しかし、うまく行きましたね」
 撒き餌は充分、後は餌にかかってくるのを待てばよい。
「あんなに禁書が効くとは思いませんでした」
「ああ。教育も必要ないようだな」
 既にルカの体内には平民の血が充分に流れている。
「ナオミ夫人の影響だろう。彼女はなかなかの人格の持ち主らしい」
「後はあなた様を気に入ってもらうだけですね」
 これは少し問題があるようだった。クリンベルクの影がちらつく。この館は彼の手内にある。
「まあ、焦らず、少しずつ我々の考えを理解していただきましょう」

 あれ以来、カロルは自室にこもったきり出てこない。
「何か、あったのか」と、心配する兄たち。
「決まっているじゃない。試合を申し込んであの子に負けたのよ。それも完膚なきまでにね」
 兄たちは息を呑んだ。
 信じられないという顔をして妹であるシモンの顔を見と、念のために訊く。
「あの子って、ルカ王子のことか」
「他にいないでしょ、あの型破りを御しできる方は」
 王子ぎらいだったはずのカロルが、完全に彼にのめり込んでいる。
 二人の兄は顔を見合わせた。
 いくら荒削りだとはいえ、カロルは武人の家系に生まれた。歩くより早く剣を手にしたぐらいだ。今まで同じ年頃の子はおろか、かなり年上の子にすら負けたことがない。それが、あんな華奢な、しかも六歳の童子に負けるなど考えられない。
 一体、あの館で何があったのだ。

 シモンは竹刀を持って弟の部屋へ向かう。
 ノックしたが返事がない。
「カロル、入るわよ」
 広い部屋、どこにも姿が見えないと持ったら、カロルはベッドの上でふて腐れていた。
「はい、これ」と、シモンが竹刀を差し出すと、カロルはそれを払いのける。
「お見事なほどに負けたわね。ああも負ければ、さっぱりしてかえって気分がいいわね」
「うるさいな、出て行けよ」
「待っているってよ、あなたが勝ちに来るのを」
「うるさい、出て行け!」

2009/02/09(Mon)23:33:46 公開 / 土塔 美和
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 つづき書きました。またお付き合いください。感想、お待ちしております。

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