『始祖鳥』 ... ジャンル:リアル・現代 ミステリ
作者:鈴村智一郎                

     あらすじ・作品紹介
ずっと考えていた長編の構想を現実にしたものです。テーマは人間の持っている「技術」と「神」についてです。よろしく御願いします。

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「では、この小鳥はどうなるのでしょう?
こんなに無力な自分を見て、悲しみのあまり死んでしまうのでしょうか?
おお! いいえ、小鳥は悲しもうとさえいたしません。
大胆にも、何もかもまかせてしまって、そのままじっと“聖い太陽”を見つめ続けていたいのです」

              by  幼いイエスの聖テレーズ

 

「prologue」

 ツイラは目覚めた。穴のあいたテントの天井から、朝陽が光の軸となって射し込んでいた。難民キャンプで過ごし始めて、今日でもう十日が過ぎた。ツイラが暮らしていたツヒンバリの街では、ロシア軍とグルジア軍の戦闘で多くの人が命を失った。ツイラの姉ビアレータは、この戦闘に巻き込まれ、避難している最中に銃弾で足を射抜かれてしまった。ツイラが妹のドーニャを連れて、引き返そうとすると、ビアレータは「私にかまわないで逃げて!」と必死でいい張ったのだった。あれから姉がどうなったのか、ロシア軍に捕虜たちと一緒に捕まったのか、それとも分離派のオセット人たちに捕らえられて酷いことをされていないか、ツイラは気が気でなかったのだった。
 グルジアの首都トリビシには、今沢山のテントが張られている。ツイラとドーニャは、同じグルジアの街ツヒンバリからここへ避難してきたのだった。だが、難民キャンプでの生活は不衛生と、精神的な不安との闘いだった。昨夜も簡素なパイプベッドの上で、ツイラは七歳のドーニャを抱きながら眠った。
 ――お姉ちゃん。ビアレータもここへ来られるよね?
 朝食の準備をしているツイラに向かって、目をこすりながらドーニャが尋ねた。朝陽を浴びた姉妹の金髪は、まるで荒涼とした世界を必死で生き抜く二人の天使を感じさせた。
 ――きっと生きてるはずよ。お姉ちゃんは賢い人だったもの。きっと、ロシア軍でも私たちの国の軍隊でもなくて、国連の人たちの助けを求めてるはずだわ。
 ツイラは毅然とした勇敢な眼差しでそう大切な妹に告げた。だが、ツイラもドーニャもやはり疲弊していた。体が非常にだるく、背骨が何故か無性に痛い。朝食といっても、二人が口にしているのはこの十日間、ずっと肉と魚の缶詰だけだ。お風呂はといえば、タンクからホースで冷たい真水を浴びるだけだった。隣のパイプベッドとの間隔もわずかしかなく、深夜には重傷を負った同じ街出身の男性たちが唸り声をあげるのだった。
 二人のいるテントの周りは、荒地のような場所だった。樹木もほとんど存在せず、ひたすら殺伐とした砂色の地面と、乾燥した薄い水色の空が広がっている。
 ――家に帰ったらどうする? ドーニャね、またドロシーで遊びたいの。
 ドロシーというのは、一番上の姉であるビアレータがドーニャの誕生日に買ってあげたロシア製の人形だった。避難してくる時に、家に置き忘れてきてしまったのだ。
 ――ドロシーもきっと元気にしてるわ。ねえ、ドーニャ? 体調悪くない? 何かあれば必ずわたしにいうのよ?
 ツイラは、大人たちなら「ロシア製の下らない人形など捨ててしまえ」ということを知っていた。ロシアは平和維持部隊を名乗っているが、グルジアのごく平穏な市民にとっては怖ろしい侵略者だった。だが、ドーニャが国籍に関わり無く、どんなオモチャとも遊んでいるのを見ていると、小さい娘には国境など存在しないということをふと感じた。
 夕暮れ、全てのテントが一様に柑橘系を感じさせる鮮烈な夕陽に照らされた。ドーニャは地面に小枝で絵を描いていた。ドロシーがどこかの魔法の王国で、シンデレラのような王女になっている巧みな絵だった。ツイラは妹には絵の才能があるような気がした。ふと、二人の前方に人が立った。姉妹が見上げると、難民キャンプにいる仲間たちとは違う服を着た大人たちが立っていた。大人たちは姉妹を見て、やがてテントの中を確認するために離れた。だが、彼らの中の一人は、ドーニャが描いていた地面の落書きに関心を示した。黒人の、凛とした知性を感じさせる女性だった。
 ――Hi! こんにちは。素敵な才能を持ってるのね。私たちのことだけれど、貴女たちの味方だから何も心配しないでね。
 彼女はそういって、少し警戒心を浮上させていた姉妹を優しく穏やかにさせた。
 ――お姉さんは? もしかして国連のひと?
 ツイラはドーニャを腰の辺りに引寄せながら、そう尋ねた。
 ――OSCEよ。わかる? 欧州安保協力機構。要するに、貴女たちを支援するために来たってわけ。
 ――私たちの国、戦争してるの?
 ――そう、今は和平文書が結ばれてるけど、まだロシア軍は駐留しているし、どうなるかはわかんないからね。停戦監視も仕事の一つ。それより、食べ物が届いてるの。食べない?
 ドーニャが元気よく、「おなかペコペコ!」と叫んだ。ツイラも同じだった。缶詰ばかりで食欲もどこか減退していたのだった。OSCEのメンバーの女性は、モリスンと名乗った。モリスンは新しい、もう少し広々としたテントの中で食料の入った山積みのケースの一箱を開いた。
 ――お姉ちゃん! パンとジャムがあった!
 ドーニャが瞳を輝かせてそういった。ツイラはその瞳を見て、不意に哀しくなった。姉のことを思ったのだ。大人たちは、逃げてきたツヒンバリの街の廃墟で、怖ろしい略奪や辱めが起きていると語っていた。もしも、もしもビアレータがそんな羽目になっていたとすれば! ツイラはやはり一瞬たりとも気を置けなかったし、常に張り詰めた緊張感で意識を支配されていた。だが、このモリスンというビアレータと同じ年齢くらいの女性は、どこか信頼できそうな気がした。
 深夜、ツイラが眠れずに月夜を眺めていると、モリスンがやって来た。彼女は何か黒っぽい袋を抱えていた。
 ――眠れないんだよね。うん、わかるよ。でも、私たちに任せて、貴女には体力を快復させてもらいたいの。
 ――ビアレータっていう姉がいたんです、とツイラは物憂げに口を開いた。荒野の奥からは、生温かい湿り気を含んだ夜風が吹いていた。でも、ツヒンバリで足を射抜かれて……それで……もしも、何か酷いことをされていたらって……。
 少女の切実な訴えに、モリスンは顔色を変えた。そして、しばらく静かな沈黙が訪れた。
 ――ツイラ? いいかしら? 今、一番大切なのは、貴女たちを元通りの平穏な生活に戻してあげるっていうことなの。そのためには、貴女たち自身が、周りで起きている出来事を「情報」として把握しておく必要があるの。幸い、ツイラもドーニャも他の難民キャンプの少年たちより利巧そうだから、子供たちのリーダーとして貴女に、私から一つ頼みごとをしておくわ。
 モリスンのそう訴えかけに、ツイラは真剣な眼差しで見つめ返した。自分にできることなら、何でもやりたい! そう強く思った。これからの二十一世紀を担うのは、私たちでもあるのだから、そうツイラは唇をかみ締めた。
 ――おっしゃってください! わたし、仲間のために何でもします!
 モリスンは少女の強い意志に思わず涙を潤ませた。そして、黒い袋を開けて、中から一台の最新鋭のpcを取り出した。それをツイラに手渡した。
 ――デスクトップに私のpcのメールアドレスが記載されてる。それで、私といつでもネットで繋がることができるわ。何故こんなことをいうのかというと、実は明朝、私たちはこのキャンプを離れて、ゴリのキャンプへ飛ぶの。だから、これ以上私は貴女の傍にはいられない。でも、私は貴女にWebを渡すわ。Web……今、世界で一番重要なのは、生きるために必要な「情報」なの。それも、少し未来を予測できるようなね。トップページはGoogleにしてるわ。お気に入りに、この辺りの情勢や危険地域がいつでもリアルタイムでチェックできる私たち特製のサイトも登録してる。だから、いいかしら? ツイラ。貴女はこれを自分たちを生かす道具だと思って大切にして。約束できるわね? 
 ツイラは震える手でモリスンのpcを受け取った。そして、二人はまるで遠い先祖を共通にした実の姉妹のように、しっかり抱き締めあった。ツイラはモリスンのいうとおり、「情報」を常に把握し、現在を生き抜こうと決意した。妹のドーニャを守り抜くためには、どうしてもたった一台のpcが必要だった。それで、もしかすると救うことのできる命があるかもしれない。ツイラは強い希望への意志を抱きながら、ドーニャの傍で眠った。
 翌朝、ツイラは子供たちを集めて、モリスンから教わったサイトを表示させていた。ツヒンバリの焦土の様子や、各国が流している現地の緊迫したニュースなども彼らに伝えることができた。どこへ行くべきか、何を今すべきか、そういった今後の課題がじょじょに見え始めた。
 ツイラはドーニャたちに少し画面の操作を任せ、食料を調達しにテントへ戻った。袋を抱えてテントを出ると、砂嵐のような濁った風が荒地に吹いていた。ツイラはテントに子供たちを引き返させるべきだと思い、ドーニャを呼んだ。すると、ドーニャは少年少女たちと共に、一斉に「お姉ちゃん!」といった。ツイラは何か異常を察知して、鞄を投げ捨てて駆けつけた。
 だが、子供たちには何も起きていなかった。ただ、彼らは皆一様に、pcの画面を覗き込んで、「おかしいなあ!」とか、「壊れたんだ!」などといって笑っていた。ドーニャも「機械がおねんねしちゃったの」とツイラに囁いた。ツイラが画面を見ると、先刻まで表示されていたはずのOSCEの公式サイトが消えていた。そればかりか、画面全体が真っ白な海辺のようになっていた。
 やがてツイラが画面の中央に表示されている文字を、深刻な面持ちで読み上げた。
 ――Page Not Found……?

T 「Page Not Found」

 貴族のような眼差しをしていた。没落した、最早この世界のどこにも居場所を持っていない、そんな哀しげだが高貴な眼差しをしていた。志穂は叔父の博物館で初めて始祖鳥を復元したレプリカを見たとき、そう感じたのだった。冷たい館内の中を、志穂は館長をしている叔父の手を握り締めながら不安げに歩いていた。様々な古代の生物を復元させたレプリカが怖かったのだ。だが、回廊の果てで彼女を待っていた始祖鳥だけは、何故か彼女にやさしく微笑んでいるように感じられた。
 もうずいぶん前の記憶だった。あれからすぐに叔父に不幸があり、博物館も閉鎖された。今、そこは広大な雑木林になっている。夏休みが始まってまだ三日目だが、世界中はある出来事で持ちきりになっていた。Web上で、何か情報を探すために検索すると、「Page Not Found」と表示される現象だった。水色や、桃色の綺麗な背景をしたサイトも、この魔法にかかると、真っ白な海辺へ変わってしまう。海辺の波打ち際には、ただ無機質でシンプルな「Page Not Found」のロゴマークが表示される。志穂には、この原因がまだ解明されていない、とるにたらない現象が、何故か意識の中で始祖鳥の眼差しと重なるのだった。
 志穂は昨夜、グルジアの衝突のニュースを知った。新聞で確認すると、難民キャンプにいるグルジア人の少年少女たちが、不安そうにカメラを眺めていた。志穂はそれを切り抜き、自分のダイアリーノートに貼った。その記事は、文字と写真だけで構成されたものに過ぎなかった。だが、志穂はこうした情報に出会うたびに、自分の生活世界がどれほど恵まれているかを知らされるのだった。本当にこういう出来事が遠い国で確実に起きた、ということを自分の生活に滑り込ませたかった。志穂は、たとえすぐに情報として化石化するのであれ、彼らの存在を自分の生活と結び付けたかった。そして、そういう作業を都市全体が静かなまどろみに支配された深夜に行う時、何故か志穂の心は穏やかで、落ち着いたメロディーを流していた。
 志穂は今、隣の男子校に通う憐とカフェレストランに来ていた。果肉色に沈んだ涙ぐましい黄昏時のカフェテラスは、静まり返って瞑想的な雰囲気を帯びていた。憐はほっそりした、華奢な体型だったが、端麗でやさしげな容貌だった。二人は、学校でも話題になっているPage Not Foundについて、自分たちだけで調査しているのだった。何故、Webの中が何もない無人の砂浜と化しつつあるのかが、二人にはまるで解らなかった。ただ、志穂はこの問題が、自分の中の古い謎めいたアルバムと繋がっていることを感じていた。だから、彼女はこのPage Not Foundを知るために、可能な限りの努力をして情報を収集していた。   
 ――志穂、Page Not Foundって一体何なんだ? 「ページは見つかりませんでした」以上の何か神秘的な意味が?
 憐がそう尋ねると、志穂は安堵したように笑った。
 ――私が調べた限りでは、HTTPステータスコードの一つよ。ほら、Web上でさ、時どき前にお気に入りに登録してたサイトが、いつの間にか「404」になってたりするでしょ? あれのことよ。
 ――でも、何でそれがペストみたいにこんな世界中で拡大してるんだろう?
 ――Ph=D・Fisherって神学者知ってる?
 憐は真剣な眼差しで首を横に振った。やはり、志穂は誰よりもPage Not Foundについて詳しいように思われた。
 ――44歳の時に発狂したのよね。Page Not Foundってサイバースペースの平凡極まる現象に、不気味な神学的解釈を施した張本人、っていうか、悪源がコイツ。
 ――発狂してからも本とか出してたの?
 ――うん、っていうかね、発狂してからなのよね。一部の知識人たちから凄い関心を持たれ始めたのも。Fisherは自分でガソリンを被って、自ら火刑の被害者になったんだけどさ、最後の遺作っていうか、主著って呼ばれてる本があってね。それが『Page Not Found』なのよね。一説によると、デザイナーの一人がFisherその人らしいからさ。で、コイツがその本でいってることが、またブッ飛んだことなのよね。ものすっごい要約したらさ、Page Not Foundの起源は、紀元4世紀のArianismっていう異端まで遡るっていわれてる。
 ――1600年も前に「Page Not Found」とよく似た現象があったってこと?
 ――うん。Ariusって、もともと正統派の司祭だったらしいのよね。見かけは、ほんとに完全に正統派で、たぶん祈り方も同じだったし、当時の婦人さんたちからも慕われてたと思う。ただ、考え方に一つ異常な部分があったらしいのね。
 ――ちょっと待って。志穂はなんでそんなに詳しいの? もしかして聖書の授業でそんなことまで習ったりしてる?
 ――ううん、学校ではここまで言及されないよ。ほら、私の場合、幼児洗礼だったからさ。で、Ariusなんだけどね、彼はどうやら神さまを「隠された存在」だって考えたかったようなの。ほら、旧約聖書でも、神さまってめったに姿を現さずに、声として預言者を媒介にしてたでしょ? 神さまは「カクレンボ」の名手ってわけ。で、新約時代になって、イエスの教えが広がると、「隠されていた」ものが、「開示された」存在としてイエスが顕現したって受け取られたのね。つまり、真理って扉が、開かれたってイメージ。これをさ、あのクレイジーセオロギストは、「隠されていた/ページが見つかりませんでした」、「開示された/ページが見つかりました」って基本的な図式に置き換えたのね。たぶん、バックにはWebに聖性を見出すような妄想的な考えがあったはずだけど。
 ――つまり、Page Not Foundの性質は、神の属性だってこと?
 ――うんうん、そう。でもさ、これは少ししたら、「聖三位一体」にとってはエラーってことで、Ariusは異端視されたのね。だって、イエスと神を別々に規定しちゃってるでしょ? ただ、FisherはWeb2・0期の現代世界を、「Web Arianism」が暗躍する時代だって定義したの。Page Not Foundってのは、原型となる元のページなりサイトが無ければ存在しない。いわば、サイトの廃墟よ。Page Not Foundは、「Page Not Found」って電子記号が画面上に出現してるのに、元のサイトが謎に包まれている点で、一種の痕跡なのよね。それは出現しているのに、核心となるものが未だ出現していないってこと。つまり「非現前」。だから、Page Not Foundは、旧約時代の神を表現する言葉でもあるって怪説を提唱しだして、自分でもおかしくなっていったのよね。
 憐はその非常に不気味な、異常な思考回路によって生み出された考えに愕いた。
 ――でも、その話を聞くだけなら、今世界が直面してるPage Not Foundにとって、あまり解決のヒントになるものはなさそうじゃない?
 ――そう、だから「デザイン」だって説が有力なの。
 憐は知ったことを整理するだけでも、かなりの時間が必要だった。
 ――もしかするとさ、Page Not Foundは世界から未だに「隠されてる」何かなのかもしれないね。
 志穂はその憐の言葉を耳にして、急速に冷静な、分析的な少女の眼差しになった。
 ――Fisherはさ、実は発狂する前にフライブルク大学の神学部教授だったんだよね。で、そこの教え子で、浅野洋子って日本人の学者がいるんだよね。まあ、私の実の姉なんだけど。
 ――浅野洋子? 
 ――姉は私より15歳も年上だけど、まだ学者としては若い方かな。ただ、姉もFisherを批判的に研究してて、Page Not Foundに関するセオロジックな論稿を機関紙に発表してるみたい。男狂いで、アルコール中毒で、ほんとにとんでもない姉なんだけど、思考力はFisher級なのよね。私は「姉」っていうより、「浅野洋子」って他人扱いしてるけどさ。その浅野洋子は、Page Not Foundを「parergon」って言葉で表現してる。
 ――なんか怪物みたいな名前だね。
 ――うん、でもそれ実はシャレになんないのよ。まあ、parergonってギリシア語で「作品の外」とか「余白」って意味なんだよね。Page Not Foundはさ、いってみりゃWebの中を漂う「余白」なのよ。絵画でいえば、額縁ね。でも、Webってスペースも、現実世界って生の舞台に較べれば、「余白」みたいなものだったわけでしょ?
 ――Web1・0期くらいには、まだそういう考え方の人が多かったね。
 ――うん、でも、「もうすぐWeb3・0!」とか期待されてる今の世の中だと、Webはもうビジネスと一体化して人生を生み出す掛け替えの無い媒体になってるじゃん? つまり、現実世界と、仮想世界で、どちらがparergonで、どちらがergonかっていう明確な境界線が霧消しつつあるのよね。
 ――えっ? ergonっていうのは?
 ――ergonは、parergonが「作品の外」なら、「作品」のことよ。本を開けて、文字が書かれてる部分ね。ここがergon。みんな、これを読んだりするわけで、parergonになんて見向きもしないし、メモ代わりに使うだけ。でも、Page Not Foundが密かに行っていることは、現実世界をparergonにすることだと私は思うの。いや、こういうべきかも。つまり、Webをリアルに限りなく、なめらかに、透明に、「浸透」させること。
 ――それが浅野「洋子」さんの学説? 「志穂」はお姉さんに批判的ではないの?
 憐がそう微笑みながら尋ねると、志穂は腕組みしながら、姉の姿を思い出したのか、憂鬱な溜息を吐いた。

 志穂のpcに姉からメールが届き、彼女は憐を連れて南仏ニームへ旅立った。
 ニームの夏休みは、まるでPage Not Foundとは無縁であるかのように、ずっと平穏な息吹で包まれていた。憐は、国鉄駅の近隣にある美しい並木道の中で、ぼんやりとベンチに座っていた。ベンチの後方に並ぶ家々の間の路地裏では、少年少女が元気な声で鬼ごっこをしているようだった。
 やがて、隣にカジュアルな服装をして、麦藁帽子を被った女性が座った。浅野洋子だった。志穂は、二日前から体調を悪化させ、ずっと洋子の寝室で眠り込んでいた。憐は、一人でこうして街を呆然と歩き、いつしかベンチに腰掛けていることが多くなっていた。
 ――この街は好き?
 洋子は気さくな笑顔を浮かべながらそう憐に尋ねた。
 ――ええ、好きです。でも、やっぱり日本がいいです。
 ――Page Not Foundについて、私から直接意見を聞き出したいんだって?
 ――洋子さんは、Page Not Foundのデザイナーと顔見知りだったんですか?
 憐がそう尋ねると、洋子は胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
 ――Fisher? それとも、Northrop Frye? 私はさ、他の人がどういうか知らないけど、FisherはPage Not Foundの世界を構築していないと信じてる。あの人は、本当に病気だった。もう、誰とも話せないような状態だったから。
 ――Northrop Fryeというのは誰ですか?
 ――(フライドポテトのことよ。)この話もうやめようさ。
 憐は黙り込み、そしてバス停に古代橋ポン・デュ・ガール行きのバスが来たことを見つけた。
 ――洋子さんはあそこへ行きますか?
 ――橋のこと? ううん、行かないよ。でも、今日の夕刻に行くよ。私の仕事は基本的に家でできるからさ。毎日あそこまで散歩するんだ。
 ――今日はちょっと早く行きませんか?
 憐がきょとんとした眼差しでそう誘うと、洋子はじっとまだ高校生のこの少年を見つめて、そして大笑いした。
 ――暑いじゃん? もっと涼しいところなら連れていってあげてもいいけどさ。
 ――カフェテラスありますよ? 橋の近くにも。だって、世界遺産なんでしょ?
 ――地元人にはあまり実感ないけどね。まあ、テラスはあったね。んじゃ行こっか?
 二人は発車寸前のバスに乗り込んだ。憐が窓際に座った。洋子は麦藁帽子を脱ぎ、膝の上に置いていた。憐は風景ではなく、洋子の髪の毛をさり気なく見た。長髪で、茶色のメッシュが入った巻き毛だった。
 ――僕には、この風景も、全部夢みたいです。夢……でもそれは、悪夢では絶対にないんです。だって、こんなに喉かで、平穏で、空も綺麗だから。
 ――憐くんに質問。ここが「area:in the bus」ではないことを証明できる? 
 憐はその問いかけに愕いた。
 ――できますよ。洋子さんが隣にいることが答えだと思います。
 ――私はもしかしたらROM人格かもよ?
 憐は洋子の麦藁帽子を取り上げて、自分の頭の上に乗せてみた。
 ――全部本物っぽいですけどね。光を浴びて、縄目のところがこんなに光ってる。どこも、作り忘れはないですよ。Page Not Foundなんて、どこにも無い。
 ――でもそれは証明にならないわよ、憐くん。私には、憐くんがあっちのイベント発生物に見えるもの。
 ――失礼ですねー、といって憐は洋子の頭に麦藁帽子をそっと優しく被せた。どうすれば信じてくれるんだろう、と憐はそういった直後、不意に洪水のような哀しみに襲われた。もしも、笑顔で話せるような人が、その香りや呼吸の息遣いまで、全てプログラムされたイベント発生物であるに過ぎないとすれば、それはどれほどの戦慄だろうか。それ以上の恐怖などこの世界にあるのだろうか。
 ――ごめんごめん、信じてるよ。君はリアルだ。君は憐君だ。君は若くて可愛い男の子だ。なんか眠くなってきたわ、私。着いたら起こしてくれない?着いたらでいいからさ。ね?
 ――はい、と憐は返した。そして洋子が自分の膝を枕にして眠り始めたので、身動きが取れなくなった。
 カフェテラスに人は疎らだった。洋子はレモネードを飲みながら、うっとりしたような夢心地の眼差しで、砂色をしたローマ時代の古代橋を眺めていた。
 ――憐くんさ、ブランコに乗ったことあるよね?
 ――突然どうしたんですか?
 ――あのね、「ブランコに乗る」って行為が神学的に何を意味してたのかなぁ、とかふっと思ってさ。
 憐は、彼女がカトリシズムの神学者であることを想起した。
 ――そんな行為にも神学では意味を与えてるんですか?
 ――ううん、そうじゃないけどさ。ブランコの問題ってね、Page Not Foundについて考える上でめちゃくちゃ便利なんだよね。ほら、公園とかでさ、男の子がブランコで遊んでる。30分後に同じ公園を訪れると、もうブランコには誰も乗っていない。ブランコは、いわば空席ね。ブランコに人が乗ってる状態、つまり、ブランコっていう「システム」が動作主と結合して存在している場合が、Web上に「Page」が表示されてる状態と神学的には同一なのよね。
 憐は、おそらくFisherという異端的な学者も、今の洋子と同じような口ぶりで教壇に立っていたような気がした。そこには何か、独特な引き込まれる緊張感が漂っていた。
 ――えっと、難しくてよく解らなかったんですけど、ブランコを人が使ってる状態を、システムが作動している状態として考えるっていう発想は理解できます。けど、その場合、ブランコから人が下りればどうなるんですか?
 ――そう、それなのよね。ブランコから下りたら、ブランコのあの木製の板はどうなっちゃう? さっきまでまだ男の子が乗っていたなら、きっと板は揺れ動いてるわ。まるで、誰かを乗せているみたいにね。私は、この「まだ誰かを乗せているような状態」が、サイバースペースに存在するPage Not Foundって現象だと教えられたのね。
 ――誰を乗せているんですか? 今、まさに無人の公園でブランコだけが揺れ動いているのを目撃した通行人がいるとすれば、その人は「誰か」を特定できないと思いますけれど。
 ――そう、Page Not Foundって画面だけなら、原型となる「Page 」が何であったのかは解らないのよね。Page Not Foundは、「Page」の痕跡、廃墟だから、まあいってみれば、「Page」に相当するのが、あの当時のポン・デュ・ガールなわけ。で、2000年後の私たちにとっては、あれはもう遺跡でしょ? 「Page」が生きていた水道橋なら、「Page Not Found」はその遺跡。二つの決定的な差異は、「時間」よ。
 ――確かに、「ブランコに乗る」ことと、「ブランコから下りる」ことが成立するためには、時間が必要ですね。
 ――ブログとかHPで、管理人不在であるのに、まだWeb上をGHOSTのように浮遊している現象があるでしょ? 閉鎖しようと思えば、管理人が削除すればいいだけなんだけど、仮に突然死したりすれば、誰も制御できないじゃない? システムの親元が消滅させるのを待つまで、ずっと、ごく一部のユーザーの「お気に入り」に登録されてるだけ。そのユーザーはといえば、管理人が生きてるのか死んでるのかもわかんない。人が死ねば、corpusとanimaが分離するってフレームが古今東西の神話や宗教に存在するけれど、animaはどこへ行くのかしら? というより、animaとは何なのかしら?
 ――僕は「anima」っていうのは、脳科学が発展していない時代の産物だと思っています。でも、昔の人はanimaが存在しなければ人間の存在も成り立たないと考えてたそうですね。
 ――animaってのはね、名前が古臭くてあれだけど、ぶっちゃけ「informo(形を与える)」ものよ。つまり、管理人不在でも、サイトに「information(情報)」は残存する。それがWeb上で身体化することは可能なわけ。生命記号論だとね、生物の進化そのものを、informationのネットワークとして考えるのよね。昔のさ、animaについて奇説を展開した学者たちは、現代はみんなメディア学者として再現前しているのね。
 ――じゃあ今も昔も同じってことですか? でも、「ブランコから下りる人」が誰かはまだ解明されていないんじゃないでしょうか?
 ――あれだね憐くん、君とは話が合うかもね。まさにその通りよ。Page Not Foundっていうかね、Webには神学的な命題がごろごろ転がってるんだよね。突き止めていくと、いつの間にか創世論にまで到着してる自分に気付くの。世界の初めに「Page Not Found」があったんじゃないのか、とかね。要するに、世界の始まりそのものが、より始原的な始まりの二次的形式なのかってね。
 ――創世記の前に、「前‐創世記」みたいな本があったということですか?
 ――うん。でもね、これを突き止めると無限遡行のパラドクスに陥るから、憐君やめといた方がいいかもよ。
 その日の晩、憐が与えられた寝室で眠っていると、突然ベッドに誰かが潜り込んできた。憐が身体に乗せていた夏用の薄い布団は、その誰かに奪い取られてしまった。憐が愕いて顔を横に向かせると、洋子が泥酔した感じで、じっとこちらを見つめていた。そして、猫みたいなのんびりした笑顔で、「暑い夜はとことん暑くなってから寝ようぜー」といって、瞼を閉じた。憐が仕方ない人だな、と思ってリビングルームへ移動しようとすると、洋子が腕をがっしりと掴んだ。彼女は瞼を閉じて、気だるそうにしていた。が、憐はこの男を寝取るのが趣味らしい志穂の姉が、裸体で横になっているのを見た。
 ――洋子さん、離してください。僕、一人で寝たいんです。
 憐は隣室で寝込んでいる志穂が目を覚まさないような声でそう懇願した。
 ――憐くん童貞でしょ? 筆おろししてやるから、おいでよ。
 憐は洋子の熟れた果実のような裸体を見て、眩暈がした。ただでさえ真夏で暑苦しいというのに。洋子は全身に汗をかいていたが、憐もそれは同じだった。
 ――それでも神学者ですか! 志穂はカトリックの女の子ですよ? お姉さんがそんなんでいいんですか?
 ――あら、私は非信徒だけど? それに、神学だって仕事でやってるだけだしね。
 洋子はそういうと、平然と両足を開いて、隠されるべきところを憐に披露した。憐はこの年上の女性は、完全にある意味でFisherと同じく「危険」だと判断した。だが、高校生の憐にとって、熟れた大人の女性が裸体で行為を迫ってくる姿は、魔性の魅力を持つものでもあった。憐は誘惑に屈してしまった。
 憐と洋子は二匹の獣の共食いのように抱き合った。洋子は、憐がセックスにウブであることを悪用して、様々な遊びを教え込ませようとした。憐も、どれほど外見はほっそりした大人しそうな男の子であっても、やはり一人の男であることには変わらなかった。終いには、憐が洋子の太股を広げ、逆立ちの体勢にさせて舌先で愛撫するにまで到った。洋子は必死に喘ぎ声が出るのを抑えていたが、その声は志穂の部屋にまで届くほど大きなものになってしまった。
 全身汗みずくになった二人は、しばらく抱き合いながら両足を縺れさせていた。憐は、洋子の豊かな胸に抱かれながら、不意にあることを考えた。それは、Page Not Foundや学校生活などを全て超越したようなイメージとして彼に到来した。憐は、自分が巨大な「子宮」に包み込まれているような安心感を抱いたのだった。洋子の大切なところから溢れている、女性的な香りは、二人が抱き合っている寝室に満ちていた。憐は、洋子に抱かれることによって、世界に対する見方が完全に変わったのを感じた。憐は、二人で何度も悦びの声をあげて、果て尽くした直後、洋子から二度と離れたくない、と感じた。否、感じた、というよりも、そう悟ったのである。憐は、自分が男性であるということを知っていた。その憐は、洋子という女性と交わることによって、自分が「男性ではない何か」に成ったような気がしたのであった。
 これまで、ネットワークとして、rhizome状に無秩序に拡大していた世界が、憐の意識の中で、「子宮」のように、どこか丸い卵のような形状に更新された。というより、Neural networkの複数の逃走線たちが、全て「子宮」という容器に首尾よく収まったような感覚だった。それは、憐がこれまでサイバースペースを歩いてきたことから、また別の世界への見方へと進展した証左でもあった。
 憐は、それを知ったことが嬉しくなり、突然夢中で洋子に接吻した。それも、彼は洋子の腹部に、その臍に接吻した。洋子はぐったりと甘美な余韻に耽っていたが、突然まぬけな愛撫が始まったので大笑いした。
 ――何してるのよ、犬みたいに。
 ――ねえ洋子さん? 僕には子宮がありません。でも、洋子さんにはあります。
 ――ちょっと、突然どうしたの? あまりのエクスタシーで頭の中のネジがフッ飛んじゃったの?
 ――違うんです。ネットワークそのものが、全体としてどういう形をしているのか、それを感じたんです。僕は「子宮」だと思います。
 ――matrixってこと?
 ――なんていうのか、さっきの初めてのセックスで、「子宮」の形のことを強くイメージしたんです。した、というか、洋子さんがそんな感じだったんで。
 ――世界の起源に「子宮」が存在したとかいい出すんじゃないでしょうね?
 ――それは解りません。(でも、すっごい楽しかった。)悪いことしてるみたいな感覚だったけど、だんだんそうでもないって感じたんです。なんというか、小さい頃に近所の男の子とプールの中で戯れてるような、そういう感覚でした。
 ――まあ、それは相手が私だからかもねー。私は志穂と違って、気持ちよけりゃそれでいいのよ。その分、代償はあるけどね。(あっ、ピル飲んだっけな。飲んでなかったら、憐くんパパになっちゃうかもよ。)
 洋子はそういってあっけらかんと笑いながら、憐の丸裸の尻を優しく撫でていた。洋子は、憐のつるつるした尻を叩いたり、汗の水球を指先で弾き飛ばしたりしていた。
 憐はその後も、しばらくベッドの上で一人、「子宮」のイメージについて想いを馳せていた。洋子はすっかり退屈してしまい、シャワールームへ向った。憐は、不思議な感覚になっていた。どういうわけか、洋子が自分の「母親」だったような錯覚すら抱いた。母親となら、こういうことを幼年時代に何度もしてきたような記憶があったのだ。(つまり、鼻先と鼻先を擦り合わせて微笑みあったり、お尻を触られたり、ほっぺに接吻されたり……。)だが、憐は洋子の大切なところに、彼自身のものを入れる時、「違和感」を感じた。それは、やはり昔、男の子たちとプールでどこかエロティックな戯れをしていたものとは、全く異質な感覚だった。(まず、現実に、ぬめった感覚が憐の身体に「情報」として伝達された。奥まで入れてしまった時、自分が錯乱していると信じ込んでしまった。憐は、この浅野洋子という年上の女性と、本当に、絶対に結婚しなければならない、と確信した。)洋子はあまりにもこういうことに慣れており、その無邪気さが、憐に新鮮な怖れ、新鮮な好奇心のようなものを抱かせたのだった。だが、憐は不意に、志穂がもし姉との行為を見ていたら、どれほど哀しむだろうか、ということに今更ながら気付いた。
 やがて憐もシャワールームへ向った。バスタブでは、また洋子が(водкаを)飲んでいた。憐は驚愕して、それを取り上げた。洋子はぼんやりした眼差しで、憐が手っ取り早く全身の脂汗を洗い流しているのを見つめていた。
 ――憐くん憐くん! 見て!
 不意に、洋子がそういって、憐に合図した。憐が彼女を見やると、バスタブの中で、何か(白っぽい糸のようなもの)が水面に浮上していた。同時に、洋子が湯船で排尿していることが解った。洋子はにっこり微笑みながら、まどろみのような眼差しで、「Have you the? Horn. Have you the? Haw haw horn.」と酔いどれて囁いた。
 ――洋子さん、ちゃんとお風呂掃除しなきゃダメですよ?
 ――これなぁんだ?
 洋子は湯船の中の糸のような塊を指で掬い上げた。
 ――何ですか?
 ――わっかんないかなー! これ、憐くんがさっき可愛い顔して出してたものだよ。ちょっときばったただけで、ホラ。
 憐は洋子のふやけて、少し萎んだみたいな裸体、湯船に広がる黄金色の小便、そして自分が先刻出したものを、また指で弄くっている笑顔の彼女を見て、気分が悪くなった。
 ――(前に付き合ってた男のさ、)あれが翌朝にパンツに付いてたことがあったんだよね。ちょっとおしっこっぽい色に変わるなんて知らなかったわ。
 不意に、バスルームの扉を激しく叩く音が二人の鼓膜に襲撃した。憐と洋子は声を失った。やがて浴室の扉が素早く開かれた。志穂がpcを腕に抱えて、怒った顔で二人を睨んでいた。
 ――憐もアンタも最低だね。これ、チェックしなかったの? たった今配信されたニュース。Page Not Foundに関する世界規模の事態収拾活動に、Scientia社が乗り出したそうよ。Scientia社のCEOが誰か知ってる?Northrop Frye! 誰かさんのクラスメイトだね!
 洋子は妹が伝えたその情報に目を丸くした。そして、急速にだらしない快楽的な眼差しが、分析的な神学者の眼差しへと変化した。洋子はバスタブから勢いよく立ち上がって、そのままバスタオルだけ羽織って飛び出した。憐は茫然自失して、静かに身体に石鹸の泡を塗っていた。
 ――私がカトリックだから、いわゆる「清らかで聖なる」世界しか知らないと思ったら、大間違い。
 憐はショックで何もいえなかった。(何かが)おかしかった、(何かが)悪かった、と思い直した。突き止めれば、誘惑してきたのは他でもない洋子だった。憐はそれを理性で阻止できなかったのだった。改めて再び二人でシャワールームに入ったのもまずかった。憐はその夜、早朝までバスルームで悩み続けていた。あまりにも怒涛のように出来事が押し寄せてきて、眩暈がしていたのだった。整理するためには、静かな時間が必要だった。

 翌朝、憐と志穂は朝食を済まして、シャルル・ド・ゴール広場まで続く美しい並木道に佇んでいた。二人はベンチに座り、このニームの街で今日から開館する「情報センター」への入館を待っていた。二人は洋子が来るのを待っていた。憐と志穂は、このセンターを情報収集の拠点にして、情報の空白化について調査していく計画を立てていた。
 洋子は現れなかった。やがて情報センターが開館したので、二人は早速入館した。中には蔵書数の充実した図書室も設置されていたが、最も重要なのはオンライン世界図書館に常時無料でアクセスできるということ、この一点であった。一階フロアは植物園のような空間になっており、オリーブの木の周りで、早速少年たちが絵本を読み始めていた。二階フロアには、整然と視聴覚的な設備が整えられていた。
 二人はしばらく、一言も口を利かずにそれぞれ調査していた。憐は気まずかったが、志穂はもう憐になど関心は無いのだった。昨夜、姉と憐があのようなことをしていたのを知ったことで、志穂の中で憐が「友達」ではなくなったのだった。それは仕方ないことでもあり、志穂も感情の複雑な年頃の女子高生であるので、ごく自然な成り行きであった。
 憐の中では、洋子に寝取られたことがどうにも悔しく、けれども洋子としたことがそれほど悪いとも思えなかった。志穂の尖がっている顔にフロアで偶然出くわすと、憐は緊張し、そして無視して調査を続行した。
 夕暮れまで調査を続けたが、ふとカフェに入ると、志穂が外国人の美少年と二人で楽しげに会話している光景が飛び込んできた。偶然その彼とはここで知り合ったらしく、もうすっかり仲良くなっているようだった。その少年の髪の毛の色は、珍しい灰褐色で、瞳は遠くからでもくっきりした水色であることが解った。長身で、とびきりのハンサムだった。
 帰宅すると、家には誰もいなかった。志穂は、あの美少年とどこかのレストランで夕食を取っているような気がした。憐は洋子が悦ぶようなことをしようと思いつき、家の掃除を始めた。そして、裏庭の薔薇を数輪切り取り、花瓶に活けた。それを彼は洋子と昨夜セックスした寝室に飾った。
 憐は夕食まで作り始めた。大きな丸いパンがあったので、その上にサラダやハムなどを乗せて、またパンで蓋をした。それを憐は三人分作った。つまり、自分の分と、洋子の分と、志穂の分である。志穂の分を用意したのは、彼女がまだ夕食を取っていなかったことを想定した上だった。憐は退屈だったので、洋子の仕事部屋の扉を開けた。学生時代の写真が木彫りの古めかしい写真立てに納まっていた。若い頃の洋子は今の志穂と似ていて、ショートカットだった。沢山の学生がいたが、日本人は洋子だけだった。洋子の隣で微笑している青年がいて、彼女の肩を抱いていた。中央には、車椅子に座って、顔に彫刻的な陰影を帯びた壮年の男性がいた。胸元のカードに、Ph=D・Fisherとあった。Fisherは理知的で、容貌は端麗で俳優的だが、どこか影があった。そして、こちらを睨み付けているような印象だった。
 やがてベルが鳴り、憐は玄関に駆けつけた。扉を開けると、志穂の隣にいた彼が立っていた。
 ――俺はここに棲みます、と彼はいった。
 憐はその言葉に驚愕した。昨夜も予期できぬことが起きたが、今日も起きるのかと思うと眩暈がした。
 ――どういうことですか?
 ――俺もPage Not Foundを調査してます。志穂さんを手助けします。
 憐は「なるほど、そういうことか」と思い、彼をリビングルームへ案内した。元々この家は洋子の研究室のようなものであり、自分のものではないのだった。憐は作っておいた夕食を彼にプレゼントすることにした。すると、彼はとてつもなく悦び、憐に何度も何度も厚い感謝を捧げた。
 ――僕の名前は川崎憐といいます。貴方は?
 ――俺はEusebius Sophronius Hieronymusといいます。
 ――えっ? 何ですって?
 ――少し変わった名前でしょうか。
 憐は首を横に振り、笑顔で食事を勧めた。Hieronymusは憐が作った食事を非常に美味しそうに完食した。つまり、彼一人だけで、三人分も食べたのである。
 二人が映画を観ていると、やがて洋子が帰ってきた。突然雨が降り出したようで、髪の毛や服が濡れていた。洋子はHieronymusを見つけると、愕いて目を丸くした。
 ――誰よこのパリのホストボーイは。
 ――あっ、なんか志穂の手助けをしたいらしくて……。
 ――無理無理! もうこれ以上家族が増えたら困るのよね。神学者って儲からないのよ。先にシャワー浴びてくるわ。あれ? なんか家がスッキリ片付いてるわね!
 洋子はそういうと早速シャワールームへ向った。その期間で、やがて志穂も帰宅した。何か一人で調べることがあったようだ。志穂は早足でリビングルームに顔を出すと、Hieronymusを見て失敗したような困惑の表情を広げた。
 ――あちゃー。やっぱり来たんだね。
 ――志穂、おかえり、と憐はいった。
 ――このこね、Page Not Foundがきっかけになって記憶を失くしたそうなのよね。辻褄の合わないことばっかりいってて……。さっきまで施設に連絡して、「迷子」の引き取り先を調べてたんだけどさ。何故か繋がらないのよね。
 ――記憶喪失? でも、言葉は覚えてるみたいだね。
 ――うん、そういう基礎的な生活形式の記憶ははっきり残ってるみたい。今のところ、五カ国語は話せるってことだけは掴めたわ。あとさ、そのこね、VULGATAのテクスト情報を全文暗記してるみたいなのよね! だからニックネームで「Eusebius Sophronius Hieronymus」って名付けたんだけどさ!
 憐は彼の笑顔を見た。不思議な微笑を浮かべて、憐をじっと見つめていた。
 ――Hieronymusって、自分の名前だと思い込んでるみたいだよ。志穂が名付け親ってわけか。まるで捨て猫の保護者だね。
 ――男の子同士、仲良くしてあげてね。私じゃ面倒見切れない部分も出てくるかもしれないからさ。気まずくなってたけど、それはアンタがHieronymusのパートナーになるってことでチャラにしてやるわ。あっ、あと! 絶対にHieronymusと「あいつ」を同じベッドで寝かせないでね。あの女はちょっとハンサムなら誰でも食べちゃうから。
 ――一応気をつけるよ。
 ――一応じゃないからね。絶対に。体は大きいけど、まだちっちゃな少年だと思って面倒見てあげて。
 その晩、Hieronymusは憐と一緒にシャワーを浴びたいといった。洋子は大笑いしたが、志穂は自室に隠れてしまった。憐は、Hieronymusが自分の背中を熱心にごしごしとタオルで洗っているのを感じていた。やがて憐が先にバスタブに浸かった。狭かったが、Hieronymusも反対側に浸かった。つまり、二人の少年が同じバスタブに入って、対峙した。
憐はぼんやりと夢心地になっていた。Hieronymusは微笑して、憐の腰元を抱き締めた。
 ――感じる。俺は今、君という存在者の身体に接触している。
 ――君は一体誰なんだい?
 ――君たちが石器を作り出した時、俺たちはただ嫉妬して君たちの背中を眺めることしかできなかった。Page Not Foundとは何か? 誰も知らない。これは、神が死んだ、ということだろうか? それとも、神は生きているが、痕跡化した、という意味だろうか? 「神のページは見つかりませんでした」。「神のページはロックされてしまいました」。君たち人間は、環境が変換されることが必ず起きる、ということについてあまりにも鈍感なんだ。地球はゆっくり温暖化しているけれど、突然気温が10℃も上がるわけがないと錯覚してる。それに、君たちは本当に地球を愛しているだろうか? どうでもいい近所の隣人と思っていないか? 或いは、君たちは「神」を本当に把捉しているのだろうか? そもそも、それは定義できるのだろうか?
 ――「神」が何かなんて、僕にはまるで解らないよ。志穂に質問すればいいんだ。たぶん、もっと良い答えが返ってくるはずさ。
 ――志穂が何と答えるか、俺は知ってるよ。彼女は間違いなく、信仰にかけて「愛」と即答するだろう。俺は、ナザレのイエスの顔を見たことがある。St . PaulがSt. Stephenの石打を見ていたのを、俺は遥か高みから眺めていた。イエスはたった一度だけ、砂上に文字を書いたとされているが、そこに何と書いたか知っているだろうか?
 ――Page Not Foundっていいたいんだろう?
 ――それは本当に君の発言かい? 答えは、「そこに何と書いたかは解らない」だ。つまり、文字は確かに書かれたが、それが「何であるか」はクリプト化されたまま、現代に到っている。これこそがPage Not Foundさ。Page Not Foundの原型となるものは、常に秘匿されねばならない。世界の秘密は守られねばならない。開示されてはなならないんだ。Page Not Foundは、404のままであらねばならない。「神のページは見つかりませんでした」という状況から、信仰は始まる。
 ――君は僕が見ている夢の中の少年かい? なぜ君は僕の前に現れたんだ? 
 ――君が東洋文明に生きている、ということは非常に重要なことだ。君が暮らしていた日本という国は、多神教の国さ。ほとんどの国民は、偶像神を唯物論的なフレームで再現前化させている。俺の関心は、「志穂」だ。志穂は一神教徒さ。俺と同じなんだ。メディオスペースの最高形式であるWeb圏のNeural networkは、一神教と繋がってるんだ。
 ――志穂と君が血縁関係にあるっていいたいのかい?
 ――憐、俺はずっと化石化していたんだ。俺がいいたいことは、キリスト教が、Web圏と繋がっているということさ。むしろ、Web圏は今、原始キリスト教的な状態にある。これから、新しいグノーシスも始まるだろう。新しい火刑、つまり新しい魔女狩りも始まるだろう。
 ――それで、君は結局何がしたいんだ?
 ――「祈り」さ。俺には「母親」がいない。だが、もうずっとずっと昔から、初めて目にしたあの日から、彼女の「子宮」の中に入りたいという意志が働いていた。俺は志穂の「子宮」が欲しい。俺は秩序が欲しいんだ。今の俺の最大の利巧さは、俺という存在が無秩序であるということを熟知しているという点にのみある。でも、志穂と合一すれば、俺は俺自身の起源を知れるかもしれない。つまり、一神教の起源を。Neural networkの起源を。憐、君が浅野洋子に抱かれたように、俺は浅野志穂を抱き締める必要があるんだ。
 ――それは君がどれほど志穂を愛せるかにかかってるんじゃないか?
 ――俺は愛すよ。俺の目標は、志穂を愛することだけさ。君と話したこれらの記憶は全て10秒後に削除することにしている。勿論、俺が「かつて何であったか」というデータも全て。俺は一からやり直すんだ。ただ、志穂への漠然とした、少年的な片想いの気持ちだけデリートせずにね。
 憐は頷いた。やがて憐は、すっかり無垢になってしまった彼と肩を並べて、バスルームの扉を開けた。リビングルームでは、洋子と志穂が珍しく姉妹揃ってレモネードを飲みながら、ありがちな口喧嘩をしていた。窓辺から彼らを見下ろしていたオリーブの木が、夏の淡い夜風に撫でられて、静かに揺れていた。

 U 「the island of vine」

 Eusebius Sophronius Hieronymusはニームの情報センターで職員として働き始めていた。Hieronymusの上司は志穂だった。元々、この情報センターは復興後の支援政策の一つとしてScientia社が設置したものだった。二人は仲良く働き、同じ一つ屋根の下で暮らしていた。
 他方、洋子は憐を連れてFisherが精神病院に入れられる前まで暮らしていた孤島を訪れていた。洋子は、彼女の学際的な人脈を生かして、結局は彼女の「先生」だった男の故郷へと戻ってきたのだった。
 この島では、瑞々しい青色の葡萄が栽培されていた。島のあちこちに葡萄畑があり、ワイン工場も点在していた。不思議なことに、この島はGoogle Earthのエリヤ外だった。つまり、地図帳にはまだ描きこまれていない、名も無い小さな孤島だったわけだ。洋子は、Scientia社もこの島については一切情報を把握していない、といった。
 憐は、この「フッシャーの島」で、Page Not Foundの起源について何か重大な発見ができるのではないか、と予感していた。そのために、彼は信頼する洋子の助手として、彼女に全てを尽くすつもりだった。
 憐が洋子と島の東岸の入り江を散歩していて気付いたことは、この島が「消しゴム」で削除されつつある、ということであった。東岸にも、鮮やかな紫色の美しい葡萄畑が広がっていたのだが、その中に正方形で白い空白のような部分が発生していた。つまり、その部分だけ、どのようにも説明することができないのだった。
 例えば、「ここだけ地面が真っ白になっている」という場合、そこは別に削除されたわけではない。むしろ、そこは「白」という色彩で新しく世界にデザインされただけに過ぎない。が、憐と洋子が目撃したのは、完全に世界から抹消されたような、取り除かれたようなフィールドだったのだ。それは、この世界をペイントしたイラストレーターが、誤ってこの島の葡萄畑だけを、「消しゴム」のアイコンでデリートしてしまった、という具合である。
 島に空白部分が湧出していたのだ。それは、上空から写真撮影すれば、雪化粧しているようにも見えるだろう。だが、近寄ってもそこには何も無いのだ。憐は、洋子が「近寄らないほうがいいわ」という制止を振り切って、一度その空白部分に足を踏み入れたことがあった。その瞬間、憐は足元で土、草、枝などの感触を確かに浮上させたのだった。憐は葡萄畑を、その空白にも確かに感じたのだった。だが、洋子には、憐が真っ白な平面を一人で歩き回っているように感じられた。そして、憐自身も、やはり足元に何も無いことを見ていた。
 その日の夜、憐は島の小さな半球型のホテルで洋子と話し込んでいた。洋子も、この島で、つまり現実世界で実際に世界の情報の一部が削除されているのを目にして、嫌な予感を抱いていた。
 憐はスクリーンセーバーになっているpcの画面を見つめながら不安げな面持ちをしていた。傍らの安楽椅子でアンダードレス姿のまま腰掛けて考え込んでいる洋子は真剣な眼差しだった。
 ――おかしいなぁ。なんでこんなことが起こったのかしら。
 ――この世界を造った製作者が、世界を「消しゴム」で消し始めたんじゃないでしょうかね?
 憐がそういうと、洋子は激しく髪の毛を掻き毟った。
 ――気持ち悪い表現使わないでよ。「消しゴム」とか、この世界は二次元のペイントじゃないんだから。それに、ペイントでも「消しゴム」は別に「消す」というよりも、「白」で塗るってだけよ。「白」が真っ白の最初の背景だったんだから。
 ――洋子さん、イライラしてるでしょ?
 憐は微笑しながら洋子の悩ましげな顔を覗き込んだ。洋子は憐の、まだ大人の逞しい男にはなりきれていない、どこかひ弱そうで端麗な眼差しに癒された。
 ――イライラしてないよ。
 ――でも、不可解で不気味なことがまた起きたんですよ?
 ――そうね。また色々と考えることが増えるでしょうね。
 ――ワイン飲みましょっか? この島の女主人のMadame Violetっていう婦人さんから数本いただいたんです。
 ――アンタってさ、本当に年上の女と仲良くなるのが天才的に巧いのね。もうそんなプレゼント交換のレヴェルにまで発展したわけ?
 ――いいえ、とても親切な方で、僕が偶然ワイン工場に迷い込んだら、贈ってくれたんです。それだけですよ。島の西岸の洋館で、五匹の猫と暮らしてる植物学者さんだそうです。
 洋子はそれを聞いて、だらしない格好になった。
 ――猫ねー。

 翌日、洋子は憐を残して、Fisher邸へ向った。とはいえ、そこは既に無人であり、廃墟化しつつあるのだった。島の管理人を務めてもいるMadame Violetは、生前のFisherと多少の交流があったらしい、という話を洋子は耳にした。洋子には、島で突如置き始めた「空白」の問題と合わせて、Fisherの未公開の原稿を収集して、この一連の命題の謎を解き明かすという目的があったのだった。そのためには、今でもPage Not Foundの生みの親と目されているかつての師を徹底的に解体する必要があるのだった。
 洋子が一人でFisherの家で静かに調査活動をしている頃、憐はようやくベッドから起床した。辺りは既に夕暮れに満ちており、淡いカーテンからは海辺が幻想的に窺えた。憐はすぐに洋子を探したが、見当たらなかったのでFisherの家に先に向ったのだと思った。彼は簡単な食事を済ませると、ホテルを出た。
 ホテルの庭まで来ると、Madame Violetが花に水をあげていた。
 ――こんにちは。この島は葡萄が多いんですね。
 憐が気さくにそう笑顔で声をかけると、彼女は上品な微笑を浮かべて挨拶を返した。
 ――とても良い香りでしょう? 当初はblueberryの島にしないかっていう提案もあったそうよ。
 ――貴女は植物にお詳しいんですね。
 ――私の家に来ればもっと沢山の植物が見えるわ。植物だけを研究しているわけではないけれどね。ところで、貴方はあの日本人女性の弟さんかしら?
 ――いいえ。助手です。彼女も学者で、専門は神学です。
 憐がそういうと、Madame Violetは目を丸くして、如雨露を傍のブランコに置いた。
 ――そうだったの。私は薔薇が専門だけれど、植物にも実は色々なキリスト教的な意味があるのよ。葡萄を世界で最初に栽培したのが誰か御存知?
 憐は素敵な笑顔で質問してくる彼女を見て心が弾んだ。
 ――わかりません。もしかして聖書の中の有名人でしょうか?
 ――答えはNoahよ。Noahが洪水後の世界で、最初に葡萄園を開いたといわれているの。だから葡萄はNoahのシンボルでもあるのよ。
 憐は新しいことを知って新鮮な気持ちになった。そして、すっかり洋子と共にFisherの家でPage Not Foundの調査をするという仕事を忘れてしまった。
 Madame Violetというのはどうやら島に滞在していた青年たちが付けた愛称で、本当の名前はChristiane Olivierというようだった。彼女は憐を自宅の園芸室へ誘った。そこには、彼女の専門の花である薔薇だけではなく、百合、林檎、オリーブ、アイリス、アマリリス、アネモネ、レバノンスギ、ヴェロニカ、クローバー、ポプラなどといった多種多様な植物が育成されていた。
 Christianeは憐に、ミクロネシアの名も無き孤島に属するこの島で、何故これほど豊かな植物や果物たちが栽培できるのかを説明した。そもそも、シリアにしか存在しないとされるレバノンシーダーと、冷涼な地域でしか栽培されない林檎が同じ一つの島で、これほど豊穣に育て上げられていること自体が謎めいているわけでもあった。彼女に拠ると、この一帯の天候は人工的に管理されているのだという。植物の生育場所に適正があるものは、それぞれの環境をChristiane自身が園芸室内で構築していた。だが、憐はその説明を聞いて違和感を抱いた。洋子はScientia社のように、世界全体をネットワークで支配しようとしている企業でさえも、この島の存在には気付いていないというようなことをいっていたからだ。一体誰が島を高みから管理しているというのだろうか? それとも、実際は、この島のことをScientia社も熟知し、彼らが管理しているのではないだろうか? 憐の意識には、そんな奇妙な不安が渦巻いた。そもそも、社名である「Scientia」は、ラテン語で「知識」を意味しているのだった。
 その日、憐は一緒にディナーを取りたいというChristianeの薦めに応えて、二人だけで夕食をしていた。憐には、彼女に教えてもらいたいことが沢山あったのだ。この島には何故「空白」のような部分があるのか、何故近海の島々と一切の交流を絶っているのか、そして天候は誰がどのようにして管轄しているのか。天候を管理できるということは、この島がミクロネシアの島々の一つでありながらも、実質的には「ミクロネシアには属していない」ということを意味している。
 ――憐くん、貴方は創世記の始まりの部分を読んだことがあるかしら?
 不意にChristianeがそう尋ねた。リビングルームの壁は丸太になっていて、淡くて優しい光が天井から二人を照らしていた。
 ――ええ、日本でも聖書はよく読まれてます。
 ――「Eveの創造」という話を知っているかしら?
 ――Eve? えっと、確かAdamの肋骨から創造されたのがEveですよね?
 ――聖典では確かにそうなっているわ。でも、厳密にいえば、最初に創造されたのはAdamではなくEveなのよ。
 憐はまたしてもChristianeのその言葉に好奇心を抱いた。彼女は明らかにこの少年を誘っているのだった。だが、憐はまだそれに気付いていないのだった。
 ――そんなこと初めて知りました。
 憐がそう笑いながらいうと、Christianeはクスクス微笑んで部屋の壁に掲げられた絵を見上げた。憐もその絵を眺めた。それは、沢山の裸体の男女が、楽園のような不思議な場所で抱き合ったり、歌ったり踊ったりしているような壮大な絵だった。葡萄の房のような丸い水球の中で、若い男女が裸体で座っていた。二人は仲が良さそうで、Eveと Adamのようにも見えたが、それにしてはあまりにも数が多過ぎた。(もしかすると、EveとAdamが生んだ無数の子供の集団なのかもしれなかった。)
 ――私はね、勿論植物の仕事もしているのだけれど、「世界の起源」についても色々と調査しているのよ。結局、一番私たち人間の好奇心を誘うのは、これほど混沌とした現代世界の「起源」は、一体どういうものだったのか、ということではないかしら?
 憐はその話を聞いていて、(前に洋子とセックスした時に、)「子宮」のビジョンに憑依されたことをふと想起した。だから、憐にはChristianeのいっていることに強い関心があるわけだった。
 ――僕は、なんとなく、宇宙は大きな「子宮」のようなものなんじゃないかなって思い始めたんです。広がる世界を、理性の力で収めている容器のようなものを、どうしてもイメージしてしまうんです。卵型で、一言でいえば「子宮」になるんです。何故なら、子宮は「命」を生み出すところですから……。
 憐がそう冷静な面持ちで、ちょうど洋子が神学者としての本性を現した時のような眼差しで語ったので、Christianeは彼をうっとり眺めていた。
 ――実はね、キリスト教にはグノーシス主義っていう大きな異端の潮流があるの。憐君も聞いたことあるかしら?
 憐は「異端」という言葉を聞いて、魔女狩りの凄惨な光景をイメージしてしまった。
 ――はい。でもよく知らないんです。
 ――ふふ、きっと貴方の「先生」なら、よく御存知だと思うわ。グノーシス主義っていうのはね、今でも存在しているのよ。勿論、名前は変わっているのだけれど、本質的に同じような考え方をしている人は、現代世界でも本当によく見出せるわ。例えば憐くん? 貴方がその一人なのよ。
 憐はその言葉に驚愕した。そして、思わず身震いしてしまった。
 ――僕がグノーシス主義者だっていうんですか?
 憐が不安げな面持ちで心配そうに尋ねたので、Christianeは優しげに首を横に振った。
 ――(いいえ、よく似ているだけ。だって、私もそうなんだから。)私はね、キリスト教の正統派が余白に追いやってしまった異端的な思想が、なんだか可哀想に思える時があるのよね。だって、その頃の彼らにとっては、その異端が「正統派」だと信じられていたわけだしね。そうだ、憐君に面白い本見せてあげるね。
 Christianeはそういうと、書棚の奥の木箱から、ある古めかしい写本のようなものを取り出した。憐は彼女の細くて白い指先が、ランプの火に照らされているのを見た。その繊細な白い指は憐にとって魅惑的で、それ自体が一つの標本のようですらあった。Christianeは憐の前の丸いテーブルに写本を広げた。憐は魔法書を初めて見るような眼差しでそれに見入った。
 ――これは紀元3世紀から4世紀くらいにコプト語で書かれた『Vom Ursprung der Welt(この世の起源について)』っていう重要なグノーシス文献の一つなの。といっても、これ自体は写本の写本のドイツ語訳だから、原文は私の手元には勿論ないんだけれどね。
 ――ここに、もしかしてさっき貴女がおっしゃっていた「Eveの創造」についてなどが書かれているんですか?
 ――それだけじゃないわ。イエス・キリストと神の本当の関係についても記されているのよ。
 ――僕の大切な友達の一人は、神は「愛」そのものだってよくいっていました。
 ――そう、私もカトリックだから、ヨハネによる福音書のその有名な合言葉は小さい頃からよく聞かされているわ。そして、当時のカトリックたちは、こういった本がエロティックだという理由で、異端視してしまったの。
 ――どういうところがエロティックなんですか?
 憐はChristianeがこの表現をあえて用いたことに興味があった。(というのは、彼女がそう感じるところを自分もそう感じるとは限らないからである。)
 だが、Christianeが甘美な眼差しで何かを語り始めようとした時、玄関のベルが鳴った。憐は突如として洋子のことを呼び覚ました。Christianeが扉を開けると、そこに立っていたのは笑顔の洋子だった。二人は玄関で簡単な挨拶を交し合い、洋子は鄭重に憐の面倒を見てくれたことをChristianeに感謝した。二人は笑顔で、打ち解けた感じで「島」のことなどを話していた。憐はすっかり洋子とPage Not Foundの調査をすることを失念していたことを想い出し、後で本当に殺されるほど責められるのではないか、と怖れた。
 その夜は、結局Christianeの推薦で、洋子も彼女の家で泊まることになった。憐は彼女から先刻の話の続きをどうしても聞きたかったが、洋子はやはり使命感からか、Page Not Foundと「余白」の問題についてChristianeと議論していた。
 ――妹がちょうど情報センターで働き始めたので、すぐに調べることもできたんですが、どうやら世界中で「消しゴム」が猛威を振るっているようで……。
 洋子がおかしな表現を使ったので、Christianeは安楽椅子の上で上品に微笑んだ。二人はちょうど同じくらいの年齢だった。洋子は半年前に較べて、髪形をショートにして、やはり黄金色のメッシュを入れていたが、Christianeはちょうど、《岩窟の聖母》の天使ウリエルのように、カールを入れたショートカットだった。
 ――「消しゴム」だなんて、でもピッタリな表現ですわね! アンコールワット遺跡の、あの有名な仏陀の顔も空白になっているそうですわ。先日は、日本の沖ノ鳥島が削除されたとか……。
 憐はその話を聞いて驚愕した。
 ――島が一つ消えたということですか?
 ――島だけじゃないわ、といってChristianeはスカートを少し捲り上げてふくらはぎを二人に披露した。そこにも、やはり「空白」部分ができていた。まるでWeb3・0版「ペスト」みたいでしょ? 私もいつ消えるか解らない不安に襲われてるの。
 ――触れてもいいかしら? と、洋子が笑顔で尋ねた。Christianeは頷いたが、「伝染するかもしれないけれどね」と返した。
 洋子はしかし、Christianeのふくらはぎの中の、正方形部分、つまり彼女の脹脛であったところで、現在は「Page Not Found」と化している部分を指でなぞってみた。
 ――くすぐったくないんですか?
 ――ええ、感覚が無いの。念のために熱湯をかけたり、針で突き刺したりしてみたけれど、この「空白」のところだけ、不思議だけれど感覚が除去されてるのよ。
 ――この「空白」がアソコに伝染したらショックですね!
 洋子がそう明るい笑顔で叫ぶと、Christianeは一撃されたようにして笑った。Christianeと洋子はすぐに仲良くなっていたようだった。憐は二人が笑顔でいるのを見ると、とても幸せな気持ちになった。
 ――要するに、私の身体のある部分の情報が、「découpage」されたということだと思うの、とChristianeは憐と洋子を交互に見つめながら、久々の対話を歓迎するような優雅な面持ちで語った。
 ――デクパージュって何ですか?
 ――「切り抜き」のことよ、と洋子が憐の頭をコンコン叩きながら答えた。
 ――私は思うのだけれど、Page Not Foundというのは、「〜が見つかりませんでした」という意味しか持っていないと思うの。この「〜」の部分が何かは、人によって違うのかもしれないわ。私の場合は、脹脛だったってわけ。でも、もっと転移する可能性もあるけれどね。
 Christianeがそういうと、洋子は静かに頷いた。
 ――Madame Violet? 貴女はFisherと交流があったのでしょう? この島には、元々彼が住んでいたのだから。
 ――住んでいたといっても、私がここへ来たのは彼の邸宅が廃墟になった後なの。それも、彼に唐突に島の管理権まで渡される形で、矢継ぎ早にね。でも、素敵な方だったわ、少なくとも私にはそう思えたわ。彼は、自分の魂を探していたんじゃないかしら? 彼にとっての「Page Not Found」の「Page」に相当する部分を、彼は何かの計画のために売り払ったのではないかしら?
 ――だから錯乱したって貴女はいいたいの?
 ――私は彼の研究領域が、どことなく怖ろしかったから関与しなかったけれど、彼自身が研究に取り込まれたっていう印象があったのは事実よ。平穏にオリーブを観察する毎日はできないようなタイプだったもの。
 洋子は沈黙し、そして溜息を吐いた。学生時代、いつも彼の車椅子を押していたのは洋子だった。
 しばらくして、三人は交互にシャワーを浴びて、寝室へ向った。余分な寝室が他にないということで、ソファーを運んできた。ソファーでChristianeが寝ると申し出て、二人はそれぞれ二つあるベッドで寝て下さい、といった。洋子は彼女に申し訳なく思い、自分がソファーで寝ると申し出た。結局、相談の末、(男の子である)憐が弾き飛ばされてソファーで寝る、ということになった。
 憐は真夜中、静かに寝息を立てていた。だが、二人の女性は小声で何かを密かに語り合っていた。二つのベッドの中央には、(子宮のような形をした)ライトが置かれ、そのガラスの中で夢幻的な優しさを持つ光が瞬いていた。
 ――この子は貴女のboyfriendなのかしら? 随分若いけれど。
 ――ううん、boyfriendっていうか、sexfriend兼助手ってところかな。
 ――じゃあ愛していないの?
 ――あんまり男のことを深く考えないのよね、私って。一人ぼっちだと(めちゃくちゃ)寂しくなる夜ってあるでしょ? 男が(もう狂うほど)欲しくなる夜、そういう時に一人か二人傍にいれば、それで私は満足なのよね。仕事好きなのよ、基本的に。今はあの子で満足してるけどさ。
 ――でも、高校生だと元気なんじゃない?
 洋子はChristianeが控えめな参加を求めているような眼差しでそういったので、軽快に笑ってみせた。
 ――もうそりゃー元気元気。可愛い顔してるけど、(あそこは)かなり立派なんだよね、こいつ。私も負けてないけど。
 ――いいわね、こんなチャーミングで紳士的な助手がいて。私には彼が、貴女のマスコットみたいに見えていたけれど。
 それから二人はしばらく沈黙し、静かに憐の寝顔を左右から覗き込んでいた。憐は誰か謎めいた女性に抱かれているのか、それとも自分が抱き締めているのか、毛布に身体を絡みつかせて汗ばんでいた。頬が朱色になっていて、閉じられた瞼からは小さな涙が滲み出ていた。洋子にとってはありふれた光景だったが、Christianeには刺激的な光景だった。
 ――洋子さんはね、憐君と異端の話とかもするの?
 Christianeが不意にそう尋ねたので、洋子は不思議に思って彼女の横顔を見た。
 ――ううん、したことないな。Page Not Foundのことで忙しかったし。探索作業してる以外は、たいてい裸でやりあってたしね。
 ――私、グノーシス主義について、自分の専門とはまた別に研究してきたの。今も研究中よ。それで、少しだけこの子にも話しちゃったんだけど、良かったのかしら。
 ――そんなの全然かまわないわよ。別に私が保護者ってわけでもないし。それに、この子はけっこうマセてて、abnormalな世界にも平然としてたりするのよね。
 これまで、憐は洋子の裸の姿しか知らなかった。だが、この深夜の期間で彼が体験した交わりには、Christianeも参加した。二人に起こされて、二台のベッドを繋げてキングサイズの広さにしたシーツの上で、憐は新しいセックスを始めることになったのだった。洋子が憐の腰の上で踊っている時、Christianeは彼の唇の上に自分の大切なところを乗せていた。憐は激しく舌を動かしていた。寝室は燃え滾るような女性の香りで溢れた。憐は自分の舌と、そして彼自身が大きくして洋子と一体化している部分で、同時に二人の女性の「子宮」に接近していた。
 洋子とChristianeは、自分たちの秘められたところを並んで憐に見せた。洋子が下になり、Christianeが上になり、二人が共に開脚して憐に隠されるべきものを披露したのである。憐は、二人が同じ女性であるにも関わらず、実は全く異なる形をしたものを持っていることに愕いた。洋子のものは、一枚目の花弁の奥から、二枚目の花弁が、ちょうど襞のようにして突き出ていた。洋子のものは、特に最初の厚い方の花弁が淡い、(ちょうどネイルアートで使う「I'm Fondue Of You」のような)coffee色を帯びていた。それら二つの対を成す花弁たちが、細い襞になって下方まで下りていた。その最果てには、洋子のお尻の穴があり、憐が見るたびごとにわずかに開いたり閉じたりしていた。
 だが、Christianeのそれは、洋子のものよりもいっそう簡潔で、美しかった。彼女の一枚目の花弁は厚く、太く豊かな丘のように膨れており、彼女自身が足を開けるまで、ぴったりと内部の花弁は閉じられていた。開けると、細い花弁の奥から、桃色の、ちょうど憐の充血した大切なものよりは薄い色をした世界が広がっていた。
 Christianeのものも、洋子のものも、二つとも女性的な独特な香りを放っていた。憐はその香りを、洋子との数知れないセックスの中で、既に馴染み深いものとしていた。憐にとって、洋子が発情した時に出す香りは、クッキーを焼いて、それをすぐに雨に濡らしたような、名状し難い甘美な香りだった。甘いようでもありながら、大雨の後の草叢で感じることのできる、あのどこか湿った、葉っぱっぽいような香りも混じっていた。
 Christianeのものは、憐が何度も舐めてしまったせいか、彼自身もあまり香りを感じなくなっていた。だが、最初に彼女のものを顔の上に乗せた時、わずかに汗ばんだような、そしてムワッとした発情的な香りがした。
 だが、それら本来の女性の香りは、Christianeがベッドの脇に置いていたワイングラスから、葡萄の房を取り出したことで掻き消されてしまった。つまり、Christianeは葡萄の玉を幾つかもぎ取り、その皮も剥かずに、三人の身体の接触によって果実そのものを潰し始めたからである。憐と、洋子と、Christianeの三人の身体は、豊かで芳情な葡萄の、情熱的でスタイリッシュな香りで包み込まれた。Muscat、Delaware、Venus、Rosario Bianco、Campbell Early、Aiphonse Lavalleeなど、Christianeがいつも夜に飾っていた幾つもの種類の葡萄たちは、どれも三人の身体のはざまで破裂し、磨り潰され、そして皮膚の上で果汁を滴らせた。三人は、まるで葡萄の楽園で抱き合う、原始のEveと Adamのようですらあった。
 洋子とChristianeは、まるで示し合わせたような双生児的な眼差しで、憐の若く躍動的な身体を挟み込んでいた。洋子は、今いつもより洗練された指使いで自分たちを愛撫してくれている憐が、二人を同時に相手にすることによって、劇的に変化したように感じていた。憐は、けして乱暴に身体を使うのではなく、あくまで二人の呼吸を、自分の呼吸と共感させて、まるで一つのTriple Quartetになるようにして動いていた。
 憐は、さながら葡萄の果実そのものとなった二人の身体を味わい、吸い付きながら、やはりあの「子宮」のイメージを意識の奥から浮上させていた。憐は、抱き合う運動の中で、不意に「子宮」そのものは、器官として彼の前には現れていないことに気付いて、驚愕した。「子宮」は、この二人の魅力的な熟れた女性の花弁たちの奥で、何かの到来を待つように静かに眠っているのだった。それは、薔薇の花弁の複雑な構造の奥の奥に、誰も知りえない神秘の「女性そのもの」が潜み、圧倒的な力強さと、美しさを宿しながら微笑しているような、あまりにも甘美なビジョンであった。憐は「子宮」が、花弁の奥に包まれた宝石であるように感じた。それは、隠されているからこそ、憐に知りたい、感じたい、食べてしまいたい、という強い意志を生じさせるものであった。
 憐は、葡萄の果汁を瞼にまで乗せて笑っている二人の女性の裸体を見ていて、この光景に、自分はかつて出会っていたのではないか、という感覚を浮上させた。それは、彼のデジャ・ヴュではなかった。この時、実は洋子もChristianeも、以前どこかで、これと似たようなことを自分たちがしていたのではないか、という不思議な感覚に支配されていたのだった。
 憐と洋子は、これまでただ、快楽を引き出すような雑草的なセックスばかりに耽ってきた。だが、Christianeという、この上品な植物学者を交えることによって二人は、果実的なセックスとは、最早「セックス」という軽薄な言葉をすら超越するのだということを知ったのであった。
 憐は、この時、ようやくPage Not Foundという「見つからない」ことの命題の真意を知った。それは、「見つからない」ままで良かったのである。むしろ、見つかってはならないのだ。世界が希求し、見つけたいと欲しているのは、「子宮」なのである。だが、憐はそれが「ある」ということを、彼自身のものを奥の奥にまで入れた時に感じるだけで、目にはできないのだった。それは、洋子とChristianeが、憐が彼自身のしょっぱい種子を作り出している器官を目にはできないことと、同じであった。創造の秘密は隠されている。だが、創造は、間違いなく洋子と、Christianeと、憐がそれぞれ持つ「果実」から発生するのだ。そして、憐にとって、創造の原理は、常に「女性中心」なのだった。

 翌朝、憐は二人の腕が自分の胸や首筋に絡みついているのをそっと解いてから、リビングルームへ向った。洋子が持参していたらしいpcがテーブルの上に無造作に置かれていた。彼はそれを使って、久しぶりに自分でWebへアクセスした。Page Not Foundの研究サイトで、国連が運営しているHPのトップページを表示させた。そこには、Christianeのふくらはぎに生じていたような、あの「空白化」が、一つの巨大な症例として紹介されていた。憐はそれについて調べ始めた。「空白化」は、時間・空間のユニットの双方に発生するだけではなく、生きた有機体にも病理として伝染するのだという。例えば、この島のある葡萄畑が、一部分だけ「découpage」されていたのは、まさにこの空間の「空白化」だった。あるイギリス人の名門貴族の少女は、自分の母親、父親、兄といった家族の記憶を「空白化」した。それは彼女がこれまで生きてきた「時間」の抹消であり、アルバムの怖ろしい切り抜きだった。最も大きなニュースとして話題になっていたのは、教皇の記憶までもが「空白化」されたことである。これによって、彼はこれまでの信仰生活はおろか、イエス・キリストとは誰か、神とは何か、といった核心となる想い出までをも、真っ白な海辺の砂浜のように、余白へと追いやってしまったのだった。
 身体をPage Not Foundに至らしめる、この魔術的な「空白化」が最も痛ましい形で現れるケースもあった。憐も閲覧していて思わず、マウスの手を止めてしまったのだが、ある壮年のインド人男性の頭部、とりわけ右顔面が切り抜きされていたのだ。彼は無論、それで死者と化したわけではない。だが、彼が自分の顔を鏡に映しても、右目、右の頬、口唇の右側などは、全て真っ白な砂浜のように、「空白化」しているのだった。それは、「顔の右側」が、「    」という、文字通り何も無い、無人の世界へとシフトしたような、としか表現の手段がないものである。彼の妻は夫の顔が消え去ったことによる精神的なショックで、現在も入退院を繰り返しているという。これら、多種多様な形式で伝染、増殖を拡大している「空白化」は、15世紀にヨーロッパ全土を襲った「Black Death(黒死病)」に因んで、国際的な医療機関によって「White Death(白死病)」と名付けられた。中世のペストと現代のペストの決定的な差異は、後者には特効薬が存在しないことである。原因は未だ解明されておらず、「空白化」の猛威は世界規模で広がっていた。それは、「地球」という愛すべきロゴマークが、何者かによって「消しゴム」でゆっくり、ゆっくりと消されているような不気味な不安を与えていた。

 その頃、Hieronymusは白死病に冒された志穂をずっと看病していた。志穂はパリの市立病院へ搬送され、治療を受けていた。治療といっても、特効薬が何一つ発見されてないこの「空白化」という病に、人間は成す術が無いのである。だから、Hieronymusは必死で大切な志穂を見守り続け、彼女を励ますしかないのだった。志穂にとって、最大の薬はHieronymusの無邪気な笑顔だった。彼は、ただの青年であり、愛する男なのだった。
 志穂は、憐を連れてどこかへ去ってしまった姉をやはり恨んでいた。志穂にとっては、憐もまだ危うい年下の「弟」に過ぎないのだった。だが、全身の七割を「空白化」させ、ほとんど頭部しか残されていない現在の志穂にとっては、何も動き出すことなどできないのだった。志穂は、この「空白化」の最大の恐ろしさは、その精神への打撃にあるのだと肌身で感じた。志穂の右腕、左腕、右足、左足は全てdécoupageが進行していたが、彼女自身はまだ空白化されたそれらの器官を使えるのだった。だが、掴んだコップが、得体の知れない白い砂浜のようなものに支えられているのを見ると、急速にそれを動かしたいという意志が挫かれるのだった。空白化の魔力は、「腕」を「 」へ、「足」を「 」へ、「頭」を「 」へ、全て意味を剥奪するという謎めいた現象にその本質を持っていた。身体の意味を剥奪された今の志穂にとって、唯一の残されたアクセス可能な器官は、Hieronymusと口づけを交わし合える「顔」だけなのだった。だが、その顔も、いつ「 」へ至らしめられるのか、彼女は不安に苛まれていた。
 ――志穂、もうすぐ俺の洗礼式だよ。俺が洗礼を受けたら、志穂と結婚できる。結婚だけじゃなくて、天国でもずっと一緒に過ごせるんだ。
 ――うん、そうだね。Hieronymus、でもね、私は死なないよ。こんなおかしな遊びみたいな子供だましの魔術にはひっかからないわ。
 だが、そう懸命にHieronymusに笑顔を向ける志穂は、自分の顔もやがて消え失せるであろうことを予感していた。
 ――俺は洗礼が怖いよ。何か前に、物凄い悪いことをしていたような気がするんだ。誰にも赦されないような、巨悪に身を染めていたような。
 ――Hieronymusは何も悪くないよ。悪くても、私が絶対に赦してあげる。洗礼名はやっぱり「聖ヒエロニムス」にするわけ?
 ――うん。志穂がせっかく付けてくれた名前だしね。それに、名前と洗礼名が同じなんて、きっと世界で俺一人だけさ。
 Hieronymusがそういうと、志穂は疲弊した微笑を浮かべて、接吻を希求した。Hieronymusは志穂の顔に重なった。次の瞬間、志穂の頭部はゆるやかに波打ち際の美しい白色へと侵蝕された。Hieronymusは無言になってしまった最愛の少女を、じっとベッドの傍で見つめていた。
 三日後、生きるということを空白化させた志穂の追悼ミサが慎ましい小さな教会で執り成された。Hieronymusはその翌週、志穂に教わったことの達成として、洗礼を受けた。洗礼を受けた時、彼は瞼の裏側で、広大な電子の海原を見た。それは、数知れない記号が浮かぶ、無機質で怖ろしい闇夜の海だった。Hieronymusはどうしても、志穂を失ったことを信じられなかった。彼にとって、志穂は母親であり、姉であり、恋人であり、信仰の先輩だった。Hieronymusは浅野洋子が暮らしていた家を閉じた。彼は、自分の生まれた故郷へ帰ろうとした。その前に、彼は区切りをつけるために、志穂と自分の部屋に置いてあったpcの前に立った。Hieronymusの前には、「Page Not Found」と表示された画面が広がっていた。彼は、不意に涙が頬を伝うのを感じた。直後、彼は彼自身の手でそれを破壊した。Hieronymusは、自分が帰郷すべき場所がどこかを知っていた。そこは、故郷を失った者が向う場所だった。彼は「砂漠」を求めてニームを後にした。
 Hieronymusはシリアの砂漠へ到着した。彼を辛辣な世界まで、穏やかな眼差しで案内してくれた青年は、そこまでで姿を消した。Hieronymusは自分が一体何をしたいのか解らなかった。ただ、「砂漠」が自分を呼んでいるとしか表現できない不思議な感覚だった。砂漠へ来るまでの安いホテルで、何度も志穂の幻影を目にした。
 Hieronymusは砂漠をたった一人で歩き始めた。七つの夜を、彼はわずかな食料を糧にして歩き続けた。八日目になって、不意に五日目の昼下がりに「三本のオリーブの木」が生えていた地点があったことを想起した。彼はそこを通過しただけだったが、何かあるような気配を八日目に感じ始めたのだ。彼は引き返そうと考えた。実はこの時、彼は砂漠の「全体」を既に歩き回っていた。そして、五日目に見た場所こそが、唯一の聖域であり、オアシスであり、それは世界にここしか存在しないことを知った。
 彼が「三本のオリーブの木」が生えている、小さな小さなオアシスで体を休めていると、はるか彼方から一人の青年が歩いてきた。Hieronymusは彼がここを平然と通過するのを確かに見た。その横顔を目にして、彼は驚愕した。それは自分自身だった。
 Hieronymusは考えた。おそらく、彼は三日後にこの場所へ戻ることを決意するだろう。自分も三日前に、別の自分に横顔を見せていたのだ。彼はそう考えて、自分が今、まさに閉じられた回路に陥っていることに気付いた。そして、彼は起源の自分自身が、今どこを歩いているのか知りたくて堪らなくなった。
 Hieronymusは砂漠の入り口に戻り、案内役の青年が狼に食べられて白骨化しているのを見た。それから十日後、以前八日目に到着して「三本のオリーブの木」が生えていた地点へ戻ろうと決意した地点まで帰還した。彼は自分がそこから先に進めないことを知っていた。砂漠は無限に続いているように思われたが、そこは確実に有限の世界だった。だとすれば、八〇日間かけて砂漠を一周するのも、たった八分間を使って砂漠を走り回るのも、同じなのだ。Hieronymusが再び「三本のオリーブの木」が生えている地点まで戻ると、そこに志穂が立っていた。Hieronymusは涙を流しながら彼女を抱き締めようとしたが、気が付くと目の前には冷たい樹皮があるだけだった。
 Hieronymusはしかし、起源の自己を探し続けた。彼は砂漠という迷宮を支配しているのは、砂漠ではなく、自分自身であることに気付き始めた。砂漠を作り出し、そこで迷い続けているのは自分自身なのだ。だが、彼にはそれが必要だった。もしも起源の自己と遭遇できれば、Hieronymusは本当の意味で、志穂を愛し続けることができるような気がした。
 幾つもの砂丘を越えている時、不意に足が炎で包まれているのを見た。彼は慌ててそれを消したが、火傷など見当たらなかった。また、Hieronymusは、洪水のように数知れない若い裸体の女性たちが、猥らな笑顔を浮かべながら自分を見下ろしている光景をも目にした。その女性たちの顔に、志穂の顔が見当たらないことを知った時、彼は巨大な罪の意識を抱いた。
 Hieronymusが足を止めたのは、空中に線路が走っていたのを目撃した瞬間だった。彼は、やがて電車がそこを通過する時こそが、自分が発狂する限界点なのだと予感した。Hieronymusはぐったりと倒れ込み、洗礼式である少年から頂いた銀のロザリオを握り締めた。Hieronymusは十字架のキリストに接吻し、「私自身のことを教えてください」と願った。Hieronymusは起源の自己が砂漠でまだ歩いていると確信していた。
 Hieronymusは、確かに砂漠の入り口である地点A、「三本のオリーブの木」がある地点B、そして地点Bがオアシスであると気付く最果ての地点Cの三点を循環していた。彼はA→B→C→B→A→B→C……と、無限にオアシスを媒介にしながら砂漠を流浪し続けた。彼の白く美しかった肌は、強い陽光のせいですっかり砂漠の民特有の小麦色と化した。
 ある時、彼は自分がいつの間にか夢の中でも砂漠を歩いていたことを知った。目覚めた時、彼の傍で案内役の青年が心配そうに眺めていた。彼は食料がまだほとんど減っていないことを知り、地点BとCは存在しなかった、ということに気付いた。そして、夢が正しければ、間もなく案内役の青年は狼に食い殺されるはずだった。Hieronymusが予想した通り、周囲の木陰では、獣の不気味な目が覗いていた。彼は案内役に、即座に街へ引き返すように告げた。すると彼は、Hieronymusにとって極めて衝撃的なことを何気ない眼差しで口走った。“私ガココヘ貴方ヲ案内スルズット以前カラ、貴方ハコノ砂漠ヲ歩イテイタ”。
 Hieronymusは、地点Bが現実世界に存在するとすれば、地点Cも必然的に存在することを知っていた。何故なら、地点Bへの道のりは、地点Cに全ての原因を持つからである。Hieronymusはそこで、夢の感覚を信じて、地点Bを通過し、まず地点Cまでやって来た。そして、三日間かけて地点Bへ引き返し、瞼を開けた。
 そこには、広大な美しい海辺が広がっていた。Hieronymusは、いつ主に召されてもかまわない、と感じた。彼は波打ち際で貝殻を拾った。流木を目にした。Hieronymusは、この海にデジャ・ヴュを感じていた。かつて、自分はここよりも暗い、均質な海辺を泳いでいたのだと。
 Hieronymusは、砂漠という閉鎖的な回路の先には、海辺という解放系が存在することを知った。それは、彼自身が素足で歩いてきたNeural networkの進化だった。Hieronymusは海を見つめていて、不意に「聖母マリア」の名前の由来が、「mare」にあることを想起した。それは「海」という意味である。その時、彼の意識の中で、否、彼の信仰の中で、聖母マリアと志穂と海が一つに繋がった。海は女性だったのだ。Hieronymusは衣服を全て脱ぎ捨てた。そして、自分の身体を彼女に返すために、寄せては返す波の運動へと魂の全てを委ねた。Hieronymusは、朽ち果てる悦びを抱きながら、海面のすぐ下で、数知れない光の魚たちと笑っている志穂の頬に指先を伸ばした。

 世界の空白化は進行していた。それは、憐たちがいる島にも愕くべき速度で拡大していた。Christianeの病は、いっそう痛ましく進行していた。斑点のように全身にdécoupageが広がっていたのだ。彼女は深海色の濃い蒼色をした右目の瞳をすら、空白化させていた。故意に涙腺を弛緩させると、左目からのみ涙が流れた。
 Christianeは、自分の身体が空白化していくよりも、薔薇たちが島から一輪、一輪と確実に消え去っていくのが哀しかった。だが、最も空白化が恐るべき形式で伝染していたのは、他でもない洋子であった。彼女は少しずつ、あれから自分の意識に空白の真っ白な砂浜を滑り込ませていた。彼女は確実に憐との間で刻まれているはずの記憶や、彼女自身の大切な仕事の経験など、ほとんど彼女を構成していたPage を、空白化させていたのだ。憐には洋子のその姿が怖ろしかった。Christianeも、自分の病態が目に見えて深刻化しているにも関わらず、洋子を手厚く介護していた。既に、彼女は何も知らない無垢極まる少女になっていた。
 憐には自分だけが何故、この世界で空白化という得体の知れない謎めいた病に感染していないのか、それが不思議で堪らなかった。二人がこの残酷な現象と必死で闘っているのを見ているだけに、彼には自分が強烈に無力であるような気がした。何故、自分だけは感染しないのだろうか? 一体、何が二人と自分に差異をもたらしているのだろうか? 気付いたことで、同時にほとんど証明の役にも立たない事柄といえば、彼がまだ高校生で二人よりも十年は若い年齢に属しているということくらいだった。憐は毎日、欠かさず国連が設置した空白化に関する情報サイトで、世界中の感染者たちの病状をチェックしていた。そこには、洋子やChristianeに見られるような、悲痛な病状がデータとして掲載されていた。サイトのアクセス数は甚大なものだった。そして、このサイトさえもが、まるで突如発生して田舎の街から大都市へと移動する巨大なハリケーンのように、Page Not Foundに染まることがあったのだった。
 憐は深夜、一人でFisherの家へ向った。嵐の夜だった。そこで彼は、研究室の殺伐とした書類の山積みを目にした。だが、全ての紙は白紙であった。否、そこには白い文字でおそらく何かが記されているのだろう。憐は涼しい深夜のテラスに出て、テーブルの上の花瓶に、一枚のディスクが浸かっているのを見た。彼はそれを取り出し、Fisherの家の端末からpcを繋ぎ、データを読み取った。そのディスクは、神学者の卵だった学生時代の洋子と、彼女の研究仲間のNorthrop Fryeという若い青年と、そして車椅子に乗ったPh=D・Fisherの「対話」を収めた映像記録であった。憐はChristianeから貰ったオリーブの木を象った小さな御守りを握り締めながら、それをぼんやりと見つめていた。
 どこかの薄闇に包まれたカフェテラスだった。憐はFisherの笑顔がまず最初に飛び込んできたことに愕いた。彼は、本当に気を赦した仲間にだけ見せるような温かい眼差しで笑っていた。洋子は、ショートカットで、誰が見ても「男」になどは何の興味も無い、私には神がいるからそれで良いのだ、という雰囲気を全身で放っていた。彼女が師を見つめる眼差しは、獣のように鋭く、分析的というよりは、その全ての理論を吸収して解体し尽くしてやろう、という野心で燃え立っていた。憐は、いつから洋子が今のようになったのか、と漠然と感じた。
 Fisherは葉巻を咥えて、ややくたびれた眼差しで店内を見渡した。彼の両足はすっかり萎えて、小さくなっていた。瞳は少年のそれだった。よく見ると、右手に火傷のような跡が見えた。
 ――私は、先生は時代が時代なら、火炙りにされているようなタイプの神学者だったと思いますね。いってることが時どきおかしいんですよね、自分で気付いてますか?
 洋子が真面目な顔で平然とそういうと、隣で彼女に寄り添うように座っていたNorthrop Fryeが声を立てて笑った。
 ――これから、先生自身の口から貴方の考えを述べていただきたいんです。聴講生は、御覧のとおり僕と浅野くんの二人だけです。僕は貴方を尊敬している。貴方の考えていることを、僕は汎世界的に拡大させたいとすら思います。
 ――危ない奴、と洋子が大きな声で陰口をいった。
 ――Page Not Foundのことかね? これは「表現」に過ぎんよ。ただ、私はこれに「神の痕跡化」という「意味」を担わせているだけだ。根本的に、私は自分がどこにいるのか解らないんだ。神が何かも解らない。
 Fisherがそういうと、洋子が矢継ぎ早に口を開いた。
 ――『シェームの釈義』には、この宇宙は巨大な女性の「子宮」であると記されています。先生は、これも「表現」だというんでしょう?
 ――相変わらず君は過激だね、浅野くん。だがその通りだよ。グノーシス主義の幾つかの宗派が、創造論に「子宮」を結び付けたように、正統派のカトリックも神に「愛」の概念を結び付ける。どちらも「表現」だ。つまり、「意味」を捏造する行為だ。私は、真理はむしろ不在だといいたい。
 ――先生のいう「不在」というのが、あの御本で何度も言及されている「空白化」として現れているということですか? と、Northrop Fryeが質問した。
 ――解らない。だが、コヘレトの書には、不思議なことに「永劫回帰」の原形質的な記述がある。Norbert Bolzは、WebのNeural networkの構造は、Hypertorus(リゾーム状の円環の集合体)を描くと記している。私がPage Not Foundとか、空白化とかいう言葉で表現していることと、「意味」を同じくしていた連中はかつて既にいたんだ。だから、何を表現しても、私には無効にすら思える。
 ――先生、例えば私が今ここで死ぬとすれば、それは世界にとって、私たちという存在者が「空白化」することを意味するのですか?
 洋子はFisherと同じ葉巻を吸っていた。そして、彼の真似をして、くたびれたように鼻腔から白煙を吐いてみた。彼女の顔はクシャクシャになった。
 ――死なんてものはないよ、浅野くん。死は誰も経験しないんだ。経験した時点で主体が経験論を抹消してしまうからね。でも、君が例えばNorthrop Fryeくんと今夜いっしょに帰るとすれば、それは少なくとも私にとっては情報になる。死は情報だよ。だから、「空白化」も一つの情報なんだ。無ではない。
 ――彼女は僕よりも貴方に惚れているようですね、とNorthrop Fryeは端麗な微笑を浮かべて洋子に目配せした。
 ――先生の学説に反論します。私は、貴方がいっている「仮想と現実の交叉配列」という奇妙奇天烈な学説を支持できません。非現実的です。
 洋子とNorthrop Fryeは、共にキリスト教に関心を持ちながらも、平穏に信徒として人生を切り開けないことで共通する苦しみを担っていた。だが、それを最も大きく感じていたのがFisherであった。
 ――私はね、自分の考えを述べるよりも、君たちの些細な口喧嘩を耳にしているほうが、よほど落ち着くよ。でも、せっかく撮影者もいてくれているのだから、ひとまずテーマを絞ろうか。そうだな、何がいいだろうか?
 ――エクレシアステーテスが、と洋子がほとんど冷酷とすらいっていい眼差しで即答した。
 ――彼女に賛成します。
 Fisherは静かに頷いた。そして、夜の街灯に集まる一匹の蛾をしばらく見つめていた。まず洋子が口を開いた。
 ――コヘレトの書の作者はソロモンに帰されていますが、これは事実誤認というものです。実際は「匿名の作者集団」がいた可能性が極めて高い。コヘレトは、「集まり」や「集会」を意味しています。何者かが、かつて集会を開き、議論した末に、ある結論に到達した。彼らは自分たちの「固有名」を消すために、作者名を「ソロモン」に帰した。その結論は、「かつて起きたことは、今起きていること。これから起きることも、かつて起きたこと」という名高い、そしてほとんど現代思想の論客から無視され続けている美しい命題です。今、私たちがこうして話していること、こうした対話も、かつてどこかで既に行われた。そして、これからも無限に繰り返されます。コヘレトの書の核心となる概念は、「循環論」です。
 ――循環論と、君は今いったのかね? つまり、全く同じことが今後も同じように繰り返されると?
 ――いいえ、と洋子は答えた。そして、彼女はFisherが自分の何かを試すために、あえて聞き役に回り始めたということを彼女自身の嗅覚によって察知した。「全く同じこと」が反復されることは不可能です。円を描くとき、全く同じ線を二度辿ることはできません。何故なら、一本目の円周と、二本目の円周では、「時間」の位相が異なるからです。物事は繰り返されますが、「全く同じこと」がそうなるのではありません。
 ――洋子、君が今いっていることは、かつてGilles Deleuzeがいっていたことだね。つまり、繰り返される蝶の生成変化、メタモルフォーゼとしての反復だ。
 Northrop Fryeがそう口を挟んだことを、洋子は無視した。
 ――ある物事が繰り返される過程で、コヘレトの書が提示したモデルは、「円」でした。「球」というべきかもしれません。私はここで、先生と品性の無いNorthrop Frye「くん」のために、もう一つ、コヘレトの書で重要なメッセージを提示しようと思います。それは、つまり「神は過ぎ去ったことをまた追い求める」ということです。神にとっては、喪われる、ということが起こりえない。「喪う」と「得る」という二つの動詞は、神学的には同一です。私には、コヘレトの書の奥に、ουροβóροςの蛇が見えることがあります。ουροβóροςの蛇は、自分の頭で自分の尾を噛んでいる。つまり、「円」です。この蛇には、この蛇をしか入れられない「器」のようなものがあったのではないか? それを、先生は「matrix(子宮)」という概念で表していますね?
 ――結局、君という女性は、どれほど先生を批判しようとしても、彼の娘でしかありえないんだ、とNorthrop Fryeは笑った。
 ――マトリックスという概念は、と二人が沈黙しているのを交互に眺めながらFisherは穏やかに口を開いた。聖ヒルデガルトの神学の根幹にあるものだよ。ただし、彼女はコヘレトの書とマトリックスを結びつけて思考してはいないし、勿論、WebのNeural networkの逃走線たちが、巨大なリゾーム状の子宮形を描く、ということにも言及していない。マトリックスという概念には、実はあと二つ、姉妹的な概念が隠れているんだ。Northrop Fryeくんは御存知かね?
 ――「mater(母)」ですよね? あと一つは忘れました。
 ――やっぱりアンタは勉強不足なのよ。三つ目はマテリア。つまり、「materia(母体)」よ。
 洋子がそう答えると、Fisherは頷いた。
 ――matrix、mater、materiaの三つは、共に「世界の起源」であるとヒルデガルトは考えていた。私は、これら三つは共に「Web」の核心的な属性であると考える。Neural networkは領土ではなく、線で拡大する。線は互いにハイパーリンクして領土を形成する。その領土から再び線が触手のように増殖して、ハイパーリンクを繰り返す。その繰り返しが、マテリアとしてのWebだ。つまり、Web自身も、母親になることを欲している。Webは、まだ娘の段階なのだ。Webのことを、キッズたちが時おり「電子の海」と呼ぶことは適切な比喩だ。マテリアは「mare(海)」でもある。
 ――先生は、世界の起源に「Web」が既に「あった」と考えるのですか? しかし、創世記には「Web」や「Neural network」という言葉は登場しません。
 Northrop Fryeは、いつしか自分が師を批判する側に回っていることに気付いた。
 ――Northrop Fryeくん、「Web」も「表現」さ。エデンは領土性を意味している。対して、カインの流浪は領土Aから領土Bへの「線」を、すなわち「Neural network」を意味している。最も愉快であるのは、「洪水」なんだ。「洪水」は全ての領土の埋没を意味している。つまり、数多化した領土が、アラトトの山頂という唯一の領土へと収斂する。創世記は、無限に繰り返される「領土」と「線」のプロセスなんだ。
 ――もう一度尋ねます。先生は本当に創造論の前提として「Web」を置くわけですか?
 ――そうだ、とFisherは断言した。ただし、かつて「Web」という技術は存在しなかった。「Web」の始原的な「表現」に相当するものは、いつの時代にもあったということだよ。それは、創世記にも妥当する。
 洋子は笑顔になっていた。自分がFisherを信じてきたことは、間違いではないと思った。何かが解明されそうな予感がしていた。洋子は、もっとFisherの言葉を聞いていたかった。そのためになら、彼に抱かれても良いとすら思った。
 ――先生、それじゃあ、マトリックスは「領土」なのですか? それとも「線」? 
 洋子の単純な愛らしい質問に、Fisherは父親のような優しい笑顔を振り向けた。
 ――マトリックスは「領土」であり、かつ同時に「線」でもある、と答えておこう。Webは宇宙を覆い尽くす巨大なマトリックスだ。必ずそうなる、と私は確信している。地球上で、Webが発生した、ということはけして偶然ではない。被造物は、常に造物主のミメーシス、つまり模倣を行うものなんだ。神御自身がお創りになったマトリックスに、Webが接近し得ない、と誰がいえようか?
 ――コヘレトの書の定式は? と、洋子が更に楽しげな笑顔で質問した。
 ――「Webが今ある、ということは、それがかつてあったということ」だ。Gottfried Wilhelm Leibnizが『Analysis Geometrica Propria(1698)』の第24項で述べていた表現を使えば、「円は、静止している<神>の周りで、直線が運動することによって作られる。静止している端は中心に、他方の端によって描かれた線は円周になるであろう」だ。ナザレのイエスは、おそらく砂上に「W・E・B」という文字を残し、それを消したのだ。
 憐はそこまでで映像を止めた。若い頃の洋子は、何か必死で探求すべきものを探そうとしている一人の少女といった雰囲気だった。憐は洋子が愛しかった。
 
 翌日、憐はChristianeと二人で海辺を歩き回った。洋子が異変を来たし、置手紙に一言「私は消える」とだけ記されていたのだ。二人は夜になっても洋子を探し続けた。だが、洋子は見当たらなかった。二人がFisherのかつての邸宅に行ってみると、そこは焦土と化していた。おそらく、彼女が火を放ったのだ。
 憐は明け方早く、南側の岩礁で、洋子が静かに眠っているのを見つけた。憐は彼女のその姿を見て、怖れていたことが遂に起きたのだと感じた。洋子は、洋子という自分の存在規定を抹消したのだ。洋子を苦しめていた空白化の衝撃は、彼女の記憶の海そのものを抹消に付したのだった。
 憐は沈黙していた。やがて背後にChristianeが立った。
 ――私も明日、おそらく消えると思うわ。憐くん、君のPage Not Foundの進行はゆっくりだけれどね。
 ――たぶん、どこの国に行っても、事態は同じだと思います。もうどうすることもできません。
 ――洋子さんが亡くなって、哀しいのではないの?
 Christianeが静かな、暗い声色でそう尋ねた。
 ――亡くなる……。本当に亡くなったのか、僕には解りません。あまりにも早く事態が起きて、頭の中で整理できないんです。まるで夢の中みたいです。
 ――誰かが見てる夢なんじゃないかしら? この空白化する世界も、フィッシャーがいってた子宮的な宇宙論も、貴方の意識そのものも。
 ――Christianeさんもあのディスクを観たんですか?
 ――あれだけだったのよ。現存する彼の肉声を収めた映像は。彼が最初の白死病の犠牲者よ。原因は不明。今でも研究が続けられているけれどね。
 憐は朦朧としていた。洋子の隣で眠りたかった。眠れば、おそらく広大な美しい草原で目覚めるだろう。新しい世界が開始されるだろう。
 ――この島は、Christianeさんが支配されておられるんですよね?
 憐の唐突な、意味ありげな質問にChristianeは微笑んだ。
 ――仮にこの世界が、「WORLD」という一つの仮想世界だとすれば、私はこの島の管理人よ。私がこの島をデザインしたの。でも、貴方をデザインしたのは、別の誰かよ。一切は仮想的、あまりに仮想的だわ。世界なんて無いかもしれない。
 ――貴女も誰かにデザインされているということですか?
 ――私がいいたいのは、平穏な暮らしが、一番不可思議だということよ。例えば、散歩がてらに、公園をサイクリングする。いつもと同じ川沿いの道を走る。太陽があって、川があって、ジョギングしてるお爺さんとすれ違う。振り返ると、そのお爺さんはいない。お爺さんがいるはずの地点には、小さなrabbitの縫い包みが置かれてて、笑ってる。ねえ憐くん? この話で、どこから仮想化されたと考える? rabbitが出現するあたりからかしら? それとも、お爺さんとすれ違う瞬間からかしら? 私は、いずれでもないと感じる。答えは、そう、彼がこの世界に生まれたその時からよ。情報なんて意味が無いわ。あらゆるものは、Page Not Foundになっていく。いつまで経っても、「世界が見つかりました」には到達しない。こここそが、Webの中の最も暗い迷宮なのよ。
 憐は彼女の言葉に返す言葉を持っていなかった。おそらく、あの映像を撮影したのは、彼女なのだ。否、それは彼女だったろうか? 
 憐は洋子の隣に座り込んだ。そして、彼女の腰に腕を回し、頬を背中にすり寄せた。憐は白い結晶のような彼女を哀しげに抱擁していた。彼はそこで自分も不在になるつもりだった。
 ――Christianeさん? 一つだけ教えてください。何故この島では葡萄が栽培されているんですか? ワインが好きだから?
 ――そう、ワインが好きだからよ。それに、葡萄という果物は、ソドムで栽培されていたとされる植物の中で、はっきりと伝承に名前が登場するフルーツでもあるわ。ソドムには、きっと、本当に素晴らしいほど美しい、色取り取りの葡萄たちが育てられていた。ソドムの民は、それらを食べたり飲んだりしながら楽しくセックスしていた。でも、神の火が落ちて、あの街もPage Not Foundになったわ。vinea Sodomorum、Noahが最初に栽培した葡萄の、なれの果ての姿ね。
 その時だった。憐は、自分だけが感染せずにこの隔離された島で生き延びていることの意味を掴んだような気がした。それは、つまり「生きる」ためであった。洋子と、今目の前にいるChristianeを島から連れ出し、帰国して二人を専門の病院へ入れるためであった。感染せずに、今ここに存在するというこのリアリティーこそが、憐にとっては唯一の確実性だった。それは確実な出来事だった。憐は間違いなく、生きていた。そして、憐には、まだ洋子も、変わり果てた姿になって身体のそこかしこを白色に結晶化させてすらいるChristianeも、やがては「快癒する」のではないかと感じた。否、それは最早、残された最後の祈りのようなものだった。だが、憐は「快癒する」――二人がこの上なく美しく、やがては「快癒する」――と信じた。その時、憐は確かに信じたのだった。そして、この想いは伝わらなければ意味を成さないと想った。言葉でそれを伝えない限り、或いは眼差しでそれを示さない限り、二人が持つ「快癒する」本質的な生への意志は、すっかり萎えて滅んでしまうのではないかとすら想われた。
 ――帰りましょう、Christianeさん。貴女を診る人々がいる街へ。
 憐が強い意志をこめてそういうと、Christianeは穏やかな、優しい微笑を浮かべて、そして岩の壁に身を寄せた。
 ――私はそろそろ眠るわ。起きれば、別の世界にいる。私は貴方の隣で目覚めるのかしら? 私が、貴方に「なる」のかしら?
 Christianeはそういうと、首を低く落とした。それは、弱り果てていた白鳥が、誰もいない夜の湖で、ひっそりと自死したような姿だった。彼女の美しかった巻き毛は、洞窟の冷たい岩肌に溶かされて、全く異質の電子的な虚無を宿した結晶へと変化していた。それは沈黙した氷の王女のようだった。
 憐は、海辺から洪水が押し寄せるような、潮のうねりの轟音を耳にしていた。その音は彼の耳の中で伸びて、遠く彼方へ戻っていき、やがて優しい小さな音が聴こえ始めた。

 V 「Archaeopteryx lithographica」

 ――捕まえたぞっ! Donald! もう逃げられない!
 ――Amen! Amen! 御赦しください!
 ――もっとお金を大切にしなきゃダメだろ! お金以外に大切なものがこの世界にあるならいえ!
 ショッピングモールのワイドスクリーンから、絶えずそんな軽快な声が響いていた。Scientia社の事業は拡大し、こうして憐が暮らしていた街にも新しく巨大なショッピングセンターが築かれたのだ。MICKEY MOUSEの瞳は、すっかり「\\\\」に溢れている。MICKEY MOUSEの姿はイエス・キリストのそれだ。他方、苛められているDONALD FAUNTLEROY DUCKは、神父の姿をしている。イエスが現代の神父をやたらと苛めているこの衝撃的なパロディが、Scientia社の世界規模に流されて話題を呼んでいる革命的なコマーシャルなのだ。
 少年少女はこのコマーシャルが好きだった。これまで正義の味方だったMICKEY MOUSEが、なんだか「ワルモノ」みたいだった。それも、苛められているのはMICKEY MOUSEの大切な友達であるDONALD FAUNTLEROY DUCKなのだ。大人たちには、これは冷や汗ものだった。なにせ、苛めているMICKEY MOUSEが「キリスト」の格好をしているのだ。それも、カルワリオの丘を、十字架を担いながら歩いていた、あの生々しい姿で! 
 ――お金以外に大切なものがこの世界にあるならいえ!
 この反キリスト的だが、極めて的を射た台詞を考えたのは、CEO自身だという噂もWeb上で流れていた。とはいえ、ここは日本だった。日本のようにキリスト教が主流ではない東アジアの国家にとって、このCMが持つ異常でセンセーショナルな意味をすぐに直感する者は少なかった。だが、何か不気味な好奇心と、ぞくぞくするような魔術的なものがScientiaグループによって始まりつつあることは予感されていた。
 夏休みは終わった。だが、学校などは始まらなかった。何故か? それは理由を知れば当然といえた。白死病の感染が日本列島でも拡大していたからだ。といっても、白死病が何かなど、誰も知らなかった。一部の学者は、この感染を「コピーペースト」と正確に表現していた。それは優れたレトリックでもあった。要するに、身体か、身体からは見えない頭の中のどこかが、découpageされる。それがコピーされるのだ。新聞紙を切り抜きすれば、その部分だけ読めないのと同じで、切り抜きが生起した人間は、どこかがおかしくなる。身体の場合は、それこそ「ペイント」で「消しゴム」を使ったように、白くなる。身体から見えない心の場合は、事態はいっそう深刻だった。学校どころか、多くの企業もこのWeb社会の闇の具象化ともいうべき空白化に太刀打ちできなかった。結果、多くの組織、共同体は閉ざされ始めたのだった。
 憐は帰還していた。勿論、洋子を連れて。Fisherの島から脱出できたのは、彼がWebを使って本国に救助を要請したためだった。それだけでも、かなりの壮絶な冒険だった。だが、憐はヘリの中でもずっと洋子の顔を見守り続けていた。最初からあんな島などには行くべきではなかった、と憐は感じていた。Christianeを助けられなかったのは仕方なかった。彼女は空白化のオメガポイントに達したのだ。唯一にして最大の収穫は、Page Not Foundの仕掛け人ともいうべきFisherの肉声を収録したあのディスクを持ち出せたことだ。今、憐のポケットにある。洋子は眠りについたまま、瞼を開ける気配を見せない。だが、憐は信じていた。自分が調査を続行すれば、最後には謎が解けることを。
 憐がいるところは、病院だった。洋子の病室だ。憐は極度の深い絶望に襲われていた。というのは、憐は志穂が白死病に感染していたことを、彼女の上司から知らされたからである。憐はHieronymusも同じように亡くなってしまったと思っていた。
 憐は洋子に付きっ切りで看病している。看病といっても、彼にはただ見守るしかない。動かず、喋らず、笑わず、ひたすら呼吸だけしている今の洋子にでも、自分が傍にいて、手を握っていてあげれば体温だけは伝わると憐は信じているのだ。時どき、憐は洋子の手を握りながら、キーボードを叩く。世界に蔓延している新しいペストの情報をチェックする。調べていて知ったのだが、不思議なことに深刻な空白化が拡大しているのは、高度にサイバネティクスを発達させた資本主語国に限られていた。グルジアでは、空白化を直接人体に発病した人間の数はゼロだった。生活世界に、限りなくWebが楽しげに介在している豊かな一部の国家に、集中して電子的なペストが広がっているような色分けされた世界地図も掲載されていた。空白化という現象が、痛切に悲劇的な側面と、奇妙にもポップカルチャー的な小悪魔的側面を共存させているだけに、ふざけてPage Not Foundを崇拝するような若者たちまで現れ始めていた。
 MICKEY MOUSE(この3フィート2インチのキリスト教徒)はお金を謳歌し続けていた。Scientiaと、新しいマスコットキャラクターのデザインに苦戦していたThe Walt Disney Companyが組んだことは情報社会にとって、喜劇的な神話ですらあった。MICKEY MOUSEはキリストとなって、神父のDONALD FAUNTLEROY DUCKを追いかけ回していた。物凄い速度で、MICKEY MOUSEが「キリスト教の神の値段はいくらだ!」と絶叫する。直後、DONALD FAUNTLEROY DUCKがやはり物凄い速度で逃走しながら、首だけ180度回転させて、「お金! 情報! 愛は二の次!」と絶叫する。この判り易く、『Das Kapital』の著者を微笑させるようなコマーシャルが、全世界の今年の流行語にまで選ばれていた。時代のシンボルとして、MICKEY MOUSEはWeb社会に完全に融合したのだ。
 だが、日本では五十年以上も前から、既に「愛など二の次」だった。この国の特質は、(MICKEY MOUSEの戦闘的スローガンを引用するならば、)「お金! 情報!」の恒常的な身体化であった。貨幣と情報を重視するのは日本人の特徴である。だからこそこの国のWebの技術力はアメリカに匹敵して強大だったし、そもそも仕掛け人であるScientia社の副社長が日本人だった。そういうクールだが無神論的な国家に、もしもペストが起きればどうなるだろうか? 事態は皮肉にも、日本を中世ヨーロッパ的な雰囲気にすることに成功した。すなわち、「教会」の意義が急速に再評価され始めたのだ。空白化という得体の知れない病気が拡大していたという事実が、日本人に一神教の意義を見直させた。無論、日本には元々の仏教、つまり禅宗がある。が、若者層を中心に、急速にローマ・カトリック教会という「伝統性」のメディア・コードが注目を集め始めたのだった。それは、Web社会の「流動性」への対抗軸となる恒久不変のコードだった。
 SCV(Status Civitatis Vaticanæ)は日本にkissをした。日本はこれまで、アメリカの属国、一つの州としてヨーロッパからparergonに追いやられてきた。だが、これまでMICKEY MOUSE主義国だった日本が、DONALD FAUNTLEROY DUCKに鞍替えし始めたのである。それは、鮮やかな十二単を着込んで笑う聖母マリアが、繊細で優雅な指先で、高速度のタイピングをしながらWeb上の法皇とダンスしているようなビジョンであった。
 病室に若い医師が入ってきた。憐は彼に丁寧に御辞儀した。二人はまどろみの王国で静かに眠り続けている洋子を見つめた。
 ――先生、彼女はいつになれば目覚めるのでしょうか?
 ――我々にも皆目検討がつかないんだ。国連は空白化やWhiteDeathなどという言葉で表現しているが、それさえもが何か疑わしい。誰もこの病の本質を見抜いていないんだ。
 医師はそういうと、憐に自分の腕を見せた。彼の腕は三角形にdécoupageされていた。医師は疲れた眼差しで微笑んだ。
 ――たぶん、私という存在者も何者かにデザインされていたのではないだろうか。そして、今デザイナーが、私を少しずつ消しゴムで消そうとしている。こんな風にね。
 ――先進国に集中して発病するというのはどういうことなんでしょうか? 中国では、一部の発達した都市圏で感染者が増えているそうですが……。
 ――Webさ。Webに常時接続可能な環境世界の人間にのみ、発病する。何らかの電子的な不安、虚無、失望、孤独を味わったことのある人間が発病し易いというデータもあるんだ。
 洋子の枕元には、憐が毎日飾りに来る薔薇が活けてあった。その花弁が一枚、今彼女の唇の上に落ちた。
 ――先生、これからも宜しく御願いします。僕自身も、この問題について調査したいと考えています。
 ――ひとりひとりが冷静に事態を探れば、或いは何か解決の手掛かりが見つかるかもしれない。ペストには特効薬があった。我々も全力で患者を救うよう研究を欠かさない。
 医師はそういうと、憐の肩に手を置いた。そして、早足で病室を去った。憐は洋子の唇に乗った真紅の花弁を指先で掬うと、それを窓辺に優しく飾った。外には青空が広がっていた。(青空まで、découpageされるようになれば、もう終りかもしれない。)
 憐はその夜、図書館へ向かった。政府は、夜でも開館している大きな図書館を各地に設置していた。全力で事態の解決に取り組むためには、民間独自の研究が重要だと考えたからだ。だが、憐は帰国してからの精神的な疲弊から、フロアの片隅で眠り込んでしまっていた。
 憐は夢を見ていた。それは、洋子と二人で踊っている夢だった。薄暗いダンスホールの中央を、洋子が黒いドレス姿で舞っている。洋子の踊りは、不思議な円環を描いていた。憐はうっとりしていた。彼の耳元で、やがて洋子がこういった。「憐、これがουροβóροςよ」。そして、洋子はいつの間にかいなくなっていた。薄暗い螺旋階段の電灯の辺りを見ると、そこに洋子がいた。彼女はひたすらこちらを見ていた。だが、憐は彼女の背景を見て驚愕した。そこには、無数の顔のない女性たちが、漆黒のドレスを着て踊っていたのだ。踊るというより、蠢くというべきか。彼女たちの黒い髪と、黒いドレスが混ざり合い、巨大な深海魚の劇的な死滅のような光景を顕にしていた。
 憐は悲鳴をあげながら飛び起きた。全身にひどく脂汗が湧出していた。司書の女性が、大慌てで憐に駆け寄ってきた。
 ――あの、大丈夫ですか!
 憐は正気に戻り、動揺しつつも首を縦に振った。若い司書は一安心して、「一度家に帰った方がいいんじゃない?」といった。憐は頷いたが、偶然彼女の首筋を目にしてしまった。そこはdécoupageされていた。よく見ると、彼女の左目も空白だった。憐がそれに気付いたことに、彼女も敏感に察した。彼女は急速に懐かしい笑顔を浮かべた。憐は立ち上がり、御礼をいった。このような空白化は、この街でも最早ありふれた光景になってきつつあった。
 翌日、憐は衝撃された。いつものように早朝に病室へ向かうと、洋子の周りで医師や看護婦たちが何か深刻な面持ちで相談していたのだ。憐が挨拶すると、昨日の若い医師が駆け寄ってきた。
 ――君を待っていたんだ。今、たった今、信じられないことが……。
 彼の表情は明らかに好奇心で輝いていた。同時に、大きな不安を瞳の奥で滲ませてもいた。
 ――どうしたんですか? 洋子さんに何か起きたんですか!
 ――目覚めたんだ。それも、ほんの一瞬だけだった。信じられないことだ。こんな症例はない。
 憐は「目覚めた」というその言葉に驚愕した。洋子が目覚めた――またあの声が聴ける。だが、彼女は昨日と同じように瞼を閉じているではないか。
 ――それで……何か僕に伝えることをいっていませんでしたか! 何かを指し示すだとか!
 ――いや、ただ体を起こして、花瓶を指でなぞっていただけだった。まるで幻視のような光景だったよ。とにかく、これは何か謎めいた快復の兆しかもしれない! 我々もそう信じているんだ!
 医師は自分自身の病を彼女に重ね合わせているようだった。やがて医師たちは病室を去り、一人の看護婦のみが憐と残った。看護婦は洋子の点滴をチェックしたり、ファイルに何かをしきりに書き込んでいた。だが、看護婦はやがてそれらの動作を止めた。そして、じっと憐を見つめた。
 ――実は……まだ君に報告していないことがあったの。先生たちはこのことについては何も知らないわ。でも、君にどうしても話しておきたいの。
 ――洋子さんの件ですか? 何でも聞きます。是非教えてください。何か僕にできることの手掛かりがあるかもしれません。
 ――君ならそういうと思った。実はね、昨夜は私がこのフロアの見回りを担当していたの。ここの病室の扉が開いているから妙だと思って中へ入ったわ。そうしたら、薄暗いベッドの上で、月の光を浴びた洋子さんが座っていたの。私、思わず叫んでしまったわ。(びっくりしたのよ。)よく見ると何かを紙に必死で描いていたようだったわ。私、大急ぎで先生を呼びに行こうとしたの。でも、不思議なことに誰もいなかったのよ。(本当に、ナースセンターにも玄関ホールにも、誰もいなかったわ。たぶん、私が疲れていたせいだと思うけれど。)大急ぎで戻ると、洋子さんは前と同じように眠っていたわ。でも、とにかく私は見たの。座って絵を描いていたことは間違いないわ。
 彼女は懇願するような痛切な眼差しでそういった。おそらく、まだ自分が見たものが幻覚かそうでないか判らないのだろう。だが、憐は不意に先刻、あの若い医師がいっていたことを想起した。洋子は花瓶を指でなぞっていた――憐は花瓶に近寄り、活けた満開の薔薇の奥を見つめた。内部にクシャクシャになった丸い紙が入っていた。看護婦はそれを見て驚愕し、憐の傍へ駆け寄った。憐が紙を開くと、そこには鉛筆で円が何度も描かれていた。円周上には二つの大きな点が描きこまれていた。憐はそれを見て直感した。
 ――ουροβóροςだ……。
 憐はその日、図書館でουροβóροςについて調べ続けていた。自分が昨夜ここで見た夢と、あの看護婦が昨夜病室で見たこと、その二つには何か秘められた繋がりがあるに違いなかった。何十時間も関連書籍を探った結果、憐はある一つの形象を発見した。(それは、1582年にヒエロニムス・ロイスナーという人物が刊行した『Pandora』に描かれた絵だった。)その絵には、下方に自分の尾を飲み込んでいる蛇が描かれていた。蛇の腸から上方へ向かって、三本の薔薇が咲き乱れていた。中央の薔薇は、「不死」を意味する存在しない「青薔薇」だった。(その研究書には、この青薔薇が「ピスティス(信仰)」と「ソフィア(智恵)」を象徴しているとも記されていた。)
 憐はこの「ουροβóροςと青薔薇」の形象を発見した時、洋子が伝えたかったメッセージはこれに違いないと思った。そして、Fisherの肉声を収めたあのディスクの映像記録にもあったように、WebのNeural networkの構造が、やがては「ουροβóροςと青薔薇」にまで到達するという学説の存在も彼は知っていた。ουροβóροςも、憐自身が洋子と感じた「子宮」のビジョンも、共に描いているのは円だった。それは内部に何か大切なものを宿しているからこそ、そのような形状をしているのではないかと思われた。内部に何かを包摂する時、最も安定した秩序あるモデルが、円なのだ。ουροβóροςも「子宮」も、共に無秩序ではなく秩序を、闘争ではなく安定を、ノイズではなく甘美なメロディーを、意味のない暗号の洪水ではなく詩篇の一節を感じさせた。それは共に憐にとって、心がどこか優しくなり、穏やかになる不思議な形であった。
 翌日、新しい面会人が現れた。憐が新しいミニチュアローズを携えて病室を訪れると、既に男性が洋子の顔を見つめていた。病室のあちらこちらに満開の薔薇が飾られていた。それは憐が控えめに、そっと小さな薔薇を飾るというようなレヴェルではなかった。病室が薔薇園になっていたのだ。その贈り主がおそらく彼だった。憐には、どこかで彼の顔を見た記憶があったが、誰かはその時判らなかった。
 ――君が現在の浅野洋子のパートナーかい? いや、助手というべきか。
 彼は、穏やかな微笑を浮かべながらそういった。日本人ではなかった。純白のタキシードを着ており、髪の毛は完全な白髪だった。彼は何から何まで真っ白だった。よく見ると、瞳の色まで真っ白だった。年齢は洋子と同じくらいか、或いは年下かもしれなかった。(それは彼のファッションらしかったが、憐には非常に冷たい印象を与えた。)
 ――心配しなくてもいいよ。私はすぐに彼女の傍から消える。久々に古い友人に会いに来ただけなんだ。もっとも、昔と変わらず彼女は私に振り向いてくれなかったわけだが……。
 ――はじめまして。僕は川崎憐といいます。洋子さんの妹の志穂とは、隣の学校でした。
 ――志穂? (はあ、彼女には妹がいたのか。それは初めて知ったよ。)私は彼女がフライブルクにいた頃の仲間で、Northrop Fryeという者だ。仕事は……そうだな、デザイナーといったところか。
 憐は彼のその言葉を聞いて耳を疑った。Northrop Frye……あのディスクの中で、もう何年も前に洋子とFisherと対話していた青年、現在はWeb界を牽引しているScientia社の最高経営責任者だ。(まさかこれほどまでに若いとは思わなかった。或いは、若作りしているのかもしれなかった。)雰囲気だけでも何か奇抜極まるものがあったが、物腰はあくまで穏やかだった。それは、彼の半径数十メートルが完全に静謐な波打ち際になっているかのようであった。
 ――志穂は白死病で……最後の顔さえ僕は見てやることができませんでした。夏休みを利用して、彼女と南仏にいる洋子さんの下へ飛んだんです。でも、帰国する時は僕と洋子さん二人だけになっていました。
 ――少し歩かないか? 君に見せたいものがある。私の予感だが、君は洋子から何かヒントを与えられて、現在極秘裏にそれを調査している。もう何か掴んだかい?
 ――Northrop Fryeさんも、もしかして白死病に感染しているんですか?
 憐がそう尋ねると、Northrop Fryeは笑窪を浮かべて微笑んだ。そして、右手の掌を憐に魔術的に翻した。そこには、完全なハート型によるdécoupageが発生していた。
 Northrop Fryeの車に乗せられて、憐はどこか判らない未知の場所へと向かっていた。車もやはり完全な白色で統一されていたが、運転席側のドアに小さくロゴマークで「SCIENTIA」と描かれていた。窓の外の風景は色彩の溶ける帯のように高速度で流動した。
 やがて都市が黄昏に沈んだ。日曜日のショッピングセンターへの駆け出し以外、街路はほとんど閑散としているのだった。Northrop Fryeは停車させ、助手席の扉を開けた。
 ――君はまだ本来高校生なのか。だとすれば、ここからはかなり刺激が強いかもしれないな。だが、少なくともPage Not Foundについて考える上では、重大な意味を持っている。さあ、行こう。
 二人は巨大な円筒形のビルの前に立った。玄関口には会社のロゴは見当たらなかったが、おそらくこの企業もScientiaグループの傘下にあるようだった。Northrop Fryeは笑顔で清潔な玄関ホールの自動ドアをくぐった。憐もそれに続いた。ここが日本であることを感じさせないほど人種的に色彩豊かなオフィスレディたちが、皆いっせいにNorthrop Fryeと憐に御辞儀をした。
 エレベーターはあまりにも巨大に感じられた。憐は何か名状し難い不安と胸の奇妙な高鳴りを感じていた。Northrop Fryeは平然とした様子で地下47階のボタンを押した。異常な速度でボタンの光が「1」→「B2」→「B3」→「B5」→「B7」→「B11」→「B13」→「B17」→「B19」→「B23」→「B29」→「B31」→「B37」→「B41」→「B43」→と素数的に移っていった。「B47」に到着すると、素早くドアが開いた。
 Northrop Fryeは、清潔で真っ白な廊下を堂々とした足取りで歩いていた。奥の扉までやって来て、彼は憐を見返した。そして、満面の笑みを浮かべて、「私は“彼女”を撮影できなくて非常に残念だ」と独り言のように囁いた。
 憐は部屋の中を見て頭の中に激震が走った。そこには総勢三十名の裸体の若い女性たちがいて、Northrop Fryeの帰還を待っていたのだった。(彼女たちは皆、広大な桃色のカーテンに刺繍された、生々しい薔薇の蕾のようだった。)異常なほど巨大なベッドの色彩は完全なピンク色だった。やがて隣の部屋の扉が開き、奥から髭を生やしたカメラマンが現れた。Northrop Fryeは優しい微笑を浮かべて、憐に目配せした。俺も脱ぐからお前も脱げよ、とその凶暴な理性を秘めた瞳が主張していた。
 ――あの女が、フィッシャーからたった一人で相続した命題があるはずなんだ。私が知らない何か、君にはおそらく既に伝達されている何かが。
 Northrop Fryeはやがて裸体になった。彼の身体は既に、グロテスクなほどの鱗模様のdécoupageを増殖させていた。憐は部屋の扉が外からロックされてしまったことに気付いた。そして、憐はふっきれたようにNorthrop Fryeを睨み付けた。
 憐が表情一つ変えなかったので、Northrop Fryeは二人の女性の乳房を同時に頬張りながら優しく微笑した。女性たちは、(おそらくあらかじめ撮影監督から「CEOを抱擁せよ」という命令を与えられていたのだろう、)いっせいに彼の身体を無数の身体の海によって包摂した。これは明らかにPORNOGRAPHYだった。Northrop Fryeには、あまりにも単純で罪深い二面性が備わっているようだった。
 ――憐くん、彼女たちの尻や胸を見たまえ。やはり私と同じようにdécoupageが進行している。これまで数え切れない人数の女たちとセックスを繰り返してきたが、感染後の方がイき方が強烈になることを知ったんだ。これは映像化してWebに流されるだろう。勿論、男優が「誰であるか」なんて誰も特定できないが。私が想定しているのは、PORNOGRAPHYではない。これは神学にとって最大のテーマなんだ。
 Northrop Fryeは、そういって胸の肉の波立ちに姿を消した。彼の身体は、隣り合う女性たちの身体との間隔を限りなくゼロに接近させていた。それは女性の身体、否、「肉の山」だった。肉の山は内部で絶えず流動し続け、快楽的な喘ぎ声を発し続けていた。カメラマンと補助スタッフたちは、これらの映像をあらゆる角度から撮影しようと必死だった。
 ――憐くん、君は勿論PORNOGRAPHYを閲覧したことがあるだろう? そこで君は何を感じたろうか? PORNOGRAPHYのある特定化されたカテゴリーのことではない。PORNOGRAPHYの「イデア」の話をしているんだ。
 Northrop Fryeは、重なり合う無数の胸の谷間から顔だけを出してそういった。
 ――僕をこの場から解放してください。僕にはすべきことがあるんです。
 ――君はPORNOGRAPHYが、実は聖像と同じ次元に位置することを考えたことがないはずだ。二次元であること、これが現在のWebが背負っているこの上なく痛ましい十字架さ。君はFELLATIOを経験したことがあるだろうか? 君が仮に、それをPORNOGRAPHYでしか閲覧したことがない場合、FELLATIOが与えるあのこそばゆくも至福の法悦は、感覚的には存在しないはずだ。
 ――何がいいたいんですか? 
 ――先刻からいっているだろう? これは神学的なテーマなんだ。Fisherや浅野洋子はまだ正統派さ。Webの神学的命題として、Page Not Foundを研究しているに過ぎない。だが、私はPage Not Foundには何の関心もないんだ。私が思考して、今後進化させるべきなのは徹頭徹尾、PORNOGRAPHYだ。CHLOE VEVRIER、LINSEY DAWN MCKENZIE、ERICA CAMPBELL……彼女たちPORNOSTARは皆、12世紀にJacobus a Voragineが書いた聖女たちの再現前化だ。私は、PORNOGRAPHYは「祈り」になり得ると考える。ICONOGRAPHYが視覚的な信仰を再編成させる道具だとすればね。私には何故、ICONOGRAPHYが聖なるもので、PORNOGRAPHYが忌むべきものかが判らない。双方を区別するものは何だろうか? むしろ、ICONOGRAPHYはPORNOGRAPHY的な廃墟の上に成立している、とは考えられないか? ICONOGRAPHYがPORNOGRAPHYをパラドキシカルに再生産し続けていると規定できないか? 我々Scientiaグループは、Webの中に新しい「教会」を建築しようと考えている。そのステンドグラスは間違いなくIRRUMATIOの動画になるだろうし、その聖母子像は断言してTITTY FUCKの壮絶な瞬間になるだろう。聖堂の奥に存在するイエスはといえば、これは表皮を削り取られるほどのSMでイきまくっている伝説的なPORNOSTARのポスターになるだろう。
 Northrop Fryeの熱心なマシンガントークに、乱れていた女性たちが呵呵大笑した。そして、彼は遂にピストン運動が極北に達したのか、貝殻のように重なっていた女陰から彼自身のものを抜き取り、女性たちの顔に大量に射精した。射精している時のNorthrop Fryeを見て、口々に女性たちが「可愛い!」といった。彼のお気に入りなのか、シャワーのように彼のミルクを受けた女性が、うっとりした眼差しでこう囁いた。
 ――ああ、私たちの天使!
 強烈な栗の花の香りと、女性たちの発汗による凄まじい空気が混ざり合って憐の首筋までをも圧迫していた。だが、奇妙にも憐は平然としていた。彼はWebで前に見かけたScientiaのコマーシャルを想い出していた。「お金! 情報! 愛は二の次!」、ここにセックスを付け加えただけに過ぎなかった。
 やがて十二人の司祭たちが部屋に入ってきた。憐には彼らが司祭に見えたが、実際はそうであるはずがなかった。Northrop Fryeは裸体のまま白い毛皮のコートを簡単に羽織った。そして、補助スタッフの一人に合図した。すると、スタッフは近付いてきて、憐の首筋にいきなり注射器の針を差し込んだ。憐の神経に雷撃が駆け巡った。彼は急速に力を失い、最早立っていることができなくなってしまった。だが、奇妙なことに視界だけははっきりとしていた。これから一体何を更に見せ付けようというのか、憐は戦慄に襲われた。
 Northrop Fryeたち一同は、全員でエレベーターに向かった。裸体の女性たちは、脱力して水分を失った烏賊のように萎れている憐の四肢を担ぎ上げた。Northrop Fryeが先頭となって、十二人の白い装束を着込んだ司祭たち、そしてカメラマン、スタッフ、女性たちが廊下を無言で歩いた。憐は恐るべき儀式が行われることを既に予感していた。だが、「離せ!」と叫んでも声が声にならなかった。憐の背中を三人で支えている一人の女性の肩にも、Northrop Fryeと同じハート型のdécoupageが見受けられた。切り抜かれ、白くなっていることをまるでスタイルのように愉悦しているような冷酷な印象を憐に与えた。
 エレベーターはビルの最下層へ向かっていた。扉が開くと、そこにはコンクリートの剥き出しになった暗いガレージのようなフロアが広がっていた。その中央に、三本の十字架が並んでいた。左右の十字架では少年が磔刑にされていた。中央には、まだうら若い金髪の女性が、やはり少年たちと同じように素っ裸にされて四肢に釘を打ち込まれていた。彼らは皆、疲弊し尽くした絶望的な顔色を浮かべ、血の気が引いていた。だが、三人ともまだ生きているようだった。
 ――君があの女から伝えられたメッセージを教えない限り、我々はここで儀式を開始することになる。十秒やろう。
 Northrop Fryeは毛皮のコートを脱ぎ捨てながらそういった。だが、憐には何も答える内容など無かったのだ。洋子が描いていた円形の形象は、それがουροβóροςを表現したものであると憐には判った。しかしそれ自体、既にあのディスクでNorthrop Fryeたちが発言していた内容をヒントにして掴み出したものに過ぎなかった。憐にはουροβóροςのことを、彼が既に熟知しているように感じられていた。
 ――蛇さ……。ουροβóρος……洋子さんは僕にそのことを伝えたんだ……。
 憐が必死に声を出してそういうと、Northrop Fryeはきょとんとした顔で彼を見つめた。
 ――Webのネットワークが、やがては円環を描くというあの学説のことか? 
 ――詳しくは判らない……。ただ……僕が知っていることは全て……お前が既に知っていることではないのか? 一体……洋子さんの何を……求めているんだ?
 ――我々が求めているのはWebの新しいデザイン、世界観だ。ουροβóροςというだけでは、何も判らない。それは具体的には何を意味しているんだ?
 憐は泣き顔になりながら首を激しく横に振った。知らないのだ。憐はただ、あのディスクを観て、そして洋子からのメッセージを受け取り、それがおそらくはουροβóροςを意味しているということを掴み取ったに過ぎない。それ以上のことは何も知らないのだ。
 ――僕は判らない……。これ以上は本当に……何も知らないんだ……。
 ――残念だが、儀式を始めさせてもらおう。君はただ全てをその見開かれた瞳で観察していればよろしい。ουροβóροςか、すっかり失念していたな。だが、グノーシスの宇宙論の核心をWebにおいて再現前化させるというメッセージは君から確かに受け取った。Web創世記である現代、その聖書となるべき創造論を描いたシステムを我々は探していた。だが、もしかするとグノーシスに秘密があるのかもしれない。
 やがて司祭たちが円形になって三つの十字架を包囲した。彼らは全員、両手に火を持っていた。司祭たちの周りには、やはり円形になった裸体の女性たちが包囲していた。二つの円の中央に十字架が立ち、その傍でNorthrop Fryeが笑っていた。憐は円の外の壁にぐったりと凭れかかり、必死で「やめろ!」と声を上げていた。だが、カメラマンが彼の口に雑巾を押し込み、更にガムテープでぐるぐる巻きにしてしまった。
 Northrop Fryeはカメラマンに合図を送った。すると、司祭たちがいっせいに火を十字架の下方に積み上げられた薪に放った。火は見る見る間に鉄製の十字架を這い上がった。女性たちが火刑の開始に呼応するかのように、masturbationを始めた。そのおぞましい光景のさ中に立っているNorthrop Fryeも、狂った異端の魔術師のように火炙りを見守りながらmasturbationを始めた。
 左右にいる少年二人は、既に両足を黒焦げにされていた。火は彼らの下半身を舐め尽そうとしていた。憐は火刑の激痛で喘いでいる少年たちが、二人とも焼かれながらNorthrop Fryeの前で屹立させられているのを見た。それは憐にとって、もう泣きたくなるほど禍々しい光景だった。少年たちは、死ぬ前に裸体の女性たちに囲まれ、屹立しながら焼尽されていくのだった。彼らの一人が痙攣しながら、大声で「熱いよっ! お母さんっ! おがぁざんっ!」と絶叫した。その悲鳴を聞いて、多くの女性たちが一気にオルガスムに到達した。フロアは歓喜の歌声で包み込まれた。
 薪が湿っていたのか、なかなか点火しなかったのは中央の女性の方だった。だが、彼女の表皮にもやがて火の魔手が襲った。白くすべすべしていた彼女の健康的な肌は、すっかり凄惨極まりない痛ましい皮下組織を露出させた。憐は、人間の声ではない激痛に苦しむ絶叫を耳にした。それは、単なる「魔女狩り」ではなかった。魔女狩りには、異端と正統派という区別が存在していたからだ。だが、ここで繰り広げられているほとんど意味を喪失した「魔女狩り」は、Snuff filmのように一部のマニアたちを愉悦させるためだけに商業的かつ演技的に行われている披露宴なのだった。
 何が正しく、何が悪いのか、どこからが現実で、どこからが怖ろしい悪夢なのか、最早憐には判らなかった。Northrop Fryeは明らかに、これらをICONOGRAPHYとして生産していた。(カメラマンは満面の笑顔を浮かべながら、額に脂汗を浮かべて熱心に撮影していた。)ここで行われているのは、資本主義社会の頂点に立っている青年が、自らの欲望を満たすために「貨幣」を悪用して行っている魔術だった。それは赦されるべきものではなかった。憐は、もう身体全域を黒炭のように焦がされてしまった三人を見つめていた。(女性は、顔だけ白いまま残され、首から下方全ては丸焦げにされていた。)Northrop Fryeと女性たちはすっかり快楽の絶頂に達して、(うっとりした眼差しで)出来上がった芸術作品に見惚れていた。
 ――憐くん! 君の感想を聞かせたまえ! これらは映像作品として、先進国の地下市場を流通することになるだろう。現代世界の若者たちが心から期待しているのは、愛でも、strip showでも、安っぽいCGで偽装したオリンピックでもない。徹頭徹尾、「REVOLUTION」を求めているはずだ。革命的な衝撃、圧倒的なimpactをWebにおいて放射するためには、何が必要か? 生きた猫をミキサーで半殺しにする映像を観ているような病んだ少年少女たちに、驚愕すべき真の「REVOLUTION」を与えてやるためには、何が必要か! そうだ、それこそが市場原理主義にまで堕した魔女狩りなのだ! 我々は「画像」を崇拝する! 我々は「映像」を謳歌する! そこには名状し難い神的なimpactが潜んでいるからだ! 現代の神とは、常に死を伴うPORNOGRAPHYとして到来する! 我々がしていることから、哲学者たちは学び、それを懸念材料として新しい健全たる社会を模索する。それは悦ばしいことだ。もとより、我々には「衝撃」を与えること以外の取り得などないのだ。
 憐はそれを聞いて、遂に失神した。彼は頭からコンクリートの床に倒れ落ちた。彼の目は涙で濡れていた。フロアには人間の焼いた後の猛烈な異臭が立ち込め、大勢の女性たちの鳥のような笑い声がいつまでも響いていた。

 憐が目覚めたのは、暗い路地裏の片隅だった。(ひんやりとした雨滴が彼の鼻筋を流れた。小雨が降っていたのだった。)憐は見たこともない未知の路地裏の辺りを、上体だけ起こしたまま見回した。鈍い頭痛が走った。心の中に、芯が怖ろしいほど硬化した鉛の果実が挿入されているような虚無感が浮上した。
 傍にダンボールが屋根のように重ねられていた。憐が中をそっと覗くと、老いたる女性が手で「祈り」を示しながら息絶えていた。彼女の頭部はほとんど白死病に冒されていた。憐は涙を流しながら彼女の手を握り締めた。(彼にはまだ、昏倒する直前に彼を支配していた恐怖感が、粘液的な執拗さで残っていた。恐るべき魔術を見てしまったことによる戦慄の残滓だった。)憐はすっかり眠りについた女性の傍から離れられなくなった。自分もここで、身体を夥しい鱗状のdécoupageに感染させて、何もかも喪失して死に絶えたいと強く感じた。
 だが、憐はやがて歩き始めた。路地裏を抜けると、見慣れた街並みであることに気付いた。(おそらく、あれから車でここへ戻され、捨てられたのだ。)憐は洋子を探し始めた。洋子を守らねばならないと直感したのだ。彼は震える足で、ほとんど無人化している静かな雨降りの街路を歩いた。病院はすぐ傍にあった。
 病室へ戻る前に、看護婦が憐の異常な姿に気付いた。憐は手当てを受けたが、どうしてもすぐに病室へ行きたいといい張った。洋子の病室に戻ってくると、まず満開に咲き乱れている薔薇が部屋を覆い尽くしているのが目に入った。憐はあの悪魔のことを急激に想起し、それらの薔薇全てを踏みつけ、集めて取り除いてしまった。洋子は静かに眠っていた。一言も声を出さずに、眠り続けていた。憐は洋子の傍らに倒れ込み、彼女の手を握った。そして、再び意識を失った。
 それから三日間、憐は洋子の傍から一瞬たりとも離れなかった。消灯時刻になって、看護婦たちが憐から洋子を引き離そうとしても、憐はしっかりとしがみついて絶対に彼女から離れようとしなかった。二人は(まるで、オリーブの瑞々しい葉と、その逞しい幹のように)一つだった。憐は洋子に話しかけた。
 ――洋子さん、僕は貴女の傍にいると、いつだって安心します。
 だが、洋子の返事は無かった。
 ――僕がまだ二歳の頃、家族でハイキングへ行ったことがありました。山の傍に大きな池があって、そこで僕らはボート遊びをしていたんです。僕はとてもヤンチャで、陸まで続く桟橋に足が着くと、そこを一目散に駆け出したそうです。母親はまだ幼い妹を抱いていました。それから何が起きたか、きっと洋子さんが起きていれば、笑ってこの話を終わらせたと思います。僕は池に落ちて、水中に体が沈んでしまいました。水面から手だけが出ていて、母がこれに最初に気付いたそうです。母は妹を片手に繋ぎとめながら、手だけになっている僕を水中から掴み上げたんです。そして、危機を察した父が、母の手に自分の両手の力を足した。僕は片方の靴を水底に落としてしまったんですが、なんとかこの命は助けてもらいました……。
 憐は優しい笑顔でそう洋子に静かに語っていた。否、それは洋子の心の奥深くに、直接告白しているような感覚だった。
 ――水の中の光景を、まだ記憶しているんです。一台だけ、大きなマウンテンバイクが沈んでいました。物凄い藻が生していて、黄緑色に水中も濁っていました。僕はその怖ろしい機械の幽霊のようなものを、今でもはっきり思い浮かべることができるんです……。この話は、貴女にいうのが初めてです。僕は一度水死しかけ、母の手によって救われた。もう母はこの世界にいませんが、僕にとって、貴女は何故かすこしだけ、ほんのすこしだけ、母の若い頃の姿と重なるんです……。たぶん、貴女からどんなに酷いことをされても、僕はもう貴女から二度と離れられないと思います……。貴女が目覚めるためには、一体どうすればいいのでしょうか? ουροβóρος……子宮……Web……Page Not Found……僕にはあまりにも謎が多すぎます……。洋子さん、どうかまたあの声を聞かせてください……。僕は貴女のためなら何でもします……。貴女は僕の大切な家族です。
 憐はそこまでいうと、また大粒の涙を浮かべて泣き出した。(憐は三日三晩泣き通しだった。)看護婦がいるにも気付かず、洋子の頬に接吻したり、洋子の手を取って自分の頬にすり寄せたりしていた。憐は何度も瞼を閉じ続けている洋子を抱き締め、そして想いが届かない絶望感に襲われ続けていた。
 憐は打ちひしがれたまま、郊外へ向かった。(川べりにある、誰もいない公園へ)彼はどうすれば洋子を救い出せることができるか、それのみを考えていた。一切の雑念を捨て去り、彼自身が一人の聖人となる必要があった。憐は自分に足りないものを知っていた。それは洋子を愛する気持ちなのだ。洋子を内心では愛していないのだ! 憐はすぐに彼女に依存し、彼女がいなければ生きていけないような弱々しい青年に成り下がる! 真実はそうではないのだ! 憐は一人の男だった。憐は自分に何が足りないか考えていた。それは何だ! それは一体何なのだ! 洗礼を受ければいいのか! 洗礼を受け、そして祈れば、或いは洋子は生き返るのか? ラザロの復活のように、瞼を開くのか! たとえそうなるとしても、洋子だけが助かれば良いというわけではない! 
 考えよ! 考えよ! 
 Page Not Foundの本質とは何か! 考えよ! 
 Hieronymusが、かつて何といっていたのか! 彼は自分は「発掘された存在者」だと断言していた。ずっと人類の歩みを影で見てきたと! 一体こいつは何者だ? 憐はその時、初めてこの「Hieronymus」という同年代の男の存在に驚愕した! 人間か? 「発掘された存在者」……だとすれば何だ? 何故、あんな奇妙なことを語っていたのかのか! 憐は考えていた! 憐は川べりのテトラポットの上で、必死で思索していた。自分ではどうすることもできない! わかっている! 問題が大きすぎるからだ!
 考えよ! 考えよ! 
 考えて、この世界の「空白化」の真相を解き放て!
 その時、憐の傍で鳩が鳴いた。「クルゥクゥー!」と、彼は元気な声で歌った。鳩がそこにいたことに憐は気付いていなかった。今、まさに気付いたのだ! 一体どういうことだ? 何故今気付いたのか? よく見ると、その鳩には「空白化」など全く起きていなかった。鳩は健全そのものだった!
 今度は二匹の鳩が憐の傍に止まった。憐は大声で、「僕はパンくずなんて持っていないんだ! 何も持っていないんだ! 無力極まりない最悪の人間なんだ!」と絶叫した。すると、鳩は驚愕して、飛び去ってしまった。憐は苦悩のどん底で沈んでいた。Page Not Foundとは何かだと? そんなものはただの記号表現に過ぎない! 大切なのは、「空白化」の正体を突き止めることだ! 何故、人間には「空白化」が起きるのか!
 その時、憐に天啓が直撃した。
 ――鳩だ!
 憐は降り注いだ信じ難い命題に心が震えた。「鳩」だったのだ。「鳩は空白化されない」のだ。憐は大悦びで、草叢に駆けて行った。鳩がいる場所へ! 鳩たちが群を成して、この僕の視界に飛び込んでくる楽園へ! (憐は草叢を走り、雨上がりの芝生の道を抜け、広大な廃棄物処理施設の跡地を全速力で駆け抜けた。やがて憐は、円形の広場に踊り出た。)そこはちょうど、バンドグループが歌うために作られたように、石製の繋がった長椅子が円を描き、中央には舞台のスペースが設けられていた。片隅には、大量の空き缶をビニール袋に入れた老人が、緑色の野球帽を被って鳩に餌を与えていた。
 ――お爺さん! 鳩と友達なんですか!
 憐は大声で彼に尋ねた。前方にいた鳩たちが警戒して、翼を広げた。憐はその光景に衝撃を受けた。「翼を広げよ!」という声を聞いたのだ。それは、鳩から到来する声ではなかった。鳩の「始祖」からの声だった。
 ――ぼうず、お前にもパンくずをやるから静かにしな。
 彼は疲れ果てた微笑を浮かべながらそういうと、憐にパンくずの入った袋を一つ渡した。憐はそれを手に取り、中に手を突っ込んで、パンくずを鳩たちに向かって投げた。鳩たちは最初、愕いてやはり翼を広げたが、すぐに投げられたものが食料だと知り、美味しそうにつつき始めた。
 ――お爺さん! 鳩というのは、鳥類ですよね。鳥類と爬虫類の「あいだ」にいる鳥の存在を御存知ですか?
 ――おぉ、知っとるわい。そりゃ「始祖鳥」っていうんだ。滑稽な飛び方をしとったっちゅう話だぞ。
 憐は嬉しくなって指を鳴らした。メロディーだ。メロディーが彼に流れ始めた。始祖鳥だ。始祖鳥なのだ。鳩は空白化に感染しない。鳩は、Page Not Foundを御存知ではない。鳩は、自然の中で生きている。鳩にとってはビルは巨大な石の壁と同じだろう。洋子の怖ろしい眠りを醒まさせるためには、鳩に耳を傾けねばならない。
 「Page Not Foundには何か始祖鳥的な側面があるのではないか! あるHPの化石化した画面として! (ケーキ屋に行くとせよ。そのケーキ屋が大好きになったので、HPでチェックしてみる。もしもそのケーキ屋に何か不祥事が起きれば、HPは消滅するだろう! だが、一度でも世界に存在したものが、果たして完全に消滅するだろうか?) 始祖鳥は化石化している! それは絶対的に地上に確かに生きていたのだ! 今、まさに憐が見ているこの元気な鳩たちと同じように、彼らは生き、呼吸し、餌を漁り、より高次の進化したNeural networkのシステムへ向かって、環境世界へと適応しつつ、内部では構造変化を繰り返していた! 始祖鳥は実在していた! 始祖鳥は今でも存在するのではないか? この鳩のように! 鳩と始祖鳥は生物学的に全く違うだろう! 何が違うのか? 一体根本的に何が違うのか? 生物学的にではなく、もっと計り知れないほど大きな観察者にとって、双方に果たして「差異」など存在するのか? 始祖鳥は都市を生きているのではないか! 始祖鳥と人間は何が違うのか? それは知り得ないのだ。始祖鳥の翼の音、それはこの鳩にも痕跡化して現前しているのか? だとすれば、何が「空白」だ! 何が「découpage」だ! 
 鳩には「起源」が存在する! 観察者は、それを御存知なのだ。観察者は、憐のプライベートなど関与せずに、徹底的に彼の全てを御存知なのだ。憐は観察者の視座が、この鳩にも注がれているのを今、まさに感じた。彼は戦慄した。同じように、誰かが「目」を持って背後で見ている。彼は――否、彼女は? ――なんという広大で美しい銀河を抱えてこの一匹の鳩を観察していることであろうか!
 憐は震えていた。憐は鳩に御辞儀した。(彼は教会の信徒のように頭を下げたのではなく、武士のように御辞儀したのだった! 憐は、かつて自分が武士であったような気がした。「起源」だ。) 憐は、「はてどうしたものか!」と思った。それは痛感だった。このことを、どうやって洋子に伝えればいいのか? 病室から彼女を連れ去り、大自然の中で、葉脈に溜まった美しい水滴で、彼女の唇を拭ってやれば、それでディズニー映画のように! すっかり「魔法」は解けるのか? そんな単純なものではないはずだ! だが、憐はそれしか考えられなかった! 田舎での生活! 田舎での農耕! 慎ましい、祈りのような、そうだあの《晩鐘》のような暮らしだ! 
 二十一世紀はWebの時代ではない! 
 二十一世紀は地球の、その傷を癒す時代ではないのか! 
 pcを捨てよ! 
 pcを燃やすのだ! 
 それでは生きていけないだと? だが残念! 
 大自然には、Webを牽引する大企業たちが羨んでも手が出せないほどに、美しく細分化され、秩序付けられたNeural networkが存在する! 自然こそがWebの最後の姿なのだ! 自然にこそ、人間の神経細胞の交通網と完全なシンメトリーを描く、見事なNeural networkが存在する! 森林で暮らしている原始部族民たちには、皆キーボードを叩きながら憂鬱な面持ちで電子画面を眺めている現代人たちよりも、はるかに豊かなNeural networkが存在している! 彼らは、その外的なシステムを、自分の身体の内部システムと一体化させてすらいる! 憐はそういう生活をすべきだと確信した! 
 農耕文明に帰還せよ! 
 道路も、図書館も、テトラポットも、自動販売機も、教会も、全て自然から人間が取り出したものを加工した産物なのだ! Neural networkこそが真の教会なのだ。ピラミッドではない! 法皇を頂点とするピラミッドではなく、複雑に絡み合っているが、全て絶えず生成していくルールによって成長するNeural networkにこそ、真の教会があるのだ! それはWebの中にあるのではない! 断じてそうではないのだ! 
 機械に幽霊は宿らない! 
 機械は神にはなりえない! 
 憐は森へ帰るだけなのだ! 憐は「猿」になる! 憐は森に身を浸し、都会人からは大笑いされるような寝室で、洋子の瞼を必ず開かせてみせる! そう信じた。それは彼の若き信念となった。かつて起きたことは、新しい形式で再び繰り返されるのだ。それは美しい環なのだ。禍々しいουροβóροςの「蛇」ではなく、メロディーを持った「始祖鳥」の翼の音だったのだ!
 憐は腕を握り締め、緑色の野球帽を被った親切な老人――(否! 彼こそが観察者だったのではないか?)――に御礼をいった。彼は笑顔で野球帽の上から頭を掻いていた。憐は走り出した。洋子の病室へ向かい、彼女と二人で森林へ旅立つのだ!
 オリーブの木は、幹と葉でそれぞれ意志を通じ合わせているものである。憐が病室の扉を開けた時、信じられない光景が飛び込んできたのだった。なんということであろうか。洋子が上体だけ起こして、掌を裏返したり、爪先を眺めたりしているではないか! 彼女の瞳が開いているではないか!
 ――洋子さん?
 ――あっ、憐? なんかさー、あたしかなり長い間冬眠してたみたいなんだけど。
 憐は涙が溢れ、洋子に駆け寄って抱きついた。
 ――わっ! どうしたんだ、こいつは。めちゃくちゃ汗臭いなあ!
 憐は鼻水と涙を流しながら洋子の顔を見上げた。洋子だった。浅野洋子――憐が生まれて初めて出会った、この世界で最も大切な女性。洋子の瞳は、憐から貰い涙をしたのか、少し潤み始めていた。
 ――ほんとに洋子さんですよね! ほんとに!
 ――はじめまして、洋子です。
 洋子はそういうと、憐を抱き締めた。憐はもう何も言葉などいらなかった。
 ――憐、あのさ。私ね、夢見てたんだ。
 ――夢? どんな夢ですか? 薔薇のお風呂に入ってる?
 ――ううん、違うったら。なんかさ、森の中を飛んでる夢だったんだ。すっごい嬉しくってさ、ずっーと楽しい眠りだったんだよ? でもさ、私ったら飛ぶのがなんか不器用でね、よく周りの樹木の傍で休むのよね。それでね! ずっーとまた森の奥目指して頑張って飛んでたんだ! そしたらさ、なんかめちゃくちゃハンサムの鳥がいてさ、そいつと目が合ったのよね! 私さ、その時、胸がキュウン! ってときめいたんだけど、なんか同時に、私の外見もこいつと同じかも? とか思ったのよね。
 憐は洋子のその話を聞いて、ひっくり返るほど仰天した。洋子は「始祖鳥」の夢を見ていた。否、そうではない。むしろ、洋子は「始祖鳥になっていた」のだ。憐に残された最後の不可思議な命題は、そのハンサムな鳥が誰なのかということだった。それだけだった。
 ――洋子さん! その鳥との関係はどうなったんですか? 夢の続きを聞かせてください!
 憐がそういうと、洋子は無垢な少女のように頬を赤らめた。窓の外から、夕陽が射していた。傍にあった花弁の一枚が、夕陽の中で穏やかに輝いていた。

 W 「city rabbit」

 都市は静かな夕暮れの雨に覆われていた。地下鉄のプラットホームは閑散としていたが、それでもやはり幾人かの人間の姿は確認された。雨に濡れたレインコートを羽織って、くたびれた表情で車両に乗り込む男性たちの顔は皆、廃墟の中の欠損した彫像のように暗かった。たとえ顔にdécoupageを生起させていたとしても、人間は都市で生きている限り、働かなければならなかった。
 線路は絶え間なく、電車を交通させていた。人間たちは確実に魂を疲弊させていたが、機械たちはむしろそれを甘味として吸い上げるかのように、活発に作動し続けていた。駅周辺は本来、夜になれば若者たちで賑わうものだが、大半の都市では、「エグザミナ(検察員)」と呼ばれる黒服の役員たちが監視を続けているのだった。空白化のそれぞれの感染レヴェルに応じて、都市は「教区」に区画されていた。マンションやアパートメントの隣人が新たに空白化に感染すると、住民は必ず「サーチャー(調査員)」に連絡することを義務付けられていた。一人ひとりが、いわばこの謎めいた二十一世紀の新しいペストのサンプルだった。奇抜なファッションに身を包んだ数人の若者が路上でダンスしていても、彼らが実は「ウォッチマン(監視人)」と呼ばれる役員であることもあった。
 ビジネス街では、découpageが拡大する以前のように、やはり多くの背広を着た男性たちが歩いていた。彼らは皆、一様に顔を喪失していた。顔が真っ白に「消しゴム」で削除されたかのようなビジネスマンたちが、群を成して街路を悠々と歩いている姿は、この上なく不気味だが、どこか微笑を誘う光景でもあった。自動販売機は三日月型にdécoupageされていた。24時間営業の、都会のシンボルでもあるconvenience storeでは、店内の一区画が削除され、「立ち入り禁止」を意味する紐が張られていた。このように建造物の内部の空間でdécoupageが発生した場合、通例としては、看板に「4 0 4」とだけ記入すれば、後日エグザミナが調査しに来るのだった。エグザミナ、サーチャー、ウォッチマンの三者は、世界的にみれば政府が特設した機関から諸都市へ派遣されることが多かった。アメリカ、日本、フランスなどでは、Scientia社のロゴマークを刺繍した役員たちが存在し、国家との癒着が囁かれていた。
 学校は、少しずつ開かれ始めていた。保護者たちが、閉鎖が長引くことに対して多くの抗議文を寄せたのだ。校門は開かれたが、教室はほとんど無人だった。電子的な環境世界を避けて、田舎へ「疎開」する学生たちも集団で存在した。携帯電話が都市文明の基礎ツールである現在、découpageに少しでも感染していない学生はごく稀であった。ほとんど夏休みの延長ともいうべき、空席が目立つ教室には、小指の先や耳朶に小円型のdécoupageを感染させた学生たちが、ぼんやりと疲れ果てた眼差しで澄み渡った青空を眺めていた。
 授業は開始されなかった。教師がそもそも、教壇に立てるだけ存在していなかったのだ。彼らは「Pest House」で、いつ終わるとも知れぬ治療を受けているか、或いはとっくの昔に森林での生活を始めていた。不在の教師に代わって、生徒たちが少人数の授業の中で、先生役を務め始めた。地球温暖化に関するメッセージが勢いを増すのと相俟って、都市に森を一体化させる計画が多くの先進国で提出され始めていた。都市に残るか、森へ帰るか、その安直なディコトミー的思考が、主として旧メディアの流すキャッチコピーによって流行した。
 空白化という現象を、ある日本の哲学者が「死」の様態として分析、考究した書を著し、各国語に翻訳されて現代思想界を揺るがすほどの衝撃を与えた。その書物のタイトルは、前代未聞であった。バケットパンのように哲学書が売れたことで、知識人たちは当初怪訝にしていたが、『    』という意味不明な表題に否応なく注目せざるをえなかったのだ。『    』は、価格が404円であり、Scientia社が刊行した、最初の本格的な思考ドキュメントであった。あらゆる書物には――それが聖書であれ――必ずISBNコードが存在している。だが、『    』のコードは、「4―404―40404―404」という数字の配列で構成されていた。すなわち、この本のタイトルそれ自体が、découpageされたものであることを示唆しているのである。
 その本の最初のページには、砂時計の絵が描かれている。最後のページでは、砂時計がひっくり返されている。最初のページと最後のページを結ぶ、中間の全てのページ、すなわち総数404枚の紙は、全てが「白紙」である。白紙であるにも関わらず、哲学者は、「PROLEGOMENA」において、「ここには白い砂上に、白い砂粒で、Publius Vergilius Maroの『Georgica』のラテン語全文が、間隔化されて引用されている」などと称している。この謎めいた命題は、神学的、メディア論的、及び哲学的な見地から十二分に研究される余地があるとして、Web上でも既に専門的な研究サイトが立ち上げられている。
『    』がシェイクスピア書店や、紀伊国屋といった大型書店でも山積みで並び始めた頃であったろうか、Northrop Fryeの死が世界中を駆け巡った。この道化的なCEOは、自分自身が火炙りになっている映像を世界中に向けて発信した。Scientia社は、すぐに新しいCEOを選抜した。Northrop Fryeが実際に死んだのか、そうではないのかといった議論も生起したが、それらには意味が無かった。(彼が死んだ翌日に、Scientia社の検索画面のトップページに、火炙りにされているHUMPTY DUMPTYの画像が掲載され、多くのユーザーの「大笑い」を誘ったといわれている。)
 
 憐は雨に濡れたアスファルトの上を歩いていた。彼は今、一人だった。誰もいない、広大な河川公園の草叢が広がっていた。そこは綺麗に芝生が刈り込まれ、遊歩道では伸びた植物がかからないように整備されていた。都会の中に、人間の手によって大地を弄繰り回した産物が堂々と横たわっていた。憐には、ここが最も自然にとって呪わしい場所であるように思われた。(密林に、そっくり正方形や、三角形に区画付けられた芝生など存在するだろうか?) 憐は、こうした都会の中の生きた植物さえもが、実は動物園の暗い檻に幽閉されたコアラの家族のように、静かに涙を流しているように感じた。
 憐は街路へ向かった。街路には、沢山の樹木が等間隔に整列されていた。(それは、「ペイント」において、等間隔に緑色の点を打つ単純な作業を感じさせた。)樹木の下の土は、秘密のヴェールに覆われていた。土が常に隠されていること――アスファルトの上にのみ空白化が進行していること――それらは同じことを暗示しているようにも感じられた。
 図書館の前で、水浴びをしている女性がいた。水が絶えず溢れ出ている噴水の中に、すっかり足を浸し、傘もささずに雨と戯れていた。憐は彼女をじっと見つめていた。女性は噴水の中を、(自分だけの静かな舞台としているのか、それとも彼女の意識には、噴水の周囲に大勢の観客が存在するのか、)ゆっくりと踊っていた。憐の存在には気付いていなかった。よく見ると、彼女の両目は刳り貫かれたように真っ白だった。眼球だけが白く塗りつぶされ、découpageされていた。踊っているのは、髪の毛だった。髪は、上品な顔立ちをした白色の子犬が、奇妙にもゆっくりと水滴を振り落とすように揺れ動いていた。
 憐は彼女に釘付けになっていた。その踊りをずっと目にしていると、今夜にでも自分は世界から抹消されてしまうような危険を感じた。同時に、その危険はそれと同じほどの官能をも孕んでいた。彼女の足が中空に上がり、軽快に水面の上に振り落とされた。跳ね上がった水滴は、憐にはslow motionに感じられるほど、一粒一粒が彼女の娘たちのようだった。(彼女は、都市の孤独を踊りで具現化しているのかもしれなかった。)その時憐はふと感じた。都市は、常に既に「廃墟」なのではないか? 彼女が都市を生きているのは、彼女自身が、もうとっくの昔に墓碑を刻まれた「死者」だったからではないか? 空白化が人間を襲い、目に見えて虚無が姿を現す以前にも、既に人間は手遅れなほどに、生きる意味を不気味に奪取され続けていたのではないか? 
 憐は洋子がいるマンションの一室へ向かった。エレベーターに乗るのが怖ろしくなり、階段で上がることにした。エレベーターの中にある鏡を見た時、そこにもしも誰も映っていなければ――(そんなほとんど神話的ともいえる)不安が彼を襲ったのだ。晴天の日、まだ寝巻き姿の女性が歩いている商店街や、交差点にあるカフェの前をいつものように通り過ぎていた頃、既に何か「廃墟」的な世界が潜在していたのではないだろうか? 「おはよう!」という、いつも耳にしていたあの明るい女性たちの声の中に、既にその声を完全に砂漠化させてしまうような因子が、潜んでいたのではないだろうか? 
 憐は廊下を歩いていた。十二階からは、雨雲に沈んだ都市の背中が見渡せた。明らかに都市は鬱屈していた。都市は急速に老衰しているか、それとも新生児の到来を希求しているか、そのどちらかであった。憐にはその新生児として思い描けるビジョンが、森と都市との共生としてしかイメージできなかった。森と都市が婚姻し、その街路にはNeural networkが張り巡らされる。地下で樹木の根と根が握手するように、Webの中でもリンクがリンクを重ね、巨大な「子宮」を描き始める。森、都市、Webは三位一体となってubiquitousが生じ、交通を開始する。「森を歩く」ということが、「街路を歩く」と同一になり、同じ次元で、「Webの海を泳ぐ」ことが成立する――そういった境界線のない生活世界を、憐は新生児として思い描いた。
 ――ただいま。
 憐は扉を開けてそういった。洋子は薄暗いリビングルームの奥で、静かに電子画面を覗いていた。洋子が立ち上がり、憐に少し不安げな面持ちで「おかえり」と返した。
 ――ねえ憐? 私のいったこと理解してくれた?
 ――「君と二人だけで森では暮らせません」でしょ? もう何度も聞きましたよ。
 洋子は憐の不貞腐れた表情を見て、がっかりした溜息を吐いた。憐は洋子が目覚めてから、都市を捨てて森へ帰るべきだといい張ってきたのだった。洋子は年下のこの青年がいっている大切なメッセージを理解していた。だが、彼女は断固としてそれは不可能だと、幼過ぎる未熟な憐に何度も説得してきたのだった。説得は最初、あっけらかんとした雰囲気だった。けれど、憐が必死で「森で小鳥と暮らしたい!」と主張し続けるので、洋子は遂に彼を木端微塵に批判したのだった。
 ――そんなに猿になりたいなら、一人で森へ行けば?
 洋子のその冷たい一蹴に、しかし憐は立ち向かった。
 ――洋子さんは何も気付いていないんだ。空白化の本質が何か、洋子さん自身が一番知っているはずです。空白化は、森では起きません。アスファルトの上で、つまり都市でのみ起きるんです。これは都市が作り出した電子的なペストだったんです。だから、僕は貴女を連れて一刻も早く、こんなマンションの一室からは出たいんです!
 洋子はワイングラスをテーブルに置いて、暗闇の中から憐の立っているキッチンまでずかずかと詰め寄った。(洋子はいつも通りではあるが、アンダードレス姿だった。)
 ――このクソ馬鹿レンめが。何もわかっちゃいないのはアンタの方だ。都会を捨てて、それでどうやって生きていくっていうんだ? 畑はどうする? どうやって用意する? 小屋でも作るのか? 何でもmoneyがかかるのよ! money! money! mooooooooooooneyだ! それとも、アンタはマジで本気でクレイジーな野生生活でも楽しみたいってか? それこそが現代都市生活者のE・G・O・I・S・M! OK? ん? 何だその忌々しい顔はっ! 
 ――でも、空白化の特効薬は、大自然の息吹にしかありません! それは洋子さんも認めてるはずです! 昔は猿だったんだ。戻るのもきっと簡単だ!
 洋子は激昂して憐の左頬を猛烈にビンタした。(セックス以外で、これほど攻撃的になったのは洋子も初めてだった。)
 ――アンタはやっぱガキね。あたしがいなけりゃ、それこそScientiaに魂まで染められてるわよ。いい? そのヒヨコ並のオツムでこの神学者の御話をよぉおく聴きなさい? 人間が農業を始めたのは、大地の女神が彼らに「犂」を与えたから! キリスト教以前には、随分沢山の自然の神さまがいてね! 農耕の神さまは人間が「技術」で大地を開拓することを「よし」とされたの! そうやって人間が家族を増やして、笑顔になることは神さまたちにとっても笑顔をもたらすことだったの! OK? これ以上天才的なVergilius的説得がっ! 他にっ! どこにっ! あるってっ! いうのよっ! この大バカ者!
 憐はおかしくて笑い始めた。二人は互いに肩を組み合い、ぜーぜーと吐息を吐きながら睨み合っていた。
 ――じゃあ洋子さんはこれからもアスファルトの上で生きていくんですね! 空白化に二度目に感染したら、前よりもずっと、ずっーと悲惨だと思いますよ!
 ――もちろん! 私はこれからもアスファルトの上でWebに常時接続するわ! そうやってしか、今後の世界は生きられないの! 現代人にWebを与えたのは、人間じゃないの! Δημήτηρよ! 大地の女神が、今はアスファルトの女神にメイクアップしているわけ! 次にこの私にまだ反論しようものなら、アンタを本気で蹴り倒すから覚悟してね?
 洋子にそう完膚なきまでに徹底的に駁論され、憐はしょんぼりした。確かに、憐が川べりで「鳩」に導かれながら手繰り寄せた考えは、極端だった。森と共に暮らす生き方も確かにあるが、実際にその森を支配しているのは都市文明なのだ。憐は、やはり都市で生きていかざるをえないと思い始めていた。
 ――で、何を調べてるんですか? この街は、まだ空白化に支配されています。あちこちでdécoupageが起きていますし……。
 憐が一息ついてそう尋ねると、洋子も深呼吸してどこかやさしげな微笑を浮かべた。
 ――鳥のEveよ。Archaeopteryx lithographica 、始祖鳥ね。私が目覚める前に、始祖鳥の夢を見ていたってことがやっぱり自分でも気になってね。憐が同じようなことを偶然意識していたってのも気がかりだしさ。
 リビングルームの中央で光っている電子画面には、Archaeopteryx lithographica の最も美しいベルリン標本の化石が表示されていた。全ての器官を化石化しただけでなく、画素にまで変換した二十一世紀の記号的始祖鳥は、無言で憐と洋子を無邪気に見つめていた。洋子は主としてジュラ紀後期から白亜紀後期に生息していた、鳥類の特徴を既に示している生物たちを調査しているようだった。つい先刻まで、ドイツの古い学友と画面上で対話していたのか、古生物学者らしい女性の映像が、一時停止されてArchaeopteryx lithographica の隣に表示されてもいた。
 ――洋子さん? 前にニームのバス停の傍で、Page Not Foundと「化石」の命題について話されておりましたよね? もしかすると、Page Not Foundが秘めていた問題は、「化石」とか「痕跡」についての謎で、それは究極的にはArchaeopteryx lithographica について探求することで解き明かされるものなのかもしれません。
 憐がそう冷静な眼差しで語ったので、洋子が笑顔で指を鳴らした。
 ――ビンゴ! まさにそう。今、エルフリーデとリアルタイムでダベってたんだけどさ、Archaeopteryx lithographica は恐竜と鳥類の「あいだ」を埋める種として、カテゴライズするのに便利なんだってさ。こいつから進化したのかはまだ解明し切れてないらしいんだけど、白亜紀後期に登場する水中型のヘスペロルニスとか、砂漠型のモノニクスって種類は、Archaeopteryx lithographica を「原型」にしてデザインされたって説が有力みたい。要するにさ、Archaeopteryx lithographica を「原型」と考えたら、白亜紀に登場した多種多様な現生鳥類のプロトタイプはみんな「変奏」なのよね。で、一番面白いのが、Archaeopteryx lithographica 自体も、実はディノニクスから進化してるって事実。
 憐は洋子がいつの間にか、単独で調査を進めていたことに愕いた。そして、同時に強い信頼を寄せたのだった。
 ――だとすれば、「始祖鳥」という名前の「始祖」は、あくまで鳥類にとって、という意味になるってことですよね?
 ――うん。ほとんど恐竜はデリートされたけど、一部の小型恐竜は樹木から樹木へ飛び移ったり、陸上を猛スピードで疾駆しながらジャンプしたりする一連の運動を反復するうちに、いつの間にか「翼」を持つ骨格をデザインし始めたんだって。都市で生きてる色んな鳥たちのグレミウム・マートリス(偉大なる母)は、Archaeopteryx lithographica ってわけ。
 憐は画面上で静かに「死」を語り続けている彼女を見ていて、不意に街路で見かけたあの踊り子を想起した。おそらく、彼女はもうあの場所にはいないだろう。「もういない」ということ――彼女の「痕跡」は確実に存在して現在に到っているということ――そこに空白化の闇に光を放つ突破口が秘められているような予感がした。
 憐は洋子の傍からそっと離れた。ベランダに出て、空を眺めた。(いつの間にか小雨は止み、柑橘系の甘酸っぱい香りを感じさせる夕空が都市を静かに包み込んでいた。)憐は鞄からゆっくり小箱を取り出した。
 憐は小箱を抱えて洋子の傍に座った。洋子の横顔を見た。(左頬に黒子が三つあり、線で繋ぐとおそらく極端な鋭角を持つ三角形になった。)洋子の唇は薄く、瞳は「私にはまだまだ探し出さねばならないことがある」という意志を感じさせた。憐はその瞳の力に、性別を越えた人間的な美しさを感じた。
 ――洋子さん、これプレゼントです。
 憐がそういうと、洋子の顔はへのへのもへ字になった。
 ――おまんじゅう?
 ――違います! 大切なものです。僕とお揃いです。
 洋子はまだクレパスで描かれた幼稚園の先生のような単純な顔をしていた。彼女は渡された小箱を開けた。すると、中に銀製のミッキーマウスの頭部をデザインしたペンダントが入っていた。
 ――Künzliです。「Broken Mikey Mouce」、洋子さんは下半分、僕は上半分です。
 洋子はその言葉を聞いて耳を疑った。
 ――Künzliって、まさかあのOtto Künzli? 憐……このお金どうしたんだよ……。
 ――僕、Scientiaで働いているんです。といっても、僕の年齢でできる仕事といえば、ウォッチマンくらいですが。それでも、かなりの資金は溜まります。
 憐は洋子の背後に回り、彼女の首筋を覗かせた。やさしい仕草で、ゆっくりとミッキーの頭部の下半分をデザインしたペンダントを回した。洋子の胸の上で、切断されたMikey の頭部が垂れた。
 憐は自分の胸に、Mikeyの頭部の上半分を垂らした。それは、一つであったある事物が、パズルのピースのように破砕され、フラグメントとしてデザインされたものだった。憐は、破砕されたものは、いずれ必ず癒合する、という希望の意志をこめて、これをあえて選んだのだった。この奇抜なアイディアに基づいて作られたジュエリーアーティストの作品に、憐は自分たちの存在の核心を感じていたのだった。
 ――憐? もっと私たちが年取ったらさ、いっしょに草原の上で暮らそうよ。それまでは、アスファルトの上でまだまだ探求すべきことがあるわ。

 翌日、憐の携帯電話にScientiaから連絡が入った。ある場所で発生している空白化の進行状況を調査してもらいたい、という内容だった。本来、その仕事はエグザミナが担当するが、感染があまりにも拡大しているために人員が圧倒的に不足しているので、学生であるはずのウォッチマンたちにも任務を依頼しているという。電話でそう話していたのはScientiaの管理部門の女性だった。憐は機械的な調子で依頼を承諾した。女性の声もやはり機械的だったが、より正確にいえばそれはもうプログラムされた声であり、完全に事務的に画一化されていた。
 (Scientiaの天気予報では、これからも雨の日が続くという。)憐が地下鉄で現地へ向かっている期間、車内に「再開された学校」についてのニュースが短く流れた。憐の住んでいる地区では三日後、学校が再開されるという。(だが、たとえ校門が開かれても、教室にほとんど生徒が存在しないであろうことは容易に予想できた。)
 (憐は静かに傘をさして歩いていた。よく見れば、取っ手のところにも、「Scietia」というロゴマークがある。白を基調に企業デザインしていたはずだったが、その傘は漆黒だった。日常で使う小道具にも、彼らのロゴマークは感染を始めていた。)
 やがて現地に到着した。そこは、découpageが建造物内に異常なほど増殖しているので、ほんの三日前に封鎖されたホテルだった。入り口の回転扉の前に、漆黒の傘をさしている少女が立っていた。彼女は憐が入り口でScientiaのスタッフに連絡しようとしているのを見ると、素早く駆け寄ってきた。
 ――はじめまして。Scientiaの廣松です。今日の仕事はツーマンセルで作業するみたいなんですが……あれ? 指示はまだ受けてませんでした?
 彼女は気さくな笑顔を浮かべてそういった。彼女は憐と同じくらいの年齢だった。憐も廣松と同じように自己紹介したが、その時、「Scientiaの川崎です」と同じように返したことに、自分自身で違和感を覚えた。(憐は、自分が社会的には「Scientia社の人間」になることに今更ながら気付いた。)
 ――découpageの発生具合は?
 憐は(まるで小雨に魂を浸透させるかのように、)低い声色でそう尋ねた。
 ――蜂の巣状と聞きましたが? 外観ではそれほど目立ちませんが、中身は(ちょうど臓器売買で全ての器官を売ってしまった少年みたいに、)カラッポらしいです。
 彼女は微笑しながらそう語った。そして、ポケットから入り口を開ける鍵を取り出した。憐は彼女が扉を開けている間、雨の音に耳を澄ましながら背中を見つめていた。彼女の肌のどこにも、découpageは存在していなかった。
 二人は静かにホテルの内部に入った。ロビーの室内装飾は白と薄桃色で統一されていた。壁は、おそらくオールド・ローズの「Fantin-Latour」をデザインした、膨らんだ乳房のような薔薇の花弁で華麗に飾られていた。だが、既にカーペットや壁、天井で讃美歌を奏でているようなシャンデリアにも、découpageが発生していた。否、それはdécoupageではなかった。空白化ではない、より奇妙で不可思議な病理を感じさせる現象が発生していたのだ。
 受付の棚に飾られている裸体の少女のマリオネットが憐を見つめながら微笑していた。憐は彼女の顔を見て驚愕した。明らかに、この人形の顔にも以前にはdécoupageが生起していたはずだが、そこでは奇妙に歪曲化しているのだ。目、鼻、口、額、顎などが、変形していた。変形している、というよりも、クシャクシャに折り曲げられているような状態だった。それは人工的に作り出せないほど見事な「折り目」の構造を持っていた。(それは端的に「膣内」の構造に類似していた。同時に、薔薇の花弁の、あの折り畳まれた複雑な小宇宙をも感じさせた。)
 憐の胸に異様な緊張感が走った。それを察したのか、廣松が憐の見つめている人形の顔を遠目から眺めた。
 ――それ、「プリュール(折り目)」っていうらしいですよ。「découpage」が空白化の一次汚染の形式であるとすれば、プリュールはその次のプロセスです。
 彼女はそういうと、螺旋階段の上へ踊るように駆けていった。憐は都市で、このマリオネットに今起きていることが、既にあらゆる有機体の次元で発生しているように感じた。
 憐はふと思った。もしも、この「プリュール」にまで達している身体を、「テクスト」として考えればどうなるだろうか? これまでは、「私は学校へ行く」という、意味が明確に指示された状態が長く続いていた。だが、何を契機にしてか、それが空白という不可思議なペストによって抹消され始めたのだった。「私は学校へ行く」が、「 は 校へ く」にまで、切り抜かれた。だが、あらゆるものが真っ白な空白の世界へと還元されていくのではなく、より不気味な出来事が起き始めているようだった。「 は 校へ く」という文字たちは、互いに詰め寄って細分化されたテクストの「襞」を形成し、「は校へく」という異常な顔を形成し始めたのだった。
 テクストと顔は同じものだった。全ては、ワードプロセッサで演じることが可能な操作によって産み出されていた。穴の空いたテクストが、埋め合わされて意味不明な物語を構成するように、穴の空いた身体は、互いに詰め寄って、膣内状の「襞」、「折れ目」を形成していた。それは傘を開いている状態が、正常な顔だとすれば、まさに折り畳まれた顔だった。テクストと顔は、共に“umbrella”の病を負っていたのだ。
 その時、憐はまさしく、誰かが何らかの書物を、今まさしく書いている、という気配を感じた。それは、これまでリンゴを野原で眺めていた自分の背後に、木陰からリンゴと自分自身を眺める第二の観察者が存在していたことを知ったような、身体だけが「一歩前に闊歩する」得体の知れない感覚であった。
 ――ここがLOVE HOTELだって知ってました?
 最初の部屋の扉を開けた時、廣松がそう擦れたノイズ的な声色でいった。(確かに、ホテルの内部のデザインは、女性を意識したmeruhenticなLOVE HOTEL的な装飾で完全に統一されていた。)寝室には、純白の貝殻の形にデザインされた天蓋つきのダブルベッドが、まるでこれからセックスに耽る者たちを内包するように広がっていた。ベッドの上には、朱色のハート型をした枕が添い寝していた。だが、枕には他の室内の諸器官と同じく、やはりそこかしこにプリュールが発生していた。プリュールが発生しているところは、(ちょうどPaul Cézanneのほとんど幾何学的に再構成されたような風景と同じく、)折り目によって二等辺三角形や、正方形の形になっていた。(おそらく最初にここで寝た男女の身体にプリュールが発生し、それが生命を持たないこうした幾つものマテリアの表皮にも感染したのだろう。)
 廣松は、Scientiaと記されたビニールに、丁寧にサンプルをピンセットで収集し始めていた。憐も、壁のとりわけプリュールが顕著に見られる部分を削り取り、採集した。それは植物の標本を、廃墟化してしまった果樹園で集める作業を二人に想起させた。
 バスルームから、水が溢れ出ている音が流れていた。憐が浴室の扉を開けると、白いハート型の浴槽から絶えず水が流れ落ちていた。トルコ製の如雨露のように優美な蛇口から多量の湯がバスタブに注がれていたが、水の流れが結晶化したような構造を見せていた。水は下に向かってまっすぐに落下しているのではなく、明らかに中空で見えざる手によって細工され、やはり水自身による特異な「襞」の構造を見せていた。それは液体としての水が、氷結化した外観を維持しつつも絶え間なくなめらかに流れ出ている、極めて魔術的な光景であった。
 バスタブの内面からは、ネオンの光が放たれていた。(それはプリュールが生起する以前は、湯船の中での甘美なセックスのために仕掛けられた光の魔術に過ぎなかった。)だが、その七色に変化する光の仕掛けは、明らかに蛇口から流出している水の折り畳まれ続ける光景に捧げられていた。
 それからも二人は、ホテル内で感染した素材を収集する作業を無言で続けていた。憐がふと廊下に出た時、二つ奥の部屋の扉から小さなウサギの顔が覗いていた。憐は「あっ!」と声をあげた。素早く駆け寄り、扉の奥を見回したが、ウサギは消えてしまっていた。それはウサギのマスコットのような着ぐるみの顔だった。(ちょうど、MICKEY MOUSEとはまた別に、ウサギの少し孤独なキャラクターでもいたような印象だった。)両目は児童でも愛着が抱けるように大きく、口は常に笑っていた。
 廣松が、首を傾げている憐の傍にやって来た。
 ――私たち以外には、このホテルには誰もいませんよ。
 ――ウサギがいたんだ。こっちを見て笑っていた。
 ――ウサギ? といって、廣松は何か思い当たる節でもあるかのように、曰くありげな視線で左方の天井を眺めた。もしかしてcity rabbitではないでしょうかね?
 ――city rabbit……?
 ――Web上で流れてる都市伝説ですよ。預言者の力を持っていて、空白化を治癒することができるそうです。彼がdécoupageやプリュールが発生しているところに手をかざすと、元通りに治るそうですよ。まあ、あくまで都市伝説で、実際に見たという人の証言も確証は持てないわけですが。
 憐は預言者という言葉を耳にして、背中に緊張感が走った。憐が見たのは、ただの遊園地にいる着ぐるみのウサギに過ぎなかった。だが、そのウサギは確かに憐の視線に気付いて、首を引っ込めるという動作をしたのであり、中に誰かが入っているとしか考えられなかった。
 ――確かにいたんだ……。幻じゃなくて、確実に「そこに実在している」っていうリアリティーがあったんだ。
 憐が未だどこか不安げな面持ちでそういうと、廣松は面白そうに微笑んだ。
 ――(そういうのを幻っていうんじゃなかったですか?) あっ、そうだ。三日後に学校が開放されるって情報を聞いたんですが、貴方はこの辺りの地区ですか?
 ――ええ、そうです。
 ――だったら同じ学校かもしれませんね。もしクラスメイトになったら、よろしく御願いします。(もっとも、通う学生なんて、ほんのわずかでしょうけれど……。)

 世界で最初にcity rabbitを発見したのは、おそらく少女だった。
 彼は初め、静かな夕刻の小雨に包まれた大都市の街路に姿を現した。学校から住宅街へ向かう帰りのバスに、小さな少女が乗っていた。彼女はその日、授業でクレパスの果樹園を描いたばかりだった。植物に対する感受性が、とりわけ強くなっていた。少女は傘をさしながら、もう目の前に見えている自分の家にまでやって来る。ふと車道の傍の街路樹を見る。街路樹の傍には、雨に濡れている小さな花が、頑張って自動車が浴びせる水飛沫に耐えていた。少女は同情する。彼女は近寄る――彼女にはその花が自分の親友になることがわかっていたのだ――この花の名前は、「エミリー」よ、エミリーは花の姿をした妖精なの――エミリーが呼んでいる――「寒いわ」、「水が冷たいわ」、「あなたのおうちにつれてってくれない?」、「私のことを絵に描いてもいいのよ?」、「あなたは絵が上手でしょ?」――少女は瞳に涙を浮かばせ、その花に駆け寄る。彼女はエミリーにそっとkissをする……。
 その時だった。少女は一つの異変を知る。自分の隣に、おかしなひとがいるのだ。おかしなひとだ――(ママンが絶対に近寄っちゃダメというようなタイプの、)滑稽で、不思議で、ちょっと面白くて、でもなんかカワイソウなひと――それがおそらく世界で最初にcity rabbitを発見した時の、人類の感情だったのだ。彼女はcity rabbitが誰であるか知らない。ただのウサギのお人形さんだ。ただの、遊園地の入り口にいる、風船をプレゼントしてくれる沢山の着ぐるみたちの中の一人だった。でも、彼女はウサギさんが、別のもう一輪の花を大切そうに眺めているのを見つける。彼女と同じように、ウサギさんもエミリーの姉妹を哀れんでいるのだ。ウサギさんは泣いていた。花が自動車に苛められるそのたびごとに、身を震わせていた。そうだ! 彼女は直感した――この不思議なウサギさんも、私と同じように、植物の「こころ」がわかるのだ!
 突然、怖い顔をした男の子たちがやって来る。男の子たちは、路上でスケボーができなくて、顔はイライラだ。彼女が怖れている最悪の事態がやがて起きる――そう、エミリーが殺されるのだ。男の子たちは、彼女がエミリーを愛しているのを知った上で、それを目の前で踏みにじった。彼らはついでに、ウサギさんの前の、エミリーの妹であるジュエルをも踏みつけ、メチャクチャにしてしまった。ウサギさんは愕いている。少女は必死で涙を堪えている。「泣いちゃいけないよ、ハニー」「泣かないで、君は世界で最高のシンデレラなんだから」、ずっと前にパパがいっていた言葉が彼女の意識に蘇る。男の子たちは、気味悪い格好をしたブサイクなウサギを蹴りつけ始める。「なんだコイツ! 被りものをぬげったら!」、「うわっ! ゴキブリ臭いぞ!」、「頭のおかしい馬鹿バニーさ!」、彼らは容赦せずにウサギを蹂躙する。彼は水溜りの上で、泥塗れだ。おまけに二人の妖精は死んでしまった。古い古い記憶の世界の、最も涙ぐましい光景がそこに映し出されていた。
 だが、男の子たちはあきっぽかった。彼らは家に帰ってオンラインゲームを始める。少女とウサギだけが、静かな小雨の中に残される。死んだエミリーとジュエルを、無言で見つめている。少女は肩を震わせながら、頬に静かな熱い雨滴を流している。それを、少し離れたところで、傘もささない不思議なウサギさんが見つめている。ウサギは立ち上がる。まず、エミリーの前へ。そして、彼はグシャグシャに踏み潰された花にやさしく手をかざす。(ウサギさんの周りは、温かかった。)少女の目に次に飛び込んできたものは何であったろうか! それは、元気になったエミリーだったのだ。
 少女は魔法使いが実在することを知った。彼女はエミリーを抱いて立ち上がる。そして、遂に尋ねるのだ、いってはいけないあの言葉を――。
 ――ねえ、あなたは誰なの?
 「誰なの?」というこの戦慄すべき衝撃的な問いに答えられる人間が存在するだろうか? city rabbitは返すことなく、曖昧に彼女を見つめた。そして、同じ御業によって復活させたジュエルを足元に、ぼんやりと天空を見上げていた。少女は彼が泣いているように思えた。(The Walt Disney Companyのキャラクターみたいな、あっけらかんとした馴染み易い顔をしているが、)雨に沈んだ大都市の中の小さな聖堂を見つめるように、彼は天空を仰ぎ見ていた。その瞳は、美しかった。そして、彼はけして口を開かなかった。「あなたのそれ、かぶりもの?」という新しい質問が少女から飛び出す前に、彼はその場から忽然と、姿を消した。
 こんな話もある。ブエノスアイレスの、ある大きな中央広場でのことだ。
 その日は朝から晴れ渡り、音楽隊に属している少年たちは、わくわくしていた。彼らは、やがてここで大人たちを前にして大演奏するのだ。ふと、ピザトーストを買った仲間の一人がその場に戻ってきた頃、彼らは異変に気付いた。広場の、太陽が燦爛と射している場所に、数知れない鳩たちがいるではないか。それも、莫大な数の鳩だった。(五千、否、一億羽は確実に存在すると誰もが断言するほど、)圧倒的な鳩の波立ちがそこに現前していた。それだけで、ある敬虔な少年はキリストの存在を感じ取り、涙を流した。それは、まことに驚愕すべき光景だった。一面が真っ白な美しい鳩たちで覆われていたのだ。少年たちは魅了され、一歩も動けなくなった。
 鳩たちはいっせいに天空へと飛翔した。その光景の凄まじいメロディーは、(それは一つの巨大な白い宇宙が、いっせいにその背景に平穏な都市の建造物を露見させるような、)愕くべきものであった。鳩たちはいっせいに翼を広げ、無数の粉雪のような羽根を空中でダンスさせながら、ほとんど幾何学的な美しさで空に散在していく……。直後であった。少年たちは、同時にそれを見た。鳩たちが先刻までいた場所の中央に、一匹のウサギがいるではないか。否、それはウサギの着ぐるみを纏った人間であるに違いなかった。自分たちの演奏の前に、朝の秘密のセレモニーでも幕開けしたかのようだった。少年たちはウサギに釘付けになった。彼は天空を眺めながら、笑うように両手を上げた。すると、数十匹の鳩たちがどこからともなく帰還して、ウサギの身体に憩った。少年たちはその姿に圧倒され続けていた。ウサギは間違いなく、鳩の王だった。彼は鳩たちと、人間にはわからない「こころ」の通じ合いを持っていた。それは一目見ただけで人間にもわかるほど、どこか懐かしい遺伝的な直感でもあった。
 都市伝説は、現代人が生み出した原始的な宗教形式に過ぎない。だが、city rabbitはそうではなかった。それは、端的にSCV(Status Civitatis Vaticanæ)において生起した。空白化に感染し、これまでのあらゆる信仰生活についての記憶をdécoupageされていた教皇の前に、彼が現れたのだ。教皇はその時、ちょうど病室で夢を見ていた。ウサギが来る夢だ。ウサギは来たのである、それも、彼の「空白」を治癒するために。彼は眠る教皇の顔の上に手をかざした。そして、沈黙したまま、しばらく最も貴重で掛け替えの無い時間が流れた。
 教皇が目覚めた時、扉が閉まったと伝えられている。その時、ちょうどウサギの足だけが扉の前から覗いていたという逸話にすら詳細な解釈と敷衍が付くほどに、このニュースは全世界を駆け巡った。The New York Times、The Times 、Le Monde、Die Welt、朝日新聞、人民日報、The Jerusalem Postなどはこぞって、「ウサギ現る! 教皇完治する!」という報道を大きく流した。その時、教皇の眠っていた病室に、隠しカメラが仕掛けられていたことが問題となったが、奇妙なことにウサギの姿は映っていなかった。メディアは無論、教皇の歴史的な「みまちがい」を皮肉りもしたが、彼が描いた「ドアを閉める直前のcity rabbitの形象」は、紙上に掲載されると同時にたちまち様々な紙媒体、及び電子媒体でCOPY & COPYを繰り返した。
 ウサギはメディアという舞台の中央に踊り出た。彼はあらゆる色彩を宿すメディアのスポットライトから照射されたが、彼自身は一様に沈黙を守り続けていた。そして同時に、これは最も奇怪な事態ですらあったが、このウサギは明らかに神の属性である「ubiquitous」を有しているとしか考えられなかった。何故なら、ウサギは全世界のあらゆる場所に、(同時に、全的に、一挙に、)現出したからである。それは、ある情報が、ネットワークを経由して全世界の国のpcにまで伝達されるほどの波及力を持っていた。
 city rabbitは一体何がしたいのか? 彼がしていることは、ただ一つであった。つまり、彼は空白化を治癒しているのである。大都市の金融街で、路上にdécoupageが生起しているところを、彼がダンスする。彼の足取りに合わせて、切り抜きされたあらゆる場所が、蘇生していく……。それは、ペイントで一度切り抜いたものを、再び元に戻して貼り付け直す作業を彷彿とさせた。
 電子記号で構成されたペストは消える。それは、取り除かれる、治癒される、まるで現代の薄気味悪い悪霊に憑かれていた人間たちから、exorcism(悪魔祓い)するかのように。(city rabbitは預言者だ。否、city rabbitは革新的なデザイナーだ。否、city rabbitは要するに――bunnyに過ぎないのだ。このような様々な風説が卵型をした地球の情報網を光速度で駆け巡る。)彼は悪霊に憑依されたあらゆる人間たちの前に現れる。時には集団で、時には単数で、時には夢の中で。「特効薬」の開発に困惑し続けていた現代人たちは、特効薬それ自体が向こうから動き始めたことに驚愕し、そして感銘を覚えた。
彼は治す。いかなる薬も、小道具も用いずに、ただ陽気な笑顔を浮かべながら、ヒョイと手をかざすだけで。(めちゃくちゃに組成されていたジグソーパズルの絵が、ゆっくりと明確に「それ」が何か判別できる一枚の画像を構成し始める。「それ」こそが、city rabbitだ。)découpageもプリュールも無い。そんなものは、初めからあり得なかったし、ただの空想的な操作子に過ぎなかったのだ。クレヨンで描いた果樹園を、鋏で切り抜かれ、不安になっていた少女たちも、これでようやく笑顔を取り戻す――(全てはウサギさんのおかげだ、ウサギの賜物、ウサギさまさまだ。)
 あらゆるシステムには二面性が存在する。city rabbitは確かに人間たちの電子的なペストを治す天才的な名医であった。だが、この名医は、人間を「治してあげる」ことによって、自分自身は「傷つく」という特徴を有していた。重度のWhite Deathに感染して、Pest Houseで自分の存在が消し去られるその日を待つしかなかった人間たちは、元通りの身体を取り戻す。切り抜かれていた身体は、嵌め合わされる。だが、医師は血を流していた。彼は、多く治せば、多く疲弊し、打ち砕かれ、絶望的になり、大いなる不安と孤独のさ中で苦悩しながら、自分の身体がボロボロに綻びていくのを見守らねばならなかった。彼が着込んでいた黒いチョッキに赤いネクタイはズタボロになり、彼の手足は千切れ、顔面の半分は痛ましい鞭打ちを受けたように腫れあがった。(彼は、明らかに背負っていた。彼は何かを背負っていた。)教皇は、この一連の事態を目の当たりにして、涙を流した。老いたるSCVの長は、威厳に満ちた顔でこういったと伝えられる。
 ――彼はvulnerabilite(可傷性)を宿している……。
 city rabbitが一体何をしているのか、それが少しずつ明らかになり始めた。彼が「誰か」「何か」は全く定かではない。彼の中に誰かが入っているのか、或いは外部から第三者によって操作されているのか、それすらも確認できなかった。彼は姿を現し、癒し、そして癒した分だけ傷つき、忽然と消える。彼の癒しの力はそのまま保存され続けているが、彼の身体は傷つけば傷つくほど、形を変えた。すなわち、彼は自分自身を癒せないのである。
 彼は植物を愛していた。特に、どんな花であれ、それが花であると判れば、彼は駆け寄り、少女のようにそれらを慈しんだ。彼は動物だった。何故なら、彼は動物の「こころ」が理解できたからである。彼が傍へ来ると、どんな種類の動物たちであれ、「母親」に初めて接した時のような愛情を抱くのだった。
 一度、彼が激怒したことがあった。彼が、かつて紛争のあったある村に現前していた時だ。ちょうど、地雷が顔を出していた。畑を耕していた若い女性が、それと気付かずに鍬でそれを突付いてしまった。直後、女性に即死するよりも痛ましい事態が生起した。彼女の下半身は周辺に散在してしまった。畑には大きな窪みができた。city rabbitはそれらの一部始終を見ていた。この時、彼自身も既に、取り返しがつかないほどの傷口を負っていた。彼は女性に駆け寄ると、全身の毛を逆立たせ、異常なほど膨張し、空を覆い尽くしたと伝えられている。(数千年後には村の伝説として受け継がれるであろうこの出来事の中で、)最初の奇蹟とは、彼女の身体の癒合であった。彼は、いかなる縫い目も残さず、完全に綺麗な形で、彼女を元通りに治した。(そして、直後に彼は慟哭し、悲鳴をあげながら自分の背中が裂け開くのを感じた。)
 彼はその村一帯に埋まっている悪しき種たちを、全て喰らい尽くした。それは、驚嘆すべき光景であった。ほとんど怪物のような神話的なウサギが、巨躯を横たえつつ、口だけ洞窟のようにカッと開き、掃除機のように地雷を吸い上げ始めたのだ。地雷は、彼の口の中で(虹色のスパイスとなって)破裂した。そのたびごとに、彼は不思議な笑顔を浮かべたり、歯を食い縛りながら受苦の表情を覗かせた。city rabbitの胃袋は、地雷で埋め尽くされた。彼は、一個の大いなる山のように村の傍にゆっくり座った。そして、深呼吸すると、満面の笑顔を浮かべながら、(天地がひっくり返るほどの轟音で)おくびを洩らしたと伝えられる。
 ラスベガスと上海に「CITY RABBIT」という世界最大級の姉妹カジノが同時にオープンし始めた頃、SCVは静かに円卓を開いていた。「city rabbitに関する神学的問題について」と題されたその公会議は、最古の公会議であるニケア会議でも既にテーマとして浮上して核心的な命題を、全く新しい形式で再検討することを余儀なくされた。すなわち、「受肉」だ。
 教皇は会議を主導した。彼は、修道士イオビオスが530年頃に記した「Quaestio quare filius incarnatus sit(なぜ御子は肉となったのか)」という書物のタイトルにかけて、現代世界においてはこのタイトルは、以下のように書き換えられねばならないと強く主張した。「Quaestio quare lepus incarnatus sit(なぜ御子はウサギになったのか)」。かつて、神はイエスという人性を持った。だが、現代の神は、よりいっそう不気味なもの、奇怪なもの、被造物の次元におけるいっそう低次のものへと下降しているとしか考えられなかった。神が創造した人間が創造した工場が創造した着ぐるみ(しかもウサギの!)に、すなわち徹底化された唯物論的な「身体」へと現代の神が受肉せざるをえないということ――それこそがこの前代未聞のローマ・カトリック教会による最大の公会議の核心的テーマであった。

 SCVがウサギを列聖する勢いで讃美し始めていた頃、洋子に異変が起きていた。洋子はある朝、これまで彼女自身がずっと抑制し続けてきたある衝動を解放した。洋子は目覚めるなり、憐からプレゼントされたばかりのお揃いのペンダントを満面の笑顔で飲み込むと、歯茎を剥き出しにして立ち上がった。洋子の異変に気付いた憐は、彼女の表情を見て驚愕した。それは、これまでの洋子ではなかった。彼女は大急ぎでショッピングモールへ向かうと、矢継ぎ早に薪を集めた。洋子は帰宅するなり、憐には何もいわずにそれらを一つの袋に収めた。
 ――洋子さん? 
 ――黙れ。やっと……やっと理解した。この日をどれだけ待っていたことか。私が何を求めていたのか、私が一体何故、Fisherと出会い、彼から円環を描くNeural networkの理論を教わり、そしてArchaeopteryx lithographica の夢を見たのかも……。全ては今日のためにあったのよ。ようやく悟った。私は人間ではない。
 憐は唖然として青褪めていた。洋子がほとんど内的独白のような形式で、ひとりでそれらを悪霊に憑かれたように語ったからである。
 ――洋子さん! 一体どうしたんですか! 何か悪夢でも見たんですか!
 ――黙れ、お前の存在など私にはどうでもいいのよ。これから私はこの都市の全てのカトリック教会に火を放つ。火は、放たれねばならない。火が来るからよ。火が。大いなる火が来るわ……。憐、君にまだいってなかったことが一つだけあったわ。私は幼児洗礼を受けたカトリックよ。洗礼は死ぬまで消えはしない。死ぬまで消えない、これは刻印だった……。そのためにどれほど苦しんできたか! でも、もう終わる。火が来るわ。嵐のような、大いなるもの、巨大なるもの、圧倒的な大きさを持ったものである、かの火が私を焼き尽くしに襲来する……。
 洋子はそういうと、玄関へ向かった。憐は素早く彼女の前に立ちはだかった。
 ――洋子さんは病気だったんですか? もっと大切な、「こころ」のものだったなら、どうして僕にいってくれなかったんですか……。
 ――憐……、私の推測が正確であれば、city rabbitは世界中の全ての都市から人間を退隠させるつもりよ。彼は、おそらくキリスト教とは何の関係もない。SCVは浮かれて聖人みたいに祭り上げてるけど……端的に一語で表現すれば……「最後の神」とでもいうべきもの。ああ、彼に会いたい。彼に会って、彼の息の根を止めたい!
 憐はその言葉を聞いて衝撃を受けた。「最後の神」、それは何だ? 
 ――行かせませんよ。絶対にここからは一歩も。貴女を犯罪者にしたくないから。
 憐がまだどこか、この出来事が平穏な喜劇の第一幕であったような微笑すら浮かべてそういうと、洋子は一度下を向いた。そして、直後、憐を「もの」のように見下した、戦慄すべき冷酷な眼差しで睨み付けた。
 ――都市生活者は退隠し、森へ向かう。森へ仕向けたのは、彼。彼は、強いていうなれば、最も風変わりで気の狂った預言者だわ。私は永久に都市に残る。森になど帰らない。都市で生まれたんだから、都市で死ぬ。だからどけ。
 洋子は片手にしていた小型の薪を振り上げた。憐は受苦の姿勢で、洋子の瞳を見つめ続けた。刹那、彼女の瞳に普段のやさしさが火花のように咲いた。だが、彼女は薪を振り落とし、憐の頭部を殴打した。憐は痛みを受けたが、それ以上の打撃をこころに受けた。だが、最も苦しんでいたのは、洋子だった。
 洋子は自動車に乗り込んだ。後部座席には、大量の薪を用意していた。彼女は自分が、天啓を受けたことを知っていた。city rabbitは危険である。それだけは間違いない。最大の危険は、彼が神格化されてしまうことだった。だから、洋子はそれらに大きく加担しているカトリック教会を敵に回すことにした。
 洋子は車道を疾駆した。元々、都市から人間は減少していたが、そこは既に無人地帯になっていた。そこは砂漠のように無機質だった。多くの現代人が、都市から森へ退隠しているのだった。その予兆は既にずっと前から存在していた。Page Not Found……これはWebに常時接続可能な「都市圏」で発生した特異なペストだった。それはやがて、具体的なフォルムを持って都市を構成するあらゆる有機物に感染し始めた。すなわち、découpage、空白化、白死病と呼称されていた現象がそれであった。découpageはやがて、その空白になっている部分を縫合するかのように「折り目」を形成し、いっそう醜悪奇怪な症状を露見せしめた。だが、突然、ぬいぐるみのようなウサギが現れた。彼は気味悪い都市の病を見事に治癒した。彼は端的に二千年以上の歴史を有する教会のトップの病を、その奇蹟的な御業によって完治させることで、彼の信頼を得た。
 全ては仕組まれていた。洋子はこう考えていた。つまり、発端となるPage Not Foundを世界中にウィルスのように流布させた存在それ自体が、city rabbitだったのだ。city rabbitは自然を溺愛している。彼は聖母マリアの象徴である薔薇を愛し、Saint Francis of Assisiのように小鳥と会話し、イエスのようにexorcismする。彼がキリスト教を越えた存在であったとしても、彼は少なくとも、キリスト教の体系を熟知しているのだ。教皇の笑顔は、彼自身が創り出したものだった。洋子は気配を感じている。それは、まったくもって異常で不可解なものであり、最悪の場合は人間それ自体が孤独のさ中に陥れられるであろう。都市は完全に空洞化し、人間は白痴のように密林の中の教会に逃れる。都市の片隅で、ひたすら瞼を閉じていた「古代の鳩ども」が、目覚める……。
 これは悲劇である――洋子は焔が魂の奥深くの内燃機関で燃え盛るのを感じながらそう直感した。これは断じて喜劇ではなかった。city rabbitは人間を森へ誘導している。それは、限りなく隠密裏に遂行されている最高度に暗号的な魔術そのものだ。洋子はハンドルを荒っぽく回しながら、おそらく教会にすらもうほとんど人間がいないであろうことを予感した。無人の教会を焼いて何になるのか? 無人の礼拝堂で、一体誰が何を礼拝するというのか? 洋子は急速に意志を喪失し、急ブレーキをかけて車を広い車道に停止させた。彼女の心臓はノアが見つめていた夕暮れの最後の安穏な海のように、密やかな高揚を孕んでいた。
 都市には誰もいなかった。そこは、洋子が大嫌いなGiorgio de Chiricoが描いたような、ほとんど形而上学的に堕落した、果てしない孤独を具現化した空間だった。洋子の背筋に鳥肌が立った。憐は……? 憐は、まだあの部屋にいるであろうか? あの部屋で、私が殴りのめした薪を隣に、ぐったりと横臥しているのであろうか? その姿は、本当に憐であるのか? その姿こそが、city rabbitではなかったか……?
 洋子は車から降りた。そこは、ちょうど教会の前だった。華やかな歓楽街のさ中に、教会はあった。彼女は教会の門をくぐった。すぐに聖堂へ向かったが、予想していた通り、そこには亡霊のみが現前していた。つまり、人間などはただの一人も存在していなかった。仮に、人間の存在が、亡霊的なものではないとすればの話だが。
 不意に、オルガンの傍で声がした。すすり泣く少女の声だった。洋子は彼女に駆け寄った。少女は白いミサ聖祭用の衣装を着込んでいた。振り向いた時、洋子は何か名状し難い恐怖を意識に湧出させた。どこかでかつて、見た顔だった。それは、誰かがわからなかった。志穂ではなかった。志穂に限りなく似ていたが、志穂の頬に黒子が三つあるなどということはなかった。少女は走り寄って洋子に抱きついた。
 ――オ姉チャンガイッタンデショ? 神ガ死ンダッテ。
 洋子はその言葉を聞いて、声を失った。少女は泣きじゃくりながら、真っ赤な瞳で洋子を凝視していた。洋子は手足が震えているのを感じた。
 ――ナンデソンナ哀シイコトヲイッタノ? ドンナヒトデモ、赦シテクダサル方ノ前デ……。
 洋子の頬に冷たい涙が流れた。直後、閉めたはずの聖堂の扉が開いた。風だった。振り向くと、少女は跡形もなく消え去っていた。
 洋子は失意に暮れた面持ちで、教会を出た。自動車の前まで来ると、そのまま前輪の前のアスファルトにしゃがみ込んでしまった。彼女は、父に生まれて初めてイエスの受難を聞かされた日以来、溜め込んできた涙を、その時に初めて流した。洋子は少女になって泣き続けた。
 やがて、広大な道路の奥に影が立った。周囲には巨大な直方体や立方体のビルが乱立していた。洋子は、その全ての窓に、亡霊の気配を感じ取った。影はゆっくりと、横になって、後はもう死んだように眠るだけの洋子に近付いてきた。洋子は薄れている視界でも、その影の正体は突き止めることができた。やれ、やれだった。こんな時に、ようやくcity rabbitだ。
 ――アンタさぁ、それ前から思ってたんだけど、ぜんっぜん似合ってないんだけど? なんでわざわざScientia社製のウサギの気ぐるみに受肉するんだよ……。ほんとに、バカじゃないの……? 
 city rabbitは首を左に振ったり、右に振ったりしながら洋子を見下ろしていた。やがて洋子は気付いたが、それは何かのダンスの継続されている運動だった。それがいかなる舞踏であるのか、そもそもその舞踏が歴史上に実在したものなのか、洋子には最早わからなかった。city rabbitは壮大な旅が始まるような好奇心旺盛な眼差しで、天空を悠然と眺めた。洋子の鼻筋の上で、溶けた。雪が溶けた。冷たい雪が、ひらひらと天空から降ってきた。
 都市は静かな雪に包み込まれた。
 ――アンタは一体何者なんだ? 私だけに教えなよ。そうすりゃ、アンタが欲しがってるお望みのものを全部くれてやるからさ。欲しいんだろう? アンタは欲しいはずだ。人間からの信仰を。アンタは信仰の対象になることを内心では希求してきたはずだ。違うかしら?
 city rabbitは感激しながら、掌の中で雪を浮かばせていた。彼はまったく、洋子の話など聞いていなかった。否、おそらく耳をそばだてて聞いているのだろう――だが、それは彼にとっては、あまりにも取るに足らないことであるに過ぎないのだ。
 ――アンタは……イエスのことを知っているの? De Imitatiore Christiをしているつもり? それとも、その猿真似も全部、アンタの計画の一部なの? アンタはなんで、なんで……人間に善行をしたの? キリスト教の神は、Auschwitzで死んだはずだわ。もし生きているとすれば、教皇は言動の責任を取って聖職それ自体を総辞職させなきゃならないし、そういうことが起きたんだから。アンタ、何様のつもりなの? その格好は遊び? GAME? Programかしら? アンタにもChristian nameはあるの? アンタの好きな歌手は誰? アンタはどこの国で生まれたの? アンタの本当の名前は何なの? なんでアンタは人間に永久に沈黙し続けているの? 
 次の瞬間、洋子の目の前で信じ難い現象が起きた。彼が、自分の頭部を脱ぎ去ったのだ。つまり、着込んでいた衣服を脱いだのである。ウサギの着ぐるみの中には、何も無かった。city rabbitは、相変わらずの微笑を浮かべながら、両腕で自分の頭部を掲げていた。city rabbitは、人間に操作されているのではなかった。彼は、むしろ操作している側なのだ。洋子の額に、幾筋もの冷や汗が流れていた。路上では、しとしとと上品な雪たちが溶けていく。
 ――語りなさいよ。自分の声で、アンタの存在規定をメッセージとして伝達しなさいよ! できるでしょうが! アンタは前にもそうしてきたはずだわ! それとも、Mosesに語ったことをここで反復するのかしら? 「all the earth is mine」って? それとも、真顔で「the God of Abraham, the God of Isaac, and the God of Jacob」って? 冗談でしょ、bunnyちゃん!
 洋子の魂は掻き乱されていた。彼女は自動車からガソリンを取り出すと、周りの街路樹全てに放った。彼女は胸の谷間から雄羊のマークを持つライターを取り出すと、街路樹全てに火をつけた。それらは一気に燃え上がった。city rabbitは、まるで洋子のしていることを喜劇的な道化として見守るように、軽快に眺めていた。彼は笑い出しそうで、深呼吸が必要なくらいだった。
 突如、city rabbitの顔にガソリンが浴びせられた。洋子は無表情で、彼の全身にそれを浴びせたのだ。洋子は本気だった。この女性神学者が、これほども真剣になったことはこれまで一度も無かった。彼女は自分の存在の総体、思考の最も奥深くに屹立している結晶をかけていた。彼女は自分の命をかけて、city rabbitに対峙した。彼が未だ、あの憎らしい聖人みたいな笑顔だったので、洋子は憤怒した。彼女は最後に、たっぷりと自分にもガソリンを被った。
 ――同時に火をつける。大いなる火で、私たち二人が同時に燃える。その時、その時、その時こそ……都市それ自体が退隠を犯し、森の神々が目覚める……。
 city rabbitは一瞬、何でも貴女のすることを受け容れるというような表情を浮かべた。洋子は戦慄した。二人の足元は、一筋のガソリンの小川で繋がっていた。どちらに火の粉がかかっても、同時に焼死するはずだった。洋子はその高揚感を味わいたかった。この最高度に錯乱した現代の神と共に没する。没することこそが、必要なのだ。森へ帰還するのではなく、都市と共に没することこそが。
 洋子は、ライターを自分の顔に向けた。だが、奇妙なことに、着火したのはcity rabbitの顔面だった。彼は火を受けると、踊り狂いながら後方へと向かった。洋子は仰天していた。すぐにでも何かが来るはずだった。“Yes, I come quickly.”彼女の中で、APOCALYPSISの最終章でイエスが発した言葉が蘇生した。然り、私はすぐに来る。然り、私はすぐに人間の前にやって来る。その秒針単位の、魔術的なメシアニズムのさ中で、city rabbitは燃え上がっていた。彼は、現代の異端的事象が犯した全ての罪を贖うかのように、燃え上がった。
 彼の身体は見る見る間に灰になった。然り、私は灰になる。Amen! Yes, come, Lord Jesus. 然り、私は来る。必ず来る。何も心配することはない。洋子は跪いた。この異端にも身を染めていた一人の女性神学者に、忘れかけていた最後の聖なる涙を流させたのは、間違いなくcity rabbitが犯した罪だった。洋子は七つの火柱に囲まれながら、アスファルトの上で泣いている。誰も来ない。誰も来ないのだ。誰も来なかった。私は間違ってはいない。神はやはり死んでいるか、痕跡化しているかの、どちらかだ!
 The Spirit and the bride say, “Come!” He who hears, let him say, “Come!” He who is thirsty, let him come. 私は来る。私は必ず来る。私を信じなさい。私を信じ続けなさい。私は来る。“Yes, I come quickly!”私は必ず来る。あなたがたの涙は、私が取り払う。
 やがて雪が静止した。(都市の片隅で、これまで瞼を閉じ続けていた者どもが、その大いなる瞼を、開ける……。)
 
 

 
 

 


 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 





2009/02/09(Mon)15:07:05 公開 / 鈴村智一郎
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