『デカルトの悪魔』 ... ジャンル:リアル・現代 ショート*2
作者:らでぃお                

     あらすじ・作品紹介
「我思う、故に我あり」という言葉のせいで、自分とは何か、世界とは何かについて悩んでいた高校生、安藤恭祐はある日、涼音ミヒという性格的にぶっ飛んだ美少女にである。そして……

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「我思う、故に我あり」
 今日学校で倫理の時間に教わった言葉が、安藤恭祐(あんどうきょうすけ)を悩ませていた。高校2年生になってすぐだったが、すでに彼は悩んでいた。冒頭の言葉はデカルトによる方法的懐疑の結論である。この世のすべてはしょせん夢、脳の電気信号が生んだ幻に過ぎない。しかし、そう考えている私の心だけは絶対に存在している。私の心の存在だけが唯一確実な存在である。
 要するに、自分の心以外はまったく疑わしい存在であり、もしかしたら全部夢かもしれないということだ。昨日までの世界や自分の記憶はすべて捏造かもしれない。あるいは自分は世界を偽られていて、世界の外の誰かが自分の世界を操っているのかもしれない。
 本当は自分は遠い未来の人間なのに、現代の夢を見させられているんだ。あるいは剣と魔法の世界の住人なのに、眠らされて夢を見ているだけなんだ。くそぅ、こんな世界、1秒でも早く脱出してやる。恭祐はそんなことを考えていた。
 恭祐は今の自分の状況に嫌気がさしていた。恭祐は飽き飽きしていた。この世の物理法則はあまりにも完璧であった。テレビから流れる超常現象にはどうせ何か仕掛けがあるに違いないと思っていたし、自分に何か特別な力があるとも思えなかった。しかし、恭祐はその特別な何かが欲しかった。彼はあまりにも自分が普通であるために、人生に飽きていた。
 そんなある日、恭祐はある人物に出会う。涼音(すずみね)ミヒというその少女は、恭祐の隣のクラスにいた。彼女はあまりにも周りの人間からかけ離れていた。というのも、彼女は相当な美人だったからである。目は朝日を跳ね返す水面のようにきらきらと輝き、澄んだ瞳は見る者全てを吸い込みそうであった。肩まで伸びた黒髪はツインテールにまとめられ、固く結ばれた唇は何か強い意志を感じさせた。しかし、見た目だけが彼女を際だたせていたわけではない。涼音ミヒにはある口癖があった。
「ゾンビのくせに生意気なのよ!」
 何を言っているのかこの女は。人のこと捕まえてゾンビとは何事だろうか。自分がいくら美人でも周りの人間をゾンビ呼ばわりはないだろう。
 美人であることと奇人であることで、涼音ミヒの噂はすぐに学年中の噂になった。当然、安藤恭祐の耳にも届く。ゾンビ……。もしかしたら、彼女は哲学的ゾンビのことを言っているのではないか。恭祐は激しく興味を持った。この世界が夢なら、周りの人間も全て夢である。見せかけの意志しか持たない小道具、他人。恭祐はミヒが自分と同じような考えを持っているのではないかと思った。
 涼音ミヒのいるクラスには恭祐の中学時代からの友人、真田信(さなだしん)がいる。彼は神父の息子である。恭祐は信に会いに行く振りをしてミヒに近づこうと考えた。
「よう、信。なぁ、涼音ミヒってどの子だ」
 恭祐は小声で聞く。
「ああ、一番前の右端だ。わざわざ涼音を見に隣のクラスまで来たのか。お前も物好きだな」
「どんな奴?」
「まあ、一言で言えば他人を人と思っていない。誰かが困っていても無視だし、何か頼んでも、あれだ。『ゾンビのくせに生意気なのよ』だ。あ、お前、やめとけよ。顔はかわいくても性格はひどいぞ。まあ、相手にされないと思うけどな」
「相手にされないかどうかはこちらの心持ちしだいだろ。別にナンパしに来た訳じゃない」
 恭祐はそう言うと、ミヒに話しかけに行った。
「涼音さん」
「何か用?」
 涼音ミヒは恭祐の方を向きもせず言った。
「何とか夢からさめて本当の世界に行ってみたいと思わない?」
 どう考えても初対面の人間に言うべきでない質問であった。が、涼音ミヒの注意を引くには効果的だったようだ。
「甘いわね。夢は必ずしもさめるものじゃないのよ。あなたは人生は夢だと思ってるのね。それはいいわ。でも夢って言うのは欺瞞なのよ。夜、夢を見ても必ずさめるでしょ。だから、人生もさめると思い込む。結局その考えは死の恐怖に対する自己防衛システムに過ぎないの。」
 おかしな質問に対する、おかしな返答であった。しかしこの二人にとっては唯一価値のある会話なのであった。涼音ミヒは続ける。
「人生をさめる夢だと考えると、外の世界を考えるでしょ。それは結局あの世のことなのよ。本当の世界なんてないの。夜見る夢はルーチンの一種よ。気をつけなさい。」
 最後の意味がよく分からなかった恭祐は、
「ルーチン?」
 と聞き返した。
「ルーチンって言うのは、日々繰り返す決まり切った仕事よ。毎日同じ時間にお風呂に入って、テレビを見て、歯を磨いて、寝る。それをしないと何となく不安になる。要するに日常の中に永遠を感じたいのね。死にたくないから。夢はその一種よ。」
「つまり人生は夢みたいなものだけど、決してさめず、ただ終わるっていうこと?」
「そう、つまり人間はこの世界に生まれてこの世界で死ぬってこと。」
 恭祐は落胆した。せっかくこのつまらない世界から抜け出せそうな可能性を「我思う、故に我あり」に見いだしたというのに、ミヒにあっさり否定されてしまった。
「ところで、あなたは、少しは話がわかりそうね。名前は?」
「安藤恭祐」
 その夜、恭祐は布団の中で考えていた。外の世界は死の恐怖に対する自己防衛システムとして片付けられてしまったが、この世界の出所は依然なぞのままである。世界は確かに私と同時に生まれた。「我思う、故に我あり」より、私がなければ世界はあらず、私の死と同時に世界も消失するのである。世界は私であり、私は世界である。しかし、世界のこの複雑さは何なのか? 自然にできたにしては複雑すぎないか? そんなことを考えながら、恭祐は眠りについた。

 次の日、恭祐はミヒに世界について聞くことにした。
「涼音さん」
「ああ、昨日の。ミヒでいいわよ。ところであなた名前なんだっけ。どうでもいいことは覚えられないの。」
 ゾンビの名前など覚えるに値しないらしい。
「恭祐だよ。なあ、外の世界がないのは分かったけど、この世界はどうやってできたんだ?」
 天地創造の話題である。彼らは本当に高校生なのだろうか。
「できたんじゃなくて作ったのよ。私が。」
 どうやら、彼女は神様のようだ。あ、女だから女神様か。
「いつ作ったんだよ」
 驚きもせず応える恭祐もさるものである。
「私が私になる前。メタ自分の時」
 ミヒは当然のように答えた。
「メタ自分? 何それ」
 恭祐が聞くと涼音ミヒは長々と説明をはじめた。
 ――世界はある時創られた。誰が創ったのか。私しかあり得ない。「我思う、故に我あり」より、私の心以外の存在は疑わしい。しかし、私は世界を創った記憶がない。ということは、メタ自分が創ったことになる。メタ自分とは今の自分になる前の自分の状態である。メタ自分はメタ世界の住人ではない。メタ自分とは心という存在であり「周り」などない。それ自身が定義であり、想いである。メタ自分は有限あるいは無限の命を持っている。故に、何もない状態は非常に苦痛であった。そこで、メタ自分は世界を創ることにした。最初は失敗した。完璧な世界を創ったが、自分だけは世界の法則から外していた。しかし、ルールを逸脱できるゲームに楽しさはない。そこで、今度は自分も世界の法則に従わなければならないようにして、かつ、もはやメタ自分には戻れないようにした。つまり、世界を創造する能力を捨てたのである。そして、「ものごころつくころ」から人生は始まり、今に至るのである。では「ものごころつく前」の存在は何なのか。それは、次の言葉で片付けられる。
「私が生まれ、世界ができた。そして生まれる前から世界はあったという法則が現れた」――
「なるほど。だから、この世界はこうも複雑なのか」
 その時、真田信が近寄ってきた。
「おい、涼音。バカじゃないのか? 何が世界は私が作っただ。メタ自分とか言い出しやがって。そんなのただのファンタジーじゃないか」
 信はずっと話を聞いていたようだ。ミヒは意に介さないように言った。
「真田君、あなたの考えの方がよっぽどファンタジーよ。神が世界を7日で創ったとか、神が生き物をデザインして進化させたとか、笑わせるわ。私が生まれる前の過去なんて、存在しないのよ。それに、死んだらあの世に行くんだっけ? それってただ単に死にたくないだけじゃない。」
 真田は神父の息子だったので、どうやら神を信じているようだった。というか、そんな話をミヒとしていたのだ。この高校はこんな人ばかりなのだろうか。
 真田は怒り出した。
「な、何を言うか! 神は世界のルールなのだ。」
 ミヒはまだまだ言う。
「ふん、結局何一つわからないから、神様っていうブラックボックスに全部投げ捨ててるだけじゃない。私はねぇ、ちゃんと世界が何なのか、自分がなんなのかあくまで追求してるのよ。メタ自分はまだ完璧じゃないんだからね。考えてる途中なの。あんたみたいに、神様ぁ〜、とか言って思考停止してないのよ。」
「くっ……」
 真田は二の句が継げない。そのやりとりを見て、恭祐はある考えに至った。
 世界は、誰かが外から作ったものではない。それはまさにファンタジーである。外の世界を考えるのは、単に死にたくないからなのだけかもしれない。しかし、メタ自分もファンタジーではないだろうか? そもそも、「我思う、故に我あり」が存在を保証しているのは今現在の自分だけであって、過去の自分は含まない。過去は記憶にしか過ぎず、その存在は甚だ疑わしい。過去の結果としての現在ではない。現在を成り立たせるための理論的条件として逆算して作られたものが過去である。つまり今の自分が過去を作ったことになる。過去は否定され、人生は今から始まったということである。しかし、過去を否定し、現在を唯一絶対とすると、今の気分こそ全てだと言うことになる。これで良いのだろうか? そして、「これでいいのだろうか?」と思わせる過去の存在は?
 ところで、今は初期状態としては複雑すぎる。ただ、初期が単純だという事実は世界つまり過去が与えた先入観である。今はある程度の複雑性を持たなければならない。つまり今の心はある程度の複雑さが必要である。
 心とは自我を認識できる系である。理論的であることは、系であるために必要な条件であり、理論的でないならば、それは系ではない。また系は、ある程度の複雑性がなければ自己を認識することができない。逆に言えば、「我思う、故に我あり」の考えに至るほど複雑であるということが心である条件である。
 複雑な系は理論的であるため、自己の存在の理由付けを行い、自己を認識する。その理由付けとは、複雑な自己を形成するための因果律による外界の創造である。
 心が常に初期状態であるとする。心が単純な系であれば、心は考えられない。自己認識できない。心が現実のような複雑さを持っているとき、心は自己認識できる。

 世界とは何であろうか? 心が複雑なとき、世界も複雑であり得る。つまり、世界とは心の投影、影なのではないかと考えられる。自分の脳は心の機能を具現化した影であり、世界は心の複雑さの影である。心の複雑化(成長)に従って見る夢(自分目線の世界)も複雑化を遂げる。十分心が複雑になれば、さらに複雑な情報が自分に入ってくる。つまりは、さらに複雑な情報が創造される。他人、つまり疑似心が示唆するように、心は振動するかもしれない。疑似心は、生まれ、成長し、衰え(急速であるかもしれないし、一瞬かもしれない)、死ぬ。心は最も単純な状態から徐々に複雑さを増し、あるところで単純化する。そして再び最も単純な状態に戻る。ここで、しかし後の単純な状態には、今回の複雑さのエッセンスが含まれるかもしれない。
 この様に心は、この振動によってエッセンスを蓄積する。このエッセンスの夢への現れ方が歴史や世界である。なお、この振動を小さな振動とする。
 そして心は、巨視的にも振動している。すなわち、エッセンスの蓄積とエッセンスの放棄である。心は複雑化の段階で前回の心よりもより複雑になったり、あるいは前回より少ない複雑さを持ったりする。その分、単純化の段階で蓄積されるエッセンスが増減する。
 一般に、n代目の心ははじめ、n−1代目までの心のエッセンスを持っているだけの最も単純な形をとっている。その心は、振動する複雑な系であるという己の本質に従って複雑化をはじめる(ビッグバン)。そして、規則的にか恣意的にか、いつか単純化をはじめ、n代目のエッセンスを遺してn+1代目の初期状態になる。
「心の投影が宇宙のようだ」
 それにしても、死の恐怖がやわらぐシステムである。そのことを良くないと思う心が私には今、ある。しかし、これは、振動の低い位置での想いだと言うこともできる。なお、このシステムでは死の恐怖は消えはしない。エッセンスになったところで、もはや、考える心は自分にはなく(というより自分はなく)、次の代が考える心である。私はそれこそ本のようなものでしかない。
 
 なぜ心は、自己や世界を知ろうとするのか。それは、まず知ろうとするぐらいの複雑系であるからである。次に、自分の代より前がもはや考える自我ではなくただのエッセンスになってしまっているからである。そして、そのエッセンスは世界として影を落としているに過ぎない。考えるのが心の本質なので、影の正体を考えるのである。その正体が自己であり、その部分としてエッセンスがある。
 それにしてもエッセンスとは何だろうか? とりあえずはルールのようなものとして考えている。ここで言うルールとは:
 理論的演算結果の列挙である。例)法律
 これをするとこうなってこうだから(演算(因果))、それをしてはいけない(ルール)。ルールだけでは、なぜいけないのかわからない。記録がない場合、なぜいけないのか考えなければならない。
 ちなみに、n代目の心の後半にある単純化は、エッセンス化とも言える。

 以上をまとめる。心とは考える主体ある。そして、唯一確実な現実であるといえる。また、振動していて過去は存在する。確実な既成事実として、現在、私は自己を認識している。もし、複雑さが足りず自己を認識できないとしても、心は依然、考える主体であり、故に、唯一確実な現実である。逆に、自己を認識できるのは、心が十分複雑だからである。

 ここまで考えて、恭祐ははっと息をのんだ。

 死生観、あるいは哲学的に考えること、考えようとすることはそもそも全て「死にたくない」という感情が起動原因なのではないか? 宗教だけでなく哲学も死の恐怖に対する自己防衛術なのではないか?
 人は、死を受け入れ、死の瞬間までの生しかないことを悟り、現在の生を最も快適かつエキサイティングにしておくことが唯一の道なのではないか? そういう意味で芸術こそ、唯一純粋に生の活動ではないだろうか? 死と何の縁もなく。死亡対策から完全に離れ、完全自己目的化した全ての行い(学問など)は、もはや芸術である。

2009/01/30(Fri)17:57:51 公開 / らでぃお
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