『サヨナラBOY』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:甘木                

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 みぞれが降る日、リョージが死んだ。
 腹に鉛玉をくらって六番通りのゴミ捨て場で丸くなって冷たくなっていた。
 ゴミ溜めのような街で生まれて、ゴミ屑のようにいつも他人に踏んづけられながら生きてきて、最期はゴミの中でくたばりやがった。




 *          *          *




「みぞれは嫌いだ。どうせなら雪になればいいのに。雪が積もればこの汚ねぇ街も少しは綺麗に見えるのによ。アニキもそう思うだろう」
 みぞれが降るたびにリョージは悪態をついた。だが、この街に雪が降ることなどない。俺が生まれてから二十五年、一度だって雪が降るところを見たことはない。
 ゲロとゴミだらけの通りも、貧民たちが住む朽ちた住宅街も、娼婦やジャンキーがたむろする街角も、決して純白に清められることはない。薄汚れた街はいつまでもすえた臭いを漂わせながら汚いまま。たぶんこの街は最後の審判の日が来るまで、どす黒い欲望だけを垂れ流しながら膿んでいくだけだ。
「なあアニキ、俺たちも一発でかいヤマを当ててハワイに行こうぜ。こんな街と違ってハワイは天国みたいな場所だって言うぜ。温かいし、浜辺に行けばビキニ姿の美人がわんさか選りどりみどり。それに向こうのマフィアはショボイっていうから、俺たちが行けば荒稼ぎができて、あっという間に金持ちになれるよ。最高だろう」
 リョージはいつもの夢を語りだす。
 二年前、北地区のカイという男がハンファミリーの闇銀行を襲って大金をせしめた。噂によればカイはその金を持ってハワイに高飛びし、豪邸を建てて今じゃ天国の住人のように幸せに暮らしているという。リョージはこの話を聞いてから、いつか自分もカイのように大きな勝負をしてハワイで暮らすことを夢見ている。
 だが俺はこの噂を信じていない。たとえ噂が本当だとしてもカイのマネをする気もない。なぜかって? カイが闇銀行を襲った数日後にはハンファミリーの報復によるカイの弟のシノやカイの仲間たちの惨殺死体が発見された。たぶんカイも殺されてどこかに捨てられているのだろう。
 この街でデカイ金を手に入れようとすればデカイ代償を払わなきゃならねぇんだ。俺には親兄弟はいないが、リョージや仲間たちがいる。こいつらを掛け金にして勝負をかけるほどのバカじゃねぇ。
「アニキ、俺の話聞いてる?」
 リョージは火のついたラッキーストライクをくわえたまま、俺の顔を覗きこむように近づけてくる。
 危ねぇな。火を近づけるんじゃねぇ。
 俺はリョージの唇からラッキーストライクを奪い取り肺の中を毒物で満たす。
 真っ当な世の中じゃ禁煙が進んでいるそうだが、この街でタバコを吸わないヤツはタバコも買えない貧乏人か『神はいつもあなたたちを見守っています。悔い改めれば神の国の門はいつも開かれています』と戯言をほざいている宗教家ぐらいだ。誰も長生きをしようなんて思っていない。だから生きている間だけは僅かな快楽に身を任せることに躊躇なんかしない。この街を出て真っ当な生き方をしたい。と思いながらも、誰もこの街からは出て行けはしないと言う現実。無慈悲な現実から逃げ背中を丸め生きるためにはヤクや酒やタバコは欠かせないのだ。
「ひでぇ、それ最後の一本なんだぜ。俺スッカラカンでタバコ買う金もねぇのに吸っちまうなんてよ。いくらアニキでもひでぇよ」
 真っ赤に染めたばかりの髪をガリガリ掻きむしって壁を蹴る。
 おい、おい。オマエの穿いているのはつま先に鉄板の入ったワーキングブーツだろう。そんなゴッツイ靴で蹴ったらこの店が壊れちまう。あーぁ、壁がへこんだじゃねぇか。このボロ屋を直すのにいくらかかったと思っているんだ。
 元々ここは喫茶店だったらしいが、俺が住み着いた時には二階部分は焼け落ち一階の店内には何もない廃屋と化していた。幸い一階部分は壁も天井は無事だったから、修理屋のケイに頼んで電気や水やガスをひき住めるようにした。割れていた窓ガラスも入れ替え、ドアも綺麗なものに取り替え店っぽくした──商売には外面も大切だからな。俺はここで古物商のようなことをやっている。この街の住人たちが持ちこんでくるいわくのあるブツを買い上げ、正当な出所の物のように見せかけるのが俺の仕事だ。そいつを隣町や真っ当な人間たちが住んでいる街に卸す。ま、大した額にはならないが生きていけるだけの金は稼げる。
「あぁ俺のタバコぉ……」
 リョージは拗ねたガキのようにジーパンのポケットに両手を突っこんでまだ壁を蹴っている。
 マジに崩れたらどうするんだ。しょうがねぇなぁ。俺はトートが持ちこんできたスイス製の時計をリョージに投げ渡す。
「えっ、これ売っていいの? 儲けの中から二万をアニキに渡せば残りは俺のものにしていいって。マジ? だってこれ高そうな時計じゃん。四万いや五万ぐらいになるんじゃないの。やったぁ! だからアニキは好きなんだ。じゃあ俺、今から隣町の質屋に行ってくる!」
 リョージはくたびれた革ジャンの内ポケットに時計を入れ、傘も差さずにみぞれの中に飛びだしていった──ま、この店には傘なんて上等なものはないけどな。
 盗品だが保証書を偽造してあるから簡単にばれることはないだろう。リョージは十七歳のくせに小柄だし女顔をしているから足元を見られる不安はあるが、ヤツだってこの街で生きてきたんだ、善良な市民が住む隣町の質屋くらいなんとか言いくるめられるだろう。


 店のなかを漂っていたラッキーストライクの匂いが消え去ってもなおみぞれはやまない。この天気じゃ客はもう来ないだろう。こんな日は早仕舞してしまっても誰からも文句はこないさ。鍵をかけようとドアに手を掛けた時、南地区にある廃教会の鐘の音が聞こえてきた。
 生者の悲しみや辛さを内包したような重い音。
 もう神父にも神様にも見捨てられた教会に設置されている電動式動鐘装置はなんの脈絡もなく鳴ることがある。たぶん機械を動かすだけの電気がコンデンサーに溜まった時、自分の存在意義を思いだして鳴っているのだろう。
 そういえばリョージと初めて会った時にもこの鐘が鳴っていたな。今日と同じようにみぞれが降る四年前の寒い日にも。




 *          *          *




 朝からみぞれだった。
 店を開けていても客は一人もなく、陽が落ちると同時に忍び寄ってきた寒さにホットウィスキーを飲みながら耐えていた。『こんな日はさっさと店を閉めて熱いシャワーを浴びて寝てしまうのが賢い人間だ』と言う内なる声の誘惑に、『この一杯を飲み終わる間に客が来なかったらもう閉めよう』と折り合いをつけた時、ドアが乱暴に開かれた。
「ここは何でも買ってくれるって聞いたんだけど……」
 声の方に目をやると、鮮やかな青いドレスを着た女が震えながら立っていた。
 ガラス細工の人形みたいな綺麗に整った顔──が、目だけが野良猫のように警戒心をたたえぎらついている。肩が露わになった服から伸びる腕は細くて今にも折れそうだ。露出した肌は寒さで青白く、ウエーブした長い髪はみぞれに濡れてべったりと張りついている。然るべき場所で然るべき状況で見れば俺も興奮のひとつもしたろうが、思い詰めた顔をして睨まれていたんじゃ勃つものも勃たない。
「本当に何でも買ってくれるの?」
 何でもというわけじゃない。火星の土地権利書とか鯨一頭なんてものは俺の専門外だ。だが、幸いにして目の前にいる女は鯨を隠し持っているようには見えない。だから俺はウィスキーを一口流しこんでうなずいた。
「だったら……」
 女は両腕で自分の肩を抱き、
「この身体を買って」
 悲鳴じみた声で言葉を吐き捨てた。
 ちょっと待て!
 確かに俺は世間様に誇れるような商売人じゃねぇ。ヤクだろうが盗品だろうが買うし、何に使うのか分かっていても銃を売ることもある。が、自慢じゃないが人身売買だけはしたことはない。この街じゃ生きるために身を売るヤツもいる。それを買ってえげつない店に売るヤツもいる。人間は仕入れやすくて売りやすい商品──商売をしているヤツならガキでも知っていることだ。けれど俺はこの商売を始めて三年、一度たりとも人身売買だけはしなかった。金儲けの道を知らないと笑われようが、人間が人間を売るマネだけはしたくなかった。これは俺が生きるために決めたルールなのだから。
 俺が人身売買をしないことは西地区に住むヤツなら誰でも知っているはずだ。こいつはどこから来やがったんだ。いや、そんなことはどうでもいい。文句のひとつも言って追い出そうとした時、女の身体がゆっくりと傾き音もなく倒れこんだ。
 あ? 面倒なことになりやがった。
 みぞれが降ってクソ寒くて、客も来なかった一日の終わりがこのザマかよ……今日は厄日か。店の外で誰が死のうが俺の知ったことじゃないが、店の中で死なれるのはシャレにならねぇ。客を見殺しにしたとか、金目当てに女の客を殺ったなんて噂が立ったら客が来なくなっちまう。やっと商売が軌道に乗ってきたんだ勘弁してくれ。
 しょうがねぇな。
 グラスから立ちのぼるウィスキーの湯気に未練を残しつつ女を抱え上げた。
 女の身体は妙に火照っている。こいつ熱があるのか。変な病気じゃなきゃいいが……とりあえず俺のベッドに寝かせよう。その前にこの濡れた身体をどうにかしなきゃいけねぇな。女の着替えは女に頼むのがすじなんだろうが、この時間でこの天気じゃ呼び出しても誰も来てくれないだろう。しゃぁねぇ。
 ドレスを脱がせて初めて女が女じゃなくって、女装した少年であることに気付いた。
 このガキ、男娼か。
 人の数だけ性的嗜好ってやつはある。ドレスを着せて女装させた少年相手じゃないと勃起しないヤツだっているだろう。おまけにガキの身体にはまだ新しい傷が幾つもついていやがる。どうやらこのガキの相手は女装した少年をいたぶるのがお好きなようだ。まったく変態っていうのは奥が深いぜ。男にもSMにも興味がない俺には窺い知れない世界だ。
 とにかくコイツを何とかしねぇとな。
 ぐったりしているガキの口を無理矢理こじ開け、一昨日仕入れたばかりの抗生物質とウィスキーを口移しで流しこむ。ガキの喉が動き「うっ」と小さく声を漏らす。だが目を覚ました気配はなく、荒い呼気のまま毛布にくるまっている。なんの薬か知らねぇが抗生物質と言うぐらいだから病気に効くだろう。
 しかし、なんで俺がガキとキスしてなきゃいけないんだ。おまけにベッドまで取られてよ──くそっ! 天の上の誰かさんは俺のことが嫌いみたいだな。
 この女みたいな顔をしたガキがリョージだった。


 自分のベッドを取り戻せたのは一週間後だった。
 売値で一〇〇〇にはなったはずの抗生物質は全部なくなり、下の世話までさせやがったリョージが意識を取り戻して開口一番言ったのは、
「お兄さん……一発やらしてあげるからタバコと食い物くんない…………あれ? 俺服着てないや……ひょっとしてお兄さん、もう一発やっちゃった? だったら正当な報酬だよね」
 俺のベッドに座り、俺の毛布にくるまって、俺を見上げるリョージを──俺は一発ぶん殴っておいた。


 元気を取り戻したリョージは尋ねてもいないのに自分の生い立ちやこの店に来た経緯を語りやがった。俺の三日分の食料を食い散らしながら。
 リョージはこの街でも最も貧しい南地区の出身だった。この街のガキの例に漏れず親なんてわからない。物心ついた時には街のなかに放り出されていたそうだ。親のいないガキが生き残るためにすることはたかが知れている。盗み、恐喝、そして己の身を売って稼ぐぐらい。リョージはその中から身を売ることを選んだ。一番手っ取り早く金になるし、需要はいつだってある。リョージは地元の小さなファミリーの軒を借りて商売を始めた。見た目が綺麗なリョージが稼ぎ頭になるのは容易いことで、二年もしないうちにファミリーが抱える娼婦・男娼のトップに躍りでる。
 これが俺の店にやって来る原因にもなったのだが……。
 稼ぐ娼婦や男娼を欲しがるのはどのファミリーでも同じこと。リョージの噂を聞きつけた西地区のパパーニンファミリーが目をつけた。『リョージを売れ』と。人数も組織の戦闘力も違いすぎるパパーニンの申し出を断れるわけもなく、リョージを抱えたファミリーは雀の涙ほどの金額で売り渡すことに合意。もちろんリョージの承認なんかはない。
 だが、パパーニンの娼婦・男娼で五年以上生き続けたヤツはいない。パパーニンは娼婦たちをヤク漬けにして逃げられないように縛りつけることで有名だった。当然リョージもそのことは耳にしていた。だから逃げた。が、この街にいる限りファミリーやパパーニンから無事でいられるわけはない。街を出なければ末路は見えている。だが街を出るためには金がいる。金はいるが売るものは自分の身ひとつだけ。三日ほど彷徨った末に思いだしたのが人身売買を嫌っている俺だったそうだ。俺の店に駆けこんで自分の身を買ってくれと言えば、身を買う代わりに仕事を紹介してくれるとか施しを貰えるかもしれないという目論見があったらしい──俺は他地区でお人好しのバカだと思われているのだろうか? リョージからこの話を聞いた時ほど『評判』ってヤツの恐ろしさを感じたことはないぜ。
 確かに人身売買は好きじゃないが、当人の借金から身を売られることにまで目くじらを立てるつもりはない。借金の理由はどうあれ、借金の清算のため身を売ることは商売上の正当な取引だ。だが、リョージはファミリ−の軒は借りていたが、それに対して金を納めていてすべて自前だ。借金はない。つまりこれは一方的に売られるだけの俺の一番嫌いな取引だ。
 リョージの下心はともかく、俺の目の前で人身売買だけはさせない。
 なんの因果だよ。なんの罰ゲームだよ。と、天の上の誰かさんに文句言いながら、この件について解決に動いた。俺はパパーニンがグェンファミリーと取引した時に橋渡しをしてやったことがある。つまりパパーニンに貸しがある。この貸しはいつかデッカイ利息をつけて返してもらおうと思っていたのだが、リョージのためにここで切り札を投げ捨てなきゃいけない不幸を嘆いたよ。俺の多大な犠牲によってリョージの身は自由になった。ただしパパーニンから『もしまたリョージが売春をしていたら、その時はコイツの身柄はファミリーがもらい受けるしオマエにはそれなりの弁済をしてもらうぞ』と釘は刺されたが。
「やっぱアニキは噂通りのいい人だ。噂を信じて大正解だったよ」
 細っこい身体ごとぶつかるようにして抱きついてきたリョージに、
 オマエは猫か!
 俺は昔一度だけ飼ったことがある猫のことを思いだしていた。
 ガキの頃、ケガをした猫を拾ってきたことがある。猫はバカでなんの役にも立たないし世話ばっかりかかったが、拾ってきた俺を信じてどこまでも懐いてきた。コイツも猫もどうして俺を信じるのだろう? 信じられる方のことを考えたことあるのか…………やっぱ天の上の誰かさんは俺のことを嫌っているんだろうなぁ。


 パパーニンとの話はついたが問題は残っている。それはリョージの仕事だ。売春の方には未練がないらしくすっぱり足を洗ったが、今までまともな仕事をしてこなかったヤツが働けるような仕事の口はない。拾ちまったいきがかり上、俺が面倒をみることになった。しょうがないから店の雑用的なことをさせることにした──初めのうちは商品を受け取りに行かせれば騙されたり、運んでいる商品をなくすなど散々な目に遭ったが。そんなこんなでリョージは俺の店に出入りするようになった。




 *          *          *




 三日ほど姿を見せなかったリョージが「アニキ、メシ喰わせてよ。俺、昨日から何も喰ってないんだ。もう死にそう」と言って転がりこんできたのは俺にとってはまだ夜中の午前七時。
 もともとリョージは南地区に住んでいて俺の店に泊まることは滅多にない。それに気分屋のところがあって一ヶ月間連日顔を見せたらと思ったら、一週間も十日も来なくなることがある。リョージは携帯電話を持っていないから連絡のしようもないので何をやっているのか分からない。ま、俺の知らないところでチマチマと小遣い稼ぎでもしているのだろう。
 リョージの私生活に興味はないが、仕事柄俺自身が外出しなきゃいけないこともあるのでリョージに店の合い鍵を渡していた。
 くそ! こんなバカ野郎に鍵を渡しちまうなんて……己の浅墓さをこれほど恨んだことはないぜ。
「起きなよアニキ。早起きは三文の得って言うじゃん」
 リョージ、オマエはいつも昼過ぎまで寝ているだろう。たまたま早起きしたからってテメエにその言葉を言う権利はねえ!
 真っ当な抗議を無視してリョージは俺の毛布をむしりとりやがった。
「冷蔵庫の中のものを使ってもいいよね」
 いいとも悪いとも答えるより前に、リョージは勝手知ったるなんとやらで料理を始めやがった。
「アニキも喰うだろう? 今すぐ作るからコーヒーを淹れておいてくれよ」
 温かいベッドから追い出された俺は、居間兼食堂兼オフィスである店に置いたコーヒーメーカーをセット始める。リョージにならインスタントコーヒーでもいいのだが、目覚めの一杯くらいはまともなものが飲みたい。
 女が朝飯を作ってくれるなら俺だって嬉しいけど、朝から野郎の手料理かよ……今日はいったいどんな一日になるんだ?


 冷蔵庫に入っていたありったけの卵六個を使った目玉焼きプラス切らないまま入っているベーコンと、三日前から食いかけになっていて人間の顎の力の限界を測定するために存在しているような硬いフランスパン、それにコーヒー。豪華なんだか胃もたれのためなんだか分からない朝食を食い終わった頃、みぞれが窓を叩き始めた。
 降ってきやがったか。道理で寒いはずだ。
「くそっ! またみぞれだ。嫌になるなぁ。寒いし、辛気くせぇし、稼ぎ口もなくなっちまうし……これがハワイなら天国みたいにピーカンで、寒さに震えることも食い物にも困ることなんてないだろうによ。あーぁカイは上手いことやったよなぁ」
 リョージはコーヒーカップを両手で抱えながら恨めしげに窓の外に広がる空を睨んでいる。
 この街は昔に造った熱効率の悪い工場や火力発電所が幾つもあって、いつも大量の熱を排出している。たとえ雪で降ってきても地上に着く前に溶けてみぞれになる。
「その話は前にアニキから聞いたよ。でも、排熱が届かない場所だってあってもいいじゃん。そこなら雪になっていないかな」
 排熱が届かないような場所はよほど高いビルの上ぐらいだろう。
「だったらさぁ、あのビルの屋上に行ったら雪になっていないかな」
 リョージはガラスの向こう、灰色とも黒ともつかない鈍た空を左右に分けるように立っているサンザスビルを指差す。
 サンザスビルはこの街で一番高いビルだ。この街がまだ腐る前に再開発計画のシンボルとして建てられた二十階建ての高層ビル。しかし、この街の没落と共に廃墟と化して、低層部はまだ機能しているが十階以上は電気すら通っていない。
「今までどうして気がつかなかったんだろう。あそこなら雪かもしれないじゃん。雪が積もっていたら真っ白できっと天国みたいに見えるかも……きっとそうだ! 俺ちょっと見てくるよ」
 やめておけ。高いと言ったってたかが二十階だ。行くだけ無駄だ。の、俺の言葉を無視してリョージは飛びだしていった。ヤツが開けっぱなしにしたドアからは重くて冷たい空気が入りこんできた。
 どうしてリョージは雪にこだわるんだろう?
 この街にはありえない『雪』という変化で何をしようとしているんだ。リョージももう十七歳だ。ゴミみたいな俺たちがどんなに頑張ったって何も変わることはないという現実を受け入れてもいい歳だ。夢なんか見ると余計に現実が苦しくて辛いものになることぐらい分かっているだろう。この街にある夢は悪夢しかないのだから。


 ぬれネズミになったリョージが戻ってきたのは夕方だった。
「屋上雪じゃなかった…………やっぱ天国はハワイにしかないんだ…………」
 唇を紫に色にして小刻みに震えるヤツの声には疲労と落胆の色が滲んでいる。
 屋上に置いてあったという錆の浮いた工具箱を「おみやげ」と言って俺に押しつけ、うつむいたままシャワールームに向かう。
 だから言ったじゃねぇかよ。
 って、こんな工具箱をみやげに持ってきたって銭にならねぇぞ。どうするんだよ……。




 *          *          *




 サンザスビルの屋上に行った翌日からリョージは姿を消した。ま、ふらりとどこかに行っちまうのはヤツのクセみたいなものだから俺も気にしていなかった。
『昨日の拳銃と弾代は本当に週内に払ってくれるんだろうな』
 そんなある日、東地区の付き合いのある古物商からこんな電話がかかってきた。
 は? 拳銃? 俺は拳銃なんて買った覚えはない。
 相手の言っている意味が分からず、受話器を握ったまま言葉を探す。
『おい、聞いてるのか?』
 やや苛立ちの混ざった声に我に返り、いったい何が起こっているのか、どんな経緯なのか尋ねる。
『あんたんトコの若い衆……リョージって言ったっけ。そいつが閉店間近に飛びこんできて「あんたに使いを頼まれた。代金は週内に払うから拳銃一丁と実弾三十発を今すぐ用意してくれ」って言われたぜ。あんたの頼みじゃ断れないし、幸い拳銃も弾もあったから渡したけどよ…………弾代込みで七万だ。約束通り週内に払ってくれよ』
 相手は早口でまくし立てると、俺の返事を待たずに電話を切ってしまった。
 拳銃ってなんだよ? 拳銃なんて手に入れて何をするつもりだ? まさかバカなことをする気じゃないだろうな?
 リョージから直接話を聞かないと埒があかねぇ。くそっ! 安物でいいからリョージに携帯電話を持たせておくべきだった。とにかくリョージが立ち寄りそうな場所に行ってヤツの居場所を見つけるしかねぇ。


 飲み屋、飯屋、博打場……思いつく限りの店を回った。リョージの家にも行った。だが、どこにもヤツの姿も痕跡もない。
 降り続くみぞれに体力も気力も削がれた俺がサミュエルソンの店に転がりこんだのは、日付が変わって小一時間ほど経った時だった。
 カウンターにへばりついた俺にホットウィスキーを出してくれたマスターが耳打ちするように、
「これ表に出てない話なんだけど」
 前置きして小声で話しだす。
「昨日の夜、いや、もう日付が変わっているから一昨日のことなんだけどさ。東地区にあるスズキの店に強盗が入ったらしいんだよ」
 スズキと言えば表向きは普通の薬屋だが、カンジファミリーの息がかかった店で裏では相当な量のヤクを捌いているはずだ。
「店にいた用心棒たちが撃退したから被害はなかったらしいけどね。ちょっとした銃撃戦があって強盗は撃たれたみたいだよ。店のなかに結構な量の血痕が残っていたというから。で、その強盗なんだけど顔はバンダナで隠していたけど真っ赤な髪の毛をしてたんだってさ。あんたのトコのリョージも赤く染めていたろう。ちょっと気になってね」
 マスターの言葉に自分の感覚が麻痺していくことを感じていた。ホットウィスキーが入ったグラスの温もりも感じない、さっきまで背骨の奥まで染みこんでいた寒さも感じない。ただ、ナイフのように鋭くてやたらと重い感情が胸の奥から染み出てきて全身を浸そうとしていた。
 俺はサミュエルソンの店を飛びだし東地区に向かった。


 焦るな俺。まだ強盗がリョージと決まったわけじゃねぇ。でも、もしリョージだったとしたらどこを撃たれたんだ? ケガをしたってどの程度だ? 生きているのか?
 走り続けて火照った身体の首筋を冷たいみぞれが伝い落ちる。その冷たさ一つ一つが俺に不吉な妄想を励起させる。
 いいか俺、よく考えるんだ。もし強盗がリョージだったとしてヤツが撃たれたとしたらどこに逃げる? 俺の店か? いや違う。ヤツは俺に迷惑をかけないようにするはずだ。当然東地区にはいられないし、揉め事を起こした北地区でもないはず。となれば生まれ故郷である南地区か。
 スズキの店から南地区に逃げこむとしたらどのルートを使う? くそっ! 思い浮かばねぇ。落ち着け、落ち着くんだ!


 東地区についてからジャンキーや娼婦たちに尋ねた結果、スズキの店を襲った犯人はまだ捕まってもファミリーの手で殺されてもいないそうだ。彼らの情報に胸の奥でわだかまっていた苦々しい想いが消えていくことを感じていた。が、のんびりとはしていられない。未遂とはいえ強盗をされて面子を潰されたファミリーが何もしないでいるわけがない。ファミリーよりも先にリョージを見つけて事の次第を確認しなければ。
 マンパワーではファミリーには太刀打ちできないが俺にも有利な点はある。カンジは街のヤツラから嫌われていることだ。カンジファミリーは新興組織だ。急速にのし上がってきた組織の常で無茶をやってきた。厳しい取り立てや恫喝にカンジを憎んでいるヤツも多い。特に街の底辺に住むヤツラには顕著だ。ファミリーに聞かれても知らない、見ていないと答えるヤツの方が多いはず。
 それに比べ俺は東地区にも顔見知りのヤツは多い。聞きこんだ話を総合すると、どうやら強盗は東地区でも入り組んでいる六番通り逃げこんだらしい。六番通りは南地区に接していて東地区の勢力があまり及ばない緩衝地帯的な場所だ。あそこに入りこめばファミリーもおおぴらには動けないはず。だが同時に話を聞けば聞くほど強盗はリョージである可能性が濃くなる情報ばかりだった。
 バカ野郎……早まったことをしやがって……。
 みぞれが降り続いていても朝は来る。ぶ厚い雲がわずかに明るさを帯び始めた時、俺は六番通りの外れ、廃屋の庭に溜められた回収がされることのないゴミ集積所でリョージに会った。


 リョージはゴミのなかで丸くなって死んでいた。まるで撃たれた腹をかばうように背中を丸め左手で傷口を押さえたまま。
 最期に何を想って死んだのか俺には分からない。けれどリョージの顔の横には濡れてクシャクシャになったハワイの観光パンフレットが散らばり──それはヤツがいつも持ち歩いていたものだ。何かあるとポケットから取り出しては『アニキ見ろよ、これが天国だぜ。青い海と空、白い砂浜、浜辺にゃ美女、温かくて最高だ。やっぱ暮らすんならこんな街じゃなくって天国みたいな場所の方がいいよな』と夢を語る宝の地図──うっすらと開いたままの目はパンフレットを見つめている。
 その顔には泣き顔とも微笑みともつかない表情が張りついていた。
 リョージ。オマエは最期に何が見えたんだ? 天国か?
『なぁアニキ、雪が積もっていたら真っ白できっと天国みたいに見えるよね』
 不意にリョージの声が聞こえた気がした。
 そうかい。そんなに天国が見たいのかよ。
 俺はリョージのポケットから拳銃とラッキーストライクの箱を取りだし、サンザスビルを目指して歩きだす。



 *          *          *




 屋上に続くドアの鍵は壊されていた。バールかなんかで無理矢理こじ開けられ鉄板が無惨にめくれて完全にその機能を失っている。たぶん以前リョージが上った時に壊したんだろう。俺は鉄製の重いドアに肩を押しつけ体重をかける。軋んだ音共にのっそりと開く。
 じぅ。じぅ。みぞれが重い音を立てて屋上を叩いていた。
 雪は降ってなかったよリョージ。でもここがこの街じゃ一番高い場所だ、この街で天国に一番近い場所なんだぜ。
 ラッキーストライクに火をつけた。紫煙が鈍色の空に向かって立ちのぼる。煙を追って空を見上げた俺の顔をみぞれが叩く。
 ここからじゃ天国は見えないな……
 煤煙を吸いこんで暗くて重そうな色の雲が広がっているだけ。その重さに耐えかねたかのようにみぞれを吐きだし続けている。
 天の上の誰かさんは飢えて、寒くて、暗くて、惨めで、煉獄のようなこの街で生まれたヤツのことなんか気にも留めていないんだろう。ささやかな奇跡ってヤツも見せる気はないんだな。
 ああ、いいさ。もともと天国なんて信じてもいねぇし、本当に天国があったとしてもどうせ俺の居場所なんてありゃしない。
 だがな、リョージは信じていたんだぜ。いつも夢見ていたんだぜ。だったら最期ぐらい天国が無理でも雪ぐらい見せてやってもいいだろう。なあ、そんなに俺たちが嫌いなのかよ。
 火が消えてしまったタバコを吐き捨て、拳銃を上に向けた。
 たんっ。乾いた音と共に軽い衝撃が右手を抜ける。
「天の上の誰かさんよ。こいつはリョージからだ」


 おわり

2009/01/27(Tue)21:06:51 公開 / 甘木
http://sky.geocities.jp/kurtz0221/
■この作品の著作権は甘木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 2〜3分のPVをイメージして書いてみました。
 この物語はいつの時代で、舞台はどこで、出てくる人間たちはどんな人間なのかという情報が曖昧なまま物語は進みます。と言うか書いている私にも明確な設定はありません。せいぜいリョージはアンジェイ・ワイダ監督作品「灰とダイアモンド」の登場人物マチェックを思い浮かべて書いたぐらいです。
 曖昧と断片を組み合わせていくとどうなるか、そんなことを考えながら書いていました。

 私事ですが、一週間前に身内の葬式がありました。その時感じたのですが、悲しみや辛さが大きすぎると感情は高ぶらないで、ただただ感情が削られ摩滅していくことに。主人公の感情もきっと摩滅していくんだろうなぁと思いながら筆を進めたのですが、それが上手くいっているのかどうかすら私には分かりません。

 もし読んで下さった方がいらっしゃいましたら、一言でも結構ですから感想をいただけると幸いです。


 *1月27日。バニラダヌキさん、ミノタウロスさん、一見さん、中村ケイタロウさんからの御指摘をいただき用語表現等を微修正させていただきました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。