『最も斬殺の似合う彼女』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:八月一日縁                

     あらすじ・作品紹介
変哲のある少女と、変哲の無い悪魔が出会う。果たして歯車はどう回るのか――。

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 人間の目の行き届かない路地。
 夜闇に銀の一閃が煌く。
《シュバ――ッッ》
 人間が人間を斬る音が、小気味良いと思ったのはこれが初めてだ。
 斬られた男――俺の契約者は後ろに二、三歩よろめき、それからぐしゃりと無様に潰れた。上体を斜めに走る刀痕から、容赦無く遠慮無く血が溢れ出る。陽がある時間ならば見事な赤を見ることが出来るというのに、生憎今は夜と混ざってどす黒い。
 死ぬのならば、せめてあの赤を見せろ、人間。
「あぁあ……あぁ、ああああ……!」
 契約者が力無く呻く。少し転げ回ったあと、使い物にならなくなった腕を使い、ずるずると身体を引き摺って俺の足下まで来た。僅かな希望のみが存在する目が俺を見る。
 瞬間、俺はこいつが死線の向こうに行ったのを見た。
 それは俺がこいつとの契約から解放されたことを示す。
「たすけ……たす、け……俺、あぁ…………っ!」
「あーあーあーあー。無様だな」
 そう言ったのは、この契約者を――否、元契約者を切った人間だ。発せられた声に嘲りの色は無く、ただその状態を的確に言っているだけであった。
 しかし俺は、そこに嘲りを加えよう。醜態を曝した時点で諦めれば良いものを、まだ俺に助けを乞うか。人間は実に、底の底まで腐っていて途方も無く無様だ。
「俺は貴様が死線を越えたのを見た。俺が契約者に手を貸すのは、お前が死線より内側にいる間のみ。さっさと死ね」
「ぁあ……ぁああああぁああ!」
 絶望に染まった悲痛な叫び。非常に耳障りだ。
「お前」
「ん。俺か」
 たった今元契約者を斬った武器が怪しく光る。しかし持っている本人の声音は、場違いなほど非常に暢気だった。
「なに?」
「さっさとこいつを殺せ」
「はいよ」
 俺の言葉に躊躇いも無く、そいつは武器――刀を振り下ろす。再び銀の一閃が現れ、元契約者は小さく声を漏らして事切れた。
 ……あぁ。
 死んだ。
 俺はやっと、本当に、忌々しい契約から開放された。
 途端、人間の身体の形が崩壊し始める。
「さて、さっさと帰るか。俺明日から進級するんだよ。高二だぜ高二」
 血糊がべっとりと付着した刀を持ちながら、大きく伸びをする。
 たった今殺人をした、そんな事実がそいつから微塵も感じない。ちらと刀身にへばり付いた血と油を見て、そいつは後ろを振り返った。
「純。タオル貸して」
「……なんで持って来ないんだよ」
 闇の向こうから、不機嫌を丸出しにした声が返ってきた。
「命令」
「…………殺されろ」
 溜息と共に吐き捨て、諦めたようだ。二回の足音の後、人間の顔が見えた。
 しかしそいつの後ろにいるのは、人間ではない――人間の形をした、純という名を授かった、俺と同じ悪魔だ。
 悪魔と俺の視線が合う。人間の身体が崩れることによって、悪魔に元から備わっている夜目が戻ってきていたため、その悪魔の人間の顔は苦笑いをしていることが分かった。
「お前は良いな。契約者が死んで」
「ああ」
「おいおいお前ら、そんな物騒なこと話すなって」
「物騒なもの持って物騒なもの拭き取ってる奴が言うなよ舜」
 舜。……契約者の名前か。
 俺は今まで契約者の名を呼んだのは、会った時それだけだ。口にする価値も無い故である。
 純と呼ばれた悪魔は、俺に比べいくらか人間への嫌悪が少ないのだろう。まだ俺の声帯は残っていたため、純と言う名の悪魔に向かって口を開く。
「人間のように零落れるな。悪魔の恥だ」
「分かってるって」
「うへぇ。厳しいねぇ」
 契約者は少しもそう思っていないようだ。タオルを投げ捨て、鞘に収める。パチンと音が一瞬だけ響いた、それと同時にそいつらは背を向けていた。
「じゃーな。また会うかもしれないから、そん時はよろしく」
 便宜を図ってどうするという。
 思った瞬間、俺の身体は霧散した。

× × ×

 ――白。
 白い部屋。
 純白。
 この無重力空間に飛ばされた回数というのは、いつからか数えなくなっていた。これからこれが一生続くものだと思うと、気力が無くなる。
 俺は自分の手に視線を落とした。つい先ほどまでは人間の姿形であったものを、今は元の姿に戻っている。黒く厚い皮に包まれた、猛禽類のそれに近い手。銀の爪が三本突き出ている。
 人間のような丸いものではなく尖ったもの。肩甲骨辺りからは、蝙蝠の如き翼。
 化け物。怪物。そういった類の姿。
 人間は俺達の姿をこう言うだろう。――醜悪だと。
 その時。
「――初めまして」
 その声はとてつもなく澄んでいた。顔を上げると、白い服に身を包んだ女が前に居た。黒く長い髪が印象に残る、全体的に端整な外見をした人間。
 俺を見ても動じず口を開くのは、ここが夢であると分かっているからなのだろうか。
「その翼。格好良いね」
 にやり、と女は笑った。嘲笑の欠片は見当たらないが、笑いを含んでいることが俺の癪に障る。
 女は靡く長い髪に少し目をやり、また俺を見る。
「綺麗でしょ」
 整った髪は紛れもない黒――否、漆黒と呼ぶ方が相応だろう。黒い絹のようだ。
「…………長いだけだ」
 俺にとっては、それだけだが。
 女は気を悪くした風でもなく、また笑って少しだけ俺から離れた。間が丁度良いものになる。
 長い黒髪。同色の瞳。色白の肌に華奢な体格。少々発育不全なところも見られるが、それは十五歳の女の外見をしている。性格は外見にそぐわず図太いようだ。
 現実世界でもこのような性格をしていたら、確実にこいつは不審者だ。
 どちらでも良いが。
「――雲隠五十嵐」
 雲隠、五十嵐。
 人間界に降りて、これくらい奇妙な名は一度も見たことが無い。
 今まで契約者となった人間は、自分の名を知られていることに酷く動揺していた。――こいつは。
「なに」
 裏を漂わせる笑顔のまま、少し首を傾けただけだった。動揺もなければ警戒も無い。驚愕も無ければ憤怒も無い。
 人間に備わっているなにかが、抜けているような奴だ。
「これから俺の話すことは、この夢の世界のことではない。全て現実のことだ」
 前置きし、一旦口を閉じる。
 ――さて。
 何百、何千、何万。数えることすら放棄した、それほど多く紡いできた最初の言葉を。
 くれてやろう。
「人間を殺せ」
 

 女は、変わらず笑顔だった。動揺の欠片も不審も感じない。実際動揺している思えない。
 俺に向かって、口を開く。
「理由を聞こうか」
 随分と図太い神経を持っているらしい。
 数の最果てを見る、その一つを積む。
「人間は同種を殺すことに激しい嫌悪感を持つように出来ている。その中、お前を含むR.A.――“Robber Ability”という名称の能力を持つ人間が例外として生まれる」
「それが小生ってわけか。なるほどなるほど」
 軽く頷く。理解しているのか、していないのか。そもそも『小生』の一人称を使うのは一般に男だ。
 その上こいつの動作一つ一つが演技臭い。
「R.A.能力者を野放図にさせておくと、気紛れで都市が一つ消滅する可能性がある。存在を知る者に利用される可能性もある」
「それなら互いに殺し合って数を減らして行けば良い。だから『人を殺せ』か」
 そうだろう、と問いかけるように視線を向ける。挑戦的な笑みと共に。
「悪魔は“狩人協会”より、魔力を駆使し能力者の補佐をするように命じられている」
「そのためには契約が必要。契約を結べ。――こんなところかな」
 俺の言わんとしていたことを、全てこの女が代弁した。悪魔に眉など無いが、俺の眉間に皺が寄るのが分かる。本当にこいつは人間か。とてつもなく胡散臭い。
 悪魔の視線を一直線に浴びながらも、その女は小さく肩を竦めただけだった。苦笑ではなく、この空間の色のように明るい笑顔で。
「別に小生は読心術を使えるわけじゃないよ。小生の読んできた本じゃ、大概そんなことが書かれていたからね」
「……悪魔、死神、天使、狼人間、吸血鬼。それらは人間の思想で空気中の魔力が動き、その通りのものを作り出すという性質の結果。悪魔の身体が契約によって縛られるように出来ているのはその所為だ」
 書物が先ではなく、悪魔の誕生が先ということだ。
「なるほど」  
 女からのそれ以上の言葉は無かった。それを知った驚愕も喜びも感じない。図太いというより鈍感か。
「つまり次は契約に入るわけだ」
「…………それは、世界の裏に身を投じるということに繋がる」
「良いよ。だってそれ、小生にしか出来ないんでしょ」
 さらりと言ってのける。
 ――自分にしか出来ない。
 綺麗事だ。殺したい衝動に理由を付けているだけ。
「次の瞬間には首が飛んでいる可能性もある」
「ご心配無く」
「肉体的疲労と精神的疲労。両方を抱えられるか」
「小生をなめるなよ」
「途中離脱は死に直結する」
「小生には縁の無いこと」
「その他質問は」
「ありません先生」
 こいつの全ての言葉の最後には、口角を吊り上げて笑うという奇怪で不愉快な表情が付いている。
 口で聞かされるのは簡単だが、一度でも体験してみれば――後悔する。
 小さく声を出して、女が笑った。
「ふふ。お前さんは優しいんだね」
「………………以前、このような内容を言わずに契約を無理矢理結んだ悪魔がいた。結果、契約者は狩人協会に訴え、悪魔は殺された」
 俺はその悪魔の心情が手に取るように分かる。人間なんぞに一々説明するのは時間の無駄というものだ。
「悪魔。狩人協会。殺し合い。…………面白い。改めて言おう。雲隠五十嵐はお前さんとの契約を承諾する」
 折れそうな外見に似合わないほど、大きくはっきりとした淀みない声。真っ直ぐに俺の目を見て、微笑を称えて、言いきった。
 ――ここまできていれば良いだろう。
 俺は右腕を女に向かって伸ばした。
「左手を」
 そいつは躊躇い無く、左手を俺の手に乗せた。白い手が俺の手の上でくっきりと形を現す。
 その白い甲に、爪で“×”の傷を付ける。じわりと赤が浮き出た。
 ――鮮血。
 鮮やかな赤。
 一つ前の契約者の最期は、黒に塗れていた。しかし今、白に赤は良く映えている。
 愚かな人間には勿体無いほど、美しい。
「これが好き?」
 初めて、こいつは俺に問いかけた。傷付けられたことに動じないこいつを見ても、俺はもう不審に思わない。感性が無い故だ。
「人間の血には勿体無い色だ」
「色か。うん。小生もこの色は好きだよ。綺麗で」
「殺人狂の貴様と纏めるな」
 酷いなぁ、と笑う。酷いと思っていない声だ。 
 血が甲を伝って流れた。中身がいくら腐ってようと、人間の血は美しい。しかし味が破滅的なのは、今まで誰もがそうだった。
 甲を口に近付け、赤を舐めた。
 瞬間。
 慣れない、慣れたくも無い味が口内に広がった。
「それ、小生は美味しいと思わないんだけどね」
 哀れんでいるようでもなく、女は言う。やはりこいつの血も不味い。見目に全てを奪われたようだと毎回思うが、そんなことを考えていても味は消えない。
「あぁ。そろそろ小生が起きるようだよ」
 暢気な声に、俺は気分の悪さを全て乗せた視線を向ける。それに眉一つ動かさず、あのままの表情で続けた。
「この傷付けられた時は痛くなかったのに、今になってじわじわきてる。起きる予兆じゃないかい?」
 悪魔の唾液によって血の止まった左手の甲を見せる。くっきりと“×”の文字が刻まれてある。この傷は一生消えないものだ。
 人間ではない――人間を否定する印。
 ……あぁ、口内が壊れる。
 こいつの言っている痛みは、確かにこの世界が崩壊する一歩手前だ。意識が現実に戻りかけている。
 この世界が壊れれば、それを媒体に――俺は、外に出る。
 人間の血により、あの世界で形をとることが出来る。
「……さっさと起きろ」
 そうすればこの口内が元に戻る。
 しかし。
「待った」
 笑顔でこいつは止めやがった。無邪気で不気味なほど純粋、に見える笑顔で。
「お前さんの名前。小生は知らないな」 
 さっさと起きろこの女。調子に乗りやがって。
 ぐにゃりと世界が歪んだ。
「好きに呼べ。……俺の名はこの世界の言葉では、発音不可能だ」
「なら名前が必要だね。――桐生。雲隠桐生が良い」
「――っ、さっさと起きろっ!」
 身体が無理矢理、現実に引っ張られる。引き裂かれそうだ――!
「返事は? 桐生」
「貴様っ」
「返事」
「――っ! 分かった、さっさと起きろ!」
「じゃあ小生のことは名前で呼ぶこと。はい返事」
「分かった!」
 ヤケクソになったのは初めてだ。
 叫ぶと、あっさりと頷いた。とてつもなく大きな敗北感が俺の中に残る。
「じゃあ起きる。――また後でね」
 そう言って女――畜生。
 静かに、盛大に、空間が歪む。身体が強引に向こうの世界へ持っていかれると同時に見たのは、不気味で可憐な五十嵐の笑顔だった。

×   ×   ×

 ――光。
 ……朝、か。
 カーテン越しに射す光が、俺の顔に当たっていた。
 ………………あぁ。
 自分の掌を見ると、それは人間の形をしていた。堅く黒く三本指ではなく、柔らかく人間の肌の色をした五本指。顔を触ると、自分の顔をしていなかった。
 人間の身体。
 悪魔は人間の血を摂取することによって、人間界で生きてゆける身体――つまり人間の身体へ構成される。人間の血液というものは指紋と同じく絶対に同じものは無く、故に今までと同じ身体には絶対にならない。
 つまり、この身体になるのは初めてということだ。……あぁ、今回も性別は男らしい。
「――……おはよう」
 背を預けていたベッドの縁。直ぐ近くから、半寝ぼけの声がした。あの良く分からない、分かりたくもない笑いも含まれていることは無視する。
 ベッドから降り、前に回り込み軽く屈んで人間化した俺の顔を覗き込んだ。長い黒髪がさらりと肩から落ちる。
 そして笑った。
「イケメンだね。雲隠桐生」
 俺を見て驚いた風が無い。……つまりこいつは、夢の中のことを理解している。あの性格は夢の中限定ではなく、いつものものなのか。
「……俺と貴様は家族ではない」
「確かに『貴様』は家族じゃないよ。『五十嵐』は家族だけどね」
 ふふ、と笑う。朝っぱらからよくこのように口が回るものだ。
 五十嵐は壁にかけてある時計を見た。七時四十五分を指しているのを確認したあと、クローゼットを開ける。両開きの片方には鏡がついていた。
「今日ね、小生の学校の始業式なんだよ。今日から高校生」
「精神が全く成長していないようだな」
「小生は最初から完全体だからね。進化する必要無いんだよ」
 誰かこいつの口を縫え。
 片手は櫛で髪を梳き、片手はかけられている一着を出す。カーテン越しとはいえ光のある部屋、それを見るのは容易かった。
 ――珍しい。一続きになっているセーラー服だ。色は黒く、そしてリボンはあの赤に限りなく近い。
 ベースが黒ではなく白だったら、さらに良く映えたろうに。
「――これね。小生もこの色気に入ったからこの学校選んだんだよ」
「…………。嘘臭い」
「嘘だからね」
 悪びれもせず嘘だとばらす。そこまで潔いのならば最初から嘘など吐くな。
 ――すると、五十嵐は堂々着替え始めた。
 俺がここに居ないかのように、あっさりと。
 ……。
 ちょっと待て。
 今まで女と契約したことも数え切れないほどあったが、……ここまで性別に淡白な人間は居なかった。……いや、もしかして俺の今の外見は限りなく女に近いものなのか? いや――ちゃんと付いているのだから、そんなことは無い、はずだ。
 いつの間にか、俺は目を反らしていた。
 小さな笑い声が、やはり聞こえた。
「別に良いのに。小生はそういうの気にならない性質だから」
 ……なんとなく頷ける性質だ。
 とりあえず視線を戻し、半眼になる。
「女なら気にしろ」
「そう言われてもね」
 袖に腕を通し、一緒に入った髪を出す。寝衣の下も脱ぎ捨て、改めて五十嵐は鏡に向かった。ここからでは横顔でしか見えないが、背筋は真っ直ぐに伸びていた。
 適当に髪を括り、引き出しを開けて靴下に脚を通す。ドアの近くに置いていた鞄を引っ掴み、扉を開けた。
 新しい人間の身体の大きさは、前回とあまり変わらない。けれども新しい身体で肢体を動かすのは中々慣れない。慣れたくもないが、この先面倒なことになるため慣らしておく。……以前、立ち上がるだけでふらつく、その様子を契約主に見られ笑われたことから、今の状況に軽く感謝しながら立ち上がる。
 後を追えば、丁度向かいにキッチンがあった。右にはこの部屋よりも広いスペースがあり、黄色いソファが目に入る。ここがリビングか。
「なにか食べる?」
 こいつはかちゃかちゃとキッチンで作業をしていた。ここからでも手元は見え、具を弁当に詰めているところだ。……随分と手際が良い。
「いらん」
 人間の姿になってから一度も朝に食欲が湧いてきたことは無い。
「じゃあ行こうか」
 詰め終わったのかてきぱきと袋に包み、ソファに放り出された(と思われる)鞄に入れた。
 起床してここまで五分と掛かっていないのは、洗顔朝食散らかった服や布団の片付け云々をしていないからである。こいつは今までもずっと――こうやって朝を迎えていたのだろう。女とは思えない。不衛生極まりない。
『顔くらい洗え』、そう言おうとして開いた口を噤む。言ってもどうせ聞くはずが無い。
 備え付けられたエレベーターのボタンを押す。室内にこれがあるとは、随分金に余裕がある家だ。
「二階しかないけどね」
 小さく笑った。
 電子音を鳴らしながら扉が開かれる。大人が五人も入れば狭いくらいの中だ。相応な家庭用なところから、豪奢な装飾は無いと思われる。
 一階に着く。二階より肌寒く、そして暗い。今の俺の脚で十歩も歩けば終わるような短い廊下を歩いた先はもう玄関だ。革靴に足を突っ込み、朝日のような笑顔で振り返って言う。
「行って来ます」
 返事は無かった。


 春と言えど四月と言えど、まだ早朝なこともあり薄ら寒い。風は悪魔の俺にも平等に吹き、悪魔に冷点というものは無いため、毎回俺は人間の姿をとるたび忌々しくてならない。
「お前さんのその服は、人間になった時のおまけみたいなものかい?」
 スカート、しかも膝が出ているというのに、こいつは何食わぬ顔でいる。冷点備わっているのかこいつ。感覚神経あるのかこいつ。
「……昔、何一つ身に纏わずに人間化した悪魔が、煮え滾った湯を掛けられたという事件が起きた」
 全身にかなりの傷を作ったあの事件(事件と言ったら多少大袈裟になるが)。悪魔で知らない者は余程の馬鹿か、事件当人だ。
「ふふ。随分と大胆な自己防衛を受けたものだね」
「援護する奴に向かって防衛か。合いも変わらず礼儀知らずな人間らしい」
「女性は変態に敏感だからね」
「お前を除いてか」
「その通り」
 ニヤリ、と唇を歪ませる。
 皮肉を皮肉と思っていないようだ。……しかしそれは、皮肉が事実だからだろう。もし俺が一糸纏わぬ姿で現れても、こいつは眉一つ動かさないという確信が何故かあった。
「殺し合いが始まったのはいつから?」
「盛んになったのは世界を巻き込む戦争の後だ」
 顎に左手を当て、一拍だけ黙り込んだ。悩んでいるような表情ではない、あの笑顔のままというのが非常に気味悪い。
 ……そう言えば、今になって初めてまともな質問を受けた気がする。
「……ふむ。戦争で人殺しのスイッチが入った人が戻らなくなった、からじゃないかい? 悪魔は結構前から在ったでしょ」
「……………………」
 ……。
 二、三度思っていたことだが、こいつは本当に人間なのか。 
 勘にしてもここまで的中するということはあり得るのか。それとも以前に、他の悪魔かなにかに遭遇している時に聞いたのか。
 ……会ったことは無いが、魔女というものは存在する。こいつはもしや、人間の皮を被った――
 さっぱりとした笑顔で、五十嵐は俺の服の袖を軽く引っ張る。
「桐生。桐生、言っておくけど、小生は歴とした人間だよ。悪魔に会ったのはお前さんが初めて」 
 思わず顔を見た。身長差より俺は見下ろす具合になるが、五十嵐は仰がずに黒い瞳の視線だけを俺に向けた。
 ――あぁ。
「…………。気味が悪い」
「お褒めに預かり光栄だね」
 ニヤリ、と。
 本当にこのような笑みが似合う。
「――あら? 五十嵐さんじゃない」
「おはようございます」
 立ち止まり振り替えると、五十嵐とより少し高いくらいの身長の人間が近付いて来た。外見年齢は二十歳前後。俺の姿を見、瞬時にそこらの曲がり角で話している主婦と同じ空気を生み出した。……嫌な予感がする。
「初めてお目にかかりますね。五十嵐さんのご親戚の方?」
 好奇心丸出しの笑顔が俺に向けられる。
 口を開く前に、五十嵐が笑顔で言った。
「彼氏です」
 ……。
 は。
 ……は?
「おい――」
「あらほんとっ! やだぁ五十嵐さんったらっ!」
 なにが嫌なんだ。嫌なのは俺の方だ!
「小生にも春が来たってもんですよねぇ。先生、早く行かなきゃ遅刻しますよ」
 教師が遅刻しちゃ生徒に示しがつきませんよ、とさらりと自然に言い放つ。こう言われた本人が嫌味だと気付かないくらい、さらりと。
 ……まぁ、こいつは嫌味が通じないタイプだと思うが。
「あら本当。じゃあね!」
 腕時計を確認した後、無邪気な笑顔を残して、そいつは小走りで先に行った。
 ……。
「おい貴様」
「五十嵐」
 ちっ。
「……五十嵐」
「なに?」
「…………『彼氏』ってなんだ」
「恋愛上付き合っている男性のこと」
 ――契約が無かったら抹消しているところだ。
 ふふ、と柔らかく五十嵐は笑った。
「『不審者です』、って言えば良かった?」
 俺を見ずに続ける。なんともいらつく表情で。
「『お父さんです』だの『兄です』だの『親戚です』だの。それが通じないから突っ込まれない『彼氏』にしたんだよ。それともなにかい? 『不審者です』がご所望だった?」
「そういう問題ではな――」
「過ぎたことをとやかく言っても時間は元に戻らないよ」
 輝かしい笑顔に気圧された三拍後。
「…………元凶は貴様だろうがっ!」
 また五十嵐は、ふふと一層怪しく可憐に笑って見せた。はぐらかすことを躊躇わず、寧ろ堂々とやっている顔である。
 絶対に関わりたくない、関わりを持ちたくないタイプだ。
 ……もう遅いが。
「……あの人間が遅れるのなら、お前もこのまま歩いていくと遅れるだろう」
「うん」
 齷齪しない、というよりそれがどうした、という意味が込められた『うん』である。学園内のこいつの分類は“不良”だろう。
「毎回テストで全教科満点を取ってる小生は、不良なんて先生から呼ばれたことはないよ」
「…………。……お前は勝手に俺の中を覗くな」
「『お前、学校で不良の位置にいるだろう』って、お前さんは言おうとしてたのは本当だろう?」
「……」
 だったら先に言っても構わないよね、と笑う。心の底から気味悪いぞこの女。
 そしてどうやら運を司る神は悪魔を嫌っているらしい。
 十字路に差し掛かったところで、丁度信号が赤になった。朝だからか、自転車の一台も通る気配が無い。
 すっ、と五十嵐が前方を指した。
「そろそろお前さんは姿を見えなくした方が良いね。この交差点を過ぎた次の交差点を曲がった辺りから、一気に生徒が増えるから」
 ……。
 それは出来ないこと全く想定していないかの口ぶり。当然こいつの頭に想定なんてしていないだろうが。
「……そういうことは相手に出来るか出来ないかを聞くものだろう」
「出来るだろう? お前さんだからね」
 どういう根拠だ。
 しかしそれは過大評価などというものではなく、確かに俺のような悪魔は空気中の魔力を使い姿を消すことが可能だ。……けれど俺はこいつに、悪魔はなにが出来てなにが出来ない、ということを何一つ言っていない。もし俺が出来なかったらどうするつもりだったんだこいつ。
「俺が姿を消せば、お前にも見えなくなる上俺の声も届かなくなるが」
「物を動かすことは?」
「可能だ」
「ローマ字読むのは?」
「容易い」
「小生の声はお前さんに?」
「届く」
「それならなんの問題も無いね」
 信号が青になる前に、五十嵐は渡った。何故この時に車が来ない。
 しかし交差点に近付くにつれ、本当に五十嵐と同じ制服の人間が増えてきた。先程の奴のような人間に見つかる前に、俺はさっさと指を鳴らす。
《パチン》
 空気を振動させ、空気中にある魔力を動かす。これで俺は俺以外の誰からにも目視出来なくなった。
「おぉ。流石人外。やれることが違うね」 
 小さく笑う声。人間の言葉でこれは褒めているの類なのだろうが、どうもそのような気がしない上に非常に不快だ。
 契約者にのみ目視出来るように姿を消す、などと都合の良いことは不可能。悪魔の中で最初に人間と契約を結んだ際に誕生した“永遠契約”の内容により、姿を消すということも一々許可を得ねばならず、そしてそれを命令したり許す契約者は少ない。だから俺は今まで猫や鳥などに姿を変えて契約者の近くに居た。
 俺がこのまま逃げるということや、他のR.A.能力者に居場所を教えるかもしれない、ということを考えていないのだろうか。今までの契約者はこれを恐れて姿を消すことを許さなかった。
「小生の元から逃げたい?」
 …………。
 分かっているだろうに、一々訊くな。
 ふふ、と笑い声。
「そうしたければすれば良いよ。でも小生とお前さんは契約に縛られてるんだから、逃げられるはずはないと思うけど」
 …………。
 正論だ。
 今まで逃げようとしたことは無かったが、恐らく実行したところでなにかしら起こるだろう。……不覚。そう考えたのはこれが最初だった。
「他のR.A.能力者さんに小生の居場所教えたとしても、――ふふ。面白いことになるだけだよ」
「……そうだな」
 面白いこと。
 ――こいつは如何にして戦うのか。
 それはそれで、興味くらいは、ある。掴みどころの無い、口喧嘩させたら数十秒で相手の忍耐をぶち破るような女は、腕もそれなりに強いのか。
「変な顔してるね」
 俺の姿は見えない上に、五十嵐の視線は真っ直ぐ前。そして俺は五十嵐の言う通り、“変な顔”になっていたのだろう。
 可笑しそうに笑うこいつは、人間の括りに入っていて良いのだろうか。 
 ――まぁ。
 人間がなにをやっても、俺は憎むだけだが。
 曲がり角を曲がったところで、赤レンガの門が見えた。そこにぞろぞろと人間が入っていく。五十嵐と同じ服を着た女や、男もだ。
「四月一日学園。――ふふ、『嘘の学園』だよ」

×   ×   ×

 五十嵐曰く、この学園は上空から見ると大体“コ”の字に見えるらしい。
 向かい合う二つの棟は女子教室と男子教室。繋いでいる棟は特別教室――理科実験室や美術室などがあるという。入り口のアーチはその特別棟の丁度正面にある。
 しかし講堂はこれと離れた、体育館と同じ棟にあるらしく。
 生徒の波に混ざる直前、五十嵐は言った。
『小生はこれから講堂で始業式なんだよ。側に居ても暇だろうから見学してきて良いよ。小生が呼んだら来てね』
 ……。
 それは、その言葉は、どんなに俺が遠くにいても呼んだら必ず聞こえるだろう、ということが前提のもの。確かに契約を結んだ悪魔にはそれが可能だ。契約主の要求には絶対的に応じること――それは全悪魔を縛る忌まわしき鎖である。
 勿論俺はそんなことを一言も言っていない。……何故こいつはそれを知っている。
『何故それを知っている』、などと言っても答えずはぐらかすのは明白だ。人間ではないが、悪魔も学習する生き物――否、化け物。だからなにも言わなかったが、そう俺が判断したことを読んだようで、淡くふわりと微笑んだ。
 実に気味が悪い。
 五十嵐と別れて校庭を突っ切り、とりあえず正面の棟――特別棟の廊下を歩いていた。
 延々と。
 延々と。
 ……延々と。
「……無駄すぎるだろ」
 ……ここまで広い学園は初めてだ。迷路のように複雑に入り組んでいて、行き止まりなんてものも多々ある。その上壁は全て白、特徴という特徴が無いため、ひょっとしたら俺は同じ場所をぐるぐる回っているのかもしれない。学園なんぞに必要無いだろうこれ。よくここの生徒は道を覚えられるものだ……。
 階段はいくつ登っただろうか。この階の廊下の窓から下を見れば結構な高さだった。二階や三階などというものではなさそうだ。
「無良咲は異常地区、か」
 俺は小さく呟いた。溜息と共に。
 ――東京都都心付近にある、ここ、無良咲区。
 どちらかと言えば人口密度の高い場所にあるため、確かに人気が多いし騒がしい。しかし、それもどこか少し、否、結構“ずれている”。
 例えば。
 このような造りの学園は、恐らく百以上の学園を見てきた俺でも始めて見る。悪魔である俺の感性でも異端と判断する。これも“ずれ”の一つだと思うが、更に無良咲区は学園密集地区でもある。それほど大きい区ではないくせに、十は軽く超える――らしい。あくまでこれは情報だ。
 R.A.を知らされる年齢はおよそ十六歳。
 学園には十六歳が多く居る。
 つまりこの情報から、R.A.能力者である可能性のある者が多く在るということだ。
 現に俺は、ここ二十年近く、ずっとこの無良咲区内に居るR.A.能力者に憑いてきた。
 ふと頭上から小さくノイズが聞こえた。天井のスピーカーからか。
「――ただ今より、始業式を始めます。一同、起り――ちょ先生、それ校内放送になってる――え、あ、すみませ」
《ブツッ》
 ……。
 とりあえずこれで生徒に出くわすことは、完全に無くなった。俺は顕現して、例に右手にある教室のドアを開けた。
 生徒は全員講堂に行っていて。
 故に、今は誰も居ないはずの教室に。 
「ん?」
「……」
 目の前の机に。
 人間の女が、座っていた。
「……」
「……」
 沈黙が、制する。
「……」
「……。どちら様?」
 少し首を傾けて訊ねる人間。
 俺はそれに答えず。
《ピシャリ》
 閉めた。
「……なんだったんだ」
 生徒全員講堂に行っているのではなかったのか、どうして残っているんだ今の女は! 俺は地味に痛くなった頭を押さえ、踵を返す。
 が。
《ガラリ》
「どこ行くの」
「……っ!」
 振り返れば。
 笑顔で、人間が俺の顔を覗き込んでいた。
「誰かの保護者……ってことはなさそうね。侵入者ってところかな。あぁ、でも逃げなくて良いわ」
 いっそ清々しくなるほど着崩された制服。肩に掛かる程度の癖のある髪は、見事に栗色。爛々と輝く瞳は焦げ茶と、日本人のような顔をしているのに日本人らしくない色合い。そしてこの、警戒心の無さ。
 どこか、似ている。
 ――無良咲区は“ずれ”ている。
 ……あぁ。
 こんなに早く会わなくても良かったというのに。
「…………お前は」
 人間はもう沢山だ。どこまで運の神は悪魔を嫌うつもりだ。
「入ってよ。お茶出してあげる」
「…………。結構だ」
「遠慮しない。私、少し貴方と話したいの」
「断るっ! 大体何故ここに居るんだ人間!」
「あぁ、さっきの放送聞いてたの? いやー、ちょっと忘れ物しちゃって。一回講堂行ったんだけど取りに戻る羽目になっちゃって――それに、貴方だって人間じゃない」
「――俺はっ」
 言いかけて、止めた。諦めた。
 元の姿を見ても人間というものは中々信じないというのに、人間の外見で「悪魔」など言ったところで、信じる奴は誰も居ない。
 ……だろう。
「ん?」
 誰かに似た、無邪気で爛漫な笑顔。
 信じそうな気がする、と思ったことは無いことにする。
「……いや。とにかくいい」
「付き合い悪いわね。ま、そこまで遠慮してるんだったら良いわ」
「……」
 疲れる。
 ところで、と人間は話を変えた。
「貴方はこれからどこに行くの?」
「お前の知ったことか」
「意地悪な人だわ」
 ききき、と無邪気に笑う人間。笑顔が誰か――あぁ、五十嵐と似ていた。気に障るところなど特に。
 さっさと行こうと足を一歩進めた途端、立ち塞がるように人間が前に立ちはだかった。
「じゃ、貴方に一つ四月一日学園総生徒会長である私から言葉を送ろうかな」
 ふふん、と胸を反らす人間。五十嵐と比較して、こいつは随分と発育しているようだ。
 しかし、こんな奴が生徒会長か。上がこんなであるとすると、下も同じような可能性が高いな……そう考えて、無性に溜息を吐きたくなった。俺が通うわけでもないのに。
「……いらん」
「そうよね、そうよね。うんうん、じゃ、ありがたーく貰いなさいな」
「いらんと言っている! どけ!」
「貴方は分かりやすすぎる」 
 俺の言葉を丸々無視し。
 人間は言った。
 俺とこの人間以外誰も居ない廊下で、声は異常に大きく聞こえた。
「どうして警戒心持たないんだこいつ、とか、貴方最初に思ったでしょ? ききき、それはね、貴方にこの学園を襲う気は無いって分かったからよ」
 ……。
 まぁ。
 確かにこのような襤褸臭い外見で、襲うという可能性は相当低いものだと思うが。しかし、自分が殺されるという意識は無かったのだろうか。
「――『自分が殺されるという意識は無かったのか』」
「――っ!」
 目を見開いた俺に、ほらね、と人間は笑った。
「ききき。だから貴方は分かりやすすぎるんだよ。あ、一応それにも答えておこうかな。実質的な答えをあげてなかったね」
 人間は。
 唇を三日月状に歪めて。
 俺の目を見上げて。
 ――これは。
 既視感。
「警戒しなかった理由――私は誰からも殺されないからだよ」
 ――。
 誰にも。
 誰にも、殺されない。
「絶対に、ね」
 明るい笑顔で。
 五十嵐とよく似た、笑顔で。
 言ってのける。
 ――酷似していた。
 気味が悪い。
 背筋に、氷水を流されたような。
「お前は、――なんだ」
 人間――か?
 それとも。
 俺の考えを読んだのか、人間は――一層深く、微笑んだ。
 ……っ!
「さぁ生徒会長のありがたーいお話はこれにてちゃんちゃん。――やばっ、私そろそろ行くわ。またね」
「おいっ!」
 いつの間にやら張り詰められていた緊張が一瞬にして消滅する。人間はきききと笑いながらするりと俺の脇を通って駆けて行った。ひき止めようとした手のやり場を無くし、曲がり角で姿が見えなくなった辺りで手を下ろす。
「……五十嵐のような、人間が……」
 否。
 ような、ではない。
 五十嵐のコピーが、ここに居る。
 五十嵐が、二人。
「……。無良咲め」
 それはなんという。
 なんという悪質な、嫌がらせなのやら。
 どうせ俺は通わない上、もう二度とあの人間の前で姿を曝すことは無いだろうが、それでも地味に頭痛はした。


 あの人間と別れて、俺は更に上階上った。下り階段が見当たらなかったということは、再び無かったことにする。 
 この廊下は今までの中で一番足音が響いた。壁に掛けられた絵画で、より一層美術館内を思わせる。
「……窓か」
 空の風景画が多い中、一つだけ本物の空――窓があった。紛らわしい。
 窓を開け、下を見れば。
 伊達じゃない高さだった。
「…………」
 ここまで建てるか、普通。
 ……普通、じゃなかったなここは。
 改めて異端さを痛感する。もうここに普通を求めるのは野暮なのだろうか。
「……悪魔が普通を求めることすら、おかしいか」
 小さく自嘲して、やっと見つけたドアを開いた。
 ――直ぐ手前に、ピアノがある。
 ここは音楽室か。天井付近の壁には人間の顔――音楽家だろう――の絵が並んでいた。どいつも時代の流行というものだろうが、髪型センスが理解し難い。
 しかし、音楽室であるのにピアノ以外に楽器が見当たらない。ずらりと並んだ机と椅子、教壇(そこにもピアノがある)、教卓、テレビ。
 それだけ。
 本当に、それだけだ。
 ……前々回、くらいだったかの契約者の音楽室は、木管金管弦に打楽器どれもが詰め込まれていた。狭く見えたが恐らくこれと同じくらいの広さ。それと比較すれば、ここは随分と殺風景である。金銭面での問題か……いや、それならこれほど凝った学園内にはしないだろう……あぁ、構造につぎ込み過ぎて、ということか。
 見当たるのは黒光りするピアノのみ。……まさかこれに大量の金をつぎ込んだとかは無いだろうな。
 いつだったか、これを弾き熟す人間が契約者だった気がする。顔も名前もとうに忘れているようだが。
 ……。
 ……五十嵐は。
 これを弾けるのだろう。というかでき無いことなどあるのかあいつに。
 化け物染みたあいつに。
 気味の悪い人間だ。へらへら笑っているのは、まさかここが夢の中だとまだ思っているからではなかろうな。
 人間が笑う時は、人間の感性が楽しいことや嬉しいことを認識するため。つまり一種の感情表現。人間否定のあいつでも、元は人間故に人間の感性である。
 五十嵐の場合。
 一体あいつは、なにが楽しくて、なにが嬉しくて、笑っているのか。
 あぁ。
 本当に。
 気味が悪い。
 ――殺し合いも。
 あいつは、出来るのだろう。
 あの華奢な体躯で敵に向かい。
 あの細い腕で武器を持ち。
 あの笑顔に、血飛沫が掛かる。――笑っているかどうかは考えるまでも無い。あいつはR.A.である。
 ――これから天寿を全うする確率は、零に等しい。短くてこの一週間以内、長くて三週間。そんなところか。どちらにせよ、この無良咲区はR.A.密度が他の地区と比較して格段に高い。新人潰しに見つかるかどうかの時間の問題。
 口が回る人間は大概運動神経が悪い。それからすると、あいつの戦闘能力も平均以下だろう。今度足でも引っ掛けてみるか。それくらいなら“小さな悪戯”と認識されるはずで、忌々しい契約に掠らない。
 俺は身体を翻し、ドアに手を掛けた。
 ――窓から、まだ肌寒い風が入る。
 それに紛れて。 
《――…………カチャリ》
 ――。
 明らかに。
 不自然すぎる。
 音が。
 ――した。
 俺の頭が咄嗟に回転する。一体なんの音だ。
 こんなにもなにもないところで物音などはするはずがない。音からして堅いものと堅いものが接触した音――あの響きから恐らく金属、か。
 そして今気付いた――少しずつ、少しずつ漂う、殺気。
 金属。
 殺気。
 ――最初から窓は開いていなかった。
 いつ開けた。
 “誰が”、開けた。
 ――来る。
 身を捩りながら振り返った、瞬間。
 今度は突風が吹いた。
 カーテンを翻して。
 黒い影を、侵入させて。
 その黒い影は、黒く長い銃を構えた人間であると俺の視界が認識して、やっと一瞬。
 直後。
《ダァァ――――ンッ》
 空気を、空間を、なにもかもを劈く音。
 耳が――痛い。 
 遅れて、徐々に左肩が熱くなる。ガクン、と膝を付いた。先程までなにもなかった左腕が酷く重く、動かそうとするだけで激痛が走る。
 呼吸が詰まった。
「は……っ」
 ――なにが、起きた。
「運が良いな」
 ……。
 誰だ。
 ……あいつと契約を結んだ俺に対して「運が良い」という奴は、誰だ。
 足音無く近づいてきた足。仰ぐことは非常に屈辱的だが、足を眺める比べれば僅かにマシというものだ。俺は顔を上げた。
 人間だ。体勢上見下されていることも相俟って、とてつもなく目付きが悪く見える。硬そうな髪はやや長く、日本人特有の黒。
 外見のみで判断すれば、こいつは確実に一般人ではない。……実際、一般人ではないだろうが。
 銃はこの国で使用禁止になっている。――それくらいは知っている。
「――誰だ」
「お前が誰だ」
 俺の問いに、最もな問いで返す人間の男。
 低い低い、ひたすらに冷たい声だ。
 人間は屈み、俺と近い目線になる。無精髭が生えている、と視覚が捉えたと同時に、額に冷たいものを宛がわれた。
 ――銃口、か。
「お前は誰だ。化け物か」
「――」
 化け物。
 悪魔は確かにそれに属するが――こいつの言う「化け物」は、人間の使う比喩なのか、それとも――直接な意味なのか。
 俺は今人間の姿をしている。元の姿ならまだしも、この人間と同じ外見で“化け物”分かるものなのか。
 ――それでも。
 後者だとしたら、こいつは。
「……R.A.……か」
 すると、男はふんと鼻で笑った――哂った。
「……あぁ。悪魔かお前。俺は人間なんぞに外したことは無いからな」
 ――やはり。
 裏に属する人間。今まで何人撃ってきた――殺してきた。
 ……そいつがこの学園になんの用だ。この朝から
 ……。
「お前は……誰だ」
「答える義理はねぇな。俺がこうしてお前と話してやってるだけありがたく思え化け物」
「…………」
 R.A.を知っている裏の人間。在ることは知っていたが、会うのはこれが最初である。裏に属する人間はR.A.の他に、吸血鬼狩人や霊媒師等が在る。――が。
 こいつは――。
「人間の身体だから、元の姿に影響は無いとか――思ってねぇだろうな。元は対吸血鬼のために態々作った銃弾だが、化け物だったらなんでも効くらしい。貫通すれば死ぬ。人間堕ちのR.A.の下僕だろうと関係なく、な」
 ニヤリ、と唇を歪める。五十嵐もこれと同じような表情をするが、これには苛立たしいというより――嘲笑われている。
 酷くそれが、似合う人間。
「死ね」
 指が、動いた――。


《バァッッンッ――》
 発砲音と、――違う音が重なる。――僅かに、違う音の方が早かったかもしれない。
 まだ音が響く間、俺の視界が認識したもの。
 黒い影。
 人影?
 空中に、浮いている。――浮いている?
 おかしい、と思った時。
《だんっ》
 抱きつくように、男を横倒しにした。
 ほぼ同時に、弾丸が俺の顔の直ぐ横を貫く。
「な……っ」
「っ――!」
 銃を離さず掴んだまま、その上受身になって倒れ込むところは、裏の人間だからということか。
 が。
 その、裏の人間は――今や馬乗りの馬になっていた。
 女で。
 子供で。
 華奢で。
 今日の今まで、表でのうのうと生きてきた人間に。
 乗られていた。
 ――あぁ。
 やっと硝煙の匂いがした。
「――銃刀法違反ですよ。桐壺先生」
 生意気な口調で。
 このような状態で尚、敬語を使って。
 そして、――嫌に明るい笑顔で。
 それがよく、似合う人間。
「――…………五十嵐」
 何故、ここにいる。
 というかこの男、教師だったのか……。
 無良咲区の学園は多々見てきたが、群を抜いて本当にここは狂っている。
「ふふ。お前さんと先生なら、きっと喧嘩するって思ってたよ」
 ……。
 待て。
 それは、どういう――。
 俺がなにか言う前に。
「――上等な生徒だ。いや、――この、人間堕ちがっ!」
「五十嵐っ!」
 怒気を孕んだ声と共に、男は起き上がり逆に五十嵐の肩を床に叩き付けた。人形のように抵抗せず、逆に馬乗りにされた五十嵐は、未だ――男に向かって、笑っていた。
 長い髪が、床に広がる。
「お前がR.A.か。この化け物を学園内に持ち込みやがって――」 
 そう言う男の声は、怒りと、それから“なにか”で震えていた。
 ……。
 “なにか”――?
「そんなこと、生徒手帳に書いてないじゃないですか」
 ……。
 ……この期に及んで挑発するな。
 やはりというべきか、当たり前だが、男は五十嵐の喉に銃口を押し当てた。
「書いてあってもお前はどうせ破るだろう。それならば無いと同じだ」
「小生は規則やら常識やらを壊すことが好きなんですよ。ある意味これは人間と――“元”人間の本能みたいなものでしょう。無かったらなにもしませんよ」
「嘘を吐け。もうやっているだろう」
「嘘ですよ」
 ……。
 ……五十嵐……。
 頭が痛くなった。
「人間から堕ちただけでなく――化け物の力まで借りるようになったか」
「――あぁ、先程のあれですね。一か八かのことでしたけどね」
 一瞬の間に起きた、一連の動き。
 あれは人間の成すことの出来る業ではない。
 ――悪魔との契約。
 それにより、多少――あくまで“多少”、そのような業が出来る。
 化け物の力を、借りて。
 だが俺はそのことを言っていない。ちらとも仄めかしてもいない。――知っているのは、…………。五十嵐だからか。
 出来るかどうかも知らずに。
 どこまでが“出来ること”なのかも分からないで。
 もし男が五十嵐の存在に気が付いて、狙って撃ってきたらどうするつもりだった。力を使って、避けるつもりだったのか? あの銃弾を? 馬鹿だ。
 なんにしろ。
 命がかかった、賭けだ。
 そんな賭けを、今やらずとも良かっただろうに。
 それほどの賭けをしなければならないことなど、無かっただろうに。
 ……。
 俺を助け――いや。
 そのことは、考えないようにしておこう。 
「その口を閉じろ。撃つぞ」
「――じゃあ先生は、その銃を除けてください。刺しますよ」
 ――刺す。
 そう言うなり、五十嵐は徐に腕を持ち上げ、いつの間にか手にしていた、刃の出たカッターを男に突きつけた。
 いつ。
 なぜそんなものを今、持っている。
「……自己防衛にしちゃ、過剰すぎるな」
「先生には及びませんよ」
「これは防衛じゃねぇ。――攻撃だ」
 ――ここで俺は、違和感を覚えた。
 違和感。
 この男は裏で生き、先程のように銃を手放さず咄嗟に受身を取ることが出来た人間。
 そいつが、何故。
 長々とこいつと言葉を交わしているのだろうか。
 武器を持つものの気を、察することが出来なかったのだろうか。
 腕を押さえつけなかったのだろうか。
 これを相殺する考えはある。女で子供で生徒だから躊躇っているから、情けをかけているからだとか、カッターは武器に含まれないからだとか、細い腕で抵抗など出来ないと油断したからだとか。
 しかし。  
 それでも、どこか先程の俺に対しての反応とは違う。
 悪魔と、人間だからという違いか? ――いや、“人間堕ち”と五十嵐のことを言っていた。人間ならば外したこともないといっていた。ならば人間を撃つことに躊躇いを持つ方が、おかしい。
 何故。
「……刃物の持ち込みは禁止だと、生徒手帳に書いてあるはずだが?」
「それならば美術室や美術の授業は撤去してください。矛盾とはこのことです」
「出来ねぇ相談だな」
「そうですね」
 片や、少女に馬乗りになり銃を喉に押し当てる男。
 片や、男に乗られながらも笑顔で首にカッターを向ける少女。
 ……。
 色々な意味で、犯罪だ。
「先生」
「…………」
 無言の男に、五十嵐は平然と言ってのける。
「殺すのならばお早めに。加狩胡桃がそろそろ来ます」
 ……。
 こいつは、この男が裏で生きていたことを知っているはずだ。今は少し違うようだが、躊躇い無く引き金を引ける人間であることも分かっているはずだ(五十嵐だから)。今殺されないからといって、次の瞬間頭が飛んでいることも考えられる。
 ――馬鹿が。
 それでも引き金を引かないこの男も、十分に馬鹿だが。
「…………加狩とは」
「ん。お人好しだよ」
 呟いた俺の言葉を拾ったのか、五十嵐は視線を男に合わせながら答えた。まぁ、こいつに構う時点でお人好し確定だが。
 勿論、俺は悪魔であるため、お“人”好しなどではない。
「あれは現代にしちゃ珍しく純粋な子です。この状況だと、色々と危ないですよ」 
 ……あぁ。
 本当に、色々と危ないな。
 どうします? と問われて、しかし男は黙り込んでいる。指も引き金にかけられているというのに、金縛りにあったように、凍ってしまったように、動かない上に動く気配が無い。
「……お前は、誰だ」
「雲隠五十嵐です。桐壺先生」
「――ふざけんな」 
 静かなる激昂。
「何故――“更衣”に――」
 ――。
 ――なんだ。
 “更衣”とは、――一体。
 そいつと五十嵐が、どう関係あるという。
 俺が目を眇めた時、やっと五十嵐は男から視線を外して俺を見た。
「足音がする。加狩が来るよ。面倒ごとが嫌いなら、姿を消して」 
 ――本当に、ドア越しに靴音が響いていた。気配も近付く。
「…………」
 ほぼ無意識のうちに、俺は微量だが漂う魔力を掻き集めていたようで、痛みや血が止まっていた。傷口まで薄ら癒えている。……ちっ。人間なんぞにやられた傷跡が、残らなければ良いが。
 命令されるのは癪だったが、指を鳴らして姿を消した。
 再び五十嵐は視線を男に戻す。少し目を合わせた後、――男が、銃を下ろした。自嘲的な笑みを浮かべて。
「……畜生。聞いてねぇよ、こんなの」
 五十嵐から退き、銃をグランドピアノのカバーの下に突っ込み(不自然にその部分だけ膨らんでいる)、顔にかかった髪を適当に払った。――ちっ。妙に様になりやがって。
「どうぞ。――あぁ、“藤壺”」
「――ふふ。どうも」
 十秒くらい前の出来事はなんだったのか、と目を疑わせることを男はやってのけた――起き上がりかけた五十嵐に手を伸ばし、立ち上がらせた。
 あの張り詰めた空気は、なんだった。
 この豹変振りはなんだ。
 五十嵐に向かって言っていた“更衣”だの“藤壺”だのは、なんだ。人名か?
 理解不能。
 これだから人間は……。
 二人が手を離した、その一秒後。勢いよくドアが開いた。
「五十嵐ちょっとなんでいきなり置いていくのなんで走るの答えてよっ! ――っっはーっ、はーっ……はっ、けほっ」
「あぁ胡桃。やっと来たね」
 名の通りの胡桃色の髪はぼさぼさに乱れている。勢いと共に捲し立てるが、溢れ出す咳に苦しそうに身体を屈めた。
 そんなこいつに、五十嵐は笑顔でなにごともなく言う。
「そんなに走っちゃ駄目だよ。お前さんはただでさえ体力が無いんだから」
「――っ、げほけほっおほっ、ぜーっ……だったら走らすな馬鹿五十嵐っ!」
「小生はお前さんに走れと命令した覚えはないけどね」
「あんたが走ったからあたしは走ったの!」
「へぇ」
「――――っ!」
 ……。
 本当に、俺に接する時の態度と、なにひとつ変わらない。
 友人と呼べる奴は、――いないだろうな。
「あぁったくもう……あんたなんか、――っ!」
 顔を上げた女は、その状態で固まった――あぁ、ようやくこの男の存在に気付いたか。
「行きましょう先生。花宴先生の頭に鬼も真っ青な角が生えますよ。ふふ」
「……あぁ」
 山ほどあっただろう言いたいことを全て飲み込み、低い声で頷く。
「胡桃。――胡桃。なに固まってるの。行くよ」
「……えっ? へ、……あぁ、うん」
 半ば無理矢理女をどかし、そうして男はさっさと音楽室から出て行った。その後から五十嵐と、五十嵐を追いかけるようについて行く女。
 男を迎えにきたというのに、まるで二人を従えるようにして。
 なんという教師だ。


「命知らずっ! 馬鹿っ! 人でなしっ! なんで桐壺迎えにあたしまでつき合わすのよーっ! あんたなんかあんたなんかあんたなんかーっ!」
 声を小さくして、女は次々にお上品な罵倒語を並べる。しかも迫力というものが無い。
「お前さんの運動神経が標準以下なんだよ」
「くっ……あぁあ、なんで五十嵐とかなんかと一緒に居るんだろうあたし……」
「お人好しだから。低脳だから。馬鹿だから」
「…………あぁ、桐壺がもっとマシだったら……」 
 話しているのは五十嵐とこの女だけ。三人分の足音しか聞こえないこの廊下で、女は自分の声が聞こえないとでも思っているらしい。おめでたい人間だ。実によく会話が聞こえる。
 男は、俺がここに来た道でないところを歩いて行った。あぁこんなところからでも行けるのか……どれだけ遠回りをたんだ俺は。
「ねぇ、桐壺となに話してたの?」
「世間話」
 ……白々しすぎる。
 もし男が一般人であっても、相手が五十嵐なんかでは世間話など……いや、表面上は世間話だろう。中身は当然嫌味の応酬。否、嫌味の連射。
「あ……あんたって奴は……!」
「小生が嘘を吐いてるっていう証明。やってみ。一体どうして小生は嘘を吐いているのだろうかねぇ」
 屁理屈にも程がある。「お前が言うから」それが証明だ。
「うー……」
 女は半泣き表情になった。……が、見るからに故意にやっていることが分かる。これが五十嵐のうような整った顔(俺の価値観でも“整っている”と認識されるが、それに好意を抱くことは無い)でやれば一発で落ちる愚かな男共が出ると思うが、この女がやると殴りたい衝動に駆られる。
 それは五十嵐も同じらしい。
「ほら。小生はお前さんのそういうところが大嫌いだよ」
 俺よりずっとストレートでずっと威力があったが。もう声を潜めることは止めたらしい。
「鏡って見たことある? 好い加減そのぶりっ子が気持ち悪いことくらい認識したら良いよ。お前さんの一挙一動全部が癪に障るって小生は一体何回言ったかな。あぁ、頭悪いから覚えられないんだっけか。馬鹿は面倒臭いから小生に寄らないでねってのも何回も何回も言ったはずだけどね。そんなお前さんに分かるように言うと、これはお前さんの許可求めてるわけじゃなくて、小生の命令だよ。そういうことだから、このままずっと馬鹿でいたかったら小生の近くに馴れ馴れしく寄らない。でも鬱になったらおいで。首斬って殺してあげる。どうする?」
 ……。
 …………。
 容赦という言葉を、こいつは知っているのか。
 それを笑顔で言い切ることがまず相手に与える衝撃を増幅させることだろう。しかも五十嵐の言うことはとりあえず当たっている。
 能天気、というより頭がなさそうな女でも、これは流石に堪えるだろう。
 ……が。
「……ふ、ふぇーん。酷いよぉ五十嵐ぃー! あたしがあんたになにをしたのよー!」
「そこに存在することが十分小生にとっての嫌がらせだよ。ある意味お前さんは凄い」 
「酷ぉ……っ!」
 ……。
 頭が無い奴はある意味最強だった。
「まったくぅ……五十嵐にとってあたしはなんなの? 友達?」
「友達? ふふ、思い上がらないの。小生にとってのお前さんは不愉快の塊だよ」
「うぅ……。ツ、ツンデレにも程があるよ!」
「頭の精密検査を受けようね」 
 本当に容赦が無い。
 そしてここまで平然としている女もまた、人間に備わっているものどこかごっそりと抜けている。
「あ、そうそう。さっきあたし会長に会ったよ」
「会長か。なにか忘れ物でも――取りに来たんだろうね」
 五十嵐は少しだけ振り返って、俺の方を見た。見えなくなっているはずの、俺の姿を。
 そしてやはり、にやりと笑った。
 ……お前が精密検査を受けろ。何故俺が、その会長に会ったと分かった。なにも言っていない上に仄めかしてさえもいない。
「……えー。反応それだけぇ?」
「お前さんは小生がびっくりすることを予想したのかい? 単細胞だね」
「た、単細胞って……。あたしそんなこと言われたの初めてだよ」
「悪いね。お前さんの初めてを奪っちゃって」
「……。……っ! 変な言い方するなっ!」
 女は慌てて、黙って歩く男を見た。なにも反応いない様子を見て、小さく安堵の溜息を漏らす。
「あれほど人気な会長も早々居ないよねー。性格も外見も良いとか羨ましすぎるよね」
 ……。
 …………は。
 こいつらの言う会長とは、俺が会ったあの会長とは違う奴なのか。……いや、それならば五十嵐は俺を見なかったはずだ。 
 そいつの、性格が、良いだと?
 五十嵐そっくりのあの性格を? 良い性格?
 頭がおかしいとしか考えられない。しかも酷いこと、この学園生徒の多くがそう思っているらしい。
「そんなお前さんは名前を覚えていないみたいだけどね」
「ちょっ! ななななんで分かったの!」
「やっぱり忘れてたんだ」
「…………五十嵐ぃー」
「ふふ。軽々しく小生の名前を呼ばないでね」
 とてつもなく自然に毒舌を吐ける辺り、こいつはもう嫌味を言い続けなければ生きていけないらしい。
「でも名前くらい知ってるよ! “どうめき”でしょ! あんたと同じく苗字みたいな名前だったから覚えてる!」
 ……苗字みたいな、名前。苗字でも聞かないぞ。“どうめき”など。
 その上どうめき――が、名前だと? 女につけられた、名前?
 親がどうかしているから、子供もどうかするのか。
 五十嵐と同じように。
「それすら知らなかったらお前さんは不愉快以下だよ。漢字書ける?」
「……えへ。えぇーっとぉ……」
 へらへらと笑いつつ、視線は明後日の方を向く。また五十嵐の笑顔攻撃。
「気持ち悪くて気色悪いよ。本当最悪だね」
 五十嵐はこの女になんの恨みを持っているという。
「数字の“百”に顔の“目”に“鬼”。で、“どうめき”。苗字としても相当珍しいタイプだけど、名前じゃ珍しいなんてレベルじゃないね」
「…………えー。それ、五十嵐が言うー?」
「殴ってあげようか?」
「えっあたしなにか変なこと言っ――いえいえ良いですごめんなさいもう言いませんごめんなさ――いっっ………う!」
 勿論五十嵐は弁解・言い訳・謝罪などを聞く耳は持っていない。
 ……あぁ。どうして俺は、こいつに会って一日も経っていないというのに、ここまで分かるのだろう。こいつはそれほど分かりやすいのか。
 ……分かりやすいから、分かっているのか俺は。
 知り尽くしているようで、嫌になる。
「まぁ、凄いよねぇー会長。今年で何年目だっけか」
 殴られた部分をさすりながら、涙目で女は言う。
「今年で四年目」
 四年連続、ということか。そこまであの五十嵐似を生徒会長にしたいのかここの生徒達は。まとめて精密検査を受けろ。
「四年目の十八歳か。永遠の十八歳ってこのことだよねー」
「小生はずっと十八なんてごめんだけどね」
 ……。
 …………。
 十八が四年目?  
 どういうことだそれは。
「めちゃくちゃを通り越してる辺り、小生は本当にこの学園が大好きだよ。なんでもありって最高だよね」
「ていうかもうカオスだよ……」
「お前さんもここにいる以上、こういうの好きでしょ」
「賑やかなのは好きだけどさぁ……。まさかこんなのあるとは思わないでしょ。中学の時はまだマシだった」
「生徒会長のこととか、目の前の先生のこととか?」
「ばっか――っ!」
 女は瞬間的に白くなり、五十嵐の口を塞ごうと手を伸ばす。が、良い音をたてて叩かれる。手を押さえながらも女は男を見、あまり反応していないのを見てほっと気を緩める。
「た、叩くよ!」
「はい」
「痛っ」
 また良い音がした。一体どういう教育を受けているんだ五十嵐は。
 ――突然、日の光が当たった。校舎内から校庭に出たのか。俺が彷徨っていたことを嘲笑うかのように早く。
「会長のお陰でこれほど有名になったのは確かだからね。今のところ苦情なんかどこからも来てないし、保護者からの人気も高い」
「まー……そうだけどさ。やっぱり、そのぉ……年齢詐称とか、本性不明とか、住所不特定とか……ちょっと、そういうのは、やっぱ…………なにかあってからじゃ遅いしさ」
「なにかあっても、揉み消しちゃえば良いんだよ」
 ……おい。
 R.A能力者であると自覚した以上、揉み消す――その一つの手段として、抹殺が絶対的に可能になっている。今の五十嵐ならやりかねない。
 ……。
 自分がR.A.だと知らなくとも、こいつはやったんじゃないか?
 どうして今までなにもしなかったのか理解できない。いや、もうやっていて俺が知らないだけか。
「……うわぁ。五十嵐が言うと冗談に聞こえないぃー」
「ふふ」
「……。ちょ、冗談って言わないの?」
「ふふ」
「五十嵐ぃい!」
「煩い」
「ごめんなさ――っ!」
 ずっと黙っていた男が、振り返らずに突然口を開いた。いらついた、ただ冷たい口調で短く言う。勢いで謝ろうとしていた女が、焦点を男に合わせ、その瞬間色を無くして硬直した。そして五十嵐は立ち止まった女の襟首を掴み、引き摺るようにして男の後ろを歩く。
「ぐぇ……っぅえ! げほ、ちょ……っ!」
 当然首が絞まるが、呻き声など五十嵐の耳は受け付けない。
 ……。
 五十嵐と殆ど同じ身長の女を片手で引き摺っているというのに、歩く速度は変わらない。あんな細い腕をして、とりあえず平均以上の腕力は備わっているらしい。
 化け物。
「すみません先生。煩くて」
「……いいえ。更衣」
 ……。
 …………。
 なんだこいつらは……気色悪い。
 コウイとはなんだ。この男の態度はなんだ。本当に、この豹変はなんだ!
「……げほ、ちょ、五十嵐ぃ……ごめんなさい離してください襟が伸びる伸びる伸びる!」
「伸びない服はないんじゃないかな」
 笑顔で言いつつ、ぱっと手を離す。当然べしゃりと女は潰れる。立ち上がるまで待つはずも無く、半べそ(の真似)をしつつ女は五十嵐に駆け寄った。懲りない奴というか、学習という言葉を知らないというか、正真正銘の馬鹿だろう。
「……ねぇ五十嵐」
「なに低能」
「“コウイ”ってなに」
 ……この際「低能」という言葉については無言らしい。慣れというものはある意味非常に恐ろしいことである。
「知らないよ。低能なりに考えなさいな」
「……本当?」
「嘘」
「知ってるんじゃん! 教えてよぉー」
「鬱陶しいよ」
「ふぇーん。良いじゃんよぉー」
「気持ち悪いよ」
「もぅー! いぃーじぃーわぁーるぅー!」
 男の「煩い」にあれほど色を失くしておきながら、早速騒がしい。五十嵐の言ったあの罵倒は、過剰表現でなく正しく相応なものだったのか。
 五十嵐は空中に花が咲きそうなほど可憐な笑顔を女に向けた。
「殺されたいの?」
「嫌です嫌です嫌ですぅ!」
 脅しになっていないところが、また。
「煩い」
 再び、男が言う。女はまた一瞬怯んだが、先程のように色を失くしてはいなかった。五十嵐の腕を勝手に掴み、腰が引けていながらも口を開く。
「せ、先生はなんでそんなにクールなんですかぁ。キャラ作りすぎですよっ!」
 ……。
 あぁ。
 命知らずめ。
 男その言葉になんの反応も見せず、赤煉瓦の棟に入って階段を登る。ずっと上まであるようだから、講堂はこの先か。
 三人分の足音が気まずく響く中。
「ふ……」
 肩を小刻みに震わせて、五十嵐が声を漏らした。訝しげな目で、というより不審者を見るような目で五十嵐の顔を女は覗き込む。その額に容赦の無い突きが入り、バランスを崩し階段から落ちそうになる――唯一の頼みの綱である五十嵐の腕からは、当然、振り落とされている。あぁ、これは頼みどころか追い討ちだな。
「ふはっ……ははっはははあははは! 胡桃、お前さんの馬鹿っぷりは際限無いんだねぇ! 最悪だ!」
 腹を抱えてまで笑うところかここは。
「……五十嵐、それ褒め言葉?」
 見事に数段滑り落ちた女は、腰を抑えながら五十嵐を仰ぐ。この様子、こいつは相当慣れている。何故この女はこんな奴に関わっているのか。
「あは、ははっははは……ふは、ご自由に」
 無邪気な笑い声が棟に響く。窓の無い、階段がひたすら続くようなここは、音楽室のあった階よりもずっと反響した。つまりは煩い。耳障りな上に軽く不気味だ。
「で、どうなんですか……ふはは、桐壺先生」
 ……お前も乗るのか。命知らずの上はなんと言うんだ。
 男は五十嵐の言葉にも反応せず、ひたすら無言を通していた。後ろからだと無駄な威圧感しか分からない。
 ……。
 …………。
 回り込めば良いのか。俺の姿はどうせ見えない。
 ……。
 見えない……はずだ。五十嵐がおかしいだけ。そのはずだ。吸血鬼を狩る者であっても、悪魔は。
 俺は男の前に回りこんで顔を見た。朝だからか、天上についてある照明に明かりはついてなく薄暗いが、十分に表情が見える。
 ――笑っていた。
 五十嵐のように無邪気でなく、罵るように。
 静かに、笑っていた。
 嘲り。
 嘲笑。
 嫌に、似合う。
 変に、似合う。
 その表情。
 その顔。
 ――その時。
 男の口が動いた。音を出さずに口のみを動かす。
 ――「 」
 ――「 」
 ――「 」
 ――「 」
 ――「 」
 そして男は視線だけで――俺の目を見た。
 姿が見えないはずの、俺の目を。
 一瞬。
 ――――っ。
 思わず俺は動きを止めた。目が合ったことなど無かったように男は俺の前を通り、後から五十嵐がやはり俺を見て微笑んだ。女は五十嵐の行動を不審そうに見て、殴られている。
 五十嵐と、この男。
 俺が化け物なら、怪物だ。

2009/04/20(Mon)21:52:13 公開 / 八月一日縁
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■作者からのメッセージ
初めまして。縁です。
タイトルに“斬殺”なんて言葉が入っていますが、それほど生々しい描写は出ないと思います。
自分の小説を誰かに読んでいただくのは初めてなので、なにかありましたら、どうぞ感想をお願いします。

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。