『黄色い幸福』 ... ジャンル:リアル・現代 ショート*2
作者:笑う犬                

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 幸弘はもう三時間も椅子に座ったまま、机に視線を落としていた。夕焼けもそろそろ姿を隠し始め、がやがやと騒いでいたグランドも眠り支度をしている。昼間のざわめきはとうに消え、学校という空間はまったく別の姿を見せ始める。忘れ去られたような空間に一人取り残された彼は、この空間がもたらす静寂を甘受する。ここはもはや教室ではなく、彼という意識の入った一つの入れ物なのだと認識する。静寂がもたらす孤独感は思考の従者となって彼を助けた。彼は眼を閉じ、昨日までの記憶を一番新しいものから少しずつ遡っていく。
 白いフレームに縁取られた色彩豊かな思い出は、一枚一枚が眩い輝きを放って瞼の裏を焼いてその影を残していく。何枚にも重なった影は濃さを増し、やがてサビシイ、の一言だけを残して光の中に消えていってしまうのだ。
 彼のフレームには、いつも必ず一人の少女が写っていた。艶やかな黒髪を、キラキラと日に光るゴムで二つに縛っていた。「黒いと地味に見えちゃうから」と笑うその小さな顔が何よりも輝いていることを、彼女は知っていたのだろうかと彼は思う。クラスの女子が休み時間に広げているファッション雑誌を彼女もよく広げていたが、口には出さなかったが幸弘にはどれもあってもなくてもいいように思えた。「今流行ってるから」そう言って後ろを振り向き見せた和のテイストのゴムはずっと彼女の髪に常駐していた。

 人は皆同じなのです。その言葉に共感する人は少ないけれど。
 人は皆平等なのです。その言葉に多くの人が首を縦に振る。
 人は皆同じなのです。その言葉にたくさんの女の子が口をとがらせるけれど。
 あの子がつけててカワイイから。そんな理由でアクセサリーで身を飾る。
 
 ファッションは人を表します。
 一番大事なのは人の心です。
 二つの言葉が等価値でもって存在するような世の中で、一体自分はどれだけの人の心を見てこれただろうかと彼は思う。一たび眼を開ければまた閉じる瞬間まで無限に飛び込んでくるその色彩の豊かさに比べ、眼をずっと閉じていても人の心はなかなかその色を見せてはくれない。
 目を閉じていても視える色こそが、彼が一番欲しかったものであったのだけれど。
 ガラッと音がして、置き忘れられていた空間が無理やり“教室”の姿へと戻る。
 ペタペタと近づいてくる足音が部屋中いっぱいに飾られたフレームたちに気づく前に、幸弘は急いでそれらを記憶の中にしまわなければならなかった。
「幸弘、まだ残ってたんだ」
 彼が眼を開けると、クラスメイトの由紀がすぐそばに立ってこちらを見下ろしていた。
「……別に」
「その花、片づけないといけないみたいで」
 今日金曜日だし、と由紀が少し罰の悪そうに付け加える。翌日と月曜日は祝日で3連休が待っていた。
 幸弘の目の前にある黄色い花が、細い一片の破片を机の上に零した。その一部始終を彼はじっと目で追った。この花と、少女が同一なものであると一瞬錯覚する。
「昨日……千恵の……見た?」
「いいや……。彼女の両親の顔見たら、そんな気なくなった」
 屋上から頭から落ちたのだ。最後に一目会いたかったが、見たくなかった。
「だよね。私も、見れなかった。……両親、どんな気持ちだったんだろ。自分の娘が自殺なんて」
 自殺、という言葉に幸弘は眉をしかめる。彼の中でまだはっきりとその姿を見せない現実が、逃れられぬよう外堀から蓄積していく様を彼はじっと耐えて待つしかない。
 昨日の朝礼で、千恵の書き残した遺書が読まれた。皆と同じになりたかったが、なれなかったこと。孤独を感じる時間が増えてきたこと。これからの未来への不安。それらを誰かのせいにするでもなく、ただそうなってしまったのだとでもいう風に彼女は書き残していった。TVでそれがイジメによる自殺ではないかと報道された時も、彼には実感がわかなかった。彼女はよく一人でいたが、彼の見る範囲では何かされていたようには見えなかったから。
「馬鹿だよ、千恵は。死んだってなんにもならないのに」
「そういうこと言うなよ」
 小さく白い手が、弧をかいて飾られた花を切った。幸弘が文句を言う前に、その手が彼の襟首をつかむ。震える体が彼の胸に押しつけられ、ワイシャツを温かく濡らした。
「じゃあ、何て、言えばいいのさ!?」
 問いは責めるように、確実に幸弘の心を抉っていく。
 幸弘と千恵と由紀はクラスメートで、彼女たちは親友だった。幸弘と由紀は塾が一緒だったのでよくしゃべったが、千恵とはそれほど会話したわけではなかった。そもそも千恵は4月になってから一人でいることが多かったという。
「あたしが、殺したんだ」
 コロシタンダ、の言葉が肌にふれた唇からダイレクトに伝わる。それを言うなら、幸弘だって、皆、加害者だ。
 首筋から背中にかけてゆっくり撫でていくと、由紀が大きく息を吐いた。
「千恵は、幸弘のこと好きだったんだ」
 彼はぴくりと肩を揺らしたが、力なく首をふった。
「ちがう」
「ちがわない」
「ちがう。告ったけど、断られた」
 今度は由紀がぴくりと肩を揺らした。すべての動きが、密着したままの二人の間で共有される。
「告ったんだ……知らなかった……いつ?」
「夏休み明けの……9月頭かな」
 奥底にしまったはずの、開けたくない記憶がにじみ出てくる。好きだと告げた時、千恵がどんな顔をしていただろうか、と彼は思い出さなければならなくなる。確か、泣きそうな顔をしていたと思う。悲しませた、と彼は思った。ごめんなさいと頭を下げた彼女に、慌てて謝らないでほしいと口にした声は恥ずかしいほど上ずっていたはずだ。
 由紀は大きく息を吐くと幸弘から離れた。ごしごしと眼をこすり、幸弘に向けた真っ赤なまなざしはその強さとは裏腹にどこか頼りなげだった。彼女は張り付いた笑顔を浮かべて言った。
「あたしの、せいだ。あたしが千恵に幸弘のこと好きだって言ったから。千恵、馬鹿だなぁ、ほんと」
 幸弘は息をのんだ。
「サイテーだな、あたし」
「だからそういうこと、言うなって」
 由紀までも消えていきそうな嫌な予感がしたが、うまく言葉が口をついて出てこない。体中に充満した行き場を失った感情が肌の表面をピリピリと焼く。違うのだ。伝えたい言葉はいつだって役立たずの口と体に邪魔され、相手に上手く届かない。
「あたし、そろそろ帰るけど。幸弘は?」
「俺はもう少し残ってく」
 彼女はそう、と納得したように頷いて床に放置された鞄を取って幸弘に背を向けた。
 ペタペタと彼から遠ざかっていく音を聞きながら、彼は机上に倒れた黄色い花に視線を移した。もともと花があったところに、鉛筆で小さな絵が描いてある。
 ハートマークのついた傘の下には、幸弘と千恵の名前が書かれていた。本当に小さく描かれていて、眼をこらさないと誰も気づかないだろう。
 彼は呼吸を忘れてその小さな絵を見つめた。
 千恵が笑っていればそれでいいと、彼はとんだ思い違いをしていた。たぶん千恵も、同じことを由紀に思い違いしていたのかもしれない。彼は初めて、幸せとは人と共有するものだと知る。
 目の奥がカッと熱くなる。呼吸しようと焦って開いた口から、あふれ出る感情が嗚咽の船に乗って滑り落ちる。
 どうか、一人で泣かないでくれ、と彼は祈るしかない。傷ついた魂の慰め方を、生身の彼は知る由もないのだから。
 夕闇が照らす小さな傘の上には、ひらりひらりと黄色い雨だけが降っている。

(了)
 

2008/12/27(Sat)10:11:55 公開 / 笑う犬
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