『my father(2)』 ... ジャンル:恋愛小説 リアル・現代
作者:カオス                

     あらすじ・作品紹介
私は父にあいされたい。必死にあいを叫んでも、欲しいあいはそれではない。もっと濁っていて、粘着質でどろどろとしたあい。

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 『my father』
 
 私は父に、あいされたい。
 

 1、I went to be loved by my father.

『ぱぱー?』
『そう。パパ』
 私には母親が二人いる。一人が、み子さんが私を生んでくれた母。二人目が、新月さんが私を育ててくれた母。そう書いてしまうと、大変紛らわしい。なぜなら、二人はあいしあっているから。み子さんと新月さん(紛らわしいから私は何時も名前で呼ぶ)は同性愛者のカップルで、私は二人と関係ない男性の精子で受精され、作られ生まれた子供だ。子供心に、母親が二人もいることを奇妙だ、とは思ったことはなかった。み子さんも新月さんも私を、あいしてくれたし、慈しんでくれた。私は母親が二人もいることを、幸せだと思っていたし、今でも思っている。
 
 そして、私が初めて「父」に会ったのは、まだ小学校にも上がらない幼いころだった。
 
 新月さんが運転する車の後ろの席で、私はみ子さんに抱かれながら(今ではチャイルドシートが義務付けされているが、当時はそんな法律なんてなかった)「パパ」の話を聞かされていた。
『パパはね。すごぉーく綺麗なの、まいちゃんも海見たことあるでしょ?』
 み子さんの声は、金属のように高い声だった。私は、こくんと頷く。
『その海みたいな色でね、すごぉーく綺麗』
『み子。さっきから、綺麗、綺麗しか言ってないよ。もっと、他にないのかい?』
 呆れたような、新月さんの声。でも、その中にみ子さんに対する愛しさとか、思いやりとか、言葉に表せない暖かい気持ちがたくさん詰っているのを、私はちゃんと知っている。み子さんは、少しむっとした顔をすると、花が咲いたように笑って私を抱きしめた。み子さんの髪から、暖かい匂いがした。
『あのね、まいちゃん。しぃちゃんはね、わたしがパパのことを綺麗、綺麗言うから焼きもち妬いているの』
 み子さんは新月さんを何時もしぃちゃんと呼ぶ。理由は新月だとあんまり可愛くないから………らしい。
『やきもち……………?』
『そう。やきもち』
 さらさらとした、髪が私の頬や、腕をくすぐる。
『お正月に食べるおもちを焼いてるの?』
 そう言うと、運転席の新月さんが吹き出した。それにつられて、み子さんも私を抱えたまま笑う。私はただ、笑う二人を不思議そうな思いで見る。み子さんの髪が、また私の身体をくすぐる。
『違うよ、まい。お正月に食べるお餅じゃなくて、嫉妬しているってことだよ』
『…………しっぷ?』
 また、車内は二人の笑いではち切れんばかりに膨らむ。私はただ、み子さんに抱かれたまま、二人の笑い声を聞く。暫くして、やっと笑いが納まったみ子さんが、新月さんに向って言う。
『しぃちゃん。まだ、まいちゃんに嫉妬は無理よ』
『でも、焼きもちよりは具体的で良いだろう。焼きもちと嫉妬、まいはどっちが良い?』
 信号で車が止まる。新月さんが振り向いて、私の眼を見て聞く。私はみ子さんの腕の中で、手足を動かして答える。
『やきもちー!』
『……何でだい?』
『しっぷよりも、おもちの方がおいしいからー!』
『確かに、湿布よりも餅の方が美味しいな』
 新月さんの声。
 笑顔で私が言い切ると二人は、困ったように笑う。み子さんの手が私の頭を撫でる。暖かい匂いが、車一杯に広がる。



 私たちが到着した所は、一棟のマンションだった。絵本で見るお城のような、ココア味のクッキーみたいな、煉瓦のマンションだった。エレベータで上の階に昇る。ふわっと、空を飛ぶような感じ。チーンとベルを鳴らす甲高い音がして、エレベータが止まる。私は、み子さんと新月さんに手を繋がれてエレベーターから降りる。
『何号室だっけ?』
『えぇっと、確か七号室だったわ』
『さぁ、まい。パパに、ちゃんとご挨拶出来るかな?』
 私と目線を合わせた、新月さんが意地悪な笑みを浮かべて、意地悪な質問をする。
『できるっ!』
『よし。じゃぁ、行こう』
 三人で廊下を歩き出す。
 
 そして、私ははじめて『父』を見た。
  
 はじめて見た父は、深い紫の―――子供が見ても高級と分かるスーツを着ていた。藍色の肩ぐらいまで伸ばされた髪は、櫛を通しただけのように、無造作にスーツに包まれた両肩に流れていた。前にみ子さんが着ていた浴衣のような、藍色の髪。そこまででも、普通にいる人とは大きく誤差がある。でも、私はそんなことはどうでも良かった。私が、真っ先に気に入ったのは父の青い瞳だった。澄んでいるとも、晴れ渡ったとも、ぬけるようなとも、どう言おうとも、決して間違っているとは指摘できない青。み子さんが言った、海みたいなという比喩が、一番しっくりくる。角度の違いによって、その青い瞳は、様々な色合いの青に変わる。万華鏡のようにくるくると、青が変わる。
 父は私を見ると、その青い瞳を細めて―――そうすると、今度は湖の底みたいな深い青になった―――微笑んだ。
 私は、生まれて初めてうつくしいと思った。



 それから、何年か経って、私が小学生になった時だ。
 父が髪を切ったのは。
 その時には、父の髪は背中まで伸びていた。み子さんの髪と同じぐらいにさらさらな髪だったが、暖かい匂いはしなかった。代わりに、父の髪からは残虐で甘やかな香りがした。いや、髪からではない。その残虐で甘やかな香りは、父全体から漂ってきた。時には、その指から。ある時は、その声から。またある時は、その服から。薄い唇の間から漏れる吐息でさえも、残虐で甘やかな香りがした。その香りは酷く、私を魅了し虜にした。
 髪を切ったと言っても、美容室などで切った訳ではない。二人の母のどちらかに、切って貰った訳でもない。自ら切ったのだ。瞼を閉じれば、直ぐに父が髪を切る光景が浮かんで来る。夜だった。月がない夜空を、星たちが心細く照らす夜。場所は古ぼけたビルの屋上。その時、父は夜空と負けないくらい、暗いスーツを着ていた。趣味の悪い色のネオンが、暗闇に負けるまいと光っていた。私は、見ず知らずの、声だけ妙に甲高い男性の腕の中にいた。直ぐ後ろには、夜の闇。その下は、無慈悲なコンクリート。男性の右腕が私の首の周りに巻き付いて、もう片方の腕がきらきら光る庖丁を握っていた。そして、私たちの数メートル先には、夜を背景に父が立っていた。私は直ぐにでも父に駆け寄って、あの香りを味わいたかった。だが、首に巻き付いた腕が邪魔で駆け寄ることは出来なかった。男性が、何か喚いた。あまりにも大きな声で、喚くから耳がキンキンした。耳を塞ごうとしても、男性の手が邪魔で塞げなかった。ぎゅっと、眼を瞑って下を向いていると、『まい』と呼ぶ父の声が聞こえた。暗くて良く見えなかったけど、父が微笑んでいるのがなんとなく分かった。微笑んで細くなった父の青い瞳が、どんな色に変わっているかそれが見えないのが残念だった。『だいじょうぶだよ』キラリと光るのは何だろう。疑問は直ぐに消し飛んだ。夜に、藍色の髪が舞う。残虐で甘やかな香りが、広がって行く。『あっ』と間抜けな声が、私の口から出て、父の髪の後を追う。気が付くと、父が私の目の前にいた。首の周りに巻き付いていた腕は、どこかに消えていた。『ほら、もうだいじょうぶ』父の微笑んだ顔が、漸くはっきりと見えた。瞳は、どこかで見た絵のような濃厚な青。父の服を掴み、残虐で甘やかな香りを肺一杯に吸い込んで、私は泣いた。必死に泣いた。怖かったのだ。悔しかったのだ。憎らしかったのだ。恨めしかったのだ。夜に吸い込まれた、父の残虐で甘やかな香りの残る髪は、二度と戻ることはないだろう。私は思った。誰も気が付かなければ良いと。父の香りの残った髪は、誰にも知られずに空の彼方に消えてしまえば良い。私だけが、この香りを知っていれば良い。
 それは、嫉妬だった。まぎれもない嫉妬だった。
 初めて父に会う日、み子さんと新月さんが焼きもちと嫉妬について話していたことを、私は思い出した。私の中に生まれたこの感情は、焼きもちという可愛げのあるものではなく、どろどろとした醜い嫉妬と呼ぶに相応しい感情だった。初めての嫉妬は、父に髪を切らせた男性への嫉妬であり、父の髪を呑み込んで行った夜への嫉妬だった。
 
 泣きつく私の頭を撫でるその指先でさえ、私は誰にも渡しはしない。
 慰めの言葉を紡ぐ時に漏れる吐息でさえ、私から奪うことは許さない。

 残虐で甘やかな香りは、私を最も残虐で甘い人間に変える。



 すぅすぅと、安らかな寝息を立て眠る父は少しも変化していなかった。私が初めて父に会ってから、既に十年が経っていた。二人の母は、皺も増えたし白髪も増えたけれど、相変わらず互いにあいしあっていた。私も背も伸びたし、社会のことを理解してきた。
 父は何一つ変わっていなかった。出会った頃と同じ、皺一つない顔。藍色の豊かな白髪の一本も見当たらな髪。異常な程、父は変わっていなかった。み子さんも新月さんも、そのことについては何も言わなかった。まるで、それが当たり前というように。私は父が、寝ているベッドに乗り上げ、上から顔を覗き込む。無防備な寝顔。
 今、父と私が仲良く買物に行けば、見る人は私たちを仲の良い兄妹と見るだろう。それほど、父は変わらなかった。年老いることもなく、ただ変わらずに生き続けている。
「んーっ?」
 すぅーっと、父の眼が開かれる。青い瞳。
 ああ、うつくしい。
「どうしたのまい?」
 舌足らずな幼い喋り方。寝ぼけたままの青い瞳が私を見つめ、父の手が私の頬を優しく撫でる。残虐で甘やかな香りが、私を包んで行く。甘くて、けれども残酷な感情が、私の中に巣食い始めたのは何時の頃だろう? 老いることなき父に、親愛以上の感情を持ったのは何時の頃だろう? いいや。何時でもない。始めから、持っていたのだ。
 あの万華鏡のような青い瞳を、うつくしいと思ったときから。
「ねぇ、パパ。パパはまいのこと好き?」
「勿論、大好きだよ」
「み子さんと新月さんは?」
「二人とも、パパは大好きだよ。まいは?」
「まいも、み子さんも新月さんもだいすき」
 父の手がみ子さんに、似た私の柔らかい髪を撫でる。白い羽毛布団の上に、広がる父の藍色の髪は硬い。
「じゃぁ、あいしてる?」
「うーん。パパは二人とも大好きだけど…………愛してはいないなぁ」
「まいのことはあいしてる?」
「愛してるよ」
 優しい父の微笑み。瞳は夕暮れ前のキラキラした青になっていた。そして――――父の私に対するあいは、親愛。親が無条件で子供をあいするのと、同じ。私が欲しいのは、違う。もっと濁っていて、粘着質でどろどろとしたあい。
「じゃぁ、まいはパパのこと愛してる?」
「うんっ。まいはパパのことあいしてるよ」
 抱きつくと、父の腕が背中に回る。背中を撫でる父の手は、子供が可愛くて仕方がないというような手つき。
 私は、父から香って来る残虐で甘やかな香りを肺一杯に吸い込む。
 
 父は気付いていただろうか、私のあいと父のあいが全く別ものだと言うことに。

 変わらず、年老いることのない父。
 万華鏡のような青い瞳の父。
 残虐で甘やかな香りのする父。
 
 あいされたい。
 
 私は父にあいされたかった。
 あの万華鏡のような青い瞳を独占したかった。
 あの残虐で甘やかな香りを独り楽しみたかった。

 あいされたい。あいされたい。あいされたい。あいされたい。あいされたい。あいされたい。

 様々な思いを込めて、父の真っ白な首筋に噛みつく。
「痛ッ」父の小さな悲鳴。
「ごめんなさい」
 甘ったるい声で、謝ると仕方のない子だ、とでも言うように父の眼が細められる。今度は、春の昼の海のような青。
 きっと、父は私がここで首を絞めても、微笑みながら仕方のない子だ、と思って死んで行くのだろう。

 残虐で甘やかな香りを吸い込みながら、私はそれを必死で遅らせようとしている。





 夥しい数の死が横たわる部屋だった。

 2、I think so………

  ジージーと、全開にした窓から生暖かい風と共に、蝉の鳴き声が聞こえて来た。薄いレースのカーテンが、申し訳なさそうにカーテンレールの隅に釣り下がっている。人の吐き出す息のように暖かい風が、私の髪をひらりと舞い上げる。素足の裏に触れる床は、午後の猛烈な猛暑に焼かれ、まだ、ほんのりと夏の体温を残していた。
 ぐったりと、今にも力尽きそうな橙色が部屋の中に沈殿していた。橙色にそまる、夥しい数の死。私はその部屋の中央にぺたんと座り込んだ。座り込んだ、フローリングの床さえも、橙色に染まっていた。私の目の前には、無印の白い小さな冷蔵庫が、場違いなように置かれていた。一人暮らし向けの冷蔵庫には、冷凍庫すらなく、ただ扉が一つあるだけだった。橙色に染まる部屋の中その四角い冷蔵庫は、ピカソのキュービズムの不可解さと似ている。私は立ち上がるのも億劫だったので、手と膝で這うようにして、冷蔵庫の前に進んだ。躊躇いなく取っ手を握り、冷蔵庫を開く。何の躊躇いもなく開いた、その隙間から、冷気が溢れて来る。ぼんやりとした光に照らされた冷蔵庫の中は―――――。
 まぎれもない、死だった。
 私は取っ手を握ったまま、金縛りにあったように動けなく―――実際、私は動けなかった。じんわりと、手のひらに汗が湧く。ジージーと蝉の声が変わらず、窓の外から聞こえて来る。開いた冷蔵庫からは、ひんやりとした冷気が漏れて、私の顔や肩を冷やした。汗に濡れた生々しい手のひらと、冷気に震える冷たい肩と顔。まるで、この冷蔵庫の中と外のようだ。
 冷蔵庫の中には、死に顔があった。
 白い石膏で作られた首から上の死に顔だった。二十歳を幾つか過ぎたその死に顔は、口元にはやすらかな笑みを浮かべ、虚ろに開かれた瞳でただ漫然と私を見ていた。インサイド・キャスティング―――人から直に取った型に、石膏を流し込み型を抜く方法。モデルと同じ姿形の石膏像を作る方法。高校の美術教科書に載っていた知識が、まさか、こんなところで役立つとは。しかし、だからこそ、私はこれが死に顔だと思ったのだ。床に付いた手をその死に顔に伸ばす。汗で湿った手のひらに、冷蔵庫の冷気が心地よかった。目を開いた石膏像を作ること、すなわちそれは、モデルの失明だ。瞳の粘膜に直接石膏を流し込むそれだけでも、拷問じみているのに、乾燥時に発生する熱で、粘膜は容赦なく焼かれることだろう。そんな苦痛に人が耐えられるとは、私は思えないし、第一、失明してまでモデルになるような人がいるのかさえ疑問だ。だから、この石膏像は死に顔なのだ。
 ひんやりとした冷蔵庫の中に手を差し入れる。死に顔しか入っていない冷蔵庫は、死に顔のために設えられた額縁のようであり、棺のようだ。
 思うに、有機物と無機物の違いとは些細なものだ。虚ろに開いた瞳は、私を見たまま動くことはない。その瞳を見ながら、私はそう思う。死に顔の頬に指を滑らる、私のゆびが有機物と無機物の間を行き来する。ひんやりと冷蔵庫の中で冷やされた死に顔の表面。私の血の通った確かな温度を持ったゆび。私と父みたいだ。いや、私と父だ。何時までも何時までも、変わることのない父。何時か分からないが、そう遠くない未来、父を追い抜いてしまう私。冷蔵庫の中の死に顔は、これからも変わることはない。父も変わることなどないだろう。だが、冷蔵庫の外はどうだろうか。こちらは、目まぐるしく変わって行く。私もこれから、どんどん変わって行くだろう。いや、一つだけは変わらない。
 父にあいされたい。
 その想いは、これまでも、これからも、変わることはない。だが、時は容赦なく私を変えて行くだろう。まずは、姿を変え、考えを変え、感情を変え、想いまでも変えようとするだろう。
 私は、微かな苛立を込めて死に顔に爪を立てる。ガチャリと、ドアの開く音がした。死に顔の表面が少し削れた。
「まいちゃん?」
 ドアの方を見ると、冴えない黒縁眼鏡をかけたひぃが突っ立っていた。猛暑にも関わらず足下は黒のスニーカーに、よれよれのジーンズ。右手にへなへなの手提げを持っていた。キャンパスで別れたときと寸分変わっていない。
「えっ? なんで? 何で居るの?」
 ひぃが、玄関で狼狽える。ひぃが小刻みに動く度、黒いスニーカーが、私が履いて来た白いサンダルを小突く。先々週、父に買って貰った真新しいサンダルだった。
「サンダル」
 足下を指差して言うと、ひぃが一つ溜息を吐き出してから靴を脱ぐ。ひぃのご丁寧に靴下を履いた足が、フローリングの床に上がり、微かな音を立てた。私は死に顔から指を離し、冷蔵庫の扉を閉める。死に顔に触れたゆびは、そこだけ死が伝染したように冷たかった。バタンという、扉を閉める音がやけに大きく響いた。
「何か飲む? 水と麦茶とソーダしかないけど」
「麦茶がいい」
「氷は?」
「いっこだけ入れて」
「了解」
 ひぃの姿が私の視界から消える。キッチンから、ガラスが触れ合うカチャカチャという音が響く。橙色の部屋の中、その音はどこか哀しいニュアンスを含んでいた。全開にしたままの窓から、蝉の鳴き声を掻き消して、鴉の鳴き声が聞こえた。それから私は、首から上だけの石膏像を思い出し、遥か昔父との夕暮れを思い出した。




「Nevermore」
 初めて聞いたのは、小学三年生の時だった。
 夏休みも終わりの頃、私は父のマンションへ行った。理由は、その日み子さんと新月さんはどうしても外せない仕事があって、父が私の子守りを引き受けたからだ。その日、私は初めて父と一日を過ごした。当たり前の家族が、当たり前に過ごしている一日を、私は初めて体験したのだ。忙しなく鳴き声を上げる蝉と、私の笑い声と、部屋に溢れる残虐で甘やかな父の香り。そして、父が私の名前を呼ぶ声。何もかもが、鮮明に思い出される。あの日ほど、楽しい夏休みはなかっただろう。
 その日の夕暮れ、私は父に頼まれて近所のコンビにまで、アイスクリームを買いに行った。走るたびに淡い水色のサンダルが、ぱたぱたと音を立てる。サンダルと同じ色の、ソーダ味のアイスクリームを二つコンビニで買う。私はアイスが溶けないうちに、急いで帰る。また、サンダルがぱたぱたと音を立てる。夕暮れの中、私の影が伸びたり、縮んだりしながら、まっすぐ私の後を追い掛けて来る。一人だけのおいかけっこ。生暖かい風が、ワンピースの裾を持ち上げる。けれども、構わずに私は走る。その日、私が着ていたワンピースは白く、裾の当たりに紺でラインが一本引かれているだけの、飾り気のないシンプルな物だった。そのワンピースは夏休みに入る少し前、父が私に送ってくれたものだった。シンプルで涼しかったのは勿論、父から服を貰ったのが嬉しくて、その年の夏休みは殆どそれを着て過ごした。けれども、翌年には私が大きくなってしまって、二度と袖を通すことが出来なくなってしまった。
 でもその日、そのワンピースを着た私を見て、父が嬉しそうに微笑んだのを私は鮮明に覚えている。微笑んで細くなった瞳は、アクアマリンをそのまま嵌め込んだような綺麗な青だった。ぎゅーっと、愛おしそうに私を抱きしめた父の溶けそうに嬉しそうな顔も、私は今でもしっかり覚えている。残虐で甘やかな父の香りが、まだ子供だった私を嬉しくさせたのも、ちゃんと覚えている。そして、そのころはまだ、「だいすきな父」だった。
 汗で湿ったサンダルを引き剥がして、玄関に投げ捨てる。サンダルは勢い余って、ドアに当たったが気にしない。今度は、ぺたぺたと音を立てて父の居るリビングまで走る。かさかさとコンビニの袋が擦れる音と、私の弾んだ息。
「ただいまッ!」
 リビングには誰も居なかった。
「ぱぱ?」
 私は父を呼びながら、キッチンの方を覗く。誰も居ない。ぺたぺたと音を立てて、他の部屋を見て回る。ドアノブを回す、誰も居ない。不安で一杯だった。怖くて、恐くて、仕様がなかった。もし、全ての部屋を回っても見ても父が見つからなかったら? 見えない不安が私を押しつぶす。み子さんと新月さんの携帯の番号はしっかり覚えているし、緊急の連絡先もメモしている。もしもの時は、そこに電話すれば良いし、いざとなればタクシーを呼んで家に戻れば良い。その為のお金もちゃんと持たされている。けれども、私を不安にしているのはそんなことではなかった。私を不安にさせているのは、父がいなくなったら、というものだった。私は父の携帯の番号も知らなければ、父の職場はおろか、職業さえしらない。ただ、知っているのは父の名前と、父が紛れもなく私の父だということだけだ。ドアを開け誰も居ないと分かるたびに、不安が私を潰そうとする。もし、父が居なくなったら………。だいすきな父が居なくなる。会うことも出来なければ、話すことも出来なくなる。普通のファミリー向けのマンションが、やけに大きく感じた。
 私は、最後のドアの前に立つ。
 不安と恐怖で、泣きそうになるのを堪えながら、ドアノブに手を伸ばす。握ったドアノブは、ひんやりと冷たかった。軽くドアが軋む音がして、目の前が明るくなる。私の前に、大きな窓があった。カーテンが風を孕んで、綺麗なアーチを描き揺れる。部屋の両側は、背の高い本棚に埋め尽くされていて、壁が見えるのは天井近くだった。窓の前には、焦げ茶色の大きな机があって、そこには黒い重厚な椅子があった。
 そこで父は、うたた寝をしていた。
 椅子に座ったまま、背もたれに埋もれるようにして、すぅすぅと寝息を立てていた。
 私はぺたんと床に座り込む。
 張りつめていた緊張が緩んで腰が抜け、同時に我慢していた涙が一気に溢れ出した。堪えようとも、涙は次から次へと零れて、最後は声を上げて泣いた。夕暮れに、響く私の鳴き声。酷く滑稽で早く泣き止まねばと思ったけれども、父が居たという安心が泣き止むことを私に放棄させる。ワンピースに、涙が幾つも幾つも、零れ落ちる。水玉模様にでも、なったようだ。
「まい?」
 目を擦りながら父が呟く。私は、父に駆け寄りたかった。けれども、抜けた腰は言うことを聞いてはくれなかった。
「え? まい? …………ああ!」
 父が椅子から立ち上がる。
 ふわりと、身体が浮いたと思うと私は父の腕の中にいた。残虐で甘やかな香りが、私を包む。
「ごめんね。恐かったよね、一人にさせてごめんね」
 私は鳴き声を上げながら首を振る。違うのだ、一人が恐かった訳ではないのだ。父が居なくなることが、恐かったのだ。そう言おうにも、涙が邪魔して言えなかった。ただ、首を振ることだけしか出来なかった。
「ごめんね、まい。ごめんね」
 父の手が優しく私の背中を撫でる。
 やっと泣き止んだ私は、椅子に座った父の膝の上に居た。焦げ茶色の大きな机の上には、私が買って来た(殆ど溶けていると思われる)アイスが入っているコンビニの袋が場違いなように置かれていた。父の手は、まだ、私の背中を優しく撫でている。私が握りしめたせいで、皺になった父のシャツが見えた。それが、私が泣いた証拠だと思うと、どうしようのなくみっともないと思った。
「パパ。まい、もう大丈夫だよ」
 そう言うと父は微笑んで、だめ、と飴でも転がすような甘やかな声で言うのだ。
「なんで?」
「あのね、まい。小さい子はね、泣くことも仕事なんだよ。今のうちに、泣いておかないとダメなの」
「もう、まいは小さい子じゃないよ」
 微かに頬を膨らませながら言うと、父は可愛くて仕様がないというように、私を抱きしめる。丁度、父の顔が私の顔の横に来ていたので、父の瞳がどんな青だったかは、分からなかった。
「ううん。まいは小さい子だよ。パパにとっては、何時まで経っても小さい子」
 父の軽やかな笑い。今の私にしてみれば、それは残虐な笑い。何時まで経っても小さい子では、何時まで経っても父にあいされない。私は父に、あいされたい。
 軽やかに笑う父の瞳は、夏の晴れ渡った日の空みたいな青だった。
「なんの本?」
 机の上に逆さまに置かれていた、本を手にとる。けれども、それは私が読めるような本ではなかった。小さな文字が規則正しく並んでいる、小難しそうな本だった。
「違うよ。ちょっと良いかな、まい」
 父の手が脇に回り、私はまたふわりと浮く。私の身体の向きを変えたのだ。父の手が後ろから回って来て、私を腕の中へ閉じ込めるように、本を持つ。本はよく見ると、洋書でローマ字しか分からない私には、さっぱり意味が分からなかった。悔しかったので、私は適当な所をゆびさした。
「何て書いてあるの?」
「Nevermore」
 それが、初めて聞いた「Nevermore」だった。
「えっ? もう、いっかい」
 私は振り向いて、催促する。父の眼が細められ、薄い青になる。唇がゆっくり「Nevermore」と動く。その声すらも残虐で甘やかな香りがした。
「ねばーもぁ?」
「そう。まいは上手だね」
「どういう意味なの?」
 頭を撫でる父の手が止まって、机の引き出しに伸びる。そこから、一冊のぼろぼろになった辞書を取り出した。
 ぱらぱらと、私の目の前で父の手が、ページを捲ったり、アルファベットを追ったりする。ぼろぼろの辞書は、父が使い込んだものらしく、父の残虐で甘やかな香りがした。ページを捲る度ふわりと、その香りが私の鼻先を撫でて行く。そして、父のゆびが止まる。
「ここ、読んでごらん」
 私は父が指差した字を音読する。父と私の背後でカーテンが揺れる。
「一度もない、決してない?」
「うん。そういう意味なんだ」
「分かんない」
 父の眼を見て言うと、また青が細くなる。今度は、学校のプールみたいな青。父は時々、こんな眼をする。澄んでいて綺麗なのに、どこか遠くにあるような、掴むことが出来ない眼。まるで、プールの底にある光の帯みたいだ。底に潜っても、水を掴んでも、見ることは出来ても、手にすることが出来ない。気紛れに現れては、もしかしてと期待を持たせる。父は時々こんな目をする。もしかしてと、期待を持たせるような。だから私は、何時か父が私をあいしてくれるという期待を持ち続けるのだろうか。決して手にすることが出来ないというのに。
「今は分からなくても良いよ。何時か分かればいいの」
 また、父の手が私の頭を撫でる。み子さんに似た柔らかい髪。でも、色は父に似た藍色。私は父と母の遺伝子を掛け合わせたこの髪好きだけれども、もし選ぶことが出来たのなら、私は父と同じ万華鏡のような青い瞳が欲しかった。くるくると変わる、万華鏡のような瞳が。
 父の刻々と変わる万華鏡の瞳を見あげて、私は訪ねる。
「何時かって?」
「さぁ、何時だろう。パパにも分からないや」
 さわさわと、風が入って来る。父の手が私の腹に回る。
「でもね、まい。今日という今日は、今日しかないんだ」
「今日?」
「遠足は一年に一回でしょ?」
「うんッ」
「一年生の時の遠足は、一回だけだよね」
「中学生には遠足はないの?」
「ああ、ごめんねまい。小学一年生の時の遠足は、一回だけだよね」
「うん」
「だから、今日も一度しかないんだ」
 青い瞳が、遠くの地平線の彼方を見る。
「Nevermore」と父の唇が、残虐で甘やかな香りを漂わせ、動くのを私は今でも覚えている。



 ひぃに抱きつかれながら、私はそれを思い出している。正面から向き合うように、小さな子供がお気に入りのぬいぐるみに縋り付くように、ひぃが私を抱きしめる。抱擁と呼んでもいいが、そう呼ぶには愛が足りない。先程、鳴いていた鴉はどこか、遠くへ飛んで行ってしまったようだ。また、蝉の声が窓から聞こえて来る。のちに、それがポーの「大鴉」だと知ったのは、それから何年も経った頃だ。
 私とひぃの間には、焦げ茶色の―――麦茶の運河が流れている。運河には、氷が一つ浮いていて、その周りだけ色がない。夕日を反射して麦茶の運河がきらきらと光る。
「ねぇ、まいちゃん」
「なぁに?」
 ひぃの腕が回った首にじっとりと汗をかく。幾ら夕暮れとはいえ、ここのところ連日の猛暑だ。日が暮れても、まだ熱い。
「冷蔵庫のみた?」
 きゅっとひぃの腕が、私の首を絞める。
「石膏像のこと」
「うん。あれね、死に顔から取ったものなの」
「じゃぁ、デスマスクと言った方が良いね」
「そうだね…………」
 きゅっとひぃの腕が私の首をまた、締める。汗が服の中へ、流れて行く。
「まいちゃんは、好きな人っている?」
 父の万華鏡のような青い瞳が浮かんだ。
「いるよ」
「ボクはねぇ。その好きな人に、やっちゃたんだ……………」
 何を「やっちゃた」のか。そんなことは、聞くまでもない。ちらりと冷蔵庫を見る。白い棺の中は変わらず冷たいままだろう。
「まさか、あんなに簡単に出来るなんてね。お金が少しかかっただけなの………」
 「Nevermore」私の中でそれが響く。
「ひぃ」
「まいちゃん。まいちゃんは、まいちゃんでも、やっちゃう?」
 私は考える。
 年老いることのない、変わらない父に、そんな日が来るのかどうかすら分からないのに。万華鏡のような青い瞳が、閉ざされた父の顔を想像し、私はそこで一体何が出来るのか。あいされたいのだろうか? 生きていなくとも、私はあいされたいのだろうか? 残虐で甘やかな香りに包まれ、私は父にあいされたいのだろうか? 分からない。
「さぁ。分からない」
「そっか…………」
「でも」
 少なくとも、私は生きている、あの万華鏡のような青い瞳の残虐で甘やかな香りのする父に、私はあいされたい。
「あいすることはできるよ」
 そうだ。
 あいされることは出来なくとも、あいすることは出来るのだ。私は、父をあいしている。そして、あいされたい。あいされたいのだ。
「まいちゃん」
「なぁに?」
「ありがとう」
 幾千も、幾万もの、想い。
 そんな様々な思いを込めた「ありがとう」だった。ひぃのありがとうという声が、身体の動きが、私の中へ沈み込んで来る。忘れないように、何時でも思い出せるように。きゅっと、首がまた締まる。服の中へ、また流れ込む。それは、私の汗なのか、ひぃの涙なのか。ジージーと蝉が鳴く。橙色の空の中、鴉が飛んでいた。ぶわり、と生暖かい風が部屋の中へ入って来る。
 ひぃのありがとうから、どれくらい経っただろう。実際はそんなに、経っていないのかもしれない。 ゆっくりと、首に巻き付いていた腕が、名残惜しそうに離れて行く。
「零れちゃったね」
 ひぃが、急いでキッチンに向う。俯いていたので、顔は見えなかった。ひぃは、泣いていたのだろうか。せかせかと動くひぃの背中を眺めながら、ぼんやりと思った。泣いていても、泣かなくても、ひぃがデスマスクを作ったことには、変わりないのにだ。
 「Nevermore」また、それが響く。
「ひぃ」
「どうしたのまいちゃん? 雑巾なら、こっちに…………」
「そろそろ帰る」
 私は、そう言って立ち上がる。運河の氷は、殆ど溶けていた。キッチンでは、ひぃが私の為に二杯目の麦茶を用意していた。
「そう………。ねぇ、まいちゃん。お願いがあるんだけど」
「なぁに」
「これ、帰る途中でポストに入れて欲しいの」
 ひぃが、へなへなの手提げからB5ぐらいの茶封筒を取り出す。素っ気ない字がボールペンで書かれていた。
「入れてくればいいの?」
「うん。お願い」
 その時、へなへなのバッグの中に、真新しい買ったばかりの庖丁があることに気が付いた。けれども、それについて私は話そうとは思わなかった。
「分かった。じゃぁね、ひぃ」
「うん。さよならまいちゃん」
 くるりとひぃに背を向けて、サンダルを履き、部屋の外に出る。鮮やかな夕日が、私の網膜を焼いた。そして。「Nevermore」と、飴玉でも転がすように呟く。もうないだろう。ひぃと私が生きて会うことは。この部屋に、来ることも。様々な思いを込めてひぃがありがとうと言ったように、私も様々なことを思ってそう呟いた。そして、そう言えば大鴉は、像の上に止まっていたのだ、ということを思い出した。
 近くのコンビニに向って歩き出す。丁度、ひぃの部屋のベランダに黒い鴉が一羽、止まっているのが見えた。
「Nevermore」
 そう、鴉が鳴いたように聞こえた。
「Nevermore」
 私は、それに返すように囁く。




 それから、ひぃが死んだ。自殺だった。夥しい数の死が部屋には横たわっていることだろう。
 きっと、そこには残虐で甘いやかな香りが充満しているのだ。

2008/12/29(Mon)18:49:06 公開 / カオス
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■作者からのメッセージ
ここまで、読んで下さってありがとうございます。
誤字・脱字などありましたら、教えて下さい。

頼家様
返信が送れてしまって申し訳ありません。
二話目に進んだはずなのに、全然謎が解かれていないままのような気がします。(おい)
『―――』は、削れる所は削りました。
参考になるご指摘ありがとうございます。
そして、ここまで読んでくださってありがとうございます。

羽堕様
返信が遅れてしまって申し訳ありません。
あと、少々続くと思いますので、それまでおつきあい頂ければ幸いに存じます。
本当に、父はなんなのでしょうね。ボクにも分かりません。(無責任)
貴重なご感想をありがとうございます。
そして、ここまで読んでくださってありがとうございます。

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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。