『Hell's angel -1.路地裏-』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:泡球                

     あらすじ・作品紹介
いつもと変わらない生活を送る少女が、ある日出会った奇妙な少年。その日から、いつもと違う世界へと飛び出す少女の物語。

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  【回想】

 埃っぽい匂いと、生ぬるい風が吹き抜ける場所。
 此処にあって此処にない、切り離された場所。
 暗く、臭く、湿った場所。

 しかし私にとってそこは、爽やかな刺激と、穏やかな温もりを与えてくれる場所。

 もしかしたら、また会えるんじゃないか。
 もしかしたら、また聞こえるんじゃないか。

 今でもそんな淡い期待が頭をよぎる。

 もしも、また会えたなら、
 もしも、また聞こえたなら。


 今でも鮮明に覚えている。




  【第一章】

 夜八時。
 寒空は漆黒に染まり、太陽の代わりに街灯が街を照らしている。人も車も、白い息を吐きながら通りすぎていく。
 人々の行き交う道路の一角に建つコンビニエンスストア。全面ガラス張りの窓の前に並び、黙々と雑誌を読む人々の影を作りながら、蛍光灯の明かりは道路に漏れだしている。暗い屋外から、明るい店内の様子はよく映えた。
 中では、カッターシャツの上に店の看板と同じ配色の上着を着た少女が一人、カウンターの上にもたれ掛かっていた。
 店内の客の数はいたって少ない。ほんの一時間ほど前までは、帰宅途中の高校生やサラリーマンで溢れかえっていた店内だが、いまは少女以外ほんの数人しか人が居ない。
 少女の名前は相沢薫。公立高校に通う高校二年生。短めの黒い髪に、黒い瞳を持ち、身長は比較的標準。学校帰りにこのコンビニに通い、アルバイトをしている。
 一日の内で一番暇になるこの時間。薫は何かやることを探して、辺りを見回す。伝票の整理は終わっている。中華まんはケースにきっちり並んでいる。おでんも十分に詰まっている。ゴミは落ちていない。
「はあ……」
 虚しいため息が一つ。

 そのうち薫は、無意識に店内の観察を始めていた。中年のサラリーマンが三人、肩を並べて雑誌を読んでいる。年老いた女性が、お菓子のコーナーを行ったり来たりしている。そして、恐らく薫と同じくらいの年齢の少年が、弁当の前に立っている。
 弁当のコーナーは、カウンターに立つ薫から見てちょうど正面に当たる。薫はぼんやりと少年の背中を見つめた。
 黒光りするダウンジャケットに、だぶついたジーンズ。頭にはオリーブ色のニット帽を被った少年は、ジーンズのポケットに両手を突っ込み、歪んだ姿勢で弁当やおにぎりの方を向いている。時々ふらふらと場所を変える。
 ふと少年は、サンドイッチを手にした。具は卵とツナ。
「無難だな……」
 と小さく声に出してしまった自分に、薫は勝手に驚いた。
 サンドイッチを手にした少年は、そのままふらふらと移動し始めた。そして、やがてカウンターにいる薫の前にさしかかった。
 顔を上げた少年は、薫を見た。視線が合って、薫も少年を見つめ返した。皮肉に満ちたような、反逆的な目。薫も自然と睨みつけるように目を細めていた。
「いらっしゃいませぇ」
 試しに、大きな声で叫んでみると、少年は薫から目をそらし、にやりと笑った。
 その口元に、苛立ちを覚える薫。

 その直後だった。
 少年はすぐ近くにあった棚からガムを一つひったくると、そのまま乱暴に店の扉を開け放ち、もの凄いスピードで駆けて行ってしまった。
 薫は呆然と立っているだけだった。
「万引きだ!」
 店内の奥にある扉から、若い男が飛び出してきた。この店の店長だった。店の裏で作業していた店長は、防犯カメラに写った少年を発見していた。
 店長は開け放たれたままの扉から外に出ると、少年の出て行った方へ向かって走り出した。
 客は驚いてざわめき、すぐにカウンターの薫の方を見たが、薫は目だけを大きく見開いたまま立ち尽くすのみだった。まさに、頭が真っ白になるとはこの状態のことである。
 店長が飛び出していってからしばらくして、薫は後悔を覚えた。あの時自分が走り出すべきだった。もし自分があの少年を追いかけていれば、すぐに捕まえて商品を取り返せたかもしれない。現に店長はまだ帰ってこない。しかし同時に、あんな状況で瞬時に動けるはずがない、と自分を正当化する言い訳も生まれていた。

 十分後、肩を上下に大きく揺らした店長が戻ってきた。
「……だめだ、捕まらなかった。早すぎる……」
 店長は、薫が動かなかったことについては触れず、また仕事に戻ると言って裏へと戻っていった。薫は罪悪感を覚え、何も言わず店長の入っていった扉を見つめる。


  * * *


 夕陽がビルの間から差し込み、道路を橙色に染め上げていた。人々の影はぐんと伸び、誰もが家路へ急いだ。
 薫は紺色のブレザーにグレーのスカートを履き、黒いくしゃくしゃのスクールバッグを肩にぶら下げて歩いていた。今日はバイトはない。学校での授業を終え、さっさと家に帰る。
 途中、コンビニの前にさしかかった。薫は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、腰を低くして急いで通り過ぎた。
 あの時は仕方がなかったんだと何度も繰り返したが、薫の罪悪感は未だ消えずにいた。それを再び思い出してしまった薫の足取りは重くなる。とぼとぼと下を向いて歩いていると、日の光の届かない暗く狭い道が続く場所に来ていた。薫の家はこの路地を抜けた先にある。
 ――何かが、薫の足を止めた。
 自分でも何に惹かれて立ち止まったのか分からず、薫は辺りを見渡した。自分の通ってきた道以外、暗くてよく見えない。しかし、暗闇の中に何かが浮かんでいるのを、薫はしっかりと目で捕らえた。
 目だった。二つの鋭い目が、こちらを見ている。
「誰?」
 薫はその姿勢のまま問いかけた。
 目は細くなった。どうやら笑っているようだった。そして、小さく足音を響かせながら、薫の方まで近づいてきた。
 影から出てくることにより、薫にその目の正体が明かされた。
「もしかして……」
「よう」
 見覚えがあった。
「お前あん時のアルバイトか?」
 間違いない。あの万引き犯である。

 薫はあの時と同じように、立ち尽くした。
「何黙ってんだよ」
 クスクスと嫌みな笑顔を浮かべながら、少年は薫の目をじっと見ていた。
 薫の体は、ようやく少し力が抜けた。
「……そうだよ、あの時のバイトだよ」
「やっぱりな。その間抜け面、覚えてるぜ」
 どんどん動かせるようになっていく体。
「間抜けで悪かったね。それより……」
「盗ったもん返せってか」
 薫は、無言で何度も頷いた。それを見た少年は再びクスクスと笑い出す。その笑顔は薫の心を掻きむしるように苛立てていく。
「悪いけど全部食っちまった。もう残ってねぇよ」
「そんなの初めからわかってる。どうしてくれるの?」
 店に連れて行く、この場で責め立てる、警察に突き出す……。薫には様々な選択肢があった。しかし薫は、夢中で少年に回答を求めた。眉間にしわを寄せている薫を見て、少年はふっと小さく息を吐いた。
「どうしてくれるって、どうして欲しいんだよ」
「どうして欲しいって、そりゃ何とかして欲しいのよ」
「何とかして欲しいって、何すりゃいいんだよ」
「何すりゃって……」
 薫は、少年に回答を求めたことを後悔した。大体、万引きした犯人に今後の選択肢を与えたって、まともな対応をされるはずがない。

「何でいつもそうやって馬鹿なことするの?」

 沈黙が流れた。
 少年は仏頂面で薫を見つめている。
 「いつも」とは何のことだろうか。この少年に会うのはたったの二回目だ。この少年の生い立ちを知っているわけでも何でもないのに、何故「いつも」なんて言ったのだろうか。薫自身、自分の発言に混乱していた。
「俺はそう言う人間だ」
 薫の気にしていたことは無視して、少年は普通に答えた。


  * * *


 湿った空気の漂う、暗い空間。
「あの子」
 小さな声が響いた。
「うん、あの子」
 それに答えるように、別の声が響いた。


  * * *


 一週間が過ぎた。
 あの少年は、薫に奇妙な笑みを見せた後、無言で立ち去った。闇へと消えていく背中を、薫は呼び止めようとも追いかけようともしなかった。
 そして薫は再びいつも通りの学校生活を送った。退屈な授業を受け、友人と談話し、橙色の道を歩き、帰宅。その後は夕食をとり、居間でくつろいだ後、宿題に追われ、就寝。
 しかし、あの暗い路地にさしかかるたび、奇妙な感覚に襲われるようになった。怖いわけではない。何かがまた自分の前に現れそうな、全身に力が入ってしまう、今まで味わったことのない感覚。少年は、薫の脳に強い印象を与えていた。

 薫は、友人三人と一緒に、ファストフード店にいた。ジュースやフライドポテトを囲み、授業への愚痴や恋の話に盛り上がる、女子高生らしい光景が広がっていた。
「そういえば、薫には好きな人いないの?」
 薫の正面に座る真奈美が、いたずらにそう問いかけた。
「別にいないよ、格好いいのいないじゃん」
 ジュースをすすりながら、素っ頓狂に答える薫。
「じゃあ、好きな人じゃなくても良いから、気になる人とかいないの?」
「気になる人?」
 そう質問されて、まず薫の脳裏をよぎったのは、あの少年だった。ほんの少し会話しただけで、好きとか格好いいとか言う感情は全くない。だが「気になる人」という点においては、確かに間違ってはいない。
「……んー、いるかも」
 その瞬間、他の三人は一気に沸いた。
「うっそ! 誰? 違うクラス!?」
「格好いいの? ねぇ格好いいの?」
「薫やるぅ!!」
 固まってしまった薫を差し置き、三人は甲高い声で騒いだ。周りの目など気にもせず、テーブルに身を乗り出して薫の顔を覗き込んだ。
「ちっ……、違うって! 好きとかそんなんじゃなくて、ただ何か変な人に会って……」
「変な人?」
 慌てて訂正する薫に、隣に座る美加が尋ねる。
「そう。何かね……、何て言うか……、目つきが悪くてさ……、それと」
「それと?」
 三人が声をそろえる。
「あいつ万引きした」
 今まで興奮していた少女たちは、一瞬凍り付いた。その後顔を見合わせると、さっきとは違う高ぶりを見せた。
「万引き!?」
「それって薫の働いてるコンビニで?」
「うん」
 驚きを隠せない三人は、何度も顔を見合わせ、顔をゆがめていた。そして口々に「やばい」とか「すごい」とか口にした。経験のない女子高生にとって、万引きを目撃するなんて相当低い確率であり、他の世界の出来事だった。

 薫は三人と別れた後、またいつもの家路に就いた。橙色の光は無くなり、辺りは少し薄暗くなっている。
 そのせいか、例の路地はますます真っ暗だった。
「……嫌だなあ、こういうの」
 薫は無意識に息を止め、暗い路地を一気に駆け抜けた。
 拍子抜けするほど、あっさり切り抜けることが出来た。街灯のある明るい通りに出たところで、薫は立ち止まり、振り向いた。背後に残る、どんよりと渦巻く闇。未だにそこに潜む何かが、薫の後ろ髪をつかんで放さないような、気味の悪い感覚に身震いをした。
 薫がまた通りの方に向き直り、一歩踏み出したときだった。

 ――ドドドドドド……

 とても鈍い重低音が響く。薫の足は再び地面に縫いつけられた。
「……え?」
 最初は耳鳴りのようにも聞こえた。しかし音は、段々と大きくなり、薫の頭の奥に響いた。何かが迫っている。やはりいつも此処を通るときに感じていた奇妙な感覚は、自分の勝手な思いこみではなかったのか。
 やがて、通りをまばらに歩いている人々にも音は伝わり、それぞれその場に立ち止まり、周囲に目をやった。
 薫は硬直し続けた。振り返ることも、走り出すことも出来ずに、ただその場に立ち尽くす。しかし次に薫を襲ったのは音などではなく、もっと具現的な物であった。そのおかげで、薫は硬直を解くことが出来た。
 薫の背後には闇。そこから、無数の黒い手が飛び出した。闇の底から湧き出すように、黒い手は通りへと伸びた。
「!!」
 ようやく動き出すことが出来た薫は、振り返るやいなや走り出した。黒い手は薫を追いかけ、どんどん伸びてくる。薫は何度も足をもつれさせながら必死に逃げた。しかしどこまで逃げても、手は留まることなく追いかけてくる。
 やがて、手は薫が肩にかけていたバッグを掴んだ。その瞬間、反動で薫はその場に勢いよくひっくり返った。コンクリートの地面に尻を打ち、顔をしかめた薫は、もう一度振り返った。バッグをしっかりと握る、一本の手。とっさの判断で、薫はバッグを捨てて再び走り始めた。強く打ち付けたせいで痛む腰を気にする余裕などなかった。
 走っても、走っても、手は追いかけてきた。街ゆく人々は、逃げる薫を見るなり、恐怖でその場から立ち去ってしまう。じきに、薫の体力も持たなくなり、速度はどんどん落ちていく。そして――
「ぎゃぁぁぁ!!」
 ついに薫は、手に捕まった。肩を掴まれたと思ったら、その瞬間何本もの手が薫にからみつき、薫の体は宙に浮いた。
「嫌だ嫌だ嫌だ! 放せ放せ!!」
 薫は必死にもがいた。しかし全身を黒い腕がぐるぐると締め付け、身動きが取れない。薫に、諦めるという選択はなかった。何が何でも助かろうと、がむしゃらに身をよじる。黒い手もそれに応じて、ぎゅうぎゅうと薫の体に巻き付く。

 一瞬、光が薫の視界を支配した。

 あまりのまぶしさに、薫は動くのを止めた。手もまた、締め付けを少しゆるめた。
 光はすぐに消え、また視力を取り戻した薫の目の前にいたのは、少年だった。万引きをした、あの路地裏の少年だった。
しかし、少年が発光したわけではない。光を放ったのは、少年の手にする何か。
 少年は、薫に飛びかかった。薫は思わず息をのんだが、少年は薫よりも黒い手に飛びつき、腕で思いっ切り斬った。黒い手は紙のように千切れ、薫は解放された。体を投げ出され、再び地面に体を打ち付けた。
 痛みに悶えながら、薫は少年を見た。暴れる黒い手に応戦している。
「よぉ、いい加減諦めたらどうだ」
 からみつこうとする手を手際よく払いながら、少年はにやりと笑った。
「お前らに勝ち目はねぇよ」
 止まらない黒い手を掴み、引き寄せた。
「だろ?」
 すると、少年は黒い手を口に運び、噛みちぎった。驚いたように、黒い手は勢いよく身を引いた。
 千切れた黒い物を咀嚼しながら、少年は悶絶する黒い手を睨み付けている。一方黒い手は、仕方ないと言わんばかりにするすると戻っていき、姿を消した。
 薫には、何が起きたのか理解できなかった。
「……また会ったな」
 少年が振り返り、薫に嫌みな笑顔を見せる。その口元では、まだパタパタともがく黒い物がちらつく。少年はそれを完全に口に入れ、飲み込んでしまった。
「……あ……」
 薫は、まだ頭の中をまとめることができず、口を開いたまま硬直していた。投げ出されたままの姿勢で、制服はだらしなく乱れている。少年はゆっくり薫に近寄ると、手に持っている何かを薫にかざした。そしてスイッチを入れる。
 強力なライトだった。薫は突然襲った光に驚いて、勢いよく顔を背けた。
 すぐに、ライトのスイッチは切られた。
「あれは強い光に弱いんだよ」
 少年はライトを降ろし、静かにそう言った。薫もゆっくりと視線を少年に戻す。
「あれ……、何だったの……?」
「“影”だよ」
 数秒、沈黙が続いた。薫は少年を、また少年も薫を見つめた。薫は少年が再び何か言うのを期待したが、少年はそれきり何も言おうとしなかった。その沈黙に次第に焦りを覚えた薫は、慌てて立ち上がり、制服の乱れを直し、少年を見た。
「“影”って何なの? お化けか何か?」
「そう思いたきゃ思えばいいさ」
 適当に返事を返され、少し腹を立てた薫は、今より少し強い口調で再び少年に問いかけた。
「ていうかあんたは何者なの?」
 その質問に、少年はあの嫌みな笑顔を見せた。
「ただの路上生活者ですが?」
 路上生活者――つまりホームレス。それを理解した途端、薫は驚愕の目で少年の全身を舐め回すように見た。特に窶れた様子もなく、しゃんとした風貌。しかしその堂々とした口調で、この少年は自分をホームレスと称している。住むところのない人間が、どうしてこんなに堂々としているのだろうか。
「路上生活……って」
「何だよ、別に珍しくねぇだろ? 俺はいつもあの路地裏で寝てるぜ?」
 そう言うと、少年はポケットに手を突っ込み、薫に背を向けた。そして、路地の方へと歩き出した。
 大人らしさと少年らしさを併せ持つ背中。その背中は揺れながら、ゆっくりと薫から離れていく。その姿は世の全てに不満を抱く、不良そのものだった。
「待って!」
 薫の声に、少年の足は止まる。
 呼び止めてすぐに、薫は自分の招いた状況に少し戸惑った。しかしすぐに意を決し、少年に尋ねた。
「あんた、名前は?」
 少年は、しばらく黙った後、答えた。
「名前はねぇよ」
 沈黙が蘇った。薫は焦り、何も言い出せなくなった。少年は薫に背中を向けたまま、依然沈黙を守り続けている。しかし、しばらくして少年の口は開かれた。薫の方に振り返りながらこう言った。
「今はハチって呼ばれてる」
 そう言うと、少年は姿勢を元に戻し、背中を向けたまま薫に手を振り、立ち去った。
 呆然と立つ薫。今起きた出来事を頭の中で順番に整理したが、出来上がったのはとりとめのない物だった。黒い手の化け物、ハチと名乗るホームレスの少年。気がつけば、自分はコンクリートに打ち付け痛む体をさすりながら、夜の通りにぽつりと立ち尽くしていた。人気の無くなった通りには、もう街灯が灯っている。
 薫は投げ出したバッグを拾い上げた。元々くしゃくしゃだったが、さらに土埃で汚れ、しわだらけになっている。そして確かに残る、黒い手に掴まれた跡。
「……」
 それを見つめながら、薫はまとまらない思考を押し殺し、ゆっくりと歩き出した。
 恐怖はあった。だがそれよりも、あの少年のことが気になって仕方ない。何者なのか知りたい、だがやはり怖い。関わらなければこれ以上変なことは起きないかもしれない。
 薫は、一晩眠れなかった。


  * * *


 三週間ぶりの雨だった。
 身を引き裂かれるような寒さの中、しとしとと降る冷たい雨で、街灯の光がぼんやりと滲んでいる。人通りはめっきり減り、街は雨の音に支配された。
 この日はコンビニを利用する客も少ない。いつも三、四人は立ち読みに肩を並べている雑誌のコーナーにも、誰一人いない。
「はあー……」
 薫はいつにも増して暇をもてあましていた。客の数に比例して、やらなければならない仕事も少なくなり、残りの二時間をどう過ごそうか頭を巡らしていた。しかしどこを見ても仕事は見つからず、薫にはただカウンターに身を預け、時間が過ぎるのをひたすら待つことしか出来なかった。
 退屈すればするほど、時間という物は無情にもゆっくりと過ぎる。相変わらず店長は店の奥でパソコンにかじりついており、薫は一人だった。そのことがさらに時間の流れを遅くし、薫は退屈という鎖に繋がれ苦しんだ。
 ところが退屈は、突然破られた。
「いらっしゃいませぇー」
 店の扉が開いたと同時に、反射的に薫が声を上げる。ところが、入って来た人物を見て、薫は思わず目を丸めた。
 ハチと名乗った、あの少年だった。あの時とほぼ同じ服装、同じ歩き方。ただ違うのは、肩や頭が濡れていること。
 ハチは店に入るなり、コーラのペットボトルを一本取り、それを手にしたまましばらく店内を徘徊した。そしてその後、ついにカウンターの前まで歩いてきた。
 また万引きするのではないか、と薫は身をこわばらせ、ハチに集中した。しかし、少年はペットボトルを持ち上げ、カウンターの薫の前にドンと置いた。
「え」
 予想していなかった行動に、思わず声が出る。
「え、じゃねぇよ。あと肉まん一つ」
 ハチはいつもの嫌みな口調で言う。
 薫は気を取り直し、肉まんをケースから出すと、レジを打った。そして合計金額をハチに伝えると、ハチは五百円玉を差し出した。
「……今日はお金あるんだ」
 おつりを取り出しながら、薫は呟いた。
「今日はちょっとした収入があってな」
 差し出されたおつりを受け取りながら、ハチが答える。そして袋に入れられた肉まんとコーラを手に取ると、薫に軽く手を振って立ち去った。
 薫はその姿をしばらく見つめ、再び退屈を紛らわす方法を考え出した。

 勤務時間が過ぎ、薫はくしゃくしゃのバッグを背負って通りを歩いている。雨は上がり、閉じられた傘が薫の足を邪魔する。吐く息は真っ白に染まって消え、気温の低さを物語っていた。
 そして帰り道には、あの路地があった。空は真っ暗なため、路地の闇は一層深い物になっている。ここで薫は化け物に襲われた。その恐怖は未だ消えていなかったが、ここには化け物とは別の気になる存在がある。薫は、路地裏をこっそりと覗いた。
 化け物の姿はなかったが、闇の中に何かがあった。しぼんだ風船のようにも見える。
「?」
 薫は慎重にそれに近づき、拾い上げた。くしゃりと音を立てて持ち上がったそれの全体を確認するため、目が慣れるのを待つと、それは小さなレジ袋だった。中には小さな紙のゴミのような物も入っている。
「おう、何やってんだよ」
 唐突に聞こえた声に、薫は飛び上がった。目をこすり、改めて目の前をじっと凝視すると、新たな影が浮かんできた。
「えっと……」
「お前も暇だな」
 姿が完全に見える前に、声で判断することが出来た。薫の前に、ハチが座っている。しっとり湿った壁にもたれ掛かってあぐらを掻いているハチの傍らには、ボロボロのビニール傘と、飲みかけのコーラのペットボトルが置いてある。
 薫は静かな声で問いかけた。
「こんなとこで何してんの?」
「何って、別にやることねぇし。ここでボーッとしてただけだけど」
 あの後、買ってきた肉まんを食し、コーラを飲みながらずっと暇をもてあましていたという。
「寒くないの?」
 薫が問うと、
「慣れた」
 素っ頓狂な答えが返ってきた。

「いつからここにいるの?」
「忘れちまったよ。大体ここに定住してるわけでもねぇしな」
「親は?」
「さあな。気がついたらいなかった」
 薫はハチの隣に腰を下ろし、それでも服の裾が湿った地面に触れぬよう注意しながら、ハチに質問を繰り返す。辺りは真っ暗で、互いの顔が確認できない。だからこそ、薫はいつもより少し気が楽だった。
「ねえ、こないだの“影”って言ってたやつ。詳しく教えてよ」
「あ?あぁ……」
 思い出したように、ハチが口を開いた。
「人の魂より出ずる汚れた念は、やがて寄り集まり醜悪の物の怪となる――」
「へ?」
 薫は間抜けた声を出した。
「つまり、根の腐ったやつらの魂が作っちまった化けモンだ」
 まだ多少理解に苦しむ部分はあったが、それでも難しい語を並べられた先程よりは分かりやすかった。薫はとりあえず分かったふりをして、何度か軽く頷いた。勿論、暗くてほとんど見えない。
「まぁ、正体なんざ関係ねぇ。うぜぇやつらはぶっ潰すだけだからな」
 ハチの雑な言い様に、薫はほんの少しだが頼もしさを覚えた。いつの間にか、彼に僅かに信頼感すら置いている自分に気付き、はっとする。
 ふいに路地裏へ冷たい風が吹き込み、薫は思わず身震いした。
「……寒くないの?」
「またかよ。もう慣れたってば」
「……えへへ」
 互いの表情を読み取ることが出来ない暗闇の中。そんな中で二人の表情は、柔らかな笑顔となっていた。

 薫は立ち上がり、制服の乱れを直すと、通りまで出てから振り向いた。通りから見ると、真っ暗な中にぼんやりとした人影が一つ。
「……じゃあ帰るね」
「おう」
 薫は歯を見せて笑うと、ゆっくり歩き始めた。しかし、すぐに足が止まる。
「ちょい待ち」
 ハチが薫を引き留めた。
「そういや名前まだ聞いてなかった」
「……相沢薫」
 薫は嬉しそうな表情を見せ、ハチの元を去った。


  * * *


 灰色に乾いた空。公園の木々は葉を失い、枝だけになった体を揺すっている。冷たい風が縦横無尽に駆けめぐる中、小さな子供が沢山、公園の遊具で遊んでいる。その傍らで、立ち話に花を咲かせている母親達。
 ある子供は滑り台で遊び、ある子供はジャングルジムを競うように登っている。砂場には、姿形のそっくりな少女が二人、大きな山を作っている。双子だった。
「だいぶ大きくなったね」
「だいぶ大きくなったね」
 それぞれ右と左に一つずつ、大きな花の髪飾りを付けた双子の少女は、砂山を叩きながら嬉しそうに言った。そして再び、スコップを手に山の拡大に専念し始めた。
「そういえば」
 片方がふと呟く。
「あの子、どうしよっか」
「ああ、あの子」
 もう片方の手も止まり、双子はぼんやりと空を見上げた。
「また今度、もう一回やってみようか」
「そうだね、もう一回やろう」
 双子は頷き、また山を作り始めた。双子が夢中で作り上げる山は、いつしか少女達の膝の高さを超した。その大きさに興奮し、さらに砂を積もらせる。周りの子供達も、その山に驚き、寄り集まってくる。そして、「すごい」とか「大きい」とか感嘆の声を上げた。
「そろそろ帰るわよー!」
 母親の一人が、砂場に集まる子供達を呼んだ。子供達は残念そうに、母親の元へと駆け寄る。双子もまた、自分たちの親の元へと走っていった。
「お山、大きかったでしょ」
「大きかったでしょ」
「そうね、すごいわね」
 にこにこしながら母親に話しかける双子。そしてそれに微笑みながら答える母親。
「明日も残ってるかなあ」
「そうね、残ってるといいわね」
 親子達はそれぞれの家に歩き始め、公園はひっそりとした静寂に包まれた。

「ごちそうさまぁ!」
 声を揃え、同時にスプーンを机の上に置く双子。
「はーい。ちゃんとお皿は片付けるのよ」
 流し台に立つ母親の声で、双子は椅子から飛び降り、机の上の自分の皿を持った。そしてそれを丁寧に重ね、母親の元に駆け寄り、それを渡した。
 幼い少女の夜は短い。双子は暫く画用紙に絵を描いて遊んでいたが、すぐ母親に言われ風呂に入った。そして着替えると、すぐにベッドに入った。
「おやすみ」
「おやすみー!」
「おやすみー!」
 母親はベッドに入った双子を確認すると、笑顔で挨拶をして部屋の扉を閉めた。双子は布団をかぶり、目をつぶった。
 しかし、すぐに双子は目を開き、起きあがった。布団から出ると、暗い部屋を手探りで歩いた。そしてクローゼットに手をかけると、音がしないようにそっと開き、中から小さな赤いコートを二着取りだした。それぞれコートを羽織ると、クローゼットを慎重に閉め、今度はおもちゃ箱の中から小さなサンダルを二足探し出した。そしてそれを手に持ち、窓を静かに開けると、外に出た。下には室外機があり、それを踏み台に庭に降りる。
「行こ」
「うん」
 双子は街へと出て行った。


  * * *


 ラジオから、ハイテンポな音楽が流れている。散らかった狭い部屋で、黒いジャージ姿の薫はベッドに横たわり雑誌を読んでいた。色鮮やかな衣装に身を包んだ、華奢な体のモデル達が並んでいる。薫にはそれが羨ましくも、嫌みにも見えた。どんな縛られた生活をすれば、そんなに手足が細長くなるのだろうか。あるいは生まれたときから体の仕組みが違うのか。
 薫は雑誌を読み終えると、それを乱暴に机の上に投げ、ベッドから転がるように降りた。
「お風呂でも入るか……」
 ラジオの電源を切ると、大きく伸びをしてからそう呟いた。
 だが、薫の体は部屋の出口とは逆の方へと歩き出した。
「?」
 窓を開け、外を覗いた。二階に部屋のある薫は、そこから下の道路を見下ろした。
 薫自身、何故家の外を見たのか分からなかった。確かに何か惹かれる物があったことは否定できない。
「……気のせいか」
 ハチと初めて出会ってから、薫は自分の中で何かが変わっているのに気付いていた。何かと「気のせい」が多くなったのだ。薫はそれを改めて感じ、窓を閉めた。
 しかし、それが「気のせいじゃなかった」場合も比例して多くなっていた――

「うわああっ!!」
 薫は絶叫と同時に、窓を乱暴に閉めた。たちまち、窓ガラスに黒い物がビタビタと貼り付き、一瞬で窓の外が見えなくなった。薫が窓の外の気配に気づき、辺りを見回していた頃、例の黒い手が薫の家のすぐ側まで迫っていたのだ。
 無数の黒い手は窓を埋め尽くして尚蠢き、ガラスはガタガタと音を立てている。
「やばい、どうしよう、逃げなきゃ……」
 薫は慌てて窓から離れ、部屋の扉を開け放って廊下へ飛び出した。階段を駆け下り、一階へ。
「薫!?」
 薫の叫び声を聞いた母親が、居間の扉を開けて廊下に首を出した。ちょうどそこにさしかかった薫は、夢中で居間に飛び込み、勢いよく扉を閉める。キッチンで皿を洗っていた母親は、泡だらけの手をぶら下げてきょとんとしていたが、薫は構うことなく道路に面した大きな窓の方へ走った。
 居間は薫の部屋の丁度真下に位置しており、その窓からは家を囲う低い柵が見える。そこから見上げると、二階の窓があるはずの場所に、黒くて細い無数の手が群がっている。それらが一階へと移動している薫に気付き、一斉に下を目指して伸びてくる。母親はその異様な光景を見て、思わずその場にへたり込んだ。
「薫……、何なのあれ……っ」
「お母さん……」
 震えるように尋ねてくる母親。その質問に薫が上手く答えられないでいる間に、黒い手はどんどん増え、先程より大きな窓ガラスを埋め尽くした。そして、ついに二枚の窓ガラスの隙間から、紙のように薄っぺらい手が部屋へと侵入してきた。
「やっ、お母さん!!」
 薫は短い悲鳴を上げ、背後に座り込んでいる母親の元へと駆け寄った。母親は放心状態で動かなかった。それを必死で揺り動かし、「逃げよう」と促したが、やはり動かない。
 そのうち、無数の手が窓の隙間から、二人目がけて突っ込んできた。反射的に母親を床に押し倒し、廊下へと飛び出した薫を、手は猛烈な速度で追ってくる。不思議と母親には目もくれず、全ての手が薫を追いかけてきた。薫はそんな疑問に構っている余裕もなく、必死に玄関に飛び降りると、転がっていたサンダルを突っかけて外に飛び出した。
 薫が家に面した道路を走っていくと、それに気付いた黒い手が窓から剥がれ、薫に向かって伸びてくる。
「来た!!」
 無我夢中で疾走する薫。サンダルは足下でバタバタと暴れ、上手く走れなかった。苦労して走る薫は、気がつけば暗い路地の中にいた。
 無意識だった。いつの間にかここを目指して走っていた。何故ここに来たのかわからない。だが意識とは裏腹に、体は目的にどんどん近づいていく。路地裏に向かっていた――
「ハチぃぃぃぃっ!!!」
 叫んだのは、あの少年の呼び名。
 狭い路地にこだまする薫の声。その声が消えた頃、黒い手は薫に追いつき、そのジャージの首元を掴んでいた。薫は振り返るなり目を見開き、声を上げることも出来なくなった。

「またかよお前は」
 低く響く呟きと同時に、薫は以前のようにコンクリートに投げ出された。その瞬間、安堵が生まれた。
「……ハチ」
 薫は見上げるなり、そこに立つ少年の名を呼んだ。
「つくづく運のない女だな、お前」
 憎たらしい口調で吐き捨てたハチは、目の前で蠢く黒い手と対峙し続けている。
「おいおい、お前こいつに好かれてるのか?」
「冗談じゃないよ!」
「じゃあ何でお前ばっかりいつも襲われてるんだよ」
「知らない! とにかくこないだみたいにやっつけてよ!」
「軽く言ってくれるなぁ」
 ハチと薫が言葉を交わしている内に、黒い手は薫目がけて突進してきた。それを両手で受け止めたハチは、胸の前で暴れる手を固結びにして地面に叩き付けた。
「おぅ、いい加減正体表せ化けモンが」
 ハチが言い放つと、黒い手は大人しくなり、その身を引いた。
 そして第三の声が、路地裏に響いた。
「邪魔しないでよ」
 二人が凝視していた正面ではなく、背後の闇から現れた、二つの黒い影。人であることは確かだったが、暗くてその姿を捕らえることは出来なかった。薫は地面に這い蹲ったままの体制で、その闇の中を見た。
「お兄ちゃんが邪魔するから、上手くいかないじゃない」
「邪魔しないでよ」
 ハチは口を尖らせ、声のする方を睨み付けた。
「誰だお前」
 ハチが低い声でそう言うと、二つの影はゆっくりと前進した。そして僅かな光を受けて露わになったその姿は、赤いコートを着たうり二つの幼女。その幼い目はぼんやりと、だがどこか面白い物を見ているような色を見せている。
「私たちはお姉ちゃんに用があるの」
「お兄ちゃんは邪魔しないでよ」
 幼女が交互に言うと、ハチは足下に貼り付く薫を一瞥し、首をかしげた。
「こいつに何の用だよ」
 ハチが仏頂面で言い放つと、幼女はそれに答えず、そこからさらに前に歩き出した。小さな歩幅で少しずつ近づいてくる二人を、薫は驚愕の目で見つめ、ハチは上からつんと見下ろした。
「お姉ちゃん」
「な……、何」
「一緒に来て欲しいの」
 楽しそうに言う二人を、相変わらず見開ききった目で凝視する薫。
「私に何の用よ……」
「お姉ちゃんがお友達になってくれたら、きっともっと楽しいの」
「だから……友達になってよ」
 一言も口を挟まず、ハチはずっと三人のやりとりを見下ろしていた。そんなハチに、薫は視線で助けを求めた。その視線を感じ取ったハチは、面倒くさそうに頭を掻きむしり、薫と幼女達の間に割り入った。
「あー……、つまり何が言いたいんだ?」
「……」
 幼女達はむすっとし、一歩後退した。そして不気味な笑みを浮かべ、短く言った。
「鬼だもんね」
 何の比喩だろうか、その幼いくりくりとした目を細め、幼女達は薫を見つめている。言葉の意味すら理解することが出来なかったが、二人から漂う異様な香りだけは、しっかりと感じ取ることが出来た。一方でハチは、相変わらず面倒くさそうにポケットに手を突っ込み、だらしなく立っている。
 しばらく双方は対峙したが、一番最初に沈黙を破ったのはハチだった。
「この辺の“影”を集めてたのはお前らだな」
「そうだよ」
「私たちだよ」
 始まったのはまた“影”の話。薫はきょとんとし、両者の会話を見守った。
「最近“影”が活発になって鬱陶しかったんだ。目的は何だ?」
「目的?」
 くすくすと楽しそうに笑う幼女達。ようやく薫が体を起こし、立ち上がって服の乱れを乱暴に直した頃、幼女達は穏やかな声で言った。
「もっともっと強くなってね」
「早くおじちゃんのところに行くんだ」
「おじちゃん?」
 薫が思わず繰り返す。
「おじちゃんはね、いつもお家から私たちを見ていてくれているんだよ」
「だから私たちは早く強くなって、おじちゃんのお家に行くんだ」
「おじちゃんのお家に行けば、ずっとおじちゃんの側にいれるし、一緒に楽しいこと出来るから」
 何度も繰り返される“おじちゃん”という語。それが何を指すのか、薫は愚かハチにさえ分からない。その幼稚で楽しげな口調と意味不明さが、余計薫に不安を与え続けていた。
「でね。お姉ちゃんがお友達になってくれたら、私たちもっと強くなれるんだ」
「だからお姉ちゃん……」
「意味わかんねぇな」
 幼女の言葉を遮って、ハチが吐き捨てた。幼女は腹を立てたのか、再びむすっと顔をしかめた。
「意味わかんねぇってか、どうでも良いな。おい薫、お前こいつらとお友達になりてぇか?」
「ばっ……」
 急に振られ、間抜けな声を上げる薫。
「バカ言わないでよ、嫌だよ!」
「だろーな」
 慌てて切り返す薫と、だるそうに付け加えるハチ。その光景を見て、幼い二人は笑顔を失った。苛々しているのか、その表情はどんどん冷たい物となっていく。
「……ひどいよお姉ちゃん」
「だったら私たちだって力ずくでやっちゃうんだから」
「え……」
 幼女達は数歩後ろに下がり、短い両腕をゆっくりと上げた。すると、二人の背後から、黒い手が勢いよく飛び出した。パーティ用のクラッカーを爆発させたように、手は高速で薫とハチの視界に広がった。
 声すら失った薫の隣で、ハチは軽くため息をついた。そしてポケットから手を出すと、一番最初に接近してきた数本の手を掴み、強引に引きちぎる。その手がひるむ内に、別の腕が二人に襲いかかるが、それらも両手で握って粉砕する。ハチはそのうち脚も使い、手をちぎり、払い、蹴り破った。
「いい加減うぜぇんだよ!」
 手の数はどんどん増し、流石のハチも対応に追われた。薫はただ、目の前の戦闘を見つめ続けるしかなかった。そのうち、手はハチの手に余るようになり、四方八方に散らばった。その一部が、薫に手を伸ばした。
「バカ、早く逃げろ!」
「えっ……」
 手遅れだった。薫の手首が手に捕まり、そのままぐいと引き寄せられた。もつれる脚を振り回しながら、薫はどんどん幼女達の方へと連れて行かれる。ハチは何とか群がってくる手を払いのけ、薫のもう一方の腕を掴んだ。薫は両方の腕を引っ張られ、綱引きの綱と化した。
「痛い! 痛いってば!」
「お兄ちゃん邪魔しないで!」
「お前らこそ離しやがれ、クソガキが!」
「お姉ちゃんは私たちの物なの!」
 もはや幼稚園児の玩具の取り合いだった。間に挟まれた薫は、両肩が今にも外れそうなのを感じて苦痛の声を上げる。だが黒い手は一本だけではないため、じきに別の手が割って入った。薫はより強い力で引っ張られ、ハチはいくつもの手に押し倒された。
「痛ってぇ……」
 体側をコンクリートに打ち付け、ハチは呻いた。だが痛む体をさする間もなく、薫は幼女達の元に引き寄せられた。
「放して! 放せったら!」
 黒い手に拘束され、身をよじる薫。その声はしんと静まりかえった路地裏に反響し、何重にも響く。路地裏の周辺は空き家が多いのか、不気味に薫の声を吸収していった。
「お姉ちゃんには力があるんだよ」
「その力を、私たちに頂戴」
 暴れる薫の耳元で、静かに呟く幼女達。そんなことはお構いなしに、薫は暴れ続ける。
「ガキが!」
 ハチが地面に唾を吐き捨て、幼女達に突進する。途中黒い手が襲いかかってくると、今度は獣のように食いつき、そのまま噛みちぎった。蠢く手の切れ端をくわえたまま、ハチは幼女達を力任せに蹴り飛ばした。子供だからと言う加減は微塵も感じられない。しかし宙を舞った幼女達の体を、地面から沸いた黒い手が受け止めた。
 そのことで、薫を拘束していた手の力は僅かにゆるんだ。その隙をついて、ハチは薫を強引に引き戻した。
「痛いよ……」
 幼女達には、もうあの純粋な笑顔は見られない。
「お姉ちゃん、返して」
 幼女達が手を振りかざすと、今度は薫とハチの足下から無数の黒い手が湧き上がった。そして渦巻くように薫を取り巻き、一瞬で薫の姿は外から見えなくなってしまった。

 一瞬だった。
 ハチも目を伏せるほどの強烈な閃光が走った。

 気がつくと、薫は黒い塵の漂う中に立っていた。
 呆然と立ち尽くし、ぽかんと開いた口が状況を飲み込めてないことを物語っていた。塵ははらはらと地面に落ち、やがて風に消えた。
「お前……」
 ハチもまた、薫の姿を食い入るように見つめていた。黒い手の姿は消え、その先に立っていた幼女達はすっかり無防備になっている。だがそれにも気付かないように、その場にいた全員が一瞬にして凍り付いた。
「は……あははっ」
 か細い声で、幼女が笑った。
「や……やっぱり、お姉ちゃんは強いんだ。せっかく集めた“影”がみーんな吹き飛んじゃった」
「でも、これでもっとお姉ちゃんとお友達になりたくなったよ」
 薫は何とかしてくれと頼むように、ハチに視線を送ったが、ハチはそれに気付くことなく、幼女達の方をじっと睨み付け続けた。幼女達は、ハチに蹴られた時にコートに着いた砂を払うと、いつしか元の柔らかい笑顔を取り戻していた。
「お姉ちゃん、また会いに来るね」
 幼女達は後ろを向き、手を繋ぎ走り出した。ハチが慌てて追いかけた頃、路地裏にその姿はなくなっていた。

「よくわかんねぇけど……、とりあえず気をつけろよ」
 別れる際、ハチに言われた言葉。薫の頭の中では、同じ映像が何度も繰り返されている。襲いかかってくる黒い手、それが一瞬で吹き飛ぶ。何度思い出しても、何が起きたのか分からない。黒い手が襲いかかってくる時点で、既に非日常的な世界に踏み込んでいるのは実感していたが、今回のは特に理解できない。
「そういえば、ハチって黒い手食べてたよな……」
 もはや支離滅裂とした薫の思考。
 色々なことを考えながら辿り着いた自宅では、母親がソファに座っている。ぼんやりとして、服の袖がまくられたまま。
「……あ……薫」
 母親は顔を上げ薫を見ると、消え入るような声を出した。
「……お母さん疲れてるのかしら、何か変な物見たわ」
「変な物って?」
「あのね……、黒くて長い手がいっぱい、窓から入ってくるの……」
 母親の言うことに間違いはなかったが、その声は朦朧としてはっきりしない。薫はそれを良いことに、何とかそれをごまかそうと試みた。
「あははっ、お母さん本当に疲れてるね。それか映画の見過ぎなんじゃない?」
 自分の踏み込んでいる非日常的な世界について、母親には話さない方が良い。それが薫の考える最良の措置だった。親には何でも話すべきかもしれないが、こんな事を理解してもらう方がもはや難しい。
「ちょっと休みなよ。お皿は洗っとくから」
「そう……ありがとうね」
 薫はキッチンに向かうと、洗い残された皿を手に取った。母親はそれを見送ると、服の袖を伸ばしてソファに横になった。


  * * *


 まだ日の昇らぬ薄暗い街。人影はなく、風がビルの間を通り抜ける音さえはっきり聞こえる。窓ガラスは結露し、空気は凍り付いている。
 路地裏の錆び付いた螺旋階段の下に、ぼろぼろの段ボールにくるまる一人の少年。
「寒……」
 ハチは段ボールから顔を出し、まだ辺りに日の光がないことを確認すると、真っ白なため息をはき出した。家のないハチにとって、冬の夜は一つの試練だった。慣れているとはいえ、この凍てつく寒さの中熟睡するのは困難だ。
 少しでも体温を上げようと小刻みに震えるハチの脇を、小さな何かが通り過ぎようとした。
 “影”だった。
「……」
 千切れた黒い紙テープのようなそれは、弱った虫のように地面を這っていた。ハチはそれを横目で見つめ、微動だにしない。
 そして、段ボールから手を伸ばし、それを拾い上げた。
「“影”……」
 おもむろにそれを顔の前まで運び、少々の間をおいて、口に入れる。咀嚼されるたび、“影”は痛がるように小さく暴れ、やがて粉々になり、ハチの喉へと流し込まれた。
 こくりと鳴った喉。ハチは地面を見つめたまま、再び黙り込んだ。


 ゆったりとした朝だった。
 土曜日のため、薫はいつもより何時間も長い睡眠を楽しんでいる。ベッドの中で何度も寝返りを打ち、毛布は足下でぐちゃぐちゃになっている。だがいつまでも寝ていると、今度は逆に疲れてしまう。
「……いい加減起きるか……」
 休日の朝は大体こんな始まり方だった。すっかり昇りきった太陽が部屋の中に降り注ぎ、気持ちは良いがすっきりしない目と体。
 重いまぶたをこすりながら洗顔を終えた薫は、キッチンに誰も居ないことに気がついた。見ると、テーブルの上に一枚のメモ用紙。母親からの置き手紙だった。
「『小林さんとお茶しに行ってきます。母より』」
 ぶつぶつとメモに書かれた文章を読み上げた後、薫は納得して小さく頷いた。父親は仕事、母親は友達とお茶。今家には薫一人。優雅な午前を過ごそうと、薫が棚を開けて取り出したのはフライパン。そして小麦粉や砂糖の入った箱。次に冷蔵庫を開けた。
「……あ、牛乳無い」
 ホットケーキを作るつもりだった。しかし牛乳が切れている。
「買いに行くか……」
 たまたま気分が良かった薫は、黒いスウェットを着たままジャンパーを羽織り、財布を持って外へ出た。

 冬の朝は清々しさを通り越して、身が凍り付くように冷たい。それから逃れるように、小走りで駆け抜ける。朝の路地は、夜のような禍々しさは感じられない。ただの薄汚れたコンクリートと石の通路だ。ここを過ぎれば、いつも働いているコンビニがある。
 あの双子に出会ったときのことは、決して忘れたわけではない。しかし何度も奇怪な物を見てきた今となっては、いちいち色々なことに反応していても仕方がないというのが、薫の考えだった。そのことを思い出しつつ、気にしないようにしながら走り抜ける。
 路地の一角には鉄のパイプや金属の板が沢山集められた場所があり、そこを通り過ぎればコンビニがある。路地を抜けた薫は飛び込むようにコンビニへ入り、仕事仲間に挨拶をしつつ、牛乳を購入した。

 帰り道もさほど変わりなく――とはいかなかった。
 鉄材の塊を通り過ぎようとしたとき、薫の目には異様な物が映った。
「ハチ?」
 ついハチの名を呼んだが、そこにいたのはハチではなく、もう少し年上の青年だった。黒いボサボサの髪の毛に、フード付きのぶかぶかのトレーナー。黒っぽい細身のジーンズが、脚の長さを強調している。しかしせっかく長い脚を折りたたんだ彼は、鉄材の上でしゃがみ込み、背中を丸めている。
「……ん」
 薫がうっかり上げた声に気付いた青年は、丸まったその姿勢のまま、薫の方を見た。薫は慌てて視線をそらしたが、もう遅かった。彼はじっと薫を見つめてやめない。
 薫は諦めて、再び青年の方を見た。きっとシャキッとすればそこそこ整った顔なのだろうが、目は半開きになりいかにもやる気がない。薫にとってハチ以上に、関わりたくない雰囲気が全開だった。
 軽く会釈して、その場を立ち去るつもりだった。だが俯きかけた薫に、青年はもごもごと籠もった声をかけた。
「あの」
 ぎくりと硬直した後、薫は恐る恐る青年の方を見る。青年は立ち上がり、鉄材の上からひょいと飛び降りた。
「この辺で五千円札見ませんでした?」
「五千円札?」
 薫は戸惑いながら、何度も首を振った。青年は無表情のまま軽く肩をすくめると、視線を落として辺りを見回した。背中を丸めて地面を見つめながら、その場でくるくると回る青年の姿は滑稽にも見えた。

「落としたんですか?また――」

 以前にも同じような体験をした、薫はそう感じていた。
 青年とは初対面であり、彼の経歴など知るはずもないのに、口からこぼれる違和感を伴った言葉。かつてと同じように、目の前の青年はじっと薫を見つめている。
「え?あ、いや……、何でもないです」
「いえ、その通りです」
 青年はあたふたする薫とは対照的に、落ち着いた様子で答えた。
「落としたんです、この辺で。この間は五百円玉も落としたし……、自分はどうも物の紛失が多いみたいです」
 相変わらずのテンションで、青年は再び辺りを探し回り始めた。呆然と立ち尽くす薫のことはお構いなしに、鉄材の近くを身をかがめながらうろうろする。
「……み、見つかると良いですね」
 薫は消えるような声で一言添えた。そして青年が顔を上げ、頷いたのを確認すると、ゆっくりとその場を立ち退いた。

 母親はまだ帰っていなかった。薫はぶら下げていたビニール袋から牛乳を取り出すと、放置していたホットケーキの材料の横に置いた。そして銀色のボウルを取り出し、そこに材料を適当に放り込み、泡立て器でかき混ぜる。
 だんだんまとまり、どろどろした半液体になっていく材料を見つめながら、しかし薫は全く別のことを考えていた。
 何故か頭に取り憑いて離れない、あの青年の姿。数々の非現実を経験している自分の勘は格段に鋭くなっている、そう考えていた薫は、強い印象を残した青年を「気のせい」で片付けることが出来なかった。気になって仕方ない。やはり、ハチに相談してみようか――
「え。何で?」
 自分で自分に突っ込む。何故そこでハチに辿り着くのか理解できなかった。

 だが一度湧いた衝動には逆らえず、ホットケーキを平らげた薫は路地に来ていた。そして、いつもの少年の姿を探して歩き回る。
「おう」
 背後から飛んできた声。それに振り返った先には、いつもの黒いダウンを羽織ったハチがいた。
「あれ?」
 薫はハチの手にある物に気付き、首をかしげた。ハチが持っているのは、自身の働くコンビニで販売しているアメリカンドッグ。他にも、そこそこ中身が入ったビニール袋を提げていた。
「それ……買ったの?」
「あ? あぁ、お前の店でな」
 さらりと答えたハチ。以前店に来たときも五百円玉を持っていたが、いつもは所持金など持っていなかった。
「今日もお金あるんだね」
「あぁ」
「ねぇ、前にもお金持ってたけど、どうして手に入れたの?」
「あ? あー」
 ハチは持っているアメリカンドッグを見た後、あの生意気な口調で答えた。
「まぁ、ようは拾ったって訳なんだけどな」
「拾った……あ、そう。……ん?」
 一旦納得して頷いた薫だったが、ふと何かを思い出し、眉間にしわを寄せた。その様子を見て、ハチも首をかしげた。
 薫の脳裏をよぎったのは、以前ハチが差し出した五百円玉。それと重なるように浮かぶ、人影。
「……もしかしてさ、それコンビニの近くのパイプとか立てかけてあるところで拾った?」
 ハチは驚いたように、目を丸めた。
「よくわかったな」
 ハチはビニール袋を手首の方にかけると、その手をポケットに突っ込み、レシートと一緒にくしゃくしゃになった紙幣と小銭を取り出した。ずる賢いのか、単に感覚が安上がりなだけなのか、五千円という大金を手にしても、ハチが買うのはコンビニの食べ物。取り出した「おつり」をまじまじと見る薫を、ハチは不思議そうに見つめた。
 もはや、あの青年が過去に落としてきたお金を、ハチが拾って使ったことは明白だった。
「それ、落とした人知ってる」
「え、マジ?」
「探してたよ、こないだも五百円無くしたって言ってた」
「へー……」
 少しおどおどしながらも、軽く受け流したハチ。
「俺が使ったって事、チクるのか?」
「なにさ、こないだ店の物盗ったばっかりのくせに」
「うっせーよ」
 悪ぶって見せているのか、ハチの顔は不自然に歪んだ。それを見た薫は堪えきれずに吹き出し、しばらくクスクスと笑い、それから何度か首を振る。
「ははっ。良いよ、言わない」
 言っても良いのにと言わんばかりのハチの目。薫は再び笑い出した。

 だが結局、バレる事はバレてしまう。
「なるほど」
 二人はぎょっとして、声の主を捜す。そして自分たちのすぐ側にいつの間にか立っていた青年に、さらに仰天した。
 青年のぼさぼさの前髪の間から覗く瞳は、今起きたばかりのようにぼんやりとしている。
「かっ、薫の知り合いか?」
「そそそ、そのお金落とした人……」
「げっ……」
 動揺のあまり、凍り付くハチ。しかし青年は対照的に、いたって落ち着いている。
「落としたお金の行方がようやく分かりましたよ、あなたが拾ってたんですね」
「……落としたお前が悪ィんだぜ? 俺はただ拾っただけだし」
 万引きするくせによく言うよ。と再び突っ込みたくなるのを薫は我慢した。ハチは開き直ったように軽い口調で言い放った。しかし青年は怒るどころか、眉一つぴくりとも動かさず、冷静さを保っている。そしてあの籠もった声で答えた。
「その通りです。失敗を繰り返す自分の方に非があります」
 自分のことを咎めようとしない、やる気の無さそうな態度の青年に、ハチは首をかしげた。思わず薫も口を挟む。
「な、何でここに?」
「たまたま通りかかっただけですが?」
「怒らないんですか? 五千円も……」
「良いんですよ、悪いのはこちらですから」
 優しいというより、どうでもよさそうな青年。許すとか許さないとか、そんなことは考えていないようだった。しかしそう言いつつも、青年はおもむろにハチのビニール袋に長い腕を伸ばすと、手を突っ込みチョコバーを取り出した。そして何も言わず包装を破り、チョコバーを口にくわえた。
「これ、もらいますね」
 元々聞き取りにくい声が、チョコバーをくわえることによってさらに聞こえにくさを増した。薫はぽかんと口を開き、ハチもせっかく食べようと思って買ったチョコバーを盗られたことなどには触れず、あっけらかんとしている。青年の行動はいちいち突っ込みどころが満載だったが、もう突っ込む気力すら萎えてしまうほど、青年の無気力さは極まっていた。
「この辺に住んでるんですか……?」
 沈黙を破りたくて、薫はありきたりな質問を投げかけてみた。するとチョコバーをくわえたままの青年は、そのだるそうな目を薫に向ける。
「ええ。というか……」
 青年の言葉に、薫とハチは聞き逃さないよう聞き耳を立てた。
「住んでるっていうか、家はないんですけどね」
「え」
「なっ」
 思わず二人は顔を見合わせた。
「ねぐら……と言った方が適切です」
「へぇ……」
 薫は過去を改めて体験しているような感覚に陥っていた。いきなり現れた怪しい男。そして次にあったときに明かされるホームレス事情。ハチと出会ったときとまるで同じだった。とすれば、順番からして――
「お前、名前は何てぇんだ」
 ハチに先を越された。喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込む薫。
 薫の頭の中にある筋書きでは、彼には名前はない。勝手に過去の出来事と照らし合わせているせいで、薫は「名前はない」という言葉を期待してしまっていた。だが青年はくわえているチョコバーを口から出そうとも、飲み込もうともせず、もごもごと動かしながら
「円(まどか)です。円隆太郎と言います。名乗り遅れてすいません」
 そう答えた。
「円さん……。へぇ……」
「何だ薫、拍子抜けたって感じだな。名前があって残念か」
 薫の心の中は、ハチに読まれていた。そこを鋭く突いてきたハチの肩を、慌てて勢いよく叩き、何度も首を振る。その様子を見ている青年――円は相変わらずの表情で、じっと二人を見つめていた。理解できないでいるのか、興味すらないのか、その顔からは読み取れない。
「私に名前があってはまずかったですか?」
「らしいぜ」
「ちょっとハチ!」
 薫にやられたように、にやにやと笑うハチ。しかし二人の側にいる円はぼうっとそのやりとりを見つめているため、調子が狂うのか二人の会話は続かず、沈黙が訪れてしまう。
「……聞いても良いですか?」
「え?」
「あなた方の名前です」
 円の言葉で沈黙は破られた。二人ははっとして話し出そうとしたが、二人が同時に声を出してしまったため、慌てて黙ってしまう。そして顔を見合わせると、お互いが相手に促すように目で訴えた。きりがないと感じたのか、ハチが先手を切って名乗る。その後に続いて薫。
「ハチくんに薫さんですね」
 薫に対して、ハチに名字がないことには触れずに、了解した、と言うように円は数回頷いた。このとき、名前を教え合ったところで次に互いと関わる機会があるのだろうかという疑問については、少なくとも薫とハチは感じていた。だがそんな事を問うこと自体、馬鹿馬鹿しく感じさせる空気が漂う。

「では、私はこれで」
 長い腕をぶらぶらと振って、円は路地から姿を消した。
「……この辺、ホームレス多いんだね」
 手を振り返すことも忘れて、去っていく円の背中を茫然と見つめていた薫は、円が見えなくなっても尚その方向を見続け、呟くように言った。間抜けな顔をしている薫を冷めた目つきで見つめるハチ。
「ホームレスって、俺もか」
「何言ってんの。どっからどう見てもホームレスでしょうが」
 納得いかないように、ハチは顔をしかめる。だが反抗はしなかったハチを一瞥し、薫は再び口を開く。
「ハチってさ、他にも知ってるの? この辺の」
「何が?」
「ホームレス」
「知らねーよ。何で俺が」
 吐き捨てるように言うハチに、ふうんと鼻で返事をする薫。


  * * *


 真夜中。冷え込みは最高潮に達する。
 いつものぼろぼろの段ボールを体に巻き付けたハチが、路地裏の一角に佇む。やはり、冬の夜はなかなか寝付けない。
「はぁ……」
 ハチは凍えないように体を小刻みに動かし続ける。地面は冷たく、ずっと座っていてもなかなか暖まらない。そんな固く冷たいコンクリートに嫌気がさし、立ち上がると、ポケットからカチャカチャと音が鳴った。
 ポケットに手を入れると、出てきたのは紙幣と硬貨の塊。くちゃくちゃになった、今朝のおつりだった。
「……」
 ハチはしばらくそれを見つめ考えていたが、その中から百円玉を一枚だけ取り出し、段ボールを脱ぎ捨て歩き出す。路地に出て、歩いて向かった先には自動販売機があった。ハチは無機質な光を放つそれの前に立つと、中に並ぶ飲料を見つめ、さらにしばらく考え込む。
 保温されたコーヒーを見つけ、百円玉を投入口に近づける。しかし、そこでハチの視界に何か別の物が入り込んだ。
 “影”だ。
「……またか」
 百円玉を持つ手を下ろし、地面で蠢く“影”に語りかける。“影”は答えるはずもなく、虫のようにゆっくり地面を這っている。
 ハチはそれを手で掴み、持ち上げた。明け方にもこんなことをやっていた、と思い返しつつ、しばらく暴れる“影”を見つめる。そしてそれを目の高さまで持ち上げると、ゆっくりと口に入れる。つるりと吸い込まれた“影”は、音もなくハチの喉を通り抜けた。
「良いんですか」
 “影”を飲み込んだ余韻に浸っているハチに投げかけられた、小さな声。ハチが振り向くと、自動販売機の青白い明かりに照らされた今朝の青年――円がいた。今朝と同じように気怠そうな顔が、蛍光灯の明かりに照らされ不気味さをまとっている。
「今のが何か知ってんのかよ……」
「知ってます」
 低い声で問うハチに、変わらぬ落ち着きを見せる円。
「そんなことしてて、良いんですか。それは……」
「るせぇよ。放っとけ」
 籠もった声で話す円を面倒くさそうに断ち切ると、ハチは背を向けて歩き出した。その背中をじっと見つめる円の表情から、何を考えているのかは全く読み取れない。ハチに興味があるのか無いのか、ハチが去るまで見つめ続け、ハチが見えなくなって尚、自動販売機の前でぼうっと立っている。その姿は今朝と変わらぬトレーナーにジーンズ姿で、寒そうに手をポケットに突っ込んでいる。
「……」
 刺すような冷たい風に首筋を襲われ、肩を震わせた円はハチとは逆の方に歩いていった。


  * * *


 空っ風の吹く、午後の公園。空はどんよりと曇っているが、雨は降っていない。その代わりに北風が駆け回り、裸の樹木の枝を揺らしていた。寒さに震える大人達はコートの襟元を限界まで引き上げ、首を埋めて小さくなっているが、子供達はお構いなしに衣服を振り乱して走り回っている。
 双子は、今日も砂場にしゃがみ込んでいた。
「これ、ニコちゃん」
 片方の幼女が、砂場の柔らかい砂の上に木の枝で何か描く。それは実物よりも顔や目の比率がかなり異なった、もう一方の幼女の似顔絵だった。
「じゃあ、これキコちゃん」
 似顔絵のモデルとなった幼女はきゃっきゃと喜び、その絵の隣に何かを描く。流石は双子と言ったように、ほとんど同じ絵を描いた。違うのは、髪飾りの位置が左右逆の部分だけ。
 それを見た幼女は、もう一方と同じように嬉しそうに笑った。そして二人は、持っている木の枝で色々な絵を砂の上に描いていった。母親の似顔絵や、うさぎ、くま、ねこ、とり……
「これ見て、お姉ちゃん」
 “ニコちゃん”と題名を付けられた似顔絵の幼女が、果物の絵の隣に、女の子の絵を描いた。肩くらいまで伸びた髪と、記憶を頼りに適当に描かれたブレザーとスカート。
「じゃあこっちは、お兄ちゃん」
 “キコちゃん”の方が、その隣に男の子の絵を描いた。深く被った帽子に、きつい目つき。絵本の中の悪者のような顔をしている。
「そっくりだね!」
「そっくりだね!」
 互いの絵を賞賛し合い、きゃあきゃあと喜ぶ双子。そして木の枝を投げ捨てると、他の子供達に混じって鬼ごっこを始めた。

 公園の砂場の絵は、みぞれ混じりの雨に濡れ、滲んで消えた。
 真っ赤になり感覚が無くなっていた指先をさすりながら、制服姿の薫は急ぎ足で歩いている。その表情は酷くしかめっ面。寒さもあるが、理由はもっと別にあった。
「……はーぁ」
 薫はバイト中に床にこぼれていた洗剤を踏んで滑り、その勢いで積んであった段ボールを倒してしまった。中にはDVDが山ほど入っており、床に散らばったところに丁度もう一人のバイトである中年の男性がさしかかり、踏みつけられたDVDが2枚ほど真っ二つになってしまった。
 DVDは客がネット販売で注文した限定品で、間もなく受け取りに来た客はそれを目撃し、何度も頭を下げる薫につばを吐き散らした。その後は男性が薫を怒鳴りつける。事前に洗剤を使っていたのはその男性で、こぼしたのに拭き取らなかったそっちにも非があるのに……と言う本音を、薫は必死に噛み殺した。男性は先輩である。
「そりゃ、私のドジでもあるけどさ……」
 薫は、遅い時間のため人通りがほとんど無いことを良いことに、ずっとぶつぶつと文句を垂れ続けている。薫がバイトを初めて以来ずっと男性とはバイト仲間だが、男性の威張った態度は有名だった。シフトが被る人を全員不愉快にさせるという特技を持っている。
 バイト中、薫はずっと考えていた。幸い夕方から降り出した雨のおかげで客が少なかったのだが、もし店長がその場にいれば一喝入れられていただろう。自分に絡んでくるホームレス。ハチこそ最初は奇人のように見えたが、今となっては気軽に接することの出来る仲である。しかし次に現れた円については、まだ何も分からない。しかもそのふらふらとした表情が、余計謎を深くする。
「円さん……」
 あの双子と関係あるのだろうか、とまでは口に出さなかった。
 家に着いた薫は、びしょ濡れのまま食卓まで直行した。そしてせめてブレザーをハンガーに掛けてこいと突っ込む母親に返事をし、それでもその濡れたブレザーを着たまま冷蔵庫の所まで行き、烏龍茶を取り出す。
「ご飯あっためるわね」
 コップに烏龍茶を注ぐ薫の側まで来た母親が、食卓に置いてあるラップをかけられた肉じゃがを電子レンジに入れた。
「で、何かあったの?」
「え?」
 電子レンジのスイッチを押した母親は、すっと薫の方に向き直りそう言った。突然の問いかけに、薫はひっくり返った声を出す。
「元気ないじゃない。バイトで何かあったの?」
「ああ……」
 母親は薫の微妙な変化に気付いていた。驚きながらも、少し感心したような声を出す薫に、「でしょ?」と言うような目配せをする母親。
 薫は母親に先程の事を話した。母親はなるほどと良いながら、ゆっくり何度も頷いた。
「何か考え事してたの?」
 考え込んでいたせいで洗剤を踏んだとは言っていなかった。だがそこまで鋭く突いてくる母親に、薫は戸惑った。
「えー……」
「なぁに? お母さんには言えないこと?」
「いや、その……」
 薫は黙り込んだ。ハチや円と関わっていることを話したら、怪しい人間と付き合うなと言われてしまうかもしれない。また、あの双子や“影”の事までひっくるめて話したら、ますます心配されてしまうだろう。薫は言おうか言うまいか悩み続けた。
 しばらく対峙が続いたが、電子レンジの電子音に救われた。
「……まぁ、あんたも悩み多きお年頃だもんね」
 電子レンジを開けた母親は、湯気の立ち上る肉じゃがを薫の座る場所に置くなり、仕方がないと言った様子でそう言った。
「大丈夫だよお母さん」
「知ってるわよ」
 肉じゃがを頬張る薫に、あっかんべをして立ち去る母親。そして思い出したように振り返り
「着替えなさい」
 と付け加えた。

 ラジオの電源を入れ、ジャージ姿の薫はベッドに体を投げ出す。そして仰向けに倒れ込んだ薫は、天井を眺めながら再び考え事を始める。
「ハチはホームレスだよ」
 無意識に声が出た。
「でも何となく連める仲にはなったよ、何だかんだで助けてもらったし」
 “影”に襲われたことを思い出して、恐怖に襲われないのは、恐らくハチの存在が路地裏にあるからだろう。しかし今まで生きてきて、あんな風に危機にさらされたことのない薫は、それに気付かない。
「……円さん」
 名前を呼ぶと、一瞬にしてあの不思議な空気に包まれる。円隆太郎という名前すら、本名なのかは不明だが、何者なのか知りたくて仕方なかった。何事にも無関心に見える態度、ぐさりと刺さる言動。毎日どうやって生きているのか不思議でたまらなかった。
「ハチと同じような人なのかな……」
 味方だと思いたかったが、あの怪しさではとても信用できない。もし“影”の側の人間だったなら、関わることは危険である。むしろ、相手の方から薫に関わってくるかも知れないが。
「明日またハチに……、ってあーもぅ!!」
 同級生にいちいち携帯で電話をかけるようなノリでハチを頼りにしている自分に気付き、枕に顔を埋めて声を上げる。
 路地裏では、少年のくしゃみが響き渡ったという。

「信用してねえよ」
 やっぱりな。といった返答だった。
「出来るはずねぇだろ。お前を狙ってるヤツらに関係があるかも分からないんだぜ」
 灰色の空の下、コンクリートの上に仰向けに寝ころび、両手を頭の後ろで枕にしているハチが、天を仰ぎながら冷めた声で言う。薫はその側にしゃがみ、ハチの顔を覗いている。
「……お前自分の置かれた立場わかってんのか?」
「はい?」
「お前今命狙われてるようなもんなんだぜ?」
 横目で薫を見ながら、ハチが言う。そのことで薫は、身に迫っている危険に改めて気付かされ、身震いした。しかし、平静を保って笑った。
「……わかってるよ、そん時は守ってね」
「けっ」
「だって私のこと心配してくれてるんでしょ?」
 ハチがいつも嫌みを言うときのようににやつきながら、薫は付け加えた。するとハチは眉間にしわを寄せて薫を見る。そして勢いよく起きあがると、薫の額を指で強くはじいた。
「いって!!」
「調子乗んなバーカ」
 涙目になりながら、薫は赤くなった額をさすった。その表情を見て、ハチは面白そうに笑う。
「死にたくなかったら簡単に人のこと信用すんな」
「じゃあ、ハチも?」
 口を尖らせて問う薫に、ハチは歪んだ笑みを見せる。
「かもな」
 薫の口はますます尖った。ハチは更に面白そうに笑い、薫の額の赤いところをもう一度はじいた。そして薫の強烈な張り手をくらい、地面に崩れ落ちた。
 昨日から一段と冷え込んでおり、薫はごわごわした厚手のジャンパーを身にまとい、ぎゅっと縮こまっている。低温と乾燥のせいで、ハチにはじかれた額はひりひりと痛んだ。豪快にひっぱたかれたハチの頬はその数倍腫れ上がっている。
「……でも」
 ふいに口を開いた薫に、瞼に溜まった涙を必死に拭ったハチは顔を上げる。
「そういえば私さ、まだ何にも知らないんだよね」
「何が」
「全部」
 これ以上ないくらい漠然とした薫の言葉に、ハチもぽかんと口を開けた。
「んだよ、全部って」
「だからさ、あの“影”ってやつの事とか、ハチが何者なのか、とか……」
「だから説明したじゃねえか、“影”は悪い魂から生まれた化けモンで、俺は家がないだけの――」
「違う違う」
 面倒くさそうに語るハチの言葉を、薫は大きく首を振って遮った。ハチの表情はより一層不機嫌になり、それでも薫が次に何を言うのか静かに待った。
「そんなんじゃなくてさ、もっと詳しいことが知りたい。何で私なんかがあいつらと関わってるのかとか、ハチと“影”の関係とか……」
「お前とあいつらの関係なんて、俺だって知らねぇよ。あのガキが言ってただろ? お前には何か特別な力でもあるんだろ?」
「それが分かんない」
「知らねぇっつーの」
 今まで平々凡々に暮らしてきたのに、突然力やら何やらがあると言われても、実感が湧かないのは当然だった。確かに奇怪なことが身の回りで起きているのも事実だが、まだ絵本の中の空想を見ている気分が抜けなかった。漠然とした質問しかできないのは、その空想全部を一度に理解してしまいたいという無茶な希望からだ。
「……んじゃそれはまた今度で良いや。じゃぁハチと“影”の関係教えてよ」
「俺と“影”?」
 薫は真面目な顔をしてハチの目をじっと見た。その真剣な面持ちに戸惑ったハチは薫から目をそらし、しばらく考えるように空を見つめていた。焦れったくなった薫が新たに付け足す。
「ハチって“影”食べてたじゃん。何なの? あれ。何で食べるの?」
 焦点を絞られた質問に、ハチも再び視線を薫に落とす。
「何って別に……。食いてぇから食ってるだけだけど」
「ふうん、何か食べたらパワーアップするとかそんなんかと思ってた。美味しいの?」
「パワーアップって……」
 “影”を万能な秘薬か何かのように考えている薫に、ハチは思わず苦笑した。そして表情を和らげて答えた。
「まぁ……旨いってか、別に」
「何それ」
 曖昧な返答をしたハチに、薫は首をかしげた。結局“影”が何なのか、ハチが何者なのか、何一つ理解することは出来なかったが、もはや面倒くさくなり、薫は問答をやめた。
 そしてしばらくの間、二人は路地の石壁にもたれ掛かり、沈黙を守り続けた。横に並んで空を見上げる二人の側を、冷たい風が通り抜けていく。何度か二人が鼻をすする音も響いたが、それ以外は静かだった。
「円さんはさ」
「ん」
 薫はまたしても唐突に話し始める。
「ハチは円さんが、悪いやつだと思う?」
「……なんだよ、悪いやつって」
 つっけんどんに返事をするハチ。薫はひるむことなく、隣に座るハチの顔を横目で見つめる。
「良いやつも悪いやつも無ぇだろ、今更。自分にとって害があるか無いかだけだ」
「じゃあ、円さんは害がある?」
「さあな。会ったばかりじゃまだわかんねぇよ。もっと関わりたいとは思わないけどな」
 薫は、ふうんとさりげない返事をした。
「何か――」
 そして空を見上げたまま、独り言のように呟いた。
「最近変なことばっかりだ。突然襲われるわ、変なホームレスは絡んでくるわ……」
「変なホームレスって何だよ」
「あんただよ」
「死ねよ」
 気を許している証と前向きに考えれば微笑ましいが、ハチの言葉遣いは日に日に容赦なくなっていった。だがそれに合わせて、薫もどんどん慣れていった。「死ね」と言われて動じるような柔な心は無い。
 悪態を吐くハチを無視して、薫は想像を巡らせた。ハチや円の正体を勝手に想像しては、未知の世界に期待と恐怖を同時に膨らませる。だがそこに、苦痛や死といった暗い物は無かった。実感がないのだ。

 いつしか日が傾いた。薫はハチの隣に座ったまま、ただひたすらに自分の空想の世界に浸っていた。その間抜けな顔を、ハチはぼうっと見つめていた。
「あー、何やってるんだろう私」
 我に返った薫が、不意に呟いた。その馬鹿げた自問自答に、ハチも呆れたように鼻で笑う。
「お前も暇だな」
「あんたもでしょ」
「確かに」
 互いを貶し、自分を嘲笑うように笑った。


 * * *


「何で晴れるのよ……。昨日までは雨の予報だったのにさ」
 穏やかな日差しの差し込む教室の窓にもたれ、項垂れる真奈美。他に美加、有紀の三人が、暖かい窓際に集まっていた。
 天気は清々しいほどの快晴で、昨日の厚い雲が嘘のようだった。事実、今日の天気は、昨日の段階では雨の予報だった。だがそれは見事に外れ、上空を覆っていた雨雲はすっかり何処かへ消えていった。
「こりゃマラソンは決行だね……」
「はああっ」
 有紀が空を見上げながら呟くと、残りの二人が大げさにため息をついた。今日の授業科目の中には体育が含まれており、晴れればマラソンを行うと、前回の授業の最後に告げられていた。それ以来、生徒達は必死の思いで天に祈ったのだが、報われなかった。
 ふと美加がグラウンドを見る。するとそこに、くしゃくしゃのバッグを暴れさせながら走る少女がいた。
「あ、薫」
 それは薫だった。遅刻ギリギリの時間に校門をくぐり、ホームルームに遅れまいともの凄い勢いで疾走している。スカートをばたつかせ、髪は振り乱し、足音も賑やかだ。
「急げー」
「あと二分ー」
 三人は面白そうにグラウンドに向かって声をかけたが、薫には届かない。もとより、気付かせるつもりはなかったが。
 しかし、もう少しで校舎に飛び込むと言うところで、薫は立ち止まってしまった。急停止したせいで前につんのめる薫に、三人は驚いて身を乗り出した。
 薫は誰かと話しているようだったが、三人のいる窓からは、下にある屋根が邪魔で相手の姿が確認できない。

 薫は走ったおかげで乱れた前髪の間から、驚愕の眼差しを覗かせていた。
「お姉ちゃん」
「久しぶりだね」
 薫と校舎の間に立ち、にこやかに微笑んでいるのは、あの双子だった。こんな陽気だが、やはり赤いコートを着ている。
「何でここに……」
 驚きのあまり、声が上手く出せなかった。そんな薫を見て、双子は無邪気に笑った。
「あのね!」
「もう一回お願いに来たの!」
 どこからどう見ても、無垢な幼い子供だが、薫は笑顔など見せるはずもなく、無意識に身構えた。双子は構わず、にこにこと楽しそうに笑っている。薫は落ち着きを取り戻すため何度か小さく深呼吸し、改めて双子を睨み付けた。
「だ……だから、私はあんた達の言うとおりにはしないって言ったでしょ」
 そう薫が言い放つと、双子はむっと頬を膨らませた。
「何で駄目なの?」
「何で?」
 まさに無邪気な子供、不機嫌な目で薫を見上げ、尖らせた唇で不満を吐いた。その幼稚な仕草に惑わされまいと、薫は精一杯眉間にしわを寄せ、双子を睨む。
「当たり前でしょ!」
「……」
「……」
 双子は今にも泣き出しそうなのを必死に堪えているのか、目元が段々と赤くなっていった。しかし泣きわめくことはせず、くちゃくちゃの顔を薫に向け続けて沈黙を守った。その沈黙の間に、校舎の時計の長針が一目盛分動いた。
 双子は顔を見合わせ、一度大きく頷いた。
「じゃあ」
「しょうがないや」
 薫は鳥肌を立て、一歩後ずさりした。
 しかし、何も起こさぬまま、双子は姿を消した。薫はあっけにとられ、その場に立ち尽くした。視界の範囲内で双子の行方を捜したが、もうその姿はどこにもなかった。そして薫が戸惑っている間に再び時計の針は動き、辺りに大きなチャイムの音が鳴り響いた。
「……やばい、遅刻!」
 現実に引き戻された薫は慌てて校舎に飛び込み、靴を靴箱に放り込むと、引き替えに地面に投げ捨てたスリッパを突っかけるやいなや階段を駆け上った。三階分の階段を登り終えると、息つく暇もなく廊下を走り抜ける。格好などは気にしなかった。そしてついに、自分の教室の引き戸を乱暴に開け放った。
「ええっ!?」
 戸を開けた先に待っていたのは見慣れた教室だった。しかし、生徒や担任の姿はなく、代わりに各席と教壇には黒い人の形をしたものが佇んでいる。それらは煙のようにゆらゆらと揺らめいていて、時々形が崩れては人の形へと戻る。
 薫は勢いを殺すことが出来ず前のめりになり、戸に手をかけて体を受け止めた。驚きすぎて、その体勢から元へ戻れなかった。
「何これ……、みんなは……?」
 誰に尋ねるでもなく呟くと、人影たちはゆっくりと薫の方を見たようだった。人影に目は無いが、全員が薫と目を合わせているようで、薫は不気味さのあまり更に凍り付く。そして、対峙が続いたその後――
「嫌ぁぁぁっ!!」
 人影は一斉に爆発し、無数のあの黒い手がクラッカーを鳴らしたように飛び出し、薫の方へ向かってきた。薫は絶叫と共に廊下に飛び退いたが、黒い手はそれを受け止め、薫の体を真っ黒な教室の中へと引きずり込んだ。
 薫は教室の床に放り投げられ、体を打ち付けた。その痛みに顔をしかめながらゆっくりと起きあがると、目の前には教室を渦を巻くように飛び回る無数の黒い手。反射的に戸の方へ戻ろうとしたが、それより先に黒い手が引き戸をぴしゃりと閉めたため、薫は教室の中に閉じこめられた。
「これで逃げられないね」
「今度こそ一緒に来てよね」
 どこからかと言うより、薫の頭の奥から響いた声。双子が姿を現さないまま、薫に語りかけた。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!」
 恐怖のあまり薫は取り乱した。逃げ場がないという状況が、このような出来事に慣れ始めていた薫に新たな恐怖を与えた。大きく開いた目からは今にも涙がこぼれそうになり、顔は引きつっている。そして床にへばり付くようにして身を引いていた。
 天井から壁までごうごうと渦巻いていた黒い手が、やがて進行方向を薫に向けた。薫は何とか立ち上がると、手から逃れようと無我夢中で走り出した。机にぶつかり、壁に突進し、それでも強引に逃げ道を作ろうとしたが、教室は狭く、薫は部屋の隅に追いつめられてしまった。
 薫はついに腰を抜かし、崩れ落ちた床から黒い手の集まりを見上げた。手は薫を見下げるようにして、その場で動きを止めた。
「来ないで来ないで来ないで……」
 薫は呪文でも唱えるように呟き続けたが、黒い手はついに一斉に薫に飛びかかった。もう駄目だと、薫は全身に力を入れて目をつぶった。

 ――バン!

 大きな音と共に、自分の体にまだ感覚があることに気付いた薫は、恐る恐る目を開けた。寸前まで迫っていた黒い手はそこで静止しており、視線を横に移すと、教室の戸が開け放たれていた。
「けっ、ホントいい加減にしろよ」
 不気味な笑みを携えたハチが立っていた。僅かに安堵の息を漏らした薫は、体の力を抜いた。
「は、ハチ……」
「しつけー連中だな」
 薫に同情するようにそう言ったハチは、ずかずかと教室に入って来た。それを確認した黒い手達が、薫からハチへと標的を変えた。
 無数の手が襲ってくるのを、ハチは面倒くさそうに睨み付け、おもむろにポケットから何かを取り出し、それを手に向けた。それは小型のライトで、強烈な光を浴びた手はひるみ、後退した。
「よぅ、いつまで腰抜かしてんだ?」
 ハチが目で何かを伝えようとしているのを捕らえた薫は、ふと視線を落とした。そして、スカートがめくれて中に履いている黒いハーフパンツが露わになっているのに気付き、大慌てでそれを隠した。そして立ち上がると、そそくさとハチの元に駆け寄る。
「あいつらまた私を……」
「わかってるよ」
 ハチはライトの電源を入れたまま薫にそれを渡すと、一歩前に出て硬直している黒い手を見上げた。
「おうこら、いい加減諦めろよ。しつけーぜ」
 説得にならないことは本人も認めていたが、あえてこの状況を楽しむように手に語りかけた。ハチは優越感に浸っているのか、少々顔をにやつかせた。薫はじっとライトの光を手に当て続ける。
「こいつはお前らの道具なんかにゃならねぇって――」
 言葉はそこで途絶えた。
 ハチは突然、小さな呻き声を上げてその場に崩れた。薫は何が起こったのか分からず、慌ててしゃがみ込んだ。その際手に持っていたライトは地面に落としてしまい、黒い手は光から解放された。
「ちょ、ちょっとハチ!?」
 ハチは地面に倒れ、苦痛に顔を歪めている。薫が焦って確認すると、ハチの背中に黒い手が突き刺さっていた。その時ハチの背中から流血は見られなかったが、そんなことは気にとめず、薫は狂ったようにハチの背中から手を引き抜いた。
 ハチを貫いた手は、薫の背後の床から伸びていて、ハチから引き抜かれると同時に消えてしまった。
「つっ……畜生め」
 歯を食いしばりながら、ハチは何とか起きあがろうと試みた。震えるハチの肩を介抱するように薫は手を添えたが、どうして良いか分からなかった。
「大丈夫……?」
「なめんじゃねぇよ……」
 ハチが激痛を堪えながら強がっている様を見て、薫は妙な気分だった。
「お兄ちゃん邪魔って前も言ったでしょ」
「今度邪魔したら本当に殺しちゃうよ!」
 再び双子の声が響いた。
 そして、黒い手が全て、ハチに標準を合わせる。ハチはそれに気付いたが、痛みが大きすぎてその場から動けない。
「やめて!!」
 薫の絶叫も虚しく、黒い手が弾丸のように発射された。その時だった――

「立ってください薫さん」

 確かに聞こえた落ち着いた声に、薫は反射的に立ち上がった。気がつけば目の前はスローモーション映像のようにゆっくり動いており、別の世界から見ているような感覚に襲われた。
「落ち着いて、目を閉じて、神経を集中させてください」
 言われるまま目を閉じる薫。すると突然、辺りが眩しくなった。驚いて再び目を開けると、そこには黒い手は無い。それどころかハチの姿も無い。教室すらない。薫が立っているのは先程の校舎の入り口だった。
「え……」
 突然明るくなったため、目が慣れるのに時間がかかった。
「大丈夫ですか?」
 驚いて振り返ると、そこには眠そうな顔をした、円が立っていた。
 状況を飲み込めない薫は、ぶんぶんと大げさに首を振って辺りを見回した。円の背後にだだっ広いグラウンドがあるだけの、朝の校庭。空気は冷たいが、降り注ぐ日差しは穏やかで、誰も居ないグラウンドの黄色い土を鮮やかに映し出している。
「え? ちょっと待って……」
 やがてきょろきょろとその場で回転するのをやめた薫は、じっと佇む円の顔を見上げた。その顔は依然落ち着いているというか、無関心だ。対照的な円の様子に冷や汗をかきながら、彼が何か言うのを待った。
「良かったです、無事で」
「ねぇ何が起きたの? ハチは?」
 もごもごと話す円に、薫は焦って尋ねた。円は表情を変えることなく、少し間を置いて話し出した。
「ハチくんは大丈夫です。今ここにはいませんが」
 全く収拾がつかなかったが、ハチの無事を聞いた薫は胸をなで下ろす。緊張が一瞬で解けたときの、全身が膨張するような感覚を感じた。
「薫さんは今、“影”が作り出した疑似空間にいたんです」
「疑似空間?」
「はい」
 淡々とそう語る円に、薫は戸惑った。そんな夢のような話があるだろうか。否、薫はもう既に現実離れした奇怪な事件を何度も身をもって体験しているのだが。
「恐らく双子のあの少女が今回の事を起こした犯人でしょうが、あの空間を作り出す力は彼女らの力ではないでしょう」
「……もっと別の人がいるんですか?」
「ええ。もっと凶悪な黒幕がいるはずです」
 薫はとっさに、過去に双子に襲われたときのことを思い出した。双子は、“おじちゃん”と呼ぶ人物の存在を仄めかしていた。
「円さんは……どうして此処に? 助けに来てくれたんですか?」
 とりあえずお礼を言わなければ、と会話を切り替えるも、円は予想に反する言葉を口にした。
「いえ、あなたは自力で出てきたんですよ」
「へ?」
「私はここで立っているあなたに声をかけただけです。薫さんはここで見せられていた夢の中から自分の力で這い出してきたんですよ、ほら」
 そう言って円は薫の背後に回ると、背中を丸めて地面に手を伸ばした。そして起きあがるなり、指でつまみ上げた物を薫の目の前に差し出した。それは、ボロ布のようにくたくたになった“影”だった。
「これが元凶です」
 と付け加えると、円はそれを手でくしゃくしゃに丸め、地面にぽいと投げ捨てた。一度バウンドしたそれは、空中で灰が飛ぶように消えた。
 薫の脳裏に、新たな思い出が蘇る。双子に襲われた際、追いつめられた薫は自分の知らない光を放った。その光で、薫は“影”を消し飛ばした。今回も無意識にそんなことをやってのけたのだろうか。
「恐らく、あなたの影を伝わせて“影”をあなたの体に侵入させたんでしょう」
 そう円が説明すると、薫は振り返った。出入り口の上部にある屋根によって作られた日陰に、薫から伸びる影が重なっている。双子は先程、その屋根の下にいた。光に弱い“影”を、日陰を伝わせて知らぬ間に送り込んできたと言うのだ。
「へぇ……あれ?」
 薫は未だ理解に苦しみながら、新たな疑問を生んでしまった。
「円さんは、“影”の事知ってるんですか」
「ええ、まあ」
 平然と答える円。
「この辺りには沢山出るようなので、私なりに探索もしました」
「はあ……」
 もっと聞きたいことはあったが、今の状況で何を聞いても、自分の頭にはほとんど入ってこないことを悟った薫は、そこで黙り込んだ。円は状況の整理をしている薫の俯いた目が、小刻みに動いているのをぼんやりと見つめた。
「ハチは……大丈夫なんですよね?」
 念を押すように、円に尋ねた。
「ええ」
 静かに、そう答えた。
 薫は全身の力が抜けたように、大きなため息をついて地面に崩れた。手をついて、すっかり疲れ切った表情で虚空を仰ぐ。そんな薫に、円はぐさりと突き刺さる一言を告げた。
「ちなみに、授業は始まっていますよ」
 全開にされた目を円に向け、薫は声を失った。遅刻寸前で学校に飛び込んだ薫だが、あと少しというところで双子が現れ、“影”の夢によってその場に縛り付けられた薫は、授業開始時刻を逃していた。そんな現実を突きつけられ、更に力が入らなくなる。
「……あぁ、授業……」
 円がじっと見つめる中、ふらふらと力なく立ち上がった薫は、乱れた制服を軽く直してから、校舎の入り口に入っていった。そして一旦立ち止まると、振り返り円を見た。円はまだその場に突っ立っている。
「あの……詳しいことまた後で聞かせて下さい」
「ええ、良いですよ」
 軽く頷いた円を確認した薫は、よろめきながら校舎の中に消えていった。それを見届けた円は、ゆっくりと向きを変え、グラウンドを横切って学校の敷地から出た。

 太陽はビルの合間に顔を覗かせ、強烈な橙色の光を放っている。
「薫ー、今日バイトはぁ?」
「無いけどごめん、今日用事ある」
 放課後の教室で、背後から勢いよく抱きついてきた美加に、よろめきながら薫は答えた。美加は残念そうに「そっか」と頷くと、薫の首を絞める腕を外した。薫は美加の他に、その後ろでつまらなさそうにしている真奈美や有紀にも手を振り、足早に教室を後にした。
 目的地はあの路地だった。他の生徒達の間を縫うように廊下を進み、靴箱の靴とスリッパを入れ替えると、ちゃんと履かぬまま外に飛び出した。
 息を弾ませながら辿り着いた路地は、建物に太陽の光を遮られ暗かった。
「学校は終わったんですか」
 薫は一瞬心拍数が上がったのを感じた。振り返ると現れたのは、相変わらずボサボサの髪から気怠そうな目を覗かせる円だった。
「円さん……」
「お疲れ様です」
 この人は心臓に悪い、と薫は密かに思っていた。恐らくそれを知ったところで何も思わないであろう、円は籠もった声で薫を労った。
「うん、ありがとうございます。それで……」
「先程の話ですね」
 薫と円は、依然円が座っていた鉄材の上に腰掛けた。
「何から話せばいいですか?」
「ううん……」
 円に尋ねられ、薫は俯いて暫く考えた。
「円さんは、“影”について何を知ってるんですか?」
 円は表情を変えることなく、淡々と語った。
「“影”は人の恨みや妬み、欲望などといった、言わば人間の醜さが具現化した物で、一つ一つにさほど力はないようです。ただ、先程のように、ある者が“影”を集めて使うと、集めた量に応じた力を発揮するようです」
 大体ハチに聞いた話と同じだ、と考えながら、薫は小刻みに頷いた。それを確認した円は、更に続ける。
「この辺りに“影”が沢山集まっているのは、それらを使って何か良からぬ事を企んでいる者がいると言うことです。しかも、見たところそれは一人ではなく、複数で行動しているようです」
「良からぬ事?」
「ええ、目的は分かりませんが……。薫さんを襲ったのも、その一部でしょう」
 薫はずっと頷きながら、その表情は段々硬くなっていった。あの双子の他に、まだあんな危ない奴らが潜んでいるのだろうか。そう思うと、この街はどれだけ物騒なのだろうか。
「……あの、私前にも襲われたことがあるんです」
 暫く考え込むように俯いたが、間もなく薫はそう切り出した。
「前も同じ、小さな双子の女の子に襲われて……でもその時はハチが助けてくれたんです」
「ハチくんが」
 円は言い返しながら小さく頷いた。
「その時、あの双子に言われたことがあって……その……」
 薫はそこまで言ってためらうように口ごもった。円は口をもぐもぐ動かす薫を、何も言わずじっと見つめてその続きが話されるのを待った。
「私には何か力があって、それが欲しいって……」
「薫さんの力を?」
 声の調子は変えずに、円は聞き返した。薫は静かに頷き、円を見上げた。
「それは驚きました。薫さんに何を見出したのか私には分かりませんが……、薫さんに危険が迫っているのは確かですね」
「うん……。でも何だかんだで、いつもハチが助けてくれて……そうだ! ハチはどこ行ったんですか?」
 薫は突然、円に食いつくようにそう尋ねた。その威勢に少し身を引きながら、落ち着けと言うように円はじっと薫の目を見た。
「分かりませんが、無事ではあると思います」
「ハチ……また私を助けに来てくれたんですけど、今回は“影”にやられちゃって……。でも、あれって“影”が作った夢なんですよね?」
 今朝の円の話を思い出し、不安げにそう聞いた。しかし円の表情は変わることなく、肯定も否定もしてこない。薫の不安は増大し、眉間にしわが寄っていく。そして暫く沈黙が続いたが、先に円がそれを断ち切った。
「寝ている間に見る夢とは、違うんです」
 低く、籠もった声で語られたそれは、薫の脳に強く響いた。
「疑似空間と言ったでしょう。“影”が今私たちがいるのとは別の空間を作りだし、薫さんはその中に持って行かれた。夢を“見る”のとは違って、そこで受けたダメージはずっと残るし、もちろん死んでしまえば身体も死ぬ」
「え……」
 全然夢などという可愛い物ではなかった。薫は頭が良い方とはお世辞にも言えなかったが、何となく雰囲気で理解した。円も静かに、だが確かに伝わるように出来るだけ調子を強めて説明した。そして言い終わると、終始目を見開いたままの薫の応答を待った。
「じゃあ……ハチはやっぱり刺されたの?」
「刺されたんですか?」
 円は若干驚いたのか、顔を少し上に上げた。
「“影”に刺されて……そこで目が覚めて……。私、ハチ探しに行きます」
 居ても立ってもいられなくなった薫は鉄材から飛び降り、円にそう告げると、勢いよく地面を蹴った。


 夕食の支度をする母親の後ろで、双子はテーブルを濡れ布巾で拭いていた。右側半分をニコが精一杯手を伸ばして拭くと、今度は布巾を受け取ったキコが左側半分を一生懸命拭く。そして二人でテーブルを眺め、拭き残しが無いのを確認すると、嬉しそうに母親の服の裾を引っ張る。
「はい、どうもありがとう」
 母親はにっこりと笑うと、双子の小さな手から布巾を受け取った。そしてもうすぐ夕食が出来上がると告げると、再び調理を始める。双子は駆け出し、居間のテレビの前に座った。テレビで放映されているのは、子供向けのアニメ。
「びっくりしたね、さっき」
「うん、びっくりした」
 テレビから目を離さず、独り言を言うように呟いたニコに、キコもぼそりと答える。
「おじちゃん、がっかりしちゃったかなあ」
「がっかりしてたら嫌だなあ」
 双子の声はテレビの音にかき消され、そうでなくともキッチンで料理をしている母親の耳には届かなかった。


「ホントに大丈夫?」
「平気だって。全然痛くねーし」
 ハチは路地の一角にある自動販売機に寄りかかり、缶コーヒーを飲んでいる。そのコーヒーは円の金で買ったのかと突っ込む事はせず、薫は少し申し訳なさそうにその身体を見ている。
「ほら見ろ、何もねえだろ」
 やはり円の言ったとおり、登校時に薫が見たものは眠っているときに見る夢ではなかったようで、此処に立っているハチは確かに薫の前に現れ、そして“影”に背中を刺されたそれだった。しかし薫の心配とは裏腹に、今の彼は涼しい顔をしている。そしておどおどしている薫に背を向け、衣服を捲り上げてその肌を見せていた。
「うん……何もない」
「だろ」
 ハチの引き締まった肌には、確かに刺されたような傷など見当たらなかった。その様子にほんの少しだが安心した薫が頷いたのを確認すると、ハチは衣服を乱雑に下に下ろした。
「実際に刺されたとはいえ、この空間で起きた事じゃねえんだ。心配ねえよ」
「……なら、良いんだけどね」
 言っていることに納得は出来なかったが、ハチの無事を確認できた安堵から、薫は力の入った肩を緩めた。
「わかった。ありがとうね、ハチ」
「へっ、何がだよ」
 いつしか日も沈み、路地はすっかり闇に包まれた。薫は飲み終えたコーヒーの缶を手のひらで弄ぶハチに微笑みかけると、弾むように其処を去った。
 自動販売機の照明が点灯し、夜が来たことを伝える。
「優しいんですね」
「居たのかよ」
 自動販売機を挟んだ反対側に、ハチは円の存在を見つけた。彼は気配を感じさせぬまま、人の側に立つのが得意なようだ。
「でも、それは嘘をついていることになりますよ」
「何が嘘なんだよ」
「痛むんでしょう、そこ」
 互いの顔を合わせないまま繋ぐ会話の中で、ハチは思わず自分の背中に手を置いた。以服に穴すら開いていないが、ハチの顔は確かに苦痛に歪んだのだ。
「……お前、何者なんだよ」
 唸るように、ハチは自動販売機の裏にいる円に問いかけた。言い終わるなり訪れた沈黙に、自動販売機の中から微かに聞こえる機械音がブーンと響いた。ハチがふっと白い息を吐き出すと、ようやく円がその気怠そうな口を開いた。
「世間一般には、ホームレスと呼ばれる立場の人間です」
「そうじゃねえ。何でそこまで深く関わってくるんだよ。お前も薫を引き込もうとかしてるやつらの仲間なんじゃねえのか」
 先程よりも僅かに声を荒げたハチ。その声の後、再びしばらくの沈黙。先程と同じように、ハチがため息をつくと聞こえる円の声。
「何故そう思うんですか」
 声のトーンは、全く変わらなかった。
「怪しいと思わないわけねぇだろ。やたら詳しいし首突っ込んでくるし……、お前は何を知ってるんだよ」
 更に強い口調で怒鳴るようにハチが言う。それを聞いた円の様子は、自動販売機の反対側にいるハチには見えなかったが、円はやはり動揺する様子もなくぼんやりと立っている。そして今にもハチが振り返って円の側に歩き出そうとしたとき、円はやっと答えた。
「全部知っているかもしれませんね。でもごく一部かもしれない」
「は?」
「私にだって分かりません。ただ言えるのは――」
 無意識にハチの呼吸が止まった。
「危険だ、ということ……ただそれだけです。薫さんも、あなたも、私も……」
 円が静かにそう言うと、ハチは舌打ちをした。それでは答えになっていない。大体分かり切った事を聞かされて、本当に聞きたかったことは何も分からなかった。しびれを切らしたハチはついに唾を吐くように怒鳴りかかった。
「知ってるんだよそんなことは。変な双子が何か企みだしたと思ったらてめぇが現れて、薫が怖がらないのが逆に怖ぇよ! てめぇの事全部話せ!」
 脇に現れた荒っぽいハチを見下ろし、何か返事をするでもなく円はその眉間に寄せられたしわを見つめ、しばらく黙り込んだ。苛立っているハチには、円の気怠い表情はまるで自分を小ばかにしているように見え、余計に腹の中を掻きむしられるようだった。
「てめぇ……」
「私は」
 ハチがいよいよ噛みつきそうになったとき、円も少し大きな声でそれを遮った。
「私は、“影”の集まる先を突き止めたくて此処まで来ました。各地から移動している“影”を追いかけて、気がついたら此処に辿り着きました」
「何……?」
 円はハチから視線を外し、どこでもない遠くを見るように僅かに首を持ち上げた。その言葉を聞いたハチの勢いはおさまった代わりに、眉間のしわは余計に寄り集まった。
「ずいぶん遠くから来たんですよ。電車もバスもタクシーも使って」
 ハチはふと手に持っている空き缶を見た。それは円が落としたお金で購入した物で、同時に彼の金銭面についてのささやかな疑問も浮上した。だが今はそれを問うべき時ではない、とハチは自分に言い聞かせた。
 しばらく互いに黙り込み、夜の風の音に包まれる。
「ハチくんは、“影”がどういう物かわかっていますか」
「……あぁ」
「では、どうなっているかわかるでしょう、身体に取り込んで……」
「……わかってるよ」
 ハチは弱々しい声でそれに答えた。


  * * *


 打ちっ放しの壁に四方を囲まれた真四角の部屋。革張りの古い椅子以外に家具はなく、窓も長い間閉められたままなのか、窓枠に埃が溜まっている。椅子は部屋の中央に置かれ、窓の方を向いている。背後には暗い色の木の扉があり、それもまた閉じられたままだった。
「今夜も良い夜ですねぇ」
 椅子に座っている人物の膝の上には、虎模様の大きな猫が丸まっている。背中を撫でられ気持ちよさそうに喉を鳴らす猫は、その長い尻尾を小さく振った。
「私は心が広いですからねぇ。さてさて今度は何をして差し上げようか」
 猫を撫でる手は一定のテンポを保っている。猫は首を持ち上げ、消え入るような声でにゃあと一つ鳴いた。


 少女は頬杖を付き、机の上に転がるシャープペンを弄んでいる。窓から眺める空は淡い青に染まり、低めの太陽から白い光が届く。柔らかな日差しの暖かさで、つい眠ってしまいそうになる。
「いたっ」
 そんなひとときの安らぎは、頭上から降ってきた固い物によって奪われた。鈍い音と共に少女は呻き、見上げると其処には分厚い教科書を自分に振り下ろした女教師。灰色のスーツに、縁無しの眼鏡が光っている。
「……すいません」
 女教師の目は少女を威圧し、それだけで少女に謝罪の言葉を言わせた。女教師が教壇に戻ると、少女は小さくため息をつき、再び窓の外を見る。澄んだ空を、鳥が気持ちよさそうにゆっくりと横切っていく。そんな和やかな風景を見ていると、また少女を心地よい睡魔が襲う。
 そして少女は退屈な授業から逃避し、穏やかでのんびりとした自分の世界に入っていった。

 自分が、複雑に絡み合う歯車の一つであるとは知らずに――



  【第二章】

 日の光を避けるように乱雑に積み上げられた山。色々な物があるが、それらは総称して“粗大ゴミ”と呼んでしまえばいいような物ばかりだった。住宅と住宅の間に出来た狭く薄暗い道の片隅に、無造作に固められたそれは、だいぶ時間がたっているのか、薄汚れて虚しく佇んでいる。
 その山の側に、一人の青年がしゃがみ込んでいる。背中を丸め、膝を抱えている青年の黒い髪はぼさぼさで、だらしがない。細い身体に合わないだぶついたトレーナーを着ているが、下に履いているジーンズはその身体にぴったりとフィットしている。僅かに見窄らしさを漂わせていた。
 しかし青年は、身なりの見窄らしさに反して、傷一つ無い最新型の携帯ゲーム機を持っていた。ぼんやりと開かれた目は、ゲーム機の画面を映しながら小刻みに動いていて、その長い指も俊敏に動いている。その意外な所持品は、彼に窃盗の疑いすら感じさせる。
「……」
 ゲームをクリアしたのか、青年の指の動きが止まる。そして電源を切ると、立ち上がるなりそれをジーンズの尻のポケットにねじ込んだ。
 そして気怠そうに辺りを見渡し、目的もなく歩き出した。

 冬の終わり。気温は低いが、差し込む日差しは微かに温もりを持っていた。そのせいで日向と日陰の体感温度の差は大きく、身震いしてしまうほどだった。ちょうど昼過ぎ、一番気温の高い時間に、青年――円は眠そうに路地を歩いている。特に行く宛もなくふらふらと彷徨う彼を、もし街征く人々が見かければ、不愉快に思う人も少なからずいるかもしれない。しかし彼はそんなのどうでも良いと感じるだろう。
 路地を抜けると、日差しが不意に円の瞼に降り注ぎ、円は一瞬怯んだ。そしてすぐに目が慣れると、円は足下のマンホールを見つけた。それはどこにでもある物で、何をそんなに注目するのかと問うことすら馬鹿馬鹿しかったが、円はじっとそれを見つめ続けた。
 そして、おもむろに背中を曲げると、マンホールに手を伸ばした。指をマンホールの穴に入れると、何かを摘むような仕草を見せる。そして身体を起こして引き上げたのは、黒く細長い虫のような物。
「……ん」
 それは光に当たるとすぐに灰のように崩れて散った。それを見届けた円は、摘む物の無くなった手をそのまましばらく眺めていた。
「だいぶ増えてきたみたいですね」
 誰にも聞こえないような小さな声でもごもごと呟くと、ようやくその手を下ろす。そして円はゆっくりと天を仰いだ。

「薫今日もバイトだっけぇ?」
「うん、また明日ー」
 並んで歩く三人の友人に手を振ると、くしゃくしゃのバッグを肩にかけた薫は駆けだした。そして辿り着くいつものコンビニ。ガラスの扉を開いて店にはいると、カウンターに立つバイト仲間に軽く会釈して、店の奥のロッカールームへ向かう。そしててきぱきと着替えを済ませると、再び店へと出る。
 簡単な掃除を終わらせた薫は、客足の微妙な店のカウンターで、一人ぼんやりと佇んでいる。先程まで仕事をしていた人達は皆勤務時間が終わり帰ってしまった。薫は店長と二人きりになる場合が多い。更に店長は店の奥でパソコンに向かっていたり、電話していることが多いため、一人で店に立っている。
「……暇だ」
 まだ勤務時間が始まって間もないにもかかわらず、薫はぼそりと不満を漏らす。そしてがらがらの店内を見渡しながら、カウンターにもたれかかる。薫が退屈なときよくする行為だ。
 しかしその退屈は、やがて開かれた扉によって消し飛ばされた。客の来店を知らせるチャイム音と共に、店に入ってきたのは、黒いダウンジャケットにニット帽の少年――ハチだった。薫がはっとして目をそらさずにいると、薫に気付いたハチがにやりと笑う。
「はっ……」
 薫は声をかけようと身を乗り出したが、ハチはそのまま歩いて薫の前を通り過ぎていった。そしてふらふらと商品棚を眺めながら歩いた。そして、ジャムパンを手に取ると、またふらふらと歩き出した。
 その様子を、薫は目を凝らして見つめた。そして、間もなくカウンターを飛び出し、走り出す。
「ハチ!」
 にやにやしながら出口へ向かい、今にも走り出そうとしていたハチを薫は捕まえた。そしてジャムパンをひったくると、その頭を強くひっぱたいた。
「いってぇな!! 冗談だって!」
 歯を食いしばりながらよろめくハチを、薫は最大限の目力を持って睨み付けた。
 ハチから奪い取ったジャムパンを商品棚に戻すと、薫は仕事に戻った。ハチはしばらく店内に居座り、雑誌を読みあさったりしていたが、飽きてしまったのかしばらくして店を出た。その際、カウンターの薫に何かを悟らせるような目配せをして見せた。薫にはそれが何なのか分からなかった。

 仕事を終えた薫が、着替えを完了したのは午後十時過ぎ。きゅうと鳴った腹をさすりながら、薫は疲れた表情で店の扉を押した。
「よう」
「ぎゃっ」
 店を出た瞬間、目の前に現れた人影に、薫は間抜けな声を出した。それ相応の間抜けな顔で見上げた先に、立っていたのはハチ。
「何がぎゃっ! だよ」
 ハチは憎らしい笑みを浮かべる。落ち着いた薫は口を尖らせた。
「そんな急に出てこられたらびっくりもするわさ!」
「急にじゃねえよ、さっき伝えただろ? 仕事終わる頃来るって」
 あの目配せはそう言うことだったのか、薫はぽかんと口を開けた。あんな一瞬じゃ伝わる物も伝わらない、と薫は心の中で文句を垂れる。
「で、何か用?」
「おう、あのな」
 二人は、薫の家へ向かう道を並んで歩き出す。年齢的に見ても、端から見たらバイトを終えた彼女とそれを迎えに来た彼氏の恋人同士と見られるだろう状況。二人がそれに気付いているのかはわからない。
 暗くて相手の顔が見えない状態で、ハチは静かに口を開いた。
「“影”が最近増えてるの、気付いてるか?」
「え、そうなの?」
「やっぱ気付いてねえか」
 わかりきっていたように、ハチは小さく呟く。
「ここんとこ数がすげぇ増えてる。特にこの路地裏の奥にはうじゃうじゃいるぜ」
「はぁっ? んじゃここ危険じゃん!?」
 いつの間にか差し掛かっている路地裏。薫は声を反響させながら、慌てて周囲を見回した。しかし暗くて何も見あたらない。
「ここいつも通ってるのに……」
「“影”がそれだけで襲ってくることはほとんどねぇよ。いつもの双子とか、“影”を使うやつらが其処にいたら別だけどな」
 ハチは薫を安心させようとしたのだろうが、それは“影”の使い手が現れた場合、“影”の数が急増しているこの路地裏は一瞬にして地獄と化すことを表していて、薫の背中に冷たい物を走らせた。
「十分危ないって」
「じゃ、しばらくこの道は通らない方が良いな」
 他人事のように笑うハチに腹を立てながら、路地裏の丁度半分まで来たところで薫はぞくぞくと肩を震わせた。
「明日からは別の道から学校行く……」
「そうしろそうしろ」
 縮こまる少女と、楽しそうに笑う少年の背中を、影から見つめる目が二つ。

 静かな朝、とはいかなかった。
 口にトーストをくわえた薫が、寝癖がついたままの髪を振り乱しながら、もの凄い形相で走っていた。
「遅刻だぁぁ!!」
 薫はばたばたと、風のようにとはとても言えない走り方で駆けていく。まだ僅かに通勤途中のサラリーマン等が見られる通りを横目に見ながら、いつもの道を走る。
 本当にいつもの道を走ってしまった。薫がいつの間にか辿り着いたのはあの路地。薫は自分に急ブレーキをかけて路地を見つめるが、今更道を変えてしまったら遅刻は確実だ。薫の担任は遅刻に厳しい。
「明るいし平気!」
 根拠のないことを叫び、薫は意を決して走り出した。なるべく路地の物陰は見ないようにしながら、全速力で狭い道を駆け抜ける。そして間もなく四分の三を走りきるといったところで――
「ぎゃぁ!」
 薫は可愛げのない悲鳴と鈍い音を立てて、地面に勢いよく突っ伏した。綺麗に転んだ薫は、しばらく何が起こったのか理解できずにそのままの姿勢で目を大きく開いた。そしてやっと身体を起こして振り返るが、予想していたのとは違う物が其処にはあった。
「此処は危ないから通らないんじゃないのかい?」
 薫は、ハチが自分の脚を引っかけてにやにやと笑っている様子を思い描いていた。しかし、そこに嫌みな笑みを浮かべたハチの姿はなく、代わりに年上の女性が立っていた。
 冬の終わりだというのに綺麗な小麦色に焼けた肌。顔立ちも整っており、彫りが深く美しかった。髪は細いロープが並んでいるようなドレッドヘアになっている。そして割と薄着だ。彼女は腕を組んだまま仁王立ちし、薫を見下ろすようにして笑っている。
「……え」
 薫は地面に手をついたまま首を後ろに向けた姿勢で、ぽかんとその女性を見上げたまま動かなかった。
「ずいぶん豪快に転ぶんだね」
 女性は口元で笑いながら薫にそう言った。そして薫の前にかがむと、地面に着けられた薫の手を取り、力強く引っ張り上げた。薫はぶらんと持ち上げられ、立たされた。
「えっと……あなたは?」
 礼よりも先にそう尋ねてしまうのは、ここ最近色々なことを体験したが為に感覚が変化してしまったせいだ。女性は特に不快な表情を見せることもなく、気の強そうな笑顔を浮かべながら薫を見ていた。
「私はアンナ、あんたはこの辺に住んでるのかい?」
「え、あ……はい」
「そっか、名前は?」
「あ……相沢薫です」
 立て続けに質問され、薫は戸惑いながらそれに答えた。薫が得たのは「アンナ」という彼女の名前のみだった。
「あの、すみません、アンナさんって昨日……」
「ん? あぁ、あんたのこと見てたよ。もう一人男の子がいたね」
「あ、やっぱり、ですよね……」
 知ったかぶったような態度の理由が解明し、薫は小刻みに頷いた。そしてしばらく作り笑いを浮かべると、話題が無くなった事による沈黙に焦りを感じた。
「あのー……アンナさんってお家は……」
「あ、家?」
 挙げ句、飛び出したのはどうしようもない質問。
「ここからちょっと遠いんだけどね」
「……あっ、あるんだ」
「は?」
 薫は慌てて両手で口を塞いだ。その様子を、アンナと名乗る女性は怪訝な表情で眺めている。ある二人の人物の流れから、つい出てしまった言葉に薫は冷や汗をかき、アンナの顔を見上げる。
「変なこと言うんだね。それよりさぁ」
 首を傾げながら、アンナは落ち着いた声で切り出した。
「あんた学校行くんだろ?」
「……げっ!!」
 この頃薫は、突然突きつけられた現実に体中を掻き出されるような感覚を度々味わっている。しかしだからといってそれに慣れるようなことはなく、今回もやはり全身の毛穴が開くような身震いを体感し、顔を引きつらせた。
 もう遅刻は確定だった。それでもバッグを振り回しながら走り出したのは反射的な行動で、じきに薫は「どうせ遅刻」という諦めと、「早く行かなくちゃ」という義務感の狭間で、少々ふらふらしながら走った。
 アンナは、そんな薫をいつまでもじっと見つめていた。
「……変な子だね」
 アンナはくすくすと含み笑いを浮かべた。
「楽勝」
 その笑顔はおかしな物を見て笑う暖かな物ではなく、無様な獲物を見る猫や虎のような、どこか冷たい雰囲気を纏っていた。小さな声で呟いた彼女は、綺麗な姿勢でゆっくり歩き出し、路地から姿を消した。
 誰も居なくなった路地。そこに、一つの人影が現れる。
「……」
 気配を感じさせずに人に近づくのが得意な、陰気な青年。ぼさぼさの髪から気怠そうな目を覗かせ、さっきまでアンナがいた一角を見つめている。円は路地に積まれたゴミの後ろに座り込み、音量をゼロにした携帯ゲーム機を片手に、ゴミの影から首を伸ばしてそこを伺っていた。
「また厄介なのが現れましたね」
 もごもごと話す円の声は、壁だらけの路地でも響くことなく、自身の胸の辺りで消えていく。
「ハチ君大変です」
 元に姿勢に向き直った円は、誰に話しかけるわけでもなく独り言のようにそう呟き、携帯ゲーム機の音量を少し上げた。そしてゴミにもたれたまま、ゲームで遊び始めた。無表情な円の顔が、ゲーム画面からの青っぽい光を浴び、黒い瞳を不気味に照らした。

 薫の足下で、箒が静かに踊る。
「相沢ぁ、さぼんなよー」
 ズボンを通常の位置より少し下の位置にずり下げて履いている、クラスメイトの佐々木。彼は教卓に腰掛けて、雑巾をくるくる振り回しながら、窓際で箒を手に持って虚空を仰ぐ薫にそう言った。
 ふと我に返った薫は、口を尖らせる。
「あんたに言われたくないね」
「おぉ、俺が一番さぼってるなぁ」
 佐々木は楽しそうにげらげらと笑う。その様子に、薫は呆れてため息を漏らした。そして気を取り直して、教室の掃除を続行する。
「ねえ薫?」
 意識を掃除に集中させるようになった薫に声をかけたのは美加だった。薫は手を止めて振り返る。
「ん、何?」
「あのさ、気のせいかもしれないけど……。何か悩みでもあるの?」
「え? 何で?」
「だって、薫ってば最近いつもぼーっとしてるじゃん?」
 指摘されて、薫は改めて自分の行動を思い返してみた。よく考えてみれば、このところ上の空になっていることが多いと自分でもわかる。初めて心配されて、薫は少し申し訳ない気持ちになった。
「あぁ……そう? いや、悩みとかないけど」
「そうなの? なら良いんだけど」
 安心したのか、美加は笑って薫の元を離れ、廊下の掃除に取りかかった。薫はその姿を見送りながら、少し反省した。
 掃除の時間中、薫はいつものように路地であったことを思い出していた。ハチに通らない方が良いと言われた路地だが、時間短縮のためつい足を踏み入れてしまった。そのことによって出会ったアンナという謎の女性。双子さながら、彼女も怪しい匂いが漂っていた。
「悪い人なのかなあ」
 第一印象だけで見ても、くせのある女性。季節に似合わぬ薄着にも突っ込みたいところだが、薫の行動を盗み見していたところは危険人物の疑いがある。ハチと関わった時点で危険から逃れるのは不可能であると薫自身覚悟は決めていたが、次から次へと不審な人物が現れては、何に注意を払えばいいのかわからなくなる。
 ぼうっとしながら、ずっと同じ所を掃き続ける薫に、佐々木が雑巾を投げつけた。それは薫の後頭部に見事命中した。乾いていたのが救いだった。

 円は真っ黒な画面を見つめていた。携帯ゲーム機の電池が切れたのだ。
「……」
 無表情な円の顔が、残念と言った雰囲気を僅かに漂わせている。だが眺めていても電池が復活するわけでもなく、円はゲーム機を尻のポケットに突っ込んだ。ずっと座っていたゴミの山から離れると、ひょこひょこと路地裏の狭く暗い通路に足を踏み入れた。そして薄汚れたコンクリートの壁に近寄り、長い脚を折り曲げてしゃがむ。
 円はおもむろに、壁に走る亀裂を覗いた。真っ黒な細い闇。何を思ったか、円はその闇に人差し指を入れた。そして上下にゆっくりと動かす。すると亀裂から、“影”がいくつか這い出てきて、円の指から逃げるように消えていった。
 気配の無くなった亀裂を、円は暫く見つめ続けた。
「よぉ」
 背後から投げかけられた低い声に円が振り返ると、立っていたのは仏頂面のハチ。円は立ち上がりつつ、ハチの方に身体を向けた。
「お前は気付いてるみたいだな」
「“影”のことですか?」
 落ち着いた様子でそう言うハチに、円も依然気怠そうに答える。ハチが無言で頷いてみせると、円は先程まで覗き込んでいた亀裂を再び見た。
「数が増えていますね。いよいよ気が抜けなくなってきました」
「俺はお前相手でも気が抜けねぇけどな」
 ハチが少し強い口調で付け加えると、円はふうんと適当にあしらった。
「警戒心を持つことは良いことです」
 少々苛立ちを覚えながらも、冷静さを保ち続けるハチ。そして姿勢の悪い円の隣に立つと、円と同じように亀裂に目をやった。
「あれから大丈夫なんですか? 傷は」
 “傷”という言葉に、ハチは右手で背中に触れた。そこには血の流れた後など無いのだが、実際痛みが走ったのは事実だった。ハチもそのことは認めている。
「へっ、馬鹿にすんじゃねぇよ」
「……強いですね」
 円の言葉は褒めると言うより、軽く受け流したといった具合だった。その態度にむすっと顔をしかめたハチは、そのまま少し視線を落とす。そして円の方を向くと、ジーンズのポケットにささったゲーム機。新品と思われる最新型のそれを見て、ハチがまず最初に思うことは決まっていた。
「それ」
「?」
 ハチの視線を辿り、円の手はゲーム機を触る。そして「ああ」と小さく納得してみせるが、それ以上のことは言わなかった。よって、ハチは思った通りのことを円にぶつける。
「盗んだのかよ」
 円は無表情だった。
「とんでもない。私の私物です」
「えっ」
 つい声が漏れる。円の見た目、雰囲気、住所不定なところ、全て総合しても、こんな高価な精密機械を購入することなど不可能だと想定できる。人を見た目で判断するのは良くないとは言え、こればかりはどうしようもないだろう。しかし思い返してみれば、円はその懐に大金(少なくともハチにとっては)を持っていたこともあった。
「何で買えるんだよ。お前の収入源はどこだ」
「んー」
 首を傾げながら空を仰ぎ、唸る円に質問に答える気はないようだった。
「それよりハチ君、一つあなたの耳に入れておきたいことがあります」
 話を変えられたことに再びむっとしたハチを、円は涼しい顔で見下ろしていた。鋭いハチの目を見つめながら、円は少しも目をそらさずに続けた。
「今朝この路地で、薫さんを見かけたんです」
「あ? あいつ暫く路地は通らないって言ったのに……」
 そう漏らしながらも、それが何だよと当たってみせると、円は微動だにせず更に続ける。
「薫さんの他に、見かけない女性が一人いました。確か……アンナと言っていました」
「アンナ?」
「ええ。何者かは知りませんが、注意した方が良さそうです」
 そう言い切ると、円は再び口を閉じて静かにハチを見つめた。ハチは漠然とした内容に、眉間にしわを寄せている。だが双子や“おじちゃん”と言った存在があるこの状況の下、怪しい人物に注意しろと言う忠告はハチにも飲み込むことが出来た。
「どんな女なんだよ」
「肌が焼けていて、スタイルが良い綺麗な女性でした」
 真面目な顔でそう言った円に、しかめっ面を保っていたハチの顔が一瞬歪んだ。その後更に「健康的な美女」と付け加えられ、ついに吹き出してしまった。
「……何か微妙な情報だけど、覚えておくよ」
 微かだが笑いを堪えながらそう言ったハチに、円は小さく頷いて見せた。
 一通りの会話が終了すると、二人は話題が無くなり、沈黙の中で思わず目をそらした。
「あれ」
 間抜けな声を上げたのは、ハチでも円でもなかった。遠くから響いたようなその声を辿って二人が同じ方を向くと、そこに立っているのは薫だった。大通りから路地を覗き、ぽかんと突っ立っている。きょろきょろと辺りを見回し、確認を終えると、小走りで二人の元に駆け寄った。
「二人とも、何真剣な顔して」
 素っ頓狂な顔で尋ねる薫に、ハチは大きくため息をついた。
「お前……」
 今朝此処を通ったことを指摘しようとするハチを、円の腕が遮った。薫に勘づかれないように自然にハチの前に出た円は、いつもの調子で薫に話しかけた。
「学校は終わったんですか」
「はい、バイトもないし」
 普段の口調で答える薫が、今はとても間抜けに見えた。唐突に円に邪魔をされ、ハチは理解できずに黙ってその横顔を睨み付ける。
「二人とも、何話してたんですか?」
「ただの雑談ですよ。ハチ君てば私が闇業界に通じているとか言うんです」
 円は至って冷静に隠し事を貫き通していく。苦笑する薫と、いつもと変わらない円の様子を端から見ているハチは、納得がいかないといった様子であった。「何で隠すんだ」と問いつめてみたいが、何か理由があるのかと思うとむやみに尋ねることが出来ない。
「ハチ」
「え」
 突然の呼びかけに、思いの外間の抜けた声が出た。
「何変な顔してんの?」
 ハチから見れば、状況を知らない薫の呑気な態度は間抜けに見えるが、逆に薫から見れば、じっとしかめ面を呈しているハチの様子は奇妙としか思えなかった。とっさにそのことを悟ったハチは、口角をぐっとつり上げて見せる。
「お前に言われたかねぇよ」
「わっ、酷っ」
 そしていつものように毒を吐いた。

 円との“作られた”会話を一通り済ませた薫は、やがて帰路に就いた。路地を通り抜けることはせず、一度大通りに出て、遠回りするルートを使って。
「おう」
 薫の去っていった方を見つめたまま、ハチは静かに呼びかけた。
「……あのアンナという女性は近いうちにまた接触してくると思います。しばらく様子を見て、再び彼女が現れたところを取り押さえましょう」
「取り押さえる? ……薫が囮ってことか」
「薫さんが身構えてしまうと、彼女も警戒して姿を現さないかもしれません。だから、それまでは薫さんにも内緒にしておいた方が賢明だと思います」
 円もまた、薫が消えた通りを向いて、ゆっくりそう語った。ハチは返事をしなかったが、否定もしなかった。それが結果的に円に了解を伝えた。


  * * *


 すっかり夜が更けた暗闇の中で、小さな自転車置き場が蛍光灯の明かりに照らされている。蛍光灯の寿命が近いのか、明かりは薄暗く、時々消えては点灯を繰り返していた。その弱々しい無機質な明かりに、小さな羽虫が数匹集まっている。そしてその下でぼんやりとした影を作っているのは、小麦色の肌の女性。
 彼女は錆びて傾いた自転車に寄りかかり、腕を組んで空を見上げている。彼女の健康的な肌も、ちらちらと点滅する蛍光灯の明かりの下では若干血色が悪く見えた。
「あぁ、会ってきたよ」
 何者かの問いかけに答えるように、女性――アンナはそう言った。
「どうだった?」
「何とかなりそう?」
 アンナの応答の後に、そう再度質問する声。声の主の姿は見えず、それはとても幼い女の子のようだった。アンナはその質問に、にやりと笑う。
「楽勝だよ」
「本当?」
 声の主は二人組のようで、それはきゃっきゃと嬉しそうにはしゃいだ。
「じゃあお姉さんにお願いするよ」
「使い方は教えたよね?」
「あぁ、大丈夫」
 アンナはおもむろにポケットに手を入れ、黒い石を取り出した。砕けた断面がつやつやと光る鉱石のようなそれは、アンナの手のひらにすっぽり収まる大きさだった。アンナはそれを頭上に掲げて暫く眺めると、再びポケットの中に投げ入れるようにしまった。
「それからもう一つ」
 声の主の一人が、間を置いてそう切り出すと、
「殺しちゃだめだよ」
 今度は二人合わせて、そう念を押すように言った。アンナは「ああ」と静かに答えた。
 その後、声の主の気配は消え、アンナもゆっくり歩き出し、薄暗い自転車置き場から姿を消した。


  * * *


 雨が降り続いている。空は重たい灰色に覆われ、街全体がしっとりと濡れていた。
「薫」
 居間のソファに寝転び雑誌のページをめくっている薫の側に、母親が近づいてきた。
「ちょっとお使い行ってきてちょうだい」
 そう言うと、薫の前に財布を差し出した。
「えー、嫌だよこんな雨の中……」
 窓の外でコンクリートや植木の葉を叩く雨の音。土砂降りというわけではない、しとしと降り続く雨。それを窓ガラス越しに見ながら、薫はあからさまに嫌な顔をして見せた。
「お願いよ、冷蔵庫の中空っぽなの!」
「えー……」
 薫は僅かな望みをかけて、もう一方のソファに座る父親を見たが、彼は新聞に目をやったまま知らんぷりを決め込んでいる。
「……あぁ、わかったよ」
 渋々そう答えると、薫は母親の手から財布を受け取り、白いダウンジャケットを羽織り玄関に向かった。そして雨で汚れるのを考慮して使い古したスニーカーを履くと、立てかけてある傘を手に取り、外に出た。
 雨に打たれる薫の足取りは重い。これから向かうスーパーマーケットは路地を抜けた先の大通りの、コンビニとは反対方向に建っているが、路地を使わないことにしている為、少々の遠回りを余儀なくされていた。頭上に被さる傘の煩わしさと、濡れる足下の不快感も手伝って、その道のりはとても長く感じる。
「あぁー、鬱陶しい……」
 付近に人の姿がないのを良いことに、薫はぼそぼそと不満を垂れた。薫の手に握られている財布のポケットには白い紙が刺さっていて、薫は傘を首と肩の間に挟むと、それを財布から抜き取って広げた。
 卵・味噌・マヨネーズ・キャベツ……買い物リストだった。薫は気を紛らわそうとそのメモを眺めたが、どうやら色々な食材が均等になくなっているらしく、そのメモから今日の献立を想定できるわけではなさそうだった。別にどうしても知りたかったわけでもなかった薫は、メモを折りたたみ財布に戻すと、再び白く霞んだ前方を見た。そして、立ち止まる。
「えっ……」
 薫の大きく開かれた瞳に映されたのは、水を滴らせて立っている一人の女性。傘も差さずに堂々と道の真ん中を陣取っている彼女の目には、獲物を陥れようとする獣のような冷たい笑みが込められている。
「アンナさん? どうしたんですか、そんなずぶ濡れで……」
 暫く躊躇った薫は、やがて手に持った傘をアンナの方に差し出しながら駆けだした。そして雨に濡れているアンナの頭上に傘をかざそうと顔を上げたとき、彼女の不気味な目に気付いた。
「ねぇ薫、雨の日は幽霊が出やすいって話、知ってるかい?」
「へ?」
 突然の問いかけに、薫は凍り付く。蛇睨みにあった上での、不気味なその言葉に、薫の背中の産毛が逆立った。その様子を見下ろしながら、アンナは更に続ける。
「でも、あんたの力があればそんなの怖くないだろうね」
 薫が何のことかと聞き返す暇も与えず、アンナはポケットから黒い石を取り出して薫の目の前に突き出した。
 黒い石は砕けた断面にいくつもの小さな薫の姿を映し、その漆黒の世界に釘付けになった薫は身動きが取れない。そして間もなく、黒い石は激しく振動した。
 薫が腰を抜かしていると、まるで黒い石が呼び寄せたかのように次々に“影”が集まってきた。
「うわああっ……」
 驚愕の表情を浮かべながら、薫は思わず傘を地面に落とした。“影”の群れを従えたアンナは方をつり上げ、くすくすと楽しげに笑っている。
「頼まれちゃってねぇ、あんたを捕まえて連れて行くって。悪いけど少し眠ってもらおうか」
 アンナが右手を挙げて合図すると、“影”は雪崩のように薫に押し寄せた。向きを変えて走り出すには“影”との距離が近すぎて、もはや薫はその場に立ち尽くして迫り来る黒い波を受け入れることしかできなかった。直後“影”は、薫の身体を飲み込んだ。
「……?」
 だが、覆い被さった“影”はするりと薫の身体をすり抜けた。
 確かに全身を“影”にすっぽりと包まれたのだが、身体に何かが触れた感触はない。勢いを殺すことなく通り過ぎていった“影”に、薫はあっけにとられた。
「隙だらけだよ!」
 すり抜けていった“影”に気を取られていた薫に、アンナが猫のように飛びかかった。薫がそれに気付いたときにはもう遅く、跳び上がったアンナが頭上に迫っていた。だが、
「ひッ!!」
 薫が身を強張らせた瞬間、鈍い音が薫のすぐ側で聞こえた。すぐに薫が目を開けるとそこにアンナはいなくて、代わりに跳び蹴りの体勢で宙に在るハチの姿があった。アンナは数メートル先で受け身を取っていた。
「やっぱり、例の双子の一味でしたね」
「けっ、次から次へと湧いて出てきやがって」
 薫の背後に現れた円が、雨で顔に貼り付いた前髪を邪魔くさそうに払いながら、地面に手をついているアンナを見下ろす。ハチも着地するなり、低い声でそう吐き捨てた。
「ハチ、それに円さんも……」
 呆然としている薫を一瞥し、ハチはニヤリと笑った。
「悪ぃな、円のやつに薫には言うなって言われてたから」
「申し訳ありません。でも警戒されては接触の機会を逃してしまいますから」
 立ち上がったアンナは、びしょ濡れになった髪を払うなり、新たに現れた二人をきつく睨み付けた。ハチもそれに応戦するように睨み返して見せ、円と言えば相変わらず何の反応も示さない。
「……どいつもこいつも、何なんだろうね」
 強気な態度の中に、何処か苛立ちを漂わせたアンナが静かに呟く。すると、ふいにアンナの背後に二つの影が現れる。
「このお兄ちゃん、いつも邪魔するの」
「この二人は殺しちゃっても良いよ」
 白いお揃いのレインコートを羽織り、フードをすっぽり被った双子・ニコとキコ。雨で霞んだ空気が、二人の不気味さを増している。
 双子の言葉を聞いたアンナは鼻で笑うと、黒い石を宙に放り投げて握り直した。その黒い石の正体が何なのかわからず目を凝らしている三人を嘲笑うかのように再度笑い、ゆらゆらと歩み寄っていく。
「ふぅん、あんたらには遠慮は要らないのかい」
 最初はゆっくりだったアンナの歩調は段々と速くなり、やがて姿勢を低くすると同時に、獲物を追う猫のような猛烈な速さで三人に迫った。石を持った手で殴りかかってきたアンナを、ハチが腕で受け止め、払う。しかしアンナの攻撃は休みなく続き、ハチもそれに応じて防御と反撃を繰り返した。二人の足下で、水しぶきが飛び散る。
「チッ、何なんだよてめぇ」
「あんたらには関係ないねっ」
 とりわけ力のこもった一発を受け止め、ハチの身体は軽く跳ね飛ばされた。美しいスタイルの中に、強靱な筋肉を忍ばせたアンナのパンチは、流石のハチでも驚くほどだった。ハチが防御に使った両腕を下ろすと、アンナはパンチをくり出した腕と反対の腕を突き出した。その手に握られているのは、黒い石。
「なっ……」
 ハチがその正体を確かめる間もなく、黒い石は強く振動し、再び“影”が群れた。
「大人しくしてな!」
 アンナがそう叫ぶと、集まった“影”が爆発を起こしたかのように飛び散り、放射線を描いてハチと円を目がけて突進してきた。二人は少し後退したが、上空から迫る“影”を避けることは出来ず、素早く身構えて真っ黒な攻撃を受けた。
 しかし、二人に降り注いだ“影”は、彼らに傷一つ作らない。
「ほぉ、なるほど」
 自分たちの身体をすり抜け、地面に消えていった“影”に、円はぼそりと呟いた。その声が聞こえたハチは、振り向くなり「あ?」と乱暴な声を上げた。
「ハチ!」
 横から飛んできた薫の声に向き直ったハチは、ギリギリの所で後ろに反り返り、アンナの蹴りをかわした。しかしハチがその体勢からくり出した蹴りを軽やかな跳躍で避けたアンナは、そのままハチの後ろに跳び、ぽかんと突っ立っていた円を標的にした。
「ぼさっとすんな!」
「円さん危ない!」
 二人の声は届いたのか、円は依然突っ立ったままで、アンナはその顔面に容赦なくパンチをくり出した。
 しかし薫が見るに堪えなくなりぎゅっと目をつぶった頃、円は素早くかがんでパンチをかわした。そればかりか、その低い姿勢のまま身体を回転させ、アンナの方へ向き直りざまに強烈な蹴りをくり出した。体側を蹴られたアンナは、びしゃりと水しぶきを上げながら地面に崩れる。
「ふん、やるじゃないか」
 自分を上から見下ろす円を一度きっと睨むと、アンナはすぐさま立ち上がり飛び退いた。そして一旦三人から離れると、再び黒い石を突き出した。
「同じ手ばっかり、てめぇ馬鹿か!」
 そう言ってアンナに向かって走り出したハチも構うことなく、アンナは三度“影”を発射した。“影”は同じようにハチや円を飲み込み、ダメージこそ与えないが、その視界を一瞬奪った。だが、手は分かっている。ハチも円も、この後アンナが迫るであろう場所を予測し、そこをじっと見つめていた。
 しかし、予想は裏切られた。アンナはその場から動いていなかった。さらにハチが下を打ったのが、足下から伸びて身体をぐるぐるに拘束している、アンナが放ったのとは別の“影”。
「てめぇらかッ」
「……っ」
 ハチも円も、不覚だった。アンナが放った虚像の“影”に気を取られ、双子の動きに気付かなかった。双子はこっそりと“影”を使い、ハチたちの動きを封じることに成功していた。
「ふふふっ、動けないね」
「これでお兄ちゃん達もお終いだよ」
 嬉しそうに微笑む双子。その様子を見ている薫は、ただただ慌てるだけだった。アンナは黒い石をぽんぽんと放り投げながら不敵の笑みを浮かべている。
「チッ……」
「……」
 身動きの取れないハチと円は、ただ対峙するアンナをじっと睨むだけだった。アンナはじりじりと歩み寄ってくる。
「さあて、行くよ」
 アンナはゆっくりと身構え、それと同時に二人も全身をぐっと強張らせる。
 そして、アンナの腕が勢いを付けて振り上げられ――

「きゃっ!!」
 双子のうち、キコが悲鳴を上げて水しぶきの中に崩れた。
 アンナはハチと円にとどめを刺すと見せかけ、素早く振り返るなり黒い石を双子に向かって投げつけた。女性らしからぬ腕力によって放たれたそれは、雨の中を豪速で突き抜け、キコの小さな肩に命中した。双子はハチと円を縛り付けるのに夢中になっていて、まさに不意打ちをくらったといった様だった。
「バーカ!」
 アンナは走り出すと、キコに飛びかかった。そしてキコの懐から何かを抜き取り、素早く双子から離れた。アンナが手に持つそれは、先程投げつけたのとよく似た石だった。
 拘束を解かれて自由になったハチたちは、その様子を理解できないまま見ている。
「お姉ちゃん、裏切るの?」
 痛がるキコの肩に手を添えながら、ニコがアンナを睨み付ける。しかしアンナは不敵の笑みを浮かべたまま動じない。
「元々私の目的はこの“影”を操る力を得ることだったんだよ。それが得られるのならあんたらに協力して働いてもいいと思ってたけど、渡された石がニセモノだって分かってから、これを奪う作戦に変えた」
 奪った石を見せつけながら、アンナはそう語った。半べそをかきながら、キコはひたすら「返して」と繰り返していたが、その声は雨の音に消されている。
「あんたも、これが無きゃ“影”は操れないね」
 キコはついに大声で泣き始めた。
「どういうこと!?」
 混乱した薫が、ひっくり返った声を上げてアンナに尋ねた。アンナは薫の方を見ると、にやりと笑って見せた。
「こいつらの力の正体さ。実際私はあんたじゃなくてこれが欲しかったんだ」
「……なるほど」
 先程と同じように、円が呟いた。
「ということは、その石を一つ奪われたことによって、双子の戦闘力は半分になった……と、解釈して良いんですね」
「そういうことさ」
 アンナが頷き、円も納得したように首を上下に振った。
「私は元々どっちの味方でもないよ。じゃ、今日はこれで失礼するよ」
「待って!」
 ニコの叫びも虚しく、アンナは高く跳び上がると、民家の垣根の向こうに姿を消した。双子は困惑した表情を浮かべて、三人の様子をうかがっている。
「……こんなはずじゃなかったのに」
「今日は帰る!」
 立ち上がったキコの手をニコが握り、双子は走り出した。追いかけようとするハチを、円が静止する。すぐに、双子の姿は“影”に包まれ、消えた。
「……何者だ? あいつ」
「アンナ、ですか」
「二人とも……大丈夫?」
 気がつけば雨音だけが響く霞んだ街の中で、薫の傘が開いたまま虚しく転がっていた。


  * * *


 いつもの路地裏。降り続いた雨によってしっとりと湿った空気が漂い、地面の凸凹には水たまりが出来ている。その水たまりは漆黒の空を映し、地面にぽっかりと空いた穴のようだった。その穴の隣に立ち、壁に背を預けているハチ。
 いつからかぐっと数を増やした“影”の気配の渦巻く中に、ハチはじっと立ち尽くしていた。息の音も立てず、帽子を深く被り、何かを堪えるように口を結んでいる。
 今は何時なのか、そんなことを考えていたハチの足下を、小さな“影”が這うように通り過ぎた。俯いていたハチの目には、その姿がしっかりととらえられた。
「……」
 ハチは下唇をぎゅっと噛み締めた。“影”の姿が見えなくなると、入っていた肩の力を少し抜いて交差させていた脚を組み替えた。しかしそんなハチの足下を、更に数匹の“影”が通り過ぎた。
「消えろ、消えろ……」
 自分ですら聞き取るのが困難なくらい小さな声で呟き続ける。“影”はせわしなく蠢き、また何処かへと消えていった。
 しかし、姿は消えても、周囲に氾濫している“影”の気配は消えることはない。その気配に包まれ、ハチはついにそのばにかがみ込んだ。
「……畜生……」
 頭を抱えて縮こまっているハチは、眉間にしわを寄せ、目をぎゅっとつぶっている。歯を食いしばり、何か自分の中の衝動を必死に抑えているように。漆黒の夜空の元、そんなハチの姿を見る者は誰も居なかった。


「どう思いますか?」
 すっかり晴れた青い空の下、ゴミの山に腰を下ろしてフランクフルトにかじりついているハチを覗き込み、更にハチの上に積まれた粗大ゴミの上にしゃがんでいる円が問いかける。
「何がだよ」
「アンナです」
 フランクフルトをくわえたままもぐもぐと喋るハチに、何も食べていなくても籠もった声の円が答える。
「どうって、知らねえよ。いけ好かねえ女だけどな」
 冷めた様子でハチはあしらったが、円が傷つく様子などは見られない。
「……私は、彼女はあの双子の言う『おじちゃん』という黒幕に何らかの恨みを持っているんだと思います」
「は? 恨み?」
「ええ」
 口の中のフランクフルトを飲み込んだハチが、頭上を見上げる。そこに太陽の逆光となり陰った円の顔があった。それはいつもと同じ、無表情である。
「あの双子に付け入って石を奪うのもそうですが、第一彼らの正体を知っている辺り、何らかの関係が昔から在ったためだとは思いませんか? 『おじちゃん』が関係のない人間に正体を明かすとは思いませんし」
「……まあなあ。じゃあ、恨みって何だよ」
「そこまでは推測できませんけど」
「駄目じゃねぇか」
 ハチは首を戻し、再びフランクフルトを食べるのに勤しんだ。
「薫さんが狙われる限り、彼女もこの先関わり続けることになりそうですね」
「んなことぁ最初っからわかってんだろ」
 口から零れそうになる欠片を、慌てて手で押さえるハチ。円はハチの言葉に頷いた。

2009/06/16(Tue)18:24:17 公開 / 泡球
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■作者からのメッセージ
初めて投稿します^^
お話自体は、現代の日本の何処か(とりあえず都市)が舞台で、
主人公も平々凡々な感じの女の子に設定してみたつもりです。
未熟な文章で分かりにくいかも知れませんが、もしよろしければ
読んでいただけると嬉しいです^^

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。