『Please,please,please come back!』 ... ジャンル:恋愛小説 リアル・現代
作者:工藤 円                

     あらすじ・作品紹介
絶世の美女、栗藤つむぎに想いを寄せる槇原太陽。しかし高校入学以来の大恋愛(片想い)の終焉はあっけなく訪れて……? 片想いのあの子には二度と出会えない、槇原太陽の不思議な恋愛物語です。

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 序章「アジアの純真(the boy can't meet her forever)」


 風になびく艶やかな黒髪、豊潤な唇に細い脚。
 白く澄んだ肌の上に乗った整えられた顔のパーツは、道行く人の目を惹きとめる。
 容姿端麗頭脳明晰、大和撫子とは正に彼女の為にある言葉だ。俺は彼女に会い、心からそう思った。
 ――八月、北海道。自転車に跨り風を受けて走る高校生達を横目に、俺はバスの中で読書に励んでいる。
 真夏の太陽光線が肌を焼くこの時期、バスを利用する高校生は少ない。自分を除くと高校生は三人しかいないバスの車内を眺めながら、俺は思った。
 俺がこうしてわざわざ金を払ってバスを利用する理由は一つ。このバスを彼女も利用するからだ。不運な事に俺と彼女はクラスが違い(この事は俺独自の不運イベントランキング歴代一位にランクインしている)、この一年半会話した事すら無い。密に想いを寄せる少年Aにとって、同じ空間を共有できるこの時間はとても大切なものなのだ。
 そんな事を考えながら漫画雑誌のページを捲っていると、そろそろいつものバス停が近づいてくる。そう、彼女がバスに乗り込んでくるのだ。俺は雑誌を鞄の中にしまい込み、ネクタイを締め直した。
 入り口を眺めるのに最も適した右斜め後方の席、そこが俺の特等席だ。俺はポケットから携帯音楽プレイヤーを取り出し、その停止ボタンを押した。
 バス停が見えてきた。俺はあくまでも平常心を装い、目を瞑る。車体は次第にスピードを緩め、バス停の前で停止する――はずだ。はずだ。どうしたのだろうか。なかなかスピードを緩める気配を見せない。俺はそわそわしながらも、しかし目は開けなかった。
 頭の中であれこれと自問自答している間にもバスは進む。これはいくらなんでもおかしい。俺は痺れを切らし目を開いた。
 バスは、とっくにいつものバス停を通り過ぎていた。
「……え?」
 平然と走り続ける車内から後ろを振り返ると、誰もいないバス停が目に入った。

 栗藤さんがバスに姿を見せないようになってから二週間。結局、彼女はその間一度も学校に来ていないようだった。
 学年内では彼女が学校を辞めたとか不登校になったとか入院してるとか、様々な噂が飛び交っていた。俺は「今日こそはもしかしたら」と毎日思いながら、バスでの登下校を繰り返している。
 どうしても、彼女が学校からいなくなるだなんて信じられなかった。
 俺は、彼女の顔写真の類を一切持っていない。頭の中にのみ存在する彼女に想いを寄せながら、ただただバス代二百三十円を支払い続ける。

 彼女が学校に姿を見せないようになってから、三週間が経っていた。どうやら彼女のクラスメイト達すら、彼女の欠席について何も知らないらしい。俺は諦めそうになるのを何度も堪えながら、未だバスに乗り続けていた。
 丁度朝の八時を過ぎた頃、いつものバス停に近づいても俺はもう漫画雑誌を鞄の中にしまう事は無かった。視線を窓の外に向ける事すら無く、淡々と雑誌のページを捲る。
 運転手がいつもの停車駅の名を読み上げたが、誰一人降車ボタンを押す事は無い。誰も降りず、誰も乗らず。バスは悠然といつものバス停を通り過ぎる。
 ――はずだ。バスは次第にスピードを緩め、そしていつものバス停の前で止まった。俺はゆっくりと、首を入り口へと向ける。
 豊潤な唇。肩ほどまで伸びた艶やかな黒髪。
 ――それは確かに、俺が散々待ち望んだ見覚えのある顔だった。
 スカートの裾から見える肉付きの良い脚。背負った鞄が食い込む肩。そして、確実に一回りも大きくなった白い顔。
 三週間ぶりに見かけた彼女は、なんか知らない間にブスになっていた。
 間の抜けた俺の声が、人の少ないバスの車内に響き渡った。





 第1話「ファンダメンタル・ラブ(basis of love)」


「だっ、誰だお前は!!」と指を差して罵倒したい気持ちを必死に抑える。
 あの細い脚、か弱い背中、整った顔が……
 肉付きの良い脚、がっちりとした背中、ふくよかな顔……しかしそれでいて、確実に面影のある顔。
 俺は完全に放心し、ぐったりと頭を下げる。
(バ、バカな…… こんな事が…………)
 耳に入ってくる栗藤さんの笑い声が、やけに他人事のようだった。

「栗藤さんがブスになった?」
 友人の葉山が驚いた様な顔をして俺の言葉を繰り返した。
「何言ってんだよ槇原。あの栗藤さんがブスになんかなる訳ねーだろ」
 葉山は呆れた様に俺の言葉を聞き流す。
「ほ、本当なんだって……お前一回見てみろって」
「あーはいはい。その内な。てか栗藤さん最近学校休んでんじゃねーのかよ」
 そう言って葉山は教室の外を眺める。その時、計った様に丁度栗藤さんが教室の前を横切った。
「!! なっ……あれ、今の栗藤さん!?」
「だから言ったろーが……」
 俺はうなだれ、机に突っ伏した。
(く、くそ〜……。なんでこんな事に…………)
 この珍事は即座に学年、学校中に知れ渡った。元々ファンの多かった彼女の変貌ぶりに驚いた人間は多く、また男子は栗藤さんの変貌を嘆いた。
「あ〜あ。じゃあもうこの学年は高嶺さんがダントツだな」
 葉山は両手を頭の後ろで組みながら言った。
 高嶺美華《たかみね みか》。学年一の美女と言われていた栗藤さんに次ぐ美女で、清楚な栗藤さんに対して長いまつ毛に程好く化粧の乗った肌。他人を嘲笑うかの様な鋭い瞳は正に女王様のそれであった。
(ちげーんだよ……俺が栗藤さんの事を好きでいたのは、顔だけじゃなくて……、もっと…………)
 涙が出そうになった。それを葉山には悟られたくなく、俺は顔を隠した。
 高校入学以来、一年半に及ぶ大恋愛(片想い)のあっけない幕切れを感じた。

 放課後、俺は葉山たちと暫く教室に残ってから帰路につく。こんな事、以前は殆ど無かった。栗藤さんは常に授業が終わった後すぐのバスに乗る為、俺もそれに乗るようにしていたのだ。
(でも……もういいんだ。栗藤さんはもう……)
 俺は校門前のバス停で十分程バスを待ち、そして乗り込んだ。中には誰もいない。俺はいつもの席ではなく、一番後ろの窓際に座った。
 バスに乗っている時間はとても退屈だった。この一年半、この時間をこれほど持て余した事は無い。俺は鞄の中から読みかけの漫画雑誌を取り出し、それを膝の上で開いた。
 十五分程経った後、信号の所でバスが停止した。開いた窓の隙間から女性の甲高い笑い声が聞こえてきて、俺は窓の外に目をやった。
(うわっ……すっげー美人)
 二十代半ばであろうか。露出度の高い服装、大人の魅力を醸し出す唇。俺はすっかり見入ってしまっていた。
(やっぱ女性ってのは何より美人じゃねーとな。性格よりまずは顔、これが鉄則)
 俺は変わり果てた栗藤さんの顔を頭の中に思い浮かべ、そしてすぐにそれをかき消した。
(アイス……食べてえな)
 女性が右手に持つソフトクリームを眺めながらそう思った。
 信号が青に変わる。バスは女性を追い越してしまい、俺は後ろを振り返る。
 女性は笑いながら手に持っていたソフトクリームのカップを道路に放り投げた。その瞬間、その女性に見入ってしまっていた自分がアホらしくなった。
(あー……、マジかよ。いくら美人でもお前みたいな奴は願い下げだ)
 俺は前を向き直し、再び膝元の漫画雑誌に目を落とした。
(やっぱ、顔だけ良くても駄目なんだよなあ。顔も良くて性格も良い……、そんなの、栗藤さんしかありえねーよ…………)
 今度は昔の栗藤さんの顔を思い浮かべ、暫くそれに想いを寄せる。
(やべ、泣く……)
 俺は手元の漫画雑誌の内容に意識を寄せた。気を紛らわせないと冗談抜きに泣いてしまいそうだ。
 少しして信号が再び赤を示し、バスは少し揺れた後停止した。俺はまた外を眺める。
 ソフトクリームを舐めながら歩く、栗藤さんの姿が目に映った。
(!! 栗藤さん……!)
 一瞬胸がときめいた気がしたが、それは気のせいだった。もう彼女を見ても胸をときめかせる事は無い。
(あ、そういやここいつものバス停の辺りか……。塾かな? つーかソフトクリームなんか食ってんじゃねーよ。痩せろよ)
 俺は呆れて視線を逸らそうとしたが、三週間前までの俺ならこんなチャンスを逃すはずが無い。どうにも勿体無いような気がして、結局視線を逸らす事は出来なかった。
 栗藤さんは丁度ソフトクリームを舐め終えた。ゴミ箱を探しているのだろうか? 辺りをキョロキョロと見回している。しかし辺りにその様なものは無く、俺は栗藤さんがどうするのか眺めていた。
 栗藤さんは二、三度辺りを見回した後、そのソフトクリームのカップを鞄の中にしまい込んだ。

 胸の鼓動が、波を打つ。

 漏れ出す笑みは、どこから来るものか分からない。
 俺は漫画雑誌を鞄にしまい込み、満足気に目を瞑った。





 第2話「Shapes of love(For whom does the man move?)」


「ばっかじゃねーの?」
 葉山の一言が俺を貫いた。
「な〜にが『ソフトクリームのカップを持ち帰った』だよ。お前バカじゃねーのか」
「うるせーよ。今時そんな女子高生いねーぞ!」
 俺が言葉に熱を帯びさせてそう葉山に言うと、葉山は呆れた様に頭を掻いた。
「まあ……栗藤さんが性格良いってのは分かったよ。そこはそういう事にしといてやる。で、何? まさかお前それであの栗藤さんの事を好きにでもなる訳?」
 葉山は淡々と言葉を連ねた。
「いやまあ……それはまた別の話で……」
 俺は言葉を濁らせる。それを見て葉山は笑った。
「悪い悪い。でも俺はお前が高嶺さんを狙うなら応援するぜ。お前、高嶺さんの事も美人だってずっと言ってたじゃん」
 俺は、正直高嶺さんの事を相当可愛いと思っている。栗藤さんさえいなければ、そもそも俺は高嶺さんの事を好きでいたかもしれない。
「まあ……考えとくよ」
 俺はそう言って机に顔を伏せた。

 翌朝。未だバスで通い続けている俺は栗藤さんの会話に耳を傾けていた。
「つむつむ、そのキーホルダー変わってるね」
 ”つむつむ”改め栗藤つむぎ。栗藤さんが美人であった頃はそのあだ名も狂おしいほど愛らしいものであったが、今ではそれも不愉快なだけだ。
「これ?」
 栗藤さんは肩にかけたスクールバッグについたキーホルダーを指差した。糸の様なもので練り込まれた洋風の人形は、満面の笑みを浮かべていた。
「このキーホルダー、お爺ちゃんの形見なんだ」
「あっ、……そうなんだ」
 栗藤さんの友人は目を伏せた。それを見て、栗藤さんは微笑んだ。
「ううん、いいの。このキーホルダーは私が四歳の時に家族で海外旅行に行った時、お爺ちゃんが買ってくれたんだ。二個」
 二個?と思わず声に出そうになったのを俺は抑え込む。
「私、旅行中にこれと同じものをお爺ちゃんに買ってもらったのにすぐ失くしちゃったんだ。それに気が付いたのはもう飛行機に乗る直前で、もう一度買いに戻る事も出来なくて私は空港でわんわん泣いちゃってたらしいの」
 俺は、黙ってその話を聞いていた。
「飛行機も今更キャンセル出来ないし売店にも売ってないし、私は益々大泣きしてその場に座り込んじゃったらしいんだ」
 栗藤さんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「そんな私を見かねて、お爺ちゃんだけがそこに残ってもう一度同じキーホルダーを買って、一人次の便で帰ってくる事になったの。今思えばそんなの考えられないけど、その時の私はそれで納得してたらしいんだ」
 ここで栗藤さんは少し間を置いた。
「……日本に帰ってきた時、お母さんは飛行機事故のニュースを見て泣いてた」
 一瞬、空気が固まった気がした。
 俺はすぐに我に返り、栗藤さんの気持ちを考えてみた。
 そうしたら、涙が頬を伝った。
「つむぎ……」
 栗藤さんの友人は言葉を失っていた。俺は、自分がこの会話に参加していない事を幸運に思った。俺が会話に参加していたとしても、栗藤さんに何と声を掛ければ良いか分からなかっただろう。
 俺はただ黙って前を向き、バスが学校に着くのを待った。


 ***


 厚い雲のかかった、薄暗い放課後。俺はいつものバス停でバスを待っていた。
 今日は体育委員の関係で帰るのが遅くなり、バス停には俺と栗藤さんとその友人の三人だけが立っていた。俺は少し離れた位置にいたため栗藤さんの会話を窺う事は出来なかったが、何となく栗藤さんの方を眺めていた。
 俺は、右肩に物をかけない。昔野球部でピッチャーをしていた頃の名残か、今でもその習性が残っている。その為、栗藤さんの右肩にかかった鞄が目に入ったのは偶然ではなく、そして朝はその鞄についていた筈のキーホルダーが今は無い事に気が付いた。
(………………)
 つけたり外したりしているのだろうか。そのキーホルダーについてあれこれ考えていると、頬を一滴の水が伝った。
 俺は瞬間的に朝の涙を思い出し咄嗟に頬に手をやったが、もう一滴額に水が落ちたのを感じて冷静さを取り戻した。
(雨か…………)
 俺が今立っているバス停の傍には、一箇所だけ雨を防ぐ事の出来る屋根がある。しかし栗藤さん達がすぐにその下に入ってしまった為、俺は近くの古本屋で読書に耽る事にした。

 ――約一時間後、俺は漫画を棚に戻す。十五分で戻る予定が、漫画が面白すぎたのでついつい予定の四倍の時間を過ごしてしまった。こんな事も、以前は絶対に無かった。栗藤さんと同じバスに乗る事を何より優先していたからだ。
 俺は店の出口へ進み、中から外を眺めた。
(うわっ……雨すげえ……)
 雨はあの後更に激しさを増し、既に傘無しでは外を歩けない状態になっていた。しかし俺は最低でもバス停までは傘無しで移動しなければならない。鞄を頭の上に掲げ、雨の中を駆け抜けた。
 歩道に溜まった水溜りを何度も足で鳴らしながら先程の屋根の下に着く。当然ながら、もう栗藤さんはそこにいない。俺は鞄を足元に置き、鞄の中からタオルを取り出し頭を拭いた。
 少し走り抜けただけでこれだ。俺は屋根の存在に感謝しながらバスを待つ。
 三分後、バスはすぐにやってきた。俺が屋根の下を出ると入り口が開き、俺は急いで中に入り込んだ。雨だからか、中は混んでいる。俺は左右を見渡し空いている席を見定めた。
 運転手の後ろの席が空いている。俺は前方に歩き出した。
 途中で何と無く外を眺めると、どしゃ降りの雨の中を歩き回る栗藤さんの姿が目に入った。
 栗藤さんは体勢を低くしたりキョロキョロと周囲を見回したり、何かを探している様だった。
(…………、キーホルダー…………!)
 先程の、キーホルダーのついていなかった栗藤さんの鞄を思い出した。
 俺は馬鹿だ。なんでこんな事に気が付かなかったのだろう。鞄にキーホルダーがついていたのは、ただ単に失くしていたからだったのだ。
 俺はバスを飛び出し、どしゃ降りの雨の中に体を放り込んだ。降り頻る雨を防ぐ事も無く、俺はただ栗藤さんの元を目指して走り抜けた。
 視界の悪くなった雨の中で、膝をつき地面を見回す栗藤さんの後ろに俺は立った。栗藤さんの友人はいない。キーホルダーの事を言わず、ただ「先に帰ってて」と友人をバスに乗らせた栗藤さんの姿が目に浮かぶ。この雨の中、友人をキーホルダー探しに付き合わせる様な事はしない。栗藤いずみとは、そういう人間だ。
 どれ程の時間をこの雨の中で過ごしていたのだろう。風呂に入った後の様な髪、黒く変色しているかの様なブレザーを見ても、俺は「もう止めろ」とは言えなかった。後ろに立つ俺に気付く事無くただキーホルダーを探し続ける栗藤さんを見て、気付けば俺は走り出していた。
 校内にあるならば、誰かが拾っているだろう。そもそも、栗藤さんが校舎内はもう探し終えているはずだ。……いや、そんな理屈じゃない。女子がこの大雨の中傘も差さずに探し続けているというのに、俺だけ雨の無い校舎内を探せるだろうか。
 俺は校門からバス停に続く道を、ただひたすら探し続けた。排水溝付近、ガードレール、花壇の中、あらゆる場所を探した。俺は栗藤さんとは遭わない様にしながら校門からバス停までの道を何往復もしたが、キーホルダーは見つからない。半ば諦めそうになったその時、校舎のすぐ傍にある公園が目に映った。
 ――別に、感謝が欲しい訳じゃない(以前の栗藤さんならまだしも)。何の為にこんな事をしているのか分からない。
 でも、何故か見捨てられない。
 俺は公園の芝生の中で、泥だらけになったキーホルダーを見つけた。

「…………!? !?」
 俺が後ろから栗藤さんの肩を叩くと彼女は驚いてこちらを振り向き、そして俺の姿を見てもう一度驚いた。この大雨で、俺が今どんな姿になっているのか自分でも分からない。でもそんな事は、とりあえずどうでも良い。とにかく、一秒でも早く彼女にキーホルダーを見せてあげたい。俺はキーホルダーを持った右手を差し出した。
「!! ……え、これ、どうして…………!?」
 栗藤さんはそれを見て目を丸くた。俺は黙って右手を突き出す。
「これ、探してくれたの…………?」
 栗藤さんは俺の右手から恐る恐るキーホルダーを受け取り、そう尋ねた。俺は黙ったまま二度頷いた。
「嘘……あ、ありがとう…………!」
 それが雨なのか涙なのかは、彼女本人にしか分からない。栗藤さんの頬を水滴が伝った。俺は急激に恥ずかしくなり、鞄の中からタオルを取り出しそれを彼女に投げつけた。
「えっ……、これ、使っていいの?」
 俺は頷く。
「あ、ありがとう」
 栗藤さんはそう言うとそれで頭を拭きだした。俺はそれが終わるのを待つ事無く、その場から走り去ろうとした。
「えっ……、ちょっと、どこ行くの……!? このタオル……」
 俺は彼女を振り返り、右手を振り「要らない」という意思表示をした。
「いや……あの、まだ…………」
 俺は二度と振り返る事無く、その場から全力で逃げ去った。

(あああ〜……、絶対変人だと思われた…………!!)
 翌朝、バスの中で俺は昨日の事を振り返っていた。
(突然現れて無言で去るんだもんな〜……、つーか栗藤さんからしたらお前誰だよって感じだろ。何あの大雨ん中必死になってキーホルダー探してあげてるんだよ。キモイっつーの! あの泥だらけのキーホルダーも捨てちまったかもな〜)
 考えれば考える程後悔が深まり、俺は頭をかきむしった。
 そうこうしている内にバスはいつものバス停で止まる。俺は焦ってイヤホンを付け、栗藤さんが俺に話し掛けてこない様に寝た振りをした。
(来るな〜……来るな〜……)
 俺が必死で念じていると、どうやら栗藤さんは前の方の席に座った様だ。
 安心して薄っすらと目を開くと栗藤さんは右肩に鞄をかけていて、変わらず満面の笑みを浮かべる泥だらけの人形が目に入った。





 第3話「愛のカケラ」


(無理! 無理! 無理無理無理!!)
 朝のバスの中、俺は追い詰められていた。
 恐らく、今栗藤さんはこちらを向き昨日のタオルを返すチャンスを窺っているだろう。
(無理無理無理! 話しかけられたらパニック確実!!)
 という事の顛末で、俺はひたすら寝た振りを続けていた。
 八時二十分。後およそ五分程で学校へ到着する。それまで決してこの両目は開いてはならない。起きている事を気付かれようものなら、栗藤さんに話しかけられてしまう。
(男だ太陽! 寝ろ! 無心になれ!)
 とは言え、栗藤さんが本当に俺にタオルを返そうとしているのか気になり薄っすら目を開くと、体を捻りこちらを向いている彼女の姿が目に入った。
(うおっ! やばっ、今目合ったかも!!)
 俺は即座に目を閉じ、再び無心に返る。
 そんな事を繰り返していると、運転手が学校前のバス停の名を読み上げた。
(どっ……どうすんの!? バス降りる時話しかけられたら逃げ場がねえ……!!)
 俺は、冷や汗が頬を伝うのを感じていた。
(バス降りる時まで寝た振りしてる訳にいかねーし……、いや、寝過ごした振りして次のバス停で降りよう! よし、これでいこう! これしかない!)
 俺は寝過ごした振り作戦の決行を決め、バスが学校前のバス停で止まっても尚目を開かなかった。
 運転手がいつもの定型文を読み上げ、扉が開く。バスの前方から人が降り中央部から人が乗り込み、人の乗り降りが終了し、そして扉が閉じる。
(あ〜……、危なかった……)
 俺は大きく息を吐き、目を開いた。
 先程の体勢のまま、前方の席からこちらを向いている栗藤さんと目が合った。
(………………)
 俺は、ゆっくりと瞼を閉じた。
(降りろよ!!)
 心の中で一旦ツッコミを入れておく。
(ま、まさか栗藤さんまで残ってるとは……。俺にタオルを返す為? そうだよな、やっぱり……)
 鼓動が激しさを増す。掌がしっとりと湿り、恐らくではあるが顔が紅潮しているのを感じていた。
 バスはすぐに次のバス停へと到着する。俺は腹を括り、ポケットから携帯を取り出し右耳のイヤホンを外した。
「もしもし?」
 寒い。寒すぎる。しかし四の五の言ってはいられず、俺は電話を掛けている振りを続けた。
 電話をしていれば栗藤さんは話し掛けられないだろう。俺は首を傾け肩と耳の間に携帯を挟み、空いた両手で財布から二百三十円を取り出した。それを淡々と機械に通し、バスを降りる。
 降りた所には栗藤さんがいたが、俺はそれに気付かない振りをして学校へ向かった。
 
 その日、俺はほとんど教室から出なかった。廊下で栗藤さんと遭遇するのを避ける為だ。
 栗藤さんには悪いと思ったが、本当に何も話せる気がしない。栗藤さんと話すというのがこれだけ緊張する事だとは、一人遠くから眺めていただけの頃には知る由も無かった。……と言うか、今の不細工になった栗藤さんの事など何とも思っていない筈なのに、何故緊張するのだろう。
(………………)
 俺は、それ以上考えるのをやめた。

 放課後。もしかしたら栗藤さんは今日最初のバスに遅れるかもしれない。俺は帰りのSHRが終わるのと同時に教室を飛び出した。万一、栗藤さんに話し掛けられても耳にイヤホンを付けていれば「気付かなかった」で通る。俺は両耳のイヤホンに頼もしさを覚えながら校門を通り抜けた。
 案の定、栗藤さんはバス停にいた。
(……、栗藤さん、すまん! そのタオルはあげますから!)
 俺は栗藤さんに気付かれる前に方向転換し、いつもの古本屋へ向かった。
 俺はどうしてこんなに情けないのだろう。少し前まで好きだった女性に対して、言葉を交わす事も出来ない。古本屋で漫画を読んでいると栗藤さんに対する申し訳無さは益々募り、俺は自分で自分が嫌になってきた。
(……こんなんじゃ、栗藤さんも俺なんか嫌だろうな〜。いや、今はもう俺も栗藤さん嫌だけど)
 既に四時半を回っている。古本屋に来てから三十分。俺は一度漫画を棚に戻したが、またすぐにそれを取り出す。
(……一応、後三十分ここにいよう…………)
 朝の事が頭をよぎっていた。
 結局、それから更に一時間後。俺は漫画を棚に戻し、古本屋を出てバス停へと向かった。
(流石にもういないだろうな……)
 帰宅部は既に帰宅し、部活に入っている奴は部活。この時間バスを利用する生徒は稀だ。俺は安心してバス停に着いた。
 見覚えのあるタオルを膝に置き、ベンチで佇む女性の背中が目に入った。
 その女性は両足をブラブラと前後させながら、ただひたすら何かを待っている。
「………………」
 俺は観念し、両耳のイヤホンを外した。





 第4話「fragile」


「何? お前そんな事してたの?」
 葉山は驚いた様に目を丸くする。
「あ、ああ……」
 俺は、葉山にだけは昨日今日の出来事を話していた。雨の中栗藤さんのキーホルダーを探した事、タオルを借した事、そして昨日初めて彼女と言葉を交わした事。
「俺の知らねー間にそんな事しやがって」
「いや、別にただ、流れで……」
 葉山は俺の顔を一瞥した後顔を寄せた。
「お前……じゃあもしかして、栗藤さんの事……」
 当然、その先は聞かなくても分かる。ただ俺はその返答に困り、時間を稼ぐ様に葉山が全てを言い終えるのを待っていた。
「好きなのか?」
「………………」
 三秒ほど沈黙が流れる。
「…………別に」
 少し、顔が赤くなっていたかもしれない。俺はそれを葉山に気付かれたかどうかだけが気になっていた。
「本当かよ? お前、本当は栗藤さんの事好きなんじゃねーの?」
 ……多分、気付かれてない。
「いや、無いって……。どんなに性格良くても、外見があれじゃあな……」
「それ言ったらそうだけど」
 葉山も納得した様に頷いた。
 そうだ、栗藤さんはとてつもなく良い人だ。限り無く善人だ。でも、不細工だ。ならば俺は栗藤さんの事を好きな筈は無い。
 俺は自分に言い聞かせる様に、それと同じ様な意味の話を葉山に話した。

「お、おい槇原! 高嶺さん!」
 葉山は教室の入り口から俺を手招いた。
「マジ?」
 俺は椅子から立ち上がり葉山の元へ駆け足で詰め寄る。
「うわっ……美人……」
 率直な感想だ。端整な顔立ち、綺麗な瞳。決して大きく顔を崩さない笑みは見る者を魅了する。
 俺と葉山は高嶺さんが通り過ぎたのを見届けてから自分の席に戻った。
「………………」
 栗藤さんの顔を思い浮かべると、心の底から溜息が出た。
「お前……、失礼すぎるだろ」
「だってさあ……」
「まあ気持ちは分かるが……。お前、本当に栗藤さんの事好きだもんな……」
 何気ない一文だが、俺はその違和感を聞き逃さなかった。
「……過去形にしろ」


 ***


「何? お前今日放課後ヒマなの?」
 帰りのSHR終了後、俺は葉山に声を掛けた。
「毎日ヒマだっつーの。ただ今までは栗藤さんと同じバスに乗りたかったから遊ばなかっただけだ」
「……、もう良いのか?」
「だから良いってば。今日はカラオケでもいこーぜ」
「お、いいねえ!」
 葉山のテンションが上がるのが見るからに分かった。
「槇原とカラオケなんていつ振りだ?」
「……たまに行くだろ。土日祝日だけど」
 ――そう。俺はもう栗藤さんと同じバスに乗る必要は無い。と言うか、もうバス通学する必要が無いな。
「んじゃ、行こうぜ」
 学校の近くにある、歩いて行けるカラオケ。
(良い……んだよな)
 俺は胸にもやもやとした物を抱えつつ、葉山の後について行く。
「あ。そう言えば俺今日朝の星座占いで運勢最悪だった」
 葉山は唐突にそんな事を言い出した。
「……て事は、俺もか」
 別にそんな物を信じる性分では無いが、こう言われると少しは気になる。と言っても、後はもうカラオケに寄って帰るだけだ。俺は葉山の話を適当に聞き流していた。
「なあ……槇原」
「なんだ?」
「お前、栗藤さんの事好きだろ」
「好きじゃねーって」
「本当か?」
「……本当だよ」
 葉山は不満気に俺の顔を見た。
「もし、栗藤さんに好きな人がいたらどうする?」
 ………………。
 何故だろう。それは少し嫌かもしれない。
「……。嫌なんだな?」
「別に…………。俺は、高校に入学して以来一年半、ずっと栗藤さんの事が好きだったんだ。そりゃあ、少しは嫌な気分にもなる。それだけさ」
 葉山と話している様で、俺は自分の脳内に向かって話しかけている様だった。
「別に今はもう、好きでもなんともねーよ。メチャクチャ良い人だとは思うけどな。あ、だから友達にはなってみてーな。それ以上どうこうとは思わねーよ」
「…………」
 この答えに葉山が満足していないであろう事は分かっていた。しかし葉山はそれ以上何も言わず、ただ黙っていた。
(……そう、栗藤さんはただ物凄く性格の良い人。それだけだ。もう恋愛感情は無い……)
 俺は気付けば唇を噛み締めていた。すぐ我に返り口を開いたが、唇には微かに痺れが残った。
 右手で唇を触れようとした。それと同時か、少し遅いか。同じ学校の制服を着た男と二人で歩く、栗藤さんの姿を視界に捉えた。
 栗藤さんは笑いながら男の背中を叩く。その笑顔は、俺が今まで見た事の無いものだった。
 全ての思考回路が止まる。視界がぼやけ、頬が強張る。
 唇の痺れなど、既に頭から消えていた。真っ白な頭の中で、丸い顔の栗藤さんだけが笑っていた。

「嘘」

 左肩の鞄がずり落ちた。





 第5話「ハローグッバイ」


 栗藤さんが、男と二人で歩いている。
 心の奥底ではこの事から導き出される答えにとっくに辿り着いていながら、俺はそれを何度も否定した。
「おい槇原、大丈夫――」
「悪い」
 俺は葉山の言葉を遮った。
「……今日、帰っていいか」
「………………」
 葉山は黙り込んでしまった。俺は鞄を肩に掛け直し、いつものバス停に向かった。

 翌朝、俺は自転車に跨っていた。バスで栗藤さんと顔を合わせるのが嫌だったし、そもそも今はもうバスで通う理由が無いのだ。俺は片道三十分かかる通学路を、二十分程で走り抜けた。
 教室に入ると葉山が俺の元へとやってきた。
「葉山。昨日は悪かった」
「……いや、心中お察しするよ」
 葉山は口元に笑みを浮かべながらそう言った。
 ――心中。俺は一体、今何を感じているのだろうか。一年半好きでいた女性に彼氏がいた事への喪失感? 今はもう好きでも何でもないのに、一年半好きでいたという事実が今も栗藤さんを特別視させている?
 ――いや……もしかしたら、俺は今でも……。
(いや、それは無い。それだけは絶対に無い)
「………………」
 しかし、それ以外に胸から湧き上がるこの感情を説明する言葉が浮かばなかった。
「お前、昨日栗藤さんの隣にいた奴が誰か知ってるか?」
 俺は首を横に振った。帰宅部である俺は、基本的に他クラスの生徒について疎い。
「だよな。俺も直接話した事がある訳じゃないんだけど、たまに話題に挙がるんだ」
 と言うことは、この学年ではそこそこ有名人なのだろうか? 俺は黙って葉山の話を聞いた。
「二年八組、森川大和。昨日見た通りのイケメンの上に運動神経抜群、性格も優しいって評判だ」
 ……有名になる理由も分かる。そんな奴が恋敵じゃ、そもそも俺の出る幕は無かったか…………。
「つっても森川が栗藤さんと付き合ってるなんて話、聞いた事無かったけどな」
 当然だ。この俺が昨日まで知らなかったんだから。
「もしかしたら、別に付き合ってる訳じゃねーかもよ?」
 恐らく、俺を励ます意味でそう言っているのだろう。俺はそれを十二分に感じていた。
「ああ……。俺が直接確かめる」
「マジ?」
 葉山は顔をしかめた。
「……どっち?」
「……森川の方。栗藤さんに直接聞くなんて絶対無理」
「だろうな……。まあ、同学年の男子に聞く内容としては別に不自然でも無いが――」
「無いが?」
「もし森川が栗藤さんと付き合ってても、手は出すなよ」
「出さねーよ」
 恐らく、昨日の放課後葉山といた時以来。自然と笑みが零れた。

 帰りのSHR終了後、俺は葉山とアイコンタクトだけ交わした後、即座に教室を出た。
 俺達前半クラスの生徒が利用する階段の反対側、東階段の所に森川はいた。そいつは右肩に鞄を背負い、一人階段を降りていく。
「森川!」
 二階と一階とを繋ぐ踊り場、気付けば俺は森川の名を叫んでいた。
「…………。何?」
 俺の方を振り返った森川は怪訝そうな顔をしていて、一瞬俺はたじろいだ。
「い、いや、ごめん」
 俺と森川は正面から向き合った。その顔は見れば見る程、(昔の)栗藤さんに相応しい。
(ああ……。やっぱり、俺なんかが敵う相手じゃねえ……)
 俺は思わず黙り込んでしまっていた。
「おい、何だよ?」
「あっ、わ、悪い」
「………………」
 森川は目を細め、明らかに嫌そうな顔をしている。俺はとにかく本題に入る事を決意した。
「あ、あのさ……、森川、もしかして栗藤さんと付き合ってる?」
 聞いた。聞いてしまった。その答えが返ってくるのが恐くて、俺は目を逸らした。
「………………」
 好きじゃない。俺は栗藤さんの事は好きじゃない。でも、違うと言ってくれ…………!
 森川から俺の顔が見えない様に俺は頭を下げ、ひたすら祈るように目を瞑った。
 一年でも二年でも、死ぬまで掃除当番代わったって良い……。毎日昼飯おごっても良いし、やれって言うなら裸で校内一周もする…………。
 だからお願いだ 違うって言ってくれ………………!
 どれ位経っただろうか。永遠の様に永く感じられた数秒後、森川は気だるそうに口を開いた。
「何……? お前知ってんの?」
 体中の体温が引いていき、顔が青褪めるのが分かった。
 俺は下げた頭を上げる気力も無く、今にもその場に倒れ込みそうになるのを必死に堪える。
(ああ……、そっか。やっぱり、こいつが栗藤さんの彼氏なのか…………)
 こいつが栗藤さんと付き合っていた一年半、俺はただ眺めるだけしか出来なかった。俺はそれが悔しくて、情けなくて、気付けば大粒の涙が頬を伝っていた。
「…………。おい?」
 森川の声で俺は我に返り、焦ってワイシャツの袖で涙を拭いた。
「……お前、もしかしてつむぎの事好きなのか……?」
 つむぎ。栗藤さんの事を平然と下の名で呼ぶ森川の事が、憎らしくも羨ましかった。
「い、いや、別にそんなんじゃなくって、ただ気になったって言うか……」
 目の前で涙を流しておいて、この言い訳は何だろう。でももう今は何も考えられなくて、頭に浮かんだ言葉をただひたすら並べた。
「…………。良いぜ、好きにしなよ。どうせ俺はもうつむぎとは別れる」
 こいつが今何を言っているのかまったく分からないのに、不思議と涙は枯れていった。
「え……? ど、どういう事?」
 俺はワイシャツの袖で目元を隠したまま話した。どうせ、泣いていた事はバレている。でもせめて泣き顔は見られたくなかった。
「言葉通りの意味だよ。俺がそろそろつむぎを振る」
 こいつが栗藤さんと付き合っていると聞いた時以上に、体の芯が冷たくなる。
「な……、なんで?」
「あ? お前も見りゃ分かるだろ。なんか知らねー間に勝手にデブりやがって。もうあいつの事は好きでも何でもねーよ」
 葉山の言葉が無ければ、俺はこいつの事を殴り飛ばしていたかもしれない。拳に力が入った瞬間、葉山の一言が俺を冷静にさせていた。
 ただ、俺が森川に飛び掛ろうとするのを止めたのはそれだけでは無かった。ある一つの考えが、俺の中にはあった。
(俺は…………)
 膝の上に両拳を置き、それに力を込めた。
(俺は こいつと同じかもしれない…………!)
 栗藤さんの事を顔だけで判断し、ちょっと太ったからと言ってそれを批判し、好きだった感情が冷めていく。
 俺に、森川を責める資格など無かった。
 膝の上の拳に更に力が入り、頭が下がる。それを見た森川は黙ってその場を去った。
 
 俺は涙を拭きながら、校門を飛び出した。まだバスに間に合うかもしれない。
 どうしても、栗藤さんに聞きたい事がある。
 全速力でバス停までの道を駆け抜けると、ベンチに佇む栗藤さんの背中が目に入った。
「あれっ? 槇原くん?」
 俺の足音に反応し、後ろを振り返った栗藤さんと目が合った。俺は栗藤さんの正面に回り込む。
「どうしたの?」
 学年中の男子が驚愕した丸い顔。頬や顎には肉が付き、しかし確かに、栗藤さんだという事を俺に分からせる瞳。
「あ、あの……栗藤さん、今、付き合ってる人、いるよね……?」
 途切れ途切れになりながら、必死に言葉を繋げる。それを聞いた栗藤さんは顔を赤くした。
「えっ……? えっ? なんで?」
「昨日……、森川って奴と歩いてるの見たから…………」
 栗藤さんは驚いた様に目を丸くしていた。しかし俺が言葉を言い終えると、照れくさそうに笑った。
「えへへっ……、見られちゃったか」
 その笑顔は今の俺にはあまりに重過ぎて、暫く頬が痺れた。
 でも……それでもどうしても、栗藤さんの口から直接聞きたい事がある。
「……栗藤さんは、も、森川の事、好き…………?」
 それを聞き、栗藤さんはもう一度驚いた様な表情を見せた。しかし彼女はすぐに笑みを浮かべ、嬉しそうに目を細めた。

「うん、大好きだよ……!」

 言った後で栗藤さんは恥ずかしそうに口をつむぎ、可愛らしく下を向いた。
 それ以降、どんな会話を交わしたか覚えていない。ただすぐにバスが来て、俺は用事があるからと栗藤さんを見送った。

 誰もいないバス停のベンチで、俺は顔を両膝に埋めた。





 第6話「ひと恋めぐり」



 翌週の月曜日、俺は完全に放心していた。
「槇原……。やっぱ、栗藤さん付き合ってた?」
「……ああ」
 俺は力無い返事を返した。
「あ〜、そんなに落ち込むなってば!」
 葉山は俺の両肩を掴み、前後に大きく振った。
 別に、それだけで落ち込んでる訳じゃねえよ……。言わねえけど。
「とにかく、今はもう体育祭に集中しようぜ? な?」
 体育祭。俺の通う高校では三日間に渡り大々的に行われるイベントで、毎年その時期が近づいてくるとクラスはそれ一色となる。
「槇原、お前は今年もソフトボールで出るんだろ? 経験者だし。他の奴らは練習しに行ってるぞ」
 ……とてもじゃないが、気分になれない。
「悪い……。今はそんな気分じゃねえよ」
 俺は席を立ち上がり、教室の扉に手を掛けた。
「ソフトボール、森川も出るんだぞ!」
 扉に掛けた、右手が止まる。
「…………、だから? そんなんで一矢報いたって、今更何にもならねーよ」
 俺は扉を開き、教室を出た。


 第6話「ひと恋めぐり」


 カキイン!
 渡り廊下の窓から、心地の良い金属音が聞こえる。
(そもそも、経験者の俺が素人相手に勝ったって何にもなんねーだろうが……)
 窓の外に目をやると、クラスの連中がキャッチボールをしているのが目に入った。
(下手だな…………。まあ、素人ならこんなもんか)
 視線を戻すと、正面から歩いてくる栗藤さんと目が合った。
 俺は反射的に目を逸らし、コンクリートの壁に目を向ける。
 その視界の端で栗藤さんは友達と喋っていて、俺は二度と顔を上げる事なく彼女とすれ違った。
「……………………」
 悔しい。
 今、彼女と言葉すら交わせないのが例えようも無く悔しい。
 悔しさと情けなさに右手を震わせていると、何だか広い世界に一人置き去りにされている様な気がして、俺は逃げるようにすぐ傍の男子トイレに入った。
「何? お前栗藤と別れんの?」
 中に入ると二人の男子の会話が聞こえてきて、俺は陰からそれに耳を傾けた。
「あたりめーだバカ。お前も見ただろ」
「あ、ああ……。まあそりゃそうだけど、お前栗藤の事好きだったんじゃねーの?」
「美人だった頃はな。もうあいつに用はねえよ」
 ………………。
「あ〜あ、しかしあいつと別れた後はどうすっかな。高嶺とでも付き合うか」
「おい! 高嶺さんは俺が狙ってんだ、お前邪魔すんじゃねーよ!」
 俺は、ただただ黙って聞いていた。
 やりようの無い怒りは俺の体内を駆け巡り、微かな涙として体外に出た。

「あ〜ああ、本日もお勤めご苦労さんでしたっと」
 帰りのSHRが終わると、葉山は背筋を大きく伸ばした。
「中年かよ」
「うるせーな。つーか、ソフトの連中は放課後練習してくらしいけど、お前はどうすんの?」
「いや……俺は帰るよ」
「そっか」
 葉山はそう言って小さく笑い、俺の背中を叩いた。
「あ、でもお前知ってる? 森川って小学校の頃ソフトボールのチームでピッチャーやってたらしくて、かなり本格的らしいよ」
「………………。だから?」
「いや、言ってみただけ」
 そう言って、葉山は微笑んだ。
「………………」
(森川が…………)
 その時、クラスメイトの二人が話しながら教室に入ってきた。
「いや〜、栗藤さんマジで変わりすぎだろ、あれ」
「ほんと何があったんだって感じ。あ〜、俺栗藤さんの事好きだったのにな〜……」
「俺だってそうだっつの。でも、森川の奴はまだ付き合ってんだよな」
「そうなの?」
 そいつは意外そうな顔をした。森川の本性は、男子の間では割と知られているのかもしれない。
「ああ。さっき二人で帰ってくの見たぞ」
 ガタンと大きな音を立て、俺は立ち上がった。
「な……何? どうしたの?」
 葉山は目を丸くした。
(森川は、もう栗藤さんの事を何とも思ってない。なら、今日一緒に帰るのは…………)
 栗藤さんは、今日森川に振られる。それを理解した俺は鞄を掴み、教室を飛び出した。
「槇原!?」
 四段間隔で階段を一気に駆け下り、下駄箱の中の外靴を荒々しく掴む。
 クラスの奴の呼び止めに振り返る事もなく玄関の扉を開いた俺は駐輪場には向かわず、ただ全力で走った。
 学校の傍の公園や花壇、ガードレールを横目に走っていると雨の日の出来事が頭の中に浮かんでくる。
「………………!」
 俺は、唇を噛み締めた。
 息は荒れ、汗が髪を湿らせる。いつものバス停に着くと、いつものベンチに栗藤さんは座っていた。
 昔の面影など残っていない、がっちりとした彼女の背中。頭は少し俯き、その後姿はどこか沈んでいる様に見えた。
 俺は後ろからゆっくりと栗藤さんの傍に歩み寄った。栗藤さんは俺の足音に反応し、ビクッと体を揺らす。
「栗藤さん…………」
「…………、槇原くん……?」
 栗藤さんは顔を上げなかった。声だけで、俺を俺だと分かってくれた。
「……あ、あの、栗藤さん――」
 俺の言葉を遮る様に、栗藤さんは顔を上げた。
 顔を上げた栗藤さんは、笑っていた。

「……、私、振られちゃった…………!」

 確かに笑っているはずなのに、その目元では水滴が光っていた。
 口は震え、必死に涙を堪えている顎には皺が寄る。
(…………!)
 俺はそれを見て、言葉が詰まった。
 彼女は、一体どれ程の辛い言葉で突き放されたのだろう。
 好きな人に振られた悲しみは好きな人にしか癒す事は出来ず、そしてそれは俺じゃなかった。
 何と声を掛ければ良いのか分からない。俺に、彼女を慰める事など出来はしない。今、それが出来るのは森川大和だけだ。
 俺は歯痒くて、切なくて、気付けば栗藤さんの両肩を掴んでいた。
「…………、これ、栗藤さんには、関係無いかもしれませんけど……」
 栗藤さんは目を丸くして俺の顔を見ていた。
「……栗藤さんにとってはこんな事、どうでも良いかもしれませんけど…………」
 自然と、栗藤さんの両肩を掴んでいる両手に力が入った。

「……俺、森川の球を打ちます。体育祭で、必ず森川に勝ちます。……だから、見ていて下さい…………!」

 彼女の目から、大粒の涙が零れ落ちた。





 第7話「スーパースター」


 森川に勝つと栗藤さんに約束してから一週間。体育祭当日を迎えた。
「………………」
 第一試合の相手は二年八組。メンバー表を手に、俺は静かに闘志を燃やした。
「槇原」
 葉山が俺の名前を呼ぶ。
「葉山……」
 顔を上げると、葉山はそこに立っていた。
「そろそろ時間だな。試合、見に行くぜ」
 そう言って葉山は小さく笑い、俺もつられて笑った。

 両クラスの出場生徒がダイヤモンドの白線を横切る。審判を務める野球部員の前で向かい合って並び、試合開始の合図を待った。
「それでは、二年三組対二年八組の試合を始めます。礼!」
 声を上げ、頭を下げる。そして程なくしてすぐに全員がほぼ同時に頭を上げた中で、俺は森川の目を正面から見た。
「………………」
 森川もまた、目を逸らそうとはしない。自信と嘲笑の交じり合った表情で俺を見る。
「おい槇原、行くぞ」
「ああ」
 クラスの奴に腕を引かれ俺はベンチへと戻った。森川はその様子を最後まで眺めていて、俺がベンチに戻ったのを見届けるとマウンドの方へと歩き出した。軽く足場を慣らし、四、五球投球練習を行う。
 長い手足を充分に使うそのフォームは端整で、俺は息を呑んだ。
「プレイボール!」
 クラスの一番打者が白線のボックスの中に立つ。二、三回足場を固めた後バットをピッチャーの方へと向け、気合いを入れる。
「森川くーん! 頑張ってー!」
 八組のベンチから飛ぶ黄色い声援。それは八組の女生徒だけのものでは無く、一組から八組まで、全てのクラスから応援は来ていた。
 森川は優しく微笑み、手を振った。それを見てまた女生徒が声を上げる。
 ――正に、美男美女。この森川とあの栗藤さんが付き合っていただなんて、誰がどう見てもお似合いのカップルだ。
 俺はそれを認めたく無いのに、認めざるを得ない。気付けば右手に力が入っていた。
「………………」
 森川が体を屈め、右腕を振りかぶる。長い左足が地面を踏みつけるのとほぼ同時に、その右腕は大きな弧を描いた。
 次の瞬間、あっという間にボールはミットに収まった。バッターはバットを振る事もなく、ボールの収まったミットを見て呆然とした。
「ストライーク!」
 審判の右手が大きく上がる。女生徒の黄色い歓声が飛んでくる。
 ざわめきと歓声とが交錯するマウンドで、森川は不敵に笑った。

「バッターアウト!」
 一回の表、悠然と三者三振にとった森川は気だるそうにマウンドを降りる。
「……あ、あんなの打てねえよ……」
 クラスの応援の前で三振したバッターは、恥ずかしそうに笑いながらベンチに戻ってくる。
 俺はその様子をネクストバッターズサークルから黙って眺めていた。
「おい槇原、こっちの守備だ。行くぞ」
「ああ」
 心地良いくらいの金属音。打球はあっという間に外野の間を抜け、森川は平然と一塁ベースを回る。
「おっしゃ先制点〜! 森川ナイスバッティーン!」
 八組のベンチから、野太い歓声が湧く。
(くそ…………!)
 森川はゆっくりと二塁ベース上で止まった。それを見て、俺は三塁ベースの付近で力強くグラブを叩く。
 カキイン!
 またも鋭い金属音。俺はその打球を必死にグラブの中に収める。
「うわーマジかよ! ついてね〜!」
 バッターは悔しそうに天を仰いだ。三つのアウトを取った事で、俺は一塁側のベンチの方へ戻っていく。
 その途中で、三塁側のベンチへと戻っていく森川と目が合った。
「………………」
 お互い、何も言わずにすれ違った。
 ――厚い雲がかかった、薄暗いグラウンド。俺はバッターボックスの中に立っていた。
「槇原ー! 打ってくれ!」
 三組のベンチから聞こえる声援。森川へのそれとは比ぶべくも無いが、その中には女子のものも混じっている。
 俺はバットを構え、森川の目を見る。
(大丈夫だ……落ち着け。あれぐらいの球なら、打てない事は無い……!)
 森川の長い手足が、投球動作に入る。バットを握る両手には自然と力が入った。
(来い――森川!!)
 俺は微かな動きすら見逃すまいと、森川の動きに神経を集中させていた。しかし次の瞬間、森川の右腕の動きを目で追い切れなくなる。
 それ程に速く、力強く、森川の右腕は一瞬で弧を描いた。
 気が付けば、白球はキャッチャーのミットに収まっていた。
「ス、ストライーク!」
 一拍置いて、審判の右腕が上がる。それより更に遅れ、女生徒達の歓声が湧く。
「な……何今の!? めちゃくちゃ速くなかった!?」
「全然見えなかったー!!」
(………………!)
「バカ野郎! 手加減しろっつーの!」
 キャッチャーは、力を抑えろと促す。それ程に森川の球の衝撃は、彼のミットを貫いていた。
 ボールを受け取った森川は、またすぐに投球動作に入る。俺は慌ててバットを構え、息を呑んだ。
 必死にバットを振る。しかしそれよりも早く、ボールはあっという間にミットを捉えた。
「ス……ストラーイク!」
 バットを振った俺は体勢を崩し、ホームベース上によろめく。その様子を見て、森川は笑った。
(は……、速過ぎる…………!)
 野球と比べて、遥かに近い投手と捕手の距離。90km/h近い森川の球は、野球に換算した場合の体感速度で130km/h近くにまで達する。高校野球の経験の無い俺にとって、それは絶望的な数字だった。
 ――俺が必死にバットを出した時、ボールはもうミットに収まっていた。
 バランスを崩した体を支えきれなくなり、思わず地面に手をつく。
 歯を食い縛って顔を上げると、栗藤さんと目が合った。





 第8話「群青日和」


 あの日、栗藤さんが見せた涙が頭の中を埋め尽くす。
(栗藤さん…………)
 俺は立ち上がりベンチに戻ろうとした。その時、一滴の雨が頬を伝った。
「うわっ、雨!」
 クラスの女生徒が声を上げる。
「中止になるかな?」
「いや、よっぽどの事じゃなきゃ中止にはならないよ。三年生は最後だしね。去年も大雨の中やったらしいし」
「ふーん……」

 試合は、終始八組が押していた。野球部二名に加え野球経験者の多い八組は、明らかに地力で三組を上回っている。
 ただ、なかなか追加点を奪う事は出来ずに1―0のまま試合は三回の裏を迎えていた。
 キイン!
 鋭い金属音。打球はサードとショートの間を走り、俺は横っ飛びで必死にそのボールを抑えた。
「おお、槇原!」
 俺は素早く起き上がり一塁を見る。しかし、その時にはバッターは既に塁上を駆け抜けていた。
「よっしゃーナイスバッティーン!」
「チャンスだーっ!」
 一塁にも二塁にも三塁にも、八組の生徒が立っている。八組側のベンチが一層盛り上がった。
「ツ、ツーアウト満塁かよ……」
 ピッチャーは肩を落とし、下を俯く。
「森川くーん! 打ってー!!」
 八組側ベンチから湧く歓声。森川大和がバッターボックスへと向かう。
「し、しかも森川……。お、終わった…………」
 クラスメイト達から飛ぶ声援とは対照的に、グラウンドに立っている選手達は落ち込んでいた。今の状況の深刻さを理解しているからだ。
「………………」
 俺はゆっくりとピッチャーの元へと歩み寄り、そして右手を差し出した。
「俺が投げる」
「! 槇原……!」
 ピッチャーは一瞬戸惑った後、俺に白球を手渡した。
 一回以降、激しさを増す雨。真横から吹く風。大勢の観客が見守る中、確かに、俺は森川と目が合った。
 俺は大きく右腕を振りかぶる。綺麗に整った、森川の投球フォーム。俺は見よう見まねで左腕をホームベース方向に掲げた後、右腕で大きく弧を描いた。
 鋭い音と共に、白球がミットの中に収まる。
「ストライーク!」
 審判の右手が上がる。それと同時に、バックの選手達が大きく湧いた。
「ナ、ナイスピッチーン!」
(………………)
 俺は冷静を装ってはいたが、内心胸が張り裂けそうになる程緊張していた。
(…………。結構速いな……)
 森川はタイミングを合わせる様に、二、三回バットを振る。
「い、いけるぞ槇原ーっ!」
 一塁側のベンチから、身を乗り出して声援を送る葉山。俺は当然それに気付いていながら、顔を向ける余裕が無かった。
 ――快音を残して、打球が飛ぶ。
「!!!」
 二球目、あっという間に高く、遠くへと伸びた打球は風を受けて流れ、ギリギリの所でファールグラウンドに落ちた。
「ファール!!」
 グラウンドが騒然とする。
(森川の野郎……、二球目でいきなり……。しかもあの飛距離……)
 三球目、ボールを受け取った俺は再び森川と目が合った。俺は咄嗟に目を逸らし、下を向く。
(ダメだ……打たれる。俺なんかが何をしたってあいつは抑えられない……!)
 その様子を、森川は笑って眺めていた。
「槇原ーっ、頑張れー!」
(……勝手な事言うんじゃねえ、打たれちまうだろうが……!)
 どうしようも無い八方塞。気を紛らわせる様に周囲に目をやると、不安そうな表情で試合を見つめている栗藤さんと目が合った。
(………………)
 そうだ……。俺は、何が何でも森川に勝つんだ。
 右腕を大きく振りかぶり、左手でホームベースを掴む様に差し出す。
 気が付けば、緊張はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
 今までで一番綺麗に、力強く弧を描いた右腕。白球は森川のバットの上を行き、キャッチャーのミットに飛び込んだ。
「ストライーク! バッターアウト!」
 審判が、高々と声を上げた。

 最終五回の表。三組の攻撃。
 俺達は既にツーアウトと追い込まれていた。
「頼む!! 出てくれーっ!!」
 俺は、ネクストバッターズサークルから必死に声を張り上げている。
 ――ギイン! 鈍い金属音を残し、打球は三塁線付近を転々とした。
「サード!」
 三塁手はスムーズな動きで球を掴み、一塁へと送球した。
「勝った!」
 キャッチャーが声を上げる。しかし彼は、三塁手が雨で濡れたボールに指を滑らせていた事を知らなかった。
 送球は一塁手の遥か頭上を行き、フェンスに直撃した。
「なっ……!」
 それと同時に湧き上がる歓声。その中で、バッターランナーは一塁ベースを踏んだ。
「おっしゃあーっ!」
 一塁ベースの上で、両手を上げて喜ぶバッター。それに応える様に、クラスが一丸となって湧く。
 そして俺は、バッターボックスに立った。
「………………」
 森川は悠然とボールを高く上げ、そしてそれを右手で受け取る。そんな事を繰り返しながら、俺がバットを構えるのを待つ。
 雨で濡れたグリップ。俺はゆっくりと、両手でそれを擦った。二、三回バットを振り、そしてそれを肩の所で構える。
 一瞬間が流れた後、森川が大きく右腕を振りかぶった。
 ――今までより速く、大きく、森川の右腕は弧を描いた。
 雨の音を切り裂いて、ボールがミットに飛び込む。
「ストライーク!!」
「……は、速すぎる…………」
 目を丸くして驚く葉山。俺はそれを視界の端に捉えながら、またバットを構える。
「俺の球は打てねーよ」
 唸りを上げてミットに向かってくる剛速球。俺は、夢中でバットを出した。
「ストライーク!!」
 またも審判の右手が大きく上がる。バットは決してボールを捉える事無く、ただただ空を切るだけだった。
「追い込まれた……」
 より一層、激しさを増す雨。
(は、速すぎる…………)
 目を見張る程の容姿に、噂通りの運動神経。森川大和は、正に俺が理想とする様な人間だった。
(……そもそも、俺が敵う様な男じゃなかったって事か…………)
 失望と喪失感の中で顔を上げると、雨の中試合を見守る栗藤さんと目が合った。
「………………!!」
「あっと一球! あっと一球!!」
 八組側のベンチから湧き起こるあと一球コール。その重圧の中で、俺は力強くバットを構えた。
「つむつむ、雨やばい! 教室戻ろ!」
「…………ごめん、先戻ってて。私、この試合は最後まで見たいの……」
「つむぎ……!」
 
「終わりだ」
 大きく開く両足、しなる右腕。森川の指先から放たれた白球は、ミットを目がけて唸りを上げる。
 鈍い金属音と共に、白球がフェンスに直撃した。
「!!」
「ファール!!」
 審判の両手が、大きく上がった。あと一球コールがざわめきに変わる。
(……当てやがった)
 森川はキャッチャーからボールを受け取り、両手で雨を拭う。
(……この野郎)
「あ、当たった……」
 バットを握る両手。グリップを通して、ビリビリとした痺れが昇ってくる。
 不思議とそれは心地良かった。
(栗藤さん……俺は、森川の様に出来た人間じゃないけど…………)
 森川が右腕を大きく振りかぶる。
(でも…………)
 ――頭の中にあるのは、栗藤さんの涙だけだった。
 大きさを増すあと一球コール、地面を叩く雨の音。
 唸りを上げる白球の、風を切り裂く音が聞こえた。
(でも俺は、栗藤さんを泣かせはしません………………!)

 雨の音が、止んだ気がした。
 心地良い金属音だけがグラウンド中に響く。
 無我夢中で振りぬいたバット。それは森川のボールを芯で捉え、打球はあっという間に外野へと飛んだ。
 ――外野に向かって叫ぶ森川。俺はただその場に立ち止まり、打球の行方を見ていた。
 白球は外野に立てられた簡易フェンスを越え、グラウンドの外に飛び込んだ。
 その瞬間、耳を劈く大歓声が湧き起こった。
「――――!」
 俺はゆっくりと、快音の余韻を味わう様にダイヤモンドを回る。
 一塁、二塁、三塁、一つ一つのベースをしっかりと踏み締め、最後の白線を進む。
 森川は、そこに立っていた。
 俺は真正面から森川の目を見た。森川もまた、ただ真っ直ぐ俺の顔を睨む。
 ――お互い、何も言わずにすれ違った。
 最後のベースを踏むと、雨で髪を塗らした栗藤さんと目が合う。
 一瞬、二人の間に静寂が流れた後、栗藤さんは満面の笑みで俺を迎えてくれた。

 俺は天を仰ぎ、勝利の咆哮を上げた。

2008/11/09(Sun)22:43:35 公開 / 工藤 円
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■作者からのメッセージ
皆様初めまして。初の投稿となります。
この作品は私自身思う所があって書いており、この作品を読んだ方が何かを感じてくれたら幸いです。
もし少しでも興味を持って頂けたら、是非この先もお付き合い下さい。
ここまで読んで頂き、本当にありがとうございました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。