『偽りの瞳』 ... ジャンル:リアル・現代 サスペンス
作者:Dr.アーム                

     あらすじ・作品紹介
高木桂一は、生まれつき嘘が見える能力をもった高校生。その能力に悩まされていたある日のこと、彼は恐ろしい計画に巻き込まれてしまうのだった…。

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 高木はその日も違和感を感じていた。
 ひとり、ぽつんと教室の片隅の席で倒れ込むようにして眠りについていた。
 しかし、脳は起きている。たぬき寝入りというやつだ。別に眠かったわけではない。
 ただ、失望していた。クラスメイト達のたわいもない会話に。その中に高木の恐れているそれがあった。その場にいたくなかった。できれば、学校も行きたくなかった。しかし、自分には使命がある。検事になることだ。学校を休んでいては、大学入試に響く。
 この呪いを背負って生きて行くには、検事が適していた。天職ではないかと確信していた。
 チャイムが鳴った。次は確か、数学だ。彼の得意教科のひとつだった。完璧な数式に、嘘は存在しないからだ。すべてが正しい。それを求めるのが、高木には楽しく思えた。

 彼の背負っている過酷な宿命。呪われた能力。10年に1人の割合で現れる超人的な力。

 高木は嘘が見えるのだ。

 正確には、見える、のではない。わかるのだ。人が嘘をついた時の、違和感。
 意識しなくても、高木にはそれがわかった。はたからみたら最高の能力だろう。
 詐欺にあうことは絶対にない。どんなに熟練の詐欺師でも、嘘をついたとき、声に微妙な違い、違和感が生じるのだ。 お人好しの人や高齢者にとって、のどから手がでるほど欲しいだろう。
 しかし、高木がこの能力で得をしたことなど、ない。
 いや、得をしたことなど、覚えていないのだろう。あまりにも、この能力がもたらす悲しみが大きすぎるからだ。


「人間は……偽りだらけの生物だ」そうつぶやきながら、高木桂一は渡されたプリントに数式を書き始めた。

「ったく、お前にはかてねえよ。マケマシタ」
 薄暗い部屋。モデルルームより殺風景だ。部屋の真ん中に机とソファーが対になって置かれているだけだ。机の上にはチェス盤が置いてあった。いわゆる、ぼろぼろのゲームだった。
「君ね、マケマシタは囲碁ですよ?これはチェスです」
 黒髪に左目の覆われた、子供がそう言った。スーツを着ている。
 身長は小さく、小学生のようだったが、顔つきは精悍で、スーツを着ていても違和感はなかった。
 性別は判別しにくい。いや、これで少年だったらとんでもないくらいの美少年だ。
「うるせえな。公式試合じゃないから細かいことはどうでもいいだろうが」
 その男もスーツを着ていたが、子供と比べると着こなしがだいぶ悪い。
 シャツは全部出ているし、ネクタイは垂れ下がっている。袖はまくっていた。
 そこから覗かせる腕には、”青龍”とかかれたタトゥーが彫られていた。
 目つきは鋭く、髪はまったく手入れしていないようで、ぐしゃぐしゃであった。
 ともかくこの男、柄が悪い。口にある煙草が、もとから柄が悪いのを、さらに悪くしている。ヤクザと言われても納得する。「それで、キリヤ。今回の依頼はなんだ?」
「高木桂一の誘拐」
 声は低かった。冷たい声だ。
「高木桂一…。ずいぶん普通の名前だな。今までのターゲットはケンジだのコージだの、いかにもその道をいく者の名前だった」
「ああ。高木は高校生だ。父親は商社マン、母親は主婦兼パート」
 男は煙草をチェス盤のとなりに置いてある灰皿に押しつけた。
「ごくふつうの高校生ってわけか。で、なんでそいつを誘拐しなきゃなんねえんだ?身代金も大してとれねえだろう。最も、お前がそんな軽犯罪を犯すとは思えねえが」
 誘拐を軽犯罪とは、大した男だ。
「たしかに、見た目はちょっとダサい高校生だ。だけど、いずれ僕の手駒になる。彼は」
 キリヤはそこで止めた。
「彼は…なんだよ?」
「………嘘の目を持っている」
 男は笑った。なにかが起きそうな予感がしたからだ。キリヤと組んでから、退屈な日常がスリリングなものへと変貌したが、それにも慣れはじめていたところだ。
 嘘の目を持った少年。面白いではないか。

 黒いワゴン車が住宅街の一角に止まっていた。中に乗っているのは、オールバックにサングラスの男。体格もいい。「ターゲット発見しました」無線でだれかと連絡をとっていた。「裏通りの入ったら、捕獲しろ」無線機からそう聞こえてきた。
「了解」
 住人にみられてはならない。なんてことはなかったが、人目は避けたいところだった。
 車の前方には、ロングの黒髪にメガネをかけた青年が歩いていた。
 わずかにアクセルを踏んだ。ゆっくりとワゴンは動き出す。青年の影のように。
 すると、突然青年が、進路変更して自分のほうに向かってくるではないか。
「は!?」男は訳が分からなかった。なぜ、高木桂一はこちらに向かって走ってくるのだろう。尾行が気付かれたか?しかし、彼の表情に恐怖はない。
 無表情。
 17の若造が尾行されたとして、無表情でいられるか?どんなに隠しても
 恐怖は顔に表れる。気付かれてないのか。男はそう確信した。
 青年はワゴンを素通りして、大通りのほうへとかけていった。
 人も多くなる。黒木に連絡をするか?しかし……。
 男には判断ができなかった。大通りにかけていったのは、尾行が気付かれたなによりの証拠だ。
 しかし、彼の表情に恐怖はなかった。
 黒木に連絡しよう。
「ターゲット逆走し、大通りのほうへ行きました」
「行きました、じゃねえ!気付かれてんじゃねえか!周囲の目は気にするな。ターゲットを今すぐ誘拐しろ。いいな!」
「しかし…」高木の無表情について言おうとした。
「てめえには日本語が通じねえのか!?さっさとしろ!!」
 黒木は激怒していた。これで誘拐に失敗したりすると…。考えるだけでも恐ろしい。
 男はアクセルを踏んだ。逃がすわけにはいかない。男は狩人の目になっていた。
 狙った獲物は、逃さない。
 ついに高木に追いついた。
「くそ…っ!」青年は舌打ちをした。
 サングラスの男は車からでてきた。かなり筋肉質な体だ。戦っても勝ち目はない。
「おとなしく来て貰おうか」
 高木はニヤリと笑ってみせた。
「そんなの、ゴメンだ」
 その発言に勢いはなかった。ただ、淡々とセリフを言っているようだった。
 不思議な青年だ。男はそう思った。
 気付くと、高木は大通りの人混みの中に消えていた。
「あ…」
 男は前から自分の弱点に気付いていた。
 俺は頭の回転が鈍い。
 黒木が首を長くして待っている。男の顔には、恐怖心がそのまま現れていた。

 とあるファミリーレストランでコーラを飲んでいる青年がいた。高木だ。しかし、顔は普段とは比べものにならないくらいすごい形相だった。服装は乱れている。マラソンをしたあとのようだ。
「一体…、どうなっているんだ?」
 眉間にしわを集め、コーラを一気に飲み干した。
 確かに、自分は超人的な能力を持っている。しかし、尾行されるなど…。
 店内の客・店員、すべてが敵に見えた。高木は心境は顔にはでないタイプだ。
 常に、無表情。しかし、心の中では怯えていた。命を狙われているのか?
 ドリンクバーからオレンジジュースをくんできた少年がこちらにむかってきた。
 今の高木にとって、少年の年齢などどうでもよかった。
 相手が子犬でも、一目さんに逃げただろう。
 少年はテーブルを挟んで高木と向かい合ってすわった。
 ゆっくりとグラスと置く。
「はじめまして、高木桂一くん」
 片目の少年はそう、言い放った。高木の恐怖は頂点に達した。
 もちろん、この子供に見覚えはない。
 逃げたかった。
 が、体が動かなかった。
 言うことを聞いてくれなかった。
 高木は目を大きく見開き、獣のような形相で少年をにらんだ。
 少年は、まったく恐れていなかったが。
「おまえ……誰だ…」
 弱々しい声でささやいた。これが子供に対する高校生のセリフだろうか。しかし、高木にとって、それは渾身の力強い声だった。
「本名は言えないけど、みんなにはキリヤって呼ばれてる」
「俺に、なんのようだ…?」
 少年はクスッと笑った。
「きみ、嘘の目持ってるだろ?」
 高木の理性は崩壊した。考える力を失った。ひとつのことしか頭になかった。

 逃げろ。

 怯えた青年は飛び出すように席を立ち、ファミレスから脱出した。
しかし、外で待っていたのは、黒いワゴン車とスーツ姿の銀髪の外国人。
「タカギケイイチ、ツカマエタ」
 カタコトの日本語だった。
 高木の表情は相変わらず無表情だった。しかし、今までの無表情とは違う。
 魂が抜けていた。
 絶望している。生きる希望を失っている。
 銀髪の男は高木の腕をつかんだ。
「ノレ」
 抵抗はなかった。すんなり後部座席に座った。
 自動ドアがまた開いた。中から片目の少年がでてきた。
「オマチシテオリマシタ、キリヤサマ」
「ごくろうだったね」
 男は助手席のドアを開けた。中にキリヤが入っていた。
 銀髪の男も運転席に乗った。エンジンをかけた。
 しかし、高木にはエンジンのうなりも、「高木桂一、捕獲した」という無線を通しての報告も聞こえていなかった。彼の心は無だった。
今まで、こんなこと一度だってなかった。


*       *       *

 気付いたら、彼は独房にいた。
 ベッドがあり、部屋の隅にトイレがあった。
 あとはなにもない。床はコンクリートだ。ドアに窓のようなものはついていなかった。
 反対側の壁には鉄格子についた小さな窓のようなものがあった。
 覗いてみると、大海原が広がっていた。
 夜の海。
 それも、海中。どうやら、ここは船の中のようだ。
「目覚めたようだな、高木桂一」
 どこからか、声が聞こえた。
「今からそちらに部下を向かわす。待っていろ」
 ずいぶんと人を上からみている。傲慢な奴だ。腹が立った。
 しばらくしたら、ドアの向こうで、カシャっと金属のぶつかり合う音がした。
 まもなく、ドアが開いた。出迎えてくれたのは、サングラスの男達。
 いかにもエージェント、とでもいうようだった。
「ついてこい」
 こいつもさっきの奴と同じだ。彼はそう思った。
 エージェントたちに連れられてやってきたのは、行き止まりに小さなドアがついたものだった。
 この先になにがあるのだろうか?
 少なくとも、自分にとって害があるもの、だということは確かだ。
 ドアが開かれた。
 そこにあったのは、大きなパーティ会場だった。
 人が大勢いる。みな、男はスーツ、女はドレスと着ていた。
 一言でいえば、豪華客船。それしか思い浮かばなかった。
 さっきまでの船内のイメージとは全く違った。
 数人のボディガードらしき者たちを従えて、少年がこちらにやってきた。
 あの、少年だ。
「お久しぶり。といっても、一日も経っていないけどね」
 彼には、あの誘拐事件が遠い昔のように思えた。本当に長い一日だった。
「まあ、今日は楽しんでいってくれ。君を殺すかどうかは、明日決めるから」
 さらりと恐ろしいことを言った。なんという奴だ。
「1人じゃ退屈だろうから、遊び相手も用意したよ」
 少年が指をパチンとならした。
 後ろから、胸元がばっくり開いたドレスを着た西洋人が現れた。
 セクシー。
 高木の頭には、それしか思い浮かばなかった。
 自分はお色気攻撃は通用しないと思いこんでいた。
 単なる思いこみだった。
「Come on,boy」
 青き若者は無表情のままこう答えた。
「Yes.」
 突然、美女は彼を抱きしめた。初めて、このなんともいえない幸せな感覚を味わった。
 なんて幸せなんだろうか。彼は心からそう思った。
 自分が誘拐されて、ここに来たことなど、とうに忘れていた。
 それをみて、キリヤはクスクスと笑っていた。
「お色気攻撃に勝てる男って、この世にいるのかな」
「キリヤ様、あなただけです」
 少年はそう発言したボディカードを見上げ、ニヤリとした。


 朝起きると、広いベッドにぽつんと寝ていた。
 昨夜は例の美女といっしょに寝ていた。別にいやらしいことはしなかったが、それでも
満足だった。そもそも、若い女性と夜を過ごすこと自体、彼には初めてだったからだ。本当に幸せだった。
 昨日のことを思い出して、ぼーっとしていた。
 その時の彼が無表情ではなかった。顔が笑っていた。
 しかし、その幸せな記憶も、一瞬で断ち切られた。
「まあ、今日は楽しんでいってくれ。君を殺すかどうかは、明日決めるから」
 少年は確かに、そう言ったのだ。
 殺すかどうか、ということは、生かしてくれる可能性もある。
 身代金だろうか。しかし、そんなものを欲しがるような相手とはとうてい思えない。充分な財産をもっているように見える。彼なりの推理をしていた時、ドアが開かれた。 
 
 あの、少年だ。
「やあ、おはよう」
「ああ。おはよう」
「どうだい?昨日は楽しんだ?」
 子供の口調ではない。
「まあ、それなりに」
 嘘を言った。それなり、とかいう問題ではない。人生で最も楽しかった夜だ。
 自分だけは、平気で嘘をつくような人間にはなりたくなかった。
 この能力があるから、なおさら、だ。
 しかし、なんの迷いもなく自分は嘘をついた。
 こういうのを、染まる、というのだろうか?
「で、本題だけどさ」
 少年が話を進めた。
「君は嘘の目を持っているね?」
「ああ」
「そこでだ。その能力を有効利用してみないか?」
 だいたいこういう話を持ちかけてくるだろう。断ったら殺す…。
 そんなことぐらい分かっていた。
「世界でも乗っ取るのか?」
 皮肉っぽく言った。一回ぐらいはこいつをバカにしてみたかった。
 少年は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐにまたあのニヤニヤした表情に戻った。
「いい線いってるよ」
「どういう意味だ?」
 少年は、まさに不敵な笑み、というのを浮かべ、こう言い放った。
「世界を騙すのさ」
 彼の心に、恐怖心はなかった。
 好奇心が、恐怖心や理性を押さえていた。
「具体的な内容は後日話す。今日聞きたいのは…」
「乗った」
 少年が言い終える前に、高木はそう言った。
「そうかい」
 彼はまたも、無表情ではなかった。
 少年と似たような表情を浮かべていた。
 昨日の怯えきったあの青年は、そこには存在しなかった。



 2
 世界を、騙す…。
 好奇心に動かされ、後先のことを考えずに、その計画に加わってしまった。
 検事になることを夢見て今まで一生懸命勉強してきた。
 中学のころから成績は常に上位。運動神経が悪かったため、部活には入らなかった。
 文化部に入るつもりなど、さらさらなかった。
 県内でもトップクラスの公立進学校に入学し、そこでも成績上位をキープした。
 塾に入らずに、ここまでやれたのは、努力のたまものだと思う。
 しかし、その努力も水の泡となった。
 あの少年はおそらく法で裁かれずにいる犯罪者。決して表舞台に現れることのない、闇の住人。そんな少年が、自分と接触をしてきた。
 しかし、昨日の誘拐事件は、レストランの客や通行人に見られている。
 警察も動くはずだ。いずれは、この場所もつきとめる。それに、あの少年も見られている。貴様らも袋のネズミだ。そう思った時、彼は気付いた。
 あの時、自分はなんの抵抗もせずに車に乗った。
 あの様子だと、どこぞの金持ちの息子が、いやになって家を飛び出した。それを召使い達が捕まえにきた。そう見られるのではないだろうか。
 また、昨日の恐怖心が戻ってくる。
 この誘拐は、もみ消される…。
 いや、必ず親が心配するはずだ。捜索願を出すだろう。
 そう思いたかった。
 しかし、少年はその件についてはもう手は打ってある、そう思えてならなかった。

             *   *   *

 ここは県立名跡高等学校。
 県内屈指の進学校だ。その1年3組。
 教室を見渡すと、やはり進学校。かなりの出席率だ。
 空席はひとつしかない。
 教壇には若い男性教師が立っていた。
 チャイムが鳴る。
「じゃあ、今日はここまで」
 男性教師が出て行き、しばらくすると、高校生たちはいくつかに分かれて群がりはじめた。男子は野球の話で盛り上がっていた。高校野球だ。どこが甲子園にいけそうか、そういう根拠のない予想が飛び交っていた。
 女子はというと、相変わらず、噂話に花を咲かせている。誰と誰が付き合っているとか、誰がいじめられているとか、そういう話だ。
「そういえばさ、高木って一家全員失踪したらしいんだけど、マジ?」
「一家全員とか…! 超ミステリーじゃん」
「まあ、ぶっちゃけ高木とかどうでもいいけど」
「あいつほんと地味で根暗だもんね」
 高木桂一失踪事件の噂はそこで途切れた。
「ねえ、昨日のハツコイみた?」
「みたみたぁ〜! マジ早く助けにいけよっ! ってカンジだったよね」
 男子達の会話にも、高木の噂は現れたが、すぐに消えた。
 友達はいないが、かといっていじめられていたわけでもない、地味なクラスメイト。
 そんな奴が消えたところで、彼らには大した問題ではなかった。

*   *   *

 初老の男女は、牢獄の中にいた。食事はもらえるが、いつまでたってもここから出られない。もう丸一日経つ。窓から見えるのは海中にいる無数の魚たち。ここは船の中だということは分かった。しかし、女のほうはもう心身共に参っていた。
「あなた…。なんとかしてよ。なんとかしなさいよ!」
夫は横目で申し訳なさそうに妻を見た。
「俺には…どうすることもできない。もしかしたら、殺されるかもしれんぞ」
「なんであたしたちが殺されなきゃいけないのよ! あたしたちがなにしたっていうのよ! もうイヤ…」
 妻はとうとう、泣き出してしまった。夫はそれを眺めている。俺にはどうすることもできない。若い頃から体力がなく、ひよわだったが、年をとってさらにひよわになってしまった。そんなじじいにどうしろ、というのだ。
「桂一も…捕まっているんだろうか」
 そう聞いてみた。
「そんなことより、ここから抜けだす方法を考えなさいよ!」
 息子の安否が、そんなことで片づけられた。妻も自分と同じで、友達が全くいない。
結婚もお見合いだ。
 息子の桂一も、自分達と同じで友達が全くいない。いつも部屋にこもって勉強している。
 妻がこの様子だと、おそらく息子を心配しているのは自分だけだ。かわいそうな奴。
 そう思って、妻を見た。相変わらず、泣いている。
 女のくせに、泣いていても全然色気がないし、なにも感じない。
 妻はブスに部類する女だった。そのうえ、性格もあまりよくない。
 夫は、極論に到達した。
「康子…」
「なによ」
 しばらく間をおいてから言った。
「別れよう」
 最も、ここから出られなければ、別れるもなにもないが。

*   *   *

「なにを思い悩んでいるの?」
 例の美女がこう問いかけてきた。
 今、彼は今まで入ったこともないホテルの一室のような部屋で美女と二人きりだった。
「別に……」
 まだ少し緊張している。相手があまりにも美しく、色っぽいからだ。無理もない。
 透き通るような美しい肌、目の光り。表情には幼さも残っている。自分と同年代か…。彼がそういう印象を受けた。
「これから、どうなるのかな…って」
 美女はにっこり笑った。
「大丈夫よ。キリヤくんはいい人だもの」
 違和感は感じなかった。彼女は嘘を言っていない。
 彼女は、あの少年は悪いやつじゃない、そういう認識があるようだ。
 とはいっても、そんなことどうだってよかった。
 彼女の声にはぬくもりがあったからだ。今まで感じたことのないぬくもり。昨日、抱きしめられた時にもそれを感じた。
 さっきまでは、たしかにどうしようもない恐怖心が彼の心を支配していた。その恐怖に支配されて、今日も一日過ごすのだ、そう思った。
 しかし、違った。一瞬でその恐怖は彼の心から消えていった。彼女が現れたのだ。
 彼女と話していると、幸せな気分になった。今では、誘拐されてよかった、とさえ、思っている。もし、誘拐されていなければ、彼女には会っていない。例え、これが彼女の偽りの姿だとしても、実はとんでもない悪女だったとしても、彼は軽蔑をしなかっただろう。
 彼は、惚れていたのだ。
 生まれてはじめての感情だった。
 恋。
 頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
「あの…さ……」
 心臓がかなり小刻みに動いている。胸から飛びだしそうだ。
「なに?」
 このぬくもり。この感覚。幸せだった。
「名前……まだ…、聞いてなかったよね」
 他の聞き方がなかったのかと、後悔した。
「エリーゼ。エリーゼ・スワンよ」
 彼女は情けない問いかけに優しく答えた。
 エリーゼ…。これが偽名だとしてもよかった。彼女が自分に名前を教えてくれた。
 彼女にとって、自分など、どうだっていい存在だ。仕事で接している。そんなことぐらい分かっている。しかし…、しかし、もう愛してしまったのだ。たった一日で、心を奪われてしまったのだ。彼女はいずれ、自分を捨てるだろう。あのキリヤという名の少年が捨てろ、と言ったら、なんの迷いもなく捨てるだろう。それでもよかった。
 そして、だんだんと新たな感情が生まれてきた。
 愛されたい…。
 彼女に愛されたい。心からそう思った。もう、自分が嘘の目という超人的な能力を持っていることも、ここに誘拐されてきたことも、全て、どうだってよかった。
 ただ、彼女を愛してしまった。
 エリーゼ・スワン。
 日本語を巧みに操る西洋人の名を、彼は一生忘れることはなかった。

*   *   *

 船内にあるレストラン。どこからどう見ても一流レストランだ。そこに二人の客がいた。
 1人は柄の悪い30代の男。もう1人は、あの、少年。
「それにしても、面白いぐらいにうまくいってるな」
「そのようだね」
 ワイングラスに入ったオレンジジュースをゆっくりと飲み干した。
「ところで、世界を騙すってどういうことなんだ?」
 少年はあきれたような顔をした。
「この前説明しただろう?」
 男は申し訳なさそうに頭をかく。
「すまん。実はよくわからなかったのだ」
 少年はため息をついた。全く、この男は。
「じゃあ、もう一回説明するよ。世界を騙すっていうのは、いわゆる比喩表現だ。実際に、世界中の人間を騙すわけじゃない。そんなことは不可能だ。世界には僕よりはるかに頭のいい人間だっているしね」
 男は驚いた。
「そりゃあ、すげえな。一度見てみたいぜ」
「もちろん、黒木さんよりも頭が悪くて、せっかちの人だっている」
 黒木と呼ばれた男は眉毛を逆立て、少年をにらんだ。
「キリヤ、コノヤロウ」
 少年は不気味にほほえんだ。
「で、本題に戻るが、世界を騙す…。この言葉の本当の意味だ。僕の目的はいたって簡単。世界中の人たちを洗脳する。僕の思い通りに動かす。それだけだ」
 男は口をぽかんと開けている。
「あのなぁ、キリヤ。そっちのほうが無理なんじゃないのか? いくらなんでも世界中の人間を思い通りに動かすだなんて、そんな無茶な…。それに、なんの為に」
 少年は席を立った。「おい、どこに行くんだよ」
 そんな男の問いかけを無視して、レジのところへ歩いていった。
 レジの手前で、少年は足を止めた。
「ひまつぶしですよ。僕はとても退屈なんです。巨額の富を手に入れたい、人はそう願います。しかし、多くは行動に移しません。少数派なんですよ、そういう冒険者は。ただでさえ少数派なのに、実際に巨額の富を手に入れるのはごくわずか。手に入れたとしても、その時はもうよぼよぼのじいさんで、すぐ先には死が待っている…。でも、幼い頃にすでに巨額の富を手に入れてしまったら? 欲しいものも全て手に入れてしまったら? 次に欲しいものは決まっています」
「なんだ?」
「支配です。人を支配したいのです。自分の思い通りに動かしたいのです。一国を…手に入れたくなるのです。でも、それじゃつまらない。人と同じじゃつまらない」
 そう言うと、少年はカードを見せ、レジを後にした。
 男には、少年の言いたかったことが分かった。
 世界を支配したい。
 それが、少年・キリヤの願望なのだ。世界を騙したい…。それは真実を述べていて、比喩表現でもあった。男は自分が壮大なプロジェクトの歯車になっていたことを知った。

 世界征服。

 それこそがキリヤの目的なのか。それも、武力によるものではない。内側から、支配していく…。それがどういうことなのか、男には分からなかった。ただ、ひとつ分かったことがある。あいつは魔物だ。
 あの、少年は…バケモノだ。

*   *   *

 少年は客室のほうへ入っていった。特等だ。この船の客室は、そのほとんどが特等以上なのだが、その中でも特等のほうへ入っていった。廊下を中間地点まで歩いたところで足を止めた。すぐ左にあるドアを、こんこん、とノックした。
「エリーゼ、僕だ。鍵を開けてくれ」
 カシャ、という音がした。ドアノブをひねって中に入る。
 部屋の中では、美女とメガネをかけた青年がベッドの上にすわっていた。
「どうも、邪魔してすまないね」
 そういいながら少年はドアをバタンとして、鍵をかけた。
「別にいいわよ。ところでなに?」
 少年はくすっと笑った。珍しく、嫌みのない笑いだ。
「用があるのはエリーゼ、君じゃない。高木桂一…。君だ」
 下を向いていたメガネの青年は前を向いた。
「君にみせたいものがある。ついてきてくれ」
 沈黙。しばらくして、青年はうなずいた。
「わかった」
 警戒心が身を纏っている。少なくとも、この部屋にはエリーゼと自分、そしてこの少年しかしない。なにかあっても、こんな子供ぐらい、簡単にねじ伏せられる。場合によっては息の根も止められる。今の彼に、殺人に対する恐怖も、軽蔑も、好奇心さえもなかった。
 もう、戻れない。退屈だったが、平穏だったあの頃には。今、自分は闇の中にいる。そして、その闇に存在する唯一の光…。それこそがエリーゼだった。
 少年は鍵を開け、部屋から出て行った。青年もそれに続く。
 ここからは、少年に手をだすことはできない。おそらく、そこらじゅうにボディガードが身を潜めているだろう。
 二人は関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアの前に立った。少年はポケットから鍵をとりだし、平然とその中へ入っていった。青年もその先には見覚えがあった。自分がとらえられていた、牢獄があった空間。
 闇。
 足を進めれば進めるほど、牢獄が現れた。ちらほら囚人がいるが、ほとんどは空だ。
 ある牢獄のところで、彼は足を止めた。
「さあ、感動の再会だ」
 牢獄には囚人が収容されていた。そこにいたのは、両親だった。
 青年は、言葉が出なかった。しばらく固まっていた。目に光はなかった。絶望した目だ。自分が予測した最後の希望は断ち切られていた。二人の囚人は青年を見ると、弱々しい声で青年を呼んだ。
「無事だったのかい…、桂一」
 青年は目を大きく見開いた。突然、少年は青年の肩をぽん、とたたいた。
 少年はポケットから小型の銃をとりだし、青年に握らせた。
「え…」
 後ろから足音がする。サングラスとかけた、大男だ。左手には、銃。
 青年の真後ろに立ち、その凶器の先端を青年の後頭部に接触させた。
「さあ…、撃て」
 少年は相変わらずニヤニヤさせながらそう言った。
 青年はピストルを構え、銃口を両親に向けた。
「け…桂一……?」
 心臓が激しく鳴っている。今にも飛び出しそうだ。エリーゼの時とは違う、別の興奮だった。彼は歯をくいしばり、ゆっくりと目を閉じた。
「父さん……、母さん…。ごめん」
 ぼそぼそっと言った。
「あんた、自分がなにしてるのか分かっているの!? 誰のおかげでそこまで…」
 青年に猛攻撃する母親の肩を、父親が叩いた。
「無駄だ。あいつに俺たちの言葉は届いていない」
 母親の目からは涙がでていた。父親は無表情だった。無表情のまま、告げた。
「撃ちなさい。それがお前の選択なら」
 青年の目からも涙が出ていた。撃ちたくなかった。今まで育ててくれた両親だ。しかし、今、ここで彼らを撃たなかったら、自分が殺される。
 エリーゼ…。
「さよなら…」
 青年はゆっくりと引き金を引いた。




 3
『次のニュースです。ポトリック共和国の首都・サムシで大規模なデモが起きていたことが分かりました。デモ隊は地元警察により鎮圧され、現在126名が逮捕されました。しかし、首謀者は今のところ不明で、犯行声明も届いておりません。また、地元メディアは、死者・23名としていますが、詳しいことはまだ分かっていません』

*   *   *

 さよなら、父さん…母さん…。彼は引き金を引いた。銃声が響いた。重いまぶたをゆっくりと開く。目の前に広がるのは肉親の遺体。そうと知りながらも、彼はその現実と向き合うことにした。
「……?」
 驚きを隠せない。ありえない事態が起きた。
 二人とも、生きていたのだ。
 手から力が抜けた。拳銃がコーン、と音をたてて、コンクリートの床に落ちていった。 安心した。生きていてくれて、ありがとう。なんで、こんな親のもとに生まれたのだろうか。そう思っていたこともある。しかし、二人は大事な肉親だ。失いたくない。その気持ちが、奇跡を起こしたのだろうか。
 珍しく、非科学的なことを考えていた。奇跡など、起きるはずない。彼は、そんな根拠のないものを信じるようなタイプではなかった。なぜ、二人は生きているのか。
 その答えはひとつ。
 空砲だったのだ。横で口をおさえて嫌みに嘲笑している少年がなによりの証拠だ。
「やっとわかったかい? ……そのピストル、弾が入ってないんだよ」
 笑いながら、人をあざけるようにして言った。
 こいつ……。殴り倒してやろうと思った。しかし、そんなことできるはずない。自分の後ろには、おそらく弾の入っている銃をかまえている、奴の部下がいる。彼が逃げようとしたり、反抗しようとしたらなんのためらいもなく引き金を抜くだろう。
「だけど、ひとつわかったことがある」
 少年は真面目な顔で言った。
「お前は自分の命のためなら、肉親だって殺す。自分の命のためなら、大切な人だって簡単に殺してしまうのさ」
 その言葉にショックを隠しきれなかった。俺は……俺は、そんな人間じゃない。少なくとも、自分ではそう思っている。しかし、結果はこれだ。俺は引き金を抜いた。抜いたのだ。なんのためらいもなく……、ではなかった。目をつぶった。目をつぶって、必死にもがいていたのだ。本当は撃ちたくなかったんだ。でも、撃たなければならなかった。仕方なかった。自分にはどうすることもできなかった。そう、仕方なかったのだ。
 彼は自分にそう言い聞かせて、彼の行為を正当化しようとした。
「くくく……。面白いなあ、人間って。動物なら、自分の命のためなら仲間だったとしても、平気で見捨てるのに。裏切りという行為は自然なんだよ。後ろめたいことがなにかあるのか? ないだろう。そこで怯えているお前の両親も、立場が逆転したら、平気でお前を殺しただろうよ」
 そうだ。きっとそうだ。こんな状況に陥ったら、誰だって引き金を抜いただろう。
「なにを言っているの? そんなことできるわけないでしょ。たったひとりの……、自分の息子なのよ!」
 母は必死だった。そんな母を、父は申し訳なさそうに眺めていた。おそらく、父なら何のためらいもなく引き金を引いただろう。
 彼は知っていたのだ。自分の父親がどういう人間なのか。肝心な時はいつも、人任せで、すぐに逃げようとする。心の弱い人間であると同時に、恐ろしく冷酷な人間だ。そんな父に、自分は似ているのだろうか。やはり自分は、そういう人間なのだろうか。
「どうやら港についたようだ。下船しようか」
 母の必死の訴えを、少年はそうさえぎった。
「俺たちも……、この檻から出しくれるのか?」
 この男は。いつも、自分のことしか考えていない。俺や母さんのことなど、どうでもいいのだ。自分さえよければ、他人のことなどどうでもいい。この男は、こういう男なのだ。
「あんたら、バカか……? 死ぬまで檻の中だよ」
 衝動。
 その時、彼は衝動に身を任せて行動した。
 彼は少年の胸ぐらをつかんだ。彼の部下が銃をかまえる。
「撃つな!」
「そういうわけにはいかない」
 彼は後ろで銃を構える男をにらんだ。
「お前がもし俺を撃つのなら……、俺はここでこのクソガキを殺す!」
 男は問答無用で撃ってきた。銃声が響いた。あと1秒よけるのがおそかったら、確実に死んでいた。
 高木とキリヤは、床に倒れていた。高木の肩は、真っ赤に染まっていた。そこからは、血がドクドクと流れていた。キリヤは、まだ笑っている……。こうなることがわかっていたのか。
「言っただろう? 下船しよう……、と。あんたも、あんたの両親も、生きて下船するんだ。死ぬことは、この僕がゆるさない」
 目の前が一瞬光った。一瞬だけ、目の前が真っ赤になったのだ。
 彼はこれがなにを意味するのか、分かっていた。
 そう……。嘘だ。嘘を聞き取ると、自然にこういう反応をしてしまうのだ。嘘をついた時にでる、微妙な違和感。それを自動的に聞き取り、体が反応する。
「お前、目の前にいる人間が誰だか分かってるのか?」
 彼は少年にこう言ってみた。してやったり。
 少年の表情に笑みはなかった。
「高木桂一」
 無表情な少年は、そう答えた。
「そういうことを言ってるんじゃない! 俺の前で……、安易に嘘をつかないほうがいい。どんな嘘も、確実に見破る」

*   *   *

 高層ビルが立ち並ぶ、大きな港町。交通量も多く、家族連れの観光客も多い。
 その一方で、暴力団同士の抗争も絶えない。決して安全な街ではないが、豊かではあった。高層ビルと高層ビルの間の、長い道路。バスやらタクシーやら自家用車やらバイクで、その道は混雑している。そんな無数の乗り物の中に、黒いワゴン車があった。
 その中に、嘘を見通す青年は乗っていた。片目の少年と、その部下もいっしょだ。
 青年は後部座席、少年は助手席、部下は運転席だった。
「どこに向かってるか、わかるか?」
 片目の少年・キリヤは、後ろに座る、メガネの青年・高木にこう質問した。
「お前らのアジトだろ。そんなのわかりきってるじゃんか」
「アジトだなんて、人聞きの悪い……。まるで悪の組織じゃないか」
 彼はあきれた顔をして、「はっ」と、嫌みに息をきらしてみた。
「まるで悪の組織、だと? どっからどうみても悪の組織だろ。もし、悪の組織じゃなかったら、なんでお前らの部下はみんなサングラスに黒いスーツで、みんながみんな、銃をもってるんだよ」
「私は銃を所持しておりません」
 運転席からの訴えがきた。
「だそうだ」
 彼の拳は強くにぎりしめられた。
「……!」
「まあ、そう怒るな。向こうに着いたら、愛しのエリーゼが待っている。最も、あんたの片思いに過ぎないわけだが」
「なんで、お前がそのこと知ってるんだ!」
 どうせエリーゼが、高木桂一はわたしに夢中よ、とか報告したんだろう。
「あんたの部屋には監視カメラと盗聴器が仕掛けられてたんだ。死角なし!」
 少年は楽しそうに言った。俺は24時間、このクソガキに監視されていたのか……。
 そう思うと、腹が立つというより、悲しくなってきた。
 感傷にひたっているうちに、車は高層ビルの前に止まった。
 何階建てだろうか。彼の家は3階建ての小さなアパートだったので、ただただ、その大きさに圧倒された。車の窓ごしに、数多くの高層ビルを見たが、やはり、間近で見ると、迫力がある。地震がきたら、考えるだけでも恐ろしいが、最近のは耐震に優れているだろう。彼のアパートの何十倍も。
「さあ、ついたよ。あんたのいう、僕たちのアジトに」
 助手席のドアが開いた。どうやら、外で部下が待っていたようだ。
 運転手も、車の外に出た。少年とは違い、自分の手で開けたが。
 彼も運転手と同じように、自分の手でドアを開けた。
「ついてきたまえ」
 彼は少年の後を追った。
 自動ドアが開き、中に入る。
 その空間は、入ってきた自動ドアと目の前に見える自動ドアで仕切られていた。その横には、カードを差し込むような穴のついた、金属でできた台が立っており、あとは何もない。この建造物の玄関とも言える、空間だった。
 少年は財布から、カードをだし、口をあけて立っている金属の台に差し込んだ。
『認証』
 どこかから、ニュースなどでよく耳にする、機械の音声が聞こえてきた。何度聞いても、この声はどこか薄気味悪い。
 次の瞬間、自動ドアが、がーっと音を立ててゆっくりと開いた。
 少年はその中へ消えていった。彼も続く。
 第二の空間は、まさに異様だった。大量のエレベータが壁一面に広がっている。
 ドアだらけだ。そのドアが忙しそうに、開いたり閉まったりする。
 中からは、これまた忙しそうにサングラスに黒いスーツという、この組織のコスチュームのような格好をした男達が行き来していた。
 そのエレベータの中から、一風かわった、つまり、そのコスチュームを着ていない男が現れた。彼がまだ会ったことのない男だ。
 髪はボサボサでひげも中途半端の長さ、一応スーツは着ているのだが、ネクタイは垂れ下がっており、ワイシャツはしわくちゃだった。口には煙草が火を吹いている。この男、清潔感というものがまるでない。だらしない奴だ。
「よっ、キリヤ。ずいぶんとはやかったじゃねえか」
「寄り道しなかったんでね」
 男は視点を少年からメガネの青年に向けた。
「このガリ勉が、嘘の目を持ってるのか」
 ガリ勉と言われ、少し腹が立った。
「ああ。というか、写真で見せたから、知っているだろう」
「そうだったな」
 視点を少年に戻す。
「で、このあとは黒木。あんたに任せる。じゃ」
 そう言うと、つかつかと歩いてエレベーターの前に立ち、乗り込んでしまった。
「おい、キリヤ! ちょっと待て! なんで俺がこんな奴のお世話係しなきゃなんねえんだ」
 男は少年が乗り込んだエレベーターのほうへ走っていく。
「がんばってくださいね」黒木がエレベーターの前に着く前に、扉は閉まってしまった。
「くそやろう!」
 吠えた。
 しばらく、下を向いていたが、やがて振り返り、その青年・高木桂一に目を向けた。
「おい、そこのメガネ。いくぞ」
「メ……、メガネ!?」
「ああ。メガネをかけてるだろうが。ぼーっとつったってねえで、さっさと行くぞ」
 初対面でメガネと言われたのは初めてだ。
 すると、黒木はさっさとエレベーターに乗り込んでしまった。
「ちょ……ちょっと!」彼は急いでエレベーターのほうへ駆けだした。
「閉めるぞ。10……9……8……」
 飛び込むようにしてエレベーターに乗り込んだ。彼の体がその狭い個室の中に入ったその時、扉はゆっくりと閉まった。なんというせっかちな男なのだろうか。
 
 何度、揺れがとまり、何度、ちん、という音がしただろうか。
 その個室の中では誰もが無口だった。こんな怪しいコスチュームを着た連中のことだから、当然だと思うが、黒木の影響もあっただろう。この短気な男は、おそらくこの組織の幹部だ。新人ならこんなだらしない格好できないし、態度もでかい。
 また、ちん、という音がした。
 突然、黒木はエレベーターから降りた。彼もそれに続く。
 彼がその個室からやっとの思いで脱出したと同時に、扉は閉まった。
 そこは、広い廊下であり、手前にはカウンターがある。
 黒木はカウンターのところにいた。
「黒木だ」
 カウンターの受付嬢はナンバープレートのついた、鍵を差し出した。
「どうぞ」
 黒木はそれを乱雑に受け取る。体を彼のほうに向けると、突然、鍵を投げた。
「俺の仕事はここまでだ。あとはてめえでなんとかしやがれ」
 鍵は彼の手のひらに突き刺さり、金属音を立てて、床におちた。
「痛っ!」
 彼はおそるおそる鍵を拾う。
 506と書いてあった。
 カウンターを抜けると、両側の壁は番号の書かれたドアで埋め尽くされていた。ホテルのようだ。506……506。あった。
 鍵穴に鍵を通す。開いた。ゆっくりとドアを開ける。
「桂一!」
 どこかで聞いたことのある女性の声が聞こえてきたかと思うと、突然抱きしめられた。柔らかい感覚が伝わってくる。
 エリーゼだ。
「会いたかったよ、桂一」優しい声でそう語りかけてくる。予期していたことだが、目の前が赤くなった。キリヤの策略か。おそらく、キリヤがラブラブのカップルのように接するようにと言ったのだろう。エリーゼにはそんな気持ち、欠片もないのに。とは言っても、やはり、エリーゼにそういう風にされると、純粋にうれしい。
 嘘だと分かっていても、嬉しいのだ。
「久しぶり、エリーゼ!」思わず声をあげてしまう。考える前に、言葉が出てしまう。
 今まで体験したことのない現象だった。
「ともかくさ、そこ、座ろうよ」心を落ち着ける。
 無理だとは分かっている。分かっていても、望んでしまうのだ。
「わかった」彼女はやさしくうなずいた。
 部屋の中は、結構豪華だった。大きなテレビがあり、二人用のベッドがある。オシャレなテーブルと、椅子が二つ。タンスもあり、上にはかわいらしいクマのぬいぐるみが置いてあった。二人用のベッドということは、しばらくは、エリーゼと二人で生活するのだろうか。いや、それはない。エリーゼは自分のような、勉強だけが能の、運動もルックスもイケてない、恋愛経験ほぼゼロの青年などに、興味などないのだ。金の為に、こうして優しく接してくれているのだ。
 彼女は、椅子に座った。
「桂一も座りなよ」昨日との人間関係の明かな違いに、戸惑わずにはいられなかったが、我慢した。さっきまで……、そう、あの黒木という男といっしょに行動していた時とは間逆の、おだやかな空気がこの部屋には流れている。この空気は偽りのものだ。それでもいい。それでもよかった。
 そういう風に、いろいろなことを考えながら、椅子に座った。
 テーブルの上には、リモコンが置いてある。
「TV、つけていい?」
「ええ」
 リモコンのスイッチを押す。ブン、という音をたて、その大きな箱は、臨場感のある高画質の映像を映し出した。
 そういえば、誘拐されてから、ニュースを見ていない。世界では、なにが起こっているのだろうか。
 その時、みた番組は、報道関係のトーク番組だった。楽しい、笑えるトークショーではなく、いろいろな社会問題を言いたい放題、議論する。そういう番組だった。若い世代がみるような番組では決してなかったが、彼は、たまにこういう番組をみていた。
 ドラマの2時間スペシャルと報道特番、どちらをとるか、と言われたら、彼は迷わず、報道特番を選ぶ。最近のドラマは、主演男優もろくに演技ができない。まだ、舞台でも見に行ったほうがいい。それが彼の持論だった。
「ねえ、これ、つまんない。変えていい?」
 エリーゼが切り出した。
「そうだね。多分、この時間なら、ドラマの再放送とかやってるはずだし」
 普段はドラマなど、リアルタイムでも見ないのに。
 選局キーに指をかけようとしたその時だった。

『では、世界各地で相次ぐ暴動事件についてはどう思われますか?』

 番組のMCは、そう出演者に問いかけた。彼の指は止まった。目が、耳が、TVに釘付けになる。
「桂一? どうしたの?」
 エリーゼが心配する。が、今の高木桂一には、そんな言葉、聞こえていなかった。

『たしかに、こんなに連続して世界の至る所で暴動が起きるのは、どう考えても不自然ですよね』
『それは、誰かが裏で手を引いてるということですか?』
『そこまでは言ってないでしょう』
『でも、その考えもあながち間違っていないのかもしれませんよ』
『なにを根拠に』
『いや、別に根拠はありませんが』
『大日本でも起きる可能性も捨てきれないと私は思います』
『それは、いろんな学者さんが危険視されていますよね』
『あなたたちみたいな人が国民を不満にさせるんですよ』

 世界中で暴動が起きている……。
 彼の脳裏を、ある言葉が駆けめぐった。
「世界を騙す」
 あの謎だらけの少年・キリヤが言った言葉だ。これは……、はじまりなのか? この暴動は俺に……、なにを伝えようとしている?
「ねえ、桂一!」彼は、ふと、我に返った。
「あ……、ごめん。チャンネル、かえるね」
「いいよ……。みたいんでしょ? このおじんくさい番組」
 おじんくさい……。
「別に、そういうわけじゃないよ」
 そう言って、チャンネルをクリクリと回す。
 雨の中を、若い男と女が言い合いしてる場面で止めた。
 



  4
 はっきりいって、今回の仕事は訳がわからなかった。
 どっちかというと、今回の仕事は楽なほうだ。
 今までの脂ののった成金のターゲットと比べると、今回の詐欺は比較的楽だ。相手は、まだ若いし、ちょっとやせてる。それに、目つきは鋭く、冷たいけどブサイクじゃない。それが疑問なのだ。正直いって、この高木桂一っていう坊やは、金持ちには見えない。
 頭はよさそうだけど、独学で学んでいる気がする。あくまで女のカンだけど。
 つまり、どっちかというと、貧乏な家庭で育っている気がするのだ。そんなのを騙しても、大金が望めるとは到底思えない。
 さっき、今回の詐欺は比較的楽だ、とは言ったけど、それはあくまで詐欺のカモとして、という意味であって、1人の男としてみると、あまり好きなタイプじゃない。
 二人きりでTVを観る時に、普通、報道系の番組をみるか?
 この男、見た目も中身もガリ勉くんのようだ。多分、すごく頭が固くて、論理的。
「ねえ」
 高木があたしに話しかけてきた。
「……?」
「これ、面白い?」
 そう言ってくると、思った。言わなかったら、あたしから切り出そうと思った。
 昼ドラなのだ。今、TVの画面に映し出されている映像は。
「……あんまり」あたしは声のトーンを少し下げて返答した。
「そっか。消していい?」
 え……、TV消しちゃうの?
「別にいいよ」明るい口調でいったものの、少し不安だった。
 ちょっとオタクっぽい印象の男の子と、二人っきり。なにをされたか、わかったものじゃない。
「エリーザ……」
 なんかすごく嫌な予感がする。あたしは覚悟を決めた。
「知ってるんだろう? 世界中で起きている暴動の意味を」
 しばらく、部屋中を沈黙が支配した。あたしは重い口を、ようやく開いた。
「……え?」
 とぼけてみた。無駄なことはわかっている。桂一はもう、気付いている。世界中で暴動が起きたことの意味を。自分が拉致されていた1日の間に、世界中で暴動がいっきに起きたことの意味を。
「なんのこと……?」
 その時、桂一の目が赤っぽくなった気がしたけど、多分、気のせいだろう。
「君の素性についてだが、俺の推理を聞いてくれるか」
「いいけど……」心拍数が急激に増えている。
「君は詐欺師で、専門は結婚詐欺だ。昨日と今日の態度の急激な変化から、君はまだ駆け出し。そして、キリヤに声をかけられた。ある少年を、騙してくれないか、と」
 すべて当たっている。さっきまでの表情から、桂一はあたしに惚れていると思いこんでいたが、そんな予想は完全に否定された。桂一はずっと、あたしを観察していたのだ。
「俺はキリヤがなにをしたいのか、今の時点ではさっぱりわからない。だけど、奴は世界を騙すと言った。一連の暴動は、その序章に過ぎないと思う」
 あたしは桂一の話に聞き入っていた。なんか、探偵みたい。今までオタクっぽい、と思っていたけど、ちょっとかっこよく見えた。
「それで、ここからが大事なんだけど、奴の計画には大きな犠牲がでる」
 桂一の目はいつになく真剣で、のみこまれそうになった。
「人が死ぬことに正義もなにもない。俺は……、人が死ぬ計画があるのなら、それを潰したいと思う」
 ようやく、その話の意味が分かった。桂一がなにを言いたいのか、分かった。
「それって……、キリヤと戦うってこと?」
 桂一はゆっくりうなずいた。
「あたしに言っちゃっていいの? 桂一の推理だと、あたしはキリヤくんに雇われた詐欺師なんでしょ?」
「キリヤは、俺が計画を潰そうとしていることぐらい、とうにわかっていると思うよ。昨日、俺は我慢できなくなって、あいつに攻撃したんだ。あの瞬間、俺は死を悟った。殺されるのかと思った」
「でも、殺されなかった……。なんで? なんでキリヤくんは、桂一を生かしたの?」
 桂一は首を横に振った。「わからない」
 キリヤが一体、なにを考えているのか、その時のあたしには、さっぱり分からなかった。 
*   *   *

 ヨーロビア大陸の中央にある、大国ジャーマイツ。かつては独裁主義の国家として、世界中を恐怖に陥れたが、現在では、環境大国へと姿を変えた。
 そんなジャーマイツの小さな街、ブータルク。独裁主義だった時に、ある民族を無条件に収容した収容所があった街だ。恐ろしい過去を忘れないためにも、その忌まわしい収容所は今でも残されていた。ジャーマイツの負の歴史を物語る、小さな街。そんな街に、軍隊の列が突入してから、しばらく経つ。

人気の少ない、住宅街の裏通り。市民と軍人が、一対一で向かい合っていた。
 軍人は市民を追いつめ、ついに行き止まりまできた。
 茶髪の市民はピストルをかまえ、こちらをにらみつけていた。
「お前らになにがわかる! いずれ……いずれ、世界は真実を知ることになる! そして、お前らが隠していたこともな!」必死だった。必死で訴えていた。ピストルを持った手は、がたがたと震えている。左耳に密着しているイヤホンからは、上官の声が聞こえてきた。『反乱分子は、容赦なく殺せ』
「国にたてつくと、どうなるか分かっているのか?」
 そういうと、軍人はマシンガンを市民に向けた。
「change-チェンジ-」
 そう言うと、市民は発砲してきた。さいわい、防弾チョッキを着ているので、衝撃しかない。カン、という音がして、弾は地面に落ちた。その弾は変形していた。防弾チョッキの硬度に敗北したのだ。軍人は、怯えた市民をまじまじと見つめた。
 テロやゲリラは善良な市民の為にも、排除しなければならない。
 それこそが正義なのだ。
 自分にそう言い聞かせ、引き金を引いた。
 マシンガンがうなった。数十の弾が彼の体を引き裂いた。防弾チョッキを服の下に装備していたようだが、それも無意味だった。安い防弾チョッキでは、マシンガンの連射には耐えられない。バカン、という音がした。マシンガンがうなる回数と同じだけ、彼の体も小刻みに震えた。マシンガンはやがて、うなるのをやめた。反乱分子は前にドサっと倒れた。その体からは、紅い液体がどろどろとにじみでていた。
「すまん」永らく高い水準の治安を保っていた為、殺しはこれが初めてだった。
 手は震えていた。歯はガチガチと音を立てている。手に力が入らなかった。マシンガンは若き軍人の手から抜け、ガタン、と音をたてて、地面に落下した。
 肩をぽん、と叩かれた。おそるおそる振り向く。自分より1つ階級が上の、先輩だった。
「カ……カール……さん……?」
 カールと呼ばれた赤毛の先輩軍人は死体を見つめた。
「殺しは初めてか」
「……はい…」黒髪の後輩の声は震えていた。
「いいか、キース。俺たちは軍人なんだ。国家にとって、害のある人間は、上官から命令を受ければ殺さなければならない。だけど、それが俺たちにとっての正義で、生業なんだよ」
 カールの言っている意味は分かった。人を殺してこその軍人なのだ。
「だけどな、ジャーマイツはずっと平和だった。第二次世界大戦が終戦してから、二度と戦争をしないと誓った。敗戦後、ゆっくりと国力を取り戻し、豊かな国に戻った。だけど、このブータルクでの暴動が、またあの悲劇を繰り返す要因に思えて、仕方がない」
 また、世界は荒れるのか……?

*   *   *

 エリーザにも真意を話した。直接話したわけではないが、おそらく、わかってくれるだろう。これからやることは……。
 ここから抜けだす。
 ここにいては、いいように使われて、殺されるのがオチだろう。
 しかし、どうやって、抜けだすか……?
 コン、コン。
 ドアがノックされた。桂一はおそるおそる鍵を解除する。
 桂一はドアをこちら側にひきよせるようにして開けた。
「どうぞ」
「いや、ここでいい」
 桂一が招きいれようとしたその人は、キリヤだった。
 その背後には、数人のエージェントがいる。
 また、こいつには手を出せない……。
「ちょっと、きてくれないか。エリーザ……。あんたもだ」
 そう言われるまま、ホテルのような一室を出て、駐車場まで来ていた。
 一行はさっきのワゴン車の前に立っていた。
 エージェントの1人が運転席の鍵を開け、乗り込んだ。
 キリヤもそれに続き、バタンとドアを閉める。桂一とエリーゼも、後部座席に乗り込んだ。
 エンジンがブルル……とうなりはじめた。エージェントはアクセルを踏み、黒いワゴンはかけだした。
「どこに連れて行くんだ?」
「高木桂一……。あんたを消しにいくのさ」
 次の瞬間、目の前が一瞬赤くなった。
 ……嘘だ。
 嘘と分かっていても、もう、止まらなかった。キリヤはまだ、俺を殺す気はない。
 でも……。
 桂一は自分のかたわらにあるドアの鍵を解除し、ドアを開けた。
「な…なにをする気だ!?」
 運転手は動揺を隠せない。
 前方には電信柱が歩行者側の道に立っている。
 電信柱に襲われ、ドアは宙に舞い、道路を3回ほどバウンドした。
 桂一はエリーゼを抱きしめ、アスファルトへとダイブした。
 若い男と女は、かたき地面へと墜ちていった。
 桂一はエリーゼの下敷きとなっていた。
 激痛が走った。
「ぐはっ……!」
 彼らの前方で走っていたワゴンは、急ブレーキをかけ、止まった。
 追ってくる……。
 桂一のとなりには、エリーゼが横たわっていた。さいわい、エリーゼにケガはない。
 自分の背筋は、今でもじんじんするが。
「いったぁ……」
 時間はない。桂一はエリーゼの手首を握りしめた。
「もう、なんなの!?」
 悪いが、今はその問いかけには答えることができない。
 桂一は持てる全ての力を脚部にこめ、走り出した。


2008/10/21(Tue)21:23:54 公開 / Dr.アーム
■この作品の著作権はDr.アームさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめて小説を書いたので、下手な文章だと思いますが、
楽しんで頂けるとさいわいです。
作者は一気に書くのが苦手なので、このぐらいのページ数で
連載していく予定です。

10/3 第3話更新

10/21 第4話更新
久々の更新です。テストだったんで。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。