『雨女、晴れ男』 ... ジャンル:恋愛小説 リアル・現代
作者:乃崎アラレ                

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<プロローグ>
 どうしようもないくらいの雨女と、
 どうしようもないくらいの晴れ男。
 二人が一緒に歩く日は、いつも曇りになる。
だからもしかしたら、この先何十年間かは、
 ずっとずっと、曇りの日になるかもしれない。

<雨女について>
 彼女は走っていた。
 雨が降っていた。彼女が走っていた原因もそのせいだった。
 家を出るときは肌にじりじりと照りつけていた太陽が、ちょうど切らしていた牛乳とシリアルを買ってスーパーから出たときにはもうどこにも見当たらなかった。
 彼女は雨女だった。彼女自身も承知の上だった。でも、今日という今日はこんなに晴れているんだし。と、傘も持たずに家を出た。
 はじめは小降りだった雨も次第に強くなり、彼女は体中ずぶぬれになってしまった。近くで雷鳴まで聞こえる。
 仕方なく、彼女はちょうど近くにあった喫茶店に飛び込んだ。何せ、家に着くにはあと10分はかかるのだ。
「最悪……」
 最近買ったばかりのTシャツは、泥がはねていて無残な姿で弱々しかった。
 喫茶店にいる人は、ちらちらと彼女のほうを見ている。
「あら、香織ちゃん」
 声が聞こえた。彼女はふり向く。カオリは、彼女の名前である。
「あ、……こんにちは」
 この人は確かお母さんの友達の……誰だったか。名前を忘れていた。
 だから仕方なしに挨拶だけにした。
「こんなにずぶぬれになって。風邪引くわ。服貸すから、こっちにおいで」
 親切なおばさんは、彼女が首を横に振るのにも耳を貸さず、彼女にとってはちょっとダボダボの夏だと言うのに長袖のTシャツを着せた。
「ごめんなさいね。その服、私のじゃなくて健のだからちょっと大きいわねえ」
 ケンノダカラ……? 彼女はふと首をかしげる。
「今ちょうどあの子、東京から帰って来てるのよ。だからうちの喫茶店、手伝ってくれてる」
「ケン……?」
 誰だそりゃ。無理も無い。彼女は目の前のおばさんの名前すら覚えていないのだ。
「あ、香織ちゃんはあれね。健にあったことないか。健はうちの息子。美里ちゃんの生まれる前はよくそちらの家に健を預けてたのよ」
 ケンの服。そういわれてみると、男っぽいTシャツだ。しかし、顔も知らないケンという男の昔話なんて実際、どうでもよかった。
「……そうですか。ありがとうございます。すいません、迷惑かけて。明日、そちらに返しにいきますね」
「明日は喫茶店やすみだから、また今度でいいわよ。いつでもOKだからね」
 にこりと笑って、調理場のほうにそのお母さんの友達は行ってしまった。
「まあいいや。明日お母さんに家聞いて、返しに行こう」
 一人で呟いて、彼女は喫茶店を後にした。
「ただいま」
 いつもなら、おかえりと返事が返ってくるはずなのに今日は何も返ってこなかった。変に思い、リビングへと入る。
「香織? あぁ、おかえりなさい。ごめん、ごめん。寝てた」
 お母さん。
 高校生になった今でも、香織は自分のお母さんが大好きだった。父を早くに亡くしてから、女手一つで育ててくれた母にはとても感謝している。かと言って、何かしているわけでもないのだが。
「すごい雨だったでしょ。買い物お疲れ様」
「喫茶店でTシャツ貸してもらっちゃった。そこの……なんだっけ。お母さんの友達の経営してるところ」
「あら。水川さんに貸してもらったの。悪いわね。そういえば、健君帰ってきてるそうじゃないの」
 そうだ、水川さんだ。思い出した。ケンってのは知らないけど。
「うん。これ、そのケンって人のTシャツだって。明日返しに行くから家どこか教えてよ」
 言いながら、Tシャツを洗濯機に放り込む。
「そういえば明日は休みだったわね。水川さん宅なら、香織の学校の裏に大きいやけに目立つオレンジ色の家あるでしょ。その家の隣よ」
「ん……分かった」
 洗濯機のスタートボタンを押した。派手な音を立てて動き出す。
「ケンって人、今いくつなの?
 あたしが生まれる前から家に来てたりしてたんでしょ」
「健君? えっと確か……香織より5つ上だったと思うから……今は22歳ね」
「……22歳」
 大学生かな。と思った。でも、別に興味があったわけじゃないから、実際どうでもよかった。
「かっこいいわよー。背が高くて、さわやかで明るくて。香織と結婚して欲しいくらいよ」
 突然母が意味不明なことを言い出すので香織はあわててしまう。
「ちょ、変なこと言わないでよね。あたしは、そのケンって人の名前さえ知らなかったんだよ。何故一気に結婚まで行くんですか」
 早口に言うと、母は小さく笑った。
「冗談よ、まだまだ子供ね。すぐに熱くなる」
「もうっ。馬鹿なこと言わないで。疲れたから寝る」
 その日、香織はもうよくわからないが疲れていた。母は香織が疲れているのを悟って、お風呂を沸かしてくれていた。
「いつでも入りなさいよー」
「うん、ありがと」
 お言葉に甘えて、香織はお風呂に入ることにした。お風呂に入るといつもでてくる、「恋」の文字。なんでだろう。いつも恋のことを考えてしまう。
 香織はまだ、誰かを本気で好きになったことがなかった。かっこいいと思った人のことを「好き」ということなんだと、信じていた。だから、恋なんて面白くもないものだと思っている。でも、もしかしたら違うかもしれない。もっともっと、恋って、いいものなのかもしれない。
「ああ、恋がしたいな」
 一人で呟いて、馬鹿なことを言った、と香織は一人で後悔した。

<晴れ男について>
「おいおい、それ俺が明日着ていきたかった服なんですけど」
 そんなに怒ってもいないといった表情で言うのは、晴れ男。
「だって、仕方ないでしょ。ずぶ濡れで雨宿りしてきたのよ、その子。かわいそうじゃない」
「まあいいや。違う服で我慢するからさ。つーか、俺今日これで上がってもいい?夏休みの大学の論文が……」
「いいわよ。もう上がって。家に帰ったらお風呂、沸かしておいてね。よろしく」
 そう言うと母は、電話が鳴ったのに気づき、足早に一階に下りていった。
「お風呂ですか。はいはい」
 一人でそう呟き、小さいエナメルバッグを片手に水川 健は喫茶店を出た。
 母が言うには、昨日の雨でずぶ濡れになった林さんの娘に自分のTシャツを貸したらしいけれど。それはなんとなく健のお気に入りのTシャツで。明日友達と行く予定の遊園地に来ていく予定だった。
 でもまあ、別にいいか。それよりも、明日だ。
 何故大学にもなって、成人にもなって、別に好きでもない遊園地に行かなくてはならないか。
 今の季節、夏だ。健は東京の大学で一人暮らしをしていて、夏休みだと言うことで地元の京都に帰ってきていた。高校からの友達とも再会でき、調子に乗って呑みすぎていると、成り行きで、遊園地にでも行こうかという話になった。友達は3人で、健は酔っていたことだからと行く気でも無かったが、その3人が行く気満々らしく、仕方なしに承諾した。
 しかし、夏はその遊園地には期間限定のお化け屋敷がある。それも、もうものすごく怖いと有名な。秘密にしていなくもないが、健はそういうお化け屋敷とかいうモノが大の苦手で、ほかの3人はとても好きだと。家に入ってお風呂を沸かしながら、健は大きくため息をつく。
「めんどくせーな」
 そして、ふと思う。
 久しぶりに、なんか恋がしたい。恋愛にはうまくいく方だった。自分が何も行動しなくても、相手が寄ってくるのだから。普通にデートして普通に一泊して、普通に別れていた。もう最近は、恋というものに慣れてしまっていた。
「ああ、誰かの愛が欲しい」
 言って、馬鹿なことを言ったと、一人むなしく後悔していた。

<THE 四人組>
 目が覚めると、次の日だった。当たり前のことなのだが、昨日は寝たのが7時半というものすごく早い時間だったので、何か変な感じがしたのである。時計を見ると朝の10時だった。こう暑いと、朝起きたら体がべたべたして気持ち悪い。ここ最近、香織は朝風呂が日課になっていた。風呂から上がり、バスタオル一枚で朝ごはんを食べる。
「服、着なさいよ」
 母に毎朝そう言われるが、香織も母も、そう気にした様子も無い。
 髪の毛をとかす。高校生なら髪をていねいに巻いたりするのかもしれないが、香織はショートなので前髪をアメピンで少し留めるだけで十分だ。30分ほど経ったところで、そろそろ服を着る。
「ねえ、洗濯物乾いてる?」
 聞くと、乾いてるわよーとキッチンのほうから母の声が聞こえた。今日はちゃんとTシャツ、持っていかなきゃ。そう思った瞬間に、まただ。雨が降ってきた。
 ……何故。本当に雨女だ、とつくづく思う。急いでベランダから洗濯物を取り入れた。
「いってくるー」
 傘を右手にTシャツと、お礼のクッキーの入った紙袋を左手に、香織は歩き出した。
さっきより雨は小降りになっていた。今のうちにと、香織は傘をたたんで学校へ向かって小走りになった。いつもなら、傘をたたんだ瞬間に雨が強さを増すのだが、今日は何故か逆に止んでいった。内心嬉しくなりながら、学校の裏へと向かう香織。
 オレンジの家まであと数メートルというところで、香織は誰かに肩を掴まれた。
「君さ、可愛いよね、ちょっと遊んで行かない?」
 気持ちの悪い笑みをうかべながら、香織を取り囲んでいく5人ほどの男。
 ――最悪。
 ここまで来てリンチ? 痴漢? ホント神も仏もあったもんじゃないわ。しかし、そんなことを言ってられなくなってきた。男共が香織に近づいてきた。
「ほんと、やめてください」
 今まで何回かこういうことをされてきたが、一人か二人だけだったのですぐに逃げられたのだが、5人もいたんじゃ、取り囲まれて逃げ場が無い。
 ――やばい。
「まじで可愛いよね」
「俺リアルに好みなんだけど」
 そんな感じで近寄ってくる。膝が震えてきた。どうしたらいいのか、頭が真っ白になってくる。そして、男の一人が香織の手首を掴んできた。
 もうだめだ。どうにでもなれ。
 そんな絶望感に抵抗を完全にやめた時だった。
「ちょっと、そんなに道のど真ん中で変なことしないでくれる? 俺ら今から遊園地行くんでテンション上がってきてるっていうのに」
 誰かに後ろから手首を引っ張られ、香織はされるがまま。
「くそっ!」
 5人組が素晴らしくハモって、その場から逃げていった。
「大丈夫? って、んなわけないか」
 助けてくれた人が言う。全員男かと思ったら、一人だけ女の人もいた。
「あぁいう、変態野郎って、本当ムカつくわよね。私、あんなの見たら背筋が寒くなってボコボコにしたくなるの」
 笑顔で言うのが怖かったけど、悪い人じゃないみたいだ。
「あ、の。ありがとうございました、本当に……」
 深々と頭を下げる香織。戸惑う四人組。
「お礼とかいいって。つーか、女の子一人で何やってんだ?この辺に家でもあるのか。
 ここ、明るいけどあんまり人目につかないから危ないぞ」
 一番背の高い人が言った。
「……返さないといけないものがあって……」
 なんで聞かれなきゃいけないんだと思いながらも、素直に言った。何せ、命の恩人なのだから。
「よーし。じゃあ付いていってやろう」
 隣にいるメガネの人と、女の人の声が一緒になった。
「いえ、そこの家の人なんで、大丈夫です。ありがとうございました」
 と言って、オレンジ色の家の隣を指差す。すると、四人とも「え?」と言った表情で一瞬顔を見合わせた。
「そこの家なら俺ん家だけど、なんか用だった?」
 一番背の高い人が口の端っこだけ上げて言った。
 何故笑うのだろうか。
 それに……。この人が「ケン」さんだろうか。そうとしか考えられないけれど。
 無造作な髪に、一重の細い目。すらっと高い背に、さわやかな匂い。
 何だか、想像していたのと違った。
 まあ、どうでもいいのだけれど。
「これ……昨日借りてたTシャツなんですけど。ほんと、助かりました。ありがとうございました。あ、あとこれ……お礼です」
 そう言って、紙袋を差し出す。
「え、もしかして林さんの家の? 娘さんの? 香織ちゃん?」
「はい、そうです」
「まじでー! ありがと。俺、健です」
 ニコッと笑われて、その笑顔がすごく爽やかで、何かよくわからないけど、胸の奥の奥のそのまた奥のほうがチクリと痛くなった。
「じゃあ……あたしはこれで。本当にありがとうございました」
 そう言って、香織は振り返り、もと来た道を走っていった。
 ……そう、香織は足早にそこから去ったつもりだった。
 しかし。頭にくるほど絶妙な位置に転がっていた石に躓き、コンクリートの地面に見事にどかんと激突してしまった。
「……いったあ……。――最悪」
 香織が頭をおさえていると、当然のことながら一部始終を見ていた四人組が駆けつけてきてくれた。ほんと、大人の人だと思う。
 あたしみたいな高校生だったら、こんなことになったら爆笑物だ。
「ちょ、大丈夫? ひざ、血出てるじゃん」
 女の人が慌てふためく。その様子が可笑しくて、笑ってしまった。
「ごめんなさい……あたし、本当にドジでバカですよね……」
 大きくため息をつく。つくづく自分にあきれる香織。
 いつまでも地面に突っ伏しているわけにもいかないので、立とうと思い、右の足首に体重をかけた時。
「痛っ……」
 さっきの憎たらしいあの石に躓いてこけたときに、足をぐねったんだ。とっさに思ったが、後の祭りだった。これ以上、四人に迷惑はかけられないので、ずきずき痛む足をこらえながら、
「もう大丈夫です。家、すぐそこなんで」
 そう言ってから、ありがとうございましたと深々と頭を下げた。
「そっか。じゃあ大丈夫ね。そんじゃ、私達行くよ?」
「気をつけろよ、もう転ぶんじゃねーぞ」
 三人に言われたがケンは黙ったままで。何か首を傾げたかと思うと、香織のほうに寄った。
「……足首」
「え?」
「痛てえくせに」
 香織にしか聞こえないような声で言うと、ケンはあとの三人に振り返った。
「一応、送ってくわ、俺。遊園地、後で追いつくようにすっ飛んでいくから先行ってろよ」
 三人はきょとんとしている。
「ああ、そう? じゃ、よろしく。私らも心配だしね。……あ、健に危ない事されそうだったらここに連絡してきなよ」
 女の人がメモを香織に手渡した。メモには、大人の綺麗な品のある字で「皆川琴美」と書いてあった。準備のいい人。香織は思った。
「バカ言うな、琴美。俺は純粋で清潔な変態だ」
 ケンは自信満々に言う。
「まあいいや。こんな奴相手にするような子じゃないよね、この子は」
 琴美は、香織のほうを見てウインクする。香織も微笑み返した。
「やだーっ! 香織ちゃん超可愛いー! 完全に私好みの顔ね」
「あ、そうだ。じゃあ俺らのも、はいコレ。健は変態の中の変態だから注意しろよ。怖くなったら警察に連絡するんだぞ」
 そう言って、続いて二人の男の人がメモというか名刺を香織に手渡した。
 メガネの人の名刺には「前波 良平」、その横の言ったら悪いが平凡な人の名刺には「山田 直人」と書かれていた。
「お前らな、どれだけ俺を侮辱したら気が済むんだよ」
 言ったが、完全に無視されていた。
「香織ちゃん、だっけ? また会いたいな。連絡、できたらしてよ。じゃっ! 野郎共、行くよ」
 そう言ってずかずかと香織とは反対方向の道を行ってしまった。
 取り残された、二人。

<晴れ男と雨女>
 何となく気まずくて、香織はずきずきと痛む足をずっと眺めていた。
「痛くねえの?」
 いとも簡単に沈黙を破ったケン。
「……痛い、です」
 素直に言った瞬間、ひょいと持ち上げられた。
「わお。軽いねー。これじゃお姫様抱っこ余裕だわ」
 にこやかに言って、そのまま前進する。
「え、ちょ、あの、え?」
 明らかに意味不明の展開についていけない香織。確かに痛い。確かに痛いけど……。
「いいです、歩きます、自分で歩けます!!」
 恥ずかしすぎてばたばたと暴れる。
 それもそうだろう。何せ今香織は当然の如く健の腕に抱かれているのだから。初めて触れる力強い男の人の腕に、どうしても心臓の鼓動が早くなってしまう。
「はい、到着」
 そう言って、ためらいもなしに目の前の家のドアを開けて入っていく。
「あ、知ってると思うけど、ここ俺の家ね。氷くらいあると思うし、あ、あった!」
 お姫様抱っこしながら氷やシップを探すケン。いい加減、香織の心臓の鼓動も元に戻っていた。他の女の人はこういうのにときめきなどと言うものを感じるのかもしれないが、香織には理解が出来なかった。
「あの、降ろしてください、ちょっと! ほんと、降ろしてください!」
 またばたばたし出したので、ケンが顔をしかめる。
「はいはい、静かに静かにー」
 そう言ってにこにこ笑うケンは、赤ちゃんをあやすような人の顔だった。そのさわやかな顔の後ろに大きな振り子時計があるのを香織はちらりと見た。
 最終的に香織が降ろしてもらえたのはそれから五分ほどしてからだった。
「よーし。これで足首と膝は大丈夫だ」
 助けてもらった上に、怪我の手当てまでしてもらって。香織は頭が上がらない。
「ほんと、ありがとうございました。何てお礼を言ったらいいか……」
「ん? ああ、いいんだって、別にさ。そんなかしこまるなって。
 実は俺、遊園地行きたくなかったからさ。逆にお礼言うよ、マジでありがと」
 ニコッと笑う。が、香織はなんだか複雑な気持ちだった。
「……でも……。何かお礼しないと、気が済みません」
 そう言うと、フッと香織に近づき、不敵に笑うケン。
「じゃあ、何かお礼してもらおうかな。せっかく二人きりなわけだし」
「ち、ちょっと……顔、近いです」
 何が何だか分からない香織。ケンは、ははっと軽快に笑うと顔を遠ざける。
「まだまだ子供だよなー。いくつだっけ? 十五?」
 そんなに若く見えるのだろうか。ちょっとショックになる。
「十七です……。一応高二なんですけど」
「やっぱ子供だ。そういう『子供』じゃねーんだよ。十七でも子供は子供」
「なんですか、子供、子供って。そう言う……あな、たは」
 なんて呼べばいいのか分からなくて、戸惑った。
 それに気づいたみたいで、ケンはまた笑った。
「『ケン』でいいよ別に。それと、俺はもう大人だな。いろんなことしてるもん」
 香織は首をひねった。
「いろんなことって?」
 聞くと、ケンは呆れたように深い深いため息をついた。そして、また笑う。
 この人、よく笑うなあ。何気なく、香織は思う。
「こんなこととか。お前、したことねーだろ」
 ふい、と顔が近づいてきて、抵抗する間もなく、キスされた。あっけなく。ロマンチックに目を閉じる暇もなく。唇に触れた瞬間なんて、何のぬくもりも感じなかった。そんなものなのか。キス、なんて。
 そのまま、普通に時間は流れた。
「ん……したことない」
 冷静に答えた自分に驚いた。
「だろ? その辺が子供なんだよ、お前。ぽかんとした顔してさ」
 はっとした。この男はいったい何をしているんだ。
 変態だ。ものすごい変態を香織は相手にしていたのだ。
 ……最悪だ。怒りがふつふつと湧き上がる。何、にこやかに「だろ?」とか言っているのだろうか。
「……あた、しの……」
「ファーストキス、だった?」
「ばかっ! 万年変態! くそ野郎! ぼけ! カス! くたばれこの野郎!」
 口をぬぐう。痛くなるほどぬぐう。
 ……今日Tシャツを持っていったことをかなり後悔した。別に明日でも良かったのだ。なんとなく今日もって行ったほうがいいかな、なんて思っただけなのだ。
 あー…。ほんとに最悪だ。悔しい。こんな変態とファーストキスだなんて。香織は唇をかみ締めて下を向いていた。必死にこぼれそうな涙をこらえた。でも、すでに目は潤んでいた。
「……も……やだ」
「え?」
「『え?』じゃねーよ、ばかっ! あんたはそういうこといっぱいやってるんでしょ。
 あたしはね、ほんとに初めてだったんだよ。ホント最悪。
 今日は怪我の消毒どうもありがとうございました。
 そしてさようなら。この変態! くそばかっ!」
 吐き捨てて、まだ痛む右足を引っ張って乱暴に玄関を出た。
 玄関を閉める間際、振り子時計がボーンとなったのが聞こえた。
 一人になった健は、今までついたことのないようなものすごく深いため息をついた。
「くっそ……」
 別に、始めはただ単に可愛い子だなーと思っただけだった。ちょっと遊んでやろうと思っていただけなんだけれど。
 でも、転んで、強がって、本当に子供みたいなそいつは、ただただ純粋で、健自身はない純粋を持っていて。大人を知らず、無防備で。つい、やってしまった。成人にもなって、馬鹿なことをした。なにか、胸の奥のその奥が。痛い。針で刺されているようだ。
 ……まさか。まさかな。
 そう思っても、痛さは増していくばかりで。がらんとしたリビングのソファで、健は一人ニコッと笑った。どうしようもなく、苦しい笑みだった。窓の向こう側の空にはどんよりとした雲が広がっていた。それはまるで、健自身のようだった。

<矛盾、晴れ男の傘>
「最低……最っ低」
 痛くてほとんど進めない足を必死に引きずりながら香織は歩いていた。どうして、こんなことになったのだろうか。
「あの時……雨なんかじゃなかったら……。Tシャツなんか借りなくて良かったのに」
 馬鹿みたい。香織は呟く。
「……痛い……」
 家までまだ少しある。早く帰らないと、早く帰らないとまた……。
 気づいたときにはもう遅かった。
「なんで……降ってくるのさ」
 雨女。
 雨は強さを増して。
 悲しいほどに強さを増して。
「どうしてっ……こんなみじめな思いをしなくちゃならないのさっ……あたしが……何をしたって言うの……よ」
 香織の声は、小さな呟きのようにしか聞こえなかった。香織の涙は雨に混じって一つになっていく。泣いてなんかいない。全部雨だ。香織は自分に言い聞かす。
 途端、雨が止んだ。いや、香織の目にはとどまることのない雨が降り注いでいた。
「傘……?」
 はっとした。
「何にもしてねえよ、お前は。なーんにも悪くない」 
 なんで……のこのこと。よく来れたよね。
 そんな言葉が頭の片隅に浮かび上がったが、心の中はそんな気持ちじゃなくて、もっと違う気持ちが、今の香織の中にはあって。少なくともそれは、嫌悪とかそういうものじゃなくて。一言で言うなら、とてつもない安心感。
「さっきは、ごめんな」
「許さない」
「許さない……もん」
 繰り返した。でもその声には先程のような反発的な力はなく。声は、言葉の意味とは逆のようだった。しばらく沈黙だった。が、ケンが口を開く。
「送ってく。家、知ってるし」
 いやだって言いたかった。いらないからどこかへ行ってと言いたかった。でも、なぜか香織はうなずいていた。
「……お姫様抱っこはやだ。絶対」
「え、じゃあおんぶは?」
「やだ」
「じゃあ抱っこ」
「絶っ対やだ」
「……じゃあ」
 ふと、手が繋がった。軽く、だけど力強く。ケンの大きな手に、香織の小さい手はすっぽり収まってしまう。
「これは?」
 微笑まれて、香織はまたうつむく。
「……これなら、別にいいけど」
「隙あり」
 その瞬間、香織は掴まれた手をひょいと持ち上げられてなぜかおんぶされた状態になってしまった。
「やめてっていったじゃん」
 ばたばた暴れる香織。にこにこ笑うケン。
「アホか。そんな足で手繋ぐだけで歩けるわけねえだろ。それくらい分かってるんだよ」
「……」
 そう言われると何も言い返せない。なぜか、天気は曇りになっていた。
 絶対に変態なのに。この背中の安心感はなんだろう。この大きい背中は妙な安心感を香織にもたらしていた。安心なんてしたら、だめなのに。
 こっくりこっくり。
 香織は、だいぶ疲れていたのか、ケンの背中でいとも簡単に眠ってしまった。
「なあ。おい?」
 耳元でスースーと聞こえるので、何かと思って声をかける。
「寝てるのか?」
 聞いたが、返事がない。十中八九寝ている。
「疲れたんだなー。ごめんな、今日は」
 健は起こすまいと少し速度を緩めた。寝言で香織がうん、と言った。健は少しだけ微笑む。
 灰色だった空には青が見え始めた。

「おい、起きろ。着いたぞー」
 香織の家に着いたので、起こしにかかるが、熟睡してるようで全く起きる様子がない。仕方ない。健は思い香織の家のインターホンを押した。
「はい?」
「こんにちはー。健です。お届けものに参りましたー」
「あらっ。健君? 久しぶりねえ。上がって頂戴」
 お言葉に甘えて、久しぶりに健は家に上がった。
「え? 香織? 寝てるの?」
 戸惑った表情の香織の母。そりゃあ無理もない。
「ええ。まあいろいろとありましてね……あはは」
 とても自分が香織にキスしたなんて事は言えない。健は今日あった出来事をごく少量だけ嘘をつかずに話した。言っていない部分は大いにあるのだが、真実だから問題ない。
「……そう。わざわざ送ってくれたの……。ごめんなさいね、どうも。あ、お礼に昨日作ったチョコレートケーキあるけど、どう?」
 チョコレートケーキ。それは健の大好物である。
「まじっすか! 頂きます」
「はいはい。健君も変わらないわね。まだまだ子供」
 ふふふと笑って、キッチンへ行く。エプロンをした後姿はどことなく懐かしい感じがする。
「あ、香織、そこのソファーに降ろしてあげてくれる?」
 にこやかにそう言う。声に従って、素直に降ろす健。降ろした瞬間、ぱちっと目が覚めた。
「うわあっ! 何で居るの、変態!」
 何事かと、母が駆けつける。
「どうしたの? そんな大声出して」
「い、いえ。なんでもないです、あは、あははは……」
 しどろもどろに健が答えた。
「そう? ま、いいや。持ってくるから待っててね」
 キッチンに戻る。
「……あ、送ってくれたんだった」
「忘れてたのかよ」
 二人きりになって、妙に小さい声で話し出す。
「何にもしてないでしょうね、あたしが寝てるとき」
「……してないに決まってるだろうが」
 香織はふーんと答えると、最近買ったソファにごろんと横になった。
「はい、お待たせ」
 チョコレートケーキが運ばれてきた。香織は飛び起きる。
「わお! おいしそう。頂きまーす」
 ケンは待ったなしといった感じで、もうフォークにケーキを突き刺している。香織もケーキをフォークで切って、一口、口に入れた。ケーキは口の中でほろほろと溶けていく。
「美味しいっ。やっぱお母さんのケーキ最高だあ」
「うん、美味しい。マジで美味しい」
 二人に褒められ、とても嬉しい母なのであった。

<大人の恋?>
 それから、今の政治はどうちゃらこうちゃらとどうでもいいくだらない話をしていたが、一段落ついたところで、ケンが立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
 そうだそうだ、帰れという声が香織の中でこだましていた。
「変態、もう帰るの?」
 あ、と思ったが遅かった。年上に対して変態とはまた……。
 でもまあ、間違ってはいない、と香織は自分に納得した。
「香織。この人はね、健って名前なのよ?
 いくら変態でもかわいそうよ」
「ちょっと、二人していじめないでくださいよ。俺、純粋で清潔ですから」
 そう言って、爽やかに笑う。少し前はそれに変態をつけていたのに。いい子ぶっちゃって、馬鹿みたい。
「ほんっと、健君かっこいいわねえ。ちょっと、うちの息子になってよ。ていうか香織と結婚しなさい」
 また言ってる……。呆れる香織。
「お母さんね、ありえないから。あたしが変態と結婚とかありえないから。しかもあたしまだ十七だか……」
「結婚ね、じゃあ予約しておきます」
 あたしが言い終わる前に、舌を突き出して、いたずらっぽくケンが言った。
 母までぽかんとしている。
「バカっ。無駄口たたいてないでさっさと帰ってよ! さあ、早く!」
 玄関から放り出した。ぽかんとしていた母が笑っていた。
「十七でもしようと思えば結婚なんて余裕よ? でも少し早いかな。ま、まだまだ香織には早いけどね。大人の恋、しなさいよ。そろそろ」
 大人の、恋。聞き慣れない言葉。
「そんなの……大人の恋って、どんなの?」
 とっさに聞いていた。ずっとずっと疑問だったこと。しかし、母はニコッと笑ってリビングへ行った。
「大人の恋、ねえ……」
 呟きながら、自室に戻った。
 床にゴロンとなるとさっきの疲れがよみがえってきて、またすぐに眠ってしまう香織だった。

<晴れ男の気持ち、雨女の涙> 
 起きるともう昼前だった。そういえば今日は朝早くからお母さんが出かけるから起こす人が誰も居なかった。
 久しぶりの一人。遊びに行くのもめんどくさいから宿題でもしようか。
 そんなことを考えていた。
「お風呂、入ろ」
 日課の朝風呂。今日はちょっと昼風呂って感じだ。いつものようにバスタオル一枚で遅めの朝食を食べる。
 静かなものだ。せみの声しか聞こえない。ほかは、何にも聞こえない。
「ピンポーン」
 突然、機械音がしてはっとする。誰だろう。宅配便かな。
「はーい」
 その場においてった適当な服を着て、印鑑を片手にインターホンの受話器をとる。
「宅配便でーす」
 あ、やっぱり。予感が当たって香織は内心嬉しかった。
 ドアを開ける。
 ……閉めた。
 見間違いだよねと思って、もう一度開ける。
 ……閉めた。
「おいー。なんで開けたり閉めたりするんだよー」
 ……ケン。
「……なんで来てるの。ていうか、あんた宅配便って何よ」
「え、だって、健ですって言ったら、お前出てきてくれない気がして。あ、でもお母さんに言ったら大丈夫だったかな。……ていうかさ、ものすごく悪いんだけど、トイレ貸してもらっていい?やばいの。我慢できねーのよ」
 あつかましい奴。全然懲りてないんだから。
「何にもしないって約束するんだったら入れてあげてもいいけど」
「する、する。約束します」
「……じゃあ、上がっていいよ、別に」
 あたしって何でこんなに甘いんだろうか。香織は大きくため息をした。でも、ずっと思っていたことがある。
 胸の奥のずーっと奥が。痛い。
 この気持ちは、何?
 もしかしてこれが?分からない。でも、可能性は……ある。いや、ないな。
「……あれ。なあお前の母さんまだ寝てるのか?」
 トイレから出てきたケンが言う。 
「ううん。今日はなんかの用事で朝から出て行った」
 言って、気付いた。何て迂闊なことをしたのだろう。この変態と……香織が二人きり。でももう手遅れである。もうすでに変態は香織の家の中に入っているわけなのである。
「ね、ねえ。あんた、なんでうちに来たのよ。なんか用でもあるの?」
「うーん? 別にないな。だめ?」
「用事もないのに何でうち来るのよ。馬鹿じゃないの」
 そう言いながら、香織は今の自分に戸惑っていた。
 この気持ちは、何?
 不意に、ケンと目が合った。いつもの調子ならなら「こっち見るな」くらい言えるはずなのに。
 そらせなかった。吸い込まれるような黒目に、本当に吸い込まれそうだった。
「もう、無理だ」
 突然、目をそらされて戸惑う。
「馬鹿だよ、お前……。馬鹿だ」
「何よそれっ。馬鹿はあんたでしょ、バカっ」
 さっきまでのときめきを返せと思う。
「じゃあ……そろそろ帰るわ、俺」
 そそくさと立ち、リビングを出ようとするケン。笑っているけど、笑っていない。拳を固く握っいて、それは少し震えていた。
「やだっ。待って」
 反射的に、香織はケンの足首を掴んだ。
 どかん。そんな音と共にケンがうつぶせに床に激突した。
「あ……ごめんなさい」
 そう言うと共に、帰らないでという心の中の叫びが、聞こえてきた。
「何で、引き止めるんだよ」
「え?」
「勘弁してくれよ、何で引き止めたんだよ、バカ」
 とっさに答えていた。
「好きだからに決まってんでしょ、このクソバカっ!」
 リビングが、静まり返った。
 時間が止まるというのはこのようなことなのだろうか。ケンの顔が見れないでいた。悔やんだが、もう遅かった。
「……ははっ」
 突然、ケンが笑い出した。
「お前、冗談うまいな。俺は今から用事なの。好きなら初めから言えばいいのに。
 可愛いやつだなあ。ははっ」
 え、と香織は思う。
 さっきの雰囲気は、嘘じゃなかったはずだ。
 何故、どうしてそんな事言うの。
「……もういいっ。
 帰れ、バカっ! 用事があったんだったらうちになんか来ないでよっ。
 あんたなんか大嫌い、最低!」
 振り返らず、ドタドタと二階へ駆け上がり、自室の鍵を閉めた。ムカつく。ほんと、意味分からないやつだと思う。
 なのに……。
「何で……。嫌いにならないの……。ムカつくのに」
 いつの間にか、泣いていた。香織自身も気付かないうちに、泣いていた。
 あの言葉は香織の本当の気持ちなのだろうか。それは香織自身にも分からなかった。好き、の意味さえ分からないのだから。嘘なのか本当なのかさえ、わからない。
 ―コンコン―
 部屋のドアがノックされた。
「なあ……」
「帰ってよ……。何か、もうやだ」
 言いながら、心の中では帰ってほしくない。そう思っていた。
「用事があるんでしょ、帰ってよ」
 言うな言うなと思えば思うほど、言ってしまう17歳。
 そして。何も、聞こえなくなった。
 帰っちゃったんだ。あんなに帰れって言ったんだ。いるほうがおかしい。
 香織は、ため息をつくと立ち上がった。ドアノブに手をかける。
 ケンが居ないのなら、自室に居る必要はない。リビングに戻ろう。そう思って、ドアを開けた瞬間。
「騙されたなー」
「きゃ!」
 居ないと思っていた人の腕の中に、香織は居た。抱きすくめられている状態。抵抗しても、その手は少しも緩むことがなくて。
「……。……離してよっ」
「離さない」
「何でこんなことするのよっ。バカっ」
 必死にもがく。けれどやっぱりその手は少しも緩むことがなくて。
「好きだからに決まってんだろ。クソバカ」
 優しく言われて、香織は一瞬にして抵抗ができなくなってしまった。力を抜いた瞬間、もっと強く抱きしめられてもう何が何だか分からなくなってしまう。
「じゃっ。俺そろそろ帰るわ」
 そう言って、次は本当に、ケンは帰ってしまった。
 香織はその場から動けず、玄関のドアが閉まる音と同時に床にぺたんと座り込んだ。
 帰り道、やけに歩くスピードが速くなる。
「好きだからに決まってんでしょ、クソバカっ」
 その言葉が頭から離れなくて。何が何だか分からなかった。あの言葉が、あの子の中からただとっさに出てきた言葉だということは分かっていた。
 この何年間か、こんな気持ちになったのは久しぶりで。
「告白……。俺からするなんて、まじどうなってんだよ、自分」
 呟きながらも、自分がどうなってるかくらい、健にも分かっていた。あの子に、惹かれている。他人以上のことを求めている。それは確かな事実だった。あの子が、欲しいと思っていた。このたった数日間の中で。
 そんなことを平気で思う自分に腹が立つ。しかし、これは変えようのない事実で。否定しようとすればするほど、あの子に対する気持ちは反比例して膨らむ。
「まだ十七だぞ……。どうすりゃいいんだ」
 そんなこと、健には分からなかった。腹が立つほど、空は青かった。

<曇りのち晴れ男>
「ねえ。前からすっごく、ものすごく気になってたことなんだけどさ」
 遅めの夕ご飯を食べながら、いかにも不機嫌そうに香織が言った。
「どうしたの?」
 平然とした様子でお母さんが答える。
「どうしたの? じゃないでしょ。何でコイツがあたしらの家に毎晩毎晩夕ご飯を食べてるのよっ」
 お箸で「コイツ」と呼んだ人間のほうを指す。お察しの方もいると思うが、健である。
「人を箸で指したらだめだろ。行儀悪いなあ、もう」
「そうよ、香織。そんな行儀悪いことしたらだめよ。それとね。健君を呼んだのはお母さんだからいいのよ。香織も素直になりなさいよね。キスまでした仲なんだから」
 ……何で知ってるんだ!!!この女は!!
「し、ししししてるわけないじゃん。こんな変態と」
 してないしてない。あれは夢だったのだ。香織は自分に言い聞かせる。キス?何それ? どうやってするの? どこの言葉?
「これからも香織のこと、よろしく頼むわねえ。ほんと、まだまだ子供ですけど」
 おい!? いい加減にしろー!!
 何だ、この異常に小説史上最速の展開。
「ちょっと、お母さん! いい加減にしてよね!頼むからこんな変態によろしく頼まないでよ」
 今にも泣き出しそうな顔で必死に言う香織。反対に他二名は笑っている。だんだん二人は調子に乗ってきて、ついには
「健君。式はどこで挙げたい?」
「そうですね、やっぱりチャペルがいいですね。まあ『新婦』と相談しなければならないんですがね」
「ああー!! 二人のバカーっ。特に変態のほう!」
 香織が熱くなればなるほど、二人は盛り上がっていた。もうここまできたら、二人を止めることは不可能である。なんとも馬鹿らしい理由にて、二人は盛り上がっているのか。香織は冷めて、一言呟いた。
「ごちそうさま。食べたらさっさと帰ってよね、変態」
 ふん、とキッチンに食べ終わった食器を持って行く。そのままどかどかと階段を上って自分の部屋に入る。ガチャン、と少し乱暴にドアを閉める。
 もう夏休みも後半だというのに、宿題には全くと言っていいほど手をつけていない香織。そろそろやばいかもしれないと思って勉強机に積み上げてあるいまいましい宿題を取り出すが、結局問題を一・二問解いたところで少し気に入ってるみかんのシャープペンシルをことんと置く。ため息をつくと、つくえに突っ伏した。
 最近、何事にも力が入らない。集中力がなくなっている。
「ああ、もう。何なのよ」
 気がつくと、考えている。馬鹿馬鹿しいがどうしても。
「おーい。香織ー? 入るぞー」
 ……来た。香織にとっての集中力無くし魔が。
「入んないで。今宿題してるの」
「お邪魔しまーす。あ、布団敷きっぱなし」
 香織の声は完全に聞こえているはずなのだが、平気な顔をしてずかずか乗り込んでくる集中力無くし魔。
「何で入ってくるのよ、バカ。……ていうか、あんた……。まさかとは思うけどお母さんに、キキキ、キ……スした事、っていうかあんたが勝手にだけど……。言ってないでしょうね」
 やっぱりどうしても「キス」が言えない。
「キキキ、キ……スだってよー。あはははっ」
「黙れっ、バカっ。そんな事言えなんて言ってないでしょ。で、どうなのよ」
 何のか分からないがその場にあったノートで集中力無くし魔をバシバシたたく。
「痛いっ。痛いって! 言うわけねーだろ、そんなこと。お前じゃあるまいし」
「お前じゃあるまいしって……。ほんと何なのよー! っていうか、じゃあどうしてお母さんが知ってるのよ」
「知るかよ。適当に言ってるだけだろ。……あ、この布団気持ちいいな。お前の匂いがする。さあお前も来い! 水川健のもとへ!」
 たわけた事をほざきながら仰向けになって両手を大きく広げる健。ほとんどの人が察していると思うが、集中力無くし魔とは健のことである。
「男臭くなるでしょうが。早く出てよっ……わあっ」
 勉強机の椅子を浮かして寝ている健を手で追い払っていると、バランスを崩してしまい、椅子が倒れてしまった。無論香織は布団へダイブ状態。
「おー。来たか。ダイブするほど俺のことが好きなのかー。よしよし。可愛いやつだなあ。ったくー」
 よしよしと頭を撫でられて、香織はものすごく恥ずかしくなってしまった。恥ずかしくなるとどうしても無言になってしまう。
 いつも、こういうような雰囲気になると、思う。変態って、本気で思っているのに。
 好きでもないのに。……好き?ってなんだろう。
 しかし。どうして。なんだろう、この安心感。何だかんだ言って、香織は健を信頼している。
「……ほんと、可愛いやつ」
 そう言いながら何気なく、だけどやっぱり力強く、苦しそうに、まるで何かに耐えているかのようにゆっくりゆっくり、香織を抱きしめる。
「なあ、何でお前は……そんなに鈍いんだ?」
「え、何が?」
 さっきの雰囲気とは違う感じでため息交じりで言う健。
「あのな、俺、男なわけ。この状態だったら俺の力だったらお前のこと、どうにでもできるんだぞ? もうちょっと危機感持てよー」
 ……この男は。香織は思う。
「どうしてこういう、その……雰囲気、壊すかなあ……。あたし、こういう雰囲気、嫌いじゃないのに。少なくとも、変態モードのあんたよりはだいぶまし」
 ふい、と香織は唇を尖らせる。
 ふん、と健は苦笑する。それから、にっと笑った。
「今度、遊園地、行こうか。この前行かなかった分だ」
 不意に言われたので。それがどういう意味か分からなかった。 
 ただ、香織は嬉しい。それだけだった。高校生にもなって好きなのだ。遊園地。
「遊園地っ!? 行くっ! 絶対行くっ!
 いつ!? 明日行こっ。うん、明日!」
「明日? まあいいや。行くか」
 そう言って、やっぱり健は苦笑した。
 
<すさまじき曇天>
 セットしている携帯電話のアラームが鳴らないうちに目が覚める。まだ少し重い瞼で周りを見渡すと、買ったばかりの掛け時計は六時を回ったところだった。
 久しぶりに早起きをした。もうすぐ学校が始まるのでそろそろ慣れておいたほうがいいのかもしれないと何となく思う。最近はいつも昼前に目が覚めていたから。
 暑いな。呟きながら少し湿気で重くなっている布団をたたみながら窓の外を見つめた。窓の向こうがわの空は、思い切りどんよりしていた。今にも地上に落ちるのではないかと思わせるほどの曇り空で、それなのに風は全くと言っていい程無かった。
 遊園地。昨日から楽しみにしていていつもより早く寝てみたけれど。
「降るだろうな」
 雨女だもの。大きくため息をついて布団をぐっと持ち上げるとふすまを開けて、少し乱暴に突っ込んだ。
 それにしても。健は何故遊園地なんて誘ってくれたのだろうか。本当は健は、遊園地が好きなんじゃないのかな、分からないけど。でもそうじゃなかったら何のために誘ったのだろう。
 あたしのため?
 不意に香織の頭の中にそんな考えが浮かんだ。
「まさか」
 呟くと、六時半にセットしていた携帯電話のアラームが鳴った。

2008/10/04(Sat)22:55:47 公開 / 乃崎アラレ
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