『キミの元へ行く為に 第二部四章』 ... ジャンル:ファンタジー アクション
作者:チェリー                

     あらすじ・作品紹介
多発する変死事件、変わりゆく冬慈の世界。その中で彼は自らを向上せんとする中、過去が彼の歩みを止め始める。夢か、現実か、その境界線を迷走する彼はどちらが自分にとって本当の“現実”かを探し始める。

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 プロローグ


 変わったものをよく私は最近見ます。
 きっかけは何だったのか、……なんでしょうね。思い当たるふしがあるとすれば、数日前のこと。
 それはいつもの帰り道、私はとある事故を目撃しました。一人の少女が引かれ、唖然と状況に頭が追いつけず目の前で二回三回と転倒する車両を見ても足が動かず、車両同士が衝突し、宙に放り出された車両が私へ向かってきました。
 本当に、死ぬ寸前となると時間の流れが遅くなるようで車両がこちらへ来るのをじっと見つめ、頭の中では逃げなくては、と考えても余裕が生まれるほどスローモーションに感じました。私は死ぬのですね、結論を自ら見出すことがこんなにも残酷ならばそう思わなければよかった、それでも目の前に広がる事実は結論を押し付けるのです。
 車両がゆっくりと体を砕き、私はビルとビルの間にある小道へ飛ばされ、激痛なんていうものはすでに通り越して何も感じなくなってしまいました。地面を滑り、ようやくして体は何かにぶつかって静止しましたが私の体ももはや静止状態へと陥り、助けを呼ぼうにも声が出せません。周りには誰もおらず、先ほど私の体を砕いた車両によって私が発見されることは無いでしょう。道をすっぽりと塞いでしまい人が来ることなんて無いのですから。
 手も足も動かず、動くのは眼球だけ。どうやら全身の骨という骨は複雑に折れているようです。体も起き上がらせることができないということは背骨すら砕かれたのでしょうか。手も、足も、感覚は何もありません。口の中には暖かいものが広がって私は咳き込みました。それは朱に染まる液体――つまりは吐血したようです。肺もやられたのでしょうか、息苦しくも苦痛は無いのが不幸中の幸いというのでしょうか。
 このまま私は死ぬのでしょうか。
 まだ恋もしていません。男性と手をつないだ事だって無いんですよ。好きな人が出来ても、結局は告白できずに指をもじもじさせて遠くで見ているしかない私です。
 もう瞼を開いているのも疲れてきました。
 このまま私は死ぬのでしょうか。
 まだ二十歳にもなっていないのに、十六年という人生に終止符を打つには早すぎます。これからやりたいことはまだまだ数え切れないほどあるのに、私には何一つ叶えられないまま死んでいくのでしょうか。
「ねぇ、生きたい?」
 全てに諦めてただただ死という路線を駆けていた私にその時誰かが声を掛けました。私はゆっくりと重い瞼を開けますが、眼鏡が先ほどの衝突によってどこかへ飛ばされたため視界がぼんやりするもそこには幼い少女が立っていることだけはわかりました。倒れている私のすぐ頭の先に立って私の顔を覗き込んでは笑顔を見せていました。ビルによって日差しを遮られたためにできた影さえも吸い込みそうな漆黒の黒髪がゆらりと私の鼻を翳め、少女は血に塗れた私の顔を手で拭き、
「ねぇ、生きたい?」
 もう一度問いかけました。
 私の返答は決まっています。生きたい、ただそれだけです。でも言葉を発することなんて今の私には無理のようです。大量の血液が喉を塞ぎ、声を出そうとすれば吐血しか出来ません。
「あ……う……」
 そんな私に少女は首を傾げます。
「瞬き二回でイエス、ノーなら三回してみて?」
 少女の提案に乗り私は瞬きを二回しました。
「そう。貴方の願い、受け取りましょう」
 何が起こったのか、説明なんて出来ません。暖かい、ただそれだけを感じ、光が全身を包むと私はまるで深く眠りにつくような、そんな気持ちよさを得て気がついたときは病院のベッドにいました。
 あたりを見回せば事故で傷ついた人達でしょうか、老若男女それぞれベッドで看病されていて私はそれを見て自分が事故に遭ったことを思い出し体を見てみるも、包帯などはされておらず、動けることに気づいて全身を隈無く触ってみるも傷という傷も無かったのです。白い病院の服には血痕も無く、一瞬あれは夢だったのか、そう思いました。
 でも……
「あら、気づいたようですわね。あなた事故現場近くで倒れてたのよ。全身血塗れだったから、重傷かと思ったけどおそらくそれは他の人の血だから心配しなくていいわ」
 そばに置いてあった私の衣服には大量の血痕が付着していました。あれは夢ではなかったのです。
 それから、私の世界は大きく変わりました。
 普段見えるはずの無いものが見えるようになったのです。
 白い球体のようなものがよく夜中に空をふわふわと浮いていたり、表現するならばまるでそれは蝶のように、そして時折風船のように浮いてはまた脈を打つように上下しては浮いて彼方へ飛んでいきます。他には人ごみの中だとよく気づくのですが、妙な人がいるということです。周りと違って体が若干透けていて、その目には何を見ているのかわからず放心したように直進してきます。それが見た目は人であっても、もう人ではないということを私は理解しました。
 それから二日後です。
 私はいつものように学校生活を過ごしていました。
 私の学校生活は酷いものです。必ず一校にひとつは有るでしょう? 虐める人と虐められる人というのは。私は虐められる側です。今日も体育の授業が終わりいつものグループが私に後片付けをさせては遅いと殴る蹴るの暴行します。所詮弱者は死者と同じ。死人に口無し、弱者に口無し。助けを呼ぼうにも怖くてできないし、誰もいない。けれども今日は妙でした。
 何度叩かれても、蹴られても、痛みを感じることが無いのです。それが私の恐怖を和らげてくれました。
「なぜ反抗しなかったの?」
 ようやく開放された私はあの時の少女に出会いました。私を哀れむように見ては溜息をついて先ほどの様子に深く遺憾を示したようです。
「お前の体は痛覚など感じぬものとなったのに、もう死ぬことなど無いのに、せっかく神の力も与えたのに、もう弱者ではないのに」
 少女から聞いて私の体は大きく変化していることに気が付き、以前のような強者に只管虐げられることは損だと言われました。
「私に……どうしろっていうのですか?」
「別に。貴方には聞きたい事があるくらいかな。こんな世界について」
「こんな世界……?」
「そう。弱者がいつまでも強者の下で跪く日々、結局は自分が強くならなきゃ世界は振り向いてくれない。でも強くなれない人はいつまでも、そういつまでも大地を這いずり回って強者を前にしては跪いているしかない。おかしいよね。私達は常に弱肉強食の中を生かされてるの。だけどこんな世界を変える方法はあるわ」
 少女は不敵な笑みを見せました。
 どうしてでしょうか、私にはその笑顔がとても魅力的に感じます。
「教えてください……」
「強者がいなくなればいいことじゃない。そうすれば平等な世界が生まれるでしょう? だから貴方に聞きたいの、こんな世界を変えるべきか、それとも今のままでもいいのか」
 少女の言葉がどれほど私の心を動かしたことか、私が常日頃思っていること、少女はまったく同じ考えでいるのですから私は即答しました。
「……世界は変えなければなりませんね」
 そうです、世界は変わることを待つよりも自ら変えなければならないのです。
「うん、そうよね。だから貴方に私は力を与えた。その力の使い方は今日からじっくりと教えてあげる」
 私の心は正直躍っていました。
「今日から貴方はこの世界の主人公よ」
 そう、なんていったって私は世界を変える主人公になったのですから。


 第一章 夢か、現実か、

 地球温暖化はこれほどまでひどくなっているのかと思うくらい、肌には陽光が矢となって突き刺さるような刺激を感じる朝に俺は顔を歪ませながら目を覚ますことになる。
 晴天は平和が連想されるがこれほどの晴天であると、戦場に狼煙が上がる直前であるかのようで太陽に対してこれほど不快感を抱いたことはない。とはいえ今は七月であるため太陽が毎朝雲に妨害されること無く空を泳ぐのは致し方無く、この不快感をぶつけるといっても対象は手の届かないところで見下ろしてくれている。今年は真夏ともいえる季節に入るのが早いようだ。東京付近とはいえ珍しい。一ヶ月前までは涼しい風が吹いて学校で窓を全開にして風が送られてくれば心地よく頬を撫でてくれるようなかわいいものだったのに、七月に入るや夏を俺達に嫌というほど味合わせてやると閃いたかの如く太陽が元気になってしまった。砂漠を横断している冒険家が雨を望むように今俺も最低でもせめてこの太陽ぐらいを隠してくれる雲を探すべく窓から空を見上げて仰いでみるも、言葉どおり雲ひとつない青空だ。
 梅雨の時期には太陽が恋しくなり、夏の時期には梅雨が恋しくなる。なんとも言えぬイタチごっこに思えるが、きっと皆考えは同じだろう。ただ、夏の場合は夏休みというオアシスが待っているため、重い体を動かしてあと二週間足らずで前期は終了するということを頭に置いておけば、さて頑張ろうという気構えが体を駆け巡り、だるさなどいとも簡単に吹き飛んでしまう。実際、吹き飛んでなどいないのだが今は吹き飛んだと思い込むことで重い腰は上がるわけだ。
「にー。おはよう。朝だよ」
 ドアを二回ノックして凛子の声が聞こえるが、凛子もこの暑さにやられたのか、言葉にはいつもの張りが無い。まるでつまらない奴を起こしにきたようでなんだか返答するのも引けてしまう。眉をひそめて俺は着替えをした。
 カレンダーを見て今日を確認する。
 七月五日、まだ真夏へ入るには早すぎるだろうにこの暑さならすぐにでも海開きしたら誰もが飛び込みにいくだろう。
「うー……」
 ……床に何かが蠢いている。薄い掛け布団に絡まれているのか、言葉を発したことから人間ではあろうが、手足も見えず、顔も見えず。アメーバのように蠢き身悶えていた。飛んで火に入る夏の虫、ふとそんな言葉が思い浮かぶ。思考を昨日の夜まで遡らせるとそれは夜風が涼しいから大きめの掛け布団に包まればちょうどいいと言って掛け布団で自ら蓑虫のようにして『ちょうど良い!』と宣言していたのが、朝になったらこのざまだ。
 俺は掛け布団を引っ張り、中に埋もれているまだ掛け布団に頭やらを絡められて息苦しそうに呻く一人の少女を救い出した。手を差し伸べてやり、少女は手を掴むがべっとりした液状の不快感を提供された。
「……」
 引っ張り出したのは想像していたそれとは違う少女だった。右角が欠けながらも左右に人間には成しえない角を揃え、漆黒の瞳、これが鬼という存在であるから想像していた禍々しい存在とは正反対のだらしなさに溜息が漏れる。鬼は外、福は内という言葉を彼女は知っているのだろうか。堂々と人の家にいて布団の中へ潜り込み睡眠をとる行為は豆を撒けば止めてくれるのだろうか。別に迷惑はしていないが、朝起きるたびに起こすやつが増えるのは面倒なのである。学校という義務ではないが俺の中ではすでに義務化している日常を送るためにも朝は流麗に、そして静謐に送りたいものなのだ。ついでに、提供された不快感は汗と思われたが違うようだ。これは――。
「だ、唾液?」
 ねっとり手に粘りつく尋常じゃない大量の唾液。
「キスイ! ちょっと顔拭け!」
 眠そうに瞼を擦り、口が裂けるのではないかというくらいに大きく開いて欠伸をしては、欠伸によって涙目になった瞼を再び擦る。言われるがまま普段は細い目などしていないくせに細目で顔を掛け布団で拭う。掛け布団は顔を拭くものではないと言ってやりたいがこの場合は彼女のどうしようもなく収拾がつかない顔をすっきりさせるには致し方がないだろう。
 ここで思う。掛け布団に埋もれていたのはキスイだった。では俺が想像していた人物は一体どこに行ったのだろうか。
「むー……」
 まだ掛け布団に絡まれている奴がいた。キスイの足元あたりにいたのか、まるで巻貝のように体を丸めているがキスイに寝る場所を取られたか、部屋の片隅に追いやられるようにして掛け布団に絡まれている。さらにこの暑さだ、同情さえしてしまう光景に俺は率先して彼女を助けた。
「大丈夫か?」
 掛け布団を剥ぎ取るとまるで花火のように広がった黒髪が現れ、額に汗を浮かべてまだ夢うつつに苦しむ彼女――ルウがいた。肩を揺さぶり、とりあえず夢から現実へ呼び出そうではないか。
「あー……おはよう」
 半ば寝ぼけているとはいえ堅苦しい口調は維持しているようだ。上体を起こすも髪は花火状態のまま、左右を二、三回見回して今自分がどのような状況であるのかを把握しているらしいが頭の中にすんなりと入り込んで理解にまで到達するのかは疑問なところである。
「おはよう、学校だぞ?」
「がっこー? ……神はそんなもの知らぬ」
 ああ、そうだな。一応君は神だが、俺からするとこんな神がいるということと毎日こんな神を世話してやらないと思うだけで米神を軽く突かれるような頭痛を呼び込むわけだ。
「今は緒方時子だから学校には行かないと駄目なの!」
「うんうん、そうだった……。緒方時子である」
「わかったら早く起きろよ」
 頷いて彼女は緩慢な様子で両手を差し出してきたため、起こせということを理解して俺は両手を引っ張ってやる。反動を利用してそのままルウを立ち上がらせた、が支えてやらないとすぐに倒れそうだ。毎日こんな調子だと突かれるような頭痛がハンマーで殴られるような頭痛へと変貌しそうだ。神ならばもう少ししっかりして欲しいが、神とて全てが聖女のようにおしとやかで生真面目であるわけはない。これは自論だがね。少なくとも彼女がこの自論を正論にしてくれているわけで以前に出会った神、咲姫や瑠紺華は犬と猫の耳を生やし、妙な口調で話し、神という印象は所見で浮かび上がることもなかった。彼女達神にとってはそれが普通で、俺達人間にとってはそれが意外だということ。まぁ話を収めるならこれでいい。所詮クラスの中に優等生や劣等生がいるのと同じで、世界に正義と悪がいるのと同じで、天使と悪魔、天国と地獄、プラスとマイナス、例えが多すぎて話にならんがそういったものに例えれば一番簡単な答えに導かれるのかな。つまりどこか世界中、いや世界中というよりも彼女達の世界、神海の世界中を探し回れば俺が想像している神もいるんだろう。人それぞれ。神それぞれ。
 そんなわけで、今日の朝は忙しくなった。
 凛子にはキスイを見せるのはまずいため彼女を家から追いやり(まさに鬼は外だ)、ルウには洗顔を命令してさっぱりしてもらってから着替えをしてもらい、その間俺は朝食を食卓へ運ぶ手伝いをしては凛子も学校の準備があるため勉強道具を鞄に詰めて玄関に置いてやったりと一分一秒を争う朝だった。
 朝食をきちんととれただけ十分だが登校くらいはゆっくりとしたいもの。この暑さだ、駆け足程度でも額からは汗が噴き出てハンカチを持参しなければならないのかなと真剣に考えてしまう。
「学校とはなかなか面倒だ」
 何をいまさら、と思いつつも俺は「それでもきちんと行かないと」と苦言を呈する。だるさを訴えるこの体にも兼ねて言い聞かせていることは言うまい。
 ポニーテールの髪が頬を撫でるように通る風によって靡き、こうして二人で学校へ登校していると俺はよく時子のことを思い出す。ルウは、そりゃ見た目は時子だ。でも中身はれっきとした神でありルウという存在。緒方時子という存在は今や肉体という器の名称だけ。事実上の死を受け止めることはどうしても出来ない。ルウが時子の姿をして歩いている限り。
「冬慈」
「ん? ああ、どうした?」
 こうして呆然と時子のことを考えるのは毎日の日課と言っていい。授業が始まる寸前でようやくルウに現実へ引き戻され、頭の中に膨れ上がっていた想像、妄想、願望は弾けてどこかへ飛んでいくわけだ。
 俺を呼んだのは米崎だった。壇上で眠気の波長を出しているかの如く説明している教師を横目にそっと振り返り、わざわざ授業中だというのに何の用だろう。
「知っているかい? 最近このあたりで眠るとそのまま目を覚まさずに死ぬという怪死がたびたび起こっているらしいんだ」
 女性ならぬ堅苦しい口調はルウと張り合えるほど。普通の話をされても彼女との会話では常に真剣な話に聞こえてしまう。今回の場合、どうやら噂話を振ったようだ。
「そうか、風邪じゃないか?」
 見てみれば米崎の隣の席、神無月綾香は欠席。彼女は体が元々弱いため別に珍しいと思うこともないし、まさか米崎が話した怪死の一人というわけではあるまい。
「綾香は違うからね。今日はラヴアさんから通院後に来るって聞いたし。あ、話を戻すけどこれってウイルスだと思うかい? それとも呪いとか怪奇現象の類? まさか誰かが引き起こしているとか」
「で、俺にはどんな答えを望んでいるんだ?」
「僕はこんな怪奇的な話は好きな性質でね。君にはどうせなら『怪奇現象じゃないか?』なんて答えを求めていたのだけど君はなかなか僕が期待する答えを口にしてくれることはないよね」
 難しい口振りでちょっとした溜息をつく米崎。米崎が期待する答えがまさか怪奇現象だとは思わなかったし、俺は特に噂話等には疎いため初耳の話にどう答えていいのかわからない。それでも一応三択としてヒントは与えられたため答えるべきだったのだろう。米崎とは不思議な奴だ。隣で座ったそのままの姿勢で瞳だけを閉じて眠っている器用な奴よりかは不思議ではないがな。
「ふぅん、怪奇現象だとしてその根拠は?」
「根拠、か……うむ、いい質問だ。本来、眠るとそのまま目を覚まさずに死ぬという症状は一見、過労死とも思えるけど今まで亡くなった人達は健康そのもの。ではなぜ突然死亡するのか、それも必ず睡眠をとった後に、だ」
「夢を見ながら死ぬなんてロマンだな」
「僕はそんなロマンに浸りたいわけじゃないんだよ、冬慈」
 じろりとした米崎の一瞥に俺は言いたいことをわかっていながらも冗談を言ったが、受け入れられなかったようで少し切ない気分に陥った。
「それでね、これは新たな都市伝説になるんじゃないかな」
「都市伝説?」
 米崎らしくもなくは無いが、都市伝説という言葉は久しぶりに聞いた気がした。そんな言葉がどうやって出来たのか由来などは知りもしないが名称は圧倒的な存在感というのか、確信も持てないのに、単なる噂話であるのに、どこか心を揺さぶる恐怖感を都市伝説という単語を放つだけで伝えさせられる。
「うん、噂話はかなり広がってるしインターネットを見てみなよ。盛り上がってるから見ていて楽しいよ」
「悪いな。そういうのあまり興味が沸かない性質でね」
 噂話等には気持ちが殺伐としていくため興味の対象にはなれない。彼女にしては話が合う人を望んでいるのだろうが期待に応えられずに申し訳ないが、文句を言うならこういう性格にした環境を恨んで欲しいね。
「君らしいといえば君らしい返答だね」
 小さな笑みを溢して彼女は俺のポケットを見た。
「なんか光ってるよ?」
 どうやら携帯電話にメールが届いたようだ。学校では携帯電話のバイブレーション機能も用いていないためなかなか授業中にメールが届いたりすると気がつかないが、教師に見つかって怒られるよりはマシだ。
 俺は携帯電話を開き、メールを確認すると送信者は【凛子】と記載されている。凛子も然りだが授業中とわかっていながらも一体何のメールだろうか。
 内容を確認すると、【なんだか怪死の事件が多くて学校でも噂になってる。面白いよ】ということ。やれやれ、と俺は内容に頭を抱えざるを得ない。どいつもこいつも怪死事件の話に夢中のようである。【人が死んでるんだ。面白いとか思っちゃいけないさ】と俺は窘める風でもない、素っ気無い返答をする。すぐに返ってきた返答は【でも病気だとか、呪いだとか、怪奇現象だとか、今こっそり携帯電話のテレビ機能でニュース見てるんだけど、評論家っぽい人の話がウケる】だ。
 時折こういう話題は振ってくるが、食卓でなかなかこのような話を出来ずに沈黙が場を包むこともしばしあったが今はルウがいるおかげで食卓の件は十分に解決だ。ルウがいない日というのは今の生活では考えられないことではあるがもしも凛子と二人きりで食卓を囲むことがあればせめて話題はいくつか持っておきたいところだけれど、こういう怪奇現象の話をするのもなぁと俺は怪奇現象で盛り上がる食卓を想像してその結果、溜息を生んだ。
「妹さんからかい?」
 俺がするメールに興味がそそられたのか、俺は苦笑いしてこのやりとりを見せてやる。
「はは、皆考えることは同じだね」
 果たして自分が話題に対して疎いのか、それとも彼女達ごく一部が盛り上がっているのか、そんなこと考えても実際問題どうしようもないのだ。
「そうだな。まったく……所謂暇人ってとこか」
 だから俺は会話の流れに乗って話題どうこうなんて考えるのは止めているが、ここはせめて話題には触れてやろう。
「暇人とは失礼な。僕はせめて神秘など感じない現実に何でもいいから何かを感じ取りたいのだよ」
 純粋にすんなりとそう答える米崎の無垢さえ感じさせる表情に、邪気などというものやそういったものはまったく抱いていないがゆえに米崎は俺やルウが身を置いている世界に縁など無いのだろう。
 それにしても、米崎や一般人にとってはこの世界は確かにつまらないものだろう。アニメや漫画のようなことは現実には起こらないし、つまらない現実が続くと感じているのかもしれない。俺にとってはもう非現実的なことは実際に経験しているため現実には起こらない、というのではなく、起こるかもしれないというのが見解だが、彼女にとっては起こらないということで定着してしまっている。ただ考えても非現実的なことを望むことになんの意味があるのか解らなくて俺は疑問を口にしていた。
「妄想したって、何も変わらないよ」
「切ないことを言わないでくれよ。僕だって十分に解っている」
 解っていながらも、考えてしまうのは人の性ということか。想像する、妄想する、なんてことは止めろと言われても止めることなど出来ないお互い承知の上での事。
 ただこの話に関しては気になる。
 神の力が関与しているのではないか、ルウにそっと聞こうかと視線を向けるが彼女は今夢の中にいるようだ。続いてラヴアに視線を向けると、ばっちりと視線が合うやラヴアは手に持ったシャープペンシルでノートを二、三回叩いて顎で俺に勉強しろと言わんばかりに伝えてくる。
 米崎はノートをとらなくていいのかと彼女はしっかりしている。いや、しっかりしているというよりも器用だと言うべきか。俺と会話をしていながらも指はしっかりと走らせているのだ。ノートはきちんと一語一句書き込んでいる。無論、この状況では不真面目に見られるのは俺ということになる。


 例によって、帰路を辿る俺の目に見覚えのある後頭部が前を歩いていた。
 長い艶やかな髪は歩調と融合してゆらり、ゆらりと揺れ、そのたびに夕焼けの陽光が彼女の髪を、彼女自身をより綺麗に見栄えさせる。こうして無意識に周りへ魅力を振りまいているのは神無月に違いない。すれ違う他校の生徒は誰もが彼女を横目で追い、感嘆を表情一面に包み込んでいた。それは男女関わらずであるから彼女の存在というものは歩く人間国宝と例えても罰が当たらないだろうと俺は自負している。
 なぜ、彼女に話しかけないのか。帰路という歩くこと以外特に何もすることの無い道程を会話することで退屈を和らげればものの、あえて彼女に話しかけないのは“もうすでに彼女とは境界線を引いた”からである。
「冬慈。わかっているとは思うが」
 以前の彼女とは違い、俺達と頻繁に話すことも無くなったのは隣を歩くルウによってのこと。
「ああ……」
 一言だけ俺は口を開いて、しばし沈黙を望んだ。
 神の力に関すること、沙那華ことの他に、これ以上彼女を巻き込まないためにルウは俺達と交流した記憶も消し去った。今後のことを考えると彼女のためにも消す必要があったが、心の中で一人の友人を失ったような気分だ。
「ちょっと時間を貰えないですか?」
 辺りに視線を配りながら、そっと声を掛けてきたのはラヴア。
「うむ。どうしたのだ?」
 別に放課後というのは誰かの誘いも無いと時間などいくらでもやれる。最近は南雲も早々と帰ってしまうし、米崎も女友達と最近は今の話題について熱論でもしたいがためにいつものメンバーはここ数週間纏まりが無い。
「では車にどうぞ」
 ラヴアが手を道路へ差し伸べると、まるで図っていたかのように車両が走行してくるやぴたりと止まる。五十代ほどの男性運転手が丁寧に後部席のドアを開けて軽く会釈をする。
 車両と言ってもただの車両ではない。黒塗りで妙に長い車両、所謂高級リムジンというやつだ。後部座席に乗り込んでラヴアと向かい合いながら座るなんて大金持ちになった気分に浸れる。実際には天啓の幻ほど甚だしいのだが。
 銀のテーブルさえ置いてあり、後部座席にしては人を招待できるほどのもの。天井には照明さえついており冷蔵庫も設備されている。これなら後部座席で生活できるのではないかと思ってしまう。
 テーブルにはグラスが三つ。
 飲み物がグラスに注がれて差し出され、今人生で一生に一度在るか無いかの貴重な時間を過ごしている気がする。俺はグラスを口へ運び、飲み物を口の中へそっと注ぎ込む。
「うぶっ!」
 と同時に吐き出した。
「汚いです」
 非常に冷めた視線と共にラヴアは指摘するが、俺が飲んだのは紫の色で葡萄の味でもするのかと思っていた予想とは裏腹に、苦味というのか、酸味というのか、そういったものが入り混じった独特の味が口の中で弾けたのだ。感想は率直に【飲めたもんじゃない】である。
「なんだよこれ……」
「別に、ただのワインですけど」
 G.o.tという機関に所属していながら、未成年に飲酒を勧めるのは社会的にどうかと思うな。ルウは大丈夫なのか、ちらちと見てみると、
「あふぅ……」
 明らかに瞳は虚ろだ。グラスは二、三口程度に減っただけだというのにまさか酔ったわけではあるまい。
「ルウ、大丈夫か?」
「……うむ、だだだ大丈夫だ」
 大丈夫じゃないね。
 顔も赤いし、それに何をきょろきょろと見回しているのだろう。挙動不審と共に口調も然り、どうやらそのまさか、酔ったようだ。
「今日は恵那についての話でして」
 ルウがこんな様子なのにラヴアは重要と思われる話をし始める。かたやルウは俺の膝に頭を乗せて、膝枕として役割を強いては妙なうめき声を上げながらも話は聞くようで、瞳は開いたままだ。酒に弱いとは意外な一面を見せたものだが、ルウのことを俺は実際、ほとんど知ってはいなかっただけのこと。思えば時子と重ねて見ていた俺はルウのことをあまりよく知ろうとはしていなかったのかもしれない。
「うむ、……話せぃい」
 呂律もうまく回っているのか疑問なところだがルウは話を進める気はあるようだ。
 封筒に閉じられた資料を彼女は鞄から取り出すと、封を開けて資料を手に持って読み上げた。
「彼女の本名は笹野恵那。親に捨てられて孤児院で過ごしていたようです」
「なるほど。もしかしたらそれが沙那華の共感を得たのかな」
 沙那華も有る意味では親に捨てられたとも言える。似たもの同士だからこそ、沙那華は恵那に近づいたのかもしれない。
「親に捨てられたということが心に大きな傷を負い、自ら心を閉ざしてしまっていたそうです。七歳から孤児院での生活をしていましたが十歳で孤児院から消息を絶ち、それが二年前のことです」
 あの口調、人には心を開かぬという雰囲気が伝わってくると同時に、心の中にある深い闇がじわりじわりとどこか俺には伝わっていた。幼くも神の力を手に入れ、それを恐れず使い人を何の抵抗も無く殺めることが出来たのは心の闇がそうさせたのか。唯一沙那華に接していたのは生い立ちからか、それとも沙那華の人間性が彼女の心を開いたのか、俺にはどちらかというと沙那華の人間性によって心を開いたように思える。だから今話を聞いていて不安を呼び起こすのは沙那華を失った恵那が今どうしているのかということが頭にあるからだ。
「現在私達の施設で過ごしている彼女は未だ口を開くことはしていません。おそらく、きっとこれからも……」
「ラヴア、その施設へ連れて行け」
 突如、ルウはきちんとした呂律でそう言う。
「え? そう申されましても彼女は何も……」
「別にかまわん」
「力を回収するのか?」
「それもあるが」
 その先は何も言わず、ルウは瞳を閉じた。
 行き先が変更され、どうやら俺の家へと向かっていた車両は大きく進路を変えて街中へと戻っていく。
 その間、学校ではあまり雑談する機会が無かったため、加えてこの移動時間を消費するために俺はラヴアへ話しかることにする。
「学校での生活はもう慣れた?」
「ええ、それなりに」
 定型した返事を返され、会話を続けようにも次の言葉が紡げない。こういうとき、女性ともっとすんなりと会話できる話術を身に付けたいと思うがそれはそれで、想像した自分に引いてしまう。
 気を利かせたラヴアはワインの代わりにミネラルウォーターを二つ差し出してくれ、俺はルウに飲ませてやった。
「正直、私は学校へ行ったことなどないので初めて体験することに良し悪しの感想が付けれません」
 彼女から口を開いてくれた。正直、会話が続かないため心は気まずくなっていたので楽になった。
「行った事が無いのか? 小学校や中学校とか」
 驚いたことは、彼女が学校へ行ったことがないということ。それならばと思い返すこと二週間前のテスト。ラヴアは学年順位で上位に入り込み、今まで誰も崩せなかった鉄壁の四天王とも呼べるがり勉軍団の篭城をいとも簡単に崩したのだ。それからの彼女は、アメリカ名門出身、天才現るなどと讃えられている。印象としてきちんと勉学に励んでいる、もしくは元から知識があったという印象であるし、日本語を流暢に話せることから後者の印象が強かった。
 小中学を卒業していないのに、すんなりと学校側が彼女を受け入れたのはやはりG.o.tという組織によってのことか。
「ええ。昔から私は施設で過ごしていましたし、G.o.tに入ってからも施設生活は変わりませんでした。ただ勉学を教えてくれる人がいましたので今の私があると思います。それに……」
 彼女は両手の袖を捲り、素肌を見せた。
「そ、それは……?」
「私の体は全体の五十%が機械で補われています」
 両腕にはまるでジッパーのような継ぎ目があり、金属が彼女の素肌にめり込むような形で、そうネジの役割をしているかのごとく一定間隔に打たれていた。
「高校の授業では水泳がほとんど無いと聞きました。都会ならば尚更、水泳という授業が無いと言っていいためこの学校なら気兼ねなく行ける、と言われました。もちろん、防水機能は付いていますので大丈夫ですが、さすがに両手両足が義手義足では周りに気持ち悪がられるでしょうし。体育は他の部屋で着替えていますので今のところクラスの人達には知られていません」
 それは見事と言っていいほど人間の手足を表現していた。滑らかな曲面、はっきりとした関節、指も一つ一つ動かせるようで動きは流麗である。一見、いや間近でしばらく観察したとしても見切れるものではない。
「最初は苦労しましたが、三年もすれば生活で苦労する動作などありません。むしろ普通よりも動けますからね」
 強がりなのか、彼女は笑顔を見せた。
 自分の両腕を眺め、今しがたきちんと動くか、確かめるように二、三回握り袖を下ろした。
 どうして義手義足になったのか、そういった理由は問わない。彼女の過去は詮索していいものではないし、自分のことを唯一俺達に話してくれたということだけで満足だった。
「神無月綾香の件に関してはもう終わったと見ていいのでしょうが、やはりこれからまた何かあるかわかりませんしこの街で調べたいことも山ほどありますから一年ほどは在学したいと思います」
「そうか。初めての学校生活だし、思い出を作ろうな」
「努力します」
 君はなんだかとても好印象が持てるな。努力します、そう堅苦しく言っているのに表情は柔らかく笑顔を見せている。体にコンプレックスを抱いても、そんな不安を感じないような笑顔だ。
「それにしても、ズボンが大変なことになってますよ?」
 彼女に言われて俺はズボンを見てみると、ルウの口元から溢れる涎で悲しい状況になっていたことは言うまでも無い。


 一面に広がる橙色の単一色に塗りつぶされた空の下にそれはあった。
 施設は純白で、無機質で周りの住宅街とは場違いなほどに存在感を露にして建っていた。病院の看板は単純に【不動病院】と書かれているが、言葉通りなのかは解からない。
 ここらは南雲の家が近くにあるな。そう思って住宅街を一瞥した。
「冬慈……おんぶ」
 未だ車両から出ようとしないルウは体全身に倦怠感を抱いているように緩慢な動きで車両からのそり、のそりと出てくる。君のおかげで俺はズボンに嫌な染みがついて恰もお漏らししたようで周りの視線が気になるのだが。
 背負ってはやらないが手を引いてやるくらいはしてやる。
「お待ちしておりました。ラヴア様」
 笑顔を見せる一人の男性が門の前に立っていた。
「どうも、不動先生」
 彼がこの病院の院長らしい。年齢は見た目からおよそ二十代後半。若くして病院を設立するほどだそれなりの辣腕を持っているのだろう。眼鏡を掛けているのはもはや院長ならではのご愛嬌か、よくある先生の想像図を目の当たりにしている気分だ。
 笑顔を見せて会釈し、ラヴアは彼について行く。ルウという荷物を抱えたままではついていくことさえままならぬために俺は致し方なく背負って移動。
「笹野恵那の様子はどうですか?」
「私には一言も話してくれませんし、他も同等。看護士の手助け無くては一人で食事することもままならない状態という点では、悪くなっていると言ったほうがいいでしょう」
 病院の中は白に染まった床、天井、壁、電灯で目視出来ない清潔感という雰囲気を目の当たりにしたような空間だった。病院とはそれほど患者の視点も考えた気配りをしているのだろうと俺は思いながら、徐々に重みを感じてきた背中の荷物に耐え難くなり一度降ろした。
「冬慈、私は歩くのがだるい」
 素直な意見を述べられても君の意見に応えるには少し俺も辛い。外観を見た感じではかなり大きな病院だ。この先移動距離が長いかもしれないし、病院内でルウを背負ったまま歩き回る様子は傍目から見てどう映っているのやら。
「少しくらい歩け。恵那に会うんだろ? お前を背負いながらだと疲れて辿り着けないかもな」
 辿り着けないわけは無いのだが、ここは君の意思を駆り立てるべくあえて言ってみる。
「……致し方無い。わかった」
 眉間にしわを寄せて面倒そうに言うも納得してくれたようだ。
「さて、そちらのお客様は?」
 ようやくルウも歩いてくれたところで、不動先生が俺達のことについて聞いてくる。
「彼らは笹野恵那の身内といったところです」
 名前を述べようとしたところでラヴアが代わりに答えた。ついでに「彼が榊、彼女が緒方です」と簡単な紹介をしてくれる。
「私は院長の不動と申します。どうぞよろしくお願いします」
 丁寧に挨拶をしてくれる不動先生、柔和な印象を受ける。なによりも常に笑顔を崩さない表情に、安らぎを与えられる。先ほどから一切崩すことの無い笑顔は、彼の人間性を表しているのか、それとも仕事上患者に不安を与えないよう常に笑顔を見せる努力をした結果による習慣が癖になっているのか、出会ってから今まで常にその笑顔は表情に他の変化を見せない。
 エレベーターで四階まで行き、長い廊下を歩いた末に【笹野恵那様】と書かれたプレートを発見。よほど良い部屋にいるようだ。中へ入ると予想通りな広い部屋が現れる。クーラーに冷蔵庫、テレビと生活必需品は完備してあるものの、どれも使用している様子は無い。テレビの上にはリモコンが置かれ、一度も自らテレビをつけたということも無いようだ。
 ベッドには、恵那がいた。
 上体は起こしたまま、しかし視線は下を凝視しているだけ。俺達が入室したにも関わらず、視線を投げることさえもせずただただ下を向いていた。
「恵那ちゃん、様子はどうですか?」
 不動先生が優しく恵那に話しかけるも、反応は無い。
 ベッドに付けられているテーブルの上に置かれた間食のお菓子も手をつけていない様子だった。
 不動先生は溜息でも出したそうな、しかし笑顔で頭を抱え、小さくラヴアに「このような状況でして……」と呟く。
「恵那。私だ」
 ルウは即座に恵那へ。
 ……こんなに変わってしまったなんて、これではルウの声も聞こえないかもしれない。
 沙那華を失って、沙那華が全てだった彼女は希望を無くしたも同然なのではないか。そんな中で自分達が会ったとして何を変えられるのだろう。沙那華を倒したのは俺とルウだ。俺達に、どんな言葉をかけてやれるというのか。彼女を漆黒の淵へ突き落としたのは俺達なんだ。
 ラヴアは不動先生に一旦、部屋の外に出るように言い、ただ話すだけですと言い包めて室外へ追いやる。これで神の力について話をしても大丈夫だ。
「実は、今日な。私はお前の内なる神の力を回収しようと思ったんだが、どうもお前の様子が消沈してしまっているという話を聞いたのだ」
 彼女は下を向いたまま、反応は無し。
「なあ、沙那華は言っていただろう? 私の言うことを聞いて好きに生きろって! ならば少しは私を恨むなり、八つ当たりするなり、怒りを口で言うなりしろ!」
 彼女は少しだけ視線を動かした。
 ルウを見ているようだ。虚ろな視線で、はっきりと見ているかはわからないが。
「ほら! かかってこないか! 私が沙那華を殺したんだ! あんな雑魚相手ではなかったわ!」
「な、ルウ……!?」
「お前達は黙っていろ!」
 酒がまだ抜けていないのか、いやあんな微量とっくに抜けているはずだしとにかくルウが今本気で話していることが伝わる。恵那の意識を駆り立てようとしているのか。
 恵那の瞳が、意識を取り戻すようにはっきりと動き、表情は次第に怒気を見せ始めた。
「そうだ、かかってこんか!」
 掛け布団に被さっていた腕から爪が飛び出し、恵那は腕を振ってルウへ仕掛けた。
 宙に舞う布団の残骸、その隙間に見えるルウの姿、爪を回避して腕を掴み、床へそのまま恵那を叩きつける。
「な、何事ですかこの音は!?」
 扉越しに不動先生が騒音を聞いて扉を開けようとするがラヴアが扉をロックする。
「気にしないで続けて」
「うむ。すまぬ」
 この状況をラヴアは止める気など無いようだ。俺はどちらかというと止めたほうがいいと思っているのだが、仲裁に入った瞬間、体を爪で刺されそうで近寄れない。
「……許さ……ない」
「ふん、やれば出来るじゃないか」
 完全に体を押さえつけて恵那はもう動けない様子。
「沙那華が言ったこと、忘れるな。これからは好きに生きていいんだ。こんな病院で毎日時間を無駄に消費することなど人生を捨てる気か? 沙那華がお前に望んだことを、お前は本当に理解したか?」
「……」
 恵那の表情から、怒気が消える。
「美味いもの食べて、楽しいことして、人生を作らぬか! 沙那華はお前にベッドで過ごせなんて言っていないだろう馬鹿!」
 体に力が入らなくなったことにルウはもう襲わないと悟ったのか、恵那を放した。
「……だって、私には……沙那華お姉ちゃんが……全てだったんだもん!」
 初めてそれは恵那が自分の気持ちを言葉に表して最後まできちんと紡いだ瞬間だった。
「人は死ねばそこで終わりか? お前にとって沙那華とはどういった存在だった? もう居ないのならと自らの人生を捨てるな! 沙那華はいつもお前の心の中に生きているだろう!」
「……別に私は……貴方達の事を恨んで……なんかいない。お姉ちゃんが苦しんでるのに……気づけなかった自分が許せないの……」
 恵那の瞳から、涙の雫がそっと滴り落ちる。
「沙那華の事については誰もが自分を許せないと思っている。私も、冬慈も、あの時に現れた仮面の男……ヴェリと言ったか。だからこそ私達はあいつのために今を生きなければならない」
「……今を?」
「ああ、沙那華が託した命。今があるのは沙那華のおかげだ。沙那華の分まで今を……生きろ!」
 じっくりと、どれほど話し合っただろう。時には二人して殴り合い、罵倒し合い、仲裁せんと間に入れば俺は幾度と無くぼろぼろになりようやくして落ち着いた頃には結局、
「いつかルウは殺す」
「やれればなチビガキ」
 と犬猿の仲に発展。
 しかしその日、恵那は病院から退院を果たすことになった。






 窓を開けたまま夜を迎えるには今日の夕方から崩れ始めた天候によって今日は無理そうだ。
 だからと言って窓を閉めたまま我慢するには湿気が室内に充満して暗澹たる気分に蹴落とされるわけなので扇風機を活用するわけだ。そろそろこの部屋にもクーラーが欲しいところなのだが、母さんが帰ってくるまでは文句さえも聞いてくれないため首振り設定にした扇風機と同時に自らの体も一緒に右、左へと傾けてルウとしばしの時を過ごしていた。
「むう、夏の雨というのは厄介だな」
「まあね。窓開けたいのに開けれないし閉めたは閉めたで蒸し暑いし」
 はあ、と彼女が呟いた溜息は扇風機にずばずばと切られて濁声を生み、面白がって扇風機に何度も「冬慈ー!」と呼び始めるため俺はルウの頭に一度チョップをしてそれは朝目が覚めた時の目覚まし時計のようにルウはぴたりと止めて頭をおさえた。
「そういや、恵那から力を回収しなかったのか?」
 ふと今日のことを俺は思い出した。
 恵那は今日退院し、ラヴアの施設で世話になるらしいのだ。施設ではラヴアが過ごしているのだからそれなりの生活環境は備わっているだろう。聞けばまだ十二歳ほど。施設生活は大丈夫なのか聞いたところ「慣れっこ」との一言が返ってきたため心配することはなかろう。
「うむ、あいつはきっと戦うことを選ぶ。沙那華のためにな。だからあえて回収しなかったのだ」
「ふぅん。考えてるんだな」
「まあね。あいつの気持ちを酌んでやるには最良かと思ったのだ。私とて人の意思を無視してむやみに回収へ走らんさ」
 いずれ恵那は俺達にとって頼もしい存在になるかもしれない。
 その反面、彼女が普通の生活を出来るのかというと、遠ざかるだろう。普通の生活をし、学校へ通い、友達をたくさん作り、青春といわれる時期を充実させて送ることはもう出来ないのか、いや、全てが終わればかならずや出来る。だから終わらせるために阻むものへ立ち向かわなくては。
「お前にはイタカもついているし、いや憑いていると言ったほうが正しいか? だから力をお前に渡す必要も無いしな」
 とは言われても、イタカからあれ以来話しかけることは無い。俺の心にだけ声が聞こえるのだが、正直、存在しているという実感も無く存在しているという確証を確認さえ出来ないほど曖昧なものである。でも確かに俺の中に存在する、ルウは何度も不安をぶつける俺に言うのだからイタカがついている、そう自分に言い聞かせるしかない。
「イタカとは神海にいたときに会ったことがあるが、あいつはこちらへ来る頃には石に自らを封印して永い眠りにつくと言っていたし、きっと封印を解いたとしても未だ眠りたい気分だろうから今頃まだ寝ているだろう」
「まさにその通りのようだ」
 イタカと初めて話をしたあの時、心の中で呟けば彼女は応えてくれたが、今は何度呼びかけても頭の中での独り言にしかならない。
「こんな状況で、敵に出くわしたらどうしようかな」
「そのときはイタカを無理やりにでも起こせばいい。お前はすでに力を得ている。武具を練成したいと強く願えばイタカも起きるさ」
 ……ならいいんだけどさ。
 沙那華の件以来、敵と接触することも無く、八月を向かえ、夏という敵に只管耐えている時間だけが過ぎている。何時襲ってくるのか解らない、だからこそ不安というものは常に心の奥隅で微々たる炎を燃やし続けているのだ。
 ルウは俺の力が有ると言っている。でも俺はその力を使って敵と戦っていけるような精神力を持ち合わせているのかというと、今まで過ごしてきた普通の生活、平和呆けとも言えるどうせ世の中は何も起こらず、戦争なんて無いんだという考えで過ごしていたからか、戦時中の人々が常々立ち向かうべく抱えていた志すらも灯していない俺の精神力は怯えしか無い。ルウがいれば大丈夫、そんな甘えが心を鈍らせている。
「ルウ、ちょっと出かけてくるよ」
「む? どこに行くのだ? 敵が何時来るかは――」
「わかってるさ」
 わかっているからこそのことなんだ。
「私も行こうか?」
「いや、いいよ。こんな雨の日に出かけて女性を雨に打たせる趣味は無いものでね」
 ルウの気遣いを断るのは聊か申し訳無い気分だが、一人でいたかった。
 俺は傘を手にとって家を出る。目的なんて無いけれど、とにかく一人になりたかった。一人で、修行という大それたものではわけではないけれど、素振りぐらいは出来る。言うならば鍛錬、か。鍛錬として刀を握って、体に刀を降るという一連の動きを身に付けるくらいのことは部屋でも出来るけれど、ルウの前で鍛錬するのは何だか格好悪く思った。
 良い鍛錬場所がある。少し歩くけれど人がいるところなど見たことが無く、祭りを開いたことも無い神社だ。因みに俺は一度しか足を運んだことは無い。中学の時に肝試しをしにいった以来か。
 階段を上り、古色蒼然と建つ神社が一つ。鬱蒼とした空間が神社を囲むように広がり暗闇からは夜気と共に存在しないものさえこちらを伺っているような想像さえしてしまう不気味な場所。普段ならば足早に立ち去るのだが今日はここで鍛錬をしようと思う。
 腕時計を確認。
 時刻は八時半を過ぎたところ。まだ深夜というわけではなく通行人も多々見られる時間だろうがさすがにここへ足を運ぶ変わり者は俺以外誰も居ないだろう。
 ……さて、やるか。
 イメージは、以前と同じく単純なもの。しかし、戦闘で確かな武力を発揮できるもの――つまりは刀だ。
 強そうな武具を想像しようにも、見掛けに囚われて自身が強くなったわけではないということは承知している。たとえ何でも斬れる武具を持っていても、扱う人間が駄目ならば武具は役に立たない。
「イタカ……目を覚ましてくれ。武具を、練成したい」
 両手を広げ、集中せんと俺は目を閉じる。
 イメージは、長く。
 イメージは、軽く。
 イメージは、鋭く。
 何度も思い描いて、しばらくして目を開いた。
 刀は出てこない。イタカからも反応が無い。
「……? やっぱりあの時だからこそ出来たのかなぁ……」
 そう現実には簡単に出来るもんじゃないと自覚。そうだ、これは現実だ。俺が思い描けばすぐに叶うようなものではなく、何も起こらない現実ってのが現状だ。普通ならばその現実を受け入れて溜息を放つのだが、もう普通では無い。……時子を亡くした時から普通じゃなくなったんだよな。
「駄目駄目。もっと心から想像して」
「イタカ!?」
 両手を見て、しかし刀が出ていないことに気づく。それ以前に声は神社の方からだ。
 賽銭箱の上に座って煙草を吸っているのは、人と呼べる存在ではなかった。狐の尻尾が生えた、例えることは難しいが狐の女ということは解る。存在は、と言われれば口ごもることしか出来ないだろうが。煙草を吸うたびに赤く灯る煙草の光でかすかに表情が暗闇から現れる。
 綺麗な、女性だ。視覚が奪われたように、その表情をじっと見る俺は、疑問を口にすることをしばし忘れていた。
「……あ、あんた何者だ?」
 そう、敵か味方か。まずは確認しなければならない。何時敵と遭遇するかはわからない、今がそうだとしたら臨戦態勢を取らなければなるまい。
「その前に自己紹介をするのが礼儀じゃなくて?」
 どうも、雰囲気は俺と戦うというようなぴりぴりした感じは伺えない。
 とは言っても警戒は怠らないほうが良い。
「俺は、榊冬慈……」
「ふぅん。冬慈ね。私は美坤。この神社に住む神、といってもこの神社の神ではないけどね」
 悪神、というわけではないのか。ルウからせめて良い神と悪神の区別くらいは聞いておくべきだったかもしれない。無知ゆえに足腰が臆して言うとおりに動かない。
「そんなに怖がらなくていいわよ。悪かったわね、君には私が見えると思ったから話しかけたんだけど」
「いえ、……別に」
「畏まらなくてもいいわよ。ほらリラックスリラックス〜」
 深呼吸の仕草をされて俺は荒く脈打つ心臓を落ち着かせるためにも彼女の言うとおりにリラックスしようと深呼吸する。一緒に深呼吸して、ようやく心臓はいつものリズムを保つ。
「よし、十分。貴方、内に神を宿らせてるわね?」
 敵か味方かまだ解らない状況だが、俺は彼女を味方と認識して頷いた。……なぜ味方かと思ったのか、どうしてだろうな。話していると落ち着くっていう安直な考えからか、でも理由はそんなものでも十分な気がする。
「心から願わないと。最初は感覚が掴めなくて大変だろうけど、最初が肝心なのよ。どうして貴方が力を手にするか。何のために、誰のために、その理由をはっきりと内なる神に伝えないと呼応してくれないわ」
 何のために、誰のために……。
 思い浮かぶのは、時子の笑顔だった。これ以上誰かを失いたくない、力があれば、きっと時子を救えたのに、無力が全てを虐げて、無力が全てを悲しませて、無力のままではまた何かを失うかもしれない。
「そう、もっと心から願って」
 何のために力を手にするのか、それは誰かを守りたいから。ルウを、凛子を、皆を。もう失いたくないから力を手に入れたい。
「そう、その力を形にしたいなら、何がいい?」
 形に、か。それならば最初に形として出来たもの――刀。これは一番愛着の有る形と言っていい武具だ。授業でも竹刀を握ったこともあるし、日本人にとっては刀というのは立ち向かう象徴と言っていいほどどんなものにも出てくる。
「さあ、呼びかけて。貴方の神に」
 イタカ、目を覚ましてくれ。
 イタカ、俺に力を貸してくれ。

 イタカ、イタカ、イタカ、――イタカ!
 
 すると、呼応してくれるようにそれはそっと掌から光を帯びて次第に形が形成されてゆく。
『……眠い』 
 第一声がそれかよ。
「……やった」
「うん、慣れてないにしては上出来。自分から力をこうして引き出せば次はもう少し早く発揮できるようになるわ。肝心なのはなぜ貴方が刀を握るのか。それを常に武具を必要とする時に胸に閉まっておけば大丈夫よ」
「あの、……ありがとう」
 嬉しそうに美坤は煙草を吹かし、
「いやいや、いいのいいの。お礼に煙草でも欲しいわね」
 煙草の箱を取り出して、残り少ないことを示すように中身を見せてくる。暗くてよく見えないが、箱ではない所謂ソフトの煙草というのか、膨らみが無く凹んでいることからもう数本ほどか。
「わかった。後で買ってくるよ」
「いやぁ悪いわね♪ 最近煙草を買ってくれる人が来ないからもう節約節約でちまちま吸ってて困ってたの」
 どうやら俺の他にここへ足を運ぶ変わり者がいるようだ。その人物も神に関係するようだが、一体誰だろう。一度話をして今の現状を伝えたいところだ。
『それで、いきなり起こしてどうした……?』
 酷く不機嫌そうだ。無理も無いか、普通の人であれ熟睡していたところで叩き起こされればさすがに気分が悪くなるだろう。
『ああ、その、鍛錬をしたいと思ってさ。刀を振るくらいはしたいんだよ』
『……そんなことのために起こしたのか。変わり者だな。私は眠りたいというのにまったく』
 変わり者というのは自負していたところだがまさか君から言われるとは思ってもいなかったよ。
『悪いけど鍛錬に付き合ってくれよ』
『はいはい、私は草の数でも数えているよ』
 なんとか承知してくれたようだが彼女には暇な時間を与えてしまったようで申し訳ない。俺の視界を通して現実を見れるようだが面白くも無い視界ではあるが我慢してもらおう。
「刀はきちんと、体と一直線になるように握って、型はそれぞれの身体能力などによって変わるけど君は基本的な使い方から覚えればいいわ」
 美坤は丁寧に指導してくれた。
 過去に刀の使い方を教えたことがあるようで快活でわかりやすく説明してくれる。
 一体、どれくらい刀を振っていただろうか。
 時間を忘れて彼女に教えられ、半分に欠けた月が最初見上げた時よりも大きく場所を移動した頃にようやく俺は腕時計で時間を確認した。
 時刻は十時。
「ふう、今日はこれくらいでいいわね。いきなりこんなに練習しても明日体が悲鳴を上げるだけだし、あと貴方に言い忘れてたけど力をずっと形にしているとあとから精神的な疲れがどっとくるから気をつけてね」
 今の所体に肉体的疲労は感じられるがそれ以外は特に無いが、用心に越したことは無い。今日は家に帰ったら風呂やら済ませてさっさと眠ろう。
『私も寝る』
『ああ、つき合わせて悪かったな。でもまた今度頼む』
『……あいあい』
 刀を消し、俺は一度神社を出て近くのコンビニへ行って煙草を一つ注文する。何気に外見は二十代に見られやすいし、店員が年増なオバサンだったのですんなりと煙草を手に入れることが出来た。
 そしてまた神社に戻って美坤へ煙草を渡す。
「あら、ありがとう♪ いやぁこれでまた至福の時が過ごせるわ〜♪」
「でも吸い過ぎは良くないよ」
「んもう、私に煙草くれる人は皆そう言うのね」
 そりゃあ、煙草は百害あって一利無しだから。
「今日はありがとう。また、ここに来たら教えてくれないか?」
「ええ。何度でもいらっしゃい。私はずっとここにいるから」
 笑顔を見せてはもう煙草の封を解いて吸い始める。先ほどまで持っていた煙草は全て吸いきったようだ。鍛錬中次の煙草を吸う間隔が早かったのは俺が煙草を買ってくると期待していたためか。
「さて。また、いつか」
「ええ。そのうち。それと……」
 美坤は踵を返そうとした俺を止め、顔をまじまじと見る。
「妙な相が出てるわね。気をつけたほうがいいわよ」
 君は不気味な事を言ってくれる。
 妙な相……? 咄嗟に連想するのは死相ってやつ。
 遠まわしに死相が出てると言われたようでどうも心が混濁しそうで気持ち悪い。死相ではなければいいけど、今の生活で死相が出てもおかしくないので不思議と『そんな馬鹿な』なんて考えは沸いてこないが、言われたら言われたで不安は当然芽生える。
 帰りの足取りは後方に警戒しながら、茂みの影に異様の存在がいるのではと思いながら、重たい足取りだが次第に足早へと変わり俺は帰路を進んだ。




 いつも通りの静謐な朝。
 重い瞼を強引に抉じ開けて鎖でも付けられているのかと感じるくらい重い上体をゆっくりと起こす。
 カーテンを開け、思わず視線を背けた。今日は晴天らしい。昨日の天気とは違い天候も機嫌を治してくれたようだ。雲一つ無い空を見るのは何日ぶりだろうか。久しぶりに見るとこれほど気持ち良いものは無い。美術品を並べて見せられても俺には美点を掴むことは出来ないが、この青空といったら美点をいち早く掴むことが出来る。心が表れるような気分にも浸れて体が少し軽くなって俺は布団を放り出してベッドから起きる。
「……ルウ?」
 いつも通りのはずだが、違うことが一つだけあったようだ。
 ルウがいつも部屋のどこかには眠っているのに忽然と姿を消している。深夜にどこかへ行ったのか、窓を見て鍵が掛かっているか確認すると、鍵は掛けられたまま。つまりルウは外出していないようだ。ではもう起きて一階へ向かったのだろうか。
「にー。朝だよー」
 扉越しから凛子の声が聞こえる。凛子はいつも機械で測ったように正確な時間帯に起こしに来るため、今はちょうど目覚ましが鳴る時間。俺は目覚ましがやかましい音を唸らせる前にスイッチを止めておいた。
 一階へ行き、食卓やら居間やら歩き回ってルウを探してみるがどこにも居ない。
「何してるの?」
 フライパンを片手に凛子は「忙しいのに」と言いたげな視線を送ってくる。
「いや、ル……時子を探してるんだけど」
「……時子? まさか女の人を連れ込んだの!?」
 連れ込んだ、というのは少々間違いな表現ではあるが、それ以前に凛子も知っているはず。何を驚いているのだろう。
「前に紹介しただろ、時子だよ」
「だから、その時子って人! 私にも言わないで勝手に女の人を連れ込むなんてどういう神経してるのよ馬鹿!」
 そう言ってフライパンを翳し、投げつけるのかと咄嗟に防御の体勢を取ったが、さすがにフライパンは投げずにチン、といい音を立てたパン焼き機から勢い良く出てきたパンを取り出して俺の顔に投げつけてエプロン等を放り出して風の様に家を出て行った。
「熱い……」
 パンは床に落ちては粉を撒き散らして無残な様子。これが朝食だというのだから米神が痛くなる。
 果たして先ほどのやり取りの中、俺が何かあいつに対して悪いことをしただろうか。何もしていないし、罵倒もしていない、暴力なんて振るってもいないし破廉恥な行為をしたわけでも無い。時子、という言葉を口にしただけであの変貌振りはどうしたものか。所謂反抗期というものなのかな。
 いつも通りっていうのは目が覚めた時だけかもしれない。
 頭を掻きながら俺は朝の一件以来足枷をはめられたくらいに重くなった足取りを引きずるように、体を前に倒して引っ張っているようにして現在進行形で学校へ向かっているわけだが、頭の中が収拾つかなくて困っている。
 凛子に何か悪いことしたかなあ……。


 学校に行く学生達の群れに見覚えの有る後ろ姿が目に止まった。長い黒髪をさらりと揺らせて先行する足取りは快活そのもの。自らの足取りと比べると、なんとも優雅な歩調であろうか。十分な睡眠、十分な朝を迎えた人間と、不十分な睡眠、意味不明な朝を迎えた人間との違いであろう。
 足枷に反抗して俺は足取りを早くし、肩を叩いた。
「ん……? ああ、君か」
 いつ聞いても堅苦しい口調だが、飽きないのは彼女の人間性に魅かれるものがあるからであろう。
「南雲はどうした? 今日も遅刻か?」
 南雲を知るには米崎窓口。これは俺の辞書に太字で引かれている。
「ん? 南雲……? ああ、彼のことだね。驚いたよ、君が彼の事を聞くなんてね。まだ入学して間もないというのに君は交流するのが得意なのかな?」
 妙だな。会話が巧く噛み合っている雰囲気が伝わらない。
「入学して間もない?」
 米崎は溜息混じりに鼻で笑って口を開く。
「そうだよ。まさかその歳で呆けたはずは無いだろうね? まだ入学して一ヶ月にも満たないじゃないか」
 んなまさか、そんな表現が手に取るようにわかる顔を俺はしていたのだろう。
 米崎は携帯電話を開き、日付を確認しろと言わんばかりに画面を見せてくる。
 五月十五日。
 正確に日付を示す携帯電話という存在は、俺の頭をさらに混濁させては現状を理解へと導いてはくれない。
 今日が五月十五日、……これは夢に違いない。
「……いたたた!」
 米崎が俺の頬を抓る。夢か現実か答えを即答するように行動が早いが、おかげで痛覚が現実であると教えてくれた。
「まだ寝惚けてるのかい?」
「……いや、うん……目が覚めた」
 夢の中でも痛覚は脳が感じているのかもしれない、疑心暗鬼になりながらもしばらく俺は歩きながら自分で頬を抓るが、この痛みは現実そのもの。では今が現実なのならば今まで過ごしてきた日々はどうなったのか、今までが夢で、今が現実? 頭がこんがらがってくる。自分で何を考えているのかまったくわからない。
 ……今は現実。
 そんな馬鹿なことがあるか。五月十五日、それは過去の事。俺が過ごしていた現実はあの蒸し暑い八月だ。
「米崎、先に行っててくれ」
「おい、まさか学校をサボるわけではないだろうね」
「もしかしたらサボるかもな」
 以降、俺は次に彼女が返答する刹那さえも放置して踵を返した。
 向かう先は、もう必要の無くなった場所。
 傍から見れば何気ない公園だ。そこにはバス停があり、ベンチが一つ。毎朝病院へ向かう人々、仕事へ向かう人々、学校へ向かう人々と老若男女がきっちりと並んでいる普通の光景。
 俺が今頭の中で想像している光景は、並ぶ人達の中に一人だけ列から外れ、ベンチの隣に立っている少女がいる。
 足取りは次第に駆け足へ。
 これほど熱心に走るのは何時以来だろうか。
 逆行する人々を避けながら、肩が接触してはすみませんと言い捨てて一直線に俺は走った。
 足を止めて、俺は只管涙を堪えることで精一杯だった。
 ベンチの隣に、小石を一つ摘まんでベンチの下へそっと置いている少女。
 こちらに気づき、笑顔を見せて一言言った。
「また遅刻、冬慈君ったら私を待たせるのが趣味なのかな?」
 心臓の鼓動は走ったことによって激しくなっているのでは無い。彼女がこの鼓動を刺激し、彼女の笑顔がこの鼓動を治まらせることをさせない。
「時子……」
 今までが夢ならば受け入れよう、そして今が夢というのならばこの時間を充実しよう。どちらにせよ俺はこの二択を受け入れることで心の安らぎを得られるのは確かである。
「どうしたの? 早くしないと学校に遅れちゃうよ?」
 時子はたとえ遅刻しそうになっても俺を必ず待ってくれる。
「あ、……ああ。急ごう」
 確かに、ここにいるのは時子だ。


 さて、夢というのは人によって説はさまざま。
 俺が知っていることは夢には時間軸が存在せず主観時間でのみ知覚しているとも考えられている、みたいなこと。つまりは時間軸が無いので今家から学校へ行き、現在授業を受けている時間を計算しておよそ一時間の時が経過したとしても現実には一体どれほどの時間が経過しているのか、だ。
 と、学者になったつもりで考えてみるが、単純に今を夢と思えば問題は解決するのである。知らぬうちに目が覚めて、またベッドから起き上がってルウを起こす。そんな世界が待っているのだからこの時間を味わいたいものである。
 けれど、今までが夢で、今が現実か、今が夢で今までが現実か。まったく、こんな状況ではどちらが真かなど選別出来ない。
「冬慈君。駄目だよちゃんと授業に集中しなきゃ」
 隣に座るルウ、いや本当の時子は言う。
「ああ、ごめん」
 やはりルウと時子では口調も、呼び方も違う。雰囲気さえもだ。
「どうしたの? なんだか切羽詰ったような顔してるけど」
「いや、何でも無いんだ。ちょっとこれは夢かな、なんて思っただけ……なんてね」
 時子はえいっ、と俺の頬を摘まんで、
「夢じゃありませんよ、不思議の国の冬慈くん」
 痛覚ははっきりと感じる。
「……うん、そのようだ」
 夢ならばこれほど感覚がはっきりすることはあるのだろうか。シャープペンシルを持つ手、机に肘をついている感覚、固い木製の椅子に座る心地悪さ。
 空気の味さえも呼吸することで味わえる現実感。これは本当に夢なのか、考えても今の俺には答えを導くことなど無理のようだ。
 ……そう、隣で笑顔を見せる彼女がいる限りね。
 あっという間に放課後はやってきて俺はまだ覚めない夢の中、考えていることは朝と同じ。夢か現実か、今日で何度同じことを考えては繰り返してきただろう。
「冬慈くん、一緒に帰れるかな?」
「ああ、いいとも」
 今は五月十五日、時子が事故に遭ったのは……うろ覚えではあるがまさか今日がその日、ってことは無いよな。
 帰路はあの時と同じ、いや俺達の帰路は毎日同じ帰路であり見分けることは出来ない。唯一見分けれる可能性があるのは、彼女との会話だ。
 俺の記憶が正しければ時子は帰り道にこう言う。

『毎日が楽しくありますようにってわがままを祈ってたら罰当たりかな?』

 とな。
 嫌な緊張が走る。一歩ずつ近づいていくあの交差点。夕暮れとなると車両の数が多い。俺からすればそれら全てが彼女を死へ追いやる凶器に見える。
 そして、
「毎日が楽しくありますようにってわがままを祈ってたら罰当たりかな?」
 彼女はそう言った。
 目遣いの彼女の視線に不覚にも俺は心臓の鼓動が脈動し、目が合うや反射的に目を逸らしてしまうのも俺が以前にした行為とまったく同じ。ただ心臓の鼓動が脈動したのは以前とは違う感覚である。
「ば、罰当たりなんかじゃないさ、……罰当たりだとしても、俺が一緒に罰当たりになって神様に訴えを起こしてやる」
「あはっ、頼りになるね冬慈くんは」
 ポニーテールの黒髪を撫でて照れを誤魔化す時子。
 あの時とまったく同じことが繰り返されている。次の行動も、すべて俺はわかる。彼女が何を言うのか、何をするのか、俺は何を言えば彼女はどんなことを返答するのか、だからこそこれから先にある未来で俺が一番人生で見たくない瞬間が待っていることを知っている。
「あ、二人とも罰当たりになったら死んだとき一緒に地獄行き?」
 未来を知っているからこそ、未来は変えられる。
 ならば俺はここで未来を変えねばならない。あの事故があった交差点は避け、彼女を強引にでも誘導させれば俺が望んでいた未来が待っている。
「なあ、時子。ちょっと寄り道していいか?」
 交差点さえ避ければいいのだ。帰路を変更し、被害が何一つ及ばない道を選べばいい。
「え? うん、いいけど」
 あの日事故があった現場はニュースで確認はしていないもののはっきりと俺は見た。交差点で何台も車両が接触事故を起こし、そのうち一台が歩道へ侵入、時子を巻き込んでしまったのだ。
 それ以外の場所は何も問題は無い。では交差点よりも手前十メートルほどにある本屋で時間を潰し、交差点で事故が起こるのか俺は観察しようと思う。
「ちょっと本が見たくってさ」
「あ、私も見たいものあるから、ちょうど良いね」
 本屋へ入り、俺は窓側の本を手にとって、視線は交差点をじっと見ていた。
 時子は少女漫画などは読まず何気に少年漫画といえばいいのだろうか、少年が好むものばかり読んでいる。昔と変わらない彼女の姿。それはやはりルウとは違い心和む世界がここにある。
 そして、それは予想通りに起きた。
 車両が何台も複雑に接触し、大事故と言える惨事。だがあそこに時子はいない。俺の隣にいるのだ。
「うわっ、事故……かな? 冬慈くん……」
「何も心配は要らないさ。ここにいれば安全だ」
 見慣れない大事故に時子は怯えて俺の袖を掴んでいた。
 時子がいる世界、たとえ夢であっても今俺は人生で一度有るか無いかほどの充実していると思う。


 夢なら覚めないで欲しい。本当に、そう願う。




 第二章 神音

 あれから日時変わって次の日の午後。
 授業を受けているも内容はすでに俺が体験したことがまったく何も変わらず教師が説明しているため、言葉一つ一つが睡魔の電波を発して俺の思考を鈍らせる。
 これが夢か現実か、俺は一つだけ試す方法があることに気がついたのだが、うまくいかないものである。
 朝目が覚めて、ルウのいない現実がまだ続いていることを知った俺は一つの存在を思い出した。それは――
「イタカ……」
「ん? どうしたの?」
 おっと……思わず口に出してしまったようだ。
「いや、何でもない」
「……そう。ならば勉強しましょう〜」
 時子はルウと違って真面目だ。授業中は常に黒板とノートに視線を反復運動のように動かしては右手は正確に授業内容を書き取っている。これがいつもの時子、そして斧を振るう時子は……。
 話が反れてしまったな。
 イタカの事について思い出した俺はあの日美坤に教えてもらったとおり集中してみたのだが応答は無し。これが現実として俺は受け入れるのが正しい行動なのか、そう思わせられるほどだったが、これは考えの問題だ。
 楽になるにはこの現実を受け入れる。そうすれば考える事も無い、頭を抱えて授業に集中できない時間を迎える事も無い、失ったはずの時子を思い出して涙ぐむ事も無い。だがしかし、今過ごしているものは本当に現実なのか。現実ならばあの日々はどこにいったのか、彼女達は一体どこへ行ったのか。
 俺が過ごしていたはずのあの日々は、確かにあったんだ。
 本当ならば今日はルウが時子として転校してきた日だが、未来が変わったためかルウが転校してくることは無い。そもそもこの世界にルウが存在しているのかすら謎なわけだ。キスイは廃墟ビルにいるか確認していないため今日足を運ぼうか。
 

 授業も終わり、あとは帰宅するだけとなった時間。
「どうしたの? 今日はなんだか口数も少なく元気が無いように見えるけど」
 机に黙々と座って教科書を鞄につめていた俺に話しかけてきたのはクラスの女子、……と言っても俺は南雲と違って女子の名前を把握しているわけもないため名前が出てこない。思えば今まで南雲や米崎以外ほとんど話しかけたことが無いため逆に話しかけれることも無く、女子が俺に話しかけるなんて珍しいなと顔を見上げた。
 眼鏡をかけたショートカットの彼女は一見、失礼だが暗そうな印象を受けるが彼女の周りには三人ほど友達と思われる生徒が笑顔を見せて彼女の帰りを待っている様子。人気があるようだな。
「桃子、どうしたの? 早く帰ろうよ〜」
「今日は美味しいケーキがあるっていう喫茶店に連れて行ってあげるんだから」
 と、周りの女子は言い、
「うん、でも冬慈君が元気無い様子でね」
 急かす彼女達に流されること無くゆるやかな口調で彼女はそう返答した。
 そうか、名前を聞いて思い出した。桜川桃子、クラスでも頭が良く真面目な生徒であったがそんなに目立った印象も無く話しかけた事も、話しかけられたことも無い。ルウが転校してこなかった時点で現実は大きく変化しているためにこれからの未来は予測できないのでそう考えれば話しかけられたということは周りも変化していると思えばいいのかもしれない。
「いや、別に考え事してただけだよ桜川さん」
「桃子でいいよ冬慈君。考え事ねぇ。悩んでる事があったらいつでも相談に乗ってあげるから♪ またね」
 ずいぶんと明るい性格だ。こんな性格だったか、話しかけたことも無いのでわからなかったのでなんとも言えないが。
「冬慈くん、今日も一緒に帰れるかな?」
 彼女と入れ替えで話しかけてきた時子は今日も一緒に帰れることを期待して顔を覗いてくる。
「ごめん、今日は行くところがあってね」
「そっかぁ……」
 しょんぼりと顔を傾けている時子があまりにも可愛らしい様子で、俺は思わず頭を撫でた。
「明日はちゃんと一緒に帰れるからそんなに気を落とすなよ」
 さらさらの髪は実に触っていて心地良い。毎日きちんと手入れしているのか、一本一本が肌を撫で返してくるような感触はこれ以上と無い至福を与えられている気分だ。
 校門で時子と別れ、後姿を見送って俺はキスイが居た廃墟ビルへと向かう。ルウとキスイが会った時の遣り取りからキスイは以前からずっと神海ではなくこちらの世界に来ていたようだ。未来が変わっているとはいえキスイまで影響は無いはずだ。
「とうじ!」
 その時誰かが俺を呼び、振り向くや抱きついてきた。振り向いてもそこに顔が無いことから、どうやら目線を下へ向けなければならないほどの身長、小さい子に抱きつかれるなんて身に覚えも無いがどこの子だろうか。
「とうじ! とうじ!」
 そんなに呼ばなくても俺は君に抱きつかれているわけだが、見てみると長い赤髪がそこにあった。すぐさま連想されるは一人の少女。
「イタカ!?」
「イタカなのだ!」
 顔を上げると確かにイタカのようだ。
 俺の中から出てきたのか、精神世界でしか会ったことが無いため実際彼女に触れるが出来て妙な気分だ。心の中で想像したものに触れる、そんな状況かな。今の心境を説明するならばね。
 俺の瞳を見つめてくる金の瞳は潤んでいて今にも泣きそうな表情をしていた。突然こんな世界に送り込まれたからなのか、それとも俺の中から出たはいいものの俺が見つからずに困り果てていたのか、どうあれイタカがということは……俺はやはり、と心のどこかで落胆した。今目の前にある光景は本当の現実ではないということ、イタカがいるということはそういうことだ。今が現実であってほしい、そう思ったときから俺はすでに見切りをつけていたのかもしれない。こんなことが現実なはず無い、時子はもう死んだのだから今が本当の現実であるはずは、無い。今が本当の現実であればいいなんてそれは単なる現実逃避、時子を失ったときから現実逃避をしたがる俺は、何も変わってはいなかったようだ。
 所詮、俺は過去に縋る弱い人間。

 それでも、今を現実と思いたい。

 時子が毎朝待ち合わせ場所にいて、全ての授業が終わったら必ず俺に今日一緒に帰れるか聞いてきて、何気無い会話に幸せを感じて……。

 でも……。
 これは現実じゃ無いんだ。

「現実じゃ……ない……んだよな」
「……とう……じ?」
 最初からわかっていながらも、これが現実と思いたいが故に縋りつこうとしていた俺はどうしようもなく虚しさを覚えた。俺の中にある常識の一つに、過去になんか戻れないっていうのはあるわけだがその常識を無視しようとした結果は心を混濁させるだけ。
「――じ、とうじ!」
「あ、ああ。イタカ、会えてよかったよ」
 イタカの大喝によって俺はようやく意識をイタカに寄せる。
 イタカは初めて出会ったときと同じ衣服で、何時に無く目のやりどころに困る。見た目が少女であるのが唯一の救いか。俺はロリコン属性なんていうものは無いためイタカに欲を剥き出す事も無い。
「まったく、困った空間に来たものだ……。本当に不安だったぞ冬慈」
「ごめん、俺も突然のことで……」
 この世界が現実では無いなんて信じられない。歩く人々、空を舞う鳥達、傍を通り過ぎる車両、現実世界とまったく変わらないこの世界を、俺はどうやって非現実として認識すればいいのだろうか、幻想なんていう言葉では解決などできない。
「誰か神がいないか、探してみたがどうやらこの世界は神は存在していないようだ、キスイも探したが、力すら感じられなかった」
「……なら、ルウ、キスイは存在しない世界ってことか」
「いや、世界と呼ぶほどでは無い」
 ……というと、
「何者かによる神の力?」
 首をこくりと頷き、イタカはこの場で話すのは不適切と悟ったのか歩き始めたため俺は後を追うようについていった。
「私がまず貴方と神約を交わした時点で自らの意思以外、外の世界には出ることは無い。だが目を覚ましたとき、私はこの世界にいたのだから、つまりは……」
 その先の言葉を俺は察して、
「この世界自体が精神空間……か?」
「そうかもしれない。だが違う世界ということも在り得るが」
 精神空間だからこそ、イタカがこうして俺と一緒にいるということか。いや、そうさ、この世界が本当の世界なはずは無い。最初から分かっていながらも背けてしまうことで俺は現実逃避を図ろうとしていただけ。ルウやキスイがいないのは、平凡だった、時子がいた時期に戻りたかったから、かな。思い返せば、確かに俺は時子がいた時期が一番幸せだったな……。
 今はどう? そんな質問をされたらきっと口ごもってしまう。時子を失った現実、本当の姿を現した世界に苛まれていたのが事実かも。
 でも、ルウと過ごしてから少しは心の安らぎを得られたと思う。
 ルウが時子の姿をしているから、いやそうじゃない。
 なんていうか、言葉に出来ない気持ちだ。
「おそらくこれは敵による攻撃。敵もこの世界にいるだろうし、気を抜かないでね。身近な奴に扮しているかもしれないからな」
 わかった、なんて言いながらも頭の中では時子のことばかり考えていた。現実ならどれほどよかっただろう、これから時子とどう過ごして、どう楽しんでいくか、時子を失ったことで全て変わってしまった未来。もしも、もしもと溢れる様に出てくる想像、いや理想か……。手の届かない理想を俺は叶えようと非現実を現実と願って歯止めが利かなくなっていただろうね。
「これから、どうしようか……」
「敵を探して、倒す。それ以外は無い」
 いや、そうじゃないんだ。
 どうしようか、なんてそれは自分に問う一言。現実ではないという事実を目の当たりに、俺はまだこの世界と“現実ごっこ”をして至福を得るのか。自分に聞いていたんだと思う。
「ここは貴方の精神世界に干渉して作られた世界だ、おそらく敵は貴方を狙っている。理由は三神器かもしれない」
 どうしようか、ああ、そうだ。俺は現実から背けちゃいけないんだ。三神器が有る限り俺は使命を与えられたと同じこと、三神器の齎す力によって狂わされた人、世界、それらのためにも今は……。
「イタカ、敵は俺を狙っているなら今こうしている時も見られている可能性があるってことか?」
「うん、だからあまりお前と一緒にいるのもまずい。さっきは嬉しくてつい抱きついてしまったが」
 こうして話しているとイタカの年齢ってのは本当にわからない。最初初めて会ったときは大人びた口調のくせして外見が幼女、本当に幼いのか神という存在によってそれはよくわからないが、今は本当に幼い少女という感じ。潤んだ瞳で俺に抱きついてきたところは子供って感じだが今は頼もしい口調で大人びて、強がっているようにも見えるけどね。抱きつかれたときはまるで親と逸れた子供みたいで面白かったな。
「意外と子供らしいんだな」
「……何か言った?」
「いえいえ、何も」
 ふん、と鼻を鳴らしてそそくさと距離を取るイタカ。少し聞こえていたのだろう、頬が朱に染まって俯いてしまった。意外と可愛らしい部分もあるもんだ。最初会った頃の大人びた様子は、今や強がっている子供の様。それでも今の俺には頼りになる存在に違いないわけだ。
「しばらく私は貴方の近くに潜んで敵を探すとする。貴方も警戒しつつ、普段通りの生活をして」
 振り返っては冷静な瞳を送って、イタカは近寄るなと言わんばかりに快活な足取りで脇道へ入っていった。
「おい、イタカ!」
 そうは言われても、と俺は後を追ったが脇道にはもう姿は無かった。


 貴方の印象がかなり変わりました。
 後ろの席に居たからでしょうか、普段意識して見る事も無いですし男性ですから私は話しかけることもほとんどありませんでしたしね。
 私の持っていた印象はクールな普通の生徒。良くも無く悪くも無くで別にこれといって嫌いな事もありませんでしたし、貴方は周りと同じと思っていましたが、どうやら人生を変えたかったのですね。
 貴方が好きな人、その人は本当ならもう死んでいる。私と同じ事故に巻き込まれたようですね。では、現実にいる緒方時子とは誰なのでしょうか?
 気になりますね。あの人に報告したほうが良さそう。
 でもこの世界なら、貴方は本当の緒方時子と一緒に居られる。ずっとずっと、毎朝待ち合わせをして、一緒に登校して、隣同士で授業を受けて時折顔を合わせてはにんまりとして、幸せを十分に味わえる。
 現実世界ならどうでしょうか? 貴方は充実していますか? していないでしょう? 貴方が望んでいた世界はここにあるのです。
 だから、この世界を否定しないで下さい。この世界を、貴方の世界としてください。
 私は貴方の世界をもっと、もっと見たいのです。
 貴方の望む世界を見せてください。
 さて、次はどうなるでしょうか。
 貴方の世界は普通の人と違って、面白いです。
 今までの人達は意味も無く生きている、そんな人達ばかり。でも貴方は少し違います。私を楽しませてくれる夢を見せてくれる人は始めてです。
 もっともっと、夢を見続けて下さい。
 ずっとずっと、夢を見続けて下さい。
 貴方の夢は貴方の世界。
 私は貴方の夢を糧に、私の世界を作ります。
 それまで夢を見続けて下さい。
 

 
 これが現実では無い、そんなこと頭では理解できても視覚へ見せ付けられる世界は現実そのものであるためどうしても俺は区別できずに理解した、と思いつつ次第に理解が薄れていく思考を感じていた。
 起こる些細な事一つ一つがやはりこれが現実だと訴えてくるようで、頭が混乱しそうになるもそのたびに俺はイタカの言葉を思い出して踏ん張ってはいるものの、そろそろ踏ん張れずにこの世界へ身を投じてしまいそうな自分がいることを否めない。
 午前の授業が終わり、休憩の昼休み。
 凛子が作ってくれる弁当の玉子焼きを口にしてはちょっと甘めの子供っぽい感じな味わいだが、ふんわりとした食感が美味しいと素直に思わせる風味が凛子の料理技術はやはりすごいなと関心させられると同時に、この味でさえ現実では無いなんて考えられずしばらく玉子焼きを見つめていた。
「どうしたの? 玉子焼きそんなに美味しい?」
「あ、いやぁ玉子焼き美味しいなぁなんて思ったりしただけで」
 時子はくすりと笑い、俺の箸で掴んでいた玉子焼きをぱくりと食べてしまった。
「うん、美味しいねこれ」
 思えば、時子が生きていた頃はこうして昼休みはよく二人で弁当のおかずを食べ合ってたっけ。中学校から変わらず高校入学当初もこうしていたなあ。米崎と南雲はそんな俺達を見て顔を合わせて、
「熱々だねお二人さん」
 んまあこう言ってはにやりと笑顔を見せてくるわけだ。
 俺と南雲は入学当初あまり会話はしたことが無かったが、昼休みにこうして四人で昼食を取り始めてから南雲とは打ち解けてきたのが仲良くなるきっかけだったかもしれない。大体このあたりから南雲とよく話すようになったなぁ。
「珍しいなあ、今時こんなにも愛し合うカップルがいるなんて」
 南雲は言葉どおり珍しそうな視線でこちらを見つめてくる。傍から見ればどう映っているのかな、浮いた存在になっているのかもしれないが、当初はそんなこと考えても無かった。
「愛し合うってのはなんだか言われると恥ずかしいよ南雲君……」
 頬を朱に染めて時子は小さくコホンと堰をしては照れていることを隠そうと食を進めていた。
 現実世界でならルウが時子として転校してきては、俺の人生が大きく変わっていたはずだが今この世界は時子が時子のままで俺の隣に居る。

 ああ、馬鹿だ俺は。

 このままこの世界にいられたらと今一瞬思った事に俺は酷く自分を恥じた。
 現実逃避を試みる事がいつから特技になったのやら。そうだ、これは夢なのだ。そう思って接しなければならないのだ。今見えるもの全てが惑わせて、陥れようとしている罠と思わなければならない。敵は誰かに扮しているというのならば時子か、米崎か、南雲か。誰にせよ身近な存在の者に違いない。
 昼休みが終わって午後の授業。
 俺は教科書を開くも思考は授業に向けられておらず、教科書に載せられている歴史の人物に落書きをしては無駄な時間を過ごしていた。いや、無駄な時間というのは可笑しいのかもしれない。これは現実ではないのだから、そもそも時間という貴重なものが正しく流れているのかさえ疑問のところ。精神世界であれ違う世界に飛ばされたというのならばこちらの世界での時間を無駄にしているだけのことだ、本当の現実ではないのだからいいだろう?
 ふと、落書きをしていて一つ気になった点があがった。入学当初はよくこうして写真が載せられているところに落書きをしていたのだが教科書を捲り、最初の方へと戻るとそこに落書きが無かったのだ。
 どうしてだろう。精神世界でも、違う世界でも、どちらにせよこの世界は現実とはまったく同じ状態だったのに違う点があるなんて。些細な事かも知れない、でも些細だからこそ気になる。
 先ずはこの世界を解析する必要もあるだろうし。気になる点は他にもある。今まで俺は授業中無心に外を眺めることはあってもノートはきちんと書いている。書き忘れても米崎や時子のおかげでノートは完璧なのだが、ノートを開くと、今までの分がまったく書き込まれていないのだ。白紙のノートであり確かに現実では書いた記憶があるのに、だ。
 俺は放課後、苦渋の選択の結果、時子と一緒に帰れないのは残念だが学校に残って色々と調べることにした。失礼ながらも他の生徒のノートなども拝謝させてもらい、何人かノートを見たのだがやはり以前のものは書き込まれていない。おそらくは五月十五日以前の事は書き込まれていないようだ。
「ん……? 時子のやつ、本返すの忘れてたようだな」
 時子のノートも見ていたところ、机の中に一冊の本が出てきて床に落ちた。栞が挟まれており、期限は今日。俺が返しにいってやるか。タイトルは『明日こそ』とかいうやつ。タイトルで内容は把握できないが、恋愛ものだろうか。女性が好みそうなものなのかもしれない。意外と学校の図書室には歴史資料の他にこういった小説もありクラスでは図書室を利用する生徒は多いらしい。
 俺はというと、今こうして図書室へ足を運ぶのは初めてだ。室内には生徒は無し。さすがに放課後は誰もいないか。部活もあるだろうし、図書室に入り浸っている生徒は見かけられない。
 受付に行き、しかし受付にも人がいないため俺は致し方無く記帳に時子の名前と返却日付を書き込んで本を返却棚に置いた。
「あら、貴方が図書室に来るなんて珍しいわね」
 図書室にすっと入ってきたのは桜川桃子。
「そういう桜川――」
 そういえば、桃子で良いって言ってたな。
「桃子さんは?」
「私は図書委員だからね。今日は受付を任されたの。別に部活もしてないし、暇だからね」
 ……まぁ部活を熱心にするような印象では無いし、図書委員としてはなんだか最適に思える。
「今日はどうしたの?」
「ああ、時子が返却を忘れてた本を返しにね」
「そう、それはありがとう。返却が遅れると記帳が面倒だから私も助かるわ。どうせなら本でも借りたら?」
 ふうむ、とは言われても俺はあまり本を読まない性質だ。それに今は本を読んでいられるほど余裕が有るわけなど無い。早くこの世界から現実へ帰らなければならないのだ。
「まあまあ、そんな顔しないで。立ち読みも結構だから暇ならゆっくりしていってよ。それじゃ、私は奥の部屋で本の整理があるから」
 そう言って桃子さんは受付の奥にある部屋へと入っていった。
 図書委員は思っていたよりも忙しいらしい。委員自体が少ないのだろう。
 ぴりぴりしていても致し方無い。俺は休息がてら本でも見ることにした。
 けれども何を借りればいいのか、記帳を見て桜川桃子の名前を探してみる。彼女の名前は多数有り図書室を良く活用しているようだ。彼女が読む本ならば面白いのだろうと参考にして憶え、本棚へ俺は行った。
 目が痛くなってくるな。教科書の列を見ているようで。その中に彼女が読んでいた本を見つけて俺は開いた。うん、慣れない事はするべからずと目の痛みが訴えてくる。
 すぐさま本を元の位置に戻し、せっかくなので隣の本を見た。
「……なんだこれ?」
 本を開くと、そこには真っ白のページ。タイトルはきちんと書いてあるのに中身は純白のインクに染まってしまったように何も書かれていない。
 これはノートと同じ現象か? 五月十五日以前の事はまったくこの世界では無いものとされているのか、いやそれならば桃子さんが借りた本も同じなはず。彼女の読んだ本だけがきちんと本として成り立っているのは妙だ。

 ギィィィィィィィイイイ……。

 妙な音に突如俺は見舞われ、耳を塞ぐも、どうやら耳鳴りのようなものらしい。耳鳴りにしては酷く不気味な奇怪音を発しているためそれが俺の心に巣食う恐怖心を倍増させる。
 ――似たような音をどこかで聞いたことがあるかもしれない……。
 俺はすぐに本を元の位置へと戻し、妙な胸騒ぎを抱いて一先ずこの場から離れたい一心に見舞われた。
 図書室の扉を静かに開け、出ようと一歩踏み出した時、
「帰るの?」
 桃子さんは後ろで一言呟いた。
 奥の部屋にいたはずなのに、後ろをちらりと見ると無心な瞳で見つめてくる。奥の扉は閉まっている、何時の間に開けて、閉めたのか。俺が図書室から出るとき扉は閉まっていた。部屋を出るにはざっと三秒も掛かっていない。足早に退室しようとしたのだから。
 その刹那、どうやって奥の部屋から出て俺の背後へと立ったのだろうか。
 それに、帰るの? という一言は俺が部屋から出てくることを察知していたような……
「あ……ああ、今日は帰るよ」
「何も借りないの?」
「い、いや……いいよ」
 背筋が凍る、言葉では聞いたことがあるが実際に体験することはこれほどのものなのかと俺は背筋どころか体全体が凍りつくように直立していた。目だけしか動かせない、今はそんな状態だ。
「…………残念」
 またね、と背中をぽんっと押されて俺は図書室を出た。扉を閉めようと振り返ってゆっくりと閉める中、扉の向こうで彼女はじっとこちらを見ていたのがたまらなく心を恐怖が蝕んでいく。
 桜川桃子、……彼女かもしれない。
 それよりも今はこの場から離れたい。俺は逃げるようにその場から立ち去った。


 ギィィィィィィィィイイイイ……。

 またあの耳鳴りが聞こえる。
 寝不足によって足取りはいつになく重くなっているのはきっと昨日の事があったからだろう。
 目を閉じ、植えつけられた恐怖から逃れるには眠るのが一番だと消灯してその日は珍しく早寝を試みたものの、まどろみ数分の後にて桜川桃子の顔が浮かび上がり何も変哲の無い室内に、あるはずの無い気配を感じ取っては些細な音にまでも肩を竦め、俺は頭から布団を被って早く夢の中にと何度も長いまどろみの中繰り返し祈っていた。
 ようやくして眠れたのはいつだったのやら。
 目が覚めれば少し充血した目にクマに頭から離れない睡魔。きっと眠ったのは布団に入ってから三時間は経過した後のことではないだろうか。
 今日も俺は時子が待つ待ち合わせ場所へと足を運ぶ。
 現実では無いけれども、だからこそ今しか味わえないこの時間を少しでも充実したいと思うのは駄目な事だろうか。現実じゃないから、別にこうして学校へ行くなんて行為はしなくてもこの世界では咎められても、現実世界に戻れば咎められる事は無い。現実じゃないから、時子と一緒にいなくて良い、でも現実に戻れば時子はいない。姿は時子でも中身はルウ、だから本当の時子とは過ごせない。
 前者はどうでも良いが、後者はこの世界でしか味わえないのだ。
 馬鹿な考えかもしれない、妄想に浸るのと同じ事。これは現実じゃない、頭では解っていても心が揺らぐ。
「あら、おはよう冬慈君」
 そこへ、今俺が一番会いたくない人物の声が聞こえた。
 後ろから、それは周りの雑音など軽やかにかわして俺の耳へ入り込むように。
 恐る恐るだ。俺は振り返って確認する。
「昨日はよく眠れた?」
 桜川桃子がそこにいた。通学路は俺と同じだっただろうか。今まで見かけた事も無いのは偶然か、今日は決して家を早く出た訳でも無く遅く出た訳でも無い。何時も通りなら昨日でも会ったであろうになぜ今日彼女と遭遇したのだろう?
「あ、ああ……よく眠れた……」
 目の下のクマが偽りを物語っているわけだが彼女は気付いているのか、そうで無いのか、
「ふぅん、それはよかった」
 と言って俺の隣にすっと肩を並べた。
 雰囲気は何も変わらぬ普通の生徒。昨日の雰囲気は気のせい、……ならばいいのだが。
 もしかすれば今日は感づかれたと思って俺にわざわざ通学路を合わせて来たのか、それならば戦う事を覚悟しなくてはならない、か? いやでもイタカは俺の中にいない。この世界で俺が武具を引き出す事は出来るのか、もしも出来なかったら今の俺は無力そのもの。助けを求める相手もいない、イタカが近くにいてくれたらと願うが朝の通勤ラッシュに加えて登校ラッシュ、この人ごみの中をきちんと目視してくれるなど期待は出来ない。
 もしも今隣で彼女が俺になんらかの攻撃を仕掛けたら、まず俺は何も出来ずに殺される事は必須。
「もしかして朝には弱い?」
 顔を覗かせては、にんまりと可愛らしい笑顔で見つめてくる彼女。
「ど、どうして?」
「口数が少ないから。さては眠れたなんて嘘でしょ。本当は時子さんの事ばかり考えてたんだ! そうに違いない♪」
「そ、そ、そんなことないさ!」
 考えすぎかな。
 いや、時子の事じゃなくて桃子さんの事だからな。
「貴方ってクールね。笑顔なんて見た事ないし、表情の変化はあまりしないわよね。まあそこが格好良いんだけど、失礼な事を言ってたらごめんなさいね」
 クール、か。周りから見ればそう見えるのかもしれないが、一応笑顔は作ってみようと試みてはいるのだが表情には出ていないらしい。笑顔を作れる日はきっと来ないだろう、けれどもこの世界なら、時子がいる世界なら笑顔を作れるかもしれない。
「そうなのかもしれないね」
「時子さんといるときでもそうなの?」
 どれだけ俺は周りにクールと思われているのだろう。少し気にはなったものの別に自分では今の状態から改善しようとはもう思っていない。自分を変えたい、自分が嫌い、そんな事何度も考えたことはあるが変えようと頑張っても足掻いても結局何も変わらない自分の未来が待っているだけなのだ。
 自分を変えることは生半可なものではなく、一朝一夕では出来るものではない。特に俺は、変えたくても変えられない壁が心の中に聳え立っているような気がする。
 諦めが肝心、納得はしていないが壁と向き合っている自分を少しでも楽にしようと何も変わらない今の俺が健在している。けれども何か変わるかもしれない、ルウと出会ってそう思った。
「多分、そうだと思う」
「えー、もっと明るく接してあげないと駄目だよ?」
 なぜ彼女にこうも俺と時子の間柄についてアドバイスを受けなければならないのかな。俺ははい、と一言言って頭を掻き、彼女の言う事にも一理あると肯定した。
 それほど周りからは、彼女からは俺と時子は心配されるほど進展が無いように見えるのか、事実進展は無いにせよ俺達は幸せだった。あの日以降、このあるはずの無い未来は『だった』を『だ』と過去形から抜け出せたにせよ現実では無い。
「じゃ、あとはお二人だけで登校を楽しんでね♪」
 手を振ってまた後でと付け足して彼女はその場から人ごみへと消えて行った。学校へ向かうなら一緒に来ればいいのに、俺と時子との間に入ることはしてはならないと気を使ってくれたのだろう。ありがたい事では有るが遠まわしに恋愛を楽しめと言われた様で恥ずかしい。
 すぐす数歩歩いたところに、時子は何時も通り待っていてくれてる。俺が待つ事もあったっていいじゃないかと早起きしても時子はいつも俺よりも早く待っている。俺が待つ事などこれまでにあっただろうか。あるとしても時子は必ず風邪か、学校を休まざるを得ない状況でしか無い。今までにそれが何度あったかを数えようとしてもあまりの数の少なさに俺は片手の指で納まる事に苦笑いを浮かべた。
「今日は意外と早かったね」
 何時も通りの笑顔だ。
 それが毎日俺を癒してくれる。たとえ寝不足であっても彼女の前ならば寝不足はどこかへ飛んでいき、十分に睡眠をしたような爽快感が包み込んでくれる。
「ちゃんと起きたからな」
「でも目の下のクマさんは寝不足ですって訴えてるよ? あまり眠れなかったでしょ」
「まあ……」
 図星。照れ隠しの為にさあ行こう、と俺は彼女の手を引いてそそくさと学校へ。
 こんな朝を迎えられるのはこの世界だけ。
 
 ――だから心は切なさで蝕まれていく。

 あえてこの世界を言うならば天啓の幻か。




 考え事をしていると授業なんてすぐに終わってしまう。
 あっという間の放課後、俺は今日こそ時子と一緒に帰宅しようと誘ったのだが、
「ごめんなさい、今日は委員会の会議があるの」
「そっか……」
 この世界でもなかなか世の中巧く行かないものである。
「でも、そんなに時間は掛からないと思うから待っててくれたら……その、嬉しいなぁなんて」
 少し俯き加減に彼女は両手の人差し指をつけてはくねくね捏ね繰り回してちらちらと俺を見つめて返答を期待していた。何を言えばいいのか、それは分かり切っている事。たった一言でいいのさ。
「ああ、わかった」
 すると恍惚な様子で時子は、
「じゃ、じゃ、じゃあ! その、待っててね!」
 とさらに快活な足取りで教室を出て行った。
 現実の時子、いやルウならどんな様子だっただろうな。
 ふとそんなことを考えながら俺は暇つぶしに屋上へと向かった。別に大して用は無いが屋上から風景を眺めるのもいいかななんて思ったからだ。
 ルウなら、
(冬慈、待ってろ)
(ああ、わかった)
(うむ)
 多分それだけ。
 鋭い視線は常に初期設定みたいなもので設定変更は不可。恍惚な様子など見た事は無いし、先ほどの時子みたいな仕草なんてするはずもない。だけど、なんだろうな。現実では時子はいない、それでも姿形を残している彼女に俺は心が和む。肝心なのは中身なんだけれども。
 屋上には誰も無し。それも当然か。放課後になって屋上へと足を運ぶのは余程の暇人、それ以外は無い。
 フェンスの向こうに見える市井は夕焼けに照らされてこの時間にしか見られない美しい風景が広がっていた。
 ――これが現実じゃないなんて……。
 どこに何があるのか、正確に再現されている。現実世界とまったく変わらない世界だ。
「この世界も美しいけれど現実世界はきっと、もっと美しいはず」
 肩を並べてきたのは、イタカだった。
「イタカ? どうしてここに?」
「私は常に貴方の近くにいると説明した。だから驚く事では無いでしょう?」
 けれどもここは学校だ。人目につくだろうにどうやってここまで来たのだろうか。見れば片手に棒キャンディを持って随分と難なく来れたようにも感じる。それに服装も子供服になっているじゃないか。
「ああ、この食べ物は受付の男から貰った。にゅうがくせつめいかいってのはなんたらだけど、がっこうに許可をとればなんたらだから入っていいよとの事だ。服は……拾った」
 堂々と入ってきたのか。それにしてもフリルの花柄で可愛らしい服がどこに落ちていよう。視線を避けて妙な口笛を吹いては服の件についてはわずかなその沈黙――何を聞かれてもやり過ごそうという魂胆が見え見えである。
 まぁいい。どうせ現実世界じゃないのだから。

 ギィィィィィィィィイイイイ……。

「うっ……くそ、またか」
 なんだろう、ここしばらく耳鳴りが絶えない。耳鳴りにしては酷く不気味で耳障り過ぎて嫌になる。
「聞こえた?」
「……聞こえたって?」
 まさか耳鳴りの事ではないだろう。他人に聞こえるような音ではないはず。
「耳鳴りでは決して無いぞ」
「まさか?」
 耳鳴りではない? それならば何の音だというのだ。そこらの物から発せられる音ではない。しかし、どこかで聞いた事のある音に、俺は思考を過去の経験に戻した。
 どこかで、――そうだ。ルウが現れてからよく聞く。音は少し違うけれど。
「神の力を使えば、音が発せられる。神音と言われていてそれは一つ一つ違う力によって音は違うのだけれど、……酷い音」
「神……音?」
 思わず聞き返すが、同時に俺は辺りを見回していた。ならば誰かが神の力を使っている、それも音は結構大きい。この学校敷地内にいるということを意味しているのならば危険と隣り合わせという意味も成している。
 冷や汗が額を伝い、頬を通り、落ちていく。
「今貴方は私があなたとは別の存在になってるから武具を練成できない状態。だから私が守るしかないから厄介ね」
 遠まわしに足手まといと言われた気分だが、そうだとしたら正しい。やはり俺は武具を練成できないようなのだから丸腰状態。これでは狙われているというのに命を投げ出すようなものだ。加えて敵が近くにいるのならば、危地の真っ只中にも関わらず俺は無防備でいる。
「しかしそれにしても敵は目的が何なのかはっきりしないな。お前を襲うことなんていつでも出来るはずなのに、こうして神音は発しても直接攻撃をしかけようとはしないしな」
 言われてみれば、今まで二回ほどこの音を聞いた事はあっても、攻撃を受ける事は無かった。目的は俺なのでは無いのか。他に目的などあるとは思えないし、一体何を企んでいるのだろう。この世界で生活している俺を見て楽しんでいるようにも思えてきたが、さすがにどうだろう。
 考えれば考えるほど嫌な考えが浮かび、どうしようもなく俺は風景に視線を向けた。眩しい光を放つ夕焼けを直視すれば胸の蟠りとなった嫌な気分をすっきり消し去ってくれるかなと考えても、それは乾いたハンカチに水滴が常に滴るようにじわりじわりとすぐ胸に混濁した妙な胸騒ぎが舞い上がってくる。
「敵が誰か解らない以上、私は攻撃を待つしかないし、とりあえずそれまで貴方は囮ということで」
 棒キャンディをぺろぺろと舐めながら嫌な提案をすらりと言ってくれる
「囮? ちょ、ちょっと待ってくれよ、囮なんて言われても……」
 いきなり言われて囮という言葉で連想されたのは俺がざっくりと無残にも殺されている姿。だってそうだろう? 俺は今何も武具を持たない生身の人間なんだから。
「別に貴方は普通の生活してればいいわ。でも行動を増やして欲しいだけ。色々なところへ行って、無意味に足を運ぶ。そうして敵を釣る単純な行動よ」
「いきなり襲われたら?」
「貴方の死体をつんつんとした後に敵討ちするわ」
 棒キャンディがさぞ美味しいのか、真剣な俺に視線さえ向けてくれない。
「……馬鹿」
 おっと。頭の中で言ったつもりだったが。
「馬鹿?」
 棒キャンディを舐める舌が止まり、彼女はやっと視線を向けてくれた。
「いやあ、何でも無い」
 鋭い眼光に罵倒はまずかったかと俺は頬を掻いた。
「ふぅん、そぅ。解ったわ、貴方の死体はさぞ酷い状態になってるでしょうね」
「いやいや、俺が死ぬ事前提で囮させるつもりか?」
「どうせ私は馬鹿だから」
 なんだよまったく。馬鹿って言っただけなのに頬膨らませて不貞腐れてるし。
「はいはいごめんなさい」
「ふーん」
 今度はそっぽを向いてしまう。
「すみませんでした」
「ふーん」
 まだ振り返らない。子供か、と言いたくなるが外見が子供であるためにどうも反論が思いつかずに俺は屈した。
「本当にすみませんでした、今度何か食べ物をあげるので許してください……」
「……仕方ないわね。わかったわ」
 振り返ったイタカの表情が満足そうににんまりしていて少し腹立たしい。
 イタカって最初に会ったときよりもすごく面倒な存在になってきたなぁ……。




 面白いです。
 揺さぶるならば少しずつ、震わせるのは少しだけ、それが私の楽しみという糧を貴方は上手に、こんがり美味しくさせてくれますね。
 嗚呼、いけません。こういうのが腹黒というのでしょうか? なんだか意地悪になった気分で虐められる側だった私が虐める側になった気分。
 でも、これは心地悪いですね。
 虐めるなんて大して面白くも無く、すぐに飽きてしまいます。けれども少しは私の糧を美味しくさせてくれました。
 虐めるなんてことはつまらないこと、けれどもまだ彼には飽きていませんが、この世界にも慣れてきたのか、次の日になれば戸惑いも無く冷静に過ごしていますし、それではちっとも面白くも無いです。
 目を瞑る度に畏怖して、目を覚ます度に戦慄して、そんな様子が私をぞくぞくさせるのに。
 何だかこの世界が現実じゃないと悟ったように冷静。
 やはり彼は普通の人と違うのでしょうか。
 でも冷静すぎて、面白さは見込めなさそう。ならばもっとこちらから仕掛けてみましょうか。
 もう少し、貴方のさまざまな部分を見れば、きっと、もっと、ずっと面白いものを見せてくれるはず。
 さあ、貴方の全てを見せてください。
 私を楽しませてくれる踊り子として。
 場合によっては踊り子は壊れてしまうかもしれませんが、それはそれで結構。その程度で壊れるくらいの人形さんなら私は要りません。

 さあ、貴方の夢はどこまで続きますか?
 


 第三章 紙一重の誘惑


 私はしばらく屋上にいよう。
 少しここで静かに時の流れを感じたい、そんな気分で今心は蔓延している。
 ……この食べ物は美味い。
 赤々とした丸い塊はどのような味がするのか私には予測できなかったが、舌で舐めてみれば甘く口の中に広がり溶けていくのが面白く今までに味わった事が無い未知の食べ物に感じた。思わず噛んでしまうも破片を口の中で、舌で舐め回すのがまたいい味を出してくれる。
 ……この食べ物は甘い。
 今度からそう認識しておこう。きっといつかまた食べられる。彼が私に食べさせてくれるというのだから楽しみにしていようじゃないか。とはいえ現実世界で私が彼の体から出るのは面倒なので倦怠感が立ち上るがね。
 神海なら環境は良かったが、人間の住む世界は徐々に酷い環境へと変化しているように感じる。一度、そう過去に一度……私が人間の世界へ足を踏み入れる事があった。誰にも話していないが……。
 思い出してしまう。この世界だからか、彼が今望んでいた過去を再現させられているからか。
 緒方時子という存在、彼にとってはよほど大切な――いいえ、そんな言葉を並べても彼の胸に秘めた想いへと到達する事は不可能でしょう。今までの経由を見て大切にしていることがよくわかった。同時に、ルウではなく緒方時子という人と一緒にいる彼の一面を覗けてルウと再会した時の状況が良く把握できた。
 緒方時子が緒方時子として存在しているのは器だけ。
 けれども彼はこの世界なら緒方時子という全てを触れる事が出来て心から満足しているよう。
 幸せそうだ。でも、辛そうだ。
 彼にとってこの世界はさぞ理想的で、美しいだろう。
 しかし、美しくも儚き世界。
 この世界は所詮夢のようなもの。
 敵が造り出した夢だ。目を覚ませば現実世界が待っている。現実世界はこの世界とはきっと違う。彼には大きな違いがあると感じただろう。それは何か、きっと緒方時子だ。
 とうじもわかっているだろうに、この世界の緒方時子とは幻想に過ぎないのだと。
 私の推測ではおそらくとうじの精神に思念融合をしてこの世界を敵は作り出したと思われる。人間の記憶とは脳の片隅に消えずにあるものだ。それらを拾い集めて自らの記憶と結合させ、いや多数の記憶を結合させているかもしれない。これほどの世界を造る事は不可能だ。もしかすれば何人か喰ったのか。
 だとすれば一体何人喰ったのか、想像もしたくない。
 とうじはこれからどうするのだろう。私はこれが本当の世界ではないという自覚をしっかりとしてもらいたかったのだが、どう思っているのやら。敵は必ずいるということを憶えていてくれなくては困る。
 とうじが死ねば私も死ぬ事になるからね。
 今は何をしているやら。神約したことによって気を常に感知できるが今のところ問題は無いようだ。
 私は屋上でしばらくとうじの意識を察知しつつ、敵の神音を探る事ぐらいしか今はやる事が無い。ここでこの造られた世界の風景を眺めていようか。
 こうして見れば、人間の世界は風景ぐらいは美しいではないか。神海は何も無い……。醜き神族が蔓延るぐらいか、目がいくものといえば。この世界では街も多々ある、山も、海も。見ているだけで面白い。ここから見れば妙な塊がさまざまな速さで走っているし、人間もまるで蟻のように列を作っては律儀にも十字の道の角で待っているではないか。
 いつからこんな世界になったのだろうな。
 私がいた頃はもっと静かだったのに。面白いには面白いが、この世界は少々騒がしくなりすぎだ。それもまた良し、か。世界がこうして変わり往く事が進化へと繋がるのだ。我々とは違い、進化していくのが人間だ。
 だから人間は美しい。
 人間はさまざまだが、私はそう思う。
 在る神は云う。
(醜き人間など見ているだけでも喉の奥から嗚咽を呼び起こすわ。そんな下郎と一緒に居たいなどと申してみろ。あたしが引き千切ってあげる)
 どうして、昔の事を思い出すのか、私は自分でも不思議だった。
 初めて人間の世界に来た時の事。
 初めて人間と接した時の事。
 あれは誰にも話していない秘密事。
 いいえ、話したくない秘密事。
「この世界なら、会えると思ったのが間違いだったか……」
 現実では無いからこそ、何かが変わった世界、変えられる世界。この世界ならと思ったのだが、無駄足の積み重ねばかりでとうじを放っておくのも危険だ。もうあの人を探すのは止めにするか。
 所詮、人間だ。もう生きてはいまい。それに、会ったとしても幻に何を得ようとしているのか。私は本当に……馬鹿なのかもしれない。


 

 今日は一先ず時子と一緒に帰るとするか。
 まだ時子は委員会の会議か、教室には姿が無かった。
 会議室は俺のクラスと同じ階にある。いくつもの教室を横切り、右に曲がってその先直進。それでいいはず。学校内の配置は大体もうとっくに憶えている。たとえこの世界ではまだ入学して間も無くとも皆よりも二、三ヶ月は蓄えた知識があるため授業も楽々だ。宿題が出ても一度やった事なので教科書をさらっと見れば俺には朝飯前なのである。
 なんだかゲームでいう裏技を使った気分で学校生活は心地良い。優越感さえ抱けるくらいにね。
 授業で教師に当てられてもすらりと答えられるし、この世界ではなかなか優秀な生徒として通っている。現実では中の下、いやそれより下か? そんなことはどうでもいいとして、兎に角現実の俺は頭が悪いって事。理由としてはルウが来てから勉強なんてする時間は無く、自分も鍛錬したいと思い始めてわずかな勉強時間を削ろうとまで考えているのだから。
 この世界じゃ最低限普通の生活をしていける――というよりも味わえると言ったほうが良いのか、それはいけない事なのだとわかっていてもどうしようもなく集中が途切れる時がある。
 実際のところ俺にはこの世界を楽しむほど余裕が待ち受けているわけもなく、時々響く異音が神音であると教えられてからは不安、畏怖さえもちくちくと心を突いて、茂みから息を潜んでこちらの様子を伺っているような、そういった気配に集中を戻しては非現実であると再び自覚される。
 今もこの誰も居ない廊下を歩いていると背後に誰かいるのではないかと視線を背後へ向けるもそこには夕焼けに彩られた橙色の廊下が広がるだけ。
 別に神音が聞こえたわけではない。何を神経質になっているのだろう、溜息が出る。
 元々手を出すつもりは無いのかもしれないじゃないか。それに今はイタカが近くにいるんだ。何かがあってもイタカが助けてくれる、そういう甘えはしてはならないだろうが、無力な俺はイタカに縋るしかない。
 しかし……いつもより活気が無い。
 教室を覗いても誰もおらず、妙な雰囲気を感じる。
 自分だけ隔離されたような、そんな気分を……。
「……」
 辺りを見回しても誰も居ない――が、奥の廊下で桜川桃子が歩いていた。
 廊下を横切り、会議室にでも向かう様子。
「……考えすぎか」
 こちらには気付いていないようだ。
 立ち止まった足取りを再び始動させて足早に廊下を歩いて会議室へ向かった。
 短い距離ながらも長く感じた歩数に、掌から滲み出る汗に、嫌な気分はまだ拭われない。
 会議室を覗いてみると電灯はついていないよう。中には人影が一つ。あのポニーテールは時子で間違いない。まだ仕事があるのか彼女は背を向けているためよくわからないが椅子に座ってじっと動いていない。
 そういえば桜川桃子は会議室に向かったと思ったのだが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
 しかし会議が終わっただけなのかもしれないし、桜川桃子は偶然廊下を通っていた、それだけなのかもしれない。
 他は誰も居ないようだ。
 俺は扉に手を掛け、扉を開けて少しばかりの警戒心を用いて中へ入った。
「時子、もう終わったのか?」
 ……どうも、変だ。
 室内を漂う妙な雰囲気。
 いつもよりも俺は警戒心が敏感になっていたから、単に俺が目ざといだけなのか。俺が目に止まったのは机や椅子などだ。
 今まで会議していたとは思えないくらいに机や椅子は整頓された状態で、会議が終わるや掃除でもしたのかと思うくらいに綺麗――いや何も使われていないという感じ。黒板、ホワイトボードも綺麗すぎる。濡れた雑巾で拭いたのか、単に今日は使用しなかったのか、違和感で構成されたような室内に額から冷や汗が滴る。
 それにこの違和感を先ほどから膨らませるのは時子。返答も無くただただ座り込んでいた。根を張る様に何も動かず、何も音を発さず、時子の後姿が違和感の根源のように俺の視界は彼女の後姿へと固定させられていた。

 ――カチャ。

 何の音だろう、時子の方から聞こえてくる。俺は本能に従い足を止めた。

 ――カチャ。

 まただ。時子の手がわずかに動いているがここからは死角で手に何を持っているのかまったく見えない。金属音……のようだがそのようなものを彼女は会議室へ向かうときに持っていただろうか? いや、彼女は手ぶらで会議室へと向かったはずだ。

 ――カチャ。

 それならば手に何を持っている? シャープペンシルくらいは持っていったのかもしれない。それでもこれほどシンと耳に伝わる音は明らかにシャープペンシルを弄っている音ではなく、光り輝く鉄製の、爪を立てれば耳障りな音でも発しそうな音である。
 その時、すっと時子は立ち上がった。
 振り返り、
「待っててくれたんだ。さ、帰ろうよ」
 といつもの笑顔を見せる時子。
 手には……何も持っていない。
 一体何の音だったんだろう。聞き違いというわけではあるまいし、とはいえ彼女は何も持っていないのだ。これ以上の詮索をしても意味は無いかと考えるも、この嫌な違和感が心を混濁して決して気分は晴れたわけでもなく、早くこの場から立ち去ろうという気分に見舞われる。
「……さぁ行こうか」
 しかし相手は時子だ、警戒する必要も無いだろう。
「うん!」
 笑顔で時子は俺を見ている。
 その笑顔が心を落ち着かせて、こんな混濁した気分も消し去ってくれた。――嗚呼、時子といられる日々がずっと続けば良い。

 ――願ってはいけない願いを願うのは、叶わない証拠。紙一重の誘惑だ。

「とうじ! 伏せて!」
 刹那、イタカの声が聞こえたと思いきや、俺の視界は残像のようにぶれ、途端に瞬きをして一瞬の漆黒――すぐに目を開けるとそこには細く鋭い金属が鼻の数センチ前にあった。床に深く突き刺さったそれは、一体何なのか頭がその思考に到達するには少し時間が掛かり、何が起こったのか俺はわからずにしばらく金属に映る自分の顔と見つめ合っていた。
 頬からは横一線に数センチほど電撃が奔り手を添えてみるとぬるりとしたわずかに温もりのあるものが指に絡まる。指を見れば朱に染まっていた

 ――何かに頬を斬られた。

 そう思うまで何秒時間が掛かっただろう。
 頬を再び掠めたのは髪の毛だった。何本か切断されていたらしく、髪の毛は凋落するように俺の血の気が引くと同時に床へ落ちた。
「あれ? おかしいなあ? 貴方のような人は見た事無いんだけど」
 ――時子は何を話しているのだろう?
「当然。敵が現れるまで姿を見せる事はしないと思っていたのでね」
 ――敵? それは時子の事なのか? そんなはずはないだろう?
 現状把握をしようとゆっくりと振り返る。それまで想像していた状況は、そこに時子が腰を抜かしていて、イタカが俺の前で仁王立ちしていて、桜川桃子がいる――そんな状況なはずだが、視界に入ったものは大きく違う。
 時子が、イタカと対立していた。
「とうじ、離れるんだ」
 イタカは時子から目を離そうとはしなかった。
「な、なぜ……?」
 時子もイタカから目を離そうとはしなかった。
「なぜって、あれが敵だからに決まってるでしょう!?」
 二人をそれは反復横とびのように見て回るしかできず、どうすれば良いのかもわからずただただ眼球を動かす事しか能が無く、そんな時にイタカの小さな溜息が少しだけ思考を固めてくれる。
「あの手を見ればわかるわ」
 言われて視線を移すと、それは言葉では説明しがたい物。
 指の部分は全て剣と化し、シザーハンズという映画、ああいったものを思い浮かべてしまう。指が鋏という男が出てくる映画だが、鋏が剣として出てきたら、という問い掛けが有ったとしよう、それが彼女であろう。指を動かすたびに、剣と剣が撫で合って金属特有のざらついた音を発して鼓膜を刺激する。
 右手人差し指の刀、それだけは欠けていたがあの刹那の時間、イタカが俺を助けると同時に反撃していたのか。飛んだ剣が俺の目前へと跳ね飛ばされて床に刺さったはいいものの、俺に刺さっていたら元も子も無いな――なんて冷や汗をかいて俺は暢気にこんなことを考えてる暇など無いのに、暢気になればこの状況からまたいつもの現実逃避を実行できるのではという弱い自分が現れ始めていたのかもしれない。
 だってこの状況、誰でも逃れたくなるじゃないか。
「一本……折れちゃった。でも、残りで足りるね。首をはねるのは1本だけでも十分、まだ八本は余裕を持って使える」
 剣の爪を数えては不敵な笑顔を見せる時子が今までの時子とは思えない。
「貴方がこの世界を造った神ね? 創造系の神とも考えられるけど、喰らいの神にもこのような力を持っている神はいるし、今から殺す相手に聞くのも無意味ね」
「あはははははははははははははははは――――!」
 時子は大きく高笑いをして、狂気に目覚めた眼はイタカをじっと見つめていた。目的は俺だろうがイタカを敵と認識し最も優先する排除の対象と選んだようだ。
 時子に姿形を変えて俺をじっと観察していたのか、ならば殺す機会など何時でもあったのに何故今さら襲ってきたのだろう。俺を見て面白がっていたのか、それともイタカの存在に気付いて――いや、彼女はイタカを初めて見たと言ってたのだ、それは無いはず。
 この室内なら障害物があり、範囲も制限された戦いづらい場所として機能している。イタカが戦闘するところを俺はまだ見た事が無いため彼女はどのような戦い方であるかはわからないので戦いづらい場所と言っても、彼女はどう思っているか解らないが俺ならばここで戦えと言われて十分な戦闘を行なえる自信は無い。
 ……それに時子と戦うなんて俺には出来ない。
 
 ――イタカは手を翳すと白い光が淡く宙から生み出され、刀の形へと変形していき光が薄れると共に純白に染まった刀が現れる。

 それを手に取ったイタカは刀を構えた。
 空気がまるで軋み出すかの如く重くなり沈黙が俺を、イタカを包み込む。どうするか、話し合いをする時間など無い。刹那の油断さえも自らの身を滅ぼす凶器と化しているのだ。口を開き気を一瞬でも敵から逸らす事があれば一秒でも未来は保障されない。
 その事を把握した俺は瞬きすら禁じた。

 ――空気が振動するように、頬を突く。

 何もこの漂う空気は変化していないだろうが、緊張が、互いにぶつけ合う殺意が、ひしひしと伝う。

 ――呼吸が、心音が、はっきりと鼓膜を刺激する。

 不思議だ。
 学校なら部活動などの何らかによる騒音はあってもいいのに何も周りからは聞こえない。呼吸、心音、それだけが世界の音になっていた。
 それだけだったのに、一つの音が干渉してくる。

 ギィィィィィィィィイイイイ――……。

 時子の体が音に合わせて次第に変化していく。
 危険を察知したのか、イタカは間髪を入れず飛び掛る。
 刀を振り上げ、天井を削り、それでも刀は勢いを緩めるどころか加速し、時子の脳天を一閃しようと振り下ろした。
「イタ……カ……!」
 一瞬、どうしてそう叫んだのか自分でも解らない。
 時子を斬るということは敵を倒すという事、だから正しい事なのだ。止めるべき事ではないのだ。それなのに、俺はイタカを呼んで止めようとした。何故? どうして? この空間でのわずかな気の緩みは死へと繋がるのに、どうして俺は彼女の邪魔になるような事をしたのだろう。
「馬鹿ね」
 赤い雫が頬に付着した。
 共に鼻腔を刺激する生臭い香り。
「あぁ……!」
 イタカは小さく声を上げると、刀を落とした。
「良い声……聞くだけで果てそうなくらい」
 時子は笑っていた。とても幸せそうに。
 体中に刺青のような模様が蛇のように蠢いている。もう、時子ではなく本当に敵として視覚から脳へ叩き込まれるほど認識させられる。
「もっと、鳴いて欲しいなあ」
 イタカの体には複数の爪が突き刺さり、貫通しては爪の先に赤い雫が滴っていた。
「少しだけでも躊躇するなんてねえ。冬慈のせいよ」
 どうして俺は叫んだのか、罪悪感が心を締め付けた。
 時子はイタカをこちらへ投げつけ、彼女は壁に叩きつけられる。 
「イタカ!」
 肩を揺さぶってみると大量の吐血をし、思わず手を引っ込めてしまった。傷口は九つ、これでは傷を塞ぐ事さえ困難だ。それにこの状況、明らかに逃げられるほど隙も与えてくれない。
 イタカは動けず、しばらく咽て口の中に溜まった血液を吐き出しては、蹲ってしまった。壁に叩きつけられたときに頭部を強打したのか、額からはかすかな流血。意識も失ったようだ。
 時子はゆっくりと一歩ずつ歩み寄っては笑みを保ち、これから俺達を殺す事が楽しみのように足並みも軽やかだった。
「死ぬの……かな」
 それはイタカにも、時子にも当てた言葉すらあやしいところ。
 今心の中で思い浮かべているのは、何故だろう――時子、というよりもルウ。
「ええ、死ぬのよ」
 畏怖が心を蝕む中、死ねば俺は本当の時子に会えるのかな――死を目前にしては死後の妙な期待を抱いてしまう。そう考える事で死という恐怖から少しでも逃れようとしていたのかもしれない。死という決定事項を突きつけられて諦めていたのかもしれない。
 距離にして目と鼻の先、本当に。
 彼女はこの僅かな距離で、じっと眼を見開いて静かに言う。
「視覚から得られるこの風景、貴方はどう思う?」
 死を覚悟して畏怖し、震える俺を、彼女は緩やかな口調で――それはある意味では違う意味での畏怖を与えた。何を言えばいいのだろう、どう答えれば、何をされるのだろう。発言によっては命を秤に掛けることになるのかもしれない。もしくはどちらにせよ命を乗せた秤は傾くのだろうが、最後に会話でもして不意をついて一気に秤を傾けるつもりか。どうあれ秤が傾くのは至極未来に刻まれた一連の循環に過ぎないのかもしれない。
「……こ、これは偽の世界だ」
 それが精一杯の返答。
 死神の掌で踊らされているような、地獄の淵で一本の蜘蛛の糸を垂らされてそれを取れるようもがくのを様子見されているような、常に死が隣り合わせとなって心臓が握り締めているかのように大きく震えている。
「そうかしら? 今まで見た世界が偽物だったということは考えられない? 人は視覚から世界を視ることが出来るけど視覚が本当に、本当の世界を映しているという根拠はある? 目が覚めているのに夢のように感じたり、夢なのに現実のように感じたり。本当に今が現実じゃないって言える根拠はどこにあるのかしら?」
 押し寄せる言葉が徐々に重みをつけてくる。

 ――息苦しい。
 
 ――胸が痛い。

 ――筋肉部位一つ一つが震えている。

 彼女は何を求めている? どんな事を答えれば満足する? 満足してどうする? 満足しなかったら? どうあっても、どうしても、どうすることもなく、頭の中が真っ白になっていく。嗚呼、駄目だ。何か言わないと、兎に角なんでも良い。口を開かなければ、時間を稼がなければ、今自分がするべきこと。
 ――そうだ。
 するべきことがあるじゃないか。この状況を打破するためにも、イタカを連れて隙を突いて逃げる。それが今最もするべき事だ。ならば話せ、答えるんだ。何でも良い。
「こ、根拠なんて……必要あるのか?」
 少し、……少しだけ彼女は顔を引いた。
 思わぬ質問に不意を突かれたのか、必要……そう一言呟いて顎に指をつけた。
 こうしてみると彼女の仕草は時子のものではない。どこか別人になったような、そんな違和感を感じる。
「必要は無いのかもしれない。けれども、本当の現実か曖昧のまま過ごしていくのは?」
 まるでそれは現実と夢の区別を専門家に質問されているかのようで、何を答えても打破されそうな威圧感に息苦しくなっていく。内容が重過ぎて、言葉の威圧感が大きすぎて――徐々に口を開く事さえ辛くなる。
 それでも彼女は答えを求めるが故にその眼差しは微塵たりとも動かず、答えに期待さえ抱いているようにも思えた。
「……本当か、そうでないのか、それは自分の心に問いかければ解ることだ」
「……」
 ――ははっ。彼女はようやく出た回答を嘲るようにして微笑し、口を手で覆った。
 刹那、彼女は顔をぐっと近づけ、額がつくのではと思うくらいの距離で、
「やっぱり貴方は面白いです」
 突然口調が変わり、満面の笑みを見せる。
 唾が口の中全体に広がり、思わず唾を飲んで畏縮した。冷や汗が一滴、頬を伝い落ちる。心臓の鼓動が脈動して止まない。いつでも逃げれるように足は力を入れているのに震えていた。四肢が、心が、体の全てが、これ以上とない畏怖を受け止め、受け止めきれずに体外へと放出される。
「では今見えている世界を貴方の心はどう感じているのですか?」
 まだ、質問するのか。これ以上は拷問にも等しい故に答えることさえ苦しい。
 それでも考えるんだ。今こうして会話をしているうちは何もしてこないはず。彼女は俺に何かを求めている。それならば常々質問の答えを先延ばしにすることでこの状況を乗り切れる方法を十分に探す時間も得られる。畏怖している暇は無い。兎に角動かなければ。
「この世界は……」
 ――ゆっくり口を開け。
 自分に言い聞かせて視線はあまり動かさず、見える風景のみを把握して室内の状況を確認した。倒れている机、椅子、それら障害物が退路を塞いでいれば困難。今のうちに位置を把握しておかなければならない。幸い出口には机等の障害物は無し、だがそれまでの退路に机が複数倒れているためイタカを抱かかえながら逃げるには難しいかもしれない。
「現実とは程遠いもの、だと」
 そうだ、一つ彼女の隙を突けるものがあった。
 イタカが叩きつけられた壁、それは普通の壁ではなく――黒板。当然黒板消しやチョークなどが常備されているものだ。それらは黒板の中央下部にある。幸い俺の位置も黒板の中央。すぐ手の届く距離だ。
「なるほど……あなたの心とはとても素晴らしいですね。感心しちゃいました。決して迷う事は無いのでしょうね」
 ……迷う事、か。それならば幾度とあるさ。ただ迷っても現実は何も変わってくれないし、変える事の出来る好意では無い。迷っても、すぐに道を正せ――母さんが言っていたかなこの言葉は。
「そうです。お気づきの通りこれは現実ではありませんよ。だから、もう少し遊びましょう?」
 彼女を覆う体中の刺青のような模様が、右手に集中していく。身体を抜けてそれは絡み合い形を成していった。
 
 ――大きな鎌。

 単純に、それを例えるならばこれ以上と無い、これ以外と無い言葉を選別したつもりだ。
「今から三十秒数えますね。学校内でかくれんぼしましょう。私が鬼ですのでどうぞ、お逃げください」
 どうやら彼女にとって俺という対象は殺すというよりも遊び相手のようだ。
 逆にありがたい。おそらくイタカを倒した事で自分の負けは無いと確信し余裕を抱いたのだろう。ならば遠慮無く全力疾走でこの場を立ち去ろう。チョークなどを投げて強引に逃げる必要も無くなったようだし、学校内と言われても俺は先ず学校玄関へ走るだろうね。三十秒という貴重な時間の中、イタカを抱えたまま全力で走るには少々辛いが、ここから学校玄関まではそれほど遠くない。
「では数えますね――いーち!」
 死のカウントダウンとでも言おうか。俺はイタカを背負って教室を出て行った。
 教室からは「にーい!」とゆっくり数える彼女の声が流れてくる。この数え方なら実際三十秒以上掛かるだろう。
 先ずは学校玄関へ向かい階段を降りる。イタカは身体が幼い体系ゆえに体重もそれほどなく、走っても苦にはならなかった。
「……とう……じ?」
「気付いたか。あまり喋るな。傷に響くぞ」
 意識は戻ったようだが呼吸が少々荒れている。振動を与えないよう焦らず、しかし急いでいくという器用な動きをせねばならない。
 学校内の雰囲気、窓から広がる校庭を見回しても、教室を見ても誰も居ない校内に、
 ――そうです。お気づきの通りこれは現実ではありませんよ。
 その言葉が脳裏を過ぎる。当然の如く饒舌で言った彼女、それはまるで自分がこの世界全てを把握しているような口調。
 彼女がこの世界を操作できているのなら……あまり予測したくない未来が待っているかも知れない。
 玄関にたどり着き、何も変わらない風景に安心しながらも警戒心は解かず辺りを見渡して俺は外へ出ようと扉へ近づいた。
 扉を開けようと手を伸ばすが、まるで扉は壁のように、びくともしない。
「で……出られない……?」
 閉じ込められた……ようだ。ならばどうしようか。他に出口を探すか? いやほかも開かないかもしれない、……かもしれないではなく開かないだろう。断言できる。
 ここから逃げるという方法は考えないほうが理工的か。無駄に出口を探して走り回っている間に彼女が三十と数え終え、俺を探しに来る事は必須。加えて体力も無駄に消費していては不利だ。
 考えろ、考えるんだ。
 ……どうすればいいんだ。
 負傷した彼女を背負いながら、一体どうしろというのだ。
 武器は……くそ、あの教室に置いてきてしまった。俺が刀を持ったことで彼女にとっての猛威と認識される事は無いだろうし、少し鍛錬した付け焼刃の一般人が刀を持っただけで勝てるわけでもないが、武器を持っているということが心の支えにはなる。
「――さーんじゅー!」
 遠くから時子の声がはっきりと聞こえた。しんと静まり返った校内だ。彼女の声は雑音にかき消される事無く響き渡る。
「……どうしよう」
「……どうしたい?」
「え?」
 イタカは突然耳元でぼそりと呟く。
 ……どうしたいだって? そりゃここから逃げたいさ。
「……本当に?」
 ――いや、違う。
 逃げたいなんて弱気なことをいつまでも言っていられるほど俺は退化していたわけではない、そうさ、強くなりたいんだ。
「刀なら何時でも呼び出せる。私自身なのだからな」
 イタカは少し楽になったのか、俺の背中から降りてふらつきながらも俺に手を差し出した。光が宿り、刀の形が成されてそれに手を伸ばしてみると重みが掌に圧し掛かる。手触りは木のようなざらざらしたもの、色は純白。とても単色単純な刀だが心強い。
「私の一部だ、大事に扱え」
「……壊したら、どうなるんだ?」
「ちょっと痛い」
 ああ……そう。リアクションが取りづらい返答。
「さて、敵は殺気を放っていて位置がわかりやすい。距離をとりつつ少し話すぞ」
 イタカはふらついた身体であるも足を前へ出して駆け足に俺を追い越した。
 ――そうだった。もうすでに時子は俺達を探しに校内を徘徊しているのだ。逃げなくてはならない。
「話って?」
 本当は話し合っている余裕など無いがあえて彼女が言ったのはそれは重要な事なのだろう。
「まず、この世界がどういったものなのか、ということ。朦朧としていたが少しだけ話は聞こえた。あいつは“現実”では無い、と言っていたな」
「ああ、確かにそう言った」
「異世界ならば遠まわしに言わなくてもいいだろうし、もしかすればだがこれは貴方の精神世界かもしれない」
 ……どういうことなのか、彼女の説明を聞かなければ今一話が見えない。
「先ほど考えていたのだが、つまりは貴方の精神に敵が干渉し、貴方の精神に世界を作った。そこに貴方を閉じ込めたということ」
 ……なるほど。
「きっと貴方が知らない情報はこの世界に反映されていないはず」
 なるほど、図書室の本を一冊開いたとき空白に埋められていたのはそのためか。ならば桜川桃子が借りていた本はどうなるのだろう。俺は読んだことなど無いのになぜか彼女が読んでいた本はきちんと文字で埋められていた。
 彼女が読んでいた本――彼女の記憶も反映されているのなら?
 ――そうか。
「桜川桃子……彼女が俺の精神に干渉した人物……か」
「ふむ、それが敵ね」
 桜川桃子しか考えられない。時子の口調が変わったときも、あれは桜川桃子の口調に思える。
「でもなぜ時子が……」
「単純に考えて私と貴方、そして敵以外はすべて精神が作り出した物。敵が干渉しているのならば精神が作り出したものもを操ることなど簡単なことでしょうね」
 それならば身近な存在でも突如として敵となる可能性もあるわけだ。現在進行形でそれを体験しているわけだがね。
「逆に言うと貴方も操れるのよ」
「……俺も?」
「ええ、でも今はそんなことをしている暇は無いのだけどね」
 確かに。
 今こうして逃げ回るのは良いがそれは無駄な時間を費やすだけ。敵を排除しなければならない。俺が持っている刀を、彼女に向けなければ……。

 やれるのか――心の声が問い掛ける。

 やらなければ――心の声に俺はそう答えた。

 けれども手が、足が、畏怖を憶えて怯えるように震えている。
「後方、かなり遠くだが歩いているようだ。敵は余裕というか……殺気は放っているも威嚇するのみで楽しんでいるようにも見られるな」
 もう少し遊びましょう――なんて言っていたんだ。彼女にとってきっとこれはただの追いかけっこでもしているつもりなのだろう。だがそうする意図がわからない。意味も無く追いかけっこをして満足なのか、弄ばれているような妙な気分が否めない。
「逆にこの状況ならば待ち伏せして迎撃することができるわ。敵はこちらの位置を把握していないような立ち回りだし……やれる?」
 やれるのか――便乗して心の声が問い掛ける。今までこの刀で人を斬った事は一度しかない。その時の感覚はまだ憶えている。誰かを守るためには何かを奪わなければならない、そんな状況だったから無我夢中で刀を振るったが……。
 俺は心の声に返答する事無く、刀を握る手に力が入った。
「怖い?」
 イタカは俺の手に触れてそう言う。
 どうしてそんなことを聞く?
 ふとそう考えるもイタカが聞いた理由はすぐに解った。刀を握る手は小刻みに震えては臆した心を見せている。頭ではわかっているつもりなのに、あの時子は、本当の時子ではないのに、これは現実ではないのに……体が拒んでいるようだ。
 沙那華を斬った時以来――あの時に境界線を引いたはずだ。これから立ちはだかる敵が現れたら、周りの大切な人達を傷つける敵が現れたら、今まで逃げていた自分は境界線から追い出した。境界線の手前にいるのは敵を斬り、倒し、皆を守ろうと決心している榊冬慈。
 その榊冬慈が今境界線を跨ごうとしている。斬りたくない、戦いたくない、逃げたい、逃げたい、逃げたい。
 イタカがやればいいじゃないか――いや、傷ついた彼女にこれ以上動けと? 自分は見ているだけにしろと? そんな弱みの心の声は聞く耳を持ちたくない。
 何よりも敵は時子を侮辱している。俺が知っている時子は異形に変形しないし、人を傷つけることなんてしない。あれは時子じゃない、時子であるはずがないのだ。
「怖い……けど、時子をあんなふうに扱う敵を俺は許さない! だから……!」
 その先の言葉ははっきりと言えなかったけど、身体は反応してくれた。両手で刀を持ち、握り締めているという感触が確かに感じ取れた。現実ではなくても感触は掌から伝達している。指先一つ一つ、刀を握っていると脳に伝達してくれている。
 
 キキキキキキ――。

 金属が床を這いずり回るような音が遠くから聞こえる。
 神音……とは異なった確かに鼓膜を叩く音。
「これはお前の世界だ」
「――え?」
 イタカはこの緊張が肌を突くような状況なのに、笑顔を見せた。
「お前の精神世界なんだ。だから“俺は強い”と強く望め」
 それは励ましの言葉なのか、それとも本当にそう望めば俺は強くなれるのか、聞かずとも不思議と後者の方を意味しているのだなと理解した。
 確かにこの世界は俺の精神世界と思ったほうが濃厚のようだ。ならば俺が望めばどうにでもなるはず。夢みたいなものと考えればいいのかもしれない、明晰夢――記憶は曖昧だがそんな名称があった気がする。夢の内容をコントロールがどうとか。
 この世界も自分でコントロールできるのではないか。
 ならば信じる事から始めよう。俺は強い、それだけを信じるのみ。
 逃げ回るのは止めにしよう。俺は音の鳴る方向を向き、刀を構えた。
「どうやら、逃げの心は消えたようね。ならば堂々と待ち伏せなんてせずに行きましょう」
 彼女の意見に、俺はこくりと頷いて賛成した。
 待ち伏せはこの状況では博打に等しいかもしれない。ならば堂々と……その決断をするに彼女が待っていたのは俺の心の中に絡まる逃げや臆する自分、それを引き剥がせるかということだったのかもしれない。
「少し、考えたのだけれど精神世界ならばこれら建物も全て世界の一部。ならば……」
 彼女は床に手をつくと、そこから純白の光が漏れ始め次第に赤、青、様々な色が混ざり合っては神々しいとさえ抱かせる光となっていく。
 光は床から壁、壁から天井へと広がり建物全てを覆っていく。

 ――パリン。

 刹那に耳へ響いた音と同時に、外の空気が俺を包み込んだ。
「こうして自ら建物そのものの存在を消す事も可能、というわけだ」
 突如として眩しい夕焼けが瞳を刺激し、思わず手で日陰を作って目を保護した。どうやら学校という建物をイタカは消し去ったようだ。あたりは何も無い平面。唯一あるのは学校を覆う住宅街に木々。学校のみが消されたために巨大な空き地でも出来たような状況である。
「あーあ、消しちゃったんだ」
 逆光の中、遠くに人影が一つ呟いた。
「残念だったな。私達を閉じ込めたつもりだったのだろうがこの世界の理を知れば無意味だ」
 後は敵を倒すだけ。
 そう――時子を倒す……いや、時子と思っちゃいけない。
「冬慈くん、刀を持ってるの……?」
 不意に近づいてきた時子、口調はいつもの時子に戻っており、上目遣いで不安そうに見てくる彼女の表情が思い出を呼び起こさせる。
「それ以上近づくな!」
 鎌を引きずりながら向かってくる彼女に、俺は離れようともせず棒立ちで迎え入れようとしていたところへ、イタカが間に入った。立ち竦んでいたのだ俺は、どうしようもなく……。
「私と戦うの? 私を傷つけるの? 冬慈くんは私の事が大切じゃないの?」
 哀願さえしそうなその表情、刀を向ける事さえ体が拒否し始めていた。
 身体はそのどれもが自分の物ではないような、関節や筋肉が凍り付いていくかの如く、ぴきぴきと軋む。頭ではわかっていても身体がついてこない。彼女は時子じゃないと何度繰り返しても、視神経から与えられる目の前の状況が脳へ、脳から身体へと伝達していき体が言う事を聞いてくれなくなっていく。
 たとえこれが現実では無くとも、時子に刃を向ける事を恐れている。
「どうしても戦うのなら、致し方無いわね。この鎌でいっぱい斬ってあげる。腕、足、胴体、頭、指、耳、鼻、どこからやろうか悩んじゃうわ」

 ――毎日が楽しくありますようにってわがままを祈ってたら罰当たりかな?

 ふと時子が言っていた言葉を思い出した。
 ――嗚呼、そうさ。
「そろそろ飽きてきそうだし終わらせちゃおうかな」
 ――時子はそこにいないじゃないか。
「楽しませてもらったし、死を目の前にしている人の最後を見るのはとても楽しみ」
 ――時子はいつも……いつまでも俺の心の中にいるじゃないか!
「それ以上、喋るな!」
 刀を強く握った。
 叫ぶと共に肺の中にある空気を全て吐き出した。
 イタカを強引に退かせ右足を一歩踏み出し剣道の構えを頭の中で再生してはそれと同じ行動をし、天に突き出すように振り上げ、地を割るように振り下ろした。
 肉を斬る感触、――頭に血が上っていてそんな感覚など刃先から感じる事は無かった。
 気が付けば鮮血が迸り焦げ茶の校庭を赤く染めて禍々しく色彩を彩り始めており、地に伏していた俺の視線はその鮮血一粒一粒が大地に滴る様子をただただ見つめていた。
 赤い血は少しの間を持って黒く染まり、淡い煙を吐いて消える。
 彼女は呟く。
 ――私を斬った?
 ――貴方が、私を……。
「残念だが時子は俺の心の中で生きている!」
 ――嗚呼……やはり貴方は面白いです。
 途端に彼女は漆黒の煙と化し、姿形一切残さずその場から消え去った。
「何が……面白いんだよ」
 悔しい。
 逃げられた事じゃない。弄ばれているのだ俺は。刀を落とし、強く握った拳はしばらく解けそうに無い。怒りをぶるける対象が無いために俺は拳を握る事しか出来なかったのだから。


 現実とは変わらぬ赤い空が俺を照らしていた。
 イタカは気まずそうに目を伏している。
 一滴の涙が頬をそっと滴り、今はただただ空を見つめて時を刻むしか……できなかった。
 







 第四章 君の元へ



 次はどんな手を使って攻撃してくる気なのだろう。
 時子を使うのか、米崎を使うのか、南雲を使うのか……いや身の周りにいる人間ならば誰でも可能なのだ。誰を使うなんて考えは軽率。周り全てを敵と思って行動したほうが良い。
 唯一敵ではないと判断できるのがイタカ。
 彼女はしばらく俺のそばで行動するようだ。敵にもすでに正体は知られたのだから、隠す必要も無い。堂々と俺の隣で飴を舐めている。
 ……暢気なもんだ。それも実においしそうに舐める姿は容姿と一致していていつもの大人びたイタカではなく、無垢な少女イタカという感じで笑みを溢してしまいそうになる。
 笑みを溢したとしても俺の表情には表れないのだろうけど。
 あれから消えた学校は元通りになり時間が経つにつれてどこからか生徒や教師が沸くように現れ、何時も通りの風景へ何事も無かったようにこの世界は時を刻んでいった。
 ――現実とは何も変わらぬ世界。
 橙色に染まる空、優雅に漂う雲、役割を終えて隠れていく太陽、茂る木々、授業を終えて帰宅する生徒達、比較など出来るはずも無い。
「敵も正体はすでに知られたと察して仕掛けてきたに違いないし、今回のような手は再び行なう事も無いだろう」
「ならどういう方法で仕掛けてくるかな?」
 同じ方法は二度と通じないし仕掛けるなら強行手段で強引に、もしくは不意打ちか。どうであれ、こちらからは仕掛けれないのが辛い。
「仕掛ける前に仕掛ける」
 仕掛けれない……そう思った途端に彼女は何を言い出すのだろうか。いや、待て。ここは話を聞いておこう。
「……どうやって?」
 仕掛ける相手がどこにいるのかもわからないのに、この状況下でどうするというのだ。
「一先ずここから離れよう。騒がしい」
 言われて、今自分達が立っている場所は校庭のど真ん中ということに気付いた。
 帰宅する生徒達の視線がちらほらとこちらへ集中している中、会話などで騒音が止まない中、別にこれは現実世界じゃないんだからと思ってもさすがに意識してしまう。
 学校敷地内から出て、目的も無く歩くには途方も無いが彼女の言葉を待つためにしばらく歩く。
「桜川桃子といったか、なぜあいつは逃げる時消えたのか……わかる?」
 ようやくして口を開いた彼女の言葉は、問われても疑問しか浮かばなかった。
 説明が欲しいため、俺は首を横に振る。
「この精神世界の中を他の場所へ移動する事は不可能なのよ」
「でも彼女は俺達の目の前で消えて……」
「そう、それが問題なのよ。目を覚まして精神世界から現実世界へと引き戻されるなら徐々に消えてくものであるからあんな消え方はしない」
 漆黒の煙と化して瞬時に消えたようだが、つまりはどういうことか……?
「精神世界が変わっても自らの位置から移動する事は無いし、瞬間移動ならばあのような消え方も無い。黒い煙のようなものを纏って消えたのは別の精神世界への移動ということよ」
 難しい話になってきた。自分の思考で短縮化を図り、桜川桃子は他の精神世界へ逃げたと理解した。
「おそらくいつでも逃げれるよう別の精神世界を作っていたようだわ。だからこれからこの精神世界に桜川桃子の精神世界を引き寄せる」
 自信満々に彼女は腕を組み、ふんと鼻息を鳴らした。
 簡単に言うが出来るものなのか、いやそんな事は考えない方が良さそうだ。出来るからこそ、出来なければまた襲われるのを待つだけだ。待つよりはこちらから言った方が有利、そう――攻撃は最大の防御と言わんばかりの行為。
 彼女に視線を向けると、すでにそれは始まっていた。
 ――今は夕方、時間にしておそらく十七時、帰宅する生徒達も多く車両もそれなりに道路を走行しては騒音は止む事も止ませる事も出来ない中、辺りが静謐へと変わった。
 横切る通行人、走行する車両、一つずつまるで黒い絵の具に白を混ぜ合わせて徐々に白くなっていくように薄れては消えていく。
 会話をしている女子高生が傍らで会話をしているが声は流れてこない。見ていると女子高生が透過し、背後に建つ建物が見え始めると完全に女子高生は消えてしまった。
 辺りに人が全て消えた頃、次は建物が消え始める。
 その間イタカは目を閉じ、口を開かず、両手を合わせて起立。
 世界の欠片が一つ一つ欠落していく中、新たな世界が現れ始める。
 ――始めは、一つの扉だった。
 木製のどこにでもある扉、しかし壁に接しているわけでもなく扉が個体として存在している奇妙な風景だ。
 ――次に、夕焼けの空を鮮やかに変化させた青空。先ほどの照らす夕日は瞬く間に消え、爽快にも感じる雲ひとつ無い青空が頭上を埋め尽くした。
 辺りは何も無いアスファルトだけの空間。地平線まで、いや地平線の先までも何も無いような気がする。
 目の前に現れた扉、それだけがこの世界に唯一存在する物体。
「引き寄せたぞ。こうしてみると、この扉以外は何も無いしおそらく桜川桃子もこの先にいるだろう。隠れ家ってやつかこれは」
「随分と素朴な世界だな」
 何か他にあればいいものの、これではホラーに出てくるシーンのようで気分が嫌になる。
「それもそうだろう。ただの逃げ道として作った世界だ。何も必要ないさ」
 そりゃそうだが、こういう状況の事を考えてもう少し隠れ家としても見つからないようにするのが普通だがこれでは来てくださいと言っているようだ。
「桜川桃子はおそらくここまで追ってくるとは想定していなかったのだろうし、我々が突然来るなんて考えてもいなかっただろうね」
「罠っていう事は考えなくてもいいのか?」
「考える必要は無い。罠があるのならば突破する。ね? 簡単でしょ?」
 ははあ、ご尤も。
「何時何があっても良いように貴方も刀を持ってなさい。私の分身だから大事にしなさいよ」
 分身、といっても別に彼女が死ぬわけじゃないからなぁ。
「どうせ私が死ぬわけじゃないし、とか思わないでね」
 どうやら図星のようで、彼女は溜息交じりにそう言い放っては腕を組んだ。
 やれやれ、敵わないな――俺はゆっくりと扉に手を伸ばした。
 それにしても極普通の扉だ。ドアノブの付いたどこにでもあるようなもの、模様も無く俺の部屋の扉と似たようなもの。何らかの罠が有るかも知れないしドアノブはゆっくりと回して音をたてないようにする。
 僅かに見える隙間からは仄かな白い光が漏れていた。
「大丈夫……かな?」
 彼女に問い掛けたというよりも自分自身への問い掛け。
 イタカは刀を引き出し、自らもそれを持って重みのある足取りでゆっくりと扉に近づいた。
 自然と呼吸さえ小さくしてしまうほど、僅かな恐怖が畏怖へと進化したがるように手足が少し震える。
 慣れてないんだ、こういう状況ってのがまだ。
「開けて」
 イタカは扉の前で刀を構え、俺は静かに扉を開ける。
 キィ――それほど年季が経っているとは思えない扉だが、軋む音が耳を突いた。

 ――長い、長い通路だった。

 天井に一定位置で設置された電球型の照明が通路を僅かに照らし、先を見るとその照明の光が見えなくなるほど長い、長い通路。
 左右には無数の扉がこれはまた一定位置に設置。一つ一つを確認するには骨が折れそうだ。
 扉にはいくつか、プレートが貼られていた。
 すぐ右にある扉、プレートには名前が黒字で書かれている、佐々木裕子と。
 はて、どこかで聞いたことがある。女性の名前など本当に親しい人物ぐらいしか憶えてはいないが、どこかで聞いたことがあるという意識が頭の中を刺激する。
 嗚呼、そうか。佐々木裕子、確かクラスの女子グループの中心となっている生徒で男女共に人気がある。南雲曰く表向きでは人気者、と聞かされていたがどういう意味だったのかは定かではない。
 しかし何故こんなところに彼女の名前がついた扉があるのだろう。ここは桜川桃子の精神世界のはずなのだが。
「一先ず、開けてみるしかないわね」
「けれど、この数を……?」
 気が遠くなるほど扉は多い。先を見ることすらしたくなくなってしまうくらいにね。
「でも調べないと進まないでしょ?」
 それもそうだが、さて時間はどれほど掛かるものか。
 それにしても無数の扉――扉と言ってもプレートが同じ形の扉でも区別がされていた。
 左にある扉を見ると今度は柳原京香と書かれている。これも女子グループの一人。おそらくは桜川桃子に関した人物の名前が扉一つ一に書かれているのではないか――と奥の扉を見てみるやプレートには“暇つぶし”やら“遊園地”など人物に固定しているわけではないようだ。
 どういう基準で区別をしているのかが解らない。プレートが貼ってない扉もあるし、意味の無い扉も多々あるような気がする。
「私は左を調べるわ、あなたは右をお願い」
「ああ……解った」
 佐々木裕子と書かれたプレートの扉、この扉の先はどうなっているのやら。
 とはいえ些か一人で行動する事に不安が心を渦巻いた。
 すぐ近くにいるんだ、心配する必要は無いって言われるとそうだが、そうだけど不安っていうものは決して消えるものじゃない。ましては今の状況では近くにイタカがいても扉を開けた瞬間、何か襲い掛かってくるかもとか、扉を開けて中に入ったら扉が閉まって閉じ込められるかもとか、小さい不安が大群として押し寄せてくる。
 けれどもここは勇気を出すところだ、常々誰かが助けてくれると思っていては先へは進めない。
 俺はドアノブに手を置いた。
 耳を立ててみるも中からは物音一つ聞こえない。
 妙に冷たい、無機質の塊が手を侵食していく。右に回し、ゆっくりと押してみると、それは軋む音を慣らしながらゆっくりと開く。軋むくせにすんなりと開くところが、不気味だから止めて欲しいなと思うも相手は扉だ、この文句は対象が無言を突き通すつもりなので俺はしかめっ面をして中へ入った。
 漆黒と沈黙が立ち込める室内、扉を開けたことで通路から漏れた僅かな光が室内を照らすも室内の様子をはっきりとは映し出せない。広さは六畳ほどか、奥には何かがありか細い呼吸音が耳に入った。どうやら人が……いる。
 呼吸に合わせて動く肩、その人影は口を開いた。
「誰……? ねえ……私をどうしたいの……?」
 随分と震えた声だった。不安――いや、完全なる怯えで蝕まれているような声。
「君、名前は?」
 念のため距離は取っておき、まずは質問してみる。
「さ、佐々木裕子よ……。何が目的なのよ……」
 確かに声は佐々木裕子本人そのもの。
 桜川桃子が化けている可能性もあるが、一度逃げた彼女がこんなところで待ち伏せをしているわけが無く、俺達が彼女の精神世界へ来た事などまだ悟られてもいないはず。ならば彼女は本当に佐々木裕子であるか、もしくは桜川桃子が作った精神世界での存在か。
 どうあれ彼女はこの部屋から出したほうがよさそうだ。
 独房みたいな部屋に放っておくなんて可哀想な事は出来ない。
 警戒は怠らず、ゆっくりと近づき何か罠が無いかも調べ、彼女の傍に行くと暗い中でよくわからないがどうやら手錠のようなもの手首を固定され、鎖で壁に繋がれていたようだ。
 刀で鎖を斬る事など出来るのかな、と思いながらも刀を振り上げて試みてみる。
 ――乾いた金属音と共に鎖は断ち切られた。さすがイタカの刀だ、と俺は刃こぼれ一つしない刃先を眺めて感心した。
「ちょっと……何持ってるのよ……」
「いや、身の安全のために武器を……」
 さすがにこの状況で刀を振り回すのは彼女にとって良い気分では無い故にしばらく刃先を眺めている俺に冷たい視線が投げかけられて俺は少し落ち込んだ。
 なんか危険人物として見られてるようで。
「とりあえずここから出よう」
「……あんた、もしかして榊董慈?」
 ようやく気付いたのか、彼女は顔を覗いてくる。
「そうだけど、あー……なんていうか説明しにくいから何か質問があっても後にしてくれ」
 手を差し伸べると彼女は弱々しく手を掴み、立つ事も疲れからか辛そうであるため俺は彼女を背負って部屋を出た。
 女性というのは意外と軽いものだな。
 意外と、と付けて背負った感想を言えば怒られそうだが。
「冴えないしいつも無愛想なあんたに助けられるなんて思ってもいなかった……」
 助けてもらったのに口が悪いな。別に気にしないが。
 同じクラスだが話をした事は無いし、意識した事も無くましてや初めての接触が彼女を背負う事だとはなぁ。
「俺も君を助けるとは思わなかったよ。まず話なんてしたこともなかったしね」
 そうね――彼女は溜息混じりに呟いて顔を俺の背中に蹲った。
 廊下に出ると彼女は微々たる光にも関わらず眩しそうな表情を見せた。長時間漆黒の中に閉じ込められていたためか、僅かな光でも漆黒になれた瞳はしばらく光に突かれるしかないようだ。
 廊下にはもうイタカが居て、壁には一人の少女――寄りかかって座り、表情には疲労感が見えていた。彼女は柳原京香で間違いなさそうだ。
 俺は佐々木裕子を降ろして一息ついた。
「どうやら桜川桃子に関係している人物のようだが、貴方、この女との共通点は何だ? 桜川桃子とはどういう関係だ?」
 イタカは柳原京香に言い寄った。疲れている事など構わん、そんな感じ。
 顔を上げて、疲労感が表情に浮かぶ柳原京香はゆっくりと口を開く。
「裕子とはクラスメイトで……」
 言葉一つ一つには重みがあり、疲労感が強く感じられる。心身共に。
「そうか、桜川桃子とは?」
「桃子は……」
 言葉を詰まらせ、言いたくないように目を伏せる。何かを隠しているようだが。
「待ってよ、まずあんた何者よ。それになんで私達がこんな目に合わなきゃならないのよ」
 佐々木裕子が強引なイタカに顔を顰めて終始声を荒げて言う。気持ちは解らんでもない、いきなりこんな状況に置かれ、助けられたと思ったらイタカに質問攻めを食らうなんて苛々するのも当たり前だろう。
「私の名前はイタカ、貴方達は悪い奴に捕まった。わかった?」
「そんな言葉だけで解るわけないでしょ……馬鹿なのあんた」
 南雲の言っていた事が解った気がする。思いつつしばらく二人の会話を黙って聞くとする俺。飛び火が来たら困るので。
「私が馬鹿? 馬鹿と言ったか? 馬鹿と言った奴が一番馬鹿という言葉を私は知っているぞ? 貴方が馬鹿なんじゃないの? むしろ私が馬鹿であっても貴方より馬鹿では無いと思うわ」
「な、な、な……なんですってぇ?」
 佐々木裕子は立ち上がってイタカへ駆け寄り、お互い額が付きそうな距離にまで寄り合い、視線の火花を散らし始めた。さすがにここは止めるべきか。
「落ち着けよ二人共」
「落ち着いてるあんたが意味わかんないわよ!」
 佐々木裕子の厳しい一瞥を受けて俺は縮こまる。
 女性を相手にするのは苦手で、懇ろな態度も不器用な俺には取れることも無く火に油を注ぐ事しか出来ない事に時折自分を呪ってしまいたくなる衝動に駆られるね。
 これでも落ち着いてはいないのだが伝わらないようだ。もう少し表情がはっきりと出来ればいいが笑顔さえ作れない俺には元々無理な話ではあるかもしれない。
「わ、私達……きっと罰が当たったんだわ……。桃子を……桃子を……虐めてたから……」
「――京香!」
 刹那、佐々木裕子は柳原京香の言葉を遮ろうとしたがイタカは佐々木裕子の肩を押して傍らへ追いやって柳原京香の下へ近寄った。
 そしてイタカは一言言う。
「語れ」
 その言葉を聞いてまるで尋問されている犯人の心が折れたかのように柳原京香は萎れ、顔を伏せては震えてか細い声で如実に語り始める。
「……いつも桃子を私達はストレス発散のために虐めてたの。体育を終えた時間、放課後、人がいなくなる時間になれば……」
 終始涙声で、今では悔やんでいるように感じられる。
 佐々木裕子は親指の爪を噛み始め、しばらくじっと話を聞いていた。
 何も言わないという事はこの話は真実であるということを証明しているのと同じ。
「最初は靴を隠すとかだったけど……次第にエスカレートして……」
 虐めというものは実に恐ろしい。
 最初のうちは皆そうなのだ。何か虐めの対象の身近にあるものを隠すなどして精神的な攻撃で苦しむ対象を見て快楽を得る。しかしいつかその快楽も失せて今度はもっと、もっと刺激的な快楽を求めて対象に肉体的な攻撃を加える。
 ――嗚呼、そうか。
 だから桜川桃子は、俺の精神世界では人気者だったんだ。
 あれが彼女の求める自分。虐められる事も無く、周りが接してくれる学校生活。彼女が求めていた世界を俺の世界に投影していたのだろう。
 思い出した、桜川桃子という生徒の全てを。以前からクラスで虐めがあるという噂が漂っていた。その中でも桜川桃子は噂の対象だったのだ。無口で、友達も居らず昼休みはいつも一人で食事をして、体育などの授業では必ず一人残される生徒。遠目で時々視界に入ったが、彼女に救いの手を差し伸べる事を俺は出来なかった――いや、しなかったのだ。女性への接し方など疎い俺は“どうせ話しかけても”という確定されてもいない結果に囚われて近づく事さえしなかった。
 なぜこの世界では気付かなかったのだろう。これも彼女の仕業だったのか。
 南雲は、時々彼女を見ていた気がする。あいつはどうにかしようとしていたのかもしれない。米崎はよく移動教室になれば彼女と一緒に行動していた。孤独になりがちな彼女を気遣っての事だったのだろう。
 俺はというとうちのクラスに限って……そんな事を思って、いや思いたくて目を背けていた。虐めていた佐々木裕子、柳原京子だけが決して悪い訳ではない。クラスの半数が面倒事は避けようという姿勢が、そうしてしまった環境が彼女を変貌させてしまったのかもしれない。
「もういいでしょ! 高がそんなこと!」
「高が? そうかもね、貴方達にとっては高がそんなことでも彼女にとってはどんなに辛かったか、貴方達には解らないでしょうね」
 イタカは二人を置いて廊下を進んだ。
 二人はどうしようか、そう聞こうとしたが何も言わず先へ進む彼女の背中が不機嫌さを醸し出していたため俺は聞くことすらできず、
「二人はここにいてくれ」
 彼女達にそう言ってイタカの後を追った。
 扉は無数。立ち止まって彼女は廊下の先を見てしばし考えていた。
「ふむ、これらは彼女の心の中にある言わば遊び場ってところかしらね。どれかに必ずいると思うけど、これだけ扉があると調べるのも骨が折れるわ」
「でも地道に調べるしかないだろう?」
「まぁ……そうね」
 溜息混じりに彼女は呟く。
 俺もこれだけの扉を眺めていると溜息が出てしまうが、今は桜川桃子を探すのが先決だ。
「ん……ちょっと静かにして」
 ふと厳しい表情をしては、彼女は言下に静かな呼吸をして何かを聞き取ろうとし始めた。言われて俺も口を閉じ、耳を澄ましてみる。

 ――夢に見た夢楽しきと、夢で見た空美しき、夢の中なら心地良き

 何か歌が聞こえる。

 ――夢に見た夢楽しきと、夢で見た空美しき、夢の中なら心地良き

 繰り返し、繰り返しどこからか歌が聞こえてくる。それも実に楽しそうで、言葉が踊っているような印象を受ける。
 近くだ。
 扉一つ一つに耳を澄まして声のする方の扉を探してみる。
「ここからね……」
 それは、“教室”と書かれたプレートの扉。夢の中に作った空間としては随分と普通な所だな。
 イタカは静かに扉を開ける。
 そこには、プレートの通り教室があった。
 立ち並ぶ机に椅子、何も書かれていない黒板、窓の外からは陽光が射し込み電灯はついていない。俺の通っている教室で間違いないようだ。
「――夢に見た夢楽しきと、夢で見た空美しき、夢の中なら心地良き」
 椅子に座って、一人の少女が呟いていた。
「桜川桃子だな」
 制服姿の少女――桜川桃子はゆっくりとこちらを向いた。
 表情は少し微笑みを見せ、心地良さそうにしている。
「ええ……えーと、イタカですね?」
 待っていたかのような、そんな様子にさえ伺える。
「逃げないのか?」
「逃げる? どこへですか? 現実へ? あんな汚い世界へ?」
 彼女はすっと立ち上がり、快活な足取りでこちらへと近づく。
「――夢に見た夢楽しきと、夢で見た空美しき、夢の中なら心地良き。そう頭の中で誰かが呟くのです。嗚呼――そうです、確かに夢の中は楽しくて、美しくて、心地良くて、私にはこの世界が何よりも幸せな世界。見てください、窓に広がる空を。どうですか? 美しいでし

ょう? 雲ひとつ無い空、ぎらぎらと照らす太陽。これはいつでもいつまでも、私を照らしてくれるのです。でも現実は、私を照らしてはくれないのですよ。いつも私は光を遮られて、誰かに殴られ蹴られ、何も私を照らしてくれない」
 糸がぷっつりと切れるように、彼女は言葉を流し続けた。
 それほどまでに彼女が日頃どれだけ虐められていたのかが解る。今の彼女にはこの世界が唯一の拠り所になっているのだろう。
「ふん、人間の精神を喰らって精神世界を拡大させて、自分の理想の世界を造って自己満足にでも浸っていたの? 現実から目を背けた貴方は夢の中ではあれだけ強くなれるのだからさぞ幸せな気分になれるでしょうね。所詮夢なのに」
「そうかもしれませんね。でも、現実世界は見る必要も無いのですよ。私がこの精神世界をさらに広げて現実世界もいつか喰らってあげるのですから」
「理想だけは達者ね。そうさせないように私達がいるのに」
 イタカは刀を出して構え、空気が次第に緊張へ蝕まれ始める。
 途端に、机一つ一つが震えた。
 まるで意思を持つかのように、縦に横に揺れては恐怖を増幅させる。
「夢の中なら私のほうが力は上ですよ?」
 それらは次第に歪み始め、手足を生やしてはまるでファンタジーに出てくる兵士のような姿へと、一つ一つが一人一人へと成して床から突き出すように出てくる剣を手に取っては多勢へと群れる。
 関節がぎしぎしと軋む音も歩くたびに鳴る金属音も然り、本当の兵士を相手にしなければいけないようだ。しかし少し違うのは、その兵士の中身は何も無し。
 ならば何故立って歩いているのかというと夢だからである、その一言ですべて片付いてしまう。
 そんな事を考えている俺だが実際の状況はそんな事を考えている場合じゃない。
 後ろは扉が一つあるだけ。
「ふぅ……面倒ね」
 面倒、いや俺にとっては大変な事態なのだが……。
「それら全部倒してみてくださいね。私は榊冬慈さんの精神世界から拝借した記憶の箱でも開けて楽しんでますから」
 桜川桃子は軽やかな足取りで駆けると、どこからともなく現れた扉を開けて中へ入っていき、扉は消えていった。
「冬慈」
「……何?」
 打破する策ならば是非聞きたいところ。武器を持っているとはいえ、無理をするなと言わんばかりに腕が震えている始末だ。
「一旦逃げるわよ。相手にしてられない」
「まあ……賛成だね」
 一斉に襲い掛かる兵士全てを相手にすることなど不可能。
 近づいてきた兵士にイタカは蹴りで一蹴。
 さらに倒れた兵士にもう一撃繰り出し、蹴り飛ばしてはわずかに時間の余裕が生まれる。それにしても彼女の華奢な体のどこからそんな力が出てくるのか、聞いたところで「神だから」なんて淡々とした言葉が返ってきそうなので聞かないが。
 すぐさま俺達は後ろの扉を開けて逃げるように入っては扉を閉める。
「でもどうするんだ――」
 扉を閉めたはいいものの、剣が向こう側から容赦無く突き刺さり、頬を翳めた。赤い雫が頬を滴り思わず扉から離れる。
 こんな扉、すぐに突破されるだろう。そうしたら先ほどよりも狭い空間で戦いを強いられる事になる。しかもここ――通路には佐々木裕子らがいるのだ。彼女達を庇いながら戦うなんて難しい。
「私の考えではおそらく大丈夫だ」
「だ、大丈夫って……」
 剣が突き出した扉を目の前にして悠然とする彼女の言葉に説得力など無い。
 がしかし、扉は一向に突き破られる事も無くむしろ静まり返った。
 警戒してずっと刀を構えていたのに、扉は剣が突き出したまま何も変化は無い――時間が止まったかのように。
 何を思って大丈夫だと断言したのか、質問をするまでも無く彼女は言下に言葉を繋げた。
「私はずっと精神世界で過ごしていたから解る事だけど、作り出した精神の創造物は具体的な行動を刷り込ませなければならないのよ」
 またこれは難しい話だ、一先ず説明よりもどうしてこうなる事が解ったのかのか聞きたい。
「……その顔はどうも理解してないようね」
 顔にも出ていたようで、訝しげに彼女は冷たい視線を投げてくる。そうだな、クラスで一番頭の悪い生徒が馬鹿そうな顔をしているのを見ている優等生のような視線だ。
 こういう話になると無表情で聞くしかないのだ。無駄に「なるほど」なんて言って理解したつもりでいて後から面倒な事になるのは困る


「何が言いたいのかというと、敵を襲えという命令ならば敵が消えれば兵士は行動を止めるの」
「ああ……つまり単純な行動しか出来ないってことか?」
「そういうこと。あの兵士の構成を見たらほとんど質が見えなかったからおそらくあの子はまだ自分の能力を完全に理解してないのよ」
 つまり精神で創造物を作って襲わせると言ってももっと命令をぶち込んでおかないと思ったように動いてくれないということか。あの兵

士は三流のロボットマニアが作ったようなものと考えればいいか。
「貴方の精神世界に造られたものは記憶を材料にして作れたものだからそれなりに動くけど、こうして無から作るのでは完全に力を理解しないと単純なものしか作れないのよ」
 では相手の力が強大でも、性能的にその力を完全に発揮出来ないのならばこちらに少し有利があるかもしれない。
「桜川桃子を探すわよ。なんだか攫われた子もいるようだし」
 攫われた、とはと何が消えているのか廊下を見てみると先ほどいた佐々木裕子らがいなくなっていた。
「まさか……!」
「そのまさかでしょ。きっと彼女がすぐ逃げたのは私達があの子達から離れた事を確認できたからね。玩具を取られた子供は親が目を離したら玩具をまた取りたがるように、あの子達にはどうやら執着があるようね」
 虐められていたのだ、それだけ恨みという念は大きい。
 桜川桃子に近づけさせまいと廊下に居させたが、すぐ近くだし何かあれば助けにいけると思っていたのが間違いだった。いや、しかし一緒に行く事も危険でさせたくないし、どうやってもこうなっていたのかもしれない。ただ近くにいるから大丈夫だろうという安直な自分の考えの甘さに不甲斐無さを噛み締めた。
「くそ……これだけ扉があるとまた探すのもきついな……」
「いえ、待って。あそこに何か落ちてるわ」
 指差す先は奥の通路。光も少なくなかなか目を凝らしても見つけられないが、彼女についていき通路を奥へ奥へと歩いていくと、衣類のような物が落ちていた。
「これは……?」
 どうやらハンカチのようだ。
 拾い上げてみると少し濡れていた。
 連想されるのは、柳原京香が涙を拭うためにハンカチを使っていた風景。確信は無いが彼女のものだろうこれは。どこかへ連れ出されるところで落としたのかもしれない。佐々木裕子からは連想されないのが、自分としても複雑である。
 助けを求めて印として落としたのならばこのハンカチが落ちていた場所左右に立つ扉の中にいるかもしれない。
 扉についているプレートは無し。これでは扉の向こうがどうなっているか予測がつかないな。
「何故奴は私達とは戦わずにすぐその場を離れたのでしょうね」
「……俺達から彼女達を引き離すため?」
 理由を探すのならばおそらく廊下に居た佐々木裕子達から目を離させるため、ぐらいしか思いつかない。
「いえ、それならば私達があの部屋に入った事を確認し次第すぐ出来る事」
「確かにそうだけど……」
「“夢の中なら私のほうが力は上”、あいつはそう言ったのに何故戦わなかった? 戦いを避ける理由など無かったはず。自分のほうが力が上ならすぐに私達を倒せばいいはずよ」
 それもそうだが、自分が作った兵士だけで十分と考えたからとも考えられるが。
「もしも兵士だけで十分だと思っていたのならば見届けるぐらいはするでしょう。万が一逃げられたりした場合の事を考えればすぐにその場を離れるという行動は妙な事。さらにあの女達を攫っていくのは私から見れば“人質”の確保に思える。つまり、奴は攻めの体勢ではなく守りの体勢にならなくてはいけない理由があると考えられるわ」
「……例えば?」
「それは奴に会えばわかるでしょう」
 それもそうだが、もしもそう思わせるためとか、罠だったりしたらどうするのだろう。いや、罠を貼るつもりでも遠まわしすぎるか、それでも佐々木裕子達を攫う隙をつけるし、今はどちらとも考えるには難しい。
 考えていても仕方が無い、俺は右の扉を開けてみることにした。
 左から、という意識は無く自分にとって近い扉は右。心理的にも俺の利き腕は右なのでどうあれ右から扉を開けるのは極自然の事柄だったのかもしれない。
「待て」 
 扉は半開きの状態でイタカに止められ、何を思ったのか彼女は扉に刀を突き刺した。
「最初他の扉を開けたとき、貴方は用心していたが、だからと言ってこの扉の奥に罠が無いという思い込みは命を落とすわよ」
 言下に、扉の奥では金属音が鳴り、半開きしていた扉がイタカによってゆっくりと開けられると奥から鎧の兵士が倒れこんできた。
「あ……」
 油断――していた。
 彼女に言われてから気付いたのは、最初俺が扉を開けたとき罠が無かった事、そしてイタカも扉を開けても罠が無かった事から“元から罠はしかけられていないのだろう”と思っていた事。だから最低でも奥の部屋に入ってから何かがあるかもしれない――そんな考えだった。
「――止めておいたほうがいい、嗚呼、本当に」
 ふと、それは聞きなれない男性の声。
 廊下の奥で、光が届かず漆黒に包まれかけている奥から、気配と共に何者かが現れた。
「……誰?」
 イタカは中へ入るのを止め、一度廊下へ出る。
 警戒して刀を構え、俺も腕を上げていつ襲われても良いように構える。
 一体、何者だろう。
 敵、と考えるにも何故中へ入るのを止めさせる必要があるだろうか。
 ここからでは姿もろくに確認できない。奥の廊下は光が無さ過ぎる。確認できるのは体形ぐらいか。
「扉が二つ、まずは右から入ろう、けれど罠が有った。中は漆黒、鎧の兵士が一体、これでは何があるのかわからない、しかし中へ入らなければハンカチの持ち主を探せない、中へ入るしかない。今の状況では選択肢は極僅か。例え漆黒であろうと中へ入らなければならないだろう」
「ええ、そうね。でも私の質問には答えて欲しいわ」
 顔を伺うのも暗すぎて無理だ。声は男性のものだけれども。
 仕草から、腕を組んで壁に寄りかかっていて、武器らしい影も無し。距離も離れているし警戒する必要は無い、かな。
「いや、知ろうとしても君達はすでに知っている、それが私」
「すでに……知ってる?」
 イタカは俺を見てきた。
 彼を知っているか? という視線に首を振って返事をする。
 イタカも知らないようだし、何を言っているのだろう彼は。
「今私は少々不愉快でね。こうも覗かれている気分が続くとあの女に苛立ちを憶えてね」
 彼は不愉快を身体で示すように深い呼吸――溜息をついたのがわかった。
「だったら貴方はあの女とやらを捕まえてくれるの?」
「私はそういう事に首を突っ込む気は無い、嗚呼、本当に。だが考えてみてほしいな、神音が鳴らず場所の特定は難しいも、おそらくこれはこの空間のせい。しかし神力が発動しているという事実は隠せない。神力と神力がぶつかり合えば多少空間には影響が出る。そう――精神喰らいの場所が特定できたりとかね」
 そういえば確かに神音は聞こえてこないが、桜川桃子が俺達の目の前で神力を使っていたし彼の言っている事は的を射ているのかもしれない。
 だが彼は何が目的なのだろう、俺達に精神喰らいを倒して欲しいとでも言うのか。こうして協力を煽るわけでもなくただただ俺達に精神喰らいの場所を特定できる手がかりを伝えてきているがその真意が解らない。
「なあ冬慈」
 彼は何故か俺の名前を知っていた。
 妙な気分だ……。どこかで会った事があるような、言葉では巧く言い表せないけど……。
「これは力と力がぶつかり合う戦いでは無いのだよ、嗚呼、本当に」
「……というと?」
「君達を最初に襲って、倒せなかった時点で彼女には君達を倒す手段はもう無いに等しいのだ」
「……」
 いまいち話にはついていけない。
 そのためにしばし俺は彼らの会話から今の状況を見出そうと沈黙を纏って腕を組んで話を聞く。
「嗚呼、君はそういう話にはまだ疎いのだったね。彼女は力を得るに人の精神を喰わなくてはならないが、彼女のプランは君を喰って力を得るはずだった」
 そんな俺を見てか、彼は説明をしてくれたようだ。なんとも親切だな。
 敵か味方か解らないが、ご丁寧に話してくれるところがこれは味方と思って良いのかな。
「けれども喰う事が出来ずさらにはこの世界まで侵入されて今は逃げるしか無いというわけでしょう?」
 イタカがその先の言葉を紡ぐ。
 話から桜川桃子は俺達を殺すための力はすでに無いということになる。だから先ほどはあんな単純な兵士を出してすぐに逃げ出したというわけか。
「そうだ。イタカ、君はやはり頭が良いね、冬慈とイタカ、君達は良い組み合わせだ。嗚呼、本当に」
 彼はイタカの名前も知っているようだが、以前から知っているような言い回しはどこかで会っているのか。でも、どこで会っているだろう。俺とイタカだって知り合ったのは最近。イタカなんか以前は封印されていたのだ、それなのに俺達が彼を知っているというのは時期が特定できない。
「でもあの二人を攫った今、二人の精神を喰う事だって考えられるわ」
 そう、確かにそうだ。だから急がないといけない。
「いや、大丈夫。あの子は二人の精神は喰わない」
「……根拠は?」
 彼の言葉にはどこか自信があるように感じられる、まるで全て解っているかのような。
「ふむ、言い表しづらいが、まあ彼女に会えば二人はきっと無事だろうからあえて言うことも無い」
 それならいいが、もしそうじゃなかったら二人はもう精神を喰われて死んでいる可能性もあり、そうなった場合桜川桃子は力をつけていることになる。
「ただね、いかに今は無いはずの力を大きく見せるか、そして油断している中でどう倒すか、彼女は心理戦を選んだのだよ。“他の扉には罠が無いだろう”とかいう思い込みや、“自分には倒す力はあるのだ、今は人質という弱みを握り君達の立場は悪いのだ”という思い込みを誘っているに過ぎない」
 やはり……イタカはそう小さく呟いた。
「無力、それを知られるのが怖いから彼女は出てこない。こうして無意味な扉を作って時間を稼いで、今は君の精神世界と彼女の精神世界を分離させれば彼女は現実へと逃げる事も可能になる。しかしそれには冬慈に接触しないといけないし、それならば倒すに急ぐのも一つ」
「しかし……貴方は一体どういうつもり?」
「君は警戒心が強いね。君達に肩入れする理由も無いのに、こうして私が助言をするのはどういうつもりか、普通ならばこれも罠と思われても致し方が無い。君達にとっては私は彼女によって事前に作られた精神世界の産物かもしれないという疑念も拭えないのだからね」
 そう、この世界では自分達以外は信用など出来ない――いや、自分以外と言ったほうがいいかもしれない。もしかすればイタカだって桜川桃子が作った敵かもしれないのだ。これも彼女の思惑通りである可能性だって否定できない。
 可能性は多数あり、その中のどれが真実か、それを見極める方法など無いのだ。けれども今自分達を支えているものは信頼。イタカが俺を信頼し、俺がイタカを信頼しているからこうして二人でいるのだ。そしてこの信頼の中に今彼が入り込もうとしているのだから、もっとも安全な道は彼を否定する事。
 彼が敵であればこの信頼の境界は崩され、彼が味方であればそれでも小さな疑念が蟠りとなって思うように動く事は出来ない。警戒心によって今我々が追い詰めようとする敵の他にも意識せねばならないので支障が生まれる。
「また深く分析してるようだね君は」
 また、と付け足す彼の言い回しが俺の事をよく知っていると印象付けさせる。
 せめて顔でも拝めないかと目を凝らしても距離を取られているし、微々たる光の影に彼は立って絶妙に表情を隠して伺えない。
「さて、こうして離しているのも時間の無駄。彼女の元に行きたいのならば、彼女が行かせないと道を塞ぐのなら、新しい道を作れば良い。こういう風に」
 彼は壁に手を当てると壁に僅かな光が走る。
 光は線となって壁を走り、二つ、三つと分かれては迅速に形を成していく。
 それが扉だとすぐにわかるくらい、迅速である。
「貴方……なぜ力があるのに自ら直接手を出そうとしないの?」
「君達と彼女との問題だからね。私は関係無いし、直接彼女から何か被害を被った訳でもない。ただこの状況に不愉快だから手を貸すが、彼女をどうこうするのは君達の仕事。私が彼女に手を出したら君達の仕事を横取りしてしまう事になる」
 随分と割り切った考え方だ。
 騒音で迷惑している住民が警察を呼んで後は頼んだとでも言うようなもの。それに加え、彼からはどこかしら俺達を信頼しているような様子に彼の心中が解らない。
「では、後は任せたよ」
 そう言い残すと彼は足音も立てずに影に溶けていった。




 扉を開けようとする手がわずかに汗ばんでいる。
 いつかどこかで感じた事のある妙な感覚に、身体が反応している。心は小さな畏怖を掘り起こそうとしているも、俺はそういった邪念全てを振り払った。今まで普通に暮らしていた世界ならそうさ、小さな畏怖を自ら掘り起こして身を委ね、身体に逃げろと命令しているだろうね。平和呆けしていた心身のままならぶるぶると震える事しか出来なかった。でも今は違うさ。付け焼刃な技量だけど刀だって構えて戦える。そりゃルウやイタカみたいな立ち回りなんて出来ないけど逃げるという命令は却下出来るぐらいには成長したと思う。
 だから今は自らこの扉を開ける。
「大丈夫?」
 イタカにはどう映っていたのだろうか、心配そうに言葉を投げかけられて俺は小さく首を縦に振った。
 桜川桃子には戦う術は無い、とは聞かされても油断は出来ない。深呼吸でもと胸に手を当てると心臓の鼓動がいつもよりも速く脈打っていた。彼女と再び対峙する事を思うと、どうしても鼓動は抑える事が出来ない。
 扉を開けようと手を掛け、ゆっくりと音を立てないように開ける。開いた僅かな隙間からは廊下よりも明るい、まるで外に出るような光が漏れていた。風が流れてこない事から扉の向こうは外という印象は無いが。
 カチャリ、と後ろで刀を構える音が聞こえ、俺も手に持っている刀に力が入る。
 ――中は、純白に包まれた何も置かれていない質素な部屋だった。
 中央、いやどこが端でどこが中央など解らないが中央としておこう。人影が三つ、二つは両手両足を縛られて地に伏せている。残った一つは桜川桃子だろう。彼女はゆっくりと振り返り、まじまじと見つめてくると不敵な微笑みを見せた。
 彼女にはもう対抗する手段は無い。
 ここで何か反撃をする事も無いと考えて距離を詰めるべきか、それとも奥の手を考えて警戒を怠らずに様子を見るか、冷静に現状を把握して、出来れば彼女を説得へと導きたい。そう思っていた。
 額から、雫が滴り掌に落ちる。
 僅かな感触、それが冷や汗だと察するに時間が掛かった。何故冷や汗を掻いているのか、察するにそれほど時間は掛からなかった。
「なんかゴミが二つ増えたわね。人間の言葉で言うと、こういうのをウザいって言うんだよね。もーウザいウザい」
 ゴミと言われたのは他でも無く俺とイタカ。
 嗚呼、これが冷や汗の原因だ。桜川桃子という原型は留めていても、中身がまったく違う。一目でそれがわかった時、その中身はどういった存在か、雰囲気が危険という二文字の言葉を脳裏へと転送し、身体が冷や汗を掻く事で反応した。
「このゴミはもういいかな」
 桜川桃子は二人の頭に手を置いた。何か危害を加えるという訳では無く、玩具に飽きた子供が片付けをするような様子。
「ちょっと! 何をしようっていうの――」
 佐々木裕子が強気で口を開くも、言下に彼女と柳原京香はまるで画像処理によって消されるかのように、姿形は次第に薄れていくとしばらくして彼女達の姿は完全に消える。
 殺した、というよりも精神世界から姿を消したという事では無いか。桜川桃子はもう力を持っていないのだ、それでも精神世界から干渉している対象を分離する事は可能。とはいえ先ほどあった謎の人物が話していた内容からの推測だけれども。
「手を洗いたいわ。触っちゃったし」
 両手を軽く振り回して、幼稚な仕草を見せる桜川桃子は俺が知っている桜川桃子とは完全に違う。
「……桜川桃子はどうした?」
 自分で言って、妙な質問である。
 目の前にいるのは桜川桃子本人だというのに、俺はこんな質問をしているが彼女は、彼女では無いと確信を持っていた。口調も、仕草も、今までの彼女とは至って違い――そう、まるでルウと初めて出会った時のような、そんな違和感。
「あら、面白い質問ね。桜川桃子はここにいるのに、桜川桃子はどうしたですって?」
「貴方、中身は違うでしょう?」
「……んもう、桜川桃子の性格なんて解らないからすぐ見破られるわね」
 桜川桃子を演じるつもりだったのだろうか、腕を組んで不服そうに頬を膨らめた。
「貴方……精神喰らい?」
「ご名答よ……神約で自らの拠り所を得る変わった力を持った神、イタカ。あんたまだそんなことやってたとは思わなかったわ」
「黙れ。質問に答えろ」
「ああ、そうだったわね。桜川桃子はちょっと愚図だったから私が支配権を得る事にしたわ。別にいいでしょ? 高が人間一人だもの」
 不意に、身体が熱くなった。
 苛立ちを感じたのだ、俺は。
 神は神でも、彼女はおそらく悪神と呼ばれる存在。悪神は誰もがそうなのか、人間一人などどうでも良いと豪語するその思考に俺は握っていた刀に力が入った。
「自我が消えていて彼女の精神と交わるにつれて私は次第に自我を取り戻し始めてたけれども、人間の考える事は本当にゴミ以下ね」
 桜川桃子――いや、もう精神喰らいか。彼女は胡坐を掻いては、女性らしからぬ態度で話を進める。
「でも有る意味同情しちゃうな。あんな日々を送るよりかは闇に堕ちたほうが気が楽だものね。そう考えると、桃子よりも周りの人間のほうがゴミ以下なのかもしれないわね」
 その言葉に、罪悪感が心を染めていった。
 そうだ、彼女は……桜川桃子は辛かったんだ。辛いから拠り所を探して、辛いから今まで耐えていた心を解放しようと今に至ったのではないか。彼女は悪い人間として生まれてきたのではない。白く染まっていたのに周りがどんどん黒く染め上げてしまっていく環境に、耐えられず黒よりも黒い漆黒へと堕ちるしかなかったのかもしれない。
「さあて、私はそろそろ現実に帰るとするわ」
「帰る? どうやって? 貴方、今の状況わかってる? 冬慈に触れて精神世界を分離させなければならないのに、出来る思っているの?」
「その心配をする必要は今無くなったから大丈夫よ」
 彼女の笑みが、はっきりと見られた頃、
「精神世界というのは不思議ね。まるで現実に居るみたい」
 この空間に新たな存在が現れた。
 まだ大人びていない声がどこからか聞こえる。
 小さな、小さな足音。歩調はトコトコとしたもの。
「迎えに来たわ」
 彼女の後ろから、可愛らしい少女が一人。幼い容姿はまだ指で歳を数えられそうな印象を感じる。
「あの子ったら、力を使いすぎて先の計画も無いわね。万が一逃げる時に使う力くらいは残さないといけないのに。でも良いわ、私が力を分解すれば良いことだし」
「貴方……いや、まさか……」
 イタカは彼女にどこか見覚えでもあるのか、言葉と言葉に間を置いて記憶を掘り返すように言う。
 今俺には現れた少女が敵なのかという判断するにも状況からおそらく敵と思うしかなく、少女に刀を向ける事を想像すると力が入らないでいた。
「さあ、行きましょう。もう分解は始めてるから」
 途端、足場が崩れ始めた。
「なっ――!!」
 崩れていたのは俺達の足場だけ、落ちるのは深い闇。
 頭の中が真っ白になって、それでも次第に考える事はくだらないことだ。
 落ちた先には何があるのだろう、どうなるのだろう、死ぬのかな、イタカは大丈夫かな。そんな事ばかり。


 冬……。


 ……慈。


 真っ暗だ。
 今落ちているのか、落ちたのかさえわからない。目を開けているのか、目を閉じているのかさえわからない。
 かすかに、光が見えた。
 自分が今目を開いているのはわかった。それでも視界は漆黒にまだ慣れずかすかな光だけしか見えない。それが月だと知ったのは、後の事だ。
「……冬慈」
 誰かが俺の目の前で叫んだ。
 手を動かしてみると、やわらかい布の感触。今、ベッドに仰向けでいるのか。そうだとしたら夢から覚めたのかもしれない、いやまだ夢の中という事も考えられるけど。
 やっと漆黒に慣れると時子がいた。
「と冬慈! 気が付いたようだな、大丈夫か! 冬慈!」
 いや、ルウだ。ルウがいる。
「夢から覚めた……のか」
「まだ夢かもしれないぞ?」
 からかう様な笑み。
「そうだったらいいな。ルウと居るとなんか安心するし」
 この口調、雰囲気、笑顔、すべてが重圧を軽くしてくれる。
「どうやら……無事のようだな。冬慈、何があったんだ?」
 それから、ルウに今まで起こっていた事を全て話した。


 長い、長い時間に思えたのに俺が目を覚ましたのは眠ってから三時間後の事。
 深夜、ルウが神力を感じ取って、でも敵の位置がわからずでいて神力の干渉を受けているとかで俺の異変に気付いてからはずっと呼びかけていたらしい。
「桜川桃子……か。クラスに居たな」
「よく憶えてるな。まだクラスに来てからそんな経ってないのに」
「お前が言ったんだぞ?」
 言ったって何を?
「最低限、時子として生活しろとな」
 それはルウと出会って間も無くの頃確かに言ったが、自分でも忘れていたな。本当によく憶えているな。まあ記憶を司る神だからそりゃ憶えているのは当然の事か。
「それにしても、桃子は明日学校に来るかな?」
 いや、桜川桃子ではなく精神喰らいと呼んだほうがいいかもしれないが。
「来ないだろうなおそらく」
「そっか……」
「それよりも少し寝たほうが良いぞ冬慈。あまり眠れていないだろう?」
 そうしたいが、眠ったらまた精神世界に引きずり込まれるのではないかという不安でなかなか眠りたくない。体を動かしたわけでもないのに疲労感があり、まるで二十四時間ぶっ続けで起きているような気分で体は眠りたいと訴えているけど。
『冬慈、心配は無いよ。精神喰らいはまだ動けないだろうしゆっくり眠りなよ。それに精神喰らいはもう冬慈を狙う事は無いだろう。私がいるのだし危険性を背負ってでも精神干渉をするはずはない』
 イタカもそう言うのでとりあえずベッドに体を委ねた。
『精神喰らいは対象が一定時間近くにいなければ干渉へと移れないし、これからは私が干渉を事前に遮断するから心配しなくていいわよ』
 それを聞いて安心はするもののまるでトラウマのように、目を閉じるや不安が押し返してすぐに目を開けてしまう。今夜はきっと安眠なんて出来ないだろう。
 そうしている内に夜明けの陽射しが窓から射し込み、鳥の囀りが聞こえる時間帯へと時が過ぎるのはあっという間だった。
 朝、鏡を見てみると目の下のクマが酷い事ったらありゃしない。
 そんな状態で学校へと登校するのは倦怠感で塗れてまともにまっすぐ歩けるのかさえ危うい。
「冬慈、無理しないほうがいいとは思うが……」
 学校について俺はまず教室を見回した。すでにクラスには生徒が何人かいるものの桜川桃子の姿は無し。まあ当然であろう。米崎や南雲もまだ来ていないことだし、これは幸いだ。
 そのまま席については机に突っ伏したのは言うまでも無く、心配するルウを傍らに俺は言葉を紡ぐ気力さえ無い。米崎達がいたら話しかけられてゆっくり出来なかっただろうし良かった。
 それなのに、
「ねえ聞きたい事があるんだけど」
 教室の扉をすこし乱暴に開けた音と共にすぐさま話しかけてきたのは、声から佐々木裕子が俺に訊きうける。
 顔を上げると佐々木裕子に、柳原京香。聞きたい事とは桜川桃子の話に違いない。
「ルウ、この二人だ」
「わかった」
「ルウ? 何言ってるのかわから……」
 ルウに頼んでいた事がある。
 佐々木裕子と柳原京香にはあんな事件に巻き込まれて妙に騒ぎ立てられると困るのでルウに先日からの記憶は消して欲しいと事前に俺は言っていたのだ。
 彼女達にとっても記憶を消したほうが良いしね。
 しばしの沈黙。彼女達は時を止められたように棒立ち状態。
「あれ? ……何言おうとしたんだっけ?」
「裕子、どうしたの?」
「うーんと、なんだろう? 特に用事も無いんだけど、まあいいやなんでもないわ」
 便利な能力だ、本当に。
 それにしても、少し考えていた事がある。
 何故桜川桃子は彼女達の精神を喰わなかったのか、という事だ。考えられる事はクラスで死人が出ることを避けたかったのか、それとも桜川桃子は最初から殺す目的で彼女達を精神世界へと連れ込んだ訳ではなく、あの漆黒の部屋に閉じ込める事で自分が今まで感じていた孤独を教えたかったのか、どうあれ二人が生きている事に桜川桃子の殺意が感じられない。
 さらには精神喰らいが桜川桃子と入れ替わって出てきたにも関わらず、精神喰らいは二人の精神を喰らわずに現実世界へと帰した行動に、桜川桃子は完全に自我を失ったわけでは無いとも考えられる。
 最後まで彼女の心理は解らず、その日から桜川桃子の姿を見ることは無くなった。

 桜川桃子の捜索願が出されたのは、それから二日後のことだった。

 クラスでは佐々木裕子と柳原京香に原因があるのではという噂も流れ、彼女達二人を非難する声もしばし。強気な様子でいた佐々木裕子も次第に元気が無くなり、歩く足取りは重くなっていったのは気の毒にさえ思う。
 本当は彼女達が原因ではない、そう言ってやりたいが真実を話すことは出来ない。

 怪死事件がぱったりと収まったのは、桜川桃子が消えてからのことだった。

 未だに警察は事件の真相を掴めぬまま、事件は幕を閉じる方向になりそうであり、それが益々都市伝説として盛り上がり米崎に勧められてネットを見てみると書き込みが恐ろしいほどの数になっていた。
 なんでも呪いだとか、とあるビデオを見たからだとか、夢の中で悪魔に魂を取られたとか、くだらない事ばかり。皆、こういう事ばかり考えて盛り上がるなんてよっぽど暇なんだな……なんて米崎に言えば怒られるので俺は心の中で呟いた。
 時はしばし流れ、自宅にて。
「結局、精神喰らいの力は回収できず……か」
「何だ? 私無しでも力を容易に回収できるとでも思っていたのか?」
 深夜、窓から月を眺めながら俺はルウと話でも、と思い勉強を放棄してだらだらと話していた。
「そういうわけじゃないけど、そりゃ俺だって役に立ちたいから……さ」
 今までの自分を振り返ってみるとなんていうか腰ぎんちゃく、お手伝い、その他、おまけ、そんな立ち位置にしか居ない気がする。役に立てたことなんて数える程度。ルウから感謝の言葉を貰った事なんてあったかさえ解らない。
「役に……か。私は別にお前が……」
「え?」
「あ、いやなんでもない! なんでもないよ冬慈!」
 何を慌ててるんだか。
「それにしてもあの世界はなんだか不思議な気分だったよ。時子がいたけれど、なんていうか違った」
「違った……?」
 そういえば課題が結構溜まっているな。でも、今日はルウと話をしたい気分だ。
 このまま話をして、しばらくしたら眠るとしよう。
「ああ。今これが現実だって解るのはルウがいるからなんだ。時子はもう居ないのに、俺はもう現実逃避は止めようって思っていたのに、あの世界に浸ることで飯事を楽しんでるような、でも俺が望んでいるのはそんなことじゃなくて、君の元へ行くためだったのかもしれない」
 言葉で表すには少し、手間取った。
「私の元に……?」
 不思議そうに、そして次に嬉しそうに、最後に眼を背けて彼女の視線は月へ向けられた。
 しばらく言葉が交わされることは無かったが、気まずいとかそういう雰囲気ではなく、強いて言うならば月が綺麗だから、かな。二人で月を見ては何も変化など無いのに、空を流れる雲など見てもどうしようも無いのに、けれども綺麗な満月の月を見ているだけで時間の経過などどうでもよかった。
 雲が月に寄り添い始めた頃、
「……神の力を全て回収したら、私はお前の元から消えるかもしれない」
 不意に彼女は口を開く。
 彼女の言葉は薄々俺が抱えていた不安。でも、考えるのはずっとずっと先の事で悩むのはもっともっと先の事だと思っていた。彼女の口からその言葉が出るなんて思ってもいなかった。
 そう、神の力を回収すれば回収するほど、彼女との別れが近くなるかもしれない。そうしたら俺は、いや俺の心はどうなるのか自分でも解らない。
 だから考えるのも悩むのも後に追いやっていた。
 遠まわしに彼女は好意を持つなと言っているようにも思える。真意は伺えないが、彼女の口から直接出た事が少しだけショックだった。
「私はもう眠るよ、冬慈」
 返答も聞かず、ベッドの中へ。
 しばらく俺は空を眺める事にした。
 好意、それは何に向けられているのか。ルウ? 時子?
 時子の姿をしたルウ、だから俺は好意が沸いてくるのか。
 ルウ本人への好意は沸いているのか、自分でもよくわからない。けれども彼女の性格は正直好きだ。時子と少し似ているかもしれない。俺をぐいぐいと引っ張ってくれるような性格、時子の場合はゆったりとだが、ルウの場合は少し強引でもあるがね。
 そういえば、ルウの本当の姿をまだ一度も見てはいない。ルウは武具を持って戦うし、別に本当の姿にならなくても良いようだからだろうが。ルウを想像すると時子の姿しか思い浮かばないためどうも区別が付けられない。
 ルウであって時子である、そういう処理をしているのだ頭の中では。
 実際はルウであって時子ではないというのが正しくても、整理がつかないでいる不良品の脳味噌にどうすることも出来ずだらだらと考えている結果、処理しきれずに葛藤だけが生まれる。
 そうこうしているうちに睡魔はゆっくりと瞼に降り立ち、誘われるようにベッドへと横になり、少々眠る事に恐れを感じるも大丈夫と自分に言い聞かせる。
 あと数日もすれば夏休み。
 夏休みはのんびりと暮らす事が出来るのか、それともまた何かに巻き込まれるのか、定かではないが何かあるかもしれない、そんな気しかしない。夏休みになれば鍛える時間も出来るし、自分に出来る事はやっておきたい。
 いつくるか解らない戦いの時のために。
 そしていつ何が起こっても、彼女の元へ行けるように。
 まどろみ数分、恐れを忘れて眠りに落ちる俺であった。

 ――目が覚めたら現実でありますように。



2009/04/17(Fri)02:59:40 公開 / チェリー
http://pink.ap.teacup.com/cherry5/
■この作品の著作権はチェリーさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 お久しぶりです。チェリーです。すっごく更新が遅れました。お忘れの方、というより先ずチェリーの存在すら知っている人は少ないでしょう。一先ずこれで2部は終わりました。三部も現在すでに取り掛かってはいますが色々と間が空いたため、その間を埋めるべくしばらくはリハビリをしようかと思います。
ではでは、読んでいただき誠にありがとうございます。

9月14日更新
10月3日更新
12月4日更新・修正
4月17日更新

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。