『彷徨の季節』 ... ジャンル:ファンタジー 恋愛小説
作者:もろQ                

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「あなた、どこへも行かないでね」
玄関先、あの人は、僕の背中に額を当ててそっと囁いた。突然の出来事に思わず息が止まる。右肩に、凍える指が添えられた。
 本当なら、僕は聞き返してしまっただろう。彼女はあまりにふるえていたし、それにとてもか細い声だったから。僕の耳にはどうしたって届かないはずだった。何より今、開けっ放しのドアの向こうには、烈しい吹雪が走り抜けている。月の出ない夜空に、純白の雪の針が止めどなく降り注ぎ、動物のような低い唸りをとどろかせている。
 事実、僕らはたった今までこの豪雪の中を逃げ惑って、ようやくこのアパートの二階へ辿り着いたわけだ。僕の傘は風に飛ばされ、持ちこたえた彼女の傘も、柄の部分がひどく曲げられていた。前髪やコートの裾から、大粒の滴がいくつもいくつもこぼれ落ちている。
「どこへも行かないで」
彼女は再び呟いた。さっきよりも小さく、弱々しい声質だった。
 僕には分からなかった。なぜ、彼女の声が聞こえるんだろう。こんなに凍えているのに、風が吹きすさんでいるのに、どうして彼女の声はしっかりと僕の耳に残るんだろう。触れた額と指の冷たさを感じながら、薄暗い玄関の壁を見つめていた。
 分からない、分からないけれど、ああ、ただ、その声が聞こえたことは確かだった。彼女が僕に求めていることがなんなのか、それだけははっきり響いた。彼女、今にも泣いてしまうんじゃないだろうか。壊れやすくて、少しの乱暴であっさりと砕け散ってしまう。そして、僕の中でしぼんでいた愛情を、どんどん大きく膨らませる。たぶんこの部屋には収まりきらない。
 僕は顔を上げて、彼女に答えた。
「どこへも行かない」
肩にのせられた細い指に僕の手を重ね、包み込んだ。少しでも温かくなれば、と思った。彼女も僕も、それ以上何も話さなかった。
 八年前、遠い冬の出来事だった。

 あれから月日は流れ、季節は何度となく入れ替わった。今はちょうど真夏である。今日ふと、過去の思い出がよみがえったのは、きっとこの長く退屈な夏に頭をかき乱されたからだろう。あまりに苦い記憶だったので、僕の心臓は鼓動を速めていた。
 僕はあわててリュックサックから水筒を取り出して、水を一杯飲み干した。水筒をしまうと、今度はパレットに緑の絵の具を注ぎ足す。もうほとんど少ししか出なかった。
 つい数時間前の、画材を手に意気揚々と家を飛び出した僕は、とうにどこかへいなくなっていた。木陰の下、椅子に座ってカンバスと睨み合っているだけなのに、汗は滝のように流れ落ち、疲労もみるみるうちに溜まっていく。これでは集中しろという方が無理な話だ。
 呼吸の落ち着いた僕は、またやる気のない筆づかいで、川の対岸にぼんやり茂った草の色を描いている。夏の風景は確かに素晴らしい。数隻の雲を泳がせた青空の下で、木々の葉は快活に、嬉しそうに太陽を仰いでいる。水のせせらぎを聴きながら、一羽の小鳥が赤い橋の手すりに止まっている。爽やかな自然のエネルギーに鼓舞されて、僕の創作意欲はついにこの川岸まで足を運んだ。 
 だが哀しいのは、僕の情熱がどのみち何も生み出さないということを、経験上知ってしまっていることだ。現に今だってこの有様。そのうち飽きて、そそくさ家に逃げ帰るのが落ちだろう。結局、景色が良いとか悪いとかではなく、僕が描くか描かないかの問題なのだ。
 しばらくぼうっと風景を眺めた後、僕はおもむろに画材をリュックにしまい、描きかけのカンバスを小脇に抱えてその場を立ち去った。

 帰宅すると、女性がひとりアイスティーを飲みながら、雑誌をめくっていた。弘子だった。僕に気が付くと、彼女は、あらお帰り、と言って笑いかけた。
「今日は仕事、終わったのかい」 
靴を脱ぎながら僕は尋ねた。こんな時間に彼女が家にいることは滅多になかったからだ。
「いえ、昼休みなの。もう少ししたらまた行くわ」
まりやは雑誌に視線を戻した。窓からの明るい日差しが、彼女の短い髪を薄茶色に透かしている。
「あなたはまた、衝動に駆られて絵を?」
「ああ」
カンバスを自室に運び、リュックを背中から下ろした。彼女のワイシャツ姿を見て、ちょっと肩身の狭い思いがした。弘子は大手企業に勤めていて、立派に社会へ身を投じている。
「ねえ、今度あたしの肖像画を描いてくれないかしら」
思いついたように、彼女は急に叫んだ。ストローを指でつまんで、コップの中の氷をからからとかき回す。屈託のない素直な笑顔だった。
 一方僕は、ご機嫌取りのような薄笑いを浮かべて、
「考えておくよ」
と返事をした。
「嬉しい」
水筒の中身をキッチンへ捨てに行き、そうして僕は、音も立てずに自分の部屋へ閉じこもるのだった。
 弘子とは、二年前から交際している。初めて出会った場所は、裏通りの小さな喫茶店だった。彼女も絵画が好きで、画家や美術館などの話をしながら、僕らは徐々に打ち解けた。そのあとも何度か連絡を取り合うようになり、三度目に会った日、ついに彼女が僕に告白した。「好き」と一言だけ告げられたのを覚えている。僕も彼女が好きだった。弘子はいつも優しくて、綺麗だったから。
 思えば、この家に半分居候のかたちで住まわせてもらえるのも、彼女の優しさがあってのことなのだ。亡くなった彼女の叔母の実家を、彼女がそのまま譲り受けたものだという。ひとりでいるには広すぎる、そう言って彼女は、当時、住む所のなかった僕を快く招き入れてくれた。もとは寝室だったこの部屋も、僕のためのアトリエに仕立て上げてくれたのだ。
 僕は彼女に憧れている。彼女のようになれたらどんなに素敵だろうと、毎日のように想像した。
 カーテンを引いたこの六畳間には、画材やイーゼルを所狭しと置き並べ、クーラーの風に油絵具の匂いを漂わせている。僕は椅子に腰掛けて、描き途中のあの絵を眺めていた。小川の流れる様はうまく表現できた。芝生のみずみずしさも申し分ない。ただ、驚いたことに僕は、塗り終えていない白紙の部分に何を描いてよいやら、すっかり忘れてしまったのだ。空だったか、赤い橋だったか、あるいは鳥の羽ばたきか。ここに調和する景色は一体なんだったのだろう。試しにもう一度あの場所へ行って見て来ようか。ああ、だめだ、きっと、今更戻ったって分かりっこない。全然無駄なこと、意味のないことなのさ。意味のない……。だが、しかし僕は本当に何を描けばいいのだろうか……。
 ふと、玄関の方で物音がした。弘子が出かけるのだ、黒のハイヒールを履いて。僕は部屋のドア越しに彼女の後ろ姿を思い浮かべていた。しばらくして、かちゃり、と鍵がかかり、もうそれ以上音はしなくなった。この家に、僕以外の誰もいなくなったのだ。僕は、ゆっくり首をすくめて、椅子の上で両膝を抱え込んだ。クーラーが弱く鳴いていた。

 別の日、僕は再び夏の外気の中を歩いていた。「衝動に駆られて」林の絵を描きたくなったのだ。
 背筋をいっぱいに伸ばした広葉樹林。微かな土の香り。騒がしいセミの鳴き声と、真新しい空気。僕の心は深い安らぎのなかにあった。
 画布の上に鉛筆で下描きをしていく。輪郭を淡く写し取る。フィキサチーフで鉛筆の線を固着し、次に、パレットに絵の具をのせる。筆先を浸し、もう一度、目の前の景色を見渡した。
 枝葉の隙間から差し込んだ木漏れ日が、くたびれた僕の顔を照らしている。たくさんの葉のシルエットが、そよ風に揺れている。柔らかく降り注ぐ、昼前のまばゆい光。
 僕はふいに椅子から立ち上がって、まわりの木々と一緒になって空を眺めることにした。 
 光が好きだった。一点のくもりもない、透き通った、手に触れることのない陽光。僕はそれを身体中に浴びていた。溢れるほどの養分を賜って、僕はここに生きている。けれど、それだけ。受け取るばかりで、誰かに贈り物をしたことなど、一度だってない。もしも、僕が光合成を行うなら、一ミリグラムの酸素も生み出さないだろう。自然はきっと僕を嫌っている。薄汚れたコートを羽織る僕を、誰もが避けて、広い荒れ地の上に置き去りにするだろう。僕は、彼らがとうとう手を下す前に、自分から消えてしまいたいと思っていた。
 身体の力が抜けて、そっと椅子に腰掛けた。あらためて筆をとる。しかし、この右手には、絵を描く気力などとうに残っていなかった。筆をパレットの上に置き、僕は、足下に伸びる影ばかりを見つめていた。

 ある日、夕食を済ませた後で、彼女をソファに座らせた。僕はアトリエから新品のカンバスを抱えて戻ってくる。彼女は、背筋を伸ばし、強ばった面持ちで座っている。
「もっと自然でいいよ」
 僕は口元から笑みをこぼし、鉛筆を手に取った。
「実を言うと、うまく描けるかどうか分からないんだ。もっぱら風景画を描いてるからね、人物画は、ほとんど描いたことがないんだよ」
「あら、でもあなた、絵を始める前は彫刻をやってたんでしょう。大丈夫よ」
髪の輝き、瞳、口元、頬のかたち、肩の丸み。彼女の姿を手早く写生していく。
 ふと、首もとに光るネックレスに目を留めた。
「それ、前から持っていたっけ」
彼女は少し目を開き、それから、ああ、と呟いてネックレスに指を触れた。
「ううん、ついこの間買ったの。綺麗でしょう。翡翠っていうのよ」
「翡翠?」
「そう、実は今度の仕事が上手く行って、お給料も上がったの。だから、自分にちょっとご褒美をあげたのよ」
しなやかな指が、首飾りから口元に伸びる。嬉しそうな彼女の顔に見とれて、下描きをする手が一瞬止まった。
「じゃあ、そのネックレスもきちんと描いてあげるから」
「お願いね」
 夕日の差すリビングの中で、二人はゆっくりと過ぎる時間を感じていた。彼女が愛用しているアロマキャンドルは、つんと鼻を突くラベンダーの香りとともにその火を揺らめかせている。部屋は熱気で包まれていた。
 僕が集中して黙りこくると、弘子も後を追うように会話をやめた。心地よい静けさがふたりを閉じ込めている。絵筆が、冷たい線画の上に色彩を加えていく。きめ細やかな肌に夕焼けの赤をのせて、すらりと伸びた鼻筋には暗いかげりを添える。服には、大人の女性を思わせる紫を、そして、首もとの宝石は、霞のように淡い緑色を。彼女はまるで翡翠の人形だった。慈悲と、知性と、美貌を兼ね揃えた、僕の憧れの女性。どんなに手を伸ばしても届かない、光のような存在。
 弘子のそばに居られて、僕は確かに幸せだった。安心して、彼女という屋根の下で眠ることができた。
 しかし同時に、僕は怖れていた。彼女が光れば光るほど、僕の足下の影は広く長く伸びていく気がした。自分の惨めさが浮き彫りにされていくのが分かった。彼女は、どんなにみすぼらしい僕にも手を差し伸べてくれた。いつでも笑っていた。でも、本当に……? どれほど救っても立ち直らない、役立たずの僕に、あなたは怒りを覚えないの……?
 僕は怖れていた。彼女が僕を追い出す日を。
 肖像画が、ようやく描き上がった。僕はおもむろにカンバスを動かし、彼女の座る方に向けた。彼女はなぜか、急に表情を失い、両手の指を組んだ。その指の間から、小さな呟きが漏れた。
「素敵、とても素敵だわ……だけど、なんだかこの人」
「……何?」
声がかすれていた。
「この人、なんだかあたしじゃないみたいだわ」

 それから僕は、長い間、自室のアトリエに引き蘢った。自分が果たして何を欲しているのか、知るためだった。たくさんの描きかけのカンバスを丸い輪のように並べ、その中央に僕が座る。そうやって、ほとんどの時間を費やしていた。何十枚もの風景画のそれぞれに、描き残した白紙の部分が存在している。そこに何が足りないのか、ぴたりと当てはまるものが何なのか、僕は段々と分かりかけていたのだ。
 長いこと、試行錯誤を重ねている間に、部屋の外側ではいつの間にか季節が入れ替わっていた。秋が訪れていた。
 弘子と顔を合わす機会はなくなった。僕が引き蘢って、はじめのうちは何度も何度も、ドア越しに理由を問いにきたり、時には泣いてくれたりもした。それから、職場で起こった楽しい出来事や面白い話を聞かせてくれた。ドアの前に、毎日食事を運んでくれた。……だが、彼女を怖れていた僕は、何も答えなかった。一切の会話をやめてしまったのだ。そして、ある日を境に彼女の声は届かなくなった。弘子も疲れてしまったんだ、僕は罪悪感で胸をいっぱいにしながら、それでもなお、玄関を出て行く彼女に何一つ言葉をかけてやれなかった。ハイヒールを履く音を、ただ耳に留めておくだけだった。
 僕は、長年溜め込んだ描きかけの絵をひとつひとつ完成させることにした。頬の輪郭を象り、なだらかな眉、伏せがちな瞳、鼻、唇などを付け足していく。僕は全ての絵に、あるひとりの女性を描き加えていった。その女性は弘子とよく似ていた。ただ違うのは、胸の辺りまで伸びた長い髪と、香水のようにまとった儚げな雰囲気だった。

 白い吹雪が、空を舞う。僕は沙奈の手を引いて走っていた。振り向くと、彼女は疲れたように半分目を閉じている。ぐにゃりと曲がったビニール傘が、彼女の左手にぶら下がっていた。
 僕は彼女を励ましながら、それでも走り続けた。何百もの雪のつぶてが、したたかに顔を打ち付ける。凍えるような突風が、コートをすり抜け、身体を切り裂いていく。しかし僕たちは、嵐の中を必死に生きていた。お互いに弱かった。けれど、いや、だからこそ、お互いを守りたかった。こんなに惨めな僕でも、沙奈を幸せにできると、本気で信じていた。彼女も同じことを思ってくれていた。
 滑りやすい歩道の上を、息を切らせて駆け抜けていく。意識さえも失われてしまいそうだった。そんな頃、ふと、荒れ狂う吹雪の向こうに、一瞬だけレンガ色の建物が垣間見えた気がした。僕ははっとして、目を凝らしてもう一度その方を凝視した。確かにあった。ようやく着いたのだ、僕たちのアパートに。
「もうすぐ、もうすぐ帰れるよ」
僕は沙奈を振り返り大声で叫んだ。風の音が激しすぎて、どれほど怒鳴っても声は届きそうになかったから。彼女も、目を閉じてうつむいているだけで、聴こえたのかどうか分からなかった。僕は泣きそうになるのをこらえながら、がむしゃらに足を動かしていた。握った彼女の手があまりにも冷たかった。
 ふたりは階段を急いで昇り、僕は二〇三号室の鍵を、ぐしょぐしょに濡れたズボンのポケットから引っ張り出した。勢いよく扉を開けた。彼女の傘が鋭い音を立てて床に倒れた。背中に、額が触れて、僕は息を止めた。

 深夜、僕は弘子の家を出ていく決意を固めた。アトリエの扉を開けると、リビングは窓の月明かりのみに照らされていた。くたびれたコート一枚を羽織り、ポケットの中の財布を触った。中には、僕がアトリエにいた間の二、三ヶ月分の小遣いが律儀に入れられていた。
 彼女の寝室のドアが、ほんの少し開いている。覗いてみると、点けっぱなしのライトの下に、綺麗な横顔が寝息を立てていた。毛布からはみ出た手が、あの翡翠の首飾りを触っている。計り知れない罪悪感と申し訳なさに、胸がじんと痛んだ。とにかくこれ以上、弘子と一緒に居ることはできない。さようなら。僕はもう行くよ。

 カーテンの隙間から、流れる夜の景色を眺めている。車のフロントライトや街灯、店の看板などがめまぐるしく光り、街並はこんな夜中でも活気に溢れている。僕は夜行バスのリクライニングシートにもたれかかり、自分の将来について思いを巡らせていた。
 バスは、僕の通っていた美術学校のある東北の地へ向かっていた。上京してからは一度も帰っていない。帰らないと心に決めていた。あのアパートへ戻ったら最後、僕の人生は今度こそ終わってしまう。
 しかし、もう僕には、あの場所以外行くあてがないのだ。この世界を生きていくためには、沙奈に会いにいくほかには手段がない。もう、僕には彼女以外何も、何も残されちゃいない。何もかも……。
 カーテンから手を離し、テーブルに載せた紙コップのお茶に少し口をつけた。乗客は全員眠ってしまったらしく、バスの中は不気味なほどに静かだった。僕は、コートから、弘子の家の合鍵を取り出し、こっそりと、自分の座席の下に隠した。その後のことは覚えていない。僕も眠りに落ちたのだろう。

 九時間ほどかけて、バスはようやく目的地にたどり着いた。停車場に降りると、雪が降っていた。東京とは比べ物にならないほどの寒さだ。僕は少し身震いをして、駐車場の隅の植え込みへ歩いていった。緑色の草の上に、柔らかい雪が積もっている。僕は素手でそれをかき集め、アスファルトに置いた。たてながの雪玉を作り、指で凹凸を付け加えていく。忘れたかった。しかし忘れられなかったのだ。雪玉がある別の形になっていく。手のひらが赤くなる。一度は粉々に壊してしまった。それは危険だったから。作者である僕自身を虜にしてしまったから。長い髪、顔、首筋ができ上がる。自らの手で作り上げた彫刻に、名前を付け、恋愛感情を覚えてしまった。それゆえ怖かった。底知れぬ背徳感が僕を襲ったのだ。それで僕は大学を中退し、この地を離れた。彫刻もやめて、油彩画に取り組むようになった。顔に目鼻を彫り込む。手の感覚がなくなってきた。しかし僕は忘れられなかった。気付いてしまった、彼女が必要だということに。この惨めな自分を消し去ってくれる、唯一の女性像に。僕は見つめた、地面の上に作り上げられた、沙奈と名付けられた雪の人形を。

 雪の降りしきる歩道を歩いていた。白い息が口から漏れ出た。手には雪像を抱えている。僕は、あの時と同じように、自宅のアパートへの道を進んでいた。もちろん、もうあの部屋には別の住居人が住んでいるに違いない。僕はうつろな目をして行く先を眺めていた。真っ白な雪のせいで、遠くはほとんど見えない。
 ああ、あの頃に確実に戻っている。記憶がまざまざとよみがえってくる。二度とは帰れない、分かっている。この選択が間違っていることは、痛いほどに分かっている。だが、それならどうすればいい。この手の中微笑む人形を見下ろして、心の奥がきゅっと締め付けられるような、甘い苦しみを感じている僕の本能を、どうすればいいというのか。涙が滲んできた。白く濁った景色の中を、一時間、二時間も歩き続けた。やがて、降る雪の向こうに、当時と変わらないレンガ色の建物が、曇った空にせり立った。

 二○三号室の扉の前に立ち止まる。ネームプレートに彫られた名字は、やはり別の誰かのものだった。部屋には当たり前のように鍵がかかっている。僕は真っ赤に腫れた手に人形を抱え、長い間、呆然と立ち尽くしていた。
 ふと、弱々しい声がした。
「どこへも行かないで」
俯いて、沙奈を見つめる。彼女は愛おしかった。やはり、僕だって、誰かを幸せにしたい。僕はゆっくり顔を上げて答えた。
「どこへも行かない」

2008/07/24(Thu)01:54:10 公開 / もろQ
http://homepage3.nifty.com/moroQhiland/sofa.html
■この作品の著作権はもろQさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めましてお久しぶりです。もろQと申します。
この作品は、大学の授業の課題用に書いたものです。最近課題や、他者からの圧力(?)を受けて書いていることが多いので、久々に完全に趣味として小説を書いてみたいと思っている今日この頃です。……そう、昔のようにね……。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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