『春の終わりの匂い』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:甘木                

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 僕が菜穂美とつきあい始めたのは高校三年生の春の終わりだった。
 なんの取り柄もない平凡な僕のどこを気に入ってくれたのか、夏の予感させる空気が充満する学校の裏庭で『貴史君、好きです。わたしとつきあって』と単刀直入に言われたんだ。女の子に告白されるなんて生まれて初めての経験で、思わず出た言葉は『僕みたいのでいいの?』と間抜けなものだった。
 だって菜穂美はクラスで一番可愛いし、頭も良いし、人柄だって男女問わず悪口を聞かないほどだよ。ま、運動神経だけはお母さんのお腹の中に忘れてきたようだけど菜穂美の魅力を損なうものじゃない。かたや僕は見た目普通、成績中の上。菜穂美に勝っているのは運動神経ぐらいだけど、運動部で活躍するほどの能力じゃない。そんな僕に好きって言ってくれるなんて信じられないよ。
 だいぶ後になって菜穂美に聞いたんだけど、彼女に言わせると僕の不器用な真面目さと一緒にいると安心できるところが、昔飼っていた犬に似ていて安らげるんだって──これって褒めているのか貶されているのか微妙な表現だよなぁ。
 とにかく僕に反対する理由はない。受験生という立場を忘れて菜穂美とつきあうことになったんだ。
 これがドラマかなんかなら同じ大学に進んで波瀾万丈のキャンパスライフを送るということになるんだろうけど、僕と菜穂美では頭のレベルが違いすぎた。菜穂美は楽勝で国立大学に、僕は一流半といったところの私立大学になんとか滑りこみ。でも、幸いなことに二人とも東京の大学だったから近所のアパートに住み──四年後には同じアパートに住むまでに二人の中は進展していたんだ。そりゃそれまでにはケンカもしたし、一時的に別れることもあったよ。でも、二人とも相手がどうしても必要なことを気付いてはよりを戻してきたんだ。
 小さな波を何度も乗り越えながら僕らは無事に大学を卒業して、就職して、二十五歳の時に結婚した。いずれ子供ができて、子供や仕事に追われながらも、お互い協力し合ってまた波を乗り越え歳をとっていくなんてことを漠然と思っていたんだ。
 結婚した年の秋までは……。


 菜穂美が入院したという連絡が会社に入ったのがすべての始まりだった。
 菜穂美は仕事中に具合が悪くなり救急車で病院に搬送されたのだ。そこで待っていたのは検査と緊急入院。
 それまでにも菜穂美は何度か腰が痛いと言っていたんだけど、僕が一度病院で診てもらったらと言っても『立ち仕事が多いから疲れが溜まっているだけだよ。病院なんてお金と時間の無駄。ゆっくり寝れば治るよ。お休みの日に貴史君がご飯と掃除と洗濯をしてくれればいいだけだよ』と笑うだけ。僕もそんなものかなと思っていた。
 病院での診察の結果は肝臓癌のステージWB。つまり遠隔転移を伴う末期癌だった。すぐに手術が行われ肝臓の腫瘍は摘出。けれど転移は広範に及んでいたため癌剤治療が始まった。
 菜穂美は仕事を休職し入退院を繰り返す日々。一時は回復に向かうような元気さも見せたけど、今年の春の終わりに大量に喀血して……僕は病院の先生に『奥さんも頑張っておられます。我々も最善の努力はします。しかし、肺と脳への転移は予想を超えたスピードです。ご主人も覚悟だけはしておいて下さい』と深々と頭を下げられた。
 覚悟ってなんだよ! 覚悟って。できるわけないだろう!
 菜穂美が死ぬ覚悟ってなんだよ! バカやろう!




 *          *          *




「貴史君は仕事があるんだから、毎日、お見舞いになんて来なくていいんだよ」
 菜穂美は点滴のチューブをずらさないようにゆっくり上半身を起こし、ふぅと暑い息を吐く。
「ここ個室だから話し相手もいないし淋しいだろう」
「そうでもないよ。昼間は看護士さんや先生が診察やなんやで何度も来るから、ノンビリお昼寝を貪る暇もないほど」
「そうなんだ。入院したことがないから知らなかった。でも、見舞いのことは気にしなくていいよ。僕が来たいから来ているだけだからね」
「嬉しいけど、残業とか断ってきてるんじゃないの。社会人は仕事が大事だよ」
 菜穂美は精いっぱいの怒ったような顔で声を弾ませる。
「いいや、年度明けたら夏過ぎないと暇なんだよ。島崎なんて残業代が減って小遣い減らされたぁ昼飯減らさないとヤバイって言って頭を抱えてたよ」
「島崎さんって結婚前に会った体の大きい人だよね。凄く食べそうだから本当に切実なんでしょうね。頭を抱えるの分かるなぁ」
 菜穂美は声を出して笑い──次の瞬間、前屈みになって激しく背中を振るわす。
 癌が肺に転移しているせいで長い時間話しをしたり笑ったりすると喘息のような発作が起こることもあるのだ。ひゅーともしゅぅーともつかぬ息を漏らし、それを押さえこむようにさらに身体を丸める。
「いま、看護士さんを呼ぶからまってろ」
 ナースコールに伸ばした僕の手を押さえ菜穂美が顔を上げる。
「大丈夫……もう……治まったから」
 菜穂美は薄い笑みを浮かべて僕の手を包みこむように握る。しばらく僕の手を握ったまま荒い息を何度も吐き出す。だんだんと息が落ち着き、それと同時にあれだけ熱かった手が急に温度を下げていくのを感じた。
 夏が近付いてきているというのに、菜穂美の手は恐ろしいほど冷たく乾燥してガサガサになっている。きっと抗癌剤の副作用なのだろう。頬もこけ、肌の色も沈んだような色になってしまっている。なのにこんなにも大変な治療を受けているのに、菜穂美は僕の前では決して辛そうな表情を見せたことがない。
 それどころか笑みを浮かべ、
「本当に大丈夫だから、心配そうな顔はしない」
 トンっと僕の額を指で弾く。いつもこうやって不安げな表情を浮かべているだろう僕を叱咤してくれるのだ。


「手が冷たい。ちゃんと布団に入っていた方がいいよ」
 僕の言葉に大丈夫とばかり手を振って菜穂美は窓の方に顔を向ける。
「もう春は終わりなんだね」
 菜穂美は窓の向こう、前庭に植わった大きな木を見つめている。なんという種類の木か分からないけど、大きく広げた枝に幾千もの葉をつけ長くなった夕陽の最後の光を受けている。
「そういえば、わたしたちがつきあいだしたのも今頃だったよね」
 外を向いたまま、ひとりごちるように菜穂美がつぶやく。
「わたし本当は凄く不安だったんだよ」
「なにが?」
「貴史君に告白した時。だって初めて男の子を好きになったんだもん」
「嘘だろう」
「嘘じゃないよ。貴史君がわたしの初恋の相手だよ。もう断られたらどうしようとか思って前の晩寝られなかったんだから」
 僕がいまどんな表情をしていたかは分からないけど、菜穂美が外を見ててくれてよかったと心の底から思ったよ。驚きのあまり相当間抜けた顔をしていたと思うから。
 だって、菜穂美を好きだという男はクラスにも、いや学年中にたくさんいたんだ。
「信じられない。菜穂美はモテてたじゃないか。だから菜穂美に言われた時、僕の方が心臓が止まるかと思うほどビックリしたんだぜ。なんでモテない僕に告白してくれたんだろうって」
 菜穂美は顔を僕に向けるとにっと悪戯っぽく笑う。
「うん。何度かつきあって欲しいって言われたことあったけど、わたしがその人を好きじゃなかったもん。わたしが本当に好きになったのは貴史君だけだよ。それに貴史君は気付いていなかったんだ……貴史君を狙っていた女子はわたしだけじゃなかったんだから。二年生の女子にも人気あったんだよ」
「マジ?」
「うん。マジ、マジ」
 どうだ驚いたかとばかり菜穂美が胸を張る。
「だって僕モテなかったよ。ラブレターを貰ったこともないし、告白だって菜穂美が初めてだったんだからさ。僕の初恋の相手は菜穂美なんだよ」
「ま、貴史君は恋愛に鈍いところあるからなぁ」
 僕は自分の顔が赤らむことを感じていた。
「わたしだって本当は受験生だから受験が終わるまで告白を待とうと思ったんだけど、三組の美希さんが貴史君に告白するつもりだって話しを聞いちゃってさ。それなら先手必勝と思って勇気を出して告白したんだよ。昔から戦いは巧遅より拙速って言うじゃない」
 菜穂美は点滴が刺さっていない方だけでガッツポーズをつくる。
「じゃあ僕たちって初恋同士だったんだ」
「そうなるね。ひょっとしてわたしじゃ不満だった?」
 揶揄じみた声に首を振り、
「凄いよ! 初恋は実らないと言うけど、僕たちは結婚までしてちゃんと実ったじゃないか!」
 自分でも恥ずかしいことを言っているなと思いながら菜穂美の手を握った。
「ううん……実ってないよ」
 帰ってきた言葉は僕の予想に反するものだった。


 菜穂美の言葉にどう反応していいのか分からず、僕は呆けたように手を握り続けた。
「恋が実るってやっぱり言葉通りだと思うんだ」
「言葉通り? どういうこと?」
「実りって次の世代を残すこと。つまり子供を残すことだよ。でも、わたしにはそれができない。ごめんね貴史君」
 握っていた菜穂美の腕から力が抜ける。
「そんなことないだろう。まだ時間はいくらでもあるんだし」
「ううん。自分のことは自分がよく分かるんだ。転移も色々しちゃっているしね、今回の入院でお終い。もう先はないよ。だから子供も産めない」
 菜穂美は視線を落とし声をひそめる。
「で、でも、新しい抗癌剤も使っているし結果なんて分からないじゃないか」
「気休めはいいよ。貴史君だって先生に言われてるでしょ。でも気にしなくってもいいんだよ。わたしも死ぬ覚悟はできてるし、貴史君がいてくれるから怖くないんだ」
「…………」
 どうしてこう言う時に言葉が出てこないんだろう。嘘でもいいから励ます言葉を言わなきゃと思っても舌が張り付いたように動いてくれない。
「残しちゃう貴史君には悪いと思うけど、わたしは後悔してないんだ。病院のベッドで寝ててもね、貴史君と一緒にいられた日々を思い出すだけで辛くも淋しくもないんだよ」
 妙にサバサバとした口調が、菜穂美の辛さを滲ませているように感じられた。
「あっ、でも、本当言うとひとつだけ後悔がある」
「なに?」
 やっと開いた口から絞り出せたのはこんな一言だった。
「後悔と言うよりもわたしの妄想と言った方がいいかな」
 菜穂美は自分のお腹を触り恥ずかしそうに僕を一瞥する。
「もしさぁ、わたしが男で貴史君が女だったら、病気になっても子供を残してあげれたのになぁってね。男は種をまくだけでしょう、一時間もあれば余裕で終わっちゃう。だけど女は十ヶ月だからね……ま、しょうもない妄想だよね」




 面会時間が終わって外に出ると、僅かに夏の匂いがする空気が鼻孔を刺激した。
 この匂いはどこから来るんだ? なんとなく病院から離れたくなかった僕は、匂いの元を探してみようという気持ちになった。
 僕は匂いを追って正面玄関から病院の建物に沿って歩いているうちに前庭にでた。そこには大きな木が──菜穂美の病室から見えたあの木が──青白い外灯の光を浴びて太い幹を天に伸ばしている。よく見れば幾つもの小さい花が葉に隠れるようにして咲いている。
 この小さな花が春の匂いをかき消すように、夏の匂いをさせていたんだ。
 花はいずれ実をつけるだろう。そして菜穂美が決して迎えられない夏の空気を思い切り浴びて育つんだ。だから菜穂美はこの花を見てあんなことを話したのだろうか……病気になって初めて言うグチを。
 他愛もない妄想を金色に輝く夢であるかのように話す菜穂美の顔を思い出し、僕は春の終わりに二人でかいだ空気の匂いを思い出した。
 夏への希望を抱いていた空気の匂いを。


【終わり】

2008/02/17(Sun)21:20:50 公開 / 甘木
http://sky.geocities.jp/kurtz0221/
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■作者からのメッセージ
ジャンルを恋愛小説にしたけど、本当にこれが恋愛小説なのかなぁと不安に苛まれながらの投稿です。私的には恋愛物だけど……不安です。
恋愛小説って書いているとなんだか身体がむず痒くなってしまうから、いままでなんとなく敬遠していたんですけど苦手分野は克服しなきゃと今回書いてみました。
拙作ですが読んでいただければ幸いです。また、感想や御意見がありましたら書いていただけたら嬉しいです。

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