『羊の子は空に飛ばない〔完結済〕』 ... ジャンル:ファンタジー アクション
作者:無関心ネコ                

     あらすじ・作品紹介
小さいながら平和な毎日を送る砂漠の新興国家。しかしある日、『神の愛子』を語る女が現れ、その混乱も冷めやまぬまま得体の知れない男に城門を襲撃され――女と男の目的とは? 新興国家に隠された真実とは?王道のファンタジックアクションを目指しました。

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 寂寞広く青白む砂漠の明朝
 果てしなく続く滑らかな乳白色の丘陵、蒼茫の空
 砂土をなぞる緩やかな風が一陣、延々と連なる砂の浜を駆け抜けた
 風は渦中に砂塵を巻き上げ、ゆるりゆるりと
 そして砂漠にぽつりと佇む、人間と出会った


 その人は全身を黒のローブで覆い、目深に被ったフードと、丈を短く切った足元以外、どこも露出していない。人間の砂漠に挿し立てられた墓標のよう。
 しかしそれが墓標でもなければ砂漠の幽鬼でもない証拠に、彼は背に巨大な人工物を抱えていた。
 尺は人間を越えるような大銃である。およそ効率的とも能率的もいえない巨体を晒したその銃は、持ち主と同じように、冷たい風に身震いすることも無く、ただ背負われている。
 その人は真正面を向いていた。その視線の先、夜明けの朝靄に霞むように、砂漠と一線を画すべくつられたかのような、高く、横へ長い城壁が見える。
 その人には何の感動も無いようだった。
 彼の背後から、がさごそ、という、布切れが擦れる音がし、
「…………あぁ!」
 と女の嬌声が上がった。
 さらにがさがさと音がし、次に人の足が砂を噛むざらざらという音がした後、その人の横に若い女が現れた。
 褐色のローブを着、フードは肩に垂らしている。そこから覗く顔は僅かに幼さも見えるほど若々しい。スラリとした鼻立ちに薄く色づいた唇、二重に湛えられた大きな 瞳は鮮やかな蒼海色。山吹色の髪を結わい、紅い紐でひねり結わった耳際の髪を長く垂らす。
 彼女の背後にはテントが張られていた。小さなテントだが、極寒を極める砂漠の夜を過ごすには多少なりとも役に立ったテントだ。そこから這い出てきたらしい。
「ぃやったぁ!」
 彼女は満面の笑みを浮かべ、字義のごとく飛び上がった。耳際の長く垂れた髪が踊るように揺れた。身動きもしないその人に抱きつき
「お風呂あるかな!? 肉いっぱい喰おうね! お酒お酒!!」
 と矢継ぎ早に文章として成り立たない、しかしその文脈の意味するところが一応はわかる言葉を叫んだ。静かだった砂漠に彼女の黄色い声が走り回る。
 その人は黙ったまま、彼女にぐらぐらと揺すられている。
 彼女はテントに走り寄り、中から巨大なバックパックを引きずって帰ってくると
「すぐ行こう! ね、今すぐだ!」
 と叫んだ。
 まるで好物を見つけた子供のように――いや、子供とて多少の自制心はある――城壁へと向けて、彼女は駆け出す。
 そしてすぐにすっ転んだ
 砂塵のかぶさった「それ」に足元をすくわれ、思いっきり前につんのめったのだ。
 ばふ、と砂煙が上がった。
 その人は、黙ってそれを見ていた。
「あはは!」
 ばさ、と砂の海を掻き分けて、倒れていた彼女が仰向けになった。時と共に白みを増す蒼茫の空を見上げ、その宝玉のような瞳を楽しげに細め
「ファイ!」
 とその人に声を投げかけた。
「危ないからそれ焼いといて、どうせすぐには来ないんでしょう?」
 ファイ、と呼ばれたその人は返事を返さなかったが、彼女はその答えが聞こえたかのように笑い声を上げ、立ち上がり
「ちゃんと神様に祈ってあげるのよ!」
 と言い残すと、朝の薄もやの向こうへ駆けて行き、姿を消した。
 また、染み渡るように静寂が戻ってきた。
「壮気ですな」
 ファイの横にいつの間にか、一人の老齢の男が立っていた。長く蓄えた髯、熟れ過ぎたいちぢくの様に顔中に走る皺、片目がつぶれ、もう片方の目も細く、ざっくばらんに生えた眉に隠れている。皮のコートを着、杖を一丈、砂漠の砂に突きたてている。
「歳若いうちはあのように神気を振りまくのが常道。良いお嬢だ――お名前はアリスでしたか?」
 ファイは傍らで彼が話しているのにもかまわず、歩き出した。向かう先は先ほど女――アリスが転んだその場所だ。
「……一昨日はまこと、有難うございました」
 老人はその背に頭を下げる。
「人間なこの地で野党共に教われた時は、最早これまでと思うておりました」
 ファイはアリスがつまずいた「それ」を砂の中から引きずり出す。
 ローブの中からゆるりとした袖を通して手を出すと(不思議なことに彼のローブには手を出す為の袖が片腕ぶんしかなかった)そこには水筒が握られている。
 老人は、言葉を返さない彼に、さらに言葉を連ねようとし
「貴方の勇猛な……」
 平易な感謝の言葉を連ねることを躊躇した。

 勇猛?
 あの戦いぶりに勇気などあったのか
 ただ、獣のように――

「……勇猛な、戦いぶりに救われましたな」
 ファイは水筒を逆さにする。油がどぼどぼと垂れる。
 それを終えると、彼はさらに別の場所へ足を運び、埋もれていた「それ」を引きずり出すと、先ほど油をかけた「それ」の上に投げ捨て、重ねた。さらにさらに別の場所へ足を運び、砂に埋もれた「それ」を……
 老人は繰り返されるその行為を、もはや何も言わずに見ていた。
 それほど時間もかけなかった。ファイの前には「それ」が山のように重ねられていた。
 黙って燐棒を擦り、その切っ先に火を灯すと、「それ」の山に投げ入れた。
 炎が上がる。
 「それ」はよく燃えた。「それ」が身に付けた皮の鎧や乾いた襤褸切れのような服がよく燃えるのだ。
 「それ」の焼ける、異臭が立ち込める。
 老人はゆっくりとを歩を進める。身をくねらせて燃える炎。それを見つめるファイの元に寄る。
「……我らが導神、始まりの方よ、短き命を永らえんと罪を重ねた我とその同胞を赦したまえ。そして失われしみ魂、その繋がりに祝福をお与え下さい。真なり、真なり……」
 呟き、片手を自らの鼻の先に触れた。
 顔を上げる。
 炎を見つめ続けるファイ。

「神には――祈らんのかね」

 答えはなかった
 ファイの被ったフードが、再び訪れた風に揺れた







「神の愛子――か」
 その謁見の間は、極めて質素な造りをしていた。
 通常であればその部屋の主を讃える、またはその権威を示す為の豪奢な美術品や槍、剣、鎧、に覆われ、色とりどりの布地を使った装飾にまみれているはずなのだが、その謁見の間にあったのは丈夫な樫の木で作られた漆塗りの椅子と、その椅子に座る部屋の主と謁見者を隔てる低い柵、闇夜を照らす燭台、後はがたいの良い衛士が数名立っているだけだった。
「それはどうしてわかった、その力をもってして暴れまわったのか」
 椅子には薄手の衣をゆったりと着た、年のころ六十程の男が座っていた。痩せ型で、目の下のくまが酷い。肌の色は長く日の下にいた時期があったのか、褐色だ。目は僅かに細く、しかし鋭くは無い。
「いえ、本人がそう自称したと」
 その眼前、少しはなれたところで傅いて答えたのは質素かつ剛健な鉄の鎧と、襟を正した軍服を重ね着した剛毅そうな若者。太い二の腕、岩のように固そうな筋の通った顎、丸太のような首、乱れ散る髪に、意志の強そうな大きな瞳。
「信じるに足りるのか、その自称」
「真実の如何にかかわらず、使徒様にはご報告すべき事態かと思い。……既に監視の者をつけております」
 使徒様、と呼ばれた椅子に座る男は、小さく唸った。
「神の愛子は五歳から十二歳までに神から万難を使わされ、その生者としての力を試される――その為に周囲の存在は全て巻き込まれると聞くが。その者は幾つだった?」
「十七であると」
「十七……既に試練は乗り越えたということか」
「つまり」
 鎧の男が深く、地響きのような呟きを漏らす。
「既に神の力は与えられている――」
「超神の力か」
 使徒は口元に手を当てる。視線を泳がせる。
「……衛士の者、皆一度退室してもらいたい」
 近くで長槍と剣を携えて立っていた兵士達がそれぞれに一瞬、視線を交わす。
 使徒はうっすらと微笑み、
「大丈夫だ。タルカントは近衛兵長だろう。諸君らの上役が、信頼に足りんとでも?」
 タルカント、と呼ばれた鎧の男が、周囲の衛士に僅かに視線を漂わせて頷く。衛士達も頷き返し、動揺を鎮めると、静かに歩を出口へと向け歩き始めた。
 最後の一人が謁見の間を出て行き、重い扉が閉まると、使徒はため息をついた。
「東方の国ではその力を利っしようとした国そのものが滅ぼされた。彼らの気まぐれでもってして滅ぼされた国も、組織も数え切れぬ。もしその神の愛子が真の存在であれば、我々は窮地に立たされたも同然だ」
 タルカントは床に向けていた視線を上に持ち上げ、使徒を見つめた。
「使徒様の憂慮は国家全体の憂慮。我々近衛兵は我国を守るのが勤め。お任せいただければ――」
「いや、困難だろう……風向きが非常に悪い。彼らが傍若無人に振舞い、禁忌を犯されては……」
 使徒はチラリと後方を見やる。タルカントも、自然とそこにあるものに目をやってしまう。
 椅子の後方には扉がある。小さな扉だ。木でできていて、鉄枠で覆われている。
 扉を見ながら、タルカントは言う。
「……決して悪いようにはいたしません。使徒様の『宿り部屋』は命に代えても死守して見せます」
「タルカント、お前は神の愛子がいかほどのものか知るまい」
 タルカントはもご、と口を僅かに動かす。申し訳なさそうに
「何分、学の無い卑民の出でありまして――」
「あぁ、いや。すまぬ」
 使徒が軽く手を挙げ、取り直すように言った。
「責める気はなかった。すまない」
 タルカントの家系は代々死体を処理する役を負っていた、まさしく卑民の家系だ。それを拾ったのが使徒であることは、国家全体に知れ渡っている。情けの深い使徒は、以前この土地を支配していた地主よりもよほどできたお方だと、伝記の一つとして民草の間に語られているのだ。
 使徒の謝罪を過ぎた言葉だとばかりに首を振って返したタルカントは、顔を上げた。
「使徒様、よろしいでしょうか」
 使徒は掌を彼に向け、続きの言葉を促す。
 顔を上げ、天窓からの採光を一身に受ける。
「ご教授願えますか、神の愛子とは何か」




 
「はぁ!? 神様ぁ!? 急になんだいそりゃぁ! ……あぁ、いらっしゃいっ!!」

 朝も日が昇った直後から人でごった返す市場道。
ものを売る者、吟味する者、買う者、値切る者、物を請う乞食、音楽を奏でる奏曲家――まるで、うねる荒波のように人々がそこに集まっている。
紡がれる雑踏、呼び込みの声、喧嘩の怒声、物乞いの浪曲、奏曲家の弦楽――種々様々な音が絡み合う、活気溢れる市場のBGM。
「あ、有難うございまぁす! ……教義!? んなのそこらへんの奴に聞きなよ俺は流れ者なんだ……あ、いらっしゃい、どうぞ見てって下さい……買わないならそこどいてほら!!」
 ボロ布を広げて商品を並べただけの粗末な売り場。その前で突っ立っていた女が、店主に突き飛ばされて人並みに押し返された。
「ひゃっ――ばぁか! じごくに落ちろぉ!!」
 山吹色の髪、スラリとした鼻立ち、白い肌、薄く色づいた唇――アリスだ。
 左右を青空商店(ほとんどの店が前述のような粗末な店だ)に挟まれた市場道は、まるで川の流れのように、左右の緩やかな流れと比べ真ん中の人の流れが早い。勢いよく中央まで押しやられた彼女は文字通り人並みにもまれ、騒がしい雑踏にその毒づきすらかき消された。
「わわ、ちょっと、おさな――うわぁ」
 まさに荒波にもまれた転覆しかけの小船である。
 四苦八苦しながら流れの本流から逃れ、ずっこけながら市場道と交差する裏道にのがれる。
「はぁはぁ、ふっざけんなぁ! あっちこっち痛い……」
 彼女はローブのすそをたすき上げ、涙目になりながら、言葉通りあちこちさする。
「神様いないのかよ、じゃぁご飯喰ってお風呂はいってお酒飲んで、さっさと行こうぜファイ……まだ外か」
 ブツブツ呟きながら彼女は装備を整える。馬鹿でかいバックパックを降ろし、乱れたサラサラと揺れる髪を、バンドをはずして、整え、再び結わえなおす。
 その眼前に、にゅ、と手が伸びた。
 アリスの動きが止まる。
「お恵みを」
 アリスが顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべる乞食の姿。汚らしい髯や髪、垢だらけの顔、異臭を放つボロ布のような服。
「……ふーん?」
 アリスは腰をもそもそと動かすと(そのシルエットから察するに彼女の身体はほっそりとしているようだ)そこから銅貨を数枚取り出し、乞食の差し出した手首に片手を沿え、握らせた。
 乞食は頭を下げて
「ありがてぇことです、ありがてぇことです」
 と繰り返し、その手を下げようとした所で
 思いっきり引っ張られた
 彼女が添えていた片手を全身を回転させるように引いたのだ。身を乗り出していた乞食は前のめりに倒れこむ。
 あと半秒もかからず地面に顔面から飛び込むという瞬間
「うそつきだ」
 彼女は乞食の耳元でそう呟いた。
 乞食が口をモゴ、と動かした。とっさに突き出した手が動きを止めてしまい、受身を取るのに失敗する。手首をひねってしまう。
「うっ」
 身をよじるその乞食を上から見下ろしながら、アリスが謳うように訊ねる。
「神様はどこ?」
「う――てて」
 乞食が苦笑いを浮かべながら顔を上げる
「やめましょうぜお嬢さん……そういうのがお好きなら、合法でできる場所があるんだから色町にでもいってくだせぇ」
 アリスはべぇっ! と舌を突き出した。
「うそつき!」
「なんです嘘つきって……」
「ばぁか!」
「……?…?」
 一方的に罵られた乞食が不可解そうに顔をしかめた。
「おいおい」
 と、人気のない道の奥から中年の声がした。
「こんなくせぇ場所に天使がいるじゃねぇか」
 影からぬっと現れたのは大柄の男だ。
見るからに粗暴そうで、顎に生やした無精ひげを笑いながら撫でている。近接用の軽装(皮鎧、鉄と皮の篭手、膝・肘当て、腰にブロードソード、腰裏に単発拳銃を持っているようだ)を揺らしながら、アリスと乞食に近寄ってくる。
「ここは嬢ちゃんみたいな美人さんが来る場所じゃねぇぜ。ヤバい仕事の引き受け手を捜してるような、悪いオヤジが来る場所だ」
「おっさん誰?」
 遠慮も物怖じもせずにアリスは腰に手を当てて聞いた。男はがははと笑い
「おっさんじゃねぇ。モルドーだ。この近くの酒場で傭兵やってんだ」
「なんでこんなトコ来てんの」
「うん?」
「つまりおっさんは悪いオヤジなんでしょ」
 モルドー、と名乗った男はまたがっはは、と笑い
「そういやそうだった! 確かに、俺は悪いオヤジだわな」
 彼はそう言いながら胸元から金貨を取り出し、乞食の前に落とした。乞食は拾わず、じっとモルドーを見ている。まるで異音を察知した犬のように。
「それ持ってどっか消えな」
 乞食は先ほどの愛想を忘れたように黙り込み、ゆっくりと――まるでモルドーを観察するかのように――身を起こす
 怒声一喝、モルドーが腰からブロードソードを引き抜いた。
「さっさと行かねぇかクズがッ!!」
 乞食は慌てたように――しかし焦ってはなかった。あくまでもあわてた『ように』――立ち上がり、市場道の方へ駆けていった。
「へっ」
 彼はその去っていった先を見ながら、鼻を鳴らした。振り返りながら
「『うそつき』たぁ、良い目をしてるぜ嬢ちゃん。あいつは近衛兵の――」
 向いた先ではアリスがせっせとモルドーが落とした金貨を集めていた。彼の視線に気がつくとおもむろに金貨を胸元に入れ、静々と立ち上がった。
「……返せよ」
「何を」
「俺の金だよ」
「は?」
「俺の金貨! 乞食にやろうとしてた!」
 アリスはどでかいバックパックを背負い直すと、彼に背を向けて
「やっぱり悪いオヤジだったんだ。言いがかりだぁ」
 と、一目散に駆け出そうとした。
 が、その気配を察したモルドーが彼女に飛び掛って止める。
「待て待て」
「うわっ、暴漢だぁ!」
「人聞き悪いぜ――目の良い女だと思ったらこれか」
「うわっうわっ触んな! 触んなばぁか!」
「胸元に入れてたよな」
 バチ、と音がしてアリスのローブが外れた。モルドーは乱暴にそれを引っぺがす
「……んん?」
 そして目を細めた。
 彼女の格好は全身真っ黒だった。
 首から下へ、全身を滑らかな光を返す黒色のなめし皮が覆い、それは肌にピッタリと張り付いている。腰にはポーチが幾つもついたベルト巻かれ、手には短い毛皮のついた手袋、足には膝下全てを覆う編み上げブーツ。それも全て黒だ。腰には短刀が一本差し込まれ、腰裏には銃身を短く切り詰めた、太い両手持ちの銃が差し込まれていた。所々、マット加工された銀製のプレートがついている。
「くぅおら! 見るな! バカ!」
「天使というより悪魔か? 小悪魔――いいねぇ」
 モルドーが身を起こす。続いてアリスが猫のように俊敏に立ち上がり、また逃げ出そうとするが、肩をつかまれる。
「まぁまて、金貨はくれてやる。その代わりと言っちゃぁなんだが俺を雇ってる酒場に付き合え。一杯くらいならおごってやる」
「お酒!?」
 とアリスが振り返る。
「おうよ! 酒好きか?」
 途端アリスの顔がほころび
「おうよ!」
「がはは、そうかそうかぁ!」
 と二人は連なって、通路の奥、影の部分へ歩き去っていった。
 そして通路には誰もいなくなった。

 すぐそこの市場道からの賑わいが遠い。
 喧騒が静寂を際立たせる。
 風が運んできた砂利が、固い石に擦れて静かな音を立てた。
 ゴツ、と音がした。
 コートを着た老人が、通路に足を踏み入れていた。
 音を立てたのは、彼が地面に突きたてた杖のようだ。
「……」
 彼は黙々と、皺に覆われた細い目を、遠くに――二人の影が消え去った暗部へ向けている。
 ただ黙々と。






 火薬が幾つも炸裂した。
 小さな炸裂音が連なり、空気が破裂する大合奏が奏でられた。
「弾込めぇッ!」
 タルカントの怒声が響くと、射撃場に一列に並んだ兵士達は、手にした滑空銃の銃口に火薬包を突っ込み、弾丸を搾丈で押し込む。終えればすぐさま構え
「っテェッ!!」
 号令と同時に炸裂音が連なり、火薬の白煙が上がった。
 
 城壁内に作られた射撃場である。
 元来城壁内に物資貯蔵や防衛機関以外の設備が整えられているのは本末転倒であるが、物資に乏しく、設備投資の金も持たないこの城では余暇地を遊ばせておくくらいなら、と近衛兵用の射撃場が設置されたのだ。
 せいぜいが雨風を防ぐ縦長の小屋、その正面に設置された的、といった程度の設備だが、それでも周辺国家と比べれば随分と整った設備で、この国の近衛竜兵隊(射撃を専門とする兵士)は錬度が高いと名高い。
「撃ち方やめぇ!! ――銃筒を清掃せよ!」
 タルカントの指示で、兵士達は滑空銃を手元に寄せ、銃口に布をあてると、搾丈を突っ込んで中を掃除し始めた。
 兵士達は乳白色の布製軍服を着ている。ゆったりとした法衣のようで、色は白い。その上から皮製の茶色いベルトを通したカバンを肩にかけ、足元はブーツを履いている。ブーツの途中から細い白布が巻かれ、太股までそれは続いている。そしてその手に握られているのは先込め式の滑空銃だ。人の半身ほどの長さで、口径は人差し指の第一関節ほど。
「対岸の隣国は最新式のコッポラー小銃を導入しつつあるそうです」
 兵士達の様を眺めていたタルカントに、声が投げかけられた。傍らに目をやると、兵長付き(秘書のようなものだ)の壮年の兵が自分と同じく兵士達を見ていた。
「金属物資の潤沢な南方ではさらに最新式の銃が導入されていると聞きます。らいふる、なる物だそうですが」
「……武器の良し悪しは勝因の部分的な一因だ。瑣末にあまり傾倒するな」
 無論、最新式の銃に興味が無いわけではなかったが、この国の脆弱な経済基盤をかんがみれば、武器の刷新を図ろうなどとはとてもではないが思えない。
「せめてコッポラー小銃は導入すべきだと存じます」
 その内心を知ってか知らずか、兵長付きの彼は強く押した。
「簡単な加工で済みます。柔らかな弾丸を用いて、銃口を細くするのです。あとは銃筒に小さな溝を掘ってから弾を押し込めば、弾丸は変形して銃口にぴったりと合います」
「……それで」
「こうすれば火薬の威力を無駄にせず弾をはじき出すことができるのです。これまでの銃では弾丸と銃口の空きが広すぎて、火薬の威力が無駄になりすぎます」
「その分、弾丸の飛距離が伸びる?」
 兵長付きは深く頷き
「その通ぉりです。さらに火薬を最新のヘントールに変えれば、銃筒の清掃もしなくてよくなります」
 うむ、とタルカントは唸った。現金な事ながら、聞けば欲しくなってくる。射的距離が伸びれば小国の兵士でも狙撃を用いて大国と戦うことができるし、銃筒の清掃をしなくてすむのなら部隊運用の幅も大きくなる。つまり戦術に変化を付けられるということだ。
 近衛兵長の仕事は多岐に渡る。軍事の分業がさほどなされていないこの国家においては、有能なタルカントと言う兵長無しにでは近衛隊は立ち行かない。有事においては国家の中枢を守る任を任され、平時においては近衛隊の財布の具合まで考えなくてはいけない。
 さらに今、彼は懸念の種を増やしている。
「タルカント殿!」
 城門の方から若い兵士の声がした。見やると、伝令の兵が表情を固くして、息せき切って駆けてきている。
 その慌てた様に、焦燥感を掻き立てられたタルカントは、僅かに眉を寄せ
「後を頼む」
 と兵長付きに呟く。伝令の兵の下へ歩み寄った。





 議談室の扉がノックされると、使徒はあからさまではないにしろ顔をしかめた。議談中はめったな事では室内に入れないことになっているし、そのノックには「それを承知した上で」なされたものだと感じ取ったからだ。
 議談室では使徒を正面にすえて、老齢・壮齢の男達が長机を挟んで二列に向かい合っていた。ノックという異音を耳にした今や、彼らはそれまでの議題を放棄して黙り込み、互いをけん制するように視線を飛ばしあっていた。このノックに対して使徒がどういった決断を下すのか、その答えを待っているらしい。
「……入りなさい」
 使徒の答えは簡潔明瞭だった。
「国家指針議談中に関わらず失礼することをお許し下さい」
 口上を述べるように滑らかに唱えられた謝罪の言葉の後に入ってきたのは、剛毅で屈強な体躯の男――タルカントだ。
「使徒様にお伝えすべき事案が」
「……こちらへ」
 使徒が自らのすぐ横を手で指し示し、タルカントは颯爽と歩いてそこへ向かった。
 膝をつき、使徒の耳に口を寄せると
「城門の外に不審な男が――恐らくは神の愛子に関する人物ではないかと。城壁で監視中の兵が」
 使徒は「なんだと」と小さく声を漏らす。周囲の壮年の男達の間にも緊張が走り、ぼそぼそと話し声も交わる。
 それを尻目に、使徒は言葉を続ける。
「一度に二人もか」
「私見を述べるところに寄れば、どちらか一方でも先手を打って封じなければ危険です」
「神の愛子に手を出すなど……!」
 さっと「神の愛子」という言葉が議談室を駆け巡った。周囲の男達も焦ったように囁きあう。
「神の愛子……!?」「神の愛子だと」「馬鹿な、我国を訪れているのか」「早急に対策を立てねば――」「しかしどうする、物資も兵も事足りん――」「避難勧告を出すべきです――」
 彼らに一瞬、視線をめぐらせた使徒は、タルカントに呟いた。
「彼らに神の愛子がいかなるものか教えなさい。こう戦々恐々としていては議題に上げることもできない。知れば恐怖も消えよう」
 タルカントは首肯すると、背をただし、動揺の巡っている男達に正対した。
「民長方、どうかご静粛に」
 その言葉は自信と尊厳に満ち満ちていた。気おされるように、男達は黙る。
「民長方の危惧なさりました通り、我国には既に神の愛子が入国しております」
 無言の動揺が浜に打ち寄せた荒波のように広がった。
 だがタルカントは粛々と言葉を続ける。
「つきましては既に聞き及んでいるとは思いますが、これより神の愛子の子細について私が語らせていただきます。一近衛兵長の分を過ぎた役目をお許し下さい」
 無論、反発も無い。いまやタルカントに向けられる視線にはすがるような意思が会った。
「……神の愛子とは、よく知られているように様々な超人力を与えられた神に愛された子であります。具体的には雨を降らし、火を操り、風をめぐらせ、地を揺らす。そういったものがよく知られております」
 小さく、誰かが「神の愛子か……」とはき捨てるように呟いた。タルカントの胸中に呟いた人の顔が浮かぶ。恐らくは農林畜産を司る民長だろう。天候、天変地異に振り回されねばならない彼らにとっては、その存在は憎々しかろう。
「……双子の第三子で、母体が死んだ、もしくは死ぬ運命にある場合、その子は早産で産まれ、神の愛子として生きることになります」
「タルカント、お前も双子の第三子ではなかったか」
 酷く年老いた――まるで岩が彫像のような――民長が引きつるような声で訊ねた。
「私は早産では生まれず、母は今も生きております。母からの寵愛を受ける子に神は愛を授けません」
 訊ねた老人は浅く、何度か頷いた。完全に納得したか疑わしい頷き方だった。
 タルカントは彼から視線をずらし、続ける。
「神の愛子は数年間、生きながらえた母の手で育てられますが、五歳を迎えるまでに母親は死にます。そして五歳から十四までに試練として万難を課せられ、愛子の周囲の人々はその災厄に巻き込まれ、全て死に絶えます」
 ちらちらと視線が交わされる。「それが『神の愛子』か」と言わんばかりだ。タルカント自信も思う。この運命はあまりにも過酷過ぎる。
「このように危険が広がりすぎる故、多くの親族は神の愛子を殺します。最初の産声を上げる前に口を閉ざし、自然死させれば、母体も生き残り、周囲も巻き込まれません。神は愛子が産まれたことを最初の産声で知るからです。が」
 が、に強くアクセントを置く。民長達の間に張り詰めたものが広がる。
「もし仮にその子が生き残った場合、母体の一族郎党は滅亡し、母親は焼死、産まれた愛子を見ていた者達の目はつぶれ、その親族は死にます。言わば罰です」
 沈黙が部屋に流れ、小さく「恐ろしきかな」と誰かが漏らした。神に対する言葉ではない。
「それで」
 また別の民長が訊ねる。
「我国に侵入した愛子はいかほどの能力を持っているのか、掴んだのだろうな」
「それについてですが――監視に当たっていた者が当の本人に発見され、さらに邪魔が入り……結果的に今どこにいるのかもわかっていません」
 議談室にため息が漏れる。タルカントに対する声無き叱責ではなく、不安の表出だ。いつ自分に万難が降りかかると知れない。まして国家自体が巻き込まれるとなると……。
「何をしても良い。神の愛子が何を望み、何ができるのか掴め」
 使徒が静かに呟いた。



「だから具体的に何ができるのかを言えって!」
 正午、商いを終えた商人と昼休みの肉体労働者でごった返す町外れの酒場。
「お酒が飲めるよ……いっぱい、いっぱいね……」
 その一画、丸テーブルを占拠する目つきの悪い男達の群れの中にモルドーとアリスの姿はあった。
 モルドーは酒を煽りながら
「くだらねぇ嘘は良いから――んぐ――証拠――ぐっ、ぐっ――証拠を見せろ証拠を」
 その飲みっぷりの良さを向かえるように、彼の真正面に座ったアリスは木枠のどでかいジョッキを両手で持って一気にあおり
「いっぱい――ぐむ――いっぱい飲むから」
 ドンッとテーブルに勢いよくコップを叩きつけると、周りを囲んでいた目つきの悪い男達――モルドーの傭兵仲間だ――から拍手喝采が上がった。
 ぐっぷ、と酒臭い息を吐き出すアリスにモルドーは顔をしかめ
「何が神の愛子だ……ただの酔っ払いじゃねぇか」
 と顔を真っ赤にしながら呟いた。対するアリスも白かった頬を桃色に上気させながら
「『ちょっとお酒に酔った』、神の愛子だよ、『ただの』じゃない――おやじぃ、もう一杯!」
「ハイよ」
 カウンターから威勢の良い野太い店主の声が飛んで返ってきた。昼時のてんてこ舞いにもめげずに酒を配り歩いている店員が「はいどうぞ」と流れるような手際でテーブルにどでかいジョッキを置いた。
「おいおい……」
 とモルドーが顔をしかめる。
「俺がおごるのは一杯だけだぞ、ちゃんと払えるんだろうなぁ?」
「あったり前よぉ」
 アリスはローブから腕を突き出し、その細い二の腕を見せ付けた。頼りない。
「なんかとんでもない女を引っ掛けたっぽいじゃねぇスか、兄さん」
 二人の掛け合いをテーブルを囲みながらニヤニヤして見ていた小柄な男が言った。
「兄貴の連れてくる女に当たりはねぇって!」
 と、その横の太っちょが愛嬌のある顔をほころばせ、ゲハゲハ笑う。どっとテーブルに笑いが満ちた。
「こないだなんて『今度こそ良い女だ!』って連れて来たらイチモツついてやがったしな」
 と、髯面の男が続け、さらに場は盛り上がった。
「おいおい、忘れさせてくれよ……」
 モルドーがうんざりとばかりに頭を抱え
「俺ぁ知らずにベッドに誘われてじかに触っちまったんだぜ? ……他人様のモノを」
「どんなでした?」
 と隻眼白目の男が荷やつきながら尋ね、
「……柔けぇの何のって」
 モルドーが手をワキワキさせながら呟き、ドッと大きな笑いが起こった。
 続いて『モルドー哀愁の女難暦』が次々と暴露され、モルドーは苦笑し、アリスは目の端に涙を溜めて笑い続けた。最後にアリスが
「結局何人失敗したの?」
 と訊ね、
「お前を入れて二十人くらい」
「あたしは大当たりじゃん」
「バカ言え」
 とモルドーが締めると一際大きな笑いが起こった。
 その頃になると商人や労働者達は帰り支度と午後の作業のために酒場を出て行っており、残ったのはモルドー・アリスとその取り巻きと数名の閑人だけになっていた。
「ありゃぁん? いいの、仕事行かなくて」
 とぐったりとテーブルにうつ伏せになったアリスが訊ねる。
「あぁん? ここが俺達の仕事場だろ」
「あぁ、傭兵だっけ……」
 ヒック、としゃっくりしながら
「ぼでーがーどね……なんか数が多いけど」
「この国もそろそろ物騒になってきてな」
 とモルドーはタバコを咥える。
「女子供をさらう人さらいの国だって外の国から睨まれてんの」
 と太っちょが続ける。
「さらってんの?」
「まさかまさか」
 髯が苦笑しながら手を振った。
「昔似たような仕事をしたけどよ」
 ぷふぅ、と紫煙を吐き出すモルドー。
「合法の仕事だったぜ。借金のかたに人身御供するんだよ。結構金にはなったがよ、胸糞悪いし、雇い主には睨まれるしで、まとまった金が手に入ったらトンずらしたよ」
 紫煙が白眼の眼前に流れて、彼は迷惑そうにフーと息を吐いて煙を追いやる。
「向こうで吸ってくれねぇかな……。あぁ、その仕事もこの国と関係ないところでやってるから、人さらい国家と呼ばれているのに俺たちは無関係だからな」
「おっちゃんおっちゃん!」
 と太っちょがカウンターの店主に声を掛ける。昼時のてんてこ舞いを何とか切り抜けた店主は「ハイよ」と皿洗いの片手間に答える。
「この国ってなんで人攫いの国なんて呼ばれてんだっけ?」
「さぁねぇ……使徒様がこの国を治められてからしばらくたってから――そうさなぁ、ちょうど国全体が軌道に乗ってから、急に言われるようになったなぁ」
 ため息をつくように「まぁ大方」と続け、
「この国は成り上がりだからね、嫉妬に駆られたか、出るくいを打ったつもりか……」
 他のメンバーがそうであるのと同じく、店主に顔を向けていたモルドーは
 「……だとよ」
 と視線をアリスに移し、
 ぎょっとした。
「使徒」
 先ほどまでぐったりと突っ伏していたアリスが、しっかりと目を吸えてモルドーを見つめていた。赤らんでいた頬も――ある種の獣が危険や攻撃に際して身の色を変えるのと同じように――天使の羽のように真っ白な色に変わっている。
「使徒」
 繰り返す。先ほどまでのいい加減な返答では許さない、と、目が語っている。
「――ぁ、ああ」
 彼女の空気に飲まれた他のメンバーに代わって、モルドーが搾り出すような返事を返した。だが、不意を突かれた彼は『軽口をたたいて会話のイニシアティブをとる』、という自分の話法すら忘れていた。
 豹変に気づいていない店主が、のんびりと皿を洗う。その音だけが店内に響く。
「新興国家」
 ぽそりとアリスが呟く。
「そ、そうだよ!」
 テンポを掴みかねる、というように、太っちょがおどおどしながら答えた。
「十年位前に使徒が地主から奪って――そうだよなおっちゃん!」
 相変わらず気づいていない店主は「んん?」と気のないそぶりで返事を返し、
「あぁ――そうだよ。十二、三年前かな。使徒様がタルカント殿と近衛竜兵隊を引き連れて現れてなぁ――いやぁ、勇猛な戦いぶりだった。胸のすくような戦いぶりとはまさにあの事だ」
 店主の皿洗いの手が止まり、見えない滑空銃を構えるしぐさをした。
「『ッてぇぇぇ――――ッ!!』ってなタルカント殿の号令一下、ズダダダダダン!、って綺麗に一列に並んだ竜兵隊の銃が火を噴くわけよ。するってぇとどうだ、地主に金で雇われてた用兵共がバッタバッタと馬からずり落ちていく――最初の一射で確信したね。あぁこの国は彼らのものになるんだなって」
「幸せ?」
 唐突に、そして不躾にアリスが口を利いた。モルドーはさらにギョッとする。何を言い出すんだこの女は。
 だが店主はそれにことさら気にした様子はなく、昔に思いをはせるように目を静かにつむって
「そうさなぁ、使徒様の教えに忠実に皆で従って、土地を耕し一生懸命働いて、今は随分楽になった。幸せだよ。地主が支配していたとき、ここで今暮らしている連中の半分以上は奴隷だったからね」
 皿を洗い終えると、カウンターの奥にある棚からコップを取り出し、酒樽から酒を注ぐ。
「嬢ちゃんが気に入ってくれたこの地酒が名物になって、細々とはしてるが、それでも生活するには十分な金が外国から入ってくるようになった」
 酒の入ったコップをもって、店主がテーブルに近づき、口を閉ざしている傭兵達に変な顔をしながら、ドン、と酒を置いた。
「はい、お代わりもう一杯っ」
 そこで店主に「おあいそ!」と客から声が掛かる。店主は「あぁ、はいはい」と客の下へ向かい、銀貨と銅貨をいくつか受け取ると、ニコニコしながら礼を言った。
 客は店主の横を抜けると、店の奥にある大きな扉(大きな錠がかけられている)に向かった。立ち止まり、背を正すと、両手を硬く合わせて頭を下げ、何事か呟く。
「あれは」
 アリスが呟くように尋ねる。モルドーは振り返って祈っている客を見、
「あぁ、あれは教義みたいなものだな。『宿り場って』いってな、あの扉の向こうに神が宿るんだと」
「一家に一部屋、そういった開かずの間がある。絶対に開いてはならず、開けたら最後、その家から神は逃げ出し、一族は没落する」
 腕を組んだ髭面がアリスを胡散臭そうに眺めながら言った。
「使徒が住む居城にも同じモンがあるんだとかなんとか――気になるのか?」
 モルドーはだいぶ落ち着きを取り戻してそう尋ねたが、アリスは二度、静かに瞬きするだけで何の反応も見せなかった。
 彼は思わず、つばを飲み込み
「(こいつぁまさし……天使か悪魔か……)」
「元を正せば使徒様の宿り場が先ですよ」
 と店主が再びカウンターへ戻りながら言った。
「使徒様は質素無欲な方だからね。謁見の間も居城にお造りになられたし、とにかく無駄を省いて維持費の削減を望んでおられた」
 彼は椅子に座り、近くにおいてあった新聞を手にして、その文字を追いながら
「だけどその謁見の間をお造りなられた時、一つだけ小さな部屋をお造りになられた。衛士が『なぜ』と問うと、『神が宿られる場所だから』と――使徒様は私達にもそういった部屋を神のために作りなさいと教え導いてくださった。私達はその言葉に追従し、神の宿る部屋を用意し、硬くその扉を閉ざして」
 ガタン
 と、アリスが立ち上がった。
 店主が目をやると、彼女の座っていた椅子がぐらんぐらんと揺れていた。
「酔ったからちょっと散歩してくる」
 周囲の不穏な空気を裂く様に、彼女は真っ直ぐに出口へ向かって歩いていく。
 モルドーの脳裏には全身黒ずくめだった彼女の姿がありありと浮かんでいた。なぜかはわからない。






 望遠レンズに枠切られた景色に写るのは、一面の砂漠の中、長大な銃を肩に乗せ、それにもたれかかる様に座るローブの男。視線はフードに隠されて、その目の見るところは知れず、その思うところはわからず。
「岩か石か樹林の巨木か」
 市城の城壁、その上でタルカントが単眼鏡をのぞいている。
「得体の知れない男だ」
「銃型は照合にかけましたが」
 タルカントの横で同じく単眼鏡を覗くメガネをかけた兵士が言う。
「一致するものがありません……少なくともわれわれの手持ちの情報だけでは。観測兵に見せたところ、口径は二十、全長は人の背丈を拳二つ分越えるほど、肩付けの長距離射撃銃だと」
「二十……全身鉄鎧の騎兵も撃ち殺せるな」
「それから、弾の装填方法に何か特別な仕掛けがあるようです。銃身に不可思議な装置らしきものがあるのがわかりますか? 銃身の中腹に当たる部分です」
 言われたタルカントは下から順に銃を眺めてゆく。銃床、銃床と一体の銃把、守り金のある引き金、銃筒――
「あれか、銃筒後方に陥没が見える」
「そのさらに前身を見てください。『取っ手』がついています」
 視界をさらに上方へ移動させると、なるほど確かに銃身の横から人差し指ほどの長さの取っ手が飛び出している。
「銃筒に取り付けてあることから察するに、銃筒の清掃、銃口のふた付け、新型の装填装置――色々考えられるのではないかと」
「最新型の銃とやらとも違うな……それに」
 タルカントの視線が落ちた。男の足元へずれる。
 歩きやすくするためだろう、ローブは完全に地面につくほど伸びておらず、履いているブーツの中ほどで切られている。ブーツは皮製で、ローブの方の破れや汚れといった経年の傷みに比べ、綺麗なものである。しかし踵や拇指部分の磨り減りは不自然なくらい酷い。
「……あの男従軍の経験があるな……それかよほど手練の旅人なのか……それともあそこでぼうっと座っているのは『そう見せたいから』か」
「朝、観測兵が確認してからずっとあの姿勢です。まるで死んどるようです」
 タルカントは黙り込む。
「(狙撃か夜襲か……いずれにせよ正面から打ち合いたいとは思えん男だ)」
「隊長」
 と、傍らで声がした。ちらりと視線をやると、メガネの兵士に、下級の伝令兵が耳打ちしていた。
「……タルカント殿、急ぎの報です」
 伝令兵を帰した彼は、不可解そうな顔をしながら続けた。
「使徒様の居城に神の愛子が現れ――現在閑談中だと」
 タルカントの表情が歪む。



 使徒の居城。謁見の間。直立不動の兵士達が困惑する中、使徒とその女の会話は随分と盛り上がっていた。
「――なるほど……その男はつまり勘違いをしておったのだな?」
「そうそう! それで結局かぶっちゃったってわけ、紅い洗面器をね」
「はっはっはっ、それはそれは……愉快な男も居るものだ」
 使徒は愉快そうに笑い声をあげ、その正面で用意された椅子に腰掛け、行儀悪く背伸びしながら話すアリスも「でしょ!? でしょ!?」と楽しそうに無邪気な満面の笑みを浮かべている。
「しかし不思議だ。何故そんなものを頭に――」
「落ちないんだよ、なかなかね」
 何か落ちがついたのか、二人はまたワハハと笑いあった。
 気が軋む、ギィィィ――という音が、二人の間に割って入った。続いて
「使徒様!」
 と男の野太い声が室内の空気をびりびりと揺らした。
 ユキサが振り返り、椅子の背もたれに両手をついて覗き込むように見る。
「うわっ、でっかいオッサン」
 でっかいオッサン
 と、呼ばれた彼――タルカントは、ピクリと眉を持ち上げて、彼女をにらみつけた。
「客人の前だ」
 使徒がそれを小さく叱責する。彼は視線をアリスに戻し、
「どうやら急ぎの用のようです。お食事などをご用意いさせましたのでそちらでお休みになっては」
「え? いいの!? やった、なるなる」
 彼女はニコニコと跳ね上がらんばかりに喜ぶと、入室してきた礼兵の後に続いてあっさりと部屋を出て行ってしまった。
 後には二人が残る。
「使徒様、これは一体どういうことです……!?」
 怒鳴らないまでも焦りを込めた強い口調でタルカントは問いただした。
「本人が出向いてきた」
 対し、使徒は冷静に
「これまでの事情を鑑みれば無下に断るわけにもいかぬ」
 タルカントは何か言い募ろうと口を開いたが、しかしまたゆっくりと閉ざした。まったく理解できないわけではなかった。
「ですが……危険極まりない。使徒様の御人望なくしてこの国は立ち行きませぬ。どうか御身を大切に――」
「その人望も勇気ある決断あってこその賜物だ。一概に否定できる行為ではあるまい」
「……彼女は、何故ここに」
「要約すれば、一日の寝食を約束すれば神の力を我国の国益に還元すると」
 タルカントがはっと顔を上げる。
「まさかお受けなさったのですか!?」
 使徒はしばらく黙っていた。冷静に、タルカントの目を見つめ、「……席をはずしてくれ」
 彼はそう呟き周囲の衛士に目を向けた。前例があるからだろうか、衛士達は特に動揺するでもなく、素直にその命に従おうとし
「待て」
 タルカントの呻るような制止に身を固めた。
「――我国防衛に関わる一大事です。皆にもお聞かせ願いたい」
 使徒は静かにタルカントを見返す。
「……この国が独立した一国家として見られていた時代はもはや過ぎた」
 衛士たちが言葉なく、動揺を視線で伝え合う。この場に居て良いものか、使徒が話す内容は、聞けば何か重大事に巻き込まれかねないような恐ろしいものではないのか――
「帝国の思想は深く隣国にまで及び、その魔手は我国にも伸びかねん。我国はいまや、帝国主義かぶれが手を出すにはちょうど良い瑣末な国家であろう。将来の植民地とも」
 お言葉ですが、とタルカントがうなる。
「国家防衛は我々が担っております。例えいかなる苦難が襲い掛かろうとも――」
「お前を中傷するわけではないが、タルカント、我国の軍事力は頼るに足りず――隣国にその半分の勢力で攻め込まれても、満足な防衛は期待できまい」
 タルカントは何か言い募ろうとして、しかし奥歯を噛み締めて耐える。事実だ。確かにこの国は満足な軍事力が蓄えられているとは言いがたい。
「だが帝国主義者たちの主張は決まっている。未発達の国を『肥し』『耕し』『種を植える』ための侵略戦争……体の良い言いわけだが、これを利用しない手は無い。我国が軍事的に未発達ではないことを知らしめれば、その言い訳も成り立たなくなる」
 その意味するところをさとり、タルカントははっとする。
「そのために神の愛子を利用すると!? 軍事的に? 正気ですか、大教義の理に反します!」
「彼女はかかる万難に対して神が使わされた一滴の希望だ。これを見逃せば、我国は一周期を待たずして武力により支配されるだろう――それとも、何か他に策があるか」
 ぐ、とタルカントは言葉を飲み込んだ。
「……しかしあまりにも……あまりに危険すぎます」
「承知しておる……だが」
 と、そこまでで彼は言葉を濁した。
 沈黙し、言葉は続かない。困難を打開するすべを知らず、息を飲み、ただ時が過ぎるのを待つような、そんな穏やかでない気配が漂い始める。




「っ――――!!」
 身もだえしながら、アリスは目前に並べられる食事を眺めていた。
 滑らかに輝く銀の器に載せられているのは香辛料とともに和えられたタコである。その傍らには燻製の肉が薄く切られ、色とりどりの花菜が添えられた金の器が。その周囲を飾り付けるように大小さまざまな器に副菜が載せられている――酢漬けの魚やクリームで煮困られた根菜、甘辛く煮込んだ小魚とこのあたりでは滅多に食べられない生の魚や、牡蠣やアワビの貝類――バスケットにはブドウやオレンジがこれでもかと盛られ、手近の酒盃には色濃い赤紫色をした酒が注がれていた。もちろん、やわらかく長い白パンも用意されている。
「全部いいの!?」
 がらんどうの大食堂――三十人は座れそうな長机と椅子の中、座っているのはアリス一人で、彼女の前にだけ料理が並べられ、さらに彼女のためにだけ使用人が四名もついていた――にアリスのウキウキした声が響く。彼女の横で静々と立っていた使用人の女性は。
「はい、どうぞ」
 と言葉少なに答えた。彼女には「余計なことをしゃべるな」という衛士からの指示が出ている。
 それを良い事に。
 それを良い事にアリスは炸裂した爆弾のように「わっひゃひゃ! ぜぇんぶ喰ってやる!!」と突如叫ぶと、傍らの酒を一気にあおった。空いた片手はフォークに伸ばされ、それはまるで生きているように俊敏な動きで燻製の肉に襲い掛かった。貫かれた肉はカメレオンにでも食われたかのように一瞬のうちにアリスの口に放り込まれ、もごもごとかみ締められる。ドンと机に叩き付けられる空の酒盃。
「次っ!」
 ……次?
 使用人があっけに取られている間に彼女の手は白パンに伸びる。ちぎったりせず、そのまま喰らい付き、まるで口腔内の余剰空間を押しつぶすように口の中に押し込む。
「もごもごご!!」
 アリスがほっぺをパンパンにしながら使用人を見上げ、何か怒鳴る。無論、何を言っているかはわからない。わからないがその迫力は本物である。勤続五周期の彼女がたじろいでしまう。
 が、その横で一人冷静だった男の使用人――実は練兵隊の需品兵(衣食住を担当する部隊)である――が使用人の手から酒の入ったポットを奪い取ると、見事な手際でアリスがわしづかみにしている酒盃に注ぐ。
 アリスはまだ注いでいる途中にかかわらずそれをあおり、パンを酒で押し込む。無論、片手は次の獲物――タコらしい――に伸ばされている。
二本の手をまったく無駄なく使う、高効率な食べ方――こと、ここにおいては品という言葉は用いられるべきではないだろう。それはまったく、無粋というものだ。
 と、思っているのは酒盃に酒を注いだ需品兵の彼である。普段から『飯』と聞くと獣のように目を光らせる兵士たちの相手をしている彼は、彼女の食いっぷりにもはや芸術的なセンスを感じていた。ただ食い散らかすのではなく、短時間でいかに多くの糧食を腹に溜めるか――その究極の答えが彼女にあるような気がしてならない。いや、まったく素晴らしい。こいつホントに女か? 実は付いてるんじゃないのか? 
 彼女の傍らには次々と綺麗に何も乗っていない皿が重ねられていく。既に洗ったかのようにきらきらと光を返している。使用人が目を剥き、需品兵の彼が思う。やはり只者じゃない。付いてるとしか思えない。
「もごごご! もごぉ!」
 何の主張なのか、口いっぱいにいろんなものを頬張ったまま、アリスが咆哮をあげた。
 それは食堂を越えて居館全体に轟き、続いて驚嘆の声を上げた需品兵の彼の声が続き、さらに「おかわり持ってきてぇ!」という悲鳴のような声が――






 夜
 都市を囲む城郭の上から、領外の景色を臨む兵士が二人。
 髭を生やした壮年の男と、まだ少年の幼さを残した若い男。
 若い男が双眼鏡をのぞき、傍らでは壮年の男が手すりにもたれてタバコに火をつけている。
「……ずっとあのまま、石になるまで座ってるんですかね」
 若い男がつぶやく。
 彼の覗く双眼鏡の中では、ローブを着て長大な銃を抱えたあの男が、あいも変わらず同じ姿勢で座っていた。
 壮年の男は質問には答えず、タバコの煙を吸い込むと、ゆっくりと紫煙を吐く。
「あのデカイ銃、なんに使うんでしょう……金属のからくり仕掛けが凄いですよ」
 じじ――と、壮年の男が咥えたタバコの火が、闇夜に揺らぐ。
「ほら、あれに似てますよ。聖戦士オルタドスが使う炎の剣。あの剣に形が似てるんです――」
 そこで若い彼は双眼鏡から目を離した。傍らの壮年の男を非難がましく見て
「聞いてるんですか」
「黙ってろ」
 そこでようやく壮年の男が口を利いた。
「監視対象から目をはなすんじゃねぇよ糞ガキが」
 口の悪い物言いに若い彼はむっとした。しかしその言葉は確かに間違ってはいない。上官から『目を離すな』と命令されれば本当に目を離してはいけないのが軍隊だ。上官の命令は絶対であり、それに反しているのは事実である。
 間違っているのは自分の方だと、しぶしぶながら納得した若い彼は、小さな舌打ちともに双眼鏡をのぞき
「……あれ」
 と弱く、動揺の声を上げた。
 壮年の彼がさっと視線を動かし、若い男を見やる。
 彼は一度、双眼鏡を左右に動かす。続いてもう一度――さらにもう一度――さらにさらにもう一度――――三度目の彼の行為に意味はなく、それはもはや現実を直視したくない、という混乱と畏怖の表れでしかなかった。
 固唾を呑み
「ぁ――いません、あの男がいません」
 壮年の男がバッと身を翻し、砂漠のほうへ――あの男が居た方へ向く。同時に背負っていた滑空中をすばやく両腕にのせ、肩付けに構えて周辺に視線をやる。
 いない
「……馬鹿野郎が!」
 砂漠の滑らかな斜面、それを照らす青白い月の光の下、何の影もない。
 そこに居たという形跡もない。まるで全てが幻であったかのように、整然と自然なままの砂漠が広がっている。
「……おい、糞ガキ。今すぐ監視塔に行って伝令を飛ば」

 ひゅ
 ど

 と、音が続いた。同時に、壮年の男の言葉は途切れ、弾かれたように彼はのけぞって崩れ落ちた。
 若い彼は言葉を失う。なんと声を上げればいいかわからず、ただその背を這い上がってくる、濃密で、虫のような素早さを持つ『恐怖』に身をすくめた。壮年の男は死んでいた。眼球に刀が突き刺さっていた。刃渡り腕の長さ程の僅かに反りを見せる鋭利な刃物が、まるで吸い込まれたかのように眼球を貫き、後頭部を突き抜けていた。
 彼は黙っていた。どうすればいいのかもわからなかった。
 同じ音がし、彼も同じように崩れ落ちた。





「おい、あれ」
 都市と外――つまりは砂漠を――を隔てる城門。それを守る守備塔。
 警備に当たっていた兵士が、外に向かって人差し指を突き出した。近くで同じく警備に当たっていた兵士が、それに気づいて指先に目をやる。
 人影が、ゆらんゆらん――と近づいてきていた。
 それはローブを着ている。陰っていて顔はわからない。その背負った長大な銃だけが異様に目に付く。ブーツが砂をかみ締める「ざっ、ざく、ざっ」という音が、浅葱色に染まった砂漠に染み渡る。
「昼間に聞いた『神の愛子』か――?」
「おいっ! お前、そこで止まれ!!」
 兵士の一人が滑空銃を構える。
 影は止まらない。陽炎のように揺らぎ、次第に近づいてくる。
「ぅ――」
 銃を構えた兵士の胸のうちに、恐怖の芽が顔を出す。
 足音は一歩一歩近づき、止まらない。影は揺らぎ続ける。止まらない。確実に近づいてくる。止まらない。このままずっと止まらず、目の前に来る。そうしたらどうなる、あの男は俺に何をする、あの銃は、ローブの中の顔は――
「観測の連中は何してたんだよ……!」
 傍らで、今ようやく銃を構えたもう片方の兵士が、喉の奥から搾り出すようにつぶやいた。既に構えていた兵士は城門のほうへ首をやり、
「伝兵! 伝兵を呼べ! タルカント殿に今すぐ伝えろ――」
 
 どっ

 それは音ではなかった。空気そのものがはたかれた様な『衝撃』だった。
 直後に城門に「ばきゃ」という音と共に鉛球が叩き込まれ、同時にバケツからぶちまけたような勢いで鮮血が付着した。怒鳴っていた兵士が倒れる。
 傍らでそれを見ていた兵士は、口を何度か意味なく開閉した後、
「ぁ――ぅ、ぁ、撃たれたぞぉ!」
 とようやくそれだけ言って、同時に滑空銃の引き金を引いた。銃声と黒煙が上がり、銃口の先にある遠くの砂が舞い上がった。人影は揺らいでいた。
 影はまったく自然な動きで片膝をついた。

 どっ

 一発だけ撃ったその兵士は次弾を装填しようとした姿勢のまま頭蓋を吹き飛ばされた。脳髄をぶちまけ、城門にもたれかかると、へたり込むように砂漠に腰を下ろす。下あごだけだ。上あごより上は何もない。全て綺麗に吹き飛ばされている。
「敵襲っ! 敵襲ぅッ!」
 誰か、気の利いた兵士が怒鳴り、警鐘を鳴らしたがそれもすぐに止んだ。警鐘に覆いかぶさるように『どっ』という衝撃が飛んできたからだ。気の利いた兵士も死んでしまった。
 どこかで怒声と悲鳴、人の足音が連なるが

どっ

どっ

どっ

どっ

どっ


 その『衝撃』がまるで時を刻んでいるかのように何度も続いた。その度に怒声も悲鳴も足音も小さくなり、最後には何も音がしなくなった。
 しばらくの沈黙の後、ブーツが砂をかみ締める「ざっ、ざく、ざっ」という音が城門に向かっていった。





 
「あはーん……さいこぉ……」
 と、薄靄の上がる大浴場で嬌声を上げるのは、先ほど喰うだけ食って厨房を窮地に陥れたアリスその人である。
今穏やかな表情で湯船につかる彼女は、あれだけ喰ったにもかかわらずスレンダーなその腹をぽんぽんと叩きながら
「三日は食べなくていいね……いやいや、食べれるなら食べるけどね」
 と誰も居ないどこかに向かって語りかけている。
「喰って風呂入って、寝るっ――人生最高の贅沢ねぇ……」
 しなやかな腕を湯船からゆっくりと上げる。湯水がざぁ、と滴り、黄金色の光をきらきらと跳ね返す。
「あとは寝るだけ――」
 ぺたり、と腕は顔に乗せられた。傷もあらも無い、シルクの布地のような頬に、雫が滴る。薄い唇が水の潤いを湛えている。
 そうして彼女は立ち上がる。
 ざざぁ、と水が全身を伝い、湯船に落ちる。手先足先、胸の先から落ちた雫が、ぽたぽたと奥行きのある静寂に響き渡った。
「そういうわけにはいかないか」
 彼女のその小さな小さな呟きは、雫の滴る音にすらまぎれた。





 舞台は酒場に戻る。
 夜の酒場は薄暗い。雰囲気をかもし出しているのだ。際立って明るいのはカウンターくらいで、それ以外は申し訳程度のろうそくが二、三本おかれているだけだ。
 その暗さにまぎれるように、ローブを着た男が一人、片隅に座っている。フードは深くかぶり、顔は見えない。店主がとりあえず差し出した酒も、テーブルの上におかれているだけで手がつけられていない。その背に背負った長大な銃だけが、そこに存在していることをやけに主張していた。
「怪しいなぁ……旅のモンだよなありゃぁ」
 カウンターの明るい席から肩肘を突いてそれを眺めているのはモルドーである。彼は髭を撫ぜながら、目を細める。
「あのでかい銃は何なんだ」
 とその傍らで酒をあおる隻眼の男。
「どっかの『戦争用の銃』だろ。あんなモン、部屋ん中で振り回すにはでか過ぎる。ありゃ素人だ」
 モルドーも酒をちびちびとあおる。
「なんにせよ、目はつけとかないといかんがな」
「昼間の女といい、今日は厄日ですかね」
 と、横で興味津々に男を眺めている小柄な男が言った。モルドーは小さくうなり、
「そういやあの女結局帰ってこなかったな」
「でも荷物はありますから、きっと帰ってくるつもりなんですよ」
「どうだかな。女はわからんぜ……」
 と、そこで店の扉が勢いよく開かれた。客の目が一斉にそちらに飛ぶ。
「まずいまずいっ、まずいって!」
 と慌てふためいて飛び込んできたのはあの太っちょである。
「……静かにしろ」
 モルドーがあきれたように言い、周囲へ向けて手を広げた。太っちょはそれで周囲に客が居ることに気が付き、周りにペコペコしながらモルドーの元に寄った。
「西の城門が襲撃されたって、今伝令が使徒の居城に向かって飛んでった」
「あぁん?」
 モルドーが不可解そうに顔をゆがめる。
「つまり誰かが押し入ったって事だな」
 と隻眼がぼそぼそとつぶやく。
「しかも一人だって、襲ってきたのは」
「なんだそりゃ。城門管理の連中は素人以下か、野党が何百人もかかってきたならいざ知らず……」
「もしかしたら」
 隻眼が声をさらに潜める。
「神の愛子……?」
 モルドーの視線が自然とあさっての方向へ向いた。囲んでいた連中も同じ方へ目をやる。
 無言で酒を前にして、身動きひとつしないローブの男。
「あれは神の愛子というより」
 静かに洗い物をしていた店主がつぶやく。
「悪魔の稚児、にみえますな」
「悪魔の稚児?」
 と小柄な男。
 モルドーがローブの男をしっかりと見据えながら
「長男長女でありながら、母親からの愛情に飢え、父親からの悪意に晒され、他人からの荒淫を受けた子は悪魔からの誘いを受ける――だったか」
 つぶやく。店主がうなずき、
「誘いを受けた子は了解の証として、男なら女装をし、女なら男装をします。すると闇夜に彼らは流麗な異性へと姿を変えてゆき、夜にだけ魔人の力を振るう赤眼の低級悪魔となるとか」
「りゅーれいって?」
 と小柄な男。隻眼の男があきれながら
「美人ってことだよ」
「男にも使うのか?」
「いいから黙ってろよ」
「完全に異性に変わるまでに」
 店主が二人の会話に話を上乗せする。
「荒淫の相手の血をすすり、父親の腕を切り落とし、母親の心臓を砕けば、晴れて悪魔から能力を与えられ、悪魔の稚児となるのです」
「切り落とすだの砕くだの、物騒な話だ」
 とモルドー。その視線は変わらず、じっとローブの男に向けられている。
「悪魔の稚児は神の愛子のライバルって所でしょうな。なんでも、神から愛される『愛子』への嫉妬に狂い、『愛子』を殺す衝動に駆られる、とかなんとか」
「確かにそれっぽいなぁ、あの男」
 と太っちょがつぶやき、目を見開いた。
 モルドーが小さくうなり、隻眼が腰を上げ、小柄な男が「あ」と声を上げた。
 ローブの男が立ち上がったのだ。
 それ自体は別段おかしなことではないが、何せ男の背負うオーラは異常だし、店に入ってからは一度も口を利かず、身動きもしなかったのだ。自然と目が追う。
 彼は顔を上げ、ぴたりと止まる。顔を元に戻すと、機械的な動きで店の奥にある『宿り場』に顔を向けた。
 ゆらん、と歩を進める。
 その歩き方はまるで幻視のようだった。陽炎のように、不規則に、しかし自然に揺らぐ。
 壁一面を覆うような扉、拳大の錠が取り付けられた扉の前に、たどり着き
「おっと」
 その胸をカウンターから駆けつけたモルドーが押しとどめた。ローブの男の揺らぎが止まる。
「何するつもりだ、あぁん?」
 ローブの男は答えない。フードの下から見える口元も一切動かない。
 モルドーは少し意外に思う。思った以上に若いようだ。
「……この扉は色々と訳ありでな、勝手のわからん旅のモンに弄られると」
 そこで言葉が途切れる。ぱ、とローブの男がモルドーの手を払ったのだ。
 が、まるで流れるような動作でモルドーはそのまま腰の拳銃を引き抜き
「――――困るんだよ」
 その銃口を、ローブの男の胸に向けた。
 各所から席を立つ音が響く。
 客たちが小さく困惑の声をあげる中、隻眼を筆頭として例の傭兵たちが銃や剣を手にして立ち上がっていた。じりじりとローブの男と距離を縮める。
「なぁ、悪いこた言わん。元の席に戻って一杯やれよ。もう一杯くらいなら俺が奢ってやる。そっちの方が身の為だ、そうだろ?」
 モルドーの言葉に、ローブの男は無言で返す。まるで彼だけ空間が切り取られているかのように、ピクリとすら動かない。呼吸の気配すらない。
「(……何なんだこの野郎は)」
 モルドーは表情に出さず、困惑する。
「(人間――じゃない……?)」
 ゆらん、とローブの男が揺らいだ。
 はっとしてモルドーが銃を構えなおす。ローブの男は真横を向いていた。
「……そうだ、それでいいんだよ。そのまままっすぐ向かって、カウンターで一杯やれ」

 ローブが床に落ちた。
 
 同時に鉄がこすれるような鈍い音がモルドーの手元から響き、床に何かが転がった。
 モルドーの勘が鋭い判断を下す。彼は迷うことなく拳銃の引き金を引く――
 ――引こうとする。が、できなかった。引き金に置かれていた人差し指が無い。床に転がっていた。
「……っ」
 モルドーが視線を上げる。ローブの男――ローブを着ていた男を見る。
 若い。だが老いている。若さの中に壮年の奥深さを感じさせるのは男の顔の半分が焼けただれ、乱暴に包帯が巻かれているからか、その口が呪詛の言葉をつぶやき続けているからか。
 濃紺の戦闘服に麻のベスト、その上から皮の防具を体に巻きつけ、首にも対刃用の皮ベルトが巻かれている。太ももに中折れ式二連装拳銃が一丁、腰裏に刀鞘が二本×型に交差して差し込まれ、一本は鞘に収められたまま、一本は右手に握られ
 それをぶん投げた
 ひゅど
 刀は回転しながら空気を切り裂き、吸い込まれるように隻眼の男の片目に突き刺さった。声も上げずに壁へ向かって後ずさり、倒れこむ。
 重なる銃声
 刀が当たったことも確認せずに、男は太ももの二連装拳銃を右手で引き抜いていた。
 真横でブロードソードに手をかけていたモルドーに無造作な一発
 左正面で拳銃を構えていた小柄な男へ一発
 弾丸はそれぞれ胸と右眉の上に突き刺さり、血と脳漿を撒き散らす。
「らぁぁぁぁああああ――!!」
 男の元へ駆けて急接近した髭面が、ブロードソードを振り下ろす。が、男はやはり目も向けずにもう片方の刀を逆手に引き抜き、上方から襲ってくるそれを受け止めた。
「ぐ」
 髭面に次の一手を考えさせる間もなく
 男の右手から拳銃が落ち、空になった手が飛ぶ、狙いの先は髭面の咽喉
「んっ」
 つかみ、ひねり、へし折る
 ぎゅぎ、と音がする
 髭面の体から力が抜ける
 銃声
 男の顔がはじかれたように横を向く。
 髭面が床に落ちた後、男はゆっくりと顔を正面に戻す。顎に弾丸が突き刺さり、血と引き裂かれた肉、砕けた骨が見え、血がぼたぼたと滴っている。
「――はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
 と呼吸を荒くして黒煙の上がる拳銃を構えているのは最後に残った太っちょである。彼の放った弾丸は見事に男の顎を砕いたのである。
 男には痛がったそぶりも無かった。彼は瞬時に身をかがめ上半身が床と平行になる。
 三連装式の太っちょの銃がまた一発を発射する。が、荒々しい発砲音むなしく、男のかがめた背の上を掠めるだけ。
 左足を軸に、男の体が回転する。竜巻のようなそれと共に、手近にあったテーブルが蹴り飛ばされ、太っちょへと襲い掛かる。
「わっ」
 と太っちょは身をかがめ、同時に銃の引き金を引く。飛んできたテーブルに穴が開く。それだけ。
 テーブルの影から疾走してきた男が音も無く飛び掛かる。
「うぅッ――!?」
 体ごと突っ込んできた男の手により、太っちょの体に刀が差し込まれる。股間から心臓部へ向け、縦に。
 抉り、引き抜く
 大量の血を噴出しながら、太っちょが床に倒れこむ。
 黒い染みのにじむ木製の床に、鮮血が染みこんでいく。

 全てを終えるのに五秒かからなかった

 客たちは言葉を失い、沈黙し、店主は唖然として突っ立っている。傭兵達のほとんどは即死し、唯一モルドーだけが僅かに手を動かしていたが、それも心臓を撃ち抜かれた今では風前の灯だった。
 静かになるとわかる。男は何か、低い声でぼそぼそとつぶやいている。呪文か呪詛か。それがぴたりと止むと、僅かに動いていたモルドーの手も動きを止めた。
 男は刀を振るう。血ぶりだ。刀の血沿い溝に沿って血が床に「ぴ」と振り落とされる。
 ゆっくりと歩き、隻眼の男の目に突き刺さった刀を引き抜く。
 同じく血振り。両刀とも腰の鞘に差し込んで戻した。
 ゆらん、と歩く。男が歩む先の客が、はじかれたように席を立って後ずさる。
 床に落ちているに連装の拳銃を拾う。中折れ式のそれを折り、ベストの胸に差し込んであった連込め用のマガジンを手に取り、さっと薬室に紙実包を送り込んだ。太もものホルスターに戻す。
 床に落ちたローブを着込み――紐で前を縛るものだったが、縛り方に特徴があり、左右に少し強く引っ張ればすぐに脱げるようになっている――テーブルに立てかけてあった長大な銃を手に取った。
 奥の扉へ正対する。
 長大な銃を構え、視線の先にある扉へ向け
「やめてくれ!」
 店主の声を押しつぶすように引き金を引いた。
 銃声が轟く。腹に来る衝撃。白い煙と閃光が上がり、客たちが悲鳴を上げる。
 直径親指ほどの大きさの鉛球が、扉を守っていた錠を叩き潰す。



 『宿り場』の静寂は蹴り破られた。まどろむような動きで、影が――ローブの男が足を踏み入れる。
 光は無い。暗い。闇色。明かりも無ければ装飾品も無い。ただ棺の置かれるような石室が広がるだけだ。
 影は顔を上げる。ゆっくりと、ゆっくりと、噛み締めるように辺りを見渡す。
 音も無く空気を吸い上げる。包帯の奥にある鼻ひくつく。
 全身の力を抜くように、息を口から吐き出した。



 宿り場から男が出てくる。
「神はどこだ」
 口を利いた。
 底の見えない地の裂け目から吹き出る風のような、重低音。声とも音とも付かないそれに、周囲の誰もが口を閉ざした。答えを持たないからもある。だが何より、返事をすれば命を吸い取られるのではないか、という疑念が、彼らの胸中を駆け巡ったのが大きい。
 沈黙の時が流れる。
「――何が」
 店主がそう小さくつぶやいたのは随分と時間がたってからだった。
「何が神だバカ野郎がッ!」
 カウンターの下から口径の大きな、太い銃を取り出すと腰だめに構えて怒鳴った。
「開けやがった――開けやがったな! もう終わりだ、俺は終わりだ!」
 ローブの男は顔だけをゆっくりと向ける。フードをかぶり、またもその顔は見えなくなっていた。
「使徒様の教えに背いた! よくも、よくもよくも……!! 全て守ってきたのに、何一つもらさず守ってきたのに、全部、全部お前が――」
「神はどこだ」
 ぼそぼそと、つぶやく。歩み寄る。
「来るな!」
 店主は怒鳴る。近寄ってくる男へ向けて、引き金を絞る。
「出て行け、さっさと出て行け!!」
 男は止まらなかった。ゆらんゆらんとした歩みではなく、しっかりとした足取りで確実に距離をつめる。
 ついにはカウンター越しに向かい合うまでに至る。
 店主の呼吸が荒くなる。ふぅふぅと、息苦しそうに肩を怒らせ、脂汗をながし、顔を高潮させる。
「神は」
「うるさいッ!!」
 店主が引き金にかけた指に力をかけ、ローブの男は右腕を振るった。その手は銃を下からやさしく持ち上げ、その銃口を天井へ向けた。
 発砲音
 天井に拳大の穴が穿たれ、木屑が落ちて来て、ローブの男は左手首に巻いた包帯の下から仕込みナイフを取り出し、店主の胸に突き刺した。

 ど

 えぐり、引き抜く

「ぁぁ――」
 絶望に打ちひしがれた小さな声が店主の口から漏れた。びゅる、と勢いよく血が創口から噴出し、男のローブを汚した。
 店主は胸を押さえてへたり込む。まだ生きているが、自分がもはや死ぬことを悟っていて、「どうすればいいのかわからない」という表情をしていた。
 男はナイフに付いた血をローブでぬぐった。手首に戻す。
「使徒」
 そしてつぶやく。
 顔をあげ
「使徒……?」
 その傍らで身動きもできなかった客の一人が震え始める。
「使徒はどこだ」
「…………居城に」
 たずねられ、喉の奥から押し出すように答える。
 ローブの男はその客に顔を向けると、静かに頭を下げ、あっけにとられている客たちの視線を尻目に、部屋の端にあったバックを手にし、出口へ向かった。






 居城の隣ではオレンジの火の手が上がっていた。
 庭師が場内の土地を手入れするのに使う機材。それをしまう木製の小屋が燃えているのだ。煌々と夜をオレンジに染め、慌てふためいて周囲を走り回る兵士と使用人たちを明るく照らす。
 衛士の一人が配下の兵士たちに向かって怒鳴る。
「水を集めろ! いいかまだかけるなよ――かけるなっつってんだろ馬鹿!」
 昼間、タルカントと最新式の銃について語り合っていた衛士だ。コップに汲んだ水を(その僅かな量にかかわらず)一生懸命小屋にぶちまけていた衛士をひっぱたく。
「あわてるんじゃないッ、火事ごときで慌ておって――使徒様に申し訳が立たんぞ!」
 さらに各所で各班の衛士達が指示と怒声を続けて上げる。
「小屋をつぶすぞ、引っ掻き棒を持って来い!」
「この水どこに運べばいいんです!? ここじゃないのか!?」
「城内を混乱させるな、大声出すな、悲鳴なんて上げるんじゃ――おい、そこ騒ぐんじゃないって言ってるだろ!」
「衛兵様、衛兵様!」
 混乱する現場に、一人の使用人が遠くから駆けて来る。
「あぁ!? なんです、どうされた!?」
 指示を飛ばしていた責任者らしき衛士に駆け寄ると、息も切れ切れに語りかける。
「手近の井戸が壊れていて、水が集められません」
「なにぃ?」
 衛士は唇を噛む。
「大事な時に動かんとは――もうどこからでもいい、集められるだけ集めろ!」
「それが……」
 若い女の使用人はほとほと困りきったように
「桶が無いんです」
 衛士は一瞬きょとんとした後に
「は、オケ?」
「こんな感じです」
 使用人の彼女は両手に抱えていた木枠の桶を衛士に掲げて見せた。
 一見何の変哲も無い桶に見えたが、くるりと回転させると桶の底が抜けていて、向こう側から使用人の女が眉尻を下げて覗き返していた。
「どうしましょう?」
 訊ねられる。



 一方城内でも衛士や使用人たちは走り回っていた。
 ある廊下などでは、二人の衛士がかち合い、駆け足しながら
「タルカント殿はどこだ!? 使徒様が危ない!!」
「わからん! だが何故タルカント殿が謀反を!?」
「は? 何を呆けた事を言ってるんだ、こんな時こそ落ち着け! 賊が侵入してきたんだぞ!」
「何? いや待て、私はタルカント殿が竜兵隊を率いて急襲してきたと聞いたぞ――もう第二騎兵隊は奇襲にあって手遅れだと」
「な? は!? 一体何を言ってるんだお前は!」
「お前こそ何をいい加減なことを!」
 と大騒ぎし、またある廊下では使用人達が集まって
「お食事はどこにお持ちすればよいのでしょうか?」
「使徒様のお部屋と聞きましたが……」
「あら、私は兵舎の方へ慰労としてもって行けと」
「兵舎の方は私達の班が清掃を仰せ仕ってますが……」
「ん? それではこれはどこに……?」
「兵舎ではなくて衛士の方では?」
「そういえば衛士達が騒がしいですね、見てまいりましょう」
 などとのんびり話し合い、またまたある厨房ではコック達が手際よく料理を仕上げ、手伝い人が走り回る中、
「黒ソース無いって言ってた奴誰だ!? 持って来たぞっ」
「おい! 誰か黒ソース持って来たって! ――海鮮はどうしたの海鮮は?」
「海鮮? 昼に来たあの女が全部喰っちまっただろ」
「追加で注文したって聞きましたけど、すぐに来るって。それで使徒様の夜のお食事に出せって使用人頭が……」
「使徒様が海鮮なんか食うわけねぇだろ馬鹿! なにすっとぼけてやがる」
「あれ? 俺もそれ聞いた覚えあるわ」
「は?」
「ほらぁ、ね?」
「でも俺、燻製肉の方を出せってのを聞いたような」
「はぁ? おいおい……ちょっと落ち着けよお前らぁ、夜中に駆り出されて寝ぼけてんのはわかるけどさぁ」
「そういやなんでこんな時間に料理作ってるんでしょうね僕たち」
「だ、はぁ? だから使徒様の夜のお食事だろ、二度目の」
「え、本当に? しまったぁ、さっき使用人に兵士の慰労だって言われてホワイトスープ出しちまった」
「待てよ、なんでホワイトスープなんて作ってんだ?」
「いやいや、アンタさっきメモで俺に伝えたでしょう、ホワイトスープとポワゾンで煮込めって……」
「メモなんて出してないぞ俺は!」
「で結局海鮮なのか燻製なのかはっきりしてくださいよ!」
「黒ソース頼んだ奴誰だよッ!!」
 と怒鳴り合いを演じ、またまたまた、タルカントの部屋では、なんと剣と銃を構えた兵士が扉を蹴破って突入してきており、粗末なベッドで寝ていたタルカントが飛び起きて、
「何だ! 何事だ!?」
 と怒鳴ると、飛び込んできた兵士達も明らかに寝起き顔のタルカントに困惑して顔を見合わせ
「……いえ、その、タルカント殿が謀反を起こしたと」
 タルカントはその驚いた顔を思いっきりゆがめて
「何……? なんだと?」
「その……あ、誤報だったようですね」
 しばらく黙った後、タルカントがゆがませた顔を憤怒の表情に変える。怒鳴り声を上げようとした瞬間、
「タルカント殿!」
 とまた別の兵士が飛び込んできて
「賊が侵入して使徒様のお命を――うわ、何だこれ!」
 と部屋の惨状に驚き、すぐにそれが部屋の中で困惑の表情を浮かべる完全装備の兵士達の仕業と見ると
「……まさか、貴様らぁッ!」
 と剣を抜く。
「待てっ! 待て違う!! 賊じゃない!!」
「タルカント殿ぉ!」
 と、その修羅場にまたまた別の兵士が飛び込んできて
「外の小屋に火が放たれました! 現在近衛三班、が、逃げた犯、人らしき、男を追って……?」
 と部屋の異様な雰囲気に唖然とし、口をパクパクさせた後、その後ろから
「タルカント殿」
 と穏やかな声と共に老齢の使用人が食事カートを押して来て
「こちらにお食事を運べと拝命いたしまして……しかしあまり夜遅くにお食事を取るのはお体に触りますが故……あら」
 と辺りを見渡して目をしぱしぱさせた。
「……お部屋間違えましたかしら」
 飛び込んできた兵士が
「……あの、いえ、この部屋で合ってます」
 向かいで羽交い絞めにされている兵士が暴れまわって拘束を跳ね除け
「何をぬけぬけとキサマァ!」
「うわぁバカやめろ! 止め――のわぁ?」
「お食事はこちらに置いておいてよろしいでしょうか?」
 使用人がおたおたして尋ねると、先ほどからずっとうつむいたまま震えていたタルカントの我慢の糸が『ブツッ』と千切れた。
 地を揺るがすかのような怒りの咆哮が居城中を駆け巡る。



 怒声と混乱にまみれる城内の中庭を、一人の女が悠々と歩く。山吹色の髪を結わい、赤い紐で縛った耳際の髪を長くたらす。スラリとした鼻立ちに薄く色づいた唇、桃色に染まる頬、二重に湛えられた大きな瞳は鮮やかな蒼海色――アリスだ。
 彼女は周囲の混乱を「しししし」とニヤついて一笑に伏す。
 その足で吊り上げ橋へ――城内と城外を結ぶ唯一の出入り口だ。正門が構えられ、その向かいに鎖でつった橋が上げられている――と向かう。
 近くまで寄ると辺りを見渡し、何かを探す。そして視線が止まる。
 その先にあるのは吊り上げ橋の操作室だ。正門のすぐ傍らにあり、二名の常備警備兵が周辺の浮き足立った様相にそわそわしながらも警備についている。おそらく平常時はもっと多くの人員が配置されているのだろうが、さまざまな情報が錯綜している現状、必要最低限の人員を残し、他は全て奔走しているのだろう。
 結構なことだ。とアリスは思った。
 再び彼女は視線をめぐらす。ふと、重そうな装備を着たまま息を切らして走っている色白の若い兵士を見つけると、ニヤリ、と底意地の悪そうな――しかし無邪気な――笑みを浮かべた。
 一方見つめられているとは知らず、正確な情報を掴もうと走り回っている色白で若い兵士の方は、なかなか掴めないこの混乱の正体にひどく焦っていた。自分が何をすればいいかもさっぱりわからず、小隊の隊長もどこかに行ったきり戻ってこない。
「衛士様! 衛士様」
 と、切羽詰った女の声に呼び止められた時、彼は心のどこかで「もう何でもいいから走らなくていい理由をくれ」と思っており、気が楽なるような感覚と共に振り返った。
 山吹色の後ろで結わう、小柄な女が居た。その表情には不安が満ち満ちており、彼女の両手は祈るように硬く結ばれている。
「どうなされました!?」
 周囲の喧騒に負けないよう、大きな声で問いかける。女はびくびくしながら自分の後ろを指差し
「あそこで兵隊さんが怪我を――誰かに刺されたみたいで――」
 彼女は不安げに声を絞り出す。
 彼は指差されたほうを見る。植林の影だ。
「刺された……!?」
 彼の背筋をさっと冷たいものが駆け抜けていく。周囲の喧騒、錯綜する情報、その中には「賊」「襲撃された」といった言葉がちらほら散見していたのを思い出す。そして戻ってこない小隊長――――
「案内してください、急いで!」
 怯えて身をちぢこめ、震えている女の手を引き、彼は植林の影へ駆ける。
 綺麗に植樹されている木の枝葉を手で振り払い、中へ飛び込む。月の光もかがり火も届かないそこは、陰っていて、暗い。闇色で、何も無い。
「負傷兵は――負傷兵はどこです!?」
 と彼は女に振り返り
 ど――と、抱きつかれる。
 いや、抱きつかれたと、『思った』。だが実際には女の手が彼の背に回されているということは無く、その手は彼女の腰の前で握られている。手の内に握られているのは彼女が腹のベルトに差し込んでいた短刀である。
 女は耳身元でささやく。
「あなた」
 つまり刺されたのだ。
 若い衛士がそれに気がつくのには数十秒の時を必要とし、気がついたときには腹から大量の血が流れ、女の振るった短刀の柄でこめかみ後方を殴りつけられていた。意識は闇色一色に染め上げられる。
 彼女は彼を背負い、引きずる。鎧を着ていてその重さは並の人間のそれではないが、彼女は平然と歩く。
 そのまま木陰を抜ける。相変わらず走り回る、怒声と悲鳴を上げている衛士と使用人たちの間を抜け、その足は吊り上げ橋操作室に向かう。
「助けてくださいっ!」
 中に入ると、まるでたった今ままでそうであったかのように、彼女は息を荒くし、頬を紅く高潮させ、弱弱しく崩れ落ちた。
彼女の叫びを聞いた警備兵二人(中年と口元に髭を生やした若者だ)は振り返り、その様相に慌てて彼女の元により
「どうなさいました!?」
 と崩れ落ちた彼女を支え、その背に背負われている兵士を仰向けに転がした。
「あっ!」
 と中年の方が声を上げる。彼は手を見つめていて、その手は床に転がした兵士の血で染め上げられている。
「さっき……はぁ、はぁ、さっき、木陰で倒れてて……」
 息も絶え絶えに、彼女がつぶやくと、中年は表情を固くし、若者へ顔を向ける。
「――おい、こいつを医療隊に運べ。俺はここを守る。タルカント殿にこの事をお伝えしろ」
「了解」
 若者は気絶している兵士を背負うと、足早に部屋を出て行った。
 中年は息を小さく吐き、床でまだへたり込んでいる女にしゃがんで視線を合わせ
「大丈夫ですか、私はここを死守しなければなりませ」
 銃口を向けられた。
 中年は声も上げなかった。しまったという胸中も口にしなかった。目の前の子供じみた女がニヤついているを見て、いまさらながらにこの女が噂になっていた「使徒さまに迎え入れられた神の愛子」だったと気がつく。「やはり、タルカント殿の危惧は――」と小さくつぶやき、黙り込んだ。
 女――アリスはその柔らかな唇にしなやかな人差し指を沿え「しぃ――」とささやく。彼女が手にしているのは両手持ち・短銃身の近距離突発戦を想定した銃で、その親指大の銃口からは散弾が飛び出す仕掛けだ。この至近距離で撃たれたら、頭蓋が爆発するような勢いで吹き飛ばされるだろう。
「お手伝いをしてくれたら」
 と彼女は謳うように軽やかに語る。
「お駄賃をあげる。生き残りたいでしょう? 人間って、死を意識するから生きてられるもんね」
 中年の肩が小刻みに振るえている。無表情に、感情は語らず。だが、肩は震えている。



 ローブの男の足元に、一人の衛士が血を喉から噴出して倒れた。
 その傍らには胸から血を流し、ぴくぴくと痙攣している衛士が、その横では側頭部を砕かれた衛士が、その横では手首を切り落とされてうめく衛士が、その横には……その横には……
 城門前、吊り上げ橋前の光景である。地面に伏す衛士たちを尻目に、ローブの男が突っ立っている。
 幾人もの門兵を静かに、音も無く無力化した彼は、歩を進め、その目前の堀を見つめた。外敵を寄せ付けないためのオーソドックな堀だ。
 城門に向かうためのつり橋は上げられている。城内に入るための手段はここしかない。
 ローブの影から、血がぼとぼとと音を立てて堀に大粒の雫をたらし、その水面に濁った波紋を立てる。
 と、巨木と巨木が擦れて軋む耳障りな音があたりに響き渡る。
 男が顔を上げると、吊り橋がゆっくりと下がってきていた。最後は乱暴に、大きな音を立てて男の前に橋が下りる。
 男は黙って眼前を見つめていた。風が吹き、ローブがゆれ、顔の半分を覆い隠す。視線だけになる。
 城門が軋みながらゆっくりと開く。
「やっほ、ファイ」
 と、声をかけたのは、開け放たれた城門の向こうに立っていたアリスだった。
 ローブの男――ファイは歩を進める。木製の橋に硬いブーツの踵に当たって小気味よい音を立てる。その後を、片手に引きずっていたどでかいバックパックがずりずりと続く。
 アリスはニコニコしながら
「後でお肉分けてあげるね、お酒もだよ、ここのお酒おいしいよ、特別な味がするんだ、いっぱいいっぱい食べようね――――わっ」
 無邪気にはしゃぐ彼女の胸元へ、バックパックを投げてよこした。アリスがもろに抱き込んでしまい、しりもちをつく。
「いったいなぁ……」
 ファイはそれにかまわなかった。片手に持っていた長大な銃を、両手に携える。銃口の先には銃剣が取り付けられ、どす黒い血が滴っていた。
 正面を見据える。
 アリスがその視線を追い


「構ぇぇぇえええ――ッ!!」
 横一列に並ぶ竜兵隊――滑空銃を構えて膝射の姿勢。その前には怒声を上げるタルカント。
 続く怒声は空気を切り裂く。
「ッッッてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――ッ!!」


「まずっ」
 アリスが地面を蹴ってその場を逃れる。
 竜兵隊は問答無用でぶっ放した。
 炸裂音が連なる。一斉に弾丸が放たれる。闇夜に黒煙が上がり、放たれた弾丸が空気を切り裂いてファイに襲い掛かる。
 彼のローブにいくつもの穴が開く。同時に血が一斉に背中から吹き出し、彼の背後にどす黒い血の痕が広がった。
「うわわっ、いたそ」
 操作室に身を隠したアリスが呟く。
 地面にぶちまけられた彼の血はおびただしい。砂砂利の地面に血だまりができるほど。
 「あーあーあー……」と呟きながら彼女は視線を竜兵隊へ。軍事教本に取り上げられそうなくらい見事な二列の縦列横隊が組まれている。
「(あの混乱の中でいつの間に部隊編成したのかしらね――――あぁ、そゆ事)」
 いつの間にか、周囲を駆けずり回っていた兵士や使用人たちの姿が極端に減っている。
「(途中から『慌てたように振舞っている兵士』を『配置』してたのか――とらっぷ、だ。いつ欺瞞情報に気がついたのかな? ――にしても)」
 ファイの様子を喰らいつく様な目で窺っているタルカント。
「(勘の働く男もいるもんね。ただの人間にしちゃよくやるよ)」
「ファイ! 大丈夫!?」
 アリスが声をかける。ぼたぼたと血を落とす彼の姿は、誰がどう見ても大丈夫そうには見えない。
 が、ファイはまるでそれに答えるかのように、俊敏な動作で抱えていた銃を肩付けに構えた。
 銃口先につめていた埃よけの紙筒を千切り捨て、ベストのわき腹についている長方形のポケットから薬包――火薬と弾丸が紙筒でくるまれたものだ――を取り出し、長大な銃の薬室に押し込み、ボルト――銃身横に飛び出していたあの取っ手だ――を引いて装填する。これを流れるような動作で一秒と掛からずに終え、タルカントが次弾装填を配下の兵士へ命ずる前に引き金を引いた。
 

 ど


 音ではなく衝撃。上がる白煙。引き裂かれるような悲鳴が轟き、タルカントの背後で四人の兵士たちが血を撒き散らして倒れた。
「(一発で――!?)」
 タルカントは一瞬背後を振り返り、奥歯を噛み締め
「(いやただの散弾だッ――恐るるならばはその生命力! 発射の瞬発力! だがッ)」
「次弾装填ッ!!」
 タルカントは撃たれてもまったく動揺しない兵士達への信頼を携えて命令する。兵士達は乱れることも無く冷静に、素早く、次弾を銃身へ叩き込む。
「(数に劣るあの男に勝利は無い! 例え神の力で不死身であろうと、血を失い、四肢を失い頭を失えば、もはや生ける屍! 手練の兵を背にして、神の愛子恐れるに足りずッ)」
 

 ど


 装填中の兵士がまた三名倒れる。だが兵士達は乱れない。次弾装填を終えると精確に狙いをつける。
「腹を狙えッ、血を奪い、奴の動きを止めろッ!!」
 一斉射、連続して炸裂音が弾け、ファイの身体を貫通する。が、彼は膝射の姿勢を崩さず、引き金を引いて返して来て
 

 ど


 また五人、脱落する。
「(――速い)」
 敵の次弾装填から発射への間隔が短く、次弾発射が速い。根本的に装填に掛かる手間に差がありすぎる。
「次で決めるぞッ!! 全員着剣だ! 一斉射後に突撃、押し倒し、四肢を切断しろッ!!」
 これ以上撃たせるわけにはいかない。こちら側の発射のチャンスが相手と比べて圧倒的に少なすぎる。これ以上脱落すれば数的優位も崩壊する。
 神の愛子を――敵をにらみつける。
 チャンスを窺う、眼球は微動だにせず、一挙手一動の細部まで、全てを見通せ――――
 敵が引き金に指をかけた。
「――ッ!! ッてえええええええええええ!!」
 竜兵隊が一斉発射
 響く銃声、上がる黒煙、空気を切り裂く音、肉を切り裂く音、血が撒き散らされる音、


 ど

 撃ち返される、二名が崩れ落ちる、タルカントの肩が血しぶきを上げる
 構っている暇はない
「  突  撃  ぃ  ッ  !!」
 腰の剣を引き抜き、駆ける
 着剣した滑空中を構え、竜兵たちが雄たけびと共に後に続く、雄たけびがその地を揺るがす
「……」
 ファイはやはり血にまみれながらも無言で、しかし動作には一部の隙もなかった。
 両手に銃を構え、駆ける――――突撃してくる
「(一人で――!?)」
 駆けるタルカントが一瞬ひるむ。竜兵たちも一瞬だけ、躊躇する
 一人で何をする気だ
「(神の愛子の力か――!?)」
 タルカントははっとする
「とらわれるな! 張ったりだ!」
 集団の虚を突き、勢いを殺ぐ――奴の目的はそれだ
 確信する
「(一縷の望みを我々が油断する事に賭けたか――! だが神の愛子ッ 貴様の負けだ!!)」
 タルカントの口元に獰猛な笑みが張り付く。雄たけびを、隊の中でももっとも勇猛な、腹の底からの怒声を上げる
「(敵に期待した時点で兵法者としての貴様の命運は尽きた! 神の愛も、ここで、潰えろッ!!)」
 部隊 対 一人
 衝突する
 混戦する、先に敵を突いたのはファイ、部隊の正面を切るタルカントへ向けて伸び上がるような刺突を繰り出し、しかしタルカントは上半身を横に一瞬動かして避ける、その後ろで竜兵が流れてきたその刺突を避けられずに胸に一撃を受ける、死ぬ、タルカントが剣の刺突を繰り出す、が、ファイは長銃を取り落とし――いや、捨てる、身軽になった彼は身をそらし、突きを紙一重で避ける、そのまま腰から剣を抜く、身を起こしながら竜兵隊三名による一斉の突きに応じる、一つを逆手に握った剣でいなし、一つを掻い潜って使い手を突き殺し、一つをもろに足に受けた

 バランスを崩す

「引き倒せ!」
 タルカントが飛び掛る、その後ろから竜兵達も飛び掛る、ファイが崩れ落ちる、馬乗りになったタルカントが逆手に構えた剣を振りかぶり、その切っ先をファイの胸へ――振り下ろす――

 発砲音

 タルカントの剣が金属同士のぶつかる激しい音を立てて折れた、根元から千切れて吹き飛ぶ、音のほうを見る、物陰から短銃を構えるアリスの姿
「ちぃ、はずしたぁ」
 彼女はそう舌を打ち鳴らし、タルカントは怒りに燃え、しかし彼女に構っている暇はない、タルカントの首にファイの左足が巻きつく、とっさの事にタルカントは油断し、そのままファイが身を転がしてマウントを取り返すのを許してしまう、だいぶ数の減った竜兵達はその間にファイを何度も突き刺すが、どれも中途半端で浅く、ファイから戦闘能力を奪うには至らない、身を起こしたファイは片手に持った剣を両手に構え、低く横一閃、振りぬく、二人の竜兵が片足を切り取られ、後方へ倒れる、が、その間に別の竜兵がファイの上方から逆刃に握った細身のサーベルで首へと襲い掛かる、ファイは体勢を整える間もなく上方へ飛び上がる――頭突きだ、上方から襲い掛かっていた兵士は鼻先に固い頭蓋骨のカウンターを受け、もんどりうって倒れる、振り下ろしたサーベルは首に突き刺さる、が、頚動脈を突き破るには至らない
 立ち上がり、振り返り、
 刀を振りぬく
 獣のように
 土にまみれて
 血を浴びて
 悲鳴を受け止め
 だが声も上げずに
 表情もなく

「(これが)」
 タルカントは間隙の一瞬、思う
「(これが『神に愛された子』の姿か――?)」
 また、悲鳴と血しぶきが舞った。
 



 地面に突き刺さっていた刀を引き抜き、血振りをし、鞘に戻す。
 死体の群れに囲まれながら、自らもまた血を垂れ流して、ファイは歩を進める。刀と同じく地面に突き刺さっていた長大な銃を引き抜き、携える。
 今頃になってようやく体制を立て直した他の隊の兵士達が彼を囲むが、しかし何もしない。固唾を飲み、ファイの行く先に合わせて、じりじりとその囲いをといていくだけだ。
 ファイは腹から垂れ下がっていた臓腑を手で引きちぎると、そのまま地面に捨てしまう。ぼで、と赤黒い塊が湯気を立てて地に伏した。骨が見えるほど切り裂かれた腕にベストから取り出した包帯を結びつけ、強く縛る。血がにじみ、またポタポタと雫が滴った。
 立ち止まる。
 取り囲む兵士達が身構える。怯えようとも彼らは兵士であり、怯えてなお戦おうとするから兵士である。
 ファイはしゃがみ、膝元に手をやった。抉られ、骨の髄まで削られたそこに、刀を当て木代わりに押し付けると、包帯で固定する。立ち上がると、不自然に足を引きずって歩いた。
 取り囲んでいた兵士の胸中に自然と浮かぶ。
 痛いのか
 足取りが不安定になると、途端に弱々しく見える。顔は見えないが、その呼吸が荒いのをいまさらながらに気づく。誰も語らず、だが誰しもが確信した。この男は苦しんでいる。
 だからこそ余計に足がすくんだ。あれほどの傷を受けて死なず、そしてそれが苦痛であるにもかかわらず、まだ歩くか、まだ進むのか、なぜ進む、なぜ歩く――――羨望とも畏怖ともつかない、兵士としての感動が彼らの足をくじいた。
「何を……何をしてるッ……!」
 その『怠慢』をとがめる声が、死体の群れの中から弱々しく届いた。
「囲み、斬れ……! 押し倒し、四肢を断ち切り、首を討ち取れ……何をしている!?」
 ざく、と銃剣が死体の群れに突き立てられ、立ち上がったのは、腹を裂かれたタルカント。目を震えるほど見開き、血走らせ、口元は血にまみれ、叫ぶ口からはどす黒く染められた歯がむき出しなりながら
「使徒様を守れ……ッ 何のためにそこにいる!? 戦え、戦え!」
 兵士達に動揺が走る。だが誰も動かない。誰しもが戦わねばならぬと思いつつも、ぼろ切れのようになりながらも歩みを止めないファイを前にして、それは無駄なのではという思いに囚われる。
「なぜ、なぜ、なぜ……なぜ……戦え、戦え、斬れ、斬れ、打ち倒せ……!!」
 タルカントは呪詛のように言葉を繰り返し、自らも喀血しながら、銃剣を構える。
「恐怖に打ち勝て……! 戦わぬ兵士など、戦わぬ兵士など……!!」
 しかし動かない。誰しもが動けない。ファイの歩む先を、迎えるように囲みを解いてしまう。使徒のいる居城内に迎え入れてしまう。それを咎めるのは、タルカントただ一人。
「このゴミクズ共がぁ…………!!」
 血と共に叫び、ついに彼は走り出した。腰だめに銃剣を構え、ただ一人で突進する。
「愛子ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおお………………!!」
 ファイは振り返らなかった。歩みも揺るがず、剣も抜かず。
 その背に飛び掛るように、タルカントの突進は止まらない。
 だが兵士達がそれを見る目は絶望的だった。タルカントのそれは突進というよりは助走に近かった。勇猛さは失われず、口元を血で濡らすその様は壮絶であるが、哀れなほど滑稽だった。
 その足がもつれる
 崩れ落ちる
 倒れこみ、再び空へ向けて喀血、ぱっと花開くように夜空に舞う。空を見舞い、
「使徒様……あぁ、使徒様……奪われてしまう」
 顔を歪ませ、涙を浮かべて嘆く
「私達の国が――守るべき正義が――奪われる、壊される、無くなってしまう――」
 子供のように泣きじゃくり、嗚咽を漏らし、喉に詰まる血にむせながら
「誰か、誰か、守ってくれ……! 無くさないでぇ、創り上げたのに……何もない所から、この手で……」
 その無様な様を、目を細めて見つめていた兵士が、傍らの部下に呟く。
「使徒様は」
 傍らの兵士も震えながら
「『宿り場』に御座います」
「……タルカント殿に療兵を」
「使徒様は――」
 問われた彼は、タルカントを見つめながら、呟く。
「あきらめろ」



 謁見の間の扉がゆっくりと開く。暗い部屋には天窓から蒼い月の光が差し、玉座代わりの漆塗りの椅子が、その光をやわらかく跳ね返している。
 ファイは静かにその部屋に歩を進める。
 月の光がさえぎられた影の部分。闇の空間。ぶるぶると震えた。空気が揺れ、影がうごめき、

――我が子を殺すか――
 
 声が響いた。ささやく様な、かすれた声。老人のようであり、若者の声とも取れる、無個性で複雑な音の重なりだった。

――ぁぁ……恐ろしきかな、恐ろしきかな、『無』の二つ神の子か――

 ファイは歩みを止めない。片足を引きずり、遅くはあるが、決して立ち止まらず、その声もまるで聞こえていないよう。

――何もない、何もない……空虚な生がにおう……奪い、奪われる、その様に義はなく、意味はない……人であって人にあらず、不死の子は何もない子、誰でもない子――

 ファイは玉座の前の低い柵を静かに倒し、玉座に近寄る。月の光の下に立ち、その背に影を背負う。

――全てを無に帰し、有を無に帰し、あぁ――何を思う、何を、思う? そこにあるのはただただ『無』であるのに……何も生まず何も育まぬそこで、自らの不死もまた、憎悪し、万難を排す逞しきその生でもってして死を求め、自らもまた平坦なそこで何を思う?――

 長大な銃を振り上げる。銃床を下にし、勢いよく振り落とす。叩きつれる先は扉――椅子の背後に佇んでいた巨大な扉。『宿り場』と呼ばれたその扉の封を砕く。
 宿り場の奥へ、暗いその場所へ光が差し込む。

――殺す、殺すか、殺すのか、それもまた由あり、縁あり、無もまたあり……愛子よ愛子よ、振り返らぬか、ならばそれもまた自然なり、しかし忘れじ、忘れられぬよ、そなたもまた、神に愛されたに過ぎぬただ人の子であり――

 「離せぇ!」と、謁見の間の外から声がし、さらに制止の声が後を追うように響いた。弱々しく駆ける音がし、謁見の間に滑空銃を杖にしたタルカントが現れる。
「愛子ぉ! どこだ!? 奪わせぬ、俺の国、俺が守る!!」
「タルカント殿!」
 と療兵が彼の元に駆け寄り、肩を抱えて引っ張る。だがタルカントの身体はビクともせず、僅かに治療を終えたに過ぎないその身体にみなぎる力で、歩を前に進めようとする。

――私もまた、人の『信頼』なしには育まぬ存在だろう、私は『信頼』――人が神と呼ぶその存在か、私は『信頼』の神、忘れるな、そなたが今殺すのは、『信頼』の神の子だ――

 暗い部屋の中、ファイは銃を構える。その男へ銃口を向け、男が震える悲鳴を、小さくあげたその瞬間、



 銃声を耳にしたタルカントはハッと息を飲んだ。
「使徒様!?」
 悲鳴のような声を上げる。
「使徒様!!」
 腹から再び血が滴った。
「タルカント殿、死んでしまいます!」
 療兵が怒鳴って制止するが、それが耳に入らないのか、タルカントは「使徒様! 使徒様!!」と何度も何度も叫んで、前に進もうとする。
 その声が止まる。息を飲む。
 療兵が顔を上げる、呆然とするタルカントの視線を追う。
 玉座の後ろから、白い影が現れた。
 ふるふると震え、二、三歩歩くとビクッと痙攣して床に倒れこんだ。まるで亡者のように白い肌をした女――少女だ。全裸で、体中に痣があり、やせこけていて――
さらにその後ろから、また白い人影が現れる。よく見るそれは少年だった。十四、五の少年が、病的までに白い肌を露出しながら――全裸で――ふらついて現れる。同じく、力を失って倒れる。玉座の手すりにしたたか鼻を打ちつけたが、それに反応せず、まるで死んだかのように仰向けになって動かない。
 さらにその背後から、今度ははいつくばった人が出てくる。同じく裸で、今度は少女。年の頃十に満たない少女が、皮と骨だけになった指を床に食い込ませ、這いずって出てくる。その後ろから何事か泣き喚く女が出てくる。やはり若い。まだ成人に至らない全裸の女。狂ったように泣き叫び、床に崩れ落ち、身を転がす。身体には無数の痣が走っていた。
 次から次へと、少年少女達が出てくる。『宿り場』からの『脱出者達』だった。
「とぉ!」
 呆然としているタルカントの前に、ドサッとアリスが上方から現れた。天窓から飛び降りてきたようだ。あたりを見渡し、よろめく少年少女達を見つけると。
「あらあらん。どういう事これ?」
 タルカントは怒鳴る気力もない。何がおきているのかもわからず、口を閉ざす。
 アリスは彼にかまうことなく、ひょいひょいと病人のように真っ白な彼らを避けると、玉座の向こう、『宿り場』へ向かった。
 部屋の中をのぞき込む。
「……わぉ」
 陰惨な光景が広がる。
 壁には囚人を立ったまま吊るすための手錠、そこにずらりと壁を覆うようにつながれた少年少女達、床には手足を拘束された少女が転がり、身動きもせず、正面の壁には美少年が身体に無数の痕を――床にたくさん転がっている得物を見るとそれはどうやら鞭で叩きつけられたことでできた傷のようだった――残してぐったりとしており、部屋の隅には幾何学的な方向へ手足を屈折させた人間がまとめて放置され、またある壁の隅では胸が焼け爛れた女が一人、その横にはいかがわしい刺青の入れられた少年が一人――――
「つまりここは」
 と、部屋の中央に突っ立っているファイに向けて、アリスが尋ねた。
「『宿り場』じゃなくて『盛り場』だったってオチ?」
 ファイは答えなかった。
 振り返る。その口に手を運び、握っていたそれを口に咥える。
「あらあら」
 とアリスは呟いた。彼の足元には全裸の男が――部屋の中で唯一、彼だけは健康的な褐色肌をしていて、老齢だった――力なく伏していた。アリスが近づき、うつ伏せになったその顔を持ち上げる。
「……ディナーとお風呂、ご馳走様。やっぱり聖人君子って色々溜まるんだね」
 頭蓋の一部が吹き飛ばされた彼の顔には、眼球がなかった。抉り取られていて、
「……」
 ファイはそれを飲み込んだ。
「使徒様……?」
 いつの間にか、宿り場の入り口にタルカントが立っていた。目を見開き、わなわなと震え、しかしそれは使徒を殺したファイに向けられてのものではない。
「なぜ……使徒様、使徒様これは……」
 ファイはその彼の横を通り、部屋を出て行く。その背を追ったアリスが思い出したように
「そういえば酒場の傭兵さん達が言ってたね」
 タルカントへ目を流し
「この国は『若い男女をさらう』『人攫い国家』って呼ばれてるって」
 タルカントが膝をつく。頭を抱える。
 『宿り場』を見て言葉を失っていた療兵が慌てて彼のそばによった。「お気を確かに」と背に手をやり、彼は油断していた。
 タルカントの手が彼に伸びる。療兵は太ももに護身用の拳銃をつっていた
 療兵がはっとする、しかし遅きに失する

 謁見の間を出て行くファイとアリスの後方で銃声が響く。療兵の「タルカント殿ぉ!!」という叫びが聞こえた。彼らは足を止めなかった。部屋を出て行った。







 朝になれば、人々はささやき合う。
「タルカント殿が――」「使徒様は乱心なされた――」「若い女子供を部屋に閉じ込めて――」「隣国の話はうそじゃなかったのか――」「俺達ぁだまされてたのか――」「そんなことよりどうするんだこれから――」「攻め込まれるのか――」「近衛兵たちはどうするつもりなんだ――」「もはや長達は夜逃げの準備を――」
 小さな集合体である巨大なささやきの喧騒の中を、ローブを引きずってファイが歩いている。
 彼の足は人群れを外れて裏通りへ向かい、喧騒から僅かに離れた暗い道へ――昼間、アリスがモルドーとであった場所だ――に吸い込まれるように向かう。
「――『ここに至り神はその存在にあらず。存在と存在の間にある有無の境の存在なり。始まりの神が二つの無の神であり、二つでなけれなしように、神は存在ではなく、その存立の認識なり』」
 暗がりの端で、老いた商人がが薄手の布地を地面に敷いて、商品を広げていた。
 彼はふっと顔を上げ、ファイにうっすらと笑いかけた――長く蓄えた髯、熟れ過ぎたいちぢくの様に顔中に走る皺、片目がつぶれ、もう片方の目も細く、ざっくばらんに生えた眉に隠れていて――砂漠でファイに礼を述べていたあの老人だった。
「『人は神にあらず。然るに人に神は宿る。神を知るのはただ人のみ。恐ろしきかな獣は神を知らず、敬意を払わず、さればこそ無邪気に命を奪う。人は時に生れ落ちし時、神を忘れし時、獣なり。』――――神学者というのは選民意識でもあるのでしょうか。気取った事を言うものです」
 ファイは黙って語る老人を見下ろしている。老人は喉の奥から小さな呼気を吐き出す――はっきりと笑った。
「いつから気づいてた……俺は不自然に見えたか?」
 低く、かすれるような声を出す。柔らかさが立ち消え、ぎすぎすとした、こすれあうほどに傷つけられるような声だった。
「……」
 ファイは答えず、黙って老人の前にある商品を眺めていた。その目は死んだように光を宿していない。
「……ここに住む連中はこの国を『新興国家』だと思い込んでいたようだがそれは間違いだ。この国は危険思想を孕んだ『宗教組織』だよ。わかるだろ、『使徒様』とやらが右を向けば右を向き、左を向けば左を向く。組織運営が画一的に過ぎる。揺らぎのない国家は俺達にとって危険だ」
「鉛を二百、薬包を二十」
 ファイがぼそぼそと呟いた。老人はしばらく彼を見つめた後、視線を静かに商品に落とした。そこにある滑空銃用の鉛と火薬の包みに手を伸ばす。
「それでも俺達は連中を力で潰そうとはしなかった。共存・共栄が俺達にとっては最良の選択だからな。放っておいたし、砂漠のど真ん中で交易の中心都市の役割を担うのにも一役買ってやった。だが人間は人間だ――――神を忘れた時、確かに人は獣になる」
 木箱を取り出し、そこに慎重に火薬の包みを並べる。整然と紙包がならべられる。
「――ある日『使徒様』が急に神がかりの発言をし始めた。『宿り場』発言だよ。それまで神の使いは名乗っても具像的な神の名を出したりはしなかった奴が急に神の存在を語りだした。裏があるってのはよくわかったよ」
 木箱を閉じる。次はザルに入った鉛の塊に手を出す。
「あの時奴は確かに、神を忘れた。他人の国にならず者を差し向けてはまだ年端も行かないガキどもをさらって行く――そういうことにも何の罪悪感も抱かなくなったのも、あの頃からだろうな。最初はさらって来たガキをスパイだの何だのに教育しようとしたらしいが、上手くいかなくなったら処理に困り、挙句には――見ただろ? あのザマだ」
 ザルに紐をかけ、はかりのフックにかける。目盛りを眺めながら
「あんたのおかげで助かったよ。仕事が楽になった。獣を屠殺するのに罪の意識は感じないが、暴れる獣の首を掻くのはそれなりに重労働だからな。どす黒い命が消える間際に振りまく、あの醜い様を見るのは腹にたまる物がある――そうだろ?」
 鉛を紙袋に放り込み、木箱を丁寧に紙と麻紐で包みながら
「神の愛子、俺は神を忘れないが、時に獣のように人を殺す。それは神に愛されたあんたですら同じのようだ」
 二つを片手に握ると、彼は無造作にそれをファイの前に差し出した。
「安心したよ」
 ファイはしかし、それに手を伸ばさなかった。いつの間にか視線は、商品から老人に移っていた。
「――サービスしといたぜ。俺からのお礼だ。ぜんぜん足りないがね」
 ファイはゆっくりと、手を伸ばした。紙袋を掴む。くしゃ、と、握ったところがつぶれた。
「最後に教えてくれよ……あんたは神を忘れたあの男に天罰を下したのか、それとも、奴が神だから――」
「ファイ!」
 と、遠くから女の黄色い声が聞こえた。
「ファァァイ! ちょっとぉ、もぉどこいったのぉ? お酒いっぱい買ったよぉ? ねぇ、一緒に飲もうよ、食べようよ、お腹すいたよぉ、二人で食べないと、ほんとにお腹いっぱいにならないんだよぉ」
 アリスの声だった。老人はクックと喉の奥で笑い――その様はまさしく『悪人』のそれだった――ささやくように言った。
「いいぜ、行けよ。俺はここでせせこましく人間の分をわきまえて身を犠牲にするさ。間もなくこの国は俺達の力で亡ぶ。今時情報戦なんて珍しくもないだろう? あんたは神を殺し、俺は人として這いつくばって尽力する。不公平だが、仕方ない――あんたはそうだ――神に愛されているんだから――――」
 彼の言葉が終わらないうちに、ファイはその言葉に背を向けていた。静かにローブが揺れ、暗がりから姿を消した。遠くでアリスの弾ける様なうれしそうな声が響き、老人は小さく笑った。




 四日後



「もはやこの国に正義なし! 神は存在せず、人としての一片の情もない! 全てを無に帰すときが来た!」
 城門前に集まった群衆。その正面に設置された木製の台の上で男が腕を振り声を張り上げて雄弁を振るっている。彼が叫べば群衆は白熱し、腕を振るえば「そうだそうだぁ!」「いいぞもっとやれ!」と賛同の声が上がる。いよいよ男は勢いに乗り、さらなる怒声を張り上げる。
「城を奪え! 自由と真の平和を! 嘘のない国家を! さぁ取り戻すぞ!!」
 うぉぉぉぉ! と群集が大波のように揺れ歓声を上げる。
 その人群れの端で、一人の老人が冷静に全体の様を眺めているのには誰も気がついていない。時折彼が、台の上で雄弁を振るう男と目を合わせてうなずきあうのにも、気がつかない。哀れなことだった。
 その彼の背に足音が止まった。
「すみません」
 群衆の上げる歓声の中、その声はひどく小さかったが、美しい声の質のおかげで、老人の耳にはすんなりと届いた。彼は振り返る。
 黒い宝玉のように美しい長髪を風に揺らす女がいた。ローブを羽織り、軽い近接用装備に身を固め、腰には長物の刀が携えられている。
 一見して旅の者と見抜いた老人は、年相応のかすれたような声で
「ぉぉ、どうなされた」
 とたずねる。女はうっすらと笑みを浮かべ――眉が力強く、瞳が柔らかな薄茶色だ――薄い唇を動かす。
「ここに長い銃を持った不死身の男と、よく笑う嘘ばかりつく女が来ませんでしたか?」
 老人は笑みを浮かべたまま、しばらく黙った。
「……いやぁ、とんと思いつかんですなぁ。時間が経てば思い出すかもしれませぬ、どうです、そこで少し酒でも」
 女は首をかしげて困ったように笑うと、首を振った。
「急ぎの用ですので、これで――ありがとうございます」
 彼女は振り返り、老人に背を向ける。歩き出す。老人はその背に視線をやっていた。僅かに目を細め、そこに何かを見出そうとする。
 一方女はその視線を知ってかしらずか、女は厳しい表情で自身のつま先を見つめていた。口元をしっかりと閉め、目を見開いていた。
 ふと、彼女の姿が建物の影に入る。


 彼女の目が真っ赤に染まる――暗闇の中で、ぎらぎらと輝きを放った。




2008/02/12(Tue)01:37:48 公開 / 無関心ネコ
■この作品の著作権は無関心ネコさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
お久しぶりの方もいらっしゃいますと思います。無関心ネコです。前回「種まく人は語らない」という話を投稿していましたが、品評を受け、ストーリー構成自体に疑問を抱いたので思い切って改変してみました。前作をご存知の方は「ぜんぜん違うじゃん」と思われるでしょうが、僕もそう思います(笑)。ですが、根底にある部分は同じですので、あまり深く考えずにお願いします。批判、感想お待ちしています。返事は感想でお返しします。
2008/02/18・題名改訂
      一部修正

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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