『戦蝶恋記』 ... ジャンル:時代・歴史 恋愛小説
作者:日永 菜帆                

     あらすじ・作品紹介
 戦国時代も佳境に入った頃、美濃国の一の姫である帰蝶は父の命で「うつけ」と有名な織田信長に嫁ぐことが決まった。先の合戦の決着がつかなかったため、同盟の証にと両国の姫を輿入れさせることになったのだ。しかし、帰蝶には思い人がいた。ずっとずっと……小さい頃から慕っている。彼、明智十兵衛光秀も複雑な心境だった。姫の婚儀は両国の平穏をもたらすと判っていても、やりきれない思いがある。そして決めた。この想いを伝えよう。もう、傍に居られないのだから。叶わない、それでもいい。歴史恋物語。

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 天文十七、神無月に入りまぶしい黄色が山を包み込む季節となった。
 美濃の国は平穏を取り戻しつつある。
 先の合戦で敵国、尾張の織田信秀と激戦した末に同盟を結んだ。その証として両国の姫を輿入れさせることとなった。信秀の嫡子に斉藤道三の娘を、道三に信秀の娘を輿入れさせるという形によって収拾がつき、輿入れは新年を迎えたふた月後と早々に決められた。現在、城内は僅かにいろめきたっている。
 
 斉藤家の当主、道三が家督を嫡男に譲って隠居をしたのはひと月ほど前だ。先の戦で上尾張と不可侵の同盟を結び、ひと段落ついての隠居だった。隠居先は稲葉山の麓に流れる奈賀良川の対岸に建つ鷺山城だ。
 そして今、この鷺山城には翌年輿入れが決まっている姫が一人、紅葉をひとつひとつ丁寧に拾っていた。長く美しい垂髪に藤の衣を着て、年は十と五。この城の名から「鷺山殿」と呼ばれている。傍には真面目で端整な顔立ちの明智十兵衛光秀が、どれくらい拾うのだろうと言いたげな様子で従っていた。彼は姫の幼なじみだった。
 見上げる空は青く澄んで見事な秋晴れだった。
「……帰蝶様」
「なに?」
 十兵衛は紅葉を拾う手を休めて立ち上がった。
「今日は織田信秀殿の姫君、葵様が輿入れてきます。帰蝶様もそろそろ戻った方がいいでしょう。義龍殿からの言付けもありますし」
「……もうちょっとだけ」
 十兵衛が黙ると帰蝶は紅葉をくるりと回してふっと息をついた。
「ここで暮らせるのもあと少しなんだもの。来年はもう来られない」
 短い沈黙の末に十兵衛が折れた。
 帰蝶が頻繁にここへ来ているのなら、止めた。けれども、輿入れが決まった頃から庭へ来る日数が減り、今では少ない時で月に数えるくらいしか庭へと来ていないのだ。
 帰蝶も時間を見つけては足を運ぶ。大事があるときに心を落ちつかせるため。また、ここへ来れば十兵衛に会えるから。彼はきっと毎日毎日訪れているはずだ。自分が来るのを待ってくれているのでは、そんな事を思うと心が弾んだ。
「……分かりました。あと少しだけ」
 十兵衛は困ったように笑った。
「ありがと」
 帰蝶は微かに笑うことができた。
 その顔を見た十兵衛は、ずき、と胸が疼くのを感じたがそっと奥に押しつぶした。
 十兵衛は美濃の土岐一族、明智光綱の嫡子として生まれ、戦で父を亡くしてから十九年の間叔父の光安に育てられた。土岐氏は前美濃の守護であっったが、今では道三にその地位を追われ、未だに勢力の衰えることのない地に移り住んだときく。これが下克上の慣わしなのだろう。強い者が上の者を倒してその地位を掴み取る。十兵衛は土岐氏の傍系にあたる家系だが、父、叔父は道三に忠誠を誓っていた。もちろん十兵衛もそうだ。
 帰蝶の生母である小見の方は光綱の妹で、十兵衛は帰蝶の従兄妹にあたる。城へ上がった頃から年が近いせいかよき幼馴染みとして遊んでいた、というよりは引きずり回されていた気がする。帰蝶は十兵衛が思いえがいていた姫君の姿とは打って変っていた。悪く言えばお転婆で、部屋の中でじっとしている性格ではない。遊ぶ場所はいつも城内の庭が多かったのを記憶している。今になっては取り戻したい過去のひと時だ。
 あの姫がじきに輿入れなど本当のところ十兵衛は実感がなかった。いつも傍にいるのは紛れもなく自分で、姫を一番良く知っているのは自分だと思う。最近そう思うようになったのかもしれない。自惚れだった。
 他国に嫁ぐことを一度も考えなかった訳ではなかった。
 帰蝶は姫なのだ。主君である道三の一の姫。家臣の自分がどうこう言える立場ではないのも百も承知だ。
「十兵衛ぼおっとしてるけど……どうかしたの?」
 帰蝶が心配そうにのぞきこんだ。
 長いまつげが頬に影を落とし、急に幼さが抜けて大人に近づいた姫の顔。ほっそりとした輪郭に沿って髪が流れている。
 あどけない顔をされると時折、抱きしめたくなる。
 ぐっと胸の中で拳を握り何度も自分を叩いた。
 それ以上は何も思うなと自分を厳しく叱り続けるしかできない。
 無事に輿入れできればいいのだ、そうしたらこんな思いから解放される。
 でも、会えなくなるのは寂しい。そう、とても寂しいのだ。こうやって帰蝶と、この庭で会えなくなる事が堪らなく辛い。過ぎ去っていく日々が初めて憎いと思った。
 そんな思いに耐えかねたように、思わず口から零れ落ちる。
「いつ……」
 帰ってくるのですか。
「え……?」
 風音にその声は消されて帰蝶の耳に届くことはなかった。しかし、物言いたげな目はしっかりと帰蝶と繋がっていた。帰蝶も反らそうとはしなかった。
 視界の端に紅葉が風に運ばれて遠くへと飛んでいくのが垣間見える。
「こんな所にいたのか、帰蝶」
 振り返ると、縁に義龍が困った顔をして立っていた。少し息を切らしている。
 十兵衛は叔父が「義龍様は持病が悪化なさっている」と呟いていたのを思い出した。
 義龍は、胸の病を患っている。
「兄上様……」
 帰蝶は呆然と異母兄を見上げた。十兵衛はさっと片膝をついて臣下の礼を取る。
 六つ程年の離れた兄、斉藤義龍は父の跡継ぎだ。
 母は側室、三芳野である。正室の子ではなかったため、家督を継ぐには諍いが続いた。正室の小見の方から帰蝶が生まれ弟達が生まれると更に肩身が狭くなってしまい、帰蝶は幼い頃から兄に多少の後ろめたさを感じていた。周囲の反応が義龍に冷たかったせいでもある。
 でも、兄は兄だ。読み書きを教えてくれたり一緒に遊んでくれたりと、たった一人の兄だと思っている。血は半分しか繋がっていなくとも正室と側室の子という立場もなしで好きだった。三芳野は優しい女性で、時々菓子持って遊びに行く事さえあった。
 でも、父は兄のことを憎んでいる。そして兄も父を憎んでいた。
 兄は土岐頼芸と三芳野の子だという噂が城内で未だに囁かれている。道三もそれを否定しようともしなかったために信じている臣下も多い。その噂を逆用して道三は土岐氏の家臣団を組み込んだことも、信憑性を帯びる結果となってしまった。噂が立ったのは、ちょうど三芳野が懐妊した頃だったと人づてに聞いたことがある。
 三芳野は土岐頼芸にも道三にも気にいられており、どちらの子かわからなかったからだ。道三に嫁いでから懐妊するまでの期間が短かったためらしい。
 けれど、噂は噂だ。
 現在兄は家督を継ぎ、稲葉山城主だ。四日程前から鷺山城に滞在している。
「まったく、心配したぞ」
「ごめんなさい」
 帰蝶が傍に行く寸前、義龍と十兵衛の目が合った。義龍は帰蝶に見せたこともない冷酷な目線を十兵衛に送り、動くことを許さなかった。十兵衛は黙って頭を垂れる。
 義龍は幼少の頃から十兵衛を目の敵にしていた。
 帰蝶が十兵衛と庭を散策しそろそろ部屋に戻ろうとした頃に、政を終え自身の雑務を片付けた義龍が帰蝶の安否を確かめにやってくる。最初は疑問に思う十兵衛だったが、幾日か経つと義龍が現れる前に自分の屋敷へと帰って行く事を決め、以来義龍とは数えるほどしか会っていない。それは義龍が婚儀を上げ家督を継ぎ、稲葉山城から道三が鷺山城に隠居するまでつづいていた。道三にはその妻と子、そして古参の家臣団が従った。
 帰蝶の持っている高価な打掛や扇は殆ど義龍から贈られたもので、帰蝶が今着ているのもそうだった。京から特別に取り寄せたものなの、と前に帰蝶から教えてもらったのだ。
「兄上様、葵様はもういらっしゃいましたか?」
 義龍は強張った顔を笑い顔に戻すと帰蝶に歩き出すよう促した。



 第一章『葵』


 道三に寄り添うように座っていても、葵は意志の強い目をしていた。
 それは額に眉を寄せて瞳をきつくしているのではなく、自分の内に宿る意志強さを表している。
 美濃と尾張が手を結んだと言っても、実際は美濃側のほうが有利であった。尾張では政権が下尾張と上尾張の真っ二つに別れている。今ひとたび敵国に攻められればなすすべもなく堕ちるだろう。
 信秀は上尾張に勢力ある身で、この度の戦は同盟締結のために半分仕組まれたものだろうと葵は思っている。
 尾張で争いが起これば当然美濃がその乱に乗じて大軍で攻めるだろう。乱れている尾張はひとたまりもなく美濃に堕ちる。
 それを防ぐために美濃と上尾張が直接刀を交え同盟を結ぶことが出来れば下尾張、牽いては諸国も手をだしにくくなるはずだ。
 そして父の思惑どおりに事は進み、上尾張は美濃の後ろ盾を得られた。
 同時に同盟の証として両国の姫を輿入れさせるのは皆が予期していたことだろう。互いを裏切らないようにする要だと言ってもいい。俗に政略結婚と呼ばれている。
 これは美濃側の条件ではなく、信秀が美濃に斉藤道三に申し出たのだ。
 異母妹の市はまだ幼く、他の姫も相手が決まっていたりどうこう理由をつけて父に申し出る者もいた。
 この戦国の世、葵は愛なんてものはないと断言できる。
 家と国の名を背負って他国で生きる事が姫としての役目であると母に教えられた。それが間違っているとも思わない。
 正室の娘ならば融通が利く事もある。しかし、正室である土田御前には娘がいなかった。
 葵の母は信秀の重臣の娘で身分は決して低い訳でもない。葵より身分の低い姫も何人かいる。
 したがって、年頃の娘でなおかつ身分が高い姫となれば葵しかいなかった。
 「お前にこの大役、しかと頼んだ」
 だから主君である父の言葉に葵は二つ返事で返したのだった。
 そして今、道三の側室として傍により添っている。
 身分こそ美濃姫が上位であったが、帰蝶とはどんな娘だろうかとふと考えた。
 

 陽が落ちる少し前、侍女を伴って帰蝶は葵の部屋へと向かっていた。
 奥座敷に与えられた一角に葵の部屋はある。十三畳程の広さで、庭には松が植えられていた。
 夕餉の時刻に差支えがないよう取り計らってしばしの間滞在するつもりだ。
 家督を譲ったといっても実権はまだ道三にある。道三と共に美濃を制覇した臣下は稲葉山城には少ない。その殆どと言っても不思議がないくらいこの鷺山城に勤めているからだ。
 道三と葵は十以上離れていると聞いた。
「葵様にはご機嫌麗しく。道三が娘、帰蝶にございます」
 兄、義龍に呼ばれて帰蝶は座敷に上がると手をついて礼をした。上座に葵、下座に帰蝶が座る。
「帰蝶様、お初にお目にかかります。葵と申します」
 葵も礼をとった。
 艶やかな黒髪に気品のある面差し。はらりと落ちる髪の一房が起き上がると胸に沿っておちた。
 帰蝶は発する言霊のひとつひとつを丁重に扱った。宿敵にあった過去を持つ両国なのだ。自分の一言が事態を悪化させ尾張側に反感を持たれないようにしなければならない。有利と言っても、美濃を狙う国々は無数にあるのだ。密使など送られたら大義名分を与えることともなりうる。
 そしてもう一つ。噂が人をよんで嫁ぎ先で嫌がらせを受けたりしたら、一生寂しい思いをする羽目になるとも分かっている。
 ひよっとしたら、自分は、あの国へ行くことを快く思っているのだろうか。 
 帰蝶は心の内で強く否定した。
 本当は行きたくなどない。尾張の国をまだ…否、この先ずっと好きになりたくない。
 葵に心を許してしまったら、自分の心まで尾張に持っていかれる。
 帰蝶はそれが怖かった。
 今ひと時の幸せを、十兵衛といるこのときを手放したくはなかった。
 家のために女は嫁ぎ子を成す。
 葵にはいろいろと尋ねたいと思う。同じ境遇の者として。けれども、深く関わってはいけない。
 帰蝶は当たり障りのない話を持ち出して歓談した。兄も加わって話は膨らむ。
 そうして帰蝶はまた礼をして部屋を後にした。
 侍女には回廊を少し行ったところで下がるように命じた。
 さぁっと流れてくる風に思わず苦笑いを零す。
 どうして、私なんだろう。
 十兵衛はまた、稽古をしているのかな。
 陽が昇ったらまた私を気にかけて名を呼んでくれるだろうか。

 少し開いている襖から差し込んだ月光が十兵衛の手元を照らした。
 十兵衛はまぶたを落とすと幼かった日々に思いを馳せた。もう随分昔の事柄だ。手に持った盃には酒が注がれ、膳には肴が少し盛ってある。目を閉じれば、姫君の遊び相手として傍に居られた日々が浮かび上がった。帰蝶の満面の笑みがそこにはある。

 暦では秋に片足を踏みこんだ時期だ。もう、十数年前の事になるだろうか。
 
「じゅうべえー、じゅうべえー」
 数年後に元服を控えた少年は、主君の姫君の後について城内を散策していた。
 姫君は軽やかな声を発して城仕えの者たちの顔を綻ばせる。
 少年は姫君の幼馴染みとして、同世代より早くから城に上がっていた。父に連れられて上がった頃、走ってきた姫にぶつかったのだ。思えばあれが出会いだっとでも言うのだろうか。
 少年―十兵衛は帰蝶に手をひかれて城で一番広い庭へとやってきた。
 紅葉の葉が色ずき、ひときは見事な真紅の垂れ幕がこの庭を覆う。帰蝶のお気に入りの場所だった。
「姫様、またここに来ていますが」
「帰蝶でいい。私だって十兵衛って呼んでいるよ」
「ですが…」
「なら、いい」
 帰蝶はふいと顔を背けると唇を尖らせた。
 十兵衛はこの年でかなりの聡明さを兼ね備えている。しかし、帰蝶にはどう接していいのかわからないのだ。
 気分を害させないようにしなければと過度に気を配っている。
「私、母様のところにいく」
 そう言って横を向いてしまった帰蝶に十兵衛は、いったん口をつぐんだ。
「帰蝶…様」
 軽く唾を飲み込んで十兵衛は意を決し、その名を呼んだ。
「なに?」
 声と共に帰蝶が抱きついてきた。とっさに片足を引いて後ろに倒れこまないようにする。
 十兵衛は名を呼んだだけで頭がいっぱいだった。
 抱きつかれても突然のことで呆然とするしかない。
 ただ、いい香りがすると思った。陽に衣を当てたようなやさしい匂いがする。
「大好きだよ、十兵衛」
「は!?」
「もういわなーい」
 十兵衛は慌てて帰蝶離すと一気に赤面した。
 触れ合っていた部分に風が流れ込む。ほのかな温かさが恋しいと思った。
 やがてふた月ばかり過ぎた頃、十兵衛は帰蝶に呼ばれて部屋に向かっていた。
 手には乳母に持たされた菓子の包みをぶら下げている。叔父が取り寄せた京菓子だと言っていた。その叔父は十兵衛よりも早くに城へ上がってる。
 次の一角を曲がった所に帰蝶の部屋がある。庭には艶やかな葉を持つ木が植えられていた。
 あははは、と声がする。
 先客がいるのだろうかと十兵衛は首をかしげた。
 十兵衛の訪れに気付いた侍女が襖の奥に声をかける。
「若君、姫様。十兵衛様がお見えになっております」
「通して」
 どうやら帰蝶は兄の義龍と一緒にいるらしい。
 義龍は側室の子だと聞いている。それを軽んじるつもりはないが、実際に会うのは初めてだった。
「失礼致します」
 十兵衛は慎重に部屋に入った。頭の中では次に何を言えばいいのか言葉が渦巻いている。
 次期当主である義龍を前に、幼い少年の胸は早鐘を打っていた。
「何用で参ったのだ」
 上座に座った義龍が十兵衛に問うた。
「……姫様に呼ばれましたので」
 十兵衛の返事が一瞬だけ遅れる。
 義龍はそれをどう解釈したのか「嘘を申すな」と吐いた。
「兄様! じゅうべいをおこらないで!」
 帰蝶が兄の目の前に割り込んだ。その目には涙が浮かんでいる。
 十兵衛は頭を垂れたままぴくりとも動けなかった。
 嘘を申すな。その一言が胸に突き刺さる。
 義龍は侘びの言葉も無しに手を伸ばして帰蝶を押しのけた。十兵衛は手が冷えていくのを覚えて指先を少し丸めた。
「なんのために帰蝶に近づいたのだ。そなたくらいの年で、私の言っている意味が分からないはずがないだろう。…答えよ」
「お願い、兄様。じゅうべえは私の友達だよ。大丈夫…大丈夫だから」
 帰蝶は義龍の腕にすがりついて必死に言った。髪が顔の前に掛かった。
「私は、ただ、姫様に…」
「帰蝶がどうした。まだ子供の身であるからと言って…嘘を申すな、と先程言ったはずだ。お前だっていづれは…」
「春! 兄様をお連れして、お願い!」
「は、はい」
 襖の外に控えていた侍女が慌てて人を呼びに行く。
「帰蝶、何故人をよんだ…」
 義龍の苦しそうな呻きが帰蝶の耳に届いた。
「兄様が、苦しそうだから。父様の事でいらだっていたんでしょ…大丈夫。兄様には、私もじゅうべえもいるよ」
 帰蝶はぎゅっと兄を抱きしめ直した。小さい体で懸命に兄のこころを抑えている。
 十兵衛は頭の中でいくつかの言葉を浮かべたが、どれも声にならなかった。帰蝶と義龍のやり取りが頭に響いている。自分はなんて言えばいいんだろうか。謝るのか、弁解を続ければいいのか。十兵衛は分からなかった。間に入り込んではいけないような気さえした。
「若君、若君。お連れいたします」 
 侍女が四人と義龍の傍仕えの者が一人、慌てて駆けつけた。
 前かがみになっている義龍を傍仕えの者が脇を持ち上げて、ゆっくりと歩き出させた。侍女がはらはらしながらそれを見守っている。義龍は多少息を切らし、顔色がすぐれないのが見てとれた。帰蝶の姿を一度、止まって振り返ると、口の端をあげて安心させるように笑みを作った。が、すぐにまた十兵衛に厳しい視線を放つ。
 叱責を覚悟した十兵衛は帰蝶に腕をひっぱられて隅へと移動した。そこからは義龍の顔が見えなかったため、ほっと胸を撫でおろしてしまった。
 あそこに居ては十兵衛が暴力を受けたかもしれない。異母兄の性格を良く知っている帰蝶はそう判断した。十兵衛は反射的に反撃してしまうくせを持っている。何よりこれ以上、義龍を逆上させないほうがいい。日々鍛錬している成果も欠点になってしまう。
 義龍が完全に行ってしまうと、帰蝶は俯いて呟やいた。
「ごめんなさい」
「…いえ、私が」
「違うの。兄様は父様にきのうしかられたの。だから、あんなふうに…いつもは違うんだよ。ただ、私がはしゃぎすぎたから…」
「姫様が…帰蝶様のせいでは、ありません。ちゃんと言わない私のせいです。帰蝶様に迷惑をかけてしまった」
 十兵衛は自分の過ちで帰蝶の様子がおかしくなったのだと思った。なんとか元気づけようと頭をひねってあれこれ考える。
「…お菓子、駄目にしちゃったね」
 帰蝶は無残にもばらばらになった菓子をそっと指差した。
 それに十兵衛は思わず笑みが零れる。
「また、持ってきます」
 立ち上がって菓子の所へ行き、包みに入れ直した。
「…兄様は、さびしい人なの」
「わかっています」
 間を置かずに自然と口からそんな言葉が出た。無礼をしてしまったと急いで帰蝶を振り返り、その弱弱しい笑みに驚いた。ぎゅっと胸が締めつけられるのを感じる。
「ありがとう。…また明日来て。今日のやり直しをしよ」
「もちろんです。帰蝶様は京菓子が好きですか?」
 帰蝶は大きく縦に首を振った。
 叔父にお願いしてできるだけたくさん持ってこようと、その時十兵衛は思った。
 義龍が道三に何をいわれたのか十兵衛には見当もつかない。
 姫の笑顔を取り戻すことが、この時の十兵衛にとって何よりも優先されるものだった。自分が何とかしなくてはいけない、とも思った。
 詳しいことは叔父に聞けばいい。姫をひとり部屋に残して屋敷に帰るのは気が引けたが、十兵衛は侍女が戻ってくるのを確かめて帰路についた。
 その夜、十兵衛は夕餉を無理やり腹に押し込んだ。何故かとても悔しかったのだ。特に空いていた訳でもなかったのに、いつもより多く収まった。
 そして夜も更けた頃に十兵衛は叔父の部屋を訪ねた。光安は道三の忠臣であり鷺山城に日々勤めている。
「叔父上、失礼致します」
 十兵衛は部屋の一歩手前で片膝をついた。
「どうしたのだ? 十兵衛。珍しいな…入っていいぞ」
 襖をそっと開くと、書物を読んでいたらしい光安は手を休めて十兵衛に顔を向けた。
 叔父は穏やかな表情を浮かべていた。争い事を好まず、もの静かな性分で十兵衛は小さい頃から尊敬している。十兵衛を子供だからといって軽んじらないからだ。
「叔父上にお聞きしたいことがあります」
「私に答えられる内容ならば、答えよう」
 一礼して部屋に入っていくと、叔父と膝を突き合せて座った。
 十兵衛はごくりと唾を飲み込むと意を決して叔父に尋ねた。
「政に口を挟むつもりはありません。今日、姫様の部屋にて義龍様にお会いしたのですが、妙に苛立っていたのです。その訳を知りたいのです」
 十兵衛の問いに叔父は感服した様子を見せた。
「あぁ、その事か…。そなたの年でこのようなことに興味を持つとは、私も鼻が高いな。同じ年頃の子ならば表で遊んでいる事が多いというのに……あいわかった、話そう」
「ありがとうございます」
「ただし、大事にはせぬよう」
 十兵衛が頷くと公安は真面目な顔つきになった。十兵衛を子供としてでなく、同じ家中の臣として話してくれる態度になった。十兵衛は精一杯背筋を伸ばして、握る拳に力を入れた。
「昨日、殿が若君に仰せになったのだ。『わしの跡継ぎは孫四郎にいたす』と」
「え!?」
 十兵衛は思わず身を乗り出した。
 孫四郎は帰蝶の一つ下の弟だ。義龍の異母弟であり、小見の方が産んだ最初の男子である。
 このところ道三が孫四郎と喜平次(帰蝶の二つ下の弟)を寵愛していることは皆が知っていた。
 でもまさか、義龍を廃嫡してまで跡継ぎに据えるなど誰が予期した発言だろう。
「……孫四郎様にお決まりになったのですか」
 その問いに光安は難しい表情で答えた。
「いや。皆でお止めしたから大丈夫だろう。……だが、はっきりとは分からない。若君の噂は知っているな?」
「存じております」
「それは戯言に過ぎない。噂なのだ。…誰も真実を知らぬのだからな。殿は、若君を懼れているのだろう」
 十兵衛は理解できずに問うた。
「何故ですか?」
「口で言うのは難しいのだが…。そうだな、例えば……」
 光安は一旦、言葉を切ると改めて例えばの話だと言った。
「殿は蝮と呼ばれている。そして若君は龍だ。その御名からな」
 まっすぐに十兵衛を射る瞳に十兵衛は同じくらい強い瞳で返した。
 老いた蝮と、若く力みなぎる龍。声には出さないが叔父は暗黙に問うたのだ。どちらが勝つのかを。
 十兵衛は心の内で答を出した。まぎれもなく龍だ、と。
 じっと黙っていた十兵衛はしばらくすると一礼し立ち上がった。この話題は叔父ももう話したくないだろうと思ったからだ。家中が二つに割れれば、他国に隙を与えることになる。隣接国の尾張などすぐにでも戦を仕掛けることだろう。織田家は正式な守護大名である氏族を押しのけて、その実権を握っている。
 稲葉山のふもとの村々は、麻布、絹織物などの品々や刀剣なども生産している賑わった地だ。手に入れて損をするはずもない。そして、北に位置する国にとっては美濃は京への道筋にもあたる。
 この乱世において隙を見せれば一貫の終わりなのだ。再興も臨めなく、生きる場所さえも剥奪され多くの武士は浪人となる。主君を失って、何が得られるというのか。
「……話していただき、ありがとうございます。これにて失礼いたします」
 戸を開けようと踏み出した十兵衛に光安は言った。
「姫君のお傍を離れてはならんぞ」
 義龍を支持する土岐氏に狙われる恐れもあるということだった。
 十兵衛は力強くはい、と言った。
 自分が姫を守る。どんな手からも。


 あれから十兵衛は歳を重ね、背も伸び、拳の力も強くなった。道三に使える家臣として多くを学び精進してきた。
 今宵の月はいつもより、明るく感じる。だが、真昼の陽に比べて月の弱々しい光は自分をいっそう憂いに突き落とした。
 今、自分に出来ることは、なんなのだろうか。  
 あの頃は、守るべき人は姫だけだった。姫のことにだけに気を配ればよかったのだ。
 けれど姫はもう遠くへ……自分の手が届かない場所へと行ってしまう。どうして帰蝶は姫で自分は家臣なのだろうか。身分の差こそ無ければ、自分はきっと。
 あなたへの思いを押しとどめるようなことはしなかった。
 

 そう、あれは初めて姫を好いていると気がついた時。


 稲葉山は冬の厳しい寒さをようやく乗り越え、春の暖かな風が時折吹く季節となった。
 しかし夜はまだ冷え込み、昼の陽気とは比べものにならないほど寒い。美濃国の人々は春の本格的な訪れを心待ちにしていた。
 手をこすり合わせて熱を得たいと思うのを我慢し、十兵衛は帰蝶の部屋へ足早に向かっていた。今日はまた冬に逆戻りしたような陽気だ。
 もうすぐと思った時、十兵衛は自分の歩いている路と反対側の廊下を小走りで通り過ぎる三つの人影を見つけた。目を凝らすと男であることが分かる。いったん止まってじっと観察すると何か変だ、と直感した。
 不振なのは服装もだ。仮にも君主の住まう所だというのに、よれた袴に似合わない上等な肩衣をつけ、おまけに歩き方もどこかしらこそこそとしている。誰が登城を許したのだろうか。それとも、使用人が紛れ込んだのか。少なくとも、名のある家の武人には見えない。
 十兵衛は気づかれないよう歩を進めた。
 雰囲気も叔父や登城している家臣とも違っているのだ。
 誰もいないこの場所でいたのも何かの縁と、十兵衛は使命感が込み上げてきた。
「そこで何をしているのだ」
 二つの顔がぎょっとしたように振り返った。幾分、背が低い十兵衛を見つけるとどこか安心したらしくほっと息をつく。子供だと思って警戒心を解いたのだろう。十兵衛は黙って答えを待った。
 そして、未だにこちらを振り返らない中央の男を見据えた。その腕に抱えられている薄緑の布に包まれた物が気にかかったからだ。微動だにしないこの男が二人を従えているのだろう。
 十兵衛の右手は護身用の短刀の位置を確認し、一歩でも引かないと全身で訴える。
 すると、中央の男がわずかに振り向いた。その拍子に赤い花柄の衣と長髪がこぼれおちた。十兵衛は不信感を募らせ、おい、と半ば脅すように言った。まだ高い少年の声をできる限り低く落とした。
「その腕に抱えているものは何だ。背を向けずにこちらを見て話せ」
 沈黙が一拍打たれると、中央の男が小声をかけた。それにあわせて手前の男が適当に礼を取ると、包みを隠すようにして十兵衛に背を向ける。彼らは軽い身のこなしで廊下を飛び降りると、十兵衛が追いつく前に姿を消してしまった。左右に続く道筋に戸惑って、彼らを見失った。
「……くっ」
 とりあえず右へ行こうとしたもの、後方から悲鳴に近い声に呼び止められた。十兵衛はまさか、と思った。
「姫様が、姫様が、どこを探しても、おられないのです……!」
 十兵衛にすがった帰蝶付の侍女はわらをも掴む思いだったのだろう。
 顔を青くし、わなわなと唇は震えていた。
 居ないのではなく、連れていかれたのだ。叔父に忠告を受けていたのに、自分が甘かった。姫の部屋の守りは手薄だったのか。何故、帰蝶が狙われたのだろう。どうして、帰蝶が。 
 そんな事はどうだっていい。侍女にはもっと探すように言っておいた。
 こんな時、頼れるのはただひとりだ。子供の自分が行っても、そう思うと悔しいがたかが知れている。
 十兵衛は見覚えのある回廊を足早に通り過ぎると叔父のもとへ向かった。
 まだ、政が始まっていないことを願いながら十兵衛は面識がある家臣を探した。すると以前、屋敷であったことがある者を見つけた。そのまま近づいていくと、勢い良く頭を下げる。
「お願いいたします! 明智公安叔父上に、お取次ぎ願います。お願いいたします!」
 十兵衛の必死な様子に、ただごとではないと思ったのか、すぐに叔父と会うことが出来た。幸いなことにまだ始まっていないようだ。
 目が会うと公安は歩き出し、使われていない部屋に通された。
 すっと襖が閉じられると、十兵衛は出来るだけ落ち着こうと呼吸を深くする。
「どうした? 十兵衛、こんなに慌てて。まだ、殿は来られていない。ゆっくり、話せ」
「……はい」
 公安は十兵衛の肩に手を置いた。焦っていた心が、少しずつ少しずつ静かになる。
 十兵衛は一度大きく息を吸った。
「姫様が、連れ去られました」
 公安は鋭い目つきになって十兵衛と視線が合うように腰を落とす。
「確かか?」
「私が見たところそのように思いました。不審な三人の男を見かけたのです。その後に、侍女が姫様がいないと言っていました。探しに行きます」
  

2008/04/17(Thu)21:10:00 公開 / 日永 菜帆
■この作品の著作権は日永 菜帆さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 初投稿です。小説を書くのが好きなので読んでもらえると嬉しいです。
 時間があったらでいいので、感想や指摘をたくさんお願いします。
 今回は大好きな歴史をテーマに。
 今後の発展を期待されるような小説が目標です。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。