『花風車 〜小春の舞〜』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:神奈                

     あらすじ・作品紹介
 江戸あたりを舞台にした物語です。 春日通りの料理屋、花風車屋で働く十二歳の少女小春は、琴風一座に入って太夫になる事を密かに夢見ていた。 そんなある日、小春ではなく同じ花風車屋で働く同い年の美紗に対して、芸者見習いにならないかと、一座から誘いがあった。 そして小春は……? 美人な訳でもなく、才能があるわけでもない。それでも太夫になりたいとする小春の物語。

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 西の空に完全にお日様が隠れて、夜の帳が下りた。
 小松町の春日通りに軒を連ねるあっちの店でも、こっちの店でも、提灯や飾り灯篭に明かりが灯り始めた。
 あちこちで客を呼ぶ声が飛び交い、にぎやかな春日通りの夜が始まった。この通りは大津橋から続く道にあり、旅人もよく通るため、いつでも大賑わいの通りである。
 とりわけ夜ともなれば、夜鳴きそば、酒、などを求めてやってくる人も多い。
 行きかう人ごみの中には、見れば見るほど、様々な人が見うけられた。
 昼間やっている店を閉めて仲間達と散歩がてらにあちこち見て回る商人達、お供を連れた大店のお嬢様、物珍しそうにきょろきょろする旅人に、仲間に酒でもおごるのであろう腰に刀をさしたお侍、でっぷりと太った大店の店主、そしてそれを密かにつける忍、店など見向きもせずにさっそうと先を急ぐお役人もいれば、鎧をまとった凛々しい若侍もいた。見ていればきりがない。
 そんな中を、小さな少女が木箱を肩から下げて歩いていた。小春である。
 胡麻饅頭と書かれた紙の貼ってある木箱には白い饅頭が三つ。桃色の小袖に同じ色のモンペのようなもの。
腰に下げた布には、『花風車屋』と書いてある。胸には風車のように、右方向にうねった赤い桜の紋。花風車屋の紋である。
 小春はいそいそと人々の間を通り、『花風車屋』と書かれた大きな木の看板の前に着いた。ここが料理屋、花風車屋である。
 小春がこの店で働く事になった過程は、話すと長くなる。
 小春は扇子売りの子として生まれた。父は先祖から続くこの商いを、何とか守ろうと力をつくしていた。それでも、暮らしは苦しくなるばかりである。
 元々は扇子屋の大店であったが、それは小春の祖父の代での話で、その後は父の兄へと継がれたのである。
 しかし、飲んだくれの兄は怠けてばかりで、ほとんどは小春の父にやらせていた。
 その上金ばかり大量に使い、とうとう全財産を食いつぶしてしまったのである。
 借金は全て返したものの、店はただの扇子売りに成り下がり、あげくの果てに兄は弟に全てを押し付けて女と逃げてしまった。
 困った兄に、小春の父は頭をかかえた。
 それでも小春の父は頑張り続けた。そんなある日、小春の父名義の借金を要求して、借金取りがやって来たのである。
 その借金は言うまでもなく、兄がどこぞかで作り続けているものであった。
 父は絶望に打ちのめされ、その夜首をかき切って身を川に投げた。
 残された母はまだ五歳になったばかりの小春を当時この花風車屋にいた叔母に預け、その後の行方は知れない。
 こうして小春はこの店で働く娘となった。
 小春は泣かなかった。本当は辛かったけれど、行かないでと母に泣きつきたかったけれど、そうしたら何だかいけない気がして、ぐっと唇を噛んで我慢した。
 それでも、母が去ったその夜、初めて寝る寝床でめいいっぱい泣いた。声も出さずに、ただぼろぼろと涙を流したのである。
 その夜の事は忘れていない。
 しかし胸の中で、悲しみとみじめな気持ちはほとんど薄れていた。それだけこの店での生活が身になじみ、また楽しく感じるようになったということである。
 
 暖簾をくぐると、にぎわった店の中が姿を現す。皆がにぎやかに飲み食いをし、色々な話をしている。
「あ、小春じゃん」
 そう声をかけたのは、松江。この店で働く女の一人である。年は二十を過ぎたあたりである。今はお盆に空になった食器を乗せ、片付けの最中である。
「ただ今帰りました」
「遅かったねえ」
 松江がまた片付けに戻ると、小春は向きを変えて『銭場』という勘定の席の奥へと向かった。それから、紺の長い暖簾をくぐる。
「ただ今帰りました、お有様」
 そこに座っているのはこの店の女店主、有である。煙管を片手にいすに腰掛けていた。帯は前で結び、ゆったりと着た着物のすそがはだけて組んだ白い足がのぞいている姿は何とも艶やかである。
 髪の結い方も大きく美しく、かんざしが輝き、その姿の絢爛ぶりは、誰もが前に出る事のできない貫禄がある。年の頃、三十いくつ。
 小春にとっては母のように慕う存在である。
 一歩外に出さえすれば、どこぞの太夫と見紛うのは当然である。というのも、有はかつて名高き太夫であったから、その名残は当たり前といえば当たり前なのである。昔は、有奈義太夫といい、誰もが見知る有名な太夫だった。
 そんな有がなぜやめたのかは、誰もが知りたくていて、誰もが聞けずにいた。
「売れたかえ?」
 赤い紅の唇から煙管を離し、艶やかな声で有が聞く。
 いつもの事ながら小春は、この有を見る事に慣れるなどということはない、と思う。
 いつ見ても、そのまま見とれてしまう。それほどに有は美しい。小春は有よりも美しい女はいないと、見るたびに確信していた。
「小春、答えたらどうだえ?」
「は、はいっ!」
 いけない。またである。小春は慌てて返事をした。
「三つ残ってしまいました……。今日は、いつも買ってくださる新八さんや華江里さんがいなくて……」
「およし」
 途中で有がさえぎる。はっとして顔を上げると、有は眉を寄せていた。
「親しい人にしか、買ってもらえないとでも言っているのかえ?」
「ち、違い……ます」
 また怒られた。小春はしょぼんと頭を垂れた。
 それから少し経って、小春の顎に、有の指がすえられた。長く、美しい指であった。
「頑張りな」
 先ほどよりも、声がやさしくなっていた。
「はい」
 小春がにっこり微笑むと、有も微笑んだ。


「きゃーっ!!」
 店の方から悲鳴が聞こえた。有と桃花ははっとしてそちらを向く。
「おやめください!!」
 またしても。銭場の佳代の声だ。
 おそるおそる暖簾から顔を出して見ると、店の上がり座敷寄りのところで、何やら二人の男がけんかを始めているところのようだ。二人とも腰に刀をさしたお侍で、同じ黒の羽織を着ている事から、一緒に来た仲間なのだろう。
 見たところ、二人とも酒が入っている。
「てめぇっ!」
 一人がもう一人の着物の襟をぐいとつかんでいる。
「おやめくださいなっ! お外でやってくださいよっ!」
 強気に立ち向かうのは松江だった。男の腕をつかんで外へ出そうとしている。
 ところがその松江を、男が思い切り突き飛ばした。
「うるせえっ! 女は引っ込んでろ!!」
 大変だ。男と男のやり取りはどんどん激しくなっていく。
 くるりと振り返り、不安げな顔を有に向けると、有も眉をひそめていた。
「あの……」
 すると、有はカタリと煙管を机に置いた。それから腰を上げる。
「さがってな」
 小声で小春の背中をぽんとたたき、有は暖簾をくぐった。
 ずいと男達の前にでる。
「お外でやってくれないかえ?」
 そう言われた男は有の絢爛ぶりと艶やかさに少々目を見張ったような動きを見せたが、それから目を吊り上げた。
「女が侍のけんかにでしゃばるかぁ?」
「ここはけんかする場じゃないんでね。困るんだよ、え? お侍さん?」
 有も負けずにずいと身を乗り出す。
「てめぇ」
 ついに男は酒で赤い顔をさらに赤くして、有の着物の襟につかみかかろうとした。しかしそこで、有がすかさずその手をぐっとつかむ。
「やめてくれないかえ?」
「このっ」
 男は手を振り払おうとしたが、有の強さは考えていた以上に強く、振り払うどころか有にぐいぐいとまげられ、悲鳴をだすはめになった。
「いててててっ!」
 そのまま有はぐいぐい押して店の暖簾まで男を連れて来た。それからぼんと押して店の外に出した。
「お行儀を覚えておいで」
 そう言って、有は背を向けた。
 すると男はますます怒った。しかし、一緒に来ていた侍達がなんとか男を押さえつけ、暖簾の外へと連れて行った。けんかをしていたもう一方の方は酒があまり入っていないらしく、そんなに酔ってはいなかった。だからその後はそそくさと出て行った。
 有には感服するばかりだ。あれほどの男相手にあの強さ。
 店の者全てが頼りにするのは当然だった。
「よかったよ、本当に。お有様は凄いねえ」
 佳代がほっとした面持ちで言った。
 店にいた他の客達も自分達の話に戻り、店の中はいつもと変わらない状態に戻った。
 その時だった。
「聞いてくださーいっ!」
 暖簾をくぐって、小春と同じモンペのようなものに小袖の少女が店に駆け込んで来た。肩に同じく木箱を下げている。売り子の一人で小春と同い年の美紗だった。
「どうしたの?」
 小春が聞くと、息を切らしながら美紗は興奮気味に答えた。
「琴風一座の太夫がここの通りを通るのよ!」
 その言葉を聞いた者は客も働く者も皆驚いた顔をした。箸をほっぽり投げて外に見に行こうとする客、歓声を上げる客。
 小春も早く見に行きたいと思った。
 琴風一座というのは、春日通を城の方角へまっすぐ進み、曲がった所にある幻色通りにある芸屋だ。華吹太夫はその美貌と華麗なる技で有名である。
 みんながきゃあきゃあと騒ぐ中で顔をぴくりともさせないでいるのは有だった。
 ちらりと見る。
 いつもそうなのだ。太夫が通る、太夫が通ると皆が騒ぐ中、見に行こうともせずに部屋に戻ってしまう。
 前に一座の舞会を見に行こうという事になった時も、行っておいでの一言と共に奥間へと引っ込んでしまった。
 きっと以前太夫だった時の事を思い出すからなのだろうと小春は思う。
 きっとやめた事とも関係があるのだろう。だから、誰も聞こうとしなかった。
「見に行こう」
 美紗が小春の腕を引く。
「行っておいで」
 いつもの通りそう言うと、有は奥の暖簾をくぐって戻ってしまった。

 外に出ると、春日通りでは真ん中を空けて見物人が道の両脇に分かれていた。
 何とか人ごみを掻き分けて前に出る。
「ほら、おいで」
 松江だった。一足早く来ていた松江が前に出してくれる。
 道の奥を見ると、城の方からやってくるのが見えた。
「来た来た!」
 美紗は顔を輝かせながら言った。
 やっとこちらの方に来た。
「お通しくだしゃんせぇ」
 歌うように言ったのは華吹太夫だった。煌びやかな衣装だ。前結びの帯に、今宵は真っ赤な着物。金色の蝶が描かれていた。髪飾りもそれは凄かった。かんざしの金銀の蝶が顔の前で揺れる。その絢爛ぶりはまぶしいほどだ。真っ赤な紅に白い肌の華吹太夫はとても美しかった。
 高い歯が二つ付いた黒塗りの下駄の鼻緒は、朱色。その足をゆっくりと運んで歩いていく。
 横には飾り灯篭を持った幼い少女。年は小春よりもはるかに小さい。
 後ろからは数名の芸女達、付き人が行く。
「綺麗だねえ、太夫さん」
 美紗が言った。
「うん。本当に」
 そう言った小春の目は、遠ざかっていく一行から離れていない。
「あたし、いつかあんな太夫さんになりたいなぁ……」
 美紗が小声で言った。
 そっと美紗の方を見て、小春は静かにうなずいた。
 実のところ、小春も夢見ていた。ずっとずっと前から。いつか、いつかとかなわぬ夢を見ている自分に嫌気が差しつつも、やめられなかった。
 わたしなんか、なれる訳がない。そう言い聞かせながらも、その目はいつまでも小さくなっていく一座の一行を見つめ続けていた。
 夜空では小さな星達が輝き、美しい月が微笑んでいたが一座の通った後ではそれらさえも色あせて見えた。


 月が空で輝いている。店の子供は皆寝かせられる時間だ。
「ねえ、小春ちゃん」
 隣の布団から、美紗の声が聞こえた。今、二人は奥の座敷の布団の中にいた。部屋は一部屋に二人ずつだ。
 隣は松江達の部屋なのだが、松江達はまだまだ働いている。
 部屋を照らすのは障子からほんのりともれる月明かりだけだ。
「なあに、美紗ちゃん?」
 くるりと首を曲げて美紗の方を見る。
「本当に綺麗だったね。太夫さん」
「うん」
 美紗はふうとため息をついた。
「わたしね、いつか一座に入りたいの……」
「そう……」
 美紗は顔立ちが整った美少女である。色も白く、いつもみんなにほめられる。
 だから、美紗ならできるかもしれない、と思う。けれども、自分は……と小春は目を閉じた。

 次の日の事だった。いつものように饅頭などが入った木箱を下げ、店を出て、いつものように売って回り、そして道草をくって幻色通りの一座の芸屋敷をのぞき、また戻って来ると、店の中が何やら騒がしかった。
 まだ夕方よりも手前、未の時刻あたりだから、店にはさほど人はいない。
 そんな店の中で、働く者達が集って話をしているのである。
「すごいじゃないさっ! ほんとにびっくりだわねぇ」
 佳代の声だ。かなり興奮しているのが分かる。
「ただ今帰りました」
 暖簾をくぐって小春は店に入った。するとそこには有、松江、佳代、その他の働き人、そして美紗が集まっていた。
「聞いて、小春ちゃん!」
 美紗も興奮気味である。
「わたしね、琴風一座に入れるんだって!」
 美紗は確かにそういった。本当に嬉しそうな笑顔をしている。
「え?」
 小春がよく分からないふうをすると、松江が説明を始めた。
「さっき、一座から連れを連れて女主人の千絵さんが来たんだよ。それで、美紗をぜひとも琴風一座に芸女見習いとしてくれないかって。見込みがあるから、いつかはきっと、太夫上がりができるかもしれないって」
「太夫?」
 小春はあまりの事に上手く話せなかった。
 太夫? あの太夫? 絢爛な衣装に身を包まれて、芸をする太夫さん?
「そう!」
 張り裂けそうな笑顔と赤い顔をして、美紗が言った。
「まだ決まってないわ」
 そう言ったのは有だった。今日は紺の着物に金の桔梗が描かれた帯を前に垂らしている。相変わらず妖艶である。
 煙管を片手に、近くの椅子に腰をかける。
「お有様、せっかくのお誘いがあったんですから。美紗は綺麗な顔をしているし、声もいいし、きっと太夫さんになれますよ。ならなかったらもったいないです」
 佳代が言った。
「佳代、あんたは知らないでしょう? あの華麗な芸と歌いの裏にどんな厳しさがあるのかを。え?」
 有が冷ややかに言った。
 これには佳代も何も言えない。有はもと太夫なのだ。その厳しいまなざしを向けられたら、何も言い返せはしない。有は煙管を唇から離し、ふうとため息をついた。
「で、でも、厳しいお稽古があるのは分かっています! それに耐える覚悟もあります! だから……っ!」
「お稽古の事だけを言っているのではないわ」
 有は顔を背け、また煙管を口に戻した。
 その横顔は数々の経験がある事を物語っていた。やはりこの人はまだ心の中は太夫なのではないかと思う。
「でもっ!」
 美紗は食い下がる。
「美紗。お有様は美紗の事を心配しているのさ」
 松江が言って聞かせるように美紗の背中をぽんと叩いた。美紗はうつむく。
「そうだよ。色々あるんだから。うんと厳しいかもしれないし…。お有様は心配してるんだよ」
 小春の口は自然とそう言った。
 気が付くと、美紗が一座に行く事にならないように、ならないようにと願い、その気持ちが口に出ていた。
「でも……」
「せっかくお誘いがあったんですから……。こんな事はめったにない事ですし……」
 再び佳代が言った。おそるおそるといった感じで、有の顔色をうかがっている。
 有はしばらく黙っていた。その間、店の者もそれを見守るかのように黙っている。店には、今では客は一人としておらず、緊迫した沈黙が流れていた。
 そして、ついに有が口を開く。
「もう少し、自分でも考えな。それからでも結論を出すに遅いって事はないよ」
 一言そう言うと、有は一人、がたりと椅子から立ち上がって、銭場の奥の勘定部屋へと戻ってしまった。
 それから店は元通りに動き始める。
「わたし……一座に入りたい」
 小さめの声で、でも力強く、美紗が言った。
 その横顔を、小春はただじっと見つめながら、色々な思いがめぐりにめぐって高くなる胸を必死に押さえようとしていた。
 もうそろそろ夕方になる。店の暖簾の外からかすかに朱色の光が漏れて来た。


その夜、美紗は有に呼ばれて奥の座敷に入った。
 店の者達は聞き耳を立てようとしたが、聞こえないし、襖の前まで行って聞いて、もし見つかった時の恐ろしさを考え、聞くのはやめた。
 しばらく店の者達はいつものように客の相手をしていたが、心の中では色々と考えていた。
 とりわけ小春はぼーっとしていた。美紗は一座に行くのだろうか、と。
 しばらくして、美紗は有と共に笑顔で出て来た。
「よかったねえ、美紗」
 店をしまう頃になり、客もひけて、皆が集まった時、佳代が言った。
「ありがとうございます!」
 そう言った美紗は前に増して嬉しそうだった。
 結局、有は美紗が一座の見習いになる事を許したのだ。
「わたし、頑張って太夫を目指します!」
 美紗は張り切っていた。
「おめでとう、美紗ちゃん……」
 小春は羨ましくて堪らないのを気付かれないように押し込めながら言った。その声は、本当はおめでとうなんて心にもない言葉だと、内で言っているようだった。
「ありがとう、小春ちゃん」
 しかし美紗は気付く気配もない。
「小春ちゃんの分まで、わたし頑張っちゃうからね」
 本当に癪に障る言葉である。その笑顔も、憎らしいほど嬉しそうで、美人だった。
「いつから行くんだい? 明日とか、もうすぐかい? ならば支度をしなくちゃならないよ」
 佳代が言う。
「待っておくれ」
 そう言ったのは、有だった。一斉に皆がそちらを向く。
「もう少しだけ、待っておくれ。それからでも遅くはないからね。待てるだろう? 美紗」
 有は煙管をもてあそびながら言った。
「はい!」
 美紗が答える。
 何故、有は待ってくれと言っているのか、店の者には分からなかった。有は美紗が一座の芸女の見習いになる事を許したし、琴風一座にお返事もした。間もなく一座からその返事の文書が来るであろう。
 しかし、有はしばし待ちなと言った。

 小春は小さくため息をついた。今は階段の三段目に腰を下ろしている。
 廊下は寒く、明かりはない。しかし他の部屋から漏れるほのかな明かりで、何とか見えた。
 今日の美紗の喜びぶりを思い出して、また小さくため息をつく。美紗が羨ましかった。あんなにも嬉しそうに笑う美紗は見たことがない。
「本当はわたしだって行きたいのにな……」
 小さく呟いてみて、空しさが押し寄せる。
 世の中は、つくづく不公平だと思う。自分も美紗ほど美人だったら、きっと誘いがあったと思う。確かに、美紗はそれだけではない。手先も器用で、はきはきとした娘だ。しかしそれならば、小春にだって努力のしようがあるというものだ。
 勝ち目はない。
 そう思ったとたんじわりと涙が出る。それを必死に拭った。
 自分にはかなわぬ夢を、すぐそばにいる子がかなえようとしている。小春には、どうしてもそれが悔しくてならなかった。
 背中を丸めてうずくまる。
 もうすぐ子の刻になる。眠らなくては明日の仕事に差し支えるだろう。
 しかし、頭で分かっていても体が動こうとしなかった。
 気が付けば、モンペの膝がぬれている。
 小春は小さな背中を震わせ、声を出さずに泣いた。涙は止まらず、次から次へとこぼれた。
 それを遠くから有は見ている者がいた。しかし頭を膝にうずめている小春には、それに気付くよしもなかった。
 もうすぐ空は白み始めてくるであろう時間に、小春はじっとそうしていた。


 次の日の夜だった。有は店をしまう前あたりに、小春を呼び出した。
 今日一日、気が落ち込んでいるせいで仕事に身が入らず、失敗もしてしまったから、ぼーっとするなと叱られるのであろう。そう思うと、小春はますます気が滅入った。
「お呼びですか」
 紺の暖簾をくぐると、そこにはいつものように前結びの帯にゆるりと来た着物の有が、煙管片手に勘定席に座っていた。
「小春」
「はい」
 有は間を置いてから、言った。
「あんたも一座に入りたいんだろう?」
 この言葉には、小春は思わず面食らってしまった。なぜ、有は知っているのだろう。誰にもはっきりと言った事はなかった。
 もしかしたら、有は美紗を羨ましく思う心もお見通しなのではないかと思うと、小春は急に自分が幼子のように見えてきて、恥ずかしくなった。
「どうだえ? そうだろう?」
 答えない小春に、有は顔をやや近づけて言った。
 図星だという事は、顔を赤くしているのですぐ分かるのだろう。有はまた顔を離し、煙管を口にやった。
「ごめんなさい。明日からは、ちゃんと真面目に仕事をします」
 小春は真っ赤になった顔を隠すかのように、深く頭を下げた。
「行きたいんなら、小春。あんたも行けばいいよ」
 有はさらりと言った。
「え?」
 小春は耳を疑った。何が起きているのか、一瞬分からなくなる。
「あんたも、見習いになれば? 嫌ならいいけどね」
 有は言った。
「でも、わたしには誘いがかかってないし、美紗ちゃんのように器量もよくありません」
 小春がうつむくと、有はまたさらりと言った。
「一座には私から話をつけておいたわ。美紗一人では心細いから、もう一人の見習い志望も一緒にたのむと」
 信じられなかった。まさかそんな無理が通ったのだろうか。いやいや、有の事だから無理やりにでも向こうにうなずかせてしまったのだろう。
「わたしが……」
 言葉に出すほどに、みるみる感覚が戻っていく。そして、奇跡に顔が自然と笑ってしまうのが分かった。
「あのね、小春。芸の世界は華やかなだけではない事を覚えておきな。その裏には厳しい氷のような世界が広がっているわ」
 有は真面目な声で言った。
「はい」
 小春は嬉しさにその言葉をしっかり理解はしなかったが、そう答えて頭を下げた。

「よかったね……小春ちゃん」
 小春が先ほどの事を話すと、美紗は微笑をつくって言った。
 さほど嬉しくなさそうなのは気のせいであろうか。二人は今、寝床の中にいた。
「ありがとう。一緒に頑張ろうね」
「うん」
 美紗はそれだけを言うと、小春に背を向けてしまった。
「おやすみなさい」
 小春もそう言って背を向けた。
 これから待っている新しい世界に、小春は胸をときめかせた。芸女になった自分をあれやこれやと思い浮かべながら、自然とにやけてしまう。
 夢見た世界がいきなり遠くから近くへと近づいた。今まで憧れとして手の届かない所にあったものが、自分の手の届こう所まで近づいた。
 小春はそうして思いをめぐらせるうちに、深い眠りへと落ちていった。

 小春と美紗が琴風一座へ行く日はそれから二日後になった。
 朝早くから店では支度で大忙しだった。荷物をまとめるのを、佳代や松江が手伝った。
 身支度を済ませた小春と美紗は、荷物を持って暖簾の前へと出る。
「何だか寂しいねぇ。二人もいなくなってしまって」
 佳代が言う。
「何言ってんだい。すぐ近くだよ」
 松江がぽんと佳代の背中を叩いた。
 空は晴れていて、雲一つない快晴だ。あちこちで店を開ける動きが見えてきた。朝早くからどこぞの店の売り子が木箱を抱えて歩いて来る。
「気で負ければおしまいだよ、覚えておきなね」
 有は並ぶ二人に言った。
 今日は青に金の桔梗模様の着物を着ていて、いつになく美しく見えた。きっとこの有のようになると小春は心の中で言った。
「今までありがとうございました」
 二人は声をそろえて言った。
 その時ちょうど、一座からの迎えがやって来た。


迎えに来たのは、義八という一座で働く男だった。この男は一座の女主である千絵の弟にあたる。
 彼は一人でやって来た。
「琴風一座から参りやした。見習いになる美紗という娘さんはいますかい?」
 義八は暖簾の前に来て言った。
「はい」
 美紗は答えた。
「小春もですよ」
 有が小春の背中を押して前に出す。
 普段一座関係の者や事とは関わりを持ちたがらない有だが、今日はは口さえ利いている。しかしその口調とまなざしは冷ややかだった。
「失礼しやした」
 義八が月代に手をやって言った。
「よろしくお願いします」
 二人は声を合せて言った。
「頑張りな」
 有はそう言うと暖簾をくぐって店の中へと戻ってしまった。
 もっと言いたい事があった小春はいささか寂しい気持ちになったが、また今度があると諦めた。
 そうして店の者達に別れを告げ、その場を後にした。

 義八に連れられやって来たのは今まで夢見た琴風一座の芸屋敷。建物の入り口には美しい暖簾がかかっており、その上に琴風一座と大振りの字で書かれた木の看板があった。
 その暖簾をくぐる時、小春は嬉しさと感動で胸が張り裂けそうだった。
 中は広く、立派な造りになっていた。入ってすぐ手前の方に階段があり、上へと続いている。それから入って右の少し上がったところに十畳ほどの座敷があり、見習いなのであろう小さな子が一人の芸女にお琴を習っていた。
「姉さん。お連れしやしたよ」
 義八がそう言うと、奥の方から一人の女の人が出て来た。千絵だ。
 年は四十後半で、目は鋭い。紺地の着物に身を包み、静かにこちらへ歩いて来た。
「一座へようこそ」
 一言そう言うなり、しげしげと二人を見る。穴が開くほど見られ、小春は赤くなってしまった。
「美紗です。よろしくお願いします」
 美紗ははきはきとそう言うと、頭を下げた。
「こ、小春です。よろしくお願いします」
 慌てて小春もそれにならう。少々声が裏返ってしまった。
「それでは、これから一座の事を教えます。奥の座敷へ」
 そう言うと千絵は歩き始めた。二人はそれに続き、奥の方へと進んだ。
 廊下では様々な芸女達とすれ違った。いくらか煌びやかな衣装をまとい、見習いらしき小さな少女を二人ほど連れる芸女、何やら箱を運んでいく少女。小春や美紗を見て、その度に彼女達は振り返った。
 廊下は色々な座敷へと面しており、その度、色々なものを見聞きできた。
 ある座敷の襖からは謡う声が聞こえ、咎める声が聞こえ、また笑い声も聞こえた。しかし笑い声が聞こえた時はその度に千絵が襖を開けて、真面目に稽古をおしと注意した。
 ついに手前に襖が見え、千絵がそれを開け、入るように促した。
 そこは八畳ほどの小さな小座敷で、机が一つに箱が積み重ねてある他、違い棚の木の置物の他特に何もなかった。
「そこに座って」
 千絵に言われて、二人は机の前に正座した。
「では」
 千絵も机を隔てて向かいに座り、こちらを見た。
「これからここで見習いをするための大まかな決まりを教えます」
 はい、と二人がうなずくと、千絵は話し始めた。
「ここは芸屋です。芸屋の芸女達はその芸をお客様に売るのです。それ故、稽古はとてもきびしい。それを覚悟の上なのだから、文句を言ったり、辛いと泣き言を言ったりするのは許しません。長い歴史を持つこの一座の威厳のためにも、他の一座に負けるわけにはいきませんからね」
 千絵は一息ついて、続けた。
「そして、もしも芸の腕を上げれば、出世もあります。一人前の芸女となれるよう、皆日々努力しています。何事も心が大事。見習いとしての事をわきまえてください。太夫に上がる者は一握りもありませんが、可能性がない訳ではないのだから」
「はい」
 そう返事をしたのは美紗だった。その目は玉の如く輝いていた。
 千絵の言うのを聞くと、厳しい一座の世界が何となく分かった気がした。そんな小春の脳裏に、『氷の世界』という有の言葉が浮かんでくる。
「よろしい。見習いとして、まずは他の芸女達の言う事をよく聞きなさい」
 そう言って、千絵は立ち上がった。そして、襖に手をやって言った。
「付いて来なさい。芸女達に紹介します」
 千絵が二人を連れて行ったのは、ひときは大きな座敷だった。そこではたくさんの芸女達が集まって芸の鍛錬中だった。
 見ると、奥には太夫がいた。華吹太夫だ。
 その姿はいつ見ても本当に美しい。衣装の煌びやかさも、かんざしの絢爛も、夜の道中と変わっていなかった。着物の着方も艶やかである。
 その太夫がこちらに目を向けると、他の芸女達もこちらに目をやった。
「みなさん。今日から見習いとしてここに来た二人を紹介します」
 そう言うと、千絵は座敷に入るように促した。
 そうして、美紗と小春はおずおずと中に入った。
「さ、自己紹介なさい」
 ささやくように千絵が言うと、美紗がすぐさま行動に移した。
「花風車屋から来ました。美紗です。期待にこたえられるように頑張るので、よろしくお願いします」
 そしてお辞儀をする。
「花風車屋から来た、小春と申します。よ、よろしくお願いします」
 小春も慌てて続く。
「こちらの小春は、有奈義太夫、いえ。有さんからの推薦です」
 千絵がそう言うと、何人かの芸女は顔をしかめ、お互いに耳打ちをした。それから、太夫はこちらに冷ややかな目を向けた。
 小春には、なぜこんなにも芸女達が嫌な反応をするのかが分からなかった。過去に、何かがあったのだとしても、小春は何も知らない。
「みなさん、教えてあげなさいね。色々と」
 千絵が言う。
「それじゃ、私は仕事があるから。美紗、小春。今日は見学をなさい」
 それだけ言うと、千絵は座敷を後にしてしまった。
 座敷にしばしの沈黙が訪れ、それから太夫が言った。
「それでは、お二人さんにはそちらに座って見ていてもらいましょう」
 華吹太夫は芸女たちの横を指した。
「はい」
 二人が座ると、すぐに稽古は再開された。
 二人の芸女が前に出て、舞を始める。その傍らではもう一人芸女がいて、琴を弾いていた。前に出た芸女は二人とも真っ赤な扇を二つ持っていて、琴が美しい音色を奏でると共に、なめらかな動作でそれを開いた。
 それからまるで花びらが舞うが如くの舞を披露した。
 大きな扇を両手に舞う姿は、まるで蝶のようだ。
 そんな芸女達に、小春も美紗も目を輝かせた。これぞ、憧れていた世界である。
 しばらくはそうして芸女が待っていたが、そのうち太夫がぱんぱんと手を叩いた。
「練習したの?」
 厳しい声音でそう言った。
「はい」
 おずおずと答える芸女に、太夫はさらに厳しく言う。
「そんなんでお客様に見せられると思ったら間違いよ」
「すみません。練習し直します」
 二人の芸女は頭を下げるなり扇を閉じて、脇に戻ってしまった。
 小春には、一体どこのどの部分が悪かったのか、全く分からなかった。隣では美紗も同じような顔をしていた。小春の目には、芸女達は完璧に見えたのだ。それなのに、太夫は褒めるどころか駄目だと言った。
 小春の脳裏に、再び『氷の世界』という言葉が浮かびかけたが、小春はそれを振り払った。
 続いてまた芸女が出て来る。出て来ては太夫に批評を述べられて戻って行く。それが何度か繰り返されて、稽古は終了となった。
 すると小さな見習い達が琴やらの道具を丁寧に布などにくるみ始める。そうして持って行くのだった。
 小春と美紗もそのまま座敷を出る。
 出る途中に、かすかに聞こえた。
「あの小春って子、呼んでもいないのにねぇ」
 誰が言ったのかは分からなかった。
 しかし、小春はしばらくの間、そのまま動けなかった。


 その夜、一座の座敷はいつもの通り、大勢の客で賑わっていた。各座敷に数人の芸女がついて、舞を披露するなどして、客をもてなした。
 美紗と小春は、運び役として料理や酒を各座敷に運ばせられた。
 客が増えてくればそれだけ仕事は忙しくなり、二人を含む見習い達には、ああしなさいこうしなさいのたくさんの指示が出た。
 しかし、元々料理屋で働いていたため、あれこれ使われるのには慣れっこの小春と美紗は、次々と仕事をこなしていった。
 
 本格的な見習いが始まったのは次の日からだった。
 昨夜のような仕事ならばお任せの小春だったが、舞や作法の稽古となると、どうも上手くいかない。
 それに対して美紗は次から次へと成功していき、その度に芸女達に褒められていた。
 苛立てば苛立つほどに、着物のすそに足をとられて転倒したり、謡う声が裏返ってしまったりする。小春はいつしか、美紗の引き立て役になりかけていた。
「美紗は本当に上手いねえ。いつか立派な太夫さんになれるわぁ」
 芸女の褒め言葉の下には、それに比べてという言葉にならない声が隠されているように思えてならない。
 嬉しそうに微笑む美紗を横目に見ながら、小春は自分に劣等感を感じていた。
 それでも小春は、劣等感を感じれば感じるほど、意地になって舞の稽古を続けた。
 そんな調子で月日は過ぎていった。小春がことごとく失敗を繰り返し、芸女達のため息に耐えながら舞に悪戦苦闘する傍らで、美紗は次々と成功していった。
 小春にはまだ難しいのねと笑いを作って言うくせに、同じ年の美紗には次々と褒め言葉を投げる芸女達。彼女達が影で、小春の事を『おまけ』と呼んでいる事も、小春は知っていた。

「小春、始めなさいな」
 千絵が稽古に来ている日。千絵はその冷ややかなまなざしで小春を見据えながら、言った。
「はい」
 小春は大扇を両手に、舞を始めた。この舞は、『蝶の舞』といって、琴風一座代々、昔から続いている舞だという。それだけに、ことさら稽古は厳しい。
 真っ赤な大扇を動かしながら舞う姿が美しいと評判になり、以前ここら一帯の領主であって、お城のお殿様である瀬川様にも呼ばれた事があるのよと千絵も言っていた。
「違うわ。それでは蝶には見えない。百歩譲ってハエだわね」
 千絵はこう、即座に言う。
「ごめんなさい、もう一度やります」
 小春は意地でもそう言ってまた舞い始めるのだが、また少しも立たないうちに、千絵は言うのだった。
「もうおやめなさい」と。

 次の日の稽古場でのことだった。一通りの舞を終え、芸女達は座敷のあちらこちらで各自の稽古を始めていた。
 ふと目をやると、美紗が千絵に呼ばれ、華吹太夫のもとへと向かってゆくのが見えた。一体何のお話があるのだろうかと小春の目もそちらへ向いたままになり、琴を弾く手は自然と止まる。
「どうした?」
 琴の稽古に付いてくれている芸女、君奈(きみな)が小春の顔を覗き込んだ。
 君奈とは、小春よりも十五も年かさの芸女で、芸の手つきも手慣れた貫禄のある女である。髪を顎のあたりで切りそろえ、突き出た胸を少しばかり紺の着物からのぞかせているという、少々変わった格好ではあるのだが、『おまけ』と後ろ指をさされている小春にも、稽古の相手をするなどの世話をやいてくれる優しい女であった。
「いえ……」
 慌てて目をそらすもののすでに遅く、君奈は小春の目が向いていたところに気付いてしまった。それから、目を細めて言った。
「おや、美紗は何かしたのかねえ」
 君奈はそう言うが、小春はそうではないことを確信していた。今まで美紗は、稽古の途中で注意を受けることはあったものの、呼び出されて叱られるなどということがあったためしはない。きっと出世ごとか、そうでなくとも何かをほめられるのであろう。
 小春の目は再び美紗へと向けられていた。嫉妬の心が少しもないと言ったら嘘になる。けれども、妬む心があまり湧かないほど、自分と美紗には大差がある、と小春は思っていた。
「何であれ、いい知らせならば後で教えてくれるだろう」
 そう言って、君奈は小春の顔を琴の方へと向かせた。
 小春は内心気にはなっていたが、人のことを気にしていられるほどの余裕はないのだからと指を動かし始めた。

 美紗が昼の稽古でのことを知らせてきたのは夜のことである。
 見習い用の座敷の中で、布団の上にちょこんと正座して、美紗はすべてを話して聞かせた。
「ねえねえ小春ちゃん、今日千絵さんから聞いたんだけどね、わたし、華吹太夫さんのお付きの見習いになるんだって」
 美紗の顔は以前、店に一座からのお誘いの文が来た時と同様、満面の笑みであった。
「そうなの、よかったねえ……」
 小春の予想は当たった。これは出世にあたる。また二人の間が離れていくのだ。しかし美紗はそんなことは気にするふうもなく、さらに言った。
「千絵さんも、太夫さんも、わたしには素質があるからって、それで明日にはねえ……」
「この座敷を出て、太夫さんとこへ行くんでしょ?」
 小春が続きを言うと、美紗はうんうんと嬉しそうにうなずいた。小春はそんな嬉しそうな美紗を見つめながら、笑顔をつくるのに必死だった。
 美紗はその喜びのせいで気付いていないのであろう。小春の目が少しばかりうるみ、口元がかすかに引きつっているのを。
「すごく嬉しい」
 にっこりと笑う美紗を見ながら、小春の胸は羨ましさよりも悲しみで焼けそうになっていた。
 ああ、美紗ちゃんは明日から、太夫お付きの禿(かむろ)用の赤と金の綺麗なべべを着て、べっこう色のかんざしをさすんだ。そして太夫の後ろで、太夫に付いて行くんだ。小春の思い浮かべた美紗は、美しかった。しかしずっと遠く見えた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、美紗ちゃん」
 灯っていた明かりが消され辺りが暗くなると、座敷の見習い達は皆、小春も美紗も寝床に入った。小窓の障
子からはかすかに月明かりがもれていた。
 結局、美紗の口から小春の望んでいた言葉は出てこなかった。美紗は今となっては小春と離れていくのを何とも思っていないのであろう。当たり前のことかもしれないが。
 小春は目の奥によみがえる花風車屋での思い出を懐かしみながら、頬を伝った一粒の涙をそっと拭った。
 そして、眠りに落ちていった。

 

2007/12/09(Sun)16:10:15 公開 / 神奈
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■作者からのメッセージ
 はじめまして、神奈です。
 以前もいくつか投稿をさせていただいていました。
 今回の作品は、「江戸を舞台」と書かれていますが、歴史に沿ってはいません。なので、勝手ながら和風ファンタジーの感覚で読んでいただきたいと思っています。
 おかしな所も絶えないと思いますが、どうぞよろしくお願いします。
 厳しい意見、感想、アドバイスをお待ちしています。

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