『やえ桜 序』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:有栖川                

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 やえ桜



  序

 遺体の眼ははっきりと空へ向けて見開かれ、泥水の染みた筵の上から、こちらをじっと見あげていた。
 擦り切れた着物から四つ飛び出した細枝のような手と足は既に完全に固まって、なんとも痛々しく、ものがなしく、憐れな骸一ツだった。
 人としての尊厳さえ無遠慮に剥ぎ取られたような死のありさまが、私の目にはこのときただただ哀れにうつっていた。投げ出されたような四肢、からだ。それが一つ、物言わず横たわっている。私はじっとそれを見た。結局それで泣けるほどには私も人らしくなかったのだが、骸を見つめ続けるうち、何をか言うべき言葉も見つからないままに、なんと形容してよいかわからぬ感情がしずかに溢れ出していた。
 ――嗚呼。
 どこもかしこも細かった。華奢などという生ぬるいものではなく、非常に細くたよりなかった。腕も足も肩も首も腰も背も、持てばそのままぽきりと折れてしまうのではないかと思うほどの細さだった。いったい生前どのようにして、こんな足で立っていたというのか、こんな足でどれほどを歩けたというのか。こんなにも細々とした腕でいったい、生きるための何をつかむことができたというのか。
 しかしこの体はつまるところ、これほどに細ってしまうまで生きることを諦めなかったのだった。そのことを私は知っていた。しぶといまでに生きていた体だった。それなのに、ついに糸が細って自然と千切れてしまうように、非情にうたれて終わったのだった、いったい何一つ報われぬまま、このからだは永遠に時を止めたのだ。
 白蝋よりも青白く、紫色に冷え固まり、そのうえ変に黄ばんでしまったそのからだに触れたらどんなに冷たかろうか。そう思いながら、しかしその勇気も持てぬまま、私はその少女の名前をつぶやいた。
「やえ」
「――知り合いですか、逢坂さんの」
 隣で遺体に手を合わせていた伏見が、おどろいて顔を上げた気配がした。細面のとがったあごと、霧雨に濡れてはりついた髪の先から、雨水をぽたぽた滴らせているのが、見ないでも知れた。ぬれねずみであることは本人も気付いているのだろうが、私が傘を差そうとしないので、自分も遠慮しているのだ。
 このときにその顔を見返すのが厭だったので、私はその少女に眼を留めたままうなずいた。「知り合いというほどではないがね。この子の名前はやえだよ、どうせ手を合わすならそう名を呼んで送ってやってくれ」
 伏見は言われたとおりにしたらしかった。遺体に向かって手を合わせなおし、もごもごと口中でつぶやいてから、そのままで眼だけぱちりと開け、「幾つですか」と尋ねてきた。
 やえの正確な年齢など、私とても知らなかった。さきほども言ったが、私とやえは知り合いというほどの知り合いではなかったのだ。私たちは友人であったが、同時にお互い、かたくなに互いに対して異邦人であり続けた。それが私たちのあいだの約束ごとだった。お互いに踏み込まぬこと、それが、哀しいほど弱かった私たちに唯一できる邂逅のかたちだったのだ。
 ――年齢など。微苦笑が漏れた。年齢など、おそらくやえ本人さえ知らなかったに違いないのだ。十か、それよりも少し幼いか。八つほどだったのだろうか。いづれにせよ、これは早すぎる死というほかなかった。十にも満たぬ少女がひとり、雨上がりの川辺で遺体で発見されなければならないような世の中を、いったいどう説明してやればあの子の供養になるのだか、今はさっぱり解らなかった。
「さあね」
「さあねって、知らないんですか。僕の見たところ、六つか七つか、それぐらいに見えますが」
「そんならそうかもしれないがね。私は八つぐらいだと思っていた。まあでもどちらでも同じだよ、今さらだ」
 伏見は怪訝な顔のまま、せわしなく私とやえの可哀想な遺体とを見比べ、私と彼女がどういう関係であったのか訊くべきか訊かざるべきかという逡巡の符を頭のまわりに浮かせていたが、やがてその頭はやえを見下ろすところで止まった。
 思い切ったように彼は、そのままで私に問うてきた。予想していたこととは少し違うことだった。
「引き取り手はあるんでしょうかね」
 私は首を振った。「おらんだろうね」
「孤児ですか」
 この問いには、私は答えづらかった。どう答えてよいか考えあぐねている間に、やえを孤児と結論してしまったらしい伏見は、「それじゃァ無縁仏になるわけですか。さらに可哀想なことで……」と、つぶやいた。茫洋としたその声は、純粋に幼い少女の死を悼む響きをもつ声だった。誰であれ悼まずにはおれないであろう遺体一つ前にして、誰もが同じような顔で同じような声で同じようなことを言うであろうこのときに、私はそれよりもさらに果てしなく茫漠とした思いで、やえの見開かれた二つの眼を見つめていた。濁った眼球。落ち窪んだ眼窩。虚ろな二つの、眼。
 もう何も見ることがない、一対のまなこ。
 この眼が生前どんなふうにものを見たか、今さらながら、私は知りたかった。手遅れと知りつつ、私はそれを願った。
 雨が、降る。
 卑怯なものわかりを言い訳にして、年端もいかぬ少女に大人の関係を強いた私の狡さが今、細かな霧雨となって私の全身を濡らしていく。
 かかわりを放棄し、心も頭も麻痺させて、あさましい安寧に逃げ込んで、あの少女に結局何もしてやらなかった私の冷たさが、今、この雨に溶けている。そうに違いない。それでなければこうも冷たく、熱いはずがあろうか。
「ひどいことだね……」
 私はそうつぶやいて、面を天に向けた。曇天がわずかずつ砕けるようにして降る霧雨が、私を、死者を、人びとの声さえ濡らしていく。
 やがて駆けつけてきた警察に遺体がひきとられてゆくまで、私はその場に立ち尽くし続けた。伏見はそんな私から一歩はなれ、二歩はなれていったが、ひとりで帰りはしなかった。気の済むようにさせようと思ったのか、すでに私の奇行には慣れてしまっているだけなのか、心得たもので、彼は話しかけてきたりはしなかった。ただその間、ただ私を遠巻きに見ているらしい気配だけが感じられていた。それがほんの少し暖かく、同時にわずらわしく、私は世界を切り離したようなていで霧雨を降らす天を仰ぎ見ながら、実際そのようなことに気を取られてもいたのだが、最後は伏見の気遣いとやえの遺体とこれまでのやえとの思い出と、それらのどこにもおさまりようのないこの自分というやつと、全部が混然と混じり合って、なんとも甘苦い気分になった。これがいつも、私が最後にたどりつくところだった。こうなれば私は動き出すことができるのだった。
 私は伏見を呼び、帰ろう、と言った。伏見はうなずいて私の先に立った。私たちは並んで帰途についたが、どちらも傘を持っていなかったので、ただ濡れて歩き続けた。途中、私の体を慮った伏見が傘を買おうと提案したが、私はあえてそれを断った。
 夏の雨は、ただただ無慈悲に私を冷やした。





 

2007/10/30(Tue)20:03:22 公開 / 有栖川
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■作者からのメッセージ
YOU読んでみたらいいじゃない(黙れ

短編〜中編予定です。どっちみちあまり長くはしませんが、更新が小出しになったり停滞したり等、申し訳ない事態は少々予想されます。それでも付き合ってやるぜーという奇特なYOUは読んでみたらいいじゃない(二度目

すみません。

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