『そうだといいな』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:infinite                

     あらすじ・作品紹介
大学の人気者男ジローは、実は人間関係など面倒くさいと思っていた。そんな中、彼の部屋に、真歩という究極に面倒くさい女の幽霊が住み着くこととなった。ジローは真歩の存在に苦悩するが、そんなある日、真歩からある物を両親に届けてほしいと頼まれる。

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 窓から入ってくる日の光だけが部屋の中を照らす。
 開け放たれた窓から網戸ごしに入ってくる風が青年を撫でる……。
 夏の蒸し暑い六畳部屋の中で青年は、上は白いTシャツ一枚で窓際に座り窓の外を見下ろしている。静かに、ただ無意識に、ただひたすら人形のように……。
 部屋の中は散らかっているものもなく、こざっぱりとしている。それだけが原因ではないが部屋の中は広い。青年は広く感じている……。

  そうだといいな

 ピリリリリリリ……
 昼の賑わっている大学の食堂は、左右どこを見渡しても生徒達で溢れている。そんな中、彼女のサキと昼飯を食べていたところに、俺の携帯のシンプルな着信音が鳴り響いた。
「あ、ごめん。でていい?」
「うん。いいよ」
 俺はサキに断ってから電話にでた。
「はい。もしもし」
「あ、ジロー? 山崎だけど」
「そんなこと言われなくても分かるよ。どうしたんだよ」
「それがさぁ、次の英語の授業の宿題わすれちゃってさぁ、答え見せてくんない?」
「あぁ……まぁ、いいよ。後で見せるよ」
「いや、後でじゃ間に合わないって! 昼のうちに終わらせたいから、今、来てくんない?」
「今って、今すぐ!? 無理だよ。いま俺食事中だよ?」
「そこを何とか頼むよ。今回はさすがにまずいんだって! ホント一生のお願い!」
「おまえ、それ何回目の『一生のお願い』だよ。小学生みたいなこと言ってんじゃねぇよ。
 ……あぁ、もう。分かったよ。今持っていくよ。今どこにいんの?」
「お、さすがジロー。ありがとう! 今、中庭のベンチに居るから」
「あぁ、分かったよ。じゃ」
 俺は電話を切って、それをズボンのポケットの中にしまった。
 ……本当に面倒くさいことを頼まれてしまった。サキと楽しく食事してたところだったから尚更だ。
 少々気まずいが仕方ない。俺はサキに言う。
「ゴメン。今、友達が宿題の答えを今すぐ見せろって言ってきてさぁ……。すぐ戻ってくるから行ってきていい?」
「う〜ん……いいよ」
 サキは、白く整った顔を歪ませ、少し不機嫌そうに答えた。
「ホントごめん! 今度なにかおごるから……。すぐ戻ってくるから!」
 俺はそれだけ言って、逃げるようにその場を立ち去った。
 この大学の中庭は、食堂を出て、外のコンクリートタイル張りの道を横切り、校舎のB棟の中を通過したところにある。俺は走ってその場へ向かっていく。
「お、ジロー。そんなに急いでどこ行くんだ?」
 食堂を出る寸前のところで聞き覚えのある声。振り向くと、そこに居たのは第二言語で同じクラスの内藤だった。
「ちょ……今急いでるから今度説明するよ。じゃ」
 俺は簡単にそれだけを言うとまた走り出した。今はのんびりトークしてる時間はない。
 外に出ると、やはり今は昼休み。五月の心地よい日差しの中、道の端のベンチで友達同士で飯を食っている奴、どこかへ向かって歩いている奴、道のど真ん中で円になって話している奴等など、たくさんの生徒が居て賑やかだった。俺は、それらの間を通り抜けるようにして先に進む。
「あ、ジロー!」
 今度はB棟に入ろうとしたところでサークルの友人、ミキとナナコだ。彼女は他にも三人ほどの友達と歩いていた。
「おう! 明日のサークルでまた!」
 笑顔でそれだけを言って、また走り出す。
 それからも中庭のベンチまでの道のりの途中で色々な友達とすれ違った。英語のクラスが同じでハンドボール部の木村。専門科目が同じでギャル男の田中。ゼミが同じでパソコンオタクの紀州……。急いでいるときに限って何故こんなに遭遇するんだ。面倒くさい。
 俺は、とりあえずそれらの全てには軽くあいさつだけして、ほとんど立ち止まることなく走り続けた。
「おーい、ジロー!」
 B棟の中を通過し、中庭に出て、芝生が生い茂る中庭の中心付近まで来たところでまた声がした。この声は……。
「あ、山崎!」
 俺をここに呼び出した張本人だ。奴は、俺が入ってきた辺りとは反対方向の端のベンチに座っていた。わざわざ少し気付きにくいところに居やがった。俺は山崎のもとへ駆け寄った。
「いやぁ、悪い。そんなに急がして」
「ホントだよ。……ほら、これだろ? 次は忘れんなよ」
 俺はカバンの中からノートを取り出し、山崎に渡した。
「サンキュー! え〜と、じゃあ、これは授業のときに返せばいい?」
「おう、そうしてくれよ。じゃあ、俺は行くから」
「ホントにサンキューな!」
 そう言った山崎には、また走り出してから、背中を向けたまま右手を挙げて答えた。

「思ったより早かったね」
 少し息を切らせて帰ってきた俺にサキは言った。俺は、とりあえずサキの向かいの席に座る。
「ま、走って行ってきたからね。待った?」
「別に。ジローの力走のおかげで少しで済みました」
「何だそれ」
 俺は笑いながら言った。サキもつられて笑い出す。
 サキは青森出身の大学二年生で、俺とは同い歳。彼女とはもう半年ほどの付き合いになる。彼女はテニスサークルに所属しており、経験もあったおかげか結構上手く、おまけに顔も良いので人気がある。高校の時、ミスコン一位に選ばれたこともあるそうだ。全く良く出来た彼女だ。
「そういえばさ」
 しばらく微笑みあった後、笑いがある程度おさまってきたところで、相変わらずの周りの賑やかさに掻き消されまいと、サキはやや声を大きくして言った。俺は聞き返す。
「何?」
「今日だったよね。ジローが一人暮らしを開始するの」
「あぁ、そうだよ」
 そうなのだ。今日から俺は大学の近くのアパートに住む。今までは大学まで片道二時間半、往復で五時間かけて通っていた。しかし、それもそろそろ限界になり、ついに一人暮らしすることにした。一人暮らしは自分で家事とかもやらなくちゃいけなくて色々と大変らしいが、往復五時間かけるよりはマシだ。
「引越しの荷物とかはどうしたの?」
 もう昼食のパスタを食べ終えていたサキは、ペットボトルのお茶を飲んでから言った。俺はまだまだ残っているカツ丼を一口食べてから答える。
「必要最低限のものは、とりあえず今日持っていってあるけど、あとは単身パックで夕方に届くことになってる」
「え? そうなんだ。友達とかに頼んだりするわけじゃないんだ」
 俺は、またカツ丼を一口食べる。
「う〜ん、それも良かったかもな」
「そうだよ。そっちの方が安上がりだったんじゃない? ジローが頼めば誰かしら手伝ってくれたと思うし」
「うん。次のときはそれでいくよ」
 俺はやっとカツ丼を半分食べ終えた。

 同日の夕方、俺はアパートの中に運び込まれた十数個のダンボールに囲まれて荷物整理をしていた。ところどころで積み上げられたダンボールたちは、六畳の狭い部屋を占拠している。部屋に二つついている窓から入ってくる夕焼けオレンジ色の光が、俺に時刻を教えていた。
「くそ、果てしねぇ!」
 一人暮らしの割には多いと言える俺の荷物たち。本、CD、、衣類、TVゲーム、野球道具……。ついつい、色々なものを持ってきてしまった。これらを今日中に一人で片付けるには無理がある。
 くそぅ。やっぱり友達に頼んで手伝ってもらえばよかったかもしれない。
 ……いや、しかし、そうもいかない。
 確かに俺は、どんなタイプの人間とも話せて、また、だいたいどんな話題にもついていけるとだけあって、友達は多い方と言えるだろう。覚えやすい単純な名前と、人の顔と名前をすぐに覚えられるというのも、それを助長する大きな要素といえる。しかし、やはり引越しの手伝いは頼まない。それというのも、もちろん、これを頼んだところで友達との友情に傷がつくとは考えにくい。が、友達にこういうことを頼むと、おそらく昼飯くらいはおごらなくてはいけないだろうし、夜通し新居で宴会を開かれたりもしかねない。その上、引越しを手伝ったということでウチに馴染み、度々泊まりに来られるということにもなるだろう。それは面倒くさい。面倒くさいのは嫌いだ。

 クシュクシュクシュ……
 荷物整理も一段落し、風呂にも入った俺は、洗面所の鏡の前で歯磨きをしていた。やがて歯磨きも終わり、うがいをしてそれを流しに吐く。
「はぁ〜、やっと寝れる」
 俺は鏡に向かって一人つぶやいた。鏡には、疲労と眠気の入り混じった俺の顔が映っている。
 今日は何かと疲れた。夕方にこの家に来て、その後すぐに荷物が届き、その整理に追われ、その後は新居で初めての夕飯を買ってきたり風呂に入ったり……。何事も初めてのことというのは疲れるものだ。時刻はもう夜中の二時を回ってしまっていた。
 俺は、鏡の前で軽く髪を整え、さてもう寝るか、とベッドの方へ振り向こうとした。が、そのときだった。
 ヒュ〜〜……
 俺の背中辺りで、左から右へ風が吹きぬけた感触がした。それは、いつも外で吹き続けているようなものでもないし、扇風機で起こすようなものでもない。例えるなら、人とすれ違ったときに感じる微かな風だ。しかし、ウチには俺以外には誰も居ない。とすると、どこかの窓を閉め忘れたのか?
 ……いや、さっき全て閉めたはずだ。しかも、よく考えてみれば、そもそも洗面台の辺りには窓すらないはず。じゃあ、一体何故……。
「気のせい……だよな」
 俺はまた鏡に向かってつぶやいた。鏡には、相変わらずダルそうな俺の顔が映っていた。
 俺も疲れているらしい。本当にさっさと寝よう。俺はそう思って、またその場を離れようとする。
「独り言多いね」
 突然、俺の真後ろで声がした。俺はとっさに後ろを振り返る。
「うわっ!」
 俺は思わず叫んでいた。それもそのはず。俺が振り返ったすぐそこには見知らぬ女がいたからだ。女は俺を見て微笑みながら言う。
「お、いい反応するね〜」
「いや……、だ……誰ですか?」
 俺は改めてその女を見た。少し茶色がかったセミロングの髪は後ろで束ねていて、顔は白く細く、目は大きいとまではいかないが黒い瞳が印象的だ。服装は、上は英語のロゴの入った白いTシャツで、下は白いラインの入った黒いジャージ。いわゆる部屋着だ。しかし、だからこそ疑問が残る。
「どこから入ってきたんですか!? どうしてここに?」
 家の鍵は閉めてある。窓も閉まってたはず。では、どこから、どうやって入ってきたというのだ。しかも部屋着。ウチに部屋着で入ってくる人間など、まだいないはずだ。
「まぁ、とりあえず落ち着きなって。ささ、居間にでも座って……」
「いや、それ、あんたの言う台詞じゃないだろ。一体な……」
 俺が言い終えるより先に遮られ、腕を引っ張って居間のほうへ連れていかれた。
 居間の小さいテーブルの前に座らされ、奴はその正面に座った。
「あの……誰なんですか?」
 テーブル越しに座ってワンテンポ置いてから尋ねた。二度目の質問だ。女はそれを聞くと口元をにやけさせ、やたら笑顔になった。凄く嬉しそうな顔だ。
「え〜とね……幽霊!」
「はぁ? 幽霊?」
 俺は思わず聞き返していた。何を言い出すかと思えば……。
 女は、事態が飲み込めず絶句している俺を差し置き、語りだした。
「あたしさ、この部屋の前の前の住人なんだよね。そんときにちょっと事故っちゃって……。そんなこんだで、今はここで幽霊やってます」
「はぁ、そうなんですか……」
 女の、あまりのさらっとした説明に呆然とし、そんな生返事しかできなかった。しかし、女は好奇心にあふれた子供のような表情で俺を見ていた。そして言う。
「どお? 驚いた? 怖い?」
 女は、好奇に満ちた顔で訊いてきた。そう言われても――
「いや、全然怖くないし、それ以前に信じられないんですけど……」
 女は、俺のその言葉を聞いた瞬間、今度は不機嫌そうな子供のような顔をした。なんて露骨に表情が出る奴なんだ。
「えー、まだ信じてないのぉ〜? 鈍いなぁー。さっき、鏡の前にいたときのこと思い出してみ」
「え? 鏡の前?」
 はて、鏡の前にいたときといえば……。確か、俺は鏡の前で歯磨きをして、その後に独り言を言ったら、後ろから声がして、後ろを振り返ったらコイツがいて驚いて……。ん? 後ろを向いたら!?
「うわっ!」
 気づいた瞬間に俺は叫び、後ろに手をついていた。女は俺の反応を見て機嫌をとり戻したのか、また笑顔になった。
「あ〜、やっと気づいた〜」
 女は嬉しそうな声を出した。
 ……間違いない。コイツは幽霊だ。あのとき俺は鏡の方を見ていて、声がして後ろを振り返ったらコイツを見つけて驚いた……。『後ろを向いたらコイツが居た』んだ。つまり、コイツが後ろに居たのなら鏡を見ている時点で気づいているはずだ。それでは、なぜ気づかなかったのか。それは、コイツが鏡に映ってなかったからだ。普通の人間なら鏡に映る。
「本当に幽霊なんですね……」
「うん」
 女は高い声でうなずいた。
 それから二人はしばらく黙り込んだ。というのは、まず俺が自分の頭の中を整理するのに集中してて何も言えなかったのと、女の方もそれも察してか何も言わず、ただ横を向いて足を伸ばし、片手で自分のもみあげ辺りの髪をいじくっていたからだ。
 ……ってか、幽霊って本当に居たのか……。俺はやはり信じきれない。何せ、いままで生きてきた中で幽霊なんて見たことないし、仮に居たとしても、なんかこう……会っただけで背筋が凍るような雰囲気をもつものだと思っていたからだ。しかしコイツからは全くと言っていいほど背筋に影響するものは感じない。
 やはり、幽霊ではないのか?
 しかし、奴が鏡に映っていなかったことは事実だ。やはりこの女は……。
 何分経ってからだろうか。ようやく俺は口を開く。
「あの……名前は……」
 例え相手が誰であっても、これは基本だ。名前を聞かないことには何も始まらない。
「マユミ。真実の『真』に『歩く』で真歩」
「はぁ、そうですか……。俺は――」
 言おうとしたところでマユミは、スッと俺の顔の前に手の平を出した。要は、「しゃべるな」のサインだ。とりあえず俺は、彼女の手の指と指の間から彼女を見る。そこにはマユミの真面目な顔があった。その彼女の黒い瞳が、ただ一点、俺の目を見ていた。彼女のマトモな顔を初めて見た気がする。……が、それはほんの一瞬だった。彼女はすぐにまた元の笑顔になり、手を引っ込めた。
「平尾ジロー君でしょ」
「へ?」
「幽霊のあたしに調べられないことはあまりありません。次の住人の情報くらい調べてあります」
「そうなんですか……」
「うん。当たり前じゃん。やっぱ気になるし」
 そういうもんなのか? まぁ、俺にはよく分からないが。
「それでさ」
 マユミが続けるように言った。俺は聞き返す。
「はい?」
「ちょっと頼みがあるんだけどいい?」
「頼み……というと?」
「うん。一応さ、ここは、あたしが生前に住んでたところっていうのは話したよね。それでさ、ここマジで居心地いいんだよね。だからさ、ここに住み続けちゃ駄目かな?」
「え?」
「もちろん、幽霊だからご飯も食べなくて大丈夫だし、物も壁も通り抜けられるから場所もとらないに等しいし、もうホントお構いなくでいいから。いいでしょ?」
「はぁ……、まぁ、いいですけど……」
「よっしゃ。ありがとう!」
 得体の知れないもの相手だったからだろうか。なぜか断れなかった。
「よし、じゃあ、もう寝ていいよ。あたしもその辺で適当に寝るから」
 幽霊なのに寝るのかよ。俺は心の中でそうツッコみ、ベッドへと向かった。
 ふぅ〜、やっと寝れる。そう思ってベッドに入った。柔らかい布団が俺を包み込む。
「おやすみ〜」
 マユミがそう言って電気を消した。そういえば俺は電気を消し忘れていたんだな。奴も少しは役に立つところがあるようだ。
 とりあえず目を閉じて、今日の出来事は夢なのかもしれないと思う。きっと、朝、目を覚ませばこれは夢だったんだと確信できる。そんな気がした。
 しかし……。
「ジロー、寝顔かわいいね!」
 とっさに目を開けたら、すぐ目の前にマユミの顔があった。
「もう寝かせてくださいよ!」
 俺はそう言って、布団を巻きこみつつ寝返りをうった。
「ふふ……」
 マユミのそういう笑い声が聞こえたのを最後に、俺は夢の中に入った……。

「いただきま〜す」
 マユミが俺の前で夕食のハヤシライスを食べ始めた。
「おいし〜い!」
 食べてはそういう風に嬉しそうな声をだす真歩……。
 最初に真歩は「ご飯は食べなくても大丈夫」と言っていたが、真歩の前で一人だけで食べるのも気がひけて、結局いつも夕食は二人分用意している。そもそも幽霊って飯が食えるのか? と最初は疑問に思ったが要らぬ心配だったようで、毎日普通に食べれていた。普段は透き通る幽霊でも、触れようと思えばフォークもナイフも箸も皿も持てるし、それを腹に入れることもできるらしい。
 この家に住み始めてからもう二ヵ月が経っていた。ようやく家にも慣れ、同時に真歩にも慣れてきた。
 
 しかし、最初のころは本当に大変だった。例えば――

 俺はいつものように授業開始五分前に一時限目の授業の教室に到着した。俺は大学の正門前で偶然会った友達、久田と共に教室のドアを引いて中に入った。
この授業の教室は二〇〇人くらいが入る大きい教室を使っており、広い。前にある教壇に向かった斜面にいくつもの長い机が並んでいる。しかし、俺はいつもこの部屋が『広い』という印象は受けない。なぜかって、それはやはり、いつも授業開始五分前に来てるもんだから、人がほぼ満員状態で座っているからだろう。例えどんなに広いとこに居ても人が密集してたら狭く感じるものだ。要は人口密度が高いのだ。
 この日も例外なくそうだった。周りを見渡しても、友達と二人で座れる席を探すのに一苦労だ。
「あそこ開いてるじゃん」
 久田がようやく隣り合った二人分の席を前の端の方に見つけ、指をさす。久田に促され、俺たちはそこに座ることにした。
「前のほうだけど、まぁいっか」
「そうだな。この授業なら関係ないだろ」
 そんなどうでもいい会話をしながら、俺は席に座り荷物を置く。俺は奥の席に座った。が……。
「ジロー、おはよう!」
「おはよう!」
 俺は久田とは反対側からした声に反射的に反応していた。なんだ。隣は知り合いか。俺はこりゃまた反射的にそう思った。
 しかし、この声は誰だったか……。そう思いつつ、声の方向を見る。
「うわっ!」
 俺はまた思わず叫んでいた。
 ……隣に居たのは真歩だったからだ。彼女は嬉しそうにニヤニヤ顔をしていた。
「ジロー、どうしたんだ?」
 久田が心配そうに聞いてきた。俺は素早く弁解する。
「いや、ちょっと思わぬ知り合いが居たから……」
「知り合い? どこに?」
「どこにって隣に……」
 俺は隣の真歩を指差して言った。まぁ、友達に紹介したところで害もないだろう。幽霊とはいえ、どこからどう見ても生身の人間だし。
 しかし、久田は浮かない表情だった。
「いや、誰も居ないじゃん。どんな冗談だよ」
 久田は半分笑いながら言った。
 そこで俺は早くも悟った。
 ……俺以外の人間に真歩は見えていない。

 他には、こういうこともあった。
 その日は野球サークルの練習があり、俺もグランドで練習に参加していた。準備体操やキャッチボールなどのアップも終わり、練習はシートバッティング。全てのポジションに守備がつき、ピッチャーが投げ、バッターが打つ、というものだ。要は、試合形式の練習といったところだ。そのとき俺は、バッターとして打席に立っていた。
「ジロー、頑張れ〜!」
 マネージャーたちの黄色い声援が聞こえる。
 ピッチャーは三年の山西さん。背が高くて角度のあるストレートを投げる人だ。しかし、この人の球は打ち慣れている。ここは一ついいところを見せるか。
 そう思ってから、俺は集中。ピッチャーの球の出所を見ながら、シンクロでタイミングを合わせる。
 山西さんが腕を振り上げ、足を上げる……。
 と、そこへ。
「ジロー、いけ〜!」
 あれ? なんか聞き覚えのある……そして、学校ではあまり聞きたくない声が……。
 俺は、とっさに声のした方向を見た。
 ……真歩だ。
 真歩がマネージャーたちに混じって俺の応援をしていた。
 なんで……なんで来やがったんだ、あいつは! いつも大学には来るなと言っているのに……。
 ズドーン!
「ストラーイク!」
 俺の知らぬ間にキャッチャーはボールを持っていた。

 これも他の日の話。
 午前で授業が終わった昼下がりの食堂。俺は、食堂でサキと窓際のテーブルを挟んで向かい合って座って話をしていた。話の内容は、最近のテレビドラマの話、友達の色恋沙汰、授業やバイトでの出来事など、至って単純。大学生がする話といったら、そんなとこが大半である。
 俺は、もちろんサキと話していて楽しかった。やっぱり彼女と話しているときは幸せだ。
 しかし、俺はところどころ彼女から視線を移さざるを得なかった。だって、そうだろ……。
 真歩がサキの隣に座っていたのだから。
 ったく、この女は……。しかも、話にいちいち頷くから余計に気になってしまう。
「ジロー、どうしたの? キョロキョロして」
 サキは、不安そうな顔で、遂に言った。

 こんな感じで、真歩は正直、面倒だった。俺以外の人間には彼女が見えていない、っていうところが特に……。
 一番、頻繁にあって困ったのは、一人で外を歩いていて声をかけられたときだ。最初は全く気にせず反応して話してしまい、周りにいた人たちには白い目で見られた。真歩が見えていない周りの人間からしてみれば、俺は独り言を言ってる怪しい奴にしか見えないのだろう。
「面倒くせぇ〜」
 そう叫びたくなった時もしばしばあった。しかし同居人相手、いや、普通の人相手でもそうだが、俺は人にブチぎれたりだとかそういうことはしたくない。そんなことで自分の評価を下げたくないからだ。怒りを抑えたりだとか、そういうちょっとした我慢で今の状態が維持できるなら安いものだ。
 それに、今となってはさすがにもう慣れてきた。最初はどうしようかと真剣に悩んだりもしたが、彼女の明るい性格のせいでもあるのか、時が経つにつれ気にならなくなり、むしろ真歩は俺にとって気さくな同居人という認識になってきたのだ。彼女のおかげで一人暮らしでも全く寂しい感じがしないし、寂しがり屋の人には是非とも一家に一人! という風にさえ思えてくるほどだ。怒る気も、もうとっくに失せた。

「ただいま〜」
「おかえり〜」
 五限まであった大学の授業を終え帰宅。だいたいいつも部屋に入ると真歩がいて、こんな感じで出迎えてくれる。最初は何となく違和感を覚えたりしたが、今となってはもう日常だ。むしろ、真歩がいないときの方が寂しいと思うほどだ。
 真歩は、毎日暇つぶしがてらどこかへ出かけている。授業が早く終わって帰ってきたときや休日などでも部屋に居ないことはあり、一日中部屋にいるわけではないようだった。最初の休日に真歩が出掛けようとしたのを見かけたときに、どこへ行っているのかを聞いたが、そのときの気分で適当に決めている、と彼女は答えた。幽霊もいろいろと大変なのだろう。
 しかし、共通して言えるのは、その時間はだいたいが昼で、夜には帰ってきている、ということだ。現に、今日もいつもどおり部屋に居た。
 ……しかし、今日は部屋に入った瞬間、いつもとは違うものを感じた。何かの匂いがする。この匂いは……。
 俺は居間のテーブルを見た。
「うお! 夕飯ができてる! 真歩が作ったの!?」
「へへ〜ん」
 真歩が得意気に言った。
 何で俺はこんなに驚いているのか。それは、もちろん真歩が夕飯を作ったからだ。今までは全部俺が作っていて、真歩が包丁を握ったとこすらも見たことはなかった。それなのに今日は……。
「さ、早く手を洗って食べて!」
「あ……うん」
 俺は洗面所で手を洗い、座敷のテーブルごしに座る。テーブルの上では親子丼と味噌汁が湯気を立てていた。両方とも、昨日俺が買っておいた材料で作れるものだ。
「いただきま〜す!」
「いただきます」
 まず、俺より先に真歩が親子丼を一口食べ、「ん〜、おいし〜い!」と、本当においしそうな顔をして言った。……毒はないようだ。
 俺も一口食べる。……うまい。これは初めて作ったという感じではない。結構作りなれている。こんなにうまく作れるなら、今までも作ってくれればよかったのに……。
「どぉ? おいしい?」
「うん。おいしいよ」
 真歩に笑顔で聞かれ、俺も笑顔で返した。
 ……しかし、本当に今日はなぜ……。さっきからそればっかり考えてしまう。それのせいもあって、それからはあまり会話はなかった。二人とも黙々と箸を動かし続けた。
 しかし、俺の親子丼が残り三〜四口になったときだ。
「あのさ……」
 真歩がおもむろに、気まずそうな顔をして言った。俺は聞き返す。
「何?」
「頼みがあるんだけど……」
 なるほど。そういうことか。どうりで今日は料理したわけだ。
「え? どんな?」
「実はさ、明後日って、あたしの三回忌なんだよね。それでさ、ちょっと両親に届けてほしいものがあって……」
「ふ〜ん。届けて欲しいものって?」
「それは今友達が持ってるんだけど、それを回収してから群馬まで行って欲しいんだよね」
「え? 群馬!?」
「そう。群馬の伊勢崎」
「自分では行けないの?」
「両親二人ともあたしのこと見えないから無理」
 群馬の伊勢崎ってどこなんだ? まぁ、仮に群馬南部だったとしても片道二時間以上はかかるだろう。……面倒くさい。

「伊勢崎〜、伊勢崎です」
 伊勢崎駅で電車を降りて、時間帯のせいか閑散としたホームの上を歩き、階段へ向かう。
 ……結局、面倒くさいと思いつつも群馬まで来てしまった。また断れなかった。まぁ、三回忌とか聞かされた時点で断れなくなっていたのだ。仕方ない。
 改札を出て、駅前に並んでいるタクシーの一つに乗り、行き先を告げる。真歩曰く、タクシーで十五分くらいのところなのだそうだ。
 走っているタクシーの中から窓の外を見る。そこには、二階建で一階が店になっているタイプの店たちが、道路沿いの両サイドに一列に並んでいた。先を見てもこの列はまだまだ続いていた。
 群馬といえば、もっと田舎なのだと思っていた。いや、もちろん十分田舎なのだが、何かこう……周りを見渡せば田園風景が、遠くを見れば緑の山々が自分を迎えてくれる……そういう田舎ではない。この商店街もそうだし、遠くの景色を見ようとしても、ただところどころ薄い雲が散らばるパッとしない空があるだけだった。

 特に渋滞も長い信号待ちもなくタクシーは進み、本当に十五分で目的地に着いた。大きな道路から少しはずれ、少し路地を進んだところだった。
 今、俺の目の前には二階建ての一軒屋がある。道路に向かっている面は南方向なのだろう。二階には黒い金属製の柵が囲むベランダがある。そして、一階にはベランダの柵と同じ色の黒のドア……。当たり前だが玄関だ。
 俺は、玄関より手前の、門に付いているチャイムのボタンを押す。
 ピンポーン
 チャイムが鳴る。その瞬間に、今までも早くなっていた心臓の鼓動がより一層早くなった。
 ガチャ
 インターホンに出られる前にドアが開いた。
 そこに出てきたのは黒い服を着た五十台くらいの女性。俺はゆっくりと一回お辞儀をする。

 とりあえず、家の中の座敷に通された俺はテーブル越しに座らされた。正面にはさっきのオバさんと、同じく五十台くらいの頭が禿げてはいないが白髪が目立つオジさん。なるほど顔を見る限りこの二人が真歩の両親らしい。特に母親なんかは目元が真歩そっくりだ。
「わざわざ遠い中お越しいただいてありがとうございます」
 母親がそう言いながらお辞儀し、同時に父親もお辞儀した。俺も改めて頭を下げる。予想はしていたが、なんだか居心地の悪い雰囲気だ。
 頭を上げた母親がゆっくりと言う。
「真歩とはどういったお知り合いで?」
「ええ。実は、真歩さんの友達だという人から、これを届けてくれと頼まれまして……」
 俺はそう言いながら、バッグの中から一冊の手帳を取り出して渡した。外面は透明のプラスチックのカバーで覆われ、中の表紙では数匹のディズニーキャラクターが微笑んでいる手帳だ。
 この手帳を持っていたのは、俺と同じ大学の近くに住んでいた真歩の友人だった。話を聞くと、真歩は、飲酒運転による交通事故に巻き込まれて死ぬ前日にその友人の家に遊びに行っていたらしい。そして、この手帳はそのときに忘れていったものだそうだ。
 その友人は、この手帳は真歩の両親に返すべきだとずっと思っていたが、真歩との仲……真歩との思い出がそれを拒ませていた。しかし、俺がそれを真歩の両親に譲って欲しいというと、これが良い機会だと思ったのか、こころよく譲ってくれた。
 母親が手帳を一ページ一ページ見る。目に涙を浮かべて……。俺も電車の中で少しだけ中身を見たが、手帳には毎日三行ずつくらいではあるが日記が書かれていた。この母親の中では今、自分の知り得なかった生きていたときの娘の姿や生活が、新鮮な記憶として再生されているのだろう。
 母親は娘の日記を、娘が死ぬ前日付けのものまでゆっくりと読んだ。俺は、その母親の姿をまともに見続けることができなかった。

「今日は本当にありがとうございます」
 俺が真歩の母親に呼んでもらった帰りのタクシーに乗る前に、真歩の両親はまた礼をした。
「いえ、それじゃ」
 俺は、それだけを言ってタクシーに乗った。行き先を告げると、車はすぐに動き出した。少しだけ進んでから、後ろの窓から彼らを見る。夕日の逆光で見にくかったが、彼らは、まだ俺の乗る車を見送ってくれていた。

「ただいま」
 群馬から二時間かけての帰宅。もう時刻は夜八時を回っていた。
「おかえり〜」
 部屋の隅で、右手でもみあげ辺りの髪をいじくりながらの真歩の反応。俺はバッグを部屋の隅に置き、テーブルの前に座った。
「届けてきたぞ。例のもの」
「……うん。ありがと」
「ご両親。泣いてたぞ」
「そう……」
 真歩は、そんな簡単な返事しかしなかった。
 それからしばらく会話は止まり、静寂が訪れた。部屋の中は時計の針の動く音だけが支配する世界になった。
「ふぅ〜、今日は疲れた。もう寝るわ。おやすみ」
 五分くらい経ってからだろうか。そのくらいになってようやく俺は静寂を崩した。まだ夕飯も食べてないし風呂にも入ってないが関係ない。今日は面倒にも群馬まで行って疲れたのだ。
 俺はすぐに部屋着に着替え、ベッドに入った。
「お休み」
「おやすみ」
 最後にそう言葉を交わすと、例によって真歩が電気を消した。それを境に俺の意識がだんだん遠くなっていく。今日はすぐに眠れそうだ。
「……ありがと」
 薄くなっていく意識の中で、かすかに真歩の声が聞こえた。

「ただいま」
 ………。
 返事がない。今日もか……。
 午後六時。大学から帰宅した俺だったが、部屋に真歩はいなかった。
 真歩に頼まれ群馬に行った日からだったか、彼女は部屋に居ないことが多くなった。いつもなら俺が帰宅する時間帯にはほとんどいつも家に居たのだが、最近では夕方に帰ってきてもいつも居ないし、大学にも顔を出さなくなった。毎日、夜遅くに帰ってきて、どこへ行っていたのかを聞いても、「別に」とか、そんな回答しかしない。一体どうしたというんだ。今日こそは強く聞いてみようか……。
「ただいま〜」
 夜十一時半。真歩が帰宅した。彼女はすぐに居間に来たが、特に話しかけてくる様子はなかった。
 仕方ない。俺から話しかけるか。
「今日はどこへ行ってたんだ?」
「う〜ん……ちょっとね」
 またいつもの回答か。しかし、今日は簡単には引かないぞ。
「ちょっとって、いつもどこかへ行ってるよな」
「別にどこでもいいじゃん」
 そこで真歩は俺に背を向けるように振り返ろうとした。洗面台の方へ逃げるつもりなのか?
「待てよ!」
 俺はそう言いながら、彼女の手を掴もうとした。しかし……
「……」
 彼女の手は掴めなかった。俺の手は虚しく彼女を透き抜けた。掴んだのは空気だけだった。ここで俺は、改めて彼女が特別な存在であるということを認めさせられた気がした。
 真歩は立ち止まり、俺のほうを見た。真歩は目を見開き、驚いたような顔をしていた。
 俺はゆっくりとした口調で言う。
「何があったんだよ。最近なんかおかしいよ。何かあったんなら相談でも何でも乗るのに……」
 真歩は少し俯いた。そして少しの間だまった。しかし、そのうち彼女は顔を上げ、俺の目を見た。彼女の目は少しうるんでいた。彼女はゆっくりと口を開く。
「あのね……あたし、もうすぐ消えるの」
「え? どういう……」
 そこで真歩は左手を差し出してきた。何なのだろうか。俺は意味が分からなくて戸惑った。そんな俺を見てからか、真歩が付け加える。
「あたしの手をよく見てて」
 ん? 手を? 俺はよく分からなかったが、言われるままに彼女の手をよく見た。真歩は、俺がちゃんと見ているのを確認してからテーブルの方を向き、俺がまだ片付けていなかった夕飯のときのご飯茶碗を持った。
 ……いや、持っていなかった。持てていなかった。彼女の指は、確かに掴もうとした茶碗を通り抜け、空気を切っていた。
 彼女は俺の方へ向き直った。
「今までできたことができなくなったの……」
 それって、つまりは……。
「あたしね、やっとあの世にいけるんだ。ジローのおかげで」
「え?」
「ジロー、あたしの手帳を群馬まで届けてくれたよね。それがあたしの心残りだったの。本当はすぐにでも届けたかったけど、お父さんもお母さんも、前の住人も、あたしのことが見えてなくてできなかった。だけど、やっとそれが叶った。心残りがなくなったら、幽霊は成仏するしかないんだよ。ありがとね」
 真歩の顔は笑顔だったが目が泣いていた。寂しい笑顔だった。その表情は、薄い雲に遮られた日の光を連想させた。いつも輝いてそこにあるものが歪んでいる。明るい彼女のする表情とは思えない。
「ちょっと待て……どうして黙ってたんだよ!」
 俺は思わず荒らげた声をだしていた。その声に真歩は少し俯き、それからまたすぐに俺の方に向き直った。潤んだ目が俺の目を見た。
「じゃあ、話してたら行ってくれた?」
「……」
 彼女の真剣な声に、俺は言葉を詰まらせた。
「……あたしだって、ジローとも、一方通行とはいえ他の人たちとも別れたくなんかない。だけど、誰も見えなかったあたしをジローだけが見えたんだよ? これは偶然なんかじゃない。こうなる運命だったんだよ」
 運命……。ただ出会って、ただ別れる。これが運命だというのか……。
 真歩は続ける。
「あたし、分かるんだ。あたしは今日から七日後に消える。何故だかは分からないけど、そんな気がする……」
 七日後……。今から一週間後。つまり、大学が夏休みに入るころか。
「ねぇ、ジロー。あたしたち、距離を置こうよ。別れるとき辛くない様に……。そうすれば――!」
 まだ話していた真歩を俺は抱きしめていた。それこそ何故だかは分からない。体が勝手にそうしていた。
 真歩の透き通った体は何の感触もしなかった。だけど、何か温かいものを感じた……。

「まずはどこに行こっか」
 着飾った若者やスーツ姿のサラリーマンなどが賑わう池袋駅前で、真歩はいつもの笑顔で言った。俺も笑顔で返す。
「じゃあ、あの店に行こうよ」
「うん!」
 二人で既に視界に入っていた時計屋の方へ歩いていく……。
 今日は真歩と二人でショッピングに来ていた。
 あれから俺たちは、真歩が去るまでの七日間は一緒に居よう、ということになり、毎日一緒にどこけへ出かけている。昨日は遊園地で、今日はショッピングだ。できるだけ多くの真歩との思い出を作りたい……。
「ねぇ、これにしようよ」
 時計屋の中で真歩は、二人の木製の小人が両サイドに付いている置時計を指差して言った。文字盤もギリシャ数字になっていて洒落たデザインだ。
「あ、これはいいな。買うか!」
「うん」
 初めての真歩との買い物も新鮮だった。周りの冷ややかな視線も気にならないくらいに……。
 次の日も、その次の日もいろいろなところへ出かけた。カラオケ、喫茶店、真歩の案内で群馬めぐり……。俺たちは思う存分に楽しんだ。そして、その楽しい日々は、時計の秒針が一つずつ進むような早さで着々と過ぎていった。確実に迫ってくるタイムリミットと共に……。
 途中でサキからメールが来て気まずくなるときもあったが、予定があるだのなんだとの適当に返しといて、大して気にならなかった。今は一秒でも多く真歩と居たいのだ。

 ザザーン……
 波の音と潮風、そして夕日の光が二人を包む。俺たちは人のあまりいない海岸のコンクリートの階段に腰掛け、海の夕日を見ていた。
 今日は真歩が消える日……最後の日だ。
 なぜ海に来ているのか。それは、内陸部に位置する群馬で育った真歩は海を見たことが無く、最後は夕日の海を見て消えたいと彼女が言ったからだ。
 ザザーン……
 相変わらず波は心地よい音を立てている。二人ともあまり話さなかったが、彼女とだったら一緒にこの波の音を聞いているだけでも居心地がよかった。
「きれいだね」
「うん」
 真歩のベタな問いかけに、俺もベタに頷く。
 海に沈みかける夕日は、海と浜辺と俺たちを赤く染めている。それは正に神様の作り出した芸術だった。どんなに高級な絵の具を使おうと、どんなに繊細な筆を使おうと、この景色を人間が作りだすことは永遠に出来ないであろう。
 それから俺は、そっと彼女の手を握った。彼女もそれに応え、俺の手を握り返してくれた。俺は、決して触れることのできない彼女の手を、より強く、より大事に握る。
 ザザー……
 波の音が鮮明に聞こえる。
 俺は、彼女とは反対側の左手の腕時計を見た。時計の針は午後五時二分を指していた。真歩によると、真歩が消えるのは、彼女の死んだ時刻……六時過ぎなのだそうだ。……あと一時間ほどで真歩が消えるなんて信じられなかった。いや、信じたくなかった。
 そこで、俺の頭の中に、彼女と過ごした二ヵ月の記憶が走馬灯のようによぎった。真歩が鏡の前で話しかけてきたときのこと、大学の授業を一緒に受けてたときのこと、群馬に行ってくれと頼まれたときのこと、一緒に出掛けまくった一週間のこと……。その瞬間、俺は自分の頬に何か温かいものが流れたのを感じた。そして、意識した瞬間にそれは溢れ出てきて止まらなくなった。
「泣かないで」
 ただひたすら涙を流しだした俺に真歩が言った。……彼女も涙目だった。
「ごめん。だけど涙が勝手に……」
「ねぇ、笑って送り出してよ」
「うん。分かってるけど……」
 俺は大きく一回深呼吸をし、呼吸を整えた。ほとんど整ってなんていなかったけど、俺は無理矢理にでも笑顔を作った。彼女は笑って送り出したい。俺の笑顔を見て、真歩もまた無理矢理な笑顔をした。確かに無理矢理なはずなのに、彼女の笑顔はまぶしかった。最初会ったときから真歩は笑顔だった。やっぱり真歩は笑顔が一番よく似合う。
「さてと」
 俺は意味無くそう言い、立った。真歩と微笑み会うのが照れくさかったのと、彼女の笑顔を見続けていたらまた涙が出そうになったからだ。真歩もつられて立ち上がる。
「真歩、ありがとな」
 俺はおもむろに言った。俺は、真歩と出会ってからたくさんのことを学んだ気がする。
「あたしこそ、ありがと」
 そこでまた黙りあった。真歩の声の代わりにカモメの声が聞こえてくる。彼女といると、お互いに黙っていても居心地が悪くならないから不思議だ。
 そこで俺は彼女を抱きしめた。強く抱いた。今までにない温もりを感じる……。
 もう……もう二度と彼女と会えなくなる……そう思うと余計に悲しくて、離したらもうそこでお別れな気がして、なかなか抱くのを止められなかった。
 ザザーン……
「ジロー……」
 真歩の声をきっかけに、ようやく抱いていた腕を離した。
「真歩……」
 お互いにお互いの名前を呼んだ。一つ一つの言動が、もう最後になってしまうんじゃないかと思って、例え意味がなくても何でも言葉にした。
 人はいつか消える。人だけじゃない。形あるものは全てがいずれ消えるのだ。しかし、どうせいつか消えるならいつ消えても同じだとは思わない。例えどんなに少ない時間であっても、少しでも長い間、物がそこにあり、また、人がそこに居続けることは無駄なんかじゃないと思う。俺は今、それを強く感じる。いずれ壊れる時計も必死に動き続け、時を知らせ続けるのだ。誰かに何かを伝え続けるのだ。
 俺は改めて真歩の顔を見た。彼女の顔は夕日の赤に染められて輝いていた。彼女は今、俺にとって大事な存在になっていることを改めて感じた。
 ブルー……ブルー……
 突然、俺の携帯のバイブが鳴り出した。こんなときに一体誰なんだ!? どうせメールであろう。無視しよう。今は少しでも時間は無駄にできない。真歩といる時間を大切にしたい。返事をするのは後ででも遅くはないはずだ。
 ブルー……ブルー……
 携帯は予想外にも長く震え続けていた。とすると、これは電話か。しかし関係ない。シカトすることにする。
「ジロー、携帯鳴ってるよ。出ていいよ」
「いや、止めとくよ。今日は……」
「出て。逆に気になるから」
 真歩は気を使ったのかどうだかは知らないが、そう言った。俺は渋々、相手も確認せず電話にでる。
「はい」
「すいません。平尾ジローさんの携帯ですか?」
 知らない声だった。一体誰なんだ?
「そうですが」
「私、埼玉県警の阿部という者ですが、実は先ほど、池田サキさんが交通事故に巻き込まれまして、今、牧田総合病院に運ばれたところなんです。それで……」
 え? サキが? ……
 そこで、俺の中で周りの全ての音が止まった。カモメの声も、波の音も……。俺はしばらく携帯を持ったまま立ち止まっていた。
「分かりました……」
 ピッ!
 俺は電話を切る。サキが交通事故に遭い、今も意識不明の重体らしい。もしかしたらサキは今日、死ぬかもしれない。そうなると、今行かなくてはもう二度と彼女とは会えないかもしれない。しかし……。
 俺は腕時計を見る。時間は五時五○分。今行ってしまうと……。
 俺は今度は真歩を見た。真歩は不安そうな目で俺を見ていた。電話の内容は全部聞こえていたのだろう。
 俺が……俺が行くべきなのは――
 俺は迷った。しかし……。
「真歩……俺はここに――」
「行ってあげて!」
「え?」
 真歩が叫ぶように言ったことに俺の決断は遮られ、俺はとまどった。
「ジロー……、生きてるって素晴らしいことなんだよ。今がある人を大事にしてあげて……」
「でも……」
「早く!」
 その真歩の強い声を聞いて、俺は言葉を止めた。
「早く!」
 二度目のその声に、一歩後ろへ下がる。
「はやく!」
 真歩の真剣な……そして悲痛なもう一声をきっかけに、俺は走り出した。後ろを振り返ることはできなかった……。

 俺は窓際に座って、窓の外の狭い道路を見下ろしていた。窓から入ってくる微かな風が俺を撫でる……。
 しばらく、ぼーと外を眺めてから、今度は視線を部屋の中に移す。部屋の中は外からの光のおかげで明るかったが、家具以外のものでアクセントのあるものは何もなく、何もいない……。せいぜいあるのは、棚の四段目に置かれた、小人が隣で微笑み合う置時計と、サキの映る写真立てだけだった。決して広い部屋ではないのに広く感じる……。
「さてと」
 俺は、やっと重い腰を上げた。

 ブオーン……
 俺の後ろで左から右へ車が走り抜けた。俺は改めて左右を見て車が来ないことを確認し、目の前の電柱の根元に花束を置く。その前にしゃがみこみ、手を合わせる……。
 ここで……ここで事故に遭って、彼女は死んだ。彼女の命を奪った車は飲酒運転だった。その瞬間に彼女は一体なにを思い、何を願ったのだろうか……。
 タッ……、タッ……、タッ……
 しゃがんで手を合わせている俺の背後で誰かの足音がした。
「早いね。もう来てたんだ」
 その声を聞いて、立ち上がりながら後ろを振り返る。そこに居たのはサキである。
「まぁな。ちょっと早く来すぎたな……」
「そう……」
 サキは軽く返事だけすると俺の隣にしゃがみ、手に持っていた花束を俺のそれと並べて置いた。サキは数秒その花束を見つめてから、手を合わせて目をつむった。
 その間の静寂は風の音がした。
 サキには真歩のことを全て話してある。もちろん話しにくい部分もあったし苦い顔もされたけど、サキは真歩も俺も認めてくれた。真歩の代わりに自分が今生きているのだと思えて、真歩には感謝しているのだそうだ。
「私ね、真歩さんが他人事とは思えないの」
 祈りを終えたサキが、そのまましゃがみながら前を見て言った。
「だって、二人とも同じ原因の交通事故に遭っていて、しかも私が事故に遭ったのはあの日だった……。これは偶然とは思えない。あのときジローが来てくれてなかったら……ジローの声が聞こえなかったら、私、死んでたかもしれない。やっぱり、真歩さんが私を生かしてくれたんだよ」
 俺はサキの隣に再びしゃがむ。そして、一瞬だけ彼女の手を見てから、彼女にも、自分にも言い聞かすように言う。

「そうかもな。そうだといいな」

「うん……」
 それから二人でまたしばらく手を合わせた。
 真歩……。おまえのおかげで俺は、人と居れる事がどんなに素晴らしいことなのかが初めて分かった気がするよ……。ありがとう……。
 おまえは今、空の彼方で俺たちを見守ってくれているのだろうか……。だとしたら嬉しいよ。ありがとう……。

「さて、行くか」
「うん」
 二人は立ち上がり、一緒に歩いていった。晴れ渡ったきれいな青空の下で――

                                     完



2007/10/20(Sat)08:37:52 公開 / infinite
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■作者からのメッセージ
 読んでくださってありがとうございます。
 この作品は、元々が映像シナリオ用に作ったもので無理矢理小説化したところもあって、いろいろな不安要素がありました。どう受け止められるかが心配です(汗
 この物語は、『スピーディな展開』と『解釈の二分化』を意識して書きました。『解釈の二分化』に関しては、分かり易過ぎたか分かりにくすぎたかのどちらかだと思います。その部分というのが、『そうだといいな』周辺のことなのですが、要は、『サキも実は死んでいる』という解釈をするかどうかって話なんですね(汗
 その辺りも含めて批評・感想などいただけると幸いです。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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