『それは神からの勅命のように』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:電子鼠                

     あらすじ・作品紹介
 名家の嫡子である「麻梨(まり)」には、最強の学級委員の異名を誇る「吾月(あづき)」という唯一の親友が居た。 麻梨を襲う、火災・家族の死という試練。その後の麻梨の心を支えたのは、他ならぬ吾月と、新しい友だった。 そして、少しずつ忍び寄る奇跡・偶然・必然。そしてその理由はすべて一つ。 そう、それは「神からの勅命」のように――。

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『日本には、八百万の神々と称されるように、ありとあらえるものに神が宿るとされている。それは太陽・月を始め、それぞれの山にそれぞれの神、それぞれの川にそれぞれの神――、そして、晴れ・雨・雷と、天候にまで神が影響しているとされる。さらに、徳川家康・明治天皇も人物神として祀られ、大戦中には、天皇に殉じて死んだとされる戦没者が英霊と言う形で二四六万柱余りも祀られている。これは、キリスト教を始め、唯一神教――旧約聖書を元としているため、イエス=キリストのみが絶対神である宗教――であるユダヤ教・イスラム教信者から見れば、かなり異様な光景であろう。なぜなら――』










「何読んでんだ? 井生戸(いうど)」
 彼女の黙読は、彼の一言によってさえぎられる。七月最高の気温を更新し続ける真夏。クーラーによって校内一過ごしやすい環境下となっているこの横巻中学校図書館の、隅っこ――クーラーから遠いため、あまり涼しくなく人が少ない――、でA4サイズの薄い小冊子を気味が悪いくらいに俯いて、かつボソボソ黙読していた井生戸麻梨は、その声の主を眼鏡の奥から見据える。無言でじぃと、睨むとも眺めるともいえない絶妙かつ感情の無いその目で。一向に口を開かない麻梨。沈黙と冷視線が質問主、出滋吾月(いでじあづき)を恐怖に陥れる。図書館の隅も、クーラーの近くと同じくらい寒くなった。
「……、ンだよ、言いたいことあるなら言えよ」
 恐怖に駆られた吾月は、質問者なのに被質問者より先に口を開く。凍りつく前に話し始めたかった。
 流石にこの言葉には麻梨にも表情の変化が現れた。目を細めただけというマイナスイメージの表情の変化だが――、普段から表情を変えない彼女のこの動作は、より色濃く出滋に今の感情を伝える。
 読書を邪魔された、怒り。吾月の行動への、呆れ。
 麻梨が雑誌に目をやったまま口を開く。
「出滋(いでじ)クン」
「あ?」
 吾月が荒い返事をしても、麻梨は表情を変えることは無い。
「ご両親に、自分で出来ることは自分でしなさい、って言われたこと無い?」
 頭にクエスチョン・マークを浮かべた吾月は、数秒差でそのことに気づく。よくよく麻梨を見ると、丁度本の表紙が出滋に向くようにしてあった。いつの間に、と出滋は思いつつも、それは既にそうなっていたにせよ、後から――、なんかありえない気もするけど、麻梨の静かで暖かい心配りでそうなったのだから――。気付かなかったのは自分で、
「あ、気付かなかった。悪ィな」
 こう、少し荒めでぶっきらぼうなことしかいえないのも自分だが、もちろん謝るのも自分だ。当然、
「別に」
 同じようにぶっきらぼうな会釈しか出来ないのも彼女だ。

 井生戸麻梨(いうどまり)。ここ横巻中学の三年二組の学級委員。二年生のときは、三年生が立候補しなかった生活環境委員長に、信任投票で当選した。ほぼ代役に近い形の参加の上、今までに知られた名前ではなかったため、そこまでいい動きは出来ないだろうと思われていた、が。無口ながらも様々な改善策を実施。服装から休み時間の大声まで、先に吾月を震わせたその目で監督し――何故か他人に注意するように指示して――、注意していった。驚異的な手腕で生活環境委員の活動を大成功に収めた麻梨は、後期も委員長となる。前期同様に見つけたら即注意をモットーに活動を始めた生活環境委員は、いつしか風紀委員とまで呼ばれ、横巻中の風紀全盛を作った。そんな井生戸も三年生となり、当然のように委員長をやるかと思われたが、「疲れた。次お願い」の一言でばっさりそれを辞め、今は学級委員に落ち着いている。
 また井生戸、と言う奇妙な苗字は、横巻町のある家系に籍を置いていることを表す。それが、県内でも一、二を争う名家、井生戸。そして神道の流派、井生戸神道の宗家こそ、この井生戸麻梨である。血のせいかそのお家柄のせいかは分からないが、秀才。前学期の主要五教科の期末テストの合計点は脅威の四八六点。英語と数学は満点だという。性格のせいか授業中の挙手発言が少なめだが、それでも内申は九教科で四〇。最低限度の発言を怠らないところが彼女らしい。

「で……、何の本だ?」
「自分で見なさい」
「ちぇ」
 しぶしぶ吾月は少し体を屈める。目線的に丁度いい位置に頭をやると、その本のタイトルを見る。
 まず目に飛び込んだのは、月刊という筆で書かれたような書体の二文字。この中学校の図書館には、幾つかの種の月刊誌が置かれている。週刊誌は、それも仕入れるとお金が単純に四倍になってしまうため、ここには置かれていない。種類を幾つかに絞っているのも、似たような経済的理由だ。ここに置かれているのは八冊。例えばサッカーから野球まで、その月間に行われた日本の国際試合を解説する『月間スポーツ VS.JAPAN』。最新の試験問題を解説込みで紹介する『熱血 入試問題now』。そして彼女が今読んでいるのが、世界中の神・宗教を解説する月刊誌『月刊世界の宗教――』、で、今月号は、『――日本の神々編』だ。
「神道の名家である井生戸家の人間が、何故いまさら日本の神々のことを――?
 って思ったでしょ。……聞いてる?」
「心を読むなっての。その通りだけど」

 出滋吾月(いでじあづき)。麻梨と同じ、三年二組の学級委員。一年生の時からずっと学級委員を続けるベテラン。更に言うと、学級委員たるものが現れる小学三年生から、ずっと。そんな意味でも、その手腕でも、最強の学級委員といわれるこの男。今期は出滋・井生戸が学級委員のため、無敵コンビと呼ばれていたのももう昔の事。今では麻梨が休戦状態に入っているため、活動の大半は吾月が行っている。逆に言えば、元風紀委員長の麻梨を差し置いても、それと変わりない仕事が出来る出滋の行動力が評価されている。最強の学級委員の名に、揺らぎも偽りも無い。
 ちなみに、漢検・英検二級保持者。期末テストの得点は麻梨に並ぶ好成績。授業態度もよく、内申も四十台を毎回叩き出す。そのためか、よく麻梨と並べられたり、比べられたりする。
 無口な麻梨が、心を開いてやや普通に話せる数少ない人の一人である。二人とも小学校は別で、当然のように初めて会ったのは中学に入学してからだが、そのときから三年続けて同じ学級になっている。風紀委員と学級委員とは活動に似た部分があるのも確かで、そこでよく互いの知っているのか、このように話が弾む――? 時もある。主観は人次第。
「当主継承式が明日なのよね。まだ守護神決めてないから、早く決めないと」
「って、おい。ンナ事聞いてないぞ。お前のことだからもうとっくに決めてるのかと思ったけど。それマジ……?」
「ええ、もう幾つかの候補はあるんだけどね」

 井生戸神道。それは、数ある神道の流派のうちで、一際異彩を放つ流派である。そもそも神道と言うのは、日本の数ある神々を信仰する宗教のこと。有名なものでは、土御門(つちみかど)神道・伊勢神道がある。先述の通り、日本には途方も無い数の神々が存在し、建造すれば建造するだけ神社も増えるため、すべての流派を記そうと思うと途方も無いので省略する。
 さて、そんな諸流派の一派がこの井生戸神道である訳だが、この神道の仕組みは他流派と大きく異なる。
 まず第一に、その井生戸神社が特別に祀っている神が一柱も居ないこと。もうこの時点でこの神社にお宮参りに行っても願い神が居ないから、ここが神社であるかも怪しい。が、もう一つの特徴がその問題を解決する。
 守護憑神井生戸神道(しゅごつきがみいうどしんとう)。普段は単に略して井生戸神道と呼ばれるが、正式にはこんな長い名前を持っている。この特殊な形式を取る神道の起こりは戦国時代だった。
 ある旅の僧が、この戦乱の中薄れかけている神仏信仰をどうにかしなければならない、と悟り、守護憑神という特殊な思想を思いついたのとされる。それは、「万物に神が宿るのであれば、自分も神ではないか。それならば、同じ神として同等の位に立てる。自分には特別なご利益が無いのは明らかだから、その神たちに力を借りよう」というものだった。
その僧はある山に神殿を造り、そこで教えを広めた。つまりこの僧が初代の井生戸神道の当主である。
 とはいっても始めはほとんど便利屋のように、頼まれた仕事をこなす形式だったという。この僧はその仕事に適した神の力を借り、次々と仕事をこなしていったという。中でも郵便配達の仕事は特に早くこなしたといわれていて、そのことからその僧の守護神は韋駄天であるとされている。後にその僧に弟子入りするものが現れ始め、徐々にそれが広まるにつれ、神仏の信仰も高まっていったとされる。そして僧が亡くなった後も弟子達が跡を継ぎ、それが徐々に、地震の守護神は終始人柱のみ、という井生戸神道へと発展していくとされる。
 つまり、守護憑神井生戸神道とは、自身も神として、その自分――、神に実在する神のご利益を重ねるものとされる。あくまで伝承だが、実際に韋駄天なら足が、河童なら泳ぎが、毘沙門天なら武術に長けた人になったといわれる。
 閑話休題、井生戸神社が、神社を名乗れる理由の件に話を戻す。当主となった人は神となる。そしてその当主が、その神社の祀神になるのである。中には学問の神である菅原道真を守護神にした当主――大学受験生――、も居て、その人は見事東京大学に合格し、その高等学校に通う生徒の大半が志望校に合格したという実話もある。
そんなわけで、自身の守護神選びは自分にとっても、それをあやかる他人にとっても、大事なことなのである。
 
 良く考えたら、吾月の目の位置は井生戸の腰より下だった。スカートの下に体操服があるわけではない横巻中の女子の制服。膝ほどまでしかないそのスカートでは、その視点だと隠しきれない。
「いつまでその体勢で居る気? このヘンタイ」
 そのことにいまさら気付いた麻梨は、隠すべきところを本で隠しながら黄色淵の上履きで吾月の顎を持ち上げる。吾月の目線が真っ直ぐ麻梨に向く。麻梨はそれを確認すると、追い討ちを掛けるように『月刊 世界の神々』の表紙で吾月の頭を叩く。ハリセンのような軽快な音が鳴り、またもや出滋の顔にはクエスチョン・マークが浮かぶ。
「……何、人を叩いて興奮するとかそういうことに目覚めたわけ? それともあの愛と勇気だけが友達ですみたいで正義の象徴みたいなあの元・風紀委員長サマがついにイジメに走りましたか?」
 全く状況の読めない吾月は、棒読みでとりあえず今の心境を伝えてみる。意外と出来た、息継ぎ無しで。
「やだ、そんなんじゃないって」
 そんな吾月を尻目に、麻梨はさも満足げに吾月の頭に載ったままの『月刊 以下略』で、よしよしをする。その上、男子でもそういうやついるんだー、と呟きながら普段見せない――かすかな――笑顔を見せる。どちらも、麻梨にとって滅多にとらない行動だった。吾月の思考は底無し沼に入っていく。
「お前……、今日やっぱおかしいって。何かに改造されたか?」
「……何で「変な物食べた」とか「頭打った」とか全部省いてそれなの? 私はいたって普通だよ。ちょっと出滋の事、見直しただけ」
「……は? その言葉がおかしいって、既に」
「もー……。返事するの疲れた。今日は変で結構! ほら、もう昼休み終わるよ」
「わ、ホントだ。うー、図書館から出るの欝だー」



 実のところ、麻梨にとって当主継承式は二学期の始まりでしかなかった。井生戸神社の巫女としての手伝いや、学生生活に少し仕事が増えるだけだ。麻梨にとって、それだけの出来事だ。
 日本人の神の信仰は、実のところとても薄い。それは都会に入れば入るほどひどくなる。神に願うときといったら、例えば合格祈願とか、例えば身内が事故に遭ったときとか。前者は祈る場所と機会があるから祈るのであり、後者は医者か神に祈るしか方法がないからだ。

 この井生戸神社に人が集まるのは、大きく三シーズンに分けられる。
 一つ目は年始。これはほとんどの神社でも同じで、日本には年の始まりに関して様々なイベントがあるから、それにあわせてお参りするのだ。そしてこれは、受験の合格祈願も含まれる。
 二つ目は井生戸神社特有のイベントだ。「巫女さん研修」といった具合で、夏休みに三日ほど、地元の小中学生に巫女の仕事の体験をしてもらっている。これが意外と人気が高く、小学生の子を中心に参加が多い。結構きゃぴきゃぴした低学年の子は、お泊り会と同じような感覚で参加するが、意外と高学年の子はまじめに取り組んでくれる。研修の間先生となる麻梨としては嬉しい限り。
 そして三つ目は、この当主継承式。麻梨としては、生まれて初めて体験するこの儀式だが、人の集まりはすごいらしい。なんてったって新しい神が現れるのだ。これから神になる上、母親が神である麻梨にとってはイメージし辛いが、地元の神社に突如神が現れる衝撃はすざましいもの、だろうきっと。

 話を、日本人の神信仰は薄い、というところまで戻す。人・場所によっては、毎日お参りに行ったり、巫女やイタコをしている人だったりするためまちまちだが、それは全体的に見るとどうしても他宗教のそれに劣る。キリスト教は毎週ミサを行うし、イスラム教は一日五回もメッカに向けて祈りをささげるという。神と言う神を持たない仏教ですら、熱心に経典を読み上げ、その身を鍛える。
 だから、そんな信仰の薄い神になることについては、以前より仕事と宿題が増えるだけだった。もっとも、他の宗教の神の一つとして数えられるのなら、それなりに気が引き締まっただろう。
 だが、ここは日本だ。アメリカでもインドでもバチカンでも無い。
 それが、麻梨のこの役目についての責任感・やる気を、やや損ねさせていた。


「まぁ、どれだけマイナスな環境でも、やらないといけないのは変わらないけどね」
 独り言は、狭い儀式場で小さく反響した。

 当主継承式は、大きく三つの段階に分けられる。
 まず、現当主――麻梨の母、井生戸文世(ふみよ)が、嫡子である麻梨に当主の座を明け渡し、自分の守護神『迦具土神(かぐつち)』と、今までの礼とともに別れる。あくまで力を借りる、という形式のため、このようにすっぱり手を切れるのも利点の一つかもしれない。
 そうしてその後、次期当主――麻梨が、儀式場に篭(こも)る。僅か三畳のその部屋は先四代――戦後焼失して再建――、から使われており、「自分も神」ということを儀式的に定着させる場である。
 そうしてそこで夜を明かし、目を覚ましてから毛筆で、板状の神木に力を借りる神の名前を書く。そしてその日の正午に、それをみんなの前で公表する。その時が、もっとも井生戸神社に人が集まる。
 井生戸神社は、長い階段を上った先にある。冠凪山(かんなぎやま)の斜面に対して斜めに造られた石階段を上ると、まず井生戸一家が過ごす家がある。そしてさらに上ると本殿。そして、冠凪山の山頂に向けて真っ直ぐ登る急斜面を歩くと、今麻梨のいる儀式場に着く。丁度五合目辺りにあり、更に言うと水上。新しい儀式場になって、初めての当主である麻梨の祖父の意思でその場所が選ばれた『市杵嶋姫神(いちきしまひめ)』という水の神を守護神とし、今後一切の火災防止を祈った。そこは今に至っても儀式場として使われていて、「もう消失することが無い」といった具合のいわく付。今後老朽化して使えなくなるまで使うことが決まっている。

 もう既に、第一段階、「当主継承」は無事行われた。第二段階である次期当主の「神格化」のために、麻梨は儀式場に入ったところだ。

「……本当に夏なの……? 寒っ」
 思わず麻梨は、神聖な儀式場の欠点を口にしてしまう。
 紺色の色無地に身を包んだ麻梨は、用意されている布団の上で何も無い天井を見上げていた。本当に何も無い部屋に居る以上、何も無いところを見るしかない。もちろん電気なんで引いてあるわけが無く、明かりといえば四隅に置かれたロウソクだけだ。
欄間が開いてるから、そこから容赦なく風が吹き込んでくる。その上、夏の熱帯夜の暑さが、儀式場下の小さな泉を蒸発させる。発生した気流は吹き込む風とともに、儀式場を冷やす。
「早く寝ないと……、明日から神になる人が次の日に仏とか……。洒落になんない」
 麻梨が着ている薄い色無地は、もっぱら夏用の着物だ。もう寒さから逃げるには布団の中に逃げ込むしかない。
 麻梨は四隅のロウソクの火を消すと、今はまだ冷たい布団の中に潜り込む。眼鏡を外し忘れたのに気付いて、愚痴を言いながらそれを布団から出した。



「ロウソクの火が消えた……。神格化を開始……」
 本殿で火が消えるのを確認した井生戸文代は、眠気が覚める特製のお茶、珈茶(コー茶)を口元に運び、周りに誰も人がいないのにそう告げた。月明かりだけが差す、日本原初の世界。
 文代の周りには、第三段階である憑神(つきがみ)で使う神木と、毛筆、硯(すずり)。そして硯には、墨汁を混ぜた油。文代は筆を手に取ると、ゆっくり油墨をしみこませる。硯の角で筆先を整えると、神木に文字を書き始めた。それは当主としての品格に溢れた、丁寧で、滑らかな筆の動きだった。四文字が草書で書かれ、文代はゆっくり筆を持ち上げる。
「最後の仕事よ。思いっきり、どうぞ」
 文代はそう言うと、指を組み替えて筆を一瞬で逆に持ち替え、竹で出来た柄を神木に打ち付けた。カァンと乾いた音とともに、油墨が突如発火する。爆発を思わせる勢いで一瞬、赤い炎を散らせる。だがそれは一瞬で下火になり、白い煙を昇らせる。文代はそれを一息で吹き消すと、筆を置いた。わが子の居る儀式場をちらと見ると、次に神木に目をやった。
 酸素を吸い込みながら息を吹き返し、赤い光を放つ、『迦具土神(かぐつち)』の文字。
 ――試練の始まり。







 次に麻梨を待っていた展開は、急で、衝撃的すぎた

 喉に走る激痛。包帯の巻かれた首。閉所であるはずの儀式場に差す光。そもそもここは儀式場なのか。あるはずの無い電灯。布団が白い。頭痛。白いカーテン。――あれ?

 ……声が出ない――?






 事の顛末(てんまつ)は、後に医者から聞いた。
 冠凪山で火災発生。恐らく原因は、井生戸一家が過ごす家の前で使われた松明(たいまつ)が強風で転倒、それが家に引火し、更に風が火を運んで林に火を点けるに至った。結果、母屋は全焼。更に山の緑の八十パーセント近くが焼ける事態になった。が、米軍の爆撃すら潜り抜けた本殿に火は回らず、更に麻梨の居た儀式場も先代の加護か、火が付くことは無かった。儀式場で麻梨が寝ていることを地域住民の話から得た消防隊は、救出のため突撃を決行。上り坂の辺りは火の回りが遅かった上整地されていたため、林野工作車を使って山を駆け上がった。ジェットシューターやチェーンソーを使って障害物を攻略し、麻梨を救助した。が、いくら火が回らなかった儀式場とはいえ、煙が入り込み、麻梨は一酸化炭素中毒となって失神していた。また、高温の空気を吸い込んだらしく、喉に火傷を負っていた。

『冠凪山で火災。山麓に住んでいた四人が死亡。また同所で救出された二人は意識不明。一人が行方不明。未だ延焼中』
『冠凪山火災。更に一人が犠牲に、死亡者は五人。行方不明の女子中学生(十五)が山中に居ることが判明。消防隊が救出作戦を開始。未だ延焼中』
『死亡者は六名に。女子中学生救助のヘリコプター、付近に着陸困難、断念。静岡県より林野工作車が援助へ。山火事の原因は松明か』
『林野工作車が作戦を開始。他県より援助消防車多数。山火事は下火へ』
『女子中学生救助成功。喉にやけど・一酸化炭素中毒で意識不明・重体。火は鎮火』

 インターネットの広告は、生々しく事の顛末を告げていた。後に医師から教えてもらったのだが、一酸化炭素中毒で三日も意識を失っていたらしい。どうりで寝てから一連の記憶が無いわけだ。
また病院にはマスコミが殺到し、将棋倒しにあった二人が逆に軽傷を負う事態となったため、麻梨は秘密裏に別の病院に移されたらしい。マスコミの聴取を避けるため、麻梨は個人室から出ることは極力避けるようになっている。警察も親戚も居ない、たった一人の部屋だった。

 やっと実感する。家族が全員、死んだ。

「……うっ」
 目が覚めて既に二回目の夜を迎えようとしていた。昨日は喉の激痛やらマスコミやらでそれどころではなく、また事件が急すぎた混乱で、結局睡眠導入剤で無理矢理眠りに付いたのだが。そのせいか昨日の記憶も更にあいまいで、今日もまた起床と同時に昨日と同じ混乱を味わった。
「うっ……うっ……」
 麻梨にしてみれば、それは一眠りの瞬間だった。神格化のために、ほんの少し眠るだけだった。一夜だった、一夜ですべてが消えた。
「うっ……うう……」
 僅かに泣きじゃくるだけでも喉を突き刺す火傷の痛みが、何よりもそれを証明していた。その山火事の置き土産は、泣きじゃくることも許さない。
 ただ眼からから落ちる涙が、ぐしゃぐしゃになった顔から滴り落ちるだけだった。

 それはあまりにも急で、衝撃的過ぎた。

 直後、病室のドアが一気に開かれる。反射的に麻梨は布団で涙をぬぐうが、はて、と思う。検診はもう少し後のはずだ――、っていうか、ドアの開け方が尋常じゃなかった。これは看護婦が使うドアの開け方じゃなかった。
 一瞬頭をよぎる、一人の顔。こんなに荒っぽいのは、そしてここに来てくれる人は、この人くらい、かな。


「井ぃぃぃ生うぅぅぅ戸おぉぉぉお!」
 大声、通り越して絶叫。ドアが開ききってバン、と激しく音を立てながら跳ね返る。逆に、その跳ね返ったドアに体がぶつかりそうになったその男。左腕でそれを受け止めると、ズカズカと入ってきて、麻梨の居るベットに近づく。
 あまり人と話さない麻梨にとっての、唯一の親友。
「大丈夫か? オイッ!」
 出滋、吾月。
「大丈夫かっ、って訊ぃてぇんだァ! 返事くらいしろ!」
 来てくれた。でも何で……? 何で場所知ってるの?
「……返事ィ!」
「うっ……。ぅうぅ!」
 麻梨のリアクションの無さにイラついた吾月のチョップが、麻梨の額を捉えた。仮にも怪我人+つい昨日まで昏睡状態だった麻梨に容赦なく繰り出されたそれは、吾月にとってどこにぶつけていいか分からない憤りの表われだった。運悪くその矛先は憤りの原因の人物に向いたが。
 そのチョップは、麻梨の頭を枕に押し戻すほどの勢いがあった。反論しようとしてよく考えたら喋れないことを思い出すと、右の人差し指を自分の首に当てる。続けて左手を口元に持ってきて、「お口にチャック」する。
 一応、それで吾月の憤りの暴発は止まった、が。吾月には「喉に火傷すると話せなくなる」という知識は無く、「首」「話せない」の二語が結びつくことは無かった。残念ながら。
 吾月の視線が右、左へと泳ぎ、次に首ごと捻りながら悩み続ける。
麻梨にとっては、この一瞬が落ち着ける瞬間でもあった。思い返す。どうして病院を移されたのに、吾月は何で病院を知ってる? どうして病室を知ってる?
って、なんで火曜日なのに吾月が病院に居る――?
 考えすぎて、あっという間に休み時間は無くなった。さて、まずどうするか。

 とりあえず、
「ぐっふっ!」
 吾月の喉元を渾身の力で殴ってみる。急所の一つとして数えられる上、気管の通る首は押されると苦しいし結構痛い。出滋なら、多少なりオーバーにリアクションするだろう。
「痛ってぇ! 痛てぇって! おいっ。何なんだって!」
 麻梨は、「痛ってぇ」の瞬間に、自分の喉元を親指で指す。その二つを繋げて、喉が痛い、と伝えたかったのだが、別に武道家でもない吾月にこの攻撃は強烈過ぎた。「痛ってぇ」の次の言葉は、喉を押さえ、うずくまって悶絶する吾月から聞こえた。見ていなければ理解も出来ない。
 二度目。
「かっはぁ! ってぇって! 痛てぇってェ! 井生戸お前、やっぱそういう趣味に目覚」
 三度目。本気で黙らせるために、顎目掛けてアッパー。ざ、で思い切り舌を噛んだ吾月は、もう静かにならざるをえなかった。疑問と悲しみを込めた目で、怯えたチワワのように小さくなっていた。とりあえず、よし。
 麻梨は吾月を指差してから、もう一度自分の喉を指差す。次いでもう一度吾月を指差してから、分かる? と開けた両手を頭の横に持ってきて、首をすくめる。意外とジェスチャーって難しい。
 また吾月は視線を左右にやって悩み、少し経ってから急に顔を上げ、掌をぽんと叩いた。分かったらしい。
「あぁ、この前はゴメンな、しっかり訊かなくて……。やっぱり何かに改造されたんじゃなかったんだよな。頭打って、何かこんがらがっちまったんだよな。それでそういう変な」
 四度目。今度は絶対ふざけて言ってやがる。
「っ……。お前さぁ、恥ずかしいの分かるけどそういう趣味持ったな」
 五度目。

 
「はーい、麻梨さん。検診の時間で……、あら。その女性の口からではとても言えないようなところを押さえて悶絶してるその方は、どなたですか? って、あら、言えませんよね。ごめんなさいね。検診の時間です」
 入ってきたふくよかな中年の看護婦は、麻梨にカラフルなボードと、プラスチックで出来たこれまたカラフルなペンを渡す。
「?」
「あら? 喋れないと不便でしょ? 書いて、下のバーをスライドさせるとあら不思議。字が消せるから、当分持ってていいわよ」
「……」
 麻梨は頷いてから、ボードに「わかりました」と書いて、看護婦に見せた。看護婦はにっこり頷いてから、それで良し、と言って、吾月の襟元を摘み上げた。
「へ? へ?」
「はいはい。男の子は一時退場―」
 そう言いながら引っ張っていく看護婦。首根っこを掴まれ、漫画みたいに引きずられる吾月。「また会おう」と書いたボードを振りながら笑顔で見送る麻梨。隅に小さく、「ヘンタイは去れ!」と書いてあるのが見えて――。

 吾月は病室から退場させられた。

 …………、
「解説お願いします、ミセス」
「あら、残念ながら私はまだミスよ。新榮(あらえ)婦長って呼んでね」
「……新榮婦長さん。解説プリーズ」
「あら、貴方心音計ったことくらいはあるでしょ? その時、貴方はお医者さんの前で何する?」
 沈黙。そしてやっと分かって、
「すんません、うっかりしてた……」
「あら、貴方中学三年生でしょう? 確か。受験生がそんな話し方で面接受けたら、あららのらー」
(あららのらー、って何だよ)
「あら、先生がいらっしゃったわねー。じゃあ私、行ってくるから。おとなしく待ってなさいね、あらっ、と言う間に戻ってくるから」
 新榮婦長は、現れた長髪の女医とともに病室に入っていった。

「……、やけにあらあら言う人だったな……。名前なんだっけ、アラ婦長……?」
 次は吾月が混乱する番だった。




『いやー ごめんね 上手いジェスチャー思いつかなくて』
「いや……。だからって殴らなくても……」
『だから ゴメンって』
 診察が終わってから、結局言葉対文字の会話が始まった。一酸化炭素中毒による後遺症は目に見える限りは無く、後で精密検査はするが、恐らく異常はないだろうとのこと。
 ただ、脱いで初めて気付いたのだが、うなじにあたる部分に火傷があったそうだ。幼児の握りこぶし程の大きさのが二つ、対にある位置にあり――アラ婦長の内緒話によれば、少し跡が残るかもしれないが――、やや痛みがあるため、化膿止めを塗ってとりあえず処置は終わった。
『でさ いくつか質問があるんだけど』
「……何?」
『Q1 なんでここを知ってる』
「あー、それね」
 吾月はそう言うと、現実から逃げるように目線をすすすと右上にやり、
「泣く振りして校長にぃ、聞き出した……とかぁ……。かなぁ」
 そう言った後、あんたが? と言いたげな麻梨の右手をいち早く掴むと、小さく耳元で、
「問答無用。俺の顔が爆発しても良いのか」
『OK』
 麻梨は迷わず言った。恥ずかしさに、一割方怒りが混じって本当に爆発しそうな吾月の顔があった。

『解 女しか使ったらいけない戦法使って聞き出した 病室b烽サれでおけ?』
「あー、うん。間違ってない」
 一目で嬉しいと分かるようなニタニタ笑いを浮かべながら、麻梨は下のバーをスライドさせる。麻梨はそのまま質問を続ける。
『Q2 今日は火曜日 いでじもグレ始めた?』
「……。何言ってるか知らないけど、問題、今日は何日?」
『7がつ2』
 麻梨は書くのをそこで止めた。ゆっくりスライドさせて字を消すと、
『夏休みでした☆』
「ごまかすな」







 結局麻梨は、早いうちに家に戻ることが出来た。もちろん勉強道具ほかうんぬんは完全に焼けており、始めの数日は勉強が出来ない状態で居ざるを得なかった。が、麻梨が気を失っている間に「麻梨募金」足るものが突如発足。瞬く間に近隣住民からの寄付金が集まり、とりあえず卒業までのメドが付いた。高校に入れば自然と地元団体からの支援金が入るため、とりあえず心配は無さそうだった。
 喉は、とりあえず良好に回復しているそうで、麻梨自身の手で出来る簡単な治療で回復は出来た。というより、二週間後辺りからは流動食以外も口に出来るほどの脅威の回復を見せた。また一つ井生戸の血の伝説が生まれることとなった。
 ちなみにその回復力に医者が見かねてか、もう吾月と会った一週間後から退院することが出来た。麻梨が寝泊り等の生活をする場所は、延焼を避けた本殿と儀式場に移った。
 麻梨の知能は普段からの勉強があってでの事で、勉強の習慣が付いた麻梨にはもどかしい数日だった――だから。寄付金で勉強道具が買えるようになるまで、吾月を井生戸神社に呼び出し続けた。そこで――比較的涼しい儀式場で――勉強させた。非常事態過ぎて想像できないかもしれないが、勉強道具がすべて消えたら、と想像してもらいたい。そう、何もすることが無い。始めのうちは脳と耳に残っている英語のテキストをひたすら暗唱していたが、余計完全に頭に焼き付いて、なんか何やってるか分からなくなってきて、辞めた。次に漢字の練習を床と指でやろうとして――、やる前に辞めた。
 結局吾月と一緒に勉強する変な最善策で何故か片付いた。吾月も、えー、えー、と言いながらも承諾してくれた。

 しかし、県下トップ校に行けるか行けないかと言う別次元で争う二人の勉強もまた、次元が外れていた。二人で違う解答になると、答えを見ずに熾烈(しれつ)な意見の納得させあい合戦が始まる。この二人には「ケアレスミス」の言葉はほとんど無いため、いきなり事が片付くことは無い。主に英語と数学で繰り広げられる論争は、二人の学力を際限なく上げることとなる。

 結局、勉強道具が手に入った後も、吾月は井生戸神社に通い続けた(呼び出され続けた)。
 
 家族がいなくなるという境遇の中に居る麻梨は、吾月と居る間は涙を見せることもなく、むしろ笑顔を絶やすことは無かった。







「三番、出滋吾月」
「はい」

 そして二学期の始業式を迎えた。
「十八番、井生戸麻梨」
「はい」
 横巻中では、夏休みの後半に夏季中間テストがある。一、二年生は始業式の二日後、三年生は始業式の三日前に行われる。今日、下級生は――特に中間テストの恐ろしさを知った二年生は、テストに向けて詰め込みを行う日だが、三年生は既に採点が終わっているため始業式のうちにテストは返される。もちろんそれは容赦なく成績に関わってくるので、特に三年生にとってはドキドキの瞬間である。
 また、横巻中では五教科すべてのテストと平均点・偏差値を一度に一気に配る。受け取って、着席。この後の表情を見れば、テストの良し悪しは大抵分かる。

 麻梨と吾月の表情は、結果が良かったときの顔だった。
 吾月は少し離れた麻梨の机に目をやる。もう麻梨は掌を吾月に見せていた。麻梨は吾月がこっちを向いたのに気付くと、手の指を使ってテストの点数を知らせる。
 右手の四本指。一本折って、左手を広げて加える。次の両手の指をすべて折ると、すぐに元に戻した。
 四八八点。偏差値六九・二で、学年二位の点数だった。

 そんな学年二位に、勝ち誇ったようにガッツポーズをする男、吾月が居た。彼は左右の人差し指を十字架のように交差させると、左手をそのまま背で隠した。上を指した一本指だけが残った。
 四八九点。偏差値六九・八。吾月も麻梨も、最高点・最高偏差値を塗り替える快挙だった。

 放課後。
「はぁ。やっぱり負けちゃったか」
 もう喉は治り、普段通りに話せるようになった麻梨が、学校の校門前で言った。
「ふぅ、とりあえずお前に負けなくて良かったよ。お前にだけは負けられないし」
「ここに出滋と並べる人なんてそうそう居ないって。私くらいだよ」
 麻梨はそう言うと、上を見ながら少し悩み、少し経って思い切って言う。
「ねぇ、出滋」
「何」
「今日……、家に来ない……? ヒマだったら……」
「……と言われても。夏休みに何遍も呼び出しておいて、断る理由もないんだけど」
「あ、そう……、だよね」
 少し考えが甘かったようで。やや落胆気味に麻梨はそう言うと、表情を笑顔に変えながらステップを踏み、吾月を向いて振り返る。まだまだ暑く湿っている九月の風が、麻梨の紺のスカートをなびかせる。
「じゃあ、待ってるから。マスコミが居たら、何にも言わずにね」
 また笑った――、そのことに驚きながらも、
「あぁ、分かった」
 吾月は返事をする。そのまま吾月は、冠凪山と逆方向にある自分の家へと向かった。


 吾月は思う、
 やはり、最近麻梨はよく笑うようになった。今日の様子を見る限りは、みんなの前での静かさ、おとなしさは変わっていない、が。普段よく話せる吾月の前だからなのだろうか、いつもよりも、笑う。
 それはいつからだろうか。思えば、井生戸神社に呼び出されていたときにはもうよく笑っていた気がする。じゃあ、夏休み前は……暗かった。思えば、そのとき辺りからだろうか、麻梨が攻撃的になったのは。謎だ。
 そうだ、冠凪山で山火事があってからだ。それで麻梨が昏睡状態になって、何日か経って目が覚めて――、見舞いに行ったらまた攻撃されたんだ。その時も確か、よく笑っていた。
 麻梨は家族を失っているのだ。それも、一夜にして、自分が眠っている間に。皮肉なことに、神になるためにそこに居たのだ、神になるからこそ助かったんだ。山火事に至らしめたのは倒れた松明らしい。これも式があるからこそ置かれていたものだ。
 後ろめたいだろう。麻梨の意思でこうなったのではないにしろ、麻梨がいたからこの事件が置き、麻梨だけが助かったのだ、神だから。
 でも、麻梨がよく楽しそうに笑うようになったのは、その辺りからだ。
 何があったのか位は、教えてくれるだろう。

 ふと、吾月は麻梨の居る方へ振り返る。麻梨はもう、吾月の目からはぼやけて見えた。彼女は、もう遠くに行ってしまっていた。麻梨は、こちらをはっきり見ることが出来るのだろうか。
「……っ」
 鼻頭に、水が当たった。次いで雨が当たることは無かったが、吾月は今朝のニュースについて思い出す。



 麻梨も、寝床兼勉強場所である儀式場で同じことを考えていた。開いた欄間から垣間見える景色からは、もうそれが起こっていることが分かる。
「今日……、午後から雨だっけ……。出滋、来るかなぁ」
 雨足は徐々に激しさを増す。青瓦で造られた屋根が、ざざざ、と雨を強く弾き続ける。仮にも水の聖地な上、戦後最高の職人が手がけた建物だ。雨漏りの心配は無いが、やはり寒い。
 色無地では、まだ服装としては薄いのだろうか。お腹を冷やすことは無いだろうが、心配なのは吾月だ。制服を着込んでも、少し寒いかもしれない。
「雨、止まないかなぁ……。寒いし」
 ふとそう呟く。持ち込んだ時計を見ると、十二時四十分を指していた。そういえば、来てもらう時間を話し合ってなかった。一時くらいか、と勝手に呟いて決め込むと、横に添えてある布団に倒れこんだ。
 来るまで、寝ていよう。




 重くなる。

 ずしりずしりと、重くなる。ひと夏の変化。




 ……、
「井生戸」
「……あぁ?」
 目の前には、吾月が居た。眠っていた麻梨は、徐々に意識を覚醒させる。
「お前……、あぁ? っていうタイプじゃねぇぞ。てかその言葉、女の子の台詞じゃねぇ」
「女の子に幻想持たないの……。家じゃ何してるか分からないよ」
「そんなモンですか」
 吾月はそう言うと、儀式場の中央にある机のそばに腰をかけた。二畳相当の大きさを持つそれは、二人で勉強するには丁度いい大きさだった。
「あ。雨、大丈夫だった……?」
 やっと麻梨の意識が完全に覚めた。とりあえず、横になる前に思っていたことを訊いてみる。言ってから気付く、吾月の服が濡れてない。雨の中自転車で来たわけじゃなさそうだ。じゃあ、歩いて? 冠凪山は横巻町の中でもかなり西のほうにある。それに対して吾月の家は東より。晴れの続いた夏休みは自転車で来れたからともかく、歩いてここまで来るのはかなりの労力を使う。時計を見ると、一時少し過ぎ。歩きにしては、早すぎる。
「……どうやって来たの?」
「なんか障害物でもあったか? 自転車で普通に来れたぞ」
「え、だって、雨が……」
「ついさっき止んだよ。寝てたから分からないよな」
 は、と麻梨は欄間を覗き込んだ。そこからは雨や黒雲なぞ見えず、むしろ暖かい太陽の光が差し込んでいた。耳障りな雨が瓦を叩く音も無くなっていた。
 へえ、と呟くと、手で簡単に髪を直しながら言う。
「って、何で勝手に入ってきてるのよ。ノック位はしたほうがいいよ」
「ノックは結構したと思うけどな。てか来たばっかりだし」
 吾月はそう言うと麻梨とは逆の位置に場所を替え、勉強道具を机に広げた。あきらかに落胆の顔を見せる麻梨を尻目に、吾月は英語のテキストを開ける。
「井生戸、早く勉強道具持ってきたら? 先に始めてるぞ」
「……出滋ぃ……。私さ、どう言ってここに誘った?」
「あ? あぁ、一緒に勉強しない? だっけか?」
「なんか修飾されてるし……。泣ける」
「なんか違ったか?」
「今日家に来ない? って誘ったの! 勉強しようなんて言ってない!」
「あぁ、夏休み中の勉強で鬱憤が溜まってたわけね。分かる分かる。でもお前の変な趣味に付き合う気は無いぞ」
「まだ言うか。やっと誤解が解けたと思ったらまだ言うか出滋ぃ! 本当に怒るぞ」
「ジョークだけどさ。……で、今日はお気楽ディですか?」
「いや……。そうでも、無くて」
 俯いて、少しずつ小さくなる声で麻梨は言いながら、額を机に載せる。ショートカット
の髪が、麻梨の顔をすっかり隠した。真っ赤になっている顔は、吾月には見えていなかった。少し悩んで、麻梨は顔を上げる。そして口を開いた、両方が。
「出滋、あのね」
「井生戸……ちょっと訊きたい事あるんだけど。良いか?」
 吾月の声は、麻梨の声を掻き消した。しぼんでいく麻梨は、机に頭をぶつけて、もとい頷いて肯定した。ゴンといい音がした。
「お前さぁ、コンタクトってどこで買ったんだ? 全然、俺そういうのわからなくてさ」
「こん、たくと?」
 麻梨は赤くなった額を持ち上げた。吾月は、あぁ、と言った後、
「この前からずっとコンタクトしてるだろ? お前。てっきり火事の後、眼鏡失くしたのかと思ったら、その後もつけてねぇもん。コンタクトに換えたんだろ?」
「え……あれ?」
 麻梨は目元に手をやった。その手は何に当たるわけも無く、そのまままぶたに当たった。
 眼鏡を、いつの間にか着けていなかった。何時からだろう――?
「なぁ、それどこで買った? 俺目悪くてさぁ……、でも眼鏡するキャラじゃないんだよね、俺」
「あぁ、うん……。そ、だね」
「じゃなくて、どこで、買った?」
「あ、いや……」
 ツケテナイ、と小さく呟く。そういえば何故だろう、眼鏡を着けてないのによく見える。
 着けてない、と言ってもダメだ。この男は、そう言うのをジョークとして受け取ってしまう。
 麻梨はそう思うと、今さっきまで自分が話そうとしていた話題を放っておいて、別の話題に変える。
 その話題を話すには、場の状況が変わりすぎていた。
「あ、あのさ、出滋」
「ん、何?」
「明日、席替えあるよね、二学期の」
「あぁ、そういえばそうだなぁ」
「一緒になれるかなぁ……? 一緒になれるといいね!」







 翌日、
「じゃあ、これから席の決め方を決めようと思います。一学期は――」
 結局話は席替えに反れ、最終的に勉強会に落ち着いた。始業式翌日に自主学習ノートを提出した数少ないメンバーの中に入るわけだが、
「――くじ引きで決めましたが、一学期と同じ方法でいいと思う人、手を挙げてください」
 吾月と麻梨が一緒に居るところを、同じクラスの誰かが目撃していたようで、
「はい、分かりました。じゃあ、今学期もくじ引きで決めます。班長さん、来てください」
 仲の良さ気なその二人についての噂は、
「今からみんなの分のくじを作るんで、ちょっと待っててくださいねー」
 蝉の一生よりも早く伝わっていった。
「はい、出来ました。じゃあ順番に引いていってくださいね。みんな静かに――、恨みっこ無しでね」

 そう言った吾月の制服の背を、麻梨が引っ張って、言った。
「出滋……、ねぇ」
「お、元風紀委員長サマが、学活中に珍しく発言ですか。何?」
「みんな見てる……。やっぱり見られたんじゃない、昨日……」
「見られてマズイものでも見せたか?」
「そうだけど……」
「なら大丈夫。変な噂が立っても言い訳できるから。井生戸は井生戸らしく静かに見ててくださいな。何かあったらよろしく」
「あ……、うん」

「みんなくじ全部引けた……? おし、じゃあ発表しますー。みんな静かにー」
 吾月はそう言うと、教壇に上がっている六人の班長から数字の書いたくじを受け取った。先に作った名簿と照合しながら発表していく。
「松田班、は。久本君、宇和野君、平野さん、隅田さん」
「宇野班は、花田君、安陪君、常磐さん、篠田さん」
「安部班は、……俺、遠井君、神山君、安部さん……」
 そこで吾月は口を止めた。この久元班は、男子三人女子三人の六人班である。あと一人、女子の名前を呼んでいない。
 吾月は前を見渡し、ちっ、と舌打ちして、観念するように言った。
「……井生戸さん」
 麻梨はこれを危惧していたのか、吾月はこの反応を予想していたのか。
 言った直後に、周りからは「ひゅーひゅー」と冷やかしの声が。思ったよりその噂は広がっているようだ。この騒ぎようだと、噂を知らない人の耳にも事情が飛び込むだろう。
 顔を真っ赤にして俯く麻梨。
「戸田班……――」
 吾月は真顔のまま、次の班の班員を発表し続けた。


「お前らさ、やっぱそう言う関係なのか?」
 席決めのあった一時間目が終わって、その後すぐの休み時間に吾月が友達から掛けられた第一声がそれだった。吾月は夏休み前に麻梨に向けられたような、冷たい感情の無い目で睨み返した。
「アホか」
 吾月は下敷きでその友――神山総一郎(こうやまそういちろう)の頭を叩くとそう言った。下敷きの角でやったこの攻撃は、なかなか痛かったようで。目に涙を溜めながら総一郎は言った。
「アホか、ってぇ……。二人でそんな遊んでで言い訳も何も……」
「はいはいはいはい、頭良いモン同士勉強してましたが? 何か?」
「あぁ、始業式に勉強組の二人だもんなぁ。いい口実になってますねぇ」
「あのなぁ……。俺の逆鱗に触れるぜ、それ以上は」
「命を賭してでも謎を究明する……。それが俺、夜神(やがみ)総一郎なんだからな!」
「神山だろーが、お前の苗字は」
 そう一瞥して言うと、吾月は総一郎の耳を引っ張りながらその耳に向かって、
「だから、本当にそんな関係じゃねぇって。カタブツ同士が絶対くっつくとも限らねぇし、一緒にいるだけでそんなに言われちゃ堪らんよ。俺はそんな気をあいつには向けてねぇ」
 そう言うと、最後に大きく引っ張って離した。
 親友だからこそ本当の事言うんだぞ。そう、耳を押さえて痛がる総一郎に告げると、吾月はそのまま教室を出て行った。
「……さいですか」
 総一郎は誰にも聞こえない声を発した。
 俯いたまま動かない麻梨に同じ質問をする気にはなれなかった。一言も言わないのは目に見えていた。もう目的は果たしていた。

 吾月の反論に耳を貸す人は、総一郎も含めて一人も居なかった。普段からよく話している上、麻梨の吾月と話すときだけに見せる笑顔が、吾月の反論を上から押しつぶしていた。
 クラスメートからの質問責めは、すべての休み時間中続くこととなった。吾月は最初から最後まで同じ回答を続けるしかなかった。

 地獄のような二学期二日目は、瞬く間に終わった。


 その夜。吾月家の電話が鳴った。といっても、机に向かって勉強している吾月はその呼び出し音に耳を貸すことは無かった。七時を過ぎた時刻に吾月に電話する人はまず居ないし、それよりも雑誌の編集長を務めている父への電話の確率の方がずっと多かった。
 だからその電話はいつも通り父が取って、いつも通り電話相手との大声での会話が始まると思っていた。まぁ、次に聞こえてきたのは父の大声で間違いないのだが、それはどうか興奮しているように聴こえて、それで居て自分の名前も聴こえてきた。
 ――名前?
 吾月は耳をそば立てた。

「吾月! 吾月ぃ!」
 どうやら父は一階から自分の名前を呼んでいるようだった。ではさっきの電話は自分宛? 滅多に無い自分宛の電話にやや疑問を抱きながら吾月は階段を下りていった。

 やはりと言うべきかまさかと言うべきか。そこには息を荒立てて電話の子機を差し出す吾月父の姿があった。ゆっくり子機を取りながら、
「吾月……、どうにも女の子の声なんだけど」
「まさか、中学生でも声変わりしてないやつなんて、結構ざらにいるぞ」
「吾月……、電話の相手なんだけど……」
「あぁ、うん。で誰なの、これ」
「吾月……、井生戸ってあの井生戸か……?」
「は……? 井生戸ってあの井生戸っ? あぁ畜生同じ事言っちまった。とりあえずあっち行けしっし!」
 そう手でぺっぺと父を階段近くから追い出した。肩をすくめて去っていく多忙の父、その手はどう見てもガッツポーズだった。何故に。

「あー、……井生戸?」
『あっ、出滋、こんばんは』
「あぁ、こんばんは。……どうした? こんな夜遅くに」
『ごめんね。あの、その、今日のこと謝りたくて……』
「今日……? あぁ、あれね。いいよいいよ、別に気にしてないし」
『でも……、迷惑かけて……』
「いいっつってんだろ。お前はそういうのに対応できないだろ? どうせ。こういうのは活発な方の学級委員がやっとくからいいって。静かなほうはそれらしく」
『……うん。でも、ごめんね』
「いいって、別に。ていうか、同じ班になれたんだぞ? とりあえずよかったじゃん。色々便利」
『でも、あんまり喋ると……。またみんなが……』
「じゃあこれから無視してやろうか? お前のこと」
『それは……、……、困る』
「だろ? どうせ何にも無いんだし、何あっても言われるのこっちだしね」
『……ごめん、本当に』
「だから良いって。この俺に任せとけ。変な噂は立たせないって」
『……うん』

「ところで訊きたい事がある」
『何?』
「流石に本殿には電話は無いと思うんだけど。どうやって電話掛けてるんだ?」
『あ、うん。携帯電話が届いてたんだよ。まだ火傷残ってるし……まだ何があるかわからないし……。いざって時に、ね?』
「へぇ……羨ましい。そういえば、まだ残ってたんだなうなじの火傷」
『へ……、なんて言った? 今』
「あ、いや。うなじに火傷あったろ? 大丈夫かなー、って」
『何で知ってんの? ……どうやって見たの……?』
「は……? そりゃあ――」
『知らん。じゃあ』
「は? ちょ、おい! ……切りやがった。訳わかんねぇ!」
 一人憤慨する吾月。それを心配そうに覗き見る父。
 吾月は子機を充電器に戻すと、腕を組み、首を捻りながら二階に上がっていった。
 父は心配げに覗き見ていた。

「何で知ってんの……、出滋のやつ」
 麻梨は水色の携帯電話を握り締めながら呟いた。二、三回ボタンを操作して、携帯電話を折りたたんだ。
「科学の最新機器を袂(たもと)に入れる巫女……。笑えん」
 そう言って麻梨は携帯電話をしまうと、そのまま儀式場に敷かれた布団に倒れこんだ。もちろんこれからまた勉強を始めるが、とりあえず今はこうしていることにする。今日は色々あり過ぎた。
 とは言っても、事の発端は吾月と居ることを誰かに見られて――二人で会っている、というニュースだけで今日は大盛り上がりだった。確かに麻梨は吾月と他の人との間で、口調も態度も違いすぎるし、二人はどう見ても仲のいい二人だった。それはさながら、仲の悪い国同士で起こった殺人事件のように、大きく誇張されて処理された。
 だがその出来事の処理は、すべて吾月がすることとなってしまった。吾月の言うとおり麻梨では対処はとても無理だろう。
 無理だから、吾月に任せている。
 それはこの学級委員の仕事のようだ。

 麻梨には、横巻中の風紀をよりよくする考えとやる気はあった。たくさんの人がこれを実行すれば、横巻中が良くなる自信もあった。だた、行動が出来なかった。
 小学生時代に麻梨と同じ学校だった人にはよく知られている。麻梨は暗くて、誰ともあまり話さなくて、友達の少ない子だった。けどその代わりというように勉強好きで、頭は冴えた。何も話さないわけじゃなくて、稀に意見も出した。そんな訳もあって、毎年先生からの信頼は厚かった。教科の係から委員会まで、ほとんど気まぐれのように就任した。そして、ごくごく並みの活躍を見せた。麻梨は並の女子児童だった。
 でも中学二年生になってから、彼女はまさに変貌した。麻梨にとっては、成功の確信を持って立候補した生活環境委員長だった。最初は上級生からの野次もあったし、その他色々無名、と言う点で苦労することは多かった。だが徐々に、横巻中の良化が目に見えるようになってきた。そして徐々に彼女は支持を集めた。そして三年生二人と対決する形になった後期の選挙も、見事勝利を収めた。
 だが麻梨は、三年生になって生活環境委員長に立候補することは無かった。それは、選挙で打ち負かした二人の先輩からの言葉が原因だった。
『自分から注意しないようなやつに任せられるか――』
 麻梨は、自分から注意することはなかった。それは小学生時代から引き継いだ、臆病で、無口で、あまり人と関わろうとしない性格、麻梨の数少ないウィークポイントだった。
 だから麻梨は、同じ生活環境委員についている人やリーダーをやっている人に頼んで、人に注意していた。麻梨としてはそれは仕方の無いことで、実際何回か自分で注意しようとしたのだが、やはり出来なかった。
 それが、活動の成功という好感の裏で批判されている事に気付いた。

 麻梨は、三年生で生活環境委員長にならなかった。もう麻梨のやり方を知っている人はたくさん居るし、なによりしっかり動いて、自分から注意が出来る同級生がたくさん居た。
 結局のところ、立候補しないことを公表してからも、なんだかんだで学級委員になった。それはあまりに強すぎる周りからの推薦もあったし、何より吾月が居たこともあった。

 吾月は、麻梨にとって唯一にして最高の親友だった。何故か一年生のときからよく声を掛けてくれたし、何故か麻梨を助けてくれたりしたし――。
 そして何故か――麻梨は吾月に惹かれていった。意識しだしたのは三年生になってからだったろうか。
そんな気持ちもあって、不謹慎かもしれないが麻梨は学級委員になった。気軽に声を掛けれる人だったし、吾月は最強の学級委員とも知られていたし。この人とならやれると思った。
けど二人で組んで始めて分かった。リーダーとしての実力は、遥かに吾月のほうが上手だった。注意してもらうように頼む、そんな必要も隙も無かった。最強の学級委員の名に、揺らぎも偽りも無かった。
そして、あまりに行動的過ぎる吾月の前に、麻梨の仕事はほとんど消えていく。どんなタイミングでも出来る数少ない、口での注意も出来なかった。声の小さい麻梨は、大きな声を出せる吾月よりも司会者の面で劣っていた。ただいつも通り生活改善の作戦や学級行事を考えることが仕事となったが、それでも吾月の優秀さが際立った。
吾月は麻梨よりも仕事が出来て、活発で、友達も多くて、勉強も出来た。
だれからもが理想像とされる人だった。麻梨から見てもそれは同じで、麻梨に限ってそれと同時に悔しさもあった。
『自分から注意しないようなやつに任せられるか――』
 この言葉は先輩からしては本心だったのだろう。突然出てきて突然人気者になって。そして先輩を差し置いて引き続き大役に付いた。決してその二人の先輩は麻梨より劣っていたわけではなく、負けず劣らずの差だった。でも、三年生の多くも麻梨を支持した。
 でも今それが、ついに裏目に出ている。自分から注意できないことでその役目を相方にほとんどやらせてしまっている。先輩は、もしかしたらこのことを危惧していたのかもしれない。

 変えなきゃいけないと思った。
 任せっきりでは駄目なんだ。




「明日からでもやってみよう……。でも今の騒ぎの中はどうだろう……。なにか大事件でも起こってくれるといいんだけど……。これじゃあ出滋と話すこともままならないし」
 麻梨はそう呟くと体を起こした。カバンを開け、勉強道具を机の上に出した。








 次の日の朝は、一、二年生が中間テストを行うにもかかわらず全校集会から始まった。今日の予定の変更を記したプリントが全校生徒に配布され、戸惑いの中横巻中の生徒は体育館に集まった。未だ猛威を振るう太陽によって蒸し焼き状態となった体育館には、横巻中生徒がたった一人だけ登校していなかった。

「暑い……」
 こう愚痴をもらしたのは麻梨だけではないはずだ。空気と言う名の釜の中でコトコト炊かれた体育館の中は、明らかに館外より気温が高い。生徒達は、扇風機や冷房機を設置していないこの体育館で、下窓を全開にすることでかすかな抵抗をしていた。とはいえ今日はほとんど無風。体育館に暑さはこもるばかりであった。
「出滋遅いなぁ……。風邪でも惹いたなぁ」
 そう誰にも聞こえない声で麻梨は呟くと、ハンカチで額の汗を拭った。「巫女さん研修」で、何かと熱のこもる本殿で寝泊りしたことも多い麻梨には、暑さは結構平気だったのだが、それでも汗は容赦なく噴き出していた。麻梨は別段暑いことに愚痴は言わず、ただうなだれながら教頭が壇上に立つのを待っていた。

 しばらくして教頭が壇上を登った。生徒は、「これが終わったら自由だ」「こんなところからもう少しで出られる」と言わんばかりに服装と姿勢を正す。全校生徒の視線が教頭に集まり、すぐ後に挨拶が始まった。一通りの挨拶を済ませると教頭は、一旦口を止めた。
 次に飛び出した言葉はこれだった。

「当校の生徒が、今朝登校中に事故に遭いました」


 紛れもなく被害者は吾月だった。登校中に死角から現れた車に撥ねられたらしい。不幸中の幸い、撥ねられた後吾月はごみ収集所に飛び込んだ。大量のゴミがクッションになって、叩きつけられる衝撃は緩和されたものの流石に始めの衝撃ばかりはどうしようもないようだった。右上腕と鎖骨を骨折、後に常識ある加害者によって病院に運ばれた。




 昨晩の麻梨の呟き通り、今朝発生した大事件は麻梨と吾月の疑惑に上乗せされる形で今日の話題になった。

「大丈夫かなぁ……、出滋。……右って出滋の利き腕だしなぁ……」
 全校集会を終えてすぐの休み時間。もちろん話題は吾月の話で持ちきりで、麻梨も誰と話すでもなく吾月のことを案じていた。吾月は二学期にしてもはや三年二組の大黒柱となっている。大黒柱の不在は、二組に少なからず衝撃を与えていた。
 と、その時麻梨の後ろの席から声がした。
「井生戸さん」
「はい……? 安部、さん?」
 麻梨と出滋の班の班長になった安部(あべ)香澄(かすみ)だった。
「昨日の噂とかそう言うの無しでね。やっぱり居ないと寂しいよね、出滋君」
「そう、だね」
「……井生戸さんさ。この前入院した時に来てもらったんだって? 出滋君に」
「あ……、うん」
「実は夏休み中もずっと会ってたんだよね?」
「うん……。何でそんなに知ってるの……? 安部さん」
 香澄は目を逸らして、実は……、と呟いてから、
「私さ、出滋君のことが気になってたんだ、よね……。それで色々情報集めててね。職員室で先生から聞いたり、友達から聞いたり。さっきの二つの話はそれで聞いたんだけどね」
「…………」
 麻梨は絶句して、その話を黙って聞いていた。
「私も言ったんだから、井生戸さんも本当のこと言ってね? ……出滋君のこと、どう思ってる? 私、それが気になって……」
「……うん……」
 麻梨はそう言って、黙り込んだ。もちろん、私は言ったから、という条件だからといっていきなり話せることでもなかった。そしてもう一つ。
 どうして香澄は、こうもおおっぴらにこの事を、出滋を好きだということを話せるのだろうか。香澄は活発では無いが、それでも静かではない方の子だ。それが理由なのか?
「どうなの?」
「あっ、うん……。そう、だけど」
 この場だけはぐらかしたり、間を延ばしても仕方がないことは分かっていた。だから応えたわけだが、それでも吾月でもない人に言うことすら、麻梨には恥ずかしかった。麻梨は俯き加減に視線を下に逸らすと、そのまま黙り込んでしまった。
「あっ。あぁ! ごめんね、無理に言わせちゃった……。ホントごめん!」
 香澄はそう言いながら麻梨の肩を激しく叩くと、俯いた麻梨の顔を持ち上げた。
「じゃあ、一応恋敵って訳だけど……。でも、仲良くしようね? 私、麻梨さんの事尊敬してるんだからっ、ねっ?」
「……尊敬……?」
 麻梨は香澄と目を合わせる。
「麻梨さんが頑張ってるから班長立候補したんだよ? まだ班長初めてだからさ、二人でサポートよろしくね」
「あ……うん。出来る限りのことはする……」
 香澄はそれを聞くと笑みを浮かべて、ありがとうと言った。麻梨はその後、体を前に向ける。

 やはり、香澄は私とは違う。麻梨はそう考えずには居られなかった。
 出滋のことをはっきり言える、と言うことだけではない。班長という仕事に就いた理由もそうだった。
 麻梨は、吾月が居るから、という理由で学級委員になっていた。周りからの強い推薦は、ただの上手い口実なのかもしれない。結局決め手になったのは吾月の存在だった。
 でも香澄はどうだ? 香澄は、麻梨に憧れて班長になった。別に好きな人がいたわけでも無いし、だれかがサポートしてくれる保障もついさっきまでは無かった。
 香澄の動機に比べれば、麻梨の動機はなんて小さいのだろう。もう今となっては、二年生のときの実績なんて目に見えて残っていない。今学級委員をやっているのは、古今問わず実力を振るう最強の学級委員と、自分の私情だけを挟んで参加した元・風紀委員長だった。
 でも、そんな堕落したリーダーを未だに尊敬し続ける仲間が居た。そんな人に憧れてリーダーに加わった人がいた。

 嬉しかった。また、頑張らないと、という気が起きた。
 時計は、変更された一時間目開始の時間の直前を示していた。
麻梨は香澄と目を合わせた。そして気付いたら、普段出さないような声を出していた。


「起立、礼」
「ありがとうございました」
 一時間目が終わった。それと同時に香澄が麻梨に声を掛けた。
「麻梨さん、休戦中じゃなかったの?」
 そう身を乗り出して言う香澄に、麻梨が肩越しに言った。
「そんなの自信無くしたときだけの言い訳だよ」
 言ってから、麻梨は椅子ごと動かして香澄に向いた。香澄は腰を椅子に戻すと、話し出した。
「久しぶりに動いたと思ったら自分で呼びかけるんだもん、ビックリした」
「はは……、ありがと」
「みんな誰の声か一瞬迷ってたよ? その後すぐにみんな動き出すから……、私の仕事無くなっちゃった」
「はは……、ごめん」

 香澄と同じ考えの生徒は、他にもたくさん居た。授業開始時間に対する感覚が少し甘くなっていた生徒達にとって、聞きなれない声は耳に突き刺さった。ふと振り返ったら呼びかけたのは麻梨で、その後すぐにみんなは席に戻っていた。
 やはり元・風紀委員長の名は残っていたようだった。


「井生戸さん」
 麻梨と香澄が話す中、その横から声を掛けた人がもう一人いた。
「隅田さん?」
 香澄は声を漏らす。麻梨もゆっくり目線を横に逸らしてその女子を見た。
 隅田高士(すみだときこ)。現・風紀委員長だった。
「多分そうだと思うけど……。さっき呼びかけたのってあなたよね?」
「あ、うん……」
「そう」
 高士はそう言うと、麻梨の前の机の椅子を引いた。そこに香澄とで麻梨をはさむ形になるように座ると、両手を軽く組ませて、両指の甲に頭を乗せた。
「びっくりしちゃった。最近私たちに指示することも無くなって静かになったと思ったら、急に呼びかけるんだもの」
「あ、うん……。こっちも滅多にやらないことだから……、ちょっと声がひっくり返っちゃった、し」
「そうね」
 何も否定せずに高士は微笑んで言った。続けて、
「生活環境委員長の先輩に言うのもなんだけど、とっても良かったわよ、呼びかけ。出滋さんよりもずっと上手なんじゃないの? 人をやる気にさせるのが」
「え……?」
「だから、人を席に戻す気にさせるのが上手いのよ。私もそうだったけど、みんなすぐに席に着いたでしょ? そういうのは」
「そうじゃ、無くて。……出滋君のほうが、ずっと上手……」
 麻梨がそう言うのを聞いて、高士が声色を変えずに言った。
「そうかしら? 口から出してるのは声だけ事実だけ。最近はそこまで実績があるわけじゃないから、そこも考えたら貴方のほうが上手よ?」
 それを聞いて、香澄が椅子を跳ね飛ばしながら立ち上がって、
「ちょっと! 言い過ぎじゃない!」
「言いすぎも何も。失策した政権への世論は酷いわよ? それとも、今出滋さんが井生戸さんに勝っていることが一つでもある?」
「っ……。それは……――」


「出滋君の方がっ……!」

 麻梨の声が教室に響いた。またもや耳に入った聞きなれない声に、クラス中が三人を注視した。多少驚きながらも、高士は冷静に話を繋げた。
「方が?」
「私よりやる気あるしっ! ……私よりずっとやさしいっ」
 麻梨はそう息を荒立てて言い切る。肩が大きく上下に動かしながら、高士を睨みつけていた。それを見て後ろから香澄が思わず諌めた。
「井生戸さん井生戸さんっ。とりあえず落ち着いて……」
「でも……」
 香澄は麻梨の肩を抑えて席に座らせた。麻梨の背中越しに高士をキッと睨んで、
「謝ンなさいよ。出滋君は失策も何もしてない」

「そうね……。また今度謝るわ……――、病院から、出て来れたらね」
「っ……! この野郎!」
 麻梨は椅子と机を盛大に押し倒しながら高士に掴みかかる。この騒ぎには、流石に遠巻きに見ていた同級生も飛びついた。香澄が間に入り、男子が両方の襟首を後ろから掴んで無理矢理引き剥がした。
「お前なんてっ……! 死んじまえッ!」
「井生戸っ抑えろ!」「落ち着け!」
 男子と女子が入り乱れて、暴れる麻梨を取り押さえる。今まで麻梨が見せたことも無い姿に混乱する人が居て、対に冷静な人は高士に詰め寄っていた。
「ちょっと! 何であんな事言うのよ!」「酷くない? 分かってる? 言ったこと」
「分かってるわよ、自分の口から出たことくらい」
 高士ははき捨てるようにそう言うと、きびすを返して教室を出て行く。
「ちょっと!」
 香澄が声を張り上げるが、高士は耳を貸さない。振り返ることもせずそのまま歩いていった。

 麻梨はそれを見ると、へたへたと腰を落とした。羽交い絞めにしていた女子もそれに気付くと、ゆっくり体を下ろして床に座らせる。麻梨はオーバーヒートした機械を冷やすように、深く呼吸を繰り返していた。
 不意に女子の一人が麻梨の肩に手を置き、言った。
「井生戸さん、よく言ったよ。出滋んためにそんな言える人、早々居ないよ」
 それを聞くと、回りからは次々と賛同の声が上がった。
「掴みかかるとはね、これもまたびっくりだよ」
「今日の井生戸さん、昨日までとずいぶん違うよ? 誰かに改造された?」
「ちょ、それ酷くない?」
 どこかで聞いたような話を聞いて、麻梨は顔に笑みを浮かべた。香澄はそれを見ると、両脇を支えて麻梨を立たせた。
「何かみんなに言うことは?」
「え、……っと。……みんな……、もう、席着こっか?」
「違う気がする」「まぁ、井生戸さんらしいや」
 麻梨の周りに集まったクラスメートが、自分の席に戻っていった。麻梨と香澄が、倒れた椅子と机を元に戻して、席に戻った。






「はぁ? 高士が授業抜け出したぁ? あぁ面倒くさい! 今日の復習テスト、見直しの時間十分やるから予習してろぃ! これから高士探してくらぁ」
 二時間目、理科の復習テスト。担当教師はそう言うと、教室なのに着ている白衣をはためかせて教室から出て行った。三年二組の生徒に、復習の時間もとい自由時間が与えられた。ある生徒は後ろを向いて友達と話し、ある生徒はまじめに教科書やノートを見直していた。
 香澄は前者で、無論麻梨は後者だった。
「井生戸さん」
 ぺら。ぺら。
「……井生戸さん!」
「あっ、はい……? 香澄さん……、どうしました?」
「どうしました……って。こんな時くらい話そうよ。どうせ基本確認くらい、抜き打ちでも九十点台は出るでしょうに」
「……最高点は百点だし……」
「前言撤回。百点は出るでしょうに」
「万が一ヘンテコな問題出されたら……」
「その時は仕方ないよ」
「でも……」
「……ここで断ったら、友達の名が廃るよ」
「……友、達……ですか……」
 麻梨はそれを聞くと、ノートを机の上に戻した。振り返って、
「どうかしましたか?」
「あっ、いや……。大したことじゃないけど」
 香澄はそう言うと、麻梨の耳に口元寄せて、
「出滋君の所にさ、お見舞いに行こうと思うんだけど……。一緒に来る……?」
「行く! ……けど、場所って分かってるの……? 病院の」
「あー……、それね」
 香澄はそう呟いてから、もう一度周りを確認する。耳をそば立ててこっそり聞いているような人は一人も居なかった。香澄は頬を赤らめて呟いた。
「先生に泣きマネして……。病院の名前と病室ナンバー訊き出したり……、とかぁ」
 吾月と同じ方法だった。思わず麻梨は、
「……ぷっ……くく」
「わ、笑うなぁ! 普通に聞いてもダメだったんだもん……」
 トマトのように頬を真っ赤に膨らませながら香澄は言うと、拗ねるように顎を机に乗せた。麻梨も目から滲んできた涙をぬぐうと、
「あ、いや……。出滋君と似てるなぁ、って思って……」
「似てる?」
「出滋君もね……、校長先生に泣きマネして聞きだしたんだよ? 私の場所」
 香澄はそれに絶句して、
「へぇ、そうなんだ」
 更に俯いてそう言った。

 ドアが開いた。先生が帰ってきたのがわかって、友達と話していた過半数の生徒は前を向いた。
「おぉい、高士どこにも居ないんだけど……。何かあったのか? はい、知ってるやつ挙手ー。今日の復習テストは中止ね」
 それぞれが顔を見合わせ、クラスメートのほとんどが手を挙げた。



 横庄(おうしょう)大付属病院。最終的に、吾月が居る病院の名前は担任から知らされたため、結局それは周知の情報となった。――香澄が「私の涙を返せぇ!」と叫んでいた。
 高士は結局学校から姿を消し、自宅に電話してもまだ帰ってきていない、とのこと。生徒達から事情を聞いた後、様子を見て帰ってこなければ行くトコ(捜索願)行くそうだ。

 帰宅後、横庄大付属病院にて、
「えぇっ! よ、よんひゃくはちじゅうはってん(四八八点)? わ、私と百五十点も差がある……」
「安部さん……、もうちょっとトーン落として……」
 結局吾月の見舞いに横庄大まで来る人は担任の先生を含め三人だった。麻梨と香澄ら二人と先生は見舞いに行くタイミングが違い、先生は七時過ぎごろに来院するそうだ。
 麻梨は、理不尽だぁ……と愚痴を漏らす香澄を横目で見ながら、エレベーターのボタンを操作した。ドアが静かに閉まり、やがて上から押されるような感覚が現れる。
「出滋君の怪我の程度って、どれくらいなんだろうね」
 香澄が口を開いた。制服に花びらが付かないように、麻梨は花束を香澄とは対の方向にやって口を開いた。
「車に撥ねられたんだからね……。……でも、出滋君って結構頑丈だから。多分大丈夫だと思うけど……」
「頑丈?」
「あぁ……うん。首とか色々叩いたり蹴ったりしても大丈夫、多分」
「首、って。へぇ……」
 エレベーターのドアが開く。車椅子でも自由に入れるようにドアは広くなっているため、大きな花束を持っていてもぶつける事は無かった。
「こっちだね」
 教えてもらったとおりの番号に、麻梨が誘導した。
「詳しいね」
「一番初めに入院したのここなんだ。うろ覚えだけど、同じ階だし」
「なるほど」

 吾月の居る個人室に到着した。香澄はドアに指を掛けたまま麻梨に言った。
「きんちょーするんだけど」
「そんなこと言われても……。手の平に人の字書いて飲み込んだら……?」
「よし、採用」
 実際に実践する香澄を麻梨はまた横目で眺めていた。そうしていると、香澄が不意に口を開いた。
「井生戸さんてさ……、なんか出滋君と姉弟(きょうだい)みたいだね」
「……ヘ?」
「なんか仲良さ気だしさ。お互いに心配しあってるしさ。なんかじゃれあってるみたいだしさ」
「さ、最後は要らないと思う……」
「それでもさ。……私よりずっとこの二人のほうがお似合いかなぁ……って」
「……そうでもないかもしれないよ? 私、神山君に頼んで出滋君に、本当の所どうなのか、って訊いて貰ったことあるんだ。結構必死に言い訳してたみたいだよ? 本当の友達だからこんな事言うんだぞ、って念を押したりして」
「でもそれが本当なのかも」
「大丈夫だって!」
 香澄は麻梨の両肩を掴んで、顔を近付けて言った。突然英語で。
「Please repeat after to me.」
「は……? OK. What's?」
「We love Idezi. Repeat.」
「We love Idezi.」
「Iudo love Idezi. Repest.」
「Iudo loves Idezi.」
「Idezi love Iudo. Repest.」
「Idezi loves Iudo. ……って、こら。……何言わせるのよ」
「分かってて言ったクセに。私からのおまじない」
 香澄はそう言うと、肩を掴んだまま麻梨の体を捻らせてドアに正面向かせた。
「私、ここで帰るからね」
「えっ? 一緒に……」
「二人っきりのほうが良いでしょ?」
「でも……」
「でもも何も無い! 特攻!」
 香澄はそう言うと、吾月の居る病室のドアをノックした。病室の中から、どうぞーと吾月の声が聞こえた。
「え……ちょっと」
 戸惑う麻梨をよそに、香澄はもう背を向けて歩き出していた。麻梨は俯いて、そして顔を上げて、香澄に呼びかける。
「安部さん!」
「まだ何か?」
「私たち……友達だよね?」
「うん、もちろん」
 香澄はそう笑顔で返した。麻梨も満面の笑みを浮かべると、香澄はまた背を向けた。
「三人称単数形には es を付けるんだよっ。分かった?」
「うん。って、やっぱり分かって言ってたのか、さっきの」
「まぁー、ね」
 麻梨がそう笑ったのを肩越しに見て、香澄は歩き出した。

「井生戸さんでも笑えるんだ……。こら私の負けかなぁ……」
 香澄は目元を拭ってそう言った。




「どうぞー?」
 部屋の中から吾月の声が再び聞こえた。麻梨は、そういえばずいぶん待たせちゃたな、と呟いて、ドアを開けた。
 吾月の姿は、
「おぉ、やっぱし井生戸か。わざわざありがとなー」
「はぁ……ちょっと心配して損した」
 ギブスを右腕に付けた姿だった。だが、その腕を振りながら、麻梨を手招いていた。
「もうちょっと自分の身のこと考えたら? 周りから見たらすごく危ない」
「別にぃー。そんな重い骨折じゃないみたいだし」
 吾月の話によると、このパターンは骨が体外に飛び出たわけでもなくただヒビが入っただけという単純亀裂骨折だった。ちなみに骨折の度合いとしては一番軽い。
「なら良いんだけど」
「だから良いんです」
 吾月はそう言うと、クラスの状況をまずはじめに訊いた。麻梨は、いつも通りだったと嘘をついた。
「あ……そうだ。今日私ね、みんなに呼びかけできたよ」
「マジかっ! おぉ、成長したなぁ……。せめて俺が居る前でやってくれ」
「出滋が居ないからやったの」

「そういえば」
 吾月が口を開いた。
「さっき井生戸、誰かと話してたろ? 誰と会ったんだ?」
「あ……ちょっと安部さんとね」
「アベ? 安部香澄の方か? ……あいつも来てたのか……。何故に」
「それは内緒」
 麻梨はそう言うと、ベット脇の椅子に腰掛けて、花束を渡した。
「内緒って……、それを言われると気になる。言え、言わないとギブス外すぞ」
「うわ、いやな脅迫。自分の身を犠牲にしなくてもいいのに……言わないけどさ」
「酷ぇ……」
 そうぼやく吾月を尻目に、麻梨は今日配布されたプリント類を手渡した。あぁ授業遅らしちまったんだなー、と呟いた吾月に、気にしなくていいよと麻梨が声を掛けた。

 本題に入ることにした。麻梨が口を開く、
「ねぇ出滋……」
「ところでさ」
 と同時に吾月が口を開いた。またどこかで見たことあるような会話のベタな横入りにうんざりしながらも麻梨は、何? と聞き返した。
「うなじの痣、どうなってる?」
 またそれか。麻梨は心の中で呟いてから、
「まだ痕は残ってる。一生残るかもね、これ。でも、家族との思い出の一つだと思えば」
「見せろ」
 突然吾月は真面目な顔をして言い放った。
「……は?」
「見せろって、その火傷の痕」
「ばっ……、う、うなじだよっ? わ、私女の子だよっ?」
「分かってる」
「へ、ヘンタイかっ! ちょ、ちょっと仲良いからってそんなところっ……!」
 顔を真っ赤にして反論、拒否する麻梨に、真面目な顔を保ったまま吾月が言う。
「……、最近さ。お前何か願い叶ったりとか、そういうのって無いか?」
「願い……? どういうこと?」
 うなじを両手で押さえたまま麻梨が言った。吾月はベットの脇に置いてあったカバンから、ビニール袋に包まれた古びた本を取り出すと、話を続けた。
「少し話を変えるぞ。お前が選んだ守護神は何だ?」
「守護神、って。何でそんな事を?」
「『言霊(ことだま)』だろう? お前が選んだのは」
 吾月はそう言うと、ギブスの付いていない左手だけで、器用にビニール袋から本を取り出すとそれを麻梨に渡した。
「何で知ってるのよ……。そんなのまだ私とお母さんしか」
「その井生戸のお母さんが書いたんだろ? それは。真ん中あたりから白紙だから、字が書いてあるところの一番後ろ、見てみろよ」
「お母さんが……?」
 麻梨は言うと、本を開けた。表紙に何も書いていないその朱色の本を開くと、吾月のいう通り、そこには文が連ねてあった。箇条書きのようになっているそれを、麻梨は順に捲っていった。そして、途切れ目があった。

 八十二代当主・井生戸氏康  市杵嶋姫神
 八十三代当主・井生戸氏尚  閻魔大王
 八十四代当主・井生戸文代  迦具土神
 八十五代当主・井生戸麻梨  言霊

「これって……」
 麻梨が声を漏らした。
「氏尚と文代、って、お前の両親の名前だろ? その二人の名前と守護神くらいは覚えてたからさ」
 吾月はそう言うと、更にこれは本殿で見つけた、と付け加えた。
「この前視力の事はぐらかしたろ? 人間が急に視力が上がるなんてありえないからさ、そういうのが関係してるんじゃないか、と思ってね。思い起こしてみなよ、何か願い事が叶ったことは無いか、って」
「願い……事」
 麻梨は思い起こした。

 眼鏡を外し忘れたのに気付いて、愚痴を言いながらそれを布団から出した。
「雨、止まないかなぁ……。寒いし」
一時くらいか、と勝手に呟いて決め込むと、
「一緒になれるかなぁ……? 一緒になれるといいね!」

 ふと思い出しただけでも、これだけあった。よく思い出せば、もっとあるかもしれない。
 そして、どれも吾月の言った通りだった。いつの間にか眼鏡が必要ないほど視力が上がっていたし、雨は急に止んだし、吾月は一時ごろに家に現れたし、班は一緒になった。

「叶った願い事……、たくさんある」
「やっぱりか。視力は流石に人間じゃ無理だからさ。やっぱり井生戸神道って本物だったんだな。神って居るんだなぁ……」
 心底感嘆して吾月が言った。麻梨はそれにいまさら気付かされた事にやや落ち込んでいたが、ふと気になって訊いた。
「……じゃあ、なんで火傷の痕のこと訊こうとしたの?」
「守護神の名前は、当主の体のどこかに現れるんだとさ。痣とか火傷とかで」
 そう吾月はさらっと言った。麻梨は再び手をうなじにやると、またひとつ気になって訊いた。
「でも、この本を私に見せてくれれば、その事分かったんじゃないの? わざわざこんなところ見ようとしなくても」
「その話に触れたら負けだぞ」
「そう」
 麻梨は頑丈な吾月の首に拳を叩き込んだ。

「あ……、そうだ……」
 首を押さえ、明らかに苦痛の表情を浮かべている吾月が言った。
「多分、自分が発言したことは実際に起こると思うんだよね……。容易な発言はしないほうがいいぞ」
「自分の言ったこと……か。あっ、じゃあ今日みんなが、私の指示通りにすぐ動いてくれたのも……」
「……もしかしたら、な」
 吾月のその声を聞いて、あきらかに落胆している麻梨。吾月は麻梨の肩を励ますように叩いた。

「そういえば、何か話すこととかあるか?」
なんかこのムードはイタい。吾月はそう思って、話題を変えようとした。麻梨は、さっき同時に話そうとしていたのに、全く気付いていない吾月に更に落胆しながら――でも、そんな顔ではとても言えない話だから。顔を起して笑顔を作ると、麻梨は口を開いた。

「あのね、出滋」
 今度は、声が重なることは無かった。吾月が何だよ改まって、と言うのを聞いて、自分の心臓が激しく胸を叩いているのに気が付いた。一度深呼吸をして、覚悟を決めた。
「私――」

『Idezi loves Iudo. ……って、こら。……何言わせるのよ』

 さっき口にした言葉が脳裏よぎって、麻梨は口を止めた。
「――嘘……。さっきの願いまで……?」
「どうしたよ? さっきからぶつぶつと……」
「どうしたも、こうしたも……無いッ!」
 麻梨はそう悲鳴にも似た声を上げると、布団に顔をうずめた。嘘だ、嘘だ。そう呟き続ける麻梨を見て、吾月は混乱を深めるばかりだった。

 吾月は、好きでもないのに麻梨を好きになってしまっている――?
「……戻れ……。元に戻れッ!」
 吾月の考えを操ってしまっている――?
「言ったこと全部元に戻せッ! 言霊出て来い!」
「落ち着け井生戸っ!」
 布団に顔をうずめたまま絶叫する麻梨の肩を、吾月は激しく揺する。麻梨の叫び声はだんだんうめき声になって、最後には泣き声になった。
「おい……」
 目の前で突然な気じゃくる麻梨を前にどうすることも出来なくなって、吾月も黙り込んでしまった。
 病室には、麻梨の泣き声だけが響いた。

 しばらくして泣き止んで、また沈黙。その音の無い世界に、不意に音が現れた。
「麻梨」
「……は?」
 先に口を開いたのは吾月だった。突然下の名前で呼ばれた麻梨は驚いて、涙を布団でぬぐってから顔を起した。目の前でベットに横になっているのは紛れも無く吾月だった。
「今……、なんて言った?」
「麻梨、と言ったのだが」
 吾月は表情を変えずにそう言った。おかしい。吾月は麻梨を下の名前で呼んだことは無いし、呼ぶような人でもない。加えて、何か声の調子もおかしい。吾月はこんな話し方しない。
「言霊出て来い。そう言ったのはお前ではないか? 麻梨」
「え……」
 正体を理解した。
「出滋じゃなくて……。言霊……?」
「いかにも。今はこの出滋吾月の身を借りているが。私はお前の守護神、言霊だ」
「まさか本当に出てくるとは……ね」
 麻梨はそう呟くと、吾月――言霊の目を見据えた。言霊も瞬きすらせずに麻梨を見ていた。

 麻梨は口を開いた。
「何で無理矢理……、願ってないことまで叶えるの……」
「願ってない……? お前は私を守護神とするのを認めたはずだ。だからお前の発言をすべて叶えた。言霊を守護神にすればこうなることくらい、分かっていただろう?」
「ちょっとは自分で考えなさいよ! これを叶えたら後々どうなるか、それくらい――」
「守護神は、当主に逆らえない。言葉ならなおさらだ」
「……!」
 淡々と口を動かす言霊は、ふと思い出すように言葉を続けた。
「隅田高士……、だったか」
「隅田さんが、何?」
 今日のことで嫌な思い出のある麻梨は、嫌な表情を隠しもせずに言った。

「今頃死んでるな。そういえば」
「は……? ちょ、待って――」
「間違いでなければ、死んじまえ、と言ったはずだが……」
「そんな――」
 麻梨はベットの脇で腰を抜かして、座り込んだ。
「別段気にすることでもあるまい? 隅田高士に死んで欲しいと願ったのは、お前の本当の願いだろう?」
 言霊がそう言うと、麻梨は愕然として、ベットにもたれた。
「何で……、言ったこと全部叶えちゃうのよ……」
 誰に言うでもなく、麻梨の口からは言葉が漏れた。先から無表情を保っている言霊も、流石に顔を歪ませた。
「それは……、お前の自己中心的な解釈ではないか?」
「……何、って?」

「お前は……、隅田高士に対して『死ね』と言った。しかし何故いざ死ぬと、私に責任転嫁するのだ? 死ねと言ったのはお前だ、それを願ったのはお前だ。隅田高士を殺したのは私の力ではない。お前の、願いだ」
「何をっ……!」
 麻梨は激昂して、言霊に掴みかかる。が、男に力に女が勝るわけでもなく、簡単にその手はふりほどかれてしまった。
「先に言っておくが、一度言って実現した事柄を、後で修正したりすることは出来ない。お前の視力はそのままだし、隅田高士は死んだまま。蘇れと言っても願いは叶わない」
 麻梨は顔をこわばらせたまま、言霊を睨んでいた。

 最後に――。言霊はそう言って続けた。
「この私がお前の守護神である限り、お前の言葉はこの世のすべてのものより重くなる。出滋吾月も言っていたが、発言には気をつけることだな」
 ではさらばだ、そう言った言霊の言葉に間髪入れずに、
「ちょっと待って!」
 そう麻梨が引き止めた。まだ吾月の中に言霊は残っているらしく、言霊の口調で「何だ」と応えた。
「私……どうしたら良いの? これからどうしてればいいの? 教えて」
 言霊はそれを聞いて、愚問だな、と声を漏らした。
「言霊の力を使って私から最善の対処法を訊き出そうとしても無駄だ。……そうだな、世界を消してみたらどうだ?」
 そう嘲笑うかのように言霊が言って、それが最後だった。ふと言霊は目を閉じると、そこからは吾月だった。
「あれ……いままで俺何して――?」
 そうベタな目覚めをした吾月を尻目に、麻梨は大きく息を吸っていた。横隔膜が開ききり、肺に限界まで空気を押し込んで――、

 叫んだ。




「世界なんてっ! 消えちゃえ!」








 麻梨は目を覚ました。
「は……?」
 この展開は、先の山火事で意識を失って病院にいたときくらい急だった。
何故かぼやけている眠い目をこすって、辺りを見回す。そこは狭く、周りをふすまで囲まれ、四方上部にはロウソクがあった。
どう見ても儀式場だった。

 直後、聞こえるはずのない声が耳に響いた。
「麻梨」
「え……えっ?」
 その声の主は、
「えっ? 嘘……。え……」
麻梨の母、井生戸文代だった。
「麻梨、返事をしなさい」
 ふすまには、着物を着た文代の姿があった。文代は明らかに生きていて、麻梨を呼ぶ声はふすまの向こうから聞こえていた。
「……はい……?」
 驚愕と混乱の入り混じった表情で麻梨が返事を返す。少し間を置いて、文代が話し出した。
「驚くなと言うのも無理があります。外に着替えを置いておくので、着替え次第、本殿裏へ来てください」
「あ……はい」
 麻梨が返事をすると、ふすまに映った文代の影は小さくなって、消えた。
「何が起こってる……? でも、言霊でも指示には逆らえない……。出て来い、で実際に出てきたんだから、間違いじゃないはず……」
 そう呟きながら麻梨は体を起こすと、枕元にあった眼鏡を着ける。視界のぼやけがなくなったのを確認して、身に捲いた帯を外し始めた。


 本殿の裏は、弓道場になっている。麻梨は用意されていた白い簡素な着物を着ると、急いでそこへ向かった。

 儀式場目下の急斜面を慣れた足取りで駆け下りると、目に突然飛び込んできたのは、紅ではない、青々とした銀杏群だった。紅葉を擁する樹は一本も無く、吹き付けるあまりに温かい風に、忙しそうに青葉を揺らしていた。その樹々は一本も焼けた後が無く、生まれ生えたままの姿で本殿を守るように立ち誇っていた。
「なんで――?」
 そう呟いて、麻梨は足を止めた。ついさっきまでの世界は、ほとんどの樹が焼けてしまっていたのに――。樹はそこに居るのが当然と言わんばかりに、至って平然としていた。
「……、何でだ……?」
 麻梨は再び本殿裏に歩を進めた。


「やっと、来ましたか」
 待っていた文代の第一声がそれで、それと同時に敷かれた畳の上で弓に矢をかけていた。少し間を置いて、二尺四寸離れた、藁を束ねた簡易的な的を目で睨み付けた。そのまま弓を持ち上げ、そして下ろしながら矢を引き絞った。そして、離れ。まるで手から滑り落ちたように自然に放たれ、繰り出されたその矢は、タス、という独特な音を遠くから響かせ中央に突き刺さった。文代は美しい残心を残し、そして弓を下ろした。
「お見事です」
 麻梨はそう一言言うと、文代が立っていた畳の脇に座った。二尺四寸、それはメートル法にして六十メートルに相当する。それは小口径ライフル銃射撃の距離を十メートルも上回る距離である。感嘆のほか無い。
「ありがとう」
 文代はそう言うと、カーボン製の二本目の矢を抜き取って、構えた。

「あなたがさっきまで見ていた夢は、すべて見させていただきました。実に考えることの多いものでしたね」
「夢……、だったんですか。あれは。それに、何で人の夢を――」
「何故見れるかについては追々分かります。今は夢の内容のことを」
 文代がそう言うと、麻梨は少し思いつめるような顔をしてから、自分の母に訊いた。
「あの夢は……、何なんですか? 今見ている光景とギャップがありすぎて、理解に苦しみます」
「その前に麻梨。実母に敬語を使うのを辞めなさい。聞いていて、本当にあなたが私の実の娘なのかと懐疑的になることがあります」
 その前にあなたの口調もどうにかしてください、敬語じゃないと話し辛いです。麻梨はそう思ったが、口に出すのは流石に控えられた。

「夢……ですか。一概にはそう言えるかもしれませんし、私たちからしてはそれは微妙に語意に違いがあります」
 文代は口調を改めずに言った。
「違い……って何ですか――じゃない、何なの?」
 慣れない常体での会話、思わず敬語で話した麻梨に微笑みながら、文代は言葉を紡いだ。
「あなたは、どういう気持ちで当主継承式に臨みましたか?」
「は……?」
 明らかに論点がずれている。麻梨はそう思いながらも、自分が今までそれについて思っていたことを正直に思い出して、口を開いた。
「私は――」
「神なんて居ないと思った。でしょう?」
「……! それは……」
 思っていたことが、先に文代の口から出た。文代は再び矢を弓にかけながら、続けた。
「神なんて居ない、だからこの儀式も形式的でしかない」
 狙いを定め、弓を上に上げる。
「だから油断していた。言霊を守護神として選んだのは、自分から積極的に話せない自分への指標つくり。言葉の神、言霊を守護神にすることで、自分なら出来ると形式上の催眠を創った」
 弓を下ろした。矢が引き絞られる。
「でもそれはただのエゴイスト的な思想。まさか自分の言葉が実際に発言するとは思わなかった――。結果、私たちの想像の範疇を超えた出来事も起こった」
 引き絞ったまま、体が一瞬止まった。震えもせず、強張りもせず。
「一つ言っておくわ。神は実在する。もちろん井生戸神道も本物――」
 矢が放たれた。アーチェリーとは違い螺旋回転を伴わない和弓の矢は、真っ直ぐ、空気を引き裂きながら的のやや右に向かって直進した。的を微妙に外していた矢は風によって進行方向を変え、的に向かって狂い無く飛んだ。

 矢が藁巻を射抜いた瞬間、いや矢が触れた瞬間――、
 ――まるで小さな爆弾でも爆発したように、藁が炎を巻き上げながら吹き飛んだ。
「は……――」
 麻梨が絶句して見つめるそれはもうすでに藁巻ではなく、ただの火の着いた藁の群れでしかなかった。火花でも散らせるように、その藁達は一瞬で燃え上がり、そして灰となって振りまかれた。
「――分かったかしら? 神は実在して、井生戸神道の当主はその神の力を実際に借りている。だから私は熱が無くても物に火を付けられるし、あなたの言葉はその通りに実現した。理解できたかしら?」
「……理解も何も、こんなの見たら納得するしか……」
 再三絶句している麻梨を見て、文代は矢を足元に置いた。

 そして真相を話し始めた。
「麻梨、あなたがさっきまで見ていた夢の正体は、次期当主としての適性テストです」
「適正、テスト?」
「そう。神が宿るということは、人間離れした力を持つと言うことです。それをいつの間にか得ている状態で、どれほど安全に、かつ有効にそれを使えるかを試すテストです。だから火災は起こっていませんし、今はまだ夏休みです。テストでのあなたの場合は――、まぁ出滋君やその目のことはともかく――」
「ちょ、そんなところまで分かるのっ?」
「話を聞きなさい。――それはともかく、人を死に至らしめるのは、十分不合格に値します。ここまで言霊を守護神とすることに意識していなかった上、普段からそんな言葉を使っているというのは、私達の予想の範疇を超えていました。自分の言葉に対して意識が無さ過ぎます」
「じゃあ……」
 全く落胆した様子で、麻梨が呟いた。その言葉を、文代が継いだ。
「あなたは不合格です。今ではとても、言霊を任せられません。私が引き続き当主の座に座ります」
「そっ……か……」
 期待に応えられなかったことに対する落ち込みの気持ちが、今麻梨の気持ちのほとんどを占めていた。麻梨はその言葉の後、何も言わずに俯いたままだった。それに見かねて文代は、畳の上で正座している麻梨に顔を近付けて、言った。
「……今ではとても、です」
 麻梨は顔を上げた。それを見て、文代は言葉を繋げた。

「今ではとても任せられない、と言うだけです。あなたが見た夢は、ほぼ完璧に近い形で構成されています。もし火災が起こって、あなたに言霊が取り憑いた場合、あのように世界は進行します。しかし、これからあなたが歩む世界は、そこから火災と言霊を取り除いただけの世界ではありません。あなたはその夢を見たことで、ある程度の経験値をつんだはずです」
 文代は、目の前にある麻梨の両目を眼鏡越しに見据えて、肩に手を置いた。
「もうあなたは間違えない。同じ過ちを繰り返さない。――安心してこれから過ごしなさい。あなたが当主にふさわしい姿になったと思ったら、またいつの間にか適性テストを仕掛けます。その結果が、楽しみです」
 そう笑みを浮かべて言うと、文代は曲げていた腰を元に戻した。
「まぁ……不合格への罰です。その畳と弓は片付けておきなさい」
 文代はそれだけ言うと、背を向けて歩いていった。何故か大きく見えた母の背をすこしの間眺め、
「はい。頑張ります!」
 そう返事を返した。その言葉に、嘘も偽りも無かった。

2007/09/09(Sun)21:15:03 公開 / 電子鼠
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■作者からのメッセージ
お楽しみいただけましたでしょうか……?
なお、この作品は某サイトに私が投稿した小説に、タイトルの変更と内容のやや改変を加えたものです。
ご了承ください。

中学生なりに頑張ってみました。
どうでしょうか……、自分としてはそれなりに出来ました。
学歴ゆえ、文法の間違いが多くあると思います。
もし見つけてくださった方は、ご一報くださるとありがたいです。


「井生戸麻梨」
いうどまり→いうとおり→言う通り

気付きました……?

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。