『闇の中から』 ... ジャンル:ホラー 未分類
作者:奈月                

     あらすじ・作品紹介
 都会から引っ越して来た中学生の里奈は、都市伝説のスリルを求めて二人の友達と心霊スポットに行く。そこは霧影屋敷と呼ばれる、ずっと前に廃墟になった屋敷だった。何年も前に、そこで何が起きたこと。そしてからみつく因縁と染み付いた悲しみ、その渦の中に足を踏み入れてしまった三人がそこで見たものとは……。そして、抜け出すことができるのか……。

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 ただ、遊びが見つからなかっただけだった。
 ただ、退屈なだけだった。
 あれは、ほんの少しの、何の罪もない好奇心だった。
 そして彼らは足を踏み入れてしまった……

 外は相変わらずの雨で、虫達の息の音も草木の育つ音も皆ざあざあ、ぴちゃぴちゃという雨の音にかき消されている。外で遊ぶ小学生のにぎやかな声も、自転車のベルを鳴らして歩く小さな子のちりんちりんという音もない。いつもセミの鳴き声を響かせている山々も黙り、聞こえるのはただ降り注ぐ雨の音、屋根から滴り落ちる水の音だけだ。
 この地に引っ越して来てまだ十日と経っていないというのに、もうこの引っ越し先が嫌になっている自分に気が付き、里奈はふうとため息をついた。
「何でそう嫌そうな顔をするの?」
 里奈の母、和子が、台所のテーブルで頬杖をつく里奈に言った。
「だってここ、すごく退屈なんだもん。お母さん、どうしてこんな田舎を選んだのさ?」
 不機嫌な顔を変えないまま、里奈は言った。
 都会生まれの里奈は、今までずっと大都市のマンションに住んでいた。すぐ近くに大きな通り、デパートなどがある暮らしに慣れきっていた。それなのに何を思い立ったか、両親が引っ越しをしようと言い出したのである。
 都会暮らしの里奈は、こんな山に囲まれた田舎に引っ越す事など、初めから大反対だった。しかし母ときたら、父と一緒に話を進め、里奈の必死の説得も空しく、ついにはここまでに至ってしまった。
 なぜこうまで好き好んで田舎を引っ越し先として選んだのか、里奈はついこの間まで不思議に思っていた。しかし数日前その真相を知った。里奈の両親は二人とも田舎出身であり、幼い頃から大自然に囲まれた生活を営んでいたのだそうだ。
 おそらく二人とも、都会での生活に疲れれば疲れるほどに田舎での暮らしが恋しくなり、ついには都会の息苦しさから逃れ、田舎へ引っ越す事を決心したのだろう。しかも仕事をやめてまでの事なのだから、相当なものだ。
 まったく、勝手極まりない、と里奈は思う。こっちは慣れきった生活から引っ張り出されただけでなく、転校までさせられたのだから。
「いつまでそうやって文句を言ってるの。田舎には都会にないものだって、けっこうあるのよ。この夏休みが終わったら新しい中学校に入るんでしょう? もう中学二年生なのに、そんな小学生みたいなの、私は恥ずかしいと思うわよ」
 ちょっとむっとした。誰のせいでこうなってるの、という言葉をやっとのところで呑み込んだ。
「田舎は雨だと遊ぶとこがないからつまんないの」
 わざと田舎の部分を強くして、里奈は言った。
「雨は嫌ねえ……。とくに夏の雨はむしむしするから」
 そう言って、和子は知らん顔をする。こうもされると、何か対抗して言う気力を一気に失う。
 里奈ははあ、とため息をついてテーブルの上の、グラスに入った麦茶に浮かぶ氷を見つめた。
「雨は嫌だけど、山野さんちにお届け物を届けなくちゃねえ」
 和子は一言そう言うなり、逃げるように出かけていった。戸がばたんと閉まった音を聞くなり、里奈はがたんと立ち上がった。喉元までこみ上げて来ているイライラを押し流すように、麦茶を一気に飲む。
 それから台所の入り口にかかっているのれんを払いのけるようにして台所を出て、階段へと向かった。
 ぎしぎしという階段のきしむ音を無視しながら、里奈は階段を上がった。
 妹との二人部屋の戸を開けると、妹の由佳がちょうど畳に寝転がって本を読んでいるところだった。由佳は里奈の、五つ下の妹だ。  
「お姉ちゃん、びっくりするからいきなり開けないで」
 由佳が本から顔を上げて言う。
「うるさいなあ。階段を上がる音で、来たなあって分かるでしょ。あ、それから人の本を借りる時は……ああっ!」
 寝転がっている由佳から顔を上げて、里奈は叫んだ。
 窓が開け放たれているのである。カーテンがぬれているばかりでなく、窓から入った雨が、ちょうど窓の下の畳とその上にあった里奈の雑誌をぬらしている。もうずいぶん長く窓が開いていたらしく、表紙がよれよれだ。
 里奈の頭に、かあっと血が上る。
「由佳っ! どうして外が雨なのに窓を開けるの!?」
 里奈の怒鳴り声にびくっとしながらも、由佳は本から目を離さない。
「だって、むしむしして暑いんだもん」
「暑いんだもんじゃないでしょっ!! 見なさい、あたしの雑誌がぐしょぐしょ、畳だって腐っちゃうでしょ!?」
 里奈が由佳の前に来て言う。
「だって……」
「だってじゃないでしょ!」
「だって……」
 里奈に言われながらも、由佳はだって、と続ける。こうやって言い訳を考えているのだ。これはいつもの事で、たまに言い訳が通ってしまう事があり、それでも里奈が折れないと、結局里奈が両親に叱られる。そうはさせるものか。
「だって、お姉ちゃん、その雑誌もう読んじゃったでしょ? 由佳、もうそれ捨てる物だと思ったんだもん」
 そら来た。里奈は思った。
「うそでしょ」
 里奈が言う。
「うそじゃないもん」
「うそ」
「うそじゃないもん!!」
 そうやって、うそ、うそじゃないもんの応酬は止まることなく続いた。
 ついには由佳がべそをかきはじめる。ずるい、と里奈は思った。泣けば、自動的に里奈が泣かせた、里奈が悪い、というふうに見られてしまう。
 二人の声は今となっては大声になっており、たとえ窓を閉めていても、雨の音がうるさくても、ニ、三軒先には響きそうなほどだ。
「うーそー!!」
「うそじゃないー!!」
 その時だった。だん、だんと階段を駆け上がる音がした。
 二人ともはっとした顔になる。しかし里奈は青く、由佳は助けが来た、という顔だ。
 次の瞬間、部屋のドアが開けられ、和子が姿を現した。二人を見たとたん、何が起きたのかを察したらしく、和子の眉間に々としわが寄った。里奈も由佳もあわてて、同時に口を開く。どちらも思い思いの理由、をしゃべるものだから、全く違う言葉が飛び交った。里奈の言う事と由佳の言う事がごちゃまぜで何が何だか分からない。
「だまって」
 和子が言うと、二人の訴えの言葉が止んだ。
「まずは里奈、どうしてこうなったの?」
 それを聞くなり、里奈はすぐに話し始めた。負けてたまるか。
「由佳のバカがこんな雨なのに窓を開けっ放しにしたの! そのせいであたしの雑誌がさあ、……ほら!」
 そう言って、里奈は表紙がよれよれの雑誌を差し出し、それからぐしょぬれになった畳を指差した。
「それなのに由佳は、その雑誌捨てるものだと思ったの、何てうそつくんだから!」
「うそじゃないもん!!」
 由佳が大声を出す。
「うそ!!」
「ちがうもん!!」
「やめなさい!!」
 今度は和子が大声を出した。それから由佳を見た。
「うそじゃないの?」
「うん!! ……由佳、雑誌がそこにあったって知らなかったの」
 由佳の言葉を聞くなり、里奈はまるで勝ち鬨のように声を上げて言った。
「やっぱりうそじゃない! さっきは捨てると思ったって言って、今度は知らなかった、矛盾してるじゃん!!」
 すると由佳がはっとした顔になる。
「やめなさい、里奈! お姉ちゃんなのに、妹を打ち負かそうなんて、見苦しいわよ」
「見苦しい!? 本当の事でしょうが!!」
 里奈は憤慨して言った。
「でもね……」
「そうやっていっつも、お姉ちゃんだから、お姉ちゃんだからって! この子謝りもしないんだから!!」
 そう言うなり、里奈は部屋を出た。
「待ちなさい、里奈!」
 後ろから母の声がしたが、里奈はそれを押しのけるようにドアを思いっきり閉めた。その瞬間、ドアはぎしりときしみ今にも壊れそうな悲鳴を上げた。
 そのまま階段を駆け降りると、玄関のカサたてから自分の赤いチェックのカサを抜き取って外へ出た。やはり、外はざあざあ降りの雨だ。ほのかに、雨にぬれた土のにおい、草のにおいがする。遠くでは嬉しそうな蛙の鳴き声がする。
 里奈は振り向きもせずに歩き始めた。
 まったく、イライラする。都会に暮らしていた頃なら、雨の日だって、友達と遊びに出かけていた。渋谷、原宿、どこへだって簡単に行けたし、退屈なんてしなかったのに。
 雨の勢いは止まるところを知らず、地面に降り注ぐ。所々水溜りになっており、運悪く大きな水溜りに足を突っ込んでしまうと、それは大変である。だから足元には気を付けなければならない。
 木々の下を通る時は、雫の音楽が聞こえる。木の葉に溜まった水滴は、葉がその重さに耐えられなくなれば落ちて、カサに当たり、ぱらぱらと陽気な音を立てるのだ。
 里奈は、低い枝を見つけると、わざとカサを上に突き上げ、枝にぶつける。するとたくさんの雫がカサに当たるのだ。
 しかしこれは小学生のような事なので、やった後で、誰かが見ていなかったか確かめる。今日もそうしたくせで、あたりをきょろりと見回した。
 ふと視線を感じた。
 里奈はびくりとしてそちらを見て……。なんだ。里奈はほっとした。
 山野さんの家のシロだ。
「どうした。また、犬小屋を抜け出したりして」
 目の前の真っ白な犬は、雨にぬれて毛がぴったりと体に張り付いている。そのせいで妙にみすぼらしく見える。それでもくりくりとした黒い目はとても愛らしい。
 シロは、くうんと鼻を鳴らした。
「お家へ帰りなよ。 奥さんが心配してるよ」
 里奈はそう言うと、シロを残して歩き始めた。そっと振り返ると、シロはちょうど向こうを向いたところだった。このまま家に帰ればいいけど。里奈はそう思いながら、前に向き直った。
 川沿いの道は、まだコンクリートになっておらず、雨にぬれてびちゃびちゃになっていた。所々ぬかるんでいるから要注意だ。
 蛙の陽気な合唱を聞きながら、里奈は歩いた。
 その時、前方から自転車がやって来た。雨なのに……。里奈がぼんやりとそう考えた次の瞬間、自転車が里奈の横を通ると共にちょうど水溜りにさしかかった。
 ばしゃっと、里奈に水がかかる。それも泥水だ。
 自転車に乗っていた人は、というと、気が付かないのか、気にしていないのか、黙って行ってしまった。里奈は小さく舌打ちをすると、顔にかかった泥水を拭った。
 それから、また歩き始める。前方に、弘樹の家が見えた。

 「雨、止まねぇな」
 弘樹が外を見ながらつぶやいた。この村一番のわんぱく坊主である彼は、里奈が引っ越して来てすぐに話しかけてきた男の子である。
「じめじめ、むしむしすると、何もやる気がしないよね」
 そういったのは歩美。歩美は里奈がこの村で初めて作った友達である。
 弘樹、歩美、そして里奈の三人は弘樹の家の縁側に座り、アイスバー片手に外を眺めている。
「田舎だとさ、こう雨じゃ何もする事ないよね。あたしが前住んでたとこでは、もっと色々楽しめたんだよ」
 里奈が言うと、弘樹が興味深そうに身を乗り出した。
「それって何? ビルに隠れるかくれんぼとか?」
 本気で言っているらしい。あまりの彼のまじめさに、里奈は、これだから田舎モンはと言いそうになったが何だか威張っている感じに思えてきてやめた。
「違うよ」
「じゃあ何だよ?」
「もういいよ」
「なんだそれ」
 里奈はふうとため息をついて、食べ終わったアイス棒のはずれの文字をぼうっと見つめた。
「でもさ、雨だから何もする事なくてやだね」
 歩美が言う。
「雨じゃなくても、ここってあまり面白い事ないよね」
 里奈の言葉に弘樹が反応する。
「何か聞き捨てならないなぁ」
「だってホントでしょ? 何か面白いものあるの?」
 里奈の言葉に、弘樹は考え込んでしまった。やっぱりね、と里奈はそっぽを向いた。
 しばらく沈黙が流れ、聞こえるのは雨の音だけになった。そしていきなり弘樹が叫んだ。
「あ! そうだ!」
「何?」
 里奈と歩美が同時に言う。
「面白いところ、あった!」
「だから何?」
「焦らさないで」
 里奈と歩美を見る弘樹の目は大きく開かれ、聞いて驚くな、と言っている。
「心霊スポットだよ」
「ええっ!?」
 とたんに里奈の目が輝いた。この類の話はいつ、どの年代の者もわくわくさせるという不思議な力を持っている。あまり興奮したものだから、隣で歩美がかすかに顔をしかめたのにも気が付かなかった。
「どこ? どんなとこ?」
 里奈が話に乗ってきた事で、弘樹は得意になる。
「そりゃあ、霧影屋敷に決まってるだろ?」
「きりかげやしき……? 何それ?」
「村はずれにある、廃墟になった屋敷だよ。霧に包まれているようにどんよりしていて、光の差さない影の場所って意味だってさ。先輩に聞いたんだ」
 これを聞いて、里奈はますます面白くなってきた。
「面白そうじゃん。どんな怖い噂があるの?」
「何年も前に、人が住んでたんだよ、その屋敷には。若い夫婦に、まだ幼い娘がふたり、そして夫方の両親の六人だってさ。最初は幸せに暮らしてたそうなんだけど、そのうち夫の方が浮気をしたらしいんだ。そしてついにはその浮気相手の女と逃げたんだってさ、妻と娘を残して。そして夫の両親は、悔しさと悲しみで苦しむ妻にさらに追い討ちをかけるかのように、夫がああなったのは全部おまえのせいだって責めて、ひどい仕打ちをしたんだって」
「それで?」
 里奈は思わず息を潜める。
「ねえ、やめよう?」
 そう言ったのは歩美だった。見るからにあまり楽しんでいないようだ。
「待って、今いいところなんだから」
 里奈は歩美をさえぎり、弘樹に続けるよう促す。すると弘樹は何も言わずにうなずき、続けた。
「その後、夫の両親は屋敷を出て行ったらしいんだ。だけど、妻の悔しさと悲しみは日が経つにつれて憎しみに変わっていったってさ。多分自分という器に収まりきらなくなった呪いに押しつぶされたんだろうな、妻は突然可愛がっていた二人の娘を包丁で刺して殺したんだって。返り血を浴びて真っ赤になった自分を見て、自分のした事に気が付いてどうしようもなくなったのか、妻はその身を自ら包丁で何度も刺したって。それから狂ったように床をはいつくばって、最後は地下の物置で、娘の亡骸を両手に抱いて死んだんだってさ」
 話し終えると、弘樹は口の両端を器用に吊り上げ、付け足した。
「まあ、語り継がれてる噂だから、尾ひれが付いてるんじゃない? だから、本当は別に大した事じゃなかったかも」
 しかし里奈はすっかり聞き入ってしまっていた。
 これって、都市伝説ってやつだ。里奈は思った。そうだ、里奈の前いた学校でもそういう系統の話や本が流行っていた。そういったものはその時代の流行関係なく、いつになっても不変の人気を保っている。里奈もまた、そうした魅力のとりこになっていた。
 こういった話には、恐ろしさとグロテスクさが組み込まれており、そのスリルは好奇心をかき立てる。
 都会の都市伝説とはまた少し違った、田舎のほんのり古くさいような都市伝説。しかし里奈にとっては満足だった。
「それで、どうしてまた、廃墟のまま残されてるの?」
 里奈が聞く。
「これも噂だけど、取り壊そうとして近づくと、気分が悪くなってどうにも処分が出来ないらしいんだ。よくある話だよな」
 弘樹は言った。
「で? 行けるの、そこ」
 里奈が聞く。
「行けるよ。もちろん。……行くか?」
「行く!」
 里奈は即座に答えた。何しろ暇だ。このままではストレスばかりが溜まってしまう。
「行くよね。ねぇ、歩美」
 そう言って、里奈は歩美の方を向いた。そこで初めて、歩美が気が進まなそうな顔をしている事に気が付いた。そういえば、さっきからあまりしゃべって
いない。アイスの棒を手で曲げながら、歩美はうつむいて言った。
「だって、そういうのってよくないんでしょ? 呪われるとか、さ」
 とたんに弘樹が笑い声を上げた。
「おまえ、怖いのか? 本気で信じてるのか、今の話」
「だって、うそなら、なんでそんな噂が流れるの?」
 歩美がむきになる。
「そりゃ、誰かが作って流したからに決まってるだろ?」
 弘樹が呆れたような声を出して、頭をかきながら言った。
「そうだよ、たとえホントにそういう人達がいたとしても、もう死んじゃってるんだから」
 里奈も言う。
「行こうよ、ねえ。せっかく面白そうなアイディアなんだから。昼間行けばいいでしょ?」
 里奈の説得に、歩美でなく弘樹が声を上げた。
「昼間ぁ!? 感じ出ねえだろ」
「いいの!……ねえ、歩美、行こうよ。お願い!」
 歩美が困ったように顔をゆがめる。里奈は歩美の手を取り、さらに頼んだ。
「お願い!」
「……うん」
 歩美は顔に、やだなあ、という思いを浮かべていたが、しぶしぶ同意した。とたんに里奈の顔がぱっと輝く。
「決まりだね?」
「おしっ!じゃあ、明日……」
 弘樹が言いかけたその時だった。
「おや、来ていたのかい。こんにちは。ずいぶん楽しそうにおしゃべりしてるけど」
 弘樹の母だった。抱えている洗濯物のかごには洗濯物が山になってつんである。何とも頼もしい格好だ。
「こんにちは」
 里奈と歩美が声をそろえる。
「こう雨だと嫌ね、洗濯物がなかなか乾かなくて」
 弘樹の母はころころと笑った。里奈も歩美も、それに合わせて作り笑いを浮かべる。
「母ちゃん、仕事があるんだろ。俺達の事はほっといてくれよ」
 弘樹がさもうっとおしそうに言った。
「なんだい、生意気言うねえこの子は。里奈ちゃん、歩美ちゃん、ごゆっくりね」
 そう言うと、弘樹の母はうんしょ、とかごを抱えて、言ってしまった。ふと隣を見ると、弘樹がほっとしたような顔をしている。
「どうしたの?」
「母ちゃんに知られるとまずいんだ、屋敷に行くこと。あそこは入っちゃいけないって、前から言われてるからさ」
 弘樹の言葉に、歩美が身震いをする。それに敏感に反応した里奈は、そっと歩美の肩に手を置いた。
「大丈夫だって!! いざとなったらあたしが守ってあげるから!」
 そう言って里奈が微笑むと、歩美も弱々しく笑った。しかし明らかに無理に笑ったといった感じで、無理やり上げた口元がかすかに震えていた。
 まったく、勇気がないんだから、と里奈は心の中で思った。それでもそんな事を口にして歩美が気を悪くしてしまったらもう一緒に来てもらう事が出来なくなるため、里奈は小さくため息をつくだけにした。
 その後三人は、それじゃあ明日、と一言だけ言って解散した。
 里奈は興奮を抑えながら、雨の中、カサをさすのも忘れて走って家に帰った。

 外は相変わらずの曇天で、時々ぽつりぽつりと小雨が降ってくる。空気もむしむしとして息苦しく、その生暖かさは気味が悪かった。
 それでも里奈は、肝試しへ行くのを少しもためらわなかった。むしろ、ぴったりの天候だと思った。その日は朝早くから目覚め、まだ布団の中で寝返りをうったりしていたが、どうしても目がさえてしまって、結局起きる事になった。6時だった。
 肝試しに出かけるのには、細心の注意を払わなくてはならなかった。どこかから聞いたのか、里奈の態度から感じ取ったのか、由佳は里奈が出かけるという事を見破っていたのだ。それも、何かわくわくする所に行くと信じて疑わない。
「お姉ちゃん、どっか行くんでしょ。由佳も連れてって」
 そら来た。里奈は思った。これがまた厄介なのだ。今までいつもそうだった。その度に泣き喚きあげくのはてには、母に言いつけるという始末だ。そのせいで、いつも里奈は不満な思いをしてきた。
「行かないよ、外、お天気悪いもん」
 里奈はどうもごまかしが下手らしい。どんなに上手な言い訳を考えても、口調に出るらしい。由佳はじっと里奈を見る。その真実をえぐり出すかのようなまなざしに、里奈は思わずそっぽを向いてしまった。それが致命的だったらしい。
「由佳、知ってるよ。隠したって分かるもん。ねぇ、連れてってよ」
 由佳が里奈の腕を引っ張った。
「行かないってば」
「うそでしょ!」
 由佳はしつこく里奈の腕を揺する。
「行かないって言ってんでしょ!!」
 里奈は大きな声を出して思いっきり腕を振り払った。その反動で由佳がどすんとしりもちをついた。とたんに由佳の顔にかすかにしわが寄った。いつもなら、このままいけばさらにくしゃっとしわが寄り、泣き出すのだ。
 まずい。逃れるなら今だと思うのが早いか、里奈は急いで階段の方に駆け込んだ。後ろから泣き声が響くと思われたが、聞こえない。どうやらセーフのようだ。
 こうなってしまったら、タイミングを見計らって裏から出なければならない。里奈はそっと部屋の時計を見上げた。約束の時間まであと二十分ほどだ。
 里奈はそっと二回から耳を澄ました。下の階からは何も聞こえない。忍び足で、階段を一段、また一段降りる。それから静かに居間を見た。由佳がいる。
座布団を二枚つなげて、その上に寝転んで本を読んでいる。里奈からの距離わずか、五メートルほど。もし音を立てれば見つかってしまう。
 しかし里奈はこのような状況に慣れきっている。今まで何度となく、由佳の目をかいくぐって友達と出かけた。
 幸い、由佳は本に夢中の様子だ。里奈は素早く、そして静かに階段を降り、台所に滑り込んだ。その時かすかにのれんが揺れて音を立てた。さっと振り返る。しかし由佳が気付いたような気配はない。
 よし。成功だ。里奈はふふっと笑って勝手口に向かった。幸運な事に、昨日勝手口から入って靴もそのままだ。
 しかしその時、牛乳瓶の入った箱にけつまずいた。母が置いておいた物だ。倒れた瓶がやかましい音を立てる。里奈は真っ青になった。
「お姉ちゃん!!」
 間もなく後ろで声がする。
 里奈は慌てて靴に足を突っ込んだ。
「ひっ!」
 思わず声を上げてしまった。昨日の雨で、靴がびしょぬれなのだ。しかしそれどころではない。里奈は一目散に外へ出た。
 外へ出たとたん里奈は頭から、まるでバケツをひっくり返したかのような大雨を浴びた。いつの間にか雨勢が増していたのだ。カサを取りに戻ろうかと思ったが、そんな事をしたら間違いなく由佳につかまってしまう。せっかく逃げ出したのだから、それは避けたい。
 由佳が追ってくる前にと、里奈は大雨の中走り出した。
 雨の勢いは昨日よりもひどい。おかげで目の前がよく見えないほどだ。古くなったアスファルトのでこぼこに雨が溜まって、そこらじゅう水溜りだらけになっている。そこを走り抜けるものだから、幾度となくその水溜りに足を突っ込んでしまう。始めのうちは入らないようにと気を配っていた里奈だが、なにしろ靴がもうすでにびしょぬれで、きりがないものだから、途中からは気にするのをやめた。水溜りに足を入れる度に水しぶきが上がり、里奈のスカートに泥水がはねる。今となっては何粒もの雫を滴らせている。
 それでも里奈は走った。これから味わうスリルに、心を躍らせていた。
 川沿いの道に入ると、泥はねはさらにひどくなった。道はもはや形を成していないと言ってもいいくらいだ。並木達も雨の勢いに耐えかねたかのように、ややしだれて見える。川も水かさを増してごうごうと流れ、そのどす黒く濁った水が大きな木の枝などを流している。
 さすがにこの雨の中通る人はいない。里奈は急いでその泥の道を駆け抜けた。

 「おまえ、なんだよその格好!」
 玄関に立つ里奈を見るなり、弘樹は顔をしかめた。
 無理もない。今や里奈は服を着たまま泳いだかのようにびしょぬれで、おまけに泥だらけになっていたのだ。
「里奈?」
 先に着いていた歩美も目を見張っている。歩美もついさっき来たばかりなのか、少しばかり服が湿っている様子だが里奈ほどではない。
「ごめん……由佳がついて来ないようにって……逃げたから」
 里奈は息を切らしていった。
「まずそれを何とかしろって」
 そう言って里奈を指差し、弘樹は奥へと消えた。そして間もなく、大きなバスタオルを片手に戻って来た。
「ありがとう」
 里奈はバスタオルを受け取り、頭をふき始めた。
「おまえさ……」
 弘樹がつぶやくように言った。
「何?」
「こんなどしゃ降りの中、行く気まんまんだな」
 言われてみてはっとした。都市伝説のスリルを味わう事にあまりに夢中で、そんな事は考えもしなかった。そっと振り返る。玄関の戸は閉まってこそいるものの、外の雨の音は家の中に響き渡っていた。雨勢は増すばかりだ。
「やめるの?」
 かなりがっかりしたような、正直な声が出た。やめる事を思うと、気がみるみる沈んでいく。それはちょうど、パンパンに膨れた風船がしぼんでいくような感じだ。
「行こうよ」
「俺は別にいいんだけどさ」
 弘樹はそう言って歩美を見た。里奈の視線も歩美へと向く。
「何、あたし?」
 二人に馬鹿にされたように感じたのか、歩美は怒ったような声を出した。
「いいのか? 行くのか?」
 弘樹が歩美の顔をのぞきこむようにして言った。
「い、いいよ、別に。行こうよ」
 本当は嫌なんだけどね、という言葉が含まれているのはすぐに分かった。そんな歩美を無理やりつき合わせるのも悪いと感じる一方で、なぜこうまでも怖がるのか、不思議だった。里奈にとってははなから遊びのつもりだし、別に幽霊がどうとかは実はあまり気にしていない。人が殺される残酷な事件がそこであった、そこに自分はいる。その事件以来そのままの場所に……。そんなスリルが面白いだけなのだから。
 まる幼子が暗闇を怖がるかのようだ、と里奈は思った。もちろん里奈自身も、全く怖くないわけではない。怖いけど、見たい、行きたい。それがいつもの気持ちであり、わくわくなのだ。
 そんなこんなで、結局歩美の本心は無視する事にした。
「じゃあ、行こうよ」
「その前におまえその服なんとかしろよ」
 弘樹が里奈を指差した。
「いいの。どうせまた、ぬれるでしょ?」
「まじかよ……」
 その後三人はほんの少しの準備をした。懐中電灯二つと、雨のためのタオル一つ。それだけだった。
 雨の方は、全くやむ気配はない。それどころか、さらに強さを増している。まるで、三人の行く手を阻むかのように。

 「ここだぜ」
 弘樹がそう言ったのは、ひどく古びた橋の前だった。その橋は短く、下を流れる川も細々としている。珍しく木でできており、あらかた腐っていた。それでも修理もされないのだ。そのわけは、この橋を誰も使わない事にあった。なぜなら橋を渡るとすぐに雑木林になっていて、何もないからだ。真っ暗な林は雨のせいか、よりいっそう暗く見える。
「ここ?」
 目を丸くしている里奈に、弘樹はうなずいた。横では歩美が、目を細めてじっと林をにらんでいる。
「この奥に、あるんだよ」
 そう言って弘樹が橋を渡り始める。それに続いて、里奈もそっと木の板に足を置いた。とたんにぎいという嫌な音がする。自信なさげな木の橋は、ゆらゆらと揺れて心細いつり橋でこそないものの、体重がかかるたびに悲鳴を上げ、今にもぬけてしまいそうだ。
 橋を渡り終えると、目の前には雑木林が立ちふさがった。
「この奥?」
 里奈は目を凝らして中をのぞきこんだが、なにしろ暗い。よくは見えなかった。しかし分かることは、見たところ道らしき道がないという事だ。どこも藪とぼうぼうに伸びた雑草に阻まれ、通れるところが見当たらない。里奈はもう一度、弘樹の方を見た。
「ここを通るって言う?」
 里奈が言う前に、歩美が嫌そうな響きをたっぷり込めて言った。
「他に道はないだろ? もう長いこと人が出入りしてないんだ。こんなもんだろ?」
 そうかあ、と里奈はぼんやり考えた。ということは、屋敷の方も、ひどいんだろうなと思った。ぼろぼろになった屋敷が頭に浮かぶ。
 そうしているうちに、弘樹はずかずかと林に入っていった。一度見失ったらもう会えないのではないかと思うほどの暗闇に、草木をかき分け、どんどん消えていく。
「行かないの?」
 歩美に声をかけられてはっとする。それから、
「行くよ!」
 と答えた。ここまで来ると、歩美もあきらめがついたのか、顔を曇らせることはなかった。ただこくりとうなずいただけだった。
 それから、二人は弘樹に続いた。
 林の藪や雑草をかき分けるのは、そうそう楽なことではなかった。弘樹のをみるとかなり楽々に見えるのだが、雨でぬれている葉は肌にくっついてからまり、時折とげが肌をひっかき、その上地面は少々滑りやすく、とても速くは前に進めない。さらに面倒なのは、暗いことだ。昼間なのだから、もう少し明るくてもいいくらいだ。しかし、その暗さもまたスリルをいっそう強くするのなら許す事はできた。
 どのくらい歩いたか、弘樹の声に顔を上げた。
「着いたよ」
 はっとする。屋敷だ。確かに、目の前に屋敷が見えた。薄暗い雑木林の中にたたずむ藪と雑草に囲まれた大きな屋敷だ。しかし一つ予想外な事があった。
それは、屋敷がそれほど古いようには見えなかった事だ。里奈はてっきり、屋敷は古さのあまり、柱が腐ってぼろぼろになっていたり、屋根の瓦が落ちて穴が開いていたりするなど、まさに廃墟という雰囲気をかもし出しているものだと思っていたのだ。ところが見ると、木が黒ずんだりしてはいるものの、腐って落ちる、とまでいっていないし、瓦はけっこうしっかりしてそうだ。外から見たところ、人は住んでいるが、かなり貧乏で家の手入れができない、またはかなりの怠け者で手入れをしない、といった感じだろう。
「これ、事件からそのままの状態なんだよね?」
 里奈が言うと、弘樹はこくりとうなずいた。
 弘樹から、もう一度屋敷に目を移す。まるでその事件の時から、そこだけ時間が止まってしまったような、そんな気がする。そう考えると、背筋がぞっとした。
「入ろう」
 弘樹が手で合図をした。
「うん」
 弘樹が、そっと門に手をかけた。
「開いてるかなぁ」
 ぎい。鈍い音と共に、古い木の門は開いた。弘樹がひょいと顔を門につっこむ。そのすき間から里奈も背伸びをしてのぞきこんだ。そしてはっとした。
「ここ、本当に今は誰も住んでないの?」
 里奈は中から目を離さないまま聞いた。
「そのはずだけど……」
 弘樹が自信なさげな声をだす。
 藪と雑草に囲まれた屋敷の門の中は庭になっていた。その庭はすべて土の庭だったが、雑草がほとんど生えていないのだ。一歩門から外に出れば草木がぼうぼう、中に入ればすっきりといったぐあいだ。どう考えても不自然すぎる。
「誰か住んでるんなら、勝手に入っちゃまずいよ」
 里奈の言葉に、弘樹はきっと目を向ける。
「だから、誰も住んでないって……」
 語尾が弱くなっていく。
 目の前の不可思議な光景に、里奈の心が躍った。つま先からじわりじわりと伝わる震え。これぞ都市伝説のスリルだ。それから、自分は不思議な世界へ入ってしまったのだと感じる。もう止められたものじゃない。
「入ってみよう。誰も住んでないんなら、入ったって大丈夫だよ」
「何いきなりやる気出してんだよ」
 いきなり声が元気になった里奈に、弘樹が怪訝そうな顔を向ける。
「おまえは?」
 弘樹が歩美の方を向く。
「いいよ」
「じゃあ、決まり」
 そう言うなり、里奈は屋敷の敷地内に足を踏み入れた。続いて二人も。とたんに、すうっと涼しくなった気がした。まるで辺りの気温が一気に下がったようだ。さっきまでの蒸し暑さがうそのように思える。
「なんか、涼しくなったよね?」
「ああ」
 弘樹も、歩美も同感だった。その時。
「きゃああっ!!」
 突然歩美が悲鳴を上げる。静かな庭にいきなり響いたその声に、里奈も弘樹も思わずびくりとしてしまった。
「なんだよ! おい、なんなんだよ!?」
 がたがた震える歩美の視線をたどると、そこには井戸があった。古そうな井戸だったが、こちらも同様、コケで覆われるでもなく、蔦がからんでいるわけでもない。
「い……井戸が……ある」
「は?」
 歩美の言葉に、弘樹は思わず聞き返す。
「だから、井戸が……あるってば! 怖いよ……」
「それだけ?」
「なによう……それだけって」
「だからね、歩美。井戸があるって、それだけなの? 井戸から白い手が出てきたとか、髪の長い女の人の幽霊が見えたとか、そういうんじゃなくて、ただ井戸があったってだけ?」
 里奈の問いに、歩美はただこくりとうなずいた。
「ばっかじゃねえの? そんなことで悲鳴上げるなよ」
 弘樹がぱしりと歩美の頭をたたく。すうと気が抜ける。里奈自身も、これには呆れてしまった。が、そういう素振りは見せず、ただ、
「歩美しっかり!」
 とだけ言った。
 そうして、三人は屋敷の入り口、引き戸の前に立った。すりガラスのため、中はよく見えない。ただ、真っ暗なのは分かる。まるでその中で何者かがうごめいている事を思わせるものだった。里奈はドキドキしながらも、面白いと感じていた。怖い、ハラハラする、それが面白い。
「い、行くぞ」
 弘樹が引き戸に手をかける。思いっきり開けると、戸は鈍い音を立てて開いた。
 屋敷の中は暗かった。そこらに漂う闇で、よく中が見て取れない。ふと、後ろからすうと風が吹くのを感じた。風は音も立てずに、静かに屋敷の中へと入って行った。まるで、この風にならって屋敷へお入り、と誰かが吹いたかのようだった。
 心臓の鼓動はなおも増してドクドクいっている。ここで引き下がるきは、里奈にはない。さらさらない。つと横に目をやる。同じくして、弘樹も歩美も立ちつくしている。何も言わず、動きもせず、ただ、目だけが屋敷の中をじっと見ていた。里奈も、またそっと目を屋敷の中へと戻す。
 そんな調子で三人は、もうずいぶん黙って立っている。その間も、何度も不思議な風が吹いて三人を誘おうとした。しかし、その風を受ければ受けるほど
に、屋敷に踏み込む足取りは重くなっていく気がした。
「ねぇ」
 ついに里奈が声をだす。実を言うと、誰かが――おそらく弘樹が――行くぞと勇気を振り絞り、先陣を切って入って行ってくれるのを待っていた。しかし誰もそんな事はしなかった。入ってみたい。けれど怖い。けれど、面白い。その矛盾した感情が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
 だって、女の子だもん。普通、こういうのは男の子が先に行くものじゃないの?と、まるで少女マンガのような思想が浮かぶ。
 ちらり、と弘樹を見た。弘樹はまだ屋敷の中から目を離さない。顔に、怖がっているような様子はない。それなのに、動こうとしないのだ。
 弘樹、先入ってよ。そう言おうとしたが、これが非常にしゃくにさわる。行きたいって言ったのおまえだろ、などと突っ込まれたらきまりがわるい。いらいらしてくる。
 もう、自分から入ろう、と里奈があきらめて動こうとしたその時。
「もう、こうしてたってきりないよ。入ろう」
 驚いた事に、そう言って屋敷に一番最初に足を踏み入れたのは歩美だった。
「歩美……? 怖くなかったの?」
 里奈の驚いた声に、歩美は振り返った。
「うん、もう大丈夫だよ」
 本当にびっくりだ。
「どうして?」
 里奈は不思議に思って聞いたが、歩美はすでに中に入っており、その声は届かなかった。
「ほら、行くぞ」
 弘樹が促す。
「ねえ、どうして、歩美ってばいきなりあんなに強気になったの?」
 里奈が呆気にとられて言う。
「ま、いいじゃん。別にそんな事。歩美がその気になってくれたんだし。行動しやすくなるし」
 そう言って、弘樹は歩美に続いた。暗い屋敷に、持ってきた懐中電灯を片手に、入っていく。
 里奈も、気を取り直して弘樹に続いた。
 三人が屋敷の中へと入った後、外の屋敷の門が、鈍い音を立ててゆっくりと閉まった。三人は気付きもしなかったが。
 
 屋敷の中も、庭と同様、それほど時が経った事を思わせなかった。ちり、ほこりが積もっている様子もなく、足が黒く汚れる事もなかった。やはりおかしい。徐々に奥へと進みながら、里奈は次第に肌寒くなってきた。しかし相変わらずワクワク、ドキドキである。
「何か、気味が悪いな」
 弘樹が小さな声でささやくように言う。
「そう。気味が悪いからこそ怖いんだよ、面白いんだよ。都市伝説だもん」
 里奈が弘樹をどつく。痛えなぁと腕をさすりながら、弘樹はふと横にあるカレンダーに気が付いた。それから目を離さない。
「どうかした?」
 里奈も横からカレンダーをのぞいた。そして……。
「え……?」
 カレンダーは8月となっていた。そして、そのカレンダーの一番下に、1971年と記されていた。思わず目が釘付けになる。
「ちょっと……弘樹」
 目を離さずに言う。
「何年も前って…三十年以上前じゃん……」
「ああ……、いや、先輩は何年か前って。もしかしたら、何十年って言葉は、三十年にはまだ重すぎるって思ったのかも」
「つまり、先輩の間違いって事かな」
「ああ、多分な」
 そう言いながらも、弘樹はまだ、1971年の文字から目を離そうとしない。
「そんなら、何でこんなに汚れてないの? 何で雑草も生えてないのさ!?」
 後ろから声を震わせたのは歩美だった。
 そう言われてはっとする。確かに、三十年以上放置された廃墟だというのに、これは本当におかしい。いくら内部だからといって、ここまで変わらないなんて事があるのだろうか。まるでついこの前まで人が住んでいたようだ。
 ポチャン……。
 その音に一斉に三人はびくりとして右の方を向いた。そこは台所である。今のは水の音らしい。
 つまらない事でびくりとしてしまった、と里奈は思ったが、これもスリルのうちなのだからと自分を納得させた。ふうと息をついたその時。
「だから、こんなところ来たくなかったんだよぅ! こんな屋敷、入りたくもなかった。なのに二人とも行っちゃうから……」
 歩美だった。これは聞き捨てならない。
「なに? 先陣きって入ってったの、歩美でしょ?」
「は?」
「そうだよ。自分から入っておきながら、そりゃないだろ」
「な……に? そんな事、するわけないじゃん。何言ってるの?」
 歩美が正面から否定する。
「はぁ? おまえさっき、きりがないから入ろうって……」
 弘樹に言われて、歩美は二人を順に見る。
「だから、そんな事してないって言ってるじゃん。弘樹が先に入ったんだよ? 覚えてないの?」
「何言ってんの? 歩美こそ大丈夫? 自分のした事忘れるなんて、もう」
 里奈がかけた声に、歩美はさっと里奈へと目を向けた。
「違う! してないって言ってるでしょ! ひどいよ二人とも」
「歩美……?」
「おい……」
 しばらく三人はお互いの顔をじっと見ていた。歩美は目が潤んでいる。
「うそじゃないのか?」
 弘樹が、今度は声を和らげて歩美に聞く。
「うん。そっちも?」
「ああ」
「うん」
 しばらくの沈黙が訪れる。色々な考えがめまぐるしく頭を回る。
「もしかして、まだこの家にいる幽霊が歩美を動かしたのかもよ? 迷ってるあたし達をこの屋敷の中に招き入れるために。」
 里奈は率直に思ったことを口にしてみた。二人が、ちろりと里奈を見る。
「本当にそう思うか?」
 弘樹が嫌に真面目顔で聞いた。正直、今のは場を盛り上げるための冗談半分の発言であった。言ってみた、といった感じだ。それなのに、弘樹は何だか深刻そうな顔をするし、歩美は眉間にしわを寄せている。
「二人ともどうかした……」
 里奈はそこまで言いかけて言葉を止めた。今度こそ目が釘付けになった。
「何だよ……」
 里奈のあまりの目の見開きように、弘樹が怪訝そうに聞く。しかし里奈は答えなかった。
 しかたなく、弘樹も、歩美もゆっくりと里奈の視線を追った。
 そこにあったもの。それは三人の立っている廊下の床の上にあった。それは、赤黒い跡。それが太い線になって奥へと続いている。台所から出て、廊下をそのまま続くその線は、何かを引きずったような跡だ。
「これって……」
 弘樹はそこまで言ったが後は口にしなかった。
 自らその身を包丁で何度も刺し、狂ったように床を……。体の芯の芯からぞっとした。ぞっとするって、こんな感覚なんだと初めて知った気がする。しかし、すぐに次の考えが浮かび上がった。
「でもさ、三十年以上経ってるのに、何で血の赤色がちゃんと分かるわけ?」

 しばらくの間、気まずい沈黙が流れた。皆、口を閉じて何も言おうとはしない。気味が悪いくらいの沈黙は、ちくちくと体中を刺すように刺激し始めた。まずい、このままでは。そう思った時、弘樹が口を開いた。
「すげぇな、これ……。誰かのいたずらか?」
 ほのかに、歩美の顔にも安堵が見られた。すうっと、場の空気が軽くなる。
「あたし達より先に、先客がいたのかなぁ?」
 里奈は床の赤い跡をまじまじと見ながら言った。
「そうだな。つまりは、何にもなくてつまんなかったから、次来るやつらには怖い思いをさせてやろうぜってわけじゃねぇか?」
 弘樹が跡を目でたどりながら懐中電灯を動かした。
 跡にそって奥へと進み始めた弘樹に、里奈、歩美もついていく。やがて三人は座敷へと入っていった。その座敷の中央。畳の上が赤黒いしみで染まっていた。その上に立ったなら深く落ちていってしまいそうなしみだ。
「ずいぶんと凝った細工だね」
 歩美が、里奈の後ろに隠れるようにしてそっとのぞく。
「ああ、本物みた……」
 弘樹がそこまで言いかけた、その時。
 とんとんとんとんとんとんとんとん! とと……と、と、と、とんとんとんとんとん! 
 一斉に、三人は天井を見上げる。弘樹、里奈、歩美の立っている座敷の、ちょうど真上の部屋だ。まるで幼い子供がはしゃいで走るような足音。
「誰か……いるの?」
 歩美がぎゅっと里奈の肩にしがみつく。
 とんとんとんとんとん! とととん、ととん、とととと!
 また。
「うそ……」
 里奈の心臓の鼓動がまた、早くなっていく。自分が、まるでホラー映画の主人公になったかのようだ。高鳴る胸と、恐怖と、感じるスリル。まさにホラー映画そのものではないか! 怖い。ものすごく心臓が早く動いている。けれども、なぜかまた別の感情もあった。それは、好奇心と興奮。
「あたし、上に行ってみる」
「え?」
 歩美が気の抜けたような、かすれた声を里奈の耳元で出した。とたんに里奈の肩から手をぱっと離す。
「せっかく来たんじゃん。誰か上に先客がいるのかもよ」
 そう言って二人の顔を見た里奈は続けた。
「それとも……」
「やめてよ!!」
 歩美がわめく。
「一人じゃ危ねーよ。俺も行く」
 弘樹の言葉に、里奈は少しほっとした気がしていた。しかし、歩美は正反対だった。
「うそ! 二人とも正気!? あたし、絶対行かないからね!!」
 そう言って、ぎゅっとこぶしを握りしめて二人をきっとにらんだ。
「分かったよ、歩美はここで待ってて。あたし達、ちょっと行ってみて、すぐ戻って来るから」
「行くのー!?」
 わめく歩美を背に、弘樹と里奈は階段へと歩き始めていた。その後ろで、歩美は顔をしかめながらその場で足踏みのようなものをしていたが、やがて悔しそうな顔をして二人を追いかけた。
「待ってていいって言ったのに」
 里奈は、こうなる事を知っていた事を悪いと思いながらも、わざとらしく言う。
「やだよ! 当たり前じゃん。一人はもっといや!!」
 そう言って歩美は、里奈と弘樹との間にずいと入り込んだ。真ん中に入って安全を確保しようと言う訳だ。一行は里奈を先頭に、歩美、弘樹の順で階段を前にした。
 見上げるとここもまた暗く、陰気なオーラを放っていた。急な段は屋敷の古さを思わせる。
「行くよ」
 里奈はきゅっと口を結んで、階段の一段目に足を置いた。とたんに階段は、みしりと悲鳴を上げる。ぎい、みし、ききい。屋敷が腹の奥底から上げているかのような音だった。その階段を、一段また一段と上がっていく。
 二階に着いてみると、その階段が廊下につながっている事が分かった。結構長い廊下だ。一度、階段から右、左を見る。特に異常はない。そして、そっと二階の床に足を踏み入れた。黙って廊下に出た里奈は、そっと見回し、二階の様子を確認した。廊下は前にも、後ろにも続いており、そして各部屋につながっていた。ここから進んで二番目の和室が、先ほど三人が足音を聞いた座敷のちょうど上に当たる部屋だ。
「行くのぉ?」
 後ろには、ぴったりと歩美がくっついている。
 歩美の言葉には答えずに、そろりそろりと廊下を進む。そしてついにその和室の襖を前にした。手をかけて、それから離す。開ける前にと思ったのだ。里奈はそっと耳を襖にくっつけた。しかし何も聞こえない。足音はおろか、何かが動く音の一つもしないとは。
 おかしいと思いながらも好奇心に駆られているのは変わらない。里奈は思い切って襖に手をかけた。そして、ぎゅっと目をつむり、がっと一気に襖を開いた。歩美の、里奈の肩にかかる力が強くなる。
 そっと目を開けた里奈が見たのは……ただの和室だった。誰もいない。奥に窓があり、左には床の間と違い棚。右は、隣部屋と通じているらしく、壁ではなく襖であった。薄暗いその部屋に置かれているものは、見る限りには違い棚の箱、床の間にある置物の木彫り熊くらいのもので、音を、ましてやあのような連続した足音のような音を立てそうなものはない。
「何だ。誰もいないじゃん」
 里奈の言葉に、肩をつかんだままの歩美が耳元で言った。
「隣の部屋は?」
 そう言われてみれば。そう思って里奈は隣部屋の襖も、がっと開けた。
 そこは、広い座敷だった。奥の壁までの距離は結構ある。そこにあったのは、木のテーブル一つに、背の低いたんす二つ、座布団もあったし、壁には絵が掛かっていた。そしてたんすの上には日本人形が一体。人は、いない。
「何でぇ?」
 歩美がへなへなと声を出す。里奈は心なしか震える手を押さえながら、たんすへと近づいた。日本人形は、黒い髪に赤い着物。ちょこんと座っていた。
「この子が足音を立てたのかな?」
 里奈は以前読んだ都市伝説の本を思い出していた。しかしとたんに歩美がわめく。
「やめてよ! 里奈はまたそんな事! ちょっと弘樹、何とか言ってよ!」
 そう言って歩美は振り返った。そして黙り込む。
「何? どうかした、歩美」
 すると、歩美は小さな、今にもかすれて消えてしまいそうな声を絞り出した。
「弘樹は、どこ?」

 歩美の言葉に、里奈も振り替える。しかしそこに弘樹の姿はなかった。
「どうしよ……弘樹がいないよ……」
 歩美は怯えたような声を出した。
「何言ってんの? おどかしてんでしょ」
 里奈は最初に入った座敷に戻ってみた。しかしそこにも弘樹はいなかった。
「ったく。隠れてるんでしょ」
「弘樹やめてよー。怖いじゃんー」
 歩美は今だ里奈の肩から手を離さずにいた。
「下にいるのかもよ。戻ろっか」
 里奈と歩美は廊下に出た。そこにも弘樹はいない。しかたなく階段を下りて一階を探す事にした。
「弘樹、帰ろう。もういいじゃん。今さらおどかそうなんて考えないでよ」
 里奈は比較的大きな声を出した。
 そうして先ほどの赤黒いしみのある座敷にさしかかった時。
「ぅわっ!!」
「きゃー!!」
 柱から、いきなり弘樹が飛び出した。さすがに里奈も度肝を抜かれてしまい、不覚にも歩美と一緒になって悲鳴を上げてしまった。
「あっはははははっ!」
 そんな二人を見て、弘樹はさも嬉しそうに大笑いした。満足、といったご様子だ。
「何よー……。ひどいよ弘樹」
 歩美がうらめしそうに弘樹をにらむ。
「そうにらむなよ。心霊スポットに来たんだぜ、少しはドキッとしなけりゃつまんないだろ?」
「それでいいんだもん」
 歩美はべそをかき始めた。口のあたりがくしゃっとなる。
「やめなよー、歩美。小学生じゃあるまいし」
 里奈は驚いて言った。まさかここまで歩美が怖がりだとは知らなかった。そうして、そんな歩美を連れてきてしまった事を少々悪かったと思い始めた。
「歩美、泣くなよ。平気だって」
 そう言って弘樹は何となく歩き始めた。赤黒いしみの座敷は、やはりもう一つの座敷と襖でつながっていた。しかし、その襖は今は取り外されていて、二つの部屋は一つの部屋のようになっていた。その、もう一つの部屋の奥には裏庭らしきものが見える。弘樹は、そちらの部屋へと足を踏み入れようとしていた。
「歩美、心配すんなって。二階にも、何もいなかったんだろ? って事は……」
 ちょうど、弘樹が奥の座敷に足を入れようとした時、里奈が声をかけた。
「歩美が……」
 そして弘樹が振り返る。ちょうどその瞬間だった。
 どすっ。
 里奈の言葉が途切れる。続いて、弘樹も進行方向に向き直った。
 奥の座敷のちょうど入り口、弘樹の立っているすぐ足元の畳の上に、何かが落ちて刺さった。三人がそれを見つめ、息を呑む。
 斧だ。まさしく、斧。しかもかなり大きく、畳の上にのぞく刃は不気味にぎらりと光っていた。そして、その刃を伝う、赤黒い液体があった。
「血っ!?」
 里奈は力なく言った。
「ああ。多分」
 弘樹はしゃがみこんでそれを確かめた。そして、上を見上げる。
「危ないよ……」
 歩美が手に力をこめるせいで、肩が非常に痛い。爪の跡が付くくらいの強さだ。
「上には、何もないぞ」
 弘樹の言葉に、少しだけほっとする。しかしよく考えれば、おかしな事だ。なぜ、何もしていないというのに、独りでに斧が落ちてくるというのか。偶然とも言えるが、あのタイミングで。もう少しで、弘樹の頭が真っ二つになるところだった。そもそも、こんなところに斧が取り付けられている事自体、非常識ではないか。
「これで、殺したのか」
「何?」
「いや、もしかしてこれで殺したのかなって。包丁じゃなく。これが、あの事件を生んだ斧なのかなって」
 弘樹の言葉に、里奈は背筋がぞっとするのが分かった。あの事件。これが、例の女が娘達を殺した斧なのか……?そう考えただけでも、心臓が飛び出しそうなほど早くなる。
「やめようよ。もういいよ、帰ろ。ね、歩美」
 歩美はうんうんと、勢いよく首を縦に振った。そうとう前から、それを訴えたかったらしい。
「分かったよ、帰る」
 弘樹の同意と共に、三人の意見が一致した。待っていたとばかりに、歩美は玄関へと駆け出す。
「待って、歩美!」
 里奈も、弘樹も後を追いかける。やがて目の前に、玄関の引き戸が見えた。閉めなかったため、開けっ放しだ。歩美が解放されんとばかりに靴のかかとを踏んだまま、外へ出ようとした。だが。
 ガラッ!
 引き戸は歩美の目の前で、独りでに閉まった。確かに、誰も手をかけなかった。外にもそれらしい人影はない。
「何で……」
 三人とも、一瞬のうちの出来事にただ目を見張るばかりだった。歩美は戸に手をかけ、開けようとした。しかし、どんなに力をかけても開かない。
「どうしてよぅ」
 歩美はまた震えた声を出して、その場にへたり込んでしまった。やがて里奈ははっと思いついた。
「こっち!」
 もう一度、屋敷の奥へと入っていく。あとの二人も、里奈を追った。
 里奈が向かった先は、あの斧が落ちてきた座敷である。斧をそのまま飛び越し、裏庭へと続くガラスの戸を前にする。そして、かけられている鍵にそっと手をかける。
 ばちん。
 そんな音を出して、鍵は開いた。ほっとしたのも束の間、ガラスの引き戸はどんなに引いても開きはしなかった。鍵が開いているのに、開かない。
「どけっ!」
 後ろから弘樹の声がする。振り返ると、弘樹は手に先ほどの斧を持っていた。里奈と歩美はうなずき、黙って下がった。
「でやーっ!!」
 かけ声までつけて、弘樹は斧を振り下ろした。
 ガツッ。
 閉じていた目をそっと開けると、そこにはガラスの表面で静止している斧が見えた。ガラスにはひびも入っていなかった。やがて、呆気にとられている弘樹の手から斧は勢いよく飛び出し、横にある壁に突き刺さった。
「何なの……」
 歩美がまたべそをかき始めた。
「これは……呪いなの? まだこの屋敷に染み付いてる、呪い……?」
 里奈は今度こそ、ホラー映画のど真ん中に立っている自分に気が付いた。ただ、一つだけ違っているのは、これが……本当に起こっているという事。
「呪いは……まだ続いていた……」

 里奈はぺたりと座り込んでしまった。
 呪いがまだ続いていた? よく考えればその通りだ。ほったらかしにされて世間から忘れ去られたこの屋敷がなによりの証拠ではないか。こんな恐ろしい血塗られた殺人現場がそのまま処理されずにいたのは、呪いが強すぎるからなのではないか。誰一人として、手出しができなかったからなのではないか。だから、皆は忘れ去るという最終手段をとったのではないか。
「ねえ、あたしたち来てはいけない所に来ちゃったのかな?」
 里奈は呟くように言った。もはやスリルも何もあったものではない。こんなはずではなかった、と心が叫ぶがどうもできない。
「そうかもな」
 ぽつり、弘樹も言った。それを聞いて歩美が叫ぶように言う。
「そうかもな……って、じゃあ、これからどうするのさぁっ ?」
 その言葉には誰もが黙ってしまった。どうする? 出る事のできないこの屋敷で、どうする? 助けを呼ぶ? いや、どうやって? 携帯も持っていないというのに。
 その時また。
 きゃははっ。
 三人は一斉に振り返る。しかしその姿はない。
「笑い声?」
「小さな子の笑い声……」
 きゃははっ。
 次は右。はっとしてそちらを見るが、やはりいない。
「やだ……もうやだ……」
 歩美が声を震わせながら座り込んだ。
「ごめん……あたしのせいだ……あたしが、こんな所に行きたいって無理やり……」
 じわりと目の前がぼやけた。もう逃げ出してしまいたい。
「おい」
 弘樹が言う。
「あきらめんの? ここから出る方法はあるはずだぜ」
「うん……」
 そして涙をぬぐう。
 何かいい方法。ないだろうか、と必死に考える。そして……。
「ねえ。あたしたちが、その呪いとやらをとけばいいんじゃない?」
 いきなり頭に浮かんだ言葉であった。浮かんですぐに口にしてみたから、自分でも言ってみてからううんと思う。
「そうだなー」
 弘樹が明るい顔をしてみせた。そしてすぐに真顔になる。
「って何言ってんだよ」
「ううーん……」
 首をひねる。
「そんなの、どうすればいいの?」
 ぺたりと座っている歩美が震えた声で聞く。
「そんなの無理! みんなここで殺されるんだ!!」
「歩美っ!!」
 弘樹が怒鳴る。
「やめようぜ。そんな事言うの」
 里奈はくるりと向きを変えた。それに気が付いた弘樹が言う。
「どうした?」
「ます、母親を探す」
 里奈があまりに真顔で言うものだから、弘樹も歩美も面食らう。
「はあ?まじかよ!?」
「死体は片付けられてるんでしょ?」
 それでも、里奈は真顔のまま続けた。
「でも、あきらめたくないもん。探さなきゃ。そして出してって頼むんだもん」
 弘樹はそれに対して、恐ろしさのあまり気でも狂ったかという目をしたが、それから微笑んだ。
「分かったよ。手伝う」
「ありがとう」
 里奈も微笑む。
「歩美も、協力してくれるね?」
 歩美は少し黙って二人を見ていたが、それから、
「うん……」
 とうなずいた。

 それから三人は廊下に出た。そしてはっとする。
 廊下に、女の子が後ろ向きで立っている。小さな女の子で、黒い髪は肩より下で切りそろえられ、そして何より、赤黒い血で染まった着物を着ていた。それを見たとたん、一瞬三人の息が止まった。
 女の子はゆっくりと頭を動かし、振り返った。
 その顔が見えた。
 目が、ない。目があるはずの場所には黒い空洞がある。目をくりぬかれたような感じで、そこから血があふれていた。口の中も血で染まっている。その口を左右に引き伸ばし、にいっと笑った。
「ひっ!」
 女の子はこちらに向かってくる。
 とんとんとんとんとん……。あの足音だった。
 三人は体を動かす事ができず、金縛りにあったように声も出せない。女の子の恐ろしい顔が近くなる。悲鳴さえも出ない。
 そして……。気が付いたら女の子は消えていた。一気に体の力がぬける。とその時。
「こっちだよ……」
 声がしたびくっとする。
「何……?」
 声は台所からしていた。里奈はふんばって動くまいとする足を台所へと向けた。
「やめなよぅ……」
 弱々しい歩美の声が聞こえたが無視する。それに、弘樹がついて来てくれているのを感じたため、それほどに怖いとは思わなかった。
「こっちだよ……」
 台所の床に、地下へと続く古びた気の扉があった。それが半分開いていて、小さな白い手が手招きしている。
「そこに、お母さんがいるの?」
 そう言った里奈の声は震えていなかった。自分でも驚いた。霊感もないのに、なぜこんなに落ち着いている?
「下りるの!?」
 歩美が叫ぶ。
「いいよ。二人は待ってて。すぐに戻るから」
 里奈はぎいと扉を開けた。かび臭いような、じめじめとした臭いがする。階段も古いようだが、何とか下りられそうだ。
 ふと隣を見ると、弘樹が懐中電灯を取り出しているところだった。
「ありがとう」
 そういって手を差し出したが、弘樹はそれをかわした。
「……?」
「俺も行ってやるよ」
「うそ」
 弘樹は真顔だった。びっくりだったが、うれしかった。
「あ、あたしも……」
 無理に無理を重ねた顔で歩美が言う。
「い……あ、ありがとう」
 こうして三人は暗い地下へと階段を下りた。真っ暗い闇がまとわりつく。
 弘樹が懐中電灯の光の幅を大きくした。その分光は薄くなったが、地下の物置の様子が見て取れるようになった。
「あっ!?」
 里奈が何かを踏んだ。拾い上げてみると……。
「血がついてる……」
 包丁だった。なぜこんな物が。拾われていなかったのか?
「ひっ」
 弘樹が声を上げ、黙ってしまった。
「どうしたの?」
 そう言ってそちらを見て、里奈も目を見開いた。
 女がいた。血まみれに、髪の乱れた女。その脇には先ほどの女の子と、もう少し大きな女の子がいた。
 ただこちらをじっと見ている。
「帰って来て……」
 聞き取れないほどの小さな声がした。女の声だった。気が付くと、赤い涙を流している事に気が付く。何とも悲しそうな顔で……。
 次の瞬間、目の前が真っ暗になった。
 意識が遠のいていく。そして……。
 目の前が明るくなったかと思うと、目の前に白黒の映像が映った。
 目の前には美しい女、先ほどの血まみれだった女がいた。そして、あの二人の娘。そして、知らない男。楽しそうに微笑み、笑っている。音は聞こえなかったが、それはよく分かった。
 そして、場面が変わる。この地下室だ。二人の娘を抱きながら、女の目は閉ざされていた。身動き一つしない。血まみれになって、血まみれの二人の娘と共に、女はただ目を閉じていた。目からは一筋の涙がこぼれていた。その風景も、しだいに暗くなっていって、気が遠のいていった。

 目を開ける。そして里奈は自分の目のその前に、流れていく水を見た。
「水?」
 ゆっくりと身を起こす。そしてはっとした。林に入る前に渡った橋の上に倒れていたのだ。先ほど見えた水は古い木の橋のすき間から見えていたものだったのだ。
 すぐそばに、弘樹も歩美も横たわっていた。
「起きて」
 揺さぶると、すぐに目を開けた。ほっとして言う。
「ほら、見て」
 二人とも、はっとして回りを見回した。
「あれ?」
 三人は一緒に振り返った。そこにはさっきまでいたはずの林が広がっている。
「いつの間に出ちゃったのかな?」
 歩美が言う。
「呪い、とけたのかな?」
「さあ」
「さっきのは、あの女の人の記憶なんだね……」
 里奈が言う。
 三人は座ったまま、しばらく黙っていた。それから、弘樹が空を見上げた。
「雨、晴れてんなあ」
 見上げると、そこには雲一つない青空が広がっていた。

 結局、何がどうなったのかは分からない。ただ、あの女の人は私達を憎く思わなかったのだろう、とそう思う。
 けれども、あれから二度とあの事を話さない。あそこには行かない。
 なぜなら、あの女の人と娘達はきっと誰かを、これからもずっとずっと、あの時が止まってしまった屋敷で待ち続けるのだろうから。

                        ― 完 ―

2007/10/30(Tue)18:00:09 公開 / 奈月
■この作品の著作権は奈月さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 ずいぶんと間を開けてしまいました。ごめんなさい。でも、途中のまま終わらせてしますのは嫌なので、続きを書かせてください。
 確認も含め、前回のを消し、ここに書き直させていただきました。
 二回目の投稿ですが、おかしなところも沢山あると思います。
 感想、意見をいただけたら嬉しいです。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。