『この世界が全て、空であれば。泳ぐのはどれだけ楽しいのだろう?』 ... ジャンル:ショート*2 未分類
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 風鈴が水音に聞こえる。
 ちりん、ちりん、ちり、ぽつん。
 夏から連想するものが風鈴と水だからというわけではない。耳に障害を持っているというわけではない。ただ僕の思い出がそうさせる。
 ちりん、ちりん、涼しい音。
 ぽつん、ぽつん、心地よい音。
 周りには何も無い。暗い部屋、明かりの無い部屋。しかしそれは決してイコールじゃない。今はまだ真昼、必要が無いほど明るい光が強く差し込んでいる。
 それでもなぜ暗く感じるのだろうか。いつもはじりじりと暑い日だが、今日はどうしてだかからっとした暑さだった。その暑さすら僕には感じられない。ただ太陽に背を向けるようにしているからではないと思う。
 いつも寝たり起きたりするときに使う水色の布団は目の前にある押入れの中だ。他に特に置いているものといえば学習机と本棚くらい。それから、そのあまり中身の無い本棚の上にある金魚の泳ぐ金魚ばち。
 ――その金魚ばちと一緒にいた風鈴は、もういない。
 ミン、と蝉が泣き出した。いや、さっきからずっと鳴いている。決して泣いているわけではなく、残されている一生を一生懸命鳴いているのだ。それはきっととても誇らしいこと。一生の全てに賭けるものを決めている。死ぬまで自分の役目を果たし続ける蝉は美しい。
 風鈴だって一緒だ。よほどのことがなければ一生生きていられる。僕には一生なんてどれくらいのものかは、知らないが。蝉と、似ている。ちりんちりん、と揺れて響かせて心地よい音色を広げて。ずっと、それだけ。
 なら、金魚ばちの中にいる金魚はどうすればいいんだろう。
 今日も空を泳いでいる。限られた世界で。精一杯、何をして生きていけばいい? 振り向くと、そこには茶色の本棚がある。その上に飾られているのが金魚ばちだ。なのに、その金魚ばちの隣に風鈴はいない。
 風鈴が一つ響かせれば、金魚はそれに呼吸するように水面を揺らした。ちりん、ちりん、ぽつん。ちりん、ちりん、ぽつん。
 それがどうだ。もう誰も響かせてはくれない。だからもう呼吸することもできない。ぽと、ぽと、ぽと。それはどうして? それは風鈴が消えてしまったから。
 そしてその金魚の泳ぐ理由。

 姉さんが死んだのは、もう一年以上も前のことだった。

 病死だ。仕方が無い。ああやっていつも元気にやっていたのは全て仮面だった、それは仕方が無い。僕はそれに気づけなかった。仕方が無い。仕方が無い? ああ、仕方が無い。だってもう全て終わってしまった。もう姉さんは響けなくなてしまった。
 それでも、全て仮面、というのは間違っているかもしれない。姉さんはきっと心の底から楽しんでいたはずだ。この空の下で続けられた人生を。たとえ肺を患っていつ息絶えてもおかしくない時にだって、一生懸命、精一杯生きようとしていた。
 そんな姉さんだからこそ、僕はあわせてきっと楽しめた人生だ。いや、僕の人生はまだ今生きてる十倍くらい残されている。百六十も生きるのはちょっと人間離れしているけど、僕はそれくらい生きたい。それくらい生きてないと、僕にはいっぱいやるべきことがあるはずなんだ。まだ見えていないやるべきこと。遠い遠いやりたいことは見えないけど、きっと目の前にあるやるべきことすら人生全てをかけないと果たせないのかもしれない。だから人間はこうして生きている。なのに姉さんはやるべきことを果たせないまま、遠い遠い見えないものを見ようとすることも許されないまま、死んでしまった。
 姉さんはいつも僕の心を安らぎへと導いていた。優しい声。優しい手。優しいなにか。元気はつらつな姉さんが誰よりも優しいことを僕は知っている。誰よりも、知っている。
 病気でもう五ヶ月もないと宣告されたとき、僕は泣いた。姉さんも泣いた。泣いて泣いて夜を明かした。夜を明かしてからも僕は泣いた。それはとても無意味なことだと知っていても、泣いた。
 だけど姉さんはそんな僕を励ましてくれた。ばか、男が泣くんじゃないよ。そう、笑って。
 それがおかしいことは気づいてる。僕が、姉さんを励ましてあげるべきだったんだ。自分の情けなさにまた泣いた。泣いて、泣いて、鳴いて。僕は姉さんが本当はとても苦しいことを知っていたのに慰めてあげられなかった。風鈴がちりん、と鳴る。ぽつん、と水面が揺れる。
 姉さんはきっと風鈴だ。なら、僕は金魚。風鈴といつも一緒だった、金魚。なのにあの水面はもう揺れない。今でも揺れる水面は、あの水面とは違う。簡単なことで、ベランダにはもう風鈴が響かないから。
 僕は今でも笑っている。だけど、今のこの笑顔はあのときの笑顔とは違う。その理由は、姉さんがもう笑ってくれないから。
 分かっている。姉さんはこんな僕を見たらどんな顔をするのかくらい。とにかく、僕の望む姉さんの笑顔は絶対にくれない。こんな情けない僕がいやだ。――僕はまだ、姉さんに慰めてもらおうとしている。

 姉さんはいつでも強気で、僕は弱気だった。姉弟はそういうものだとお母さんは笑いながら言っていたが、僕はそれがちょっとだけ悔しくて、だけど姉さんが大好きで。
 走ることも泳ぐことも勉強することも、そのうち飛ぶこともできるんじゃないかってくらい優秀だった。それに比べ僕は勉強も社会がちょこっとくらい。運動は泳ぐことは好き。そんな平凡な人間だった。
 姉さんとはもちろん同じ学校にはなれなかった。だから評判は知らないけど、きっと学校でも大活躍しているのだろう。
 そんな姉さんはどうしてだか、怖いものが苦手だった。
 ある日ちょっと夏の怖い話集を家族全員で見ることになって、姉さんは空気からして席を外すに外せなかったらしい。あと、好奇心。怖いものが苦手な人ほどなぜか見てしまう心理がある。だがそれは後に大きな後悔を招いた。夜、眠れなくなったのだ。僕は別に幽霊とかそういうものは信じないタイプだけど、姉さんはそれ系が全く駄目らしい。
 突然扉を開けて一緒に寝よう! なんて叫ばれたときにはどうしようかと思ったが、結局本当に寝た。僕の隣でたまに僕の名前を呼んでおきてるかどうか確認しながら。僕は姉さんが寝るまで寝ることができなかった、けど、なんとなく嬉しかった。そして愛しかった。姉さんでも僕を頼ってくれることがあるんだと。
 姉さんが寝る前、ちりん、ちりん、と風鈴が響いた。珍しく涼しい夜風に揺られた風鈴の。さっきから僕に話しかけてばかりな姉さんが、違う言葉を口にした。ねえ、と呼ぶ声はやけに落ち着いている。
「風鈴って綺麗よねえ」
 突然言われてもどう反応すればいいのか分からない。僕の部屋のベランダに飾ってある風鈴は、ただ金魚が泳いでいる絵の描かれた透明な風鈴。どこにでもあるようなものじゃない。古くて時代遅れでずっと昔からある風鈴。それを買い換えようだなんて誰も言わない。風鈴は、ほんの些細なものなのだから。
 ただそこにあるだけの些細なものなのだ。人に涼しさと癒しを与えるだなんて言うけれど、僕はそうは思わない。ただそこにあるだけだ。何かをするわけじゃなく、風に揺られている。その際にちりん、鳴るだけ。
「その風鈴さー……あんたと一緒に買ったでしょ?」
 うん、とだけ返事をする。すると姉さんからくす、と笑い声が漏れた。
「あのふーるいガラス屋もう潰れちゃったけど……そこでもっと可愛いのがあったのに、あの金魚選んだのはあんたなんだよね」
 ……そうだっけ。霞む記憶を辿ると、そんなことがあったような気がしなくも無い。
 本当に古くて、店員もおじいさん一人。小さな今にも壊れてしまいそう、というほどでもないけど小さな僕はそれがちょっと怖かった。姉さんといえばもちろんそんなことも気にせずずかずかと入っていって、早速風鈴選び。
 お父さんもお母さんも僕たちに任せる、なんていうけど正直なところ風鈴なんてどうでもよかった。そもそも、風鈴って、何? なくらいだ。でも妙に張り切る姉さんを見てたらまあ悪くはないかな、とは思っていた。
「これとかどうっ、どうっ?」
 ポニーテールを揺らして姉さんが一つの風鈴を指差す。桜の花弁の舞う下に海、海に浮かぶ紅葉、紅葉の上に落ちる雪。いわゆる春夏秋冬を表現した絵だ。なんてまとまりのない。
 今思えば全然風鈴じゃないのだが、僕はなんとなく良いかなあとか思っていた。何より姉さんが良いというのなら良いに決まってる。にこにこしてる姉さんが嬉しそうで、その風鈴の隣に目をやる。金魚が、泳いでいた。
「……ん? どしたの」
 その金魚は悠々と透明な世界を泳いでいた。川があるわけじゃない。もちろん、海があるわけじゃない。ただ泳いでいる。その代わり透明に空が映し出され、まるで空を泳ぐ金魚のようだった。
「もしかして、これがいいの?」
 姉さんは僕が思わず見てしまった金魚を指差して問う。頭が考える前に、頭が動いていた。こくり、と頷くと姉さんは少し悩んだ後、さっきの笑顔よりもはじけたものを見せた。そしてはきはきと続ける。
「うん、いいじゃん! そう言うんだったらしょおがないな、これにしよっ」
 僕は姉さんと違うものを選んだのに、どうしてこんなにも笑っているんだろう。
 その時の僕には分からなかったけど、笑ってるんならいいや、と思っていた。結局僕は姉さんが大好きだったのだ。
 風鈴に泳ぐ金魚は、とても楽しそう。

「どんな趣味してんだよ、って思ったけどね」
 くすくす姉さんが笑っている。思い出すと特に赤面することでもないが無性に恥ずかしかった。確かに子どもが選ぶようなデザインじゃない。あのときの僕は何を考えていたのか。
 だって、金魚が泳いでいたんだ。ふわふわと、空を泳いでいたんだ。それが僕の憧れの象徴のようで、無性に泣きたくなって、意味が分からなくて、困惑して。それをどうしても知りたかったから僕は選んだ。幼いからこその感情だろう。
「それでも、あんまり意見しなかったあんたが初めて私と違うこと言ったの、嬉しかったの」
 ミン、と蝉が鳴く。それはどう考えても静かだとは言えない。最初はソロだったのに、突然合唱へと変わる。ミンミンミンミン、ちりん。音に紛れて響くものが微かに聞こえた。
「蝉、うるさいねー」
 そうだね、と相槌をうつ。どうやら姉さんも同じことを考えていたようだ。ごろん、と姉さんが寝返りを打つ音が聞こえた。僕はそれが気になって姉さんの方へと寝返りを打つ。姉さんは僕と顔を見合わせるようになっていて、にっこり笑う。
「蝉は一週間しか生きられないからね。今のうちにたくさん、精一杯鳴いてるんだよ。知ってた?」
 そんなの知らない。けど、なぜだか心に響いた。ミンミン、ちりん、ミンミンミンミン。僕が返事をしないでいると、姉さんは勝手に続けた。
「なんとなく……風鈴に泳ぐ金魚は、蝉に似てるね」
 だって、あんなに楽しそう。
 それを言った姉さんの顔は、笑ってるはずなのに笑っていなくて。ああ、そうか。姉さんは消えてしまうのか。ぼんやりと霞む視界で姉さんを見ていた。
 姉さん、消えないで。あともうちょっとだけでいい。あと、一日。あと、三日。あと、一週間。あと、一ヶ月。あと――。
「……なーんて! ちょっと私いいこと言わなかった? 言ったよね!」
 あと、どれくらいいきられるの?
 ミンミン、ミン、ちりん、ちりんちりん、ミンミンミンみん、チリン。
 霞むのは視界だけじゃなく、耳もそうだった。どんどん姉さんが遠くに見える。いや、遠くにいくのは僕だ。姉さんじゃない。僕、なんで姉さんから離れてるんだろう。もっと近づかないと。もっと、もっと。姉さん。
「おやすみ」
 それだけ聞こえたとき、姉さんは目の前にいた。そして、ぷつりと切れる。
 ちり、ん、ミン。

 ちりん。
 音が聞こえた。懐かしい音だ。覚醒した僕の目の前には天井。すぐ傍にあるのは畳。どうやら寝てしまったらしい。
 億劫でそのまま体を起こすこともなく、ゆるゆると頭を動かす。ベランダから、ちりん。あの音が、とても懐かしくて。そこにあったのは、紛れもなく、金魚だった。
 姉さん?
 その言葉が喉で押しつぶされる。風鈴に、金魚が泳いでいる。川があるわけでも、もちろん海があるわけでもない。ただ泳いでいる。その代わり、透明には空があった。映し出された空に泳いでいる金魚があった。とても、楽しそうに。
 ぽつん。
 金魚ばちから聞こえる。水面が揺れる音。金魚の戯れる音。最後に聞いてからどれくらいの時間が経ったのだろう? ベランダにぶら下がった風鈴を見て、僕は何も言えなかった。笑うことも泣くことも体の一部を動かすことも。ただ、聞くだけ。心地の良い音を。
 耳を澄ませば記憶の産声。姉さん、僕は今こうして生きている。目の前にあることが見えなくて、遠いものも見えない。それでも僕にはやることがあるのだろう。
 姉さんは目の前にあるものすらできなかった。あんなにも輝いていたのに。あんなにも楽しそうだったのに。姉さんあなたは、風鈴に泳ぐ金魚。金魚が泳ぐ風鈴。全てを映してくれる透明だ。
「きれい」
 やっと出せた言葉は、それだけ。ちりんちりん、ぽつん、ちりん。もう一人じゃない。ちりん、ぽつん、ちりん。だけどまだ大丈夫なわけじゃない。ぽつん。それでも生きていける。ちりん。僕はまだ泳いでいる。ちりん。
 畳が涼しく感じた。天井が空色に染まった。泳げる、金魚のように。僕はなりたかった、あなたに。あなたのように。どこまでも強く、優しいあなたに。
 目標を失っても生きていられる。目標を探すために僕は生きている。すう、と頭にその言葉達が浮かんだ。ああ、なんてきれいな世界なんだろう。今は大人たちの汚い政治や子供達の無意味な命たちも全て包み込めるようだ。これが、無なのだろうか。これほど美しい世界などあるだろうか?

 ――いつのまにか音は止んでいた。
 畳はぬるく、天井は灰色。金魚は水音を立てず、ベランダに金魚なんて、いない。当たり前だ。それがいつもなのだから。
 あれは、白昼夢なんかじゃない。確かにそこに姉さん――風鈴はあった。もう押入れの中に入れてしまった風鈴が。押入れにそっと目をやる。しまっていて、当然だが動こうとはしない。それを確認して僕は起き上がる。起き上がるときふしぶしがきしり、と軋んだ。
 金魚はもう水面を揺らさない。僕の心のように、いや、僕の心と同じ。もう耳には届かないのだ。
 それでも、と思える。
 隣の部屋に姉さんはいない。僕の部屋によく押しかけてきた姉さんはいない。なら姉さんはどこにいる? 僕の心の中にいるわけじゃ、ない。
 僕は風鈴を見るたび姉さんを思い出すだろう。今までずっと押し込めてきた感情だけど、姉さんのことをどうせ忘れられないのなら、いつでも想えばいい。大切でいとおしい姉さん。
 僕が想えばいつでも頭には姉さんがいる。想い出の人よ。そうだ、姉さん。ミンミン蝉が鳴いているよ。まだ夏は始まったばかりだ。明日、姉さんが死んで一年目を迎える。その時あの風鈴を、もう一度出してみようと思うんだ。
 あの風鈴をきれいだと思えた頃には戻れない。戻れないから人は大きくなる。僕は大きくなれる。姉さんは止まってしまう。だけど時間は過ぎる。季節は終わる。蝉は消える。風鈴は響かない。それでも金魚は泳げる。
 恐ろしいほどきれいな青空は、僕らが泳ぐためにある。僕は、残された一生を精一杯泳ぐよ。ほら、あの蝉は、あんなにも楽しそうに鳴いている。
 ――耳を澄ませば、まだ聞こえる風鈴の音。

 終。

2007/07/20(Fri)21:42:34 公開 /
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■作者からのメッセージ
ショートショート好きの@です。
またまた某サイトに投稿した作品ですがたくさん推敲重ねたいのでより多くの意見が欲しいなと思いました。
ちょっとでも涼しくなってくれたら嬉しいです。
……あとタイトル長くてすいませ……。

※7/20 ちょこちょこ修正。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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