『古書専門店天壌屋 第二幕』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:晃                

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 木造の平屋が並ぶ平らな町並みに、二階建ての店は存外目立って見える。周りと同じく完璧なまでの木造に見えるが、どうやらそれは何かの店のようだった。
 引き戸の横に、黒く塗られた看板らしきものに、白いペンキで何事か書かれているが、雨風にさらされたそれは、すっかりかすれてしまっている。
 立て付けが悪いのか、それとも換気のために開けているのか、細く開いた扉からは、焦げたような匂いと白い煙が漂ってきていた。ついでに、酒くさい。
 パーカーにジーパンという簡単な服装をした少年は、まるで宿敵を見るようにその店を眺め――と言うより睨んで――数秒後、意を決したように戸を引いた。
 やはり、ただ立て付けが悪いだけだったようだ。ガタガタと軋むような音を立ててなかなか開かないそこを、彼は叩きつけるように押し開ける。
 もわっと顔に掛かる白い煙は、焦げ臭い上に熱まで伴っている。何が起こったかは大方予想がついた。
「今日は店を開ける気はないので帰ってくだサーイ」
 奥から聞こえてきた声は、日本語を覚えたての、怪しい外国人のような発音で、それに少年は一つ舌打を落とした。
「客じゃねーよ! とっとと家賃払ってください、天壌さん!」
「ああ? なんだお前か。なんだよ、サービスして損した」
「胡散臭い外国人の真似して客を追い返すのはサービスとは言いません! 先月と今月分の家賃、今日払ってくれるんでしたよね!?」
「……後方からやってきた謎の物体に俺の耳が! くそ、お経を書いておかなかったからか!」
「あんたはどこの芳一だ! 話を逸らすな!」
 白い煙のせいで視界は不明瞭だ。が、店のカウンターと思しき場所の奥で、暢気にキセルを吹かす影は見えた。
「大体、なんですかこの煙! どうせまた馴れない料理でもして、魚か何か焦がしたんでしょ!」
「つーかお前、さっき舌打したろ。教育のなってねえガキだ。親の顔を見てみたい!」
「あんたに言われたくない!」
 ぎゃあぎゃあと叫ぶ二人の声は、恐らく外まで漏れているだろう。それでも、苦情を言いにくる人間は居ない。この町が、他人に興味がない連中の集まりなのか、それともいつもの事だから気にしないのか。
「家賃払えないなら出てって貰いますよ! こっちだって生活かかってんですから!」
「ないもんはないんだからしょうがないだろ。無茶言うな」
「開きなおんなァァァッ!」
「ええい、いちいちうるさい子だね! そんなにアタシを飢え死にさせたいかい! 怖い嫁だよ本当に!」
「何キャラだよ!」
 開けっ放しの引き戸から、新鮮な風が吹き込んでくる。風は、室内の煙を巻き込んで外へと運び去っていった。
 視界がクリアになっていく。最初に目に入ったのは、やはりと言うか、カウンターの奥で、キセルを咥えたまま新聞を読みふける店主の姿だった。黒い着流しに漆黒の髪。おまけに、店の薄暗がりにいるので、闇と一体化しているように見えなくも無い。
 カウンターの端に置かれた、簡易なガスコンロの上にのったフライパンには、魚と思しき黒くこげた物体が鎮座していた。こんなものを食べたら、即ガンに掛かりそうな事請け合いだ。恐らく、室内を覆い尽くすほどの煙の原因は、これ。
「なんで魚をフライパンで焼こうとしたんだ……そう言う料理もあるけど、あんたそこまで料理上手じゃ無いでしょうが……」
「丁度良い、お前、飯作れ」
呆れたような呟きに、店主は頓着する事無く、さも当然とばかりに言ってのけた。
「はあ!? 何で俺が!?」
「家賃払ってやってんだ、それくらいしてみろ」
「払うのが当たり前な事でしょ。てか、払ってもらってないし」
「火事が起きて死人が出るぞ、いいのか」
「いやいやいや、なんで火事起こす気満々なんすか」
「あの……」
 延々続きそうな言い争いを止めたのは、控え目な声だった。
 みると、開け放した戸の所に、二十代位の女性が、所在無さげに立っている。恐らく、店内で繰り広げられる不毛な言い争いに、入っていいものがどうか迷っていたのだろう。
「いらっしゃいませ、こんばんはぁ。何名様でしょうかぁ?」
「ファミレスの店員みたいな接客するな。また客が逃げますよ。てか、今日は店開ける気ないんじゃなかったでしたっけ?」
「いやいや、お前何いってんの。こんなカワイイ人に向かって」
「……客を選ぶなよ」
 いやっほぅい、やったネ! と、親指を立てて喜ぶ店主に、少年は冷めた視線を送る。しかし、それも束の間の事。二秒後には愛想の良い笑顔を浮かべ、女性にイスを勧めていた。
 とりあえず、辺鄙で滅多に客の来ない(というより、きた客を店主が気分で追い返す)店に、漸く訪れた客。この仕事の報酬が、ひいては家賃として自分の手元にやってくるのだ。
 普段は蟻の毛先程も無い愛想をフルで引き出す少年を、店主はなにか恐ろしいものを見るような目で見ていた。人間、生活が掛かると必死になるのである。
「これは普段飲んだくれで煙草好きで、家賃もろくに払わない、ずぼらなダメ人間ですけど、仕事はきっちりやりますんで……ですよね、天壌さん?」
「お前散々言ってくれるな。いつからそんな子になったんだ。お母さんは悲しいわ!」
 わざとらしく泣きまねをする店主を軽く無視し、少年は簡易のガスコンロでお茶を沸かし始める。
「あの、此処に来れば古本を買い取ってくれるって聞いて、それで……」
 早口で捲し立てる女性に、店主はカウンターの奥で、開いていた新聞を閉じる。お茶を店主と女性、両方に出して、少年も引っ張り出してきたイスに腰掛けた。
「大丈夫ですよ。天壌さん、これでも一応プロなんで」
「一応は余計だ。そう言うこった、お嬢さん」
 とんとん、キセルの灰を落とし、新しく火をつけながら、店主はにやりと笑う。
「ようこそ、天壌屋へ」



 古書専門店天壌屋



 学校帰り、そこによってみようと思ったのはちょっとした好奇心からだった。
 私の学校があって、私の家がある町の、隣の隣に、不要(いらず)町という小さな町がある。名前からしてどことなく不吉な感じがする町だけど、実際本当に凄いらしい。
 何がって、何か怪しい店が。
 こうして道を歩いている時も、電柱や店の壁、あと町内会の掲示板には、いろいろ―お祓いします、とか、あなたの人生占います、とか、興味は引かれるけれど怪しい文面が書かれたビラで覆われている。
 胡散臭い。限り無く胡散臭い。
 道の端っこにはいかにもって感じの占い師を、等間隔で大量に見ることができる。しかし、歩いている人は誰も気にしない。普通だったら、多かれ少なかれ、注目する人はいるだろうに。
 オレンジ色の、穏かで暖かい夕日の光すら、この町ではなんとなく不気味に感じられる。そう言えば、黄昏時は逢魔が時とも言われてたっけ。この町並みと雰囲気に、その言葉はしっくりくる。
 そんないつもと違う空気を楽しみながら、私は狭い道を、並ぶ平屋や、怪しげな店を眺めながらゆっくり歩いていた。
 そこで、あの店が目に入った。
 平屋が多く並ぶ中、そこだけは二階建てだ。間口は狭いが、奥行はある。うなぎの寝床みたいなそこは、周りと同じく、完璧なまでの木造だった。立て付けが悪そうな引き戸の横に立てかけられた、黒く塗りつぶされたベニヤ板。五十センチ四方の正方形に切られたそれには、白いペンキでなにやら字が書かれていた。
 ……達筆すぎて読み取れない。
 じっと看板を見ていたが、結局そこが何屋なのか分らず、私は看板の解読を諦めた。何屋さんか分らない……入れば分る事よね!
 引き戸に手をかける。がたがたと音を立てながら、立て付けの悪い引き戸はようやく開いて――視界を、白い物体が通り抜けた。
「っえ!?」
 驚いて声を上げてしまう。
 私の腰までも無い身長、ふわふわした、雪みたいに白い毛に、頭の上からぴょこんと生えた長い耳。ズボンははいていないけれど、青い色をしたチョッキはきちんと着ている。首からかけた金色の時計を見ながら、それは呟いた。
「あー忙しい、忙しい!」
 小さい頃から、何度か絵本で見て知っている、それは。
「と、時計ウサギ!?」
 不思議の国のアリスに出てくる、時計ウサギそのものだった。
「え、えぇ!? なんで!? ぬいぐるみ!?」
 にしては、よく出来てるし動いてるし。
 戸惑う私に目もくれないまま、そのウサギは私の横を抜けてピョンピョンと跳ねていく。
「まて! 美紀也、追え!」
「あーもう! だから閉店の札出しとけって言ったじゃないですか!」
 そんな怒鳴りあいが聞こえて、私のすぐ横を人影が走りぬける。今時珍しい、染めていないきれいな黒髪がさらりと揺れる。
「え……織原くん!?」
 半袖のワイシャツに身を包んだ彼は、見覚えのある――と言うか、同じクラスの男の子だ。織原美紀也……くん。
 織原君が何故こんな所に?
 彼は、やはり私に目もくれないまま、素晴らしい足の速さで、前方五十メートルほど先に逃げたウサギを、ぐわしっと掴んで引きずっていく。そして、店の前には来て初めて、やっと私の存在に気がついた。
「あ、赤坂!?」
「え、と。こんにちは、織原くん」
 織原美紀也。
 私と同じ高校で、同じクラスで。去年は違うクラスだったから、その存在を知ったのは今年の四月になってからだった。
 女子の間では、クールでドライだと定評がある。友達はそこそこいるが、親友と言うより、ただ仲が良いだけ。女子とも男子とも、先生とですら、マイペースに人付き合いをしている節があった。あと、産まれと育ちが複雑で、今は一人暮らしをしているとも聞いた事があったっけ。
 おんなのこの情報網って恐ろしい。
 滅多に表情を見せない彼が、珍しく慌てている。あわてて、ウサギを後ろ手に隠しているが――それ、あんまり効果ないよ?
 なにせウサギは、捕まっているのにもかかわらず、バタバタと足をばたつかせながら「あー、忙しい、忙しい!」を繰り返しているのだから。
「……」
「……」
 落ちる沈黙に、ウサギの声だけが空虚に響く。
 気まずいそれを破ったのは、店の奥から聞こえる一つの声だった。
「おーい、美紀也? 何してんだ、捕まえたのか?」
「ちょっと待って下さい!」
 どこと無く暢気そうなそれに、怒鳴るような返事をしたあと、折原君はチラリと私を見た。私も織原君を見ていたから、ばっちり目が合った。
 彼は「うー」とか「あー」とか唸ったあと、引きつった笑顔を浮かべた。
「赤坂の家って、この辺だっけ?」
「ううん。美園町。今日は何と無く、来てみただけなんだけど……織原君は、この辺にすんでるの?」
「まあ……一応」
 歯切れ悪く答えながらも、ウサギを捕まえる手は緩めない。ウサギのほうは、逃げようと益々足をばたつかせるが、どうやらそれはかなわないようだ。
 先ほどから、話と話の間に、必ず気まずい沈黙が起きる。それを振り払うように、彼は静かに切り出した。
「そろそろ暗くなるから、帰ったほうがいいぞ。此処らへん、暗くなると変なの出るから」
 変なの、とは、不審者か何かだろうか? たしかに、この町だったら何が出ても不思議ではない。そうする、と答えようとした私を遮るかのように、ウサギが高い声で叫ぶ。
「あー、忙しい、忙しい!」
 せっかく(作り物とは言え)快方へ向かっていた雰囲気が、ものの見事にぶち壊される。そこまで存在をアピールされたら、一体それがなんであるか、訊かなきゃいけないのが義務のような気がしてくる……そんなことは、ないだろうけど。
「……それ、ぬいぐるみ? かわいいね……」
「……ああ。知り合いのなんだ……」
「……」
「……」
 お世辞にも、それがぬいぐるみには見えなかった。
 走る時の動きは柔かくて、機械のぬいぐるみみたいにカクカクした動きではない。団栗眼は、水分できらきら輝いているし、喋るたびに動く口の間からは、歯や舌がのぞいている。
 それは、どこからどう見ても完璧なまでにウサギだった。と言っても、リアルなウサギではない。デフォルメされた、アニメとか、子供向きの絵本とかによく出てくる感じのウサギだ。
 それが、本物よろしく動いているさまは、何と無く奇妙だった。
「じゃ……気をつけて帰れよ」
「……うん。ばいばい」
 そのウサギが一体なんなのか、聞きたくないといえばうそになる。ぬいぐるみでないのは明らかだ。でも、好奇心より恐怖心の方が勝った。ついでに言えば、織原君の目が訊くな訊くなと訴えていた。
 ぎこちなく踵を返し、今日のことはなるべく早めに忘れよう、と、私は静かに決意した。


第二幕


「天壌さんどうすんですか? 見られましたよ、思いっきり!」
「ノープロブレム心配ないさ。ぬいぐるみってことで誤魔化したんだろ?」
「誤魔化しきれてない目でした、アレは」
 狭い店内に、これでもかと並ぶ本棚を上手く通り抜け、カウンターで余裕面の店主に詰め寄る。しかし、店主はそんなこと、これっぽっちも心配していないらしい。
 薄暗い店内に、わっかの煙を吐き出して、のんびりと、諭すような口調で言葉を紡ぐ。
「騒ぐなって。どうせあっちだってどうもしないだろうし。つーか、出来ねえだろ」
 言われ、少年も納得する。
 今まだ暴れ続けるウサギが、ぬいぐるみではない事はばれていたかもしれないが、では何かと問われると、答えられるものではないだろう。
 それに、好奇心より恐怖心――危うきには近寄りたくない、と言う判断が勝っていたようだ。無理矢理にでも、ぬいぐるみと言う事で納得してくれるだろう。否、納得してくれなければ困る。
 一人うんうんと唸る彼を気にも留めず、店主はカウンターの端のほうに置いておいた、一冊の絵本を手にとった。
「よし、じゃあ、始めるぞ。ウサギしっかり抑えてろ」
 そう言うと、店主はバラバラと絵本をめくり始める。
 大分古い本なのだろう。表紙の部分は色あせ、小口はボロボロになっている。それでも何とか題名は読み取れだ。金色の装飾が施されたそれはAlice in Wonderland――不思議の国のアリス、と読める。
 店主は、その中のとあるページで手を止めた。それは冒頭部分から少し進んだ、アリスが時計ウサギを追いかけるページだ。しかし、そこに肝心のウサギは居ない。それに、台詞も抜けている。
「何がいいかな……そんな強いもんじゃ無いし、糊で充分か」
 鼻歌を歌いそうなほど明るく、店主は呟く。
 本をカウンターに置き、丁度ウサギがいそうな場所に手を置いた。
「paste……定着!」
 店主の声に合わせて、今まで店主の手があったところから、どろりとした透明な液体が噴き出した。ぬらぬらしたそれは、まさしく、液体糊そのものだ。
 何も無い紙製の本から現れたそれは、鎌首をもたげるヘビのように、ゆらりと揺らめいた後、少年が胸の高さまで抱えているウサギに、獲物を捕らえるヘビの如く真っ直ぐ伸びていく。
 そして、じたばたと暴れるウサギの胴体に絡み付いて、現れたとき同様、素早く消えてしまった。今度は、ウサギを連れたまま。
 見れば、カウンターに置かれた絵本の、今までウサギがいなかったところに、先ほどまで少年が抱えていたウサギがいる。ウサギが今まで事務的に繰り返していた「あー、忙しい、忙しい!」と言う台詞も、ちゃんと戻ってきている。
 店主はそれに満足そうに頷いた。
「仕事終了ですか、これで」
 ふう、と息をついて、少年は近くにあった椅子を引き寄せる。コンロのレバーを捻り、火を弱火に設定する。
「いんや。後、他に定着が薄い奴らも多いから、そこもやっといたほうがいいだろ。なんか強そうなのもいるし。出ねえうちにとっととやっとくに越した事はねえな」
「はあ……そんな危ない本だったんですか」
「だから、本落としたりするんじゃねえぞ。ちょっとの衝撃でも出てくるだろうから」
 そのさまを想像して、少年は軽く唸った。それは、とても嫌だ。面倒事はごめんである。生きてるうちで、一番必要なのは平和。スリルもサスペンスもいらないから、只管に平和で平穏で安穏としていれば、それでいい。
 強い敵と戦うことに喜びを得るのは、一部の人間だけで充分だ。自分は、強い敵とも、弱い敵とも戦いたくは無い。だって面倒だから。赤信号だって、渡らなければ恐くないのだ。
 どこか逸れていく思考を修正し、少年はカップのそこに残っていた茶を、一気に飲み干した。
「じゃ、俺は帰りますから。仕事終わったら、家賃払ってくださいよ」
「……報酬で酒でも飲むかー」
「家賃払えよ!」
 いつも通りのやり取り――それが、いけなかったのかもしれない。
 仕事が終わったばかりで、そばに危険なものが置いてあるのだから、もう少し注意して、慎重に対応すべきだった。
 怒鳴られた店主が、恐い恐いと思ってもいないことを言いながら、カウンターに肘を着いた。丁度そこに、件の絵本が置いてある事を忘れて。
 絵本の上についた肘がすべり、そのまま絵本がカウンターの向こうに落ちていく。
「あ」
「え?」
 声を上げたときは、もう遅かった。
 ばさ、と本が落ちる。その途端、風も無いのにバラバラとページがめくれ、次の瞬間、まばゆい光があたりを覆った。
 強い光に、反射的に目を閉じる。それでも、光は瞼を突き抜けて網膜を焼いていく。強風が店内を吹き抜けて、まき込まれたたくさんの本達が宙を舞った。
 一瞬見えた店内に、絵本から抜け出た様々な登場人物が、朝笑うように微笑みながらふわりと飛ぶ。彼らは、強風によって外れた引き戸から、悠々と外に飛び出していった。
 数秒たって、光と風が収束され、店主と少年は呆然と立ち尽くしていた。
 棚から落ちた本が床を埋め尽くし、引き戸は無惨にも外れて、道路の方まで吹っ飛んでいる。原形を辛うじて止めているから、嵌めればまた使えるかもしれない。幸い、本棚など、大きい物は倒れていなかった。
 少年は、本を踏まないように気をつけながら、カウンターから落ちた絵本を拾い、ページを繰っていく。
「……天壌さん」
 少年の呆然とした声。店主も、彼の背後から絵本を覗き込み、引きつった笑顔で呟いた。
「……やっちゃった?」
 絵本の中には、一切の登場人物も台詞も書かれておらず、ただ背景のみが広がっていた。


 不要町でのあの衝撃から、一夜明けて。
 昨日は全然眠れなくて、明け方、空の端が明るくなってきて漸く、僅かの時間だが寝ることが出来た。でも、そのお陰で寝過ごしてしまった。朝起きたら七時四十分だったとか、本当に久しぶりだ。
HR直前に、なんとか教室にたどり着けたのは、ある意味奇跡だと思う。。
「おはよう、赤坂。今日ギリギリだったわねー。珍しい」
「美津子ちゃん。おはよ、ちょっと昨日色々会ってさ……」
 慌しく席についていると、後ろの席の美津子ちゃんに、呆れたように笑われる。一部始終話したくてうずうずしたけど、自分でもよく分らない出来事だったので、何も言わずに曖昧に笑っておく。
 美津子ちゃんは、小学校からの親友だ。今日も今日とて、茶色く染めた髪にウェーブをかけ、ばっちりメイクを決めている、校則に喧嘩を売っているとしか思えない出で立ちだけど、とっても優しくて、いい人。
 難点は噂好きなところだけど、それは美津子ちゃんだけでなくて大抵の女子がそうだし、かく言う私も、美津子ちゃんから色々情報を貰っている。
教科書を机の中に入れながら、チラリと織原君の席を窺う。しかし、そこに彼はいなかった。
「……織原くん、来てないね」
 半分無意識の呟きは、美津子ちゃんにはしっかり聞こえていたらしい。眉をひそめて、答えてくれた。
「織原ぁ? あいつ、毎日遅刻寸前で来るじゃん。丁度これくらいの時間に。でも何で? 赤坂って織原と仲良かったっけ?」
「いやあ、そう言うわけでもないんだけどなんていうか……」
 しどろもどろになっていると、タイミングよくチャイムが鳴って、担任の先生が入ってきた。
 名前はかわいらしいが、生徒間では「一人くらいなら殺した事がある」と、もっぱらの評判の、強面の先生だ。おまけにドスの効いた声をしているものだから、怒鳴られると迫力があって本当に恐ろしい。
 いつものように出席を取ろうとする先生に、そう言えば織原くんは出席番号一番だけど、毎日ちゃんと来ていたな、なんて思い出す。
「織原……織原、なんだ、いないのか?」
 先生が数度名前を呼ぶか、やはり織原くんはいないらしい。本当に織原君が遅刻するのは珍しいことらしく、教室も暫しざわついている。
 そのとき、ドアが乱暴に開かれた。
「……遅れました」
 深く唸るような声。織原くんは、顔じゅうに「不機嫌」というのを張り付けて登校してきた。どことなく、顔色が悪い。目の下にうっすら滲んでいるのは、隈だろう。紙もボサボサだし、ワイシャツのボタンは掛け違っている上、二つくらいしか留まっていない。
 そのつかれきった様子に、教室内が静まり返る。
「すみません、昨日ろくに寝てなくて」
 わたしも三時間位しか寝ていないが、彼は本当に睡もしないで何かしていたのだろう。徹夜で町内マラソンでもしなければ、恐らく此処まで疲れないと思うが、彼がそんな事するだろうか。
「エロいビデオでも見てたんじゃねーの?」
 男子の一人がはやし立てる。それを、織原くんはギンッと睨んだ。鋭い上に殺気が篭ったそれに、つられて笑いかけていた室内の雰囲気が音を立てて凍る。
「織原……保健室、行った方がいいんじゃないか?」
 先生までもが、恐る恐るといった感じで提案するのに、織原くんは不機嫌そうな顔のまま首を横に振った。
「いいです。学費もったいないし、そこまで疲れてるわけでもないんで」
 言いながら自分の席に向かっているが、その体はふらついている。乱暴に席につく織原くんに、周囲の生徒は僅かに冷や汗を流していた。


 午前四時。
 草木も眠る丑三つ時から、既に二時間経過して、太陽も顔をだし始めている。スズメは木々に止まってコーラス隊を作り、人通りの無い寂しい街に、活気を与えていた。
「天壌さん、いました! そっちです!」
 そのスズメの合唱をさえぎり、ハートのエースが描かれたトランプ兵を追いかけながら、少年は前方で道を塞ぐ店主に声を投げた。T字路に立っていた店主は、手に持っていた古本をめくる事無く、表紙の上に手を置いた。
「thread……縫合!」
 言葉が終わるや否や、表紙から無数の黒い糸が現れる。それは、急速に形を変えて、トランプ兵と同じ位の蜘蛛の巣を形作った。それを見たトランプ兵が、急にUターンしてもと来た道を逆戻りするように走る。
 しかし、蜘蛛の巣状の黒い糸は、まるで意思ある生き物ように、トランプ兵めがけまっすぐ襲い掛かり、捕獲網の如く兵を包んだ。すぐに網の口が閉まり、暴れるトランプ兵を飲み込んだ黒い糸は、真っ直ぐに本へと戻っていった。
 それに、少年は安堵の声を漏らす。
「成功、ですか……これで、トランプは全部回収しましたよね?」
「トランプはな。あと、いろいろ描かれてた諸々の脇役キャラクター……主要な奴らになってくると、力も強くなるんだよな……」
 店主は、最後の方でアリスを追いかけるトランプ兵達の数を数えながら、キセルに火を点した。
 今からおよそ十時間ほど前。
 不注意で思わぬ失態をしてしまった二人は、すぐに店を飛び出して、こうして登場人物の回収に向かっていた。始めのほうは、これでもかというくらいとんとん拍子に見つかっていたのだが、後半になってくるとその勢いも段々なくなってくる。
 思えば、夕飯を食べていない。寝てもいないし、飲み物すら飲んでいない。今までは必死になっていて、全くそんなこと気にしなかったが、いざ一段落ついてみると、疲れがどっと押し寄せてきた。
 やたら凝った絵本には、登場人物が緻密に描かれており、トランプ兵だけでもジョーカーを除く五十二枚が抜け出していた。それだけではなく、歌う花や、数行しか台詞が無い登場人物など、余す事無く抜け出したお陰で、今まで回収した登場人物は、軽く百を超える。
「にしても、まあよくここまで絵と台詞を書く気になれたよな。絵本って厚さじゃ無いし。運ぶのも、登場人物が戻ってるか確認するのも大仕事だ」
「しょうがないですよ。台詞と絵、二つ揃っちゃってたら、問答無用で出てこれるんですから。例えそれが、ほんの一行だけでも」
 幸い、登場人物たちは不要町を抜け出していなかった。対処が早かったお陰だろう。ここの住人たちなら、例え着物と学生服の、年も違う二人組が、作り物とは思えない謎の生き物を追いかけていたとて、誰も気にしない。
 自分が困っている時、助けてくれなくてもいいから、代わりに他人が困っていても助けない。下手な干渉はせず、また干渉してほしくも無い。そんな、自己中心的とも取れる連中で、不要町は構成されている。いいところでもあり、悪いところでもあるが、今回はそれに救われた。
「脇役は回収終了! あとは帽子屋にネムリネズミにウカレウサギ、時計ウサギとアリスと女王様とチェシャ猫と……位か?」
「その位……ですよ、きっと」
 歯切れ悪く少年が答える。登場人物の数が多すぎて、一体後どれ位いるか、確認できていないのだ。
 少年は、疲れた様に肩を落とした。肉体労働は彼の仕事だ。絵本から抜け出た登場人物を探し出して、店主がいる場所まで追い込む。徹夜でフルマラソンでもしたような気分だ。実際、それ位……ひどければ、それ以上の距離を走っているかもしれない。同じところを何回も何回も往復し、軽く泣きそうになった。
 店主も走ってはいないものの、小技とは言え術を連発したせいか、心なしか疲れている。いつものようにふざける気力すらないらしい。
 いつもそうならいいのに、と少年が思ったかどうかは謎である。
「で、どうするよ、これから。不要町の外も、探したほうがいいかもしれねえぞ」
「わかってますけど、俺学校ありますから。授業料もったいないし」
 きっぱりと、けち臭い事を言う少年に、店主はしばし逡巡した後、持っていた絵本を押し付けた。
「お前持っとけ。奴ら、人が多い所によく集まるから、学校にいるかもしれないだろ? 俺は俺でやっとくから」
 それに、少年は物凄く嫌そうに眉根を寄せる。
「そうですけど……俺が持ってるより、天壌さんが持ってたほうが良いと思いますよ」
「お前の術の成功率が低い事なら知ってるさ。ま、練習だと思って。こんな機会滅多にねえし」
「……あっても困りますけどね」
 ぶつぶつ言いながらも、少年はカバンの中に絵本をしまう。それを満足そうに眺め、店主は少年の肩にポン、と手をおいた。
「じゃ、がんばって! あたい応援してる!」
「……天壌さん、真面目にやってなかったら、家賃値上げしますからね?」
 親指を立ててウインクする店主に、少年はにっこり笑顔で宣言した。目が笑っていないので、恐らく八割がた本気だ。
 固まる店主をさくっと無視して、少年は住んでいるアパートに向かって歩き出す。とりあえず、腹ごしらえと、シャワーと着替え。今から寝てもどうせ寝坊するだろうし、ギリギリまで絵本の登場人物を探してみよう。
 見上げた空は、忌々しいほどの晴天だった。


 昼休み。
 美津子ちゃんと学校の中庭でご飯を食べていた。学食は混むし、屋上は使用不可能。美津子ちゃん曰く「使用不可能にするなら作るな」らしい。
最近雨が続いていたけど、昨日今日と晴れているため、中庭でのんびりとご飯を食べることにしたのだ。
 空は青く、太陽は久々の登場にやる気を出したのか、じりじりと肌を焼いてくれる。自販機で買ったイチゴミルクを飲みながら、美津子ちゃんが「そう言えば」と言った。
「昨日赤坂、どこ行ってたの?」
「え? ああ、昨日はちょっとね……どうかした?」
「いやさ、電話したんだけど出なかったから。なに、デートか何か?」
「……だったらいいんだけどねー」
 実際は、怪しい町で変な目にあっていた。あまり思い出したくないので、言葉を濁す。
「そう言えば美津子ちゃんさ、織原くんがどこに住んでるか、知ってる?」
「えぇ? ……さあ? なんで?」
「う、いやあ、なんとなく」
 そう答えると、美津子ちゃんが、時代劇に出てくる悪役みたいな、意地の悪い邪悪な笑みを浮かべる。
「何か今朝から織原のこと、やけに気にするね。授業中もちらちら見てたでしょ」
 な、何故それを!? さすが美津子ちゃん、目敏い。
 昨日あんなものを見せられたら、どうしても見てしまうだろう。織原くんは、私の方は全く気にしていなかったけど。
「そっかー、ついに赤坂にも春が訪れたか」
「えぇ!? そんなんじゃないよ!」
 照れるなって若いねー、といいながらケラケラ笑う美津子ちゃんに、必死になって弁解する。あんなことがあれば、美津子ちゃんもきっと見ちゃうって!
 しかし、上機嫌そうに笑う美津子ちゃんは、何を言っても聞いてくれそうにない。もういいや、とお弁当に残った卵焼きを口に放り込んだ。
「そう言えば、あたし織原と同じ小中学校だったんだけどさ、あいつ、家族が交通事故で死んだ辺りから、雰囲気変わったんだよね」
 ふと、今思い出したかのように美津子ちゃんが言う。
「なんか、前は気弱だったって言うかウェットだったって言うか……そんな目立つ奴でもなかったんだよねぇ」
「気弱? 織原くんが?」
 今朝のHRの事を思い出すけれど、気弱という字は当てはまらない気がする。それに、美津子ちゃんはイチゴミルクのパックをたたみながら、なんでも無いように言った。
「心境の変化って奴じゃ無い?」
 そう言うものか、と私も納得する。うちは両親もまだまだ健在だし、お爺ちゃんもお婆ちゃんも元気だ。思えば、身近な人の死に立ち会った事なんて、今までなかったんじゃないか。
 両親とか、兄弟が死ぬところを思い浮かべてみるものの、いまいち実感が湧かない。
悩んでいると、不意にチャイムの音が聞こえてきた。予鈴だ。五時間目が始まる、五分前だという合図。あわててお弁当を片付けて、教室へ向かった。
 二年生の教室は、三階にある。正直、上るのは面倒臭いけど、去年は最上階である四階にあったのだ。それに比べれば、まだマシだと思う。
 美津子ちゃんと雑談をスタスタと登っていると、横をものすごい速さで駆け上る人がいた。
「! 織原くん!?」
 隣の美津子ちゃんも吃驚している。それもそうだろう、普段体育の時間でさえ、マイペースに歩いている彼が、何があったか知らないけれど、階段を二段すっ飛ばして駆け上っているのだから。
「ごめん美津子ちゃん! 先に行ってて!」
 思わず、後を追いかける。
 昨日と今日、確かに巻き込まれたくない――忘れたほうがいいと持ったけれど、本当は知りたかった。何が起こったか、知りたかった。
 だから、織原くんを追いかける。もしかしたら、何か教えてもらえるかと思って。
 昼休みの終了が近いせいか、廊下にいる生徒の数はまばらだ。その中を、何かを強く蹴り飛ばしたかのような轟音が響き渡った。四回からではない。屋上からだ。
 四階の廊下をキョロキョロと見回していた私は、その音にすぐ階段を上った。
 屋上は生徒の立ち入りが禁止で、唯一のドアは常に頑丈な鍵が掛かっている。今まで何人か侵入を試みたが、無駄だったとか何だとか。屋上のドア以外に何もないし、どうせ入れないのだからと、気にとめたことすらなかった。
 階段を駆け上る。そこには、長方形に切り取られた青空のみが存在した。ドアなどどこにもないように見えた。
 しかし、それが無いのではなく、誰かによって外されたと分ったのは、屋上に足を踏み入れて、へこんだ鉄製の扉を見てからだった。こんなこと出来るのは、私より前に屋上へ向かった人しかいない。
「織原くん!」
 屋上の中央に、彼はいた。
 手に何か古い絵本を持っているけれど、距離が結構あるので、どう言う題名の本かはわからない。
 そんなことより、屋上の状態が目についた。屋上には、織原くんを中心にして、黒い糸が蜘蛛の巣状に張り巡らされている。いや、中心は彼ではない。織原くんが持っている、古い絵本だ。よく見ると、黒い糸は絵本から出ているようにも見えた。
 でも、本から黒い糸が出るなんて、そんなこと、ありえるだろうか。
 ポカンとしていると、織原くんが驚いたように体を反転させ、こちらを振り向いた。
「赤坂! 避けろ!」
 鋭い叱咤の声に、驚いて体を後方にずらす。すぐ目の前を横切ったのは、白い、もふもふした塊。
 小さい体を、、綿菓子みたいな体毛が覆っている。同色の長い耳はピンと立って、周囲の音を拾おうとしているのか、くるりと器用に動く。青い色をしたチョッキに、つぶらな瞳。華奢な金の鎖につながれた、やはり金色に輝く懐中時計。見覚えのある、それは。
「この前の、ウサギ!?」
 しかし、前回見たときのように、事務的に「あー、忙しい、忙しい!」という台詞は繰り返していない。ウサギは、張り巡らされる網をかいくぐり、一気に走り出す。
「! まて! 逃げんなコラ!」
 それに気付いた織原くんが、パタンと本を閉じてウサギの後を追う。本を閉じた途端、黒い糸は宙に溶けるようにして消えてしまった。
 ウサギは、織原くんから逃げるように、屋上の端へと走る。普通のウサギみたいな四足歩行ではない。人間のように、二本の足で器用に走っている。
 屋上の端には、転落防止のフェンスがあるのだが、普段誰も使わないからか、高さはそんなに無い。ウサギは、それを一息で飛び越えて――ジャンプ力の高さは本物のウサギ並みだな、と場違いに感心してしまった――フェンスの向こうに消えていく。
 その瞬間、織原くんと私の方を見て、あざ笑うように口角を吊り上げた――様に見えた。単なる錯覚か、被害妄想かもしれないけど。
 織原くんは忌々しそうに舌打ちをして、ウサギを追ってフェンスを一息で飛びこした。
「――え?」
 フェンスの高さは、いくら低いと言っても二メートルほどはある。よじ登る事は出来ても、飛び越す事なんて、到底不可能だ。それを、織原くんは膝の屈伸だけで飛び越えた。。下にロイター版とか、トランポリンなんてものは勿論ない。
「て言うか、ここ屋上!」
 はっとして、思わず叫んでしまう。
 四階建ての学校の、屋上。下は確か、この方角だと職員用の駐車場があるはずだ。クッションになる芝や土は無く、コンクリートのみで出来ている。下手をすれば死ぬし、上手くいったとしても骨折くらいはするかもしれない。
 慌ててフェンスに駆け寄って下を見てみると、織原くんが、ウサギを追って何事も無い様に走り去っていくのが見えた。スピードは全く衰えていないし、骨折していないどころか、擦り傷一つ追ってないように見える。
 ポカンとする私の耳に、漸く駆けつけた先生と野次馬の騒ぎ声が入ってくる。とりあえず、壊れたドアの言い訳をどうしようかな、なんて、頭の冷静な部分が考えていた。


 立て付けの悪い引き戸が、ガタガタと音を立てて来客を告げた。
 開いた戸から吹き込んだ新鮮な風に、酒くさかった空気が洗われる。店主は、新聞に目を落としたまま、そちらをチラリと見ようともせず、やる気の無い声を出した。
「いらあっしゃあいませえぇ」
 間延びしたそれが言い終わるのとほぼ同時に、灰皿が飛んできた。入り口のすぐ横にある、食器棚に入っているガラス製のでかい灰皿だ。それは素晴らしいスピードと威力でもって、店主の即頭部を強打した。一瞬意識が遠のきかける。
 引き戸を開けたまま、暮れゆく西日を背にして、少年は力の限り怒鳴った。
「やる気の無い声を出すな! ていうか、何でこんな酒くさいんですか! それ以前に、何であんたは此処でのうのうとしてるんですか! 仕事は!? 突っ込みどころ満載で突っ込みきれないんですけど!?」
「だからって灰皿はないだろお前。もし俺が死んだら、某少年探偵の事件ばりに複雑なダイイングメッセージで、俺が今無性に饅頭を食べたいことを世間に知らしめてやる!」
「そんなどうしようもないコト残してどうすんだ!? 解いた方もがっかりだろ! ……って、論点ずれてるし!」
 いつもの下らない言い争いで、見事に論点をずらされた事に気付き、少年はうがーっと獣じみた苛立ちの声を上げる。それに、店主は組んだ手の上に顎を乗せ、ニヒルな笑みを浮かべてみせた。
「とりあえず、饅頭買って来い。話はそれからだ……」
「だから……! あああ、もういいですよどうでも! とりあえず、そんなハードボイルド風にきめても、饅頭は買ってきません!」
 疲れた様に、少年はそう宣言すると、自分専用の椅子を引っ張り出して、そこにだらしなく座った。昨日からの疲れがたまっているのだろう、今朝、授業料がもったいないから学校に行く、と宣言していた時より、大分ぐったりしているように見える。
 それに珍しく……本当に珍しく、コーヒーでも淹れてやろうかと、店主は腰を上げた。
「その様子だと、収穫なしか? んん? 甘い甘い甘い、甘いねえ! 煮詰めた砂糖水に、チョコレートと蜂蜜をかけてさらにクッキーでサンドした位に甘い!」
「……死ねばいいのに」
「……真顔で言うなよ」
 帰ってきたのは、深い溜息。どうやら、身体的だけでなく、精神的にも疲れているようだ。平たく言えば、少年はあまりご機嫌麗しくない。さっきの灰皿も、もしかしたら八つ当たり半分かもしれない。
 肩をすくめて、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを差し出してやる。
 それに、少年は未知の生き物を見るような目で、店主とコーヒーに、交互に視線をやり、小声で礼を述べると、カップに口をつけた。そして、一瞬後盛大に噎せた。
「甘! 何だこれ!?」
「ああ、疲れてるときは甘いものって言うだろ。砂糖を大量に入れてみた」
「入れすぎでしょう!? いくつ入れたんだよ!?」
「両手で足りないくらいに」
「殺す気かァァ! 俺が甘いの嫌いな事くらい知ってるでしょ!?」
「灰皿よりはマシだ」
「……根に持ってたんですね!?」
 カップを傾けてみれば、底のほうを溶けきらなかった砂糖が覆っている。と言うより、カップの半分ほどはオール砂糖だった。
「で、どうだった? 何かあったか?」
 店主は、悪びれもせず飄々と、話を仕事の事に戻す。少年も、コーヒーに関する文句を口にしようとしていたのを、一旦止めてそれに答える。
「ウサギを捕まえかけました、学校の屋上で。失敗しましたけど。そう言えばそのとき、生徒の一人に見られましたよ」
「まじでか。ま、それは何とかなるとして……」
 店主は、あまり重大な事に思っていはいないようだ。眉をひそめはしたものの、すぐに興味なさそうに話題を変える。
 それは少年も同じで、報告をしたのはあくまでついで。今後の仕事に差し支える様なら別だが、それで無いならわざわざ気にはしないのだ。
「手がかりは、なし。にしても、お前から逃げるってよくやるな、そのウサギも」
「……ウサギを追っかけてるところを、補導員に捕まりました」
「ああ……」
 幸いにして、ウサギの姿は見られなかったようだが、そこからとんとん拍子に学校に連絡され、担任教師に説教をくらい、保護者を呼ばれかけ、それは止めてくれと、脅し半分で頼み込んだ。
 保護者なんか、呼んでも絶対に来ない。よしんば来たとしても、昼間から酒くさい飲んだくれを、学校関係者が入れるとも思えない。下手をすれば、担任に二人そろって説教を喰らう、という事体に発展するかもしれない。それは、勘弁願いたかった。
「何がムカツクって、俺がそんな苦労してた時に、あんたがのんびりしてた事がですよ……」
「フィールドワークは若者の仕事」
「……そうですね。酒好き煙草好きのぐうたら店主には、キツイ仕事ですもんねぇ?」
「怒っちゃイ・ヤ」
 キャッ、と笑うと、少年の顔が僅かに引きつった。本気で目潰しかボディーブローでも喰らわせられそうな雰囲気に、とりあえず謝罪しておく。
「冗談抜きで、いろいろ不味いですよ。どうします?」
「昨日走り回ったから、粗方は回収できたんだけどな……」
「走り回ったのは俺ですけど」
「元に戻したのは俺だろ」
 カバンから不思議の国のアリスの絵本を出し、少年はパラパラとページをめくっていく。昨日見たときは、背景だけでキャラクターが一人もいなかったが、今は粗方のキャラクターと台詞が戻り、それなりに賑っている。
 それでも、数人のキャラクターが存在しないのも、事実。少年は溜息を吐き出して、静かに呟いた。
「報酬とか、仕事云々とかなしにして、純粋に本がこう言う状態になってるのって嫌ですよね」
 それに、店主は眉を寄せた。
 織原美紀也という少年は、昔から純粋に本が好きなのだ。先ほどの灰皿事件も、棚から灰皿を取ってくるより、手近な本を抜き出して投げたほうが、早い。入り口付近の本棚には、ハードカバーの分厚い本が整然と並んでいるのだ。
「そう言うところは、ちゃんと美紀也だもんなぁ……」
 苦々しげな呟きは、幸い少年には聞こえていなかったらしい。
 自分で新しく淹れなおしたコーヒーを一気に飲み干して、少年は絵本を持って立ち上がった。
「ほら、行きますよ天壌さん。仕事、早めに終わらせたいんでしょう?」
 それに、店主は唸りながら腰を上げた。
 太陽も半分以上沈んでしまい、空の色を占める割合は、段々藍色がかった黒が大きくなっていく。等間隔に並んだ街灯が、点滅しながら役目を果たそうと努力する、その下を、自転車に乗った学生がやる気なさそうに通り過ぎる。
 どうやら今日も、仕事は終わりそうに無い。
   続

2007/07/18(Wed)14:59:04 公開 /
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