『用水路』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:村瀬悠人                

     あらすじ・作品紹介
早起きして街を散歩すると、用水路に挨拶をする。時間の流れが大体にしていろいろなものをなぎ倒していく。かつて海が死んだように、用水路も死に、そして、みんないなくなって、僕が残される。そのうちに、僕も消えるけど。分かってる。時間は流れるんだ。

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 その街には海から伸びる小さな用水路と、工場そして倉庫があった。用水路には、大きな幹線道路のほんの一部分を占める小さな橋が渡されていて、そこからの眺めが僕は大好きだった。用水路に渡された小さな橋からは、海の方向に倉庫、工場、埋め立て工事のための大きな工事用クレーンが見渡せた。その先は、それら人工物の隙間から僅かに見える水平線。まがい物ではない確かな海が存在していた。   
 朝方、早く起きれた日には僕は決まってその小さな橋に出かけた。朝靄に包まれた用水路と、工事現場、倉庫、海。そこにはそれしかなかった。工場の生産ラインや埋め立て工事が動き出すのはもっと、ずっと遅い時間だったので、まだあたりは静まり返っていた。寝ぼけたような視界の先にはぼんやりとクレーンや、工場の煙突や倉庫が佇んでいて、なす術も無く朝を迎えていた。僕も一緒だ。クレーンとも用水路とも大差がない。なす術も無く朝を迎えてしまった一員だ。
 これから話す話は、大体がそんなトーンで敷き詰められている。用水路と僕、或いはクレーン、倉庫の話。嘘のような話だけれど、確かに、僕も、用水路も、倉庫もクレーンも、あの時、あそこに共存していた。勿論工場だっていた。確か、2003年のことだった。僕は今でもあの日々のことを忘れてはいない。今では僕しかいないという事実が僕を押し流そうとしても僕は、もうしばらくは辛抱するつもりだ。消えていった彼らのために。この物語を、彼らに捧ぐ。


 2003年の春先、僕は用水路の上で朝を迎えていた。僕と用水路の最初の出会いだ。勿論、僕は彼を見かけたことが何度もあったし彼だって、僕の顔かたちくらいは知っていた。ただ、お互いに言葉を交わして、存在を表明したのはこの日が初めてだった。そういうことだ。
 大した理由はなかった。夜、何かの理由で寝付けなくて、僕は朝方から町を散歩していた。腹が減ったので、コンビニでフライドポテトを買った。食べながら歩いていたら、偶然、朝靄のかかる用水路に目が留まったのだ。運命的なものを感じずにはいられなかった。僕は彼に朝の挨拶をしたし、彼も僕に気持ちのいい挨拶を送ってきた。モノレールの時刻表くらい、礼儀正しくて、誠実な挨拶だった。時刻表も、用水路も、様子がおかしくなるのはたまに台風がかすめる時くらいだった。それはもう、当時の僕からすれば信じられないほどに誠実な朝の態度だったのだ。煙草をくわえてもいないし、よれよれの新聞紙を広げたりもしない。”きをつけ”をするような感覚だ。僕は、そんな感覚に包まれたままで、行儀良くフライドポテトを最後の”かす”まで食べきった。彼は、僕が食べている間もずっと”きをつけ”のままだった。僕が”やすめ”と言っても、絶対に姿勢を崩したりしなかった。とにかく彼は誠実だったのだ。その頃はまだ、クレーンはいなかった。工場や、倉庫はもういたが、まだ彼らは僕と知り合っていなかった。まだ僕が話しかける相手にしては彼らは古株過ぎたのだ。僕よりも十年、二十年、この場所に彼らは留まり続けていた。最後の頃でこそ、僕は彼らとも”やすめ”のままで話せたが、もしもあの頃に知り合っていたら、それこそ僕は、彼らが壮大な昔話をしている間、”きをつけ”を崩すことができなかっただろう。きっと、貧血で倒れていた。
 僕がフライドポテトの容器を、丁寧に折りたたんで、コンビニの袋の中に戻すと、用水路は少しずつ僕に言葉を語りかけてきた。そこで僕は、この街の現状や、成り立ちのようなものを知ったのだ。倉庫や、工場という偉大な先輩が存在すること、もうすぐ新しくクレーンが二台建つこと、偉大なご先祖である海は、もう殆ど力尽きていて、今では言葉を失くしてしまったこと。海の直系の子供である自分も、そのうちに言葉をなくしてしまうであろうこと。彼の人柄をそのまま表すような誠実で、丁寧な語り口調だった。言葉の語尾には必ず”であります。”とついた。話している間も、彼はずっと”きをつけ”だった。僕がその事を聞くと彼は丁寧な口調で理由を教えてくれた。
「海様が現役でありましたころはまだ私も自由に姿勢を変えることが出来たのでありますが、海様が病の床につかれていらい、私も自由に動くことができなくなったのであります。」
僕は、そんな彼に反論した。
「でも、君は君なんだろう?自由にすればいいじゃないか。」
「駄目なのであります。私は海様の一部でもあり、海様がわが身をお指し示しなされる場合はその中に私も含まれてしまうのであります。」
「難しいな。じゃあ君はもう動けないのかい?」
「海様の体調の宜しい時には動くことも出来るであります。最近ではそれも減ってしまいましたが。」
「海が死んだら君も死ぬのかい?」
「おそらくそうなりましょう。その時も近そうであります。」
 こんな経緯で、僕と彼は非常に親しくなった。2003年の春。今から思えば、あの年の春は寒かった。

 「昔のこの街はもっともっと寒かった。雪だってちゃんと毎年降った。雪がふると、海さんと空さんが皆真っ白くなってな、それに俺の頭の上も白くなってな、それは綺麗だった。用水路のやつなんかは生まれる前だから知らないだろうけどな。ああ、おめえも生まれる前だもんな。そりゃもう寒かったんだ。それにな、海さん辺りはしょっちゅう暴れてな。まだ今よりも元気だったからな。俺もしょっちゅう怒られたさ。体を揺すって怒ってる海さんはそりゃあ怖かった。俺も、俺より前からいる工場のやつ辺りも海さんが怒るともう静まり返ってな。息を殺して海さんの機嫌が直るのを待ったもんだ。ほかにも色々話があるぞ。用水路のやつが生まれたときの話だ。やつなんてのは、せいぜいおめえと同い年くらいだがな、海さんの仲間が生まれたってんで俺たちは大喜びだったんだ。やつは大物になる。俺たちみんなそれを願ってたんだ。だけどな、やつぁ、可哀想なやつだ。海さんがすっかり体を悪くしちまってなあ、おんなじ仲間だからな、あいつも様子がおかしくなって、今じゃあ俺らなんかよりも落ち着いちまった。今ぐらいが本当なら一番楽しいときなのにな。まだまだ若造なのによ、てめえでてめえのこと老人扱いして、もうすぐ死んじまいます、って面してやがる。可哀想なやつなんだよ。おめえも、分かるだろう?」
 夏の終わりに言葉を交わし始めていらい倉庫も工場もこんなことばかりを言った。僕だって分かっている。用水路のやつが哀れなやつだって分かってる。だけど仕方ないと僕は思っていた。どう頑張っても用水路は大河にはなれないのだ。
「ふむ。用水路君はもうじき死んでしまうだろうね。ふむ。だがね、君。考えてもみなさいな。輪廻転生だ。ふむ。用水路は死して、何か新しいものに生まれ変わるのだろう。ふむ。私とておなじことだ。ふむ。私とていずれ消える。今はこうして語っているがな。ふむ。時間の流れとは悲しいものだよ。だがね、私が消えた跡にはこの場所にもっと素晴らしいものが生まれるかもしれない。ふむ。そういうものだ。なあ君。悲しむことはない。ふむ、どうした?泣いているのか?ふむ、困ったな。」
 工場や倉庫の悲しい話を聞かされた後は、僕は大体、クレーンたちと話にいった。用水路の先、海と密接した部分に並んで建つ彼らは用水路にも、工場や倉庫にもない若さを持っていた。それに、何事につけても積極的で、悲しいことや、考えるとつかれてしまうようなことが大嫌いだった。彼らと話すと僕もいくらか前向きな気持ちになることができた。
「大体よ、ここの連中はみんな真面目すぎるね。二言目には海さん、海さん。その後には決まって、”昔は良かった”みたいなこと言うもんだからな。」
「仕方ない。彼らには僕たちにはない歴史があるんだ。」
僕がそう言うと、彼らは口々に僕の言葉を否定した。
「歴史はしまっておくもんじゃねえよ。作っていくものだ。」
「海さんだって、工場さんだっていつかは消えちまう。そんなのは俺らだって、あんただって同じことさ。考えても仕方ないだろう?」
「僕たちはいずれ消える。だけど用水路はもうすぐ死ぬ。」
「仕方ねえ。運命だ。だけどな、それってそんなに悲しむべきことかい?」
「用水路だって、このまま海さんの言われるがままに”きをつけ”をしてはいられないだろう?」
「その考え方、寂しいな。」
「分かってる。俺たちだって悲しいんだ。」「まあ、なんとかなるさ。」
 最後にはそう言って、いつも三人で泣いた。僕は相変わらずフライドポテトを食べながら。彼らは、その傍らに、幾つもの、これから持ち上げるべき鉄骨を残しながら。彼らだって寂しいのだ。僕だって寂しかった。みんな、同じだった。風が僕や、用水路やクレーンを撫でて言って、海に抜けた。もうすぐ、冬が来ようとしていた。

 用水路が死んでしまったのは、2003年の真冬だった。ある朝僕が早起きをして用水路に挨拶に行くと、用水路は言葉をなくしていた。彼は、もう何も喋ることができなかったし、”きをつけ”もしていなかった。ただ、その体を冬の朝靄の中に投げ出して、ぼんやりとしているだけだった。開いている目は何もみていなかったし僕が投げかけた朝の挨拶はそのままの形で、彼の体の中に吸い込まれていった。工場や、倉庫に話を聞くと、用水路は昨日の夜中遅くに、死んでしまったということだった。その話をしながら、彼らは泣いていた。それに、クレーンたちも、泣いていた。僕は、どうすればいいか分からなかった。ただ、用水路がいないこれからの日々が想像もつかなかった。そして僕は、朝、早起きするのを止めた。朝靄のかかった海なんて、もう二度と見たくなかったのだ。
 
 用水路に蓋がされたのは、2004年春先。澱んでしまった水が腐って、臭いを発しているという近隣住民の要求に基づいたものだった。ぴっちりとしたコンクリートの蓋は、僕に、否応も無く棺桶を思わせた。埋葬された用水路。澱んだ水。クレーンたちが口々に言っていた。
「彼はまだいいさ。」「葬ってもらえる。」
「どうして?」僕は聞いた。
「俺たちは埋葬もされない。」「分解されるだけだ。」
「まだ先の話だろう。」
「でもいずれ来る。」「次は俺たちの番だから。」
 
 時間が流れれば、そこにあるものは少しずつ新しいものに変っていく。当たり前のことだ。自分自身も押し流されているのだから、悲しんでいる暇なんて、そんなにない。クレーンたちが言うように、次に消えたのはクレーンだった。2010年夏。工事が終息に向う中で、まず片方が消えた。冬。もう片方も消えた。後には、埋め立てられた土地だけが残った。彼らは言葉を喋ることができなかった。2018年、倉庫が取り壊された。これからは、地下深くの倉庫から、地下のラインを使って配送するそうだ。倉庫自らがそう言って、僕に説明してくれた。
「新しくなるんだ。悲しむこたぁない。」
分かってる。それでも僕は涙が止まらなかった。
 工場は、その更に10年後。2028年に、地下に移され、完全なオートメーションになった。もう、あの頃の仲間は僕しかいなくなった。僕は40歳になった。工場がなくなり、倉庫がなくなり、クレーンがなくなり、僕が残った。用水路の死から24年のことだ。僕がなくなったら何が残る?きっと、美しく整えられた街が残るのだろう。誰の喋り声も聞こえない街。分かってる。時間は流れるんだ。
 2033年。皆が消えて更に5年後。僕は早起きすると、誰もいなくなったあの場所へ行く。今では、綺麗に区画整理された住宅街だ。僕は、かつて用水路があった場所に行っては、朝靄の浮かび上がる海に向って、返ってくるあてのない朝の挨拶をする。

2007/05/27(Sun)23:24:39 公開 / 村瀬悠人
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改行ミスを修正(2007/5/24)

はじめまして。村瀬悠人です。スランプ脱出の願いをこめて投稿します。
厳しいご指摘をお待ちしております。商業的未発表作ですが、自己サイトにて
既出です。

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