『暑さも寒さも彼岸まで 閑話その一〜三』 ... ジャンル:お笑い 未分類
作者:月明 光                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
閑話その一 無冠の新人

 平日の放課後。
 ポニーテールの少女が、図書室の前の廊下で、深呼吸をしていた。
 図書室に居る文芸部部長に、エッセーを書いて貰えるように交渉する。
 彼女にとって、新聞部で初めての大きな仕事だ。
「こ、ここで緊張してどうするっスか、私……」
 自分で、自分に言い聞かせる。だが、息は乱れたままだ。
 たった一人で、大事な交渉に行く。
 しかも、今まで他の部員が悉く退いだ、大きな壁だ。
 緊張するのも、無理は無いだろう。
 何度も深呼吸して、覚悟を決めると、彼女は図書室の重たい扉を開けた。


「失礼しまっス」
 静かな図書室に、少女の声が響いた。
 今日は『図書室』として機能していないらしく、カウンターには誰も居ない。
 人が居るとは思えない程の沈黙に、彼女は早くも圧迫感を覚える。
 それでも室内へ踏み入ると、目的の人物らしき人が居た。
 部屋の真ん中辺りのテーブルで、ノートパソコンと向かい合っている。
 あれで、色々と書いているのだろう。
 かなり集中しているらしく、少女の存在にすら気付いていない様だ。
「あ、あの……」
 彼の隣まで行き、少女は怖々と声を掛ける。
「……ああ、失礼。気付きませんでした」
 ようやく、彼は彼女の存在に気付き、彼女の方を向く。
 座っているので判り難いが、身長は百七十後半。
 少し冷たい印象を与える瞳が、特徴的な男性だ。
「文芸部部長の、棗さんですよね?」
「ええ、確かに」
 少女の問いに、棗は簡単に答えた。
「……用件は?」
 そして、淡々と尋ねる。
「あ、あの、私、新聞部の新谷真琴っス。今までに他の部員にも頼まれたと思うっスけど、エッセーを」
「其の件でしたら、もう何度も意思表明しました。帰って下さい」
 真琴が言い切る前に、棗は拒んだ。
 結構キツい口調だったので、真琴は思わずたじろぐ。
 こう言う人だと聞かされてはいたが、想像以上だ。
 かと言って、この程度で引き下がる訳にもいかない。
「他の部員も、悉く突っぱねたそうっスね。せめて、理由だけでも教えて頂けないっスか?」
「私は、貴女方新聞部を信頼出来ません。信頼出来ない連中に渡せる文章抔、書いていません。故に、エッセーは書けません」
 真琴の問いに、棗はやはり淡々と答えた。
「信頼出来ないって……どう言う事っスか?」
「……貴女、御自身の部に就いて何も知らないのですね。まあ、良いでしょう。兎に角、私は貴女方を信頼出来ません」
 質問をうやむやにすると、棗は再びパソコンに向かった。
 高速のブラインドタッチで、画面が黒く塗られていく。
「……もう良いでしょう? 早く退室為されては?」
 真琴の方を向く事無く、棗は突き刺す様に言った。
「そ、そうはいかないっス! 仕事として来た以上、手ぶらでは帰れないっス! それなりの返事を頂けるまで、ここから一歩も動かないっス!」
 そんな棗に、真琴は強く言い放つ。
 これは、自分にとって初めての大仕事だ。
 新人ならではの気力も手伝って、真琴は長期戦を宣言した。
 棗は、面倒臭そうに小さく溜め息を吐く。
「……飽く迄も、其処から動かない積りですか?」
 そして、溜め息混じりに尋ねた。
「はい! 梃でも動かないっス!」
 真琴の答えを聞いて、棗は再び、今度は大きく溜め息を吐く。
 疲れた時のそれではなく、呆れた時のそれだ。
「……まあ、良いでしょう。図書室は本来、生徒総ての物です。其を否定する権利抔、私には有りませんから」
 そう言うと、棗は席を立ち、端の方の机に移動した。
 そこで、再び作業を始める。
 『一歩も動かない』と宣言してしまった真琴は、真ん中にポツンと残された。
 暫く、そのまま時間が過ぎる。
 棗との距離感や静寂に耐えられなくなり、真琴は棗の側に移動した。
「『梃でも動かない』と云いましたよね?」
「……『図書室から』を……前に足して欲しいっス。……隣、座って良いスか?」
「斜向かいなら良いでしょう」


 それから暫く、棗はずっとパソコンに向かっていた。
 その斜向かいの席で、真琴はじっと待っている。
 ふと、資料を探す為に棗が席を立った時、
「あ、あの……」
 真琴が声を掛けた。
「何ですか?」
「他に、部員は居ないんスか?」
 この部屋には、棗しか居ない。
 これでは、部として成り立たない筈だ。
 それとも、部長だけ別室で……と言う様な事なのだろうか。
 群れるタイプではなさそうなので、可能性は高い。
 しかし、
「名前丈の部員が殆どでしてね。部として成立させる為の、苦肉の策とでも云う可きでしょうか」
 棗の答えは、真琴の予想とは違うものだった。
 更に棗は続ける。
「私が、図書室で創作に打ち込む為に作った部ですから、部員なんてどうでも良いんです。偶に、一年の堀さんが来ますけど、彼は読者として有り難い存在ですね。実質、この部は私と堀さんの二人丈です」
 そう言うと、棗は本棚へ向かった。
 静かな図書室に、足音のみが響く。
「一人で、本当に良いんスか?」
 本を探している棗に、真琴は再び尋ねた。
 創作は一人の作業なのだろうが、やはり作家としての仲間は必要な筈だ。
 自分も、『一人で記事を全て書け』なんて言われたら、絶望するしか無い。
 棗は、少し間を置いた後、
「……私が現美研の副部長である事は、知っていますね?」
 質問で返した。
「は、はい……」
 新聞部部員たる者、流石にそれくらいは知っている。
 現代美術研究部、略して現美研。
 四年前にとある生徒が設立し、その厚い人望によって一気に有力な部になった。
 週に一回程集まって、現代の芸術について語り合うのが主な活動。
 ……と言うのは表向きで、『現代の芸術』と言うよりは『PCゲームやアニメ、漫画、ライトノベル』と言う方が正しい。
 それらを『現代美術』と言い張っている辺りが、人気の一つらしいが。
 真琴も、ロリータについて語り合う為に入部を視野に入れた事がある。
「で、それが何か……?」
「現美研の部員を統率する事は、思いの外骨が折れましてね。其の分、文芸部では自由にやりたいんです。この前も、派閥の武力闘争を鎮めたばかりですし」
「そ、そうですか……。……え?」
 真琴が何かに引っ掛かった時、棗は目的の本を見付けた。


 資料を軽く読むと、棗は再びパソコンに向かう。
 真琴が来てから、かれこれ四十分は経ったであろうか。
 ふと、棗がパソコンの電源を切る。
 そして、鞄から魔法瓶と紙コップを二つ取り出した。
 魔法瓶の外蓋を開け、中蓋を開け、中身を紙コップに注ぐ。
 どうやら、中身はココアの様だ。
 注がれている最中にも、湯気が上がる。
「貴女も、如何ですか?」
 二つのうちの一つを、棗は真琴に差し出す。
「あ、ありがとうございまっス……」
 少し戸惑いつつも、真琴はそれを受け取った。
「勘違いしないで下さい。訪ねられた以上、それなりの対応をするのが迎える側の義務ですから」
 そう言うと、棗はココアを少し飲む。
 それに促される様に、真琴もココアを口に注いだ。
 ほんのり甘く、それでいてほろ苦い。
 一見矛盾した要素が、ミルクによって確かに両立していた。
「……美味しいっス」
「そこそこ高級なメーカーのココアを使っていますから」
 真琴の素直な賞賛に、棗は淡々と応じる。
 さっきまでの緊張感が、少し解れる時間だった。
「あの、棗先輩」
「何ですか?」
 ゆったりとココアを飲んでいる棗に、真琴は尋ねる。
「棗先輩は、どうして小説を書いているっスか?」
「そうですね……」
 真琴の問いに、棗は暫く考える。
 十秒程の静寂の後、
「書きたいから書いている、とでも云う可きでしょうか。私の総ては私の為に。其が私の信条です」
 棗はやはり淡々と答えた。


「……さて、そろそろ帰って頂きましょうか」
 真琴がココアを飲み終えたのを見計らって、棗は静かに言った。
「だ、ダメっス! まだ私の用が済んでないっス!」
 ココアの余韻に浸っていた真琴は、少し遅れて反応する。
 机を両手で叩き、椅子から立って身を乗り出した。
 棗は、パソコンの電源を点けて溜め息を吐く。
「私も忙しいんです。本橋さんに頼まれた原稿を、早く仕上げなければなりませんし。貴女に何時までも関わっていられません。帰って下さい」
 そして、淡々と言い放った。
 顔は、起動中のパソコンに向けられている。
 だが、真琴もこのまま黙って引き下がる訳にはいかなかった。
「そうはいかないっス! エッセーを書いて貰う約束をするまで帰れないっス!」
 溌剌を一向に失わない真琴に、棗は再び溜め息を吐いた。
 実は、真琴も内心は焦っている。
 まだ入部して日が浅い真琴には、粘り強さぐらいしか武器が無い。
 ――もう、根比べしか無いっスね……。
 しかし、こう言うタイプの人は、根気だの何だのでは、揺らがない事が多い。
 せめて、自分の人脈が広ければ、無理に正面から挑まずに済むのかも知れないが……。
「……如何しても、ですか?」
「はい。新聞部で初めての大仕事、おいそれと引き下がる訳にはいかないっス!」
 棗に問われ、真琴は自分に言い聞かせる様に言った。
 棗は暫く黙り込み、今日幾度目かの溜め息を吐く。
 そして、徐に学ランのボタンを上から二つ外し、右手を学ランの内側に入れた。
 怪訝な表情を浮かべる真琴を余所に、棗は学ランから手を抜く。
 その手には、黒い物体が握られていた。
 自分の眼前に突き付けられて初めて、それがエアガンである事が判った。
「……ど、どう言う事っスか?」
「話の通じない相手には、多少の暴力も止むを得ない、と云う事です」
 当然の様に述べる棗に、真琴は息を呑んだ。
 エアガンとは言え、威力を侮る訳にはいかない。
 改造エアガンによって、殺人事件が起きた事があるくらいなのだ。
 この距離で額を狙われたら、只では済まないかも知れない。
「部活動を著しく阻碍する者の排除……大義名分は此方に有ります。此以上此処に留まると云うのでしたら、遠慮無く撃ちますよ」
 事務的な、それでいて激しい感情を無理に抑えているかの様な声。
 真琴は、首筋を冷たい汗が伝う感覚を覚えた。
 ココアを飲んだばかりの筈なのに、もう喉が乾いてしまっている。
 棗のエアガンは、真琴のすぐ前で構えられたまま、微動だにしない。
 彼が引き金を引けば、間違い無く自分に命中するだろう。
 だが、真琴は一歩も引かなかった。
「……て」
「…………?」
「どうして、そんな手段に訴えるっスか?」
 恐怖を振り切って、真琴は尋ねる。
 その声は、少し震えていた。
 答えようとしない棗に、真琴は更に続ける。
「話が通じないから暴力なんて、間違っているっス。誰かを傷付ける方法は、最後の……本当の本当に最後の手段でないといけないっス」
「……代替案が有るなら、聞きましょう」
「そ、それは……」
 棗の言葉に、真琴は何も答えられなかった。
 そんな真琴を棗は冷笑し、
「愚かな。代わりの手段も無いのに止められるもの抔、然う然う在る訳が無い」
 見下した口調で言う。
 脆い部分を衝かれた感覚に陥り、真琴は心が痛んだ。
 確かに、棗の言う事は間違っていない。
 今の自分に、代替案は無い。
 だから、自分には何も言う資格が無いのかも知れない。
「でも……」
「……でも?」
「だからと言って、暴力を肯定する事が、正解とは思えないっス。……いえ、正解であってはいけないっス。出来る限り、お互いが傷付け合わずに済む方法を考えないと……。こんな方法で物事を解決しても、お互いの亀裂が広がるだけっス」
 それでも、真琴は退かなかった。
 相変わらず、エアガンは自分に向けられている。
 しかし、それに屈する訳にはいかない。
 日が浅いとは言え、自分は新聞部員。
 ペンが剣に負ける事は、許されないのだ。
 そして、棗が引き金に添えている指に力を込める。
「それでも、私が此の手段を辞さない、と云ったら?」
「……本当にそのやり方が正しいと思えるのなら、撃てば良いっス」
 嘲笑を帯びた問いに、真琴ははっきりと答えた。
 棗は、小さく溜め息を吐く。
 そして、躊躇無く引き金を引いた。
 真琴は、反射的に目を強く瞑る。


「…………?」
 いつまで経っても弾が当たる感覚を覚えず、真琴は不思議に思い、目を開けた。
 眼前にエアガンが映り、一瞬目を瞑る。
 だが、何も発射される事は無かった。
「あ、あの……」
 どう声を掛ければ良いか判らない真琴を尻目に、棗はエアガンを仕舞った。
 ますます訳が解らなくなり、真琴は首を傾げる。
「……どうやら、新聞部も盆暗ばかりではない様ですね」
 独り言の様に言う棗に、真琴は怪訝な表情を浮かべた。
 そんな真琴に、棗はようやく説明を始める。
「御心配無く。弾は入っていませんから。貴女が信頼に足る人物か否かを調べたかった丈です」
「え……どう言う事っスか?」
「……貴女、情報の持つ力の強さ、解っていますか?」
 真琴の問いに、棗は問いで返す。
 真琴が答えを思い付かない事を察すると、棗は話を続けた。
「今の時代、情報の支配力は絶対的な物です。
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌……現代の生活は、情報に翫ばれています。携帯電話やインターネットの導入に仍て、これから更に顕著に成るでしょう。……無論、情報は受取手が自らの意志で選択して然る可き物です。売り物を片っ端から籠に入れる様な真似、誰もしないでしょう? 選択肢が広がる事は、本来は良い事の筈です」
 そこまで言って、棗は一息吐く。
 そして、すぐに話を続けた。
「然し、愚かな民衆は情報を撰ぼうとしない。総て鵜呑みにして、振り回されてしまう。災害時にデマが広がって大騒動に成る事は、決して珍しくないでしょう? 実際、関東大震災の時には、デマに仍て多くの朝鮮人が殺されました。此も偏に、群衆が情報に踊らされたからでしょう。詰り、情報には、愚鈍な民衆を殺人に駆り立てる程の力が有る、と言う事です。そんな危険な物を軽い気持ちで扱う愚者共に、捧げる労力抔有りません」
「わ、私達はそんな事……!」
 棗の言葉に、真琴は反論する。
 目の前で自分の所属している部を軽視されては、流石に黙っていられない。
 しかし、棗はそれを片手で制し、更に続ける。
「残念ですが、事実です。貴女の前に来た部員は、全員退きましたよ。空のエアガンを突き付けた丈で……ね。危険物を扱っているのに、躰を張る度胸も無い。そんな愚者共が新聞を書く抔、片腹痛い話です」
 淡々と事実を述べる棗に、真琴は何も言えなかった。
 彼らを責める訳ではない。自分だって怯えていたのだから。
 それでも、やはりショックだった。
「然し、貴女は違った。思想に相容れない部分は在りますが、其の意志の強さは評価に値します。……貴女なら、信頼出来るかも知れませんね。尤も、未だ新聞部総てを信頼する事は出来ませんが」
 棗の言葉に、真琴は安堵した。
 ほんの少しでも、信頼を得る事が出来たのだ。
 小さな一歩かも知れないが、最初の一歩は大切だ。
 全く信頼されていなかったさっきまでと比べれば、十分な進展である。
 大きく息を吐きながら、真琴は椅子に座る。
 それとほぼ同時に、さっきまで抑え込んでいた恐怖や緊張が溢れ出した。
 一度放ってしまったそれは、もう抑える事も出来ず、真琴の頬を一筋となって伝う。
「少し驚かせ過ぎましたか……ま、悪く思わないで下さい」
「い、いえ……大丈夫っス」
 真琴は、自分でも焦りながら涙を拭った。
 だが、次から次へと溢れてくるので、ますます焦ってしまう。
 そんな時、図書室のドアが開け放たれた。
「ふっ……しかと見せて貰ったぞ」
 そして、少し髪が長い、棗と同じくらいの身長の男性が入ってきた。
「秋原さん、立ち聞きとは頂けませんね」
 棗が、特に怒気を露にするでもなく言う。
「まあ、そう言うな。職業癖とでも言うべきであろうな」
 そして、秋原も特に悪びれる事は無かった。
 ゆっくりと、秋原は真琴の側まで歩く。
「うちの棗が済まなかったな、真琴嬢。涙まで見せられては忍び無い。さあ、俺の胸に飛び込むが良い。その涙もろとも受け止めてやろう」
 そう言いながら、秋原は抱き留める体勢になった。
 真琴は、特にそれに応じる事無く、
「もしかして、現美研の秋原先輩っスか?」
 秋原に尋ねる。
「ほう、覚えられているとは光栄だな」
 秋原は、言葉通り嬉しそうに答えた。
 理想の展開にならなかった事は、どうやら気にしていないらしい。
 だが、それ程掛からずに、その表情は真面目なものになる。
「ところで棗よ。先程棗嬢に突き付けた物、見せて貰えるか?」
「はい……これですが」
 秋原に請われ、棗は学ランの裏から、さっきのエアガンを出した。
 それを確認すると、
「やはり、棗愛用の改造エアガン『八咫烏』か……。市販の物よりも威力を上げ、それなりに怪我を負わせる事も出来る」
 誰にでもなく呟く。
 ――そ、そんなに危険だったんスか……。
 もし、あの距離で当たっていたら。
 そう思うと、真琴は鳥肌が立った。
「……棗。もしも何かの間違いで弾が残っていたら、どうするつもりだったのだ!? これ程にハイクオリティな後輩を、傷物にするところだったのだぞ! ……そして、実際に真琴嬢は泣いてしまった。俺の前で美少女を泣かせる事がどう言う事か……解っておろうな!?」
 そして、秋原は怒気を露にする。
 悍しい何かを感じ取った棗は、額から冷や汗を流した。
「まあ、落ち着いて下さい、秋原さん。美少女の手前、話し合いで解決するのが筋でしょう?」
 棗が、焦りを孕んだ声で言う。
 真琴が初めて聞く声だ。
 どうやら、相当秋原を恐れているらしい。
「ふっ……案ずるな、棗。俺も、ちゃんと『言葉』で終わらせるつもりだ」
「『言葉』……? ま、まさか……!?」
 棗が、初めて動揺を露にした。
 そんな彼を尻目に、秋原は真琴に問う。
「真琴嬢、棗の名前を知っているか?」
「いえ。苗字しか知らないっスけど……」
 真琴は、怪訝な表情で答えた。
 新聞部でも、苗字しか教えて貰えなかったのだ。
 確かに気にはなっていたが……。
「まあ、当然であろうな。俺の情報操作により、奴の名前は易々とは判らぬのだ。……実は、奴の名前は」
「止めろ!」
 秋原の言葉を覆う様に、棗は叫んだ。
 さっきまでの冷静な立ち振る舞いからは、とても想像出来ない。
 そして、エアガンに弾を込め、机を挟んだ向こう側から構える。
 だが、秋原は動じる事も無く、ポケットからハンカチを広げ、真琴の顔を覆う様に被せた。
 真琴がそれを取り払ったときには、棗は後ろ手に縄を縛られ、口にガムテープを貼られている。
「ふっ……この距離で俺に勝てる訳無かろう」
 秋原は、何事も無かったかの様に、さっきと同じ場所に立っていた。
 その手には、棗がさっきまで持っていたエアガンが握られている。
 斜向かいの席に居た棗に秋原が何をしたのかは、どうやら永久に知られそうにない。
「少々邪魔が入ったが気にするな。奴の名は……」
「●□☆◆○! △◇★●▽◎!」
 口を塞がれても尚何かを叫ぼうとする棗。
 名前如きで、果たしてどの様な問題があるのだろうか。
 真琴の脳内を様々な推測が巡るが、どれもしっくりくる事は無かった。
 棗の悲痛な声が煩わしかったのか、秋原は棗から奪ったエアガンを彼に向けて構える。
 弾は彼が装填していたので、あとは引き金を引くだけだ。
 自分の武器を自分に突き付けられ、棗は抗う術が無かった。
 そんな棗を、秋原は鼻で笑う。
「ふっ……少々エアガンに頼り過ぎたのが敗因だ。美少女を傷付けた罪、辱めによって詫びるが良い。……棗広美(なつめひろみ)」
「ひ、ひろみ……?」
 秋原から発せられた言葉を、真琴は不思議そうな顔で繰り返す。
「そう。棗広美だ。広く美しいと書いて、ひろみと読む」
 そして、秋原は封印されていた事実を述べた。
 棗は、世界の終わりの様な表情を浮かべ、その場に座り込む。
 つまり、棗が名前を知られたくなかった訳は……そう言う事だろう。
「あの、秋原先輩。ちょっとやり過ぎじゃ……?」
 すっかり萎れてしまった棗を見て、真琴は怖怖と秋原に声を掛ける。
 自分の為にしてくれた事は解っているし、言葉だけで終わらせてくれた事も解る。
 だが、あれ程のダメージは暴力に等しい。
 自分が泣いてしまったのも、自分が新人である故に緊張してしまったからだ。
 少なくとも、半分以上は自分の所為である。
 第一、自分はこんな事を望んでいない。
「ふっ……構わん。美少女を傷付けた罪は、万死に値するからな。少々痛い目を見て貰わねば、何より俺が納得出来ん」
 秋原は、至って涼しげな表情で言った。
 どうやら、自分の為でもあるようだ。
 全てが終わったので、秋原は棗のガムテープと縄を外す。
 棗は力無く立ち上がり、椅子に身を委ねた。
「……中学の時……女子校の案内が……届きました……」
 何かが、恐らく悪い意味で吹っ切れたらしく、棗は呟く様に自白する。
 悪い事をしてしまった気分になり、真琴は掛ける言葉を探すが、なかなか良いものが見付からなかった。
「教師が新しくなる度に……色々と苦労します……」
 世の中には、生まれてすぐに重い荷を背負う者も居る、という事だろうか。
 段々、棗が哀れに思えてくる。
「両親が『娘』として可愛がったから、一人称が『私』になった事も言ってはどうだ? 一姫二太郎と言うくらいだから、気持ちも解らんではないがな」
 そして、秋原は容赦無く追い討ちをかける。
 徹底的に叩き潰すつもりの様だ。
 更に秋原は続ける。
「最近、お前が『娘』として育てられていた頃の写真を入手してな。今、ここにあるのだが、どうしてくれようか……」
「……!?」
 秋原は、一枚の写真をポケットから取り出し、棗だけに見えるようにした。
 それが目に映り、棗の顔色が変わる。
 だが、まだエアガンは秋原の手に在る。
 抵抗しようにも、棗は両腕をもがれたも同じだ。
 エアガンを持っていた時も完敗だったのだから、尚更の話である。
 その時、真琴が秋原の袖を掴んだ。
 秋原が真琴の方を向くと、懇願の瞳が見上げていた。
「どうした、真琴嬢?」
「もう、その辺にして欲しいっス。これ以上は……只の虐めだと思うっス。それに、私は別に、こんな事をして欲しいだなんて……」
「……そうか」
 棗の要求を素直に受け入れ、秋原は写真をその場で破いた。
 そして、エアガンも棗に返す。
 それを見て、真琴は胸を撫で下ろした。
「真琴嬢の慈愛に感謝するのだな」
 秋原は棗に言い放つ。
 棗は特に応じる事無く、エアガンを仕舞った。
 プライドをズタズタに裂かれたらしく、暫くは立ち直れそうになさそうだ。
「……と言う訳で、エッセーに関しては良い返事を期待して良いぞ」
 最終的に、秋原が纏めた。
 用が済んだので、真琴は新聞部への報告の準備をする。
 色々とあったが、何だかんだで大仕事を果たす事が出来たのだ。
 これは、素直に喜んで良い事の筈である。
 そう思うと、ようやくテンションがいつも通りに戻ってくる。
 荷物を整えた時には、すっかり笑顔に戻っていた。
「色々とありがとうございましたっス♪ ……棗先輩、聞かなかった事にしますから、早く立ち直って欲しいっス」
「うむ。やはり美少女は笑顔に限るな」
 満足げに頷く秋原と、ショックから立ち直れない棗を背に、真琴は出口へと向かう。
 ドアを開けたところで、秋原は真琴を呼び止めた。
「さっきので解ったであろう、真琴嬢。暴力だけが『暴力』とは限らんのだ。それを理解した上で、もう一度、自分と自分の周囲を見渡してみよ」
「は、はい……?」
 怪訝な表情を浮かべて、真琴は図書室を出ていく。


「……やれやれ、私はモルモットですか」
 暫く経った後、棗はようやく立ち直った。
 そして、溜め息混じりに言う。
「まあ、そう言ってくれるな。これも彼女の為だ。……無論、お前への罰も兼ねているがな」
 秋原は、やはり悪びれる様子が無かった。
 どうやら、美少女至上主義が当然だと思っているらしい。
 フェミニストとは似て非なる存在だから、尚更迷惑だ。
「貴方が名前を知っていたという事は、やはり彼女が……?」
「うむ。彼女こそ、腐敗した新聞部の光明に成り得る筈だ」
 棗の問いに、秋原は真面目な表情で頷いた。
 その答えに、棗は大きく息を吐く。
「ま、彼女は確かに真っ直ぐです。よくあの部に入部出来たものです。良く云えば素直、悪く云えば……愚直、ですね」
「やはりそう思うか。俺も、その辺りは少々不安だ。まあ、あれくらいの劇薬でなければ、あの部は直りそうにないがな」
 棗の指摘に、秋原は溜め息混じりに応えた。
 棗は席を立ち、図書室内を歩く。
 二人しか居ない閑散とした室内に、一人分の足音が響いた。
「あの性格から勘えるに、何れは、己の内に在る唾棄す可き感情を受け入れられずに……」
 そう言いながら、棗は壁に掛けられている鏡の前で立ち止まる。
 鏡の奧には、紛れも無い自分が映っていた。
 身動ぎ一つでさえ忠実に、気味が悪いくらいに対象である。
 秋原は、黙って頷くだけだった。
「で、そんな彼女を面倒見ると?」
 そして、棗は半ば呆れながら問う。
「ああ。我々が支えてやらねばなるまい」
 秋原の答えに、棗は溜め息を吐いた。
「……ま、利益の無い労働には慣れましたけどね」
 そして、溜め息混じりに愚痴っぽく言う。
「そういう訳だ。なっちゃんには、エッセイストとして関わって貰いたい」
「ま、拒否はしません。……後、なっちゃん云うな」
 棗が咎めるが、秋原は特に気にしなかった。
 こうして、今日も放課後は黄昏の色に染まっていく。


「何故なっちゃんが気に入らんのだ? 折角幼馴染に命名されたのだ、大事にしろ」
「誰も彼も、何故に私を萌えキャラの如く扱おうとするのでしょうか……愚かしい」
「なら、別の愛称も考えてある。『なっち』『なっちん』『ひろみん』『HIR☆OMI』等々……。選択の自由くらいは与えてやる、選ぶが良い」
「……なっちゃんを撰ばせて下さい。お願いします」
「解れば良いのだ」



無冠の新人 完



閑話その二 嘘から出た真琴

 土曜日の夕方。
 サッカー部の試合の撮影や取材を済ませた真琴は、部室に帰還した。
 部室の奥の部長席で、部長が机に肘を突いて座っている。
 そして、冷静と高慢を混ぜた様な態度で、真琴を迎えた。
 どうやら、他の部員は全員帰ったらしい。
 それでも彼女が真琴を待っていたのは、
「新谷さん、話って何かしら?」
「この前の……返事っス」
 真琴が仕事に行く前に頼んだからだ。
「そう。……で、それは私が喜ぶ返事かしら?」
 部長は椅子の背にもたれ、真琴に尋ねる。
 背にしている窓から差し込む斜陽が、彼女の長い髪を紅く染めていた。
 真琴は、予想以上に強く込み上げてきた緊張に、思わず息を呑む。
 彼女が用意している答えは、部長が望む答えではないからだ。
「わ……私は……」
 半ば無理矢理口を開くが、続きが出てこない。
 あの日からずっと、この答えを出せる日を待ち望んでいた筈なのに。
 アリスが転校してきた日からずっと、決意が揺らぐ事は無かったのに。
 自分を支えてくれる存在に気付いた日からずっと、それに応えようと思っていたのに。
 ――だ、ダメっス! 弱気になっては……。
 気持ちで負けてしまっては、何事も為し得はしない。
 既に地位では負けているのだから、尚更だ。
 大丈夫。自分は一人ではない。
 自分の後ろには、沢山の味方がついている。
 だから、自分はそれに応えなければ。
「私は……私は……」
 拳を強く握り締め、荒れる呼吸を少しでも整える。
 そして、
「……私は、裏新聞には助力出来ないっス。報道は、人に公平で有益な情報を提供するのが義務っス。人を不当に傷付ける活動なんて、私達がすべきではないっス」
 淀みの無い、真っ直ぐな声で述べた。
 今思えば、新人の頃から変わらない思想だ。
 ……否、少々語弊があるので、新人の頃と同じ思想、に修正する。
 散々迷って、ようやく元居た場所に戻ってくる事が出来たのだから。


「そう……なるほど、ね」
 真琴が答えを出して十数秒後、部長は冷静に対応した。
 賞賛する訳でもなく、咎める訳でもない口調だ。
 予想外の第一声に、真琴は胸を撫で下ろす。
 部員生命を断たれる覚悟もしていたので、寧ろ拍子抜けするくらいだ。
 だが、部長は冷たい笑みを浮かべ、指をパチンと鳴らす。
 それから数秒後に部室のドアが開き、男子が続々と入ってきた。
 真琴は、訳の解らないままその様子を眺める。
 彼らは、真琴の周りを囲む用に並んだ。
 八人目がドアを閉め、鍵を掛ける。
 部長は満足げな表情を浮かべ、両手を組んで、真上に伸ばした。
 閉じ込められた事に気付き、真琴は心臓の鼓動が強くなるのを感じる。
 よくよく見ると、彼らには面識がある。
「部長……何で運動部員がこんなに……?」
「残念だわ、新谷さん。貴女なら解ってくれると思っていたのに。……それとも、まだ本気で思っているの? 報道は正義、情報は真実、新聞は方正……だなんて」
 真琴の問いに、部長は問いで返した。
 見下す様に、蔑む様に、そして哀れむ様に。
 静かな圧力に、真琴は冷や汗が伝う感覚を覚えた。
「と、当然っス! 人を正しい方向に導く手伝いをするのが、情報を扱う者の務めっス!」
 それに押し潰されないように、真琴は強く言い放つ。
 そんな真琴を、部長は冷ややかに笑った。
「貴女は本当に無垢ね。ここまでくると、世間知らず……かしら。何の為に、そこまで正義に拘るの? そんな綺麗事守ったって、利益なんて僅かでしょう?」
「報道に、圧倒的な力があるからっス! 強い力だからこそ、正しい使い方を徹底しないといけないからっス!」
 周囲を囲む運動部員の視線が気になりつつも、真琴は自分の気持ちをぶつける。
 部長は、頬杖を突いて溜め息を吐いた。
「私のやり方は間違っている……とでも言いたいのかしら? 私は只、需要に応えているだけじゃない。皆が買うから売っているのよ。私達は大きな収益を得て、購読者はプライバシーの向こう側を見て満足する。とても理想的な関係だと思わない?」
 一見正論に聞こえる言葉に、真琴は一瞬黙り込む。
 だが、真琴は、身を以てその意見の誤りを知っている。
 自分が受けた痛みは、自分が与えた痛みと同じ。
 だから、自分と同じ過ちを、これ以上誰にもさせたくない。
「需要の為にプライバシーを覗かれる側はどうなるっスか!? 誰かを蔑ろにする様な記事なんて、報道とは呼べないっス!」
 強く握り締めた拳を前に構え、真琴は激しく反発した。
 部長は、面倒くさそうに伸びをして、
「そう。じゃあ、これ以上の話し合いは無駄ね。……ところで新谷さん。さっきの質問に答えてあげるわ」
 再びパチンと指を鳴らした。
 それに反応して、男子達は躊躇いがちに、少しずつ真琴に詰め寄っていく。
 その様子は、まるで勢子の様である。
 徒ならぬ雰囲気に、真琴の頭から血が引いていった。
「悪く思わないでくれ、新谷さん。彼女に逆らったら、俺達は……」
 その内の一人が、言葉通り済まなさそうに言う。
 躊躇しながらも、確実に感覚を狭めていく。
 彼の一言で真琴は全てを悟り、怒気に満ちた瞳で、部長を睨み付けた。
 部長は、それすらも嘲笑う様な表情だ。
「言って聞かない人は、身を以て理解して貰うだけ。他の部員なら、首だけ飛ばしてお終いだったと思うけどね。
貴女みたいな有力な反乱分子は、早めに芽を摘んでおかないと。覚えておきなさい。言葉を突き通す為には、それなりの後ろ盾が必要なのよ。……さて、その愚直で頑迷な精神、徹底的に矯正してあげるわ。徹底的に恐怖を植え付けて、二度と逆らえない身体にしてあげる」
 そして、冷徹と嘲笑を混ぜた様な声で言った。
 改めて、真琴は激しい憤りを感じる。それと同時に、恐怖も。
 このままだと無事では済まない。
 目的の為なら手段を選ばない。それが部長なのだから。
 この男子達も、弱味を握って操っているのだろう。
 そして、次は自分を操ろうとしている。
 一瞬、素直に降伏する選択肢が浮かんだ。
 恐らく、無傷で済ませるにはそれ以外に無い。
 一人で部室に入った時点で、自分は部長の掌に在ったのだから。
 ――でも……。
 ここで尾を振る事は簡単だ。それで自分は救われるだろう。
 だが、それでは意味が無い。
 全てをかなぐり捨てる覚悟で部長に抗ったのは、彼女の顰蹙を買う為ではない。
 自分が貫くべきものは、自分が守るべきものは……。
「私がそんな手段で屈すると本気で思うのなら……好きにすれば良いっス」
 一歩も退く事無く、真琴は言い放った。
 打開策が浮かんだ訳ではない。殆ど強がりで出た言葉だ。
 だが、身を挺してでも心を守りたかった。
 そして、支えてくれる人達に応えたかった。
 冷たい笑みを浮かべて、部長は三度指を鳴らす。


「其処迄です」
 突然、開く筈の無い背後のドアが開く音がした。
 それと同時に、聞き覚えのある淡々とした声が聞こえる。
 自分の後ろに居る人を見て、男子達はたじろいだ。
 二人分の足音が室内に入り、真琴の両側で止まる。
「秋原先輩!? 棗先輩も!?」
 真琴は、心底驚きながら、両隣の男性を交互に見る。
「ふっ、俺に常に美少女の味方だ」
 余裕たっぷりの発言の後、秋原は真琴に仇なそうとしている者全てを見渡す。
 椅子に座っている部長を除いて、全員が後退った。
「ま、何れ私にも利益が廻るでしょう」
 自分に言い聞かせる様な発言の後、棗は部長に向けてエアガンを構える。
 部長は、眉一つ動かさなかった。
「確かにドアには鍵を掛けたし、合い鍵も確かに私が持っているのよ。どうやって入ってきたのか、答えてくれるかしら?」
 そして、淡々と尋ねる。
「ふっ……鍵は二つ付けた方が、ピッキング犯は諦め易いぞ」
 それへの返答なのか、秋原は指摘した。
 その手に持っているのは、一本のヘアピン。
 男子達を再び見渡し、秋原は告げる。
「今、我々に降れば、俺の情報操作の庇護下に置いてやろう。もし、これ以上新聞部に味方するのなら……」
 棗が、もう片方の手でエアガンを構えた。
 一人の男子に狙いを定め、数秒間隔で狙いを変えていく。
 まるで、エアガンに標的を選ばせている様だった。
 いよいよ男子達は顔を真っ青にして、ドアへと走っていく。
 廊下を走る沢山の足音が聞こえ、小さくなり、そして聞こえなくなった。
「貴女が暴力を後ろ盾にすると云うのでしたら、私達も然うさせて頂きます」
「あ、あの、棗先輩……」
 当然の様にエアガンで威嚇する棗に、真琴は躊躇いがちに声を掛ける。
 危機を助けて貰った確かに感謝すべきだが、これは少しやり過ぎだ。
 彼のエアガンは、威力を大幅に増した改造エアガンだから、尚更である。
「ふっ、案ずるな真琴嬢。棗も無闇に撃ちはせん。目には目を……だ。それに、これは俺達が勝手にした事。真琴嬢には一切責任が無い」
 そんな真琴に、秋原が応えた。
 反論の余地が無く、真琴は黙り込む。
「十六夜の使徒に無傷の闘神まで……私も有名になったものね」
 部長は、やや自嘲気味に呟く。 
 今までも似た様な事があったのか、動揺する様子は一切無かった。
「言っておくが、俺と棗だけではないぞ」
「……どういう事?」
 部長の眉が、初めて動く。
 秋原は、どこからかノートを取り出し、適当なページを開いた。
 黒でびっしりと埋められている白い筈のノートが、部長の目に映る。
 何度か捲るが、全て同じ様に真っ黒だった。
「将棋部、文芸部、現代美術研究部、新聞部の裏新聞反対派、その他現在の新聞部を快く思わぬ者。約四百名の署名だ」
 秋原は静かに、且つ力強い声で言う。
 続ける様に、棗が述べる。
「此は、既に生徒会に受理されました。仍て、私達の要求は強制力を持ちます」
 そして、探偵の解決編の様に、秋原は人差し指、棗はエアガンを向けた。
 二人同時に、同じ台詞が放たれる。
「新聞部部長の退部、及び裏新聞の無期発行停止を要求する」


 暫くの間、重たい空気が真琴の双肩にのし掛かる。
 息苦しい程の沈黙が、部屋中を包んでいた。
 否、もしかしたら、そう感じているのは真琴だけかも知れない。
 秋原と棗が、自分を助けてくれた。
 四百人もの署名を集めて、部長に退部を要求した。
 どれもが、自分にとって驚くべき事だ。
 自分の知らないところで、一体何が起こっていたのだろうか。
 きっとそれは、一時期自分が苦痛を隠していた様に、隠されていたのだろう。
 そんな真琴とは対照的に、部長は冷静だった。
 流石に眉一つ動かさない訳にはいかないが、彼女の置かれた状況を考えれば、余りにも冷静だった。
 まるで、初めからこうなる事を知っていたかの様な振る舞いだ。
「……訊いても良いかしら?」
 ようやく発せられた言葉は、やはり冷静なものだった。
 沈黙を肯定と解釈したらしく、彼女は話を続ける。
「何故、新谷さんの肩を持つの? 詳しい話を聞かせてくれない?」
「ふむ……『肩を持つ』は少々語弊があるかも知れんな」
 呟く様な秋原の言葉に、真琴と部長は怪訝な表情を浮かべた。
 それに答える様に、棗が続ける。
「最近の新聞部の横暴には、多くの者が不満を抱いていました。誰かが如何にかしなければならない、とも。……ま、こういう役割は、大抵私達が担うのですがね。私も、若し巻き込まれたら面倒だと思ってましたし」
「だが、武力行使はなるべく避けたかった。欲を言えば、新聞部の良識派に自浄して貰いたかった」
「其の所為で、こんなに長引いてしまったんですけどね……」
 棗は、溜め息混じりに呟いた。
 当の秋原は、もちろん悪びれる気配が無い。
「新聞部内でも、裏新聞には賛否両論の様でしたから、先ずは反対派を煽る事にしました。しかし、如何しても上手くいきませんでした」
「大きな出来事には、先駆けとなる存在が必要だ。……もちろん、その様な存在がなかなか出て来ないからこそ『大きな出来事』になるのだが」
 そう言って、秋原は真琴の頭にポンと手を置く。
 真琴は一瞬驚いたが、特に嫌悪感を露にしない。
「で、俺の目に留まったのが真琴嬢だった、という訳だ。溢れんばかりの正義感、力に屈さぬ若さ、慈愛の心、萌え戦闘値、全てにおいて彼女は完璧だった」
 明らかに無関係な言葉が混じっていたが、この空気では誰も気に留めない。
 この場に藤原が居れば、そうでもないかも知れないが。
「新谷さんを支え、煽り、新聞部の現状を砕く先駆けに仕立て上げる。其れが、秋原さんの計画でした。正直、私は乗り気に成れませんでしたけどね。真っ直ぐな人は、下手に曲がると矯正出来ませんから。私独自で彼女を試して、どうにか認めてあげましたが」
 棗の言葉で、真琴は少しずつ事の次第を飲み込み始めた。
 つまり、自分は、初対面の時には既に、彼らの意のままに動かされる事が決まっていたのだ。
 確かに、それなら『肩を持つ』は語弊がある。
 無論、自分の行動は自分で決めた事で、それに不満は無い。
 そう思う事すらも彼らの計算の内かも知れないが、今は置いておこう。
 それよりも何よりも、真琴が気になる事は……。
「秋原さんがだらし無い所為で、少々計算違いな事も起きてしまいましたがね」
「まあ、人間のやる事だからな。だが、それも怪我の功名となった。過ちを己が力に出来る人間は、意外と少ないがな」
 二人の会話で、以前の過ちが頭を過り、真琴は胸が少し痛む。
 それすらも『計算』として話された事に、尚更。
「じゃあ、新谷さんが今日した事も、計算の内なのかしら?」
 部長が、更に二人に尋ねる。
 言われてみれば、今日の行動については誰にも口外していない。
 なのに、どうして助けに来られたのだろうか。
「否、予想より早く行動されたから焦ったな。だが、準備は殆ど整っていた。真琴嬢が裏新聞への荷担を拒んでいたお陰で、署名も早く集まったしな」
 そんな二人に、秋原はあっさりと述べる。
 最後の一言は、真琴の方を向いて言った。
 その表情は、部長に向けるそれとは違う、優しいものだった。
 そして、すぐに部長の方を向き直す。
「さて、もう良かろう。その椅子から立て。もう座る権利は無いのだからな。これ以上の抵抗は無意味だ。あと十分連絡しなければ、将棋部や現美研から数多の援軍が来る。……その前に、なっちゃんが貴様を撃つだろうがな」
 それは、真琴に向けたものとは真逆の表情だ。
 棗は、小さな声で「なっちゃん云うな」と呟く。
 暫くの沈黙の後、部長は大きく溜め息を吐いた。
 銃を突き付けられた時の様に両手を挙げ、席を立つ。
「……私の負けね」
 溜め息混じりに、部長は呟いた。



 余りにも呆気なく降伏され、逆に戸惑っている三人を尻目に、部長は彼らの側を横切り、出口へと歩いていく。
「十分に稼がせて貰ったし、そろそろ潮時が来ると思っていたから。この娘みたいに信念が有る訳でもないし、もう未練は無いわ」
 あっさりと述べ、彼女はドアを開け放った。
 だが、その足は外へと踏み出さない。
 部室と廊下の境目を前にして、彼女は一歩も動かない。
 怪訝な表情を浮かべ、真琴が声を掛けようとした時、
「……あれは、私が小学生の頃だったかしら……」
 部長が、誰にでもなく呟いた。
 三人に背を向けたまま、彼女は続ける。
「私が異変に気付いたのは、夕食の時間になっても父が帰って来なかったからだった。学校から帰ってから殆ど何も話さない母に、私は勇気を出して尋ねたわ。母は暫く黙ってたけど、『今日は忙しいから帰れない』って答えた。そんな訳無い事は子供ながらに判ってたけど、それ以上言及出来なかった。でも、次の日も、その次の日も、更に次の日も、父は帰らなかった。だから、未だに会話に積極的にならない母に、私は問い質した。ずいぶん躊躇したけど、とうとう母は答えたわ」
 それから、部長は少し間を置いた。
 もしかしたら、躊躇っていたのかも知れない。
 だとすれば、彼女の母も、これぐらい躊躇ったのだろうか。
「……冤罪。朝の満員電車で濡れ衣を着せられて、そのまま留置所行きですって。訊きたい事はまだまだ有ったけど、母はそれ以上何も言わなかった」
 淡々と述べたその表情は、彼女以外には知る由も無い。
 あくまで『冤罪』としか言わなかったが、朝の満員電車で掛けられる容疑は……恐らくそうなのだろう。
 濡れ衣の名前など、口にもしたくない筈だ。
 彼女の母も、同じ様に思っていたのかも知れない。
「あの頃の私には、『えんざい』の意味なんて解らなかった。母も、それを承知で、敢えてそう言ったのかも知れない。でも、『えんざい』の弊害が影を落とし始めた事は、すぐに判った。 ……まず、近所を歩いていると、周囲の人がひそひそと話をする様になった。私には内容が良く解らなかったけど、それでも胸を突かれる様な痛みを覚えたわ。それから間も無く、学校にも影響が及んだ。 皆が少しずつ私から離れていって、友達も私を避ける様になった。最初はそれだけだったけど、日を追うにつれて酷くなっていったわ。ノートや鉛筆がいつの間にか使い物にならなくなっていたり、当番でもないのに掃除させられたり、置き傘が無くなっていたり、上靴が片方だけゴミ箱に在ったり……」
 声に、怒気は無かった。
 だが、拳は確かに怒りを握り締めていた。
「そんな生活が、ずいぶんと長く続いたわ。母も似た様な目に遭ってたらしいし。死んでやりたいとも、本気で何度か思った事がある。それでも生きていたのは、『えんざい』に尾を振る様な真似だけは出来ないと思い直したからでしょうね。父が『えんざい』から解き放たれた時には、私の学年も変わっていた。最後に見た父とは、少し違う人に見えた。でも、ようやく誤解が解ける。安穏な生活を、家族全員で過ごせる。帰って来た父に抱き付きながら、私はそう確信していたわ」
 そこまで言って、部長は少し黙る。
 文脈から考えて、辛い展開が待っているのだろう。
 居た堪れなくなって何か言おうとした真琴を、秋原と棗が片手で制した。
「……けど、私達の平穏は戻らなかった。父の無罪は証明された筈なのに。根拠の無い誤った情報はすぐに広まったのに、正しい情報は全く浸透しなかった。父は職を追われたし、生活は一向に元に戻らないから、仕方無くこの萌月市に引っ越したの。生活は苦しくなったし、父も再就職には苦労したそうよ。……だから、私は悟ったの。人が知りたいのは、正しい情報なんかじゃない。正誤や善し悪しなんて関係無く、退屈で枯渇した心を潤してくれる情報なんだって」
 その言葉は、淡々と放つには余りにも悲壮に満ちていた。
 負の感情を纏った何かに信念を揺さぶられる感覚を覚え、真琴は胸が苦しくなる。
「この高校に入学した時に、裏新聞の存在を知ったわ。生徒や先生に関する至極どうでも良い情報を、プライバシー犯して掲載しているって。正直、落胆したわ。どこにでも、どの世代でも、そんな事に興味を持つ馬鹿は沢山居るんだって。……その時に、ふと頭を過ぎったの。これを利用しない手は無いって。情報の善し悪しを選べないろくでなし共の所為で、私の家庭は崩壊寸前に陥った。だから、今度は私がそいつらを使って、『割の良いバイト』でも始めよう。新聞部に入部したのは、それが切っ掛けよ。半分は気まぐれかしら。すぐに裏新聞への助力を申し出て、下積みをしながらその恩恵を貰っていたの。若い連中は抜きん出て馬鹿だから、情報の正誤や善し悪しに関わらず、面白そうな記事には食いついてくれた。何回か潰されかけた時も、そいつらのお陰で何度でも復活したし、収入も安定した。わざわざ高いお金を出して、価値の無い情報を買ってくれるんだから、本当に購読者様々よね。そして、私は部長にまでのし上がり、大きな収入と権力を手にしたって訳。……今日まで、ね」
 一通りの話を終えて、部長は大きく息を吐いた。
 色々な感情が混ざって、真琴は目が潤んでいる。
 秋原と棗は特に変わり無いが、その心中までは察し兼ねる。
「……これで解ったでしょ、新谷さん。貴女が望んでいる事が、皆の望みって訳じゃないのよ。私に反感を抱く人は大勢居るけど、私を支持してくれる人も、それに劣らないくらい居るの。……ストレートに訊くわ。貴女の信じている『正義』は、本当に『正義』なの? 本当は只の独り善がりじゃないの?」
「そ、それは……」
 部長に尋ねられ、真琴は言葉に詰った。
 彼女の話を聞いた後では、自分の言葉に説得力を感じない。
 今、自分が主張しているのは、本当に『正義』なのだろうか。
 彼女が抱えていた闇も知らなかったのに、自分に『正義』を主張する権利は有るのだろうか。
 一度感化された信念は、瞬く間に崩れていく。
「確かに、『正しい事』なんて物は無いのかも知れん。善悪も、所詮は人が決めた価値観だからな」
 そんな真琴に代わるかの様に秋原が話を始め、真琴は彼の方を向く。
「人間、誰にも憎まれずに行動する事など出来ん。今回、貴様が部を追われたのも、その人数が通常よりも少し多かったからだけかも知れん。……だが、俺は真琴嬢を信じる。この署名に名を連ねる者達も、同じであろうな。だから、少なくとも独り善がりではない。彼女を支持する者が一人でも居る限りはな。……さて、これ以上真琴嬢を無闇に惑わせるのなら……」
 秋原の言葉に応える様に、棗がエアガンを部長に構えた。
 部長は振り向く事無く、溜め息を吐く。
 それには、嘲笑が含まれていない様に感じた。
 少なくとも、真琴は。
「もう、貴方達の正義ごっこには付き合ってられないわ。後は勝手にしなさい。……良かったわね、新谷さん。貴女を支持する綺麗事好きが沢山居て。ま、貴女がこれからどうするのか、適当に傍観させて貰うわ。精々期待に応えてあげなさい」
 部長は淡々と述べ、境目を踏み越える。
 彼女の言葉が被った仮面の裏側が垣間見えた真琴は、彼女を追い掛けようとするが、片手で制された。
「さっきまで敵対していた側に付く気? ……本当、貴女って人は愚直ね。それとも、無垢って言えばいいのかしら? そんな真面目な事ばっかりしてないで、もっと快楽に走れば良いのに。……もし、世の中が貴女みたいな世間知らずばっかりだったら……私は……」
 そこから先の声は、余りにも小さすぎて聞こえなかった。
 真琴が止めようとするよりも早く、部長はその場を去っていく。


 土曜日の夕方。
 夕日に染められた三人が、帰路に着いていた。
 真琴は、自分の主張が通った筈なのに、少し沈んだ表情をしている。
 遣る瀬無い感情で満たされた心は、自然と溜め息を吐き出した。
「部長……あんな過去が有ったんスね……」
 誰にでもなく、真琴は呟く。
 自分は、情報の持つ正義を信じている。
 だが、部長は情報によって傷付き、情報でその報復を果たそうとした。
 本当の正義とは、何なのだろうか。
 自分がすべき事は、何なのだろうか。
「ま、今に始まった事ではありませんよ。昨今の凡庸な連中は、情報を撰んだりはしませんから。その癖、勝手に堕とした評判を訂正するのは難しいと云う……勝手な話です」
 そんな真琴に、棗は淡々と述べた。
 初対面で言われた言葉が、今になって再びのし掛かってくる。
 与える側と受け取る側。片方でも好い加減なら、情報は意味を成さないのだ。
「それを変える為の一歩が、今日の一件であろう。まだまだすべき事は沢山有る。彼女を気遣うのはその後だ」
「……え? どういう事っスか?」
 秋原の一言に、真琴は怪訝な表情を浮かべた。
「そうか……真琴嬢は、裏新聞への荷担を拒否したいだけだったな。だが、事実として、部長は退部した。これは大きな事だ。次の部長を考えねばならんし、部の方針も考えねばならん。二度と、裏新聞などという過ちを繰り返さぬ様、最大の努力をせねばな」
 そう答え、秋原は腕を組んだ。
 真琴は、改めて改めて事の大きさを自覚する。
 自分は、こんな事を望んではいなかった。
 裏新聞への荷担さえ拒否出来れば、それで良かった。
 だが、それは、秋原や棗に守って貰えたからこそ言えるのだろう。
 この二人とは言え、全員を守るなんて出来なかった筈だ。
 だからこそ、部長を退部に追い込んだのだろうが。
「ま、少なくとも一段落はしたでしょう。これで一息吐けますね」
「まあ、な。今のところ、俺の計画も順調だ。このまま、怪我人が出ぬ内に済ませたい」
 秋原の答えを聞きながら、棗は両腕を上に伸ばした。
 ふと、真琴が一人立ち止まる。
「……あの、先輩」
「どうした、真琴嬢?」
 数歩先で二人が立ち止まり、振り返って尋ねた。
 呼び止めたのは良いが、次の言葉がなかなか出て来ない。
 何度も躊躇して、深呼吸をして、
「お二人にとって、私は何なんですか? 計画の為の駒っスか? 計算の一部っスか? 新聞部の建て直しが済んだら、私はお払い箱っスか?」
 一息で言い切った。
 部室に居た時から、ずっと気に掛かっていた事だ。
 果たして、自分は二人にとっての何なのだろうか。
 計画を円滑に進める為の、都合の良い人形なのだろうか。
 将棋部で藤原やアリスと一緒に、取材を通り越して談笑した事も、文芸部で、冷たい対応とは裏腹に、いつも温かいココアを振る舞ってくれた事も、全て、自分を思い通りに動かす為の行為だったのだろうか。
 少なくとも自分は、仕事の相手以上の関係だと思っていたのに。
 秋原となら、ロリータの話も気兼ね無く出来たのに。
 冷徹な棗の裏側が、少しずつ見えてきた気がしていたのに。
 そんな真琴に、秋原は小さく笑った。
「ふん……何を云い出すかと思えば。秋原さんに駒として遣われる丈でも有り難」
 棗の台詞が唐突に切れる。
 それに真琴が気付いた時には、棗はその場に横たわっていた。
 何故か、鳩尾と股間を押さえて悶えている。
 真琴が心配を掛けるよりも早く、
「なっちゃんはこう見えてツンデレだからな。先程の言動は気にしないで貰いたい」
「は、はい……」
 秋原がフォローを入れた。
 更に秋原は続ける。
「確かに、真琴嬢を駒として利用したのは事実だ。最も平和的で民主的な手段として期待していたからな。そして予想通り、隠れ反対派を煽動してくれた訳だ。利用してしまって済まなかったな。だが、この計画は全て俺の独断だ。なっちゃんやその他は責めないでやってくれ」
 そう言って、秋原は頭を下げた。
「しかし、それは切っ掛けの一つに過ぎん。俺も、棗も、その他の連中も、真琴嬢の実直さに惹かれたのだ。紛れも無く、真琴嬢は大切な存在だ。駒としてでなく……仲間としてな」
「先輩……!」
 秋原の言葉に、真琴は胸の奥が熱くなる。
 どうやら、只の考え過ぎだった様だ。
 自分は、ちゃんと必要とされている。自分の信念が、支持されている。
 自分の側に付いてくれた人が、何百人も居る。
 そして、身を挺して自分を守ってくれる二人が居る。
 もし、今、正義を貫く理由を尋ねられたら、答えは――
「そうであろう、なっちゃん?」
「だ、誰が……仲間だなんて……」
 悶えながらも、棗は秋原の問いを否定する。
 秋原は一瞬冷たい笑みを浮かべ、真琴の方を向いた。
「実はな、真琴嬢。なっちゃんは昔、駅前の」
「わかりましたそうですねええはいあなたはだいじなだいじななかまですよ」
 秋原の言葉を覆う様に、棗は棒読みで述べる。
 判れば良いのだ、と言わんばかりに、秋原は頷いた。
 棗は舌打ちをして、鳩尾をさすりながら立ち上がる。
 そんな遣り取りを知らない真琴は、心底嬉しそうな表情だ。
「恐らく、部の構造が安定するまでは、裏新聞肯定派の抵抗が続くであろうな。真琴嬢も、例に漏れず狙われるであろう。だが、決して相手に屈してはならん。真琴嬢さえ挫けなければ、俺や棗が、誰が何人相手であろうが、必ずや守り抜こう」
「はい! 正義は決して屈しないっス!」
 真琴は、いつも通りの汚れ一つ無い笑顔で応えた。


 ――自分を支えてくれる人達の為。そして、目の前に居る二人の為に。



嘘から出た真琴 完



閑話その三 渡る世間は夢ばかり

「光様、朝ですよ。起きて下さい」
 明の声が聞こえ、藤原は目を覚ました。
 目を薄く開き、ぼんやりと目前の状況が映る。
 そこには、自分と同じベッドに横たわり、こっちを見つめる明が居た。
 慈しむ様な瞳で、柔らかい微笑みを浮かべている。
「……って、明さん!?」
 突然の状況に、藤原は驚きを隠せなかった。
 明は毎朝起こしてくれるが、こんな起こし方はされた事が無い。
 雷の夜は同じ部屋で寝るものの、流石にベッドまで同じではない。
 一体何故、こんな事をしたのだろうか。
 そんな藤原を余所に、明は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「光様の寝顔を、暫く見ていました」
「そ、そう……」
 訳も解らないまま、取り敢えず返事をする藤原。
 明は立ち上がり、手で軽く髪を整えた。
 艶やかなその髪は、とても簡単に纏まる。
 カーテンを開けると、朝の日差しが部屋を照らした。
 明は少しの間窓の外を眺め、藤原の方を向く。
「おはようございます、光様」
「お、おはよう……」
 戸惑いを残したまま、藤原は挨拶を返した。
 こういうところは、普段と大して変わらないが……。
「では、朝食の準備は出来ていますので……」
「な、なあ、明さん」
「はい?」
 部屋から去ろうとする明を、藤原は呼び止める。
 下手に疑問を引きずると、後々大変な事になりかねないからだ。
「いや、その、何て言うか……」
 だが、藤原は言葉を詰まらせてしまった。
 首を傾げ、透き通った瞳で見つめられると、それはいつもの明と何ら変わりない。
 だから、ストレートな言葉を放つ事が出来ない。
 かと言って、選べる程の言葉を持っている訳でもない。
「ふふ……おかしな光様」
 二の句が継げない藤原に、明は小さく笑った。
 次の明の一言に、藤原は心底驚く事になる。
 それと同時に、これが、今日という奇妙な一日の始まりである。
「恋仲になった男女なのですから、隠し事はなしですよ」


 藤原は何が何だか解らないまま、朝食を食べ、学校へ行く時間になった。
 頭の中を回るのは、只々明の一言。
「恋仲になった男女なのですから」
 自分は、一体いつの間に彼女とそんな仲になったのだろうか。
 本当に、全く、何も覚えが無い。
 確かに、一つ屋根の下で暮らしているのだから、それなりの仲にはなる。
 だが、自分は彼女をそんな目で見た事は無い。
 一応、雇う側と雇われる側の関係なのだから。
「じゃあ、行ってくる」
 とにかく、学校へ行く事にしよう。
 何かの間違いかも知れないし、帰る事には元通りになっているかも知れない。
 それに、余り当てにはしたくないが、アリスや秋原や真琴に相談するという選択肢もある。
 最後の方に取っておきたいが、夕に話を聞くという手段もある。
 藤原は靴を履き、玄関のドアを開けようとする。
「あ、あの、光様」
 ドアノブに手を掛けようとしたところで、明に呼び止められた。
「な、何?」
 かなり嫌な予感がするが、藤原は振り向いた。
 見送るだけである事を心の底から祈りながら。
 そこには、少し頬を紅く染めた明が居る。
 割とはっきりと物を言う明には珍しく、少し言い難そうにしていた。
「あの……その……今日は……して下さらないのですか……?」
 そして、かなりたどたどしく言う。
「な、何を?」
 どうにかなる事を覚悟し、藤原は続きを促した。
 明はいよいよ顔を赤くし、かなり躊躇う。
「か、からかわないで下さい! いつもして下さっているのに……。まるで、私が欲しがっているみたいじゃないですか」
「いや、実際そうだと思うけど」
 藤原のツッコミも無視し、明は一人で恥ずかしがる。
 普段はまともな明に対して、ここまでハッキリとツッコむ日が来るとは。
 女性は恋愛で変わると言うが、どうやら嘘でもないらしい。
「光様がして下さらないのでしたら……私が……」
 そう言うと、明はスリッパを履き、藤原の目の前に立つ。
 恥じらいの表情で、上目遣いで見つめる数秒。
 明の腕が藤原の背中に回り、藤原は為す術も無く抱き寄せられた。
 豊かで柔らかい二つの膨らみが、否応なしに押し付けられる。
 同時に明はそっと目を閉じ、背伸びをし、そして……。
 残ったのは、唇の柔らかく温かな唇の感触。


  未だにクラクラする頭を抱え、藤原はようやくドアを開けた。
 それと同時に背中に寒気が走り、一瞬で目が覚める。
 気温が低い訳ではない。
 門の向こうで待っている、ツインテールの背が低い少女と、目が合ったからだ。
 彼女は、確かに望月アリスに似ている。
 だが、雰囲気は明らかに別人のそれだった。
 その瞳は、攻撃の意志を孕んでいないにも関わらず、信じられないくらいに冷たい。
 まるで、ツンドラに心臓を貫かれたかの様な、痛さと寒さの混じった感覚を覚える。
 指一本動かすことすら、容易ではなかった。
 彼女は、本当に望月アリスなのだろうか。
 そう思わずにはいられない程、彼女は冷たく刺々しい空気を放っていた。
 ようやく足が動き、藤原はアリスの前まで移動した。
「……お、おはよう、アリス」
 取り敢えず、いつも通り挨拶をする。
「……おはよう、お兄ちゃん」
 返ってきた返事も、冷たいものだった。
 アリスから逃げるかの様に、藤原は学校に向けて歩き出す。
 何歩か後から、アリスも付いてくる。
 ますますおかしい。
 いつもなら、少しくらい速く歩いても、付いてきて真横を歩くのに。
 背中に冷たい視線を感じながら、藤原は考えていた。
 明といいアリスといい、一体どうしてしまったのかと。
 まるで、恋人の様に接してくる明。
 対して、氷像の様に冷たいアリス。
 昨日まで、二人ともこんなのではなかった筈だ。
 そんな疑問も、アリスの一言で大体は想像出来た。
「……キス、されたの?」
 群を抜いて冷たく尖った言葉に、藤原は心臓が跳ね上がる。
 この瞬間、二つの異変が一つに繋がった。
 何故か恋仲になった明と、何故か冷たくなったアリス。
 つまり、これは……。
 その時、アリスが後ろから抱き付いてきた。
 いつもの迷惑なスキンシップの様に、温かい肌で飛び付いて来たのではない。
 冷たい腕が、束縛する様に、どこか官能的に絡みついてきたのだ。
 そして、いつもの無邪気なそれとは違う、狂気に満ちた声が、後ろから聞こえた。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。ボクが、あの阿婆擦れの呪縛から解き放ってあげるから」
 寒風に吹かれた時とは違う寒さが、藤原の背中をゾクゾクと震えさせる。
 にも関わらず、掌は汗を握っていた。
 これが、いわゆる冷や汗と呼ばれる物なのだろうか。
「……その為の準備があるから、ボク、先に行くね」
「準備って……学校で何するんだよ?」
 恐る恐る尋ねる藤原。
 だが、返事の声は聞こえない。
 聞こえたとしても、出来れば聞きたくない。
 そんな矛盾した思いが、藤原の中でグルグルと廻る。
 アリスの細い腕が、余韻を残しつつ藤原から離れた。
 思わず、藤原は安堵の息を吐いてしまう。
 その数秒後には、戦慄で動けなくなるのに。
「教えてあーげない。楽しみは後に取っとかないと。くっくっくっく……ふふふふふふ……あはははははははっ」
 不気味な嗤い声を上げ、アリスは学校へと駆けていく。
 藤原は、呼び止める事すら出来なかった。
 小さな身体が見えなくなるまで、指一本動かすことすら出来なかった。


 あれから藤原は、誰にも、何も言う事が出来なかった。
 口に出せば、あの冷たい戦慄が、再び甦ってしまうから。
 出来るなら、もう思い出したくなどなかった。
 あれは、どうひいき目に見てもアリスではない。
 自分の知っているアリスは、
「ねえ、お兄ちゃん。今夜こそ夜這いに来てくれるよね?」
「お兄ちゃんって、女体盛りに興味ある?」
「むぅ。後一センチ伸びれば百五十だもん!」
「ロリじゃない! 幼女じゃない! 小学生じゃない!」
「お兄ちゃん……マコちゃんがボクの体操服持って帰っちゃったよぉ……」
「ゆーちゃんがAカップ!? ボクは信じてたのに……ボクと同じだって……」
 こんな感じの、多少危険な香りを漂わせつつも、明るく無邪気な小さい女の子だった。
 西洋魔術師の事で思い詰める事もあるが、それも自分や周りの人が受け止めれば問題無かった。
 それが、あんなに冷たい少女に豹変してしまうとは。
 一体、どうすれば良いのだろう。
 どうすれば、凍て付いた彼女を溶かしてあげられるのだろう。
 授業中もそればかり考えているのに、答えは一つも出てこない。
 半ば虚ろな意識のまま、午前中の授業が終わった。
 学食だの弁当だので、周囲が慌ただしく動き出す。
「行くぞ、藤原。真琴嬢が食中毒で入院したらしくてな。昼食の傍ら、見舞いについてアリス嬢と話し合おうではないか」
 秋原の声が聞こえるが、動く気になれない。
 それ以上に、アリスが待っているであろう屋上に行きたくなかった。
 秋原は溜息を吐き、藤原と向かい合う様に座った。
「こういう時に、相談相手にならねばならんからな。つくづく、悪友キャラは面倒なものだ」
「秋原……」
 どうやら、とっくに気付いていたらしい。
 藤原は観念し、秋原に全てを話す事にした。
 もしかしたら、解決の糸口が見付かるかも知れないから。


「ふむ。話から想像するに、アリス嬢のヤンデレ化が仮説として挙げられるな」
「……やんでれ?」
 聞き慣れない言葉に、藤原は首を傾げた。
 やれやれと秋原は溜息を吐き、詳しい説明を始める。
「ヤンデレとは、主人公への愛故に、病的な行動をとる事だ。基本的に、ギャルゲーは複数のヒロインの内の一人と結ばれる事になる。裏を返せば、他のヒロインは失恋する事になる。その辺りの生々しい事は、暗黙の了解でカット、美化される事が多い。……が、最近、リアルな恋愛描写が台頭してきておってな。溢れる愛が、失恋によって屈曲するヒロインが増えておるのだ。これが三角関係に絡めば、それはもう凄惨な状況になる。空鍋をする者、独り糸電話をする者、ナイフやノコギリを手に取る者……とても見ていられん。最悪の場合、死人が出る場合もある程だ」
「マジかよ……」
 秋原の説明を受け、藤原は頭を抱えた。
 つまり、何故か明と結ばれてしまった為、アリスの想いが曲がってしまったという事か。
 こんなつもりではなかったのに。
 自分の願いは、アリスが確固たる存在意義を見付ける事だ。
 だから、アリスが自分以外の人とも付き合える様に、ある程度距離を保ってきた。
 これまでずっとそうだったし、これからもそうする筈だった。
 それが、まさかこんな形で潰えてしまうなんて。
「……ところで、何で俺と明さんが突然結ばれてしまったんだ?」
「単純に、筆者がデレた明さんを見たかったのであろうな」
「いや、筆者って一体」
「確認したいのだが……」
 藤原の言葉を覆い隠す様に、秋原は言った。
 脚を組み直し、更に続ける。
「アリス嬢は、明さんへの報復の為に、先に学校へ行った。それから一度も見ていない。……間違い無いな?」
「ああ。一体、学校で何するつもりなんだ……」
「ふむ。明さんと学校の関係か……」
 秋原は腕を組み、少し考える。
 そして、すぐに何か思い当たった様だった。
 両手で机を強く叩き、激しく音を立てて立ち上がる。
 教室中の目線が集中するが、そんな事はお構い無しだ。
「この虚けが! 何故真っ先に貴様が気付かん!? ……急ぐぞ!」
「ど、どこに?」
 藤原の問いも無視し、秋原は教室を飛び出した。
 水を打った様に静まり返った教室を気まずそうに見渡してから、彼を追い掛けていく。


 秋原はどうやら、職員室の方へと向かっている様だった。
 そこでようやく、藤原はアリスの思惑に気付く。
 何故、今まで気付けなかったのだろうか。
 ヤンデレ化したアリスへの恐怖で、頭が一杯だったとは言え。
 ――頼むから、間に合ってくれ……!
 心の底から祈りながら、藤原は秋原の背中を追い掛けていた。
 その時、どこかから、バケツをひっくり返した様な水音が聞こえる。
 秋原とアイコンタクトをとり、音がした方へと向かった。
 その場所は、教員用の女子トイレ。
 周囲に濡れている場所が無いため、ほぼ間違いない。
 藤原は最初、清掃員が掃除をしているのだと信じた。
 だが、掃除中の札が見当たらないという事実は、それを否定している。
 次に、誰かがトイレを流した音が、何かの間違いでそういう風に聞こえたのだと願った。
 しかし、それさえも、
「ふふふふふ……あはははは……」
 あの時と同じ嗤い声を上げて女子トイレから出てきたアリスによって、全て否定された。
 その手には、まだ水の滴るポリバケツ。
 満杯まで入れれば、普通の人でも片手では少々厳しい容量だ。
 体の小さいアリスなら、両手で抱えるのがやっとだろう。
 そんな大きさのバケツを持って、こんな時間にこんな場所で何をしているのか。
 答えは、初めから大体想像出来ていた。
 それでも、どうしてもそれを否定したくて、
「な、何してるんだよ、アリス……?」
 藤原は震える声で尋ねていた。
 ――頼むから、杞憂であってくれ……!
 心の底から願いながら、アリスの返事を待つ。
「蛙の子は蛙。阿婆擦れの妹は阿婆擦れ……って事だよ」
 その一言は、藤原の頭を真っ白にするには充分だった。
「藤原。……認めろ。俺達は間に合わなかった」
 秋原の声が聞こえるが、その声も、冷静を欠いている。
 彼らとは対照的に、アリスは狂気の中にも達成感を感じさせる表情だった。
「ボクからお兄ちゃんを奪った、汚い汚い阿婆擦れの妹だもん。いつもこの時間にトイレに来るのは知ってたから、朝や休憩時間に水をいっぱい溜めてたんだ。きっと、ちょっとくらいは綺麗になったよね。溜めてたのは、この一杯だけじゃないもん」
 アリスの言葉に、藤原は女子トイレの奥の方に目をやる。
 水浸しの床に、いくつものバケツが散乱していた。
 これの為に、先に学校へ向かったという事か。
 更にアリスは続ける。
「……でもね、少し前から、ボクのする事にいちいち口を挟む邪魔者が居たんだよ。『幼女にそんな黒い事させない』とか、『正義に反する』とか……とにかく五月蝿かったなぁ」
「まさか……真琴の事か?」
 藤原の問いに、アリスはケタケタと笑った。
 答えてはいないが、答えには充分な反応だ。
「正解だよ。さっすがお兄ちゃん。
で、余りにも鬱陶しかったから、ボクがお弁当を作ってあげたんだ。何にも知らずに、嬉しそうに食べてくれたよ。ボクが、それに何を入れたのかも知らずにね」
 途中から、段々嘲笑を交え始める。
 狂気と侮蔑が相俟り、更に笑顔が不気味になった。
 例え彼女が真面目に作っても、無事には食べられないアリスの料理。
 それを、人を傷付ける為に作れば、一体どうなってしまうのだろう。
「お陰で、もうボクは誰にも邪魔をされない。まずは、あの阿婆擦れが大層可愛がってる妹から壊してあげる。これでアイツがお兄ちゃんを手放せば、今度こそボクがお兄ちゃんと……。くっくっくっくっく……ふふふふふふふ……あはは」
 アリスの嗤い声が、途中で止まった。
 肌で肌を打ち付ける音が、それを覆い隠して。
 アリスは、頬を両手で覆い、信じられないといった様子だった。
 藤原が、アリスの頬を思い切り叩いたという事実を。
 藤原自身も、自分がこんな行動に出た事を、少し驚いていた。
 だが、後悔の念は浮かばない。
 それよりも早く、言葉が出てくる。
「平気な顔して人を傷付けて……そんなに楽しいかよ……!?」
 その声は、怒りと悲しみで震えていた。
 今でも、とても信じる事が出来ない。
 アリスが、当たり前の様に人を傷付けた事を。
 感情を抑えられずに、魔力や暴力を使った事は、確かにある。
 でも、いずれの場合も、後悔して、泣いて、謝っていた。
 それが、今はどうだろう。
 その様な類の素振りは、微塵も感じられない。
 これが、彼女の自分への愛故の結果ならば、なんという皮肉だろう。
 自分が望んだそれとはおよそ逆の方向へと、彼女は向かっているのだから。
 しばらく頬を押さえていたアリスが、呟く様に言う。
「……ヒドいよお兄ちゃん。ボクは、お兄ちゃんの為に、こうして『悪魔』になったのに……」
 俯いて、支えている物を吐き出す様に放たれる、悲痛な声。
 それは、藤原の心を痛ませるには充分で、恐怖を染み付かせるには充分過ぎた。
 そして、自分の教室の方へと、逃げる様に走り去っていく。


 アリスが去った後、女子トイレのドアがゆっくりと開いた。
 重い足取りで出て来たのは、割と高い身長には不揃いな程に胸の薄い少女。
 長く伸ばしたサイドテールも、制服だらけの校内では目立つ私服も、水浸しになっていた。
 普段は凛とした印象を与える瞳も、半ば生気を失っている。
 頬を伝っているのは、水なのか、涙なのか。
「夕!」
 その少女の名前を呼び、藤原は駆け寄った。
 秋原は携帯を手に取り、厳かな声で遣り取りを始める。
 洗面所の前で、崩れる様に座り込んだ夕を、藤原は支えた。
「もう、藤原君てば……校内では……西口先生って……呼ばないと……」
 その声は、既に絶え絶えだ。
 恐らく寒気からであろう、全身が震えている。
 顔色も、少しずつ、確実に変わっていく。
 もちろん、精神的な要因も、決して小さくはないだろう。
 アリスのした事を、藤原はまざまざと見せ付けられた。
 怒りと恐怖と無力感で、胸がいっぱいになる。
「保健室に、タオルと着替えと温かい物を用意して貰った。突然のことであるが故に、着替えは白衣しかないらしいが、構わんな?」
「うん……ありがと、秋原君」
 弱弱しい笑みを浮かべ、夕はフラフラと立ち上がった。
 藤原が肩を貸し、秋原がハンカチを取り出して夕の身体を拭く。
 さりげなくとんでもない箇所を拭こうとしたので、藤原がすぐに取り上げたが。
「アリスがした事は、俺の責任だ……ごめん」
 謝る藤原に、夕は首をゆっくりと横に振った。
「私は……良いの。姉さんが……幸せになった……結果だもの。私が……大好きな姉さんだから……姉さんが大好きな……私だから……こうなって良かったって思う。私の痛みは……姉さんの幸せの……裏返し……だって思うから……」
「だけど……」
 藤原の言葉を、夕は人差し指で遮る。
 そして、やや説教臭い口調で言った。
「どんな……綺麗事を並べても……誰かが勝てば……誰かが負けるの。いくら誤魔化しても……人の負の感情は……確かに……実在……するの。だから……望月さんが……私に矛先を向けても……逃げようとは……。きっと……姉さんも……同じ覚悟を……して……いるから……」
「…………!?」
 藤原は、驚きの余り、声も出なかった。
 つまり、明も夕も、アリスの想いを知っていたという事か。
 それでも、手にした物を放したくも譲りたくもないから、敢えてアリスの行為を受け入れようとしているのか。
 自分は、事の経緯を全くと言って良い程知らない。
 明やアリスを、女性として好きになる事も出来ない。
 でも、彼女らの思いの強さだけは、確かに感じる事が出来た。
 同時に、それらに対して恐怖さえ抱いてしまう自分への侮蔑も。
「……でもね、女の子としては、この辺で男の子の介入が欲しいかな。脳の構造上、どうしても女性は泥沼化してしまう傾向があるから。男の子のスッキリした判断で、そろそろ終わらせてあげて。前に読んだ本にも、主人公が優柔不断だと、鬱展開になりやすいって書いてあったし」
 その言葉を最後に、夕は一人で保健室へと向かった。
 カタツムリが進んだ跡の様に、水滴を残して。
「秋原。……俺たちで、どうにかしよう。せめて、出来る範囲で」
「……済まん。夕先生がこれからなるであろう裸白衣姿を想像しておった。最初から、もう一回言ってくれんか?」
「…………」


 放課後すぐ、藤原は秋原を連れて自宅へと向かった。
 夕でさえあの仕打ちなら、当の本人である明が無事で済む訳が無い。
 幸い、アリスのクラスはHRが 若干遅れている。
 何としても、先に明と接触しなければ。
「しかし、デレた明さんか……。是非ともご奉仕して貰いたいものだ」
 妄想する秋原を気にも留めず、藤原は前だけを見て進む。
 彼は明らかにデレた明見たさでついてきているが、いざという時には頼りになる……筈だ。
 今は、わざわざツッコんでいる暇も無い。
 しばらくして、藤原宅が見えてきた。
 庭の掃除をしていた明が、少し驚いた様子で迎える。
「お帰りなさいませ、光様。……今日は、早かったですね」
「あ、ああ……ちょっとな」
 流石に、アリスから守る為とは言い辛い。
 何はともあれ、ひとまず明が無事だったので、藤原は安堵した。
「ふむ。裸エプロン辺りを期待していたが……流石に高望みか。そもそも、メイドさんはメイド服で迎えるからこそ……」
 秋原の勝手な呟きなど、気にする気にもならない。
 ちなみに、もちろん明は、いつも通りのメイド服である。
 メイド服がいつも通りになってしまった時点で、何が基準かは判りかねるが。
 ふと気付くと、明が藤原を真正面に見据え、上目遣いで見つめていた。
 その頬は少し熱を帯びていて、何かを言いたそうにしている。
 藤原はかなり嫌な予感がしたが、明の瞳に貫かれ、視線を逸らす事さえ出来ない。
 結局、明が言い出すのを待つしかなかった。
「あ、あの……私の為に、急いで帰って来て下さったんですよね?」
「まあ、そうだけど……」
 間違ってはいないのだが、藤原と明では、少し意味合いが違うらしい。
 その証拠に、明の頬が、更に熱を帯びていく。
「私も、光様のお帰りを、今か今かと待ち侘びていました。あ、あの……その……えっと……ご飯に致しますか? それとも、お風呂を先に沸かしましょうか? もしくは……その……あの……わ、私と……私と……」
 今、下手に明に触れれば、火傷するかも知れない。
 彼女は恥ずかしそうに俯き、身体を小さく震わせる。
 朝のキスと言い、今度は何をするつもりなのだろうか。
「……明さん?」
 藤原が呼びかけると、明は不意を衝かれた表情で顔を上げた。
「っ!? す、済みません! 私としたことが、明るいうちから破廉恥な事を!」
「暗くなったら良いって事か」
 あたふたと謝る明に、藤原は冷静にツッコんだ。
 夕があんな目に遭っているのに、こっちは平和そうである。
 もちろん、これが夕の望みであるし、明までもがあんな目に遭って欲しくはないが。
 そんな事を考えていた時、再び明の熱い視線を感じる。
 彼女の両手に両肩を掴まれ、ぴったりと密着された。
 少しの間、顔を胸に埋め、彼女は藤原の顔を見上げる。
 上目遣いで見上げてきたかと思えば、恥ずかしそうに目を伏せたりと、なかなか忙しそうだ。
 やはり散々躊躇った後で、
「あの、光様。そろそろ……お帰りのキスを……。朝は私からでしたし……次は光様から……して頂きたいのですが……。夜になれば、何倍にでもして返しますから……ね?」
 恥じらいをたっぷりと込めた甘い言葉が、明の口からしっとりと放たれた。
 一瞬、背景が柔かい桃色に染まる。
「新妻キタぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
 それと同時に、持て余した情熱を吐き出しながら走り出す音が聞こえた。
 当てにならない人ばかりの様な気がして、藤原は溜息を吐く。


「何、してるのかな?」
 秋原が居なくなってすぐ、背後から聞こえたその声は、藤原の全身に緊張を走らせた。
 幼さの中に、およそ形容する事の出来ない何かが感じられる声。
 声の主を確認しようにも、振り向く事すら、身体は拒んでしまう。
 全身から鳥肌が立ち、掌が嫌な汗を握る。
 額からも汗が伝い、頬を滑り落ちていく。
 向かい合っている明の目の色が、藤原の後ろに居る声の主を見た途端に変わった。
 ――明さんだけは、何としても……!
 勇気を限界まで振り絞って、藤原は振り向く。
 そこに居たのは、恐れていた通り、アリスだった。
 学校の帰りらしく、服装は制服のままだ。
 恐らく殺気と呼ぶべきであろう気配が、全身から放たれている。
 笑顔という仮面に隠された、鬼の形相。
 藤原がそれを察するのに、刹那すらも必要無かった。
 幼い身体が纏う狂気は、最早誰の目にも明らかだから。
「……何、してるのかな?」
 何も答えられない二人に、アリスは再び尋ねる。
 一度目よりも、やや威圧的な声だ。
 だから、尚更答える事が出来なかった。
 一言でも、一文字でも何か発すれば、そのまま押し潰されそうな気がしたからだ。
 そんな二人を嘲笑するかの様に、アリスはケタケタと嗤った。
「ボクが甘かったね。妹からなんて悠長な事言ってるから」
「ゆ、夕に一体何を」
「五月蝿いんだよ、この泥棒猫!」
 明の言葉を、アリスは怒鳴って撥ね退けた。
 余りに普段の彼女から懸け離れた言動に、明は声を詰まらせてしまう。
 そんな明を、アリスは冷たい瞳で見下す様に見つめた。
 身長差の関係で、実際にはアリスが見上げているが。
「お兄ちゃんを取られて、ボクがどれだけ辛かったか、解る? ……解る訳無いよね。解らないから、平気で居られるんだろうし。まったく、つくづく恐ろしい女狐だよ。純情可憐なメイドのフリして、その実腹の中は真っ黒なんだから」
「わ、私は……腹黒くなど……」
 氷の槍に貫かれた明は、目を逸らす事さえ儘ならない。
 藤原も、アリスの放つ殺気の前では、まるで無力だった。
「ふーん……まだしらばくれるんだ。じゃあ、試してみよっか?」
 冷然とした声で言うと、アリスはポケットからカッターを取り出した。
 カチカチと音を立て、鉛色の刃が伸びる。
 それは斜陽を反射し、気味の悪い輝きを放っていた。
 明と藤原は、いよいよ顔を青くする。
 アリスは、それさえも愉しんでいる様子だ。
「な……何をする気だ!?」
 ようやく恐怖を振り切った藤原が、アリスの前に立ちはだかる。
 他でもない、明を守る為に。
 まだ、声も脚も震えているが、逃げる訳にはいかない。
 明だけは、何が何でも守り抜くと決めたから。
 アリスの暴走を、何よりも彼女自身の為に止めてあげたいから。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。すぐに助けてあげるから。お兄ちゃんは、きっと騙されているんだよ。だから、よーく見ててね。こいつが、黒い血と腸を撒き散らすところを。そしたら、目を醒ましてくれるよね? ボクだけを見てくれるよね? うふふふふふ……あははははははは……。あははははははははははははははははははははははははははははははははは」
 それは、常人の目ではなかった。
 狂気に酔いしれた声が、藤原と明を襲う。
 一体、何が彼女をここまで豹変させてしまったのだろうか。
 藤原は、改めてそれを考えていた。
 いくらなんでも、ここまで狂ってしまうなんて。
 誰かへの好意だけで、こんな事が起こってしまうなんて……。
「死ねぇええええええええええええええええええええええええええええっ!!!!!」
 カッターを構えたアリスが、まっすぐ明へと突っ込む。
 明の前で、藤原は必死に踏み止まっていた。
 逃げよう、と呼びかける恐怖心を抑え付けて。
 もしかしたら、このまま刺し殺されてしまうかも知れない。
 それでも、絶対に明は守り抜きたかった。
 アリスの未来に、暗い影を寄せ付けたくはなかった。
 経緯はどうあれ、明が自分を想ってくれるのならば、応えるべきだろう。
 アリスが狂ってしまったのならば、総てを受け止めるべきだろう。
 自ら望んで、こんな状況に立った訳ではない。
 でも、今、自分は行動を求められている。
 賽は、既に投げられてしまっている。
 それでも現状を拒むのは、少し大人気無い。
 だから、藤原はアリスに向かって構えた。
 正確には、『構えようとした』。
 何故なら、
「光様!」
「あ、明さん!?」
 後ろに居た筈の明が、彼を横に突き飛ばしたからだ。
 当然、もうアリスを阻むものは、無い。


 それから数秒の間に何が起こったのか、藤原はよく判らない。
 とにかく目の前にあるのは、
「…………!?」
 言葉も出ない明と、
「な、何で……!?」
 驚きを隠せないアリス。
 そして、
「ふっ……美味しいとこ取りで済まんな」
 アリスを組み伏せた秋原だった。
 少しの間の後、ようやく事無きを得た事を理解する。
 藤原は、恐らく今までで一番大きく息を吐いた。
 だが、すぐに数秒前に起きた事を思い出す。
「明さん! どうしてあんな事を……!?」
 思わず、声を少し荒げてしまった。
 それも、仕方の無い事だろう。
 秋原が間に合わなければ、恐らく明は……。
 そんな藤原に、明は微笑んで答えた。
「これで、キスして下さいますよね?」


「くっ……放してよアッキー! ボクは、ボクは……!」
 アリスは、まだ抵抗を続けていた。
 だが、完全に秋原に組み伏せられ、身動き一つとれない。
「もう止せ、アリス嬢。どちらが傷つく事も俺は望まん。第一、幼女にその様な武器は似合わんであろう。やはり、幼女だからこそ、敢えて大きな得物を振り回す方が……」
「秋原、今の台詞、後半カットな」
 素直に礼を言おうとした藤原だが、それはツッコミに変わった。
 ともあれ、秋原のお陰で助かったのは事実だ。
 新妻に情熱を持て余した時は人格を疑ったが、暴力沙汰なら頼りになる。
 凶器まで持ち出されたにも拘らず、誰も怪我をしなかったのは、『無傷の闘神』だからこそだろう。
「殺してやる! ボクとお兄ちゃんの仲を邪魔するなら、皆殺してやる!」
 一方アリスの抵抗は、とても止みそうにない。
 寧ろ、激昂の一途を辿っている気さえする。
 これでは、話し合いの余地は無いだろう。
 出来れば、大事にはしたくないのだが……。
「アッキー、まずはお前から血祭りにしてやる!」
「ふっ、やれるものならや……!?」
 吠えるアリスを余裕で聞き流そうとしていた秋原の声が、急に険しくなった。
 アリスの鬼の形相が、いつもの幼女のそれに戻ったからだ。
 潤んだ円らな瞳が、訴える様に秋原を見つめる。
 その表情は、駄々をこねる幼子の様であり、夜のトイレに行けない幼子の様でもあった。
 抵抗もすっかり止み、秋原が一方的に押さえつけてる形になる。
 これでは、変質者が幼女に狼藉を働いている画だ。
 そして、アリスの一言。
「パパ……痛いのはらめぇ……ッ!」
 この一言で、周囲の全てが固まった。
 それからの数秒、アリスの嗚咽だけが聞こえる。
 数秒の間、だけだった。
「ぱ……ぱ、パパだとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」
 啜り泣きながらの涙声が、秋原にクリーンヒットしたらしい。
 秋原の中で、何かが激しく揺さぶられている様だ。
 思わず技を緩めてしまいそうになるが、どうにかそれだけは避けた。
 彼の額に大粒の汗が浮かび、息も荒くなる。
 そろそろ、年齢制限が掛かりそうな画になってしまった。
 それも当然の事……なのだろう。
 アリスの身長は、百四十に満たない。
 本来なら十歳くらいの少女の身長だ。
 十歳と言えば、父親なら誰もが不安を抱える反抗期間近。
 同時に、そんな父を誰よりも愛してくれる、エレクトラコンプレックスの末期でもある。
 一人の父親として、愛しくない訳が無い。
 そうでなくても、幼女を組み伏せているという背徳感に揺れていたのだ。
 漢である以上、冷静で居られる方がどうかしている。
 ……と考えているのだろう、と藤原は秋原の意を酌んだ。
 そして、ここまで感情移入してしまった自分を呪う。
 秋原はどうにか息を整え、それでも切れ切れの声で言った。
「さ……流石だ、アリス嬢。妹、幼馴染、更には魔女っ娘属性を備えていながら『娘』で攻めるとは……。しかも『らめ』ときたか……これは堪らん。背徳感を感じさせつつも、更なる欲望へと駆り立てる一撃であった。これ程のものを見舞われたのは、現役時代のロッキー以来だ」
「お前幾つだよ……」
 何となくシリアスな空気だが、一応ツッコむ藤原。
 ロッキーの件の前は、もう今更なので放っておく。
 やはり秋原がそんな事を気にする訳も無く、まだまだシリアスに語る。
「だが……まだまだ甘いぞ、アリス嬢。
冷えた主人公の手を、更に冷たい手で温めようとしてくれる美少女くらい甘い。確かに、真琴嬢なら、或いは鼻血を吹いて倒れたかも知れん。が、俺はその程度では倒れ」


 夕方の住宅街が、鮮血に染まる。


「くっくっく……馬鹿め」
 鼻血を吹いて力尽きた秋原を、アリスは見下していた。
 アスファルトが、秋原を中心に紅く塗り替えられていく。
 アリスの服や顔には返り血が付着し、さながら殺人鬼の様であった。
「秋原さん!」
 思わず明は駆け寄り、秋原に止血を試みる。
 だが、殆ど効果は無かった。
「他人の心配してる場合!?」
 そして、そんな彼女に迫る無情な影。
 その手に持つカッターは、鼻血を浴びて紅く染まっている。
 生憎、秋原を放って逃げられる非情さを、明は持ち合わせていなかった。
 断罪の左腕が、高らかに振り上げられる。
「…………!?」
 しかし、それが振り下ろされる事は無かった。
 何故なら、
「もう止めろ、アリス! 頼むから止めてくれ!」
 藤原がアリスの背後に回り込み、彼女の左腕を掴んだからだ。
 信じられない、といった表情で、彼の悲痛な叫びを浴びせられるアリス。
 抵抗すらせず、そのままの姿勢で固まっていた。
 ここぞとばかりに、明は秋原を引きずって下がっていく。
 思いの外呆気無かったので、藤原は逆に戸惑ってしまった。
 アリスは、自分の為に行動していたのだ。
 それを否定したのが自分ならば、ショックも大きいのだろう。
 でも、これで良い。
 恐らく、自分以外の声は、彼女には届かなかった。
 自分が、彼女の行動に終止符を打たなければならなかったのだ。
「どう……して……」
 アリスが、小さく呟いた。
「どうして……ボクじゃないの……? 何で……アカリンを選んじゃったの……?」
 切羽詰った声が、藤原の心に突き刺さる。
 経緯は知らないが、自分は明と結ばれた事になっているのだ。
 決して、アリスの行動を正当化するつもりはない。
 だが、彼女がヤンデレ化する程に傷付いたのは事実だろう。
 アリスの手から、カッターが零れ落ちる。
 それは、彼女の『キョウキ』の終焉を意味していた。
 藤原が手を放すと、アリスはこちらを向く。
 その瞳からは冷たさを感じられず、涙を湛えた目線が、胸を痛ませる。
「ボクの何が嫌なの? 背が低いから? 胸が無いから? 出来る限り何とかするから……何か言ってよ……ねえ……嫌われるのはヤだよぉ……!」
 消え入りそうで、且つ切実な涙声が、藤原にある事を気付かせた。
 アリスは、そもそも狂気に毒されてなどいなかったのだと。
 自分を見つめる儚い瞳は、ただの小さな女の子のものではないか。
 秋原は、ヤンデレを『屈曲した愛』だと言った。
 ならば、アリスの行動は、全て純然な愛が発端だ。
 自分が恐怖に駆られて何も出来なかった所為で、アリスは止まれなくなったのだ。
 今ならば、言える。
 アリスが『言葉』を欲している今なら、存分に言える。
 彼女の不安を、拭い去る為の言葉を。
「落ち着けよ、アリス。俺は、お前を嫌うつもりなんてない」
「嘘だッ! ボクが嫌いになったから、お兄ちゃんはアカリンと……」
 アリスの反発の言葉の最中、藤原は彼女の頭にそっと手を置いた。
 彼女は思わず目を閉じるが、敵意が無い事を悟ったのか、恐る恐る目を開ける。
 藤原は、少し雑に、でも優しく撫で付けた。
 初めは強張っていたアリスも、少しずつ安心感を覚えている様だ。
 彼女が落ち着いたところで、改めて藤原は囁いた。
「俺は俺なりに、お前の事を大事に思っているつもりだ。だから、お前のしている事を見過ごせないんだよ。大事な人が犯罪者になるのを、見す見す放っておけないだろ。お前の為だから、体張ってでも止める覚悟はある。……まあ、ついさっきまでビビってたんだけどな」
「…………」
 藤原の言葉に、アリスは黙って俯く。
 これで、伝えたい事は伝えた。
 それでも彼女が止まらないのであれば、責任は取るつもりだ。
 アリスの身体が、小さく震える。
 藤原は、敢えて身構える事無く、彼女の返事を待つ。
「じゃあ……お兄ちゃんは、ボクの事好きなの?」
「う…………」
 アリスの問いに答えられず、藤原は狼狽えた。
 上手くうやむやに出来たと思っていたのに。
 自分のアリスに対する『好き』は、アリスの望む『好き』とは違う。
 かと言って、嫌いと言うのは嘘になる。
 こういう話は、二元論では語れないのだ。
 だが、今のアリスは、それでは納得しないのだろう。
 何も言えない藤原を、アリスは更に問い詰める。
「やっぱり、アカリンの方が好きなんでしょ? ヒドいよ……ボクというものがありながら……」
「違う、違うんだ、アリス。何から説明したら良いのか……」
 そもそも、自分が明と結ばれている事から、既に間違っているのだ。
 しかし、仮にその事を話したとしよう。
 そうなると、今度は恐らく明が……。
 それでは意味が無い。
 彼女とは同居しているのだから、尚更危険だ。
 悩む藤原に、アリスは縋る様に抱き付いた。
「帰って来てよ、お兄ちゃん! もう独りぼっちなんてヤだよ! ボクがこんなにお兄ちゃんを愛してるのに、どうして!? お願いだから、ボク達を見捨てないで!」
 切実な言葉が、藤原の胸に突き刺さる。
 アリスの想いが、ここまで真摯なものだったとは。
 普段はセクハラ紛いの言葉を交えてくるから、なかなか素直に受け取れないのだ。
 だが、自分もアリスの事は大切に思っている。
 魔術師の家系に生まれたが故に抱える影を、出来る限り何とかしてやりたいとも。
 こんなに強く思っているのに、それはアリスの望むものではないなんて、笑えない冗談だ。
「……ちょっと待て」
 ふと、藤原はある事に気付く。
 アリスの言葉に、違和感を感じたのだ。
「なあ……『ボク達』って、どういう事だ?」
 間違い無く、アリスはそう言った。
 という事は、アリス以外の『誰か』が居るという事に他ならない。
 一体、誰なのだろう。
「そっか……まだ知らないんだね、お兄ちゃん」
 アリスは、少し意外そうな表情を浮かべた。
 藤原の背中に回した腕を解き、数歩下がる。
 そして、その小さな掌を腹部に宛がい、そっとさすった。
 普段の幼い容姿や言動からは想像出来ない程に、慈愛に満ちた表情。
 それは、まるで、
「ボク一人の体じゃなくなった……って事だよ」
 母親の様であった。
「な……な、何ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッ!?」
 アリスの言葉は、藤原の全てを覆すには充分だった。
 藤原の目の前が、真っ白に染まる。
 ――そんな、馬鹿な。
 つまり、明と結ばれる前の自分は、アリスと……。
 そんな筈はない。
 第一、アリスはまだ子供を産める体ではない筈だ。
 真琴が突き止めて興奮していたのだから、間違い無い。
 だが、アリスがここまではっきり言うのなら、やはりそうなのだろう。
 一体、自分は昨日まで何をしていたのだ。
 運命や神様、それに準じる何かが面白おかしく遊んでいるとしか思えない。
「慌てるな、藤原!」
 いつの間に復活したのか、秋原の声が聞こえる。
「新約聖書によると、人妻を欲望の眼差しで見る時、すでに犯しているのと同じらしい。これは、美少女に萌えた時の脳内妄想が、肉体的交わりよりも深い事を表していると思われる。その証拠に、聖母マリアは処女のままイエス・キリストを身篭ったそうだ。即ち! アリス嬢が妊娠したからといって、非処女になったとは限らん! 全国の幼女スキーの為に、ソフ倫BPOその他諸々からこの作品を守る為に、俺は断言する!」
 もう意味が解らない。
 力無くその場に崩れた藤原に、アリスが言う。
「お兄ちゃん、責任は取ってくれるよね? ボク達と一緒に居てくれるよね?」
 その声には、再び狂気が宿っていた。
 道端に落ちていた石と木の枝を拾い、アリスは何か唱える。
 次の瞬間には、樵が持っていそうな石斧を、その手に握っていた。
「くっくっく……そうだ、そうだったんだよ。最初からこうすれば良かったんだ。あのメス豚どもを追い出すんじゃなくて、ボク達が出て行けば……」
 両手で斧を抱え、高らかに掲げる。
 その殺意は、間違い無く藤原に向けられていた。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。ボク達もすぐに追いかけるから。『あっち』で三人一緒に、ずっと幸せに暮らそうね。誰にも邪魔されずにさ。くっくっくっく……ふふふふふふふ……。あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
 アリスの狂った嗤い声が、いつまでも続いていた。
 既に絶望の淵へと追いやられていた藤原は、逃げる気力すら無い。
 血に塗れ、鈍色に光る斧を振りかざすアリス。
「ぬぅ……今度は斧できたか……。幼女には不釣合いな武器、故に萌える!」
 溢れる萌え要素を前に、秋原は感嘆の声を漏らすのみである。
 ――もう、どうでも良い……。
 今日一日振り回され続けた藤原は、その場に座り込んで項垂れるだけだ。
 死を目の前にして、抗う気さえ起こらない。
 そんな彼に、アリスは思いの丈を振り下ろした。


 ――流石に、もう死んだかな……?
 藤原が顔を上げると、驚きの光景が目の前にあった。
 藤原とアリスの間に割って入った明が、アリスの斧を受け止めていたのだ。
 それも、片手で。
 秋原やアリスも、驚きを隠せない様だ。
「……私は、この身に代えてでも光様を愛するつもりでいました。ですから、望月さんの刃を受ける覚悟はありました。全てを知っていながら、貴女から光さまを奪ってしまいましたから」
 普段の優しい口調で、でもどこか淡々とした口調で話す明。
 次の瞬間、それが嵐の前の静けさであった事を思い知る。
「ですが、貴女は光様を殺そうとした……。それだけは、絶対に許せません!」
 別人と聞き紛う程に語気を荒げる明に、藤原は心臓が跳ね上がった。
 斧を受け止めていた手から、波動の様な何かが放たれる。
 それは、アリスを大きく吹き飛ばした。
 十メートル以上先で、彼女は受身を取る。
「くっ……この阿婆擦れめ……!」
 アリスは、攻撃的な瞳を明に向けた。
 そして、明に向けて手をかざす。
 藤原は、とても嫌な予感がした。
 そして、それはすぐに的中する。
「Sequimini me!」
 アリスの発声の直後、彼女の手から黒い何かが放たれた。
 『黒』と形容する事すら躊躇われる程に深い闇を湛えたそれは、まっすぐ明に襲い掛かる。
「防御フィールド、展開!」
 両手をかざした明の前に、透明な何かが現れた。
 それは黒い物体を受け止め、夕空に向けて跳ね返す。
 藤原は一連の遣り合いを見て、驚くしかなかった。
 アリスは、彼女が魔術師である事を考えれば理解出来ない事もない。
 だが、一介のメイドである筈の明は一体……。
「……そうだ、明さん! さっき手を斧に……」
 明が自分を庇ってくれた事を思い出し、藤原は立ち上がって彼女の手を見る。
 斧を素手で受け止めたのだから、たとえどんなに鈍でも、無事では済まないだろう。
「な…………!?」
 そんな藤原の予想に反して、絹の様に繊細なその手には傷一つ無かった。
 明は、小さくため息を吐く。
 何かを諦めた時の、少し悲しげなそれだった。
「もう、隠す事は出来ませんね……。この姿を見ても、どうか、お嫌いにならないで下さい」
 そう言うと、明は瞳を閉じ、両手を胸に当てる。
「能力制御プロテクト『ご奉仕するニャン♪』解除。……全ての戦闘用プログラムの再稼動を開始します」
 まずは右腕が、巨大な銃に変わった。
 肌の温かみが失せ、代わりに機械の無骨さが顔を出す。
 羽の様な何かが、メイド服を突き破り、背中から生えてくる。
 その色は、白と称するには余りに冷たくて、銀と称するには余りに無機質だった。
 急激に『人間』を失っていく明に、藤原は言葉が出ない。
「私の名前は、西日本防衛特殊部隊『梔子』開発部門試作品『明星二十八号』。……長いので、皆様からは『西口明』と呼ばれています」
 そう言って微笑む明は、どこか悲しみを秘めていた。
「私の開発が開始されたのは、第二次世界大戦の末期。ミッドウェーでの玉砕から苦戦を強いられてきた日本にとって、私は最後の希望だったそうです」
「最終兵器が彼女……藤原も随分な設定にされたものだ」
 秋原がギリギリの発言をするが、この空気では誰もツッコミを入れる事は無い。
「……しかし、私が完成したのは、1945年8月。広島と長崎に原爆が投下され、ソ連が満州に進軍し……何もかもが終わってしまってからでした」
 当時の事を思い出したのか、明の口調が沈んだものになる。
「私を作った部隊も壊滅し、私は一人戦後の日本を彷徨っていました。当時の私には、戦う為の機能しか備わっておらず、人と共に暮らす事は出来ませんでした。生きる為に躍起になっている人たちの顔は、作られた命である私には眩しかった……。能力を持て余し、過激派の組織や暴力団を気まぐれに潰して、どうにか生活に色を成す日々が、ずいぶん長く続きました」
 さりげなくとんでもない事を口にするが、やはりこの空気では誰も何も言えない。
 ここから、明の口調が元に戻った。
「そんなある日、ある科学者が、私を救って下さったんです。新しいプログラム『ご奉仕するにゃん♪』を追加して下さり、メイドとして生きる道を与えて下さいました。人と大差無い思考力を持っている私にとって、人と共に生活出来る能力は、願ってもない事でした。そして、私は光様と出会い、恋に落ち、今に至る……という訳です」
 明の生い立ちに、藤原は驚くしかなかった。
 明が、作られた存在だったなんて。
 それも、第二次世界大戦時の戦闘用……人を殺める為のものだとは。
 だが、自分は、『メイド』としての明を知っている。
 家事万能で、優しくて、雷が人一倍苦手で、妹に甘くて、性的な知識に異様に疎い。
 それら全てが、プログラムされた動きだとは思えない。
 例え過去の事実が『兵器』を物語ったとしても、自分が知っているのは『西口明』との物語のみである。
「これぞまさしくメイドインジャパン……!」
 秋原に関しては、もう気にしない事にした。


「ふーん……そうだったんだ」
 話を聞いていたアリスが、冷然とした声で呟く。
「確かに、血も涙も無い機械でないと、他人の恋人奪うなんてマネ出来る訳無いもんね」
 そう言うアリスこそ『血も涙も無い』発言をしている事に、何故気付かないのだろうか。
 余りにも冷たいアリスに、藤原は胸が痛む。
 普段のアリスなら、こんな事は絶対に言わない。
 だが、その責任の一端は、どうやら自分にあるらしい。
 それも、当然なのだろう。
 妊娠の件はもちろん、妹の様に接してきた自分が、全く影響していないなんて言い切れない。
 そう思うと、怒りという感情は浮かばなかった。
 自責と沈痛の思いが、身体のどこか奥に積もるばかりである。
「人外相手に、この格好はちょっと不利だね……」
 アリスは、斧を高く掲げた。
 彼女の周囲に魔力が充満し、空気がピリピリと震える。
「シニカル、マジカル、エコロジカル!」
 アリスが唱えると同時に、彼女を中心に凄まじい発光が起こる。
 目を閉じる程度ではどうにもならない閃光に、藤原は視界が真っ白になる。
 ようやく見える様になった時には、既にアリスは違う姿になっていた。
 黒一色の服装は、とても露出度が高い。
 服は胸しか隠しておらず、スカートは太股を半分も隠していない。
 それでも色気を感じないのは、アリスの子供体型だからこそであろう。
 その割に、手袋は腕まで覆い、ニーソックスは膝よりも上だ。
 手に持っていた斧は、柄が伸びて彼女の身長と同じ長さになる。
 その先端では、黒い宝石が鈍い輝きを放っていた。
 ヒールの高い靴だが、彼女の身長では焼け石に水だ。
 背中から生えた大きな翼は、底無しの闇を湛えていた。
「ふむ、この様な姿も似合うのだな。研究の為にも、是非一度、徹底的にコスプレさせてみたいものだ」
 こんな事を言っているが、秋原はあくまでも真面目である。
 いつか実現してしまいそうな気がするが、それは別の話。
「こ……これは……? ボクの服はこんなのじゃ……」
 変身した当人が、誰よりも驚いていた。
 どうやら、本人にも覚えのない姿になってしまったらしい。
 そんなアリスに、明が言う。
「それが、今の貴女に最も相応しいという事でしょう。己の願望の為に暴力を振るうのなら、悪魔の姿が相応なのでは?」
「くっくっく……なるほどね」
 アリスは、不敵な笑みを浮かべた。
「だったら悪魔で良いよ……。悪魔らしいやり方でいかせて貰うからさ!」
 半ば開き直り気味に叫び、アリスは斧を構える。
 先端の宝石を明に向けると、そこから無数の黒い弾が放たれた。
 明は藤原を下がらせると、再び障壁を展開し、どうにかそれを凌いだ。
 次の瞬間には、アリスが斧を振り被って飛んでくる。
 明は左腕を剣に変え、それを受け止めた。
 火花が散り、鍔迫り合いの緊迫感に満ちた音がする。
 結果は、引き分けだった。
 アリスは数メートル上空へ下がり、明も三歩後退する。
 左腕を人間のそれに戻し、明はスカートをたくし上げた。
 そこから現れる、大量の小型ミサイル。
 それらは、それぞれ違う軌道を描きつつ、標的はただ一人だった。
「くっ……!」
 アリスは舌打ちをすると、斧を大きく振った。
 カーテンの様な黒い障壁が現れ、全てのミサイルを受け止める。
 続け様にミサイルが爆発し、爆音が耳を劈いた。
 煙も収まらないうちに、明は右手の銃を構える。
「スコープ、セット」
 そう言って明が掛けたのは、フレームの太い、レンズの大きな眼鏡。
 ナウなヤングも一瞬で勉強が出来そうに見えてしまう、いわゆる『真面目眼鏡』だ。
 細かいところにも盛り込まれている萌え要素に、秋原も大満足の様子である。
 そして、明は狙いを定め、一撃を放つ。
 乾いた破裂音と同時に、
「うわあぁっ!?」
 アリスの悲鳴が聞こえた。
 空中をふらふら漂いながら、アスファルトに不時着する。
 見ると、翼に大きな穴が開いていた。
 そんなアリスに、明は容赦無く銃身を向ける。
「……もう止めましょう、望月さん。身重の身体なのでしょう?」
 アリスはゆっくりと立ち上がり、攻撃的な目を返した。
「だったら、二対一でも構わないって事だね。本当に良いのかな? 後ろの二人を守る為に、殆ど動かなかったんでしょ?」
「……貴女の理論で言えば、三対二です」
 そう言って、明は再び撃つ。
 今度は、アリスのツインテールの片方を吹き飛ばした。
 纏められていた髪が宙を舞い、バラバラになって落ちる。
「……三発目は、本当に当てなければなりません。どうか、投降して下さい。私は、貴女を傷付けたくは……」 
 明は、出来る限り丸く収めようとしていた。
 二発をわざと外した事は、誰の目にも明らかだ。
 恐らく三発目も、何だかんだで急所には当てないだろう。
 それが、この状況下での精一杯の優しさなのだ。
 アリスが武器を降してくれる事を、藤原は心から祈った。
 藤原もまた、明と同じ事を考えていたからだ。
「アカリン……キミは本当に……本当に……」
 アリスは、俯いて身体を震わせていた。
 そして、次に顔を上げたその時、
「救い様の無いバカ女だよ!」
 説得が無駄である事が判った。
 止むを得ず、明は銃身を急所から外そうとする。
 足や手を狙えば、充分戦闘力は奪えるだろう。
 だが、その時には既に、何もかもが手遅れだった。
「!?」
 吹き飛ばしたアリスの髪の一本一本が、明に向かって飛んでくる。
 糸の様に細いそれらは、見る見るうちに太くなり、最後には蛇になった。
 数え切れない程の蛇が、明の脚に、腕に、首に、全身にまとわりつく。
 襟や袖、スカートから、メイド服の内側にも入っていった。
「きゃああああああああああああああっ!?」
 流石の明も、堪らず悲鳴を上げ、その場に倒れ込んだ。
 銃口にも蛇は侵入し、明は完全に無力と化す。
「あ……や、だ、だめ……そこは……はぁん……くぅ……あぁっ!」
 蠢く蛇の群に、明は声にもならない声を上げる。
 藤原は慌てて駆け寄ろうとするが、
「こ、来ないで……下さい……!」
 明に静止され、退かざるを得なかった。
 そんな明を見下しながら、アリスは彼女に歩み寄った。
 その表情は、子供の様に無邪気なそれだった。
「さて、どーしよっかな〜。服破いちゃおうかな? でも、メイド服は破いちゃいけないらしいし……う〜ん……」
 好きなお菓子を一つだけ選ばされる子供の様な顔で、アリスは考え込む。
 無邪気である事がいかに残酷であるかを、藤原は思い知らされた。
「望月さん……ひゃんっ……や、止め……うわぁあ!?」
「あははは。やっぱりそんな声も出せるんだね。純潔キャラ演じてるけど、エッチな事ばっかり考えてるから、体もそんなにエロくなったんでしょ? それとも、作った人の趣味かな? 巨乳萌えだったのかも」
 アリスの言葉責めに、明は力無く首を横に振った。
 その顔は羞恥心で赤く染め上げられ、目尻には涙を湛えている。
 明の痴態に、アリスは『無邪気』に嗤った。
「きーめたっ。お兄ちゃんを毒した罰として、そのやらしい身体を徹底的に嬲ってあげる。お前が爬虫類相手に感じちゃう様なエッチな女だって事、お兄ちゃんに教えてあげるんだ。で、『こんな目に遭うなら生まれるんじゃなかった。死にたいくらい恥ずかしい』って思う頃に殺してあげる」
 アリスの無慈悲な裁きに、明は声も出ない。
 それすらも、アリスは楽しんでいる様だった。
「じゃあ、こんなのはどうかな? こっちは良心的だよ。『私は、他人の恋人を平気で奪ってしまう、盛りのついた汚いメス豚です。今まで生きてきてすみません。もう二度と生まれません』って謝るだけ。そしたら、ご褒美に今すぐ殺してあげるよ。ね、良心的でしょ? ……さ、選ぶ権利くらいは認めてあげるから、早く選んじゃってよ。言ったでしょ? 『悪魔らしいやり方でいかせて貰う』って。うふふふふふ……あははははははは。あはははははははははははははははははははははははははははは」
 明の顔に、悔しさの表情が浮かぶ。
 思うだけで、意思通りに動く事すら敵わないが。
 しかし、それすらもアリスは気に入らない様だった。
 彼女の表情に、またしても狂気が満ちていく。
「何かな、その反抗的な表情は? 言いたい事があるなら言えば? ……ボクの機嫌を損ねない範囲でさ!」
「あっ……や、や……いやぁああああああああああああああッ!」
 明は悲鳴を上げ、背中を弓の様に反らせる。
 一体、メイド服の内側で何があったのだろうか。
 大粒の涙を流す明を見て、アリスは嗤いが止まらない。
 出せる限りの声を絞り尽し、明はぐったりと脱力した。
 その瞳には感情すら映らず、どこかを虚ろげに見ている。
「自分の立場、解ってるのかな? 僕が本気で怒ったら、こんな小説、あっという間に発禁に出来るんだから。楽に死ねるうちに、さっさと死んだ方が良いと思うよ。僕が優しくしてあげてるうちに、さ」
 アリスの言葉に反応する余力すら、明には残されていなかった。
 蛇がどこを伝おうが、虚ろな目は何も映さない。
 偶にどこかが反射的に動く事から、辛うじて生きている事が窺える。
「……ねえ、聞いてる? まだ死んでないんでしょ? この程度で満足できる訳無いじゃないか。本当は、もっともっと甚振って、苦しませて、辱めてやりたいんだよ。だから、さっさと起きなよ……起きてよ……起きろってば!」
 そう叫ぶと、アリスは踵で明の左手を踏み躙る。
 それでも起きないので、斧の柄で頭を突付いた。
 やはり、動き出す気配は無い。
 いよいよ業を煮やしたアリスは、明の腹を思い切り踏み付けた。
「がッ……あぁ……くぅ……」
 明は、断末魔にも似た呻き声を上げる。
 ずっと不機嫌だったアリスの表情に、ようやく無邪気な笑顔が戻った。
「やっぱり死んだフリしてたんだね。最後まで汚い卑怯者なんだから。……これで、少しは解ったかな? 恋人を奪われる苦しみっていうのが。信じられないくらいの涙が、いつまでも止まらないんだよ。刺されてるみたいに胸が痛くて、絶望感で頭が真っ白になっちゃって……」
 そこで、アリスは明が気を失っている事に気付く。
 アリスは憎しみの限りを瞳に込め、明を見下した。
 聞こえていないであろう明に、冷たい声で告げる。
「念の為言っとくけど、ボクが満足しても終わりじゃないよ。お腹の中のこの子だって、きっとお前を甚振ってやりたいハズだから。二人分の罰を、死ぬまで……ううん、死んでも受け続けて貰うね。多分、元の形すら判らなくなっちゃうと思うよ。くっくっくっく……あははははははははははははははははははははは」


「離せよ秋原! 放っておける訳無いだろ!」
 藤原は、秋原の制止を振り切ろうと必死になっていた。
 明に下がるように言われたものの、これはとても見ていられない。
 明が傷付けられるのも、アリスが傷付けるのも。
 こんな事が、まかり通って良いものか。
 一方、秋原は冷静だった。
 藤原から見れば、あるいは楽観的だったのかも知れない。
「まあ慌てるな、藤原。魔法少女に触手はつきものだからな。アリス嬢ではなく明さんが受けているのが少々引っかかるが、エロければ正義だ。荒んだ現代社会のオアシス、もう暫し楽しみたいと思わんか?」
「思わねえよ!」
 藤原は秋原の手を振り解くと、二人の方へ向かった。
 だが、一歩目でその足は止まる。
 秋原が、藤原の服の襟を掴んだからだ。
 グイと引き戻され、百八十度回される。
 そこには、いつになく真剣な秋原が居た。
 いつにない剣幕に、藤原は言葉も出ない。
「素人が図に乗るなよ。貴様に一体何が出来る? 小悪魔魔法少女と最終兵器メイドの真剣勝負にしゃしゃり出て、無事で済むと思うのか? だから、明さんは貴様を拒んだのだ。それを無駄にする気か!?」
「…………」
 秋原の言葉は、藤原にとって残酷な程に的確だった。
 確かに、別段特殊な能力を持っていない自分が、何か出来る訳が無い。
 自分が何か出来るのであれば、既に秋原が動いているだろう。
 それでも彼が動かないのは、先ほどの大量出血と、為す術が無いからであろう。
 いかに秋原が鉄扇柔術の達人と言えど、この状況は無理がある。
 わざわざ足を引っ張るくらいなら、大人しくしておいた方が良い。
 秋原は、彼なりにベストを尽くしていたのだ。
 感情的になっていた自分を、藤原は悔やむ。
 だが、それでも藤原は動かずにはいられなかった。
 夕も真琴も巻き込んで、事態は確実に大きくなっている。
 当事者である自分が、明やアリスを差し置いて、身の安全だけを考えていて良いのだろうか。
 このままでは、明は確実にアリスに殺される。
 ……『殺される』という表現が適切か否かは定かでないが。
 そして、アリスは『人を殺した』という事実を背負うことになる。
 身籠った子を産めば、その子は『人を殺した母親の子供』という烙印を押されるだろう。
 これでは、誰一人として幸せになれはしない。
 全員が、重過ぎる何かを一生背負わされるだけだ。
 秋原の言葉は、恐らく間違ってはいないだろう。
 しかし、何もかも理屈通りに動ける程、器用に立ち振る舞えない時もある。
 藤原は、秋原の目を見据えた。
 意外な反応に、秋原は少し驚いた様だった。
「確かに、俺が出ても意味無いかも知れない。けど、事の発端は俺なんだろ? 俺が出ないでどうするんだよ。俺は、明さんやアリスが傷つけ合ってるのを、黙って見ていたくない。俺にとっては、二人とも……大事な存在なんだよ」
 秋原に、自分の思いの全てをぶつける。
 秋原は眉一つ動かさず、藤原を見据え返した。
 少しの間、睨み合う二人。
 そして、秋原が小さく笑った。
「ふっ……認めたくないものだな、若さ故の過ちというものは」
 秋原が手を離し、藤原は自由になる。
「秋原……」
「しかし、ついに貴様もハーレムエンドを選ぶ様になったか」
「……何でそうなるんだよ」
 シリアスな雰囲気が続いていたところへの不意打ちに、藤原は思わずツッコんだ。
「ふっ、恥じる事はないぞ、藤原。巨乳メイドが欲しい一方、つるぺた幼女も欲しい。漢として、実に自然な欲求だ。否、『志』と称しても問題無かろう。この手の話の主人公は、十中八九優柔不断。言い換えれば、今までにそこら中でフラグを立てている筈だ。貴様の頑張り次第では、両取りも不可能ではあるまい」
「あのな……」
 滅茶苦茶な事を言い出す秋原に、藤原は溜息を吐く。
 だが、秋原の真面目な部分を、藤原はちゃんと知っている。
 美少女について熱く語る一方で、その目は何手も先を見据えているのだ。
 長い付き合いだから判る、表面には現れない部分。
 それを知っているから、藤原は秋原を心のどこかで信用してきた。
 そんな彼の反対を押し切ったのだから、いい加減な行動は出来ない。
「じゃ、行ってくる」
 軽く告げると、藤原は二人の方へと向かう。
「待て、藤原」
「……今度は何だ?」
「今の貴様……そこそこ良い漢だぞ」
「それって褒めてるのかよ……」
 藤原は苦笑すると、今度こそ二人のもとへと向かう。
 彼に聞こえないように、秋原は漏らした。
「これで、奴の死亡フラグが立ったか……。次は俺の時代だな」


 目の前に現れた藤原に、アリスは驚きを隠せなかった。
「お、お兄ちゃん!? 危ないよ、こんなトコに来ちゃ! もう、ボクの勝ちは決まったんだよ。アカリンが『出て行く』んだから、もうお兄ちゃんは……」
 そんなアリスを尻目に、藤原は倒れている明を見る。
 身体中を蛇が這い回り、うなされている様だった。
 藤原は明の傍に座り込み、彼女に纏わりつく蛇の一匹を鷲掴みにした。
 アリスの顔から、血の気が引いていく。
「だ、ダメだよお兄ちゃん! 危ないよ!?」
「こいつは元々お前の髪だろ? 要するにお前の身体の一部だ。本体のお前にそのつもりがないなら、俺を襲ったりしない筈。そうだろ?」
 素っ気無く答えると、藤原はその蛇を遠くに放り投げた。
 やはり、蛇に抵抗する気配は無い。
 内心ホッとすると、藤原は一匹ずつ手掴みで蛇を隔離していく。
 爬虫類独特の冷たい感触が伝わるが、そんな事は気にも留めない。
「アカリンの味方をするなら……お兄ちゃんだって……!」
 アリスは、藤原に向けて斧を構える。
 だが、その声も身体も震えていた。
 表情からは動揺が絶えず、若干逃げ腰である。
「……お前がそうしたいなら、好きにして良い」
 藤原は冷静に対応し、尚も蛇の相手をしていた。
 この蛇が襲ってこないなら、アリスの威嚇もハッタリだ。
 そう判断出来るのも、ちゃんと肝が据わっているからだ。
 それも偏に、秋原のお陰だろう。
 彼に一度は止められたからこそ、自分の意思をハッキリさせる事が出来た。
 あのまま勢いで突撃していれば、判断力を欠いていたに違いない。
「……ごめんな、アリス。こうなったのも全部、俺の所為なんだよな。なのに、俺は一言も謝ってなかった。本当に最低だ。だから、もしも俺の事が許せないんだったら、したい様にして良いから。その代わり、その時は、明さんを許してやってくれないか? 元々、明さんに責任は無いんだ。これ以上は勘弁してやってくれ」
 藤原は、諭す様にアリスに話しかける。
 今なら、自分が持てる最大限の優しさを以て、彼女と接する事が出来る気がした。
 先程までは、記憶に無い事で騒動が起きる事を嫌悪していた。
 だが、今となっては、そんな事は大した問題ではない。
 明も、アリスも、この終わりの無い物語から救い出してやりたい。
 その思いだけが、藤原を動かしていた。
「それに……今みたいなお前は、正直あんまり見たくない。子供は嫌いだけど、お前がガキみたいに無邪気に笑ってるのは好きなんだ。何て言うか……俺には無いものを持っているんだな、って思う」
 ちなみに、藤原にとってはあくまでも説得であり、決して殺し文句ではない。
「そんな……そんなのって……!」
 アリスは、当て所の無い感情に苛まれながら、よろよろと二人から離れていった。
 見える所から蛇が居なくなり、いよいよ残るは服の内側だ。
 流石に少々躊躇われるが、悠長な事は言っていられない。
 色々な意味で覚悟を決め、藤原はゆっくりと長いスカートを捲っていく。
 スラリと長い脚が露出し、ニーソックスを繋ぐガーターベルトが見え……。
「…………あれ?」
 蛇が一匹も居ない事に気付いた。
 よく見ると、ダークブラウンの細い糸が、何本も脚にくっついている。
 色や質感から考えて、アリスの髪と考えるのが妥当だろう。
「あいつから、明さんを攻撃する意思が消えたって事か……?」
 藤原が首を傾げている最中、明がうっすらと目を開ける。
「ん……み、光……様……」
 小さく呟くと同時に、一気に彼女の目が冴える。
「光様!?」
「お、気が付いたか。良かった……」
「光様、来てはいけないとあれ程……?」
 早速説教っぽい口調で話し始めた途端、明は口を止めた。
 どうやら、何か違和感を感じているらしい。
 上体を起こし、その部位を見る。
 スカートが捲れ、ガーターベルトまで露になっていた。
 あと少しで、下着まで見えてしまいそうな程だ。
 そのスカートの端は、藤原の手によって握られている。
「!?」
 二人は同時に顔を真っ赤に染め、百八十度回って背を向けた。
「あ、あの、光様……」
「わ、悪い! そういうつもりじゃなくて、俺は、その……」
 メロスが物語の最後でそうなった様に、赤面する藤原。
 シリアスな空気だったからこそあんな真似が出来た訳で、流石にこれは恥ずかしい。
 どう説明しても怒られそうで、それどころか撃たれてしまいそうで、なかなか次の言葉が出ない。
 もたもたしているうちに、明の方から藤原の前へ回り込んでくる。
 だが、意外にも、その表情は穏やかなものだった。
「心配なさらなくても、判っていますよ。……ありがとうございました」
 そう言って微笑むと、明は藤原の後頭部へ両手を回す。
 明はそっと目を閉じ、藤原は明の顔へと引き寄せられる。
 ――ああ、またこれか……。
 このままでは、朝の二の舞である。
 だが、今日は何かと緊張しっぱなしで、一度緩んでしまった以上、身体すら自由が利かない。
 仕方が無いので、藤原は目を閉じ、明に全てを任せる事にした。


「何で……どうして……!?」
 顔を離した藤原と明は、アリスの悲痛な声が聞こえ、彼女の方を向いた。
 二人から少し離れた場所で、彼女は座り込んでいる。
「ボクはこんなにも、何年も前からずっとずっと、お兄ちゃんが大好きだったのに! やっと振り向いてくれて、本当に嬉しかったのに……! この子が出来た事を知った時は、確かに驚いたよ。でも、ボクとお兄ちゃんが愛し合った証なんだって思うと、なんだかくすぐったかったんだよ。他の物なんて、本当に要らなかったんだ。ただ、お兄ちゃんとこの子と三人で、円満に暮らしたかったんだよ。アカリンに家事を教わったり、マコちゃんからこの子を守ったりもしたかった。ゆーちゃんとバストアップの方法を片っ端から試したりもしたかったんだ。なのに……なのに……アカリンが全部奪ってしまった。この子が生まれた時に、ボク一人でどうしたら良いんだよ……!?」
 アリスの頬を、滝の様な涙が伝っていた。
 その言葉は、二人の胸を痛ませる。
 藤原は、明とアリスの為に行動したつもりだった。
 だが、現実にはアリスは泣いている。
 アリスを孕ませた上に裏切った事になっているのだから、当然だろう。
 ここで、彼女を救う言葉を掛けられなくもない。
 しかし、彼女が期待する様な感情を抱いてなどいないのに、果たして意味があるのだろうか。
 誠意とは何だ、とある人は言った。
 今の藤原には、恐らく答えられないだろう。
 カボチャの山ではどうにもならない事くらいは、理解しているが。
「たった一つの小さなワガママさえ叶えてくれないなんて、神様は残酷だよ……。それとも、中途半端に夢を見させて、救済のつもりなのかな? 十年前の出逢いの結末には、こんなのお粗末過ぎるよ……!」
 その時、アリスの周囲の空気がピリピリと震え始めた。
 どうやら、何かが彼女を中心に集まっている様だ。
 形容出来ない程に重い何かが、風船の様に膨らんでいく。
 アリスは座ったまま斧を構え、先端の宝石を天に向ける。
「直向きな想いが実らない世界なんて……全部壊れちゃえば良いんだ! ボクとお兄ちゃんの仲を認めないくらいなら、皆死んじゃえば良いんだッ!」
 その瞬間、破裂しそうな程に収束されていた魔力が、斧の先から黒い光になって発射された。
 まっすぐ天へと伸びていく光線は、空を支える柱にも見える。
 それは空の彼方で何本にも分かれ、噴水の様に各所に降り注いだ。
 着地点と思われる各々の場所から、凄まじい爆破音が聞こえる。
「あ、アリス……お前……」
 いよいよ見境の無くなってきたアリスに、藤原はまともに声を掛ける事すら儘ならなかった。
 頑なに現実を拒み続け、それを壊す事さえ厭わなくなったアリスに、どんな言葉が届くのだろう。
 全ての魔力を吐き出したアリスを中心に、再び空気が重たくなっていく。
 藤原はアリスの許へ駆け寄ろうとしたが、明に遮られた。
「枝分かれの先ですらあの威力ですよ!? 危険過ぎます、自重してください!」
「自重しなかったから、明さんを助けられたんじゃないのか!?」
「お気持ちは察しますが、今の望月さんには、もう……誰の言葉も届きません。恐らく、体力を使い果たすか、何もかも壊し尽くすまで止まらないでしょう」
「そんな……!」
 明に事実を告げられ、藤原は項垂れるしかなかった。
 確かに、今のアリスには、何を言っても無駄だろう。
 彼女が力尽きるか、全てが壊れるまで、『現実』への攻撃は続くだろう。
 それを、黙って見ているしかないのだろうか。
 アリスが、無差別に破壊を続けるのを。
 そこで、藤原はある不安を抱いた。
 明が、このままアリスの破壊活動を見逃す訳が無い。
 自分と違って、明には武力行使が出来る能力が備わっているのだから。
「明さん、まさか……!?」
「ご安心下さい。光様が想像している様な事はしません。望月さんの命を奪って事無きを得ても、何の解決にもなりませんから。それに……何の罪も無い胎児を、巻き添えには出来ません」
 優しい笑みで答える明に、藤原は胸を撫で下ろした。
 だが、それならば、一体どうするというのだろう。
 アリスと胎児二人の為に、他の総てを犠牲にするつもりなのだろうか。
「……策が、一つあります」
 そんな藤原の疑念に答える様に、明は言った。
「変身前の望月さんは、魔法を使う際に呪文を唱えていました。『Sequimini me』……ラテン語で『我に従え』という意味です。ですが、変身後は一切呪文を唱えていない……どういう事か判りますか?」
「どうって……まあ、変身したから呪文を唱える必要が無くなったんじゃ……あっ!」
 藤原が何かに気付き、明は頷く。
「そうです。今の彼女の強さは、変身によるもの。あの大斧の先端の黒い宝石が、望月さんの魔法を手助けしているのでしょう。だから、詠唱という無防備な時間を要さず、強力な魔法が使えるんです」
「じゃあ、あれさえ取り上げてしまえば……!」
 藤原の表情に、再び灯火が灯った。
「私に内蔵されているクオーツ時計によると、あの魔法は、発射後十三秒の隙が生じます。それ以上経過すると、魔力が充満して常人は接近すら出来ません。ですので、チャンスは次の十三秒。その間に、あの宝石を取り上げるか破壊して下さい」
「判った。……でも、次の発射は見逃すのか?」
 作戦が概ね固まり、藤原は明に尋ねる。
 この作戦が成功すれば、確かに三発目は阻止出来るだろう。
 だが、二発目はもう防げない。
 あんな威力の魔法を再び撃たれたら、どれ程の被害が生じるのだろうか。
「もちろん、そんな事はさせません。私が、同威力の砲撃をぶつけて相殺します。望月さんの制止を光様一人に任せるのは不安ですが、仕方ありません」
 つまり、明が二発目を食い止め、藤原が三発目を阻止するということになる。
「でも、大丈夫なのか? 真正面からの撃ち合いなんて、一歩間違えたら……」
「恐らく、無事では済まないでしょうね。押し負けた片方だけかも知れませんし、或いは二人とも……」
 明の表情に、一瞬陰りが見える。
 強引な止め方だから、リスクは回避出来ないのだろう。
「ですが、代案が無い以上、やる他ありません。光様が望月さんを止められると信じますから、光様も私を信じて下さい」
 すぐに表情に灯を灯し、藤原を見据える明。
 心配させまいとする、明なりの配慮だろう。
 だから、藤原もこれ以上の心配は止める事にした。
「……明さんは、どうしてそこまで尽くしてくれるんだ? 素人考えだけど、明さんならアリスを撃ち殺して終わらせる事も出来るんだろ? 胎児まで巻き込みたくない気持ちは解るけど、本当にそれだけなのか? それだけで、こんな危険な策を使おうとしているのか?」
 代わりに、藤原は明に問う。
 確かに、自分はアリスを助けたいと願った。
 自分の所為で起きた争いに、これ以上犠牲者を出したくないからだ。
 だが、それだけで、わざわざ危険な手段を選ぶだろうか。
 命を賭してまで、恋敵を救おうとするだろうか。
「だから、です」
「…………え?」
「光様が望んだからですよ。それだけで充分です。人を殺める為に作られた私が、人を愛する事を知った。これも偏に、光様のお陰です。ですから、光様が望む事ならば、何でもやり遂げてみせます。私に残された時間は、全て貴方に捧げる為にあるのですから」
 柔かい笑顔で、告白にも似た答えを返す明。
 藤原は、顔の温度が上昇するのを感じながら、ハッとさせられた。
 明は、損得勘定のみで動く程、軽率な女性ではない。
 奉仕の精神を尊び、常に誰かの為に行動する。
 誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも誇り高い。
 この世で右に出る者の無い、地上最強のメイドなのだ。
 そんな彼女に、こんな質問をした自分が馬鹿だった。
 そう考えている最中、明は一歩踏み出し、背伸びをし、藤原と唇を重ねる。
 藤原は、不意打ちに成す術も無く、受け止めるだけだった。
 『兵器』になる前の、もしかしたら最後になるかも知れない『女性』としての明。
 それを、藤原は黙って受け止めていた。
 唇を離すと、明はにっこりと微笑む。
「……では、行ってきますね」
 そして、明は宙に浮かんだ。
 背中に翼の様なものが生えているが、それを羽ばたかせた訳ではない。
 だから、『飛んだ』ではなく『浮かんだ』なのだ。
 明は、アリスの真上、空高くへと移動する。
 アリスが真上に黒い光を放つと同時に、明は白い光を真下に放った。
「……にしても、同威力の攻撃をぶつけるなんて……爆破オチじゃないだろうな?」
 藤原が疑念を抱くと同時に、二人の攻撃がかち合った。
 そこを中心に、超新星を思わせる程の光が放たれる。
 それは、愛も、争いも、今までの展開も、何もかもを包んでいった。


「……藤原」
「秋原か……どうした?」
「気付いた事がある……」
「夢オチ……だろ?」
「ふっ……よくぞ気が付いた」
「まあ、二回目だしな」
「さあ、目覚めよう。我々も、読者も……作者も」



渡る世間は夢ばかり 完

2007/06/25(Mon)15:50:49 公開 / 月明 光
■この作品の著作権は月明 光さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ごめんなさい。こんなオチで本当にごめんなさい。
という訳で、普通の小説でやったら十中八九駄作の烙印を押される夢オチで締めました。
一部では、名物的存在になってはいるんですけどね。
このサイトからは何故か消えてしまいましたが、前にも一度夢オチネタを投稿しました。
そして性懲りも無く、更に妄想をグレードアップさせた夢オチを書いた訳で。
どうしても、定期的に書きたくなるんですよね。こういう、本編では絶対にありえない展開が。
某26秒でアーツに負けた格闘家くらい文句が飛んできそうな気がしますが、私自身は楽しかったので満足。
なので、次からは本編復帰……だと良いですね。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。