『暑』 ... ジャンル:ショート*2 リアル・現代
作者:某人                

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君の足元には蝉の抜け殻があった。君はその上にそっと足を重ねる。さくっという乾いた音を立て、蝉の抜け殻は君の足の下で脆く砕けた。
君は額に浮いた汗を拭おうともせず歩いている。燦燦と注ぐ夏の日差しはひどく熱を持ち、それを一身に浴びる君はまるでゆるゆると溶解していく氷のようだ。
埃っぽい家々が左右を占める隘路は、そのまま真っ直ぐ影の中へ伸びている。
君は右手に提げた大き目の鞄に目を落とす。その中には、この世に出て僅かに五分で生を終えた君の子供が入っている。小さな右手の甲に浮いた死斑には、それよりもなお小さい蝿が一匹。
君は先の暗がりを目指し、歩みを続ける。一歩進むごとに鞄の中の子が揺れ、その度に微かな腐臭が立ち昇り、君の鼻に届く。
君が愛した子。君が待ち望んだ子。その感情も、一目我が子を目にした瞬間に失われた。
白く濁った単一の大きな瞳。幼子の陰茎のように垂れた鼻。人ならざるその風貌を前にして、君の心は壊れてしまった。
君の子供は保育器の中で沢山の管を繋がれたまま横たわっていた。産声を上げることもなく、母乳を飲むことも叶わず、誰かの肌の温もりを感じることなく、一人で息絶えた。
君は歩みを止め、その場に跪く。柔らかな地面は君の膝を受け止め、そして君の子供に居場所を与えるのだ。
鞄を傍らに寝かせ、君は我が子のための墓穴を掘る。
君の手が地面を抉り取る。指の皮膚が破け、血が滲んでも構うことなく土を掻き出す。
傷ついたところが痛むのか、君は眉根を寄せている。その横顔を美しく感じた。
やがて、君の子供に誂え向きの墓穴ができ、君は鞄の中から我が子を取り出した。
熟れ過ぎた果実のような肌は、君の指が触れてもそれを押し返すことなく、ぐにゃりと沈み込んだまま。
少しの間、君は我が子を胸に抱き、じっとしていた。辺りには蝉の声が満ちていた。
やがて君は我が子をひいやりとした墓穴の中に寝かせ、土を一掴みずつ掛け始めた。とてもゆっくりではあるが、着実に君の子供は土に隠れていった。
子供の姿がすっかり隠れると、君はその上に、使われることのなかったお包みを置き、その上からさらに土を掛けた。
しばらくの間、君はその場でじっとしていた。油蝉やにいにい蝉の鳴き声に変わって、蜩の声が辺りに響き始めるまで、君は地面を見つめていた。
君は涙を流していた。君はそのことに気付いていたのだろうか。

2007/04/06(Fri)21:57:11 公開 / 某人
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■作者からのメッセージ
『千文字以内に書き終える』を目標に書いた作品です。
登場人物の容姿や思考、二人の関係などの描写を書いていないのは、読者の方にそれらを自由に想像してもらおうという考えによるものです。
皆さんはこの話に何を見出すのでしょうか?
切なさ? 恐怖? それとも……。

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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。