『だからその手を放して 1』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:キイコ                

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 今日も今日とてあたしは笑う。いつも通りの朝の通学路、いつも通りに親友であるところの由紀におはようって笑う。四月なかばの風は濃厚に緑の匂いをはらんでいて、まだねむたいあたしの頭を少しだけすっきりとさせてくれた。
 由紀はいつも通りに、角の公園で待っている。すべりだいと砂場とブランコ。毒々しいまでにカラフルな動物たちのモチーフが、石灰でできた像となってこちら側、道路のほうを向いている。遊具はそれだけで、小さいころは隣町の公園にあるシーソーや鉄棒や、ぐるぐる回るタイヤのついたアスレチックなんかがうらやましくてしょうがなかった。
 ちょっとだけ貧相で愛しいあたしたちの公園。長い髪の、線の細い、いかにも軽そうな女の子を乗せて揺れる安っぽいピンクの象の玩具は、心なしか誇らしげに見える。手を振るあたしに目を留めて、由紀は勢いよく立ち上がった。
「おそーい」
「あはは、ごめん」
 笑いながら手を合わせると、由紀はそれを無視してさっさと歩き出した。急いで追いかける。
「待ってよ、ごめんって」
 怒らせてしまったかと思ってもう一度謝りかけたけれど、由紀が急に振り向いたからあたしはびっくりして立ち止まった。大きな瞳をゆるやかに細めて、由紀はあっさりと微笑む。
「言い忘れてた。おはよ、ちあき」
 目の前の女の子と、ようやく満開になったその背後の桜があまりにも似合っているから、あたしはすごく嬉しくなった。嬉しくなったから笑っておはようを言った。
 それからあたしたちは二人で歩き出した。この道を通って学校へ行く生徒はあまり多くないので、あたしと由紀はぱりぱりした石の敷かれた黄色い歩道をほとんど独占している。車道と歩道の間にある花壇では雑草が土を隠して、名前を知らない灌木が白い花をいっぱいにつけていた。
 一週間前に始業式を済ませ、高校三年生になったあたしたちだけれど、新しいクラスに対する緊張感なんてものはまったくない。あたしたちが所属する理系の生徒数が極端に少ないために、全員顔見知りのお友達と言ってもいいような顔ぶれなのだ。
 丸二年通ってすっかり見慣れた、古びた校門を由紀とふたりでくぐる。灰色のコンクリート塀に寄りかかった生活指導の先生が、口を隠さずに大きくあくびした。花の重みに枝を柔らかくしならせる桜の樹、登校時の校門付近は生徒で雑然とごったがえしている。古文の教師を見掛けて、由紀がなにかを思い出したように聞いてきた。
「ね、課題やった?」
「やってないよー。また由紀に写させてもらおっかな」
 そう言ってあたしがわらうと、由紀はあきれたように頬を膨らませた。作為的にすればぶりっこっぽく見えるようなしぐさが、呆れるくらいさまになっている。
「もー、そんなんじゃいつまで経っても自立できないんだからね」
 まったくちあきは、と言いかけた由紀の膨らんだほっぺが、いきなりきゅうって引っ込んだ。
 あれ、なんか顔、赤いよ、
 そう思って振り返ると、べしっと鈍い音がした。
 真っ黒いエナメルのスポーツバッグが、あたしのおでこを直撃クリーンヒット。
「……いたい」
「あー、わり。ちっさくて見えなかった」
 そう言って笑う目の前の幼馴染は、ちっとも申し訳なさそうになんて見えない。サッカー部指定の、ロゴと背番号が入ったグレイと赤のジャージ姿で、スポーツバッグを右肩に掛けなおす。
「このあたしが見えないなんて、育ちすぎて老眼始まっちゃったんじゃないの? 恭平」
 まったくにょきにょきにょきにょき伸びなさって、見上げるこっちの身にもなってほしい。彼が小学校から夢中になっているサッカーって、そんなに身長を必要としていたっけ? そうだ小学生のころは、
「つい最近まであたしよりちっちゃかったのにね」
「いつの話だよ」
 そう言って恭平はあたしの頭を軽くこづく。乙女の頭部はもっと尊重してほしい。そう思って口を開きかけたら、今までずっと静かだった由紀が消え入りそうな声を出した。
「あの、……今日は朝練、ないの?」
 恭平が由紀に視線を向けた。由紀は下を向きながらも健気に続ける。
「ええと、瀬野くんがこんな時間に来るの、珍しいから」
 ああ、と言って恭平は軽く笑んだ。男子高校生はえてして可愛らしい女の子には優しい。
「寝坊してさ。焦ってたらちあきがいたから、つい本能でべしっと」
 あたしへの攻撃を本能に組み込まないでほしい。というかそれじゃただの八つ当たりじゃないか。
 あたしにはぜったい見せないようなよそゆきの笑顔を由紀に振り撒いて、恭平はグラウンドの方角へ走っていった。いくらかっこつけても数分後には怖い監督に怒られるのだ。それを由紀に言おうと横を向いたあたしは、でも、口を開けなかった。グラウンドの方向をぼんやり見やる由紀の耳が、まるで熱でもあるんじゃないかってくらいに赤かったから。
 まったくわかりやすいねお嬢さん!(そんなところもたまらなくかわいいよ!)
 HAHAHAとか言いながらアメリカちっくに英語でちゃかしてみたかったけど、あたしの英語力ではそれは不可能なので、代わりにあたしは由紀の頭をぐりぐりと撫で回す。乱れろさらさらストレート。後でちゃんと直すけどね。
「わ! なにっ?」
 ぼーっとしていたところをいきなり撫でくり回された由紀が慌ててこちらを向いた。
「ん? 由紀はかわいいなーって」
 由紀はさー、あんなやつのどこがいいわけ? 笑いながらからかってやりたかったのに、その言葉がのどのところでつっかえてでてこない。
 ほんと、どこがいいんだろ。聞いてみたいのは本当は、別の人だ。

 二時間目の後の休み時間、恭平がうちのクラスに来た。サッカー部の友達を二、三人引き連れて。数学の教科書を借りに。
「五時間目までには返してよ」
 うちのクラスも今日、数学あるんだから。そう言って鞄から教科書を取り出した。渡す時、ほんの少し指が震えた。
「おうよ」
 まるで綿埃みたいに軽い返事をして、恭平はそれを受け取る。大きな手に包まれて、分厚い「新版・数学V」が急に薄っぺらく小さな冊子にしか見えなくなる。なんとなくあたしはうつむいてしまった。恭平の、こげ茶の靴ひもが通されたベージュのコンバース。
 恭平たちが騒がしく行ってしまった後、あたしの背後で加奈子がため息をついた。格好いいよねえ、瀬野くん。尋常じゃない熱意を持って鏡をみつめているので、まるで鏡の中の自分に話しかけているみたい。
 あたしは首をかしげずにはいられない。そうかなあ。
 恭平はきっと背の高さでだいぶ得をしているのだろう。色はちょっと黒すぎるように見えるし、大きな口は格好いいというよりはむしろユーモラスだ。長年一緒にいて、他の男の子たちと比べることをあまりしないせいかもしれないけれど。
 けれど、加奈子の隣で、教室のドアをじっと見つめている由紀を見るとあたしはつい納得してしまう。そうかもしれないなあ。
 まだ朝と言っていいような時間帯、だれかが堪えきれずに漏らしたあくび。そこかしこで紺の制服が塊を作り、どこか秩序だった喧騒を作り出しているそんな中で、恭平が開いて閉めた、教室のドア。そこが香ばしい匂いをもって色づいてしまいそうなほど、由紀の視線は熱い。
「ちあきは、」
 ぼうっとした口調で由紀が呟いた。
「仲いいよね」
 瀬野くんと。言葉の続きを察して、あたしは苦笑する。うすい唇から漏れた、嫉妬なんて微塵も感じられない、まぶしいくらいに清潔な憧憬。そうそうそうだよねえ、と加奈子がはしゃいだ声を出す。三年生になってますます化粧が濃くなったみたいだ。マスカラをたっぷりぶ厚く塗られて、加奈子の睫は必死に重力に逆らっている。それに仁美が便乗した。さらりとこう続ける。くっついちゃったりしてね、そのうち。それを真に受けて、由紀がそっと睫を伏せる。頬に伸びる長い影。
 あたしの胸が締め付けられる。由紀は悲しい時、本当に辛そうな顔をする。
 加奈子と仁美は、由紀の好きな人を知らない。由紀はまだ、誰にも知られていないつもりでいるのだ。
「何言ってんの。こういうのはね、腐れ縁って言うの」
 安心させようとわざとぶっきらぼうに返すと、由紀はなぜだかあわてた様子になる。
「あ、ちがうの、今のはね、わたしが瀬野くんを特別気にしてるわけじゃなくてなんていうか」
 宛先不明の弁解をする由紀を加奈子と仁美が不思議そうに見やって、すぐに状況を理解したように笑った。あたしは二人を代弁するように口を開く。
「だいじょうぶだよ、ちゃんとわかってるから」
 由紀はあからさまに安心した顔をして、でもその後すぐに怪訝そうに首をかしげた。
「なにを?」
 あたしは他の二人と目配せをする。
「由紀が“瀬野くん”をだーいすきだってこと」
 大丈夫、協力するから。腐れ縁のあたしがいるんだから由紀ちゃんは無敵だよ。そう言って笑って見せると、由紀は世にも可憐にはにかんだ。
 ちくちくちくちく、さっきから何かが胸を刺す。
 その鋭い針の正体をあたしは知っているけれど、隣で照れている大好きな女の子にはそれをぜったいに教えてあげない。あたしはあまり性格がよろしくないから、友達はもとより自分の気持ちに嘘をつくことにも全くもって抵抗を感じないのだ。
 だから胸の痛みを親友に打ち明けて、彼女の困った顔をわざわざ見たりはしない。恋か友情か、なんて陳腐な二択を由紀に迫りたくはない。当のあたしの答えはとっくに出ているのだから。
 加奈子と仁美がはしゃいでいる。友達の好きなひと、というのはいつだって関心の的なのだ。あたしは不思議なほど落ち着いていた。そう、腐れ縁のあたしがついているのだから、由紀は無敵だ。かわいくて自慢のあたしの親友。彼女の遅い初恋は、きっと上手くいくはずだ。そしてあたしはそれを喜べるはずだ。





 帰り道、由紀と別れてあたしはひとりため息をつく。また明日と手を振った、屈託のない由紀の笑顔を思い出して。
 ゆっくり歩を進めるあたしの横を、小さな雑種犬が駆けていく。飼い主だろうか、あたしの前を行く上下ジャージのおじさんを追いかけてじゃれついた。肩に掛けた鞄を、オレンジの夕日が斜めに照らしつける。
 教室では即座に透き通った網が編まれた。仲良し同士の視線で作られた丈夫なネットワーク、運命共同体。あたしはそれに喜んで編みこまれるつもりだった、けれど。
 何かがあたしの中をざわつかせる。恭平が由紀に向けたあの笑顔を思い出して、指の先っぽの温度が少し、下がる。
 しっかりしろ、まったくもう。あたしは道端に転がった小石を思い切り踏みつけた。ローファーの裏からわずかに感じ取れる異物感があたしの平静を保つ。
 由紀が自分の思いをあからさまにしたことを疎んでいるわけではない。むしろ安心感があった。これであたしは堂々と由紀に協力できる。どっちつかずの今までの状況では、あたしは自分の気持ちを漏らしてしまうことを常に怖れていなければならなかった。あたしはあたしの先手を打ってしまいそうになる計算高さをいつも憎んでいた。だけど、逃げ道をなくしたあたしはもう安心、きっと沈黙を貫ける。そう考えてほっとした。手を軽く振って、指先の鈍い痺れを追い払う。
 人はあたしを歪んでると言うかもしれない。友達にはどんなことでも打ち明けるべきだ、それをして壊れてしまうような間柄など本当の友情じゃない、と。
 それでもあたしは構わない。別に、自己犠牲だとかそういうものに酔ってるんじゃない。友達に好きな人ができたら応援してあげたいし、そのためなら自分に出来ることはしたい。それだけだ。誰かのために動くにはいつだってそれなりの覚悟がいるんだから、こういう選択をしても後悔はしないんじゃないかと思うのだ。
 ただいま、と家のドアを開ける。その途端にポケットで携帯が振動した。携帯を取り出すと、由紀からメールが来ていた。

 今日はありがとう。今まで黙っててごめんね。協力するって言ってくれて嬉しかったよ。ちあきに好きなひとができたときは、私もぜったい応援するからね。

 ぜったい応援するからね、の後にピースマークの絵文字。あたしの四角くて白い携帯電話の中で、由紀が微笑んでいる。あたしは背後のドアに体をゆっくりもたれさせて、なんだか少し笑ってしまった。
 あたしの願いは一つだけ。由紀に、ずっとそのまま笑っててほしい。お願い、気付かないで。
「……ありがと」
 だから今日も今日とて、あたしは笑う。








2007/03/28(Wed)19:27:31 公開 / キイコ
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■作者からのメッセージ
少女マンガチックなものを書きたくなりました。
更新は遅いと思われますが、お付き合いいただけるとうれしいです。

3月28日 改稿。思ったより進みが遅くなってしまいそう。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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