『踏み切りのある街』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:キイコ                

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 A.踏み切りの音



 バスのステップに足をかけた瞬間、踏切の鳴る音がした。
 どこか間延びして、嫌になるくらい平和じみた警告音。やっときたこのバスを待っている間に何度も鳴って、すっかり耳についてしまった警告音。頭を後ろに振り向けても、その音のもととなっているはずの線路は見えない。ため息をついた理由はむろんそんなことじゃあなくて、その方向に残してきたものを思ったせいだった。
「乗らないんですか」
 うんざりしたような声が聞こえて、俺はようやくバスを引き止めてしまっているという事実と、後ろに並ぶ人たちの迷惑そうな視線に気付く。すみません、と小声に謝って、足早に乗り込み、一番後ろの座席についた。窓の外を見る。未練がましく、またあの音が聞こえやしないかと。
 線路の脇の、小さな公園。
 今日、俺はそこに彼女を置いてきた。久しぶりに会った、なによりも大切なはずだった、彼女を。
 踏み切りの音に混じって聞こえたような気がした、かすかな泣き声。
 彼女のものじゃない。


 乗客の物思いになど気も留めずに、バスは滑らかに突き進む。ほとんど勇壮にみえるほど。その頓着のなさに圧倒されて、俺はどこに向かうつもりだったのかわからなくなってくる。いや、もともと向かう場所などなかったのだろう。バスに乗り込んだのはただそこにバス停があったからで、一時間に数えるほどしか来ないバスを辛抱強く待ってまで、きっと俺は早く逃れたかっただけなのだろう。あの場所から。あの踏切の音から。それこそ多分、俺が今いちばん望んでいるもののはずなのに。
 四つめのバス停に着き、何人かの客が降りていった。大学生らしき女の、派手な原色のスカート。ステップを降りる時に揺れた赤色が、やけに眼に焼きついた。ため息をまたひとつついて、窓の外に眼をやる。止まっているバスを、乗用車が次々と追い越していく。やがてバスは動き出し、見慣れた街の景色は高速で後ろに流されていった。
 信号待ちで一人の女が眼にとまり、ふと胸が痛んだ。彼女とは違うとわかっていても、足早に横断歩道の白い線を踏む姿を凝視してしまう。痛々しいほど短く切った髪。剥き出しになった首筋の潔癖さ。

 さよならを言ったとき、彼女は笑った。ああ少しもこたえていないんだ、と思った。当然だろう。たった一度別の男に告白されただけで、しかもそれを断った上で、信用されなくなってしまったなんてわかったら、それはもうさようならだろう。恋人の器の小ささに呆れ果てるだろう。
 たった一度の電話。
「陽太がなかなか戻ってこないから私告白なんかされちゃったよー」
 軽い一言。そして告げられた知人の男の名。
 彼女にしてみれば、他愛ない近況報告のつもりだったのだろう。会ってほしいという甘えもあったのかもしれない。けれどそれは、上京して学校に通い、留年を繰り返して未だに卒業できないでいる俺には最終通告に等しかった。なんて器の小さなことだろう。
 一緒に映画を見た。
 一緒に食事をした。
 一緒にクリスマスを過ごして、お正月を過ごして、お互いの誕生祝をして、俺が上京するときは、彼女は泣いた。
 俺は彼女が好きだった。
 それでも信頼できなかった。
 頭が真っ白になった。のっぺらぼうの顔をした男と歩く、楽しげな彼女が瞼の裏に浮かんだ。
「告白って何だよ。中学生か」
 中学生のような捨て台詞を残して、生まれた町への切符を買った。

 目の前を誰かの腕が横切って我に返る。隣に座っている女の子が、俺の肩越しに、窓際にある下車ボタンを押そうとして必死に腕を伸ばしていた。私立小学校の生徒なのだろう、黒いランドセルと紺色のブレザー。左手に握り締めた黄色い風船が、バスの低い天井につっかえている。俺は手を伸ばして、代わりにボタンを押した。女の子が眼をまん丸にして俺を見る。
「ありがとう」
 物怖じしない様子で言って、またまっすぐに前を向いた。
 今日は月曜日だ。
「学校は?」
 不審に思ってたずねると、彼女はあからさまに警戒した様子で唇を固く結ぶ。首のところで切り揃えた、真っ黒い髪の毛が揺らぐ。
「大丈夫だよ、学校に連れてったりしないから。サボり?」
「エスケープ」
 左手の風船とは不釣合いな、妙に大人びた口調で彼女は訂正する。
「エスケープか。将来有望だな」
 彼女は顔を前方に向けたまま、横目でちらりとこちらを見た。半ば自暴自棄で、俺は続ける。
「俺も今日は大学をエスケープしてきたんだ。東京から、こっちにいる恋人に会いにね」
 そして別れに、と心の中で付け足した。女の子はまだ、頑なに前を向いている。
「コイビトもエスケープしたの?」
「え?」
 思わず間抜けな声を上げると、彼女は初めてまっすぐに僕を見た。大きな瞳と清潔な睫。
「コイビトもエスケープして、おにいさんに会ったの?」
 俺は虚を突かれた。
 彼女は短大をとっくに卒業して、地方の企業に勤めている。軌道に乗り始めた会社で、お昼ご飯を食べる暇もない、と、あの時の電話で笑っていた。
 俺は連絡もせずにここへきて、今日、駅から彼女に電話をかけた。彼女は声を弾ませて、すぐに会いに行く、と笑った。
 今日は月曜日だ。
 黙り込んだ俺を、女の子は訝しげに眺める。その間にバスは、彼女の降りるバス停に到着した。バス停の名前を告げる声が、車内に響く。彼女は床へ滑り降りて二、三歩歩き、思い出したように振り返った。
「おにいさん、さいてーだよ」
 まるで台本を暗誦するように無表情かつ無邪気な声で、彼女は言う。
「じぶんのオンナにハチ公のまねごとさせたあげく一方てきにふるなんて、さいてー」
 呆気に取られた俺を尻目に、彼女は颯爽と通路を歩く。ステップを駆け下りて、黄色い風船がどんどん遠ざかっていく。
「……誰に教えられたんだよ、そんな言葉」
 呟いてから、周りの乗客の冷たい視線に気付く。
 まいったな。俺は黄色い風船が見えなくなるまで見送ってから、動き出したバスの中で、下車ボタンに手を伸ばした。それから窓越しに空を仰ぐ。



 B.コンビニおにぎり



 コンビニでおにぎりを買う。紀州梅とかつお梅と炙り梅(新発売!)。
 私は本当はシーチキンが好きなのだ。あとたらこと鮭。梅はあんまり好きじゃない。だってすっぱいんだ。でも今日は梅を買う。だってあの人が前に言っていたんだ、シーチキン・マヨネーズなんて邪道だ、ご飯にマヨネーズなんてマヨラーの陰謀だ、って。おにぎりは梅に限る、って。
 レジにいってお金を払う。店員の手でビニール袋に入れられる紀州梅とかつお梅と炙り梅(新発売!)。おつりをもらって外に出た。正午の街はちょっと明るすぎる。五月って言う季節もちょっと眩しすぎる。
 だから泣けてきたのは私のせいじゃない。
 未練がましくもと居た公園に戻ってきてしまったとしても、それは私のせいじゃない。
 ペンキの剥げたベンチに座って、おにぎりのビニールを剥がした。海苔が破れてしまってちょっぴり憂鬱になる。
 海苔を破かずに、綺麗におにぎりのビニールを剥がすのが、私はどうにも苦手だった。だから、いつも彼がやってくれていた。
 ねえ陽太、海苔が破れたよ。もどってきて綺麗にしてよ。
 さよならを言われたとき、私は笑ってしまった。彼にはユーモアのセンスが先天的に備わっていないんだと思った。だって久しぶりに会った彼女にその冗談! 趣味が悪すぎる。欠片も笑えなかったけれど、ここで笑ってあげるのが恋人のつとめだって私は笑った。ねえ冗談だよねって笑った。でも彼は行ってしまった。
 最悪なジョークだ。泣けてくるくらいに。
 信用できなくなった、って彼は言った。私は動揺して、じゃあもう私のこと好きじゃないの? って、愚にもつかないことを口走った。恋愛のハウツー本では必ずタブーとされている言葉なのに。馬鹿だ。彼は俯いて、なにも言ってはくれなかった。
 おにぎりを一口かじってから携帯電話を取り出すと、着信が六件入っていた。全部部長からだ。連絡もせずに仕事を抜けてきてしまったから、きっと怒っている。留守番電話には、乱暴に接続を切る、がちゃっという音だけが入っていた。
 またおにぎりを口に入れると、梅干の味が咥内に広がった。
「……酸っぱ」
 それは思っていたよりずっと酸っぱくて、私は眉間に皺を寄せる。ツンと鼻腔が痛くなって鼻を啜る。涙が勝手に溢れてきて止まらない。違うよ、悲しくって泣いてるんじゃないの。ただちょっと梅が酸っぱかっただけ。だから止まらないの。私は下を向いて涙を流し続ける。
「どうしたの」
 突然声が聞こえて私は顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった最悪な顔で、コンビニのおにぎりを握り締めて。
 斉藤くんがいた。ひとつ年下の、彼の高校の後輩の、私のことを好きだといった男の子だ。
『すきです』って、まるで中学生みたいな告白を、受けた。
「……」
「何があったの」
 私は再び俯いた。察せ。そして去れ。こんなになった私に早く幻滅して、そしてそっと立ち去って欲しかった。
「帰ったほうがいいよ」
「……」
「帰りなよ」
 大人びた口調で彼は言った。解きほぐすような声に、私はよけいに身体が堅くなるのを感じる。
「どこに」
「春子さんの家に」
「私の家はここだよ」
 下を向いたまま言っても、斉藤くんが困った顔をしたのが気配でわかる。眉尻を下げた、人懐こい小型犬みたいな顔。
「ここは公園だよ」
「私の家はここだよ」
 ほとんど意固地になって私は言い張った。だってたとえ家に帰ったとしても、今の私の気持ちは捨てられたガムみたいにこのベンチに張り付いているのだ。家に帰って、気持ちをここに置いてきてしまった私を見るのは辛い。
 斉藤くんのせいだからね、と、私は言えない。責任転嫁の安楽さを理解していても、どうしても言えない。
「……ごめん」
 だから突然の謝罪に思わず顔を上げて、私は驚いた。びっくりだ。最近の男の子は、涙腺の刺激にとても素直らしい。
「なんで泣くの」
「……」
「なんで、斉藤くんが泣くの」
「……春子さんが、大切だから」
 年下の男の子は、必死に涙を堪えながら優しい言葉を言ってくれた。
 でも違う。違うのよ。それを言ってくれる人は、陽太であってほしかった。こんなふうに腕を引いて連れ戻そうとするのは、私の名前を何度も呼ぶのは、陽太でなければいけなかった。未だにそんなことを思っている自分に気付いて、多分初めて、笑えた。
「ごめんね」
 彼の手を、そっと外す。私はベンチを立って、公園の出口へ向かった。


 公園のそばにある踏み切りは、あまり鳴らない。電車の本数が少ないからだ。私はその前に立って、ぼんやりとしていた。おにぎりをかじりながら。
 不意に視界の端に黄色いものが横切って、私はとっさにそれを掴む。黄色い風船。目線を下に落とすと、小さい女の子が手を伸ばしていた。風船の紐を放してしまったところだったらしい。私は少し笑って、その風船を小さい手に渡した。ありがと、と彼女は言う。表情が硬い。黒いランドセルと、紺色のブレザー。
「学校は?」
 何気なく聞くと、女の子はあからさまに警戒した顔をした。
「……今日はいかないの」
「エスケープか。やるじゃない」
 切り揃えた黒髪の、小さな頭に手を置くと、女の子の表情が少し緩んだ。
「……エスケープ」
 語感が気に入ったらしく、口の中で繰り返す。
「おねえさんもエスケープなの?」
 問われて私は苦笑した。エスケープもエスケープだ。当分会社では肩身の狭い思いをしなければならないのだろう。
「そうだよ。東京から来た恋人に会ってね、そんで振られちゃった」
 半ばやけになって正直に言うと、彼女は眼を丸くした。
「ふられちゃったの?」
「そう。何年も待ったのにね、ハチ公みたいに」
 そう、まるきりハチ公だった。新しいリードにも優しい人にも眼をくれず待ち続ける忠犬。
「まつオンナなんてはやんないよ」
 きっぱりと彼女は言った。私は苦笑する。
「どこで覚えるの、そんな言葉」
「げつく」
 月9ねえ。私は大真面目な顔をしている彼女を見つめた。
 一緒に映画を見た。
 一緒に食事をした。
 一緒にクリスマスを過ごして、お正月を過ごして、お互いの誕生祝をして、彼が上京するときは、私は泣いた。
 私は彼が好きだった。
 それでも信頼してもらえなかった。
「そうだね。私も私だけどあの人も最低。自分の女にハチ公の真似事させたあげく一方的に振るなんて最低」
 一気に言い切る。きょとんとしている女の子を見て、私は微笑んであげた。
「……バスに乗らなきゃ」
 圧倒されたように、小さく彼女は呟いた。それからスカートをひるがえして、踏み切りの向こうへと駆け去っていく。黄色い風船を見えなくなるまで見送ってから、私はずるずると座り込んだ。
「最低だ」
 自分の女にハチ公の真似事させたあげく一方的に振るなんて最低。
 これが私の本音だ、そう自分に言い聞かせた。
 だから、違うんだよ。私は悲しくって泣いてるんじゃない。ただちょっと梅が酸っぱかっただけ。
 かんかんかんかんかん、まるで急かすみたいに踏み切りが鳴って、私はそれと同時に大きな泣き声をあげた。

 ねえ陽太、違うの。ただちょっと、梅の味が酸っぱかったから。




2006/12/11(Mon)15:50:35 公開 / キイコ
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです、と言い張ります。キイコです。
未熟者が二視点なんてやるものじゃないですね。ぐだぐだだ……! ですが楽しかったです。笑
いろいろ矛盾点あると思いますので、ツッコミ入れてくださると嬉しいです。では、読んでくださってありがとうございました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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