『灰色の町』 ... ジャンル:リアル・現代 ショート*2
作者:夜                

     あらすじ・作品紹介
人間の町の一角、地上30センチの世界の物語。

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 猫の最初の記憶に残る空は、灰色だ。濁った黄色を端につけた、鉛の空だ。

 排泄物や嘔吐物、酒精や腐敗した厨芥の入り混じった酸い臭いの漂う薄汚れた路地、途絶えることのない猥雑な喧騒。それが猫の原風景だった。
目を開いたその時から、猫には争うべきライバル達がいた。同じ母の仔として生まれ出た兄弟たちである。
 猫は細胞の本能が命じるまま、兄弟たちを押しのけて母の乳房を吸った。どうやら猫は力強い方で、他の仔を差し置いて、食事にありつくことができた。
 開かれた双眸には、しかして世界はぼやけてしか映らず、猫は兄弟の姿も、母の姿も確かめられなかった。ただ時々、慈しみをこめて耳の間の毛を舐めてくれる大きくって暖かなものを、猫は母と認識した。
 そこで、猫に初めて芽生える感情があった。母の姿を、己の姿を知りたいという、生理的需要を離れた欲望。それが好奇心と呼ばれることを知ったのは、随分後になってからだった。
 猫は精一杯、母の姿を見る。ぼやけた影に、舌の柔らかな感触や乱雑な毛並みを想像の内に付け加えて、母の姿を脳裏に描く。
 母は猫に慈愛を語って聞かせてくれた。愛撫で、乳房で、毛並みで、鼓動で、それらは全て、猫の言葉だった。猫は触れる振動全てを、言葉として理解していた。そしてそれらが紡ぎ出す、曖昧なる“愛”という存在を、文字通り毛並みで覚えた。
 猫が母から教わった、最初で最後の言葉である。

 生誕の日より、どれくらい過ぎたのだろうか。猫の双眸に映る景色が、少しずつ鮮明になりつつあった、ある日のこと。
 空気がいつもより激しく揺れる朝だった。喧騒も一際高く、いままで近くにいながら猫達の世界を侵さなかった“にんげん”という生き物達が侵略してきたことを告げる。
 目的はおそらく、単に猫達を追い出したかっただけではあるまいが、猫にはもとより、にんげんが成す事の意味のたった一つすらも理解できなかったから、そんなことは関係ない。あるのはただ、猫たちがもはや此処にいられないという事実だけだった。
 母は、猫の兄弟の一匹を銜えて、引越しをはじめた。
 立ち去って、しばらくすると戻ってくる。そして、また別の兄弟を一匹銜えて、どこかへ立ち去る。母はそれを繰り返した。猫は不意に、畏怖に襲われる。心細さで、母を呼んだ。動物言語にすらならない、例えるなら幼子の泣き声で。母は宥めるように、猫の大好きな慈愛の感触をくれる。猫は容易く安堵した。最後の一匹になった小さな棲家で、母が己を連れ去るのを待った。
 そうして、猫はとうとう、母の姿を確かめる機会を失った。
 母は戻ってこなかった。猫のことを忘れたのか、猫を迎えに帰る途中で何か事故にあったのか、それを猫は悟ることができない。猫が知るのは事実だけ、母が帰らぬという事実だけ。あの優しい舌の、暖かい毛並みの言葉にもう出会えないという事実だけ。
 裏切られた恨み、なんて高度な感情は備わってなどいなかった。猫にあるのは悲しみと、不安と怯え。それらをもたらすのは、飽くまで猫が一匹ぼっちであるという事実であって、母が帰らぬことではなかった。だから猫に、もう一度母を呼んでみようとか、母を捜しに行こうとかの考えが芽生えることはなかった。
 猫は待った。母が戻ってくる一縷の望みを抱いて、待ちつづけた。母が帰ってこれば、猫はもう一匹ではない。本能の出した短絡的な答えに従って、猫は待った。
 本能から分離された思考が、選択肢を打ち出すのには、三日ほど時間を要した。
 猫の体を苦しみが襲った。今まで味わったことのない、酷い餓えという苦痛。苦しくって悲しくって、猫は鳴いた。どうして生まれでたのかと己を悲しんだ。空気に曝されなければ、光を知らなければ、重力にとらわれることがなければ、動力を要する肉体を持たねば、苦しみなどただの一つすらも知らずにすんだのに。
 それだのに、猫は失いたくなかった。猫に苦しみしかもたらせない肉体を、失いたくなかった。猫は初めて考えた。どうすべきか、胸の中の鼓動を、体躯に残る熱を、如何すれば失わずにすむのだろうか。
 母は戻らない、猫は一匹ぼっちだ。猫に庇護と慈愛をくれるものは、もういないのだ。事実として、それが打ち出されたとき、猫は衰弱した細い四肢を奮い立たせて、褥から外に出た。猫は知ってしまった、選択肢があるということを。選ぶ自由はいつでも残されていることを、猫は知ってしまった。
 猫は生きることを選んだ。続いて、その手段を選ばなければいけなかった。選択というのは不思議なもので、一旦見えれば、次々と目の前に湧いて出る。
 何度目かの失敗のあと、猫は初めて狩に成功した。誰からも教わっていないのに、拙いながら何故か知っていた筋肉の使い方を不思議に思うこともなかった。猫は生きることを選んだのだから、出来てしかるべきことだった。
獲物は小さな鼠の仔で、猫を苛む空腹から解き放ってくれた。同時に、猫に血と肉の味を教えてくれた。それは母の乳より濃厚で、味覚にかつてない快感をもたらした。
 大分後になって、猫は感謝の気持ちを知った。それから繰り返し、あの時の鼠の仔に感謝をささげている。あれが猫を救った、と猫は認識している。

 猫はそうして、一匹で生きていく方法を覚えた。
 それから猫は一匹で生きた。町の全てを住処として、流浪のうちにただ生きた。
 猫は自我というものを知らなかったし、知る必要もなかった。猫は猫であって、猫以外の何者でもない。猫はどの猫であってもいいし、どの猫であっても世界に動機をもたらせることはないはずだった。猫は猫という種族にひとつで、それ以外の意味を持たなかった。
 ただ時折、すぐ近くを通り過ぎていく人間の影を、ある種の哀れみをこめた視線で見つめることがある。
 彼らの視点から見えるものに思いを馳せては、猫は少し切ない気持ちになるのだ。

2006/12/10(Sun)20:12:14 公開 /
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