『 -- 4週間 --』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:いち子                

     あらすじ・作品紹介
昔の恋人に受けた恋の痛手を、その女性に似た“わたし”に復讐する『彼』。

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八時半起床。
寝付きが良くなかったせいか朝がつらかった。いつも通りベッドの隣には半同棲しているヒロユキ。放っておいたらいつまでも寝ているので、起こす。
朝食は食パン、ヨーグルト、ヒロユキの作った半熟ゆで卵。ゆで卵は殻がうまく剥けなかったが、おいしい。フルーツをのせたヨーグルトを食べ終わり、ふたりで身支度をし家を出ると、しばらく歩いたところにあるコンビニで冷たいサイダーを買い喉に流し込んだ。終始無言のわたしに彼は不思議そうな目を向ける。
わたしはなにも知らないヒロユキを幸せだとも、可哀想だとも思う。
彼は用事があるから、と自分のアパートへ帰っていった。半同棲とは言っても、それぞれに住むべき家はある。別れたあと、わたしは近所のスーパーへ買い出しへ行くのが習慣だ。
家事は折半しているが、こればかりはサークルもゼミもない暇なわたしの役割だ。外は薄着でも汗が噴き出すほど蒸し暑い。帰宅してクーラーをつける。しばらく使っていなかったので、風はすこし埃くさく感じた。

帰宅して冷蔵庫に品物を入れるとき、うっかりして卵のパックを落として三つ割ってしまう。仕方ないので、味付けした高野豆腐を具に使ってオムレツを作った。
お昼のニュースを見ながらお腹も減っていないのに卵料理を胃に流し込むと、すこし気分が悪くなった。わたしはクーラーを消して、窓をいっぱいまで開けた。太陽に蒸された空気が一気に部屋に流れ込む。
冷たくなった体が徐々に体温を取り戻してきたので、今日2本目の炭酸を飲むことを決めたとき、わたしは先輩の家で『彼』に後ろから抱きすくめられたことを鮮明に思い出していた。


それはひとつ先輩のアオキさんに、確かウォークマンを返しに行った日のことだったと思う。先輩の友人だった『彼』はおもむろに、アオキさんにジュースが飲みたいから買ってこいと言った。相変わらずなんてマイペースな人だろうとあきれながらウォークマンを部屋のちゃぶ台の上に置いて下宿所の二階の窓からカーテンをめくって見下ろす。先輩が自動販売機へ歩いていくところだった。
あついですね。振り返らないまま『彼』に話しかける。わたしにうしろを振りかえる勇気なんて、あるはずない。
眼だけが自由に動かせて、畳に敷かれたアオキさんの布団が視界の端でかろうじて捉えられた。 ほんのすこし、下腹部に切ない鈍痛が走る。部屋にはクーラーすらないのでわたしは風を入れるためにカーテンを開けようとする。その瞬間その手の上に『彼』の手が覆い被さってきた。 
わたしがそれだけで動きを止めると最初から知っているかのように、ギターを弾く長く固い指がわたしの手の甲を優しく滑った。
わたしは当然、布を掴むことを忘れていた。
カーテンが視界を阻むのと同時に、後ろから抱きすくめられていた。
わたしは『彼』の腕の中で途方に暮れていた。まるで出口の見えない暗闇へと引きずられてゆくような思いで。


◆  ◇  ◆  ◇  ◆


『彼』とは、ヒロユキとつきあい始めて二年くらい経ったときに出会った。
ギターが上手で、背はあまり高くないが細身なのでTシャツがよく似合い、整った顔だちの先輩だった。
しかし、当時わたしはそのひとに全くと言って良いほど興味を持たなくて、いつも女の子に囲まれた彼は、自分に興味を示さないわたしに逆に興味を抱いたようである。彼は自分の放つ空気や容姿の存在感がどれほど人を惹きつけるのかをよく知っていた。そのころ学校生活も三年目を迎え、わたしも就職活動を考え始めなければならなくなり、学科の先輩であるアオキさんの下宿によく通うようになった。『彼』は先輩の友人だったのでよく姿を見かけた。

テニスサークルで一緒のアオキさんは企業の内定も決まり、親しみやすい人柄でわたしにとって兄のような存在であった。そんな先輩の下宿先に足繁く通い、就職活動について話を聞いたり、勉強を見て貰ったりするようになったのがすべての始まりだったように思う。
それは六月の初めの出来事だった。自宅から十分ほどかけて下宿までやって来たわたしがアオキさんの部屋に行こうと階段を上り始めたとき、横を通り過ぎていったのが『彼』だった。
「サワダちゃん?」
階段を下りていく彼を目で追っていると、頭の上からアオキさんの声がした。
「こんにちは」
「上がってて。ジュース買ってくるから」
お礼を言って入れ違いに部屋に入ると、階段を急いでおりていったアオキさんが、こちらのやりとりを見ていたらしい彼になにやら話しかけているのが見えた。彼が黒目がちなくっきりとした目でわたしの姿を捉えるのがわかったが、わたしは気づかないふりをして視線をそらした。
「さっきの奴ね、高校時代からの友達なんだ」
「よく見るひとですね」
アオキさんの持ってきてくれた企業の資料をめくる手を休めて、わたしは顔を上げた。
「あいつは都心近くの実家に住んでて、この大学まで電車で1時間半以上かかるからたまにうちに泊まっていくよ」
「へえ」
あまり興味がなかったので、短い返事を返した。
数秒、間があったので、あまりにもわたしの返事は素っ気なさすぎただろうかと心配になり、アオキさんの顔をもういちど見上げる。
「凄いんだ、あいつ」
アオキさんはとても真剣な目をしていた。
「すごい?」
わたしは立ち上がって、水切り棚からマグカップをふたつとってきた。アオキさんは、いつも大きなボトルでジュースを買ってくるので、わざわざカップに移し替えなければならないのだ。
「どんなに遊んでるやつでも、3年にもなると妙に現実的になって就職活動に必死になるだろ。でも、あいつはミュージシャンになるっていう夢があってさ。オーディション受けたりして結構順調らしいんだ」
そういえば、『彼』がギターケースをもっているのを見たことがある。わたしの中で、『彼』自体はとても印象がうすいのだ。なぜなら彼のそばにはいつも何かがあったからだ。大きくて黒いギターケースか、そうでなければ女の子複数人が彼を囲んでいる。だから、今日みたいに彼が“手ぶら”で行動しているのはまれだった。
わたしはマグカップにサイダーを注いだ。しゅわしゅわと激しく音を立てながら、小さな泡がいくつも水面に浮かんでは弾けた。マグカップを口に運び、透明な液体を喉の奥にぐいぐい流し込む。炭酸というのは、喉で味わうものだというのがわたしの持論だった。
「つめたくておいしいですね」
「美味しそうに飲むなあ」
アオキさんもサイダーを一口のむ。
「そういえばサワダちゃんって、冬でもサイダー飲んでるね。お腹こわさない?」
平気なんです、といってわたしは笑った。いつもはウィルキンソンの、林檎味を飲んでるんですよ。そういうと、アオキさんは微笑んだ。
「おいしいの?」
「果汁100%ですから」
「100%か」
「ええ、100%です。」
そんなことを言い合いながら、はなしを元に戻した。
「あのひとのことを尊敬しているんですね」
アオキさんは困ったような眼をする。
「……前さ、サワダちゃんにオレの夢を話したろ」
わたしはその話を良く覚えていた。そのときのアオキさんは、今のわたしみたいに就職活動について悩んでいるときだったと思う。

アオキさんは、F1のレーサーになりたくて、鈴鹿にある専門的な学校に通いたいと思っていたけれど、大学や就職活動をどうするかすごく悩んでいた時期だった。わたしはその話をこの部屋でじっと訊いていた。丁度1年くらい前だ。結局アオキさんは、初めて走るカート場でその日一番のコースレコードを出せたらレーサー養成所へ、出せなかったら大学を続けて就職活動に専念するという賭をして、負けた。0.5秒届かなかった。わたしは、カート場から帰ってきたアオキさんが、すっきりした晴れやかな顔で帰ってきたのを印象深く覚えている。
「あのとき、ほっとしたって言ってましたね」
アオキさんは照れくさそうに頭を掻いた。
「うん。オレ、口ではレーサー目指してるなんて言ってたけど、本当はなるのがすごく怖かったんだと思うよ。成功する人は一握りだし、どのみちコースレコードが出せても、夢を諦めてたと思うよ」
 だからさ、と続けた。
「就職活動をせずに、ミュージシャン一本目指して人生最大の賭をしている奴を、カッコイイなんて思うんだろうなぁ」
そこで初めて『彼』の存在はわたしの心に印象深く残った。



その頃からわたしが下宿を訪ねると、『彼』が自分が部屋の主でもあるかのように存在していることが多くなった。彼は一見物静かそうに見えるがよくしゃべり、話してみれば音楽の趣味が合うせいかわたしと彼が親しくなるのにさほど時間を必要としなかった。
時にはアオキさんが用事があって不在のときに、部屋の主に了解を得て二人で下宿所で勉強して過ごすこともあった。そんなとき、彼はいつもより言葉少なになる。緊張していると言うよりは、アオキさんのような男友達の前では明るく振る舞っておどけているだけで、わたしの前では意図的に静かな空気を出しているようにも思えた。
一緒に過ごすことがどんなに楽しくても、彼の底意をはかりかねることが少なくなかった。

ある日の夕方、わたしは勉強に集中出来ず空腹も覚えていたので、今日はサークルのないヒロユキが夕ご飯に何を作ってくれているのかということで頭がいっぱいだった。
ヒロユキは食堂の息子なので料理がわたしより上手なのだ。だからキッチンにおいてはわたしから絶大な信頼を寄せている。だが、まだ今日の目標まで3ページも残っている。私はいつものように用意してくれている炭酸を口に含んで空腹をごまかした。

ウィルキンソンのはなしをして以来、アオキさんは林檎味を常備してくれるようになった。ただし、やはり大瓶でわたしはきれいなグリーンの扱いにくい瓶を持ち上げてマグカップに注ぐしかなかった。『彼』はちゃぶ台の向こう側に座り、ペンを持つわたしの手と開きっぱなしの雑誌を交互に見ていた。
彼はわたしのことを下の名前か、「お前」と呼んでいた。彼は気楽そうな声音で、わたしをからかうことが多かった。
「彼氏の名前、ヒロユキっていうの?」
「そうです」
「ふうん。どんな奴?」
わたしはヒロユキと付きあうまでのかんたんな経緯を話した。最初は友達であったこと。特定の人もいなかったし、恋愛感情は持たないが嫌いではなかったので告白されたらすぐに付きあうのを決めたこと。二年ほど一緒にいること。彼はずっと真剣さを装って訊いていた。ただわたしは空腹で集中力不足だったし、彼はちゃぶ台の上に頬杖をついて斜め下からわたしをのぞき込むようにして訊いていたので、部屋の中には間の抜けた空気が充満していた。わたしは話すことをやめて、勉強を見てくれたお礼を言って帰ることにした。
「もう帰っちゃうの」
頷いて立ち上がると玄関にギターケースが置いてあることに気づく。
「それ?あいつがいつも泊めてやってるのになにか恩返しはないのかって言うから。ギターでも聴かせてやろうかと思って」
宿と食事まで用意してくれているアオキさんへのお返しが弾き語りなどおかしな気がしたが、彼はしごく当然というような顔をしている。
しばらく迷ったが、思い切って、頼んでみることにした。
「わたしにも、聴かせてくれませんか?」
彼は、いつのまにかギターのピックを手のひらに持っていた。まるでわたしの依頼を予想していたかのようだった。
「高くつくよ」
手慣れた様子でギターを取り出し、音程の確認をする。いくよ?と眼だけでこちらに合図する。わたしが頷くと、彼は一気にギターをかき鳴らした。わたしは、彼のギターを聴くまですこし馬鹿にしていた。素人の趣味程度だと思っていたからだ。しかし彼のギターをならす手つき、すこし掠れた声、桁違いの声量、そして真剣な表情にほだされてわたしの口は揶揄する言葉をすっかり忘れていた。
どれくらいの時間が経ったのかはわからない。気づくと、おもしろがるように彼がわたしを見つめていた。
「どうだった?」
「……よかった、です」
しばらく息をしていなかったことに気づき、激しく酸素を求めながらなんとか言葉を口にすると、彼は腹を抱えて笑った。
「へんなやつだな、お前」
歌ったら喉かわいた、と彼がつぶやいたので冷蔵庫からウィルキンソンを取り出し、彼がギターをもう片方の手に持ったまま差し出したグラスになみなみと注いだ。まだ息の上がっていたわたしは、瓶の口をグラスから離す瞬間に彼の右手に炭酸水をこぼしてしまう。
「ごめんなさい」
急いでタオルを探そうとしたが、彼に制止された。
「お前が責任取れよ」
有無を言わさぬ口調で、彼は濡れたゆびさきをわたしの目の前につきだした。
「舐めて綺麗にすれば?」
林檎の甘酸っぱい香りがわたしの理性を鈍らせていたのかもしれない。日に焼けた彼の人さし指を口にふくみ、舌先で雫を受け止め、喉を鳴らして飲みほす。唇の間から漏れるわたしの吐息に、彼は毛一筋、身じろぎした。
口内の湿った温度が彼の指に伝わり、弦を押さえることに慣れた彼の硬い指先が柔らかくなるころ、わたしと彼が次第に一体になっていくような気がした。心地よくなってきたところで、彼はあっさりと指を抜き取ってしまう。
物欲しげな顔をしていたのだろうか。彼は目元に笑みを浮かべて、今度は中指をわたしの舌の上にのせた。中指も同じようにわたしは舌全体で慈しむ。

それをしばらく続けた頃だろうか。わたしには何も見えていなかった。うっすらと、なんの感情も表に出さない彼の顔が見えていた気がする。幻だったかもしれないが。だんだんと白々しくなって、わたしは身を離した。
おもしろがるような彼の双眸から目をそらそうとしたが彼は緑色のTシャツの袖からすらりと伸びた腕でこいこいと手招きした。彼の首筋にはうっすらと汗がにじんでいる。わたしはその首筋に吸い寄せられるようにして、彼の側へ歩み寄った。彼はギターを抱えたまま座っている。わたしは突然、ギターのかわりに抱き寄せられた。先ほどまで彼の指で力強くならされていたギターは情けなくなるような音をたてて畳の上に放り出された。ここで彼にギターの扱いを注意するのは無粋だろうか、と混乱した頭で考える。
抵抗しないわたしに、彼の唇がかさなる。想像していたよりも固い唇は、そのままわたしの耳元に移動して、歌っていたときよりもさらに掠れた声で、何かをささやいた。しきっぱなしの布団に、わたしは押しつけられる。
「―先輩の、部屋ですよ」
押し倒されたことよりも、他人の寝床であるということに抗議したのがおかしかったのか、彼は喉の奥で笑った。
彼の指は、なめらかな動作で汗ばんだキャミソールのなかへ滑り込んだ。
先ほどあんなに温めたはずの指先の冷たさに、わたしは身震いした。


◆  ◇  ◆  ◇  ◆


こちらから話しかけない限り、彼から滅多に口を開くことはない。わたしもおしゃべりな方ではないから、無言の空間を無理して言葉で埋めるとき、それを少し面倒に思うときもあった。
肩すかし。
親しい人との間なら、その沈黙はむしろ心地よいはずだ。何度彼と寝ても、彼との心の距離が縮まるという手応えを感じたことはない。わたしはあたえられる好意は知っていたが、自分から寄り添っていくにはどうすればいいのか知らなかった。わたしはヒロユキの待つアパートへ、そして彼は自分の家へ帰るために駅まで一緒に歩いていたときだ。わたしは彼と少しでも一緒にいたくて、自分の家とは反対方向にある駅まで送っていくところだった。普通は男女が逆のことをやるのだと気づいたのは、彼が電車で去った後だった。

わたしは話す話題を探した結果、前の恋人の話という気のきかない話題しかみつけることが出来なかった。最初は渋っていた彼も、言っておくけど面白くないからな、と断ってから少しずつ話し始めた。彼の方から初めて好きになった人で、自分から告白したのだと言うこと、声のきれいなひとで、歌が上手であったこと。そして、彼女のための曲ばかり書いていたこと。お世辞にも女性に優しいとは思えない彼を夢中にさせる女性とは一体どんな人なのだろう、と考えていると、
「すこしお前に似てたかな。顔のかたちとか、ものの考え方とか」
と言われ、わたしは驚いて思わず彼の方を振り返った。しかし、彼はわたしの方など見てもいなかった。わずかに曇った空を、見つめている。
「彼女には夢があって、そのためにバイトをしたり、外でも活動してた」
それがいやで仕方なかった、と彼は続ける。
「なぜですか」
「さあ?」
彼はとぼけた顔をした。
「俺以外のものに夢中になるのが許せなかったんじゃないの?」
なぜこの人は、自分の感情を他人事のように言うのだろう、と疑問に思う。
「結局ね、束縛されるのが嫌だったみたいで、一ヶ月と経たずに振られたよ。一年前かな。それ以来は誰とも」
寂しくないんですか、と咄嗟に訊きそうになったが、何とか押さえる。
代わりに別のことを訊くことにした。
「その女性と出会ったことを後悔しますか」
「してるよ」
彼は何の感情もまじえずに続けた。
「出会わなければ憎まずにすんだから」


◆  ◇  ◆  ◇  ◆


「サワダちゃん、最近元気ないな」
「そんなこと無いです」
わたしは自分がそんなに繊細な人間だと思ったことはないが、アオキさんに対してうしろめたいことがあるせいで、ぎこちなくなるのはいなめなかった。
「痩せたみたいだ。夏バテかもしれないから、無理しなくても良いよ。就活まではまだ半年くらいあるんだし」
「大丈夫です」
強い口調でいうわたしに、アオキさんは心配そうな顔をしていた。
体がとてもだるい。しかし、夕方になれば彼が姿を見せるはずだから、帰るわけにはいかなかった。

 アオキさんがテレビをつける。少しふるいテレビの上には、アオキさんと彼女の写った写真が飾られている。
以前あったことがあるけれどとても素敵な女性だった。アオキさんと遠距離恋愛をしている。その写真をみつめていると、とてもみじめなような恥ずかしいような思いに捕らわれた。泣きそうな気分になって顔を伏せる。
「あのさ……」
アオキさんが言いにくそうに口を開いた。チャンネルは昼のメロドラマで止っている。おおげさな役者の声が部屋に響いていた。
「あいつと、何かあったの?」
全身の血がさっと引いてゆく。冷たい汗が背中を伝わっていった。
「……」
「オレには、もちろん関係のないことだってわかってるけど……」
「何にも、ありません」
 うわずった声は、なにかがあったということを言わなくてもアオキさんに伝えてしまっていた。
「うん……」
 アオキさんは、彼の性格をよく知っているのだろう。その上で、わたしのことを心配してくれているのだろう。
 この人にだけは知られたくなかった。
「ごめんなさい、」
「うん?」
彼はなぜか申し訳なさそうにうつむいていた。わたしはゆっくりと、話しかけた。
「わたしが悪いんです。  だから気にしないでください」


◆  ◇  ◆  ◇  ◆


「あなたは、わたしのことを好きじゃないですね」
後ろから抱きすくめられたまま、わたしはつぶやいた。彼の動きが止まる。
「おまえも、ヒロユキのことを好きじゃない」
その通りだった。が、わたしはゲームのようにヒロユキを求めたことはなかった。
彼は、この不毛な状況に酔うことを楽しんでいる。わたしは最初から確信していた。
アオキさんの目を盗んで布団の上で声を殺しながら激しく躰を重ね合うこと。男の待っているアパートへ帰るわたしの躰に情事のなごりを残すこと。どんなに欲してもすり抜けて逃げてしまう空気のような存在になること――昔の恋人に受けた恋の痛手を、その女性に似たわたしに対して復讐する彼。
わたしは戸惑いながらも、拒絶することができなかった。なぜかは分からない。私も与えられるだけの愛から逃げ出したかったのかもしれない。傲慢だと知りながら。はっきりと口に出さない事実のすべてがわたしの心を深くえぐり取っていく。その軋轢で日に日に、わたしの食は細くなって目に見えて痩せていった。そのことについて何も言わない彼を悲しくおもう。
「じゃあ、なぜ抱きしめるんですか」
「好き、なのかもしれない」
かもしれない?重みのない言葉が、空中に霧散していく。
わたしは何だか泣きたくなった。彼との間に甘い空気を感じたことは一度も無い。むしろ、責められているような、そして暗い水底へと引きずられていくような危機感と焦燥感を、感じていた。彼はたぶん、自分の存在を賭けて執着した女性と同じ立場に立つことによって、自分の悲しみを消し去ろうとしているのだ。
「悲しいひとですね」
彼の腕を外して振り返ると、彼ははじめて憎しみを込めた眼で、こちらを見つめていた。


◆  ◇  ◆  ◇  ◆


「――、きいてる?」
ヒロユキの、男にしては高い声がキッチンに響く。
ベッドでうつぶせになっていたわたしはくぐもった声で返事する。
「夕飯作るけど、何にする?」
ヒロユキは女性のようにこまやかだ。ちいさな声でいらない、とつぶやいた。
「じゃあそうめんなら食べる? 氷入れて、冷たいやつ」
わたしは再度いらないと答えた。サークルを終えてお腹の空いているらしいヒロユキは、自分のために食事を作り始めた。お湯を沸かす音、そして規則正しい包丁の音が聞こえる。

あれから『彼』の姿は見ていない。どうやら夏休みが始まる前に単位を取り終えて、すでに大学に通う必要はなくなっていたようだ。あの頃まだ子供色だった大学の欅は、すっかり緑を濃くしていた。わたしもそれからアオキさんの下宿には行っていない。

わたしは彼と躰を重ねるたびに疑問を覚えていた。なぜ、彼のおもうがままに心をゆだねてしまったのだろう?そして、彼はなぜわたしを抱きしめたりしたのだろう?愛しているようなふりをして。

本当の答えを知っている今のわたしは、なぐさめるように、自分を憎しみよりは疑問符で埋めることを覚えた。
時折、眠りに落ちる前に考えたりする。そんな夜は決まって悪い夢を見た。
その夢とは、わたしと彼が楽しそうに笑っている夢だ。朝起きたときの切なさと、違いすぎる現実とがわたしを苦しめたりする。目覚めたときにはいつも、好き勝手にわたしの心をさらった彼を愛しくも憎くもおもう。

彼と会うのをやめて、アオキさんとも連絡をとっていない。それなのに、『彼』の印象は未だにわたしの心の深くに根付いている。深く、重く。おそらく、わたしと彼が二人きりで会うことは二度とないだろう。もう既に、彼との記憶は薄れつつある。しかし心の痛みと、後ろから抱きすくめられたときの彼の腕の感触は後遺症のように忘れることは出来ない。
彼はわたしを過去の女に重ね合わせていた。わたしが受けた傷を彼も同じように持っていたのだろうか。だとしたら、彼はひとりの夜にはそのことを思い出し、時折疼く心の傷をなだめたりしているのだろう。
胸がつぶされるような思い。
「一口だけでも、食べて」
いつのまにか、目の前にいたヒロユキが、わたしの鼻先につゆにひたした麺を箸でつきだしている。ねぎの香りが目にしみるようだった。わたしの胃はそうめんすらも受け付けてくれそうになかった。首を振ると、ヒロユキは子犬のように悲しそうな眼をする。彼はキッチンに引き返して、冷蔵庫からよく冷えたサイダーの瓶を取り出した。栓抜きで蓋を開けて、氷のいくつかはいったグラスに注いだ。あのころと同じ林檎味の炭酸だった。しゅわしゅわという音を聞きながら、わたしは鮮やかに彼との日々を思い出す。何年も一緒にいたようにも、たった数時間しかいなかったようにも思う。それでも指折り数えてみると、4週間足らずの出来事だったようだ。ヒロユキがグラスを差し出す。わたしはすこし笑って、グラスを受け取った。いまのわたしに炭酸は、少し刺激が強すぎるようにも思う。

わたしに起きた出来事をヒロユキに語ったら、怒るだろうか、それとも泣くのだろうか、と彼の優しげな眼を見つめてそんなくだらないことを考えた。

2006/09/25(Mon)07:49:52 公開 / いち子
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