『フラット』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:豆腐                

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 今年の九月は暑いのか寒いのかよくわからない。
 冷房の吐息を求めずにはいられないような暑い日と、部屋の窓を閉め切り布団に包まっていたいと思う寒い日が交互に続く。僕は大学進学からこちら四年間は風邪知らずなので特にどうということはないが、たまに大学の研究室に足を運べば顔色の悪いのが何人もうろうろしている。まぁ、色黒で健康的なやつらで溢れかえるよりは、理学部の研究生としては世間一般のイメージ――今となってはもう錆び付いているのだろうが――に適っているな、と思う。
「や、元気だった?」
 今年で二年目の付き合いとなるバッグを椅子の上に寝かせると、背後から声をかけられた。
「多分、君よりは」
 マスクをつけた彼女の顔はどこか蒼白く感じられる。僕が思うに、彼女はこの研究室の中でも病弱な部類に属している。ほぼ毎日のように研究室に来ているらしい――教授が僕に挨拶代わりに聞かせる嫌味が真実であるのなら――が、季節の変わり目や、今みたいな気候が不安定な時期はマスクでその綺麗な顔を隠していることが多い。
「実験、上手くいってる?」
「多分、君よりは」
 僕の社交辞令に対して、瞳を微笑ませながら彼女は答える。あの日から、少しずつ彼女はやつれていっているような気がするが、それはどうか僕の気のせいであってほしいと思う。僕は実験データと今後の予定をまとめたレポートをバッグから取り出し、彼女はパソコンに向かった。彼女の後ろを通り、教授の部屋へ中間報告へ行こうとして、足が止まる。小まめに持ち帰って洗っているという白衣を纏った彼女の背中に、暗い影が落ちているように思えてしまったからだ。ぽん、ぽん、とその背中を叩く。主婦が布団を叩くよりもずっと弱い力で。彼女は目を丸くして振り返った。
「な、何? びっくりしたなぁ、もう」
「なんだか、白衣、汚れてたような気がして」
「失礼だなぁ。君や――、君と違って一週間に一回は洗ってるんだからね」
「そう? じゃあきっと僕の気のせいだ」
 そのまま通り過ぎて廊下に出る。
 研究室を出たすぐそこに、各自の私物を詰め込むためのロッカーがある。僕は自分のロッカーから薄汚れた白衣を取り出して、羽織る。様々な試薬が染み込んで、赤やら黄色やらの色が着いてしまっている。そんなにカラフルだともう白衣なんて呼べないね、と彼女に笑われたことがあった。
 あのときはまだ、三人一緒だった。
 僕のロッカーの右隣が彼女のロッカー。そして、左隣は……。
 ガン、と思ったより大きな音がして、僕のロッカーが閉じる。廊下に出ていた他の研究室のやつらが何事かとこちらを見ていた。僕はばつの悪そうな表情を適当に作って顔に貼り付け、辺りをきょろきょろして見せた。こうしておけば彼らの関心は僕から余所に移るだろう。
 まるで、海の波が引いていくように。
 そしてその波は、二度とは帰ってこない。
 遠く、遠くの海原で砕け散り、やがては誰もがその存在を、忘れ去るんだ。

「失礼します」
 軽くノックをして僕の担当教官の部屋に入る。
「おお、来たか、来たか。本ッ当に久しぶりじゃのう。どうだ? 研究の方は?」
「ぼちぼち、ですかね」
 レポートを手渡して、パイプ椅子に座る。
「ふぅん、まぁ、順調みたいだなァ。アイツみたいに毎日学校に来とるわけでもないのに、これだけできるのは大したもんだ。……毎日来とればもっといい研究になっただろうに」
 ハァ、とため息をついて、教授はレポートを自分の机の上に放った。教授の言うアイツとは彼女のことだ。ふと、小さく丸まった背中でパソコンのディスプレイを目で追いかけていた彼女を思い出した。僕の瞼の裏で淡々と作業をこなす彼女の姿は、なぜか、刑に服する罪人のようにも見えた。少しだけ心が揺れる。僕は下唇に犬歯を突き立てて、それを忘れ去ろうと努力する。そうだ、気晴らしに教授の話でも聞こう。
 それからぼんやりと教授の言葉に相槌を打ち続けていると、思い出したように教授が怒り出した。
「……だがなァ、お前は一体何なんだ?」
 あんたこそ何なんだ、とはさすがに言えないので、取りあえず適当な笑みを顔に貼り付けて教授の白髪頭に視線をやった。もじゃもじゃした髪はどこか、漫画の中のマッドサイエンティストを彷彿とさせる。
「わかってんのか? もう九月も終わりだぞ? ろくに就職先も探そうともしないで、ぶらぶらとしおって。それで進学するつもりはまったくない、ときたもんだ。どうするんだ、これから?」
 卒業してから考えます、と言うと教授は大袈裟に仰け反りながらとても人間とは思えないような奇怪な鳴き声を上げた。それから太い眉の下のいじけた瞳でこちらを睨みながら、親不孝者め、穀潰しめ、とぶつぶつ文句を言い出した。
「まったく、もう少しアイツを見習ったらどうなんだ。アイツはあんなことがあったってのに――」
「教授」
 僕は強い調子でその先の言葉を遮った。
「その話は、本当――勘弁してください」
 短い沈黙を挟んで、
「……あァ、うん、悪かったな」
 ぴしゃり、と教授は皺の寄った額を叩いた。
 教授は、一々話がねちっこくて、その上説教癖があるし、近くで話を聞いていると唾が雨霰と降ってくるし、よく奇声も上げるけど、それでも――嫌な人ではなかった。
「もう行っていいぞ。白衣着てるってことは実験する気があるんだろ?」 
「ええ、一応は」
 ちりん、と窓にぶら下がった風鈴が鳴った。開け放たれた大きな窓の外には最近新築された校舎が見えた。ドアノブに手をかけたとき、そう言えば、と教授が呟いた。本当は忘れずに覚えていたけれど、たった今偶然思い出したことを装っているかのような口調だった。
「今日、行くのか」
「はい。一年ぶりに顔を見せてきますよ。実験は午前中で切り上げて、午後から行こうかと思います」
 振り返って、僕は答えた。
「じゃあ、わしの分までよろしく言っておいてくれ」
 はい、と残して僕は退室した。
 教授の部屋から出ると、廊下の壁に背中を預けている彼女がいた。ぼんやりと足元に視線を落とし、僕が出てきたことに気付いていないようだった。
「あ、教授に用があった?」
 驚かせないようにボリュームを調整して、彼女に話しかけた。顔を上げた彼女はマスクをしていなかった。その顔をとても美しいと思うのは、きっと、僕が彼女に好意を寄せていることだけが理由ではないと思う。
「ううん、君に用があったの」
「僕に?」
 そう、と頷いて、壁から背中を離した。綺麗に伸びた背筋と、白衣の襟元を隠している黒髪は、彼女と出会ったその日から時間が止まったみたいに変わらない。
「今日、行くんでしょ?」
「うん。実験を午前で切り上げて、午後から」
 彼女の教授と同じ質問に、僕は教授に答えたのと同じ答えを返す。
「じゃあさ、一緒にいこ」
 どの感情にも染まっていない、フラットな表情だった。
「彼の、お墓参り」
 その瞬間、蝉が鳴くのをぴたりと止めたように、世界から音が消えた。
 彼は――
 僕の左隣のロッカーを使っていた人。
 僕と同じく、白衣を派手な色に染めていた人。
 僕の、初めてとも言える親友と呼べる人。
 そして、
 一年前の今日死んでしまった、彼女の恋人。
 僕が愛している彼女が、今でもなお、愛し続けている人――。

2006/09/08(Fri)13:00:53 公開 / 豆腐
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