『泣き虫』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:メイルマン                

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 優は一人で留守番をしていた。
 父さんも、母さんも、姉ちゃんも、じいちゃんも買い物に出かけて、誘いを断った優だけが残ったのだった。時計の針が進むのが遅い。今年の春に発売された携帯ゲーム機の電池が切れかかっていることを思い出せていたら、多少の気まずさを我慢してでも一緒に買い物に出かけただろう。じいちゃんの家のどこに電池があるかなんて知るはずもなく、かといって財布に残っている十円玉ばかりの小銭をかき集めても、電池を買えないことくらいは知っている。昼時にアニメやバラエティなんてやっているはずもなく、TVは暇を埋めてくれそうにない。チャンネルを回しながら、おこづかいの少なさを少し呪った。
 優は庭に出た。秋を迎えようとしている庭の花たちは少しくたびれているように見えるのは気のせいだろうか。それでも彼らは鮮やかな彩りを与えてくれた。外壁に密着して手作りだと思われる、三段造りの木の棚があった。その上に、じいちゃんの大切な盆栽が並べられている。もっと小さいときに見せられたときは、じいちゃんが自慢げにそれらを見せる意味がわからなかった。少しは成長できたのだろうか、優はそれらを綺麗だと思った。一番大きなものを手にとると、優の細腕には厳しい負荷を感じたが、角度を変えてしげしげと眺めた。細部にわたって手入れがなされているのを、好奇心をもって観察した。
 しかし優の腕力はふとしたはずみに起こったバランスの危機を挽回できるほどのものではなかった。とっさに膝を曲げ、受け止めようとしても敵わなかった。大量の土が盛られた大きな皿が、庭の小路を仕切るブロック石に激突して割れた。根がむき出しになった木が無残だった。
 この時の優には、他の子供達がこのような場合に持つであろう、ただちにこれを取繕おうとする気力も、じいちゃんの帰りを待って謝ろうとする精神力もなかった。
 優は一目散に家の中に入った。知らず知らずのうちに足は家の最奥の部屋に向いた。日差しの差し込まない暗い部屋。二日前に整理した洋服タンスの中には、もう服が何も詰まっていないことを知っている。優は両扉をあけて、空いていたスペースに乗り込むと、内側から強引に扉を閉めた。闇があたりを満たして、優は自分が疲れていることを認めた。
 内部に残るワセリンの匂いを認めながら、優は徐々に、夢に落ちていった。

 座り心地の悪いタクシーの後部座席から外を見やると、初夏の日差しは惜しげもなく眼下の町に注がれている。最低限の荷物を鞄に詰め込んでから三時間、降り立った空港で見上げた空にも雲はなかった。今夜は良い星空になるんだろう。
 人工的なエアコンの冷気が気にいらなくて、発進してすぐに開けた窓は、顔に当たる涼やかな風を呼び寄せた。それはとても気持ちよかった。教科書に載るくらい有名な港町の風でも、潮の匂いがはっきりと感じられるのは水際に近い地域だけだ。丘の上で鼻に届いたのは紛れもなく、生まれたときから折につけ馴染んできた町の夏の匂いで、その匂いを思い切り、慎ましく吸い込んでみれば、微かな潮の匂いが探し当てられる気がした。
 景観は色とりどりの屋根が並ぶ町並み、良く行く大型のショッピングモール、鱗状に光る川、渡りなれた橋、見慣れた港、出航を待つ船、ただただ海らしい青い海、工場の煙突と白煙。車のそばを軽やかに流れていくガードレールと白線と信号と電柱、家並み、歩道と草木、人、それらの影。首を動かせば町の空には欠かせないかもめがちらほらと視界に入る。
 町は何も変わってない。
 車内にラジオ以外の音はなかった。当たり障りのない、場を持たせるためだけの会話は家を出て、電車に乗り、飛行機に乗って空港に降り立つ過程で全て出尽くした。パーソナリティがゲストのアイドルと楽しげに意味のない会話をしている。まるで知らないアイドルの、甘いだるい声が響く。空気にそぐわないラジオを流す運転手を何とかしたいとも思うが、本来運転手に罪はないし、むしろ誰かがラジオについて言い及ぶこと自体が、この空気にはあっていないのだろうかと察しをつける。
「良い天気ですねぇ」
メーターが90円分上がって――父さんも母さんも姉ちゃんも無言だ。優も、それには答えられなかった。

 ガラス戸越しに、犬が吠えている。
 砂利道続きの私道を奥へ奥へと進んでいくと、揺れの不快感が溜まりきった頃に、集合住宅地に立つじいちゃんの平屋が見える。白く塗装された外壁は綺麗で、父さんが子供のころから建っている家だとは思えない。玄関の隣には青いビニールシートがかかった車庫。家の面積の二倍はあろうかという庭は柵や木や花が雑然としていて、手入れがされているのかされていないのか判別がつかない。
 玄関に続くガラス戸を割りかねない勢いで、コロが吠えている。
 タクシーから降りると母さんの分の荷物も細腕にかけ、ガラス戸を慎重に開けた。コロは名前に似つかわしくない立派な体格を生かしたリーチで、優の肩に前足をかけて立つ。初めてコロと出会った八年前には、一気に駆け寄られて右手にかぶりつかれたこと思い出す。。どアップに迫ったコロに固まる優をよそに、家族はその傍らを通り過ぎて中へ入っていった。ガラス戸を閉めるのを忘れてはいけなかった。尻尾を高速でふったコロが外に出て駆け回り、目にとまった人々に吠えかかるから。
「おぉ、着いた、着いたか」
 じいちゃんがいそいそと出迎えてくれる。訛りをもった声は弱々しい。
 懐かしいじいちゃんの家の匂い。当然フローリングなんかじゃない。優の家に比べるとだいぶ古めかしいその内部。靴下越しでもほんの少し、ほんの少し床がべたついているのがわかる。奥に進むと居間には親戚が集まっている。ほとんどが知らない顔だ。七人もいれば手狭に感じる居間は日当たりが良いはずなのに、どこか重い空気が立ち込めて暗く、違和感を感じる。父さん方のおばさんと目が合った。おばさんは落ちついた表情だったけど、背中を丸めて正座している姿が本来の大柄な身体を小さく見せていた。
 場面は数秒後へとジャンプする。
 父さんが泣いている。人目をはばからず嗚咽している。大人が泣いている、しかも父さんが泣いている。その初めての衝撃に圧倒されて、他の記憶はひどく不鮮明だった。優は正座をしながら、ばあちゃんの顔を見る。死んでいる。これが死んでいるということ。鼻に白いつめものを認めた瞬間、場面はばあちゃんのいる部屋の窓から、家の前へとジャンプした。平屋の玄関前に、じいちゃんが煙草をふかして立っている。その傍らにはコロが尻尾を振って寄り添って――。
 この光景が真実ではないことを優は本当は知っている。じいちゃんはその時、うつろな目で居間からばあちゃんのいる部屋の父さんを見ていたし、コロは日当たりの良いガラス戸の前で老いた体を休めていた。でも、それは優が起きてから思い出すこと。

 コロが綱を引っ張る強さに、以前ほどの力強さを感じなくなったのは、自分の身体が少し大きくなったせいだけだろうか。コロが踏む草の音も息遣いも、何も変わってはいないから、その変化だけが気にかかる。もう歳だと言われ続けながら、コロは元気に生きているけれど。
 物心ついたころにはばあちゃんは入退院を繰り返していたし、じいちゃんの家を訪れるたびにばあちゃんは居間のソファに寝たきりだったから、随分長い間病気だったのはわかる。美味しいものも思うように食べられなくて、トイレに行くのも人の助けが必要なばあちゃんだった。
 近所の公園への散歩は三十分もかからずに終わった。親戚が増えた家の中には置いておけず、コロを車庫のそばの杭につないで、撫でた。コロはきっと、またばあちゃんが病院から帰ってきただけだと思っている。しばらくすればまた家を出て、また戻ってきて、その繰り返しがまだ続くと思っている。コロは尻尾を振って、体を一つ震わせた。
「わん!」
 自分が生まれる前から、じいちゃんはずっとばあちゃんのための生活をしていたと理解する。朝起きて、ご飯を食べさせて、薬を飲ませて、家事を済ませて、買い物に行って、病院にも連れて行って、体も拭いてあげて、希望をかなえてあげていたじいちゃん。
 そのじいちゃんがばあちゃんが死んだ日の話を、繰り返し繰り返し、誰に何度聞かせたかも構わずに、ひたすら語っている。何時に病院に見舞いに行って、何時に容態が変わって。かと思えば何も喋らずにだんまりと、ばあちゃんの傍らで視線をどこかへワープさせている。たくましくて優しいじいちゃんの、そんなところを見た記憶が、頭にこびりついている。

 ばあちゃんの写真はとても綺麗な笑顔だった。
 一番最後に見た白髪の疲れた皺だらけのばあちゃんより、少し若くて黒髪の、上手に化粧したばあちゃんの笑顔が、葬儀の主役になっている。葬式に参加するのは初めてだった。あたりの空気を観察したことを覚えている。身内が死んだにしては皆落ちついていて、でも本当に落ちついているかはわからないから、こういうものなのかとも思う。
 じいちゃんは辛そうだ。式場の一番手前の椅子に背を丸めて座って、反対側のばあちゃんの写真を見ている。はためから見ていても、辛くとも気丈に振る舞おうとしているのが手に取るようにわかることが、その辛さを物語っている。良い寺が借りられて良かったとか、立派な祭壇が出来てばあちゃんも喜んでいるだとか、そんな身内との話ももう尽きて、誰もじいちゃんに話しかけはしない。
――こんなに大人がたくさんいるのに、誰もじいちゃんを何とかしてはあげられないんだ。
 場面がその前日の夜に飛ぶ。
 人数の関係で親戚はじいちゃんの家とホテル組に分かれた。
「今日は疲れたねぇ。おやすみ」
 母さんの声で居間に敷いた布団に入ると眠気が襲ってきたのは覚えている。それでも、ばあちゃんのいる部屋から漏れている僅かな光と、じいちゃんと父さんの寂しそうな、泣き声混じりの話し声は鮮明だ。

 棺に花を詰めた。出棺の音を聞くのは初めてだった。
 火葬場の外はたまらない陽射しだ。ジュースを飲みながら姉ちゃんと日陰に入った。他愛のないことを話した。親戚の大人たちの噂話のこと。誰がじいちゃんの兄弟で、誰がその奥さんで、誰が優しいのか。
「あのおばあさん、皆からなんか嫌われてるよね」
 姉はいじわるな笑顔を見せた。
 白い骨が熱を持って出てきたときは、たまらなく恐ろしかった。ばあちゃんがこんな姿になった悲しさとか、怖さよりも、じいちゃんと父さんの反応が恐ろしかった。どうしてじいちゃんと父さんが恐ろしいのか、その時はわからなかったけれど、優は今理解した。自分がじいちゃんや父さんの立場になることが、恐ろしかった。大好きだった人がこんな姿になる気持ちを想って、二人の苦しさが今にも伝わってくるようで、それが恐ろしかったのだ。
 親戚を含めて箸は機敏に、遠慮がちに、正確に動いた。手術を繰り返したばあちゃんの身体の中にあった針金のようなものを、じいちゃんが拾い上げるのを見た。
「ああ、これが留め金だぁ」
「ああ、これかぁ」
 じいちゃんと父さんの、どういう会話なんだろう、これは。優には想像できなかった。二人は極力、事務的に作業に努めようとしているようだった。
 じいちゃんを一人家に残していくのは忍びないと思った。けれど荷物をまとめて、またタクシーに乗り込んだ。後部座席からいつまでも、じいちゃんとコロに手を振った。悲しい時間が短くなるから、少しでも手を振っていたいと、頭の片隅で思っていた。簡単に家が見えなくなって、砂利道の振動だけが残った。

 3ヶ月後の最近に場面が飛んでいる。
「優ぅ、良く来たなぁ」
 そう言って出迎えのじいちゃんが笑う。
 再び訪れたじいちゃんの家で、コロの姿は額縁の中にしかなかった。ばあちゃんの写真の横で、とぼけたくりくりの目が光っている。
 家の大掃除は大変な手間だった。近所の店でカーペットを買って、新たに居間に敷いた。舞った埃のイメージが強すぎて、がらりと変わった居間にも綺麗なイメージは抱けなかった。古いカーペットには、コロの毛が無数にこびりついていた。優は悲しい思いになった。
 じいちゃんは一人きりのこの家で、一目でわかるほどやつれていた。いつの間にかお経を覚えていて、仏壇の前で独り言を言うようになっていた。
「ばあさん、皆来てくれたぁ、来てくれたよぅ」
 それでも前に来た時よりはだいぶ食べるようになったし、だいぶ喋るようになった。墓の下見とか仏壇仏具の買い物、ばあちゃんが死んだあとの処理は精力的にこなしていたし、何よりお供え物を買ってくることだけは欠かさなかった。じいちゃんはこうやって、一人でばあちゃんとコロのいない時間と空間を過ごしてきたんだろう。
 時々は将棋をした。じいちゃんはものすごく強くて、手加減された一回以外勝てなかった。じいちゃんは気晴らしが出来ると喜んでいた。言葉の端々で、じいちゃんが自分を好いてくれていることがわかった。家族でずっとじいちゃんと一緒に行動した。少し足を遠くまで伸ばして、海産物で有名な街へと行った。車の中はあまり楽しい会話がなかった。期待された夕飯は美味しくなかった。
 じいちゃんは少し怒りっぽくなっていた。買い物をしていたスーパーの店員の対応が悪いと怒った。運転中、他の車の些細な割り込みにも怒った。TVの中のタレントにさえ怒鳴り声を上げた。そうしないと心を保てない。仕方ないことなんだと優は理解した。
 バランスをとらなくちゃ、気持ちが沈みこんで二度と起き上がれないんだ。

 じいちゃんがこちらに向かって怒鳴っている。じいちゃんの目が、こっちを睨んでいる。じいちゃんには怒られたことなんてなかったのに。原因は自分だ。仏壇の横の押入れを整理していた。小さい自分が押入れに登って、色々な物を取り出した。年季の入った人形も、埃を被った日本中のおみやげの数々も、介護の手間の中ではなかなか整理に取り掛かる気にはなれなかったろう。汚れた写真立ての中で、じいちゃんとばあちゃんとコロが一緒に写っている。息を吹きかけ、埃を払った。
 押入れから降りる時に体勢を崩した。わざとじゃなかった。床には自分が取り出した品の数々が軽率ながら散らばっていて、それを避けるために体勢が崩れた。倒れこんだ先には、蝋燭や線香や香炉、鈴などを乗せた台があった。何がどうなったのかわからない。場面が数秒ジャンプした。
 台の傍にあった、ばあちゃんの小さな写真を足で踏んだんだ。
 台の上のものはぐちゃぐちゃに散らばった。じいちゃんが何を叫んだのかは正確にはわからない。覚えていないのではなくて聞き取りにくかった。
「何をするんだこのぉ――!」
 激昂だった。取り乱しているようにも見えた。口から泡が飛んで、じいちゃんの顔はおそろしいくらい真っ赤になった。目がつり上がって殺されるのかと想うような形相になった。
「ごめんなさい! じいちゃん、ごめんなさい!」
 心臓が喉にせり上がった。頭がくらくらした。自分のしてしまったことが、ショックすぎて後を引いた。
 もう話しかけることなんてできなかった。気まずさが残った二日前のそれきり、じいちゃんとは口をきいてはいない――――。

 映像が、途切れようとしている。
 じいちゃんは辛いんだ。でも頑張ろうとしてるんだ。それは知ってる。じいちゃん、かわいそうなじいちゃん。
 そして自分はそういうことに対して、何の力も持っていないんだ。
 自分がそういうじいちゃんの心を乱してしまったことは、じいちゃんに孫を怒鳴らせてしまったことは、取り返しのつかないことなのかもしれない。ばあちゃんがいなくなってしまったことのように。
 一体どうしたら良いんだろう。一体どうすれば良いんだろう。
 映像は完全に途切れて、夢が消えていく。

 優は目覚めた。目を覚まして初めて夢を見ていたことに気づいた。どのくらい寝ていたのか判断できない。窮屈な格好で寝ていたので、身体が若干痛かった。
 闇の中で誰かが自分を捜している声を認めて、それでも優は起きたままの体勢でそこに止まろうとした。盆栽を壊したことは、起きた瞬間に思い出していたから。
 ところがやがて思いがけず、闇の中に縦に一本の光が走った。誰かが部屋の電気をつけたのだ。あっけなくタンスの扉が開かれて、眩しさに優は顔をしかめた。じいちゃんだった。
「おぉ、居たのか」
 慣れ親しんでいる優には愛着がもてる訛り声で、じいちゃんは言った。優は言葉を返せなかった。
「居た居た、見つけたぞぉ」
 じいちゃんは部屋を出て、居間へと引き返していく。優はその後を追った。身体からワセリンの匂いがする。めかしこんで遠出する機会がずっとなかったばあちゃんの服には、ワセリンの匂いがこびりついていて、それを処分するときには家族皆で泣いた。
 もう夕飯時だった。料理が作られる匂いと音が聞こえる。居間に足に踏み入れた優の目に飛び込んだのは、新しい受け皿と大きな盆栽の木、それに土が入れられた袋だった。それらが古びた低い机の上に置かれている。じいちゃんはその机の前の椅子に座って、受け皿の上に木を立たせようと土を盛りはじめる。
「それ、ごめんなさい。ダメにしちゃった……」
 限りなくか細い声で優が言うと、じいちゃんは安心させるような訛り声で言った。
「なぁに、問題ない、皿が割れただけだから、移し替えれば良いんだ。大したことねぇわ」
「でも、枝も折れちゃってる」
「なぁに、良いんだ」
 じいちゃんの、盆栽に向かい合ったままの横顔が少し笑顔になる。
 その「なぁに」は強くて優しい。
「ごめんなさい……」
「いいっちゅうのに」
 じいちゃんは声を出して、何でもないんだよという風に笑った。
「隆史、この机な、ばあさんがずっととっておいたんだぞ。おれが捨てろって言っても聞かねえんだもの」
 じいちゃんがソファに座っている父さんに言う。
「おれが小学生のときに使ってたやつじゃないか」
 机には、何かの落書きが判別が難しいくらい薄く、小さく書かれている。
「これはとっておくんだ、って言ってなぁ」
「へぇー」
 父さんは感慨深げに机を見つめる。
 優はなんだか泣きそうになった。それを知ってか知らずか、父さんが口を開いた。
「なにさ優、これ壊したのえらいことしたと思って隠れてたのかい」
「違うよ。暇で眠くて」
 言い訳は苦しかった。じいちゃんはいたずらっぽく、優のほうを向いて笑う。そのくしゃくしゃの、じいちゃんの方が泣きそうな皺まみれの笑顔を見て、優は目頭が熱くなった。
「優ぅ、泣いてるのかい」
 じいちゃんが言う。
「泣いてないよ!」
「おぅーい、ばあさん。優が泣いたよぉ。泣き虫優が泣いたぁ」
 声はとても明るく響く。
「泣いてないってば!」
 どうして涙が出るのかわからない。こんな気持ちになったことなんてない。
 母さんも姉ちゃんも、家族が皆笑っている。何故か幸せな気持ちになる。ちっともわからない。ばあちゃんは死んで、じいちゃんがかわいそうなのに、皆が笑って幸せだなんて。
 こみ上げる思いをどう名づければ良いのかわからないまま、優は涙を拭う。なんだこれ、なんだこれ。じいちゃんの声はばあちゃんに聞こえてしまっただろうか。
 秋の冷たい風が窓を僅かに揺らした。確実に進んだ針が八時を指そうとしている。
 盆栽がしっかりと立つまであと少し。


<了>

2006/09/06(Wed)09:35:38 公開 / メイルマン
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■作者からのメッセージ
読んでいただいた方ありがとうございます。
ご感想、ご指摘、ご批判、何か一言でもいただければ本当にありがたいです。
(1)純粋に面白かったか。
(2)時系列の理解も含めて、わかりづらい描写、想像の及ばない部分はなかったか。
(3)ラストの主人公の心理に同調できたか。
の三点にも触れていただけるとありがたいです。もちろんそれ以外のご指摘もお待ちしています。
どうかよろしくお願いいたします。

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