『STRAY CAT (かいぬしは もう いない)』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:キイコ                

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 僕は野良です。
 僕は僕の名前を知りません。
 僕はどこにもいてはいけないようです。

 *

 ずっと前は、女の人と二人暮らしをしていました。部屋のとても少ない、みすぼらしい家だったけれど、身体の小さな僕にはそれが世界のすべてでした。
 女の人はとてもきれいでした。茶色くてごくゆるいウェーブのかかった髪と、快活な黒い眼を持った人でした。いつでも赤い赤い口紅を、潔いくらいにくっきりとひいていて、僕からはそれは茶色い髪に不釣合いに見え、奇妙な習慣だと思っていました。けれど、僕はその人が大好きだったので、別に気にはなりませんでした。
 でも、女の人は僕を嫌いだったようです。他の人に向けるまなざしは笑っていても、僕に対するそれはとても冷たいものでしたから。
 小さな家には、ときどき男の人がやってきます。同じ人が続けてやってくることもあれば、まったく違う人が来ることもあるのです。男の人たちは概ね僕に好意的でしたが、僕はその人たちが嫌いでした。男の人たちが帰った後は、きまって女の人が不機嫌になったからです。彼らを見送った後で女の人はいつでも、無闇にお酒を飲んでそれから僕を殴りました。泣きながら殴りました。そして、殴り疲れてからも泣き止みませんでした。
 打ち震える肩と、蒼白な貌に零れる髪と、赤くなった拳――ときどき、そこについた僕の赤い血――がいつもとても痛々しくて、だから、僕は女の人の頭をなでてあげます。そうすると、女の人はまた僕を殴ることもありましたが、たいていはそのまま眠ってしまうのでした。
何かの弾みに、箍が外れることもありました。笑ったかと思えば、急に怒り出したり。目に入るものすべてを壊して、泣き出してしまったり。
 頭をなでてあげたかったけれど、でもとても怖くて、僕はお風呂場に逃げ込みます。すると女の人は追いかけてきて、力任せにドアを叩くのでした。
 そんな日は餌も貰えなくて、震えながら冷え切ったお風呂場で眠りました。
 白いタイル。細めた眼ですかしみる、薄い陰影。いまでもはっきりと覚えています。

 *

 一度だけ。
 一度だけ、僕はひとりで、自分の意志で外に出たことがありました。女の人が出かけたときに、生まれて初めて抜け出したのです。
 外は広々としていました。
 明るくて、あったかくて、きれいな色をしていました。上を向くと色のついた光が瞼を刺して、無性に泣きたくなって、僕は家の戸口でぽろぽろ涙を零しました。自分の足元にできた、黒々とした影を見下ろして、泣きながらただ突っ立っていました。
 しばらくして、僕はようやく歩き出しましたが、知らないものに溢れた世界はとても珍しくきょろきょろしてばかりで、嬉しい反面少し心細かったのを覚えています。それから、誰かが僕に声を掛けました。僕と同じくらいの大きさの、雄でした。
 名前は聞きませんでしたし、聞かれもしませんでした。そのころの僕には、名前という概念すらなかったのです。僕はとても汚れていて恥ずかしかったのですが、彼は少しも気にしないで、ボールというものの遊び方を教えてくれました。僕はとてもへたくそで、見当違いのところへばかり転がしてしまっていたのですが、お日様が沈みかけるころには、なんとかうまく弾ませることができるようになりました。
 こんな楽しいことしたことないと、僕はそう彼に言いました。彼は僕にはとても真似できないようなやりかたで笑って、じゃあ次会うときまで貸しといてやるよ、と言いました。
 僕はすっかり嬉しくなりました。彼とはまた会えるらしいのです。そうして、その時まで思いもしなかったことを考え付きました。
 このままあの小さな家に帰らなかったら、どうなるのでしょう。
 この広くて明るくてあったかくてきれいな色をしたところに、このままいられるのでしょうか。そう思ったのですが、家に帰っていく彼を見て、その考えはすぐにひっこみました。
 だって、僕があそこに戻らなかったら、いったい誰があの女の人の頭を撫でてあげられるというのです?
 そう気付いたので、僕はやっぱり帰ることにしました。貸してもらったボールを抱きしめて、家へと走りました。

 でも、僕は考えなしだったのです。ボールが女の人に見つかれば、怒られるに決まっていますのに。

 それに気付いたのは帰ってからで、僕は慌ててそれをゴミ箱に捨てました。せっかく貸してもらったものだけれど、女の人に叱られて嫌われるのが、僕にはとても怖かったのです。しばらくして帰ってきた女の人は全く気付かず、僕もそのことを忘れかけました。一本の電話が、掛かってくるまでは。
 電話の向こうからかすかに漏れてきた声は、低い、落ち着いた、男の人のものでした。それを聞いて僕はなぜだか、ひどくなつかしい気持ちになりました。けれどその声に向かって、女の人は怒鳴り散らしました。今まで聴いたことのないような声でした。女の人は怒っていて、そしてとても寂しそうでした。
 不穏なものを感じ取り、僕はいつものようにお風呂場へ逃げ込みました。僕の知らない言葉がたくさん聞こえて、やがてそれが止んで、それから女の人はこちらにやってきて、僕を無理やりに引きずり出しました。
 なんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども、僕は殴られました。だんだん薄れる視界の隅で、女の人は自分が殴られるような顔をしていました。
 女の人はいいました。叫ぶようにいいました。

 ねえあなたはこんなことをしてもわたしのそばにいてくれるわねあのおとこのところになんていかないわよねあなたはとてもやさしいものわたしがこんなことをするわけをわかってくれているものねえそうでしょどこにもいかないでいかないでいかないでいかないでわたしのところにいてくれるわねわたしのことをりかいしてそしてここにいてくれるわねいっしょうこうしてくらせるものわたしにはそれがわかっているものだってわたしたちはわたしたちはわたしは。

 なぜだかとてもかなしい気持ちで僕はふらりとよろけ、そしてあのゴミ箱にぶつかりました。朦朧とした意識の影で、僕はあのボールが転がりだすのを認識しました。朦朧とした意識の影で、僕は女の人の、あの赤く塗った唇が動くのを認識しました。

 ――どうして。

 女の人は一瞬ですべてを理解したようでした。僕は殴られるために眼を瞑りました。
 罵声も拳も降ってはこずに、ただ頬につめたいものが落ちました。
 そしてそれが何かを理解する前に、僕は外に出されました。呆然とする僕の前で、ドアはゆっくりと閉まります。その前に中に駆け込もうとしたのに、身体には力が入りませんでした。
 ドアが閉まる僅かな間に、僕は確かに、女の人の声を聞きました。

 あなたもわたしをおいていくのねねえいかないで、

 違うよ、僕はあなたが大好きなのに。
 きっとこれは夢なんです。きっと朝が来れば僕は寝床の中にいて、女の人は枕元で笑っていて、温かいミルクを沸かしてくれるのです。そんな、今まで一度もなかったようなことを夢見ながら、

 ねえいかないで、

 違うよ、僕が置いていかれるんだ。
 早く、あのひとの頭を撫でてあげないと。
 ……泣いてしまう、

 *

 朝、小さな家は空っぽでした。捨てられたんだとわかりました。
 足が勝手に動き出して、僕はただ心の向くままに、走って、走って、走って、やがて大きな橋の下について、僕は誰もいないのを確認して、鳴きました。
 哀しい淋しい怖いかなしいかなしい、ねえいったいこれからぼくはどうすれば、ねえ、




「ねえ、おかあさん」




 *

 その日からずっと、僕は野良です。
 僕を助けようといってくれる人もありますが、でも、駄目なんです。だって僕の飼い主は、あの女の人しかいないのです。
 いつかはきっと、あの女の人があらわれて、僕はその人の頭をなでてあげて、その人も僕の頭をなでてくれて、それからふたりでまた新しい小さな家に、広くて明るくてあったかくてきれいな色をしたところに、
 ありえないことを、ずっとずっと、今でも、夢に見るんです。

 だから僕は、ずっと野良のままです。




2006/09/01(Fri)18:14:09 公開 / キイコ
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■作者からのメッセージ
最初の構想ではショートショートだったはずなんですが、……あれ?落ちがないまま展開だけが速いという異様な状態に。汗
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