『バタ』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:模造の冠を被ったお犬さま                

     あらすじ・作品紹介
 こころはバタだった。魂もバタだった。躯さえバタだった。溶け合うふたりにしてひとりが冥闇(くらやみ)から脱したとき、そこに何を見るか。

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バタ

 それは冥闇だと云えよう。
 冥い冥い冥い冥い冥い、冥い闇の中に私は居る。冥闇はしゅっぽりと私を包み、皮膜となって侵す。冒す。犯す。その快楽に身を任す。委ねる。揺蕩う。冥闇に抱かれる。堰き止めようのないドーパミンが無秩序に駆け巡る。

 滑らかに過ぎる肌理すらないKき手腕は頬を伝う。
 蔭なる蔭なる舌、ちろちろと這い出ては喉を侵す。
 濡れる、光亡き瞳が雫を垂らしながらじっと視る。
 芋虫のごとくにふくらとした下唇に首筋を舐られ。
 呼気を感じるほど近くに、臭気を鼻腔に吸引する。
 肌が粟立つ、その凹凸を愉しまんと指腹が纏わる。

 溶けて蕩けて恍惚。
 まっしろが滲みてゆく、冥く深く濃く鮮やかに漆Kへと。たぷりたぷりたぷたぷりたぷたぷたぷり、たぷり浸かる。甘い匂い病気のような苦しくて力む呑みこめど甘い。
 流るる時間、刻まるる鼓動。遊ぶ耳朶に確かな時間をふと聴く。私が鳴らす心音が私を和ませる。心地良いビート。
 鼓動は定められた回数のみ鳴らすことができるカウンタ。蟲も、獣も、翼を持つものも、鰓を持つものも、葉緑体を持つものも、等しく一定値まで心を震わせる。薇のように、そう、薇のように巻かれた分だけ動く玩具。平等に巻かれるかちかちかち、かちかちかちかち、鳴らすどくどくどく、どくどくどくどく。大きく長きを生きるものたちは躊躇いがちにカウンタを積み上げ、小さく短く生きるものたちは爆ぜるようにカウンタを数える。
 闇にも鼓動がある。どっ──1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、15、16、17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35、36、37、38、39、40、41、42、43、44、45、46、47、48、49、50、51、52、53、54、55、56、57、58、59、60、61、62、63、64、65、66、67、68、69、70、71、72、73、74、75、76、77、78、79、80、81、82、83、84、85、86、87、88、89、90、91、92、93、94、95、96、97、98、99、100、101、102、103、104、105、106、107、108──くん。長く、殆ど永い、その鼓動が私の鼓膜を打ちその意味を私が解したとき、私は反響板のように全身で震えた。狂喜に打ち震えた。冥闇は生きている。命あることがひとりきりの験ではなかった。私と同罪が在る。
 この冥闇は戮すことができる。
 耳を澄まして地を這って目を凝らして音源へと震源へと泅ぐ。冥闇の核が、心臓と呼べる中枢があるはず。大切なものは隠匿されている。重要なものは仕舞われている。深くを濳る。冥闇の懐を濳る。
 液化した冥闇の張力が強まり、私を反発して押し戻して拒む。禁断の果実を口にしないよう。禁忌の箱の蓋を開けぬよう。不可侵なる聖の神殿に足を踏み入れるよう。
 小賢しい。闇風情が。私は人間だ。

 到達す。
 点どくんどくん波紋どくんどくん中心どくんどくん。
 共振する。きょうしんきょうしんきょうしん、きょうしん?
 私が冥闇と共振する。私が? 冥闇と? 共振する?
 私がいつ冥闇になった。冥闇がいつ私になった。
 波長が違う。巨きな冥闇の永い鼓動が私の心音と共振する道理などない。
 何処だ。本物。贋物は。在る。求めるは。ドコダ。
 冥闇を握る。心臓を握る。掌握する。支配、コントロールする。征圧する。統制する。屈服させる。隷従させる。意のままになれ。
 腐泥のような冥闇が私を腐肉にする前に、この無限を測り出し、内側から破り出る。
 心音が乱れる。乱れて冥闇との共振が外れる。
 どくん……どくん……どくん……どくん……。
 ……どくん……どくん……どくん……どくん。
 贋物。贋物でもいい。本物を模した精巧な贋物。逢いに来た。何処に居る。
 冥闇の、闇の向こうに、そこに在る、心音の音源、鼓動の震源、これは、これは、これは。ひとりのひと。
 腕を伸ばす頬に触れる。空いた手で自分の頬にも触れる。鼻に触れる。自分の鼻にも。唇に触れる。自分の口にも。眼に触れる。自分の瞼にも。耳に触れる。自分の耳にも。頸に頸に。肩に肩に。腕に腕に。胸に胸に。腹に腹に。腿に腿に。膝に膝に。脚に脚に。
 これは私だ。
 近似ではなく同一。完全なる一致。頬も鼻も唇も瞼も耳も顎も肩も腕も胸も腹も腿も膝も脚も。そこに私が居る。
 眼の前に私が居るなどとは馬鹿げたことを云う私だ。無明無音の冥闇の中でついに狂ったか。
 私とは。この意識、この感覚。識ることと感ずること。認知するのみの物理的な要因はないとしたところで、この私を崩すことはない。意識も感覚も共有した覚えはない。共有しようと想わない。私は私として生まれる。私は私として生きる。そこに不純物の混じる要素は不必要だ。不必要であるどころかそれを許せば私である理由を無くす。私ではない私を生かしたところで何を得られるというのだろう。それはレウコクロリディウムに寄生された蝸牛のようなもので、私の躯がタクシー代わりに利用されているに過ぎず、運賃を払ってもらえないのであればドライバーにメリットはない。否、そうではない。そういう話ではないのだ。問題とするのはふたつの精神がひとつの躯に同居するのではなく、躯が、見える形で私の外部に存在するという不可想議について考えるときだ。否、正しい。これまでの考察は正しかった。精神がふたつ在ろうが躯がふたつ在ろうが話は変わらない。自己認識においてそれが外部にある状況は同じくしている。私なる存在が私以外から語りかけてくる、そのようなことがあれば私が崩すことはなくとも自壊する。私が私でないのだ。自我の消失、自己崩壊は避けられない。
 私は狂っていない。しかし、狂うのは時間の問題か。
 冥闇の触手が伸びる。私の頬を撫で回す。優しく甘く温かく柔らかに。冥闇は私の手をとる。曳かれてゆく惹かれてゆく。ひとりのさらなるひとりへ奥深くに。
 罵倒し嗷議し裏切った私に、冥闇は欲しいものを与えてくれる。孤独のための牢獄を提供してくれる。深く深く深く、冥闇の急所を突くためでなく弱点を握るためでなく。深く深く深く、こころの闇に通ずるまで。オーガニズムに至る引きこもりに専念する。
 ──侶伴。
 声。透き通った吟声のような。反芻するように内耳で木霊する。
 私の声しかし私の咽喉からではないしかし他に誰が居るというしかし確かに聴いた。
 コーリング、呼びかけ。私の音声が私の咽喉から発せられたのでないなら自明なこと。眼の前の私から放たれたのだ。
 ──誰?
 問いかけるは、私。
 ──その問いは詮無い。芽生えてからの感覚領野、己以外を受理したか。
 応えるも、私。
 冥闇。冥い。冥闇に人格を与えたのは誰だったか。冥闇に役割を与えたのは何故だったか。冥闇が底冷えするほどに優しさに溢れ甘きに過ぎるのはどうしてか。ひとりぽっち。ひとりぽっちだったから。人形遊びをするように。ストーリィを紡いでは。無邪気にじゃれ合い。共に悦んだ。私をふたつに分断し不便な障壁を横たわらせ手馴れない不器用な意思疎通を図る。自分自身と。他人と誤認するため。
 ──誰?
 再度訊いた。返答はなかった。
 冥い冥い冥い冥い冥い、冥い闇の中から浮き上がる。胸に空気を送り、浮上する。すーはーすーはーすーはー。吸う吐く吸う吐く吸う吐く。呼吸する。空気を入れ替える。換気する。浮かび上がる。上昇する。水中の気泡。ぐんぐんぐんぐんと上昇する。躯が輕くなる。潰れていたこころが膨らみ始める。
 瞼を開く。
 眼を開けても冥闇が広がっていることを想うと恐かった。恐ろしかった。本当の冥闇を視てしまうのは退路を断ってしまうことだった。だから眼を瞑った。避けた。逃げた。退いた。
 視界は漆Kなれど嘆くことなし。手を伸ばせばそこに居て私と同じ顔ならば想像すれば良いだけのこと。
 触れる慈愛を込めた掌で私が私を人肌を血の通った熱の篭もった私という名の他者。口端が吊り上がった気がして挑まれている挑発を試されている試練をにやにやにやにや意地の悪く円舞曲。
 抱く。抱かれるのではなく。踊る。心躍る。魂の片割れとこうしてひとつになる。Hug。Hold。Embrace。幻想ではない液体、冥闇ではない液体、体液がふたりを包む。私と私は同性であるがために障害となるものは果たして在るものか。愛しければ自分を抱く。愛している。愛している愛している。初めて逢った外部。逢えて良かった。愛しくて愛しくて仕方ない。甘美を。官能を。

 同じ皮膚を持つもの同士、肌はとてもよく馴染む。
 唇を襲ね躯を襲ね求め求められ止められもせずに。
 生き写しの瞳が互いの瞳を映して瞳の私を愛する。
 舌を絡ませ指を絡ませ表皮の境界線を塗り潰して。
 こころも躯も魂も襲ね合わせて一体となり同化し。
 愛して愛して愛して愛して愛して変わらず愛する。

 溶けよ熔けよ鎔けよ解けるまで。
 願いは聞き届けられる。叶う。絡めた指先。組んだ脚。交わる視線。ずぶずぶ、ずずぶ。絡めた私の指先が私ではない私の手の甲に沈んでゆく。ねらねら、ねねら。組んだ四本の脚がゲル状となってそれぞれ一本化する。じりじり、じじり。熱い視線で溶け出した眼球は繋がる。愛する愛した私。
 外部は消失した。
 一緒になりたいと願った。嬉しみも哀しみも共に経験しようと想った。それが。
 人類の願いとは何故いつも愚かなのだろう。さらに愚かしいことに、何故その愚かしさに気づくのは叶ってしまってからなのだろう。
 冥闇の中でひとりだった。ひとりきりだった。冥闇に人格を分け与えた。本当を見ないために眼を瞑った。冥闇と戯れた。心音が聴こえた。冥闇を完全に支配下に置くことを考えた。私に逢った。冥闇が幻想と識った。眼を開いた。私を抱いた。私は忘れていた私を取り込んだ。
 結果。結果、またひとり。結果、ひとりきり。結果、ひとりぽっち。振り出しに戻る。
 失った。私を喪った。喪失した。絶えた。堪えられない。誰よりも理解してくれる私であったのに。赦せない。
 この私を戮してしまった。
 狂ってしまえるほど無責任ではなくて壊れてしまうほど脆くはなくて。赦せなくてやるせなくて切なくて哀しくてそれでも永遠は終わらなくて。そんなとき、どうしたらいいのだろう。
 冥くて。
 恐くて。
 心細くて。
 ひとりが厭で遊んだ冥闇も、また惑わかされるのが厭で翫べなくて。恐くて瞑っていた眼も、また瞑るのが恐くて瞑れなくなって。そんなとき。
 冥闇に穴が空いた。
 それが何かわからなかった。視たことがなかったから。晄だった。眼に刺すような晄だった。
 そこに遺体が、私の死体があったなら往かなかったかもしれない。私が私の中にあって、その私が「往け」と命じたから私は晄に向かって泅いだ。私のために泅いだ。生きるために泅いだ。必死だった。冥闇を無我夢中で泅いだ。
 苦しい息が続かない初めてだ冥闇の中で息が続かなかったことなんて。今まで生きていたことが嘘のように、今、生あることが苦しい。逃げてきた今までと立ち向かうこれから。
 頭が痛い頭痛がする。割れるようでなく締め付けるように。破裂すると感じた。柔らかい頭蓋骨など当てにならないと感じた。脳漿が煮詰まる感覚がした。

 冥闇が拓けた。
 別世界。晄、晄、晄、晄に満ち溢れる世界。音がある。響く。
 皓。純皓。冥闇に似た優しい声。きちんと鼓膜を打つ。
 希望が在る。未来が在る。可能性が在る。
 私、視えるか。聴こえるか。
 『在る』とはこういうことだったのだ。

 私は
 哭く意味を識る。

2006/08/19(Sat)13:23:51 公開 / 模造の冠を被ったお犬さま
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