『喫茶店』 ... ジャンル:リアル・現代 ホラー
作者:蒋                

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 その喫茶店の名前は誰も知らない。
 でも、静かな雰囲気でどこかやさしいそんな場所。
 ここでは、さまざまな人々が邂逅し、また、いろんな物語が展開する。
 そしてこれもまた、そんな穏やかな空間をにわかに騒がせ、駆け抜けていった出来事のひとつ。



「だってあの子は自分の目を焼こうとしたのよ!?」
 久々に会った友人に何を言われるかと思えば、彼女の息子の自虐行為をなんとかしてほしいというものだった。
 友人といっても大学をでて以来、約六年ぶり再会だ。それまで一切の交信どころか、在学中もたいして話した仲でもない。
 昨夜、あちらからのいきなりの電話だった。
 そのときの彼女の様子がおかしかったのでとりあえず承諾したようなもので、なにせ互いに印象が薄かったものだから、待ち合わせの喫茶店でしばらく背中合わせだった。
「どうして私にそんな話をするの?」
 コーヒーを少し含んだあとの口で、私は苦い顔をわざとつくってみせた。
 彼女は落ち着かないのか、先ほどから何回もカップを口に運んでおり、私などよりその重量が感じられない。
「だって、あなたならわかると思って」
 彼女はカップを下ろし、遠慮がちに上目遣いでちらりと私を見た。
「どうしてそう思うの?」
 私はいわゆる一匹狼だ。
 学生時代のすべてを通して、友人とこのように会話した回数といえば、片手で足りる。といっても、別段好き好んで天涯孤独に過ごしてきたわけではない。
 ただ、何かにつけて理由をつくっては、学校に限らず他人との距離を保ってきた。高くとまり、近づきがたい雰囲気作りもその一環だ。
 しかし、それには大きな理由があるのだ。
 それがまわりの人間を想ってやったがため、しいては自分のために今の私という存在がある。
 そして、私は次の彼女の発言で「あぁ……くるものがきたか」と思い、私は残ったコーヒーを一気に飲み干した。
 彼女は一つ覚えの接続詞で、また口を開いた。
「だって、あの子はあなたと同じ世界を見ているんだもの」


 私は必死に懇願する彼女を残し、店を出た。
 頬にあたる春風がなぜか雪のようだった。私はそれを振り払うようにして、苛立たしげな仕草をしてからその場を去った。
 私の世界。私にしか見えないもの。私にしか感じ得ないものがあって当然。
 しかし、彼女が言ったところの私の見えている世界というのは、少し特殊なものだ。
 どのようにして、彼女がそれを知り得たのかは知れない。あるいは、当時うわさ程度にならなるほど確かにあったことを、わざわざ彼女は思い返してしまったのかもしれない。
 久々に、というよりは、はじめてあった彼女の印象は別段嫌いではない。むしろ、あの様子ならば子供のことをよく気にかける良い母親なのだろう。
 子供は五、六歳の計算だとしたら、なるほどまわりの子供たちとどこか違うと感じえる年頃というわけだ。
 それがある程度、度を超えていなければ個性なのだろうと親も割り切れただろうに。
 確かに聞いた限りでは、自虐というのは少々度が過ぎている。息子とやらは己の目を嫌悪するあまり、父親のまだ火のついたタバコを、こともあろうに自分のその瞳に押し付けようとしたという。
 すんでのところで父親が気づき対処したため、大事には至らなかったそうだ。
 さて、と私は足早に歩きながら空を仰いだ。
 今、私の目に見えているのは、青い空ばかりではない。
 そして、私はそんな余計なものが見えるこの目が嫌いだ。
 彼女の息子とやらも本当にそうなのだとしたら、それで思い余って自らそれを絶とうとしたのだとしたら、やはり母親としての彼女の判断は正しかったのだ。
 ただ、唯一の誤算といえば、彼女が思っていたより私が協力的でなかったこと。その一点のみなのだ。
 しかし、私はそれを悪いことをしたとは思わない。悪いことをしたとは思わないが、やはり彼女の切実な顔を思い出すと、ただ後味の悪さだけが私の心に穴を開けていた。
 二年後、まさかまたこの店に来ることになろうなどと夢にも思わずに、私はその風穴を不意に手で隠して誤魔化した。


 あれから私は日本中を転々とした。
 もともと一所に留まるのが苦手な上、私はそれ以上に運が悪い。なにも居心地の良いところを見つけておいて、すぐ去ってしまおうなんて思うはずがない。
 しかし、私は今まで生きていて、そのような場所にめぐり合った経験がないのだ。運が悪いとしかいいようがない。
 今までに何度肩を重くされたか知れない。それを振り払うたび、疲労が増し、ついには面倒臭くなった。
 そんな頃だ。私がまたこの喫茶店のベルを鳴らしたのは。
 当時と違ったのは従業員の顔くらいだろうか。
 私は久しぶりに懐かしいという感覚を味わった。
 両親を事故で失い、会ったこともない親戚の手を、逃れるようにして家を出た高校生の冬。それ以来、あのひと気の失せた家に帰宅したこともなければ、大学の寮も追い出され、少なくとも五年は各地を適当に放浪。
 さらには、この二年の間もやはり私は安住先を見つけられずにいた。
 この世界に安全な家はないのではないか。そう考えているうちに、無性に生家を恋しく思っている自分に気がついた。
 友人関係の乏しい私といえども、両親との付き合いは、まぁ並程度にはうまくいっていたのではないだろうか。
 今思えば、あそこは運の悪い私が唯一安らげる場所だったのだ。
 そういえば、なぜ私はここへ戻ってきたのだろう。
 自分で言うのもなんだが、私が寂しくなったときに泣きついていけたのは、父母の胸の中であって、間違ってもこのような喫茶店ではなかったはずだが。
 おりしもこの日は丁度、二年目のあの日に違いなかった。
 今まで忘れていたわけではないが、あのときの彼女の影を不意にカウンター席から追った。
 店の片隅、そう、あの灰色の小さな机で。
 ……思い出したくなかったのは、確かである。
 なにやら今日この日ここへ来た、というのが、どうも私の中で運命的なものを感じさせずにはおらなかった。
 そして、もうひとつ気がついたことといえば、この店の空気だ。
 ここがアパートかマンションだったら、すぐに部屋を購入していたところだったのに。
 コーヒーに口付けながら、何年かぶりに心の中でめいっぱい四肢を広げた。
 しかし、はっと伸びきったゴムが戻るときのように身を縮める。
 胸にぽっかり開いていた古傷が痛んだからだ。
 私がはじめてこの店に来たときは、決して穏やかではない例の頼みごとに内心かき乱されたものだ。
 だから、この店本来の温和な雰囲気に気がつかなかったのかと、今更ながらそう思った。なるほど、穏やかではなかったのは実は当時の私の心だったのか、と。
 心の中で懺悔などしてみたところで、過去に起こったことは決して変わりはしないのだが。
 子供ねぇ……。
 彼女の子供が無事に生き延びていればの話だが、今ならなんとなく相談くらいなら乗ってやれそうな、私にしては珍しくそんな気がしていた。
 今日の店の空気がどうも、私をそう掻き立てているのがわかるのだ。その証拠に、屋内だというのにその店の中で一瞬、糸のような風が吹いた。それが耳に何事か囁かなければ、私はまさにこのとき、壁一面の窓の外を見ることはきっとなかったに違いない。
 中央交差点の方角から都会の人ごみの通りを、慣れたように頭を下げて通過していく小学生の男の子。店とは車道をはさんで反対側だったが、私から見て右から左へ行く少年の、その表情まで見て取れた。
「あの子……」
 私は彼を見て、まず直感的に不思議に思った。伏せた顔はそのままなのに、どういうわけか障害物はことごとく避けて通っているのだ。
 確かにそれ程うなだれていたわけではなく、「実際に見えているもの」を避けるのはなるほどたいして苦はなかったように見える。
 しかし、彼が避けて通っていたものはそれだけではないのだ。
 きっとこの場で私以外に、彼の行動の一部始終を見ていた者がいたのなら、さぞかし不思議に思ったことだろう。
 彼は何でもない空気さえも露骨に避けていた。それはしかし、彼にとってすれ違う大人の誰よりもある意味、脅威の存在であったのだ。
 あの子には見えているんだ。
 私を同じ世界を見ている子供。
 ひとたびそう思うと、断然興味を持った。
 二年前には考えられなかったことである。
 そのポストの影に、いる。
 言いもしないのに、彼は私の声を聞いたかのように正確にポストから距離を保って通過した。
 そこの角の信号、横断歩道の真ん中に、いる。
 またもや、彼は苦虫を噛み潰したような表情になると、まっすぐ横断はしなかった。
 ポストの影にいたのは、黄色い服で手紙を大事そうに持った女の子。横断歩道の真ん中にいたのは、首のない赤ん坊を抱いた、若い戦後の頃の若い女性。
 そう。私の見えている世界はこんなだ。
 見たくもないのに、視界に飛び込んでくる。
 私が生まれながらにして生きている世界。
 この世に私と同じ世界を生きている人がどれくらいいるのだろう。
 しかし、俗に言う霊能力者と私は少し違う。それは、魂の鎮魂を提供してあげることのできる、芯の強い人のことを言うのだと思う。
 私はただ見ているだけ。
 今まで一度だって彼らに耳を傾けたことはない。
 それでも彼らは救いを求めて、私の肩にすがった。
 二年の間、私が探していたのはそんなわずらわしさのない生活だったのに。ついぞ、見つけられはしなんだ。
 そして、おそらくきっと、彼も。
 私は不意に二年前の女性の顔を思い出した。
 彼女の子供も、今はあの小学生の子くらいなのだろう。歳で言えば、八歳。まだまだかわいい盛りだ。
 なるほど。これではっきりしたわ。
 私は当時、すでに彼女の声を聞いてあげた時点で、頼みごととやらを引き受けてしまっていたのだ。
 やっぱり穏やかじゃなかったな。
 珍しく、私の心は死人の言葉に耳を傾けていたのだ。
 あの子供は間違いなく、彼女の子供なのだ。私がそう確信した瞬間、彼女が窓の外でふと微笑んだのがわかった。
 実体のない笑顔はやさしげで、相変わらず当時と変わらない母親の匂いがした、気がした。
 そう。彼女もまた、あのとき既に私の世界の一部だったのだ。
 
 
「僕、名前は?」
 帰宅途中、急に見ず知らずの女に呼び止められ、はじめはそれこそ無理もなく、警戒していた少年だったが、私がポストの影や横断歩道を指差すとなるほど、歳相応に不思議そうな顔をして見せた。
「お姉さん、わかるの?」
 私はわざと間をおいてうなずいて見せた。
「見えるの?あの人が見えるの?」
 興奮したように言う子供の口の端に上る話題としては、あまり望ましいものではないな。と、私はかつての自分を少年に 重ねて、思った。
 私が彼の母親の墓の所在を尋ねると、さらに驚いたふうに目を丸くした。
「私なんかが墓前に花を添えていいものかは、正直疑問だけれどね。」
「お母さんは、僕が三歳のときに死んじゃったんだ。あんまり思い出せないけど、とってもやさしかった」
「そう。やさしい人だったわね」
「お姉さん、お母さんのお友達なの?」
「……うん。そうなるかな。でも、私が君のお母さんとははじめて話したのは、つい二年前の今日だったけどね」
「二年前? どうして……」
 子供は言いかけて、はっと思い出したように口をつぐみ、キッと私をにらんだ。
「どうしてお姉さんに見えて、僕に見えないのさ。やっぱお姉さんウソつきだ」
 あぁ……そうか。
 私はこのとき二年前の彼の、自虐という行為の真相に触れた気がした。
 彼はただ母親に会いたかったのだ。それなのに、見えるものは自分の望んだものではない。みんなと違う目を持っておきながら、なんでそれは望んだものを見せてくれないのか。
 そうやって憎悪するうちに、母親いわく自虐という行為に及んだのだろう。
 こんな目、いるもんか。と。
 私も何度そう思ったか知れない。
「私はウソつきなの?」
「そうだよ。なんでお母さんは、僕に会いに来てくれないで、お姉さんのとこに行ったの? おかしいよそんなの!」
「そうかな」
「そうだよ。お母さんは僕のこと……ひょっとして嫌いだったのかな」
「お母さんは、あなたのこと大事に思ってるわ。死してなおも……ね」
 不安そうな顔になって目を潤ませた彼の両頬に手を当て、彼女がどんなにわが子を想っているか、私は話してやった。
 彼女がなぜ、彼の前に姿を現さないのか。私はその理由をよく知っていたからこそ、彼には誤解されたままでいてほしくなかったのだ。
 愛しているからこそ、彼らという存在は大事な人になかなか会いに来ることができない。そうすれば、きっとこの世に未練が残ってしまうから。
 それが、果ては母親が成仏していないことを知ったわが子を悲しませることになると。
 私とて、今までに一度だって死した後の両親の顔を見てはいないのだ。
 さて、この幼い子供にそれをどのようにして説明したらよいものか。
 しかし、思っていた程苦労もなく、私が母親から頼まれていたのだといった、その一言で彼はたまらなくうれしそうな顔になった。
「お母さんは、僕のこと気にしててくれたんだね!」
 その事実は私が思っていた以上に、彼の心を勇気付ける結果につながったようだった。
「君は自分のその目、嫌い?」
 私はいよいよ、この親子のために一肌脱ぐ決意をした。
 ここからが本番とでも言うべきか。
 彼も幼いながらに、雰囲気が変わったのがなんとなくわかったらしく、はっと気づいたように考え込んだ。
 しばらくして、彼の出した答えはこうだった。
「嫌いじゃないや」
「本当に?」
「うん。本当に。だって……僕がこの目を嫌ってること、お母さんが悲しんでるなんて思わなかった。ねえ、僕もいつか会えるよね。お母さんにあるよね!?」
 彼の表情は真剣そのものだった。
 だから、私もありのままを伝えてやった。
「お母さんは今も君のそばにいるの。今は見えなくても、それだけはわかってほしいな」
「うん!」
 最高の笑みとはこういうことを言うのだ。
 見ていてこちらも親子の愛に酔ってしまうほどに、彼らのよく似た笑みは気持ちが良かった。
「君は強い子だね」
「え、そう?」
 ほめられるとはにかむあたりは、本当にそこらの子供と変わりない。
「君だったらいつか、お母さんだけじゃなくて、他の人に耳を傾けてやれるんじゃないかな」
「他の人?」
 どういうこと?とでもいいたげな顔を、コロッと傾ける。
「と言っても、私自身、そうすることができたのは。君のお母さんがはじめてだけどね」
 つまりは随分と遠回りしたものである。
 魂の未練を成就してやることが、こんなにすがすがしいことだったとは。
「誰かの話を聴いてあげればいいの?」
「全部とは言わないけどね。それに、彼らの中には怖い人も少なくないから、まだもう少し大人になってから、ね」
「そっか。お姉さんはお母さんの話を聴いてくれたんだね」
「ううん。きっとお母さんの君を思う気持ちが、私の心を動かしたんだと思うよ」
「でも、お母さんが僕のこと心配してるって教えてくれたのはお姉さんだもの。お姉さんが教えてくれなかったら、僕ずっと知らないままだったかもしれない」
 そして、なんとも丁寧にかわいらしいお辞儀をしてみせてくれたものだ。
「ありがとう。」なんて、何年ぶりに言われたのだろうか。思い出せる範囲ではないことは確かだった。
 さらにそのお礼が、二人分。私の耳に届いたときには、柄にもなく感動してしまった。
 そのとき、なんとなく心にポッカリ開いていた穴が、何かでふさがったように思えて、なおのこと気分は良くなった。
「でも、お姉さん」
 やることは済ませたし、と、相変わらずの転換の軽さでその場をしようとしたとき、不意に彼に呼び止められた。
「なに?」
 反射的に出た言葉だったが、実際彼がこれ以上私に何を訊くことがあるのだろうと、正直なところ興味がわいた。
 彼はややあって、こう言った。
「向こう側行ったら、お母さんよろしくね」
 私は一瞬彼が何を言っているのか、さっぱり要領がつかめなかった。
 ここでいっている向こう側とは、車道の向こう側のことだろうか。
 しかし、それにしてはどことなくニュアンスが違ったような……。
 それに私はもう二度と彼女に会うことはないのだし。
 どうしたものかと私が悩んでいる間に、彼はまた続けてこんなことを言った。
「他の人の話を聴いてあげなさいっていうさっきの話、心配しなくていいよ」
「どういうこと?君はまだ彼らの話、一度も聴いてあげてないんでしょう?」
 すると、彼は何を言っているの? とでもいいたげな表情で、口を開いた。
「だって僕、今お姉さんの話、聴いてあげたじゃない」



 喫茶店の空気は何も変わらず、ひっそりと建ち、通りに面していた。
 ほら、今日もまたまた迷える魂が安らぎを求めてやってきたよ。
 でも、それはまた別のお話。



2006/08/03(Thu)18:59:56 公開 /
■この作品の著作権は蒋さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
初めまして。蒋と申します。
自分は今まで長編中編を主に書いておりましたが、どうしても結末まで文章に出来ずに止まってしまう場合が多いのです。
それは、起承転結が頭の中で整理できていないせいだと思い、ほとんど初めてなのですが、短編を書かせて頂きました。微妙に違うようになってしまった気もするのですが……。
自己の鍛錬のために、ご感想……特に辛口のご感想を頂けたら幸いです。

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