『電車の中にて』 ... ジャンル:ショート*2 リアル・現代
作者:久瀬 玲                

     あらすじ・作品紹介
社会人の彼女は、疲れて電車に乗り込んだ。いつもどおり、いつもと変わらない日常に、いつもと変わらない気分で電車の中にいる。電車の中には、多くの人がいるけれど、皆知らない他人だ。女子高生の携帯電話の着信が鳴る。思い出すのは・・・

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 独特の音を出して、電車のドアが開く。
中から、涼しい風が飛び出して少し気が楽になる感覚がする。
外は先ほどまで雨が降っていたから湿気が多くて、蒸し暑い。
肌についた汗がべたついて気持ちが悪かったから、涼しい電車はより快適に思えた。
乗り込んですぐに座れるところがあるか見回すが、いつもどおり席はほとんど埋まっていた。
帰宅ラッシュを少し過ぎたこの時間帯に座れることは、ほとんど無い。
いつもどおり諦めて、乗り込んだドアのすぐ傍らに立っていることにした。
少しだけドアに寄りかかる。
疲れた体に重いバッグは苦痛でしか無いが、あまり綺麗とは言えない床に置きたくはなかったので、寄りかかる肩とは別の肩にかけて持つ。
段々とスピードを上げて駅を出る電車の窓から見る風景も、いつもどおり。
なんの変化も無い日常の中で、いつものように疲れて、ぼんやりと外の風景を眺めた。
高いビルや街灯のせいで、外は明るい。
まだ、この街に多くの人がいる証拠だ。
そして、多分全員私を知らない他人だ。
同じ電車に乗り合わせた、この車両にいる人も。

 ふと、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
音がする方、斜め前に視線を移すと女子高生がバックの中の携帯電話を探しているようだ。
知らない、最近の曲だ。
アップテンポのその曲は、気分を高揚させる。
ただ、今の私の気分とは全く正反対だ。
ようやく着信音が鳴り止み、女の子の高い声が聞こえてきた。
静かではない電車の中でもよく響く声だ。
何について話しているかはよくわからないけれど、時々聞こえる笑い声から楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
きっと、電話の向こうの他人も、嬉しそうに笑っているのかもしれない。
 
 そんなことを考えて、自分の高校時代を思い出した。
楽しかった、と思う。
楽しかったこともたくさんあったことを記憶しているけれど、明確ではなかった。
進学校で、成績が重視されて、必死で勉強して上位をキープして。
3年生になる頃には勉強ばかりしていた記憶がある。
学校行事にも意欲的に参加していたはずだし、皆と打ち上げで騒いで先生に見つかって怒られたこともあった。
でも、それらは他人の記憶のように不確かだ。
それより寧ろ、進路で悩んだり、泣きながら勉強していた記憶のほうがより鮮明に思い出せる。
仲の良かった友達は、今頃何をしているのだろうか。
全然連絡を取っていないし、偶然会うことも無い。
向こうはきっともう、私のことを忘れているに違いない。

 気付いたときには、電車は次の駅に着いていて寄りかかっていたドアが開いた。
突然のことに、少し体がふらついた。
私の目の前を、電話していた女子高生が走って降りていった。
直後に、ドアは閉まる。
彼女は降りた駅のホームでほっとしたような表情をうかべたが、電車が動いたためにそれもすぐに見えなくなった。
電車がにぎやかな街を通り過ぎて、郊外へと向かっていくにつれて外の風景も変わっていく。
大きな建物は小さな民家へ、整備された道路は田園へと変わっていった。
電車の中はいつの間にか空いていた。
でも、開いた席に座る気にはならなかった。
街灯が減って、外は暗くなる。

 ドアのガラスに自分の姿が反射してはっきりと映るようになった。
いつ見ても、つまらない顔だ。
その姿を見るのが嫌で目を閉じた。
私はよく、目を閉じる。
何も考えずに自分だけの中に閉じこもるのが好きだ。
余計な心配も、しなくてすむ。

 そうしてどれくら時間が過ぎたのか、電車内に目的の駅へ着くというアナウンスが流れた。
目をゆっくりと開けて、真っ暗な世界から人口の光の中へと戻ってくる。
そこに、ひとつ、温かい光が見えた。
電車の向かう方角が変わったからか、天頂へと昇る途中の光がはっきりと目に届いた。
「月だ……」
暗い夜空にぽつんと光る月。
まん丸ではない形で光る宇宙のかなたの惑星。

 久しぶりに見た。
最近は雨が降ったり、曇りだったりしたせいで、太陽もろくに見ていない。
でも多分、それだけが理由ではないとは思う。
月の光は好きだ。
星が消えそうに瞬くのも、触れる空気も、雨の後の湿った感じも、夏独特の雰囲気も。
そういえばそろそろ、夏が来る。
昔は、夏が楽しみだったはずなのに、いつからかあのときの気持ちを忘れてしまった。
駅構内には確か、花火大会の告知が貼ってあった。
お盆の季節でもあるから、帰省もする予定だ。


 仲の良かったあの子は、今何をしているのだろうか。
今の私のように、いろんなことに悩んでいるのだろうか。
それとも、幸せに社会人として生きているのだろうか。

さっきの女の子が話していたみたいに、あの子と笑って話せるだろうか。
一緒に見た月と、一緒に乗り越えた夏を覚えているのだろうか。



 携帯電話を取り出して、長い間かけていなかったナンバーを探す。
電話をするのは少しだけ勇気がいる。
でも、少しずつ落ち着いてきたこの気分に、たまには流されるのもいいかもしれない。
相手が電話に出たら、初めになんて言おう。
あの女の子は初めになんと言っていたっけ。

とりあえず、最新の曲についてでも聞いてみようかな。

 ドアが音を立てて開く。
電話は二回目のコールを始める。
駅に降り立つ。
三回目のコール。

とりあえず、これから楽しい季節が待っているらしいから
季節に似合わない暗い気分でいるのをやめることから、はじめてみようかな。

同じ電車の中で、こんなにも違う温度で、彼女と私がいた。
昔を思い出して、月が輝いていて、明日はまた辛いかもしれないけれど、楽しいかもれない。

そんなことを思いだした、夏の前の一日の出来事。





2006/07/16(Sun)22:54:52 公開 / 久瀬 玲
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■作者からのメッセージ
ゆっくりとした雰囲気と心情を描きたくて、試行錯誤した作品です。主人公の行動や心理にたいした変化はありませんが、現実とより近くするためにそういう内容にしてあります。読む人にとって読んだ後に、何か変わった雰囲気を味わってもらえれば良いなと思いました。

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