『そしてオタクは命を賭ける(改題)』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:名も無き小説書き                

     あらすじ・作品紹介
闘うオタクと戦う三十路、ここに登場。―――あなたには、大事な人がいますか?

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 田中太郎/1

 田中太郎は大学生である。親元を離れて一人暮らしをはじめ、一年。最初は戸惑うこともあったが、それでも半年を過ぎたあたりから一人での生活や寂しさにもなれ、狭苦しい六畳一間のアパートである程度の気楽な生活を楽しんでいた。
 田中太郎はオタクである。親元を離れて一人暮らしをはじめ、一年。一人暮らしをはじめた理由には、趣味である漫画やゲームなどを誰の目も憚ること無く収集できるからということもあり、六畳一間には大量の本やゲームが散乱していた。無論十八歳以上で無ければ購入できないようなものも多々ある。
 家にある家電は冷蔵庫とオーブントースターと電子レンジ、それにノートパソコンのみ。とはいってもまともに金を出して買ったのはノートパソコンくらいで、冷蔵庫は実家で使っていたものを買い換えたときにもらったものだし、オーブントースターと電子レンジは近所のゴミ捨て場から拾ってきたものだ。両方ともまだ使えるものである。
 そんなこんなで太郎は今日も今日とて大学へ行き、講義を受け、途中で惰眠を貪り、帰路につく。
 帰る途中でしっかりとゴミ捨て場を確認する。どこでも粗大ゴミや不燃ゴミを決まった日に出さない人間はいるもので、それは太郎の住むこの地域でも同じだった。捨てる曜日が違うことを注意しているシールが貼られたゴミ袋や自転車にまぎれて目覚まし時計を発見する。文字盤が割れており、電池が無いのか動いてはいない。けれどぱっと見た感じではあるがそれ以外に損傷も無く、電池を入れ替えれば動き出しそうなものであった。
 今でも携帯の目覚ましで十分おきることができるが、家には携帯以外の時間を確認できるものが無い。ので、目覚まし時計は目覚ましとしての意味合いよりも時計としての意味合いのほうが強かった。買ったとしてもそれほど高くは無いだろうが、リサイクルであり無料であるこちらに比べるべくも無い。
「ラッキー」
 人目を少し気にしながら時計を手に取り、くたびれたリュックサックの中にいれ、ホクホク顔で再度帰路につく。たまに「あぁ素晴らしき一人暮らし」などとつぶやいてみたりしながら。
 その後、夕食を食べ、万年床にもぐりながらネットを巡回し、時計の針が一時を回ったあたりでそのまま眠りに落ちるために眼鏡をはずし、目を瞑る。
 そういえば明日は一日暇だ。急な出張が入ったと言っていた大学の講師の顔を思い出しながら、休講だという事実に酔いしれつつ、そのまま太郎の意識は遠ざかっていった。



 携帯電話の音で目を覚ます。アラーム機能でなく、極普通の着信音だ。一体誰がこんな朝っぱらからと思いながらも意識がゆっくりと澄み渡り、今日も一日が始まるんだなぁという気持ちとともに意識が覚醒、そばにあった眼鏡を手探りで探し出し、装着しながら目を開く。

 隣では見知らぬ少女が眠っていた。

 白磁のように白い肌と、人間としてはいささか不自然な、新雪のように白い髪の毛。ぷっくりとした紅色の唇に漆黒のワンピース。そこからすらりと伸びる脚も矢張り白く、外見年齢は中学生くらいに見える、所謂ところの美少女がそこに―――太郎の隣で眠っていた。
「は?」
 とりあえず眼鏡を取ってもう一度目をこすってみるが、状況は変わらない。目の前の少女は消えていない。
 これは一体全体どういうことだまさか俺は未成年略取という罪を犯してしまったのかいやしかし昨日は酒も飲んでいなかったし家に帰るまでの記憶もしっかりとあるしということは夢遊病かそうなのか病院に行ったほうがいいのだろうかそういえば電話帳はどこだっけ。と、太郎が混乱し困惑しきった思考でそんな取り留めもないことを恐慌的に考えていたとき、なんともタイミングが悪いことに、少女が唸って目をさます。そういえばまだ携帯電話の着信音が鳴り響いていることに気がついて携帯電話に手を伸ばすが、時すでに遅し、少女はしっかりと太郎を見ていた。
 そうしてぽつりとつぶやいた。
「……あなたは誰ですか?」
「あ、お、俺? 俺は田中。そういう君は?」
 かなりどもりながら、なんとかそれだけ言うことに成功する。少女はどうやらまだ現状を理解していないのか、ぼけっとした表情で首をかしげている。
 ちなみに、返ってきたのは太郎的にもっとも最悪に近しい答えだった。
「私、ですか? ……誰なんでしょう」
 太郎は心底驚く。それこそ漫画的に、両目が飛び出すほど。なんとこの少女は自分の隣で眠っていたのに加えて、自分の名前すらもわからないというのだ、こんなおかしな状況に驚かないほうが無理な話である。頭の中で記憶喪失という感じ四文字が点滅している。
 いや、記憶喪失云々というよりも、どうしてこの少女が自分と同じ布団で眠っていたのかが不明だった。確かに太郎の家には布団がこの万年床一つきりなので、布団で眠ろうと思ったら必然的に同じ布団にもぐりこまなければいけないのだが、論点はそんなところでは全く無く、そもそもどうやって自分の家に入ってきたかということだった。
 家主に無断で家に入るのは不法侵入という立派な犯罪行為のはずだと記憶している。太郎は法律に特別詳しいわけではないが、それくらいは当然知っている。そして目の前の少女は、理屈は不明だが現実にそのような行為を犯しているのだ。犯罪行為ではないにしろ、記憶喪失というおまけつきで。
「あの、携帯電話、なりっぱなしですよ?」
 どうやら記憶喪失の癖に携帯電話という単語は知っているらしい。忘れたのは自分が一体誰なのかという記憶だけのだろうか、もしそうだとしたらやけに迷惑な話でやけに都合の悪い話だ。自嘲気味の笑みを浮かべながら、記憶喪失の不法侵入少女が隣にいるという事実を一刻も早く忘れるために携帯電話を手に取り、通話のボタンを押す。よくよく考えれば相手は十五秒以上も自分が出るのを待っているらしい。一体誰なのだろう。そう思った矢先の出来事である。
 古人は言った。不幸は往々にして重なるものだ、と。
「遅い、遅すぎる。この馬鹿、あたしが何秒待ったと思ってるの? 十八秒よ? このあたしの貴重な人生が、田中、あんたのせいで十八秒も失われたのよ? この責任は取ってもらわないと困るわね」
 携帯電話の通話口から聞こえる、冷静に、しかし熱っぽく自分のことを罵倒してくる高校時代の同級生の顔を浮かべながら、太郎はできる限り冷静に応対する。
「途中で諦めろよ」
「そうしたらそれまでコールしていた時間が無駄になるでしょう」
 じゃあ一体どうしろというのだ。
 太郎はそんな無茶苦茶な理論をぶち上げる友人に対してこれ見よがしにため息をつき、仕切りなおして聞き返す。
「で、今どこ―――」
 めぎぃっ! ずがんっ! 太郎の言葉を最後まで待たずに、玄関先から何か酷く鈍い破壊音というか破砕音というか、というより寧ろ破滅音が聞こえてくる。同時に視界の端にわずかに移る、何かの先端部分。それは正直な話、自分の家の扉に酷似していた。
「ここよ」
 携帯電話と玄関のほうから、同時に同じ声が聞こえてくる。そのままつかつかと歩いてくる人影。身長はおおよそ百七十センチ、腰付近まであるほどの長い髪をポニーテールの出来損ないのような形で結んでいるのがわかる。太郎と同級なのだから当然年齢は同じか違っても一つなのだろうが、そのあまりにド派手すぎる登場をした女性は、不思議に大人っぽい雰囲気をしていた。澄ました顔と切れ長の瞳のせいだろうか。
 というか、この後藤(ごとう)響(ひびき)という人間はいつもそうなのだ。目立ちたいのかそれとも素でこのような行為をするのかは、正直な話だが知り合って四年目になる現在でもわからない。わからないのだが、とにかく響はさも当然のごとくこのようなことをする。しかも厄介なのは口がやたらに上手く、さらに悪くもあり、同時に喧嘩も異常なほど強いのだ。加えて人望もある。頭もそれなりにいい。なかなかにパーフェクトな人物なのだが、だからこそこのようなことをしたときの対処に困るのである。
 さらに言えば響は重度の快楽主義者でもある。扉を蹴飛ばしたのもただ単に“楽しそうに思った”からだろう。太郎はいつかこの響の辞書に「常識」という単語が載っているか調べてみようと密かに思っている。
 太郎は頭を抱える。よりにもよって一番来てほしくないときに一番来てほしくない人間が来てしまった。この少女のことを一体なんと説明すればいいのだろう。気がついたら、朝、同じ布団で眠ってました。駄目だ、絶望的過ぎる。それに玄関の扉どうしよう。太郎はけれど、腹をくくった。半ば自棄にすらなって。
 当然響も靴は脱いで入ってくる。破天荒にも限りがあるということを太郎は無論知っていたけれど、それでもこのドアを蹴り飛ばす登場の仕方を考えると、そんな己の理解と知識を簡単に超越してしまいそうで怖かった。
 そうして、響は少女の姿をついに視界に捉える。ちなみに、少女は太郎の隣で呆然とその光景を眺めているだけであった。
 案の定、響は満面の笑顔で、だけれど頬の筋肉を引きつらせながら、黒いオーラを全身にまとって―――
「死になさい! この性犯罪者!」
 蹴られた。
 蹴られたのである。質問も何も無く、ただ唐突に、まるでギロチンのような鋭い蹴りが襲ってきたのである。響が喧嘩に強いというのは前述したとおりであるが、その強さには蹴りの強さというものも当然のごとく含まれており、しかも体勢的に響は立っていて太郎は座っている。そのままならば顔面につま先部分がめり込みそうなものだったが、何とか太郎はそれを回避する。
 回避したまま後ろへと下がり、叫ぶ。
「な、なにしやがんだてめぇは!」
「その質問は本来あたしの質問のはずよ。あんたこそ何やってるの?」
「蹴る前に質問しろ!」
 手の骨をぽきぽきと鳴らしながら響が詰め寄る。いつでも蹴ることができる姿勢を保ちつつ、般若のような目に見えない何かを放出しながら近づいてくる響に、太郎はなす術も無く部屋の隅に追われていく。
 助けてくれ。そんなメッセージをこめて少女のほうを見るが、少女は太郎と響に視線を行ったり来たりさせて戸惑っており、とてもそれどころではないようだった。
「質問する必要も無いでしょ? パソゲー好きで漫画好きの、一人暮らしだったはずの大学生オタクが、急にこんな可愛い美少女と同棲しているのよ? どこかで誘拐してきたと考えるのが当然じゃない?」
 まるで悪びれる様子も無く、響はそんなことをさらりと言ってのける。太郎が辺りを見回すと、確かに長らく片付けていない部屋には大量の小説や漫画やゲームが散乱している。全てが全てその手の物品だというわけではないが、半分くらいは響が言うような種類のもので、太郎は言葉に詰まる。
 響は「ほら見なさい」といったような表情で、足元に落ちていた薄っぺらい本を手に取り、眺める。
「全く、よくもここまで集めたものね。健康な男性である証拠だとも言えるけど、健全とは到底言えないわね。まぁものは言いようってことかしら。で、その少女のことについて、何か弁明はある? 友人のよしみで忠告しておくけど、早めに自首しておいたほうがいいわよ。……そこのあなた、何も変なことされなかった? 大丈夫?」
 太郎が何かを言う前に、響は話題を少女に振る。少女はいきなり自分に話しかけられ、最初は何がなんだかわけがわかっていなかったものの、すぐに質問の意図を理解して首を上下させた。
 響はその答えに安心したかのように首肯する。
「そう、ならよかった」
「いいわけねぇだろうが!」
 太郎はその答えに納得がいかなかったように絶叫する。
 確かに疑われても文句が言えないような状況であることに間違いは無い。少し前までは一人暮らしだった人間が、今朝来てみるといきなり美少女と同棲していたなんて、疑わしいことこの上ない。太郎だって立場が響と反対だったら絶対に眉をしかめるだろう。いつの間にか隣で寝ていたなんて可能性は微塵も考え付かないに違いない。その点から言えば、響の言っていることは仕方なくもあるのだが。
 しかし、仕方ないという理由だけで、自分にかかっている誘拐の汚名はどうでもよくなるというわけでは断じてない。というか、全世界に存在するオタクが全員少女好きだと思うなよ。声には出さないが、心の中だけで講義する。何か言ったところで響は聞かないだろうけれど。
「なにがよくないのよ。もしかして、もう少しでイタズラできたのに、ってこと?」
「違う! ちゃんと俺の話を聞け!」
 太郎の剣幕を見てようやく響は話を聞く気になったのか、近くにあった椅子を引き寄せて響はそこに座る。太郎が地べたに座り響が椅子に座っているという体勢的に、太郎は必然的に見下ろされる格好になるのだが、響の視線がまた怖かった。疑惑に満ち満ちた目というのだろうか。
 自然と正座をしてしまいそうになるが、別に自分は疚しいことなど何一つしてはいないのである。寧ろ自分のほうが被害者なのである。いきなり見知らぬ少女が隣で寝ているわ、ドアを蹴破って友人は家に入ってくるわ、その友人から危うく蹴り殺されそうになるは、もう散々だ。これを被害者といわずして誰を被害者といおうか。
 太郎は一拍置いてから話し出す。
 まず、自分には何も罪が無いことを一番最初にもう一度弁明し、それから本題に入る。響からの携帯で起床したということ。気がついたら少女が隣で眠っていたということ。その少女が記憶喪失だということ。思い出せないのはどうやら自分の素性だけのようだということ。
 全てを聞き終えた響は、こう言った。
「未審議で却下」
「何故」
 響は不満そうに不服そうに、少し渋い顔をしてから足を組む。
 いや、確かに太郎も馬鹿らしい話だとは話している最中から思っていたが、これが事実なのである。これが真実なのである。事実であり真実であるのだからどうしようもない。
「まず、普通に信憑性が無い」
 だろうなぁ。心の中で相槌を打ちながら、響に先を促す。
 しかし響は、すぐに太郎の度肝を抜くようなことを平然と言ってのける。
「可能性としてはもう一つあるんだけど、その可能性だとすると途轍もなく面倒くさくなりそうなの。だから、ここは田中の小女誘拐説が一番手っ取り早いのよね」
「いや、面倒くさいって言う理由だけで、俺を犯罪者にしないでくれ」
 一歩間違えれば無罪の人間の人生を一つ駄目にするぞ。太郎は反射的にツッコミを入れるが、しかし問題はそんなことではないことを知っている。響は言った、「可能性としてはもう一つある」と言った。響がそう言うということは、恐らく響には可能性としてだがなんとなく全ての全貌と全容が掴めて、見えているのではないだろうか。それは太郎にとっては間違いなしの御の字である。一刻も早く、こんな犯罪者と簡単に間違われるようなシチュエーションからは抜け出したい。
 少女は自分の話を現在進行形でされているというのに、いまいち現状を把握しきっていないといった表情で、ぼんやりと二人のほうを見ていた。
「……で、後藤、その可能性ってのはなんだ。教えてくれ」
 響は依然として渋い顔していたが、ややあって溜め息を一つつき、とりあえずと言った様子で話し出す。
「んー、言っておくけど、ただの可能性よ? あたしの勘といっても差し支えは無いわ。真実だとは限らないし、あんたの疑いを完璧に晴らすことはできないだろうけど、それでもいい?」
 太郎は頷く。この際この弁解できないような状況に、ある程度の可能性というものを見出さなければやっていけそうに無かった。
 そもそものツッコミどころとして、疑っているのは響であるのだから、響の言う「あんたの疑い」というのは響の太郎に対する疑いということになるのだけれど、太郎はこの際気にしないことにした。どうやら響も心の底から自分のことを疑っていたわけではないようだし。
 いや、まぁ、自分のことを疑っていない人間があんな熊をも殺しそうな鋭い蹴りを放ってくるものか甚だ疑問に思ったが。
「……ねぇ田中、最近『壁』が開かれたという噂を聞いたことは?」
「は?」
 全く関係の無いような話が飛んできて、思わず素っ頓狂な声を上げる太郎。
「だから、壁よ壁。この国で壁といったら普通はあれしかないでしょ。それでどうなの、聞いたことある? もちろん最近の話限定だけれど」
「無い、な。……っておい、まさか」
 響の言った『壁』という単語から何かを感じ取ったのだろう、太郎の顔が驚愕の表情を形作る。太郎のそんな反応と言葉を聴いて響もゆっくりと頷いた。部屋の空気が一気に暗く重く深刻そうになっていいき、玄関の扉はいまだに蹴破られたままであるのに、その空気が開け放たれた玄関から逃げていく気配は皆無で、重たい空気が段々と部屋に充満していく。
 響は何かを吹っ切ったかのように、いとも容易く太郎の言葉の後を引き継ぐ。
「そうね。パラダイムという可能性は、十分にあるわね」
 太郎はその答えを聞いて小さく嘆息した。壁。それは一般人の間では鬼門であり、恐怖の対象であり、同時に防衛線でもあるのだ。そしてパラダイムというものは純粋に恐怖と忌避のみの対象である。太郎と響はどちらもそれほど壁に対して恐怖意識などを持ってはいないが、それでもパラダイムには言い知れぬ恐怖を覚えた。寧ろパラダイムという単語自体にそのような効力があるかのように。
 そもそもパラダイムというのは、専門用語では後天的異能付加症候群という名前で呼ばれているらしいが、パラダイムはそのとおり後天的に異能を付加された人たちの総称、同時にその異能そのものでもある。簡単に言えば超能力者のことであり、同時に超能力そのもののことだ。パラダイムは常人が持たざる異能を手にするだけでなく、身体能力や記憶能力や演算能力、それに自然治癒力が文字通り桁違いに強化される。
 後天的に異能を付加といっても何も人体実験や公害の産物というわけではない。全てが不明。パラダイムになる原因は不明で、理由も不明。どのようにすればパラダイムになるのかも不明で、当然パラダイムになるのを防ぐ方法も、同時にパラダイムではなくなる方法も今のところ不明。ただひとつわかっていることといえば、パラダイムになるのはある日突然で、パラダイムではなくなるのもある日突然ということだけだ。
 予兆も前兆も無く、突然で唐突。パラダイムはそのように現れ、そのように消えていく。それだけはわかっていた。いや、それだけがわかっていることだった。
 パラダイムが現れ始めたのは依然として不明だが、パラダイムの数が爆発的に増加したのはおよそ五十年前といわれている。全国で約一千五百人がパラダイムとなり、計算上は千人に一人がパラダイムということになったのだ。それは一つの市や町に一人はいるという計算である。
 パラダイムは便利な代物ではあったが、けれどパラダイムではない一般人にとって、それはただの恐怖の対象でしかなかった。個人によって能力差はあれど、下手をすれば簡単に命すら奪われてしまいかねないその不可思議な能力は、世間から疎まれるには十分すぎた。いたるところでパラダイムに対する虐めや迫害や行われ、酷いところではパラダイムが殺され、ついに政府すらも彼らの敵に回った。パラダイム抹殺令を出したのである。政府としても、国家を転覆しかねない人間が千人以上もいるという事実には内心肝を冷やしていたのだろう。
 しかし、当たり前だがパラダイムたちがそんなことを容易く容認するわけも無い。しかも自分たちが望む望まざるにかかわらず、勝手に備わってしまった異能なのだ、そのせいで殺されるなんて納得がいかなかっただろう。確かにパラダイムを使って凶悪犯罪に走るやからもいたが、そんな人間は極僅かだったのだ。
 そうして、政府は軍隊や警察や民間からの義勇兵を募り、パラダイムを抹殺しようとした。パラダイムたちもまた、自分たちの生活と命を守るために一致団結して各地で内乱を起こした。これが後に語り継がれる、“パラダイム内乱”である。
 一年に及ぶ内乱の結果、パラダイムたちはほぼ全滅。生き残りは二桁だけという被害を被った。けれど政府側も大量の損害を受け、義勇兵はほぼ九割がた死亡、生き残りの一割のうち八割以上が社会復帰困難なほどの重傷を負った。軍隊や警察にいたっては、生き残りは多数いるものの、それでも数千人単位での死者が出た。結果としては双方痛みわけの結果となり、パラダイム内乱は終結を告げたのである。
 が、話はここで終わりではない。破壊された町や施設が復旧を進め、人々も元の生活を取り戻しつつあった三年後、またパラダイムが現れることになる。数は前回よりも多い二千人前後と判断され、人々の生活に再度緊張が走り出す。そしてまた始まる迫害。だが、政府は今度、その迫害を後押ししなかった。復旧が進行中だった首都近くの都市を、丸々パラダイム自治区としてパラダイムたちに与えたのである。戦争をして以前のような大惨劇を繰り返したくないと思うが故の行動であった。
 政府はパラダイムたちに都市を与える代わりに、一つの要求をした。それはつまり、自治区の周りを囲むように、巨大な壁を建設するという要求である。自治区を出るためにはその壁を開かなければならず、壁を開くためには莫大な数の処理をする必要があり、さらに外に出てからは常に監視役がついて回る。パラダイム側はその要求を飲み、現在に至るわけである。
 そう、壁とは言ってみれば日常と非日常を隔て、隔離するものである。だから一般人はよほどのことが無い限り壁にすら近づかない。そして、壁が開かれたということは、イコールで何人かのパラダイムが壁の中ではないどこかにいるということなのだ。だから誰もが壁の開閉に一喜一憂するのである。
 太郎や響が住む柳葉市(やなはし)は自治区から数十キロの圏内にあり、それは距離としては決して遠いとはいえない距離だ。数年に一度くらいの割合で壁を開けて出てきたパラダイムも現れることがあり、だからこそ、この少女はもしかするとパラダイムかもしれないという可能性が強まるのだ。パラダイムならば密室に忍び込むことだって、能力によっては恐らく可能なのだろうし、記憶を失っているのは演技か、それとも何らかの後遺症かもしれない。
「他には、彼女がパラダイムによって生み出された、ってことも有り得るわね」
「……確かにな」
 パラダイムにはさまざまな能力がある。物体を動かす、他人の思考を読み取る、天候を変える、そのほかにも色々な異能をパラダイムは持っている。能力はまさに千差万別なのだ。無論その中には、なにも無いところから物質を生み出せる能力を持つパラダイムもいる。少女がその能力によって生み出された存在ということだって有り得るわけだ。
 いつのことだったか、新たにパラダイムになってしまった人間がいたが、そのことに本人や知り合いや警察の人間は気がつかず、突如として能力が行使されてしまったということがあった。そのときの能力が、先に述べたようななにも無いところから物質―――その人物の場合は猫を生み出せる能力だったため、町には猫が大量発生したということだ。本人が無意識に能力を行使していたせいか、すぐに猫は消滅したらしい。そんなことが前に新聞の隅のほうに載っていたことを思い出す。
 そのときはどうやら生み出せるものが猫だったようなので大惨事は至らなかったようではあるが、人間を生み出す能力があったとしても不思議ではない。寧ろ、人間を生み出す能力が無いほうが不自然だ。
 二人は顔を見合わせ、嘆息した。
「どうする?」
「警察に連れて行くしかないでしょ。あたしたちにはどうしようもないし、ただの記憶喪失の少女だったとしても、どの道警察には行かなきゃ」
 太郎は少女を見た。つられて響も少女に視線を向ける。二人の視線を向けられていることに気がついた少女もまた、首をかしげながら二人を交互に見ている。
 少女は改めて見ても本当に不思議だった。白い髪と白い肌、紅色の唇と漆黒のワンピース。その姿は美しく神々しい何かさえも感じられるほどで、けれど記憶喪失で、まるで不思議という成分だけで構成されているかのような存在だといっても過言ではない。
「えっと、君」
 呼ばれて少女は太郎のほうを向く。
「もう一度聞くけど、記憶喪失なんだよね?」
 こくりと首肯。
「じゃあ、名前もわからないんだよね?」
 再度首肯。
「本当だよね?」
 さらに首肯。
 太郎は響と視線をもう一度交わらせ、仕方が無いとため息をついた。突如できた折角の休日、ぐっすり眠って買い物に行きたかったのではあるが、こんな状況じゃあどうしようもないだろう。買い物はまだしも二度目の眠りにつくのは諦めたほうがよさそうである。
「と言うか、名前だけでも決めない? いちいち『君』とか『貴方』とかだと、呼びにくいったらありゃしないわ」
 響の提案には太郎も賛成だった。この少女にだって本当の名前はあるのだろうが、便宜上の名前くらいは付けておかないと、確かに呼びにくい。
「……パラ子でいいんじゃないか? パラダイムのパラ」
 太郎のそんな安直なネーミングに異を唱えたのは響。
「ちょっと田中、あんたのそんなダサいネーミングセンスで、こんな美少女に名前を着けるって言うのがそもそもおこがましいのよ」
「え? いい名前じゃ、無いですか?」
 鶴の一声とはまさにこのことだろう。今まで大して口を開かなかった少女―――パラ子は、いまだ幼さが残る声でそう言った。それ聞いた響はすぐさま手のひらを返したように「と思ったけどやっぱりいい名前じゃない! パラ子! うん、いい名前ね!」などと叫んでいる。ちなみに、名付け親である太郎は、別にいい名前だとは思わない。
「……」
「……」
「……」
 三人が各々視線を合わせる。会話が途切れ、新たな会話を生み出すのが難しい空気だった。
 どうかしようにも出来なくなった辺りで響が太郎に対して何かを示す。太郎は二秒ほど響が何をしているのかわからなかったが、どうやら着替えろということらしい。そういえば短パンとTシャツで寝ていて、それから着替えてもいないのだ。警察にいくにしろなんにしろ着替えないといけないだろう。
 別に響には着替えを見られても問題は無いが、見知らぬ少女に見られるのは少し抵抗があった。例え太郎が男だとしても。が、その懸念は響によって意味がなくなる。
 響曰く「純粋無垢な少女にあんたの着替えを直視させるほど落ちぶれちゃあいないわよ」とのことで、すでにそんな辛辣な言葉にも慣れてしまった太郎は二人から少し離れた地点で着替えを始める。とはいっても、短パンを脱いで近くにあった適当なものを穿き、Tシャツの上からパーカーを羽織るだけなのではあるが。
 太郎が着替えている間、響はパラ子の相手をしているらしく、なにやら会話を始めた。響はあの性格であの口調なのに何故か子供に好かれやすい。あの少女の存在と肩を並べるくらいには不思議なことであった。
 そんな二人の姿を一瞥してから太郎は半ズボンを脱ぎ、近くにあったズボンを手に取ろうとして、視界の先にある程度知った人影を見た。
「……おはようございます」
 とりあえず挨拶してみる。すると、ご丁寧にも向こうも挨拶を返してくれた。
「あ、おはようございます」
 ぺこりとお辞儀をする一人の女性。年齢は二十代後半で、山吹色のセーターに柔らかそうな生地のスカートを穿いている。右手にはグレーの回覧板を持っており、サンダルを履いている。現時点で日付は五月であり季節はつまり春。まだサンダルは早いような気がするが、しかし太郎はこの女性が冬でもサンダルを履くということを知っているため、別段驚きもしない。
 柔和そうな笑みを、下半身についてはトランクス一枚の太郎に対して向けてくるこの女性は名前を高橋菜々美といい、一年前に体調を崩した前大家の代わりにやってきた女性である。どうやら前大家とは親子か叔母と姪の親族関係にあると太郎は聞いた覚えがあったが、前大家の六十をとっくに過ぎたあの顔ややかましさを思い出すと、とてもそうだとは思えなかった。
 そこで菜々美は口に手を当て、ようやく驚きの表情を形作る。
「あらあらまぁまぁ、着替え中だったの。これは失礼いたしました」
 菜々美はそういって、けれど顔を赤らめることもなく廊下の壁に隠れてしまう。そして今度は壁の向こうから声が聞こえてきた。
「着替えが終わったら呼んでくださいね。ちょっと話があるから」
太郎はとりあえず唖然としてみる。確かに自分は現在進行形で着替え中で、そこは確かに驚くに値する部分だとは思うけれど、その前に視界の下のほうで扉が思い切り倒れているのが目に入らなかったのだろうか。本来一番に驚くべき点はそこではないのだろうか。
そのままズボンに足を通し、パーカーを着たところで響を見る。響は太郎に視線を移すことなくパラ子と向き合ったまま「今の誰?」と聞いてきた。ので、太郎は「管理人。というか大家さん」と返す。どうやら大家という存在は響の興味を引かなかったらしく、響は短い生返事を返してからパラ子との会話を再会する。どうやらそれなりに意気投合したようである。
「菜々美さーん、着替え終わりましたけど……」
 声をかけると、ひょっこりと菜々美が廊下から姿を現す。太郎が先ほど菜々美の言っていた話ということを聞こうと思った瞬間、菜々美がつぶやいた。
「あらあらまぁまぁ。ドアがこんなになっちゃって」
 菜々美の視線の先には響が蹴倒した田中家のドアが。ようやく気がついたのだ。ようやくを今更に置き換えたとしても結果は変わらないが。
 口に手を当てて依然柔和そうに驚く菜々美は、しかしそれ以降何も反応をしない。視線こそ蹴倒されたドアに向けられているが、その表情に最初は含まれていた驚きの成分もすぐになくなり、口に手を中てるという驚きの動作もなくなる。時間して五秒ほどだろうか、菜々美はゆっくりと太郎のほうを向いて、手にした回覧板に視線を落としつつ、口を開いた。
「そういえば、さっきわたしが話そうとしていたことなんですけどね?」
 太郎は頭を抱えたくなった。前々からわかっていた、感づいていたことなのだ。どう考えてもこの新しい大家は天然で、存在自体がどこか抜けている人だということはなんとなくわかっていたのだ。物事をあまり難しく考えず、お気楽で前向きでマイペースだとは思っていたのだ。だが、それがここまでだとは。
 勇気を出して太郎は言ってみる。返ってくる答えに日常では普通は味わわないような恐怖を感じつつも。
「あの、ドアってどうすればいいでしょう?」
「ドア? うーん、そうねぇ。……放っておいていいんじゃないかしら。駄目? どう思います?」
 いや、どう思うといわれても。太郎はこの高橋菜々美という自分より八か九近く年齢が離れているはずの大家を見て、もうどうにでもなれという気分に支配される。そもそもどうして自分が質問をしたのに向こうから同じ質問を返されなければならないのだ。質問に質問で返されても困るだけであり、どうやらこのアパートに新たな入居者が少ないのはきっと風呂なしトイレ共同の六畳一間というだけではないのだろうと思う。そういえば前の大家もとても適当だったなぁと太郎が昔日に思いを馳せかけたところで、菜々美の声がかかった。
「あぁそうそう、お話があるんですけど」
「え? あ、はいはい。なんですか?」
 正直菜々美といると余計なエネルギーが使われていく気がしたのだが、菜々美には別に悪気があるわけでもなく―――だからこそ余計に厄介なのだが―――普段は普通に優しい良妻賢母的な人間なので、太郎はどうも憎めなかった。こういうのが人柄なのだと思う。
「警察の方から伝達があって、どうやら危険なパラダイムが周囲をうろついているかもしれないとのことらしいので、夜道を歩くときなどは注意してくださいとのことです。あと、そのパラダイムを見かけた場合は、直ちに警察に連絡をしろとも」
「物騒な話ですね」と太郎は言う。警察からこうやって直々に伝達がくるというのはかなり珍しい事件だったが、その程度のことがあったとしても驚かない。何故ならこの世にはパラダイムという人間が存在しており、この柳葉市はそれほど自治区から離れてはいない、厳戒態勢を敷くほどのパラダイムが壁を開いて出てきたか、それとも自治区からの脱走者でも出たのか。
 前に一度だけ似たようなことがあった。二ヶ月と少しくらい前だったか、隣の市とこの市にまたがる形で連続殺人事件が起きたのだ。結局犯人はパラダイムで、今は捕まったらしいけれど。
 太郎の言葉に菜々美は頷く。いくら菜々美でも、流石にこのような伝達が警察から直々に下れば、多少なりとも緊張せざるを得ないらしい。それでも依然として雰囲気はのんびりしているが。
「そのパラダイムの詳しい情報は出てないの?」
 奥から響が声を出す。玄関にいる菜々美から部屋の中にいる響の姿は当然死角になり見えないので、菜々美はいきなり響の声が聞こえたことに一瞬びくりと体を震わせるが、すぐに慌てた様子で言った。
「あらあらまぁまぁ、女の方ですよね? もしかしてわたしお邪魔しましたか?」
 一体どのような変な想像をしたのだろうか、菜々美は僅かに顔を赤くしながら言った。なんとなく菜々美のその想像の内容が太郎には理解できたが、太郎も、菜々美がそのような想像をしたのも仕方が無いと思う。時計を見る限り現在時刻は九時四十分ほどで、朝だ。その時間帯に男女が一緒の部屋にいるのだから、多少の勘繰りは仕方がないとも言える。しかも先ほど太郎はトランクスとTシャツという格好だったのだ。
 無論太郎にしてはそんな菜々美の想像というか妄想は勘違いも甚だしいので、当たり前だが訂正はする。
「一つ言っておきますけど、あいつは彼女なんかじゃないんで」
「そうそう、あんたがあたしの下僕なだけよね」
「黙れ」
 トチ狂ったことをさらりと言う響を一蹴し、太郎は菜々美との会話に戻る。菜々美はよくわかっていないような表情をしていた。実際のところ太郎もよくわかっていないので、別に気にすることではない。
「で、本当のところ、そのパラダイムとやらの詳しい情報は出ているんですか?」
 菜々美は回覧板を一枚捲って、二枚目の紙に書かれている内容を読んでいる。太郎はあらかじめ確認していなかったことに呆れそうになるが、まぁ菜々美さんだからなという理由によって納得する。それは本当にごく一部の人にしか通じないことではあるが、間違いの無い真理だった。
 菜々美の顔が驚きに変わる。いや、驚きというよりも、意外な事実を知った顔だ。驚きとはまた違う、びっくりしたといったほうが正しいような顔だが、ことがことだけにそれよりも少し深刻そうな意味合いを含んでいた。
「本当に書類に間違いがなければ、の話ですけど」
 一通りその紙に目を通した菜々美は、そのような普通は前置きとして述べるはずではないであろう言葉を前置きとして述べてから、ゆっくりと言った。
「危険な人物は少女ということらしいです。外見年齢が十台半ばの少女。小学生か中学生くらいと書いてあります。危険な理由は……変なんですが、書いてありません。それでもランクは特級ですけど……」
 菜々美の言葉には、特に最後のほうになるにつれて力が篭っていなかった。いくら政府直々のお達しだとは言っても、流石にその書類に書かれている内容を全て信じることはできなかったのだ。それは他ならぬ太郎も同じである。
「特級、ですか?」
「ええ、特級」
 太郎と菜々美の面持ちが一気に真剣みを帯びる。それもそのはずで、厳戒態勢がしかれるということから薄々察してはいたが、まさかランクが特級だとは。しかも、そのパラダイムはまだ年端も行かぬ少女だというのだからなおさらだ。
 ランクとは、人物の強さや凶暴さを表すためにつけられた、いわば危険度の階級である。全てのパラダイムにはこのランク付けがされており、ランクによって『壁』開閉の許可の降りやすさ、その後につく監視の数などが変動する。一番高いランクは特級であり、次に甲級、それから乙級、丙級、無級と続く。特級というのは本当に全国でもわずかで、二桁いるかいないかとのことだ。基本的にほとんどのパラダイムが無級か、いいところで丙級という現状なのである。
 つまり、そのような全国でも二桁に届くかどうかといった数しかいない特級のパラダイムが自治区外に出てくること事態がそもそも異常事態で非常事態なのに、しかもそのパラダイムが小中学生くらいの少女だとなれば、話はまさに異変となってくる。さらに言えば、厳戒態勢がしかれ、民間人にも注意を促すような文書が出回るということは、理由はともかく野放しにされている可能性が高いということだ。
 民間人が急にパラダイム化したということも考えられなくは無かったし、昔に一度そのようなことで厳戒態勢染みたものが近くの地方都市でしかれたことがあるという話を聞いたが、もし仮に本当にそうだった場合、まだランクは決定していないはずだ。なので、矢張り自治区から何らかの方法で野に放たれたと考えるのが正しいだろう。
「田中、この子がトイレに行きたいんだって。トイレの場所を教えてやりなさい」
 話の腰が音を立てて折れていくような幻聴とは思えないような幻聴が聞こえた気がしたが、太郎は何も言わず、恥ずかしそうに姿を現したパラ子にトイレの位置を教えてやる。廊下に出て左に曲がり、突き当りがトイレだ。
 気がつくと菜々美が変な顔をしていた。太郎は一応目の前で手を振ってみるが、反応は無い。
「どうしました?」
 呼びかけるが、反応は無い。
 数秒遅れて、ようやく反応。
「あらあらまぁまぁ」
 そういえば菜々美さんはあの子のことを知らないんだっけ。太郎はそんなことを思う。とはいえ太郎だってパラ子のことを知っているわけではなく、寧ろ全然全く微塵もほんの少しもこれっぽっちも知らない赤の他人であるわけなのだが、太郎はとりあえずことの経緯を説明しようとする。菜々美の性格からして有り得ないだろうが、菜々美にも響と同じように、誘拐してきたと思われると困るからだ。
 太郎の説明は、しかし、菜々美の声によってかき消された。
「あの子かしら」
「……え?」
「だから、あの子かしらって。危険な特級ランクのパラダイム。……この文書に書かれている特徴と全て合致しています」
 菜々美の言葉が途切れるのが早かったか、それとも太郎が菜々美の手から回覧板を奪い取るのが早かったか。太郎はひったくるようにして奪った回覧板の二枚目の文書、その危険なパラダイムにの特徴の欄を見る。
 危険なパラダイムの特徴はこうとあった。
 外見年齢は十台半ばの少女。およそ中学生か高校生。ここまでは菜々美の説明と同じであるが、それから先が問題だった。まず、髪の毛が白いということ。また、同じように肌も白いということ。服装は黒いワンピース。しかし着替えている可能性も有り。そのように文書には明記されていた。
 太郎は開いた口が塞がらない。少女だというのはいい。服装が黒いワンピースだとしても、ただの偶然で済ませることができる。しかし、髪の毛が白いという項目は、どう考えても一つの結果しか連想させない。髪の毛が白い人間がこの世の中に何人いるというのだ。
 しかも記憶喪失。パラ子がパラダイムで、そして国自体から追われている身だというのならば、記憶喪失になっていたとしてもなんらではない。それは国の作為的なものであるかもしれないし、戦闘によるものかもしれない。どの道少女が記憶喪失だと言うことに変わりは無い。
「マジかよ……」
 その台詞に菜々美が神妙な面持ちで頷く。と、二人の会話を聞いていたのだろうか、響が姿を現した。
「どちらにせよ、あの子にはもう何の記憶も無いわ。追われるようなことに関係する記憶はね。パラ子が忘れてしまったのは、自分の名前と、生い立ちと、どうしてここにいるのかだけ。世間一般的な常識や道具の使い方は覚えているみたい」
 どうやら先ほどの会話の中ではそのことについて調べていたのだろう響は、さらりとそう言ってのけた。響の言ったことが真実なのであれば、パラ子は自分に関係することだけを忘れてしまったということになる。それはあまりに都合のよすぎる話だった。
 太郎は考える。ならば、パラ子は政府によって記憶を消されたのだろうか、と。パラダイムなら記憶消去くらいはできそうなものである。最早パラダイムは何でもあり同然の存在だ。
 三人は顔を見合わせる。今でこそパラ子はトイレに行っているが、トイレに十分もかかるとは到底思えない。パラ子自身の前でそのことを話すことも危険なような気がした。
「どうしましょう?」
 小声で菜々美が言う。どうも菜々美はシリアスな場面には向いていないらしく、雰囲気が依然としてナチュラルのままであったが、顔は険しかった。
 菜々美の発言を受けて響が即答する。
「警察はやめておきましょ」
 響のその台詞に二人が同時に響のほうを見る。
 警察を含む政府を完璧に信頼しているというわけでは二人だって無く、確かにこの一件に関しては不思議というよりも不自然な点がいくつかあるものの、厳戒態勢までしかれているのだ。もしかするとこちらまでが隠蔽で罪に問われかねない。
 それに第一、不自然な点だってこちらが持っているわずかな情報の寄せ集めの結果できあがっただけで、詳しい話を聞けば納得できるものなのかもしれない。まずは警察に通報すべきだろう。太郎が大方そのような意味のことを言うと、響は鼻で笑ってこう言った。
「民間に情報を公開しない国なんて滅べばいいわ」
 とりあえず太郎は小さく「うわぁ」と呟いてみる。いや、確かに響が権力を必要以上に怯えたり、敬ったりはしない性格の持ち主だということは知っていたのだが、しかしそれでも今の台詞は太郎が聞いた中でもダントツに危険だった。「滅べばいいわ」。蓋(けだ)し名言ではある。
 響は自分が放った言葉に太郎が引きつった笑い―――ちなみに菜々美はたいした反応をしていなかった―――をしていることに気がついているのかいないのか、小声で続けた。
「国が正しいなんて馬鹿みたいなこと言わないわよ。寧ろ国って言うのは一番卑怯な存在だとすら思うわ。この件には変な部分がありすぎるもの」
 変な部分。それについては菜々美も太郎も反論と疑問の余地は無かった。先ほども述べた、あの少女が特級であるという違和感、そして記憶喪失に、前提としてどうしてそんな特級クラスのパラダイムが野に放たれるのかという不思議。報道規制が何らかの原因でかかっているのかもしれなかったが、新聞やニュースになったことも、恐らくは一度も無いはずだ。
 つまるところこの件に関しては響の言うように、変な部分、納得のいかない、またはいったとしても半ば無理やりになるような部分があったのだ。
「……でも、だ。後藤、お前の意見は確かに正しいけど、お前は一体あの子……パラ子を、じゃあどうするって言うんだ?」
 響は太郎の質問に酷く心外そうに顔をしかめて。
「私の家に居候させるわ。それでいいでしょ」
 こればかりには流石の菜々美も、「あらあらまぁまぁ」といいながらも目を丸くして驚いていた。ちなみに太郎は言わずもがな、である。
 今こいつは何を言ったのだろう。力なく笑いながら思う。響の家にパラ子を居候させることが問題なのではなく、そもそも特級ランクの人間と一緒に住むという発想ができることが太郎にとっては驚愕である。太郎だって民間人では割合パラダイムに対して理解があるほうだが、それでも一抹の不安と恐怖は拭いきれない。が、対してこの響はというと、この状態である。
 まさに奇想天外な思考の持ち主というほか無かった。響だってある程度パラダイムには恐怖心を抱いてもいいはずだし、実際一般人よりも少ない度合いの話ではあるが、パラダイムを忌避する部分も持ち合わせていたはずなのだ。それでもあのようなことがさらりと言えるのは、響の度量の深さの賜物か、それともパラ子のあどけなさ、人畜無害さのせいか。
 あの少女がなんとなく守ってあげたくなるようなタイプだということには、太郎だってなんら異存は無いが。
「……でも、本当にいいんでしょうか。もし警察に見つかったら、なんと言われるか……」
 不安そうに言う菜々美。響は本心なのか、それとも菜々美の不安を払拭するためなのかはわからないが、快活に「大丈夫ですよ」と笑い飛ばす。
「警察には見つからないよう上手くやるし、第一、まだあの子が本当にそのパラダイムなのかはわからないわけなんですから。それを見極めるためにも、ってことで」
「あなたがそうおっしゃるならそれでもいいですけど……くれぐれも気をつけてくださいね」
 確か響と菜々美は初対面のはずだったが、それでも二人はすでに半分以上打ち溶け合っているようだった。響の社交性と菜々美の誰でも受け入れられる素質があるが故だろう。年齢が二桁も離れていないことも一因か。
 太郎はそこで思い出す。太郎はこうして一人暮らしだが、響は確か実家住まいだったはずだ。昔本人から聞いたことがある。母親が死に、今では父親と二人暮らしをしている、ということも。
「でもいいのか? お前のところは父親と二人暮らしだろ」
 そしてまた、響はそんな太郎の質問に、予想だにしない返答を返す。
「二人も三人も同じよ。それに、父さんは細かいことを気にしない主義だし」
 二人と三人は似たようなものなのだろうか。突然居候が家に転がり込むというのは細かいことなのだろうか。家族が一人増えれば生活費は格段に増えるが、そのことを響は考えてものを言っているのだろうか。いまさら太郎は心配になってくる。
 とはいえ、それは後藤家の問題であったし、何よりこの状態の響に何を言っても無駄であることを太郎は身をもってよく知っていたため、諦観を多分に含んだ表情で苦笑いしてみせる。
 そんな話をしていると、こつこつと廊下を歩く音が聞こえてきた。誰とも無しに三人が会話をやめる。パラ子が戻ってきたのだ。
 響は一歩前に出て、とても親しそうな様子でパラ子の肩を抱き、頬ずりさえしそうな距離感をもってして太郎と菜々美の両名に言う。
「じゃ、あたしはこれからこの子をあたしの家に連れてくから。じゃあね」
 太郎はそういえば響が自分の家を訪ねてきた理由を聞こうと思ったが、口を開きかけたころにはすでに響は階段を降りかけていて、開けた口だけが虚しくぱくぱくと動く結果となった。
 そのまま太郎は菜々美と別れの挨拶をし、菜々美が回覧板を申し訳無さそうに両腕に抱くようにして去っていく姿を見ながら、太郎はそこでようやく思い出した。目の前には依然として蹴り破られた扉が無残に転がっているのだ。
「修理費は俺が出すのか?」
 今の太郎には、それしか呟くことが出来なかった。



 目覚めたらすでに夕暮れ時だった。太郎のいる位置から窓を通して微かに見える空は、夕陽のために朱色に染まっている。あのあと現実逃避が半分精神的疲労が半分といった理由により、太郎は二度寝を決め込んだわけなのではあるが、こんな時間に起きてしまうと逆に都合が悪い。夜にいつもどおりに眠ることが出来るかどうか。明日は普通に講義があるのだ。
 扉は直っている。眠る前に修理業者を呼んで直してもらったのだ。しかも自腹で。そのせいで五千円くらいが一気にパーになってしまったので、今度響に文句の一つでも言ってやらねば気がすまない。
 起きてしまったのならば仕方が無いと、太郎はノートパソコンを立ち上げる。基本的に太郎の趣味は読書とパソコンくらいしかなく、趣味の片方の読書にしても内容のうち半分は漫画であり、さらにそのうちに半分は十八歳以上しか買えないような内容のものだ。ちなみに読書の残り半分は小説であり、小説にしたって最近は新しい小説を買っていない。
 ノートパソコンを立ち上げ、デスクトップ画面に並んだアイコンの中からインターネットエクスプローラを開き、ダブルクリックする。金銭的な面から未だに太郎のノートパソコンはISDNでも光ファイバでもなく電話回線を通じてネットに繋いでいるのだが、そもそも太郎の家には電話が無い。携帯電話があるから十分なのだ。
 お気に入りに登録している掲示板へと行き、そこにて今日起こった一連の出来事に関する情報を探ってみる。予想通り、あった。

NO1・NO NAME:今日、俺のところでパラダイム云々の警告がされたんだが、他のところは        どうなんだ? 情報求ム。
NO2・NO NAME:自分のところも連絡が来た。なんか女の子らしいな。
NO3・NO NAME:こっちもこっちも。まぁ本当に情報通りの女の子だったら、俺は間違いな        く拉致監禁(笑)
NO4・NO NAME:NO3はロリコン。気をつけたし。
NO5・NO NAME:俺もNO3の意見に同意(笑)でも珍しいことだよな、実際。

 パソコンのモニターにはそのようなことが大量に書き込まれていた。画面をスクロールしていくとNO412まである。流石に全員が別々の人間というわけではないだろうから、多くても三百人から三百五十人程度が書き込んでいるのだろう。そして書き込みの中には「少女に関する連絡が回ってきていない」と言う内容の書き込みは一つたりとも無かった。投稿者がどこに住んでいるか定かではないため、全国にあの連絡が回っているということを決め付けるのは早計だったが、それでも説得力はあった。
 一体全体何が起こっているのやら。太郎は心の底からそう思うことしか出来ない。あの少女が本当に危険人物なのかは定かではないが、どちらにせよ不審者なのは間違いない、なにせ自分の隣で眠っていたのだから。
 わからないことだらけだった。もう考えるのが面倒くさくなってくる。もう思考停止してしまおうか。あの少女のことは間違いなく太郎の常識の範囲をとっくに越え、遥か彼方イスカンダルまでぶっ飛んでいってしまっているし、第一あの少女はすでに響の家にいる。すでに自分とはなんら関係の無い存在になったわけだ。そんな自分があの少女のことを考えて、わざわざ脳みそを疲れさせる必要があるだろうか、いやない。
 人間そうなってしまうと早いもので、太郎は早々にブラウザを閉じて電源を落とし、もう一度布団にもぐりこんだ。拾ってきた時計は六時十五分を指している。間違いなく早いが、今はとにかく現実を忘れたかった。
 間違いなく起きている時間に比べて眠っている時間のほうが長かったが、そんなことは太郎にとって最早どうでもいいことである。



 目覚まし時計代わりに利用している携帯時計が鳴った。布団の中からもぞもぞと起きだしてそれを手に取り、目覚し機能を停止させる。
 見知らぬ少女が隣で眠っていたり、それを見た友人に蹴り殺されそうになったりと色々なわけのわからないことがあったあの日から、今日で四日目。翌日に連絡はあったが一度きりで、その一度はただの報告のようなものだった。即ち、自分の家にあの少女、パラ子が住むことについて、オーケーがでたとのことである。
 太郎は響とは高校からの付き合いで、恋仲ではないにしろ休日に遊びに行くなどそれなりに親しかった。そのためあの傍若無人な性格はどうしてだろうかと思ったことも二度や三度ではない。その疑問にようやく答えが出せそうだった。
 遺伝だ。太郎はそう結論付けたのである。間違いなく親からの遺伝だと。
 普通に考えれば、いきなり自分の娘が見ず知らずの少女を家に無期限で住まわせてくれといったところで、そんなことを了承する親などまずいない。が、響の父親はそれを了承した。ということは、親子二代に渡って少し常人とは違った性格をしていると考えるほかに無い。響の父親に関しては今回のことしか考える要素が無いのだが、鷹揚というにはあまりに鷹揚過ぎた。
 アパートの大家である菜々美も、パラ子のことについては他言していないらしく捜査当局の手が太郎の家に伸びてくることは無さそうだった。あの菜々美のことである、ついうっかり口を滑らせてしまうということも考えられたのだが、一番懸念していたそれが無いようで、とりあえず太郎は安心している。
 今日は土曜日なので講義は六時限目だけしかない。課題も出ておらず、かなりフリーな一日だった。
 ついつい自分の眠っている布団を見てしまう。特に自分の眠っていた地点の隣を。なんだかあの日以来、起きたらまた隣でパラ子が眠っているかもしれないと思ってしまい、少しばかり心に悪かった。あのようなよくわからない出来事があったのだからそれも仕方ないといえば仕方ないが。
 先日拾ってきた目覚まし時計に視線を向けた。現在時刻は十一時二十五分前後。道理で小腹が空いているわけだと太郎は冷蔵庫へ歩み寄り、ドアを開けて中を覗き込む。三日前のカレーの残りがあったので、それを暖めなおして食べることにする。
 カレーを食べ終わった後、太郎は外に出る支度をする。今日は響の家に行く予定になっているのだ。
 とはいっても、用事があるのは響にではない。響の家にである。先日響が太郎の家に来たとき、響があの少女を自分の家に連れて帰ったというのは単なる偶然が生み出した結果であり、響は何かしらの用事があったから太郎の家を訪れたのだ。あの時はまさに色々とあったため太郎も響もすっかり忘れていたが、翌日に響から電話があり、少女のことと合わせて聞かされた。
 それからの三日間は講義があったり大学の友人関係の付き合いがあったりで、響のところに行くことはできなかったのだが、今日ようやく行くことができるようになったのだった。
 響の実家は古本屋である。いまどき珍しい、個人経営の古本屋。店名を『後藤屋』という、明らかにそのままな古本屋は、なんと現在の響の父親が三代目らしい。響は家を継ぐつもりはないようだが、響の父親はそれでも響に跡を継がせようとしているということを、前に太郎は響から愚痴として聞かされたことがあった。
「まぁあいつも色々と大変なわけだなぁ……」
 太郎がその『後藤屋』に行く理由は単純で、古本屋に行くのだからそれも当然であるが、注文していた古本が入ったとのことだった。すでに発売中止になってしまったもので、しかし太郎が好きな作者の最初の作品である。ライトノベルではないがハードカバーでもない。所謂新書というやつだ。
 なお、後藤家は男児が生まれる前に響の母親―――響の父親にとっては妻―――が逝去してしまったため、響の父親はよく家に行く太郎のことを息子のように思っている節があるらしく、どうもあわよくば響と婚姻関係を結ばせた後に家業を継がせようと考えているとかいないとか。
 太郎は思う。別に自分と響は恋仲ではないし、いいとこ親友どまりの間柄だ。大学が同じという理由なだけの交友関係で、響の家に行くのだって買い物のためにと言う理由が大半を占めている。響の方だって別に自分に特別な感情を抱いていないに違いない。いや、絶対にそうだ。
 大体響と付き合おうものなら、一ヶ月としないうちに心も体もぼろぼろにされているに違いない。それほどのバイタリティを彼女、響は持っている。
 そんなことを考えながら、太郎は今日もまた『後藤屋』へと足を運ぶのである。
 直ったばかりの家の扉を開けると、五月の陽気が襲ってくる。日光に目を細めた。そのまま鍵をかけ、階段を下り、下に駐輪してある自分の自転車の鍵をはずし、サドルにまたがる。ここから自転車で十五分ほど走ると響の家である『後藤屋』が見えてくる。
 十五分後。
 太郎はいつもと変わらぬ時間で『後藤屋』に到着する。当然のことながらシャッターは上がっており、いまどき珍しい木で出来た引き戸が時代を物語る。中には金属で出来た棚に所狭しと古書が並んでおり、小説から漫画から雑誌から、内容とジャンルはさまざまである。この店は奥が家になっており、カウンターのそばに置かれた工具箱などが生活臭を漂わせていた。
 いつもどおりに響の父親に挨拶をし、注文していた古本を受け取り、奥から現れた響と会話をはじめ、響の父親がウインクをしながら奥へと消えていき、太郎が内心でため息をつき、会話が終了しそうになった段階で響が話題を唐突に持ち出した。
「そうそう、パラ子のことなんだけどさ。……凄いわよ」
「……なにがだ?」
 押し殺したような響の声に、太郎の聞き返す声も自然と低く押し殺した声になる。正直、太郎は響のここまで真摯な姿を見たことがあまり無かった。広域指名手配されている少女だ、太郎も慎重にならざるを得なかった。
 だから。
「……『萌え』よ」
「は?」
 太郎の次の言葉は、途轍もなく呆けた声になってしまった。
「だから、萌えよ萌え! あの子ね、凄い萌えるわ。なんていうの、ほら、こう……萌え要素が人の形を取った感じ。いやぁ、あの子と一緒に暮らしてるとね、滅茶苦茶和むわ。人当たりもいいし、可愛いし、話してみると結構面白いし、人見知りしないし。記憶喪失とかも含めてあんな立場じゃなかったら、間違いなくうちの看板娘なんだけどなぁ。
 だってあれよ? あたしのことを『響お姉ちゃん』って呼んでくれるのよ? きっと頼めば『お兄ちゃん』とも呼んでくれるわよ? 全国三十万五千百九十七人のオタクの心を鷲掴みよ! 掴んだら死ぬまで離さないわよ! オタクじゃなくてももうはにゃーんよ!?」
「……」
 どこから何を言ってやればいいのか考え、太郎は結局何も言わないことを選択した。心の中では実際、いきなり言い出すと思えば何が「萌え」だ。しかもその三十何万という具体的な数字は一体どこから出てきたんだ。ていうかはにゃーんってなんだ。などなどのツッコミを入れているのだが、口に出すとエネルギーの無駄だと思ったことが、無言と沈黙の理由である。
 太郎は自分がオタクだということを自認している。しかし、この響とのやり取りを誰かが見ているとするならば、響のほうが数百倍オタクに見えただろう。オタクというか、駄目人間かもしれない。
 響は依然として何かを太郎にむけて主張し続けていたが、そのうちに扉が開かれて会話が中断した。響が父親を呼ぼうとするが、それより早くやってきた客が言葉をかける。
「どこにいるの?」
 やってきた客は二十台半ばの女性だった。白いブラウス、ジーパン。それに何故か白衣を上から羽織った格好の、一見すれば化学教師とすら思えるような風貌の女性は、突然そのような意味不明な質問をした。
 主語すらなく、ただ「どこにいるの?」のみ。しかもその女性と太郎は知り合いではなく、響の反応を見ている限り響の知り合いでも無さそうで、当然その質問の意図などがわかるわけは無い。響が対応に戸惑っていると女性はおもむろに煙草を取り出し、銜えてからライターで火をつける。
 女性は煙草をふかしながら眠たげに面倒くさげに頭を掻き、器用にも煙草を落とさないように呟く。
「……まぁいいか」
 置いていかれたままの二人はぽかんとしたまま、その女性を見ているしかなかった。買い物客ではないのは一目瞭然だが、ならば目的はなんなのか。
 数秒して、ようやく太郎も響も異変に気がつく。女性の煙草の先端から出る紫煙が常識外れに多いのだ。その紫煙はゆっくりと、しかし着実に店内へと広がり、何故か開け放たれている扉からは外へと逃げていくことはない。女性が吐き出した紫煙もまた、店内を蹂躙していく。
「な、なによ、これ……」
 響が呆然と呟いた。太郎も響と同じ気持ちで一杯である。正しく何がなんだかわからない状況だ。
 恐らくこの女性はパラダイムなのだろう。しかし、それにしてもこの行動が不明だ。突然店にやってきたと思えば煙を店内に撒き散らし、さらに前後の発言も意味不明。警察を呼んだほうがいいのだろうか。いや、警察を呼んでしまえば、パラ子の存在までが明るみにでかねない。
 まてよ、パラ子? 太郎ははっとした。先ほどの「どこにいるの」という台詞は、住所違いで無い限り、ここ『後藤屋』の人間に向けられたものだろう。「いる」ということは物体ではなく人間だから、響を除く誰かになる。とすると響の父親ということになるのだが。
「パラ子……」
 そうだ、ここにはパラ子がいる。響と響の父親以外にも、この『後藤屋』にはパラ子が住んでいるのだ。そして、正体不明で意味不明なパラダイムが人を探している場合、パラ子の可能性が高いということは万人の意見を俟つまでも無い。
 気がつけば叫んでいた。多分それは、あんな少しの出会いだったにしろ、パラ子に親近の情が湧いてしまったから。
「後藤っ! あいつ連れて逃げろ! そいつきっと、警察っ!?」
 太郎が言い終わる前に女性が動いた。太郎の頭を鷲掴みにし、そのまま地面へと叩きつける。ごづんとコンクリートの地面に頭を強打され、脳が揺れて視界が一気にぐにゃりと歪む。吐き気を催すが吐瀉物をぶちまけるには至らない。
 激痛に蹲っている暇など無い。そのまま困惑している響に声をかける。
「ご、とうっ! 早く!」
「え、あ、うん!」
 響が濃い煙の中を走り出していくが、どういう原理なのか、一瞬にして女性が響の前へと立ちふさがる。響は舌打ちし、そのまま速度を上げた。
 瞬間、ハイキック。女性のパンプスの先が鞭のようにしなり、格闘家のような速度で響の頭を捉える。なんとか寸前にガードした響だが、威力を全て受けきることは出来ず、そのまま横に吹き飛んで本棚に激突。本棚から本がバラバラと落ちてくる。
 矢張り何かあったのだ。あの少女には、パラ子には、自分たちがまだ知らない、そして自分たちがこのような目にあうまで重大な何かが、秘密が、存在しているのだ。
「後藤! おい、後藤!」
 自分のこの状態は頭を強く打ったことによる脳震盪だが、響はどうかわからない。腕の骨さえ折れていなければいいが。
 響は腕を押さえながらゆっくりと立ち上がる。苦痛に歪んだ顔だが、どうやら体に異常は無いようだ。
 いつの間にか女性はいない。代わりに外から車のエンジン音。居間のほうにはパラ子とともに響の父親がいたはずだが、どうなったのか。多分自分たちと同じような目にあっているのだろう。
「何よこれ、一体どういうことよ! わけわかんないわよ、ふざけんじゃないわよ! 警察? だとしても、この手口は、いささか荒っぽすぎるんじゃないかしらぁっ!?」
 憤怒の表情を露にして響が怒鳴った。彼女がここまで怒った場面を見るのは、太郎にとってはこれが二回目である。一回目は高校二年のときで、確かあの時は入院者が三人出るという大事件になった。悪いのは響ではなく病院送りにされた三人だったので、響にそこまでお咎めは無かったらしいが、響のその荒れ狂いっぷりは今でも伝説として残っているようだ。
 太郎は知っている。響が本気で、心の底から怒ってしまうと、もうどうしようもないということを。
 ゆっくりと白い煙幕が薄れていく。段々と店内が視界に入り、太郎には呆然とした表情で立ち尽くしている響の父親の姿も視界に入った。そんな中、パラ子の姿だけが、視界には無い。声も聞こえない。
「もうマジでブチ切れたわ」
 言って、響は駆け出した。向かうは店外、少女を攫っていった女性が乗ったはずの車。追いつこうというのだろうか。いかに響が俊足だったとしても、そんなことは無理に決まっている。
 けれど怒れる響に呼応するかのように、店内、カウンターのところで、がぢぃんという金属音が聞こえた。
 太郎の眼前を何かが超高速で飛び過ぎ去っていく。太郎の凡人的な動体視力では、それが細長い何かということと、その何かが複数個存在していたということだけである。太郎が金属音のした方向へと視線を向けると、そこには真新しい穴が穿たれた工具箱が転がっていた。
 何が起こったかを確かめようと、太郎は痛む頭部を押さえながらも店外へと駆け出し、そこで響と、そして見知らぬ二人が対峙している場面を目撃した。いや、対峙というよりは相対と言ったほうが正しいか。恐らくは車が走り去っていったのだろうと思われる方向を響が睨みつけており、響の行く手を阻むかのように二人の人物が立っていた。
 その二人の人物はどちらも学校の制服を着ていた。一人は黒い長袖のセーラー服、もう一人は藍色を基調としたブレザーだ。少しばかり違和感を覚えるとすれば、二人の人物のうちの片方、黒い長袖セーラー服を着ている少女は、体躯も容姿も雰囲気も、全てが大学生かそれ以上の成人女性だと捉えることが出来そうだったことか。
 セーラー服の女性が穏やかな、菜々美を想起させる声で言う。
「お願いですからお引取りください。ここから先はあなたたちが踏み込んでいい領域ではありません。死にたくないでしょう?」
 銀色に光るオートマチック拳銃と濃緑の手榴弾をちらつかせながら、セーラー服の女性が言う。その言葉を受け、隣のブレザーを着た少女も言った。
「そうそう。手加減しろとは言われてるからするけど、手加減しきれないかもしれないからね―――ぇっと!?」
「うるさい!」
 言いながら響がブレザーの少女に鋭く蹴りを入れる。少女は身を一歩引いてそれを回避する。響も二対一では分が悪いと判断しているのか、あまり深追いはせず、二人とある程度距離を保ったまま睨みつけている。
「千万さん」
 セーラー服の女性が言った。
「手加減、あんまりしなくていいみたいですよ。その方どうやらパラダイムみたいですから」
「は?」
「え?」
 素っ頓狂な声を上げたのは、太郎か、響か。
「ほら」とセーラー服の女性が右手を上げてもう片方の少女に見せると、少女も神妙な面持ちで頷いた。右手の指と指の間には、丁度四本、ドライバーが挟まれている。
「先ほどこの方が現れたとき、車を追う形で向かうこのドライバーを計四本、掴み取りました。どう考えても投擲したものではなかったようですから、矢張りパラダイムと考えるのが妥当な線かと。タイミングが良すぎる気もしますけれどね、まぁそういうこともあるでしょう。問題はそんなところではありませんし」
 言うが早いが、セーラー服の女性は持っていたオートマチック拳銃を響に向ける。銀色に光る拳銃の、真っ黒い銃口は、響に言い知れぬ恐怖を与えるには十分だった。それは響だけでなく太郎にとっても同じこと。友人に拳銃が突きつけられているというのに足は全く動く気配を見せない。まるで空気が泥濘化し、時間が鈍化してしまったかのような、そんな錯覚に陥る。
 引き金に添えられた右手人差し指が動く。銃口は真っ直ぐに頭部、響が今から動いたところで間に合うわけも無く、一瞬のマズルフラッシュとともに鉛の弾丸が銃口から射出されて―――
「なにやってんだ、お前らは」
 その弾丸が、一人の男性の手の中に納まった。
「勝手に民間人に危害加えんじゃねぇよ。しっかりと出発前に確認しただろうが。上からもきてるんだぞ? 民間人に被害を出すな、民間人に気がつかせるなってよ。一瞬にして破棄しやがって……。てめぇ、しかも人のことを縄でぐるぐる巻きにしやがるしな……目ェ覚めてびびったぞ。戻ったら焼きいれてやるから、覚悟しておけ。
 あ、そこのお嬢さん。マジで悪いね。こいつらが馬鹿な真似してさ。今回のところはあんたのパラダイムの件、見逃しておくから。よくわからんが、優先順位はどうやらあっちらしいし」
 二人の少女と響の間に立った一人の男性。その男性は、左手で至極面倒くさそうに、詰まらなさそうに、そして迷惑そうに顔を顰めながら髪の毛を掻き、右手で握りつぶした弾丸を地面にぽとりと落とした。からん、と澄んだ音がする。
 放たれた弾丸を、初速が秒速七百メートルはある弾丸を、右手で掴み取り、そして握り潰した―――なんて、なんて、なんて、どう考えても常人ではない。太郎は辛うじて残った正常な脳で判断する。あまり使いたくは無い言葉だが、「有り得ない」。
 パラダイム。太郎の頭にそのカタカナ五文字が明滅する。普通の人間にそんなことが出来るわけは無いから、然るべき結論として弾き出される答えはそれ以外に存在しないのだが、しかし、そう簡単にパラダイムが『壁』の外へ出てくることが出来るわけも無い。見たところ二人も仲間のようだから、その二人もパラダイムだと考えると、三人。車に乗って逃走した女性も含めれば、四人。
 四人ものパラダイムが『壁』の外に出てきたという話は、現時点で太郎の耳に届いてはいなかったし、それだけの人数が一度に出てきたという話自体が前代未聞だ。しかもその前代未聞の話にあの少女が関わってくるとなると、半ば必然的にあの少女も前代未聞な存在というべきなのか。
 響も太郎も動かない。動けない。理由は推して知るべしといったところだが、とにかく、この場が全て異常だった。超常だった。
「繰り返すが、悪いね、本当に」
 それだけ男性が言うと、同時に三人は地を蹴り、一瞬というにはあまりにも一瞬にして道路の向こう側へと消えていく。辺りは閑静な住宅街。サイレンなどが聞こえないところから察するに、どうやらここで起こったことは周りには知られていないようだが、はてさて。
 響が太郎をすがるような視線で見ていた。そして呟く。
「田中ぁ、あたし、パラダイムになっちゃった……?」

 書本独破/1

 暑い。心の底からそう思う。そう思うしかなかった。しかし暑いといえば余計に暑くなってしまうのが人間であり、かといってこれ以上ない嘘である「あぁ今日は寒いなぁ凍えて死んでしまいそうだ」などという台詞を言ったところで寒くなるわけがなく、段々と苛立ちがヒートアイランド現象とそれの原因である諸々に向かっていってしまう。先ほどの台詞に付随して、「科学の進歩の馬鹿ヤロー!」と叫びたかった。
 けれど書本独破(かきもとどくは)はそんなことを間違っても口にしない。真昼のオフィス街でそんなことをすればどう考えても変人になってしまうし、下手をすれば警察や救急車まで呼ばれかねない。豊富な想像力がすぐさまそのときの様子などを思い浮かべてしまう。
 どこかのOLが携帯電話で警察を呼ぶのだろう。「大変です! 変な人がいます! 早く来てください!」などといって。そして自分は捕まるのだ、自分がどんな弁明や弁解をしたとしても警察は全く聞く耳を持たず、きっと「大丈夫ですよお嬢さん」などという台詞を流し目とともにOLに向けて、そしてOLはそんな警察官にぽーっとなってしまうのだ。そうに決まっている。
 というのは冗談だとしても、そのようなおかしな妄想をしてしまうくらいには暑かった。それもこれも全て暑さのせいだ、嘘ではない。
「何を一人で笑ったり怒ったりしているのだ、全く気持ちが悪いことこの上ないぞ。貴様も節度ある三十路前半独身男性ならば、このような人通りの多いところで妄想をするのはやめたほうがいい。だから女が寄ってこないのだ」
 瞬間的に凄まじい罵倒の言葉が飛んでくる。独破は苦虫を噛み潰したような顔をしながら視線を右に向け、同時に下へも落とす。
「貴様のせいで先ほどからすれ違う人間のほとんどが我らのほうを見てくる。一度や二度ならず、十度や二十度もだ。これは間違いなく貴様のせいだと我、友暮昨夜(ゆうぐれさくや)は考える。さて書本独破、貴様はこの我の考えに何らかの疑問や意見があるか? 無いだろうが一応礼儀として聞いておいてやろうではないか」
 友暮昨夜と名乗ったその人物は、無駄に高圧的で高飛車な罵詈雑言を際限なく吐き出していた。独破にとっては最早聞きなれたといっても過言ではないのだが、意識して聞けば昨夜から発せられるそれらの罵声には、昨夜が他人を傷つけようとしている意思が少しも含まれていないことがわかる。とはいえ、悪意が欠片も無いといっても、その罵声はあまりに膨大すぎではあったが。
 正直な話、独破はこの友暮昨夜という人物があまり好き―――というか、あまり得意ではなかった。もし昨夜が今日子や明日香だったらば、少なくとも自分と一緒にいるときは今日子や明日香でいてくれるならばと思う。が、どうやら神様は独破の願いを聞き入れる気など微塵も無いらしく、そんなことを思い続けてすでに一年と半年が経過しているのが現状だった。
 これ見よがしに独破がため息をつく。昨夜と同じ部隊に所属されて一年半、このままでは自分は間違いなく精神的な過労が元で倒れるだろう。予感というよりもそれは予言だ。
「妄想の件については触れないでおく。が、すれ違うやつらが俺たちの事を見てくるって言うのは、それは俺のせいじゃあない。間違いなくお前のせいだ。このガキ」
「それは有り得ないな。どうして我が注目を集めるというのだ」
「自分の体型と体格と容姿を一度鏡でじっくり再確認してからその台詞を吐きやがれ」
 昨夜は独破の言葉を受け、一度自分の姿を確認してみる。頭に手を載せ、その後頬、胸、わき腹、胴回り、腰、太ももと来て、最後につま先まで順番に両手を滑らせ当てる。が、しかしそれでも昨夜には独破の言っている内容が理解できなかったようで、今までどおりの不遜な態度でもってして独破に言う。
「わからん。教えろ」
 最早答えるのも億劫だったのだが、下手をするとこのあと自分は八つ裂きというか千切りの細切れにされてしまうかもしれないという、冗談にもならず冗談には聞こえないことになる可能性があった。
 丁度良く、信号が赤。
「身長は?」
「恐らく百四十五くらいだな」
「体重は?」
「乙女の体重を聞くなこの大馬鹿者め」
「年齢は?」
「今は十一ということになっているな」
「服装は?」
「今日子のセーラー服だ。正直サイズが大きくて敵わん」
「導き出される結論は?」
 信号が青に変わる。
 昨夜は今までのように即答せず、少しばかり首を傾げ、二秒後に、
「そうか」
 と手を打った。さらに続ける。
「つまりあれか、貴様はまだ小学生にしか見えぬ、そして事実そうである我の貞操をあろうことかたった数万ばかりのはした金で買い、俗に言うロリコンだのペドフィリアだのに間違われているわけだな。小学生を売春とは愉快愉快」
 どこが愉快であるものか。罷り間違ってもそんなことが愉快なわけがあるはずなく、第一独破の性的嗜好はノーマルであり年下過ぎるのも年上過ぎるのもはっきり言ってお断りだった。
 というよりも、性的嗜好が云々という問題より、最大の前提としてこのような口を開けば毒舌の大放出祭を毎日開催しているような、まさに罵詈雑言の権化としてしか表現と形容できないような少女の春を買う物好きなど、ロリコンやその他諸々の好みを抜きにしているはずが無い。
 とりあえず独破は今更自分の好みなどについて深く追及も言及も探求もしたくないので、そのことはさておくことにして―――というか、宇宙の遥か彼方、とりあえず今のところはペテルギウス辺りに投げ飛ばすことで勘弁しておくことにして―――会話を戻す。
「黙れ。いい加減今日子に代われ。この際なら百歩譲って明日香でもいい。とりあえずお前は嫌だ」
「訂正するが、私の場合は『代わる』でなく『変わる』だ。そこのところを間違えてもらっては困る。それによって、我の存在が一人か三人かに分かれてしまうのだからな」
「あぁはいはい。それには謝るから、いい加減早く明日香に変わってくれ」
「だが断る」
 昨夜はサディスティックな笑みを浮かべながら、身長約百四十五センチの小さな体躯から独破を見て、そんな漫画の台詞を引用するのであった。
 ちなみに独破の身長は百八十センチ前後であり、昨夜との身長差は三十センチ以上離れていることをここに付記しておく。
「この友暮昨夜の楽しみは、貴様のような人間の期待と希望を裏切ることだからな」
 こ、この野郎。一応右手の拳を握り締めてみる。いっそのこと本当に殴り倒してしまおうか。復讐というか報復が恐ろしかったが、今の昨夜を黙らせられるのならば、殺人も厭わないような気分さえする。
 それにしても、一般人には絶対そう思われないだろうが、昨夜がここまでご機嫌なのは久しぶりだった。それも全て、言葉遊びではないが昨夜に昨夜の元へと一本の電話がかかってきてからだ。売春などではあるはずも無かったが、実際昨日から今日にかけて、独破と昨夜の二人は仕事などの関係上で一緒にいたのである。だからこそ一緒に目的地に向かっているのだ。
 けれど独破はそんな昨夜を見て仕方が無いかとも思う。昨夜は喋り方こそ地獄的だが、それ以外は殆ど外見相応の少女なのだ、当然精神のほうも。
「明日香が基準であり母体である今日子に比べて精神年齢が高いため、バランスを保つために昨夜の精神年齢は低いのだ」というのは地獄坂真後(じごくざかまうしろ)の談であり、独破もその意見は否定しない。昨夜がこの様な辛辣な性格だから、明日香があそこまで穏やかだというのも、その説を用いれば納得できる。
「納得したところでなぁ」
 独破は一人呟く。彼の気持ちを唯一ある程度は共感してくれている真後も、今ここにはいない。すでに本部へついている頃だろう。
「今度ふざけたこと言ったら、歪み殺すからな」
「それは怖いな。流石にいかな我といえど、特級と……特に貴様と戦って勝てる気はしない」
 おどけた口調で言う昨夜。
 そんなこんなしているうちに、そうして二人は目的地の前に立っていた。二人の目の前にそこまで大きくは無いビルの四階の一フロア全体が二人の目的地であり、脇に立っている案内板に目をやると、その階には書本物産株式会社と銘打たれているのがわかる。が、二人はそんな看板が偽りでしかないことを、当然知っている。
 四階に本当に存在するのはそんなカモフラージュのための会社ではなく、一般人や民間人は一生知ることの無い、けれどその存在自体はなんとなく噂には聞いたことがあるであろう政府組織―――否、政府直属の部隊であり軍隊であり軍団の本拠地である。
 その名を、政府軍部所属第零号部隊という。
 この世にはパラダイムという超常の異能があることは誰もが知っており、パラダイムという人間が『壁』の向こう側の自治区に暮らしているということも誰だって知っている。パラダイムには誰だって等しくなる可能性を秘めているということだって。事実パラダイムによる事件の九十七パーセントほどが、『壁』の外側で新たに発生したパラダイムが、無意識的意識的に問わず己の能力を行使したことに由来する。
 事件を起こしたパラダイムは当然殺害かそれに伴う攻撃を与えて処罰するが、事件を起こしていない、けれど政府によってパラダイムになったことを知られた人間は、パラダイムに関する全ての出来事を司る機関に、処理やその後などの全権が預けられる。事件を起こしたパラダイムを処罰するのも彼らの仕事だ。
 誰も知らないが、誰もが頼っている存在。組織。機関。部隊。軍団。それこそが、先にも述べたように、政府軍部所属第零号部隊である。正確に言えば政府軍部所属部隊というのが正式名称であり、それに零号から参号までの階級を割り振られた組織が計四つ存在する。零号が一番上に君臨する、いわば最強の精鋭がそろう部隊だ。当たり前だが面子も絞られ、機密情報の保持や任務上の理由のために、今は人数が四人しかいない。その四人に関する情報だって大部分が噂程度の信憑性の無い話ばかりだ。
 曰く、《歪み》。数少ない特級のうちの一人であり、同時に部隊の隊長でもある。この人物が戦ったあとには、人はおろか建物はおろか地形すら原形を留めないという
 曰く、《雲霞》。位こそ中間の乙級だが、全パラダイムの中でも一、二を争うほどの便利な能力ではあるらしい。戦闘要員ではないらしく、基本的には作戦参謀を務めているとか。
 曰く、《存在の交換》。何やら特殊なパラダイムらしく、一人で三人分の仕事をこなし、三人で一人分の任務につくと揶揄される、不可思議な少女だということは有名な話だ。
 曰く、《亡霊軍団》。部隊で一番のイレギュラー。他の隊員が全て乙級以上だというのに、この人物だけは何故か位としては最下位の無級であるという事実。その事実はどうして無級が最強の集団である零号部隊にいるのかという疑問を部隊外の人間に抱かせていた。
 全員の本名は非公開。当然のことだ。顔も非公開。同様に当然だ。隠密行動をしなくてはいけない場面もあるし、『壁』の内外問わず、パラダイムの中にはこのような“政府の側についているパラダイム”を殊の外嫌う人間もいるというのが現状として在る。
 構成員の殆どは『壁』の外で新たにパラダイムになった人間たちである。『壁』の中に入らず外で暮らし、半年ほどに一回という極少ない回数ではあるものの、定期的に家族や愛する人たちとも交流が取れるという条件で、部隊に入隊させるのだ。勿論家族や恋人には緘口令を敷いて。その緘口令は何を差し置いても絶対で、破れば待っているのは死のみである。
 他には『壁』の中から直接つれてくるということもある。それは重要な任務で人数が必要なときや、任務に特別な能力が必要になったがそのような能力を持つ人材がいないときなどだ。『壁』の外から中に戻った後、上記のような待遇、またはそれ以外の何かを条件で、『壁』の外に出てくる人間も存在する。
 例えば《歪み》。例えば《存在の交換》。例えば《亡霊軍団》。無論かなり重要なデータであるため、政府の上層部しか閲覧することは出来ないのだが、本名や顔写真とは別にそのようなことは履歴としてコンピュータに保存されている。
 ちなみに《歪み》などの名称は所謂コードネームのようなもので、同時に彼らの能力についた名前でもあった。
 パラダイム対する対抗組織、機関、部隊、軍団である政府軍部所属部隊。さらにその中でも最強であり最上に位置する第零号。そこに向かう書本独破と友暮昨夜という二人の人間も、ならば考えるまでも無く。
 書本独破―――《歪み》。
 友暮昨夜―――《存在の交換》。
 それは、誰も知らない二人の正体である。
 二人はそのままビルの中へと入る。付記しておくが、独破は完璧なスーツ姿である。そのことに疑問を抱く人間は無論一人もいない。が、昨夜はセーラー服なのだ。しかも外見はまるっきり小学生。同じビルの利用者に最初は不思議がられて―――寧ろ不審がられて―――いたが、ここに何度も出入りしていくうちに昨夜のことは殆どの人間の興味をすでに惹かなくなっているようだった。
 それとも、興味を惹かなくなっているというよりは、昨夜の雰囲気を察して興味を惹いてはいけないと思い始めたか。大体何か余計な詮索をしてくる人間がいたとしても、どの道政府からの圧力によっていずれ何も言えなくなってしまうのだろうけれど。
 正体を誰にも知られてはいけない。それは必要最低限の遵守事項。殺してしまえとはいかないが、ある程度暴力的な手段を以ってでも口を封じていいという、なんだか無茶苦茶な話である。
「書本独破、入ります」
「同じく友暮昨夜、入る」
 返事は無い。が、二人はそのまま入っていく。当然IDパスワードのようなものは無い。なぜなら表向き建前上、ここは単なる会社であり、会社の入り口自体にそんな厳重な警備が敷かれていることはまずない。どこか大企業の本社ならまだしも、ここはオフィス街の中にある、それほど大きくも無いビルだ。そんなものをつけてしまえば逆に怪しまれる。
 扉を開けて中に入ると、いきなり何か黒い物体が突っ込んでくるのがわかる。その黒い物体はどうやら人間のようで、歓声を上げながら昨夜の胸にダイブした。とはいっても身長の関係上、正しい表現を使うならば、昨夜がその人物の胸にすっぽり収まった形になるのだが。
「先輩先輩先輩先輩、とっても会いたかったですよぅ。前回の任務から半年、先輩とは一度も会えず、ワタクシがどんなに寂しい夜を過ごしたかお分かりですか? あぁもう先輩、このままキスしちゃっていいですか? いいですよね? じゃあむちゅぅっと―――」
 その人物は高いテンションのまま昨夜の体を力強く抱きしめ、昨夜の頬に手を当てて顔を傾けたところで、二人の視線が交わった。
 書本独破は溜め息をつく。同時に思う。心労で死ぬかもしれない、と。
 ウェーブがかった栗色の髪の毛、白いヘアバンド、元気溌溂の四字熟語がぴったり来るような快活さを持ち合わせた表情の少女は、昨夜と視線を合わせたまま約二秒半ほど呆然としていたが、いきなり突拍子も無い声を上げる。
「―――しませんよ昨夜となんかぁー! 先輩、昨夜がワタクシを虐めます! この哀れな子羊めを助けてくださぁい!」
 その少女は、今度はしっかりと書本の胸元に飛び込もうとして、そこで書本自身の手によって止められる。書本の腕の長さ分の距離を開けて、その少女はじたばたと腕を振り回す。
「ぜんばいばでぇ……」
「貴様は年功序列という言葉を知らぬのか? この小娘が」
 恐らくは「先輩まで」と言ったのであろうその少女を無視し、昨夜が腹立たしげに言った。
 流石にどこからどうみても十歳前後の、実際年齢も同様に十歳前後の少女に言われたくはないだろう、その言葉を聴いた少女は、すぐさま昨夜に向き直る。
「昨夜にまで言われたくはないよーだ。小学生ごときが、華の女子高生に勝てるわけが無いでしょ!」
「何を寝惚けたことを。貴様の精神年齢はどう見ても中学生かそれ以下だ。大体だ、我の本当の年齢が貴様よりも上だということは知っているだろうが。なんなら今日子に戻ってやろうか? それとも明日香のほうがいいか? あ?」
「上だって言ってもたったの一つだよ。っていうか、それならワタクシはあんたのことをおばさんって呼んでやるから!」
「それならば、今の我は貴様のことをおばさんと呼んでもいいのだな?」
「うっ!」
 少女が大仰なリアクションで言葉に詰まる。少女はどうやら昨夜に対する反論や抗弁をそれ以上持っていないらしく、助けを求めるかのように独破のほうを向き、両手を伸ばして抱きついてくる。が、しかし。
 少女の手が独破の体に回されるよりも早く、昨夜の腕が独破の腕に絡みつき、ぐいと体を密着させる。ぴたりと体と独破の腕をくっつけた昨夜は、不敵な、挑発的な笑みを少女に向けた。
「ふふふ」と笑う昨夜。それを見た少女は硬直。ややあって叫ぶ。
「こ、この泥棒猫!」
「いや、別に俺はお前の彼氏じゃあないんだが。昨夜の彼氏でもねぇが」
 そんな独破の訂正も虚しく、二人の抗争はどんどん大きくなるばかりである。ここが漫画の世界であるならば、二人のバックには竜と虎や燃え盛る火炎が描かれ、同時に二人の視線が交わった地点からもばちばちと稲妻の如く火花が飛び散っていたであろう。
 というか、昨夜の場合は単に他人をからかって遊ぶのが好きな性癖を十二分に行使しているだけである。少女も昨夜についてはよく理解しているのだろうが、性格のせいか頭のせいか、どうもそのような答えにたどり着いていないようだ。
 少女の「泥棒猫」発言に対して、昨夜は腕を組み、見下すような―――実際には見上げているのだけれど―――視線を少女に向け、一気に言い放つ。
「最早貴様は過去の女だ。我はこいつと」
 びしっと独破のことを指差す昨夜。
「一晩をともにした!」
「なっ!? ……せ、先輩、ワタクシというものが在りながら! ワタクシとのことは遊びだったのね! というか、先輩はロリコンだったのね! 酷い、酷い、酷すぎるわ! いたいけな女子高生を弄んだ挙句、小学生に乗り換えるなんて!」
 独破はとりあえず無言を貫くことに決めた。返答をしたところで百パーセント状況は変わらない。無視されておしまいだ。昨夜の言っていることは確かに正しい。正しいのだ。正しいのだけれど、決定的な情報が抜けている。いや、そもそも決定的な情報が抜けている時点で、その情報は正しい情報ではないような気もする。
 独破と昨夜が一晩をともにしたのは、仕事の関係上仕方がなくである。無論当然のことながら肉体関係があるはずもない。
 だが、少女はどうやら本気で昨夜の台詞を信じているようで、頭を抱えながら何やら怪しげなことを呟いている。言葉の節々から「ロリコン」「ワタクシの愛は」「なんと言う事実」「寝取られた」「ロリコン」「信じていたのに」「ロリコン」「あぁ」「ロリコン」「ロリコン」という単語が聞こえてくるので、独破にはもう絶対的に嫌な予感しかしない。何故か「ロリコン」という言葉の頻度だけが以上に高いと思ったが、そこは忘れることにした。一種の現実逃避である。
 そもそも、俺はロリコンじゃない。独破はなんとなく世界が崩れていく感覚に見舞われながら、それだけ考えた。
 もういっそのことこの二人を歪み殺してしまってもいいような気持ちにすらなってくる。殺すというのは多少オーバーにしても、当分は病院送りにしてしまってもいいのではないだろうか。裁判官だってきっと叙情酌量の余地はあると判断してくれるだろうし、そもそもの前提として独破たちはその性質上、殆どの犯罪について免罪権を持っているのだから、裁判沙汰にすらならないのだけれど。
 昨夜は独破のほうをちらりと盗み見ており、その表情には明らかに楽しみの色が含まれているのが見て取れた。独破はそんな昨夜の笑顔を見て、一気に決意が固まる。これはもう許すことの出来る範囲を超えていた。
 右手のひらを壁に密着させ、力を一瞬だけこめる。
 瞬間、昨夜と少女のいた部分の床のみが、いきなり物質の構造としては有り得ないくらいに歪んだ。二人の体はバランスを崩す。そのまま独破は二人のこめかみの辺りに親指と中指を当て、ぎりぎりとアイアンクローの要領で締め付けながら、この世に存在する最も地獄的な笑みを形作った。
「いい加減にしろよ、てめぇら」
 流石の二人もこれには心底驚いたのか、それとも単純に痛みのためか、眼を見開きながら首を猛スピードで前後に動かした。ただでさえ独破はそれなりに体格がよく、しかもパラダイムなのだ。パラダイムは身体能力も大幅に上がるという恩恵を受けているため、本気でやれば頭蓋骨を割るくらいは簡単なのかもしれない。
「昨夜の言ったことは訂正箇所だらけだ。確かに俺はこいつと一晩中一緒にいたが、それは仕事のためなんだよ。ぶっちゃけると、最近萩原市の方向でパラダイム化が集団で起こったことへの対処のためにな。話くらいは聞いてるだろ? そのせいだ」
 ぶっきらぼうに独破は言う。二人は矢張り、依然として猛スピード。
「元凶は昨夜だから、まぁ昨夜にはあとで酷い罰を与えることにでもして―――ぬおぅっ! てめぇ卑怯だぞ!」
 独破が叫んだ。独破の視線の先には昨夜の姿がどこにもなく、代わりに先ほどまで昨夜が着ていたセーラー服を身に着けている一人の少女がおり、その少女が昨夜の代わりにアイアンクローを受けているという構図にいつの間にかなっていた。
 昨夜は黒髪で長いツインテールだったが、昨夜と入れ違いになるようにして目の前に突如現れたこの少女は、黒に近い栗色のショートカットだった。体躯だって十七、八歳のもので、間違っても小学生ではないことが解る。胸などの出るべき部分もしっかりと出ており、顔立ちもしっかりと年齢相応だ。恐らくは女子高生なのだろう。
「おい今日子、昨夜に代われ。今すぐにだ。お前だって話は聞いていただろうが」
「あぁ無理無理。昨夜がさ、『我は罰を受けたくは無い』って言ってるから。あんな風になっちまったら、もうあたしにゃあ対処は出来ませんね」
 鬼気迫る表情で独破。それに対し、今日子と呼ばれた女子高生は苦笑を浮かべつつ言う。独破は少しばかり考えていたが、すぐに二人から手を離し、奥のほうへと向かう。向こうにはすでに真後が待っているはずだった。
「今日子に百(もも)、早く行くぞ」
「先輩、わかりました。先ほどは失礼なことを言ってしまってすいませんですが、もし本当に先輩がロリコンだとしても、ワタクシの先輩に対する愛は、そんなもんじゃあまだまだぜんぜん冷めませんよぅ。安心してください!」
 百と呼ばれた少女が独破のあとを追う。それにさらに今日子も続く。



 一室にはすでに地獄坂真後がいた。眼鏡をかけており、レンズ越しに覗く瞳はとても冷たいが、反面とても眠たげにも見える。まるっきり手入れをしていなさそうな蓬髪が、余計にその感覚を強めていた。
 雰囲気はまるで科学者のようにも感じられ、白いブラウスとジーパン、パンプス。それに白衣を羽織っているという姿が、さらにその真後の雰囲気と存在感を強めていた。腕組みをし、口には銜え煙草。紫煙を今もくゆらせている。
 真後が入ってきた三人の姿に気がついて、そばにあったキャスターの椅子に腰を下ろした。しかし腕組みも銜え煙草も依然として変わらない。
 その部屋は大体九畳くらいの部屋で、中心に大きめの机が三つ並べてあり、その上にはデスクトップパソコンが一台と極薄型のノートパソコンが二台置かれていた。そしてそれに繋がる無数のコードが机上と床を這っている。
 三人は各々部屋のどこからか椅子を持ち出し、適当な場所に座る。どうやら位置などはもともと決められていないようで、真後は最初に来たから奥のほうに座っているだけらしい。
「さて」と独破が言った。それを受けて残りの三人も独破のほうを見る。
「あー、全員のところにも通達が言ってるだろうが、よくわからんことになった。今度の任務は、本名不明、パラダイム名不明のガキの捕獲らしい。捕獲理由不明ってのは変な話にもほどがあるがな。ったく、上も何を考えてやがるんだか。
 まぁ文句言っても始まらないから作戦の説明をするぞ。真後、そのガキの居場所は割り出せてるな?」
 真後が煙草を携帯灰皿に押し付けながら首肯。
「場所は柳葉市三の十一、『後藤屋』って言う古本屋。家族構成は後藤響士郎(きょうしろう)とその娘である響の二人だけで、そこにターゲットが居候として住んでいる形になっているようです。どうしてターゲットが後藤家にいるのかは不明。今のところは目立った動きはしていません。周辺地域での異常が見られないことから、パラダイムも行使していない模様」
「そのデータはどれくらい正確だ?」
「百パーセントです。《雲霞》を限界まで広げて探索しました。特別給与をもらわないと割に合いません」
「悪いな」
 少しむっとした様子の真後に独破はあっさりと謝り、話を続ける。
 残った二人、今日子と百はそんな光景に口を挟まずにただ眺めていた。
「捕獲を実行に移すのも真後、お前に任せる。とにかく、迅速で確実な対応をお願いしたい。お前なら出来るよな。んで、俺たちは車で待機、と。能力が不明なのが唯一の気がかりだが、最悪ガキのパラダイムがどんなものだったしたとしても、真後の目晦ましと百の妨害、俺と今日子たちの戦闘で対処は出来るだろう。目撃者がいた場合も同様に対処な。わかってるな。
 あ、そうそう、上から来ているんだが、極力民間人に被害は出すな、と。出来るならば気がつかせるなと。ガキに関しても出来る限り危害を加えないことが望ましいとよ。最悪の場合は攻撃しても構わないだろうが。邪魔する民間人には、まぁ手加減してやってくれ。俺たちはまるっきり誘拐犯だからな、民間人の邪魔が無いとは言い切れん。
 最後だが、何か質問はあるか? 作戦中はどうしようもねぇぞ」
 独破が三人を見回すが、誰も何も声を発しない。それを見て、独破は立ち上がる。続けて三人もまた。
 独破が部屋から出ようとするが、そこに声がかかる。振り向いた先には今日子がおり、困惑というか申し訳ないというか、それに類似した表情を形作っていた。その間に真後は部屋をあとにし、百は恐らく変な想像を脳内でしているのだろう、唸りながらその光景を睨みつけている。
「書本さん」
「あ、どうした?」
 独破はそこで、悪魔の笑みを見た。
「ごめんなさいねぇ」
 そうやってやんわりと、しかし究極的に邪悪で悪魔的な笑顔を見せた明日香は、まるで躊躇せずに独破の腹部に拳を突き刺す。独破の体が「く」の字に曲がり、そのままずるりと床に倒れた。
 独破の意識がゆっくりと暗闇に飲み込まれ、そして次に意識が明るくなったと理解した瞬間、独破は同時に自分の体に異変がおきていることに気がつく。
 体中がロープでぐるぐるに巻かれていた。ご丁寧に手首と足首には手錠までかけられている。当然ちょっとやそっと、体をゆすったくらいでは手錠もロープも外れそうに無く、体を必死に捻って壁にかけてある時計を見れば、すでに先ほどから三十分以上が経過していた。
「明日香、あいつ、やりやがったな!」
 独破は必死で叫んだ。しかしその必死な叫びは、ただ部屋の中でこだまするだけである。



「勿体無いじゃないですか。だって、本当に本当に本当に久しぶりの、重大な任務なんですよ? 無級とか丙級とかじゃなくて、特級の、政府から民間に指名手配が行くほどの、重要なパラダイムの捕獲なんですよ? 独破さんに邪魔をされたくは無いですよ。独破さん強すぎですし、頭硬すぎますし。……今回の相手は特級なんですよ? ちょっとくらい殺したって、死にませんよねぇ?
 前のあの人、甲級のカニバリズムさん……そう、池神血祭(いけがみちまつり)、でしたっけ? あの人のときもそうですよ。殺害許可が出るだろう出るだろうと思って、ずっとずっとずぅっと楽しみに待っていたのに、殺害許可は結局でずじまい。しかも結局、倒したのは独破さんですしねぇ。
 わかってますよ、そりゃ私だって。私には独破さんみたいな一撃必殺のパラダイムは備わっていないって。私に備わっているのは存在の交換だって。《存在の交換》だって。でも、でもですね、それでも私は―――私たちは、甲級なんですよ? 純粋な戦闘力だけで言えば、軍隊の一個中隊にだって負けていないんですよ? 本当独破さんが羨ましくて、恨めしいです。
 だから、まぁ、これくらいはいいですよね? 独破さんをぐるぐる巻きにしてきましたけど、これくらいはしても当然ですよねぇ?」
「アタシに聞かないでください」
「あぁ、先輩……。ワタクシ、明日香さんは苦手なのです……。申し訳ない……」
 白いどこにでもありそうなワゴン車の中、独破に向けた笑みと同様の笑みを浮かべながら言う明日香に対し、各々の対応をする二人。ちなみに運転するのは真後である。高校生である百が運転しないのは当然だとして、実際のところ明日香も運転免許証を持ってはいるのだが、明日香は彼女のパラダイム的な理由により、運転免許証はあっても殆ど意味を成さない。さらに明日香は根本的に運転が下手だ。真後に言わせれば明日香の下手はド下手で、独破に言わせればそれはド下手糞らしい。前に一度百が泣きかけたことからもそれは立証済みである。
 二十代後半の真後、二十代前半の明日香、高校生くらいの百。年齢が辛うじて近いのは真後と明日香であり、傍目から見れば少しばかり不思議な光景であった。仲がよさそうならばまだしも、全員それとなく他人行儀なのである。
 それは任務に対しての緊張感も多少は含まれているのだろうが、全員にそれなりの理由があるからなのだろう。真後は持ち前の排他的主義のため、明日香は自分の目的のため、百にいたっては独破がいないためだ。
 ワゴンが揺れて停止した。二人が真後を見る。ワゴンに揺られて約二時間半、ようやく目的地に着いたらしい。視線を外に向ければ、成程、見るからに年季の入った古本屋が建っている。
 真後は白衣のポケットにライターと煙草が入っていることを確認し、エンジンをかけたままに車外へと出る。眠そうな目つきは相変わらずだ。
 白衣の裾を翻し、緩慢に、しかし僅かの隙も見せずに『後藤屋』の扉を開く。他の三人とは違い、真後だけが『壁』の中を経由せず、直接第零号部隊に入ってきた。だからだろうか、三人と真後の間には決定的な何かがあるようにも思えた。それはもしや、育った境遇によるものか。



 時間にして五分後か、真後がぐったりとした少女―――パラ子という名前がついていることを、四人が知るはずも無い―――を抱きかかえながら、開けっ放しにしておいたドアから運転席へ乗り込む。そのまま少女を助手席に放り出すように座らせ、素早く端的に二人に指示を出した。
「百、明日香、用意してください。少し面倒くさいことになったみたいなので。そのままこの少女掻っ攫っていくんで、二人は追ってくるだろう人たちの足止めお願いします。民間人だから気をつけて。くれぐれも殺さないように。
 アタシはこのまま逃げます。二人なら走ってこの車に追いつけるでしょう。……今《雲霞》(ウォッチャー)で敵補足中。もう来ます」
 真後のその言葉が合図になり、百と明日香が揃って車外へ飛び出し、同時に真後がワゴン車の扉を閉め、勢いよく発進した。ギアをトップに叩き込み、アクセルを目一杯踏み込む。見かけは普通のワゴン車だが、実は真後によって極限まで改造されている化け物ワゴン車である。そのままワゴン車は煙を巻き上げ、路地を爆走していった。
 『後藤屋』の中からは女性の怒声が響いてくる。それを聞いて二人は反射的に戦闘体勢に入り、明日香の視線はそのとき、視界の端を高速で横切る何かを捉えた。明日香はそのままその何かを右手で捕まえ、見る。どうやら百は怒声に気が向いてしまい、気がついていないようである。
「……?」
 それは四本のドライバーだった。プラスドライバーが三本に、マイナスドライバーが一本。ドライバーが空を飛び、しかもワゴン車を追うということは通常考えられないので、どうやらパラダイムの類なのだろうが、明日香はどうにも合点が行かなかった。『壁』の外に自分たちがまだ捕まえていないパラダイムがいるのは納得がいく。何故ならそれは珍しいことではないからだ。
 新たにパラダイムになった民間人が自分たち零号部隊、もしくは壱号、弐号、参号部隊に見つかり、捕まるまでに要する時間は、概算ではあるが半年間ほどもかかる。真後を含む優秀な捜索班が日夜パラダイムを探っているが、それでも成果はあまりあがらない。その点から考えれば、別にここにパラダイムがいたことも別段驚くに値しない。だが。
 それは単なる勘だといっても差支えが無かっただろう。ただ、指名手配の少女が居候している家の住人が、パラダイムだった。それはどこか関連性めいた、若しくは必然性めいたものが感じられたのだ。
 偶然だ。明日香は首を振ってその考えを捨て去る。パラダイムになるのは完璧に偶然であり、アトランダムだ。それに必然性などは存在しない。
 『後藤屋』全体を包む、霧のような真後のパラダイムである《雲霞》が、段々と掻き消えていく。どうやら真後が解除したようだ。
 薄くなっていく《雲霞》の中から転がり込むように一人の女性が姿を現した。どうやらこの店の従業員か、それとも後藤家の人間か。その女性の顔は怒りに燃えており、その表情と殺気によって、明日香はその人物が少女と一緒に暮らしていた後藤家の人間だと判断する。
 少し遅れて男性も出てきた。女性も男性も、どちらも年齢は二十前後と言ったところか。明日香より僅かに若い程度である。男性が頭を痛そうに抑えているところを見ると、真後にやられたのだろう。
 明日香はベレッタF92FSを右足についているホルスターから取り出し、次いでセーラー服の内側に備え付けてある手榴弾を三つ、左手に持つ。あとは左足にナイフが二本、背中に細身の日本刀が仕込んであるが、それはまだ必要ではない。
「お願いですからお引取りください。ここから先はあなたたちが踏み込んでいい領域ではありません。死にたくないでしょう?」
 明日香はにこやかにそういった。折角の格好の戦闘相手、しかも戦える大義名分つきとあれば今すぐにでも発砲したいところなのではあるが、しかし一度くらいは忠告をしておかなければいけない。さもないとまた独破からなんと言われるか。今回は独破をあのような状態にしているので、あまり自分勝手に行動しすぎても、今度は自分の身が危険だ。最悪独破の《歪み》によって殺されることも有り得る。それは無論明日香の本意ではなく、何よりも今日子と昨夜に悪い。
 明日香の言葉を受けて百も言う。
「そうそう。手加減しろとは言われてるからするけど、手加減しきれないかもしれないからね―――ぇっと!?」
「うるさい!」
 女性が百に対して鋭い蹴りを放つ。武道の類でもやっているのだろうか、動きがとても機敏で素早い。パラダイムである明日香や百には比べるべくも無いが、それでも一般人としてはかなり上のランクに位置するだろう。いや、もしかすると、そういうことか? 明日香は訝しみながら女性を見る。
 この女性がパラダイムなのだろうか。だからこの運動神経もそれによる恩恵なのかもしれない。それにしては身体能力強化が少ないような気がするが。
「まぁ、いいです」
 百にすら聞こえないように小さく呟き、明日香は笑む。こちら側に攻撃を加えてきたということは、即ち敵だということだ。敵は処理しなければいけない。危害は加えるなとのことだが、自分たちに危害を加える可能性がある以上、そして何より自分たちの存在に気がつかれてしまった以上、何の対処もせずに放っておくのは危険だった。
 結局、そんなのはただの、明日香が戦いたいがための大義名分にしか過ぎないのだが。
「千万さん」
 明日香が言った。
「手加減、あんまりしなくていいみたいですよ。その方どうやらパラダイムみたいですから」
「は?」
「え?」
 女性と男性が同時に素っ頓狂な声を上げる。
 明日香はそれを聞いて首を傾げるしかない。どちらか片方が驚くというのならばまだわかる。女性が驚いたなら男性が、男性が驚いたなら女性がパラダイムということで、片方はそのことを知らなかっただけだ。しかし両方が驚いたとなると話は変わってくる。パラダイムが女性にしろ男性にしろ、本人すら自分がパラダイムだということを知らないということではないか。
 明日香は自分が握っているドライバーを見る。これらは間違いなくパラダイムによって飛んできた。パラダイムが必ずこの場に存在するはずなのである。
 仕方ない。明日香が思考を停止させる。自分の仕事は考えることではない、それは政府の役人や独破や真後に任せておけばいいのだ。自分はただ戦闘を楽しむだけ。
 右手を上げる。百と女性と男性、合わせて三人の視線が明日香の右手に、正確に言うならばドライバーに集まった。
「先ほどこの方が現れたとき、車を追う形で向かうこのドライバーを計四本、掴み取りました。どう考えても投擲したものではなかったようですから、矢張りパラダイムと考えるのが妥当な線かと。タイミングが良すぎる気もしますけれどね、まぁそういうこともあるでしょう。問題はそんなところではありませんし」
 がちり。そのまま明日香はベレッタF92FSを女性に向ける。流石に攻撃をしてこない男性まで巻き添えにするのは、今度は独破に対する自分の身が危険だったため、とりあえず今のところは女性のみだ。
 明日香はにこりと―――否、にやりと笑う。久しぶりの戦闘、久しぶりの殺人だ。戦闘と呼べる代物ではないが、誰かに銃口を向けて容赦なく引き金を引くことさえできれば、明日香にとってはそれで御の字である。
 空気が振動、腕が振動、体が振動。鉛の弾丸は空気を切り裂いて女性へと向かう。
 瞬間、弾丸が手の中へと納まった。考えるまでも無い、そんな芸当が出来る人間といえば、幾ら世界が広いといっても数えるほどしかいないのだ。

 独破が立っていた。

「なにやってんだ、お前らは」
 怒りを通り過ぎて呆れたような、独破の口調。しかしそれでもその眼光は鬼のように鋭く、明日香は表情では苦笑をしながらも、内心はあふれ出そうになる汗を抑えることで精一杯だった。どうやら今回ばかりは調子に乗りすぎたようだ。
「勝手に民間人に危害加えんじゃねぇよ。しっかりと出発前に確認しただろうが。上からもきてるんだぞ? 民間人に被害を出すな、民間人に気がつかせるなってよ。一瞬にして破棄しやがって……。てめぇ、しかも人のことを縄でぐるぐる巻きにしやがるしな……目ェ覚めてびびったぞ。戻ったら焼きいれてやるから、覚悟しておけ。
 あ、そこのお嬢さん。マジで悪いね。こいつらが馬鹿な真似してさ。今回のところはあんたのパラダイムの件、見逃しておくから。よくわからんが、優先順位はどうやらあっちらしいし」
 本当に申し訳ない態度で独破が二人に対して謝る。謝られた二人は、まったく何がなんだかわからないような表情を作っていた。無理も無い。一般人が、民間人が、自分たち零号部隊のことを知っているはずは無いのだから。
「繰り返すが、悪いね、本当に」
 独破がもう一度そう言い、百と明日香に視線を送る。明日香に対する独破の視線は絶対零度だったが、明日香はそれをあえて無視し、そのまま同時に地面を蹴る。すでに走り去ってしまったワゴン車に追いつくことは三人にとっては造作も無いことだった。そのまま後部座席のドアをスライドさせて乗り込む。
 少女は助手席でぐっすり眠っていた。改造したために乗り心地の悪いこの車でも起きないところを見ると、余程眠りが深いのだろう。
 独破は何の気なしに外を見て、そこで外が真っ白いことを知る。雪ではない。第一今は五月だ。
 さらに言えば四人は立っていた。今まで乗っていたワゴン車は影も形もなくなり、依然として眠っているターゲットの少女は地面に倒れている。
 いや、そこが本当に地面かどうかすら定かではない。そこは一言で言うならば極めて異常な空間で、同時に簡素だった。世界は白一色であり、地平線と空の境界すら曖昧で、前方には巨大な宮殿が聳え立っていた。しかしその宮殿も白一色で、まるで彩色を施していない絵画のように、黒く細い線の枠組みだけが存在している。面が存在し、触れることが出来るのかどうかすら疑わしい。
 地面も同じように踏んでいる感覚は無い。地面があるというよりは、五人が同じ平面状に浮かんでいるという認識のほうが正しいのだろう。
 先ほど雪ではないなどと言ったが、この空間は雪よりも白かった。白い絵の具を空間一杯にぶちまけたような風体と風采があり、そこに黒い線のみで構成された宮殿という、あまりにも色彩に乏しくコントラストの強い世界だった。
 その世界は明るかったが、太陽やライトのような光源はどこにも見えず、ただただ白一色である。まるで光というものが存在しないかのような違和感を覚えるくらいには。
「面倒くさいことになりやがったな」
「だ、だだ、大丈夫です! 先輩はワタクシが、ま、守ります!」
「……百、落ち着いてください」
「それにしても、一体どういうことなんでしょうねぇ?」
 予想はしていたが、今回の作戦には色々と裏があるようだ。実行する自分たちでさえ知らない、知らされていない何かが。独破は舌打ちをする。
 独破は自分がここにいる経緯を確認する。真後と少女が乗っているワゴン車に追いついた自分たちは、走行中というにもかかわらず扉を開いて乗り込んだ。少女はぐっすりと眠っており、起きる様子は微塵もなかった。それまでは何の変哲も無く、作戦は順調だったのである。
 だが、自分たちが乗り込んでから時間にして約五分後か、いつのまにか五人はここに立っていたのだ。唐突に、何の前兆も無く、気がつけば、だ。
 確認してから頷く。それらから導き出される現在の状況は、経験上、まず敵のパラダイムによる空間隔離という可能性が考えられた。
 空間隔離。そのようなパラダイムを独破は二人知っている。どちらも誘拐まがいのことをやっていたはずで、今は独破らの手によって刑務所へ送られている身だ。そのときの点を踏まえて、独破には確信できることが二つあった。
 まず一つは、術者はこの空間内にいるということ。これが精神汚染による幻覚症状ならば話は別だが、一気に四人、しかも自分たちのような人間を同一空間内に閉じ込めることが出来るということを考えれば、相手のパラダイムは空間隔離で間違いない。それならば術者は必ず自分たちと同じ空間にいるはずなのだ。前述した二人のパラダイムがまさしくそうであったからだ。
 全てが同じだとは思わなかったが、それでもそのような基本は一緒だろう。幾らパラダイムが理論上無限だとは言っても、今ではパラダイムの能力や効果はある程度体系付けられ、それによって弱点や能力行使のための条件が変わってくるのである。
 二つ目に、術者を倒せば自分たちはここから出られるということ。それは説明するまでも無く当然のことだ。
 しかし、見る限りこの空間はかなり広いようで、ならば術者を探すにもそれなりの手間がかかるだろう。空間隔離のほかに、何か付加して能力を持っている可能性も否定できない。仲間がいる可能性もある。
 自分たちが狙われたことに対する四人の意見は一致していた。まず間違いなく、相手の狙いはこの少女にある。それが捕獲か奪回かはさておくとして、この少女がいまだ見えぬ相手に渡らないようにしなければいけない。それがまず最大の前提。
「……アタシが索敵しておきます。全員動かないでください」
 真後が一歩前に出る。すると真後の体から一瞬にして霧のようなものが噴出し、それはゆっくりと拡散しながら辺りへと散っていく。真後のパラダイムである《雲霞》だ。
 真後の《雲霞》は見たとおり霧や霞のような形状をしており、それを術者である真後の意思によって散開及び結集できる。しかも生み出された霧には目晦ましだけでなく、霧の中にいる生物や物体を正確に捕捉することが出来るのである。
 範囲を広げれば広げるほど効果は落ち、最大に広げた場合は真南を中心に五キロほどの索敵が出来るのだが、変わりに誤差が百メートル単位で出てしまうという。少女を発見したのもこのパラダイムのおかげだ。攻撃能力は皆無だが、有り余るほどの索敵能力を持つパラダイムなのである。
 尚、この部隊に攻撃要員が少ないのは、ひとえに独破のパラダイムが異常なほどの攻撃力を持っているからである。《歪み》という名前のそれは、特級という称号がふさわしいくらいに強い。
 少ししてから霧がゆっくりと真後に吸い込まれていく。真後は四人に振り返ってから、体を震わせてたった一言。
「……冗談じゃない」
 誰しもが真後にその言葉の真意を聞こうとしたが、その行為は突然の闖入者によって阻まれることとなる。
 枠組みしかない宮殿の中から出てくる、四人。
 一人は真っ黒な黒コートを着ていた。上から下まですっぽりと覆えるような、丈の長いロングコートだ。フードを被っているため顔は見えないが、それでも大柄な体格からその人物が男性ということは判断できる。正確に言うならば、その人物が男性ということしか判断できない。
 二人目は少女だった。年齢的に、大体小学生か中学生の境目と言ったところだ。にこにこと笑っているが、その笑みはこのような場では違和感の現況にしかならない。眼鏡をかけて髪形は三つ編みで、どことなくおとなしそうな雰囲気を受ける。
 三人目も同じく少女。先ほどの少女よりは年齢が幾分か上で、恐らくは百と同じくらいの、十六、七歳。目つきが悪く、シャギーを入れた髪の毛が歩くたびに揺れる。
 四人目は少年。何故か黒い学生服を着ており、顔は柔和そうである。中性的な顔立ちだが、それ以外に少年を表す言葉は存在しない。なんと言うか、殆どが普通なのだ。
 黒いコートを着た男を筆頭とする四人は、独破たちのおよそ十メートル手前まで歩み寄り、そこで立ち止まる。
 同時に飛び出す一つの人影。その人影はセーラー服を着ていた。
「うああああああああああああぁっ!」
 右手に握ったベレッタF92FSを連発しながら、同時に左手にナイフを保持し、明日香が怒声とも取れない叫び声で走り出す。眼光は鋭く、眉を吊り上げ、犬歯を剥き出しにして。それは純粋な殺意のみで構成された行動。
 独破が制止しようとするがもう遅い。そもそも明日香の行動が突発的すぎた。放たれた弾丸の如く明日香は四人へと向かい、ナイフを振り上げる。
 独破も真後も百も、一体何がなんだかわからなかった。それは自分たちが攫ってきた少女の正体よりもずっと。確かに明日香は独破を縄で縛ったことからもわかるように、闘いのためならば任務違反も犯すほどの戦闘狂だ。しかし、だからといって明日香の思慮が浅いかというとそうではなく、寧ろそれは反対。少なくとも独破が知る限りでは、明日香があのように敵意と殺意を剥き出しにしたのは初めてのことだった。
 当然独破も明日香のあとを追う。どうして明日香があのような行動に出るのかは不明だったが、正体もわかっていない敵と思しき集団に一人で突っ込んでいくのを見逃すほど、独破は薄情でも非情でもない。これ以上ない迷惑をかけてくれるが、明日香も仲間なのだ。第零号部隊のメンバーなのだ。
 明日香は零コンマ数秒という脅威の速度で黒コートの男の懐に潜り込む。ぎらりと光るナイフの刃。それはあと少し力を加えれば、自然と黒コートの男の頚動脈を掻き切るところまで切迫し。
「姫」
「はーい」
 次の瞬間には、明日香の胸の中心を、姫と呼ばれた少女の右腕が貫いていた。お下げが揺れ、眼鏡に血液の飛沫が飛ぶ。
 ごぶり、と明日香の口から血液が大量に漏れる。姫が深紅に染まった右腕を引き抜くと、ずるりと力なく明日香がくず折れた。立ち上がろうとするがそれも叶わず、体を持ち上げようとした両腕からも力が抜け、そのまま地面に突っ伏する。
「明日香ぁああああぁっ!?」
 独破が絶叫した。それにつられるように動く真後と百。真後は最大濃度で《雲霞》(ウォッチャー)を顕現し、百もそれに倣って、大量のゼリー状の幽霊を具現化するパラダイム《亡霊軍団》(グロリアス・デッド)を発動。独破と明日香の保護に全力を努める。
 濃い霧と大量の幽霊に紛れ、独破が明日香の体を回収。すると明日香の体が縮み、髪型が黒髪のツインテールへとゆっくり変貌する。昨夜だ。
 昨夜は独破の腕から逃げようともがき、叫ぶ。
「は、離せっ、離せぇっ! 離せと言っているのがわからんのかこの下郎! 離せ、離せ! 書本独破ぁっ! あいつは、あいつはぁっ!」
 昨夜の蹴りが鳩尾に突き刺さり、さしもの独破も腕の力を抜いてしまう。その隙に昨夜はするりと独破の腕から束縛を逃れ、右手は順手、左手は逆手でナイフを握る。
「あいつは我と明日香を殺したのだぞ!?」
 昨夜はまたも黒コートの男に突っ込むが、途中で昨夜の体が勢いよく弾き飛ばされる。気がつけば昨夜の動線上には姫が満面の笑みを浮かべながら立っていた。周りには吹き飛ばされた《亡霊軍団》の残骸が。
 昨夜が驚きに満ち満ちた表情で姫を見ている。独破もそれは同じで、真後と百もだ。全員の驚愕の理由は同様、それはつまり、パラダイムになったことによって特化された自分たちの動体視力でも、姫の姿を全く捉えることができなかったことに他ならない。先ほどの明日香のときも同様。
 動作の始動は見えた。動作の終了も見えた。しかし、動作途中は、まるでそこにいないかのように姫の姿を捉えることができなかった。他のパラダイムと比較しても卓越した動体視力を持つ四人ならば、その気になれば放たれた弾丸すらも補足出来るというのに、姫の姿を捉えることはできなかったのだ。
 昨夜の首が繋がっているのは、体の一部が欠損していないのは、まさに僥倖と言えただろう。
「百! 早く幽霊の数を増やせぇっ!」
「頑張ってやってますよぉっ!」
 独破は真後にも叫ぶ。
「真後! お前はとにかく残りの二人、任せたぞ!」
「わかりました」
 独破と真後が散開。それを援護するように、大量の、数にすれば五十体ほどのゼリー状の幽霊が出現する。それらは全て一定の速度を保ったまま姫を囲むように移動し、姫を押し潰すかのように間隔を狭めてから一時停止。
「皆、よく聞いてください!」
 真後が大声で言った。
「相手は池神一族! 気を抜いたら死にますからね!」
 池神一族。独破は愕然とする。その名前は最大最強のフリーダムに他ならない。
 彼らは戦闘力に関してだけならば、他に十二ある一族を差し置いて抜きん出ている。何よりも池神の名には容赦と戸惑いがないのだ。
 そして彼らは何でもする。殺人も窃盗も誘拐も国家転覆も人助けも災害救助も何から何まで行う。しかし別段彼らには目的があるわけではなく、理由は「したかったから」という単純なものしか存在しない。彼らは行動を起こすために込み入った理由などは必要としないのだ。
 したいからする。したくないことはしない。だから彼らは誰よりもフリーダムであり自分の願望に忠実だ。彼らの邪魔をする人間に容赦はせず、自分たちが行う行動には躊躇が無い。そのような意味では郡よりも軍に近しいものがあった。
 どうして真後がそんなことをと思考するが、すぐに納得。ああそうか、真後もか。
 真後の姓は地獄坂。それはつまり、残る十二のうちの一つ、地獄坂。
 そういえば真後は最初に驚いていたが、それは相手が池神一族だということを知ったからかだったのだろう。
 だが、どうして池神が自分たちを、ひいては少女を狙うのだ。全ては池神の行うこと、意味など無いのかもしれなかったが、それにしても単なる誘拐にしては少し事情が違う気がした。
 独破には到底わからない。が、考えることが必要なのは今ではない。自分が今為すべきことは、あの怒りに狂った昨夜をどうにかすること。そして目の前の敵を退けること。
 それにしても、「我と明日香を殺した」か。ディテールは良く知らないけれど、なんとなく想像はついた。
「書本独破、そっちの眼鏡は任せた! 我はあいつを、あいつを、あいつをっ!」
 そこまで昨夜に叫ばせたところで、独破は昨夜の首根っこ、セーラー服の襟部分を掴み、先ほどと同じように抱きかかえる。そのまま一足飛び気味に距離を離す。
 昨夜が再度独破の鳩尾を蹴りつけようとしたが、独破も同じ攻撃を二度は喰らわない。足が届かない位置に昨夜をやると、昨夜は暴れる一方だ。
「とりあえず落ち着けこの馬鹿。勝てるもんも勝てなくなるぞ。何があったのかは知らないがな」
「だが書本独破!」
 反論の声を上げる昨夜を制して。
「黙れ。落ち着け」
 昨夜もそれで少しばかり落ち着いたのか、ゆっくりと地面に足をつけた。深呼吸を一回二回。そして独破を見る。
「……礼を言う」
「どうも」
「ちょっとそこ、ワタクシを差し置いていい雰囲気にならないでくださいよぉ!」
 状況を考えない百は放って、一応一時休戦状態。独破と昨夜が一緒におり、少し離れて百、学生服を着た男子と目つきの悪い女子を監視するかのように真後。姫と黒コートの男はそれらの中心付近にいる。さらに姫を取り囲むようにゼリー状の幽霊。
 さて、どうしたものか。とりあえず質問からはじめるべきだろう。
「お前ら、真後の言うように、池神一族なのか」
 それに答える黒コートの男。
「あぁそうだ。俺様たちは池神一族だぜぇ。にしても、うん、なんだ? 俺様が仇? うーん、何人も殺しすぎて、もう誰をどこで殺したのなんか、いちいち覚えちゃあいねぇんだわぁ。でもよ、しょうがねーじゃん? やりたいときにやりたいことをしろ。それが一族の掟なんだからよぉ」
 そんな黒コートの男の態度に昨夜は激昂し、危うくそのまま飛び掛りそうになるも、独破にしっかりと方を抑えられているためそれも無い。自分を抑制し、憎しみのこもりきった視線で睨みつける。
「藤崎市だ。そこで、二年前、一家惨殺事件が起こった。人気の無い夜道、近くのレストランからの帰りだった。まるで化け物に襲われたかのように被害者たちの体は四散し、現場は直視できたものではなかったという。犯人はいまだに不明、奇跡的に一人の少女が無傷で生き残るも、後にパラダイムだということが判明し、『壁』の中へと送られる。……友暮未来と友暮久遠、友暮昨夜に友暮明日香! 全て貴様が殺した名だ! 貴様が命を奪った名だ! 貴様はこうも言っていた。わざと今日子だけを生き残らせ、『いつか殺しにこい』とも言っていた! 忘れたとは言わせぬ! 我らは貴様のことを一日たりとも忘れたことは無かったぞ! そのために、貴様に復讐をするためだけに、『壁』の中から出てきたのだからなぁっ!」
 それは初めて昨夜の口から語られる過去だった。昨夜とは『壁』の中にいたときからある程度交流があったが、昨夜の過去にそのようなものがあろうとは思ってもみなかった。しかし、確かにそれならば、《存在の交換》というパラダイムにもある程度の納得がいくというものだ。ただの多重人格でないわけである。
 黒コートの男はしばし昨夜の話に聞き入っていたが、数秒後、くくくと含み笑いを零す。その笑いはまさに下卑ていて。
「あぁ、思い出したぜ思い出したぜぇ。そうかそうか。くくく、くかかか。おい五月雨、てめぇの言うとおりにしておいてよかったぜ、本当に」
 そういう黒コートの男に対し、五月雨と呼ばれた学生服着用の少年は、
「でしょう? 肉にもあるように、感情や人間そのものにも、熟成というものはあるんですよ。時には熟成も必要なのです。喜んでくれたなら何よりですけどね、火祭さん」
 と言った。
 黒コートの男、火祭が気分良さ気に笑う。
「くかか、くかかかかっ! おぉいいぜガキ、来いや。復讐しにきたんだろう? 俺様はてめぇを返り討ちだぁ。この池神火祭様が、直々にてめぇをぶっ殺してやるよ」
「安い挑発に乗るなよ」
「わかっている」
 独破の忠告に対してそう言い返し、昨夜が一歩前に踏み出す。右手は順手に持ったナイフ、左手には逆手に持ったナイフ。たった一歩のみ踏み出し、火祭を再度睨みつけ、昨夜は変わらぬ気丈な声で叫んだ。
「池神火祭と言ったな。我は貴様を絶対に許さん! 我だけではなく、今日子も、明日香も、貴様のことを絶対に許さん。地の果てまでも追いかけ、いつか殺す。ありとあらゆる苦痛を味わわせた上で殺す。覚悟しておけ」
 昨夜はそれだけ言って、独破にちらりと視線を向けた。余所見をしている暇は無いというのに、ついつい独破は昨夜の顔を見てしまう。
 ぎょっとした。昨夜の顔は笑っていた。笑みを浮かべていた。苦しそうに悔しそうに、辛そうな笑みを浮かべていた。
「書本独破、我は嬉しいぞ。貴様の紹介で部隊へ所属して一年、こんなに早く、父と母と明日香と我自身の仇が見つかるとは。これでは死ねないな」
 昨夜は最後に、独破に対して困ったような笑みを向けて。
「すまない書本独破」と、それだけ言った。
 独破が気がついたときには、昨夜は駆け出した後だった。
 昨夜は一瞬にして火祭との距離を詰めるが、途中で何かにぶつかったかのように進路を変更、そのまま姫とともに白い地面を転がる。
 またである。また、独破の目には、昨夜に近づく姫の姿を捉えることができなかった。
 可能性は二つ。ただ単純に、姫が独破たちの動体視力を上回るほどの速度を誇っているのか、それとも姫の持つパラダイムの能力なのか。後者のほうがありえる話だ。
 だが、独破は頭に引っかかりを感じる。それは姫のことではなく、火祭のこと。池神火祭。その名前を、若しくは似たような名前を、最近どこかで聞いたような記憶がある。それはただの記憶違いか。
 見ると百体ほどのゼリー状の幽霊が、姫を除く池神一族の三人を囲っていた。半透明な薄緑の幽霊を通した三人の姿が歪んで見える。
池神一族。池神。池神火祭。池神姫。池神五月雨。池神。いけがみ。イケガミ。池神火祭。火祭。火祭。接点。類似点。記憶を漁る。
 姫と戦闘中の昨夜に視線をずらす。苦戦しているようだが何とか持ちこたえている。今すぐにでも助けに入るべきなのだろうが、そうしたら最後、昨夜は火祭に対して突っ込んでいってしまうだろう。それはあまりにも危険すぎた。火祭という男がパラダイムを持っているかどうかは不明だが、パラダイムを持っていると考えたほうが懸命だからだ。
 そのとき、一つの関連単語が蘇る。池神。池神火祭。自分たちが過去に捉えたパラダイムの中に、似た名前の男がいたのではなかったか。その男は池神姓で、名前を確か、血祭といわなかっただろうか。
「おい、池神火祭、聞きたいことがある」
 声を荒げるでもなく脅すでもなく、きわめて静かな独破の物言いに、火祭も不思議そうな顔をした。池神一族の性質上、相手にこのような対応をとられるのは滅多に無いことなのだろう。
「なんだ」
「てめぇらの目的は、池神血祭に関するお礼参りか。それとも、そこで寝ているガキか。どっちだ。答えろ」
 火祭は愉快そうに笑った。
「どっちもだ。ちなみに言っておくと、血祭は俺様の弟でなぁ。まぁ愚弟だったわけだが。強かったが、下手を打ちやがって。馬鹿だろう? 結局負けちまいやがる。
 寝ているガキは……ん? その言い方じゃあ、てめぇらはまだ、そのガキのことについて知らねぇのか? くかかか、そりゃあ面白い」
 火祭はそこで言葉を切る。火祭のその表情は、まさに優越感に満ち満ちていた。自分が知っていることを独破たちが知らないためだろう、口の端は大きくつりあがり、声も段々歓声に近くなる。
 一体なんだというのだろう。池神一族があの少女を狙っているのは確実だとして、ならば何のために池神一族はあの少女を狙うのか。あの少女の利用価値はなんだ? しかも相手は殺すことしか頭に無いような池神一族、生半可なことではないことは容易に想像がつく。
 そのことについては力づくで聞き出したかったが、そろそろ昨夜が危ない。怒りのせいか細かいところにまで目がいかなくなっており、動作にキレが無い。なんとか致命傷は避けているようだが、昨夜のほうが圧倒的に不利だということは一目でわかるような状況、今すぐ走って助けに行きたいというのもまた、独破にとっての事実。
 そこまでを一瞬にして思考して、独破は結局駆け出した。昨夜を助けることに決めたのだ。少女は百と真後がどうにかしてくれると思いながら。
 裂帛の声すら出さずに姫へと詰め寄り、拳を叩き込もうとして、姫の体が左に傾く。キックのモーションだ。ガードを上げるが、しかしその蹴りはまたしても不可視で、脇腹に鋭く沈み込む。めしめしとあばら骨辺りが一本折れた気がした。
 拳を一回命中させさえすれば勝てるのだ。それは無論防御されたとしても。防御など独破の《歪み》(クレイジー)の前では無意味に限りなく等しい。等しいのだが、当たらなければ意味は無い。しかも相手は攻撃動作中のみ不可視。途轍もなく戦いにくい存在なのだ。
 昨夜がちらりと横目で独破を確認、そのまま火祭へと向かう。
 独破はそのとき見た。見てしまった。昨夜の瞳に、しっかりと復讐の炎が宿っているのを。
「昨夜っ! ……くそ、真後と百、ガキを守れぇっ!」
 昨夜が左手のナイフを煌かせ、ゼリー状の幽霊を大量に破壊。幾重にも重なった幽霊をものともせずに切り砕く。ぼたぼたと幽霊が地面に落下し、少し間をおいてゼリー同士が結合、すぐにもとの形状を作り直す。
「あ、あっ! 何するんですか昨夜!」
 少女を背に庇うようにしながら百が叫ぶ。しかし昨夜は止まらない。一薙ぎで十数体の幽霊を一度に切り砕き、復活しつつある幽霊をものともせず、あっという間に火祭に肉薄する。
 昨夜と火祭の間に割って入るように一つの黒い球体が飛来する。昨夜は反射的に後ろに下がるが、間に合わない。
 ぼん。爆発が起きるが、その爆発は不自然なほどに記号的で、同時に熱や破壊力などを何一つ持ち合わせていなかった。昨夜の体も吹き飛ばされず、爆炎も巻き起こらず、昨夜は困惑と警戒の入り混じった表情で黒い球体の飛んできた方向を見る。
 目つきの悪い少女と視線が合った。
「どうも。池神冬夏よ」
 冬夏は冷めた顔で言う。
 困惑と警戒をすぐに解き、昨夜はナイフを軽く握りなおして火祭に再度立ち向かう。火祭は矢張り下卑た笑みを浮かべており、それは昨夜の怒りを増徴に次いで増徴させる。
 思い出されるのは、あの日のあの晩の出来事。父が殺され、母が殺され、明日香が殺され、自分が殺され、そして今日子だけが娯楽的な意図を持って生かされたという出来事。とっくのとうに怒りの沸点を越えてしまっている。
「池神火祭、池神火祭ぃいいいいいいっ!」
 ナイフが異常な速度と人外な膂力を以って、交錯気味に火祭を狙う。狙いはどちらのナイフも頚動脈、首を一撃で切り落とすつもりで放ったその攻撃は、刃をただの銀線となすまでには速く、火祭の力量がどれほどだろうとも回避の術など無い。
 刃が火祭の首に触れ。
「くたばるがいい!」
 そこで止まった。刃は皮膚にめり込みはしたものの、本来の役目である“切る”という役目を忘却してしまったかのように、そこから先は全く動かない。
 昨夜は驚愕するが、流石は第零号部隊というべきか、咄嗟の事態だというのに慌てることも無く、そのまま後ろへ飛びのける。
「驚きが、ほんの一瞬だけ、反応を鈍らせたぜぇ」
 最低最悪な声が聞こえた。
 一拍置くことすらなく、ほぼ同時に火祭の手が昨夜の頭を掴んでいた。そして意識がブラックアウト。



 見えないストレートを、相手の予備動作から見抜き、何とか回避する。
 見えないハイキックを、相手の予備動作から見抜き、何とか回避する。
 独破は姫と戦っているうちにわかったことがある。それは根本的な解決にはならないが、幾ばくかは解決の手助けになりそうなものだった。
 まず、姫の腕や足や全身が消えるのは、姫がその部位を動かしているときだけ。右拳で殴ってくるなら右拳が、左足で蹴ってくるなら左足が、走って移動するなら全身が消える。それはわかった。
 だが、わかったからといってどうにかなるものでもない。姫のパラダイムはおおよそ見当がついたものの、それだけだ。依然として戦いにくいのは変わらない。
 姫は年齢相応の、まだ幼さが微かに残る笑みを浮かべながら、本当にこの闘いが、殺しあいが楽しくて仕様が無いといった顔をする。
「おじさん強いねっ。姫の見えない攻撃、こんなに避けられるなんて思って無かったよっ! 初めてだよっ! 姫嬉しいな。みんなみーんな弱いんだもん。すぐ死んじゃう。だから、姫は今、おじさんと殺しあえて、とってもとーっても嬉しいよっ!」
 姫の体が僅かに傾ぎ、そこからまたも見えないハイキックが襲ってくる。独破は衝撃を腕全体と体のバネを使ってなんとか殺すが、それでも腕がびりびりと痺れる。見た目中学生か小学生と言ったところなのに、なんという膂力だろう。パラダイムとしての身体能力強化の恩恵だとしても、この力は有り余りすぎている。
 いや、そうか。相手は池神一族か。このような少女でも、池神一族であることには、自由(フリーダム)であることには変わりが無いのか。ならばそれも納得できる。池神一族の名は免罪符にこそなりはしないが、納得する理由にはなるのだ。
 その刹那、空間を劈く昨夜の叫び。憎しみをこめた、恨みをこめた、そして何より殺意をこめた、昨夜の慟哭。相手の名は池神火祭。
「おじさん、そんなにあの子が心配なの?」
 姫が攻撃モーションに入りながら無邪気に尋ねる。
「残念だねっ! 火祭さんも冬夏お姉ちゃんも、姫なんかよりずっとずーっと強いんだよっ! 五月雨お兄ちゃんは……まぁあれだけどさっ」
 見えない攻撃が降り注ぐ。急所を重点的に防ぐようにするが、それでも骨が揺れ、筋肉が振動し、痛みがゆっくりと広がっていく。攻撃が依然として不可視であることに変わりは無いが、相手の目線や体の向きといったモーションから次撃を防ぐことくらいはできるようになってきた。
 恐らく姫のパラダイムは、自分が攻撃している間、若しくは自分が体を動かしている間、その部位を不可視にするというものだろう。殴った際に右腕が消え、蹴り上げた際に左足が消え、走り出した際に全身が消えたのはそのためだ。
「らぁっ!」
 防御に徹していては勝てない。独破は一撃必殺の拳を振るうが、相手はオーバーすぎるくらいの回避動作により、一旦独破との距離が開く。
「おじさんの能力、凄くすっごーく強いんだってねっ。防御しても死んじゃうんだってねっ。知ってるよっ!」
 独破のパラダイムは《歪み》。全てを歪ませる無敵の能力。殴った力をそのまま歪みに変換させ、人だろうが建物だろうが、森羅万象有象無象、ありとあらゆるものを歪み殺して歪み壊す。絶対的な殺傷力を持つそのパラダイムも、回避されては効果は発揮しない。
 どうやら姫も独破のパラダイムを事前に知っていたようで、拳には極力気をつけているのか、少しでも独破が攻撃の気配を匂わせた途端に回避行動に移る。厄介な相手だった。
 不意に視界に入ってくる黒い球体。一つや二つどころではなく、あたり一面を黒い球体によって囲まれていた。隙間を縫って逃げ出すことも叶いそうに無い。
「ワタクシが守ります!」
 黒い球体のさらに内側、独破と黒い球体を隔てるように、ゼリー状の幽霊が出現する。
 同時に真後が姫を蹴り飛ばし、冬夏と相対する。姫は随分と余裕ぶっていたからだろう、満足に防御もできず、受身こそ綺麗に成功したものの、十メートルほど地面を駄々滑りしてようやく止まった。
「先輩、昨夜が危険な状態です。黒コートの男に何かをされました」
 少女を背負いながら百が言う。百に促されて独破が視線を向けた先には、昨夜がぼぅっと虚空を見つめ続けていた。それに加え、勝ち誇ったような足取りでこちらに向かってくる火祭の姿も見える。
「気をつけろよぉ? 冬夏の爆弾は、正直言って俺様よりもタチが悪ぃからよぉ」
 火祭の言葉を冬夏が引き継ぐ。
「《削除爆弾》。効果は、物体の性質を一つだけ爆破する。冷たい性質を爆破して冷たくない氷、硬い性質を爆破して硬くないダイヤモンド、そして、切る性質を爆破して切れない刃。何でもござれ」
 性質の爆破。それはつまり、独破の拳が“物体に威力を伝える”という性質をも爆破できるということ。それは即ち《歪み》が使えなくなることと同義である。
「ついでに言っておくと、俺様のパラダイムは《自殺衝動》。こっちもまぁ、ちょいとタチの悪いというか、捻くれた能力を持っていてなぁ」
 火祭が冬夏に目配せをすると、冬夏が頷く。途端に独破を囲んでいた黒い球体が爆発し、他の球体も誘爆、連鎖的に全ての球体が爆発する。
「先輩っ!」
「隊長! ……くっ」
 百と真後の声。
 真後には姫が復讐とばかりに襲い掛かっており、不可視だった姫の攻撃を真後は反射的に防御、軽い怪我を負いながらも何とか戦う。
 ゼリー状の幽霊が一斉に砕け散った。冬夏の爆弾には威力も熱も何も無く、ならばそれらが砕け散る道理も無いのだが、気がついたときには独破の目の前に火祭が立っていた。ゼリー状の幽霊は再生しない。冬夏の爆弾によって“再生する”という性質を爆破されてしまったからだ。
 独破が反応するよりも早く、火祭の手が独破の頭を掴んだ―――

 * * *

 暗かった。ただひたすらに暗かった。身動き一つ出来ない、それ以前に体がここに確かに存在しているのかどうかすら定かではない、そんな感覚、そんな違和感に満たされた状況で、昨夜は必死に考える。自分に身に起きたことを考える。
 あの仇敵に頭を掴まれたことは覚えている。そしてそれからどうなった? 頭を掴まれて、それから。それから。それからそれからそれから。それから―――どうなった? そうだ、そこでお終いだ。そこで終わりだ。それ以降の、それ以上の記憶は、自分の海馬には保存されていない。ならばここは更なる異世界、異空間なのか。
 ずるりと変な感触がした。ぬちゃりと糸を引くかのような粘ついた感覚。手があるという感覚はしないのに、位置的にそれが手だということ位は理解可能。動かしているのに動いた気配は無く、どうにも無為的だった。
 ぴちゃ。ぬちゃ。ぐちゃ。ぐちゅ。ぬちゃ。ぐちゃり。液体というにはあまりにも粘着質な音が響く。
 いや、これは、もしかして。
 これは、もしかして。
 もしかして。
 も、しかし、て。もし、かし、て。も、し、かし、て。も、し、か、し、て。
 この感触。この感覚。忘れられないこれは。
 もしかして。
 ざざざ。ざ、ざざ。ざーざー、ざ、ざざりざりざ、ざーざ、りざり、ざ。
 がり、ががが、がりがりがりがががががり、がりがががりがががりがり。
 砂嵐。雑音。ノイズ。狂った音。壊れた音。崩壊の音。狂っていく音。壊れていく音。崩壊していく音。
 狂ってイくノハ何だ壊れテイくのは何ダ崩壊シてイくノはナンだ。
 思イ出しタクなイ記憶ガ忘却しタい記憶が忘レガたい記憶ガ生きル糧トシテいた記憶が掘り起コさレル。
 暗い路地裏。血の海。赤い飛沫。黒コート。明日香。今日子。父。母。夥しい血液。血液。血液血液血液血液血液血液血液。赤い。ひたすらに赤い。赤い。赤い赤い赤い赤い赤い赤い赤い。一体何が起こっているどうなっている誰がこんなことを誰がこんな目にどうして自分たちがこんな目にどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
 一体誰が父を■した?
 一体誰が母を■した?
 一体誰が姉を■した?
 一体誰が我を■した?
 生きている今日子が自分に手を伸ばしてくる。血に濡れた顔。血に染まった服。しかし怪我は何一つ負っていない。それら全て自分たち四人の血液。切り刻まれ解体されバラバラにされた自分たちの四肢から流れ出て飛び散った血液。
 あぁ。
 あぁ……。
 あぁ―――。
 自分は死んでしまうのだ。このまま冷たくなり、死んでしまうのだ。いつのまにか黒コートの男はいなくなっており、薄れて霞む視界の中では、今日子が自分と姉である明日香の手を握り、そして母と父に対しても視線を向け、叫び泣き喚き続けていた。手のひらに感じる体温が唯一の温かさ。手のひらに感じる体温が唯一の太陽。自分にとっての太陽。そうだ、太陽だ。
「お願いだから死なないで」。その言葉に返す体力も気力も既に無い。痛みは無くて、ただ悔しくて、ただ虚しくて、ただ辛くて。日常を一瞬にして奪われたことも、何より自分の最愛の家族をこのように苦痛に歪ませたことが一番悲しい。
 流れ出す流れ出す流れ出す流れ出す流れ出す。
 血液が涙が吐息が生命が流れ出す。
 自分自身が流れ出す。
 今日子に混ざり、溶け合う。
 明日香と混ざり、溶け合う。
 今日子の中で自分と明日香が同化する。同一化する。今日子は自分の全てであり、自分は今日子の一部だった。段々と自分が形成されていく。『友暮昨夜』という人物が『友暮今日子』という人物の中に形成されていく。
 ざざり、ざりざざざざざざり、ざり、ざーざーざー、ざーざりざー。
 がががりが、がりが、が、がががり、がりりりがりがががり、がり。
 砂嵐。雑音。ノイズ。
 全てを破壊する音であり全てを作り出す音。壊れていく壊れていく壊れていく。消えていくい消えていく消えていく。自分という存在が消えていく。狂う狂う狂う。狂ってしまう。怨恨の言葉を吐く。呪詛を吐いて呪い続ける。心がオカシイ。病む。壊れる。消える。狂う。崩壊だ崩壊だ崩壊だ。鎮魂歌ではなく葬送歌だ。
 めぎめぎめぎめぎめぎめぎめぎめぎめぎめぎ。
 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。
 がりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。
 くるくると命が回る。螺旋していく。螺旋だ。螺旋する。螺旋。らせん。ラセン? くるくる。くるくるくる。くる。くるくる。狂狂。繰繰。回る回る回る回る回る―――

 気がつけばナイフを首筋に突き立てていた。それこそまさに《自殺衝動》。

 * * *

 ―――しかし何も起きなかった。
 火祭は瞬間的に合点が言ったような笑みを浮かべ、独破を突き飛ばしながら言う。
「そうかそうか、てめぇもそうかっ! てめぇもそのガキが原因か!」
「……どういうことだ?」
 倒れた独破に百が駆け寄り、姫との戦いを強制的に中断し、真後も続く。
 遠くのほうで物音がし、そちらを振り向くと今日子が立っている。頭を抑え、よろけながら、苦痛に顔を歪めて。
 今日子が出てきたということは昨夜が消えたということ。先ほどの昨夜の状態から鑑みて、昨夜が戦線離脱したということは想像に難くない。ということは今日子でラスト。もう代わりはいない。ここで死ねば、本当にゲームオーバーだ。
 今日子は立ってはいるものの、どうにも足元がおぼつかない様子で、上手くバランスが保てないでいるようだった。
「池神、あたしはあんたを、許さない……」
 鋭く今日子は火祭を睨みつける。何が起きたのかはわからないが、満足に立っていることもできないような状態でだ。明日香も昨夜もそうだったが、それほどまでに三人の恨みが、憎しみが、火祭という男に対して深いということだろう。
 火祭はそのような視線を向けられて、独破との会話を一時中断、今日子のほうに体を向ける。
「おうおう、許さなくて結構。強いやつを殺すのが俺様の娯楽で、何も知らない一般人を殺すのが俺様の趣味だからなぁ。まぁてめぇは運が悪かったんだよ。てめぇの家族もな」
 その鬼畜な台詞に、怒りのまま走り出そうとする今日子。が、足がふらつき、どうやら走ることもままならないようだ。二本の足で体を支えるだけで精一杯なのだろう。
 今日子が自分に対して危害を及ぼさないとわかった途端、火祭は今日子に対しての興味を失ったかのごとく、もう一度独破に向き直る。百と真後と独破に相対する、火祭、冬夏、姫の三人。少女は百の背中にいまだ背負われている。
「今日子、無理するな! よくわからんがゆっくり休め!」
 これでは昨夜と明日香の二の舞になってしまう。《存在の交換》は言うなれば二回だけ死亡などのリトライが出来るという能力だが、昨夜と明日香が消えてしまった今、もう後は無い。前にも言ったように変わりはもうない。次に死ねば今度こその本当の死が待っている。ここで戦力を減らすのはどう考えても得策ではなかった。
 独破は相手の行動に注意しながら、今すぐにでも殴りにいきたい衝動を堪える。そして尋ねた。
「……このガキが原因って、一体どういうことだ? 池神火祭。教えろ」
 火祭は下卑た笑いを見せ、肩をすくめる大袈裟なアクションで反応する。
「なんだ、てめぇらは本当に何も知らないのな。仮にもパラダイムとっ捕まえる最強の集団だろう? 聞いて呆れる。……姫、戦いに行きたいのはわかるが、待て。もう少しだ」
 しきりに体を揺らしていた姫の動きが止まり、首肯。
 まだ少女は百の背中にいる。目を覚ます気配は無い。少女に嗅がせた睡眠薬は真後の特製で、問答無用で約半日は眠らせる代物だ、少女が途中で起きるということは考えなくてもよさそうだった。
「……いいぜ、教えてやるよ。第零号部隊のクソヤロウども。俺様がしっかりばっちりとレクチャーしてやる。ただしヒントだ、ヒントだけだ。答えなんか教えてやるわけにゃあいかんがな」
「いいんですか? 簡単に教えて」
「いいんだよ冬夏。そっちのほうが楽しいだろうが。池神たるもの、常に自分が楽しいことをしなければならない」
 冬夏はそれ以上言葉をつなげることなく、嘆息一つしないで引き下がる。
「てめぇは、人がパラダイムになる原因はなんだと思うよ」
「……知らん。それはまだ、医学界でも解明されてないはずだ」
「おうそうだ。そのはずだ。いいや、確かにそれは本当なんだろう。けど、俺様たちは、池神一族は―――違うな、俺様たちじゃねぇ。《十三獄楽》の大半は、その原因に気がついてるんだよ」
《十三獄楽》。それは表を司る四つの名前と裏を司る九つの名前の総称。池神も地獄坂もこの中に入っている。
 独破は真後を見た。ならば真後も知っているのではないかと思ったからだ。しかし真後は首を横に振った。真後は確か五年ほど前に地獄坂から絶縁された身だと聞いているので、それも仕方の無いことではあったが。
「おかしいとは思わなかったのか、てめぇらは。どうして俺様たちがことごとくパラダイムなのかを。……そうだな、『壁』の中のやつか、それともお前らの過去を紐解けばわかるとだけ言っておくか? 考えろよ。なんかおかしな共通点があるはずだぜぇ」
「もう一つ聞く。あのガキは一体何なんだ。ただのガキなんじゃあないだろう」
「くかか、あのガキの正体も、お前らの過去を紐解けばわかるんじゃねぇか? ヒントをくれてやるなら、お前とあの、俺様を殺そうとしてくるやつの違いだ。その違いにあのガキは関係してる」
 至極満足と言った表情を火祭がする。コートのフードに覆われた細長い顔、その口元が楽しそうに歪む。口の端が釣り上がり、桃色の歯茎と赤い舌、そして鋭い犬歯がギラリと輝いたような錯覚すら与えた。
「……教えてもらってなんだが、どうしてそんなことを俺たちに教える。楽しいからだけじゃあないだろう」
 訝しみながら尋ねる独破。対する火祭は笑って返す。
「俺様たちは池神一族だ。自由だ。人を殺せりゃあどうでもいいのよ。強いやつと戦えりゃあどうでもいいのよ。そのための布石だ。……くかか、そうさなぁ、俺様たちはそのうち、裏社会どころか社会全体に戦争を巻き起こす。パラダイム内乱を繰り返す。そのための布石なんだよ。てめぇらに教えたのも、あのガキの存在もな」
 それだけ言って、火祭は嘆息。そして忘れられていた名を呼んだ。
「ご苦労、五月雨」
 その言葉を掻き消すように鈍い音が響いた。めぎぃっ。そんな感じの、骨が折れるというよりも寧ろ砕ける音。音のした方向を振り向けば―――五月雨。拳は百の腹部にめり込んでいる。先の明日香のように、突き刺さっていたり貫いたりされていないことがせめてもの救いか。
 百の体が浮き、当然それに伴って少女の体も宙に浮く。姫が体を一瞬沈みこませ、パラダイムの能力によって体が透明化、空中で少女をキャッチする。
 五月雨が叫んだ。
「《宮殿》解除!」
 瞬時に白い世界に色がつき、いつの間にかワゴン車の中に戻っている。ワゴン車はアイドリングしたまま道路の端に駐車されていた。
 助手席に座っていたはずの少女は、いまや影も形も無い。


          とぅびぃこんてぃにゅー

2006/07/21(Fri)21:56:10 公開 / 名も無き小説書き
http://idontknow.xxxxxxxx.jp/
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■作者からのメッセージ
殆どの人は初めまして、覚えている人はお久しぶり、名も無き小説書きです。
少しでもこの小説を良いものにしたいので、感想や意見がありましたら、どんどんお願いいたします。

能力名
《歪み》…クレイジー
《雲霞》…ウォッチャー
《存在の交換》…ハイタッチ
《亡霊軍団》…グロリアス・デッド
《自殺衝動》…アンダー・グラウンド
《削除爆弾》…スペースメイド
《宮殿》…クローズドプレイス

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。