『プールの中の人魚、大海を知らず 1〜12』 ... ジャンル:リアル・現代 お笑い
作者:空雲                

     あらすじ・作品紹介
天然学習能力皆無、ありがちなぐらい美少女な人魚と、絶対腹黒い腐れ縁なさわやか美少年な幼馴染と、普通すぎて困っちゃう俺の初めて終わって欲しくないと感じた、夏休み。

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―1―

 Tシャツが汗ばんで、体に張り付いてくる。フェンスにひっかけている指も、汗ですべりおちそうになる。それに、靴のつま先がフェンスの穴に上手く引っかからないので、これまたすべりそうになる。そのせいか、音が何度も響いてしまう。…だけど、なんて警備が薄いんだ。…いちおう警備員は居るが、居眠りなんかしてる。職務怠慢もいいところだ。まあ、普通は何もないはずだからな。こんな夜中のプールで。
 そんなことを考えながらフェンスの一番上まで上りきった。そして、腰にぶらさげている懐中電灯を右手に握り締めながら、プールサイドに上手く着地した。ビリビリと足にしびれのようなものがきたが、すぐに治まり立ち上がった。いつも授業のときのにぎやかさが無く、シンと静まり返っている。こんなジメジメとした暑さで、無風。いわゆる熱帯夜というやつだ。
 もちろん、プールに並々と入っている水も、波ができているはずが………あった。 
 目をよ〜くこすり、もう一度見る。…見間違えていなかった。この波のでき方は自然ではできない波だ。スーッと波は何かが通るようにプール全体を震わせる。俺はおもわず、懐中電灯をプールの水面に当て、叫んだ。
「誰だ! こんな真夜中にプールに入りやがって…不法侵入だぞっ」
 …冷静に考えると、自分もほとんど同じ立場ということにはすぐに気が付いた。プール全体を旋回していた『何か』は、ゆっくりと俺のいるプールサイドのほうへ向かってくる。や、やべっ、自分で呼んだくせに何かやばいっ!
 いつのまにか、『何か』は、俺の懐中電灯の明かりを当てているところにやってきていた。水面から、ぬっと人の手が一本、出てきた。そして、もう一本。その両手を見たとたんに…情け無いが、腰が抜けてしまった。懐中電灯をもつ手も、さっきよりずっとずっと汗ばんでいた。
 プールの中から出てきた手が、地面に触れたのを見ながら、突然幼馴染の声が聞こえてきた。


『修ちゃん知ってる? プールには何か住んでるんだって〜』


「…は?」
 俺は国語のワークを片手に思わず間抜けな声をだした。俺の席の前の机に座っている奴に向かって。
「いや〜、その反応待ってました」
 そう言ってにこっと笑ったのは幼馴染の小笠原陸。俺の頭一つ分小さくて、容姿もむさ苦しい男子とは程遠い、さわやかで…クラスの女子が言うには『かわいい』らしい。
「噂だよ、ウ・ワ・サ。プールには何か住んでいる…七不思議っぽいよね」
「…普段なら黙って聞いたやったが、今はそんな暇はない事、わかってんだろ?」
 今は夏休み直前。提出物の期限も分刻みになってきている。俺は毎日コツコツやるなんて事、天地がひっくりかえっても無理だからこうやってギリギリにやるはめになっているのだ。
「うん。タイムリミット三十分切った下校時刻まで提出の国語のワークあと六ページ。でも答え合わせしなきゃいけないから正確にはあと十ページだね。それにあと六ページは全部修ちゃんの嫌いな古典だから、ギリギリは確実だねっ! あとは明日の朝まで期限の数学ワーク。ワークは良いとしてもノート提出も重なってるからほとんど真っ白のノートを僕のノートの完璧な図&解説を丸写ししなくちゃいけないから…」
「…お前は人の不幸を喜んでるだろ…」
「あはは、そんなことないよ。ただ毎日の積み重ねってホント大事だな〜ってしみじみ感じさせてくれてとっても嬉しいよ」
 …笑顔を崩さす言うお前をメチャメチャ殴り飛ばしたい…っ! とにかくこの話題から離れるために陸が持ちかけてきた話にのってみた。
「…それで? プールに何かいるっていうのはどういう事だ?」
「僕らが入学する前からの噂らしいよ。風も無いのに、プールに波ができたりとか、体育の授業中に突然足を引っ張られたりとか…」
「……バカバカしい。波なんて地面の振動とかでできるし、足を引っ張られるなんて気のせいに決まってんだろ」
 俺がそう言うと陸はムッと顔をしかめた。いつも笑っている陸がこういう顔になるのはめずらしい。
「修ちゃんのダメなとこはすぐに否定しちゃうとこだよ。信じれば世界が広がると思うけどなあ……」
「俺は確証の無いことは嫌いなの。まあ…目の前で起こったんなら話は別だけどな」
 そう言い、時計を見て小さく叫んだ俺はすぐにワークに意識を向けた。そんな時、陸が小さく笑っているのにも気づかずに。





「ごめん、修ちゃん。数学のノート、プールに置いてきちゃった」
 えへっと笑う陸を今度こそ殴り飛ばそうとしたのは事実です…殴っても届かないから抑えたけど。

 陸とは幼馴染で、家も隣。自分部屋の窓がちょうど面しているのでここで会話をすることは多い。だから、窓をはさんで俺は叫んだ。(でもなるべく小声で)
「てめっ…今何時だと思ってんだ! 夜中の一時だぞ! 何でもっと早く言わないんだよ!」
「だって今カバン見たら無かったんだもん。そういえば今日体育の授業の時に隣のクラスの勅使河原君に返してもらったときに更衣室のロッカーに入れっぱなしだったかもな〜なんて」
「…隣のクラスには勅使河原なんていねぇぞ。つーか、学年にそんな奴いねぇ」
「あははっ、気にしない気にしない」
 …こいつ、わざとだ。笑っていた陸は俺に紐のついた懐中電灯を投げ渡した。
「がんばってね、修ちゃん。何かみたら逃げる前に携帯のカメラで証拠写真を収めてきてね」
 なんでこんな、幼馴染をパシる奴がモテるのか。本当に、女子は見る目が無い。


 そして、今に至る。けっこうゆっくり感じるが、現実走馬灯のように流れた。
 プールの枠に触れている両手はグッと力を込め、曲がっていたひじはまっすぐと伸びた。それにあわせプールからザバンッ! と何かが上がってきた。
 月の微妙な逆光を受けて、真っ黒な影しか見えない。影は何か波打っているような形をしている。それは人間には見えなくてもっと恐ろしさを感じた。
 影は何も言わずに佇んでいた。というか、口があるのかわからないけど。

 逃げよう。そう脳から伝達が走った。けど、何故か陸の言葉を思い出してしまったので、ズボンのポケットから携帯を取り出して、必死にカメラ機能にしようとボタンを押していた。
 携帯の画面が震えてピントが合わない。片手で携帯を持つ手を支え、ぴったりと合わせる。合わせたけど、ボタンを押せない。(何か怖くて)どうすれば…! …あ。

「…ハ、ハイ…チーズ…?」

 パシャッ

 今の俺を誰にも見られたくないと思った。


 
 と、とにかく! 撮影終了! ノートはもういい! 帰りたい!
 俺はすぐさまフェンスに手をかけた。

「…どこ、いくの?」

 体の動きが、止まった。もちろん、震えも。
 ゆっくりと、影のほうを見た。今の、声は…。
「あなた、だぁれ?」
 影が首をかしげた。やっぱり、この影から声がした。それは、女の声。
 俺は携帯を開いて、さっき撮った画像を見た。
 そこにはフラッシュのおかげでしっかりとその姿が見えていた。それは、ウェーブのかかった腰まである髪の、俺と同い年ぐらいの女の姿。

 パシャン

 水がはじく音がした。その先には魚しか持てないはずの尾ビレ。月の光に反射して、キラキラと光を放っている鱗。

 上半身は俺と同い年ぐらいの女。下半身は、魚しか持っていないはずの尾ビレ、鱗。
 頭の中で単語が一つ、浮かび上がった。それは自然と頭から口へと運ばれた。

「…人魚…」




―2―




「な…なんで、なんでプールなんかに人魚がっ!? つーか、この町から海まで電車とバス乗り継がないと行けないんだぞ!? それに、人魚ってのは海でしか生きられないんじゃねえの!? こんな消毒液臭いとこによく居られるな!」
 俺は首をかしげて俺を見ている人魚に向かって叫んだ。俺の言っている内容を理解できないのか、不思議そうな表情をしていた。だが、俺の言った言葉に反応したのか、すこし前のめりになっていた。
「う、み? うみって…なに?」
「…はぁ? 何言ってんのお前」
 俺は思わず顔をしかめた。海を知らない? そんな馬鹿な。普通というか、だいたいの人間が人魚と考えて思いつくのは、まず海だ。それぐらい、人の中には『人魚=海』という公式があるのだ。
「どんなもの? このハコより、大きい?」
「ハコ…プールのことか? ああ、何百倍も広いな」
「なんびゃくばいって、どれくらい?」
 ……なんか不思議な感じだ。海と密接な関係にあるはずの人魚に、海から遠いところに住んでいる俺が海のことを教えているのは。
「う〜ん…例えるなら、このプールっていうか、ハコ? の中の壁がないんだ。どこまでも、この水が広がってるって意味」
 そう言うと、パッと表情が明るくなった。意味がわかったみたいだ。…よくよく見ると、こいつ、結構かわいいな。『人魚=美人&ナイスバディ』という公式も間違ってはいないようだ。俺が『波打った影』と思ったのは、ゆったりとウェーブのかかった黒い髪のことだったし。髪が腰まであって、けっこうでかい胸(なにも着いてない)もなんとか…隠れていて……なんだろう、この悔しさは。
「…? ねぇ、なまえ、何?」
「…あ、名前? 俺のか?」
 俺がアホらしいこと考えていて、突然聞かれたのでびっくりした。人魚は俺の問いにこくん、と頷いた。ずっと手で体を支えているのがつらいのか、プールの水に体を沈めた。しばらく沈んで、顔だけをだしてプールサイドに手をかけてちょこん、と顔を出した。
「俺…久高修一。久高が姓名、修一が名前」
「…しゅーち…しゅー…?」
「…発音できないのか、お前」
 修一って…そんな言いづらいか? というか、話し方とかがつたないというか幼いというか…。
「あー、じゃあ。修でいいよ。シ・ュ・ウで」
「…! シュウ! シュウ!」
 しっかり言えたことが嬉しいようで、満面の笑みで言った。何か、子供みたいだな。無垢っていうのか?
「お前は? 名前」
「わたし? う〜んと…シーナ」
「…シーナ?」
「うん、だったはず」
 なんだそりゃ。そして、日本なのに外国人風…。まあ、いいか。俺は立ち上がった。
「じゃあな、シーナ。俺は大事な、それはもう本当に大事なノートを取りに着たんだ。俺のこれからの夏休み生活が掛かっているな」
 こいつが無害だということがわかったんだから、怖がる必要も無いし。元々、こいつを探しにきたんじゃなくて、数学のノートを探しにきたんだ。
「あ、シュウ、待っ…」

 ガチャン

 ゾワッと背筋が凍る感覚がした。それは、シーナを見つけたときとは別の感覚。こう、恐怖とか、そんな明確な感覚ではない。そう、それは。

 嫌な予感。

「シュウ、おじさんがくる。ピカーって光るものもってる、おじさん」
「ピカーッてのは懐中電灯だとしたら…もしかして、警備のおっさん?」
「うん、だったはず」
 くらぁっと頭が揺れた。バッドタイミングだ! どこかに、隠れなければ…と思ったけれど、ここはプールサイド。見晴らしが良すぎて隠れられない。俺は思わず、ずっと俺のほうを見上げているシーナになるべく小声で話しかけた。
「シーナ! そのピカーって光るもの持ってるおじさんに見つかったらやばいんだ。何処
か隠れられるところ、知らないか?」
「うん。知っている」
「ホントか!? じゃあさっそく…」
「こっち」
 その言葉と共に、聞こえたこのグイッという音は俺のTシャツの裾を引っ張った音。そして、少しずつ、視点が下へ、下へ…って。
「おまっ、シーナッ!」

 ドポンッ

 視界は、消毒液のにおいがつまったプールの中へ。





―3―




俺が沈んだ勢いでか、プールの底に背中が着いた。その上に乗るように、シーナが顔を出した。…って、こんな落ち着いてまわりを見ている場合じゃないし! 俺はシーナをどかすように上に上がろうとする。
「シュウ! だめだよ。おじさんきてる」
 俺のTシャツをひっぱりながら、シーナが言う。確かによく見ると、光が水面に映っているのがわかるし、少しだけ振動を感じる。上で警備のおっさんがうろうろしていることがわかる。
「おじさんかえるまで、ここ」
 …そ、それはわかるけど…。俺の口からゴボゴボと空気の泡が無駄に出て行く。シーナに言おうとするが、シーナのように声は出ずに、水を噛むような形になってしまう。も、もう限界だ。
 シーナのTシャツを掴む手を外し、そのまま上がろうとするが、シーナが思い切り俺の背中にタックルしてくる。そのせいで、最後の最後に残しておいた空気を吐き出してしまった。
「シュウ、だいじょうぶだよ」
 シーナが耳元でささやいた。何が大丈夫なんだ! と水の中じゃなかったら、たぶん言っていた。背中に胸があたるが、そんなことも命がかかっていると気にしなくなる。
 もがいて上に行こうとする俺の顔の前に、突然手が出てきた。その手は俺の口をゆっくり塞ぐ。すぐに俺はシーナが俺の口を塞いでいるということ、この行為が水の中では危険ということも思いついた。俺はさっきよりもがき、手を外そうとする。
「シュウ、息、できる?」
 息なんかできるわけ……あれ? さっきより、苦しくない。空気が、塞がれている口へ入り込んでいく。シーナの手のひらから、空気が出ているみたいだ。
「おじさん、ちょっとしたら行っちゃうから、すこしがまん、ね?」
 子供をあやすような声を出して言った。…精神年齢的に、俺のほうが年上だと思うけど…。シーナの言うとおり、水面をウロウロしていた光は消え、振動が遠ざかっていくのがわかった。……もう、いいかな。
 
 俺はゆっくりと顔を出した。周りに人がいる様子もない。たぶん、警備さんは帰った…のか? さっきまで光がついていたプール専用の放送室兼器具室兼管理室は真っ暗になっていた。
 水に濡れて少し重い服をひっぱりながらプールサイドに上がった。シーナは、へとへとになって座り込んでいる俺をなんだかうれしそうな表情で見ていた。
「はぁ…なんとかなったな…警備のおっさんもどっかいったみたいだし」
「うん。おじさんは、他のところにいったの。おじさんはね、ジメジメしてるじきだけあのへやにいるの。いろんなひとがね、火がばーってでるのを、ここにもってくるの。それを、このハコに入れるの…」
 そう言うとシュン、とした表情になった。…わかりやすく言うと、夏の間、ここで花火をする奴らがいて、それをプールに捨てるのが問題になっている。だから、夏だけは警備員があの放送室(以下略)にいるのだ。冬とかは、職員室とかにいるらしいしな。
「あのね、シュウ、おねがいあるの」
「何だよ、突然。…まぁ、助けてもらったしな。俺ができることならやってやるよ」
 そう言うと、シーナはものすごく嬉しそうな表情になった。…ちょっと、嬉しいような…男ってのは、こう、女の子に頼られるのが好きだと思う。

「うみに、つれてって」
「…は?」
 思わず聞き返して、俺は思わず立ち上がった。

「バッカだな、お前。そんな足じゃ、海に行く前に研究所行きだぞ」
「…あし?」
「そうだ。このプールの外に行くって事は歩かなくちゃいけないんだ。わかるか?」
「あるく…」
 少し考え込んだシーナに言った。お願いを叶えてやりたいのはやまやまだが、この姿ではさすがに連れて行けない。
「悪いな、シーナ。そろそろ帰らなきゃいけないし…携帯壊れたし…」
 そのままシーナに背を向け、フェンスのほうへ歩く…が、がしっと足を掴まれる。
「シュウ」
「だーかーらー、ダメだっていってんだろ」
 足をそのまま前にすすめるが、手が離れない。
「シュウ…」
「もうわかんない奴だな。俺には無理だって…」

「これで、いい?」
 は? と言い振り向くと、そこにはプールサイドにのりあがってしまった人魚のシーナ…ではなく、人間のシーナ。
 先ほどまでの長い黒い髪は、なぜか肩に掛かるか掛からないかの長さになっていて、魚の半身だった下半身は、人間の、スラリと細い足になっていて…。

『髪が短い=胸が見える』『魚の半身じゃない=足と尻が丸見え』=…全裸。
 
「うっ…うわぁぁぁぁぁっ!!??」
 思わず足を掴まれていた手を振り払うように蹴り上げる。その勢いで、シーナはプールにドボン、と戻ってしまった。ブクブクと泡が水面で割れ、ゆっくりシーナは顔を出した。
「…シュウ、痛い」
「え、あ、ごめん…」
 顔を出したシーナの髪は、また長くウェーブがかかっていた。…水に濡れると戻る、のか? というか、さっき全…裸…顔が熱くなってきた。
「シュウ、まっかっか。どして?」
 首を傾げながら言う。…こ、こんなこと簡単に言えるか…!

「修ちゃんは君のナイスバディーを見ちゃったから、真っ赤になって動揺しちゃったんだよ」

はっと気づき、フェンスの上を見ると、そこにはいつも変わらない爽やか笑顔が。
「おっそいよ、修ちゃん。これでもちょっと心配したんだからさ」
「…陸!」




―4―




「って、なんでお前こんなところにいるんだよ!」
「ん〜? 姉さんのアパートに服持って行って、その帰りになんとな〜くプールに寄ってみただけだよ。そしたら、彼女のナイスバディーに困惑している修ちゃんを見つけたって訳」
 …相変わらず、何か引っかかることを言いやがるなこいつ…。陸の姉さんっていうのは、陸をそのまま女にした? って感じだ。なんかいつも笑顔で、美人だから男遊びも結構しているらしいし、貢がせるのも得意で、俺にいろいろ買ってくれたこともある(いいのか…?)とにかく美人で不思議で敵にしたらやばい姉さんだ。陸はしっかり、そういうところを姉弟として受け継いでいる。
「で? 噂の何かは…彼女のことみたいだね」
 陸がそう言い、フェンスの上から飛び降りる。上手く着地し、俺とシーナのほうに近付いてくる。
「始めまして。僕は小笠原陸。陸って呼んで。君は?」
「ん…リク? わたし、シーナ」
「シーナか。よろしくね」
 何だかんだ言って、軽快に自己紹介が進んでいる。…こいつ、人見知りしないからな…。
「で〜? どうするの、彼女」
「どうするって…どうしようもねえよ」
 俺がそう言うと、俺のTシャツの裾を引っ張り、シーナに聞こえないように顔を近づけてくる。
「修ちゃん、今年寒中水泳無いって、知ってた?」
「…あの開校以来ずっとやっていたあの寒中水泳が? 何で?」
 うちの学校は珍しく、寒中水泳なんぞがある(男子限定)。だからプールは比較的一年中綺麗だ。
「だいぶ老朽化しているから、改装というか、綺麗にするらしいんだ。工事の開始は夏休み開始の明後日。明日は終業式。それわかる?」
「早くシーナをプールから出さないと、水が抜かれて、シーナの姿がばれる…」
「シーナは珍獣とかなんとかで、研究所行き」
 俺らはそ〜っとシーナの方を見た。シーナは俺らがナイショ話していることに対して何も思っていないようで、プールの水で遊んでいた。
「どうすりゃいいんだよ」
「どうするって…助けるんじゃんか。シーナに助けてもらったんでしょ?」
 そんな簡単に言うなよ…。そんなことを思っていたが、陸が立ち上がり、シーナのほうへ行く。
「ねえ、シーナ。シーナは、このプールにずっと住みたい?」
そう陸が聞くと、シーナは横に首を振った。それを見て、笑みを深くした。
「じゃあ、どこに住みたいの?」
「うんと…シュウの言ってた、うみに行きたい。うみに住みたい」
「よし。じゃあつれてってあげる」
「ホント?」
 シーナが嬉しそうに表情を変えた。陸もまた、笑顔で。…俺、関係ない人?
「うん。修ちゃんが主に」
「って俺かよ!」
 びしっとツッコむ。が、軽くスルーされる。…せめて反応しろよ。
「じゃあ、ちょっと待ってて。修ちゃんも待っててよ」
 陸がそういうと、素早く上手にフェンスを登り、飛び降りてそのまま見えなくなってしまった。



「ふう。やっと到着」
 疲れているのか、ふりをしているのかわからないけど、陸は紙袋を持って戻ってきた。
「…なんだ、その紙袋」
「ん? 服だよ。姉さんの服を拝借してきたよ」
 そう言い、ごそごそと紙袋の中からは女物の服が出てきた(ご丁寧にサンダルとかも)。
「シーナ〜上がって、人間の姿になってくれる?」
「うん」
 シーナはよいしょ、と小さく掛け声をあげてプールサイドにのりあがる。そのとたん、小さく光が目を射す。まぶしさが無くなり、ゆっくり目を開けると、そこには人間のシー…っ!
「はい、修ちゃんは後ろ向く。またシーナ蹴っ飛ばしちゃいそうだしね」
 陸が無理矢理フェンスのほうを向かせる。…ん?
「お前はこっち向かないのかよ」
「ん? シーナ、服の着かたわかんないだろうし。それに、誰かさんが毎日風呂上りに裸同然の格好で歩き回れてたら、そりゃあ、そこそこ慣れるよ」
 …あのダイナマイトボディの姉さんの…か。妙に納得して、着替えが終わるのを待った。


「はいっ、終わり! 修ちゃんいいよ〜」
 ゆっくり振り向くと、思わず見とれてしまった。キャミソールに、ふんわりとしたひざ上のスカート。ウェーブのかかっていた髪は短くなっていて、まっすぐになっていた。というか、女子を見とれるってことは、中々無いぞ! これはそこらへんのアイドルと引けを取らないというか…。
「修ちゃん、かわいくてびっくり?」
「なっ…ちげーよ!」
「びっくり? シュウびっくり!」
「うるせー!」
 はぁ。これから、どうなるのか…。俺の夏休み、どうなってしまうのか。
「シュウ」
「何だよ」
「うみ、ぜったいにいこうね」
 こんな笑顔見せられたら、首も横に触れなくて…。とにかく思うのは。
「先が思いやられる…」
 この言葉に尽きる。




「あ」
「? シュウ、どうしたの?」
「数学のノート…」
「ああ、大丈夫。僕の部屋にあるから」
「…いま、凄い問題発言したぞ?」
「ん? 大丈夫だよ。あのノートの評価は、二学期だから」
「関係ねーよっ!」





―5―




「暇だね」
 
 夏休み…何日経ったっけ。一週間? 俺の家に居候になっているシーナも、だんだん俺の家にいるのが当たり前になっていた。上のセリフを言ったのは、いつのまにか俺の部屋に入ってきている陸だ。俺はシーナが占領している扇風機をぐいっと、人間の首にやったらボキッと折れそうなぐらい無理矢理俺のほうに向かせる。
「そうだな。つーか、夏休みは暇だって言うから夏休みなんだよ」
「そんなの修ちゃんだけだよ。いい加減クーラー買いなよ。暑すぎるよ、この部屋」
「扇風機が当たってないから暑いって感じるんだよ。人間、我慢も大切だ」
 そう言い、俺は陸になんか笑ってるイルカが描いてあるウチワを渡す。シーナは俺の背中に自分の背中をつけ、また勝手に扇風機を自分の顔の前に運ぶ。
「暑いんだよ、くっつくなシーナ! それに勝手に扇風機を自分だけに当てるな! みんなに平等に当ててあげなさい!」
 俺がまた真ん中に戻そうとすると、シーナが反対にグイッと自分の方に引っ張る。
「や〜っ! あつい〜! ハコに戻りたい〜」
「プールは工事中だ! お前さっき水風呂入っただろ! 一日十回以上入りやがって…しかもその度に水を抜きやがって…水道代の無駄! せめて一日五回にしろ!」
「すくない! うみに行きたい! 何でいかないの?」
「アホ! いま海水浴シーズンだぞ! 今行ったらお前研究所行きだ!」
 ギャーギャーと言わんばかりに喧嘩する。扇風機の取り合いはいつものことだ。そこから発展して、いつも海の話になる。そういう時、陸は黙っていて、今日はウチワで風を自分に送っていた。
「うわぁーん、うみ! うみに行きたい〜!」
「うるせーっ! 行けるものならとっくの昔に行ってるっつーの!」
「シュウのいじわるー! せんぷうきのほうがやさしいもん!」
 そう言って扇風機にだきつく。これも毎日のこと。いい加減疲れてきた。抱きついているシーナを横目に、陸のほうを向いた。なぜか陸はウチワを扇がず、じっとウチワの絵を見ていた。
「どうした、陸」
「ん? 良いこと思いついちゃったよ、僕」
 そう言うとにっこりと微笑んだ。
「りぐ〜な〜に〜が〜ぁぁぁ?」
 シーナが扇風機に向かって声を出しながら陸に聞く。…やることと見た目が合ってない…。陸が俺たちに向かって、ウチワをなげる。ウチワは俺とシーナの間にひらひらと落ちる。ウチワのイルカが、俺たちにウインクの笑顔を向けていた。
「涼しくって、海の疑似体験できるところ、行きたくない?」
 


「なるほど。確かにここなら疑似体験できるな」
 そう俺が言う。俺とシーナと陸の間をすりぬけるように、子供たちが笑いながら走り去っていく。子供たちが向かっているのは、全体的に水色な建物。その入り口の上には看板が大きく佇んでいた。

『崎真市アクアマリン水族館』

 その看板の両脇に、俺のウチワに描かれていたイルカ『チャッピー』とそいつと対になるように、リボンをつけた『ラッピー』がいらっしゃい雰囲気をだした笑顔を俺たちに向けていた。…ホントに、名前になにかしらの規則性が無いし、つーか、チャッピーって犬じゃ…。
「ねぇねぇ、すいぞくかんって、なに?」
 シーナが首をかしげながら俺たちに聞いてくる。陸がそんなシーナににっこりと微笑む。
「ここはね、シーナ。海に棲んでいる生き物たちが、ガラスのケース…水槽って言うんだけどね。そこに入れられて、人間たちにジロジロ見られるという、『おいおい、プライバシーのへったくれもねぇな』っていう魚たちのツッコミが聞こえてくる…」
「もっと短く、かつ子供がわかるように教えてやれ」
「一応真実だよ」
 ……相変わらず、余計なことをいちいち言うな…。俺は小さくため息をつき、シーナに視線を向ける。
「水族館ってのはな、お前の行きたい海の生物がたくさんいるんだ。海の感覚を、陸地にいるけどわかるって場所だ」
「うみの…いきもの? たくさん?」
「ああ。それに涼しいぞ」
 そう言うと、うれしそうな表情をして入り口に向かって走りだしていた。『海の生き物』に反応したのか、『涼しい』という言葉に反応したのかわからないけど。
「う〜ん、水族館なんて、久しぶりだね。何年前だっけ、行ったの」
「さあな。でも、中学生の頃は行ってないな」
「じゃあ、最低四年か〜。近ければ近いほど行かないもんだね」
 俺たちが走っていくシーナを見ながら、ちょっと思い出していた。小学生のころは毎年行っていたんだけどな。一回行かないと、パタリと行かないもんなんだな、こういうのは。
「ふたりともーは〜や〜く〜!」
 パタパタと手を振ってくるシーナのほうへ、陸は少し小走りで、俺は歩いていった。

「うわぁー、不思議な光景〜」
「…だな」
 周りの人たちも、ものめずらしそうに俺たち、いや、シーナのほうを見ていた。それは、シーナが美人であるのも理由のひとつだが。
「こんにちは、あなたなんてなまえ?」
 青い魚がくるりと一回転する。
「えへへ〜。そんなにわたし、めずらしいの?」
 もう一匹、魚がガラスにぶつかってくる。
「もう1年もいるの? 長生きだね〜」
 水槽にむかってシーナが話しかけているからだ(もちろん魚たちに)。それに反応するように、歩いているシーナに合わせて魚たちも寄っているのだ。水槽の魚たちのほとんどは、シーナに寄っていて、魚たちが自分のほうに寄ってこない、と子供たちも少しご立腹の様子だ。…変人扱いされてるんじゃないか、俺ら…。
「シーナ、いい加減やめろ」
「えへへ。おもしろい子たちばっかりだよ〜」
「言葉わかるの、シーナ」
 そう陸が聞くと、シーナはコクン、とうなずいた。…マジかよ。人間になれるだけじゃなくて、魚とも会話できるのかよ。やっぱ人魚なんだなぁ…。
「じゃあさ、『プライバシーってどう思いますか』って聞いてみてよ」
「余計なことは聞かんでよろしい!」
 俺が陸の頭にチョップしながら言うと、水槽の上のほうからパラパラと何か固形物のようなものが落ちてきた。たぶん、餌か何かだろうか? それと同時に、スキューバーダイビングで着る格好で人が落ちてきた。その手には、餌の袋が入っていた。
「うん、じゃあね〜」
 シーナが突然そう言うと、寄り添うようにいた魚が離れていき、餌の方に寄って行った。
「ご飯のじかんなんだって。ご飯くれるだけで、いちいち入ってくるなってちょっとおこってたよ」
「ほら! やっぱりプライバシーが…」
「だーっ、知るかっつーの!」
 俺らが話していたら、いつのまにか俺たちの前に、餌を撒いている人が俺たちをじっと見ていた…ゴーグルしていて、シュコーシュコーと空気を出しながら見られている。すこし、気味が悪い…。なんで俺たちだけを見てるんだ、この人。
「? こんにちは。なにかごようですかぁ?」
 シーナが首を傾げながらずっと見てくる人に尋ねる。…答えは返ってこないと思うけど…。シーナがそう聞くと、あっちが両手を広げて、こちらになにかサインをしてくる…何だ?
「? なにしたいの? パー?」
「違うよ。十円くれ、じゃないの」
「どっちも違うと思うぞ」
 俺は必死に向けてくる両手を見て、思いついた言葉を小さく言った。
「…待て、じゃないか?」
 俺がそう言うと、口の開きでわかったのか、大きくうなずいた。シーナが妙に尊敬の表情で見てくる。
「シュウ、すごい! さすがシュウだね」
「さすが頭でっかち!」
「褒めてねえだろ、それ」
 俺たちがそんなことを話していると、いつのまにかさっきまで水槽に居た人はいなくなっていた(たぶん上がったのだろう)。
「すみません! お待たせしました」
 突然、聞こえてきたのは女性の声。明らかに、俺たちに向けられた声だ。走りよってくるのは、髪をショートカットにした元気そうな…快活というのか? そんな女性。服は、白いTシャツに、胸のあたりに『崎真市アクアマリン水族館』と書かれていて、その右にイルカのチャッピーがプリントされている。…明らかに、水族館で働いている人だ。
「いえ、特に待っていませんが…というか、どなたですか?」
「あ、はい! さっきまでこの水槽に入っていた者です!」
 本当に元気な人だ。声がでかい。にっこりと笑う少し小麦色の肌は、この人にピッタリだ。
「で、聞きたいことがあるんですけど…」
 そう言うと、シーナの方に顔を近付け、じっと見る。シーナはわけがわからず、少し困惑しているようだ。彼女は小さく『やっぱり』とつぶやいた。
「なにがやっぱりなんですか?」
 陸がたずねる。(目上とか、初対面には結構礼儀正しい)彼女はキョロキョロと周りを見渡し、俺たちにだけ聞こえるような声をだした。

「彼女は、人魚…ですよね?」




―6―




 彼女の言葉に驚いたのと同時に、シーナの腕を引っ張り、自分のほうに寄せた。やっぱり、シーナが人魚だと知られることは、少し危険だと感じているからだ。そんな俺の様子をシーナは不思議そうに見ていた。彼女は俺の不安や危機感を無くすような笑顔を俺達にまた向けた。
「その様子だと…合っているみたいですね。大丈夫です。わたしも、半分ですが人魚の血を引いていますので」
「血を引いているって…」
「はい。わたしの母が人魚なんです。やっぱり、雰囲気とかが、人間とは少し違うので、ほとんど感ですけど、わかるんです」
 えっと…人魚と人間のハーフってことか…そんな人が、存在しているとは。俺はぼんやりと彼女を見ていたら、グイグイとシーナが俺の手を離そうとしていた。
「シュウ痛い。はなして」
「あ…悪い」
 すぐにはなすと、シーナの腕が少し赤くなってしまっていた。…強く掴み過ぎた…。
「あ〜あ。心配したのはわかるけど、ここまでやっちゃうなんて……愛だね」
「? アイ? それっておいしい?」
「シーナは本当にベタなこというね」
 陸とシーナの会話は無視して(口を挟むとたぶんめんどいことになる)彼女にまた問いかけた。
「えっと…なんで、俺達に話しかけたんですか?」
「興味があったんだ。人魚と人間が一緒にいるところなんて。それに…」
「それに?」
 笑っていた彼女は、ゆっくりと笑みを失った。

「わたしを狙っている奴らじゃ無いか、と思ってね」

 背筋がゾクッと凍る感覚がした。その表情は、恐怖と冷たさが混じっているような表情だった。でも、その表情はすぐに無くなって、笑顔に戻っていた。
「まあ、お二人は海人(マーリン)では無いようなので、人違いだと思います」
「まーりん?」
「はい。いつも人魚のそばにいる、ガードマンみたいなものなんですけどね」
 ほーっと息をはいた。そんなファンタジーチックなことが実在していることに、思わず感嘆するしかなかった。
「もう少しお話したいとは思うんですけど…まだ仕事があるので」
「あの、あとで少し、お話できますか?」
「はい。閉館は五時なので、その後なら」
「わかりました。えっと、名前…」
「駿河です。駿河凛。あなた達は?」
「俺が、久高修一。んで、こいつが小笠原陸。で…」
「シーナです!」
 シーナが挙手するような形で名前を言った。それを見て、凛さんはにっこり笑った。
「わかりました。それでは、またあとで」
「またね〜」
 そう言いシーナが手を振ると、凛さんも手を振り返し、来た道を戻っていった。…本当に、シーナは見た目相応のことをしない。
「なんで話を聞くことにしたの?」
「ん? あの人俺達の知らないこと知ってそうじゃん? どうせなら聞いておいたほうがいいだろ?」
「シュウかしこ〜い!」
 …ホントはお前が知らなきゃいけないんだけどな…。たぶん、ほとんど話を聞かなそうだしな、こいつ。
「でも、閉館が五時ってことは〜」
 そう言って携帯を取り出し、小さな液晶画面を見る。
「三時間は待たなくちゃダメだね」
「…ああっ!?」


「…閉館まであと何時間だ…?」
「やっと一時間きったよ…もう何週したっけ…?」
「さあ…でも水槽の魚全部覚えられた気分になるぐらい…だな」
 ぐてっと広いホールのようなところにあるテラスのテーブルにつっぷしていた。ここの水族館はそんなに広いというほど広くないので、一週するのがすぐに終わってしまう。三時間も回れば場所とかいろいろ覚えてしまう。…疲れた。
「シーナ、どこに行ったの…?」
 陸がストローをくわえ、ズズーッとメロンソーダを飲む。俺もコーラの入ったコップを取り、飲み干す。
「あそこだよ、あそこ」
 俺が指した方向にはステージがあり、そこでは戦隊モノの格好をした五人組がポーズを取っていた。ステージにはでっかく『海中戦隊マモルンジャー』とか書かれたふざけた看板があった。なぜかちびっ子たちがたくさん集まっているが、その中で一人だけ背の高い女――シーナがいっしょにいた。
「…海中戦隊マモルンジャー…? まもるさんに失礼だよね」
「誰だ、そいつ。つーか、そんなもの作ってまで客集めしてるってところのほうが俺は感心するけどな」
 そんな、冷たいことを二人で言い合っていたら、シーナが嬉しそうに戻ってきた。
「シュウ! すごいよ! かっこいいの!」
「あ〜、はいはい。そんなによかったか?」
「うん! んと…『う〜みをま〜もるということは〜、た〜いせつ〜なも〜のをま〜もること〜』」
「すごく歌詞が矛盾してない?」
「俺もそう思うけど…お前、あんまり歌上手くないんだな」
 人魚だから上手いと思ってたけど。いや、歌が悪いのか?
「『たいせつ〜なものは〜ひとそれぞれ〜、それをまもるために〜ひとはいる〜』」
「…なんかカッコいいこと言ったね」
 まともなこと言っているけど、それが主題歌というのもなんだと思うが。俺は立ち上がり、ゴミ箱にコーラが入っていたコップを捨てた。
「あと水槽、一週するぞ」
「え〜っ!」
「『わ〜るいものからま〜もるぞ〜、海中戦隊マーモレンジャ〜』」
「いい加減歌うのやめろ」
 俺がそう言い歩き出したら、突然走りよってきた小さい男の子が俺の脚にぶつかってふっとび、倒れこんだ。俺は思わず座り込み、その子に近付いた。
「大丈夫か?」
「すっごいふっとんだね。前方不注意ってやつだ」
「そういうことを言うな! 大丈夫か? ケガは?」
 俺がそう言い、倒れこんだ子の肩を少しゆすった。…が、反応がない。
「…おい? お〜い?」
「まさか…久高修一、十七歳にして、殺人!?」
「うるせー! ちゃかすな!」
 俺がその子の口元に耳を近づけると、息遣いが聞こえる。…ということは…。
「寝てるぞ、こいつ。なんで突然…」
「…修ちゃん…」
「何だ?」
 じっと、周りを見ていた陸が、声を絞り出すように言った。
「みんな、眠ってる」
 その言葉に思わず立ち上がった。俺と陸、シーナ以外はみんな倒れこむように眠っていた。さっきまでポーズをとっていた戦隊五人組も、さっきコーラを買った店の店員も、家族連れやカップルも、全員。…何で?
「何でみんな、眠ってるんだ?」
「わかんない。でも、みんなが眠っているのがおかしくないのなら、眠っていない僕たちがおかしいのかもしれない」
 そうだ。なぜ、俺達は眠っていないのか。なぜか、俺達が異常なモノのような気分になってきた。
「どうすればいいの?」
 シーナが俺の腕をギュッと掴んだ。明らかに、怖がっている。俺はじっと周りを見ながら口を開いた。
「とにかく、警察に連絡を…」

「キャーッ!!」

 ビクン、と俺達は飛び上がった。それは女性特有の、甲高い叫び声。シーナの腕を掴む力が、どんどん強くなってくる。それにあわせるように、俺も怖くなってくる。
「修ちゃん…どうする?」
 陸が、俺に視線を合わせる。俺は、甲高い声のした水槽へのルートを見る。…行くしかないか!
「行くぞ! 警察に連絡している間になんかあったら、後味悪いぞ!」
「…わかった」
「シュウ…」
 じっと、シーナが俺を見上げる。俺はなるべく自然に笑うように言った。
「怖いなら、ここに残ってていいぞ」
「…いく。ひとりはいや」
 シーナは俺の腕から手をはずし、Tシャツのすそを掴んだ。
「よし、行くぞ!」
 俺達は水槽へ走り出した。


 テラスのあったホールから、川魚の水槽を抜け、回遊魚がいるトンネルの水槽へ来ると、座り込んでいる女性を見つけた。…たぶん、さっきの声はこの人だ。
「大丈夫ですか!?」
「あ…君は…」
 女性が伏せていた顔を上げると、それは数時間前に話していた、凛さんだった。息を切らしていて、辛そうだ。
「逃げ…て…」
「何があったんですかっ?」
「あいつらが…来る…っ!」
 トンネルの水槽の先を見つめる。そこから現れたのは、2つの人影。ゆっくりと、それはシルエットから人へと変わる。最初にくっきりと現れたのは、髪が銀色で、冷たい雰囲気を全面にだしていて、シーナと引けをとらないぐらいの美女。暑いのにコートを羽織っていて、手には水…なのか、液体でできた身の丈ほどある剣をにぎっていた。そして、もうひとつの影は、その女の何十倍もの大きさと、太い腕をもち、頑丈な体をしている男。顔はフードを被っていて見えないが、フードの陰から金色の目が鋭く光っていた。女がじっと、俺達を冷たくにらむ。
「人間が起きているとはな…なぜ起きているか興味はあるが、今はどうでもいい」
 歩みを止めずに、歩き続ける。彼女のハイヒールの音が響いている。
「私の今やるべきことは、お前を殺すことだ」
 液体でできた剣を、凛さんに向ける。凛さんは、じっとにらむように女を見ていた。俺もじっとにらみ、女に言った。
「どういうことだ、殺すって。お前誰だ!」
「余計なことに口を出さないほうが身の為だぞ、小僧」
 女は俺のほうは見向きもせずに、ただただ凛さんを見ていた。俺はその態度に、妙に腹が立った。
「余計なこと…? 人の命狙っている奴が、偉そうなこと言ってんじゃねえよ」
 俺がそういうと、初めて俺のほうに視線を合わせる。合わせてみて初めて、自分がとても別格なぐらい強い奴に勝てない喧嘩を売っている…そんな状況だと気づいた。女は小さく『…まあいいか』と言い、俺に向かって言った。

「私は、この人魚と人間の血が混ざった『穢れしモノ』を殺しにきた…人魚だ」




―7―




「人魚…?」
 俺が小さくつぶやいた。真っ直ぐと、俺を睨む女が、シーナと同じ人魚とは思えなかったからだ。俺のTシャツの裾を掴んでいるシーナも、わけがわからない、という表情で見ていた。
「用件は言った。さっさとどけ。この女を殺させろ」
 狂気に満ちた、その表情は憎しみとか、嫌悪とか、そんな感情が凛さんに向けられていた。いや、たぶん俺達にも。
 とにかく感じたのは、ここに凛さんを、そして…何故かシーナを、ここにいさせてはいけないような気がしてきたのだ。だから、俺は少し後ずさり、陸に小さく耳打ちをした。ばれないように、ほとんど口パクで。
「外に二人を逃がせ。それで、警察に連絡」
「…修ちゃんは?」
「なんとかする」
「なんとかするって…宿題を終わらせるとはわけが違うんだよ」
 陸が俺を少し睨みながら言う。だけど、何かが変わるという訳じゃない。
「……決心は変わらない、と。怒らせて殺されないようにね」
 冗談なのか、真剣なのかはわからないけれど、とにかくうなずいておいた。陸が、凛さん の服をひっぱり、逃げることを小さく伝えていた。俺は、シーナが掴んでいる手をゆっくりとほどくように外した。俺がしている意味がわからないのか、不安そうな表情で俺を見ていた。
「シュウ…?」
「大丈夫だ。陸と逃げろ」
「や。わたしも…」
「シーナ」
 俺がそう強めに言うと、口をつぐみ小さく伏せた。陸の出された手を、しかたなくという感じで取った。
「じゃあ、いくよ…」
 陸がぎゅっと二人の手を強く握る。それにあわせるように二人の表情が真剣になる。
「いち、にーの…」
ぐっと陸の足が、絨毯でしきつめられた床に沈む。
「さん!」
 陸の足が跳ね上がった。それにつられる様に三人はさっき俺達が走ってきた通路を逆走していった。それを見ていたフードの男は追いかけようとしたが、女が剣を持つ右腕で男を制した。女はじっと俺を睨む。
「格好をつけて…私達に勝てる勝算がある、とでも?」
「別にねえよ。俺は聞きたいことがあるから残っただけだ」
 勝算はない。俺はただの時間稼ぎのためにのこった。でも、聞きたいことはたくさんある。
「なんで、人魚と人間の子供ってだけで、殺しにきたんだ? 別に、今に始まったことじゃねえだろ?」
「…何もわからない奴が言うのだな」
「だから、誰かに聞いて、人は学ぶんだろ?」
何とか、言葉を返さなければ。口をつぐめば、すぐに横を過ぎ去られそうで、少し怖い。
「…人間と人魚は、関係を持ってはいけない。平行線のように、交わらないものだ。それに……」
「…それに?」
 俺は、女の言葉を急かす。女は銀の髪をかきあげ、言った。
「人間と人魚は、殺し合う存在…その間が居てはいけない」
 殺しあう、存在。妙に耳に残った。冷房がかかっているのに、なぜか汗が輪郭をつたった。
「人魚の無邪気な歌は、船乗りを誘い、海へ沈める…人間は科学と言う名のチカラで、海を汚す…結局、私達は共に存在しあうのなど、無理なことなのだ」
 シーナも、そう思っているのか。それがまず最初に思いついた。あんなに無邪気に笑うあいつが、そんなことを思っているとは、思えないけれど。
「お前にはわからないだろうな。家族を失うこと、そばにいた者が消えていくことを…」
 彼女の表情が、初めて、無表情や睨んだ表情以外のものになった。彼女も、誰かを失ったことがあるのだろう。……俺と、同じで。
 俺は立てひざをついて立ち上がり、女と視線を合わせた。
「ちょっとだけ、その気持ちはわかるけどよ。だけど、あんたみたいに何かを殺したいって思うほど、憎んだことはねえ!」
 俺はぐっと足を踏み込み、姿勢を低くしてそのまま女に向かって突進した。女はこんな捨て身の行動を想像していなかったのか、あっけなく俺を懐にいれることをゆるした。俺の体は、女の細い体にのめりこむように入り、そのまま女は少し吹っ飛び、倒れこんだ。俺もそのまま体がのめり込むように、倒れこんでしまった。男が、女のほうへ急いで寄る。
「ゼレベス…!」
「大丈夫だ、バンダ。心配する…っ!」
 女―――ゼレベスと呼ばれた女は、細い足首をぎゅっと握り締める。少し、苦痛で顔を歪ませたが、すぐに無表情になった。
「少し、ひねったみたいだ。でも、これぐらいなら歩け…っ!」
 ゼレベスは目を見開かせて男、バンダを見ていた。俺は起き上がりながら、さっきまでと違う雰囲気に、少し首を傾げた。ゼレベスが俺のほうを勢いよく見る。
「小僧! 早く逃げ…!」
 女の言葉が、途切れた。何か熱いものが首をしめつけ、俺の体を宙へと上げた。上げられてすぐに、あのバンダという男が俺の首を絞め、俺の体を浮かしていることに気づいた。
ギリギリと、俺の首がしめつけられ、苦しくなってくる。
「きず…つけた…! ゼレベスを…きずつけた…! ゆるさない!」
 フードの陰から見えた、醜い顔。それは怒りでもっと歪み、比例するように締め付ける手の力も強くなる。
 俺がもがいても、宙にあげられているから何も変わらないし、手を離そうとしても、大きな手は俺の首から離れない。
 景色が歪み出した。男の顔が少しずつ一つずつ、増える。遠くで声が聞こえる。あの女の声だろう。止めようとしているのか、もっと強くしろと言っているのか、わからないけれど。



「何とか、外まで来れたね…修ちゃん、大丈夫かな…」
 僕が息を少し切らしながら言う。その言葉に、二人は反応しない。隣のシーナはずっとうつむいたままだ。
「…シーナ? 大丈夫?」
「…う、ん」
「修ちゃん、あれでも頑丈だから。死ぬわけは…」
 僕は言葉を間違えたことに気づいた。こんなことを、今のシーナに言ってはいけないことに。シーナは唇をかみ締め、僕の手をふりほどくように離す。
「やっぱりシュウのとこ、行ってくる!」
「あっ、シーナ!」
 すぐに姿は消え、僕は追いかけることはなく、ただ見つめるだけだった。そして、となりの凛さんもゆっくりと手を離した。
「わたしも、行った方がいいと思います。彼女たちが来たのは、わたしを殺すため。わたしがいなければ、解決しない」
「でも………凛さん?」
 凛さんはスタスタと歩き、柱の影に隠れていたホース(たぶん、水撒き用にあるのだろう)を手に取り、蛇口をひねる。勢いよく出てきた水を、履いていたジャージを撒くりあげて、足に掛けだした。僕は思わず目を見開いた。少しずつ変化してくる、その足に。僕は思わずつぶやいた。
「…凛さん…その足…」
 凛さんは、小さく微笑んだ。そして、人魚と人間という、越えられない壁の高さにも気づかされた。


 ああ、やばい。死ぬってこういうことなのか。息が出来なくなって、体中の力がどんどん抜けてきて。少しずつ、感覚が無くなってきて。男の手を掴んでいる俺の手も少しずつ力が無くなってきていることもわかってきた。そして、俺の両手が、男の手から滑り落ちて……。

『やめて』

 声が、聞こえた。耳に響く。それは、嫌な響きじゃなくて、心地よい響きだった。無くなりかけていた意識が戻り、視界も少しずつクリアになる。
『きずつけないで。大切なひとなの』
 男の顔が見えた。男は見下げて何かを見ているようだった。俺はゆっくり顔を動かして、そちらを見る。
『わたしを見つけてくれた大切なひと。あなたにも、いるでしょう?』
 男の目線の先にいたのは…シーナだった。シーナがそう言うと、男は女のほうを見る。
『あなたの大切なひと、悲しんでいる。あなたが誰かをきずつけることを悲しんでいる』
 ゆっくりと、首を絞める力が無くなってきていた。宙に浮かんでいた体もゆっくりと地面に下ろされていることが分かる。
『わたしも、あなたと同じ。そのひとがきずつくのは、とっても、くるしいの―――』
 俺の体は床に沈んだ。首を絞めていた手も外され、男はすぐに女のほうに駆け寄っていた。…なんだったんだろう、どうして、あんなにシーナの声が…。
「シュウ!」
 シーナが泣き顔で、俺のほうに詰め寄るように叫んだ。さっきみたいに、声は俺の耳には響かない。
「よかった…さっき見たとき、しんじゃったんじゃないかって…!」
「シーナ…」
「こわかったよ…っいなくなっちゃうんじゃないかって…っ」
 そう言いながらぎゅっと俺のTシャツをにぎりしめながら言った。俺はそんなシーナに何て言えばいいかよくわからなくて、泣かしてしまっているのが自分のせいだということしか分からなくて。
「…ごめんな」
 この言葉しかでてこなかった。
「……その女は…人魚か」
 ゼレベスが、バンダの肩を借りて立ち上がりながらそうシーナにたずねた。シーナはゼレベスのほうを見て、小さくうなずいた。
「…海、から来たのか?」
「ううん。ハコから来た」
「…ハコ?」
「んと…プール、っていうんだって」
 そう言うとゼレベスは目を見開いたが、すぐに表情は悲しみに満ちた表情になった。そして目を閉じ、ゆっくりと開けながら口を開いた。
「そうか…お前は…捨てられたのだな」
 捨てられた。俺も驚いたが、一番驚いていたのは、シーナだった。こんなとき、シーナが『捨てられたって何?』と聞いてこなくて、本当によかったと思ってしまった。
「どういう…いみ?」
「そのままの意味だ。お前は…」
「どうして、わたしは捨てられたの!?」
 シーナが詰め寄るようにゼレベスに叫んだ。彼女は、俺に視線を送りながら言った。
「お前の母が捨てた理由はどうであれ…大元の原因は人間にあるだろうな」
 そういうと、シーナは俺のほうを見る。信じられない、という表情をしていた。自分が直接悪いというわけではないけれど、でも俺はそんなシーナに視線を合わせることができなくてただただうつむいた。シーナの元に、ゼレベスがゆっくりと近付き、頬に触れた。
「…人間がすべてわたしたちの住む海や、家族を奪う。すべて、人間が悪い」
 そう優しく言い、一つ間を置き、ゼレベスは冷たく言い放った。
「お前は、その小僧と共に居てはならない」
 なんだか、俺もそう思ってきた。でも、本当にそうやって大きく分けて別の存在であったからって一緒に居てはいけないのだろうか…。ずっと俯いていたシーナは首を横に振り、小さく言った。
「…ぜんぶ、人間が、わるいのかもしれない。でも、でも…」
 シーナは顔を上げ、じっとゼレベスの瞳を射抜いた。
「シュウと、いっしょにいたいって、思うの」
 肩の力が抜けた。否定されなくてよかったと本当に安心したからだ。遠くから走りよってくる足音が聞こえる。
「修ちゃんっ!」
 陸が、すぐに俺のほうに走りよってきた。そして、俺の頬を軽くひっぱる。
「大丈夫!? めちゃくちゃ顔色悪いけど。これ以上モテなくなったら…」
「お前は本当に心配してるのか…って、凛さんは!?」
 そう俺が聞くと、陸はさっき自分が走ってきた通路のほうを見た。そして、そこからゆっくりと人が現れると俺は安心したと同時に、驚きが体中に走った。彼女の歩みを進める、足を見つめて。

「お待たせしました、お二人とも」
 照明によって、足が光に反射する。
 その足にびっしりと生えた鱗によって。




―8―




 俺はじっとその足を見つめていた。凛さんは俺の視線を気に留めず、ただ歩みを進めていた。ゼレベスが小さく感嘆とも言うべきため息をつく。
「それが穢れしモノの証、か…目にしたのは初めてだな」
 そう言うと初めて笑みをこぼした。でも、そんな純粋な笑みではなく、皮肉や中傷を込めた笑い方だった。
「本当に、哀しいことだな。人魚が命の源としている水に拒絶されるとはな…お前の母も、人魚になることは、もう無いのだろう?」
「…そうですね。その代わり、子供にその姿を引き継ぐ」
 そう言って、そっと足に触れた。
「中途半端な、呪いのような形で」
 哀しかった。無性に、哀しみがどっと押し寄せた。一緒にいてはいけなくて。無理に一緒になっても、そこから生まれた愛の形も少なからず苦しみを持つことになっていて。
「でも、わたしはこの呪いをくれたとも言うべき両親を…恨んだことはありません」
 そう言い、短めに切りそろえられた髪をかきあげる。
「確かに苦しいと思ったことはある。辛いと思ったこともあります。でも、生まれたことに対して、後悔をしたことはありません」
 じっと、強い瞳で。睨むとは違う、別の強さがゼレベスを射抜いていた。
「…では、お前は何のために生まれたと思っている?」
 そう聞くと、ほとんど間もなく、凛さんは続けた。

「人魚と人間の、希望になるためです」

「……本当に、なれると思うか? 私のように、人間を嫌う人魚はたくさんいる」
「それでも構いません。あなた達がわたしを穢れたものだと思っていても、わたしは海を好きでいたい。そんな理由で、わたしは母や人魚が愛している海を嫌いになりたくないから」
 人魚と人間。人魚の存在自体が不確かで、大部分の人間にはどうでもいいこと。そんなものに…といったら失礼だけど、目の前に存在している大きな大きな壁。その前で、凛さんはそれを崩そうと、架け橋になろうとしている。呪いを、『自分』というものの一つにしていて。俺なら、どうするだろう。いつも物事を自分に例えてしまう。何もすることはできないのに。
 ゼレベスはじっと凛さんを見つめ、握っていた剣をゆっくりと離した。地面に落ちた剣は形を崩し、じんわりと床に水として染み込んだ。
「…お前に期待をしてもいいのか」
「ゼレベス……!」
 バンダが驚いたようにゼレベスにむかって言う。ゼレベスはチラリとバンダを見てすぐに凛さんのほうを見た。
「勘違いするな。そう言って口先だけになるかどうか間を置いて確かめるだけだ。だから…何も変わらなかったり、これ以上に酷くなったら…今度こそお前を殺す」
 ああ、そうか。ゼレベスも同じ。海が大切で、愛していて。だからこそそれが穢れたり、壊れてたりしていくのを見ていたくなかったんだろう。だから、その人魚の穢れである凛さんを殺そうとしたのだろう。
 ゼレベスはそう言うと、コートの裾を翻し、ゆっくりと行ってしまった。その後ろに着く様に、バンダも一緒に。周りに走っていた緊張は、ゆっくりと解けていた。そして、アナウンスの軽快なリズムの音が館内に流れた。

『まもなく閉館の五時になります。館内に残っているお客様は速やかにお帰りください…』






 さっきまで眠っていた客は、ゼレベスたちが去ったと同時に目を覚まし、特に混乱もなく全員水族館を出て行った。俺ら四人は、水族館の入り口で少し座ってぼんやりとしていた。
「…そうですか。シーナさんは捨てられたと、彼女が…」
 凛さんがそう切り出す。シーナは話に参加する様子も無く、ただぼんやりと空を見上げていた。
「シーナさんは…お二人とほとんど同い年ですか?」
「んー…たぶん、同じだろうね。見た目的に」
「だな。精神的には結構幼いけど」
 俺達が口々に言うと、凛さんは少し考え込み、少し間を置いて話し出した。
「十年ほど前の話なんですけど…海の近くに工場があったことご存知ですか?」
「工場?」
「あ、僕知ってる。何の工場だったかは知らないけど…結構汚水とかで海を汚していたらしいよ。それが問題で、閉まっちゃったんだけどね」
 工場が海を汚した…それが、シーナとどういう関係が?
「…人魚の子供は体が弱くて少しの汚れでも病気になったり、酷い場合、死に至る場合もあるそうです」
「そうやって海が汚れている時、その子供の親はどうするんですか?」
 そう陸が聞くと、凛さんは少し俯き、小さな声で言った。
「…別の海まで行くか…陸に上げるんです」
「陸に上げるって…捨てるってことか?」
「人魚が本当に存在していることを知っている人間は少なからずいます。そういう方に預けて、大きくなったら海に戻すという形もあるそうですが…」
 シーナの場合、そんな人たちが近くに居なかった。だから、親はシーナをプールに…。
「…でも、わたしはシーナさんの母親が、好きで捨てたわけではないと思います。人魚は自分の子供への愛は深いと言われていますから…」
 俺も、そうだと願いたい。陸もそれには俺と同じように頷いていた。少し静かになったが、また凛さんが口を開いた。
「そういえば…何故三人は起きていたんですか? 歌が聞こえませんでしたか?」
「…歌? いつ?」
「えっと…わたしが叫ぶ前でしたっけ。あの女の人魚が水族館にいる人間を全員眠らせるために、歌っていたんです。人魚は歌が上手い、というか言霊…ってわかりますか? 言葉のチカラが強くて、歌にそういう意味が込められていると、自然にそうなってしまうんです」
 言霊…言葉の通りのことが起こる…不思議な力がある…とか言われてる奴か? 日本は言霊の国とか呼ばれてるってどっかの本に書かれてたな…。
「叫ぶ前は…シーナが歌ってたね」
「ああ。あの戦隊の…」
 そう俺らが口々に言うと、凛さんは少し考え込み思いついたように目を見開いた。
「あ…じゃあ、シーナさんの歌に守られたんですね!」
「…どういう意味?」
「シーナさんも人魚ですから。あの歌詞は大切なものを守る、とかそういう類いのことが込められていますから。シーナさんが自然と、お二人を守っていた…ということになると思います」
 …大切なもの…俺らが?

『きずつけないで。大切なひとなの』
『わたしを見つけてくれた大切なひと。あなたにも、いるでしょう?』

 シーナがあのバンダという男に言っていた言葉を思い出した。あの、心地よいような、不思議な感覚になった、あの。俺は凛さんに問いかける。
「普通にしゃべっていても、そういう言霊みたいな力は使えるんですか?」
「えっと…ほとんどは歌で発揮されると聞いていますが…稀に本当に守りたいものとか伝えたいことに反応して発揮されるときもあるそうですけど…ほとんどの人魚は言葉ではその力は使えませんね」
 …本当に、守りたいもの。伝えたいこと…。………あれ?
「…修ちゃん、顔が真っ赤だよ。どうしたの?」
「な、なんでもねぇっ!」
 まさか、な。そんな上手い話があるわけないしな。うんうん。きっとそうだ、きっと。
「…今日はもう、お帰りになったほうが良いと思いますよ。わたしもまだ仕事がありますし…」
 そう言い、シーナのほうを見る。相変わらず、空を見上げていた。
「シーナさんも、いろいろ考え事があるみたいですから…」
 …そうだな、と小さく頷き、ぼんやりとしているシーナのほうへ近づく。
「シーナ」
「……ん?」
 ぼんやりと座っていたシーナが俺を見上げる。
「帰ろう。疲れたろ?」
「…うん」
 ゆっくりと立ち上がり、シーナはだまって歩き出した。俺と陸は凛さんに一礼し、その後を追った。



 ゆっくりと歩いて帰ってきて、シーナは黙って一人で歩いていくので、俺と陸二人で並んでシーナの背中を見ていた。そして、俺の家の前で陸が小さな声で耳打ちをする。
「ちゃんと慰めてあげるんだよ? だいぶ落ち込んでるみたいだし」
「…わかってるよ」
「デリカシーの無いこといっちゃダメだよ。修ちゃんは何も考えずに言うからさ、女の子は簡単に傷つくんだよ?」
「わかってるっつーの! しつこいな、お前は」
 ふぅっと小さく陸はため息をつき、そのまま隣の家の門に行ってしまった。シーナは玄関の前で立ちすくんでいた。
「あ…シーナ。今開けるから」
「…うん」
 ……くっそー。何て声掛ければいいかわかんねぇ。シーナはいつも元気で笑ってるからこんなに落ち込んでるシーナは見たことがない。つーか、そういうシチュエーションにすらならないのに…なんで陸は帰るんだよっ! 妙に葛藤しながら、カギをいれ、ひねる。そして、ドアを押した。
「しゅ〜いち〜っ!!!」
 開けたとたん、突然物体が俺にタックルをかまし、俺は突然のことで混乱し、そのまま倒される。そして、顔にあたる妙に痛いザラザラしたもの。
「よーよー元気か〜? でっかくなっちまってよ〜おい」
 …こ、この声は!!!
「って親父かっ!?」
「おーよ! お前の愛するお父様だぞっ。帰ってきてやったぞ! つーか遅いぞ帰ってくるの!」
「まだ6時じゃねえか! まだまだ余裕で小学生でも歩ける時間帯だ!」
「ばっかやろー! 俺が日本に発つのは今日の七時だぞ! し・ち・じ! あと三十分しか居られねーんだぞ!」
 訳のわからないことを連発する親父をどかし、立ち上がる。親父はあいかわらずの無精ヒゲを蓄え、にんまりと笑った。
 俺の親父…久高大吉は、そこそこ有名な写真家。収入は上がり下がり激しいが、俺が生活に困らない程度の金は送ってきてくれる。ほとんどは外国にいるから、俺はこの一軒家に…母さんが死んでるから、一人住まいだが、陸の家族が飯を食べさせてくれたりと、小さいころから世話になっているので、そんなに小さい頃は寂しいと感じたことはない。むしろ…。
「相変わらず死んだ母さんにそっくりだなおい! もー抱きしめたくな…」
「やめろっつーの!」
 うざい。このいたすぎるスキンシップが。俺は一発腹にパンチを突っ込む。
「…どんだけあんたの表現するのがめんどくせぇかわかってんのかオラ…」
「ふっふっ…ケンカのときの母さんのパンチにそっくりだぞ…」
 グッジョブ! と言わんばかりの笑顔と親指を立てて言った。…相変わらず、何て言えばいいかわからねぇ…!
「…シュウ、この人誰?」
 ひょこっと俺の横からシーナが顔をだす。や、やべぇっ。今ここで出たら…!
「やあやあやあ! お美しいお嬢さん。始めまして。修一の父で、久高大吉と申します。お名前は?」
「え? えっと…シーナです」
「椎名? ほー、めずらしいお名前で! 苗字は?」
「みょう…じ?」
「あー、やめろ親父! 困ってんだろ!」
 ちゃっかり手を取ってキラキラ笑顔で言う親父を止める。親父は俺のほうを睨むように見る。
「お前にこんな可愛くて美少女な彼女を持ったなんて…仏壇で母さんに報告したか? え?」
「彼女じゃねぇっつーの! こいつは…その…」
 返答に困っている俺をじーっと怪しいといわんばかりの目で親父が見てくる。シーナも困ったように俺のほうを見てくる。この親父に、一緒に暮らしてる、なんて言ったらどうなるか…!
「おじさん、その子は東椎名さんですよ」
 そう言いながら俺の横からひょっこり現れたのは陸だった。親父は目を見開かせる。
「おーおー、陸坊じゃねえか! 元気にしてたか? だいぶでかくなったなオイ!」
「おじさんその呼び方はやめてください。もうそんな年じゃないんで」
 笑顔を崩さずに言う。親父は陸のことを『陸坊』と呼ぶ。陸は小さい頃からとにかくそれを嫌っている。
「どんなにおめぇが大きくなっても年は縮まらないからな! 陸坊は陸坊だ」
「…やめてもらおうとした僕が間違いでしたね。まあとにかく、彼女の手、離してあげてください」
「おおっそうだったそうだった。で、なんだっけ? 東椎名ちゃんか?」
 そうシーナの手を離して言った。シーナは少し後ずさりながら俺の後ろに隠れた(たぶん親父にびびったんだろう)。
「はい。僕の母の従姉妹の子供です。夏休みなんで遊びに来てるんですけど、僕の家はあまってる部屋がないんで、寝るとき“だけ”は修ちゃんの家を借りてるんです。おじさんには許可を得てなかったんですけど、彼女をしばらくここに住ませてあげてもいいですか?」
「…お、おお。もちろん! かわいい子なら大歓迎!」
 …親父、一瞬陸のあまりの早口のせいで返事できてなかっただろ…。つーか、なんで『だけ』を強調するんだよ、陸。しかし、よくもまあ笑顔を崩さず綺麗な嘘をつくな…その東っていう苗字は、俺達の学校で一番美人とか呼ばれてる人の苗字だ。なんとなく考えてることがわかる。
「つーかなんで帰ってきたんだよ、連絡無しで」
「ちょーっとだけ日本に寄れる時間ができてよ。二時間前に来たんだけどお前は帰ってきてないから陸坊の家で長話して、家で三十分もお前を待ったんだぞー」
「あっそ。つーか、もう六時半なんだけど」
 そう俺が言うと、それに合わせて陸が携帯を親父に見せる。親父は目を見開き、ぐしゃぐしゃと男にしては少し長めの髪をかきむしった。
「あーっ、もう終わりか! じゃあな修一、陸坊! 今度は一緒に酒飲もうな〜」
「未成年に飲ませるな!」
「今度はどこ行くんですか〜?」
「アラスカ! 妥当星野道夫だ!」
 そう叫び家を飛び出し、勢いでドアを閉め、見えなくなった。…なぜ星野道夫。
「知らない人は、超便利なパソコンで検索してみよう。公式サイトが見つかるぞ☆」
「…誰に言ってるんだ」
「世の中の星野道夫を知らない人たちに」
 …どうでもいい…。そんなことを思いながら、親父が勢いよく閉めたため、ちゃんとしま らずにユラユラと揺れているドアを見ながら思った。


 時間が過ぎ、一階のリビングの時計は十時を示していた。俺は風呂からあがり、ガシガシと頭をタオルで拭きながら二階にある自分の部屋に足を進めた。
  階段のほうまで行くと、階段の踊り場に影がうずくまっていた。一瞬驚いたが、すぐにシーナだということに気づいたのでほっと小さく息を吐いた。
「シーナ、どうした? 寝られないのか?」
「…うん…」
 うずめていた顔をあげ、俺のほうを見た。踊り場の壁にある窓から微量な光が射し込んでいる。
「…あのね、ちょっとだけ思い出したことがあるの」
「…何を?」
「はじめてハコにきたときのこと」
 俺は頭にのせていたタオルを肩に掛ける。シーナは変わらずじっと俺を見ていた。
「おんなのひとにね、手をひかれてるの。それでね、あのハコでわたし、およいでるの。たのしくってね、そのひともわらっててね。そしたらね、そしたらね…いつのまにかそのひとがいなくなってるの」
 シーナはきゅっと胸元の服を掴み、うつむきながら続ける。
「だれかおぼえてないのに、かなしいの。とっても、とってもかなしいの…。あのひとに言われておもいだしたのに、かなしいの…」
 ぽたり、ぽたりと涙が頬を伝い、落ちた。それを綺麗だと感じたとき、心底自分が嫌になった。
「さいきんね、うみにいきたいけど、このままずっといるのもいいのかなって思ってたの。シュウがいて、リクがいて、とってもたのしくて…でも…」
 手の甲で涙をふき取り、でも涙を目に溜めながら顔を上げた。
「やっぱりね、いかなくちゃいけないっておもったの」
 その言葉を聞いたとき、俺は何を言えば良いかわからなくて。シーナがはっきりといつかここから居なくなる、と言ったのは初めてだったから、無性にさみしさが生まれたんだ。 思考回路が停止しているのに、無理矢理動かしてでてきた言葉は。
「それで良いと思う。お前が…選んだなら」
 こんな感情のない言葉がでてきてしまった。



 電気が点いていない自分の部屋を手探りで歩いて、机のスタンドのスイッチを押した。部屋はぼんやりとしたオレンジ色の光で包まれた。
「修ちゃん」
 窓のほうから陸の声が聞こえた。俺は窓を開けると、向かいの家の窓から手を窓枠に掛けている陸がいた。
「シーナは?」
「…寝た」
「そう」
 しばらく沈黙が続いた。陸は少し首を傾けながらにっこりと笑った。
「その様子だと…シーナに何か言われた?」
「…鋭いな」
「そりゃ、そんだけ暗いとね」
 どこまでも図星なので、白状することにした。
「シーナが…海に帰るってよ」
「…いますぐに?」
「んなことは言ってないけど…」
 俺はなんだか陸と視線を合わせるのが妙に気まずくて、視線をそらした。視線の先は星の光が見えない空があった。
「じゃあさ、せめて…夏休みの最後に、一緒に行ってあげようよ」
「…なんで」
「僕らが一番、シーナと一緒に居られるからだよ。まあ、海水浴シーズンが少し抜けるってのも理由の一つだけどさ」
 俺はそれを聞いて、ゆっくりとサンに乗せていた腕に顔を埋めた。
「…今更だけどさ。俺、夏休みが嫌いなんだ」
「…本当に今更だね。というか、言うの初めてじゃない?」
 俺は小さく頷き、理由を続けた。
「俺らが普通に、学校へ行って勉強するのを、『日常』だとしたら、夏休みとかは『非日常』だと思うんだ。結局、今『非日常』にいるなら、いつか『日常』に戻らなくちゃいけない」
 結局、終わりがあって。俺は思い出をのこして、終わることが嫌いなんだ。どうして、楽しいと感じることは終わりがあるのか。それは、ずっと思っていたことだった。
「うーん、そんなことたくさんあると思うけどなぁ。僕らの感覚で言うと、クラスが変わったり、隣の席の子が変わったり。…違う?」
「…よくわかんねぇ」
「自分で言ったくせに。終わりがあるから人はがんばるんだよ。そのために人生が存在するんだよ。…だからさ、がんばろうよ」
「…何に?」
俺は埋めていた顔を上げると、陸は歯をみせってにかっと笑った。
「楽しむことを。自分の思い出を作るためじゃなくて、シーナが思い出を作るために。僕たちが、楽しませてあげることを考えようよ。…いつかさようならをするのは、誰でも寂しいんだからさ」
 陸がまともなことを言うので少し驚いたが、今回は素直に頷いた。
 シーナのために、思い出を作る。今の俺にぴったりで,少しでも、シーナの悲しみを晴らしてあげるにはもってこいだと思った。

「…サンキュ、陸」
「いーのいーの。修ちゃんが暗いと、気持ち悪いしね!」
「…なんか引っかかるけど…まあいいか。俺はそろそろ寝るよ」
「うん。おやすみ〜」
 手を振る陸を最後に見て、窓を閉めた。
 少し気持ちは晴れたけど、やっぱりちょっとはまだ寂しさがこびりついている。そう思ったら、また陸に何かを言いたくなって、窓を開けかけたけど、それを抑えるためにスタンドの光を消した。


 僕は修ちゃんの部屋の窓が閉まり、スタンドの電気が消えるのを見送った。
 そして少し目をつむり、ゆっくりと目を開けながら空を見た。毎日なんとなく見ているけれど、結局いつも、空に星を見つけることはできない。僕は誰にも聞こえないような小さな声を出した。
「ああ、神様。聞いてください」
 信仰心のかけらもくずもない僕が、あなたを呼ぶのは自分でもどうかと思うけれど。
「みんながみんな、ただ楽しく生きることはできないんですか?」
 一人は寂しい思いを、一人は悲しい思いを抱えていなくては、楽しく生きることは出来ないんですか?
「でも、この暑い夏の間だけは」
 セミが遠くで小さく鳴いている。湿り気のある空気が、僕にまとわりついて離れない。
「それを忘れさせるぐらい、楽しく過ごさせてください」
 あの二人のためにそんなことを願っている僕は、お人よしですか? この問いと願いの答えも誰からも返ってこないことも、知っているのに。
  僕は外からの月と歩道の電灯のぼんやりとした光と、暑く、湿り気を交えた空気をゆっくりと、窓を閉めることで遮断した。




―9―




 目を覚ましたとたん、蒸し暑さがまず感覚としてきた。タオルケットを蹴っ飛ばし、起き上がる。布団の脇に置いてある目覚まし時計は、八時を指していた。
階段をゆっくりと下りて、リビングへ行くとシーナがソファでぐてーっと転がっていて、テレビのチャンネルを適当に押しまくっていた。シーナは俺の存在に気がつくと、にこっと笑いかける。
「おなかすいた」
「…あいさつは無いのか、お前は」
「えへへ〜、おはよう。おなかすいた」
「……わかったよ」
 俺は台所へ足を向けると、シーナも俺にくっついてきた。

「…お前…食いすぎ」
「ん?」
 バクバクと目の前で食べまくっているシーナに思わず言った。さっきまでパンパンに詰められていた六枚切りの食パンは、あっというまにシーナの腹の中に収まっていた。すでにシーナは、いちいち買いに行くのがめんどくさい、ともう一袋買っておいたパンの半分の三枚目に手を伸ばしていた。ありったけのイチゴジャムを塗りまくって。俺はコーヒーを飲みながら、すこし吐き気を覚えた。
「どこに入っていくんだ、そのパンは」
「おなか〜!」
「…馬鹿にしてるだろ、お前」
 ふぅ、とため息をつきながらコーヒーを飲み干した。シーナは手についたパンクズを舐めとりながら満足そうに笑う。
「あしがない時はね、おなかすかないんだけどね、あしがあるとおなかとってもすくの。だからたくさんたべるの」
「食べないとどうなるんだ?」
「たおれる」
 …当然の答えなのに、聞いた俺が馬鹿だったのか? そう思いながら、ポケットを探った……お目当ての四角いものは出てこない。思わず頭を抱えため息をつく。最近、よくそんな感じで空回りしてしまう。一週間、携帯と離れて生きていたが、やっぱり今時の若者なのか、限界がきている。
「携帯買いにいかなきゃなー…」
「? けいたい? わたしもいく!」
 一瞬頷きかけたが、待てよ、という言葉がでてきた。これからシーナを俺が行くところ全部に連れて行けるかわからない。それなら、こいつが少しでも『お留守番』に慣れなくてはいけない。だから…。
「だめだ」
「!? なんで!」
 …物分りが悪いこいつに、ちゃんと理解させなくちゃいけない。

「だから、な!? いつでもお前と俺が一緒に行動できるなんて根拠ないんだっつーの!」
「やだやだやだ! 連れてって!」
「だー、うっせー!」
 一通り…いや、それを三回繰り返して説明したが、納得できないようで俺の腕をブンブンつかんで振り回す。…よくこういう物分かりの悪いガキに振り回されて困ってる母親を見たことがあるぞ…。頭をガシガシと掻くと、一つ、いい考えが浮かんだ。
「お前が欲しいもの買ってやるから、とにかく留守番しろ!」
 ピタリ、と俺の腕を振り回すのをやめた。少し考え込むとキラキラした表情で俺のほうを見上げる。
「…ほしいもの…あまーくて、つめたーくて、おいしーくて…おいしいもの!」
「…食い物か」
「うん!」
 …こいつ、食い意地が張ってきてるような…そんなに、腹が減るのか。
「わかったよ。買ってやるから、大人しく留守番だ。OK?」
「オーケー!」
 …果てしなく不安だ…。くるくるとご機嫌で踊りだしたこいつを見て思った。

「良いか? 誰かがピンポン押しても、外に出たらダメだぞ?」
「うん!」
 俺はキツく靴紐を結ぶ。
「冷蔵庫開けっ放しにするなよ? 開けたらすぐ閉めるんだぞ」
「うん!」
 立ち上がり、靴の先をトントンと地面に叩く。
「ガスコンロの火、つけるなよ。火事になるからな」
「うん!」
 玄関の扉の取っ手を掴みひねろうとしたがもう一度振り返る。
「冷蔵庫の中の飲み物で缶があるんだけど、あれはビ…」
「もーっ! シュウしつこいよ! わかったから、あまーくてつめたーくておいしーいもの、かってきてね!」
 …過保護すぎる…か? 今日は陸が家族で用事があるから一日いないのだ。陸に少し様子を見てもらおうとか思っていたけど、どうも上手くいかない。
「…じゃあ、行ってくるからな」
「いってらっしゃ〜い」
 手を振ってくるシーナを最後に見て、俺は玄関の扉を閉めた。火事とか強盗とか、そういうなかなか起こらない事に不安があったけれど、まさか、あんなことになるとは。

「おるすばん〜♪ おいしいもの〜♪」
 ウキウキといわんばかりにリビングに戻り、ふんわりとふくらんだソファに飛び込んだ。寝そべりながら伸びをすると、体は余計に沈んだ。
しんと静まり返った部屋。時計の音がいつも以上に大きな音で耳に入る。少し体をこわばらせる。
「……しずか……」
 そう小さくつぶやくと思い切り首を横に振り、立ち上がる。ゆっくりと歩き、台所のほうへ行き、冷蔵庫の前に立つ。扉を開くと、中の並々と麦茶の入ったガラスで出来た水筒がガチャンと揺れた。じっと中を見つめ立ち尽くしていた。しばらく経ったら突然糸が切れたように座り込んだ。唇を噛み締めじっと冷蔵庫からの冷気を拒むように縮こまっていた。

『いつでもお前と俺が一緒に行動できるなんて根拠ないんだっつーの!』

「…さみしくないもん」
 その言葉は響かず、静かに消えた。しばらくうつむいていたがまた首を横に振り、顎だけ冷蔵庫にかけた。途端に目に入ってきたのは銀色の、大量の缶。それを手を延ばし掴み、じっと見つめる。
「…なんだろ、これ」
 かちり、と人差し指を当てるとプシュッと炭酸の抜ける音がした。
 それは大変なことに発展する、始まりの音。


「やっと買えた…」
 トボトボと歩きながらつぶやいた。選ぶのはめんどくさいし、手続きも(俺的に)めんどくさい。けっこう時間がかかり、買い物とかいろいろしてたら倍以上に時間がかかった。
「シーナ、大丈夫かな…」
 なんか変なことしていなければいいが。そう思いながら陸の家を過ぎ、俺の家の玄関にたどり着く。…うん、家は無くなってないな。ゆっくりドアの前に立ち、鍵を差込み、ひねる。開いたという合図のガチャンという音を確認し、ドアを開けた。
「ただい…」
「シュウおかえりーっ!」
 …あれ? デジャビュ? そんなことを思いながら、俺につっこんできたのはシーナ。
「ただいま…ってくさっ! お前酒くさっ!」
「えへへ〜お酒くさい〜」
「笑い事じゃねぇっつーの! 
 とにかく立ち上がったが、首にシーナはぶらさがったまま。重い…。そのまま構わず家に上がり、リビングを見ると、俺は途端に頭痛がした。
「…お前…何してたんだ…」
「あそんでた」
 どんな遊びだ。またクラッと頭痛がくると、突然首が絞まる。
「シュウ、あそぼ〜!」
「ちょっ、おまっ、絞まってる、絞まってる!」
 とにかく首にぶらさがったシーナをはずし、ソファに座る。シーナは俺の膝の上に寝転ぶ。
「ねーむーいー…」
 俺が声をかける間もなく突然ねむり、俺のズボンをギュッと握り、離そうとしない。俺が途方にくれていると、ガチャリと玄関のドアが開く音が。しばらくするとトントンとリズムの良い足音が近付いてくる。
「修ちゃーん、おみやげ買ってきた…」
 まんじゅうと大きく書かれた紙袋を持った陸は言葉を失った。しばらくだまりこみ、じっと俺を見ながらつぶやいた。
「…何があったの、修ちゃん」
「…俺にもわからん」
 ぐちゃぐちゃになっている部屋、リビングの机に何本も置かれた空のビールの缶。そして、俺の膝でベロベロに酔っ払って眠り込んでいるシーナ。その様子を見て、思わず陸が俺に聞いてくるのは、しかたがないと思う。陸は紙袋を机に置き、そして空のビールの缶を一つ掴み、耳の横で軽く振る。
「…よくこんなに飲めたね…というか、なんでビールがあるの?」
「…親父だよ。昨日言ってたろ? 酒飲もう〜って。たぶん、そのために用意してたと思う…」
「修ちゃんはお酒飲むとめちゃくちゃ、この世のものとは思えないほど愛想が良くなるからね〜。…あれはすごかったなぁ…」
「…やめてくれ」
 昔、親父と陸に(二人で手を組みやがって)騙されて酒を飲まされたことがある。そこらへんの記憶はカケラも何も無いのだが、とにかく愛想がいいというか、爽やかに笑い続けていた…らしい…自分だけれど、想像するだけで気持ち悪い。
「しっかし、お留守番なんて、無理させたねぇ」
「…しかたねぇだろ。いつでも、いっしょに…」
 居られるわけ、ないんだから。そう言おうとしたけど、なぜか出てこなかった。陸が大げさにため息をつく。
「あいかわらずバカだね」
「…あ?」
 ムスッとした顔で俺に言い切った。言うと、俺の隣に座り、シーナを覗き込んだ。
「…寂しかっただろうね〜。一人で置いてきぼりだったんだから」
「…うっせーな」
「別にさ、修ちゃんがいっしょにいてあげたいって意志があれば、いつでもいっしょに居られるんじゃないの?」
俺は思わず目を見開いた。なんだか、びっくりしてしまったから。陸は俺を覗き込んだ。クリッとした瞳と視線が合う。
「寂しいってこと、一人がものすごく辛いことって修ちゃんは知ってるでしょ?」
 そう言われてぼんやりと昔の映像が浮かび上がったけど、頭を振って、消した。今は思い出している場合じゃないから。
 少しだけ肩の力を抜いて、シーナを見下ろした。規則的な寝息をたてて、俺のズボンをギュッと握り締めていた。そんな眠り続けているシーナの頭の上にポンポンと手をのせた。こいつが起きたらまた、大騒ぎになるんだろうな…。でも、不思議と嫌な感じはしない。きっと、これが今の、俺の日常になっているんだろうから。
「…なんか修ちゃん…」
「ん?」
「お母さんみたいだね」
「黙ってろ」
 思いっきり否定できない自分が、少しだけおかしかった。




―10―




 みなさん、こんにちは。小笠原陸です。いつもは修ちゃんが考えていることがみなさんにダダ漏れしていると思いますが、今回は僕が、視点になりますのでお付き合いください。
 あの酔っ払い事件から少し経ち、八月近くになりました。修ちゃんは反省したのか、してないのか。でもシーナと一緒にいることが多いです。相変わらず喧嘩してるけど。でもシーナはそれが楽しそうで、とっても嬉しそうです。女の子が楽しそうにしているのなら、何も言うことはないので。
 まあ何週間も経てば、噂が出てくるのはしかたないよね。『あの修一君が女の子と同棲し始めた』とか『その女の子がとっても美人らしい』とか『その子に尻に敷かれてるらしい』とか。真実を知ってる僕はホントおもしろ…え? お前が噂を広めたんじゃないかって? も〜、そんなわけないじゃないですか〜。(にこにこにやにや)
 ま、それはそれで置いといて…。そろそろ、みんなが活気づいてくるころ。太陽も、人も、商店街もこの崎真市全体が、ただ電柱や掲示板に張られて、ピラピラと風に揺れている紙を見るだけでみんな笑顔になる、元気になる。
 『夏祭り』―――それは、僕たちも例外ではなく。

「あ、りく! おしえて! これ、なんて書いてあるの?」
 修ちゃんの部屋に入ったとたん、シーナが黄色の紙に印刷された『夏祭り』と書かれたチラシを僕に見せ付けてきた。
「夏祭りって書いてあるんだよ」
「なつまつり……って、なに?」
 がくっと思わず肩が下がった。…本当に知らないことばかりで、本当に子供みたいだ。だからこそ…。ふふっと思わず笑みがこぼれた。

 からかいたくなる。

「じゃあ、シーナちょっとこっち来て」
 そう手招きしながら言うと、素直に僕のほうに寄る。それを確認し、そっと耳打ちする。頭の中で言葉が作られ、口に運ばれ、耳へ伝わる。言葉が伝われば伝わるほど、シーナの瞳は大きく見開かれ、キラキラとした表情になる。僕は耳打ちをやめるとシーナは本当に嬉しそうな表情で僕を見る。
「おまつりって…すごいんだね!」
「そうだよ〜。…行きたい?」
 そう聞くと大きく頷いた。そのとたん、後ろのドアが開く。
「ん? 来てたのか」
「あ、修ちゃん。どこに行ってたの?」
「回覧板を渡しに隣の家に行ってた」
 少し汗をかきながら言うと、僕を軽くどかし扇風機の前に座った。
「修ちゃん、トイレ借りていい?」
「ああ、いいぞ」
 そう言いドアノブに手をかけると、ずっとチラシを見ていたシーナが修ちゃんのTシャツを引っ張る。
「ねえシュウ! りくから聞いたんだけど…」
  そうシーナが切り出したのを聞き、口元の笑いをおさえながらトイレに向かった。

「おい、陸!」
  トイレから戻ってきたとたん、修ちゃんの声が飛び込んできた。
「あ、修ちゃん。どうしたの?」
「どうしたのって…お前何をこいつに教えたんだよ!」
 そう言いシーナを指差す。シーナはいまだにキラキラした瞳で僕を見ていた。
「おまつりって、みんなで火をくわえて、リンボーダンス? っていうのをしながら道をず〜っと歩いてさいごにはトマトをなげあうんでしょ?」
「どこにアフリカとスペインとカーニバルを混ぜた祭りが存在するんだ…!」
  思ったとおり、いい答えをかえしてくれるなぁ…。ここでもう一押し。
「その気になればいけるんじゃない? トマトなら冷蔵庫に入ってたはず…」
「そういう問題じゃねえっつーの! お前、ちゃんと正しいこと教えろよ!」
 そう修ちゃんが言うと、シーナはまた首を傾けこっちを見る。しかたないなぁ、という感じで笑う
「ごめんね、シーナ。本当の『夏祭り』はね…」
 『夏祭り』は……あれ? 僕はそのまま口を開けたまま思考回路が停止する。
「? おい、どうした」
「ん、いや…あの…」
 僕は頬を少し掻いて、修ちゃんを見る。
「夏祭り…って、何のためにあるんだろうね」
「…はぁっ!?」
 修ちゃんが驚いた表情で僕を見る。そんな目で見られても…ねぇ。
「ねえシュウ〜けっきょく、なつまつりってなんなの?」
「あ…う〜ん…食い物がたくさん食える!」
「!? ホント!」
 …結局、修ちゃんもわかってないんじゃないかな…。そんなことを思いながら窓の方を見る。

『――たとえ、この体から―――いつまでも心に残るように―――夏祭りがあると思うわ』

 …あれ? 何か、聞こえた。懐かしい声がした。思い出せそうで、思い出せない。なんだろう、このもどかしい気持ち。思い出さなくてはいけないような気がするのに。
「おいしいものー! はやくいこー!」
「待てって! 祭りは明日だからちょっと落ち着け!」
 …まあ、いつか思い出せるかな。…でもホント、夏祭りって何のためにあるんだろう。


 空はオレンジ色に近付いていて、道行く人みんな、楽しそうな表情で歩いていた。僕たち三人もその流れに乗って歩いてた。
「う〜ん、浴衣着ればよかったかな」
「お前、着方わかるのか?」
「ううん。姉さんは知ってるんじゃないかな」
 しばらく、というか一ヶ月ほど会っていない姉の姿を思い浮かべる。(シーナと会う寸前に一回アパートまで行ったけど留守だった)相変わらず、何をしているんだか。
「おまつりおまつり♪ たのしみだな〜」
 ルンルン気分という感じでシーナは軽くスキップをしていた。本当に楽しみらしい。
「打ち上げ花火も上がるから楽しみだね」
花火が上がるのは川が通っている隣町なんだけれど、この町からも見えるから、ほとんど隣の町で開催される花火大会に便乗したような夏祭りだと僕は思っている。
「修ちゃん、射的しようよ。というか、PSPとって」
「そういうゲーム機系は必ず重しが縛り付けられてるから嫌だ」
 けち。小さく言ったけど無視された。ふいに、ソースの香りが鼻をかすめた。目の前には神社の石段が。そして、たくさんの露店が並び、人がごった返していた。
「いや〜、相変わらず凄い人だかり。何か知り合いに会いそうだね」
「まあな。それにここではぐれたらやばいから、一人になったら一回ここに集まるんだぞ、シーナ…ってあれ?」
 修ちゃんの隣に居たはずのシーナは忽然といなくなっていて。もう石段を駆け上っていた。
「おいしいもの〜!」
「勝手に単独行動に走んじゃねー!」
 修ちゃんが思わず叫ぶ。これまた大変なことになりそうだ…。そう思いながら見ていると、カランカラン、と下駄の音が響いた。
「あれ? 久高に小笠原君じゃん。ひさしぶり〜」
 そう言われ、僕と修ちゃんは振り向くと、見知った顔が二つ。
「…おい戸塚、何で俺だけ呼び捨てなんだ」
「んー…キャラ的に?」
 そういいケラケラと笑うのは紫の大人っぽい浴衣を着た戸塚陽菜さん。新聞部で、顔はそこそこ美人なんだけど、僕らの高校に通っている人の学校生活をぶち壊すようなことを一つは必ず知っている恐ろしい人で、モテているという話は聞いたことが無い。
「…と、福井。久しぶりだな」
「ひ、久しぶり」
 戸塚さんの後ろに少し隠れるようにいるのは、オレンジの綺麗な色の浴衣を着た福井菜々絵さん。同じクラスで、けっこうサッパリした子。修ちゃんとなんかよく口ゲンカしているのをよく見る。(止めるのは僕か、学校のチャイム)
「浴衣着てんだな。お前が着るとは思ってなかったけど」
「うっ、うるさいな! じろじろ見るな変態!」
「へんたっ…! お前なんか別に見たくねえよ!」
 途端に口ゲンカに勃発。相変わらずだなあ…。ちょっとため息をついて、戸塚さんのほうを見ると、なんだかニヤニヤ笑っていた。
「なに笑ってるの?」
「ふふふ…あ、小笠原君に聞いたほうが早いよね」
「何を?」
 そう言うと、すーっと僕の隣に寄った。
「久高って、誰かと付き合ってる?」
 ……は?
「そんな様子は無いみたいだけど…」
「ホントッ! ラッキーじゃん!」
嬉しそうに両手を合わせる。…え? え? どういうこと?
「戸塚さん、修ちゃんのこと好きなの?」
「へ? やーだっ、あたしなわけないじゃん!」
 どっかのおばさんみたいに、手を前に倒す。
「菜々絵よ。な・な・え!」
 体が硬直した。まだ口ゲンカをしている福井さんを思わず凝視する。
「…ホント?」
「もちろん、本人確認したよ。これは百%大当たり♪」
 …初めて修ちゃんに惚れている人知ったよ…。
「久高はね〜そこそこモテるのよ。ま、小笠原君には及ばないけどね」
「褒められているのかよくわかんないけど、とりあえずありがとう」
 ということは、口ゲンカしているのは、ほとんど照れ隠し? けっこう意地っ張りな子ってこと? 
「夏祭り…それはいつもと雰囲気が違うことを利用して、女は男を、男は女を落とすためにあるもの! この二人、確実にくっつかせる…!」
 目が燃えてる。というか、楽しんでる?
「福井さんが戸塚さんに頼んだの?」
「頼まれて無いわよ。でも、わたしに好きな人を教えるってことは、わたしが恋のキューピッドになれということでしょ?」
 …そんなことは無いと思う。誰かに相談したかっただけだと思うけど。修ちゃん、たぶん鈍いと思うから…。
「も〜、疲れる…」
「こっちだって疲れる…」
 二人がふらふらしながらこっちに来た。やっとケンカが終わったみたいだ。
「は〜、腹減った…って、あいつは!?」
 キョロキョロと見回すけど、修ちゃんの求める姿は見つからない。修ちゃんは大きくため息をつく。
「マジかよ…」
「探すしかないねえ…」
「誰か連れでもいるの? 学校の子?」
 戸塚さんが首を傾げて聞いてくる。あっ、やばい! 修ちゃんのことだから…。
「あ? 違う。一緒に暮らしてるおん」
「わーわーわーっ! 僕の従姉妹の女の子! 小学生なんだ!」
 思わず修ちゃんの口を塞ぎ、二人に向かって叫ぶ。明らかに女って言おうとしてたよ…! 二人はきょとんとした表情で僕を見ていた。
「むがっ…なんだよ、陸!」
「いいからさっさと探してきて! 早く!」
 そう言い無理矢理修ちゃんの背を押して人ごみの中に突っ込ませた。…これでOK。
「…なんか隠してない?」
「何にも隠してない、隠してない! その小学生の子、今迷子になっちゃっててさ!」
 そう言うと、二人とも驚いた表情で目を見開かせた。
「うっそっ! それ大変じゃん!」
「そうだよ! 結構人たくさん居るし…最近変質者とかもいるし…」
「えっ、いや…」
 なんとか言おうとしたけど、二人の目は真剣に。
「あたしたちも探してみるよ! どんな子?」 
「いや…修ちゃんがすぐ見つけると思うし…」
「保険よ、保険! どんな服?」
 戸塚さんがずりずり寄ってきて、たじたじ。…まあ、僕らと同じぐらいの年だし、見かけてもわからないか…人も多いし。なんとかなるかな…。
「スカート穿いてて…髪は肩ぐらいかな…」
「よし、わかった! 行こう、菜々絵!」
「うん!」
 そう言うと、浴衣なんか気にしないで走っていってしまった。……よく考えたら、戸塚さんに見つかったら、修ちゃんがどんな弱み握られるかわかんないし、福井さんに見つかったら失恋? 状態だし…これは先回りして、見つけなくちゃ…!




―11―




 しばらく走り回ってみたけど、なかなか見つからない。どこに行ったんだろう…? 人ごみがあまりにもあって、暑苦しい。僕は抜け出すために少し脇に抜ける。少しよろけながら出ると、風車屋の前に来ていた。風は無いから、風車は静かに並んでいた。キョロキョロと周りを見回すと、見慣れた後姿を見つけた。修ちゃんだ。その隣には、笑顔で林檎飴を舐めているシーナの姿。修ちゃんたちの周りには、戸塚さんと福井さんはいなかった。
 ほっと一息ついた。これでなんとか…。

 カラン、カラン。

 下駄の音が、響いた。とたんに、風が吹き出した。黙り込んでいた風車はそれが合図のように、色を混ざり合いゆっくりと回り始めた。横を見ると、じっと修ちゃんとシーナを見つめる福井さんの姿があった。
「…あ、福井さん」
 名前を呼んでも、反応は無い。しばらく無言のまま時が過ぎた。でもゆっくりと口を開いた。
「…あの子…」
「いやっ、あの子と修ちゃんは別にどうこうある関係じゃ…!」
「いいの。…いいの」
 そう言いすぐに体の向きを変え、修ちゃんたちに背を向けた。
「わかるよ。すっごくお互いに大切にし合ってるなあって、思うから」
「…なんで?」
 表情は見えないからわからないけど、少しだけ、ほんの少しだけ肩が震えているように見えた。
「…ずっと見てたから」
 僕は何も言えなくなった。余計な言葉で慰められるほうが辛いだろうって、思ったから。  そのまま、福井さんは歩いて行ってしまった。なんだか、彼女の夏祭りが、哀しいものになってしまったことが、僕にとっても哀しかった。
 空はもう闇に包まれていた。反対に、祭りのぼんぼりも明るい色を放っていた。僕はそこから逃げるように、『いつもの場所』に走っていた。


「お〜い、陸!」
 『いつもの場所』っていうのは、打ち上げ花火が綺麗に見える絶好の場所…と行っても近くの公園の、山形になっていて、トンネルがついている遊具だ。でも、みんな祭りでいないから、静かで一番良い場所だと、僕と修ちゃんは思っている。手を振る修ちゃんと、やきそばをすすっているシーナ(他にも焼きとうもろこしとか、お好み焼きとか脇に置いてあるけど)が頂上にいた。僕は手を振り返し、そのまま手を使わずに頂上に上った。
「…お前ホント食いすぎ。俺の小遣い無くなっちゃったじゃねえか」
「お金はつかうものって、だれかいってたよ」
「貯めるもんでもあるんだよ、バカ」
「バカっていうなぁっ!」
 シーナはそういうと、手首に下げていた水風船をバシバシ修ちゃんに当てだした。…なんだか、そんな二人を見てると、福井さんが言っていたことは、あながち間違っていないと
思った。やっぱり、修ちゃんの、学校での態度と、シーナに対する態度が違うんだなって今更ながら気づいた。
「…リク、なんかボーッとしてる」
「え? …大丈夫だよ。心配するようなことじゃないよ」
 シーナに笑顔を向けて、座り込む。当てられた水風船が割れて水浸しになった修ちゃんが、Tシャツをしぼりながら僕のほうを見た。
「ぎりぎり間に合ったな、陸」
 そう言い、夜空を指した。
「もう上がるぞ、花火」
 えっ…。フラッと頭が揺れた。重なった。似た顔の女の人と修ちゃんの顔が。そうだ、昨日少しだけ聞こえた、あの声の人。修ちゃんのお母さん。
  そうだ…あの日も、今日みたいに少しだけ風のある、夏祭りの日だった。


「おばさん」
 走ったせいで汗が頬をつたる。真っ白でベッドしかない部屋に、見慣れた綺麗で長くて黒い髪が、窓から吹く風で揺れていた。ゆっくりと窓のほうに向いていた顔が僕のほうに向いた。
「あら、陸ちゃん。どうしたの? 修は?」
  そう聞かれ、ぼくは息を整えて質問に答えた。
「修ちゃん、風邪、ひいちゃって…だから、来れないの。でも、大丈夫だよ。僕のお母さんが看てる。熱も下がってきてるって言ってた」
 そういうと、ほっとした表情になったけど、やっぱり少し寂しそうだった。僕はすぐにベットの脇により、右手に握り締めていたものを差し出した。
「これ、買ってきたんだ。僕のお金じゃなくて、修ちゃんのお金なんだけど。ずっと貯めて たんだよ。おばさんに買ってあげるんだって。でも、風邪ひいちゃったから…」
「陸ちゃんが代わりに買ってきてくれたのね。ありがとう。綺麗な風車ね」
 からからと音を立てて、ピンクと赤が混ざり合い、回る。それをうれしそうに見つめていた。
「陸ちゃん、間に合ってよかったわね」
 突然そう言って、窓のほうを指差した。
「ここはとっても綺麗に見えるらしいわよ、花火」
 そう言ったとたん、光輝いた花が夜空に咲いた。僕は驚き、嬉しさのあまり思わず窓のほうに寄り、身を乗り出すように見た。
「…よかった」
 小さく、おばさんがつぶやいた。僕はおばさんのほうを見ると、本当に嬉しそうな表情で花火を見つめていた。
「修と陸ちゃんが買ってくれた風車と、綺麗な花火。おばさんも、夏祭りが過ごせたわ」
「…おばさん、まだなんにもしてないよ。林檎飴、食べてないし、盆踊り踊ってないし、射的もしてない! その前に、お祭りに行ってない」
 そういうと、ふふっと小さく笑って風車を指で回した。
「いいのよ、それで。おばさんはとってもうれしいのよ。夏祭りって楽しくて、嬉しくて、素敵なもの。今、そんな気持ちなの」
 指で回すのをやめ、僕のほうを、いや、花火を見つめた。
「たとえ、この体から魂が抜けてもうどこにもいけなくなっても、この気持ちを忘れないように、いつまでも心に残るように」
 大きな、青色の。まるで朝顔のような花火が咲いた。青い光が、おばさんの顔を射した。
「そうやって、楽しいことをたくさん知って、生きることを恐れずにいれる。それを知るために、夏祭りがあると思うわ。……陸ちゃん、お願いがあるの」
 そう言うと、僕を手招きした。僕はとことこと歩いてベッドの脇に近付いた。そして、おばさんは僕の頭にゆっくりと手をのせた。
「修のそばにいてあげて。おばさんは修が満足するほど、一緒に居られるとは思えないから」
「おじさんは?」
「おじさんは…好きなことがあるから。やらなくちゃいけないことがあるから。…そういう人なのよ」
 そう言って、おばさんは少し照れたような表情で笑った。
「陸ちゃんにはちょっと、わかんないかな?」
 …ううん。僕はわかったよ。おばさんと過ごす夏祭りは、最後だということ。それを、おばさんはもう知っているということ。そして…そして…。
 修ちゃんが一人になってしまう可能性が、あるってこと。
 一番大きな音を立てて、花火が大きく花開いた。赤くて、眩しくて、まるでおばさんの手に握られて、ゆっくりと回り続けている風車みたいだった。


「りく! すっごくきれいだよ!」
 はっと意識が戻ると、シーナが僕の肩を揺らして興奮した顔で見ていた。夜空に何度も花が咲いて、散る。
「…どうした、陸。本当に変だぞ、何か」
「うん? …うん。思い出したから」
 思い出が、帰ってきた。なんで、ずっと忘れていたんだろう。そして、同時に…。
「何を思い出したんだ?」
 覗き込むように言ってくる修ちゃんに向かって、にっこり微笑んだ。
「夏祭りは僕らの人生を彩るためにあるんだってこと」
 思い出が帰ってきたように、シーナもいつか、帰ってくるって、信じていいんじゃないかなって、思えたんだ。これが…おばさんの時のように、永遠の別れなんかじゃない。これがおばさんの時のように、最後の夏祭りなんかじゃないって思わなくて良いと思えたんだ。
妙な満足感を覚えながら、空を見上げた。修ちゃんがよくわからない、って顔をしてるけど何も言わないでおこう。鈍い修ちゃんでも、いつか気付きますようにって、願いながら。



「…そっか。久高にね〜」
「…うん」
「なんだか、嬉しそうね」
「え? …うん、そうかもしれない」
「何で?」
「だって……久高、笑ってたから」

 楽しそうに。嬉しそうに。それで、十分だよ。




―12




 八月十五日。終戦記念日。そしてお盆。
 思い出が帰ってくる日、そして…魂が帰ってくる日。


 部屋の窓をゆっくりと開ける。朝なのにもう、昼並みの日差しが俺を射した。少し目を細めながらその日差しの先を見ていると、向かい側の窓―――陸の部屋の窓が開いた。窓を開けた陸は俺のことに気づくと、いつもの笑顔を俺に見せた。
「あ、修ちゃん。おはよう」
「…おはよう」
 寝起きの姿で着替えてもいない、髪ははねたままの俺とは違い、陸はしっかりと身支度をすませていた。
「今日はお盆だね〜。修ちゃんの予定は?」
「…特になし」
「…はあ…また?」
 俺がそういうと陸は、あからさまなため息をつく。
「毎年毎年、よくお盆に予定が無いって言えるね。本当に日本人?」
「…失礼なこと言うな。お前こそ予定は?」
「いつも通り、親戚一同で集まるよ。夕方ぐらいには帰ってくるかなぁ」
「ねえシュウ。おぼんってなに?」
 予想してなかった声が下のほうから聞こえる。ぎょっとしてみると、首を傾げながらシーナが俺を見上げていた。シーナは驚いている俺をお構いなしに、窓のサンに手をのせて陸のほうを見た。陸も少し驚いていたが、すぐに笑顔になる。
「あ、おはよう。シーナ。今日は早いね」
「えへへ。えらい?」
「うん。偉い偉い」
 そういうと嬉しそうに笑った。笑い終わるとまた首を傾げ、俺と陸を交互に見る。
「おぼんって…台所にあるもの?」
「それは食事を運ぶお盆だ。お盆ってのは…死んだ人たちが帰ってくる日…だったよな?」
「うん。ゾンビが帰ってくる日。墓からウガーッて死んだ人が…!」
 陸が余計なことを付け足すと、シーナはひいっと声を出した。そんなシーナの頭を軽く叩いた。
「アホか。体ごとじゃなくて、魂だ。魂。」
「たましい?」
「そう。心っていうのか? そんなもんだ」
 そういうと理解したのか何度か頷いた。…大丈夫か?
「それで、その魂を迎えるってのが目的だな」
「シュウも、だれかおむかえするの?」
「う、それは…」
 俺が答えをつまらせると、陸がにやりと笑う。
「もう十年ほど迎えてないよね〜。玄関からクーラーの冷気が逃げないように扉を閉めて、門前払いをず〜っと飽きずに続けてるんだよ」
「シュウひどい! せっかく来てくれてるのに…!」
「ホント! 修ちゃん、どうしてそんなひどいことするの! ホント、日本人の風上にも置けないわ!」
「女言葉を使うな、陸。そして俺を日本人の風上に置くな」
 大きくわざとらしくため息をついて、俺は頭を掻いた。…しかたない。
「わかったよ。今日は墓まで迎えに行ってやる」
「お〜、やっと日本人らしいこと言ったね」
 そう言い、パチパチと陸が拍手した。本当にバカにされているような気がしてならない。
「わたしもいく!」
「わーってるよ。…ああ…今日も暑くなりそうだな…」
 そろそろセミの大合唱が始まるだろうし、太陽もこれ以上に熱を放つのだろう。クーラーのあるこの家にずっと居たいが、『絶対に行けよ』という無言の笑顔での圧力をかけてくる陸と、墓に行ったついでにアイスを俺に奢ってもらう気まんまんの笑顔を俺に向けるシーナを見ながら、本日二度目のため息をついた。

「あーつーいぃぃぃ〜…」
「わかりきってることを繰り返すな。…たく、早く十月にならねえかな」
「なんでじゅうがつなの?」
「九月なんて残暑っていうから少ないかと思いきや、結局後半まで暑いんだぞ。今、地球温暖化で環境が変化していく過程で、日本の夏は七月から九月って常識化してるんだ」
 俺の中で。いや、場所によっては六月からも有りかな…結局、暑いという話だ。
 あの、二人の笑顔を嫌というほど見た後、陸は父方のじいさんの家に行った。一度…小学生のころ、そこに行ったことがあるが、本当に田んぼばっかりで、まさにこう…お盆に帰るにはもってこいの場所だった。そこへ行く陸を見送った後、俺達はのろのろと朝飯を食べ、スーパー行って花を買ったりして、テレビの中での渋滞やら混雑なんか無関係で、電車で一駅程の距離がある墓地に徒歩でやってきていた。自転車でもいいが、二人乗りは禁止だからな。住みにくい国になったもんだ。んで、目的地の墓場の様子は、木々に囲まれていて、いつも以上にセミの声が大音響でする。人は…数人ちらほらとしかいなくて少ない。…意外だな。俺みたいな…陸が言う、日本人の風上に置けないってやつが多いってことか?
「…で、お前大丈夫か? 俺が持つぞ」
「つめたいからわたしがもつ」
 …フラフラ右左に歩きながら、水がたんまり入った桶を抱えているシーナを見ながら言った。怖い。めちゃ怖い。この展開だと、確実に転んで、確実に俺が水をかぶるはめに…。
「あ」
 バシャア。
「…………」
 俺はじっと、地面にちょっとセクシーなポーズ(そこらへんは、みなさんの一番セクシーだと思う日常生活での自然な座り方)で座って俺を見上げるシーナを無言で見下ろした。シーナはしばらく呆然としていたが、少し経つと頭に手を乗せて、にこっと笑った。
「えへっ、やっちゃった(はぁと)」
「やっちゃった(はぁと)じゃねえだろうが……」
 わざとらしく自分ではぁとなんて言うな。…カワイイけど……俺、もう何かいろいろダメかもな…。首をブルブルと振り、髪にしみこんだ水とバカな考えを飛ばす。俺はシーナの首根っこを持ち立ち上がらせ、もう一度シーナに桶を持たせる。
「こぼした責任で、もう一回汲んで来い。覚えてるか? あの龍の口からジョボジョボ出てるやつだぞ」
「ヘビさんがうぇーって吐いてるやつ?」
「…まあ、間違ってはいないけど…。とにかく行ってこい。また転ぶなよ。知らない人に声を掛けられても一緒に行くなよ。おいしいもの食わせてやるって言われても無視しろ。いいな?」
「は〜い」
 そう軽く返事をし、桶を振り回しながらもと来た道を戻っていった。シーナが曲がり角を曲がり、見えなくなるまでじっと背中を見つめ、また墓まで歩き出した。
 …墓、どこにあったっけ…。もう、十年以上来てないから記憶があやふやになってるぞ。あの時シーナが転んでなくても、結局今迷ってるから、その内水をぶっかけられてただろうな…。墓で囲まれていて、人二人分ほどしかない石畳の道を歩きながら、墓の前に立ってタバコをふかしている男の後ろを通った。

 ……ん?

 足を止め、もう一度男の後ろを戻り、その男が見つめている墓の墓標を見た。そこには、俺が住んでいる家にも、制服についている名札にも書かれている『久高』という苗字。久高なんて苗字、そうそう居ないことは知っている。同じ苗字の人に会ったら、感動のあまり思わず握手をしてしまうだろう。
 そんな希少価値の高い苗字が彫られている墓の前に立っている男は……!

「親父! な…は? いや…え、なんで居るんだよ、日本に!」
「ん? お、修一じゃねえか。仕事の合間だ。というか、逃げてきたのが少しあるな」
 ほぼ半月まえと変わらない姿で(いや、半月で変わったら怖いよな)俺を見てにかっと笑って悪びれる様子もなく言った。…やりかねん。この親父なら。
「何も言わずに来たから、一緒に行った奴らは今頃、アラスカの森の中俺を探し回ってんじゃねえかな」
「…せめて一言なんか言ってから来いよ…」
「冗談だよ。毎年この日は日本に墓参りのためだけに帰ってきてるんだぞ。あいつらもそろそろ覚えただろうよ」
 …え? 毎年毎年、ただここに来るためだけに? 母さんが死んでから、ずっと? 俺の表情を見て、タバコの煙を吐きながらにやりと笑った。
「その感じだと、一周忌以来まったく墓参りには来てないみたいだな。墓を素通りするぐらいだしな」
「…来るのが億劫になってただけだ。それに…」
「それに?」
「来たって、意味がないと思ってたから」
 遺骨しか入っていない石の塊の前で手を合わせたって、何が変わるというのだ。霊感なんてないし、そもそも信じてすらいないから、余計そう思う。
親父はしばらく黙ってタバコをふかしていたが、短くなってきたので携帯灰皿を取り出し、ぐりぐりとそれに押し付けた。
「…お前は、やっても意味がない、最終的な結果が変わらないと思ったらあきらめちまう人間なんだな。俺にそっくりだ」
「…へえ。俺は親父のこと、結果なんて予測せずに突っ走る人間だと思ってたけど」
「母さんに、そういう人間になれと言われたからなったんだよ」
 …よくもまあ、そんな無責任なこと言ったな、母さん…。ぼんやりとした幼い記憶の母さんの映像を探したけど、病院にいるときの母さんしか思い出せない。
「母さんが病気になったとき、治る確率はほぼゼロって宣告されてよ。病院にいても、少し寿命を延ばすだけってな。だから、俺は言ったんだよ。病院にいるより、少しの間でも、家族で一緒に暮らそうってな。…そしたら、何て言ったと思う?」
 思い出し笑いのように、小さく笑いながら、また一本タバコを取り出してくわえて、ライターで火を点けた。
「“もしかして、確率はゼロに近い1%かもしれないじゃない? ならわたしは、そのたった1%に賭けて、治したい。もしかしたら、もう病院に行かなくてもOK! …ってぐらいまで治るかもしれないから、わたしは最後まで、良い結果になることを、信じたい”…ってさ」
「…なんだ、それ」
 信じても無駄なことを、母さんは知っていたはずなのに。信じても、裏切られることをわかっていたんじゃないか?
「母さんは予測せずに、信じ続けていたんだよ。ただただ、いい結果だけを…な」
「…だから、親父はそういう人間になろうと思ったのか?」
 俺がそう聞くとしばらく、んーっと唸り空になったタバコの箱をぐしゃりとつぶした。
「そういうのも必要かな、と思えただけさ。現実に打ちのめされてウジウジしているより、ずっと良いと思ったんだ。だから、俺は毎年ここに来てる」
 ふーっと長いため息のように白い煙を空に向かって吹き出した。ゆらりと形は崩れ、あっというまに空気と混ざり合った。それを見送り終わったら、俺のほうを向き、にっと歯を見せて笑った。
「きっと、あいつの魂がここに帰ってきてるんじゃないか…ってな」
 その笑顔は、なんだか、不思議な笑顔だ。笑ってるのに、胸が締め付けられるような、感覚がした。大好きだった漫画の連載が終了した時みたいな、楽しみだったことが終わってしまった時みたいな…どうでもいい例えだけど、それは寂しいという感覚に似ていた。
「だからよ、ここに来る意味無いなんて言うなよ。一つ希望みたいな信じるものがあるだけで、結構人生変わるぞ?」
 …信じる、か。なんだか忘れかけていたような、日常生活では、意外に言わない言葉。親父は頬をかき、『なんか恥ずかしいな』と言いながらゆっくりと空に向かって伸びをした。
「さて、そろそろ戻るとするかな。飛行機に間に合わなくなる…そういえばお前、一人で来たのか?」
「…いや…あ、そういやあいつ…」
 結構時間掛かってるな…って、シーナ、墓の場所知らないんじゃ…。
「迎えに行ってやれよ〜カワイイんだから、ナンパされてたりしてな」
「はあっ!? いや…確かにありえるかも……って! なんでシーナと来てる事…」
「いや、何となくカマかけてみたら、案の定お前がはまっただけで」
 ニヤニヤと笑いながら俺に言う親父が、ムチャクチャ憎たらしかった。
「いや〜、青春だなあ。というか、愛か?」
「…陸に同じこと言われたよ」
「お前は陸坊に一生隣りでバカにされていきそうだよな」
「…それはやめてくれ。というか、ずっと一緒にいるわけないだろ」
 なんだかあり得そうで思わず言うけど、やっぱり男同士だから、あいつだって結婚して、自分の家を持つ。俺も同じ。遠いようで、近い未来の可能性だろう。だけど親父は、そうか? と否定的な反応を返した。
「陸坊も律儀だよな〜。ちゃんと、お前と一緒にいる」
「…どういう意味だ?」
「母さんが死ぬ前に、陸坊は約束してたんだよ。お前が離れる理由ができるまで、一緒にいるんだってな」
「…そんなの初耳だぞ」
「普通本人に言うと思うか? そんなことを」
 …確かに。内緒で誕生パーティーを開くのに、直前に本人に言ってしまうようなものだ。…例え、合ってるか?
「未来のことばっかり考えるな。周りには、お前と一緒に居てくれているやつはたくさんいる。そいつらのために、できること、言えることを考えろ」
「…何だよ、突然」
「今言ったとおりだ。頑張れよ、息子」
 ぐしゃり、と俺の頭をなでて、俺の横をスタスタと通り過ぎていった。俺は親父の後ろ姿を見つめながら、親父と話している間の、忘れていた暑さを感じていた。



「シュウ〜! くんできたよ〜」
 どれだけ時間が経ったか、シーナが、こぼしたときより倍以上の水を入れた桶を持って、俺のほうにゆっくりと歩いてきた。
「…そんなにいらないんだけど、水」
「いいの! 『そなえあればうれいなし』って、リクが言ってた」
 よく覚えたな、そんな言葉を。そしてどういうシチュエーションで教えたんだ、あいつは。俺はシーナから桶を受け取り(重いぞ、めちゃくちゃ)墓石に水を上からかけた。何度もそれを繰り返し、墓石が少し色を変えた。
「ここにシュウのおかあさんが、いるの?」
「…そうだな。というか、知ってたのか?」
 シーナには、母さんが死んでいるということを、今さらだけど言っていない。でもシーナは墓石を見ながら、コクンと頷いた。
「リクがおしえてくれたの。すごくきれーでやさしいひとだったって」
 そう言って座り込み、じっと墓を見つめていた。
「きっとね、シュウが来てくれて、よろこんでるとおもうよ」
「…だといいな。でも大方、陸が来てなくて怒ってんじゃねえの。それで…」
 それで、怒りながらも、結局笑っているんだろう。不覚にも、俺と似ていると自分でも思ってしまう顔で、にこにこ可笑しそうに、頬に手を添えて。
「…………」
「シュウ?」
「あ、いや…なんでもない。帰ろうぜ」
 危なかった。今、マジで泣きそうになった。葬式でもそんなことにはならなかったのに。鼻の奥がツンとして、まだ少し残っているけど、大丈夫だ。
「うん……」
「…早く立てよ」
「つかれた。たてない」
 …は? 座り込んだのは、疲れたからか!? はぁ、とシーナが珍しくため息をつく。
「水、ここまでくるのに三回こぼした。何回もヘビさんのところにもどった」
「…こんだけ入れるからだろうが。早く立たないと置いてくぞ」
 そう言っても、動く気配は無く。……しかたない。俺はシーナに手を差し出す。
「…?」
「ほら、手、貸してやるから」
 そういうとわかった、という表情をしてすぐに手を取り立ち上がった。シーナは立ち上がっても、手を離すつもりも、歩き出す様子も無く、しかたないからそのまま手を引いて歩き出した。
「シュウー」
「なんだよ」
 少し後ろで引っ張られるようにいるシーナのほうを少し向くと、にへら、という効果音がぴったりの笑顔で俺にふやけた笑顔を見せた。
「おむかえ、できた〜?」
「…ま、それらしいことができたから、合格だろうよ」
 俺がそういうとつないでいる手を嬉しそうに振り上げた。
「ごくかく! パンパカパ〜ン!」
「やめろって、そんな効果音を大きな声で叫ぶな!」
 すぐに振り上げている手を無理矢理下ろし、能天気な効果音を言うシーナに言った。…よかった。本当に墓にいる人が少なくて。この恥ずかしい効果音も聞かれずに、手を繋いで歩いている姿も見られなくて。本当に、よかったとしみじみ思う。
 嬉しいような、恥ずかしいような。ごちゃごちゃと気持ちが混ざり合っているけど、素直になればやっぱり繋いでいたいと思う健全男子の気持ちが勝ったので、そのままゆっくりと俺達は帰路についた。誰かが、俺達のために微笑んでくれているような、気がした。



「あ、修ちゃん! シーナ! おかえ…」
 ちょうど帰ってきた様子の陸が、手を振るポーズのまま停止し、俺とシーナの繋がっている手を凝視していた。…何かめちゃくちゃ恥ずかしくなってきたので、ばっと振り払うように手を離した。…すごい惜しい気分だ。陸はゆっくりと手を下ろしすごいスピードで俺のほうに寄ったかと思うと、俺の両肩に手を思い切り乗せた。
「修ちゃん…」
「な、なんだよ…」
 ずっとうつむいていた顔を上げた陸の顔は、感動した表情と笑顔が混ざり合っていた。
「そっか…とうとう大人の階段、いやっ! 恋人の階段を上ったんだね! おめでとう!」
「何か勘違いしているようだけどな、別に何も上っちゃ…」
「そんな恥ずかしがらなくていいんだよ修ちゃん! もー、やっぱり男なんだね!」
 ベシベシとキャーッって感じの表情で陸が俺を叩く。聞いちゃいねえな。
「お前はどこぞの妄想癖のある女か」
「わかってますよ〜だ。お茶目なジョークじゃんか。まあ、プラトニックな愛を育んでいますねえ、ホント」
 そういい、にやりと悪巧みをするような表情で陸は笑った。本当にウザイな、コイツ。シーナはよくわかっていないようで、首を傾げていた。…この会話についてこられるのも怖いけどな。
「で、シーナ。墓参りはどうだった?」
 さっきの笑顔とはまったく逆で、屈託の無い笑顔をシーナに見せた。シーナもつられるように同じように笑った。
「石ばっかだったけどね、たのしかったよ! リクはいかないの?」
「ん? んー…そうだね。僕も久しぶりに行こうかな」
「…そうだな。今度は三人で行くか」
 俺がそういうと、二人、特に陸が驚いた表情で俺を見る。な、なんだ。俺、おかしなこと言ったか? しばらく沈黙が続いたが、シーナが嬉しそうににっこりと笑った。
「うん! こんどいこう! 三人で! わたしと、シュウと、リクで!」
 そういうと陸が吹き出すように笑い出した。口を押さえているけど、笑い声は響いていた。
「何なんだよ、お前は!」
「ククッ…まさか、修ちゃんがそんなこと言うとは思わなくって…! なんだかおもしろくて…っ!」
 そう言うと、口を大きく開けて笑い出した。シーナもそれにあわせて、アハハと笑い出した。何だお前ら。近所迷惑なぐらい笑いやがって。
「よしっ! このまま三人でコンビニ行って、修ちゃんにアイスおごってもらおう!」
「さんせ〜い!」
「おいっ! 勝手に決めるな!」
「シーナは何がいい?」
「全部!」
「よしっ! 修ちゃんよろしく!」
「よろしくじゃねーだろうが!」
 二人が駆け出して行ってしまうのをみながら、本日何回目、いや、この夏休み始まってから通算何十回やったかわからないため息をついた。でも、なんだか嬉しいような。気のせいか? 俺は急いで、コンビニの買い物カゴに手当たりしだいあの二人がアイスを入れるのを阻止するために、駆け出していた。風を切って、少しだけ、冷えてきた風を感じながら。















2006/09/09(Sat)12:11:12 公開 / 空雲
■この作品の著作権は空雲さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
…ものすごく経ってしまいました。というか、8月終わってる…。遅くてすみません。
…オホン、気を取り直して。12話、お盆編いかがでしたでしょうか? シュウが未来系で、しかもこの夏休み以降の意味を含めた『今度三人で行こう』を言わせました。『また今度』って、果てしなく先のようにも感じるし、ほんのニ、三日って感じがしますけど、シュウにしてはだいぶの進歩だと、わたしは思っています。やっぱり、三人で、ちょっとラブさせて、陸のシュウに対するからかいを書くのがやっぱ楽しいです。
そろそろ物語の夏休みは終わりです。更新速度が遅いですが、遠い目で見てやってください。
それでは、次で!

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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