『帰り道』 ... ジャンル:リアル・現代 ショート*2
作者:もろQ                

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 信号が赤に変わり、ゆっくりと動きを止める車。ブレーキの柔らかい振動で、ガラスに自分の顔が映っている事に気が付く。やがて、そそくさと前を横切っていく人々。フロントライトの光がそのいくつかの輪郭を、また地面に張り付いた横断歩道の白い平行線を眩しいほどに照らす。助手席の正志は眠たい目で父の横顔を見た。しかし分かったのは彼の四角い眼鏡がライトの点滅で不思議に光っていることだけで、バックミラーから覗いても、見えたのは左の耳くらいだった。
 父の顔を見るのを諦め、正志はシートベルトにおとなしくおさまった。車がゆっくり動き出す。青に変わった信号が頭の上に消えていく。

 正志は窓のところに頬杖をついて、通り過ぎる外の景色を眺めていた。ガードレールが流れていき、街路樹が現れ、自転車が走り去り、あったかそうなファミレスの店内、窓側の席に座っていたカップルの笑顔が妙に目に焼き付いた。
 反対車線を行く車の音に、最初はいちいち気を止めていたが、次第にどうでも良くなって代わりに眠気がおそってくる。正志はあわてて首を振り、眠気を追い払おうとするが、次の瞬間にはまたうとうとし始める。何気なく後ろの席を見やると、母と妹の真里が頭をくっつけ合って寝ている。正志は息を漏らす。
「どうした、寝てていいぞ」
 隣の席から声がして、振り向く。父の顔は相変わらず陰になって見えないが、さっきの言葉は自分に言われたのだと気付き、うーん、と曖昧な返事をした。
 運転席と助手席の間の暗闇で、黄緑の蛍光色のデジタル時計が、九時四十六分と告げている。両手が静かにハンドルを切る。

 また頬杖をつきながら、流れる街並に額をこすりつける。まどろみを押さえつけるためにわざと目を大きく開いた。ハンバーガーショップの赤い看板がだるそうに回っている。別に理由はない。もちろん眠れないわけでもない。ただなんとなく、正志は寝たくなかった。なぜかはよくわからない。真里も母も寝ていて、自分まで寝てしまったら父だけが起きていて可哀想な気もした。ただなんとなく、正志は眠らなかった。
 すれ違った車を目で追う。暗い青色をしたその車はナンバープレートをぶら下げて夜の坂道を駆け上っていく。椅子の下に小さな揺れを感じ、車は再び動かなくなった。エンジンの音が止んで、外の音が大きく聴こえてきた。すれ違うエンジンの音、タイヤのゴムが擦れる音、クラクションの悲鳴、はたまた風の音や、植え込みの僅かなざわめきまで、全てドア越しで耳に届いてくる。隣で父が息を吐いた。
 ダッシュボードの上にガムの箱を見つけた。まだいくつか入っていて、そばに包み紙も散らばっている。
「ガム、もらっていい?」
 言いつつ体を起こし、緑のパッケージに手を伸ばす。
「いいけどそれ眠気覚ましだよ。正志スースーするの嫌いじゃなかったっけ?」
「えっ、うん平気」
 箱の中から一枚引っぱり出した時、突然車が動いた反動で、正志は無理矢理な形でシートに引き戻された。
 
 板状のガムを口の中に差し込み、銀紙はポケットの中に入れた。車はゆっくりカーブを曲がる。くちゃくちゃやっていると、段々ミントの味と、独特の辛さが口の中一杯に溢れてきた。辛味はやがて痛みに変わっていき、奥歯と歯茎の間がひりひりしてきた。びっくりするほど痛くて思わず顔をしかめると、バックミラーで様子を見ていた父がいきなり笑い出した。
「ほら、やめといたらって言ったじゃん」
 正志は口を開けて身悶えした。苦しむ息子を横目に、車はカーブを曲がり終える。前方をオートバイが騒音を残して走り去った。
「吐いちゃえ、吐いちゃえ」
 父の声は思いの外楽しそうで正志はちょっとだけふてくされたが、やむを得ず、ポケットから銀紙を取り、裏の白い面にペッと吐き出した。父はまだくすくす笑っている。
 デジタル時計は十時を数える。
 
 硬いシートに寄りかかりながら、夜の街を見つめる。焼肉屋のネオンサインが消えかかっている。髪を派手な色に染めた高校生くらいの二人組が、歩道の隅っこで何かを話している。街灯の下に、不法投棄のゴミ袋が妖しく黒光りしている。ビルの二階の窓に、月がぼんやり映っている。ふと、街並は止まっていて、動いているのは本当はぼくたちなんだという事実に今さらながら気付かされた。まだやんわりと口の中に痛みを感じたので、眠気がちゃんととれたのかも、と正志は思った。後部座席を見る。さっきは頭をくっつかせていたのに、いつの間にか母が真里の下敷きになるように折り重なって眠っている。
 「……なんか、正志、今日変だな」
「えっ」
 思いがけない言葉に、正志はぎくりとする。父は暗い輪郭のまま、前を向いて運転する。
「なんか無理して起きてるみたいだし、あんまり喋らないし、そう、おばあちゃん家にいる間もなんか思い詰めてる感じだった」
 一瞬、すごく怖くなって、窓の外に目を移した。
「そうかな。別に意識してないけど」
 息がガラスに当たって顔にかかる。心臓がどぎまぎしている。白い車がすれ違う。
「うん……悩んでることとかあるんじゃないの」

 父には昔から、嘘が通じなかった。ずいぶん小さい頃、小学校入りたてくらいの時に、誤って皿を割り、その時誰も居なかったのを見計らって割った皿をベッドの下にこっそり隠したことがあった。今思えば、食器が一枚無くなっているのが見つかれば、すぐにバレる話だったのだが、父は、皿を割ったことも何も知らないのに、幼い正志の目を見て一発で、正志が隠し事をしているのを理解したのだ。正志は子供ながらに驚いた。そして、父はそんなときも、決して息子を叱らなかった。
 車は店の立ち並ぶ通りを一旦抜け、狭い道へ分け入る。知らぬ間に両手はシートベルトを掴んでいる。何か言い返そうとして、口を開きかけた途端、喉の奥がきゅっと締まる感じがして結局黙ってしまった。しばらくして父がつぶやく。
「分かった。じゃあ家に着くまで、後二十分ぐらいで着くから、それまでに聞いて欲しいことあったら何でも言いなよ。悩んでることあるなら。その後はもうなんにも聞かないから」
 体の中がすっ、となる気がした。もちろんさっきのガムの味などではなく、もっと内側の方で、まるでドアの鍵を開けたような気分になった。怖さや不安の中に、温かさのようなものが溶けて混ざっていくようだった。父の暗い横顔と眼鏡のフレームを見たまま、正志の頭の中で色んな気持ちが錯綜した。「武田歯科」と書かれた看板の前で角を曲がる。硬かった座席の感触が急に柔らかくなる気がした。ライトが細い道を照らして行く。正志はじっと見たまま。石塀の角を左折したとき、ちょうど立っていた丸い反射鏡が、フロントライトの光を反射した。光った。運転席にはっきりと、父親の笑った横顔が見えた。

 「お皿を割ったこと、ちゃんと言えたね」
 まぶたを真っ赤に腫らして泣く子供の髪を、あの時の父は優しく撫でて慰めた。
「お父さん、嘘ついてごめんなさい」
「いいよ、もういいよ」
 ずっと昔のことなのに、なぜか今でも覚えている。その思い出だけが、驚くほど鮮明に、心の底に根付いている。帰り道、母と、妹の真理と、そして正志を乗せた車で、父は昔と全く変わらない姿でいた。
 正志は少し長いまばたきをした。何よりもまず「ありがとう」と言いたくて、一度だけ、目を閉じた。
「正志は、お父さんに心配かけさせたくなかったんだね、ありがとう」
「ありがとう」
 デジタル時計が十時二十分を差す頃、車はようやく駐車場に辿り着く。

2006/03/18(Sat)01:46:08 公開 / もろQ
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。
いやあ最近執筆のペースがどんどん遅れていまして、それでやっとこの作品がひとつ完成です。この現行ログが切れる前に、果たして後どれくらい投稿できるのでありましょうか、非常に不安なところであります。

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